「……そろそろ、行かなきゃ」 「ああ、じゃあ元気で」 「……ぐすっ」 「おい、泣くなよ。さっき言ったろ、そういうのはナシだって」 「でも……」 「しょうがないな……ちょっと待ってて」 「えっ?」 「はあっ、はあっ」 「ほら、これ」 「これ……なあに?」 「おれが大切にしてるやつ」 「これ……いいの?」 「そうだよ、これがあればどこにでも飛んでいけるんだ。宇宙まででも」 「飛んで、いける」 「だからこの先、おまえが一人でどうしようもなくなったら」 「その時は、これをぎゅっとして、お願いしろ。空に向かってな」 「空に向かって、お願い……?」 「そしたら、飛んでってやるから。で、助けてやる」 「ほ、ホントに?」 「おう、絶対にだ! なんせ空はどこへだってつながってるからな」 「……ありがとう、じゃあ、これ大切にする!」 「ああ、じゃあな!」 小さかった頃は、無敵だった。 何にだってなれると思っていたし、誰にだって勝てると思っていたし、どこにだって行けると思っていた。 この世には無限の世界が広がっていて、俺はちょっと背伸びするだけで、そこを見ることができた。 空に、手を伸ばすだけで。 小学校に入って、何度目かの夏。 俺は空を飛ぶための翼を手に入れた。 これまでは手を伸ばしても届かなかった空が、やっと、その尻尾をつかめたように思った。 懸命に走った。空を駆け回って、次へ次へと、進んでいった。 小さかった頃に見上げた空に、いちばん近くにいるのが、自分だと思っていた。 これがあれば、どこへも行けると。 誰よりも先に、彼方へ行けると。 そう、信じていた。 ……だから、その時が来た時、俺は本当に、何も見えなくなってしまった。 前に誰もいなかったはずなのに、そこに『誰か』がいた時。 行けるはずだった彼方が、遠く先へと、かすんで消えてしまった時。 もうそこには、俺がいる場所は存在しなかった。 彼方にあったはずの蒼の世界は、俺のものでは、なくなってしまった。 伸ばした手は空を切り、掴んだ掌の中には、何もなかった。 「はあっ、はあっ、はあっ……!」 その日、俺は朝から全速力で通学路を走っていた。 「くっそ、間に合うかな……っ」 ポケットから出したスマホで、今現在の時間を確認する。 「8時10分……ギリギリか……!」 時計は残酷なまでに現在時刻を示している。 再びポケットの中に現実をしまいこむと、俺は必死に両足を交互に前に出し、先を急いだ。 「だいたいアレだ、あんな夢見るからいけないんだよ」 体調があまり良くない時、疲れている時、俺は決まって同じ夢を見る。 ぼんやりとソフトフォーカスのかかった世界に、描き出されるセピア色の光景。 これで昔好きだった女の子の姿でも思い浮かべば、まだ寝付きも良さそうなのだけど。 「あんな内容じゃ寝付きも……」 ひとりでブツブツと自意識に文句をつけていると、 「あれ、なにしてんだ、あの子」 一心不乱に駆けていた道路の先に、女の子がひとり、這いつくばっていたのだった。 「ショックです……困りました。このままだと家に入れません」 「なんで転校して初日に鍵を落とすとか信じられない、やっちゃいました……」 わざとやってるのか? と疑われる程に、元気良く自らの境遇をひとりで語っている。 状況を聞く限り、それなりに大変な状況のはずなんだが、あの無闇な明るさは何なんだろうか……。 「って、ああっ、もう時間がっ! どうしよう、遅刻なのかなあ……」 古来より言い伝わる伝承がある。 たとえドラゴンと戦ってようと世界を救ってようと、女の子に手を差し伸べるのを最優先すべき、と――。 「あのさ、どうしたの?」 というわけで古くからの教えに従い、俺は道路を這う女の子に近づき、声をかけた。 「えっ? あ、はいっ」 俺が声をかけると、女の子は這った状態から立ち上がり、シャキッと『気をつけ』の姿勢でこちらを向いた。 「な、なんでしょうかっ?」 その顔を見て、ちょっと息を飲んだ。 大きく見開いた目と、その下にバランス良く配置された小さな鼻と口。 ……可愛かった。ちょっと、見とれてしまう程に。 「あ、あの……?」 女の子の言葉に、我に返る。 「あ、えっと、何か困ってたみたいだから、お役に立てることなら手伝おうかな、と思って」 さっきの詳細な説明文で内容はわかっていたが、念のため、必要なのかどうかを聞いてみる。 「えっ……あ、そ、そのっ」 明らかに慌てた感じの女の子の反応。 これはちょっと余計なお世話だったか。 「あ、ごめんごめん。もし良かったらって感じで、別に必要無ければひと」 「ありがとうございますっ!!!」 「うわっ!」 女の子は、突如跳ねるようにしてこちらに近づくと、いきなり俺の手を取って、ブンブンと上下に振った。 「はあ〜っ、やっぱり島の人ですね、親切ですね! 仇州は人情の国やけん、心配せんでよかよ、っておばさんが言ってた通りでした!!」 「い、いや、あの……」 「仇州男児、って言うんですかね、なんかこういうの、憧れます、かっこいいです!」 憧れとか格好いいのハードルが下がりすぎだろ、と思いつつも、 「あの、さ」 「はいっ、なんでしょう!」 「いや、あの……手」 「はい?」 そこでようやく、女の子は自分の手をジッと見つめる。 面白いぐらいに、その顔色はキューッと赤くなると、 「うわわっ!」 パッと手を離し、ペコペコと頭を下げた。 「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! わたしったら今日初めて会って名前も知らない人の手を握ったりして、もうとてもすみません!」 頭を下げつつ、自分への罰のつもりなのか、ぺちぺちと頬を叩いたりしてる。 「はぁ〜、もう、なんでわたしこういう時に、勢い余ってやってしまうんだろう……」 「や、別にそれは気にしなくていい……っていうか、困ってることを解決するのが先じゃないの?」 これ以上ない正論を言うと、女の子はハッとした表情で、 「そうでした! え、ええと、あのですね、とても個人的なことで申し訳ないのですが、わたし、落としちゃいまして」 身振り手振りを交えつつ、女の子は自分の境遇を俺に話して聞かせようとする。 「ん、あれ……?」 そんな彼女の足下から1メートルぐらい後方に、キラッと銀色に光る物体を見つけた。 「あのさ、今言った落としたものって、ひょっとして……」 「え、落としたものは、自宅の……」 女の子の言葉が言い終わらないうちに、俺はその横をすり抜け、銀色の物体を拾い上げた。 「鍵、じゃないの? これかな」 彼女の目の前に、ホルダーも何もついていない、素の状態の鍵を差し出した。 「あ……ああっ!」 声が上がるのと同時に、女の子の両手が俺の手ごと、鍵を包み込んだ。 「こ、これですっ! 家の鍵ですっ、すごいです! あの、どうやって見つけたんですか?! それになんで無くしたのが鍵だってわかったんですか?」 「いや、たまたま偶然に目に入ったからで、別にすごくもなんとも」 「そんな、謙遜なんかしないでください。ありがとうございます、恩人ですっ! えっと……あの……」 女の子がお礼を言おうとして、名前を聞きたがっている様子を見せた。 「おれ、日向晶也。家はそこの角を曲がったとこ。久奈浜学院の2年。よろしく」 「日向さん、ですね。ありがとうございます! わたし、倉科明日香といいます」 「明日からわたしも、久奈浜学院に通うんです。今日は手続きをしに行くところで」 「そっか。よろしく、倉科さん」 「はいっ!」 元気良く答える倉科さん。 いや、人助けって気持ちのいいものだな。嫌なことも忘れられるぐらいに。 「……何か忘れてる気がするんだけど」 その『何か』を、思い出すよりも先に。 高らかに、予鈴が鳴り響いたのだった。 「しまった!!!!」 「きゃっ!」 俺が突然あげた大声に、倉科さんは驚く。 「もう時間がやばいな……って、倉科さんも今日から学校だよね?」 「あ、通うのは明日からなので、そこまできっちりじゃなくてもいいとは思うんですが、ダメでしょうか……?」 「そっか、君はまだ、各務先生のことを知らないんだな」 「え?」 各務葵。各種スポーツ万能にして、美貌とスタイルの良さを誇る、久奈浜最強と呼ばれる教師である。 「保体の先生でうちの担任なんだけど、生徒指導もしてて、今日は遅刻の生徒を待ち受ける門番をしているんだ」 「そ、そうなんですか」 「先生はきっちりしてる人だから、通うのは明日から、とか言っても通じないかもしれない」 「厳格な方なんですねっ」 「そして、先生が担当の時に遅刻をすると、それはそれは恐ろしい罰が待っている」 「ば、罰ですかっ?!」 「ああ、先生の独自ネットワークを駆使し集められた、各生徒の黒歴史的な日記・イラスト・歌ってみたの動画、それらがクラスの皆の前で公表されるんだ」 「そ、そんな、それは人としてやってはいけないことです!!」 「だろ? だから絶対に遅刻出来ないんだけど……」 チラ、とスマホの時間を確認する。 8時25分。 「走ってだと……無理だな、絶対に」 ――本当は、あまり普段使いもしたくないんだけど。 「仕方ないな、今日は特別だ」 空を見上げ、つぶやくと、 「んじゃ、そっから行こうか」 停留所を指さし、言った。 「え、そこからって……何もないですけど、飛行機でも来るんですか?」 倉科さんは目をパチパチさせながら、首を傾げた。 「飛行機……? あ、そっか、倉科さんって久奈浜の子じゃなかったね」 さっきの転校生という言葉を思い出す。 「じゃあ、グラシュのことは、聞いてる?」 「ぐら……しゅ、ですか?」 「そ。アンチグラビトンシューズ。制服着てるってことは、説明受けてるはずだけど、その靴」 「あ、これのことですか? だいたいのことは聞いてますが……」 履いている学校指定の靴を指さし、答える倉科さん。 「そうこれ。聞いてるなら早いや。実際に使ったことは?」 「まだ無いですけど、あの、一体なにを?」 「無いのか……、じゃあ俺がサポートするから、行こう」 「え? あ、あのっ」 「本当はちゃんと講習受けた方がいいんだけど、ペアリングで飛ぶから安心して」 倉科さんを先導して、停留所へと向かう。 「周りは……大丈夫だな」 念のため、飛行経路を確認し、周囲の様子を目視する。 「飛行禁止のランプも点いてない。じゃあ次は、靴の確認だ。倉科さん」 「は、はいっ」 「靴、履いたままでいいから、ちょっと片方を前に突きだしてみて」 「はい、こうですか……?」 差し出された靴の周囲を、こちらも目視で確認する。 「よし、異常なし。じゃあ反対側も」 同じく、もう片方の靴も確認する。 「はいOK。じゃあちょっと深呼吸してみようか。すってみて」 「深呼吸、ですか、はい、すぅ〜〜〜〜っ……」 「じゃ、はいて」 「はぁ〜〜〜〜〜っ……」 「はい、んじゃ行こう」 「あの、行こうってどこへ……わわっ!」 まだ疑問が残っている倉科さんの手を取ると、俺は停留所の縁に立ち、ドアの開閉ボタンを押した。 そして、自分のグラシュの電源をONにする。 「両足を前後に緩く開いて」 「は、はいっ」 「じゃあ次に、踵を軽く浮かせて」 「こ、こうですか?」 「そうそう。それじゃ1、2、の3で飛ぶから、しっかり手を握って、あとは流れに任せて力を抜いて」 「飛ぶって……ここから、飛ぶんですか?!」 「うん。じゃ行くよ。1、2の……」 「え、えええっ、ちょっとあの、そんなことしたら落ちっ、ここ、高い崖の上ですよっ!」 「3、FLY!!」 「わあっ、わあああっ!!!」 高く浮かび上がった二人の身体に、風が柔らかく触れて、左右に割れていく。 初夏の空気は少しぬるいぐらいで、原付ぐらいの速度で風を切るにはちょうど良かった。 「うわあっ、わあっ、これ、なんですか、ダメです、今は飛んでるけど落ちます、確実に落ちます、絶対に落ちます〜っ!!」 俺の腰にぎゅっとしがみつく力で不安を実証しながら、倉科さんは絶望的な台詞を、元気良く口にしている。 「大丈夫だって。グラシュの電源が入っていれば絶対に落ちることはないし、飛行経路も安定してる」 「そ、そうなんですか……?」 「そうなんです。だから安心して、空の散歩を楽しむといいよ」 「は、はい……」 観念したように倉科さんの体から力が抜けて背中の圧迫感が軽くなっていくのがわかる。 眼下には小さくなった街の建物や木々や、そして真っ青な海が広がっている。 「わあ……」 ちょっとずつ、飛ぶことに慣れてきたのか、感嘆の声を上げつつ、興味深そうに周囲を見渡した。 「すっ、すごいです、きれいですっ、さっきまで普通の大きさだった景色が、一瞬でこう、小さくなって……!」 「だろ? 最初はみんな、感動するんだ」 「この靴があったら、本当にどこへでも、一瞬で飛んで行けちゃいそうですね!」 倉科さんの言葉に、俺は、 「どこへでも行ける……か」 その一言を反復し、噛みしめるようにして返事をした。 「どうか、しました?」 懸命に走った。空を駆け回って、次へ次へと、進んでいった。 小さかった頃に見上げた空に、いちばん近くにいるのが、自分だと思っていた。 「……いや、なんでもない。そろそろ下に降りるから、準備して」 「あ、はいっ!」 これがあれば、どこへも行けると。 誰よりも先に、彼方へ行けると。 ――そう、信じていた。 「……やっぱり、飛ぶもんじゃないな」 背後の倉科さんに聞こえないような、風にかき消される程度の小さな声で、 俺はそう、一言だけつぶやいた。 見納めにするかのように、着陸態勢に入る前に一度だけ、上にそっと、視線を向けてみた。 あの時と同じ蒼い空が、今日も、遥か彼方まで広がっていた。 日本の南、南洋の更に南に位置する、四つの島からなる街、四島市――。 人口5万人の地方都市であるこの街は、一見すると、ただの田舎町に見える。 しかし、ここは現在、日本の中において、ある種『異世界』といって差し支えないほど、変わった光景が広がる場所となっていた。 反重力子の発見により発明された、夢の空飛ぶ靴、アンチグラビトンシューズ。通称、『グラシュ』。 羽根も使わず、エンジンも使わず、身体能力のみで飛ぶことが出来るこの靴は、人間に新しい視界をもたらした。 空港法との兼ね合いにより、未だ民間レベルでの自由使用には制限が多かったが、一部の地方都市では、実験的に使用が解禁されていた。 その内の一つで、全国的にも最もグラシュの使用が多いと言われているのが、ここ四島市なのだった。 その利用は若年層を中心に、全世代にわたって広がっていた。 中でも、学生の利用率は非常に高く、四島の中のひとつ、ここ久奈島においても、日常的に通学の手段として利用されていた。 「あと5秒! 4、3、2、1……!」 「はい、そこまで!! 今日も遅刻者無し、よく頑張った!」 「ん……? なんだ?」 「はい、到着……と」 自動で速度を弱めてくれるシューズの力を利用し、俺たちは学校の停留所へと降り立った。 「ほら、倉科さん。もう手を離して大丈夫だから」 「え、え? あ、はいっ」 言うと、おそるおそるという感じで、ようやく倉科さんの手が俺の手から離れた。 さすがにしがみつきは体裁が悪かったので、せめてということで手を繋いでいたのだった。 それだけでもよからぬ噂の原因になりそうなので、早めに解消しておくのがいい。 「よかった、ジャスト8時半ですね、間に合いました!」 「だな、じゃあ教室へ急ごう……って、倉科さんはどこへ行くんだっけ」 「わたしは職員室へ来るように言われてます。なのでここでお別れですね」 「そっか、じゃあまた」 「はい、あの、ありがとうございました!」 倉科さんはペコッと頭を下げると、そのまま職員室のある教室棟へと走っていった。 「さて、と……」 「先生に見つからないうちに、さっさと教室行くかな」 「珍しいこともあるもんだな。晶也が二人連れで、しかも手を繋いで現れるなんて」 「……いや、それよりも」 「空から来るなんてな……本当に珍しい」 「はあ、なんとか間に合ったか」 教室に入ると自分の席について息をつく。 「ねえ、さっき手をつないでたの誰〜?」 「……出し抜けだな」 唐突に現れたクラスメイト。 鳶沢みさき。席が近いのと、1年の時にクラスが同じだったことで、なんだかんだでよく喋っている。 クラスの女子の中でも、名前で呼び捨てにしてるのなんてこいつぐらいだ。 そしてこいつは、こういう唐突な会話の入りを、特に朝方によくやらかす。 ……しかし、よく見てやがったな。なるべく早めに離したのに。 「おはようみさき。順番逆だろ。まず挨拶だよ」 「ん。おはよ〜」 ぽやっとした顔で、ひらひらと手を振る。 言うまでもなく、みさきは低血圧だ。 「で、俺が手をつないでたって?」 少しトボけてみる。 「うん?」 「…………」 逆にスルーされた。 「お前から聞いてきたんだろ、誰と手を繋いでたのか、って」 「んー、ああ、そうそう、手、そうだそうだ。さっき窓からちらっと見えたから」 「……目、いいんだな」 ちらっとって、かなり距離があるぞ。 「で、何の話だっけ?」 「…………おい」 「あ」 「思い出したか?」 「もうお腹が減ってきた……朝ご飯食べてきたばっかなのに〜」 「…………」 この噛み合わなさときたら、みさきが低血圧かつマイペースなこと以外にも何か原因があるのかとも思わせる。 「はいはい、全員早く席に着きな」 「やば。じゃあね晶也」 蜘蛛の子を散らすように着席するクラスメイトたちにふらっとみさきも混ざる。 「おはようみんな。今日は爽やかな朝だな」 「さて、本日の連絡事項だが」 意識の対象は代わって、こちら。 各種スポーツ万能にして、美貌とスタイルの良さを誇る、久奈浜最強と呼ばれる教師。 それがこの人、各務葵先生だ。 「学年が新しくなってもう2週間だ。委員会や部活など、新しいことをはじめる者はきちんと申告するように」 ちなみに俺はこの葵さ……各務先生には、色々あって頭が上がらない。 それはここ久奈浜学院だけで培われたものではない。 もう少し前から、個人的にお世話になっていたからだったりする。 だからまさかって考えたことはあったけど、本当に担任になったときは面食らった。 「君たちはもう2週間前から一年生じゃない」 「新入生や困っている相手には、率先して手を差し伸べられる人間であることを期待する」 「……自分は生徒の黒歴史を握っているくせに」 なんて小声ながら軽口を叩くのも親しいから。 でもだからこそ、そんな陰口が耳に届いたり遅刻なんてしようものなら容赦はない。 「ではホームルームはこれで終わる」 とりあえず今朝の遅刻未遂の一件はバレてないみたいだ。 内心ほっとして肩の力を抜く。 「と、そうだ晶也。ちょっと」 葵さ……各務先生は、学校とか関係なしに俺を名前で呼ぶ。 「はい?」 「あとで話がある」 「…………」 「そうだな。すこし長くなりそうだから放課後で」 え〜っと…… 陰口か? それとも遅刻未遂? 「どれがバレたんだろう……?」 「晶也ー! 放課後だよっ放課後!」 「……知ってるよ」 「あー、やっと、やっと今日がはじまるんだー。何しようか何食べようか無限の可能性が私を襲うよ!」 「襲われるのか。っていうかみさき、いつものことながら朝とテンション違いすぎ」 テンションどころか人格レベルで心配になる。 朝の低血圧を考えると、血管が切れるぐらいに血圧が上昇しているのかもしれないな……。 「まー、みさきの豹変ぶりは確かにすごいよね。友達やっててちょっと不安になるレベルだもの」 「青柳もそう思うか」 「思う思う。最初はこの子絶対、午前と午後で双子が入れ替わってると思ったもん」 で、こちらはクラス委員の青柳窓果。 みさきの友達で、俺とも普通に話す子だが、こちらは打って変わって、まともな人間である。 「人を心の病気みたいに言わないでよ」 「そう言いたくもなるって。実際、二重人格を疑われる変わりっぷりだぞ」 「や、私は自分に正直に生きてるだけだよ」 「なんか一周して羨ましいな」 「わかるな、それ」 「晶也は朝より暗くない?」 「俺も自分に正直なだけだよ」 「乗るよ相談? 料金はうどんいっぱい!」 「じゃあなみさき。また明日」 「……あれ?」 「あはは、みさき、日向くんにご飯たかるの失敗しちゃったね」 「あっ……」 「っと」 教室を出たところで、女の子とぶつかりそうになった。 「ごめん。大丈夫?」 「いえ、こちらこそ不注意ですみません。……って、日向先輩?」 「悪かったな、有坂」 「あ、いえいえそんな」 ふたりしてひとしきり恐縮しあう。 「有坂は今日もみさきを迎えに来たんだよな?」 「はい、もちろんですっ」 ……どうして迎えにくるのがもちろんなのかはわからないが。 「みさき、呼ぼうか?」 「ありがとうございます。助かりますっ」 「おーい、みさきー」 俺は教室の中のみさきに声を掛け、有坂の存在を教えると、 「じゃ、俺はこれで」 「ありがとうございました、日向先輩。気をつけてお帰りくださいね」 「いや、それがまだ帰れないんだよな……」 「え?」 「こっちの話。それじゃ」 不思議そうな有坂を置いて、その場をあとにした。 「お待たせー」 「みさき先輩っ! んぎゅーっ」 「いやいや、そんなにくっついてこなくていいよ真白ちゃん」 「……って、あれ、晶也は?」 「えと、あちらへ。もう帰られました」 「下駄箱と反対方向に?」 「え……?」 「……まさか、例の手繋ぎちゃんか?」 みさきたちを置いて、俺は一人、職員室へ向かう。 「失礼します」 挨拶するやいなや、入口から見て左奥にある先生の席から、『こっちこっち』と招き入れる手が見えた。 目的が見えず、やや不安を感じつつも、手招きに従ってそちらへと向かう。 「寄り道しなかったみたいだな。良い心がけだ」 先生はいつも通りのゆったりした姿勢で、職務後のコーヒーを楽しんでいる最中だった。 ……しかし、相変わらず目のやり場に困る格好だ。真っ白な太ももがいやでも目に入り、意識してしまう。 これでも他の先生方からやんわり注意されて、ミニスカートから変更してマシになったぐらいだ。 「どうした、先生のことジーッと見つめて。ここで突然の告白でもするのか」 「話ってなんですか、先生」 めんどくさそうな話題を振ってきたので、あっさりと本題に突っ込むことにした。 「……かわいげが無くなったな、晶也は。まあいい、話ってのはこのことだ」 机の上にあらかじめ出してあった一枚の紙を、先生はこちらへと突きだしてきた。 左端に顔写真、右端に名前と住所。その下にはこれまでの学歴や紹介が記されている。 名前欄には、見覚えのある文字が、そして写真欄にも、記憶に新しい顔があった。 「これって……」 ハッとした顔をすると、先生はニヤッと笑って、 「当然、覚えてるよな。倉科明日香。今日手続きをしたばかりの転校生だ」 当然って、何故そんなことがわかるんだよ。 ……まさか。 「あの、ひょっとして、朝来た時、見てましたか?」 先生は大きく頷くと、 「ああ。仲良さそうに手を繋いでいるところまで、な」 「そんなとこまで見てたんですか……」 見られてたとは気づかなかった。 先生は男女間の恋愛云々に文句をつける人ではないが、あまりフラフラしているとこってり怒られると評判だった。 「……で、倉科さんがどうしたんですか?」 さっと話を変えると、先生は妙に優しげな表情で俺の方を見て、 「ちょっとな、頼みがあるんだ」 「頼み……ですか?」 「別に難しいことじゃない、簡単なことだ」 フフッと笑い、マグカップを手に取り、中のコーヒーを口に含んだ。 なんか、デジャヴを覚える言葉だった。 (あ、そうか……) デジャヴじゃなかった。 これは目の前にいる当人から、すごく昔、実際に言われたことだった。 「……というわけで、倉科さんの指導員をすることになりました、日向です。よろしく」 「ええっ! し、指導員って、日向さんのことだったんですか?!」 先生とのやり取りを終えて十数分後。 俺は校庭へと向かい、待っていた倉科さんに声を掛けていた。 「まさかの再会でしたね……」 「ああ、俺もびっくりした」 「飛び方のコーチ?」 「そう。晶也なら最適だと思ってな」 先生からの依頼は、確かにシンプルな内容だった。 内地から転校してきて、グラシュや飛行生活に慣れてない倉科さんに、飛び方を教えて欲しい、と。 グラシュを使った飛行は、その特性により、都市部では時間や資格などに制限がある。 それが、いわゆる田舎と呼ばれるこの地方だと、簡単な申請を出すだけで許可が下りていた。 ゆえに、この地方で生まれ育った人間は、グラシュは生活必需品であり、誰もがその使い方を知っている存在だった。 しかし、転入でこの地にやってきた人にとっては、空飛ぶ靴も、そして飛行自体も、あまりに未知すぎる。 ――そこで、グラシュを認可している自治体は、ある法令を定めたのだった。 「公認指導員として働くのは久しぶりだろうけど、晶也ならブランクなんて関係ないと思ってね」 「まあそれは、そうですけど……」 「気が進まないのもわかるが、空からふたりで来るぐらいのお気に入りなら、問題も無いだろう」 「……あの、先生それは」 「ああ、言いたいことはわかる。別にそんな仲を疑ってるわけじゃない。でも、嫌な相手じゃないだろう?」 「それは、そうですけど……」 「じゃあ、決まりだ。今日の放課後から早速始めるから、校庭まで行ってくれ」 限定区域飛行指導員制度。 要は、グラシュを使って飛ぶことについて、自治体から認可を受けた人たちが、初心者に任意で指導をする取り決めだった。 俺はその、公認指導員として、自治体から指導の資格を得ている身分だった。 「びっくりしました。まさか日向さんが、飛行の名人だったなんて、わたし知りませんでした!」 倉科さんは、目をキラキラさせて答える。 「名人とかじゃないよ。まあ慣れてるってだけで」 すげなく返事をすると、 「そうなんですか? でも各務先生は名人だって仰ってました!」 ……先生、余計なこと言ってなきゃいいけど。 「久奈島で生活するには、グラシュの使い方をマスターするのがとても大切だと聞きました」 長い髪ごと、ふぁさっとお辞儀をすると、 「なので、頑張って覚えますので、ご指導よろしくお願いしますっ!」 「う、うん、俺に教えられることなら、ね」 すごく気合いが入ってるな……。 まあ、まったく興味がないと言われるよりは全然、こっちの方が教えやすい姿勢だけども。 「で、まあ倉科さんがここにいるのは当然として……」 クルッと後ろを振り向き、大袈裟にため息をついた。 「……なんで、君らまでここにいるのかな? みさきはともかく、有坂まで」 「悪友がこれから悪さしようとしてるのに、それを止めないわけにはいかないじゃない」 「そうですよー、先輩だけで可愛い女の子独占とか、そーいうの良くないと思うんですよね」 「あのな、これは先生から頼まれてだな」 邪魔する気満々の外野に対し、俺が注意をしていると、 「あの、日向さん。この方たちは?」 きょとんとした表情で、倉科さんが質問してきた。 「気にしなくていい。別にそんな重要なこ」 「はじめまして〜、2年C組の鳶沢みさきでーす! 常にお腹を空かせたキュートな女子校生で、うどんとお菓子をくれたらどこでもついていきまーす」 「はいはーい、有坂真白ですっ、1年A組です。みさき先輩の配下というか、しもべというか、そんな感じで楽しくやってまーす!」 「あ、呼び方はみっちゃんでもみさきちゃんでもみさきちでも好きなように呼んでくれていいよー。でもでも、みさきんぐとかだと無意味に強そうだからそういうのはナシで。たけのこ料理とかも好きだからー、基本的になにか食べさせてくれる人とか好きだなー。ね、ね、倉科さんは好きな食べ物ある? 嫌いなものは? どこ住み? ライラインとツリッター、どっち派?」 「わたしは真白とかまーとか、好きに呼んでください! あ、でもマシロックだけは過去の黒い思い出が蘇るんで、ちょっと勘弁かも。それ以外はなんでもいいですよー。ところで倉科先輩は、ゲームとかやるんですか? PSQ? 4DS? あ、タブレットとかスマホってのもありますよね。ちなみにわたしはどれでもいけますよ!」 「え、あの、えっと、その」 「倉科さん困ってるだろ! せめてどっちかから順番にしゃべれよ!」 「……それじゃ改めて、グラシュの基礎知識から教えていきます」 「はい、よろしくお願いしますっ!」 「よろしく〜」 「お願いしまーす」 「君らはおとなしくしてて、お願いだから」 みさきと真白の方をジト目でにらむと、俺はシューズを手に持って、説明を始めた。 「ではまず、この靴の成り立ちから」 指導員は、ただ飛び方の技術を教えればいいわけではない。 自動車の免許にも法規や工学があるように、グラシュにも座学が存在している。 今回のケースも、ややイレギュラーではあるものの、指導には変わりない。 というわけで、まずは定番中の定番、グラシュの歴史からである。 「元々、この靴が出来たきっかけは、十数年前、ある重要な発見がなされたことにあるんだけど……」 それまで、空を飛ぶといえば、燃料を使ってエンジンを動かし、翼やプロペラで浮かび上がる方法が主流だった。 しかし、今から15年前、インド、ラージャスターン州の大型ハドロン衝突型加速器による実験で発見された粒子が、世界の常識を大きく変えることになる。 「その辺の経緯は知ってるよね?」 「はい、反重力粒子の発見ですね」 倉科さんの言葉に頷く。 「重力に反発する不思議な粒子、アンチグラビトンの発見により、画期的な発明がなされたのです。それが……」 手に持ったグラシュを、ポン、とひとつ叩く。 「アンチグラビトンシューズ。通称、グラシュというわけです。反重力が生み出した、最大の発明と言われています」 「そうなんですね……」 「反発するだけで重力を遮るわけじゃありません。潜水艦の浮力みたいなイメージで捉えてもらえればいいかな」 倉科さんは感心したように、目の前のシューズを見つめている。 「じゃあまあ、詳しい歴史はまたの機会にして、まずはちょっと飛んでみようか」 「え、いいんですか?」 「うん、歴史とかは何度かに分けて聞けばいいし、法規にしたって学校内なら適用されないから」 自動車の免許をサンプルに法規が作られたということもあって、私有地ならば初心者の訓練も自由に出来た。 というわけで、俺は倉科さんの横に回ると、シューズの踵にあるスイッチを入れた。 「よし、じゃあ起動したから、まずはさっきやったみたいに、足を前後に軽く開いてみて」 「さっきと同じように……ですね」 「うん、そのまま、バランスを保ちつつ、軽くでいいから、両足の踵を浮かせて」 「はいっ」 「よし、じゃあ後は、自分のタイミングで、シューズに命令を出せばそのままゆっくりと浮き上がるよ」 「え、ス、スピードとか大丈夫ですか、急に速くなったりとか」 「車と一緒で、最初はゆっくりだから、その心配は無いよ」 「わ、わかりました!」 倉科さんは深呼吸して姿勢を整えると、 「い、いっせーのーでー……」 身体をギュッと上へと伸ばし、 「FLY!!!」 ブゥン、と機械音が微かに響き、ピィンと涼やかな起動音と共に、倉科さんのグラシュに羽根のオブジェが生えた。 「わぁ……す、すごい……」 そして、ゆっくりと、その身体が宙へと浮かび始めた。 「う、浮きました、動きました!!」 「や、やったっ、わたし、飛んでます、飛んでますよっ!」 よほど嬉しかったのか、プールではしゃぐ小さな子のように、こちらに向けて手を振り回している。 「倉科先輩、楽しそうですねー」 「ね、大丈夫なの? 明日香ちゃん」 「ああ」 「でも、あんなに手バタバタさせてたら、すぐにフラフラになっちゃ……」 「わ、わわわっ、きゅ、急にバランスがぁ……!」 倉科さんの身体が、左右にガクガクとブレ始めた。 「ほーら」 「……だから、さっきシューズ触った時、最大高度を5メートルにしといた」 「あ、なるほどねー」 手足をバタつかせ、やがて倉科さんの身体は、仰向けになって、 「きゃああ、落ち、落ち、落ちます〜っ!!」 そのまま、スピードを落としつつ、お尻から地面へと落下したのだった。 「きゃあ、きゃああ、落ちる、落ちる〜!」 倉科さんは、地面に落下してもなお、両手でもがき、両足をバタバタさせていた。 「落ち……って、あ、あれ?」 「いつの間にか地面に降りてただろ? これもグラシュの機能のひとつなんだよ」 俺は尻餅をついたままの倉科さんに手を差し伸べ、掴んでよいしょ、と立ち上がらせた。 「というわけで、今日はこの辺にしておこうか」 「はーい、おつかれー」 「お疲れ様でしたー」 「……お疲れ様でした」 その日は練習を兼ねて、再び家の近くの停留所まで、手繋ぎで飛んで帰ることにした。 まだ今日が最初ということで、徐々に慣れていって貰おうと思っていたのだけど……。 「……」 倉科さんはさっき上手く飛べなかったのがショックだったのか、あまり喋ろうとはしなかった。 「今日はまだ一回目だし、気にすることはないよ」 「…………」 「みさきも最初の頃は、まったく飛べずにフラフラしてたそうだし」 「………………」 「だから、これから放課後に少しずつ……」 「……………………」 さすがにこれだけ黙ったままだと、何かあったのかと心配してしまう。 「あのね、倉科さん。そんなに落ち込まなくても、全然……」 「う〜……………………っっっ!」 「倉科……さん?」 どんよりと落ち込んでいるかと思いきや、倉科さんはすうっ、と息を大きく吸い込むと、 「くやしいですっっっ!!!!!」 「わあっ!」 大声で、そう叫んだのだった。 そして、俺の方を強い視線で捉えると、 「日向さん!!」 「は、はいっ!」 「聞いてくれますかっ!」 「ど、どうぞ」 「さっきですね、ちょっとだけど飛んだ時、わたし、すっっっっっごく、楽しかったんです!」 「それは、よかった、ね……」 「ずっと、地面ばかり歩いていたわたしが、こうやって、空中でふわふわ動いてて、信じられない気持ちでした! なのに……っ」 うっとりした表情は、すぐに『ぐぬぬ』へと変わり、 「もう! もう! もう全然、落ち着くことも出来ず、あんなにフラフラとすぐに落ちちゃって、情けないったらありゃしません!」 「だから!!」 再び、その強い視線が俺を射貫くと、ブン、と音が鳴るほど強く、かぶりが振られた。 「明日からガンガン鍛えてやってください、コーチ!!」 「わ、わかった!」 発せられた強い言葉に、思わず、条件反射で返事をしてしまった。 コーチって、しかし。 「やったー! ありがとうございます!!」 ……まあ、喜んでるみたいだから、いいけど。 「とっても楽しみです。明日から、どうやって飛ぼうかって考えると……!」 嬉しそうに、そうつぶやいた。 「……そっか」 なんだか、懐かしい光景だった。 初めて空を飛んだときの感動と、もっと高く飛びたい、上手く飛びたいという思いと。 もう、とうの昔に置いてきた気持ちが、目の前に現れて、それはとても、 懐かしい、ものだった。 「それじゃ、失礼します」 「ああ、気をつけて」 「楽しみ楽しみ〜」 倉科さんは、本当に楽しみな様子で、ぴょんぴょん飛びはねるように帰って行った。 「……早く、上手く飛べるようになるといいんだけどな」 去っていく倉科さんを見ながら、つぶやく。 フッと、停留所の方から、風を切る音が聞こえてきた。 「ん、誰か来る……?」 微かな飛行音は、やがてハッキリと聞こえるようになり、こちらへ向けて大きさを増していく。 「あ……」 目を向けた先に、一人の女の子がいた。 両足をまっすぐにそろえ、鞄は肩からかけている。 もう片方の手で軌道の調整をしつつ、姿勢を崩すことのない、実にスムーズな飛び方だった。 そして何よりも、視線。 軽く周囲に目を配りながらも、飛ぶ先をしっかりと見据え、危なげが一切無かった。 「綺麗な飛び方だな」 単なる日常的な飛行であっても、歩き方と同じように、美しさの差異はある。 ひとつ、姿勢が整っていること。ひとつ、飛行経路が安定していること。 前者は背筋が伸びているか、もしくは両足のそろえ方がポイントで、水泳時の形態に例えられることが多い。 後者は、その軌道が直線的であるか、もしくは魚の骨のように、美しいRを描いているか。 大まかに言うとそのような基準で、美しさを語る。 で、今こちらに向けて飛んでいる女の子はというと、まさにその基準をすべてにおいてクリアしていた。 「指導員としても十分すぎる程だな」 比べてはいけないことだけれども、さっきまで教えていた女の子とはまったく格が違う。 これぐらい綺麗に飛べれば、倉科さんもきっと、楽しいに違いないだろう。 「うん、お手本だなこれは」 姿勢を覚えておいて、明日からのアドバイスに活かしていこう。 手の動きや足の動き、そして経路の選び方に注視する。 「あれ、あの制服……」 飛行形の美しさにばかり気を取られ、久奈浜とは違う制服に気づいたのはその後だった。 「高藤……? いや、どこだっけか」 考えている間に、女の子は停留所へ向けて速度を緩め、スッと音もなく降り立ったのだった。 「……ふう」 女の子は一息つくと、軽く衣服を正し、歩き出した。 歩く姿もまた、飛ぶ姿と同じぐらいに姿勢良く綺麗なものだった。 「こっちはみさきのお手本にしてやりたいな」 いつもフラフラと危なっかしい歩き方を思い出し、そんなことを思った。 「さて、それじゃ俺も」 女の子が見えなくなった頃合いで、俺も自宅へ向けて歩いて行く。 ようやく、空が夕方へと変わる頃合いだった。 その日の夜。 「え、ついにお隣誰か引っ越してきたの?」 「昼間、業者さんが家具運び込んでたからね」 部屋にこもって課題とにらめっこをしていたら母さんがネットを使った無線で話しかけてきた。 機械に弱めの母さんは、最近俺が教えたアプリを覚えたのが嬉しいらしく家の中で意味もなく通話を求めてくる。 「家主さんとはまだご挨拶できてないんだけど」 「へー、そうなんだ?」 二年前から空き家だったお隣。少し前から延々リフォームしてるなとは思ってた。 引っ越しとなると、俺と年の近い子どもがいたら、こっちに転校してくることになるよな。 でも4月も半ばなんてこんな中途半端な時期に転校生って…… 「…………」 いや、まさか。 ないない。そんな偶然。 「うわっ」 出来過ぎなタイミングに心臓が跳ねた。 「噂をすればお隣さんじゃない?」 「……なんか俺もそんな気がする」 「晶也出てよ」 「母さん1階でしょ。俺2階だよ?」 「母さん晩ご飯作るのに火を使っちゃってるもん」 これ見よがしという言葉もおかしいけど鍋を油が跳ねる音が聞こえてきた。 「……わかったよ」 予感なのか悪寒なのか。 背筋に冷たいものを感じながら玄関へ。 「あ、はーい」 っと、待たせ過ぎたら悪いな。 つっかけにつま先を突っ込んで玄関の鍵に手を伸ばす。 「お待たせしました」 「夜分遅く申し訳ありません」 「…………」 え? …………誰!? 「私、この度お隣に引っ越してまいりました市ノ瀬と申します」 市ノ瀬さん、と名乗った女の子が深々と頭を下げる。 「本来ならば家長である両親が挨拶に来るのが筋ですが、仕事で時間が取れず申し訳ありません」 「両親とともに、またいずれ改めて家族全員でご挨拶させていただきますが、本日は私が代理でまいりました」 「これからご近所としてご迷惑をお掛けすることもあるかもしれませんが、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします」 「それでこれ、つまらないものですがおソバを打ってみました。よろしければどうぞ」 「…………」 「…………」 「あ、あの……」 「…………」 「えっと……」 「…………」 「な、なにか失礼な点でもありましたか?」 「…………」 「あう……」 「…………」 「きっと何かしてしまったんですね……」 「…………」 「〜っ」 「だ、だとしても、そういう無視みたいなことはよくないことでは……!」 「え!? あ、あれ?」 ふと、市ノ瀬さんと名乗る女の子の声で我に返った。 「…………」 そんな俺に、市ノ瀬さんは言葉を飲み込むように口をぱくぱくさせている。 「す、すみません。ちょっとぼーっとしちゃってたみたいで」 倉科さんの顔を予想していた俺にはある意味予想外というか拍子抜けの展開だったから、つい。 「俺、何かやらかしました?」 「…………はあぁ」 「ちょっと!?」 へなへなと崩れ落ちそうな市ノ瀬さん。 「あ、あはは……ごめんなさい。初対面の男の人に、挨拶どころか意見なんて、内心すっごく緊張しちゃって」 「お、俺は一体何を?」 「挨拶、聞かれてなかったんですよね?」 「すみません……」 「では改めまして、隣に越してきました市ノ瀬莉佳と申します。よろしくお願いしますね、えっと……」 「日向(ひゅうが)さん、でよろしいですか?」 どうやら表札は見てきたらしい。 「日向(ひなた)です。日向晶也。ご丁寧にありがとうございます。こちらこそよろしく」 「ひ、日向さんでしたか。どうも失礼しました」 「いや、そもそも失礼な方はこっちだったようですから」 「えぇっ!? あの、いえ、私、決してそこまで責めるようなつもりで言ったんじゃなくてですね……」 「あ!? あーいや俺もそういう意図はなかったんですが」 お互いにぺこぺこと頭を下げあい、 「ぁ……」 「…………」 ふとした瞬間に目があった。 「ふふ」 「!?」 その微笑み、どう解釈すれば? 「あ、ごめんなさい。でも、ちょっとほっとしちゃって」 「どういう意味?」 「最初、日向さんが無反応だったから何か粗相があったかなって心配になって。一応ちゃんと挨拶の作法とか調べたんですけど」 「でもそんな雰囲気じゃすまなくてもしかしたら新参者に冷たくするいじめとか因習なんかが残ってる土地なのかなって」 「……この辺そこまで田舎じゃないと思うよ」 特に久奈島の中では再開発された新興住宅地側だし。 「はい、ですから気のせいみたいでよかったなって」 「それに、お隣さんもいい人みたいですし」 「っ」 市ノ瀬さんの笑顔に思わず言葉が詰まる。と。 「あらあら、かわいいお客さんね〜」 「え? あ、えっと……?」 「うん、俺の母さん」 なかなか俺が報告にこないのでさすがに察して晩ご飯作りを中断したらしい。 「や、夜分遅く申し訳ありません。私、この度お隣に引っ越してまいりました……!」 「そんなに緊張しないで。ただのお隣さんだから」 「……んじゃ、あとは任せたよ、母さん」 母さんが出てきてくれたので、その後の相手はお願いすることにした。 「あの、これ、つまらないものですがおソバを……」 「まあまあわざわざねぇ。え、すごい、これ自分で作ったの?」 「は、はい……」 場を離れる間際、 「…………」 ぺこっと上目遣いで頭を下げる市ノ瀬さんに俺も軽く手を挙げて返した。 廊下を歩きつつ、足を止める。 そして思い出す。 「…………」 「あの子、だよなあ。どう考えても」 順番が後回しになっていたけど、今日、帰り際に見たあの子の顔を思い出す。 もっとも、あの時はずっと、飛ぶ姿ばかりを見ていたわけだけど。 「あれだけ上手いとなると、まさか」 「…………」 自分で言いつつ、首を振った。 「だからって、何もないか、別に」 1時間ほどあと。晩ご飯を食べて部屋に戻る。 「ふう……うまかった」 今晩は母さんのお手製の天ぷらと一緒に市ノ瀬さんにいただいた引っ越しソバが椀で出た。 母さんの情報に寄ると、本来なら2週間ほど前の4月頭には入居している予定だったとか。 それが、リフォームが長引いて昨日までずっとホテル住まいだったらしい。 だから市ノ瀬さんの学校や共働きのご両親の職場にはそれぞれすでに通われているのだそうだ。 ちなみに市ノ瀬さんの学年はひとつ下。一年生みたいだ。学校は久奈浜じゃないけど。 まあいいか。 俺から見れば彼女がいい子そうで、ソバがうまくて飛ぶのも上手かった、それだけだ。 今度会ったらお礼を言わなきゃ…… 「…………え?」 思わず動きが固まる。 だってしょうがない。これはしょうがない。 俺の部屋の窓と向かい合うように存在する今日越してきたばかりのお隣の窓には…… 「…………………………」 「…………………………」 時間停止の魔法が、この半径5メートルぐらいに多分かかっていたのだと思う。 二人して、微動だにせず、そのままの体勢を維持し続けていた。 目を隠すとか後ろを向くとか、思えばなんで、思いつかなかったんだろう。 「………………きっ……」 やがて。 破裂寸前の何かから漏れ出した声と共に。 「………………きっ……?」 疑問に思う間もなく、 決壊したのだった。 「きゃあああああああああぁぁぁあああ!?」 「うわあああああああああぁぁぁあああ!?」 「きゃあああああああああぁぁぁあああ!?」 「うわあああああああああぁぁぁあああ!?」 って、驚いたけど俺も悲鳴をハモらせてどうする!? 「わ、悪い! すぐにカーテン閉めるから!」 「ヤだ、こないで! 近寄らないでください〜!」 「いや、そういうつもりじゃなくてっ」 埒が明かない。 「っていうか、そっちがカーテンを閉めれば……」 「あ……」 シャッとカーテンが引かれ、目の毒な光景が遮られる。 続いて俺もカーテンを引いた。 「はあ……」 ようやく息をつく。 けど見てはいけないものを見てしまった感覚が消えない。 今のは事故だとちゃんとわかってもらえるのか? 印象は悪くなかったはずなのになぁ…… その後、少しは窓の向こうの気配を気にしていたけれど。 結局その夜はついに、謝罪も弁解もさせてもらえる機会は訪れなかったのだった。 「どう? 昨日よりは慣れたかな?」 繋いだ手の先にいる倉科さんに、飛びながら声をかける。 「はいっ、今日はもう全然平気です!」 コクコクと頷きながら、楽しげな笑顔をこちらに向ける。 「そりゃ良かった、じゃあ今日の放課後は楽しみだな」 「ですねっ!」 「えー、というわけで、今日からこのクラスに入ることになった、倉科明日香だ。みんな、よろしく頼む」 「倉科明日香です。内地の方から来て、まだよくわからないことも多いですが、ぜひ、色々と教えてくださいね!」 「なるほど、じゃあ明日香ちゃんはすっかりグラシュの虜になっちゃったわけなんだ」 「ええ、そうなんです。日向さんや、みさきちゃんと一緒に昨日から飛ばせてもらって」 「へえ、みさきも一緒だったんだ。そうなの?」 「ん〜? んん、そうだよ……」 「……今日は一段と血圧が低そうね」 「……この時間のみさきには何を言ってもダメだな」 「あはは……みたいですねえ」 「今日はこんなものを持ってきてみた」 「えっと、教本ですか?」 「どうしたって俺たち実践派じゃルールや法律の細かいとこには弱いからさ。図書館からちょっと」 「なんだか非合法の危険な匂いがしますね」 「ちゃんと正規の手続きを踏んで借りてきたって」 というわけで今日は、飛び方の原理や歴史、グラシュについてや停留所など説明を踏まえて飛んでみることになった。 「グラシュを履いて単独飛行が許されるのは何歳から?」 「7歳です! ただし、決められたゾーン以外を飛べる許可が下りるのは13歳からです!」 「うん、正解だ! すごいな……」 「やりました!」 倉科さんは、飛ぶのは苦手なようだったが、反面、ルールや法規についてはスポンジのように吸収していった。 実際、すごく興味は持っているんだろうな。 「さあ次きてください次っ」 「いや、もうないんだけど……」 「え〜残念。そうなんですかぁ?」 「しかしすごいな倉科さんの記憶力。これはもう立派な特技だね」 「大好きなことはずっと覚えておけるようにできてるんです! 苦手な学科とかは、全然覚えられないんですけど……」 「生き方が快楽的すぎるな……」 倉科さんらしいっちゃ倉科さんらしい気もするが。 「じゃあさ、倉科さんの方から疑問とか気になったことはない?」 「えっと、疑問というか要望言っていいですか?」 「え、要望?」 「あの、わたし、みなさんのこともお聞きしたいなって。せっかくこういう機会もできたんですから」 「ああ、要望ってそういう、飛ぶ以外の」 なんのことかと思った。 「でしたらクナシマ縦断みさき先輩クイズやりましょうー!」 「……いきなり出てきたな、有坂」 「あれ、みさきちゃんは?」 「献身的に介護したんですが、なんだかひとりにしてほしいと仰るので」 「いっしょについてきてるのに」 「有坂が構いすぎなんじゃないのか」 「みさき先輩の心は繊細であたしたちでは伺い知ることなんてとてもとても」 「物は言いようだな」 俺から見れば気ままなだけだ。 「それでどうされます? クナシマ縦断みさき先輩クイズ」 「推してくるね」 珍しい傾向だ。みさきに関することなら独り占めしそうなのに。 「やってみたいかな。わたし、みさきちゃんのこともっと知りたいです」 「クイズに一生懸命になりすぎて飛ぶのが疎かにならないようにね」 「大丈夫ですよ!」 「…………」 ダメそうなので俺も付き合うことにする。いや、最初からそのつもりだったけど。 「じゃあお二人とも参加されるということで」 「さあ生き残るのはどちらでしょうか」 「え、どっちか死んじゃうのっ?」 真白の方もみさきのことだからだろう、いきいきとしていた。 「では第一問です。ジャン!」 「…………」 アタック音まで。 いきいきどころじゃない。ノリノリだった。 「みさき先輩の生誕祭といえば、ご存じ……」 「え、ご存じ?」 「いつだ? 聞いたことないぞ」 「ちょっと、問題を途中で止めないでください。せめて最後まで言わせてくださいよ」 「求められる基礎知識レベルが高すぎだろう」 「え、そんなことないと思いますけど」 「真顔で言うな」 怖いわ。 「ちなみに今の問題の答えは『お祖母ちゃんの家の菜園を食い荒らす』でしたー」 「え、なんかすっごく質問が気になるんですけど」 「はい、それでは第2問です」 「ああっ、もう先に進んじゃった!」 「いや待て有坂」 俺は制止する。 「はい? どうされました日向先輩」 「俺たちのみさきIQは出だしから露呈してこれ以上もう望むべくはない」 「だが有坂、みさきマイスター顔をしているおまえこそ本当にみさきを理解しているのか」 「……何が仰りたいんです?」 「俺たちが無作為に出すみさき問題に答えられてこそ真のみさきマイスターじゃなかろうか」 「え、でもそれ問題出す側も答えわかってませんよね?」 「わからなくてもニュアンスとか答えの内容でなんとなくわかる気がする」 「あ、アバウトですね……」 「いいでしょう。その無謀な挑戦受けて立ちます!」 「そうか……」 自分で言いだしておいてアレだけど受けちゃうのか。 「じゃあいくぞ」 あまり概念的な問題になってもわけがわからない。ここはオーソドックスに、 「みさきの好きな食べ物は」 「うどん、たけのこ」 「みさきちゃんの趣味は?」 「食べること、お祖母ちゃんに教わること。最近はぬか床作り!」 「だったらスリ……」 「わたしプラス11、7、12!」 「なっ……!」 「答えられないとでも思いました?」 「いやぁ……」 なんでそんなダメなことを言っちゃうんだと思った。 思わず生唾をごくりと飲み込む。 「やっぱり一方的なのはよくないと思うんですよ。ですから今度はまたこちらから行きますね」 と、有坂はみさきの方を振り向いて、 「みさき先輩! みさき先輩の好き……とまでは言わなくてもお気に入りとか気になる人といえば当然っ」 「晶也ーっ」 「え……?」 「へ?」 「俺?」 「ちょっとこっちー」 ちょいちょいと手で招かれる。 それはまったくの偶然だと思うが、ていうか偶然でしかないのだと思うけども! 「…………」 タイミングとしては最悪だった。これ以上なく。 仕方なくみさきの方へ向かう。 「あのさみさき、おまえ悪気はないかもしれないけどちょっと間が悪いというか……」 「というか晶也、あの子を使ってなに人の個人情報聞き出しまくってるわけ?」 「…………」 全部バレていた。 「別にどうでもいいけど」 「あ〜〜〜!」 倉科さんが思わず声をあげたのは、きっとみさきが無造作についっと距離を詰めてきたからで、 いや、磁場が反発しないようこっちで距離は離したけどな。 そんなことはお構いなしにみさきはいたずらっぽく微笑むと、 「晶也のこと、嫌いじゃないしね」 「特に好きでもないけど」 「それは大きな声で言えよ!?」 残されたふたりの方を見れば、 「あうあうあう……」 「…………」 片方、もうものすごく手遅れな顔をしている。 「あれをどうしたらいいんだよ……」 「明日は女の子の扱い方を逆に教えてもらったら、コーチ?」 「みさき……」 「わかった。悪かったよ。じゃあひとついいことを教えてあげる」 「頼むよ」 簡単な有坂のなだめかたをひとつ…… 「あの子が出した最初の私問題、質問は『4月16日に誕生日を迎えたばかりの私が嫌いな猪。その理由はなぜでしょう?』だね」 「どうでもいいよ!」 みさき、有坂と別れての帰り道。 教習2日目は俺や倉科さんの家がある新興住宅地の停留所までとした。 倉科さんの上達ぶりはまだ2日目とは思えないほど…… 「わわわわっ」 言い過ぎた。普通に2日目といった感じの…… 「きゃー、きゃー」 言い過ぎた。赤ん坊でも2日目ならもう少し上手く飛ぶ……って、さすがにそれは逆の意味で言い過ぎだ。 とりあえず勘をつかむのにまだ四苦八苦しているみたいだ。 それでもそれほど悲観的でないのはひとえに倉科さんのひたむきさがあるからかもしれない。 新興住宅地停留所上空まできて、そう総括する。 彼女なら必ず結果は実を結ぶ。きっとそう遠くないうちに。 「コーチ!」 それを信じさせるのは倉科さんの元気なこの声だ。 「どうした?」 「あの、着地に入ろうとして姿勢制御に失敗しました」 「……それって」 「墜落しちゃいま……きゃあああぁぁぁああああああ」 「そんなこと元気に説明するなあっ!?」 墜落というよりは色々な方向へあべこべな軌道を描きはじめる倉科さん。 「落ち着いて倉科さん! 大丈夫、失敗しても制御できなくなるなんてことほとんどないんだから!」 そう、普通に飛んでいるだけなら。そんなことはほとんどない。 「昨日から教えてることを思い出して! ちょっと冷静になるだけでいい!」 「そ、そんなこと言われましてもぉ〜なにがなんだか……」 「最初から全部やればいい! 足をバタつかせず、踵を揃えてっ」 「そのままバランスを保ちつつ、ゆっくりと、呼吸を、整えますっ」 「そう、優秀だ!」 慌てていても反復できている。 現状で本当に怖いのは二点。 極まったパニックで自分を見失った挙句、地面に着地したあとで身体をぶつけてしまうこと。 そしてもうひとつは、 「やべ……っ」 そのもうひとつの可能性が向こうからこの停留所に近づいてきていた。 いや、それが誰かなのかは関係ない。 他者との衝突。 正確には衝突できない斥力の反動こそ問題だった。短時間ではあるけど、それこそ制御が効かなくなる。 だけど運が悪いことに立て直しきれない倉科さんはその誰かに吸い込まれるように飛んでいく。 「ふぁぁぁああああああ〜〜〜!?」 「OBの警告っ?!」 ゴルフを知らなさそうな倉科さんの偶然にして、捨て身の警告。いや、ただの尾の長い悲鳴か? それに対し、 「……え?」 ふらふらとこちらに飛んでくる誰かは避ける素振りを見せない。 まさか……おい、本当に気づいてないのか!? 「っ!」 急いでスタンバイに入る。 が。 「えっ?」 ぶつかるかと思った相手は、きちんとこちらの状況を把握しているかのように……。 「ふぁっ?」 きょとんとしている倉科さんをよそに、スッとスピードを落とすと。 安全な位置で止まり、倉科さんの動向を見守っている。 何かあったら対応しようという、落ち着いた姿勢だった。 「あれは……」 ……間違いない。 ようやく制御を取り戻した倉科さんは自分がどれだけ危ない状態だったのか理解していないのか理解が追い付いていないのか、きょとんとしている。 そして、そんな倉科さんに、彼女が慌てて近づく。 「あの、大丈夫でしたか?」 ……なかなか考えが追いつかない状況だった。 「コーチー! ほらほら、こっち見てくださーい」 「ああ、見てる」 今日の教習は新興住宅地の停留所まで。 それはきっと厳密には着地するまでという理由で倉科さんはまだ飛んでいた。 本当に飛ぶのが楽しいんだろうなぁ。 うん、まあそれはいい。 「…………」 今はどっちかというとこっちの方が頭の痛い問題だった。 「あ、あのさ」 「っ!」 「…………」 警戒されてる警戒されてる。 ま、夕べのアレが夕べのアレだ。 俺が加害者かどうかは話し合う余地があっても市ノ瀬さんは間違いなく被害者だった。 だけど、さっきからこれの繰り返しで会話が前に進まない。 俺は意を決して話を続けることにした。 「さっきはごめんな」 「い、いえ、昨日のことは私も、その、不注意で……」 「……いや、夕べのことじゃなくて」 「……え?」 「〜〜〜!」 「っ」 百面相。かと思えば、ぷいっとそっぽを向かれてしまう。 まあ昨日の件についてはあとで全力で謝ろう。 「えっと、さっきの彼女、倉科さんの暴走についてなんだけど」 「彼女、まだ昨日はじめて飛んだってくらいでさ」 「あ……どうりで……あ、いえ、ごめんなさい」 今のどうりで……のあとはきっと褒める言葉なんかは入らなかったのだろう。 失言に気づいて肩をすくめる彼女に苦笑する。 「いいよ。その通りだから」 「でも、日向さんの彼女さんに私……」 「待て。今のは聞き捨てならない」 「そっか。だから謝る優先順位が私のことより……」 「ちょ、なんか自分ひとりで納得してないか?」 嫌な流れを感じる。 「日向さんは彼氏さんとして、彼女さんに飛び方をちゃんと教えてあげたほうがいいと思います」 「教えてる! 懇切丁寧に教えてるつもりだけど、それ以前にそもそも前提が間違って……」 「いつか大事故になってからじゃ遅いんです」 「そ、そりゃそうだけど、それは」 「…………日向さんと違ってはじめてでしたから」 「え?」 突然の押し殺したような声。 「男の人にあんな姿を見られたの」 「俺だって見たのはじめてだって!」 「コーチコーチ、今の見てくれました? なんかものすっごくまっすぐ飛べちゃったんですけど!」 「…………」 「……なんで倉科さんを見る?」 「コーチー?」 「わかった見とく。次はちゃんと見とくから!」 「…………」 ……なんでかさっきより視線を痛く感じた。 「どうしてあんな不注意しちゃったんだろって日向さんにもちゃんと謝らなきゃって」 「考えたくなくても思い浮かべちゃいますし思い出したくなくても忘れられなくて」 「恥ずかしさと後悔で頭の中がずっとぐるぐるぐるぐるしてたのに」 「日向さんは、彼女さんといちゃいちゃいちゃいちゃされていたんですね……」 「そんなことしてないからね、あのね」 「ふふ、大丈夫ですよ」 と、市ノ瀬さんが笑ってみせる。 「もうべつに気にしていませんし日向さんにはご迷惑をお掛けしませんから」 「いやさ……」 笑顔なのにまったく笑って見えないのはどういうことだ。威圧感さえある。 「その件については全力で謝らせてもらえないかな」 「いえいえそんな〜。日向さんが謝ることなんてないと思いますけど」 「誤解とかあった気がするんだ」 「誤解でしたっけ?」 「いや、今のは言葉のあやというか……」 にっこり笑ったままはやめてください。 「とりあえず夕べのことについては本気で謝る」 「やめてください。彼女さんの前で、他の女性の着替え姿を見たなんて話絶対よくないですよ」 「あ、やっぱりどうしようもない誤解、見つかった」 この日はこれ以降、市ノ瀬さんの鉄面皮のような笑顔が崩れることはなく。 俺は暗澹たる思いで家に帰ることになるのだった。 ……あの飛び方についてとか制服、高藤分校のだよなって聞きたかったんだけど。 「だいじょうぶ?」 「だ、だいじょうぶです〜!」 昨日の練習が思ったより進まなかったことで、俺は思いきって、遠出をしてみることにした。 「ひ、ひ〜ん、す、すごく良い景色だけど、やっぱりまだちょっと、こわいです〜!」 その内容は、この久奈島をぐるっと周る、グラシュ散歩では定番のコース。 そこを、ペアリングではなく、倉科さん単体で飛ばせてみたのだった。 「もしつらくなったらいつでも言ってね、体勢立て直せるようにするから」 「は、はい〜っ……!」 相変わらずフラフラした様子に苦笑する。 でも、初日のことを考えれば、まだマシ……になったはずだ。 「て、手を平行にして足を伸ばして手を平行にして足を伸ばして……」 「マシ、になったのかな……?」 「はあ〜、き、緊張しました……」 ひとしきり飛び回った後、俺たちは目についた砂浜で休憩を取ることにした。 「はい、これ」 買ってきたジュースのペットボトルを、倉科さんに手渡す。 「す、すみません、えっと、いくらですか?」 「いいよ、今日は無事に飛べたってことで、俺からのオゴリ」 「わあ、それはダブルで嬉しいですね! ありがとうございますっ」 倉科さんは早速フタを開け、美味しそうにジュースを飲んでいる。 俺もその横に座って、同じようにジュースを飲みつつ、目の前の風景を眺めていた。 通学以外で、久しぶりに長い時間、飛んだ。 正直、いい思い出が無かったけど、今日の飛行は楽しかった。 自分に対して意外でもあったし、それに何よりも、 「ほらほら、日向さん、あれ見えますか? 向こうの山のところ、あれ灯台か何かでしょうか?」 「え、どれかな?」 「あそこです、わたしの指差してる向こうの方っ。ううっ、水面がキラキラしててちょっとわかりにくいかもしれませんが、がんばって見てくださいっ」 この、常に楽しそうな女の子のおかげでもあった。 「倉科さんってさ」 「ん〜〜〜っ、やっぱり見えにくい……って、へ? 今わたしのこと呼びました?」 「呼んだ呼んだ」 何かに夢中になると、急に視界が狭くなっちゃうのか。 「なんですか?」 「いやその、ホント楽しそうだなって」 「楽しそう?」 「そ。さっき飛んでた時も今も、基本的に倉科さんって、『楽しい』が基本だよね」 「あ……はい」 ちょっと驚いたような顔をする。 「そういうのすごいなって思って。ちょっとだけ気になったんだよ」 倉科さんは、視線を横に外すと、頬の辺りを人差し指で触りながら、 「んっと、ですね。ちょっと理由あるんです、これ」 「理由?」 「……教えてもらったんです、昔に」 「今からだと想像つかないかもですが、わたし、昔は引っ込み思案で、内にこもりがちな子だったんです」 「見えない」 「もー、だと思うでしょうけど、小さい時は今と違うことだってあるじゃないですかぁ」 プコプコと頬をふくらませ、不満げに言う倉科さん。 「話戻しますっ。えっと、おとなしくてか弱いひとりの女の子がいましたって話でしたよね?」 「ちょっと盛ってるぞ」 「い、イメージですって。なんとなくそういう子がいるのを想像してください」 「うん、わかった」 内心苦笑しつつ、思い浮かべる。 ベタではあるけど、草原の中にひとり、白いワンピースに麦わら帽子の女の子を配置する。 ……言うのも恥ずかしいぐらいベタだけど、すんなり思い浮かんだんだから仕方ない。 「で、この子はさっきも言った通り引っ込み思案で、誰にも話しかけられないんです」 「うん、それで?」 「その時! 颯爽と現れた同じ年ぐらいの人物がひとり、わたしに近づいて来て言ったんです。俺と遊ぼうぜ、って」 「かーっ、なんだよ、王子様登場じゃないか」 ちょっと冗談めかして言う。 「……って、思うでしょう。ところが」 「続きあるの?」 「あるんですよ。実はその王子様は……」 「女の子だったんですね、これが!」 「あら……それは残念」 「一人称が俺で、声もちょっとハスキーだったんですが、髪が長くて顔もキレイで、見事に女の子でした」 「そっか……それは残念だったな」 ……ちょっとだけ、ホッとしたけど。 それはさすがに言わないでおいていた。何意識してんだって話になるし。 「……で?」 「で?」 「い、いや、だから、さっきの話っ」 「あ、ああっ、そうでした」 「わたしの昔のトキメキ話で完結するとこでした!」 「まあ、倉科さんがいいなら、それで完結でもいいんだけど」 「いけません! ここからが大事です。さっきのは第一部完みたいなものですっ」 フンス、と鼻息も荒く、 「では第二部いきます! えっとですね、その王子様……王女様? を前にしても、この子はなかなか心を開けなかったんです」 「結構な難関だな」 「そりゃもう、何年もかけて仕込んだ引っ込み思案ですから、外に引っ張り出すにも力が必要です」 「で、そんな子に対して、王女様は言ったんです」 「なんて?」 「ずっと楽しいと思っていれば、世の中はホントに楽しいぞって」 「へえ……」 「これまで引っ込んでいたのなら、これから倍の時間、楽しいことが待ってるって」 「それでわたし、それ以来、何でも楽しいと思えるようになったんです」 「ふうん、いいこと言うじゃないか、その王女……様は」 「ですよね〜。人生における格言です」 ……さすがにそれは言い過ぎじゃないのかな。 でも、幼い頃に刻みつけられた思いが、今なお影響を及ぼしてるってのは、理解できる。 俺はマイナスの方に向けて、だけど。 「あ、でもでも、飛ぶことについては、別にその思想は抜きにして、ホント楽しいです」 「ちょっと途中、恐そうにしてたけど」 「その辺も入れてです。日向さんがついていてくれたので、恐かったけど安心でした」 にこっと微笑む倉科さん。 「ど、どういたしまして」 妙に照れくさくなって、ペットボトルの中身をぐいっとあおった。 「なんだか結局、この3日間ずっと、日向さんに頼り切りでしたね」 「そうだったかな?」 「そうですよ。まったく飛べないわたしに、一応飛べるようになるまで教えてくれて、本当、感謝してます」 倉科さんは、いつもするようにペコッと頭を下げると、 「日向さんは、どうしてこんなに親身になって、わたしに飛び方を教えてくれたんですか?」 「そんなの……」 「倉科さんに、飛べるようになって欲しかったから」 「わたしに、ですか?」 「そう。その方が色んな所へ行けるし、特にここの生活には絶対必要だったから」 「そうだったんですね……」 「うん」 俺が自分で飛ぶことについては、正直言って、色々と思う所があるけれども。 だからと言って、倉科さんには関係の無いことだ。 だったら、この楽しさを少しでも早く味わえた方がいいに決まってる。 「ありがとうございます、コーチ」 「それ、やっぱりちょっと慣れないな……」 「先生に、各務先生に言われたから……」 元々は、先生が言い出したことだったし、その事実は変わりようがない。 「あ、ですよね。各務先生、とても親切ですけど、怒ると恐そうですし……」 「だろ? 実際恐いんだよ、こないだなんか……」 ……と、本人に聞かれるとちょっとまずい話を、倉科さんに話して聞かせたのだった。 「それにしても、グラシュって面白いですね。こんな簡単な操作で、自由に飛べるなんて」 「ホント、発明した人はすごいよ」 空を自由に飛び回る。そんな夢みたいな話が、現実になった。 ここでの生活が日常である自分でも、ふと思い直すと、そのすごさに目眩がしそうになる。 そう、グラシュのある生活は、夢のような世界で、それでいて日常でもあった。 「ずっとそう、だったからな……」 この3日間、思い出すことが多かった。 空を駆け回った日々を、誰もいない空に向かって、風を切った日々を。 「これだけ便利なら、色々出来そうですよね、そう、たとえば……」 ……だから、考えてみれば、自然な流れだったのかもしれない。 この練習において、何かのきっかけで、『その話』になるのが。 「グラシュを使ったスポーツとか、楽しそうですよね!」 「あ……」 持っていたペットボトルを、危うく取り落としそうになる。 慌てて掴み直すと、少し掠れた声で、俺は相づちを打った。 「……そうだね」 「ですよね! 絶対、楽しいですよ〜」 やっぱり、そういうことだったのか。 でもなければ、 「先生、何か企んでるんですか?」 「えっ?」 「今回の指導員の話です。何かの意図があって、俺を倉科さんの指導員にしたんじゃないかって」 先生は俺の言葉に、いつものようにニヤリと笑うと、 「どうしてそう思った?」 「その……ちょっと似てると思ったからです」 「誰と誰が?」 微妙に誘導されているのには気付いていたが、ここで嘘をついても仕方ないことだろう。 「倉科さんと……俺が、です」 「フフッ……」 先生の笑顔が、ニヤリから、ちょっと寂しげなものへと変わった。 「懐かしいと思ったのは、おまえだけじゃなかったってことだ」 「…………」 机の上のマグカップを指で突き、そのまま、くるりとなぞる。 先生の目はこちらを見ていたけど、その視線の先は、少し遠いように見えた。 「晶也、私はね。10年、いや、20年に一人の選手をそんなにすぐには諦めきれないんだ」 「……もう、その話は」 「いや、残念ながらいつだってするさ。おまえがそのあまりある才能を持ち続け、空を飛び続ける限りはね」 いつしか。 先生の目から、笑みが消えていた。 「無理矢理押しつけようとは思ってない。だけど、これだけは言っておく」 「日向晶也を、私は待っている。……今も、ずっとね」 二人の間に、沈黙が流れた。 実際は10秒足らずだったと思うけど、俺にはそれが、ひどく長い時間に感じた。 「……失礼します。そろそろ、コーチの時間なので」 「コーチ、か。その響きも懐かしいな」 「……失礼します」 「…………」 「あの、日向さん、ひなたさーん?」 「あっ……ご、ごめん」 「もう、急に黙り込んだりするから、何なのかと思っちゃいましたよ」 ぷっくりと頬を膨らませ、子供みたいな怒り方をする倉科さん。 「あの、何かわたし、変なこととか言っちゃいましたか?」 「え、ええっ、いや、別になにも」 「よかった〜っ、ひょっとしたら何か気まずくなることでも言っちゃったかと思って、ドキドキしちゃいました」 ニコニコと快活に笑う。 (……ごめん、ちょっとだけ嘘ついた) 心の中で密かに謝った。 だって、この子には関係の無いことだし。 俺が勝手にトラウマにしてることであって、彼女には何の関係も無かったから。 「さ、じゃあそろそろ帰ろ……」 太陽が西に傾き、次第に夕暮れに差し掛かる頃。 そろそろ、誘導が無いと飛んで帰るのが厳しくなる時間帯だった。 そんな、ちょっと切なげな、黄昏時の空気を切り裂くように、 「オーッホホホホホホホホホホホホ!!!!」 「んぇっ?!」 「ひゃっ!」 突如、大音量の笑い声が、一帯に響き渡ったのだった。 「な、なんだ……?」 「あ、あそこじゃないですかっ?」 倉科さんが指さした先。 海岸の波打ち際で、一組の男女が、言い争っているようだった。 「ちょ、ちょっと行ってみましょう、ケンカだったら止めないと!」 「え、行くの?!」 迷い無く走っていく倉科さんのあとを、俺は慌てて追いかけていった。 「だーから言ったのですわ、このサトウインに刃向かおうなど、太平洋でサメに戦いを挑むに等しい愚行とね!」 「くっ……クソっ、くっそおおおおおお!!!!」 それは、何とも異様な光景だった。 金髪の美少女を前に、屈強な男性が膝をつき、土下座をしている。 美少女の方はサトウインと名乗っていた。どういう字を書くかわからないが、外国人だろうか。 もう片方の男性については名前もわからなかった。ただ、すごく筋肉が発達しているのだけは、離れていてもわかる。 そして、俺たち二人は、10メートルほど離れた草むらから、その様子を眺めていたのだった。 「なんでしょう、タイマンでしょうか?」 「よく知ってるねそんな言葉」 「お父さんがそういうマンガ好きなんです。あっ、あっ、動きがありましたよっ!」 視線を二人に戻すと、例のサトウインとかいうお嬢様が、再び口を開いたようだった。 「シオンさん……でしたわね」 どうやら、屈強な男性の方は、シオンという名前であるらしかった。 二人揃って日本人離れした名前である。 「あなたのような古くさいスタイルじゃ、わたくしには一生かかっても勝てはしませんわよ!」 「クソッ、クソッ、そんなこと、そんなことないっ……!!」 (ああ、そういうことか) 二人のやりとりを聞いて、俺はこの状況をやっと把握したのだった。 「あの……日向さん」 「ん?」 「あの人たち、単にケンカしてるわけじゃなさそうですね。何か勝負ごとをしてるというか……」 「ああ……あれは」 答えようとした口を、例の賑やかなお嬢様が遮った。 「鈴木佐藤の佐藤に、由緒ある『院』の称号。この佐藤院にフライングサーカスで敵う者など、久奈浜学院には存在しないのよ!」 ――フライングサーカス。 グラシュを使ったスポーツとして、広く世界で親しまれており、この四島では最も盛んな競技である。 そして、何よりも。 「フライングサーカス……」 倉科さんは、噛みしめるようにして、その競技名を口にした。 「佐藤院さんの漢字もわかりましたね」 「そっちなんだ」 しかし、佐藤に院ってつけるのか普通。その院、いるかな? 「さあ、それじゃ約束通り、その学校名の『院』の字、頂いていくわよ」 「ぐっ……そ、それだけはっ……!」 「10連敗までは待って差し上げたのよ。今日からは『院』を失った久奈浜学と名乗り、敗戦を噛みしめて生きていくといいわ」 「そ、そんな中途半端な名前を背負っていくのは我慢ならないッ……!」 「3年生にもなってみじめですわね、シオンさん」 ……何か流れが読めないけど、あのシオンとかいう人、うちの学校の人なのか。 3年、って言ってるから、どうやら先輩みたいだ。 まあ、学校名がどう関係してるのかは、さっぱりわからないけど……。 「助けてあげたいけど……しかし」 よりによって、この場面では。 手を出しあぐねていた、その時。 「はいっ!!!」 「えっ」 いきなり隣で、倉科さんが立ち上がったのだった。 「きゃっ、だ、誰よっ!」 「なっ……!」 当然の如く、突然現れたニューチャレンジャーに、佐藤院さんもシオンさんも驚いている。 「あ、えーっとですね……」 倉科さんはニコニコと場違いな笑みを浮かべながら、 「さっき、久奈浜学院で誰も……ってことでしたので、ちょっと学生として手を挙げようかなって、思った次第なんですが、どうなんでしょう?」 「どうなんでしょうって……」 むしろ、俺が聞きたいです、倉科さん。 「ふ、ふん、とんだ挑戦者がいたものね。いいわ、そうまで言うなら手合わせして、あなたが勝ったらこの『院』の字を返してさしあげるわ」 「えっ、試合、して頂けるんですか?」 意外なことに、佐藤院さんの方も、試合をする気があるようだった。 ……いや、でも、ちょっとさすがにそれは。 「えっと、それで、あなたは、フライングサーカスの経験者なのかしら?」 「いいえ、さっき知ったばかりです」 「え?」 「グラシュ履いて一人で飛んだのも昨日が初めてです」 「ふざけるのもいい加減にしてくれない! あなた、わたくしを誰だと思ってるのよ!」 ……あーあ、怒っちゃったか。 案の定の結果に、俺は一人ため息をついた。 いくらなんでも、試合用シューズを履いた選手に、ロクに飛んだこともない人間が相手するのは無理が過ぎる話だった。 「すみません、とりあえずちょっとこの話は」 「……仕方ないわね、じゃあ教えてあげるわよ」 「え、やるの?!」 「わあ、ありがとうございます!」 てっきり、中止になると思われた試合は、佐藤院さんの一言により、急に実現性を帯びることになった。 「まったく……なぜわたくしがこんなことを」 佐藤院さんはどこからともなく持ち出してきたホワイトボードを背に、説明を始めた。 「フライングサーカスは、通常ならばブイに囲まれた一面300メートル四方の海上で行われるわ」 「一対一で争われて、10分の制限時間内により多くの得点を集めた方が勝ちよ」 「得点の方法は2つ。相手の背に触れるか、もしくは4つのブイを順番にタッチしていくか」 「なんだけど、今日はあなたのことも考えて、ブイは2つ、時間は5分にしておくわ」 「以上よ。何か質問はあるかしら? 別になんだって聞いていいのよ、なぜならわたくしは……」 「だいじょうぶです、わかりました!」 「ほ、本当にわかったの? わたくしだって、理解するのに半年かかったのに……」 佐藤院さんはまだ何かブツブツと文句を言っていたが、 「じゃあ5分後に試合を始めるわ! それまでに準備を済ませていらっしゃい!」 「まさかこんなことになるなんてな……」 倉科さんのシューズを確認し、可能な限り『試合』用へと調整する。 と言っても、試合用のシューズと比較すると、この時点で差がついていると言われても仕方ない。 「す、すまない。君たちを巻き込んでしまって……」 シオンさんはすまなそうな顔で、さっきからずっと謝り通しだった。 「いいですよ、話を聞いて、わたしもやってみたかったですし」 対してこちらは、あまり緊張感もない様子。 リラックスを通り越して、迫力すら感じられるほどだった。 「でもどうやって戦うつもりなの?」 ひょっとしたら、倉科さんなりに戦う方法があるのかもしれない。 「わかりません!」 「……マジか、無策なのか」 あのよくわからない自信は、あまりに何も策が無い故のことだとわかった。 「しょうがない、じゃあ出来るだけ指示を出してみるから、それに従って動いてみて」 「えっ、もしかして日向さんって、フライングサーカスの経験者なんですか?」 「…………」 「……まあ、ちょっとだけね」 「あ、指示を出すのなら、これを使うといい」 シオンさんが手渡したのは、試合用のヘッドセットだった。 これがあれば、作戦を立てる側と、通信で会話が可能だ。 「シューズはサイズが合わないけど、これならなんとかなるかと」 「ありがとう、これは助かります」 早速、片方を倉科さんに、もう片方を自分の耳にセットした。 「じゃあ、いいかな。作戦を立てよう」 「はいっ!」 「……本当に呆れますわね。まさかシューズすら普通の通学用とは」 「なんとかこれで頑張りますから!」 「まあいいわ。手加減はしませんわよ」 「それじゃあシオンさん、あなたは審判をやってくださるかしら」 「う、うむ……わかった」 「先程も申しました通り、制限時間は5分。その間により多くの得点を取った方が勝利ですわ」 「勝負は正々堂々と行いますわよ。院の名に恥じぬよう、戦って頂けますわね?」 「はい!」 「では、参りますわ!」 佐藤院さんが一足先に飛んでいく。 「あれ? 先に行っちゃいましたよ? フライングですか? それとも敵前逃亡ですか?」 「これは言い忘れてたな。地面からスタートするんじゃなくて、ファーストブイって呼ばれるとこからスタートするんだ」 「空中からスタートするんですね。じゃ、私も行ってきます。FLY!」 「気をつけてな。無理しないように」 「はい!」 「あの〜、スタート位置はここであってますか?」 「本当に素人ですのね。それであってますわよ」 シオンさんはファーストブイを挟むように二人が停止したのを確認してから、 「では、試合をはじめます」 「はい!」 「よろしくてよ」 「セット!」 「………」 「………」 号砲と共に、両者一斉に飛び出す。 「えっ、ちょ、ちょっと待っ……」 いや、残念ながら、両者というには、倉科さんの発進はあまりに遅すぎた。 「何をなさっているのです?」 一方の佐藤院さんは、浮かび上がると同時に綺麗な姿勢で抵抗を無くし、 「よし! 頂きましたわ!」 「ポイント、佐藤院!」 いともあっさりと倉科さんの横をすり抜け、ブイへのファーストタッチを成し遂げたのだった。 (強い、この子) 自分から言うだけあって、佐藤院さんの腕は大したものだった。 飛行姿勢がとにかく綺麗だ。 細かなテクニックはまったく使っていないけど、飛行の速さとバランスの良さを見れば……。 かなり上手なことと、全然、本気を出してないことがわかる。 (これはあまりに分が悪いな……) 「さ、それでは次、行かせて頂きますわっ!」 佐藤院さんが姿勢をすぐに整え、もう一つのブイへと進路を向ける。 当然、その途中には倉科さんがいるものの、これという手段もなく、棒立ちでオロオロしている。 「日向さん日向さん、ど、どうしたらいいでしょうか?」 ヘッドセットを通じて、倉科さんの声が聞こえてくる。 「慌てなくていい。まずは相手の進路を塞ぐんだ」 「どうやって?」 「両手を大きく広げて、足は左右どちらにでも動けるように待機。サッカーのゴールキーパーみたいな感じで」 「こ、こうですかっ?」 倉科さんのポーズが変わった。 「ああ、それで相手にプレッシャーをかけつつ……」 「そんなガードで止められると思ってるの!」 「きゃっ、き、来ましたっ!!」 「そこでフェイントをかけて背面に!」 「え、えいっ!」 佐藤院さんがすり抜ける直前、倉科さんは必死の動作で、半身になって背中へタッチしようとする。 ……が。 「だ、ダメでしたっ!」 いともあっさりと、佐藤院さんはタッチの手をかいくぐった。 「……行けたら、苦労はしないか」 「そ、そんなあっ」 そして、障害も無くなった佐藤院さんは、労せずにブイの元へタッチを決める。 「ポイント、佐藤院!」 「オホホホホホホホ、わたくしに楯突くぐらいだから余程の腕かと思いましたが、所詮は敵では無かったようですわねっ」 高らかに笑う佐藤院さん。 実際、この後の展開は一方的な攻勢となり……。 「きゃっ!」 「わっ、またっ!」 「やん、また抜かれたぁ……」 気がつけば、残り1分の段階で、9ポイントの差をつけられてしまったのだった。 「さあ、それでは10ポイント目、頂きますわよっ!」 「コ、コーチ〜……」 得意げなお嬢様と、その前で泣きそうな顔をした倉科さん。 「た、タイム、タイム!」 「タイムなんてルールは聞いたことありませんわよ」 「将棋でも碁でもオセロでも素人は、待った、をするもんじゃないか?」 「……そう言われればそうですわね」 ──妙に物わかりのいい人みたいだ。 「倉科さん、降りて来て」 「はい」 「……仕方ない、例のアレ、やってみようか」 「で、でも、まだわたし、満足に飛べないのに、あんなこと、出来るんでしょうか?」 「このままだと、どうやっても完封負けだ」 「……そ、それは……」 「悔しくない?」 ちょっと、意地悪な言い方だとは自分でも思っていた。 でもこれは、キャストを変えて、以前行われたやりとりで。 「…………」 その時に、『彼』が何と言ったかを、俺は覚えていたから。 「完封、いやです。せめて一矢、報いたいです……!」 「よしっ!」 だからわざと、挑発した。 「ほらほらどうしたのかしら。もう降参でもいいのですわよ」 高い場所から平然と構える佐藤院さんに、倉科さんは意気揚々と指をさして、 「絶対に、1ポイント取って見せます!」 「あら……」 「そういう、負けん気の強い子は嫌いじゃないですわ。うちの可愛い一年生とそっくり……」 佐藤院さんは、ファサッと髪をなびかせると、 「いいわ、かかっていらっしゃい! 返り討ちにして、あなたの『院』の字もいただくわよ!」 再び、戦闘態勢に入った。 「では、残り50秒から再開します!」 チャンスはおそらく一度。 これを逃せば、間違いなく時間切れで完封負けが決まってしまう。 (一度、一度だけだ……) 「試合再開!」 「さあ、一気に行くわよ!」 ホイッスルと同時に、佐藤院さんは仕掛けてきた。 「よし、今だ!」 「はい!」 俺のかけ声を合図に、倉科さんの手足が伸び、仰向けになって10メートルほど上昇した。 ちょうど、屋根のようにして、佐藤院さんの上空に浮かんでいる。 「あら、わたくしの凱旋に、アーチでも作ってくださる気ですか?」 佐藤院さんは気にすることもなく、倉科さんが作った屋根の下をくぐり抜けようとする。 「よし、そこだっ、行けっ!」 「はいっ!!」 「えっ?!」 ちょうど、その身体が屋根の真下に来た、瞬間。 「いっけぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!!」 倉科さんの身体が一つの線になり、真下へと急降下を始めた。 「なっ、罠だっていうの!?」 「よしっ、かかった!」 佐藤院さんが攻撃を回避する時の動きは、基本的に横軸ばかりだった。 なので、縦軸の動きに比較的弱いのでは、と読んだのだった。 しかも大量点に浮き足立ち、油断もしているだろう……と。 「背中、いただきます!!」 なによりも。 初心者の倉科さんにとって、左右の動きよりも上昇よりも、下降がやりやすいということもあった。 「くっ、避けにくいところを……!」 狙い通り、佐藤院さんの動きが鈍った。 ぐんぐんと、倉科さんの右手が迫る。 「やるわね、でもっ……!」 佐藤院さんは瞬時に身体を捻って、上からの攻撃を避けようとする。 もう少しで手が届くというところで、背中はするりと、横へと逃げていった。 「くっ、避けられた……!」 手の先が無残に空を切る。 その動きを嘲笑うかのように、ターゲットの背中は、遠ざかっていく。 「っ……!!」 「これまでかっ……」 避けた佐藤院さんの身体は、捻りを戻しつつ高さをキープし……。 一方の倉科さんの身体は、勢い余って水面へと突き進んでいく。 「っ……!」 思わず、目をつぶった。 ……しかし。 「………………」 いつまで経っても、派手な水音は聞こえてこず…… 代わりに聞こえてきたのは激しい電撃音だった。 「……っ?!」 そして、目を開けた先には、 「えっ……」 信じられない、光景だった。 確かにかわされたはずの、攻撃の直後。 「えええっ!!」 海面に向かって一直線……のはずの倉科さんは、なぜか、再び上昇を始めていて。 見事に避けたはずの佐藤院さんの背中を、奇跡の動きによって、捉えていたのだった。 「そ、そんな……信じられ、ない……!」 そして、その捉えた本人と言えば。 「あ、あれれ……?」 まったく、その奇跡に気づいていないようだった。 「わたし、ポイント取れちゃった……?」 自分の手を見つめつつ、不思議そうな顔をしている。 本人も含めて、全員が狐につままれたような顔をする中、 「うおおおお、すごい、すごいぞっ、エアキックターンとか何年ぶりだっ!!!」 一人、シオンさんだけが、雄叫びを上げ、歓喜の声を轟かせていた。 「エアキックターン……そうか」 フライングサーカスにおける技の中でも、相当の熟練と、何よりも身体能力を問われる技のひとつ。 まるで空中を蹴ったかのように、逆方向への瞬発力を発揮する高等テクニック。 それを、昨日今日はじめて一人で飛んだ、女の子が。 見事に、やってのけたのだった。 「ま……まさか、このわたくしが、ポイントを、しかも、あんな昨日今日始めたばかりの女の子に……」 ショックを隠そうともせず、まざまざと見せつける佐藤院さん。 がっくりと膝をつき、両手で頬を覆っている。 「わー、やったやった、やりましたーっ! ねえねえ日向さん、見ててくれましたか?」 一方のこちらは、飛び跳ねんばかりの喜びようだ。 「ああ、見てたよ……すごかった」 「わたし、初めてだったのに、ポイント取れちゃいました!」 ……実際、かなり驚くべきことであった。 試合用でない普通のグラシュで、しかも、ついさっき聞いたばかりのルールで、 何よりも、飛ぶことすらも初心者に限りなく近い状態にもかかわらず、この競技でポイントを取ったこと。 経験者だからこそ、事の凄さが理解できた。 (まあ、だからこそ) ちらりと、佐藤院さんの方を見る。 そのショックは相当だろう、と思うのだけど。 「くっ……まだまだ、練習が足りなかったということなの……!」 案の定、ちょっと落ち込んでるみたいだった。 「あの……」 フォローでも入れるかと思った、その矢先。 「佐藤院さんっ!」 ずいっと、俺よりも先に倉科さんが前に出てきた。 「な、なによっ、これ以上わたくしを愚弄する気な……」 怯む佐藤院さんを前にすると、倉科さんはピッと直立不動の体勢を取ると、 「フライングサーカス、教えてくださってありがとうございましたっ!!」 腰を90度に曲げ、ペコリとお辞儀をしたのだった。 「へ、へええっ……?」 「普通なら、無視されても仕方ないぐらいの無礼な行動なのに、佐藤院さんはとても丁寧に、ルールややり方を教えてくださいました」 「このスポーツ、とっても楽しかったです! これからも頑張りますので、よろしくお願いしますっ!」 (おお……) 気持ちのいい、挨拶だった。 一体、何を言うつもりなのかとヒヤヒヤしたが、どうやら取り越し苦労だったみたいだ。 「ふ、ふん、ずいぶん謙虚じゃない。じゃあ、約束通り『院』の字は返してさしあげるわ」 「でも、これで負けたわけじゃないんですのよ。必ずまたわたくしと戦いなさいよねっ!」 「はいっ、それはもう!!」 (やっぱりこういうのは、当事者同士がやり合った方が上手くいくよな) 久しぶりに、その事も思い出した。 「見てらっしゃい! 佐藤院の名にかけて、次こそは必ず、得点はひとつたりとも許さないから!」 「覚えてなさいよ、忘れたら承知しませんからねっ!」 佐藤院さんはこちらに背を向けると、そのまますごい勢いで空に飛んでいってしまった。 (心が強いな、この子) 普通は、現役の選手がこういう結果を見せつけられると、かなりショックを受けるはずなんだけど。 ――どうやら、どこかの誰かとは違ったようだ。 「……なんか、不思議な子だったな」 「でも、とってもいい人でしたっ」 「そうだね」 あれだけ色々と失礼な仕打ちを受けながら、きちんと丁寧にルールを教えていたり……。 高飛車な雰囲気と見せかけて、いい人オーラが出まくっているという、不思議な子ではあった。 「さてと、俺たちもそろそろ……って、うわっ!」 倉科さんの方を振り返ろうとした俺の方に、何か巨大な影が急速に近づいてきた。 「うおおおおおおおお、きみたちぃぃぃぃぃぃぃ!!!」 「きゃっ!」 「び、びっくりした!!」 近づいてきた影の正体は、 「ありがとう、ありがとう、ありがとう〜〜〜〜っっ!!!」 倉科さんが一矢報いたことに対して、感極まって涙を流している、シオンさんの姿だった。 「オレは感動した! あんなに見事なエアキックターン、試合でも練習でも、そうそうお目にかかれないぞ!!」 「そ、そうなんですかっ……」 若干戸惑い気味に答える倉科さんに、何度もうなずくシオンさん。 「君は、飛ぶのは本当に素人だと言っていたね?」 「はい、日向さんから教えてもらってる途中で、まだまだ全然上手くないんです」 「そ、それであの技を繰り出したとは、それはすなわち……」 シオンさんは背中を一度大きく反らせると、反動をつけて再び顔をこちらに寄せて、 「天才だ!!!!」 「きゃっ!」 「まさに生まれ持った才能、勘の良さと身体能力、これを活かさないでどうするっ!」 「君はぜひ、フライングサーカスをやるべきだ、あと、それとっ!」 「君っ!」 「わっ、お、俺ですかっ」 倉科さんに熱く向けられていた視線が、今度はこちらを向いた。 「君の立てた作戦、そして適切なアドバイス、あれは経験者じゃないと出来ないと見たっ」 「え、あ、はい……」 「その素晴らしき頭脳と経験、ぜひ共に戦いたいとオレは思っている!!」 そして。 シオンさんは、すべてのきっかけとなる一言を、俺たちに向かって、言ったのだった。 「ぜひ、久奈浜学院フライングサーカス部に、入部してくれ!!」 「は、はあ……」 (大変なことになっちゃったな……) ……そして、この後。 俺と倉科さんは、ひたすらにシオン先輩から入部の勧誘を受け続けることになったのだった。 すでに日は落ちて、闇が辺りを支配し始めた、初夏の夜。 熱い言葉と、戸惑いの気持ちと、どこか冷めた気持ちが、静かに波の打ち寄せる浜辺に、たたずんでいた。 視界にあるのは、青と白しかない。 強い光を背に顔に幾度となく受けながら、くるくると天地を逆転させ、風を受ける。 頭の中で数字を数える。 このペースで飛んでいけば、あと3つ数えればポイントにつく。 もう何度も繰り返したことだ。身体にはその感覚が染みついている。 3、2、1。 ――今だ。 「いけっ!」 身体を屈ませて、一瞬だけ、胎児のように丸くなる。 「よしっ!」 直後、全身をバネにして、足を強く蹴り出す。 成功だ。 今まで受けていた風を背に、今度はそれに乗って、跳ねる。 再び、数字を数える。 行きと違って、追い風だ。総じて数えるのは3分の2でいい。 3、2、1、カウントダウンへ移る。 「ゴールだ!」 そこにあらかじめマーカーでも置かれていたように、ピタリと身体が止まった。 もちろん、止めたのは自分の判断だ。でもそれが、寸分の違いも無いことを、俺は知っている。 顔を上げた。その先には、あの人がいる。 「葵さん、どうだった!?」 近づいて、顔を上げる。 「難度の高いエアキックターンを織り交ぜて、強風の中でこのタイムを叩き出すとはな」 「え、じゃあ今ので……?」 俺の言葉に、ニコッと表情が緩む。 「上出来だ。記録更新だよ」 「っしゃあ!!!」 葵さんの言葉に、何度もガッツポーズを繰り返す。 そんな俺を、葵さんはニコニコと笑顔で見守っている。 ――ずっと、笑顔のままで。 「頼む、この通りだっ!!」 「え、ええと……その……」 翌日の朝。 教室は普段とは違った雰囲気に包まれていた。 「君ほどの才能に出会ったのは初めてなんだ、ぜひFC部で大きく開花させてくれ!」 「あ、あははは……」 その原因は、昨日海辺で出会った、あのシオンさんだった。 シオンさんは職員室で聞いたのか、俺と倉科さんのいる教室を一発で探り当て、昨日の続きとばかりに勧誘に来たのだ。 「部員はオレ一人しかいないが、大丈夫! 君と日向がいれば、三人になるっ!」 「日向さんも、ですか……?」 「そうだッ! 日向も入ってくれれば、君たちは最強になるはずだっ!」 とまあ、終始この調子だ。 答えるよりも先に、この暴走する先輩をどうにかしないといけない。 「あの、シオンさん、そろそろ授業も始まるし、倉科さんも困ってるじゃ……」 ひとまず間に入ろうとするも、先輩の勢いは止むことを知らない。 誰か別方向から、止めてくれないものかな……。 「朝から賑やかねー、いったい何を騒いでるの?」 「あ、いいところに来たよ委員長、ちょっとこの先輩がだな」 「先輩?」 青柳はシオンさんの方を見ると、 「あ、紫苑兄ちゃん」 「おう、窓果じゃないか!」 「きょ、兄妹?!」 「そだよ。青柳紫苑、うちの兄ちゃん」 まさかの展開すぎる。 しかし、名字とばかり思ってたけど、名前だったのか、このマッスルな先輩は。 「とりあえず兄ちゃん、時間だからそろそろ教室に戻って」 「お、そうか。じゃあオレはひとまず戻るが、また来るぞ、二人とも!」 不穏極まりない予告を残し、先輩は去っていったのだった。 「そっか、名前聞いてなかったけど、兄ちゃんが言ってた超有望な新人って、明日香ちゃんと日向くんだったんだねー」 「……そんな風に言ってたのか、家で」 「うん、久々にテンション上がりまくってた。あ、先生来たから、また後でね」 「ん、ああ……」 「今日もみんな変わりはないみたいだな。それじゃホームルームを始める」 いつもと同じく、先生は朝の日課を始めた。 で、休み時間。 「窓果ちゃんのお兄さんだったんですね」 「うん、びっくりした。意外すぎるにも程がある」 「名前のイメージとギャップあるし、何よりわたしとあんまし似てないもんね」 当然のごとく、話題は『お兄ちゃん』のことで持ちきりとなった。 「ん〜? 誰か来てたの? 朝? 夜?」 「いいから寝てろ。まだ昼前だぞ」 「は〜い」 低血圧の面白がり女子には退場願った。 このタイミングで絡んできても面倒くさいだけだ。 「でも、どうしてあんなに一生懸命になって勧誘してたんでしょうか」 「それはね、うちのフライングサーカス部、部員が少なすぎて同好会になっちゃったから」 「ああ……そうなのか」 入学した時のオリエンテーションで聞いた覚えがある。 部員数が一定に達しない、もしくは減少してそうなってしまった部は、同好会に格下げされる。 当然、部室もなければ顧問もいなくなる。部費もないので、強化もできない。 「だから、なんとしてでも自分以外の部員を入れて、もう一度部にしたいって思ってるみたいだね」 「そうなんだ……」 ちょっと同情してしまう状況ではあった。 (でもな……) こちらにも、事情はあるんだ。 「というわけで、決めてくれたか、倉科に日向!」 かくして、予告通りに先輩は再びやってきた。 放課後、ホームルーム終了の30秒後にはすでに俺たちの元に到達していた。 「先輩たちがやめてしまい、オレだけになってしまったフライングサーカス部だが、君たちが入ってくれれば再興は十分に可能だ! どうだね!」 昼飯と気合を同時に食べたらこうなるという感じで、みなぎる気力を前面に押し出してくる先輩。 当然、押し出されているこちらは押され気味だ。 「そ、そうなんですね。では、わたしもここはひとつ真剣に……、え、ええっと」 倉科さんは答えながらも、チラチラとこちらの方を見てくる。 ……俺のことも含めての勧誘だし、気になるのはわかる。このまま放っておくのもかわいそうだ。 (仕方ない、俺から話すか) スウッと息を軽く吸って、 「先輩」 「ん、なんだ日向、質問ならいつでも受け付け……」 「申し訳ありません、俺は部活には入らないです」 「……えっ?」 「……すみません、失礼します」 「え、いや、あの、日向?」 「あ、あのっ、日向さん?」 「ん……?」 「その……本当に、入らないんですか、フライングサーカス部」 「うん……悪いけど、俺はちょっと、そういう気になれないんだ」 「でも、日向さんはフライングサーカスにすごく詳しいみたいでしたし、飛ぶのも上手だし、佐藤院さんとの試合の時だって」 なおも話そうとする倉科さんの言葉を遮るように、 「ごめん」 短く言葉を挟み、俺はその場を後にした。 「日向さん……」 「はあ……」 その日は食欲も湧かず、軽めに夕食を済ませた後はずっとベッドの上でごろごろしていた。 天井を見ながら考えることは、当然のように今日の出来事で。 「部活、やってないとこをわざわざ選んだのにな」 よっ、と勢いをつけ、寝転がった状態から立ち上がる。 「ああもう、ちょっと片付けてないとすぐこれだ」 棚の引き出しを開くと、あれこれとガラクタが山のように出てきた。 一度使ったきりの野球のボールや、使わなくなった携帯ゲーム機。 「なんで取ってあるんだこれは……」 こういうのは、どうでもいいものに限って、すぐ見つかる場所に置かれるよう仕組まれてるに違いない。 「物持ちが良いんだか悪いんだか」 言いつつ、やっと目的の物へたどり着く。 「あった」 棚の奥、もう長いこと開けていない箱を取り出す。 そして、机の上へと置いた。 「ちょっとホコリっぽい……」 軽く掃除をして、箱を開ける。 「…………」 真っ白のボディに、緑のラインの入った、かつて大流行したモデル。 葵さんの書いたサインと、そして大切な誓いの言葉が。 それぞれ刻まれていた。 「もう、何年になるのかな」 フライングサーカスの試合用シューズ。 あの頃から比べると、性能も大きく向上し、時代遅れのシューズになってしまった。 何より、俺の靴のサイズも変わった。 色んな意味で履けなくなってしまったシューズが、責めるように自分の方を見ているような気がする。 「まさかこんなことになるなんて……」 ひとつ息をついて、シューズを丁寧に箱へとしまった。 明日もまた先輩が来るようなら、今度こそきちんと、お断りをしよう。 それでさすがに諦めてくれるはずだ。 ……ところが。 俺の決意と同じぐらい、いや、もしかしたらそれ以上に。 先輩の執念は、恐るべきものだったと、俺は思い知ることになったのである。 「日向、どうだ! 昨日から心境に変化は無いか!」 案の定、先輩は翌日もやって来た。 「だから、昨日言った通りです。俺は入部しません。それは変わりませんから」 というわけで、こちらも昨日決めた通り、心変わりなど無い旨を述べる。 「ぐぬぅ……」 先輩は目をつぶり、呻き声を上げると、 「わかった!」 「わかってくれましたか」 「君はあれか、諸葛孔明か!」 「……えっ?」 「オレの情熱を試しているということだな、確かにそうだ、一度や二度ぐらいで揺らぐと思っていたオレが甘かったんだ!」 青柳先輩は力強くうなずく。 「わかった、君のその挑戦、受けて立とうじゃないか! この青柳紫苑、三顧でも九顧でも礼を尽くそう!」 「あのね先輩、そうじゃないんです、一言も俺はそんなことを」 「うおおおお、ではまた来週も来るぞ、オレの情熱、受け止めてくれ!!!」 俺の言葉に一切耳を貸そうともせず、先輩は凄い勢いで教室を出て行ってしまったのだった。 「……あの、俺の話は」 「…………」 そして。 この日から、先輩は恐るべき行動に出たのである。 「頼む! 入部してくれないか!」 「だめです!!」 「この通りだ、土下座でも何でもする!!」 「本当に廊下で土下座始めないでください! 人の目ってものがあるでしょう!!」 「何なら君が部長でもいいから!! オレは甘んじて平部員になろうじゃないか!」 「誰もそんなこと要求していませんから!! あと空飛んで追いかけてこないでください!」 「いったい何が望みなんだ! 金か、それとも地位か?!」 「今この瞬間の望みは、休みの日にまで家に押しかけてこないことですよ!!」 先輩の執念はハンパじゃなかった。 というわけで都合一週間、九顧どころか二十五顧ぐらいの礼を受けた俺は、すっかり疲れてしまったのだった。 「ほーら真白、あたしの事が好きだったらがんばって捕まえてごらんなさーい」 「わー、みさき先輩は大好きなのにわたしが飛ぶの下手なせいで捕まえられないこの切ない状況〜!!」 翌週月曜日。 なんとか先輩の来襲を振り切った後、俺は定例となった倉科さんの飛び方講習を行っていた。 「よっ……はっ、んわっ!」 倉科さんの動きは次第に向上していた。 ……が、あの野試合で見せたような、鋭い動きを考えると、どうにも安定にはほど遠かった。 「また見たいな……」 自分で言いつつ、慌てて首を振る。 「何言ってんだ、俺は」 先輩の攻勢により、ここ何日かは、フライングサーカスのことを考える機会が多くなっていた。 もちろん、だからと言って入部するつもりは更々無いのだけど。 どうしても、こうして飛ぶことに関わっていると、競技として見てしまう自分がいる。 「も、もどってきましたっ」 最後はちょっとヨレヨレになりながらも、倉科さんが俺のところまで戻ってきた。 「お疲れ様。空中での方向転換も慣れてきたし、そろそろ講習もおしまいかな」 「あ、はい……」 「もうこれで、日常生活で飛ぶ分には問題もないはずだよ」 まあ、倉科さんの場合は、もうちょっと飛行が安定して欲しいけど。 そこは競技でやるわけでもなければ、毎日の通学で慣れるだろう。 「おーい、みさきー」 「なーにー?」 「今日の練習終わるぞー」 「はーいーちょっとまってー」 緊張感の欠片もないクラスメイトに声をかけ、この日の講習は終了したのだった。 そろそろ先生に報告をして、初心者講習も終わりに…… 「あの、日向さん」 「ん?」 倉科さんにその事を伝えようとした時、彼女の方から、声をかけられた。 「やっぱり、入部する気はないんですか?」 「……うん、ないよ」 「本当に?」 やけに、倉科さんが食いついてきた。 「あ、ああ。さっき先輩にも言ってたのを聞いてただろ?」 「き、聞いていましたけど……、それでも、本心は別なのかもな、とか」 「ないよ。本心も同じ。その気はない……って、うわっ!」 倉科さんは急に顔を寄せてくると、 「ほんっとうに、ほんっっっとうに、入部する気は、無いんですか?」 「な、ないって言ってるじゃないか」 勢いに一瞬押されかけるも、同じ答えを返した俺。 倉科さんはそれでもなお、寄せた顔をそのままにこちらを見つめていたが、 「……わかりました」 やがて静かにつぶやくと、身体を引いたのだった。 「あ、ああ……」 ほんの少し、ムッとしてたようにも見えたけど、まあ気のせいだよな……。 ちょっと素っ気なかった気もするから、明日にでも謝っておこう。 しかし、その微かな表情の変化が、翌日に大きな出来事につながるのを…… その時の俺は、知るよしもなかったのである。 「入ります! フライングサーカス部!!」 「まじで!?」 思わず、先輩よりも先に叫んでしまった。 「うおおおお、マジか、やった! やってやったぜ、ありがとう倉科!!」 「はい部長、よろしくお願いします!」 「まじ……なんだね」 昨日見せた顔は、やはり何かを悟った顔だったのだ。 それが、入部をしない俺に対する苛立ちからなのか、それとも部活をやりたい思いからなのかは知らないけれど。 事実として、彼女は部活に入ってしまった。 「よし、では今日から早速部活を開始するぞ!」 「はい!!」 (チラッ) (チラッ) 明らかに期待を込めた、わざとらしい視線を向けられた。 「…………」 (プイッ) あからさまな攻撃から目をそらし、俺は席を立って廊下へと出た。 (いったい何なんだよ、もう……) 人の気も知らずに、と、ついつぶやいてしまう。 もう終わった事なんだから、そっとしておいて欲しいんだ。 「見てたよ」 「見てました」 「……何をだよ」 わかってはいるものの、わざと聞き返す。 「なんか楽しげなことに巻き込まれてたけど、あれ何だったの?」 「あれのどこが楽しかったように見えたのか、むしろおまえに聞きたい」 こいつの性格からすると、面白そうに見えるのだろうが。 少なくとも俺には面白くはない。 「倉科先輩、入部しちゃいましたね」 「ぐっ……」 「フライングサーカス、実はあたしもちょっとだけ興味持ってるんだ」 「えー、そうなんですか?」 「みさきがメシ以外に興味持つなんて珍しいな」 「ふっふーん、そんな嫌味を言ってていいのかな、あたしも真白も、いつまでここにいるかわかんないんだよ」 「ま、まさかおまえ……!」 みさきは俺が立ち上がったのを見計らったように、懐から何か紙を取り出し、ピラピラと振った。 「はーい真白、この紙の一番上のとこ、ちょっと朗読してみようか」 「はぁい、えっと、最初が『入』、次が『部』、最後が『届』って書いてます」 「……そういうことか」 何のことはない、二人もフライングサーカス部に入部する気だったのだ。 「で、あたしたちはこれから部活なんだけど、男子の部員が部長しかいないんで、誰かいないかな〜って来たわけなんだ」 「あれ、こんな所に男子がいますよ、みさき先輩」 「そーだねえ、運動神経抜群でスポーツ全般が得意で、きっと彼ならこの部活に向いてるだろうなあ……」 「……ちょっと外に出てくる」 「あらあら……」 「いつでも待ってますよー、日向センパーイ」 「あら、どうしたの? 地面を這うようなレベルで浮かない顔して」 「そんなに浮かばれないのか、俺は」 「なんかごめんね、兄ちゃんが盛り上がったせいで大変なことになっちゃったみたいで」 「まったくだよ……って、青柳はどこかに行くとこなのか?」 見ると、何やら荷物を入れたカバンを手に、校門の方へ向かう様子だった。 「え、ええ……まあ、そんなとこ」 妙に歯切れの悪い答えを返す青柳。 「行く場所は……聞いてもいいのか?」 「それはほら、わたしが青柳紫苑の妹だって時点で、ちょっと察してもらえるとうれしいんだけどな」 「やっぱりか」 「まあね。部もあと一人で成立するみたいだし、マネージャーでもやろうかなって」 ……なんてことだ。 クラスでよく話してる連中が、これでほとんど部に入ってしまった。 「それとさ、兄ちゃんから頼まれちゃったから、一応、わたしも言っておくけど……」 「日向くんが入ってくれるの、わたしからもお願いしておくよ」 「聞くだけは聞いておく……」 「あはは、でも、来て欲しいって思ってるのはわたしの気持ちでもあるよ」 「そうなのか?」 「だって、メンバー見る限り楽しそうじゃん。楽しそうなら、やった方がいいよ」 ……楽しそう、か。 「というわけでごめん、兄ちゃんから呼ばれてるから、もう行くね」 「ああ……」 受け答えなのか、嘆きの言葉なのか、微妙に両方を兼ねた一言で、青柳を見送る。 三顧の礼を受けていたはずの諸葛孔明は、こうして瞬く間に四面楚歌の状況に陥っていたのだった。 そして翌日。 決定的となる事件が、起こった。 「それではホームルームを始める」 「あ、別に重要なことじゃないが、今日から先生はフライングサーカス同好会の顧問になった」 「今まで同好会だったが、これであと一人部員が入れば、晴れて『部』になるわけだな」 「おや、どうした晶也。今にも私に噛み付きそうな顔をして」 「先生、ちょっとあとで職員室に」 「……それ、普通はこっちが言う台詞だろ」 放課後、すぐに職員室に向かった俺は、まっすぐに先生の元を訪れた。 「来たね。まあ入りなさい」 先生は特に狼狽える様子もなく、平然と俺に椅子を勧める。 「早速ですが、どこまで先生の差し金なんですか?」 「穏やかじゃないね。何のことだ」 「予期しない野試合、突然の勧誘、そして極めつけは先生の顧問就任です」 「何かシナリオでもあったかのようだな」 「先生!」 「すべて私の仕業だった……とは、さすがに穿ち過ぎじゃないか?」 先生が少しだけ怒った表情を見せた。 「……っ、すみません」 慌てて謝罪をする。 先生はそんな俺を見て笑うと、 「まあ、私が晶也の立場でもそう思うだろうな。事態は偶然にも、私の願望通りに進んでいる」 「……そうですね」 「……でも残念ながら、これは本当に偶然だ。おまえがこの状況をどう判断するかは自由だが、私が何も噛んでいないことだけは言っておくぞ」 先生は、自ら仕組んでいた時は正直に話すだろう。隠し事のない人だからこそ、俺だって信頼してきた。 なので今回のことは本当に偶然で、だからこそ、何かの巡り合わせじゃないかと、思う事だって出来る。 だけど、それでも。 「あの、やっぱり俺は」 「……わかっている。そう簡単に月日が埋められるなら、私だってもっと強引な手に出ているさ」 先生は肩をすくめると、 「ほら、ちょっと見てみなさい」 窓の方を指差した。 見てみると、そこではフライングサーカス部の練習が行われようとしていた。 部長の青柳先輩を前に、倉科さん、みさき、有坂の三人が、神妙な顔で話を聞いている。 「あの、あれって」 「いいから、見てなさい」 言われるままに、様子を見守ることにする。 「で、ではフライングサーカス部の練習を始める!」 「まずは筋肉をつけるためにウエイトトレーニングだ!」 「えー、腕太くなるのイヤだなあ」 「重いバーベルとか持てないですよお」 「えっと、それも飛ぶ練習に必要なんでしょうか……?」 「た、多分必要だ! お、おそらくは……」 「く、詳しくは顧問の先生が来てからにする!」 「え〜っ」 「え〜っ」 「え〜っ」 「え〜っ」 ……部外者が言うのもなんだが、状況は無茶苦茶であった。 教える側の部長自身、確信を持って教えられないため、一同に不安感だけが広がっている。 「ああ、違うだろ、筋トレなんかするより、基礎体力つけるために走り込むか、反射速度を上げるトレーニングをしないと」 「その方が、身体能力を伸ばすことにもなるし、先々のトレーニングにも役立つ、だよな?」 「……葵さんに、教えてもらいました」 先生は深くうなずく。 「……教えてやってくれないか?」 「えっ……?」 「選手で、とまでは言わない。だから、これまでのように、コーチ役として、彼女たちに教えてやってくれないか」 「コーチ……ですか」 確かに、選手としてと言われるよりは、ずっと心理的な部分での負担は少ない。 でも、競技に関わってしまえば、いやでも内容に向き合ってしまうことにもなる。 そうなれば、古い記憶が次々と蘇る。 「あの子たちは、まだ飛び方すらおぼつかない」 「きちんと飛び方を教えて、楽しく飛ぶことを覚えて、 それからじゃないか」 「……その案内役としては、晶也は適任だと思うんだがな」 「…………」 様々な思いが、頭の中を巡る。 相変わらず複雑に入り組んではいたものの、そこには、さっきよりもずっと澄んだものがあった。 でも、そこで即答はできなかった。 あの時、空からいなくなることを望んだ気持ちは、そう簡単に拭えないのだと思って。 だから、一言だけ。 「……考えてみます」 断ることもなく、肯定もせず。 こちらをまっすぐに見つめる先生に、『態度保留』の返答を示したのだった。 「ああ」 先生は怒るでもなく、笑うでもなく。 妙に優しげな視線で、俺の言葉を受け取った。 先生が軽く手を挙げる。話が終わったのだと悟り、俺は深々と礼をした。 職員室の扉をゆっくりと開いて、振り返り、再び軽く礼をして。 そして、静かにそれを閉じる。 「……ふう」 音が遮断され、空気が軽くなった。 扉の側の柱に寄りかかり、ため込んでいた息を吐き出した。 こうなることに、なっていたんだろうか。 あれだけ避けて通っていたはずの、もうなるべく見ないようにしようと思っていた、空に。 だけど今こうして、誘いの手は向こうからやってきている。 『そろそろいいだろう?』とでも言うように。 「……まあ、いつまでグジグジ言ってんだって言われても仕方ないよな」 足下を見つめる。 見慣れている上履きのはずなのに、そこに何もないのが、とても不自然に見えた。 幼い頃にもらったはずの翼は、今はくすんで、見えなくなっていた。 「……ごめんな」 誰ともなく呟いた言葉は、誰に向けて言った言葉だったのか。 「あっ……日向さん」 声が聞こえて。 そちらの方を、向いた。 「ここに、いらっしゃったんですね」 ちょっと息を切らせつつ、嬉しそうな声で、言う。 「練習、してたんじゃなかったの?」 俺の疑問に、倉科さんは。 「はい。でも、ちょっと用事があって、それで走ってきたんです」 「用事って……誰に?」 どくん、と、心臓が鳴った。 その次に来る言葉を、なんとなく自然に、予想していたから。 「はい、あの……」 倉科さんが、こちらの様子を窺うような、それでいて強い視線を以て口を開く。 「フライングサーカス、わたしに教えてください」 ああ、やっぱりだ。 予想というより確信に近かった言葉は、そのまま、倉科さんの口から出てきた。 しっかりとした、強い一言で。 「ごめんなさい、図々しいお願いで」 「その、日向さんにちょっと事情があったのとか、理由があったのは、なんとなく察したんですけど……」 「それでも、わたしは日向さんに、この競技を教えてもらいたいんです」 閉じようとしていた記憶が、また開こうとするぐらいに。 強くてまっすぐな視線が、俺を射貫く。 「どうして……」 「え……?」 「どうして、そんなに俺に教えて欲しいって思うんだ?」 「別に俺以外にだって、教えてもらえるんじゃないのか?」 「……それは、ですね」 俺の問いに、倉科さんは笑顔を向けて、 「日向さんは、わたしに飛ぶことの楽しさを、教えてくれた人だからです」 「だから、もっともっと楽しく飛ぶために、もっともっと教えて欲しいんです」 「それが、理由です」 「あ……」 その、言葉で。 開きかけていた扉が、静かに開いた。 「おねえちゃん、おれに飛び方を教えてよ」 「教えてるじゃないか、こうやって」 「そうじゃなくて、その……。フライングサーカス、教えて欲しいんだ」 「へえ……それはまた。……どうして、私なんだ?」 「だって、おねえちゃんは、おれが飛ぶきっかけになったひとだから」 「……ぷっ」 「あはははっ、ははははっ……」 「な、なんで笑うのっ……!」 「ごめんごめん、晶也がいきなり真面目ぶった顔で言うから、おかしくてな」 「もう……本気なんだよ、おれ」 「……わかってる。すまなかった」 「えっ、それじゃ……」 「ああ。飛び方を教えてやるよ。どこまでも楽しく、飛び回れる方法を、な」 「あっ、ありがとうおねえちゃん!」 「じゃあ、教えるにあたって、まずはとっておきの言葉を教えてやろう」 「言葉……?」 「ああ。つらいことがあっても、悲しいことがあっても、力が湧いてくる言葉だ」 「……すごーい、教えてっ!」 「よーく聞くんだぞ……」 ――空を飛ぶのが楽しくて仕方なかった。 だから、飛ぶことをもっと極められる、あのスポーツに、夢中になった。 夢はやがて破れ、俺は俯瞰して空を見るようになったけど、 その楽しさを、俺のエゴで潰しちゃいけない。 「…………」 すうっ、と息をひとつ吸って、吐いた。 倉科さんの目を見つめて、言う。 「わかった。やるよ、君のコーチを」 答えた瞬間。 「本当ですかっ……!」 倉科さんの表情が、笑顔から満面の笑みへとレベルアップした。 「あ、ありがとうございますっ。嬉しいです、すごく!」 きっと、今彼女がグラシュを履いていたら、そのまま飛んで回るぐらいだっただろう。 それほどに、嬉しそうな様子だった。 「それじゃ、早速だけど」 「はいっ、なんでしょうか、コーチ」 「さっきの練習、あれをひとまずやめさせよう」 「えっ?」 「あんな練習続けてたら、部員全員揃ってマッチョになるぞ」 「え、そ、それはちょっと困ります。なるなら各務先生みたいな感じが」 「それはまあ別の意味で……。いや、まあとにかく止めよう、早く」 「はいっ」 倉科さんは走り出そうと階段の方へ足を向け、そしてその直後、再びこちらを向き直ると、 「コーチ」 「ん?」 改めて向き直ると、その長くてきれいな髪をふぁさっと振りかぶって、 「これから、よろしくお願いします」 きちんと、お辞儀をしたのだった。 「ああ、よろしくお願いします」 顔を見合わせて、笑う。 その時の俺の笑顔は、きっと。 この何年かの淀みを取り払った、かなり良い笑顔だったんじゃないかと、思う。 急ぎ、校庭へと走る。 窓枠の影と太陽の光が、交互に顔に当たって、チカチカと点滅するように見える。 その合間には抜けるような青空。 上履きを忙しなく脱いで下駄箱に放り込むと、靴を履く時間も惜しく、みんなの元へと走った。 「んーっ、今日はこの辺にしておくか」 「さて、あいつらはどうしてるかな」 「ん、晶也……? ああ、うん」 「そうか、決めたんだな」 「晶也、おかえ……」 「……いや、まだ言うべきじゃないか」 「これからもっと楽しくなって、然るべき時が来たら、言うことにするよ」 「なあ、そうだろ……?」 「第1話END」 「はあっ、はあっ、ちょっと」 職員室からダッシュで外に出て、皆のいるグラウンドへ駆け寄った。 声をかけると、皆一斉にこちらを振り向く。 「あれ? 日向くんだ。明日香ちゃんも戻ってきた」 「あら、晶也さん。真面目な顔をしてどうしたんですかー?」 「一見、真面目な顔ですけど、照れを隠している雰囲気もありますね?」 「照れか……。んふふふっ。きっと恥ずかしいことを言うつもりなんだろうね」 「んふふふふっ。言うつもりなんでしょうねー」 「っさいな、もう」 わかった上で突いてくる女子二人の横を抜ける。 そして、部長の前に立つ。 「おお、日向か。いや、皆まで言うな。オレには全部わかっている」 俺に近づいてきた紫苑さんが、うんうん、と深くうなずく。 「長い時を経て、ようやく俺の真心が通じた……。そう理解していいな?」 「……そんなに長い時じゃないですし、あと願いを強くする前にするべきことがあるんじゃないですか?」 「──するべきこと? うむっ……謎解きか。つまり、ここで俺が気の利いたことを言って、君の心を鷲掴みにすればいい、そういうことだな?」 どうしてそういう発想になるんだ? 「そうじゃなくてですね」 「我ら生まれた日は違えども、同日に死ぬ事を願わん!」 「人の話を聞いてください。義兄弟の契りを結ぶつもりはありません」 三顧の礼とか言ってたし、この先輩、三国志が好きなのか? 「そうじゃなくて……。見てましたけど練習方法が変ですって。いきなり筋トレとか、おかしいじゃありませんか」 「そ、そうか?」 「そうですよ!」 紫苑さんはぐぐっと、ボディービルダーみたいなポージングを決めて、 「何はなくともまずは筋肉だろ! 筋肉は無敵だ! 最強だっ!」 「偏った思想をみんなに押し付けちゃダメです。確かに綺麗な飛行姿勢をとるのに筋肉は必要ですし、体のブレが少なくなるからスピードアップするかもしれません」 「ほら、やはり筋肉が……」 「でも! それよりも、体幹や反射速度を上げるトレーニングを優先するべきです。特に初心者はそこからやらないと!」 「そ、そうなのか?」 「そうですよ。初心者は正しい飛行姿勢を身につけるところからはじめないと。その前に筋肉をつけたら、変な姿勢で固まるかもしれません」 「ふむふむ」 俺と紫苑さんの間に、にゅっ、とみさきが割って入った。 「晶也ってFCに詳しいんだねー。部長の指導が悪いってことをわざわざ忠告しに来てくれたの?」 きししし、と、アニメで魔女が笑う時みたいに手のひらを口に当ててニヤニヤしている。 「きっと、それだけじゃないんじゃないかと、私は思いますよ?」 ……ぐっ。 有坂め、いい感じに追い込んでくれるな。 「日向さん、ほら、言いましょうっ」 倉科さんの顔が迫ってくる。 「俺はただ、その……」 「えっと……。入部届けの用紙なら持ってるけど?」 「いや、あのな……」 「あー、もう。ダメダメ! 窓果ったら単刀直入に言っちゃうんだから。もっと晶也をからかって遊べる場面なのに」 「そうですよ、そうですよ。もっとこうじわじわとツンデレなとこをこちょこちょできる場面ですよ?」 「私、そういうのって恥ずかしくて背中がむずむずしちゃうんだよね〜」 「あのな!」 「ツンデレなんですか?」 「違う!」 「何が違うんですか?」 「俺はそんなんじゃないって」 「じゃ、どんなんなんですか?」 「ど、どんなのと言われても……。いや、だから、そのだな」 「わーい。晶也も入部だー!」 「これで部員は五人ってことですよね」 「あっ。それって自動的に『部』に昇格ってことだよね、兄ちゃん?」 「言われてみれば! うおおーん! なんてことだ! 俺の熱き心がみんなのFC魂に火をつけた! そういうことだな、君!」 「いや、だからですね……」 「うおお〜〜ん、うおお〜〜ん!」 「ご、号泣しながら顔を近づけないでください」 「ごめんね。兄ちゃんはすぐに感極まる人だから」 「あはっ。あははは。晶也が入部! 入部! 入部! 入部!」 「無意味に俺の周りをぐるぐる回るな」 「入部! 入部! 入部!」 「続くな!」 「入部! 入部! 入部!」 「倉科さんもかよ!?」 二人と同じく、くるくるしていた倉科さんだったが、 「………」 「うわっぷ。急に立ち止まらないでよ」 「………」 俺の正面で立ち止まった倉科さんはぐっと顔を近づけて、 「もう言っちゃいましょうよ、日向さんっ」 「う、うん」 倉科さんの謎の迫力に圧倒されて反射的にうなずいてしまった。 この正直でまっすぐな目に見つめられると、なんか断りにくいというか、YESと言ってしまいそうな気持ちになってしまう。 そういう商売やったら儲かりそうだな……。 「えっと、じゃあ改めて。今日から、入部することにしました日向晶也です。よろしく」 言って、ペコリと頭を下げた。 「やったー!」 ぴょんぴょん、と小さくジャンプする。 みさきは、わざとらしく疲れたように肩を落として、 「はー。最初から素直に入部するって言えばいいのに」 「日向センパイって恥ずかしがり屋さんなんですか?」 「話があるからみんなちょっと黙ってくれ」 「は、はい?」 「……まさかここで入部撤回とかないよね?」 「入部はするけど、選手はやらない」 「選手をしない?」 「では何をするんです?」 「私と一緒にマネージャー?」 「この部員数でマネージャーが二人いても仕方ないだろ。そうじゃなくて、コーチをやろうと思ってるんだ」 俺は紫苑さんに向き直って、 「いいでしょうか? 失礼な言い方になりますけど、紫苑さんよりちゃんと指導できると思います」 「……う〜ん。どうしてもと言うならコーチでもかまわないが、コーチ兼任選手じゃダメなのか?」 俺は眉根に力を入れて真剣な顔を作り、じっと紫苑さんを見据えて、 「………。 ……選手はしたくないんです」 「……うむっ」 納得したように深くうなずく。 そんな気はしていたけど、気合で何かをわかった気になってしまうタイプみたいだ。 「でもさ、そもそも晶也にコーチができるの?」 「できますよ。私、日向さんにFCについて教えてもらいました。それで未経験なのに1ポイント取れたんです!」 「ふ〜ん」 「コーチということは、全員のセコンドもするということだな?」 「部長、質問でーす」 「おう、なんだ!」 「セコンドってのはなんですか? ショートと連携して内野の要になる係ですか?」 「むしろなんで野球のセカンドについてそんなに詳しいの?」 「実況パワードリフトプロ野球で覚えました」 「……で、セコンドってのはだな」 部長の代わりに説明する。 セコンドとはヘッドセットを使って試合中の選手に、指示を出したりアドバイスをしたりする役割だ。 普通のスポーツのフィールドは平面だけど、FCは立体のフィールドだ。360度のどこにだって対戦相手のいる可能性がある。 そのため対戦相手を見失うことが多いのだ。 セコンドのもっとも基本的な役割は、選手が対戦相手を見失わないように指示を出すこと。 セコンドがいなかった初期FCで、対戦相手を見失って一方的な展開に、という試合が続出したため、認められるようになったのだ。 「というわけでさっきの質問の答えですが、セコンドも兼ねてやろうと思ってます」 「日向センパイがコーチでセコンドですか」 「いきなり信用してくれとは言わないし、最初からうまく指導できるとは思ってないよ。だけど俺なりにちゃんとやるつもりだ」 「いえいえ、反対だって言いたいわけじゃなくて、似合ってるな、と思っただけですよ」 「そうそう。晶也はそういうの好きそうだし。困ってる人を放っておけないタイプというか」 「別にそんなんじゃないって」 「でもどうしてそんなに選手をしたくないんですか?」 「……………。 ……………」 「あ、うわ。そんな風に黙らないでくださいよ。聞いちゃいけないことでしたか? もしそうならごめんなさい」 ペコリと頭を下げる。 「いや、そういうのじゃなくて……」 みさきはなんでもないことを聞く感じで、 「怪我でもしたの? 選手生命が絶たれる的な?」 どんなスポーツでもそうだけど、怪我で選手生命を絶たれる、ということはFCでもよくあることだ。 だけど、俺の場合はそういうことじゃなくて……。 「違うよ。ただ、昔……。選手としての限界を感じたことがあって、それだけのことだよ」 「日向さん……」 みさきは軽く肩をすくめて、 「晶也がそれだけのことって言うならそれだけのことなんでしょ? 晶也がコーチに賛成。部長の指導に従ってたら、全身が筋肉でバキバキになっちゃいそうだしね」 「私だって、勿論、大賛成です!」 「私も〜」 「うむっ。では日向晶也君! コーチ兼セコンドとしてよろしく頼む!」 「こちらこそ、よろしくお願いします」 「わ〜い! 楽しくなりそうですねっ!」 「でも、晶也がサディステックな鬼コーチだったらどうしよう」 「うわっ。ちょっとありそうで怖いです」 「そんな心配しなくてもいいし、ちょっともありそうじゃない」 「私はそういうのもいいと思いますっ!」 「おおっ。明日香からの大胆な告白だー」 「ちょ、ちょっと叩かれるくらいなら我慢しますっ!」 「絶対にそんなことしないから、そういうことは想定してなくていい」 「ビシバシよろしくお願いします、コーチ!」 「いや、だから……。あー、もういいや。コーチをさせてもらうことになったから、みんなのことは下の名前で呼ばせてもらうからな」 「どうしてです?」 「苗字だと距離感があるだろ? セコンドをしている時に、そういう距離感が邪魔になることあるからさ」 FCは集中力を必要とするスポーツだ。つまりメンタルの差で勝敗が決まることも多い。 「じゃ、日向さんは私のこと明日香って呼ぶんですか?」 「そう。明日香も俺のこと下の名前で呼んでくれ」 「は、はひ! わ、わかりました!」 「下の名前ってあたし達は今まで通りってことじゃない。それもつまんないなー。……みさにゃんって呼んでもいいよ? まさにゃん」 「やめろ」 「ましろにゃん、ましにゃん……。どうしましょう。どっちも語呂が悪いです」 「しろにゃんでいいんじゃない?」 「それです!」 「それじゃない。普通に下の名前で呼ぶだけだ」 「ふむ。ということは、俺のことは紫苑と」 「いえ、紫苑さんのことは部長と呼ばせていただきます」 紫苑、と呼ぶのはいろんな意味で違和感がありすぎるし、先輩を呼び捨てにするのは抵抗がある。逆に関係がギクシャクしてしまいそうだ。 「じゃ、さっそく部活をはじめるぞ」 「がんばります!!」 「まっ、楽しくやろうよ」 「やりましょうっ!」 「他校にいないもの扱いされ続けてきた屈辱を晴らす時が来たっ! 上腕二頭筋および三頭筋がびりびりと疼くぞ。今すぐにでも走り出したいっ!」 「FC部なんだから、せめて飛んでください。というわけで部としての体裁は整ったわけだけど……」 「はー。今日はもう何かを成し遂げた、って気分だね。お祝いに何か食べに行かないと!」 「はい! 甘い物がいいと思います」 「確かに。でも甘い物の前にしょっぱい物も食べたいなー。ポテトを食べてからアイスを食べるとより甘さが引き立つし、雑煮のあとにお汁粉を食べるのもいいよね」 「さすがみさき先輩。いいこと言います。賛成です」 「賛成しちゃダメだ。お祝いはあとからだ。指導やアドバイスや練習メニューを組むには、みんなに教えておくことや、俺が知っておくことがあるからな」 「晶也は真面目なんだからな〜」 「真面目いいと思います! 私、FCを真面目にやってみたいです!」 「おお〜、やる気だね。はりきっちゃって初々しいね〜」 「最初の練習なんだからみさきも初々しく張り切れよ。で、部長以外でFCの経験のある人は?」 「私はありません。見たことはありますけど……」 「私は一回だけです」 「は〜い。私、やったことあるよー」 「そうなのか?」 「こっちに引っ越して来る前にちょっとね〜」 「みさき先輩スポーツならなんでもできますから、期待していいと思いますよ。期待の新戦力です!」 「確かにみさきは何でもできるもんな」 努力しなくてもスポーツも勉強もできちゃうヤツだ。憎らしい。 「タイプはどれでやってたんだ?」 「ん〜。どのタイプでもやってたし、どれでもできると思うけど……」 「そんなすごいことを平然と言うな」 「だって〜、できるんだからしょうがないもん」 「じゃあ質問を変える。どのタイプを一番やりたいんだ?」 「えーっと……。プレイするならファイターがいいかな。逃げ回るよりバチバチやるのが好きだからさ」 「部長はスピーダーでしたよね?」 部長は、ぐぐっとボディビルダーみたいなポーズをとって、 「当然! 生粋のスピーダーだ。スピードを追い求めるのが男の生き様! 俺が求めるのは得点ではなくスピード!」 「得点を求めてください。スピードだけ追い求めるなら、別のスポーツをやったほうがよくないですか?」 「勝ち負けよりもはるか高きにあるバニシングポイント! つまり消失点を目指して高速で飛び続けるのが、男のロマンっ!」 「いや、だから別の種目をやった方がよくないですか?」 とは言ってもグラシュを使ったスポーツは、FCくらいしかないんだけど。 一応、短距離走や長距離走もあるらしいんだけど、まったく盛り上がってない。 アメリカ大陸横断とかの超長距離レースは一部で人気だけど、あれはスポーツというより冒険だからな。 スーパーフライという、最低でも100マイル、つまり160キロ以上の距離を飛び続ける過酷なレースもあるけど日本ではまだ開催されていない。 明日香がヒュッと手を挙げて、 「はい、コーチ! 質問です! ファイターとスピーダーって何ですか?」 「選手のタイプのこと。3種類あってファイター、オールラウンダー、スピーダー」 「タイプ、ですか……」 「まずファイターは対戦相手を攻撃して得点を狙うタイプ」 「得点って背中をポンとタッチすることですよね?」 「そう。1回背中にふれると1点。逆に相手の背中を狙わずに、四方にあるブイのタッチで得点を狙うタイプがスピーダー」 「ブイってあの空中に浮いているのですよね?」 明日香はフェンスの向こうに広がる海の上に浮いている練習用のブイを見上げた。 「日本語では浮いている標識と書いて浮標とも書くけど、普通はブイって呼ぶんだ。あれも反重力で浮いてる。ブイに相手より先にタッチしても1点」 「──つまり、相手の背中とブイにふれることで点数が入るんですね」 「そういうこと。で、両方を狙うのがオールラウンダー」 「私はどのタイプでしょうか?」 「どれがあっているかは練習してみないとわからないから、まずは両方できるオールラウンダーから始めようか。その前にルールを把握してもらわないとな」 「ルールですか……」 「細かいルールを知る前に部長とみさきで模擬試合をしてもらうってことで。それを見ながら説明するから。試合用のグラシュは……」 「さっき部の備品を見てきたんだ。一応、卒業していった先輩が残していったのが、そこのダンボール箱に何足か入ってるよ」 窓果の指差した箱を覗き込む。 「結構、古いな……。部長のグラシュは自分のですよね?」 「おう! バリバリきつめにスピーダー調整してある、インべイドのバルムンクだ」 「凄いの履いてますね」 インべイドとはアメリカのグラシュメーカー。普通のグラシュも作ってるけど、俺の印象では極端なのも多く作っている。 バルムンクは超スピーダー専用の、他に応用の利かないグラシュだ。 「バルムンクをきつめにスピーダー調整って、それって曲がることできるんですか?」 スピードは出るだろうけど、柔軟な動きはほぼ不可能なんじゃないだろうか? 「そのための筋肉だ!」 物凄く特殊なスタイルでFCをやっているみたいだ。明らかに指導者向きじゃないな。 「みさき、靴のサイズは?」 「24だよー」 「え〜っと……。24はないな」 「いいよ、いいよ。模擬試合でしょ? それなら普通の靴でオッケーでしょ」 「ん〜……。ま、そうだな。明日にでも各務先生から部費を奪って、試合用のグラシュを買いに行くか」 「部費が出るんだ?」 「部なんだから出るだろ」 下心があるんだろうけど、各務先生はやる気みたいだから、グラシュを買うお金くらいはどうにかしてくれると思う。 「それじゃ、模擬試合をお願いします」 「よっしゃ、まかせとけ!」 「よーし。やるぞ〜」 「がんばれ〜、みさき先輩」 「ふふ〜ん。声援に応えちゃおうかな」 「……………」 「……捨てられた仔犬みたいな顔で私を見ても応援しないよ?」 「なんでだ?!」 「兄を応援する妹なんて気持ち悪いよ」 「気持ち悪くない! よく聞け。兄を想う妹の心というのは、決して気持ち悪いものではないんだぞ」 「そういう言い方が気持ち悪いの。もう、しょうがないなー。はいはい、がんばってねお兄ちゃーん」 「よーし! 兄の威厳と部長の尊厳をかけてやったるぜ!」 「私の愛を受け取ったみさき先輩が負けるわけありません」 「愛まで受け取った覚えはないけどな〜。でも勝つぞー」 「勝敗は関係ない。ルールを教えるための模擬試合だからな? 最初はスピーダー勝利のパターンを教えたいから、そうなるようにやってくれ」 「つまり私がわざと負ければいいわけ?」 「それっぽく負けてくれ。2人のヘッドセットに、俺の声が聞こえるように設定するから、それに従うように」 「了解、と」 みさきは寝起きの猫みたいに、う〜ん、と背伸びをして、 「じゃ、部長、はじめましょうか」 「よしっ! やるか」 踵を上げた部長が、 「気合だ! 気合だ! 気合だ!」 そう叫ぶと同時にグラシュが起動する。 「……凄い起動キーですね」 「ほんっと恥ずかしい、恥ずかしい恥ずかしい」 「じゃ、私も。とぶにゃん!」 みさきのグラシュが起動する。 「対してこっちは脱力する起動キーだな」 「可愛いほうがいいじゃない?」 「そうですよ。可愛いは正義という名言だってあるんですから!」 「可愛いっていうか、飛ぶ前に落ちそうになるけどな」 「はい、質問です! 部長のグラシュの踵から出ている綺麗なのは何ですか?」 「ああ、その光のことか。それは競技用のグラシュを履いた時に出る、コントレイルってやつだ」 「こん……なんですか?」 「コントレイル。日本語だと飛行機雲だ。競技用のグラシュから出るようになってる」 反重力子の極一部を特殊な間合いで空気に触れ合わせると、光をプリズムに当てたのと似た状態になる。 つまり光が屈折したり分散したり反射したりする。それを利用して作り出したものだ。 「でも、普段履いているものでは出ない光が、どうして競技用だと出るんですか?」 もっともな質問だ。 「フライングサーカスは上空で行われるから、地上で観てる人に、選手がどこにいるのかわかりやすく説明する必要があるんだ」 「なるほど〜。確かに見やすいですし、カッコイイですもんね」 「普通のグラシュでも設定すれば出せるんだけど、日常生活じゃ必要ないからな」 「じゃ、2人ともファーストについて」 「は〜い」 飛び上がった二人がグラウンドの高いフェンスを越える。 フェンスの先から数メートルで断崖絶壁の崖になっていて、その先は海だ。 FCは空中でするスポーツだからどこでもできる。そのためこの海に面した場所の多いこの島では、海上ですることが多いのだ。 一応、落下した時に地上よりは安心、というのもあるけど、今のグラシュはかなり厳格な基準のセーフティがついてるので、落下して怪我をするってことはまずない。 「はい、質問です! ファーストってなんですか?」 「ブイの名前。空中に4つブイがあるだろ。スタートするブイがファースト。そこから時計回りに、セカンド、サード、フォース。単純な名前だろ?」 「はい。わかりやすいです」 「ファーストとセカンドを結ぶ線がファーストライン。セカンドとサードを結んだ線がセカンドライン。同じように、サードライン、フォースライン。この四角がフィールド」 「空中の正方形で試合をするわけですね?」 「そういうこと。説明しなくてもわかると思うけど、正方形を時計回りにぐるぐる移動するスポーツなんだ」 「ということはファーストからセカンドを目指して、サード、フォースときて……」 「フォースの次はファースト。制限時間まで回り続けるんだ。試合展開によっては止まってもいいし、ラインの中なら前後に進んでもいいけど、後ろのラインに移動するのは反則」 「……ファーストラインから、フォースラインに移動しちゃダメです、ということですね」 「そういうこと」 みさきと部長がファーストについたのを確認して、 「俺が合図したらはじめてください。確認しておきますけど最初はスピーダー勝利のパターンで」 「まかせとけ」 「オッケー」 2人が空中で静止してるのを確認して、 「じゃ、いきますよ。スタート」 「おっしゃ!」 掛け声と同時に部長が前傾姿勢になり、ファーストラインに沿って、セカンドへと飛んでいく。 「スタート直後のファーストラインのみはタッチ禁止で、純粋にスピード勝負するのがルール。セカンドに先にタッチした方が1点」 「どうしてタッチ禁止なんですか?」 「最高速はスピーダーの方が上だけど初速はファイターの方が上。同時にスタートしてファイターがスピーダーの頭を抑えたら、その時点で一方的な展開になってしまうかもしれないからだ」 「……一方的な展開。つまりお互いが静止した状態だと、ファイターの方がポイントを取りやすい、ということですか?」 「そういうこと。逆に言うと動き続ける状態だとスピーダーが有利ってことだ」 「あれれ? みさきちゃんがわき道にそれちゃってますけど?」 みさきがふらふらとした飛び方で、四角形のフィールドをショートカットして、セカンドラインの真ん中に向かっている。 「あれは棄権ですか?」 「私が応援してるんですから、みさき先輩は棄権なんかしませんよ」 「みさきは気分次第で棄権とか余裕でしそうだけどな。でもアレは棄権じゃなくてショートカット」 「ショートカットですか」 「ブイへのタッチを放棄することで認められるんだ。そうじゃないと、スピードの速いほうが、ブイをタッチし続ける展開になるからな」 「あっ。そっか……。ぐるぐる回るわけですから、速い人に追いつけなかったらそれで終わりですね。……ううう〜。いろいろと難しいです」 「そんなことないって。スタート直後のラインはタッチ禁止。ブイへのタッチを放棄で次のラインへショートカットできる。この2つのルールさえ覚えておけば後は簡単」 「わかりました。明日までに頭に叩き込んでおきます」 「いや、明日じゃなくて今、叩き込んでくれていいんだぞ。と、そろそろ始まるな」 「とりゃっ!」 「あっ。ブイをさわったから、部長に1点ですね」 「兄ちゃん、がんばれー」 部長が斜めに上昇していく。 「見間違いかもしれませんけど、部長がブイにふれた時、不自然に速くなりませんでしたか?」 「よく見てるな。ブイも反重力で浮いてるだろ? 反重力は重力だけじゃなくて反重力同士でも反発するから、タッチする時に反発を利用して加速するのがセオリーなんだ」 「行くぞっ!」 「どうぞ〜」 上昇した部長が、斜め下に降りていく。インベイドのバルムンクを履いているせいか、やっぱり曲がる時に変な癖があって速度がやや落ちている。 セカンドラインの真ん中あたりにいたみさきが、部長が落下していくポイントにゆっくりと移動する。 「だらっ!」 しかし、その地点に到達する前に、猛スピードで部長がみさきの横を通り過ぎていく。 「ポイントを見誤ってしまったー。スピードに乗っている相手を止めるのはなんて難しいんだー。次のブイへのタッチを放棄して隣のラインへ移動しなくてはー」 「……説明台詞ありがとな」 サードラインでも同じ様に、部長がみさきを振り切ってブイタッチでポイントを取得する。これで3対0だ。 「うわー。スピードに翻弄されて何もできないよー。後手後手になってしまうー」 「わっはははは!」 「わかってきました。スピーダーは待ち構える相手をスピードで振り切って、ポイントをゲットしていくわけですね」 「今の部長はスピードだけで強引に振り切ってるけど試合となったら、フェイントを細かく入れて相手を翻弄する……と思う」 かなり速いけど、待ち構える相手をスピードだけで抜き去るのには限界がある。 「兄ちゃん、真っ直ぐな性格だからフェイントとか下手そう……」 フェイントは卑怯と言いそうだもんな。 「とにかくスピーダーはスピードで試合の主導権を握るんだ」 「わかりました」 「部長、スピードを落としてください。次は逆にファイター勝利のパターンでお願いします。仕切り直しせずにそのまま続けてください」 「わかったぜ」 「了解。バチバチやっちゃうよ〜」 フォースラインの真ん中辺りで、部長を待ち受けるみさきは小さな円を描く。 ──疑っていたわけじゃないけど、サークルを描くってことは、本当に経験者なんだな。 「みさきちゃんは何をしてるんですか?」 「ファイターは初速は速いけど加速が弱いから、ああやって動き続けて少しでも速く動こうとしてるんだ。動いていた方が次の動きへスムーズに移行できるだろ?」 「そうですか?」 「例えば、自転車で坂を登る時、止まってる自転車と動いている自転車だったら、どっちが楽だ?」 「それは動いてる自転車ですね。あっ、みさきちゃんが動いているのはそういうことですか」 「そういうこと。ファイター同士なら止まって待ち構えた方が有利ってこともあるんだけど……と、部長が動き始めたぞ」 「前から急降下でブイを狙うつもりでしょうか?」 「多分、そうなんだろうな」 フェイントもかけずにブイに近づくと、降下ポイントを相手に読まれやすいんだけど、まぁ、模擬試合だからわかりやすさを優先した……のかな? 「とりゃあぁぁ!」 部長が急降下していくポイントに、みさきが入っていく。 「先回りして頭を抑えますよ〜」 文字通り部長の頭を抑えるように両手を伸ばした瞬間、 バチンッ! 放電したかのような音が響いて、 「くっ」 「おっとと」 それぞれ逆方向へと弾けるように5メートルくらい飛ばされた。 「みさき先輩っ! だっ、大丈夫ですか?!」 みさきはすぐに乱れた姿勢を戻して、真白に向かって手を振りながら、 「大丈夫、大丈夫。こんなので驚いてたらFCはできないよー」 「コーチ、今のは?!」 「反重力は重力だけじゃなくて、反重力同士でも反発するんだ。だからぶつかったらああなる」 「みさきちゃんは自分からぶつかりに行きましたよね? 今のは得点になるんですか?」 「部長のスピードを抑えるためにわざとぶつかったんだ。スピーダーは初速が遅い、つまり最初の動きが鈍いから、姿勢が乱れると立ち直りが遅い」 「逆にファイターは初速が速いから立ち直りが早い。だからぶつかるのはファイター有利になる場合が多いんだ。今のは背中じゃないから得点にならないけど……」 「もう1回!」 「うおっ?!」 みさきはもう一度、自分から部長にぶつかりに行く。 「くぅ!」 「ああやって、スピーダーのスピードを殺してから……」 「まずは1点、と」 みさきは素早く背後にくるりと回り、部長の背中に触れる。 「うおっ?!」 みさきの手が部長の背中に触れた瞬間、三角形の黄色く光る物体が空に浮かぶ。 「あれで1点。あの光はポイントフィールドといって、ドッグファイトでポイントを取った際、こうやって現れるんだ」 「佐藤院さんとの対戦でも見ました。さっきのコントレイルと同じで観ている人にわかりやすくするためのものなんですね?」 「そういうこと。競技用グラシュを履くと、こういった点も変わってくるからな」 再び、ばちん、と音が響き、それぞれ逆の方向に飛ばされる。 「ファイターから見ればここからが本番だ」 「ここからがですか?」 「ふれると互いに正反対の方向に離れる。つまり触れることで相手を減速させることができるけど、変なさわり方をすると相手を加速させてしまうこともある」 俺は右の手のひらを左の手のひらで押す。 「こうやって背中を押されたら相手を加速させちゃうだろ?」 「なるほど」 「つまり、部長の立場としては1点を捨ててもいいから、ブイに向かって自分を押し出すようにタッチして欲しい。タッチされた反動を利用して初速の遅さをカバーできるからな」 「なるほど、知能犯ですね」 ……別に犯罪じゃないけどな。 「逆にみさきとしては部長をブイから離すようにタッチしたい。そうやってスピードを落としてしまえば、連続で得点できる」 「そこに駆け引きがあるんですね」 「そういうこと。今回はファイターのみさきが勝つパターンだから──」 「2点目〜」 「ぬおっ?!」 再びみさきは背中に回り、部長の体が水面方向へ跳ぶようにタッチする。 「みさき先輩、かっこいい!」 「えへへ〜」 「部長のスピードが完全に落ちちゃってるだろ? ああなるとスピーダーとしてはかなり苦しい」 「部長はどうすればいいんですか?」 「それはいろいろあるよ。加速できるだけの距離を取るか、押し出してもらうように動くか、不意打ちでみさきの背中を狙うか……」 「えっ? 部長がみさきちゃんの背中を? でも、さっきはスピーダーの人は相手の背中を狙わないって……」 「基本的にはね。スピーダーはバチバチやりあうのに不利だけど、得点差がある時はブイじゃなくて背中を狙うこともある」 「奥が深いです。ブイを狙うか、背中を狙うかで、試合展開が違ってくるんですね」 「今のはスピーダーとファイターだからわかりやすく分かれたけど、オールラウンダー同士だと2人とも両方を狙うからな」 「複雑になりそうです」 「スピーダー同士だとカーレースみたいに、フィールドを回るだけの単純な展開になることもあるし……」 「それはそれで見てみたいです」 「ファイター同士だとセカンドラインから離れずに、時間いっぱい互いの背中を狙い続ける、という展開になることもある」 「はー、同じルールでやっているスポーツなのに、いろんな展開があるんですね」 「──そこがおもしろいとこ、なのかもな……」 FCはおもしろいか……。それを考えるとつい口ごもってしまう。 「……どうかしましたか?」 「いや、どうもしないよ。じゃ、模擬試合はこんなところだな。おーい、そろそろ……」 「4点目〜。イエーイ!」 「ぐおっ?!」 「コラ〜! 調子に乗って部長をいじめるな。模擬試合は終了だ」 みさきは降下しながら斜めにこっちに戻ってくる。 「で、どうだった? 少しは役立ったかな?」 「はい。実際に試合を見て、ますます興味を持ちました!」 「かっこよかったです!」 「はいはい。わかったから抱きつかないように」 「……………」 「兄ちゃん、妹の顔を無言で見つめない方がいいよ? 絶対に抱きついたりとかしないし? えーっと模擬試合としてはよかったんじゃない?」 「まぁ、そういうことだ! これからどんどん頑張っていこうではないか!」 「はい! コーチ、さっそく練習をしましょう。私、飛びたいです!」 「ダメ」 「ダメってどうしてですか?」 「明日香ちゃん、アレだよ。サディステックなコーチの片鱗を見せてるわけだよ」 「あ! なるほど、そういうことでしたか」 「そういうのって……。放置プレイ、というんでしたっけ?」 「変なこと言うな! 日常用と試合用のグラシュは、それなりに違うから。真面目にやるつもりなら変な癖をつけないように普通のグラシュでは練習しない方がいいんだ」 「そういうことでしたか。じゃ、今から買いに行きましょう!」 「でも、今からじゃ帰りが遅くなるだろ。明日、みんなで買いに行こう」 「う〜〜〜〜〜っ」 「ど、どうした明日香?」 「引きつけでも起こしましたか?」 「違います。明日がとっても楽しみなんですっ!」 みんながちょっと引いてしまうくらい、キラキラした目で明日香は言った。 ──もしかしたら。 もしかしたらだけど……。 昔の俺もあんな目を──していたのかもしれない。 「マネージャーから質問がありまーす」 「なに?」 「正式に部になったからには、部室はもらえるのかな?」 「もらえるんじゃないのか?」 「いや、それは無理だ」 「無理なんですか? 部なのに?」 「物理的に無理だ。部室は全て埋まっているんだ。部室待ちの部は多いからな。一度、奪われた部室はそう簡単には返ってこない」 「ん? じゃ、そのグラシュの入ったダンボール箱は?」 「これは外の用具入れのプレハブで発見してきたんだよ」 「では、プレハブ小屋を掃除して部室にしてはどうでしょうか?」 「それは無理じゃないかな〜。他の部も使ってるし、体育の時間に使う用具も入ってるし」 「ん〜。でも部室がないと不便だねー。真面目にやるなら練習用のユニフォームとか着た方がいいしー」 「更衣室は体育館ですから、そこで着替えてこっちまで来るのって微妙に面倒ですしね」 「着替えた方がいいんですか?」 「反重力子を安定させる効果があるから、練習着に着替えないと。安全面を考慮しないといけないし」 「着替えはともかくとして、部を真面目にするなら、備品を置いておける場所とか、ミーティングできる場所があった方がよくないかな?」 「確かにな……」 ミーティングをする時に、ユニフォーム姿で教室にいるのって落ち着かないだろうし、部室があった方が団結力が強まるだろうしな。 「……あ。そういえばさっき飛んできた時、崖の真ん中辺りに小屋みたいのがあった気がするんだけど」 「崖の真ん中に小屋?」 そういえばグラウンドの向こう側は、ただ海が広がっているだけだから飛んだことがない。 断崖絶壁になっている、ということは知っているけど、実際に見たことはない。 「あ〜。あれか。あれなら部室の代わりになるかもしれないな」 「あれって何ですか?」 「昔、海沿いに島を一周できる周回道路があったんだよ。ここの崖の真ん中にもその道路が通ってたんだ」 「そういえばおばあちゃんから、そういう話を聞いたことがあったかもー」 「今は島の中央を通る道路ができたから、海に自動車が転落しそうな周回道路は、部分部分で廃道になったんだ」 俺もその話は聞いたことがある。新しい道路ができてからずいぶんと便利になった、と近所のおじいちゃんが言っていた。 「その小屋っていうのはなんですか?」 「バスだ」 「バス?」 「自動車の?」 「あはは。楽器のバスにしては大きすぎたかな?」 「俺も詳しく知ってるわけじゃないが、バス会社が赤字経営で、使わない道なら廃バスを放置してもいいだろう? ということらしい」 「わかりました。そのバスを部室にすればいいわけですねっ!」 「いいと思うなー。崖の真ん中でグラシュを履いてないと行けない場所だから、FC部っぽいと思う」 「さっそく行ってみましょうよ」 「でもそういうのって勝手に部室にしていいもんなのか?」 窓果はやけに自信たっぷりに、 「絶対に誰も使ってないんだから大丈夫じゃないかな? 軽く先生に聞いて問題がありそうだったら、こっそり部室にしちゃえばいいよー」 ……意外と豪胆な性格なんだな。 「とりあえず行ってみるか」 「行きましょうっ!」 ぺたっ、と地面に足をつけてグラシュの反重力を解除する。 海で泳いでから砂浜に上がる時に感じる体の重み、それに似た倦怠感みたいのが全身に広がる。 「こんなのがあったなんて知らなかったな」 どうにもこうにもバスだ。 「こっちにはバス停と待合室もある」 「そのまま放置されたって感じですね」 「………。 ……ネットオークションとかに出したら高く売れないかな?」 「冴えてますね、みさき先輩。ヴィンテージものかもしれません」 「そんなことは絶対にないと思うけど、自分のモノじゃないのに、勝手にオークションに出したら犯罪だろ」 「では、勝手に部室にしてしまうのは犯罪じゃないんですか?」 「そ、それは……」 「それはグレーということで。蔦が絡まるほど放置されてたんだから、私達がどうしたって誰かに怒られるようなことじゃないよ」 部長はドンと自分の胸を叩いて、 「そういうことだ。何かあったら部長の俺が責任を取るぜ」 この兄妹、似てるな。 「中の様子を見てきますっ!」 駆け出した明日香は両手をバスのドアにかけて、 「えいっ!」 ミミミミミッ……と、死にかけのセミみたいな音をたててドアが開いていく。 「なんとか部室にできそうですよ」 「どれどれ」 「あー……。それなりに汚れてはいますけど……」 「掃除すればどうにかなりそうだな。雨漏りとかもしていないみたいだし……」 床にそういう染みはないし、腐った様子もない。床板がはがれている部分はあるけど、日曜大工以下の工夫でどうにかなりそうだ。 「早速、掃除しましょう!」 「明日香は本当にやる気に満ちてるね〜。まぶしいよ」 「ピカピカです」 「よし! その心のようにバスの中もピカピカにするのだ!」 「がんばります!」 「するのだ、じゃなくてみさきも掃除をちゃんとするんだぞ」 「はいは〜い」 「反対する人がいないなら、私、学校から掃除道具持ってくるけど?」 「じゃ、そうしようか」 「俺のマッスルのうならせ場所だな」 「力を入れすぎて、床とかを踏み抜いたりしないようにお願いします」 「がんばりましょうねっ! コーチ!」 「う、うん」 やや気圧されながら俺はうなずいた。 額の汗を腕でぬぐって、 「ふーっ。今日はこんなとこかな?」 長年放置されていただけあって埃はひどかったけど、深夜の通販とかで売ってる特殊な洗剤を使わないと落ちない、というような汚れはなかった。 「充分だと思うよ。後は少しずつ備品とか入れていけば、それっぽくなるんじゃないかな?」 「ふー。終わった終わった〜。甘いもの食べたいよー」 「コンビニで何か買って帰りましょー。って明日香先輩?」 「………………。 ………………。 ………………」 「んっ? 明日香?」 「………………。 ………………。 ………………」 物凄い集中力で窓のサッシを拭いている。 「明日香?」 「うわわっ?!」 「うおおっ?!」 いきなり大声を出されたので、びっくりして後退してしまう。 「ど、どうしましたか?」 「いや、それはこっちの台詞なんだけど……。なにをしてたんだ?」 「サッシの汚れがなかなか落ちないから拭いていたんですけど、へ、変なことしました? こっちの風習では、サッシの汚れは福の神だからとらないようにするとか?」 「この島にそんな奇習はない。凄い集中してたんだな。呼びかけても返事がなかったぞ」 「え? そうだったんですか。全然気づきませんでした。私、集中しすぎることが多くて、すみません」 「いや、あやまることはないよ。FCは集中力が重要なスポーツだから、いいことだと思うよ」 「そうなんですか! ありがとうございます!」 「はい! FCのことで質問があるんですけどいいですか?」 「なんだ? みさきのことについて、真白よりも知ってることなんかないぞ」 「FCのことでと言いました! みさき先輩のこと以外の質問だってします!」 「真白は知らないけど、晶也だけが知ってることだってあるじゃない?」 「えっ?! な、なんですか? 是非知りたいです!」 「あたしの素肌の柔らかさ、とか?」 「ま、ままま晶也センパイッ!」 「殺気だった顔で俺を見るな!」 「晶也さんっ! そ、そういうのは早いです!」 「明日香も落ち着け。くだらん冗談に反応するな。そんなものにさわったことはない」 「そんなもん、言うなー」 「冗談ですよね? 本当だったら、晶也センパイのこと刺してしまうかも……」 「怖ろしすぎることを言うな」 「……うふっ」 「怖い笑いするな。そういう事実は一切ないから、刺さなくていい。で、質問ってなんだ?」 「……………」 「だから!」 「わかりました。今日の所は信じてあげることにします。寿命が延びてよかったですね」 「ありがとうございます。いいから質問をしろ!」 「部長とみさき先輩が模擬試合をしましたけど、あれは模擬試合だからですか? それともFCって男女で分けてないんですか?」 「FCは男女でクラス分けしてないスポーツだ。何でかって言うと、空中での移動は姿勢や反射が重要で、男女でそんなに差がでないからなんだ」 「……それなのに部長は筋トレを」 「筋肉は無敵だ」 「遠い目をしてそんなこと言われても……」 「フォローすると部長が間違ってるわけでもないんだ。筋肉だって重要だからな」 「わかってきたようだな、日向よ」 「いえ、部長ほどはわかってないと思います」 いったい何があってそんな信仰に走ったんだろうか? 「筋肉がどうしたっていうのは世界のトップレベルでの話。俺達がやるような県大会レベルだと、男女の体の違いで差が出るようなスポーツじゃないんだ」 「つまり男女関係なく試合をする、と?」 「そういうこと。これから先、グラシュの技術が上がったり、技術の底上げがあったりすればわからないけど、夏の大会を目指す俺達には関係のない話だ」 「むしろ、女の方が有利なスポーツだとも言われているな」 「そうなんですか?」 「そういう話もある。一般的に女の方が体重が軽いだろ? グラシュから放出される反重力子は一定だから、身軽な動きが可能になる」 「戦闘機が必死になって重量を減らすのと一緒だな」 「は〜。じゃ、男の人が有利な点はあるんですか?」 「体重が重いとこだな」 「さっきと言っていることが違くない?」 「慣性の法則。重い物ほど動きを変化させづらいだろ。真正面から向かってくる重い物を軽い物で止めようとしたら、弾き飛ばされる」 「つまり重い人ほど止めづらくなるってことか……。 ……窓果、体重に関する変な冗談を言わなくていいからね」 「先回りして警告しなくていいよ」 「そ、それで、その……。こんなこと言うのは、その……。は、恥ずかしいというか、よこしまなことを考えて〜、とか思われるかもしれませんけど……」 「お、おおっ? エッチな質問? わーい、みんな! これから真白がエッチな質問します」 「わくわくだね」 「えっ? あ、はい。わくわくです」 「変な期待をしないでいいです! そういうのじゃなくてですね。体をぶつけ合ったりすることもあるんですよね?」 「痛いのが不安とか? それなら心配しなくていいぞ。反重力の膜が衝撃を吸収してくれるし、空中だから何かにぶつかることもないから見かけほど痛くない」 「そうだよー。クッションにくるまれてるみたいなものだからさ」 「いえ、私が気になるのはそういうことではなくて……。接触した時に、む……む、胸が当たったり、触られたりしたらいやだなー、ということで。お、お尻とかも、です」 「あ……。確かにそうかもしれません。で、でも、テレビで見た強豪柔道部の女子部員は男子に混じって練習してましたから、意外と気にならないのかも」 「いや、そういう心配はしなくていいから」 「……心配しなくていい、ということは精神修行で克服せよ、と。心頭滅却すれば胸をさわれても平気だと? そういうことですか?」 「心頭滅却できる精神力があれば平気だろうけど、そういうことじゃない。例えば、俺が試合中に真白の胸にさわろうとしても……」 「キャー! 真白の胸に!」 「晶也さんってエッチな人なんですか?」 「例えばって言ってるだろう!」 「例えば、真白の胸に手が伸びて、そのやわらかさに恍惚となる晶也なのであった」 「とんでもないこと言わないでください。私の胸にさわっていいのはみさき先輩だけなんですから!」 「それも充分にとんでもないことだと思うけどな。だから脱線するな。俺が試合中に真白の胸にさわろうとしてもそれは不可能なんだ」 「不可能とはどういうことですか?」 「真白ちゃんの胸にはさわりたくないってことですか?」 「あー。それは傷ついちゃうよね〜。さわりたいって言われても嫌だけど、さわりたくないって言われるのも嫌だよねー」 「えっと、とりあえずあやまってください」 「うんうん」 「なんでだよ! いいから話を聞け。反重力と反重力は反発しあうから、俺の手と真白の胸の間に反重力の膜みたいのができるだけだ」 「でも強く押したりしたらどうなんですか?」 「それでも一緒。その膜を超えて何かにふれることはできないんだ。だからさわりたくてもさわれない。安心したか?」 「さわりたくてもさわれない、ですか。なんだか悲しいお話みたいですね」 「でも晶也さんと初めて会った時、一緒に空を飛びましたよね?」 「あの時、明日香はグラシュを起動してなかっただろ? 俺のグラシュで二人同時に浮き上がったんだ。もし明日香がグラシュを起動してたら反発しあってたよ」 「なるほど〜。つまり、グラシュをはいて起動させた状態で、ハグしたりとか、そういうのはできないってことですね」 「そういうことだ」 「もしかしてそういうことしてみたかったとか?」 「そ、そんなこと考えてません!」 「あははははっ。そんな慌てて否定しなくてもいいのに」 「でも空中でキスとかできたらロマンチックだよね〜」 「で、ですかね?」 「あれ? 明日香、赤くなってる?」 「な、なってません!」 「いい機会だからグラシュのこともうちょっと説明しておくか。明日、買いに行くわけだし」 「よろしくお願いします」 「グラシュに入ってる反重力装置なんだけど、これって小型化はできるけど、大型化はできないんだ。正確に言うと無意味な大型化しかできないんだ」 「無意味、ですか」 「大きくしても反重力子の出力が一緒なんだ。俺には理屈はわかんないけど、どう工夫してもそうなっちゃうらしい」 「だから空飛ぶ自動車とかないだろ。反重力装置は小型化に成功し続け、大型化に失敗し続けた歴史なんだぜ」 「そういえば人とブイ以外のモノが浮かんでるのって見たことないです」 「グラシュを二個使えば大きいモノも運べそうだけど、反発するから無理。同時に起動させてもやっぱり反発する」 「では、重いものとかは運べないわけですね」 「そういうこと。グラシュで浮かせられるのは、300キロくらいが限界だって言われている。それもただ浮くだけの状態だ」 「ということは女の子六人くらいなら、手をつないで飛べそうですね」 「……明日香のその計算にびくついている奴がいるぞ」 「そ、そんなことない! あたしはスレンダーボディーなんだから」 「まぁ、六人が手をつないで浮かぶのは無理だけどね。空中でバランスを取るのが難しいし。四人でなんとか浮いたままでいられるってとこだ」 「なるほど〜。家や学校が浮いてる光景を見たことないのは、そういうことだったんですね」 「納得してもらったとこで、今日は終わりにするか」 「明日、靴を買いに行くのが楽しみです!」 明日香は力強く微笑んだ。 「倉科、これから部活か?」 「はい。みんなでグラシュを買いに行く予定なんですけど」 「そうだった。今朝、晶也がそんなことを言ってたな。あ、今、ちょっとだけいいか? 見せたいものがあるんだ」 「見せたいものですか?」 「秘蔵の動画」 「ひ、秘蔵の?」 「エッチな想像でもしたか?」 「し、してません」 「倉科には興味があるものだと思うぞ」 「……興味、ですか」 「えっと……。ここにあったと思うけど。あった。ほら、私のスマホを見てみな」 「はい。これは……。これはFCの試合ですか?」 「そう。数年前のジュニアの部のね。しばらく見てから感想を聞かせてくれ」 「でも私、まだFCを始めてもいないのに感想なんて……」 「いいから」 「わかりました」 「……………………。…………………………………………。 …………この女の子の動きがとっても綺麗だと思います」 「はははっ。そっか。髪が長いから女の子に見えてしまうよな。それは、晶也だ」 「え? あ、本当だ。面影があります! 晶也さんです! 晶也さんって髪を伸ばすと可愛いんですね」 「そうだな。まあ、それで昔さんざんからかわれたから、もうあんなに伸ばすことはないだろうけどね」 「…………晶也さん、こんな風に飛べるんだ」 「才能もあったし、努力も好きだったからね」 「こんなに自由に飛べるのにどうして選手を……」 「あいつは早熟だったから。FCはメンタルも大切だ。そこんとこがついていかなかったんだろうな」 「心がついていかなかった、ということですか?」 「そうらしい。正直、私もどうして晶也がFCをやめたのかわからない」 「……………」 「私には教えてくれなかった。だが、何があったにしても、もうそろそろ心の傷が癒えてもいい頃だと思う」 「先生、ひとつ質問していいですか?」 「ああ、なんだ?」 「どうして私にこの動画を見せたんですか?」 「倉科が転校してきてから、晶也に心境の変化があったようだからな」 「……………」 「私は晶也にもう一度飛んで欲しいんだ。自分の意志でね」 「私にこの動画を見せると、晶也さんが飛んでくれるんですか?」 「それは私にもわからないけど、将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、って言葉もあるし。それより……」 「より?」 「倉科には知っておいて欲しかったのさ。きっと、悪いことにはならないって思ったんだ」 「私、どうしたらいいのかわかりませんけど……。けど、晶也さんが飛んでるところを見れてよかったですっ! ありがとうございましたっ!」 「どういたしまして。私がこの動画を見せたこと、みんなには内緒だぞ」 「わかりました」 みんなを連れて、グラシュを扱っているショップへと向かう。 「なんだかワクワクします」 「はじめてケータイとか買ってもらった時を思い出すねー」 「あ、なんか近いです、その感じ」 「まあ、今後はケータイに近いぐらいに身近な存在になるからな……あ、みなもちゃんだ。おーい」 目的の店の前、掃除をしていた女の子に声をかける。 「あっ……おひさしぶり、です……」 ぺこり、と頭を下げる。 そしておずおずと、俺の周りの部員たちにも会釈をした。 「お兄さんは中にいるの?」 「はい……呼んできましょうか……?」 「いや、いいよ。どうせ中でグラシュ見るし。みなもちゃんは?」 「あ、わたしはまだ用事があるので……失礼します……」 そう言うと、みなもちゃんは、頭を下げつつそそくさと母屋の方へ去っていった。 去っていく姿が小動物というか、なんだかリスのようにすばしっこかった。 「かわいい子……でしたけど、すぐにいなくなっちゃいましたね」 「うちの制服じゃなかったみたいです。あれ、どこのだったかな?」 「晶也は知ってるみたいだけど?」 「今から挨拶する、ここの店長の妹さん。昔、何度か会ってるから顔なじみなんだ」 「ふーん」 「へー」 「そ、そうなんですか……っ」 「三人とも、それぞれルートは違うけど似たような想像をしないでくれ。違うから」 ニヤニヤしながら視線を送った時点で、何考えてるのかバレバレだっての。 『スカイスポーツ白瀬』の店内に入る。 店の中は見渡す限り、FC用品であふれていた。 シューズ、メンテナンス用の工具、クリーナー等々。ここでは必要な物が一通り揃うようになっている。 明日香はあんぐりと口を開けて、雑然とした店内をぐるりと見回す。 「うわ〜。これが全部、FC用品なんですか?」 「全部ではないよ。グラシュを使うスポーツはFC以外にもあるからね。でも八割はFC関係だと思う」 一番メジャーなのはFCだから、売れ行きを考えればそうなるだろう。 「みさき先輩! これ見てください」 「なになに? おおっ? グラシュでの地球一周チャレンジ向けのグッズ?! そんなことできるの?」 「多分、無理。大げさにポップを書いただけだろ。だけどチャレンジする冒険家はいるぞ」 「はー。夢がありますね」 「真白! 私はその夢を応援してるよ!」 「ええっ? でもみさき先輩が応援してくれるなら、わたし、がんばります!」 「絶対に途中で死ぬからやめておけ。ちなみにそこらへんにあるのは長距離飛行向けのグッズだから、俺達には関係ないぞ」 店に来たのは、俺と明日香とみさきと真白。 部長はすでに自分の試合用グラシュを持っているし、窓果は部室を作っておく、と言って学園に残った。 「いらっしゃい。お、晶也かー。久しぶりだな。元気だったか?」 「普通に元気ですよ」 陽気そうな兄さんがレジの方からこっちに近づいてくる。店長の白瀬さんだ。 「さっき、みなもちゃんに外で会いましたよ」 「おお、そうか。可愛くなっただろ?」 「え、ええ、まあ」 「やらんよ?」 「今日はグラシュを探しに来たんですが、お勧めを見せて頂いてもいいですか?」 「……ちょっとは乗ってくれよ。まあいいや、グラシュの件は葵から話を聞いてるよ」 「葵?! 呼び捨て?」 「きっと大人の関係ですよ」 「……俺達だって呼び捨ての関係だろうが」 「それは、私と晶也が大人の関係だからじゃない」 「そ、そうだったんですか?!」 「みさきの適当な冗談にいちいち反応してあげなくてもいいから……」 「はは、葵とは昔から知り合いだからね」 白瀬さんは軽い調子で笑うと、 「いいやつをいくつか見繕ってやってくれって、さっき連絡があったんだ」 「わかりました」 「コーチをするんだって? もしかして女の子ばっかりのチームなのかな? いいね〜。ハーレムチームは男の夢だ」 「あたし、晶也ハーレムの一員だったんだ?」 「私も?!」 「この手の話には反応がいいな、君らは!」 「で、どんなグラシュをお求めかな?」 「えーっと……。俺と相談しながら各自の靴を選ぶってことで」 「はい! 靴にどういう違いがあるのか聞いておきたいです」 「そうだな。まずはそこから説明しないとな。まず靴には大きくわけて三種類ある」 「スピーダー、ファイター、オールラウンダーですね」 「うん。で、靴には反重力子を制御するバランサーがついていて、それを調節することで……」 「オールラウンダーよりのファイターとか、スピーダーよりのオールラウンダーとか、そういう微調整ができる」 「靴によって具体的に何がどう違うんでしょう? 例えばスピーダーの靴を履くと何がどうなるんですか?」 「それは俺が説明しよう。グラシュを起動する時に何が起きてるか知ってる?」 「反重力子というのが靴から出るんですよね?」 「その通り。靴から出た反重力子が膜となって全身を覆うんだ」 「昨日、少しそんな話を晶也センパイから聞きました」 「だから、体の一部だけに重力を感じるってことないだろ?」 「単純に浮かぶなら足だけでいいんじゃないですか?」 「それはとても危ない状態。浮くことはできると思うけど、地面と水平になった時、足だけが反重力状態だと、くるん、と回転しちゃうだろ」 明日香は斜め上を見上げて少し考えてから、 「確かに体の端っこだけで浮くのは、バランスを崩したら最後っぽいです」 「スピーダー用のグラシュとファイター用のグラシュでは、膜の張り方が違うんだ。ちなみに膜のことはメンブレンって呼ぶから覚えておいてね」 明日香はぐっと顎を引き真剣な面持ちで、 「わかりました。反重力子の膜はメンブレンですね」 「そう。で、どうやって前に進んでるかわかる?」 「え? えっと……体をこうやって前に傾けると、すーっと進みます」 「そうじゃなくて、どうして前傾姿勢になると進むのかってこと」 「………。………。……全然わかりません」 「そういえばわたしも知らないです」 「あたしもあたしも」 「明日香はともかく地元組は知ってろよ」 「そんなこと言っても知らないものはしょうがないじゃない。それにあたしは地元組じゃないもん。引っ越してきてまだ二年だもん」 「二年もいれば地元組だ」 「これはよく使われる例え話なんだけど、リニアモーターカーは知ってるだろう?」 「物凄い速さで走る電車ですよね」 「リニアモーターカーがどうやって走るか知ってる?」 「知りません」 「知りません」 「知りませ〜ん」 「そのくらいは知ってろよ」 「そんなこと言っても知らないんだからしょうがないじゃない。男の人ってこういう科学豆知識みたいな話、好きだよね〜」 「それでいてババロアとプリンの違いはわかんないんですからね」 「そうそう。クッキーとビスケットの違いもわかんないと来てるからね。そっちの方が全然重要なのに」 「はいはい。リニアモーターカーは磁力の力で動いてるんだ。N極とS極は引きつけられるけど、NとN、SとSは反発するだろう?」 「反発力で浮いて、引きつけられる吸引力で動くんだ。つまりNとNで浮いていて前方にSを置いて引っ張る。引っ張りきったとこで下のSをNに変えてまた前方にSを置く」 「つまり……。それを重力と反重力に置き換えて考えればいいんですよね。むむむ、なんとなくわかってきました」 「グラシュの場合は反重力で浮いて、地球の重力による吸引力で動いてるんだよ」 「ということは、えっとなんでしたっけ、膜のこと……」 「メンブレン」 「メンブレンを重力にしたり反重力にしたりして、進んでいるってことですか?」 「正〜解〜。より正確に言うとメンブレンを薄くしたり濃くしたりすることで前に進んでいるんだ」 「前に進んでいるように見えるけど、落ちる力を前に進む吸引力に変えているんだ。変な言い方だけど、前方に落ちている、ということになる」 「もちろん前だけじゃなく後ろや左右に動くときも一緒だ」 「まだその話続くの〜。早くグラシュ選びをしようよ〜」 「ごめんなさい。私、もうちょっと聞きたいです」 「ん〜。ま、明日香がそう言うならいいけどさ〜」 「みさきもちゃんと聞いておけよ。で、話を戻すけど、スピーダーのグラシュは、前方に落ちる力を最大限に引き出すように調整されてるんだ」 「プレイヤーの動きに対して、上半身のメンブレンが敏感に反応して、その他の部位は鈍感に反応するように作られてるんだよ」 「体を前方に傾ける時にスピードが出るから、他の部位のメンブレンが邪魔して、スピードが鈍くならないようにしてるんだ」 「競技用じゃない日常用のグラシュもだいたいそういう作りだね。もちろん競技用はより敏感に作られてる」 「そういうことだったんですかー。勉強になりますっ!」 「で、ファイターのグラシュは全身のメンブレンの反応を敏感にすることでスピードを出せない代わりに、俊敏性を上げているわけだ」 明日香はうんうんと大きくうなずいて、 「だいたいわかったような気がします」 「もうちょっと話を続けると、グラシュにはバランサーという機能がついていて、ここを調整することによっていろいろおもしろいことができる」 「おもしろいことですか?」 「極端な例を出すと、右半身のメンブレンの反応だけを敏感にして右側へだけは異常に俊敏に動けるとか、そういうこと」 「さすがにそこまで極端なことはしないけど、バランサーの調整は俺がするから。こういうのはコーチの役割なんだ」 「自分でするんじゃなくてですか?」 「自分でする選手もいるけどね。自分でするとどうしても自分の体に合わせちゃうだろう?」 「普通はそういうものなんじゃありませんか? スポーツ用品に限らず服なんかは自分の体に合ったものを選ぼうよー、とよく言いますよね?」 「それはそうなんだけどグラシュの性能をどう引き出すか? というのもFCの勝敗を分ける要因でもあるんだ」 「自分で調整すると、よほどストイックな人じゃないと、甘えが出てしまうからね。客観的に見て調整してくれる人がいるなら、それが一番いいと思うよ」 「ふむふむ。つまりあたし達は晶也好みの体にされちゃうわけだ」 「変な言い方をするな!」 「FCにはいろんな要素があるんですね。もっとドキドキしてきました」 「はーい。お話が終わったならまずは私のグラシュから選んでよ、コ〜チ〜」 「はいはい。みさきはファイターだからな」 「私、ぐるぐる回ったり、ビューと急上昇急降下したいから、なるべくピーキーなのがいいな〜」 「ふーむ……。飛行には結構、自信があるのかな?」 「自信はわかんないけど、そういうグラシュの方が、やりがいがあるというか、おもしろいから」 「おもしろい、というのは大切だな。うまく履きこなせるかどうかわからないけど、インべイドのレーヴァテインはどうかな?」 「ちょっと個性が強すぎないですかね? インべイドは海外メーカーだから、個性強めですよね」 「いやいやそれは偏見だな。国内ではマイナーだけど、海外に目を広げればインベイドはグラシュの最大手なんだから、信頼できるモノを作ってるよ」 「でもレーヴァテインは個性が強いっていうのは、間違いないですよね」 「そうだけど、飛ぶ喜びのあるグラシュだと──」 「はいはい。薀蓄はそこまで。インべイドのレーヴァテインって、簡潔に言うとどういうグラシュなんですか?」 「ファイター向けのモデルで、さっきキミが言ってたように最初からかなりピーキーな設定になってる。反応は凄くいい。上級者向けだね」 「上級者向けか〜。じゃ、それにします!」 「安易に決めるな。とりあえず履かせてもらったらどうだ?」 「んじゃ、そうさせてもらおうかな〜」 「起動キーは初期設定の『FLY』になってるからね。店内だから軽く浮くだけで。それだけでも具合はわかるから」 「わかりました。…………………よっと。これで……と。それでは」 みさきは靴を履くと踵を上げて、 「FLY、と。とっ、ととと……。きゃっ。おっ? わっ、わわっ? おっ、おーっ! おおっ? お〜〜〜〜〜〜っ。んふーーーっ」 「何を顔だけでジタバタしてるんだ?」 数センチ浮かんだ状態で表情だけをコロコロ変えている。 「これ凄い。ただ立ってるだけのことが難しい」 「そんなにか?」 「初めてこれを履いてそんなに安定してるなんて、たいしたもんだよ」 「ありありありあり、ありがとうございます」 「もうちょっとバランスのいいグラシュにした方がよくないか?」 「ノン。これにする。これは征服しがいがありそう」 履きこなすのが難しいのをわざと選ぶなんて意外とマゾい性格してるんだな。 ……うまく履けない様だったら最初のうちは履きやすいようにバランサーを調整してやればいいか。 「毎度あり。解除キーも『FLY』だよ」 みさきはグラシュの踵を合わせて、 「FLY、と」 ぺたっ、と靴底が地面に着く。 「よし。私のグラシュはこれで決定」 「私も同じ靴にしたいです!」 「お? そうする?」 「はい、そうします!」 「やめておけ。真白はFCの経験ないんだろう?」 「いくらコーチだからといって、みさき先輩への愛を止めることはできません! そこまでの権限はないはずですよ」 「そこまで言うなら止めないけどさ。ま、やってみればいいよ。白瀬さんお願いします」 「晶也との会話から察すると不安になっちゃうね。これは難しいグラシュだよ?」 「大丈夫です」 どこから沸いてくるのかわからない自信に満ち溢れた様子で靴を受け取る。 「見ていてください、みさき先輩。そしてほえ面をかくがいいのです、晶也センパイ」 「ほえ面なんて台詞、よくすらりと出てくるな」 普通の女の子はあまり使わないと思う。 「では、いきます!」 「がんばれー」 「がんばってください」 「FLY! きゃっ?! きゃっ?! うわあああぁ?! わっ、わああぁぁぁあぁぁぁぁぁあああぁあぁぁあぁぁぁ!」 最初に顔面から床をめがけて落ちていき、ぶつかる直前で起き上がりこぼしみたいに逆方向へと回る。 「危ない! 危ないです!」 「大丈夫。反重力子がきいてるから床にぶつかることはないよ」 「わああぁああぁああぁあぁぁあぁあぁぁぁぁっ?!」 「で、でもパンツが! パンツが見えてしまいます! 見ちゃダメですよ、晶也さん!」 「変なことを気にするんだな。心配しなくてもいいって。これも反重力子がきいてるから、過激に動いてもそう簡単にスカートがめくり上がったりはしないよ」 服の上から膜で覆われてるから、そんなにひらひらしないのだ。 「真白、がんばれー! 私への愛はどうしたー!」 「うわわわわっ! が、がんばれません! こんなのは先輩への愛と全然関係ありません!」 「前言撤回するの早いな」 「きゃああぁあぁあぁぁあぁぁぁあぁぁっ!」 その場でコマのように回転しながら叫ぶ。ちょっとした絶叫マシーンに乗っているような状況だ。 「と、とめてあげた方がいいと思います!」 「両手両足を広げて大の字になるんだ」 「きゃっ?! えっ? だいにじ?! せんそう? なんで? きゃっ?! うわわわっ?! わあぁあぁぁぁぁぁぁあっ!」 「第二次じゃなくて、大の字! 両手両足を横に広げろ! 広げろ!」 真白はやけくそのように、そのさして長くない両手両足を思いっきり広げた。 程なくして、身体の動きは収まり、ほぼ静止に近い状態になった。 「ふえぇぇぇっ! あっ、うわっ? あ……。とまった」 「それが一番、安定する姿勢だからね」 「で、どうする?」 「……グラシュ選びはお任せします」 へなへな顔で言った。 「無理して普通に立とうとするなよ。お尻から床に降ろす感じてゆっくりと動くんだ。腰が床についたら解除して」 「わ、わかりました」 真白はキーを解除した。 「ひどい目にあいました」 「そう? もうちょっとで制御できそうだったのになー」 「そんなのちょっとも実感できませんでした」 俺は白瀬さんを見て、 「今の様子だとファイターで、取り扱いが簡単なグラシュがいいと思うんですけど何かありますか?」 「うーん。簡単なグラシュというのは、各社がこぞって出してるとこだからね。甲乙つけがたいな。何か好みは?」 「わたしの意志と関係なく空中で回転しなければなんでも……」 「急に投げやりになったな」 「真白ちゃんだっけ? 女の子っぽいから、ガーリーな感じの靴がいいんじゃないかな」 みさきは納得したようにうなずいて、 「確かに真白はそういうのが似合うと思うな」 真白は、ぱーっ、と顔を輝かせて、 「そうですか? それならみさき先輩が選んでください」 「えー。そういうのは自分で選んだ方が後悔しないよ」 「いえ、みさき先輩に選んでもらわなかった方が後悔します」 「じゃ、このピンク色のとかどうかな? でもちょっと子供っぽすぎる?」 2人は楽しそうにグラシュを選び始めた。 「こっちは明日香のを探そうか」 「よろしくお願いします、コーチ」 「今はまだ明日香の特性がわからないから、オールラウンダーのグラシュがいいと思うんだ。バランサーの調整で、スピーダーもファイターもできるし」 「わかりました。……あの、晶也さんは飛んでいた時、オールラウンダーだったんですか?」 「そうだけど、どうしてそう思ったんだ?」 「晶也さんはいい人で気配りするタイプだから、プレイスタイルもそうなのかな、と思ったんです」 「え、ああ、なるほど……な」 「あれ? 失礼なこと言っちゃいました……?」 「ううん、そんなことはないよ」 「もしもの話ですよ。もし、晶也さんがプレイヤーとして、グラシュを買うとしたらどれにしますか?」 「あんまり考えたくないな。……でも、これかな」 手にしたのはミズキの飛燕の四型。俺はこれの初代モデル、当時はただの飛燕という名前だったけど、今では飛燕一型と呼ばれるモデルを使っていた。 「じゃ、私それにします」 「そんな風に決めていいのか?」 「もちろん履いてから決めます。もし真白ちゃんみたいになってしまうようだったら諦めます」 「オールラウンダー用のグラシュでああなることはまずないと思うけどね」 「ん? 飛燕四型を試してみるの? 渋いね。いいと思うよ。俺も好きなモデルだ」 「一型と四型ってどう違うんです?」 「時代に合わせてバージョンアップしているだけだね。ただバランサーの幅がかなり広いから、カスタマイズは自由にできる」 バランサーの幅が広いか──。どういう飛び方をするのかわからない明日香には、ピッタリなグラシュかもな。 「私はスモールグローブのシャムというのにしてみます」 「あ! それ可愛いですね」 黄色で絵本の妖精さんとかが履いてそうなグラシュだ。 「ですよね」 最近は競技用でもああいうのがあるんだな。 「可愛さを武器にみさき先輩へアピールすることにしました」 「グラシュを買う目的が迷走してるな」 「明日香のは硬派な感じだね」 「はい。晶也さんに渋いのを選んでもらいました」 「ふ〜ん。もっと可愛いのを選んであげればいいのに」 「いえ、これでいいんです。私、気に入りました」 「そ。だったらいいんだけど〜」 「じゃ、とりあえず部室に戻って窓果の手伝いをするか」 「わかりました」 「まいどあり。また来てね。特に晶也はね」 「……どうして俺が特になんですか?」 「僕もコーチの経験はあるよ。葵に聞きづらいことがあったら僕に聞くといい」 「その時はそうさせていただきます」 ──聞きづらいこと、か。 今はまだわからないけど、そういうことは出てくるような気がする。 「グラシュは買ったし。じゃ、帰りは部費で甘い物を食べていこー!」 「賛成です!」 「ダメだ」 「男の人って甘い物が苦手だったりするもんね。しょっぱいのでもあたしはいいけど?」 「そういうことじゃなくて部費は使えないってことだ。常識的に考えて無理だろ」 「え〜。だったら、晶也がご馳走してよ」 「どうしてそうなるんだ?」 「それは晶也センパイのためでもあるんですよ」 「だからどうしてそうなるんだ?」 「だって選手とコーチの間には信頼関係が必要なんですよね? 何かをご馳走すれば、それが築けるのでは?」 「うっ」 「真白、いいことを言った! じゃ、今日のところはラーメンで!」 「まてまて。4人分のラーメンって地味にダメージがあるぞ」 650円×4=2600円だ。 「大丈夫。餃子は2人で1皿にするから」 「追加注文までするつもりなのか?!」 「あ、あの! ラーメンと餃子は私も大賛成なんですけど……」 「やったー!」 「明日香までそんなことを言うのか?」 「ですけど……。その……。自分勝手なことを言って申し訳ないんですけど……。このグラシュで飛んでみたいんです!」 「気持ちはわかるけど、今すぐじゃなくてもいいんじゃないか?」 「それじゃ……」 明日香は引き下がらず、なおも真っ直ぐな目で、 「みなさんは何か食べに行っていただいても。私だけ学園に戻って……」 「ストップストップ。明日香を一人にできるわけないってば。付き合うに決まってるじゃない。そんなキラキラしたお目々で言われたら断れないからね」 「ですよねー」 「みさきと真白も、もっとキラキラしていいんだぞ。んじゃ、試し履きをするために学園に戻ろうか」 「はい! ありがとうございます!」 「あれ? グラウンドに誰もいないね」 「珍しくどこの部も使ってないのか。んじゃ、ここでやろうか」 「はい!」 「ユニホームに着替えなくていいんですか?」 「試し履きだからそこまで本格的にする必要はないだろ。俺は先に空に上がってるぞ」 「コーチも一緒に飛ぶんですか?」 「一緒に飛ぶというか、上から見てる」 「下から見るより上から見るほうが、飛行姿勢がよく見えるとかあるの?」 「いや、そうじゃなくて……。その……試しで飛ぶにしても、軽く回転したり、地面と垂直の姿勢をとったりするだろ?」 「まあ、せっかくだから普通のグラシュだとしづらいことをしてみるとは思うけど?」 「………。 ……あっ。わかりました。パンツですよ、パンツ!」 「パンツ? あ、パンチラだ! 晶也、いやらしい!」 「いやらしさ爆発ですね!」 「見るのを避けるために上に行くって言ってるんだからいやらしくないだろ」 「あ、あの!」 明日香が頬を赤く染めて、 「わ、私……そういうのあまり気にしてなかったんですけど……。も、もしかして……。日常的にパンツを見せて飛んでいましたか?」 「クラスのみんなに痴女だと思われてるかもね〜」 「そんな?!」 「かわいそうですけど、あだ名は『パンツ』でしょうね」 「私、影でパンツ扱いですか?」 「だまそうとするな。大丈夫。パンツは見えてない」 「そうなんですか? でも下からのぞかれてしまったら……」 「さっき真白が店内で暴れた時もパンツは見えなかっただろ? メンブレンがスカートも覆うからそんなにはためかないんだ」 「で、でも下から見たらそんなの関係なく、見えてしまうんじゃないですか?」 「大丈夫。飛ぶ時って前傾姿勢だろ? 真下からじゃ見えないんだ。斜めでもよほどピッタリと角度が合わないと見えないよ」 「そうなんですか?」 「例えば、階段で前の方をスカートの短い女の子が歩いていて、パンツが見えそうだなー、と思ってもそう簡単には見えないだろ。それと一緒」 「……晶也はスカートの短い女の子がいたら、そんなことばかり考えてるんだ」 「ばかり、って言うな! 他のことも考えてる!」 「……晶也さんって」 「変な想像はしなくていいからな? というかお願いだからしないでください」 「明日香先輩。そこらへんは察しても気づかないふりをしてあげるのが、女の度量というものですよ?」 「そうそう」 「そ、そういうものでしたか……」 「……あのな」 「晶也さんっ! 私、何も思ってませんから!」 「だから、本当にそれしか考えてないってことはないからな」 「わ、わかってます!」 明日香は力強くうなずく。 ……絶対に理解してくれてないな、これ。 あー、もう、いいや。 「それじゃ俺は上に行ってるから、グラシュを履いたら、各自勝手に上がってくるように」 「はい!」 「んじゃ、行くよ〜。初飛行、と!」 みさきがふらふらしながら浮き上がってくる。 「よ、よ、よっと……。おっと……。おおおっ?」 まるで綱渡りをするみたいだ。 インべイドのレーヴァテインなんか履いてるんだから、浮いてるだけで精一杯だろうな。 「私も行きます! うわっ? わ? わ? あわわわわわ〜? わー?!」 まるで上に向かって転ぶように浮き上がってきた。 「わ? わ? わあ〜〜〜〜っ!」 俺は明日香に近づいて、 「落ち着いて。まずは視線を遠くに。向こうの水平線を見よう」 「は、はい」 「それから足の裏を地面に向けて」 「………」 「そこまでできたら、ゆっくり前傾姿勢になってみよう」 「はっ、はい!」 明日香は言われた通りに前傾姿勢になった。 「わっ、わっ……難しいですね……っ」 しかし、元から飛行姿勢が不安定なところにグラシュが変わったためか、フラフラと左右に傾いていた。 「通学に使ってるグラシュとは全然違います。すごく過敏に反応します。あと体がキュッと締め付けられているような気が……」 「競技用と一般向けで違うのはその二点だからね。慣れたら、楽しく飛べるようになると思うよ」 「がんばります!」 「あ、晶也さん、私の踵からコントレイルが出てます」 「競技用のグラシュを履いてるからな。じゃあ、ちょうどいいからもう一つ説明しようか。……みさき」 「ん〜?」 「ちょっと、明日香の前に移動して、背中向けてくれないか?」 「え……あ、なるほどね。はいはい」 みさきは了解、という感じで手を挙げると、初めてのグラシュなのでよろよろとした飛び方で、明日香の前方に回る。 「準備できたよー」 「明日香、みさきの背中に、軽くポンとタッチしてみて」 「タッチ、ですか? あ、はい。わかりました!」 「いいよー」 「えいっ!」 明日香の手がみさきの身体に触れた瞬間、三角形の赤く光る物体が空に浮かび、二人が反動で離れる。 「ポイントフィールドですよね。私がドッグファイトで得点したってことですね」 「よく覚えてるな。そういうことだ」 「んじゃ今度はこっちからタッチしちゃお。いっくよ、明日香ーっ」 「えっ、えっ、わわっ!」 みさきはよろよろとした飛び方で明日香の後ろに回る。明日香もびっくりしたように抵抗するけど、逃げ切れるほどうまくは飛べず…… ポイントフィールドが浮かび上がり、みさきの得点を示す。 「こら、練習で背中取るときはちゃんと相手に確認してからにしろよー」 「みなさ〜ん、見てください! 私もちゃんと飛べてますよ!」 「お〜。上手に飛べてるな」 履きやすいグラシュだといってもファイター向けのはそれなりに難しいはずだ。 「いいぞ、真白〜。よーし、そこで大回転だ!」 「まかせてください!」 「大丈夫かな……」 そのくらいは、一般向けのグラシュでもできることだから、そんなに心配しなくてもいいだろうけど。 「行きますよ! えい! ……あれ? うわ〜〜〜〜〜〜っ!」 ──見事に失敗した。 スピードが足りなかったので、円の頂点の部分で失速したのだ。 その時に回りきろうと変に力を入れたせいか、横方向に回転しながら斜めに落ちていく。 「真白ちゃん?!」 「きゃああぁぁあぁぁぁっ! みさき先輩! 助けてください!」 「ごめん! 助けたいけど、今の私はまっすぐ飛ぶことさえできないから」 俺は真白に近づいて、 「両手両足を広げて体を安定させるんだ」 「は、はい!」 「ん? でも晶也がその位置だったら、両手両足を広げたらパンツが見えるんじゃない?」 「ひへっ?!」 真白が両手で股間を隠して足を閉じる。 「バカ! そんなことしたら!」 「パンツがちゃんと見えませんか?」 「違う! バランスが余計に悪くなってしまうって!」 フィギュアスケートで、腕を縮めたら回転が速くなり伸ばすと遅くなるのと一緒。角運動量保存の法則という奴だ。 「うわわわっ? うわわわっ?!」 「だから両手両足を伸ばせ!」 「でもそんなことしたらパンツが!」 「真白のパンツなんか気にしないから言うことを聞け!」 「気にされないのは気にされないで不愉快です!」 「どうすればいいんだよ!」 「……単純に晶也が目を逸らせばいいのでは?」 「あ、そうか……」 「ほら、見てないから両手両足を広げろ」 「………。 ……はーっ。と、とまりました」 「まったく……」 真白は俺の正面に飛んでくると、 「……わたしのパンツは何色でしたか?」 そんなハッキリと見えたわけじゃないけど、赤紫のようなピンクのような色だったと思う。 ──だけど。 「七色だったと思うぞ」 正直に答えるほどバカじゃないのだ。 「七色のパンツなんか売ってません! 嘘をつくならもっとちゃんとついてください」 「そんなことで怒られても……」 そういうのを察するのが女の度量だったんじゃないのか? 「真白だけじゃなく、明日香もみさきも今日は回転はしないでおけ。最初からそれはやっぱり危ないからな」 ──いろいろな意味で。 「本当に通学用のグラシュとは全然違いますね。どこまでもいけそうだし、スピードが凄く出そうです」 「普通乗用車とスポーツカーの違いに例える人もいるな」 「自動車のことは詳しくないですけど、なんとなくわかる気がします」 「あたしはまだ真っ直ぐ飛ぶことさえできないけどね」 「みさきの場合はスポーツカーというか、レーシングカーにいきなり乗ってるようなものだからな」 ──今日はまだこんな感じだけど。 俺にちゃんとコーチできるのかな? 改めてそんなことを考えながら、俺は3人を見下ろしていた。 夕飯後。 部屋に戻った俺は、FCに有効そうなスポーツの練習方法をネットで検索しようとしたが…… 「ダメだな……」 マウスを離し、椅子の背もたれに体重を預ける。 なぜかインターネットに繋がらない。 回線がおかしいのかルーターやらが壊れたのか。 コントロールパネルから色々とクリックしてみたがあまりPCに明るくない俺には原因がわからなかった。 お手上げだ。 未練を断ち切るように、モデムのコンセントを抜く。 階下の母さんからもネットに繋がらなくなったと苦情が来たので、事情を話しておいた。 明日プラグを挿し直してもまだ繋がらなかったら真面目に原因を究明しよう。 まあ一日二日ネットなんかなくても大丈夫だ。その分、他のことに時間を充てられる。 ちょっと前から勉強のためにグラシュの分解なんかもはじめたところだし…… 「ん?」 いま、向かいの窓が開いた音が聞こえたな。 隣の家……市ノ瀬だ。 と言っても、窓が開いたからって顔を出して『こんばんは』などと挨拶する間柄じゃない。 むしろ着替えを見た前科者の烙印を押されているんだ。 これ以上誤解や間違いが起こらないよう、スルーしよう。 「……っ、…………っ!」 とは思ったものの、何やらおかしな気配を感じる。 「……〜〜っ!」 ……カーテンの向こうで何をやってるんだ? 少し考える。自分の部屋なのにあまり遠慮をするのもどうなんだ? 俺は一応の配慮として窓をノックしながら、 「何かやってるのか、市ノ瀬?」 「えっ……?」 窓を開けると、こちらを見た市ノ瀬は硬直した。 雨乞いでもするように、でも何故かおそらく市ノ瀬のであろうノートPCを窓の外に高く掲げたまま。 「…………」 市ノ瀬の顔がみるみる耳まで赤面していく。 なんかよくわからないけど俺また、見てはいけないところを目撃した……? 「じゃ、おやすみ」 「言い訳くらい聞いてください!」 窓を閉めかけたところを制止される。 「わかってるって。誰にも言わない」 「それは優しさとは違うと思います……」 さすがに市ノ瀬の硬直はもう解けていた。 「聞いてください」 「人に話してもいい内容なのか?」 「ノートパソコンの無線がインターネットに繋がらなくなっちゃっただけなんです」 「ああ」 ついさっきどこかで体験したばかりのような話だった。 「なるほど。それで……」 ……え? あれ? それでああなるか? 古い映画で見た、遠い昔、地方のラジオ番組が聞きたくてアンテナいっぱいに伸ばしたラジカセを、少しでも良く電波の拾える場所を探して掲げるような格好に? 「私、ネットとかはよくするんですけど機械系は明るくなくて……」 「ああ」 先ほどの有様で、それは何故かもの凄く納得できた。 「今日は厄日です……」 市ノ瀬が、ガックリとうなだれる。 「厄日というと?」 「インターネットはできなくなるし、日向さんにはみっともないとこを見られちゃうし」 「それだけでか」 「あとは……個人的なことになっちゃうんですが」 「えっ?」 「部活で、ちょっと納得できないことがありまして。部内の問題ではなくて、他校のことなんですけど」 「…………」 事情を求めていないのに話し出した市ノ瀬。 実はよっぽど腹に据えかねているのかもしれない。 ここは理解を示して、市ノ瀬に不満を吐き出させてやろう。 「まったく、悪い学校もあったものだな」 「あ、でもどこにだって事情はあるんでしょうから、悪く言うのはだめですよ、日向さん」 「……市ノ瀬が先に言わなかったか?」 「私はそこまでは言葉にしていません」 「そうだっけか」 「でも私に合わせて、私に代わって怒ってくださったのはありがとうございます」 「いや、そこまで深く考えてなかったけど」 「ともあれ私にも色々とあったわけでして」 「なるほどな」 頷いておく。 「話を戻しますが、私ひとりだとインターネットに繋げなくなった理由がいまいちわからなくて」 「両親が毎日残業で遅いことは、仕方ないというか……。でも、こんな日はいてくれたらなぁと」 「でも一日くらいネットしなくても大丈夫だろ」 俺もさっき思ったことだ。 「…………」 「そ、そうですよねっ」 「…………」 いや、いま笑顔で返す直前、思いっきり拗ねたような表情が見えたんですけど。 ……気のせいじゃなかったよな? 「見せてみな」 「はい?」 「ノートPC」 市ノ瀬は、俺の顔と自分の持っているノートPCを交互に見ながら意味を咀嚼し、 ぎゅっと守るようにノートを抱きしめた。 「……もしかして、悪いこと考えてます?」 「ちょっと接続関係確認するだけだよ!」 前科者は信用がなかった。 まあそれはさておき、 「簡単な問題ならわかるかもしれない」 自分のためだとそうでもないけど、他人のことならもう少しまともに頭が働く気がする。 知識的な部分でも、さっき見た市ノ瀬に比べたらまだわかるだろうし。 「偶然うちもさっきネットの接続関係で問題が起きたとこだから」 解決はしていないけど。 「ほ、本当ですか!?」 「あ……でもやっぱり」 「どうした?」 「こういうのとか携帯って個人情報の塊ですから……」 「グラシュを持ってくる。市ノ瀬の見てる前で作業すれば問題ないだろ」 「あ、でしたら私も……!」 というわけで、お互いグラシュで窓から外に出て市ノ瀬のノートPCを見ることになった。 「じゃあ早速」 カーソルを動かしてインターネットアクセスを確認する。 「あの……さっきの、気を悪くされました?」 「なんの話だ?」 作業の片手間で答える。 「ノートPCをお渡ししなかったことです」 「自衛はしとかないとって思ったんですが、自分でも自意識過剰かなとか鬱陶しいかもって」 「ああいや。むしろしっかりしてるなって感心した」 なんせ相手は隣に住むことになっただけの面識も浅い男だ。 考えたら無神経だった俺の要望に、よく毅然と断ったと思う。 「そう言っていただけますと助かります」 「ん」 あ……これかな。 「……なにかわかりましたか?」 「大体は」 「えっ、もうですか?」 「ああ」 予想以上に簡単なことだった。 市ノ瀬のノートPCは無線でアンテナの強いのから弱いのまで10以上の電波を接続先候補として感知している。 俺のPCに表示される接続先と相違ないだろう。 その中で、おそらく常時接続設定になっているであろう発信元が死んでいた。認識してない。 うちと同じだ。原因はモデムかルーターか…… 接続先リストを見るともうひとつ、一際強いアンテナを感知している。 どこかごく近い場所にあるのだろう。 試しに繋げようとしてみたけど当然パスワードを求められた。 「な、直ります……?」 「…………」 期待と不安の表情を浮かべている市ノ瀬には申し訳ないが、うちと同じで機械の故障までは直せない。 しかしこんな短期間で隣り合う二軒のネット環境が壊れるなんて。 知らない間に雷にやられたのか? さっき我が家でやったこととまったく同じ流れ、同じ接続先の死亡に俺は…… 「……ん?」 「どうされました?」 「ちょっとな……」 もう一度接続先リストを見直す。 もしかして…… ある可能性が脳裏をかすめる。 「えっ、どちらに行かれるんです?」 「すぐ戻る」 俺は自分の部屋に戻ると…… モデムのコンセントを挿す。 そして再び市ノ瀬の元に戻った。 「わ、すごい、直ってます!」 まさかとは思ったが本当に市ノ瀬のネット環境が復活した。 「どうされたんですか?」 キラキラと尊敬の眼差しで見上げてくる市ノ瀬に、 「いや、その場しのぎでしかないから」 言葉を濁すしかない俺。 ……なんて言えばいいのやら。 どうやら市ノ瀬は、引っ越してきて以来、故意ではなかろうが我が家のネット回線を使用していたらしい。 だから俺がモデムのコンセントを抜いた途端、ネット環境が死んでしまったんだ。 おそらく母さんがネットに繋がらなくなったのと同じタイミングで。 俺、パスワードとか気にしないで設定してなかったからな。どこからでも接続したい放題だったはずだ。 それをたまたま引っ越してきた市ノ瀬のノートPCが認識して設定されてしまったと。 で、おそらく市ノ瀬家の本当の回線はさっき試したパスワード付きの一際強い電波なんだろう。 できれば修正してやりたい。 パスワードも市ノ瀬家のルーターにシール辺りで貼られた暗号キーなんかがあるだろう。 だけど……もし違ったら市ノ瀬は今晩ネットができなくなる。 うちの回線使ってるって話した前提での話になるから、もしそうなったら遠慮しちゃうだろうし。 ま、目的は市ノ瀬の回線を復活させることだったのでとりあえずはこれでいいか。 「今はいいけど、手が空いた時にご両親に接続先を見てもらうといい」 「えっと、接続先ですね。はい、わかりました」 これでいずれ市ノ瀬の両親が気づいて解決するだろう。 「ありがとうございます」 「こちらこそおかげで助かったよ」 「はい? どうして日向さんが?」 「いやこっちの話」 稼働しているということは、少なくともうちのネット環境が死んだ原因がモデムとルーターでないことははっきりしたからな。 「これでさっきの話を友だちに相談できます」 「え、そんな目的だったのか?」 「さあどうでしょう」 ご機嫌に見える市ノ瀬は、そこでふと我に返ったように、 「あの、本当にお世話になりました。改めてお礼を……」 「そういうのはいいって」 「でも、日向さんにはずっと……」 市ノ瀬の雰囲気がかしこまっていく。 ……ここで捕まったら長くなりそうだ。 「うん、ネット直ってよかったな! じゃあおやすみ!」 俺は急いで自分の部屋へ逃げ込んだ。 「あ……」 「そうだ、また着替えのこと謝るの忘れちゃってた……」 「もう私……しっかりしてよ」 部屋に戻った俺は、グラシュを脱いでひと息つく。 市ノ瀬のあの生真面目さは慣れないな…… まあたまたま事が上手く運んでよかったか。 「さて、FCの勉強をしとかないとな」 コーチとしてみんなに顔向けできる程度にはやっておかないと。 ちなみに後日判明した俺のネット環境の不備は。 USBの受信機が抜けかけていただけという本当にしょうもない理由だった…… ゆっくりと深呼吸してから、部室と化した廃バスの横に降りる。 さてと……。今日から本格的に練習スタートだ。 一応、練習メニューは考えてきたけど……。自分でやるのと教えるのとでは全然違うだろうからな。 俺にコーチなんかできるのか? ……ん? みんなはどこだ? 俺はトイレ掃除の当番だったので、明日香とみさきは先に行くって言ってたのにな……。 空を見上げる。 ウォーミングアップでそこらへんを飛んでる、ってわけでもないみたいだし……。 あれ? 廃バスに違和感がある。 上部のサッシから降ろすタイプのカーテンが全部、閉じているのだ。 掃除した時に出してそのままになったのかな? そういえば、みさきが引いたり閉じたりして遊んでいたような気がする。 何気なく窓に近づき、閉じきっていないカーテンの下の部分から中をのぞいた。 「……ッ?!」 ハンマーで後頭部をぶん殴られたかのような衝撃が走り、一瞬、目の前が白くなる。比喩表現ではなく、リアルに口から心臓が出て来るかと思った。 こ、こ、こ、こ、これは! これは、なんだ? なんだじゃない! えっと、あれだ! な、なんだ? だから! グラシュでスピードを出す時、足の感覚が遠ざかっていくような気がする。それとよく似た感覚が両足に広がった。 混乱する頭の片隅で、窓から離れた方がいい、そう考えているのだけど……。 ──それはとても難しいことだ。 ということも考えるまでもなくわかっていた。 だ、だって俺は男なのだ。 こんなの──女子の着替えなんか見てしまったら、そこから動けなくなってしまって当然なのだ。 ごくり、と喉が勝手に動く。 くそっ! 後悔が脳裏を走り抜ける。どうしてもっと早く来なかったんだ! 明日香と真白はもう着替え終えてしまっている。 あと二十秒早ければ! これが最低な後悔だってことくらいわかっている。 だけど……。だけど! そう思ってしまうのだからしょうがない。 思考を止めようがない! それに……。 みさきはほぼ裸だった。 目を離せなくなる。 みさきをこんな風に見てしまうなんて、うまく表現できない敗北感があるけど──。 い、今だけは、負けでいい! だ、だからいつまでもモタモタと足を上げて、ユニホームに足を通すのをやめろ。 もっと膝を下げてくれれば……。そ、そうすれば──。 最低だ最低だ最低だ最低だ。頭の中で誰かが自分を責めているが、願わずにはいられない。 「これをここに通して……と。結構、着るのが大変ですね〜」 「そ、そうですね」 「練習用の服ならもっと楽なんだけどね」 「でも、最初の練習日は記念の日ですから!」 「気合を入れるためにも試合用のユニホームね」 「………」 「真白、どうかしたの?」 「さっきから様子が少し変ですよね?」 「いや、あの……。みさき先輩の着替え方は大胆だな、と」 「そう?」 「あ、それは私も思ってました。普通はもっと恥ずかしそうに隠しながら着替えますよね」 「や、やっぱり体に自信があるからでしょうか?」 「いや、別にそういうわけじゃないけど……。そういうの面倒じゃない? 女の子同士なわけだし」 「それはそうですけど、なかなか真似できません!」 「それじゃ、もっと恥ずかしがったほうがいいかな? 隠したり、とか?」 「半分正しいですけど、半分間違っています!」 「──どういうこと?」 「もっと恥ずかしそうにしつつ、隠したりせずにもっと大胆になりましょう!」 「凄いことを言い出したなー」 「そっちの方が、その……なんて言えばいいんでしょうか? その……そそります!」 「そそるんだ?」 「せめて、可愛い、とか、萌え、とかの表現の方が……」 「いえ! 私はそんな言葉で自分の心に嘘をつきません! そそります!」 「そんなこと力説されても」 「みさき先輩が可愛いからしょうがないんです!」 ──いいぞ、真白! そうやってみさきを調子に乗せれば……。 「もうちょっと膝を下げてくれれば胸が全部見えるのにね?」 「──そうだよな。その通りだよ」 「………………。………………。 ……意外と根性があるね?」 いや、根性とかの問題ではなく、びっくりしすぎて、どう反応したらいいのか、わからなくなってしまっただけだ。 「くっ。……口止め料はいくら欲しい?」 「とりあえずそこから顔を離した方がいいと思うけどな〜」 うっ! あと十秒。それだけの時間があればより素敵な光景を見れたかもしれないのに……。 「ぐぅ」 喉の奥から小さなうめき声を漏らして窓果に向き直る。 「……言い訳すると、そういうつもりじゃなかったんだ」 「なるほど、なるほど。で、どういうつもりだったの?」 「なんでカーテンが下りてるんだ? と思って窓に近づいたらたまたまそうだっただけだ。……で、俺をどうしたい?」 「コーチが初日からのぞきをしてたってバレたら士気が怒涛の勢いで落ちるだろうから、今回は秘密にしておいてあげるよ」 「ありがとうございます」 つい敬語になってしまう。 「まぁ、年明けまではね」 「なぜ年明け?」 「だってお年玉もらうでしょ? その時にそのお金でどうにかしてもらうから」 地味に計算高いな。 「とにかくこんなことしたらダメだよ、コーチ」 「反省してます」 ギギギギと軋んだ音をたててドアが開いた。 「あ、コーチと窓果ちゃんだ」 「そんなとこに立って、まさかのぞいてたりとか?」 「あははは。のぞいてたよ〜。みんなの着替えをしっかり見ちゃった。ねっ?」 「そ、そういう冗談を言うな」 下手に否定するよりも、そういう冗談を言ったほうがリアルだという判断なんだろうけど、普通に冷や汗が噴き出す。 「晶也センパイにそんなことする度胸なんかないですよ」 「いやいや、こう見えて晶也は男らしいとこがあるからね〜」 「ないって。俺はもうほとんど男じゃないような生き物だよ」 俺は必死に平静を装って言った。 明日香は肩を縮めてもじもじして、 「でも、ピッタリしているからちょっと恥ずかしいです」 「そうですよね。腕の置き場に困る感じはありますよね。胸を隠すのは自意識過剰な気がしますけど、だからといって、隠さずにいるのも不安というか……」 「みさきちゃんは堂々としてるね?」 「そういうのは慣れだって。水泳だって最初は水着が恥ずかしいけど、泳いでいるうちにどうでもよくなるじゃない?」 「確かに最初はバスタオルで隠しながら歩いているのに、帰りは水着姿でスタスタしてること多いです」 「どうせそうなるってわかってるんだから、最初から堂々としてればいいの。それに恥ずかしがってたら、晶也が喜んじゃうし」 「そうなんですか?」 「あはっ、あははは……。そんなわけないだろ」 「ん〜。反応が何かおかしくありませんか? 動揺しすぎですよ?」 「そんなことない。そんなことない」 「………」 「………」 「………」 「………」 「う、疑いに満ちた眼差しを俺に向けるな。俺は何もしていないぞ」 「おう、みんなもう集合してたのか」 校舎で着替えてきたらしい部長が降りてくる。 ナイスタイミングだ! 部長はみんなを見ながら大きく何度もうなずいて、 「うん! うん! うん! うん! お、俺はもう一人じゃないんだ! 感動だっ!」 「みんなフライングスーツを着ると部活するぞって感じだね」 「身も心も引き締まる感じがします」 「ちょっと可愛すぎる気もしますけど。水着っぽくなってるとことか」 「可愛いのはいいことだよ、真白」 「そうですね。みさき先輩の可愛い姿を見れて楽しいです!」 「……ただ問題なのはこれって着替える時に、裸にならなきゃいけないってことだよね」 喉が一気に渇く。 「……なぜそんな目で俺と部長を交互に見る」 「己の筋肉以上に愛する体などはないっ! だいたいそんなマネをするほど、俺も日向も卑怯な男ではない」 「あはっ、はははっ、まったく部長のおっしゃる通りです」 「みさき先輩をのぞきたくなったらわたしに言ってください。わたしが犠牲になりますから……」 「そんなこと言わないで真白。その時は二人で一緒に犠牲になりましょう」 「あ、二人だけでずるいです。私も犠牲に混ぜてくださーい!」 犠牲に混ぜろって凄い言葉だな。 「余計な心配はしなくていい。俺も部長もそういうことは絶対にしない」 「だよねー」 「のぞきなんかしたら信頼関係が崩れるだろうが」 「さすが、よくわかってる」 俺は両手で自分の頬を軽くパンパンと叩いて雑念を払う。 「で、今日から本格的な練習に入るけど、その前に確認しておきたいことがあるんだ」 「なになに? 私の好きな人は誰でしょう、ということ?」 「何が悲しくてそんなこと確認しないといけないんだ?」 「悲しいとか言うなー」 「何を目標にするのか、ということだ。やっぱり目標がないと練習に身が入らないからな」 「私はおもしろければなんでもいいけどなー」 「私も一緒です!」 「おもしろいというのは重要だけど、結果おもしろい、というのはよくても、目標がおもしろいというのはダメ」 「どうしてさ」 「士気が上がらないし、真面目にやる時に、これはおもしろくないってなったら、やる気をなくすだろ」 「うむっ! やはり悲願の県大会一回戦突破だ!」 「……兄ちゃん。それって悲しくない?」 「せっかくの目標ですからもう少し上を目指しませんか?」 「な、ならば二回戦突破だ!」 「全国大会優勝を狙います!」 「それはでかすぎるだろ。もうちょっと地に足のついた目標にしようよ」 「文句ばかり言ってー。だったら晶也が決めたら?」 「そうだな……。県大会ベスト8というのはどうだ?」 「ぐぅ。さすが日向! 理想が高いな」 「そうですか?」 「うちの県はFCの激戦区なんだ。ここで優勝するのは全国大会で優勝するよりも難しいなんて言われてたりするからな」 「そうだったんですか……。私、楽しみになってきました!」 「前向きでいいぞ。で、これからはまずできることを中心に基礎練習をする。ちゃんと飛べるようにならないと試合とかはできないからな」 「わかりました!」 「ゴールデンウィークが終わるまで基礎練習中心。あまりおもしろくないかもしれないけど、大切なことだから……」 「がんばりますっ!」 「あたしもガンバルぞー」 「わたしもー」 「おっしゃ! やってやるぜ!」 海上にブイを設置してから、準備運動をしているみんなに近づく。 「じゃ、まずはフィールドフライから」 「はい! フィールドフライってなんですか?」 「距離をとってみんなでフィールドをくるくる回るだけ。まず綺麗な姿勢を作るのが大切だからな」 「そんなことしてないで、バチバチやりあおうよー」 「ダメ。まずは基本から。みんなのグラシュの設定もそれを見て決めるから。スピードは出さなくて良いから、ラインに沿って真っ直ぐ飛ぶように」 「はーい」 「わかりました」 「がんばります」 「あっ、部長。一応、言っておきますけど、追い抜く時にぶつからないよう気をつけてくださいね」 「わかってる」 「他のみんなも追い抜く時はぶつからないように、後ろから一声かけるように」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 「うおりゃー」 やっぱり部長は真っ直ぐ飛ぶのは上手だな。ブイのとこで曲がる時にぎこちないのが気になるけど……。 「えいっ、あらっ……えっ、ととっ、な、なんか傾いちゃいますっ」 真剣に真っ直ぐ飛ぼうとしてるけど、右側に少しずつ傾いちゃってるな。右肩に力が入ってるのかな? ──佐藤院とかいう人と試合した時は、もっと綺麗な飛行姿勢だった気がするんだけど。 「きゃ、んっと、おっかしいなあ〜、わわわっ、ひゃあっ」 真白も明日香と似た感じだな。 違うのはラインを修正しようとして蛇行してしまってること。慌ててる感じの飛び方だ。 「うわっ? わっ、わっ、なにこれ、ぜんっぜんまっす、ぐ、いっかない、んだけどっ」 あれは問題外だな。まったく真っ直ぐ飛べてない。ふらふらしすぎで安定していないにもほどがある。 ピーキーなファイター用のグラシュだから真っ直ぐ飛ぶのは結構、難しいからな。 それにしてもひどいけど……。 十五分くらいたってからみんなを呼び寄せる。 「結構、疲れますね」 「ですね。普通のグラシュで飛ぶよりもずっと緊張します」 「全身がバキバキでもう限界」 「……限界が早いな」 「うふふっ……。でもこのグラシュを征服してると思えば」 マゾなんだかサドなんだかわからんな。 「はーい。麦茶を用意してるから飲んでねー。水分補給は大切だよ」 「やったー、終わり終わり、麦茶飲んで終了だー」 「飲み終わったら次の練習な」 「終わりじゃないの?!」 「十五分で終わるわけないだろ!」 どんな部活だ。 「次はさっきのフィールドフライに変化をつけるからな。追い抜く時に相手の背中をタッチしていくこと。タッチされる方は逃げないように」 「どうして逃げちゃダメなんですか?」 「タッチされてバランスが崩れた時に立ち直るための練習だから。接触した時は立ち直りが早い方が有利だからな」 「……ということは、タッチされた後にすぐに姿勢を戻して、真っ直ぐ飛ぶように努力すればいいんですね?」 「そういうことだ。とりあえず最初は両手両足を広げて、バランスを取るようにしてみてくれ」 「グラシュのお店でわたしがやったみたいにですか?」 「そういうこと」 「ふーん。さっきよりは楽しそうだね」 「部長。多分、部長がタッチしまくる練習になると思うんですが、なるべく低スピードでお願いします。部長に本気でぶつかられたら初心者は吹っ飛ぶと思うので」 「兄ちゃんはすぐに自分に夢中になるから不安だなー」 「俺だって部長としてみんなのために努力するつもりだ。まかせておけ! ゆっくり飛ぶぜ!」 「じゃ、はじめましょう」 ──思っていた通りと言えば思っていた通りだな。 明日香と真白はおもしろいほど吹っ飛ばされて、 「きゃああぁぁ!」 「ふにゃー!」 あわあわしてしまってなかなか立ち直ることができない。まるで、空中でおぼれているみたいだ。 「よっ、と。部長。もっと強くタッチしてくれてもいいですよー」 みさきは立ち直りが異常に早い。真っ直ぐ飛ぶことに苦戦してるのに、元の状態にはすぐ戻ってしまう。 ──経験があるって言ってたけど、どのくらいやってたのか聞き忘れていたな。 なんでもできるタイプだけど、ここまでとはな。 「………」 脳裏を昔の嫌な映像が掠める。 どれだけスピードを削ってバランスを崩してもあっさりと起き上がってくる選手がいた。 あの男のスタイルに似てる。 考えているだけで、少し喉が乾いてくる気がした。 ──さて、と。 初日だから練習はこのくらいにしておくか。最初からあんまり無理させないほうがいいだろうからな。 みんなの特徴も少しは見えてきた感じだし。 んっ? 上から人の気配。 「あ、先生だ」 上からグラシュを履いた葵さんが降りてくるとこだった。 「おう。ちゃんと練習してるみたいだな。だけど初日から無理させちゃダメだぞ」 「わかってます。今、終わりにしようと思っていたところです」 「ちょっとした報告があるんだ」 「なんですか?」 「もう練習終わるんだろう? 制服に着替えてから集合だ」 「わかりました」 「机の上が女子好みだな」 「やっぱりほら、こういう雰囲気じゃないと、部活も楽しくないですからね〜」 「青柳が部長だからもっと筋肉っぽい部室かと思っていた」 ──筋肉っぽい部室って。 「俺はそこらへんこだわらないですよ。もっともっと乙女な部屋にしてもらっても平気だ」 「力強くそんなこと言われても……」 「さーさー、先生もおかし食べてくださいよ。これ、おいしいですよ」 「そんな風に媚を売っても成績には響かないぞ」 「いやいや、単純に先生が食べてないと、食べづらいってだけのことですよ」 「そうです、そうです。萎縮しちゃいます」 「そうは見えないけど、そこまで言うならいただこうかな」 「で、ちょっとした報告ってなんですか?」 「あー、それな。ゴールデンウィークは高藤学園と一緒に、合宿すると決まったから。練習試合をどんどんやっていく」 「はあぁぁぁあっ?!」 「高藤学園ッ?!」 「なんでそんなに驚く?」 「いや、だって見てくださいよ。部長以外はまだちゃんと飛ぶこともできない状態ですよ。試合なんか無理ですよ」 「最低限、試合ができる程度まで飛べるようにするのが、おまえの仕事だろ?」 「いや、でも……」 「初心者だからこそ試合をした方がいいんだよ。試合でしかわからないことは早めに知っておいた方がいい」 「そうかもしれませんが」 「それに締め切りがあった方がやる気がでるだろ? じっくりと基礎をやろうだなんて考えてたら、いつまでたっても本気になれないぞ」 「本気、ですか?」 「本気にならないと基礎も身につかないだろう」 「そりゃまあ、身につくペースは上がるかもしれませんけど」 そもそも、本気って何を示すんだ。 「まあ、合宿は決定だからな。無茶だと思っても、それにしがみついてやってみるんだ」 「わかりましたよ。合宿までには試合できるくらいまでにしてみせます」 「が、がんばります!」 「いきなり試合ができるなんて楽しみー。普通の練習よりそういうのが好きだなー」 「わたしはちょっと不安です」 「やってみないといつまでも不安なままだぞ」 ──たしかにやって覚えるってこともあるだろうけど。 「さて、先ほどの練習を見ていたが──」 葵さんはみさきを見て、 「素人にしてはいい動きするじゃないか」 「ありがとうございま〜す」 「みさきは素人じゃないです。経験者ですよ」 「なるほどな、どおりで。それと倉科もよかったぞ」 「ありがとうございます!」 どういう意味で葵さんはよかったと言っているんだろう? 「ふふ〜ん」 「なぜそこで含み笑いをしますか?」 「最初から名コーチはいないってこと。みんなを成長させるってことは、自分も成長しなきゃいけないってことを理解しなよ」 「それが明日香と関係あるんですか?」 「関係あるのかもね。ま、ちゃんと見てあげなさい。私が口出しばかりしていたら、晶也のためにならないからな」 「……はい」 「それじゃ、みんながんばるように」 葵さんは席を立つと大きく背伸びをして、グラウンドの方に飛んでいった。 ──いったい何を言いたかったんだ。 まぁ、何を言いたかったにしろ、俺がすることは、短期間で試合できるレベルまでもっていくことだ。 せめて、ハイヨーヨーとローヨーヨーくらいはできるようになってもらわないと。 あの高藤学園との合同合宿に、まさか足を引っ張りに行くわけにはいかない。 「……ん?」 ふと何かを思い出しかけた気がした。 高藤学園……突然の合同合宿……足を引っ張る…… 「部活で、ちょっと納得できないことがありまして。それも部内の問題ではなくて、他校の勝手な都合に先輩たちが振り回されてしまうことになって」 「……………………」 「わ! 晶也さん、顔が引きつって……体も震えてるような……だ、大丈夫ですか!?」 「いや、あの高藤とこんなに早くあいまみえる機会が与えられるとは思ってなかったからな。武者震いさ」 一瞬、今朝、家の前で、夕べのお礼でも言うつもりらしく俺を待っていた生真面目な隣の家の女の子の顔がなぜか思い浮かんだけど。 きっと偶然だ。そう信じたい。 「わあ! 頼もしいです晶也さん!」 それに何よりまずは彼女たちの期待に応えなきゃいけない。 嫌な予感はするけど、今はそれを振り払おう。 気分を切り替えるために、俺はみんなに声をかける。 「集中してやってくぞー!」 「はい!」 「おー」 「おー」 「おー」 「本当に大丈夫なのか、これで……?」 やる気十分な明日香はともかくとして、みさきや真白を見ると、不安が先に立つのだった。 「は〜、今日もたくさん練習しましたね」 「ああ」 明日香の言葉も上の空に、俺は明日からの練習メニューを考えていた。 飛ぶのもおぼつかないぐらいの部員たちに、飛び方からさらに発展した話をしなくてはいけない。 いや、話だけなら別に簡単だ。身体で覚えて実行するのが、どれだけ大変か。 それ以外にもやることは多い。ルールの徹底、攻撃と防御、その効果的な練習。 ……先生はなんでまた、こんな無茶な予定を組んだんだろう。 「晶也さん……?」 「ん? 今、俺のこと呼んでた?」 「はい、ちょっと」 「そっか、ごめん。ちょっと考えごとしてた」 「ひょっとして……今度の合宿のことですか?」 「よくわかったな」 「先生と話したあとの晶也さんを見てれば、それぐらいはわかります」 「そっか……」 自分では普通に振る舞っているつもりでも、やはり周りにはそう映ってしまっていたか。 まあ、あれだけ悩みの濃い話が湧いてきたら、隠す方が難しいのかもしれないけど。 「あの……」 「わたし、まだまだ全然飛べないですけど、それでもがんばりますから……」 「だから、見捨てないでよろしくお願いしますっ」 「見捨てるとか、そんな」 ありえない、と言おうとして、思う。 明日香からしてみれば、俺はお願いされてコーチにさせられたのであって、ずっといるのか不安なのかもしれない。 そこへ来て今日の流れだ。辞めてしまうかもと思ってもおかしくはない。 俺の態度が皆を不安にさせてたのだとしたら、それはコーチ失格だよな。 「大丈夫、安心していい。俺はちゃんと明日香やみんなを、きっちりと飛べるようにコーチするから」 「本当ですか?」 「ああ」 「……わたし、ほんっとに、出来が悪いかもしれませんよ?」 「その時はタイヤを担いででも飛んでもらう」 「ひえぇっ、なんか昭和っぽいしごき方ですっ」 「昭和も平成もなく、やってもらうよ。でも、そこは楽しくできるようには、する」 明日香に向かって笑いかける。 「あまりに苦しいことばかりさせても、それはコーチとして失格だからな」 「あ……」 明日香もそれに応えて、笑うと、 「ですね、楽しいこと、大切だと思いますっ」 楽しいこと、ね。 俺もまずは、そこから始めないといけないのかもな。 「あ、でも練習自体はキツいこともあるからな」 「そ、そうなんですねっ」 「身体をいじめないといけないからな。そこは避けては通れない」 「わかりました、コーチ! わたしの身体をいじめてください!」 「そこだけ拾うと思いっきり犯罪だけど、わかった」 「はい、がんばりますっ!」 明日香はそう言って、 「……うん、がんばれます」 サイドで結んでいる髪飾りをそっと手にし、誓うように言った。 羽根の形をしたそれは、元気な明日香に似合っていたけど、一瞬、妙な違和感もあった。 「今の、それって……」 「えっ?」 「いや、今その髪飾り触ってたのって、何か癖なのかなって思って」 「あ、えっと、あはは」 明日香は恥ずかしそうに笑って、 「そうですね、ちょっとしたおまじないなんです」 「そうなんだ」 「ですです。元気を出すために、みたいな感じで」 そこまで話したところで、 「あ、そろそろ着きますね」 ちょうど、停留所に近づいたのだった。 「明日から、忙しくなりますね」 「そうだな。ビシビシやるから、がんばってついてきてくれよ」 「はいっ、コーチ!」 元気よく答える明日香に、俺はほんの少しだけ、ホッとしたのだった。 合宿まであまり時間がない。 でも、期間を区切った分、そこまでにやることも決まってきた。 「先生の意図通りなんだよなあ……」 完全に手のひらの上なのは悔しいけれど、俺は合宿に向け、気合を入れ直した。 「第2話END」 ゴールデンウィークに入ってすぐのある日。 俺がコーチを務める久奈浜学院FC部の面々は顧問の葵先生に引率され、ある場所に向かっていた。 「学生の自由な自治……ですか?」 「いわゆる生徒会を高藤では自治生徒会というらしい」 「ほとんど学園を治めると言ってもいいくらいの行政組織なんだそうだ」 「そしてその生徒の数が多い。首都にある本校は生徒数だけで6000を超える」 「いま向かっている福留島分校は、本校と比べればさすがに数は落ちるがそれでも十分にマンモス校といえる」 「マンモス校……」 「青柳妹は地元なんだから校舎くらい見たことあるだろ」 「そうじゃなくて、マンモス校ってなんか死語っぽい響きだなって……痛!」 がくん、と変な角度で窓果が傾く。 「ちょっと先生、変な風にぶつかってこないでください!」 「なんだ青柳妹? それは死語を使った私を古いとか骨董品だとか言いたいわけか? ん?」 「け、決してそんなことは!」 「というか、おまえ最近言うようになったなあ? もう少しおとなしめな生徒かと思っていたぞ?」 「なるべく心を開こうと思っていたんですが、やっぱり閉じたほうがいいのかなって今絶賛葛藤中です!」 「…………」 葵先生が静かにキレていることを察知した俺は、触れずにそのまま捨て置くことにした。 「ま、窓果ちゃん大ピーンチ! こんなときこそ助けてお兄ちゃん! こんなときだけお兄ちゃん!」 「死角からの接近でああも見事に相手のバランスを崩すとは、さすがは各務先生。高度なスキルを難なくやってのけられる」 「まあ、確かに上手でしたけど、普通の飛行中にはあまりしない方がいいですね」 「窓果、お前もFC部の末席、先生の特別授業から技を盗むんだ」 「私マネージャーだよ!」 「っていうかあんまり動いたらメイクが! メンブレンが肌に擦れて会心のナチュメが崩れちゃう〜!」 「なちゅめ?」 「ナチュラルメイクですよ」 「ああ、ドンチュノみたいなこと」 「え? え〜っと……?」 「よ、よくわかりませんけど、みさき先輩のおっしゃることならわたしも信じます!」 俺は葵さんに近づいて、 「なんで飛んでいくんですか? 他の交通手段もあるじゃないですか」 「これも練習の一環だ」 「……ちょっと意味が分かりません」 思わず眉をひそめる。 「いや、単純に申請から期間に余裕がなかっただけだ。交通手段どころかこの合宿自体、相手の予定にねじ込ませてもらったくらいだからな」 「いいんですかそれは……?」 別の意味で不安になる。 「そもそも予算に余裕もないしな。FC部なんだから、飛んで行くのも不自然じゃないだろ」 「不満があるなら歌でも歌うか?」 「べつに遠足気分を出したいわけじゃありません」 「ま、あとあえて移動手段をグラシュにした理由を強いて挙げるなら」 「もうあまり聞きたいとは思いませんけど」 「ここ一週間で、かつての愛弟子がコーチした生徒が、どれほど上達したかを見ておきたかった」 「…………」 興味を失って逸らしかけていた視線が思わず葵さ……先生の元に戻る。 「……なんてのはどうだ? うるっとくるか?」 挑発的な表情の中に、付き合いの浅い人間にはわかりづらいやさしさをどこか滲ませる、やっぱりいつも通りの先生の顔に、 「みんなの上達具合なら毎日ちゃんと部活に顔を出してればわかることですよ」 俺は半眼で言葉を返した。なにせこの顧問、まともに部活を見にきた試しがない。 感動するには振りが雑で、先生に都合のいい流れすぎた。 「善処しよう」 ……言葉とは裏腹に善処する気はなさそうだし。 「ま、それを見ればまだまだだってことはわかるがな」 「? それって……うわ、明日香!?」 「失礼してます〜」 びっくりした。いつの間にか明日香が俺のすぐ側に来ていた。 「どうしたの? またふっと姿勢制御がわからなくなっちゃったとか?」 「えっと、それも『ない』とは言い切れないんですけど」 「そうだ、ちゃんと言ってやった方がいいぞ倉科。コーチの教え方が悪いからなかなか上達できませんとな」 「先生はまた嬉しそうだし」 昔から変わらずこういうときは活き活きとしている。性格がよろしくない。 「いえいえ教え方が悪いだなんてそんな! わたしには全然っ、もったいないくらいですホントに!」 「そんなにテンパらなくても。でもありがとう。で、だったらどうしたの?」 「それはその……」 「わたし、先生からいま向かってる学校のことを聞いてる途中だったんですけど、あの、もしかして忘れられちゃったのかなーって」 「ふぅ〜」 「今だ、ガツンといけ明日香! 吸ってもいないたばこの煙を吐き出すフリして誤魔化すような人には、ちゃんと言ってやった方がいい!」 「……嬉しそうだな晶也」 苦々しげな先生の指摘は聞こえなかったことにした。 「いや倉科、忘れていたわけじゃない。説明の第一部が終わっていただけなんだ。すぐに波乱の第二部がはじまる」 学校説明に使われる単語じゃなかった。言い訳にしてもひどすぎる。 「な、なるほど! そうだったんですね! これからが第二部、すみません、気がつかなくて」 それを素直なこの子は信じちゃうし。 「違うでしょ。忘れてただけでしょ先生」 「私のツッコミがよほど先生の心をえぐったようですね〜。死語マスター葵! うくっ?!」 葵さんが手のひらで掠るようにふれた瞬間、窓果が大げさにも見える動きで真横に飛んでいく。 「うきゅぅ〜っ、マネージャーにそんな危険な技をかけるなんて!」 「何を言ってる? 本当に危険な技だったら窓果の命はもうないぞ」 「さすが先生。暗殺拳までマスターしておられるとは……。技を盗んでおくといいぞ」 「暗殺拳を盗める妹って兄的にどうなの?」 なにやら騒がしくなってきたので、先生の元を少し離れる。 「わっとっと……」 明日香もなんとなくという感じで俺についてきた。 「いま先生あんなだし、俺でよければ質問の続きに答えようか?」 「あ、でしたら」 と、そこで明日香はふとなにかを思い出したようにぴたっと手を合わせて、 「そういえばさっき先生、晶也さんのことを弟子だとか……」 「きっと空耳だよ」 「そうでしたか。晶也さんがそう言うなら間違いありませんね!」 「…………」 明日香の素直さに申し訳ない気持ちになる。 だけど説明する気も時間もないのだから仕方がない。 っと。 「だったら質問の続き、いいですか? 大きい学校というお話ですが、具体的には……」 「ストップ」 「ま、またおあずけですか! 先生のおっしゃるところの第二部完、第三部へ続くんですか!?」 「そうじゃなくて百聞は一見に如かずを実践してもらおうかなと」 「はい?」 俺は明日香だけじゃなくみんなに停止をかける。 眼下には、とても一学園施設とは思えない敷地が広がっている。 「到着だ」 俺たち久奈浜学院がある久奈島から南西に5.4km。 フェリーなら19分。 この島の北東部にそれはある。 「ここが高藤学園福留島分校か……」 「ふえぇ、大きいですねえ」 明日香が見たままの感想を漏らす。 「倉科はここに通うという選択肢もあったんじゃないか?」 「高藤は全国的に有名だもんね」 「そうですけど」 「なにか理由が?」 「おっきいと移動教室のとき大変そうじゃないです?」 明日香らしいといえば明日香らしい答えだった。 「それに、それをいうなら皆さんだって高藤に入ってないじゃないですか」 「それは……」 「近かったから、かな」 それは他人から同じ質問をされたときの俺のお決まりの答えだった。 自分でもずっとそう思い込んでいたけど。 今は違う気がする。 きっと避けていたんだ、フライングサーカスを。 だから、FC部の活動が目立たなかった久奈浜を選んで、それで結局、こんなことになっちゃっているけど。 「…………」 以前、一番最初に俺にその質問をした先生。 この人には最初から全部わかってたんだろうな。 「オレはFC部が弱小だったからだな」 と、予想外のところから同じ理由の人が現れた。 「部室も練習場所もメンバーの数さえままならない同好会」 「練習試合、結果を残しついに学校に認められて部活への昇格」 「そして大会初出場で全国制覇! 燃える展開じゃあないか、なあ!」 「メンバーの数もギリギリなまま、あとがない3年の春を迎えていましたけどね」 「やはり最後の決め手は筋肉だったよなぁ!」 「え、筋肉がわたしたちになにか恩恵を……?」 真白が不安になっていた。 同好会から部活に昇格したのではなく、部活から同好会に落ちた、が正解だ。 あと誰か全国制覇にツッこめ。 「っていうか兄ちゃん、高藤のスポーツ推薦を先生に土下座して頼んだ挙句落ちてたよね」 「この将来有望な筋肉をな。見る目のない高藤は今日そのツケをたっぷり支払うわけだ」 「でもこのあいだ負けてましたよね……?」 「ハッハッハ! それはそれ! これはこれ!」 「ポジティブだ……」 いや、筋肉の力なのか? あの明るさはなんだか羨ましい。でもなぜだろう。ぜんぜん憧れなかった。 「えっと、みさきちゃんと真白ちゃんは……?」 「めんどくさい」 「高藤なんてお金持ちの行く所です」 それも言い過ぎかと思う。 「窓果ちゃんも?」 「いや、私はほら、あんな人の多いとこに行ったら個性とか埋没しそうで大変じゃない?」 「何かあったときに私がメインヒロインになれるよう、こう身の丈にあった学校にしとこうかなって」 「合言葉は窓果ちゃんマジメインヒロイン!」 「控えめなようでものすごーく図々しいですね」 なぜか、なにかもう手遅れな気はしないでもない。 「そういえば、さきほどおっしゃってたのなんでしたっけ? 自治、生徒会?」 「ああ、大雑把に言うと高藤は学生が学園の運営、自治をしているんだ。もちろん擬似的なものではあるがな」 「その頂点が自治生徒会というわけだ」 「なるほ……ど?」 「ピンとこないか?」 「ならこういう話がある。少し特殊なケースかもしれないが」 「現在、高藤のFC部には監督がいない。名前だけの顧問がいるのみでな」 「え?」 「あれだけの名門校なのにですか?」 「実は去年まではいたんだ」 「どういうことなんでしょう?」 「名門の名を守るため、結果ばかりを重視して部を顧みない指導が続いたらしくてな」 「部員たちの手によって解任されたらしい」 「えぇ〜っ、じゃぁ今は?」 「監督解任を主導し、さらに監督不在の部をひとりでまとめ上げ――」 「去年、結果を残したどころかこの地域の覇者になったのが高藤福留島のFC部部長……」 「お待ちしておりましたわ!」 と、声を掛けてきた人物に顔を向ける。 いつの間にか、目の前にたくさんの学生が並んでいた。 その数はざっと50人を超えている。 この人たちが高藤FC部なのだろう。多分。 「…………」 見知った顔の存在で『多分』が『やっぱり』に近くなる。 ……部員総出のお出迎えとはな。 ちなみに先ほど声をあげたのは列の中央、 「ごきげんよう、久奈浜学院の皆さん!」 「……そういえば高藤だったっけ」 「あれ、知り合い?」 久しぶりの再会に、面識のない窓果が疑問の声をあげる。 「ちょっとな」 「え、じゃあ、佐藤院さんが高藤福留島の部長さんですか?」 「いや違う」 「真藤は?」 「シンドウ?」 「真藤一成。それが高藤福留島の部長にして当代最強のスカイウォーカーの名前だ」 「真藤一成……」 聞いたことがない。 「あ、その名前聞いたことある。かなり有名だよ。なんでも実力がピカイチで私らの年代のスカイウォーカー全員の目標だとか」 「そうなのか?」 いかん。自分たちに精いっぱいで周りに目を向けてなかった。コーチとして失格だ。 これからは周囲の情勢にも気を遣うことにしよう。 それはともかく。 「真藤部長は現在急用で席を外しております。我が部はマネージャーの数には事欠きませんが、あの方でなければ処理できない監督業もございますので」 佐藤院さんの発言にあわせて7、8人の男女が一斉にぺこりと頭を下げた。 内容から推察するに、この人たちがマネージャーか? 「大丈夫。量より質だよね」 「じゃあ完全敗北じゃない?」 「みさきひどっ!?」 まあうちのあまり機能していないマネージャーのことはともかくとして。 マネージャーだけでもこの層の厚さ。さすが名門の名前は伊達じゃないか。 「あの方も久奈浜学院の皆さんの到着を心待ちにしておられました。ですからすぐに戻られることでしょう」 心待ちか…… 先生の弁では、今回の合同合宿は高藤の練習に無理やり割り込んだ形らしい。 言葉通りの歓迎ならありがたいけど…… 「…………」 ……さて、どうだろうな? 「もちろん副部長であるわたくし『高藤の紫の薔薇』こと佐藤院麗子も歓迎いたしますわ!」 「先生、この方も有名なプレイヤーさんですか?」 「いや、彼女は知らん」 ばっさりだった。 「お嬢様タイプというか……なんだか高圧的な話し方をされますね」 真白が少し警戒している。 「ともあれ遠路はるばるお疲れさまです久奈浜学院の皆さん。高藤学園FC部を代表して厚く御礼申し上げますわ!」 「遠いところからお疲れになったでしょう。お部屋にご案内いたしますわ。さあ荷物をお貸しなさい。お持ちしますわ!」 そう言って佐藤院さん自らこちらの荷物を受け取ろうとしてくる。 言うほどの距離じゃないけど、佐藤院さんは素で労ってくれているようだ。 「……えっと、前言撤回します。そうでもないのかも?」 「カテゴリは腰の低い高飛車お嬢さま?」 「腰の低いと高飛車は矛盾してないか?」 というか、どっちも言葉として適当じゃない気がする。 佐藤院さんがいい人もしくは旅館の仲居さん気質なのは間違いなかった。 「いや、案内はあとでいい」 「あら、そうですか?」 「ああ。若いんだ。練習でもして打ち解けたほうがいいだろう」 また先生は適当なことを……打ち解けなかったらどうするつもりですか。 久奈浜の全員(いや明日香は除くか)が一斉に今の先生のツッコミどころ第2位を表情に浮かべる。 ちなみに第1位の『若さとなんの関係が?』は誰も口にもしなかった。障らぬ神になんとやらだ。 「というか自己紹介がまだだったな。私は久奈浜の各務だ。顧問をやっている」 先生の自己紹介と同時に、高藤女子部員の一部から歓声があがった。 学生スカイウォーカーにとって各務葵の美技や伝説はまだまだ健在らしい。 当時からモテてたもんなあ……主に女子に。 「静かになさい」 佐藤院さんがたしなめる。 「晶也」 「はい」 視線で促され、自己紹介を継ぐ。 「本日はありがとうございます。2年の日向晶也です。コーチをやらせてもらっています」 「プレイングマネージャーですか? だとしたら我が部の部長と同じですわね」 「いえ、専任で」 「専任ですか……まあ」 「…………」 佐藤院さんだけでなく高藤の部員たちが皆、目を丸くしている。 たしかに同年代でプレイヤーでもマネージャでもなくコーチというのは珍しいかもしれない。 さらに当代ナンバー1スカイウォーカーの真藤さんもプレイングマネージャーらしい。 その真藤さんが比較対象じゃ、あちらのハードルもさぞ高くなっていることだろう。 うわあ帰りたい…… 「といっても全然たいしたことなくて……」 「晶也はすごいぞ。名ばかりの顧問の私と違って部内のことをすべて仕切っている」 「ちょ、先生!?」 せっかくハードルを下げようとしているのにそれを打ち砕きにくる。 「責任感も強いしな。今から帰ってしまう私とは大違いだよ」 「ほんと勘弁してくださいよ先せ……先生!?」 いま何か聞き捨てならないこと言わなかったかこの人!? 「先生帰るって……!」 「安心しろ。引率として送迎はきちんとする。帰りも迎えにくるから」 「そういうことじゃなくってですね」 「それに私がいたら向こうの女子が練習どころじゃなくなる」 誰かの視線に気づいてウインクを返す先生。 再び黄色い歓声があがる。 「冗談はともかくとして」 「あながち冗談にも聞こえませんでしたが」 「向こうも生徒のみだ。先方からそういう条件で話をされている」 「見た目なら先生も生徒みたいなもんじゃないですか」 「……おまえ、あんまり大人を馬鹿にするとヒールで踏みにじるぞ」 ……いや、見た目若いってのは素直な感想なんだけどな。 先生は佐藤院さんに向き直ると、 「実質部活のことはこの日向に任せているからな。久奈浜の真藤と言っても過言ではない」 「それは過言でしょう……」 真藤さんを見たことがないけど。 「今日からの合宿も、この日向が実現させたんだ」 先生は復讐のつもりなのかあることないこと言ってハードルを上げてくる。 「まあ、それはそれは……」 困ったのはそれを高藤の皆さんが鵜呑みにしていることで。 「…………」 「ぅわぁ……」 つらい。 「じゃあ私は帰るからな」 「ああ、本当に帰るんですね」 一度言い出したことを飲みくだす人ではないとは知っていたけれど。 「もう止めるのはあきらめましたけど、帰るならせめてその前に部長のケアをしていってください」 「なに?」 「先生が俺を久奈浜の代表みたいに紹介するから部長がすっかり落ち込んじゃってるじゃないですか」 「…………」 俺もさっき気づいたが、部長がどんよりとしていた。 なんでこの人は、時たまこういうナイーブなところを持ち合わせているのか。 「よく見てるな晶也」 「そういうのはいいですから」 「そういったケアもコーチの仕事だ。なーに、それだけの観察眼があれば大丈夫さ」 「なにそれっぽいこと言って誤魔化してるんですか」 「あーダメだ。もう勤務時間外。意見を聞く耳は今日の受付を締め切りました残念」 「ちょっと、先生……」 「そういう所に気づけるのなら、その後のケアも含めてやってみろ。腕の見せどころかもしれないぞ」 この人、めんどくさいからやらないんじゃなくて、俺の自主性というか、リーダーシップを鍛えにきてるのか。 「……わかりました、やります」 先生には頼れなさそうだ。自然、俺がやらねばならなくなる。 俺は再び高藤の皆さんの方に向き直ると、 「自己紹介を続けますね」 「こちらが頼りになる我らが久奈浜学院の部長」 「…………」 ピクッ、と部長の耳が反応した。 「筋肉に関しては右に出るものはいません。部員たちも筋肉関係ではお世話になっています」 「応! 部長で3年の青柳紫苑だ! 合宿では筋肉の話ができるといいなと思っている! よろしく!」 俺の思惑通り、部長が華麗に復活する。 「筋肉関係でお世話になってるって、それじゃわたしたち変態集団みたいじゃないですか……」 「女子部員にそんなぞんざいな扱いしたら、きっと口をきいてもらえなくなるから気をつけなよ」 しかし一部女子部員には大不評だった。聞こえないフリをする。 一方、部長の流れから自己紹介が続く。 「はい! 2年の倉科明日香です!」 と、高藤の部員たちが密かにざわめく。 なんだ? 「フライングサーカスどころかはじめて空を飛んでからまだ3週間くらいですけど……」 ざわめきが大きくなった。 ……ああ、そうか。 明日香と、佐藤院さんを取り巻くような空気でなんとなくわかった。 明日香が佐藤院さんからポイントを奪ったことを高藤の部員たちは知ってるんだな。 しかもその相手がはじめて3週間、当時に逆算するなら1週間未満の相手となれば動揺もするかもしれない。 佐藤院さんのキャラなら権威も失墜するかも。 そんなことを思いながら佐藤院さんを見ると、 「久しぶりですね、倉科明日香」 「あ、お久しぶりです、佐藤院さん。わたしの名前、覚えてくれたんですね」 「いま自己紹介してくださったじゃありませんか。わたくしは一度聞いた名前は忘れません」 「今回の合宿では、前に奪われたポイントを取り返せると楽しみにしていますわ。よろしくお願いいたしますわね」 「えっと、こちらこそ。胸をお借りしてがんばります!」 優雅に一礼する佐藤院さんと慌ててそれに合わせる明日香。 へえ…… ちょっと意外だった。 佐藤院さんなら『あんなのまぐれですわ!』とかなんとかムキになって突っかかってくるかもと思っていた。 見れば高藤の生徒たちももう落ち着いている。 佐藤院さん。思った以上に求心力は強いのかもしれない。 そしてそんな彼女より立場が上の真藤さんの存在…… 高藤学園福留島分校か…… 「…………」 それに、さっきからどうも視線が痛い、見覚えのあるあの子もいた。 表情を見るに他人の空似であることを願いたい。 さて、自己紹介は続いている。 「有坂真白、1年生です。……えっと、あとは……」 「飛行スタイルも言っておけば?」 「わ、わかってます! いま言おうと思ってたんです!」 「まったく、センパイは……」 「飛行スタイルはファイターです。よろしくお願いします」 俺に向けてた感情とは真逆の笑顔を浮かべて真白がぺこりと頭を下げた。 こんな荒んだことを繰り返して少女は女になっていくのだろうか…… 「なんだ? 何か言いたそうだな、晶也」 「な、なんでもないです」 ちょっと物悲しい気持ちになった。 「あ、ちなみにわたしはオールラウンダーです!」 「俺はもちろんスピーダーだぜ!」 すでに自己紹介を終えたふたりも付け足してくる。 そして、 「鳶沢みさき。2年。ファイター」 「簡潔すぎるだろう……」 どうかこういう場では面倒がらないでほしい。 「…………」 「ニポンゴ ムズカシイネ」 「みさきはそのキャラで合宿を通すわけだな?」 「よろしくお願いします」 みさきが頭を下げる。 どうやらキャラを通し続ける面倒さに気づいたらしい。 「最後は歌って踊れるマネージャー! 久奈浜学院2年の青柳窓果ちゃんです! よろりんっ☆」 「じゃあ私は帰るからな」 「ありがとうございました」 「各務先生、お疲れさまでした」 「あれえっ!?」 ……あえてノーコメントにしておこう。 去りゆく各務先生の後ろ姿を見送っていると、 「あなた」 「…………」 「あなたですわ、あなた」 「…………」 「ちょっと、あなた!」 「え、俺ですか?」 「わたくしの視線の先にあなた以外いますか?」 とはいえ呼び方が紛らわしい。 「えっと、一度聞いた名前は忘れないんじゃ?」 「ええ、忘れておりませんとも」 「でも、だからといって呼ぶとは限らないでしょう?」 「……なるほど」 きっと名前で呼ぶなんらかの条件やルールがあるんだろう。佐藤院さんの中で。 「で、なにか?」 「本当にお部屋に通す前に練習でいいんですか?」 「そうですね……」 せっかく今は亡き先生が言い遺した提案だ。 「とりあえず練習してみましょうか。うちの部員に更衣室だけ貸していただけます?」 「えー」 「そこ、びっくりするくらい素直に不満を漏らさない」 お世話になってる相手方だぞ。空気を読め。 「では。更衣室はこちらになります」 「よろしくお願いしまーす」 佐藤院さん自らが先導し、部員と窓果もついていく。 「…………あ」 気がつけばその場に残されたのは高藤の大勢いる部員たちと俺だけになっていた。 しまった。俺もついていけば良かった。 やることがない。というか気まずい。 ……いや、違うな。 こういうときこそコーチの俺が率先してプレイヤーのみんなが入りやすい輪を作るべきだ。 そういうのは基本苦手だが仕方ない。というか、なんで得意な窓果までついていったのか。 まあいい。そしてまずは誰でもいい。 意を決して誰かに声をかけようと息を吸う…… 「あ、あのっ……!」 「…………」 そうだ。忘れていた。 彼女がいたんだったっけ。 「ちょっと、いいですか……?」 彼女に連れ出され、やってきたのは、人目につきにくい場所だった。 「えっと、最初に……」 「日向さんは、私が知っている日向さんで間違っていませんよね?」 「やっぱり市ノ瀬は、この春うちの隣に越してきた市ノ瀬か」 「やっぱり……?」 「ああ、市ノ瀬が高藤のFC部に所属してるのはなんとなく察してた」 「でしたら」 「え?」 「でしたら、私が悩んでいたとき、ずっと……?」 「……いえ、ごめんなさい。ひどいことを考えてしまいました」 なにか市ノ瀬の中で葛藤があったらしい。 「いや、俺もあのときは本当にわからなかったんだよ」 察したのはその後、先生に話を聞いてからだった。 「……どうしてこんなことをされたんですか?」 「こんなことって?」 端的すぎて何を指しているのかわからない。 「高藤学園FC部は、皆さん真面目にFCに取り組んでます。それはこの春、ここに来たばかりの自分でもわかります」 「練習は厳しいですが、目標や目的意識が高く尊敬できる先輩方や部員たちです」 「今は夏の大会を2ヵ月後に控えた、大事な時期なんです」 「特に3年生にとっては最後の公式戦。中には現世代最強と呼び声も高い、大会連覇を狙う部長……真藤先輩もいらっしゃいます!」 「まだ入部したばかりの私がこんなことを言うのはおこがましいかもしれません。……でも、その真剣さは常に間近で見ています」 「そんな高藤の大事な時間を割いて、創部したばかりの部活が……」 「いえ、悪いことではありません。ありませんが、どうして今なんですか」 お門違いの八つ当たりに思ったけど、市ノ瀬がそこまでわからず屋かと考えるとそうでもない。 おそらくさっきの先生との会話だ。 今回の合宿、というか久奈浜FC部を俺が仕切っている。そう聞いたからこそ俺に直訴してきたのだろう。 ゴールデンウィークの前に悩んでいた案件はきっとこれだったんだな。 自分の利害は絡んでないのに。 ……仲間思いの子だ。 それも好意的な見方をすればでちょっと突っ走りすぎかなとは思うが。 さて…… ここで今はいない先生の所為……というか、本当のところを話すのは簡単だ。 けど、それじゃあ何も解決しない。 ここにいない先生に責任を押し付けるのは(あの人のせいだけど)気分が悪いし、市ノ瀬の訴えは行き場をなくして宙ぶらりんになる。 ……市ノ瀬がどうでもいい相手ならそれでも良かったんだけどな。 「今さら訴えても意味ないだろ。要求は?」 「さすがに今すぐ帰れとは言えませんが、可能なら早めに切り上げていただけませんか」 「…………」 「申し訳ありません……」 謝る必要もないのに謝っている。 自分で勝手に他人のために突っ走って自分で勝手に傷ついて。 損しそうな性格だな、この子。 とりあえず何から反論しようかと考える。 と。 「やあやあやあ」 「え?」 「あ……」 突然の乱入者に空気が切断される。 「探してたよ。いやー、こんなところにいたとはね」 「だ……」 「あ、握手してもらえるかな。と言っている間に握手。ありがとう」 誰かを尋ねる隙も与えられず手を取られる。 というか、手をにぎにぎと握られている。 「ちょ……!」 反射的に手を振り払おうとする。 「っ!」 が、外れない。剥がれない。 ふと頭に閃くものがあった。 まさか、このタイミング…… 「真藤先輩……」 「やっぱり、この人が……」 真藤一成。 高藤学園福留島分校FC部部長にして当代最強のスカイウォーカー。 そして手を握られたまま、 「いや、こちらこそ。憧れのスカイウォーカーに会えて光栄だよ」 「え?」 「っ!」 背筋に氷柱を突っ込まれたような感覚と共に全身が総毛立つ。 ……この人、昔の俺を知っている……? 「部長、日向さんはコーチさんでプレイヤーじゃありませんよ?」 「あー、え〜っと」 真藤さんは少し思い悩んだように、 「話してもいいのかな?」 「……先に手を離してもらってもいいですか?」 「おっと、これは失礼」 離した手が、じっとりと冷たい汗をかいていた。 そんなことはお構いなしに真藤さんが話をする。 「この日向くんというのはね、少し前までもの凄いスカイウォーカーだったんだよ」 「ある日突然、伝説のまま引退してしまったけどね」 「え……」 こちらを見る市ノ瀬に、やれやれと首を振る。 「昔の思い出が美化されてる程度に聞いたほうがいい」 「でしたらそれでコーチを……?」 「……まあ過去の経験者ってところが考慮された結果かな」 俺にとって昔のことはあまり楽しい話じゃない。 否定はしないが詳細まで話す気もなかった。 「いやいや本当に凄かったんだよ。同年代のスカイウォーカーたちはみんな彼に憧れていた」 「日向晶也になりたかったんだ」 当代一のスカイウォーカーと呼ばれている真藤一成が? 「……言い過ぎですよ」 「どうかな」 真藤さんが薄い目をさらに細めて笑う。 「あれ? じゃあ市ノ瀬くんは日向くんにサインをもらいにきたわけじゃないのかい?」 「あの、えっと……」 まさか馬鹿正直に部を心配して俺に文句を言いにきたとは言えまい。 この状況は市ノ瀬には酷だ。助け舟を出すことにする。 「いや、実はサインが欲しいって言ってきたんですよ。恥ずかしいからって人目を避けて……な?」 「いえ、べつにまったくそんなことは……」 は・な・し・を・あ・わ・せ・ろ! 「!」 「あ、ああ、そうでしたそうでした。ごめんなさい。こんなところまで連れ出してしまって」 俺の必死の視線の訴えが通じ、市ノ瀬が話を合わせてくる。 「はは、照れ屋さんだなー」 「えへっ、ごめんなさーい」 かなり不自然だが本人たちは真剣に取り繕っているつもりだ。 「でもペンを忘れてきちゃったんだよな。くそっ、悔しいぜ!」 「本当に本当に残念です。わーい」 だがお互い慣れていなさすぎて一瞬でテンパっていた。 「ペンならあるよ」 「なんてこった……」 「え、今なんて?」 「い、いや、うれしすぎてなんてこったって!」 「さすが部長は準備がいいですね〜」 「さあ、柄にもなくサインを書くか。すごく見られてるし」 真藤さんにすごく見られていた。 「一生モノだから書かれるものもいい素材にしないとね」 大げさだし。 「そうですね。一生モノですからなにか大切でいて支障のなさそうなものを探さないと」 とはいえ、この格好では大したものがあるわけない。 「あの、ハンカチと、着てる体操服くらいしか……」 悲壮な表情だった。 「このどちらかに日向さんの名前を……」 気持ちはわかる。 「体操服はこのあとの部活を考えると面倒だからハンカチになるな」 「でもこれお気に入りなんですよね」 「…………」 かける言葉もなかった。 「あの、そういえばペンの種類って」 「心配はいらない。油性だよ」 「あ、あ〜、そうですかぁ。やったあ」 「はぁ……」 「…………」 もはや見ないフリもできない。 認めよう。俺もしっかり傷ついていた。 「あ、すみません。せっかく助けていただいてるのに」 「いや大丈夫」 3日もあれば忘れられると思う。 つまり合宿中ずっと引きずるってことだけど。 「気にしないで書いちゃってください。もうあきらめましたから」 「あ、いえいえなんでもっ」 「…………」 取り繕えてねぇ。 まあいい。さっさとサインをすることにする。 「あ……あぁ……あぁぁ……」 ……切なさそうな声が聞こえてます市ノ瀬さん。 そしてサインは終わった。 「あ、ありがとうございます。えっと、一生? 一生の宝物にしますね」 「ああ……」 ハンカチを抱きしめる市ノ瀬の顔が引きつっている。 サインをもらう側もする側も漏れなく傷ついていた。 こんな切ないサイン会がこの世に他にあるんだろうか? 「よかったねー。いやーいいなあ市ノ瀬くん」 この人は本当に羨ましそうなのがすごい。 「あれ? でも市ノ瀬くんって昔の日向くんを知らなかったのにサインが欲しかったのかい?」 「実はサインとか嘘で、彼女が越してきた先がうちの隣でちょっとご近所話をしてたんですよ!」 「そうなんです! 知られるのが恥ずかしくって!」 だよな? その話してたからそう思うよな!? 俺も咄嗟のごまかしが矛盾孕みで詰んだと思ったのに押し通せそうだったから目をつむって突き進んじゃったよ! 「なんだ、なるほど、そうだったんだ。そんな偶然があったんだね」 最初からこっちの路線にしておけばよかった。 でなければ市ノ瀬のハンカチという犠牲も生まれることはなかったのに。 「はぅ……」 市ノ瀬ごめん。 「いや、でも本当に羨ましいよ。僕なんか日向くんに会いたくて今日の合宿を組んでもらったくらいなのに」 「え?」 「…………」 今なんて? 「あ、市ノ瀬くん、今のは内緒で頼むよ。僕の部長としての最初で最後の権力の濫用……にしたいなあと思っていることだから」 「いや、今回の合宿って久奈浜から強引にお願いしたんじゃ?」 「ああ、各務先生はそういうことにしてくれたんだ。申し訳ないことをしたね。あとでお礼を言っておこう」 「と、いうことは?」 「今回の合宿は僕の方から久奈浜にお願いしたんだ。もちろん各務先生と話し合って両校にプラスになる要素があると判断しての結果だけれど」 「つまりこれは……」 双方の合意のもとで行われた合宿で。 「あ……ああ……」 久奈浜の強引な依頼による望まれぬ合宿だと勘違いしていた少女は真っ赤になっていた。 「日向さん、私、あの、私……」 混乱もしているのか若干しゃべりもおぼつかない。 「市ノ瀬くん、先にみんなの元に戻っておいてくれるかい。そうだね……10分後から部活を開始すると伝えてほしい」 「でも私……」 「頼むよ。僕に憧れの彼と話す時間をくれないかな」 なかなか背筋の寒くなることをさらっと話す真藤さん。 「あ……わ、わかりました」 ……まあでも今はちょっと時間を置いたほうがいいかもな。 「失礼します」 俺と真藤さん、そしてもう一度俺に頭を下げた市ノ瀬が、多少おぼつかない足取りでその場をあとにした。 「申し訳ない。彼女は少々生真面目すぎるきらいがあってね」 「……本当はどこから俺たちのやりとりを見てたんです?」 「どうかな」 真藤さんが真っ直ぐな笑顔で誤魔化す。 どうも食えない人だ。 「ともあれ助かりました。ちょっと話を盛りすぎだと思いますけど」 「いやいや、真実と本心を口にしたまでだよ」 「…………」 どうも信用するのは難しい。 「さあ、僕たちも戻ろうか。さっきは市ノ瀬くんの手前ああ言ってしまったが日向くんとふたりだとあがってしまう」 「あがってしまうって、そんな」 「まだ合宿はこれからだ。キミとはいずれゆっくりと話したいね」 「いずれ、ね」 真藤さんがくるりと背中を向けて、みんなの方へと戻っていく。 真藤さんと握手した手を見てみるとまだじっとりと濡れているような気がした。 真藤さんより遅れて皆の元に戻ると市ノ瀬が高藤の部員に囲まれていた。 「早速他校の男子生徒に手を出すとはね」 「よーしよし、わかったよ莉佳あの彼とうまくいくように応援してあげる」 「ちょっとーほんとにそんなんじゃないんだってばー」 「…………」 よかった。 転校生や生真面目という要素が変に作用せず、普通に友だちはたくさんいるみたいだ。 「あ、彼こっち見てるよ」 「チャンスチャンス」 「え?」 「う……」 市ノ瀬と目があった。 「…………」 (ぺこっ) 市ノ瀬はしばらく逡巡するような気配を見せたあとぺこっとお辞儀した。 俺も軽く手を挙げて返す。 「やー! なにその初々しい感じー!」 「うつるー! なんかこそばゆい感じのがうつるー!」 「もー! どうしろって言うのよー!」 「…………」 ま、仲が良さそうで何よりだ。 「晶也さん? なにを見てるんですか?」 「ああ、着替え終わったのか」 みんなが帰ってきた。 「はー、仲良さそう。……まるでわたしたちみたいですねみさき先輩」 「はいはいそうだねうんうんはいはい」 「言葉に熱がなさすぎっ」 「なに、日向くんはああいうのがうらやましいの?」 「なんでそうなる」 「いや、久奈浜のチームワークを見せつけたいのかなって。いわば前哨戦?」 「え、晶也いじってほしいの?」 「あっ、わたしは嫌ですから」 「え? やり方さえ教えてもらえればわたしやります!」 「自分をいじってもらうのにそれも悲しすぎるだろ」 「なんだ、どこかいじってほしいのか」 「部長はあっち行っててください!」 その後、全員が揃ったところで高藤の練習場に移動となったが、そこが…… 「は〜、すっごい設備ですねぇ」 「うちとは比べ物になりませんね」 「悲しいことをはっきりと言うなよ」 まあ言うまでもなく比べ物にならなかった。 しかしここまでとは…… さすがは常勝・高藤。 分校とはいえ超名門私立だ。 この環境から毎年トッププレイヤーが生まれるわけだ。 俺もコーチとして何か盗まないと。いや、もちろん物理的に器具をとかじゃなくてな。 特にナンバーワンプレイヤーである…… 「日向くん」 「うわ!?」 「? どうかしたかい?」 「……ああ、いえ。ちょっと考えごとをしていたもので」 考えごとの張本人、しかも内容がスキルを盗むなんてことだったので、少し焦った。 「それで、真藤さんこそどうかされましたか?」 「うん。まずは柔軟をするとして、そのあとの練習内容について話を聞こうと思ってさ」 「と、いいますと?」 「一応、最終日に今回の合宿の総決算として学校対抗の模擬戦をやろうと考えているんだ」 「でももしかしたら日向くんの方はもっと実践的な練習を考えているかもしれないって確認をね」 「ああいえ、そんなことは全然まったく」 そもそもそんなレベルじゃない。 逆に潰されてしまう可能性が高いくらいだ。 「高藤の皆さんに胸を貸していただければって程度で」 「そうか。ふむ、困ったね」 「……どうかされましたか?」 「僕はね、君の指導から何か学べないかと思っていたからさ」 「…………」 真藤さんは眉一つ動かさない。……ということは冗談じゃなくて本気らしい。 最強と呼ばれる人が、そんなことを明け透けと。 「じゃあとりあえず、今日はまず両校の生徒が打ち解ける場を設けることを前提に組み立てよう」 さらに、さらっと自分の希望を抑えた提案をしてきた。 なんだか人間の器からして違うような気がしてならない。 ……だけど見解に相違はある。 「どうかな?」 「必要以上に仲良くする必要はないでしょう」 「……うん?」 「仲良しこよしになりにきたわけじゃありませんから」 「…………」 さっき考えたとおり実践的な練習は潰されてしまう可能性が高い。 だとしたら、それをさせないのが俺の仕事だ。 同時に、トップレベルの壁の高さを思い知らせるのも今回の目的に入っている。 「ただ、ご配慮は感謝します。そうですね、きっかけくらいは用意してもいいのかもしれませんね」 「ならば貴重な練習の時間は限られているから軽いゲーム扱いがいいかな」 「それらの結果を踏まえて今日以降、明日の練習はまた考えよう」 「異存ありません」 「いや、すまないね。そんなつもりはなかったのだけど日向くんの気持ちを軽く見ていたのかもしれない」 「こちらこそ生意気を言って申し訳ありません」 「さて、となると練習方法だけど、そうだね……ふむ」 「ゲームと言いつつ過酷な練習メニューにして極限状態で友情を目覚めさせるなんて手もあるね」 「ここは普通にゲーム感覚のでいいと思いますけど」 「はは、冗談だよ」 「いや……」 真藤さんの涼しい笑顔じゃ本気か冗談の区別がつきにくい。 「佐藤くん」 「佐藤院ですわ、部長」 「みんなを集めて先に柔軟をはじめておいてくれるかい。僕は」 そこで真藤さんは俺を示し、 「彼と一緒に今日の進め方を考えているから。僕ら以外で任せられるのは副部長の佐藤くんが第一候補だ」 あ、また佐藤くんだ。 「お任せあれ、部長。あなたの期待には十二分に応えてみせましょう。それと佐藤院ですわ」 「うん、君がいてくれて助かる。これからも頼むよ、佐藤くん」 「…………」 なんでだ。 このふたり、実は仲が悪いのか? 「…………」 「ちょっと、あなた!」 「え、俺ですか?」 と、突然佐藤院さんに指を差されて驚く。 「なぜわたくしが部長にこう呼ばれているか気になったでしょう」 「あ、ええ、まあ……」 抱いていた疑問をそのものズバリ言い当てられる。 実際、佐藤院さんがこの場を去ったら真藤さんにやんわりと尋ねてみようと思っていた。 確執でもありそうなら深く追求はしないつもりだったが。 「もやもやを残す必要はありません。わたくしがこの場でお答えしておきましょう」 「え、いや……」 ものすごく仲が悪いとかだったらどうするんだと焦る。 「それはわたくしの戸籍上の登録名が『佐藤』だからですわ!」 なぜか自信満々に言われた。 「…………」 「は?」 一方、俺の理解はすぐには追いつかない。 えっと、戸籍上の名前が佐藤ってことは…… 「え、本名は佐藤さん……?」 「そうなるよね」 「佐藤院ですわ」 だからなんで自信満々なのか。 「あの、その院はどこから……?」 「…………」 「う……」 不意に佐藤院さん……佐藤さん? の顔が間近にくるほど距離を詰められる。 そして、 「逆にお聞きしますが、どうしてあなたのお名前には『院』がついていないのかしら?」 「え……?」 「久奈浜学院の名前にあぐらをかかないことを忠告いたしますわ」 「いや、そんなつもりは……」 「ふっ」 佐藤さんは勝ち誇ったように笑ってみせると 「それでは失礼」 一度後ろ髪をかきあげ、身を翻して去っていった。 長い髪の毛が綺麗なマントのように広がる。 彼女の後ろ姿を呆然と見つめながら、 「えぇっと……」 困惑しか残っていない。 「補足しておくと彼女は佐藤という苗字を卑下しているわけではなくて、それ以上に院が好きなだけらしいよ」 「はあ……」 いや、ものすごくどうでもいい情報ですけど。 「佐藤院さんって呼ばないと怒られたりするんですかね」 「いや、彼女は言い咎めはしても強制はしないよ」 「それでもみんなが彼女を佐藤院さんと呼ぶ。それだけ慕われているんだね」 「空気を読んでるだけじゃ?」 障らぬ神に的な。 「それに真藤さんは頑なに本名で呼ばれていたじゃないですか」 「僕は基本的に女の子が苦手だからね」 「ああやって会話が続くのは楽なんだ」 「…………」 この人はこの人で、冗談なんだか本気なんだかよくわからないことを言うし。 とりあえず俺はこれからも佐藤院さんと呼ぼう。絶対。必ず。 「さて、それじゃみんなには地獄を見てもらいましょうか」 練習でクタクタになってからの夕食後。 荷物を持って通されたのは高藤の武道場だった。 今回の合宿では男子部員全員、ここに布団を並べて雑魚寝することになるようだ。 ちなみに数の多い女子部員はここから距離の離れた体育館が充てがわれているらしい。 今日、あとは風呂に入って消灯時間に寝るだけだ。 昼間の件もあって、微妙に真藤さんには警戒してしまうが今のところは何かアクションを起こす様子は見えない。 「日向ー、もうちょい右だ。もっと力を入れろー」 「そうは言っても部長の背筋、ぷりぷりして力入れると逃げるんですよ」 「ハッハッハ、なんだ日向。褒めても何も出ないぞ。だがこの後の風呂で俺の背中を流す権利をやろう」 「いや、別にいらないですよ。本気で」 そして俺はいま、うつ伏せになった部長の背中に乗ってマッサージをしていた。 別に強要されたわけじゃない。 むしろ今後スキルとして身につけておいた方がいいかと申し出たんだけど…… 「ぐ、ぐ、ぐ……どうですか部長?」 「ああー、なんか気持ちがいい気がする」 ……この人、微妙な力の入れ具合とか全然関係ないな。 あまり他の人間相手の参考にはならない。 「いいなあ。僕も後で頼もうかな」 「っ!」 「ぬ、真藤!」 と、部長が跳ね起きたので俺も離れることになる。 「ダメだ許さん! 日向は久奈浜FC部の財産だ!」 「はは、冗談だよ」 真藤さんは軽く頷くと、 「冗談だよ……はぁ……」 「冗談だったら悲しそうにため息をつかないでください」 なんなんだこのおぞましいモテ期は。 しかし真藤さんか…… 俺の過去を知っていて接触してきた人物。 悪い人じゃないと思うんだけど、何を考えているのか、どうも底が見えない。 自然、軽い緊張とともに身構えてしまう。 「ところで日向くん。ちょっと相談があるんだ」 「はい」 答えながら内心で、きたと思った。 昼間の話の続きかもっと違うことか…… 「ちょっと話しづらいことなんだ。耳を寄せてくれないかい」 「わかりました」 内緒話を聞くように耳を近づける。 「オイ! お前ら男らしくないぞ! 女々しくこそこそせずに堂々と話せ! 堂々と!」 「大事な話なんだよ」 「声を忍ばせるような話がか? ハッ、馬鹿な!」 「真藤さん真藤さん」 「うん?」 「うちの部長、疎外感で寂しいんじゃないかと」 「ああ、僕もまさかとは思っていたけれど試してみようか」 「え……」 「青柳くん。だったら君も耳を寄せてくれないかい?」 「くだらん話だったら承知しないぞ」 あっさりと部長が耳を寄せてくる。 ……いや、これはこれで困るんですけど。昼間の話の続きだったりしたら特に。 しかし真藤さんは大丈夫と言わんばかりに頷くと、顔をキリッと引き締めて、 「今から女子の風呂を覗きに行こうと思うんだ」 「…………」 「は?」 意味がよくわからなかったので聞き返す。 「いや、だからさ、今から女子の風呂を覗きに行こうと思うんだ」 「…………」 繰り返された言葉に間違いがないことを確認して俺は戦慄した。 何を……何を仰っているんだこの人は。 なんか別の意味でこわい。 「いやいや、誤解しないで欲しい」 俺の視線に気づいたらしい真藤さんは紳士的に首を振ると、 「僕は女子部員の裸にさほど興味があるわけじゃない。これまでも考えたことさえない」 「それはそれで女子部員にすごく失礼な気がしますけど、だったらどうして……?」 俺は怖々と聞き返す。 「日向くん、君と困難に立ち向かいたいんだ。結果より過程を重視しての提案だよ」 「だったら犯罪にならないやつにしましょう」 「これ以上ない極限状態でこそ真の情や力は発現するものさ」 「全部失いますよ。信頼とか社会的地位とか」 「君と一緒なら……フフ、堕ちるのも悪くはないかもね」 「…………」 真藤さんは予想以上に怖い人だった。 一方、話を聞いた部長は肩を震わせていた。 「なんだその男らしい提案は」 違った。喜びに打ち震えていたらしい。 「ではどのように侵入するかシミュレーションしてみよう」 「随分本格的だな」 「うちの大浴場は男女ともに露天になっている」 「一見容易なようだけどね、空も飛べるこんなご時世だからね、セキュリティは過去破られたことがない鉄壁だよ」 「撹乱するのは一人では無理だ。だが二人いればどうだろう」 「当代最強と呼ばれる僕と……」 「芸術的な筋肉が『ミョルニル』と後の世で評価されるオレがいれば破れるかもしれない、と」 「いや、でもそうすると日向が足手まといになるか? 今回の作戦では置いていった方がいいかもしれないな」 「……うん、まあその辺は現場で確認するとして」 「…………」 いざとなったらこの先輩二人を昏倒させることも考えながら一応話を聞く。 と、不意に携帯が鳴り出した。 発信元は、 「窓果? どうした?」 「今どこ」 「は? なんだよ突然」 「どーこ?」 「普通に部屋にいるけど」 「うちのお兄、そこにいる?」 「代わってほしいのか? ってか、直接部長に電話しろよ」 「いやさ、なんかすっごい悪寒がして」 「悪寒?」 「うちら今からお風呂入るとこなんだけど……覗きにきたりしないよね?」 「行くわけないだろ」 虫の知らせのようなものが働いていた。 「そっか。そうだよね。真藤部長もいるもんね」 「もちろんだ」 残念、実はそこが元凶だ。 「もしなにか暴走とか起こりそうだったら止めてね」 「わかってる」 今まさに頑張っているところだ。 「ん。頼りにしてる。じゃ寒くなってきたからそろそろ切るわ」 「寒くなってきたって、窓果いまお前どこに……」 「はいはーい。詮索禁止。セクハラになるよ」 よくわからんがそういう状況ってことか。 「そんじゃね」 「おう」 耳から話したスマホの通話が切れ……あれ、切れてない。 「どうした? まだ何かあるのか?」 返事がない。 ん? 今の音はなんだ? 「窓果ちゃんおそいー」 「ごめんごめん。先に身体洗うね」 そして少し遠いところから届く聞き覚えのある声。 これは……窓果のやつ、通話終了ボタン押し損ねたな。 まあいいか。俺が切れば済む話だ。 多少興味がないでもないけど足がついた場合の方が怖い。 「しっかし今日の練習はハードだったねー」 ん? 「あれは鬼だよ鬼。爽やかにドSだね」 「久奈浜っていつもあんなキツい練習してるの?」 「いえ、あんなのは初めてくらいでして……」 「…………」 やっぱり練習試合でくたくたになったあとに、地味な基礎訓練は評判悪かったか。 貴重な忌憚のない感想に思わず耳を傾ける。 「窓果はいつまで髪洗ってんの」 「やー、髪にくっついた潮が残ってる気がしてあーもう髪切ろうかなー」 「あー、髪が長いと大変だー」 「なんで人ごとみたいなのよー。しかも綺麗だし」 「ほんと、みさき先輩の髪の毛って綺麗ですよね」 「そ? ありがとう」 「はー、すっごいくびれ」 「なんか早くも違うとこ見てない?」 「気にしてたらこんなとこ一緒にいられないから」 「はー、でもいいお湯だねー」 「造りも学園の施設とは思えませんし」 「露天ってのがまたね。満天の星空を見上げながらって気分がいいもんだ」 「旅先……開放感……!」 「何もない何もない」 「せめてうちにもシャワーくらいあったらね〜」 「うん、たしかに」 「あんたはマネージャーだけどね」 「莉佳ちゃんはお湯に浸からないの?」 「いえ、なんかちょっと熱そうだと思いまして」 「莉佳ちゃんって熱いの苦手? 猫舌?」 「えっと、ちょっと……」 「ホーッホッホッホッホ!」 「あ、佐藤院先輩」 「どこにいても元気ですねー」 「久奈浜学院の皆さん、遠路はるばるご苦労様でした!」 「それ聞かなかったっけ」 「感謝とお近づきの印に、わたくしがご奉仕させていただきますわ!」 「あ、あれ?」 「なんか高藤の皆さんが一斉にお湯からあがっちゃいましたけど……」 「いえ、2年生と3年生の先輩だけで1年生は残っていますけど」 「そう、新入生も合宿ははじめてでしたわね。ならばまとめてお相手いたしましょう!」 「まずは……そうですわね。市ノ瀬さん、こちらへ」 「は、はあ……」 知っているような声のやりとりとは別に、再び引き戸のような音がして、別の気配が近づく。 「はあ〜やっちゃったか……佐藤院」 「1年のはじめての合宿だけど他校もいるから今日はないと思ったんだけどね」 「いや、あれはあの子なりに心を込めた奉仕なんだからさ」 「そうだけど……背中を流してくれるっていうのもわかるんだけど」 「うん、ボディタオルさえ使ってくれればね……」 「素手でもびっくりしたのに、自分の身体にボディソープつけはじめたときの衝撃ったら」 「あれさ……誰かちゃんと然るべき教育した方がいいって。佐藤院の今後のためにも」 「絶対意味わかってないもんね……」 「でも、自分がやられた分、被害者を増やしたいという気持ちもちょっとだけあったりして……」 「わかる」 「わかる」 「わかる」 「きゃ〜! いやぁ〜〜〜!」 「あ、市ノ瀬やられたね」 「…………」 「日向くん?」 「うわあっ!?」 リアルに声を掛けられて我に返る。 「どうかしたのかい? ずっと電話を耳に当てたまま」 「いや、なんというか逃げてーって感じで」 「うん?」 「いえ、なんでもないです」 密かに通話終了ボタンを押す。 「それで、覗きの話は?」 「それだが、やはり止めようということになった。卑劣な行動は許されんからな」 「ほら、青柳くんがちょっと本気になりかけてきたからさ」 「それがいいと思います」 とりあえず、さっき聞いたことは忘れることにしようと心に固く誓うのだった。 消灯後。 久奈浜と高藤の男子部員が布団を並べて床についた。 プレイヤーたちはさすがに疲れたらしく余計な話も聞こえてこない。早くもぐっすりのようだ。 「んごー、ぐあー。んごー、ぐあー」 「…………」 俺の両隣が、当然のようにこのふたりなのはあまり考えないようにしよう。 まあ、ありがたいことだけど。 「さてと」 俺はむっくりと上半身を起こす。 みんながこれだけ疲れるくらい頑張ってるんだ。 自主的に時間を作るようにしていることだが、触発されないでもない。 とはいえ、ここでやれることでもないし…… ちょっと外に出てみるか。 校内だと何かあったとき露骨に真藤さんに迷惑が掛かるような気がして外に出た。 ……いや、まあこういう勝手な行動の方が迷惑だよな。 せめて誰にも見つからないようにしないと。 「FLY」 細心の注意を払って俺は夜の空へと向かった。 ………… 「日向さん……?」 こうして合宿初日の夜は更けていった…… 合宿2日目。 今日も練習がはじまった。 ただし練習内容は昨日とは違う。 合同の柔軟までは一緒だが、今日はファイター、オールラウンダー、スピーダーの各スタイルに分かれての練習となる。 俺は、各所を時間ごとに回るように請われていた。 今はファイターの練習に顔を出している。 ちなみに昨日と違うところは他にもあって、 「高藤は部員の6割以上がファイターなんス」 「これは試合場でのチェックポイントが決まっている以上、スピーダーは究極的には逃げ切ることはできないって現在のFC界の通説らしいんスよね」 「それを高藤は実践しているというわけみたいス」 「えっと……保坂、だっけ?」 「みのりんとかミノリーナでもいいっスよ。実里ですから」 「わかったよ保坂」 「全然わかってくれてなさそうスけど」 「で、俺が言いたいのはな、その情報は知ってるってことだ」 昨日の練習を見て、すぐに気づき、確認を取っていた。 「だから丁寧に教えてくれなくてもいい」 「そうかもしれませんけど、ほら、あたしも今日の取材に備えて下調べしてきたんスよ」 「それはいい心掛けだよな」 こっちの都合は考慮されてないけど。 「ですからこう、記事にする前にコーチの日向先輩に間違いないか確認しておこうかと」 「俺で答え合わせしてたのか……」 別に構わないけど。 今日になってひょっこりと現れた彼女の名前は、たしか……保坂実里。 久奈浜の1年で真白のクラスメイトらしい。ということは、必然的に俺の後輩でもある。 そんな彼女が今朝、突然練習場に押しかけてきた。 なんでも彼女は久奈浜の報道部だか放送部らしく、真白からこの連休の合宿の話を聞いて取材に来たとのことだった。 「ところでコーチ、我が校もファイターが多いのは高藤と同じくデータに基づいた指導の賜物なんスか?」 「ええと」 確かにうちも明日香がオールラウンダー、部長がスピーダーで、みさき、真白の2人がファイターだ。 高藤が6割以上と言っていたが、割合だけならうちも5割と迫る勢いだ。 だけど、 「いや、個人の意思を尊重してるだけだ」 先に活動していた部長は別としても、気がついたらなんとなく決まっていた。 もしかしたらそれぞれ思うところがあったのかもしれない。 「……コーチ、ホントに仕事してんスか?」 「疑わしげな目で見るなよ」 いまいち自信がなくなる。 「晶也センパイ、ちゃんと役目を果たしてください」 「プレイヤーにまで同じこと言われるし」 真白だった。 「オッス、真白」 「おすおすー」 ちなみに説明のとおり、このふたりはクラスメイトとのことだ。 「それで何やんの?」 「シザーズをやろう」 「シザーズ?」 シザーズは、前に進みながら左右に急旋回を繰り返す飛び方だ。 「要は後ろから追われている最中に前後を入れ替える練習だな」 背中に触れてポイントを奪うFCでは背後に肉薄される事態は当然避けなければいけない。 そこでこの急旋回を効果的に行えば背中を追ってきている相手を前方に押し出すことができる。 すると逆に相手の背中を狙うことができるので、攻守が逆転するという算段だ。 「これ、スピーダー向けの練習じゃないですか?」 「どうしてそう思う」 「わたしたち速度の遅いファイターが追われる立場になることなんて少なくありません?」 「そうでもないさ」 「そうですか?」 「まずスピーダー相手を想定しているようだけどそもそも相手がファイターの場合だってあるわけだ」 「ああ」 「それに……」 「それに相手がスピーダーでも問題ない」 「基本的なことだけど、背後につく相手は背中を狙う以上相手を追い抜くことはできない」 「ってことは、一度前に出てしまえば絶対にこの形にはなるってこと」 「プラス要素として、追う側は前を飛ぶ相手を見て移動するからどうしても動きが遅れる」 「そのため相手の前に進むスピードの方が速くなる、ってのもあるよね」 「なるほどです! さすがはみさき先輩!」 「おい」 授業態度の差が露骨すぎる。 まあいいけど。 「ついでにあとひとつ。単純にスピーダーはこの練習に向いてない」 「スピーダーは小回り効かないし相手が同じスピーダーじゃなきゃ必要なく置いていけるからな」 「みさきせんぱいー」 「ちょっとちょっと」 「…………」 せめて聞け。 「練習用ブイを前後上下に3メートルくらいの等間隔で浮かべる」 「最終的には360度縦横無尽に配置したブイをスラロームするとこまでやろう」 「スラローム?」 「蛇行だ」 「どうして最初からそう言えないんですか。みんながみんなセンパイと同じことを知ってるわけじゃないんですよ」 「悪かったよ」 というわけで、早速練習に入る。 「なるべくカーブの角度を狭めて鋭角に飛べるように意識しよう」 それはもちろん角度が急なほど相手を早く押し出すことができるからだ。 同時に俊敏性も身につく。 高藤の生徒たちも続々飛んでいく。 お? 今飛びはじめた子はなかなか…… 「…………」 って、みさきか。 あいつ、大雑把な性格してるわりに飛び方は丁寧だよな。 「〜♪」 しかもまだ本気じゃない。 一体何本ぐらい三味線を弾いてるんだあいつは。 俺こそ全力のみさきが見てみたいくらいだ。 あいつを本気にさせるにはどうしたものだろうか…… と、次のスカイウォーカーがフィールドに出る。 みさきとは随分差のある……って、真白だ。 「! ……っ!?」 あーあーあー。 気をつけているのはわかるが、どうも動きが精彩に欠ける。 恐らくそもそもあまり器用じゃないんだろうな。 前々から感じてはいたけど、あいつの場合、ファイターより直感で動けるスピーダーが向いてる気がする。 「……真白、ちょっといいか」 俺は、真白がシザーズを終えたタイミングでインカムに呼びかけた。 「なんですか?」 しばらくして真白がやってきた。 俺は真白に思っていたことを言おうとして……はたと止まる。 真白にとって、このアドバイスは必要だろうか。 真白が勝つためにやってるんじゃなきゃ、俺の提案は見当違いも甚だしい。 これまで真白を見てきて、彼女が望むものはわかるはずだ。 「え、なに? どうしたんです?」 俺は…… 俺はみさきのやる気について相談することにした。 「なんだかんだ言って、みさきはやっぱうまいよな」 「え、どうしてそれをわたしに言うんです?」 「ま、まあ悪い気はしませんけど」 みさきを褒めて、なぜか真白が照れていた。 「でも、みさきはまだ本気じゃないんだよな。真白から、なんとかみさきにやる気を出させられないか?」 「そんなこと言われても……」 真白は少し悩むが、 「やっぱり無理です。みさき先輩が望んでないことをわたしから勧めることはできません」 「そうか……そうだよな」 まあ人に言われてのやる気や本気も疑わしいもんな。 「でもセンパイ、なんか今ものすごいコーチしてるって感じです」 「どこがだよ」 「みさき先輩のことをわたしに相談するとか、ちょっと見直しました」 「やかましい」 本当は別のことを言おうと思ってたんだけどな。 俺は真白にスタイルの転向を提案することにした。 「見ててと言うかずっと思ってたんだが、真白はスピーダーの方が向いてるんじゃないか?」 「…………」 「そんなことないと思いますけど」 「なんだ今の沈黙の間は」 「いいんです! みさき先輩と一緒の方が絶対にステップアップできます!」 「……ステップアップってFCだよな?」 「それはさておき」 「一番さておいちゃダメなとこだろ」 「わたしがいいって言ってるからいいんです! それともわたしの意思は考慮してもらえないんですか」 「いや……」 わかっていたはずのことだ。 真白が何を望んでFCをやっているのか。 だとしたら、俺の提案は真白にとって意味がないどころか百害あって一利なしのものだ。 「……わかった。すまん。今の提案は忘れてくれ」 「いえ、センパイ、けっこうちゃんと見てらしたんですね」 「? どういう意味だよ?」 「はい、ふたりともこっち向いてー」 「ん?」 「はい?」 「はいチーズっ」 シャッターが切られる。 「ちょ、実里、今のはなに?」 「いやねほら、わかりやすい指導風景の一枚ってことで」 「ちょっとやめてよ。そーゆーの恥ずかしいから」 「あ、だったら練習のあとでわたしとみさき先輩を撮ってよ」 「いや、別にそーゆーメモリーでもないから」 「っと、あんまりここにいるとみさき先輩に変な虫がくっついちゃうかも」 「じゃあ晶也センパイ、失礼します」 「あ、ん、わかった」 真白がシザーズの練習列に戻る。 「なるほどなるほど」 「なにか取材でわかったのか?」 「いやー、ツーショットで写真を撮ったのに過剰な反応や抵抗もなくさらっと流されてたということは」 「コーチと教え子の間に現在禁断の関係は全然生まれてないっスね!」 「ゴシップはどうでもいいからちゃんと取材しとけ」 なにを期待してたんだよ、なにを。 ファイターの練習後はオールラウンダーの練習を見た。 模擬戦と立ち回りの考察を中心として一段落ついたところで、 「じゃ、俺は次行くから」 「コーチ、ありがとうございました」 「なるほど。コーチの名は伊達ではありませんでした。久奈浜学院はプレイヤーだけでなくスタッフも……」 「オールラウンダーの皆さん、最後に一枚写真いただきまーす」 「お待ちなさい、まだわたくしの言葉が……!」 「笑ってくださーい。はいチーズ!」 「にいーっ」 「フッ」 「…………」 すごいな。 女子たち、特に直前までの抗議していた佐藤院さん。右ナナメ何十度とかの完璧なキメ顔だ。 「それじゃ、ご協力どうもありがとうございましたー!」 「画像データはちゃんとこちらにも送ってくださいね!」 意外と普通のやりとりを背中で聞いていると、すぐに保坂が追いついてきた。 「さて、最後はスピーダーっスね」 「そうだな」 「少数精鋭ってわけじゃないんスよね?」 「効率的な選択なんだろうな」 高藤のスカイウォーカーは6割以上がファイター、3割がオールラウンダー。 そして残る1割未満がスピーダーと非常に偏っている。 これは先にも聞いたとおり、現状でFCという競技を突き詰めた場合、ファイター有利とされているのが定説だからだ。 ただしそれは極めればの話。 ファイターはテクニカルで立ち回りづらく、未熟な腕では即スピーダーに置き去りにされて試合終了だ。 高藤もプレイヤーに強制はしていないだろうが、実践派が多く集まる集団ならばこの人数差も納得できる。 ちなみに久奈浜では部長がスピーダーだ。 ただ、あの人の場合は効率より筋肉の活かせるスタイルということだろう。 しかしスピーダーの指導か…… なんだか気が重い。 「どうかしたんスか? なんだか途端に憂鬱そうに見えますけど」 「なあ、俺から微妙に気になってる質問いいか?」 「お。FCについてスか? いいスよ。これでも過去まで遡って調べてきたんで」 そんなつもりはまったくないが……まあいいか。 「じゃあ」 「ばっちこいス」 「保坂って放送部なのに、なんで体育会系の喋り方なの?」 「ぜんぜん関係ないじゃないっスか!」 「そもそもFCの話なんて言ってないだろ」 ちなみに微妙に憂鬱な理由とも関係ない。 ただなんとなく気になってたことを聞いただけだった。 「一応断っておきますけど、自分、本来はこんな口調じゃないっスよ」 「そうなのか?」 「はい。真剣に報道を志す者として、性を意識させる振る舞いは控えようと。じゃないとほら、すぐプロ野球選手と結婚しちゃいますし」 「……それはものすごい偏見だと思うし、取材相手に体育会系口調という方がどうかとも思うぞ」 「敬語が使えない若者みたいに言われるのは心外ス。たとえば」 「やあ、交代の時間かい」 「どうも、真藤さん」 スピーダーを見ていた真藤さんが出迎えてくれた。 俺がこちらにローテーションしてきたので、真藤さんは次にファイターを見に行くことになる。 「日向くんの練習方法、勉強させてもらってるよ」 「こちらこそ。学べるところが多いです」 「お疲れさまです。真藤部長」 「ああキミは……保坂くんだったかな。不自由なく取材できてるかい?」 「はい。急な要請だったにも関わらず真藤部長には便宜を図っていただきまして」 「いやいや」 と、真藤さんがこちらを見て、 「それより例の……大丈夫かい?」 「はい。お任せ下さい」 なんで保坂もこっちを見る。 ふたりは頷きあうと、 「それじゃ日向くん、スピーダーの指導を頼んだよ」 「あ、はい」 真藤さんが去っていく。 「ほら、ちゃんと話せてるっスよね?」 「いや、それよりもっと違うところが気になったんだが」 「あ、そうそう。コーチ失礼するっス」 パシャッと、保坂が突然俺の写真を撮る。 「で、なんの話でしたっけ?」 「保坂、おまえ真藤さんと何か裏取引のようなことをしてないか?」 今の撮影も無関係じゃないような…… 根拠はないけど寒気がする。 「まっさかー」 「そうか?」 「真藤部長にはなぜかコーチの写真を撮れるだけ撮って回して欲しいと頼まれてるだけっス」 「なんだその聞き捨てならない情報!?」 「いったい何に使うつもりなんスかね」 「なんでだか考えたくないな……」 「まあでも俺は真藤さんを信じる。悪い人には見えないもんな」 「あっ……」 「ん?」 「察するっス」 「手を合わせるな!?」 なんで合掌なんだ。 「っていうか、ホントに自分の言葉遣いに関しては触れてくれない気っスかね」 「俺には丁寧に喋ってくんないのか」 「いえ、ですからコーチは取材対象ですから……」 ハッと保坂が目を見開く。 「もしかして、いま自分、口説かれてるっスか!?」 「なわけあるか」 「あの」 「え?」 「どうでもいいですけど、そろそろご指導ご鞭撻を賜われると嬉しいのですが」 忘れてた…… 俺が、スピーダーの指導に来るのが憂鬱だった理由。 にっこりと、底知れない笑顔で立っている市ノ瀬がいた。 いや、気まずさみたいなものはあるがここで動揺してどうする。 練習は練習で集中しないと。 「すみません。じゃあはじめましょう」 スピーダー相手の練習は、今回ローヨーヨーを選んだ。 これは斜め下に飛んで地球の重力を利用して加速し、その加速を利用して上昇、スピードを上げる練習だ。 同じ距離を飛ぶなら、真っ直ぐに飛ぶ方が速いように思えるが実際は斜め下に飛んで速度を稼いでから上昇した方が(弧を描いた方が)早く飛ぶことができる。 特に初速の遅いスピーダーは重力を利用してそれをカバーするテクニックが求められる。 ローヨーヨーとは逆に斜め上に飛んでから斜め下に飛ぶ、ハイヨーヨーというのもある。 対戦相手に後ろを取られるは不利だ。まず相手の手は自分の背中に届くけど、自分の手は相手の背中に届かない、という状態になってしまう。 この状況を打開するのがハイヨーヨーだ。 まず急上昇の斜め移動。こちらは斜めで、相手は真っ直ぐだから、当然、背中についていた相手は前に押し出される。 相手が前に出たところで、重力を使った急降下で加速しながら背中を狙うのだ。 ローヨーヨーと比べると限定された場面でしか使えないけど、覚えておくべき基本的なテクニックの一つだ。 「では順番に飛んでいってください。気がついたことがあったら、その都度声を掛けます」 「まずは俺から行くかな」 練習方法はそのまま。 公式戦と同じ距離を取ったブイとブイの間のラインを斜め下に飛んでから上に向かう練習になる。 前に飛ぶ姿勢が乱れて、飛行姿勢をしっかり維持できないと普通に飛ぶよりも遅くなってしまう。 綺麗な飛行姿勢を身につけることが重要だ。 そしてもうひとつ。 「市ノ瀬、ちょっと来てくれ」 「……はい」 一瞬躊躇したような間を感じさせながら市ノ瀬がやってくる。 市ノ瀬は市ノ瀬で思うところがあるんだろう。 でも練習は練習だ。割り切ってもらおう。 「以前見かけた時から思ってたんだけど市ノ瀬は飛行中の姿勢制御がうまいよな」 「あ、ありがとうございます……」 「そっちはいいとして、問題は下移動から上移動への移行をどれだけスムーズに行えるかだ」 これもローヨーヨーを上達させる上で姿勢制御と並んで重要なポイントだ。 「間隔とかタイミングは繰り返し馴れるのが一番だけど……」 「…………」 「市ノ瀬……聞いてるか市ノ瀬?」 「あ、はい! その、すみません……」 さっきまではそうでもなかったけどいざ練習となると俺の方が開き直ってしまっていた。 逆に市ノ瀬の方がどうも浮ついているように見える。 「厳しいようだけど、練習中は集中してもらわないと困る。事故にもつながるしな」 「はい……」 まあ、どう整理をつけていいのかわからないのだろう。 「…………」 少し話す時間を作るか? メンタル的な問題は領分が難しいが、今回は俺自身が当事者でもあると思われる。 こういった問題は、これから久奈浜でも十分に発生する可能性はあるし。 なにより今は、市ノ瀬も俺がコーチしているんだから。 よし、なるべく昔の話はかわしながら誤解を解く方向で…… 「ちょーっとインタビューいいっスか?」 「え?」 と、突然割って入ってきた保坂が空気をぶち壊しにする。 「おい。練習中だぞ」 「かな〜り重そうな雰囲気に見えましたけど?」 確信犯か、こいつ。 ということは、少しは紛らわそうと気遣ってくれたのかもしれない。 少しだけ任せてみることにしよう。 「市ノ瀬莉佳さんっスよね?」 「はい……そうですけど……?」 「この県内一層の厚い高藤において一年にしてレギュラーの座を脅かしているという」 「え、そこまでなのか!?」 驚いた。 レギュラーというのは、各校に与えられた公式戦出場の枠数に入れるメンバーという意味だ。 たしか昨夏の高藤は5枠。 つまり100人近くが在籍する高藤においても公式戦に出られるのは順当に考えれば上位5名。 そこにまだ入学して1ヶ月足らずの市ノ瀬が脅かしているというなら。 市ノ瀬は県内でも有数のトッププレイヤーということになる。 「い、いえ、まださすがにそこまでは……」 「FCははじめてどのくらいっスか?」 「えと、3年です」 「3年? もしかしてこっちの人じゃないっスか?」 「はい。今年の春に鹿乃島から越してきたばかりで……」 「へー。四島列島の生え抜きじゃないんスね!」 「そういうことになります」 「あれ? じゃあスポーツ推薦とかで?」 「いえ、普通に両親の転勤で、こっちにはたまたま」 「…………」 重い雰囲気をどうこうって言ってたけど。 ……これ、もしかして普通にインタビューしてるだけじゃね? いや、それはそれで助かってるけど練習中は練習中だ。 「友だちとの約束があって……」 「へえ! 別れた友だちとの約束! ドラマティックじゃないっスか!」 「で、で、それはどんな?」 「さすがにそれはちょっと……」 「はいそこまで」 俺は二人のあいだに割って入る。 「ちょ、いま手に取る人の数字が変わりそうな情報を聞き出してる最中だったっスよ!?」 「おまえは少し遠慮を知れ」 「ジャーナリストの辞書には載ってない単語っスね!」 「じゃあ書いておけ。ともあれ取材はいったん終わりだ」 ……こういう感覚が行きすぎると誤った報道精神に繋がるのだろうか。 「あ、ありがとうございました」 「いや、こっちこそ距離感のわからない後輩で申し訳ない」 「いえ、悪い人でないとは思いますから」 「日向さんにはもう少し早く助けていただけたらと思いましたけど」 「……実はすごい根に持ってないか?」 いや、市ノ瀬との付き合いを振り返れば心当たりは山々だけど。 「しっかし高藤は市ノ瀬選手のような有望株がいて将来安泰っスよね〜」 「うちだって悪いとは思ってないぞ」 「だけど目玉選手とかそういうのがいないじゃないですか」 「それはまあな」 体裁をとってはじめたのがつい最近だ。 「ここは有望選手を久奈浜に招聘とかすべきじゃないっスかね?」 「市ノ瀬は転校してきてくれないと思うぞ」 「! ……!」 俺の陰に隠れるようにして市ノ瀬が頷いている。 微妙に保坂を警戒しているらしい。 「いえ、たしかに市ノ瀬選手は残念ですけど自分が言ってるのはもっと野に埋もれている選手っス」 「そんなプレイヤーがいるのか?」 いや、実在したところでどうにもならないけど。 「それが自分、FCのことを過去から現在まで洗ってて見つけたんスよ」 「自分たちと同年代に存在した天才! 将来を嘱望され、ある日忽然と姿を消した一人の少年プレイヤーを!」 「え、それって……」 「…………」 俺、真顔。 「11才まででその年代のタイトルは総ナメ! 当時、学生で『飛翔姫』と呼ばれていた各務葵の秘蔵っ子とも隠し子とも呼ばれた麒麟児!」 「えっと……知ってて煽ってるのか?」 「はい? なにをっスか?」 「いや、そいつのこと」 「え? もしかしてもう亡くなってたりするっスか!? 自分ちょっと情報集め苦手なもんで」 それジャーナリスト向いてなさすぎだろ。 って、そうじゃなくて、 「……え、わかってないのか?」 「そういえば各務先生も頑として教えてくれなかったスけど……」 「もしかして彼は都市伝説とかなんスか!? もしくはその人のことを口にした人は皆呪われるとか!」 「いや……」 「ぷ……」 背後で市ノ瀬が噴き出すのをこらえる気配がした。 ……完全に気づかれてるなこれは。 「市ノ瀬選手は聞いたことないスか?」 「う……」 タイミングよく嫌なところを突いてきた。 「…………」 市ノ瀬は俺を伺うように見上げている。 バレたら、ちょっとめんどくさいな…… 俺がほとんど諦めていると、 「残念ながら聞いたことはないですね」 「え?」 「そっスか……」 俺ではなく保坂が肩を落とす。 「そんな将来有望な選手なら、プロ野球選手じゃなくても抱かれてもいいって思ったんスけど」 それは勘弁してください……というか、そうじゃなくて、 「なんで……?」 市ノ瀬の表情を見る。 知りたそうにしていたはずなのに。 「私、練習に戻りますね」 「あ、ああ」 「あ、市ノ瀬選手ありがとうございましたっス」 その後。 市ノ瀬はとりあえず吹っ切れたように練習に集中していた。 どういう心境の変化があったんだ? 「それでは皆さん手を合わせて……いただきます」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 「いただきまーす」 練習後の合同炊飯。 「んぐんぐ……一生懸命練習したあとのメシの美味いこと!」 「ちょっと〜喉詰まらせたりしないでよ? そういうのの介護もマネージャーの仕事になるんだから」 「んぐ、んんん、んご……んごー!」 「わ、部長が掃除機みたいな声あげてます!」 「もー! だから言ったのにー!」 「みさき先輩、この豚汁すっごくおいしいです!」 「まあおばあちゃん直伝だからね」 「は〜、こんなにお料理がうまいと将来みさき先輩と暮らす人はしあわせですよね〜」 「でしょ〜?」 「わたししあわせ〜」 「え、なんで?」 「でも鳶沢さん、これホントすっごいよ」 「あ、どうも」 「わかりやすい洋食じゃないとこに自力を感じるっていうか」 「作り方のコツとかってあるの?」 「あーちょっと待って。先に食べるの集中させて。電池切れちゃう」 みさきの元に高藤の女子生徒が集まっている。 「どうかしました?」 「なんか珍しい光景な気がして」 真白が若干気が気でない顔をしているがスルーしておこう。 「みさきちゃん、ご飯作るときものすごいリーダーシップを発揮してたんですよ」 「へえ」 なぜそれを練習に反映させないんだ。 ちなみに今晩の食事を用意したのは女子部員たちで男子部員は掃除などを担当していた。 「明日香はどれ作ったんだ?」 「えと、わたしはお米を研いだり野菜を洗ったり?」 「……料理できないのか?」 「他の子がうますぎるんですよぉ〜!」 「真白とか窓果は?」 「えっと、使い終わったボールとか食器を洗ったり」 「食材に触れてすらねぇ」 料理班には厳しいカーストがあるらしい。 「ん? この肉、おいしいな」 「あ、それ莉佳ちゃんですよ。すっごい手馴れてる感じでした」 「ああ」 そういえば市ノ瀬には引っ越しの時に蕎麦をもらったけどあれも美味かった記憶がある。 「どれどれわたしも……あ、ホントです。すっごくやわらかくておいしい!」 「俺は香辛料の味付けがいいと思う」 「わたし感動しました! ちょっと莉佳ちゃんにお礼を言ってきます」 「今からか?」 「はい、タイミングって大事です!」 「そうか。そうだな」 もしこの合宿に唯一の心残りがあるとすればきっと市ノ瀬との関係だろう。 俺は…… 「うん、俺も一緒に行くよ」 気まずい空気は残っているけど、素直においしいと思ったことは伝えたいと思った。 「では行きましょう!」 明日香の後について、市ノ瀬のいる場所を探す。 市ノ瀬は友達らしき女子たちと固まって食べていた。 「莉佳ちゃん」 「あ、明日香さん。どうかされましたか?」 「莉佳ちゃんが作ってくれたお肉がね、もうすっごくおいしかったの! わたしこの感動を伝えたくて!」 「えと、そうなんですか。それはありがとうございます」 市ノ瀬は若干戸惑いつつも笑顔で応える。 「日向さんは明日香さんの付き添いですか?」 「いや、俺もおいしいって言いに」 「え?」 「本当にうまかったからさ。ありがとう」 「あ……」 市ノ瀬が驚いたように目を見開く。 そして何かを言おうと口を開きかけたところで、 「きゃー!」 「きゃー!」 「きゃー!」 「きゃー!」 市ノ瀬の周りの女生徒から黄色い声があがった。 な、なんだ……? 「莉佳のこと、よろしくお願いします!」 「ちょっと融通がきかないというか頑固ですけど」 「無愛想に見える時もありますけど根はいい子なんです!」 「はあ……?」 「ちょ、ちょっと、明日香さんに悪いからやめてよ」 「え? なんでわたし?」 「…………」 どうやら勘違いされてるか遊ばれているらしい。 市ノ瀬はあんまり目を合わせてくれないし、もしかしたら、来ない方がよかったかな…… 「あ、そうだ。お礼といえばコーチ、今日の練習よかったです」 「え?」 「アドバイスが的確って感じでした」 「理解できるまで説明してくれるもんね。評判のいい歯医者さんみたい」 「マジで……?」 それは、なんていうか……すごくうれしい。 「親しみやすいとこもいいというか」 「メアド交換しません?」 「いや、それはちょっと……」 「ちょっと、日向さんにだって都合があるんだから」 「すごーい、晶也さんモテモテだぁ」 「いえ、これは遊ばれてるような……」 「いや、俺はやめておくよ」 素直なお礼よりも、気まずさの方が顔を出す。 「そうですか? じゃあちょっと行ってきますね」 「転ぶなよ」 「もう、わたしそこまでドジじゃ……っ!?」 「あ、あぶなかったぁ……」 「わたしそこまでドジじゃ……なんだって?」 「き、気をつけて行ってきまーす」 逃げるような明日香の背中を見てため息をつく。 「市ノ瀬か……」 もう少し整理する時間があった方がいいのかもしれない。 結局、市ノ瀬との仲が劇的に修復されることもないまま夕食の時間は過ぎていった。 風呂に入って、消灯時間。 俺はなかなか寝付けないでいた。 「……よし」 今晩もやっておくか。 むくりと起き上がる。 「ぐおー、んがー。ぐおー、んがー」 「すぅ……」 他に寝ている男子生徒たちを起こさないように俺は外に出た。 「ふう……」 カチャカチャと動かしていた手を休める。 う〜ん、やっぱ実際に触ってみないとシューズとカートリッジの相性みたいなもんはわからないな。 まだまだ基礎知識も絶対量が足りない。 「ちょっと休憩しよう」 頭を一回リセットしたい。 熱いコーヒーでも飲んで…… 「しまった。買ってからこようと思ってたんだ」 昨日も同じこと思ったのに。 この辺に自販機ってあるのか? 高藤まで戻ればあるけど、夜の勝手な行動だからな。 見つかると問題だ。怒られるとかってレベルじゃない。 きょろきょろと辺りを見回す。 「…………」 ん? いま自販機じゃない何かが目についたような? いや、まさかな。疲れてるのだろうか。 頭を振ってもう一度見回す。 「あ、あの……」 「そうだよな。夢なわけないよな」 「え?」 ものすごい(個人的に)怖い人に見つかっていた。 「聞いてもいいですか?」 「その前に正座したほうがいいか?」 「どうしてですか」 「いや、なんというか」 反省を態度で表した方がいいかと思ったんだけど。 「こちらでなにを? 夕べも……」 「…………」 夕べから見つかっていた……泳がされていたって方が正しいか? 観念する。 「いや、いま一応日課にしてるんだ、これ」 「それ、グラシュ……ですよね?」 「俺、役割としてはメカニックも担当だからさ。とにかく知識を増やすのと実践を兼ねてグラシュに触る時間を作るようにしてるんだ」 「そうなんですか」 って、どうもいけないな。 団体行動の輪を乱して勝手なことをしたのは俺なのに、FCを免罪符にしているように聞こえる気がする。 悪いのは俺で、きっとたまたま見かけた市ノ瀬が止めにきてくれたんだ。 謝罪と感謝は明確にしておかないといけない。 「えっと……」 市ノ瀬に糾弾させる前に頭を下げないと。 「ごめんなさい!」 「ごめん!」 「ごめん!」 「ごめんなさい!」 俺と市ノ瀬は同時に頭を下げ、 「……はい?」 「……え?」 「……え?」 「……はい?」 お互いに顔を見合わせる。 「いや、俺は合宿で勝手な行動を取ったからだけど……市ノ瀬はなんで?」 わけがわからない。 「えっと、はじめて会った日のことなんですけど」 「引越しの挨拶の日?」 市ノ瀬はこくんとちいさく頷くと、 「あれ、事故だったのに、着替えを覗いたとか言っちゃって…」 「今さらそれ!?」 いやホントに。マジで。しかも今? 「いえ、あれからずっとお会いするたびに謝りたいとは思っていたんですよ」 「でもなかなかタイミングがつかめなかったりで……」 「そうなんだ……それはどうも、ありがとう?」 謝罪自体はありがたいけど、なんだか妙な気分になる。 本当に今さらだもんな。 でもそれがずっと引っ掛かってたり合宿に来たときの高藤を守ろうって考え方とか全部含めて。 やっぱり融通がきかないというか、生真面目というか。 決して悪いやつではない……いや、ちゃんと謝るところを見るといい人なんだよな。 「それともうひとつ、ごめんなさい!」 「ま、まだなにか?」 「昨日の……お昼のことです」 「ああ」 「久奈浜学院の皆さんの練習を見て、勝手な思い込みと勘違いだとわかりました」 「それなのに先走って、暴走して失礼なことを言ってしまいました」 「本当に、申し訳ありませんでした」 「ん、いいよ」 「そんな、軽すぎます……!」 「いや、俺たちだってなんでこの合宿が実現したのか不思議なくらいなんだ」 「それに市ノ瀬とはまだ知り合って間もないけれどもうそれでいいって思えてる」 「だからだよ」 「すみません……」 「もういいって」 わだかまりが解けるのはいいことだ。 「あの、私、真藤部長が個人のスカイウォーカーに肩入れしている姿をはじめて見ました」 「う……」 そうだ。その話もあったっけ。 市ノ瀬は、怖がるような伺うような顔をしている。 興味はあるけど俺を気遣ってるってところか。 まああんな煽られ方をされたんだ。仕方ないか。 市ノ瀬は頑固なくらい正直に向かい合ってくれるから、俺も基本的に誠意を持って接するつもりだけど、何もかもをさらけ出す程ではない。 真藤さんだけならあの人の勘違いで強引に押し通そうかとも思ってたけど、保坂まで出てきたのがダメ押しだったよな。 隠し通すことはできないか。 と、市ノ瀬はスマホを取り出す。 「ごめんなさい。日向さんの名前で検索してしまいました」 市ノ瀬のスマホが表示したサイトは数年前の地方スポーツの記事だった。 目立つのはリンク切れになって表示されない写真。 そして天才、圧倒的、圧巻なんて美辞麗句の中に一際大きく『FC U-12優勝 日向晶也』のフォント。 ドクン、と心臓が跳ねる。 全身が急速に冷えていく感覚。 「あの……怒っていますか?」 それを押し止めたのは市ノ瀬の声だった。 「……いや別に」 FCを再開した時から、誰が相手であれいつかは来るかもしれないと覚悟していた瞬間だった。 真藤さんのときも、今日の保坂だってそうだ。 まだすべてを過去にすることはできないけれど、これはまだ核心じゃない。 あれは誰も知らないことだ。 感情を、押し殺すことはできる。 「ホントに気にしないで。最近わりと掘り起こされる機会の多い話題だからさ」 「しかしネットはこわいな。まだアーカイブが残ってたか。ハハ、そりゃそうだよな」 「有名税ってやつかな。もう過去の栄光だけど」 「日向さん……」 俺を気遣う市ノ瀬の声。 不自然に口数が多かったか、取り繕った笑顔が痛々しかったか。 器用にできない自分に嫌気がさす。 でも被害者ヅラして市ノ瀬に責任を背負わせたくもない。 「ま、これ以上の詮索は勘弁してくれ。みっともないからさ」 「すみません……」 市ノ瀬は、察したように頷いてくれた。 だめだな。 もう少し冷静になれるようにしないと。 「でも……」 「ん?」 「差し出がましいかもしれませんが、もしなにか、自分ひとりで抱えきれなくなったら、そのときは……」 一瞬、感情が高ぶって、目の奧が真っ赤になる。 けど、それを抑えたのもまた続く市ノ瀬の言葉だった。 「あ、いえ私じゃないですよね、その役は。彼女さんいらっしゃいますもんね」 は? 「ちょっと待て。彼女ってのは誰のことだ?」 「明日香さんですよ」 誤解されていた。 「違うから。ぜんぜん違うから」 「大丈夫です。私知らないフリとかできます」 「いや、知らないもなにも、知った内容が事実じゃないから」 この思い込みの強さに堅物な性格が混ざったらと思うと、先に誤解を解いておかないとまずい。 「とにかく本当に違うから。明日香とは何もない……っていうか明日香にも失礼だ」 「本当にそうなんですか? 私はてっきり」 「根も葉もない」 「す、すみません……」 なんとか誤解は解けたようだ。 「……私、なんだか謝ってばかりですね」 市ノ瀬が恐縮する。 「その事実だけ聞くと、なんかもの凄く酷いことをされてるみたいだよな」 もちろん実際はそんなことないんだけど。 「こんななら、謝る代わりにお礼を言われた方がいいな。そっちのがよっぽど健全だし後味もいい」 「お礼ですか?」 市ノ瀬は少し考えた素振りのあと、 「そうですよね。謝るって、相手の気持ちよりも自己満足で終わってしまうかもしれませんし」 「いや、そんなに堅く考えなくてもいいが」 「ちょっと心掛けてみますね」 「じゃあ今からお互いに謝るの禁止ってことで」 「あ……!」 「ん?」 「そういえばもうひとつ……謝らなくちゃいけないことがあるのを忘れてました」 「ま、まだあるのか?」 実は俺、市ノ瀬にとてつもなくひどいことされてる……? 「本当に最後です。これでわだかまりなし。禊みたいなものですよ」 「信じていいものかどうか……」 「その、ちょっと恥ずかしいですけど……」 市ノ瀬が、素早い指さばきでスマホをいじっている。 アーカイブを思い出して少し身体が硬くなる。 だけど差し出されたスマホの画面には、かわいいファンシーなデザインのブログが映っていた。 「この合宿のこと、聞いた日に納得できなくてブログに書いちゃって」 「え、これ?」 「はい。でも、今日の更新でちゃんと誤解でしたって謝りました。ここです」 と、市ノ瀬がページを移動させる。 本当に黙っておけばわからないことを、生真面目に…… 「了解した。っていうか市ノ瀬、ブログやってるんだ?」 「えと、前の学校の頃から日記代わりにつけてて」 「この絵文字の山も……?」 「よっ、余計なとこは見ないでください! ブログだけです! メールとかはちゃんとしてますから!」 ふと、ブログの管理人らしき名前が目に入る。 「……りかりか?」 「ちょ、もう返してください……!」 慌てた市ノ瀬が、スマホを取り返そうと飛びかかってくる。 「わかった、わかったって……!」 「きゃ……!?」 と、市ノ瀬が体制を崩した。 「市ノ瀬!」 俺自身、不自然な体勢から市ノ瀬を支えようと咄嗟に手を伸ばした。 「え?」 結果、市ノ瀬を支えることには成功したけど…… 「……っ!?」 ある意味、それ以上にひどい惨状になっていた。 「あ……、あ……」 顔を真っ赤にして震えはじめる市ノ瀬。 「あ、ごめ……!」 反射的に謝りそうになった俺は土壇場でさっきのやりとりを思いだし、 「じゃなくって…その、ありがとう……?」 「きゃー! きゃー! きゃーーー! きゃー!」 バシバシと叩いてくる市ノ瀬。 そうだよな。いくらなんでもTPOは考えるべきだよな。 「すまん、市ノ……」 「きゃー! きゃー! きゃ! きゃーー! きゃー!」 聞く耳持たない。 市ノ瀬はひとしきり俺を叩いたあと、 「飛びます!」 グラシュを起動キーで発動させ、すっ飛んでいってしまった。 「夜道に気をつけろよー!」 咄嗟であまり気の利いたことが言えない。 静かになった砂浜。 闇の中、ぼうっとした月明かりと潮騒だけが取り残される。 ……なんかいい感じに丸く収まりそうな空気だったのに。 「俺と市ノ瀬はこういう星の下なんだろうか……」 俺は深くため息をついた。 部屋に戻ると、ゆっくりとまどろみが襲ってきた。 明日は練習試合、それで合宿も終わりだ。 とりあえずは無事に済みそうだな。 明日も早いんだ。寝よう。 目を閉じる。 「ん……?」 妙な気配を感じる。 誰かが布団に入り込んでくるような感じだ。 なんだ? 「やあ」 「し、真藤さん!?」 「静かに。他の部員たちが起きてしまう」 いや、これくらいで起きるならうちの部長のいびきでとっくに起きてると思う。 「ちょっといいかい?」 「いいかいもなにもすごく怖いんですけど」 「安心してよ。これ以上は何もしないから」 「すでにこんなことをしてる人を信じていいものかどうか」 「はは、確かにそうだ」 悪びれないし。 かなりおぞましいものがあるがとりあえず我慢しよう。 「それでどうしました?」 「今から僕と試合してくれないか?」 「……え」 言葉が詰まる。 「この2日間、君を見てきた」 「前にも話したとおり僕は君に憧れていたからね。君がFCに帰ってきたと聞いて、あの頃の気持ちが蘇ったよ」 「僕は僕でしかない。そんなことは重々承知だが」 「君を継ぐのは僕でありたい。いや、君に認めてもらいたいだけなのかもしれない」 「僕はね、君を超えたいんだ」 真藤さんの鋭い目に俺は、 「でも、俺はもう……」 沈黙がおりる。 「……そうだね。無理を承知で言った。すまない」 「…………」 「でも、もうひとつ、僕はずっと疑問に思っていたんだ」 「なにを……ですか?」 「君がどうして今さらFCに戻ってきたのか」 「それは……」 「君の視線を惹きつけた動機が彼女たちの中にいるんだろう」 「……僕が勝ったら勝負してくれるかい」 「真藤さん……!?」 「いや、忘れてほしい。すまなかった」 俺の反応に合わせるように、でもどこか寂しそうに薄く微笑む真藤さん。 「おやすみ」 そして布団を出て行った。 「真藤さん……」 その夜はなかなか寝付けなかった。 合宿最終日。 今日は練習試合が主になる。 「さて、合宿の総仕上げだ。今回の試合は公式戦のつもりでやるように」 「はい!」 「おう。任せておけ」 「晶也、ちょっと目、赤くない?」 「うわ。寝てないんですか?」 「おまえたちは話を聞け」 「対戦相手はどうなってんの?」 「特に打ち合わせしてない」 「どのみちこっちがプレイヤー4人しかいないからな。向こうが誰を出してくるかによるかな」 そもそも体重による階級分けどころか男女別さえ存在しない競技だ。 相手がスカイウォーカーでさえあればどこで当たってもおかしくない。 「えと、順番は?」 「それも決めてないな。逆に希望があるなら聞くけど」 「あたしが最初に行くよ。どうせやんなきゃいけないなら早めに終わらせたいし」 「じゃあわたし2番行きます! みさき先輩の次!」 まあ団体戦でもないし戦略も何もない。 「わかった」 「えっと、わたしは……」 「俺はトリだな。真藤と因縁の部長対決だ」 「じゃあわたしが3番で部長さんが4番ということで」 「了解。それでいきましょう」 「順番は決まりましたか? 久奈浜学院の皆さん」 「ちょうど今決まったよ」 「では早速1試合目をはじめましょう。久奈浜学院側は……」 「はーい、あたしでーす」 みさきがいつもどおりのトーンで前に出る。 「僕が出よう」 「!」 それに対して出てきたのは真藤さんだった。 「…………」 まあこういうことをやってくるんじゃないかとは思っていた。 「真藤! 貴様、オレとの対決に臆したか!」 「あれ、何か約束してたっけ?」 「約束してなくてもわかるだろ!?」 部長が無茶を言っている。 「よろしく。鳶沢くん、だったね?」 「……ま、誰が相手でも構いませんけど」 「フッ、いい試合にしよう」 俺とみさきはヘッドセットをつける。 「あー、あー、あー、聞こえるか?」 「聞こえてる。感度良好」 「で、グラシュの具合はどうだ?」 みさきが履いているのは、インべイドのレーヴァテイン。かなりピーキーだ。 みさきが履きこなせるようになるのを待っていたので、あえてバランサーの細かい調整はしていない。 「問題ないよー。ここでの練習で結構飛び回ったからね。ついに征服しちゃったかな」 「確かにそれなりには使いこなせるようになってるな」 「それなりって言うなー」 みさきはわざとらしく頬を膨らませてから、急に冷めた目をして、 「それにしても、なんで合宿のシメの試合の相手に、真藤さんはあたしを選んだのかなー。ここにはあたしより飛べる人、いるでしょ?」 「せっかく合宿してるんだから、他校の生徒とやっておきたいんじゃないか? よくわからんけどそれが礼儀ってもんだろ、多分」 「そういうもんかねー」 「まっ、正直に言って勝てる相手じゃないから、胸を借りて来い」 「コーチがそういう後ろ向きなこと言うのはどうなんだろう。……でも、ま〜、そうだよねー」 やれやれというように力なく肩をすくめて、 「実力の差ってものを実感してきますか」 「勝てないからって手を抜くなよ。真面目にやらないと真藤さんに失礼だからな」 「はいはい、わかってますよ〜。そっちこそちゃんと指示を出してよ」 「わかってるよ」 「んじゃ、お互いにがんばりますかー」 みさきはどこか頼りない、ふらふらとした飛び方でファーストブイに向かっていく。 ……そういえば真藤さんのセコンドは誰がするんだろう? 真藤さんを探して視線をさまよわせる。少し離れた場所で、佐藤院さんと話しているのが見えた。 「………」 俺の視線に気づいたのか真藤さんは俺を見て、意味ありげに微笑んでからファーストブイに向かって飛んでいく。 俺は佐藤院さんに近づき、 「佐藤院さんがセコンドをするんですか?」 「部長がわたくしのアドバイスを必要としているとは思えませんけど、弘法にも筆の誤りといいますから」 レベルの高いスカイウォーカーでも飛行中に対戦相手を見失ってしまうというのはよくある話だ。 「ところで、どうして真藤さんはみさきを選んだんですか?」 「部長は鳶沢みさきさんを評価しているようですわ」 「評価……ですか」 「センスがある、ということです」 「まぁ、確かにあるとは思いますけど……」 「近くで見ていると見落としてしまうこと、ありますわよ」 「だとしたらコーチ失格ですね」 「そこまでは言いませんけど。……そろそろ試合が始まりますわね」 俺と佐藤院さんはファーストブイの側に立つ二人を見上げた。 「よろしくお願いしまーす」 「やあ。こちらこそ、よろしくね」 「……どうしてあたしを選んだんですか?」 「おもしろそうだと思ってね」 「おもしろそう? ん〜。もしかしてそれって嫌味ですか?」 「まさか。文字通りの意味だよ」 「あの〜、試合開始してもいいですか?」 「ごめん。僕はいつでもいいよ」 「あたしもオッケーです」 「では開始しますね。……セット!」 「………」 「………」 間を置いて、試合開始を告げるホーンが鳴った。 真藤さんはファーストラインに沿ってセカンドブイへ向かう。みさきはショートカットしてセカンドラインへ向かう。 オールラウンダーとファイターでは、オールラウンダーの方が直線移動は速い。みさきがそこで争っても無意味だ。 二人とも定石の動きだ。 さてと。問題はどこで真藤さんを捕らえて、ドッグファイトに持ち込むかだけど……。 ──んっ? 「みさき! ぼーっとするな!」 「ぼーっとなんかしてないって」 「だったらもっと急げ!」 「そんなに慌てる必要ないでしょ? 精神集中しながら飛んでるんだから、そんなに叫ばないでよー」 「真藤さん、滅茶苦茶、速い!」 「えっ?」 「………」 真藤さんはもうすでにファーストラインの半分を超えている。オールラウンダーの速さじゃない。まるでスピーダーだ。 「ゆっくり移動してたら、サードブイまでいかれるぞ!」 「ちょ、ちょっと、ええっ?! 急ぐ!」 真藤さんはグラシュをスピーダー寄りに設定したのか? みさきがセカンドラインで待ちかまえる姿勢を整えた頃には、真藤さんはセカンドブイにタッチして1点を取り、さらにラインの真ん中近く──。 みさきのすぐ側まで猛スピードで接近していた。 「うわっ?! わわわっ?! 晶也! 真藤さんはどの方向から抜ける?」 まさかの展開にみさきの声が混乱している。 「真藤さんは──」 グラシュをスピーダーよりに設定しているとしたら、ローヨーヨーでさらに加速して下に抜けるはずだ。 「下だ!」 「わかっ……」 わかった、と言いたかったのだろうみさきの声が途中で途切れる。 「………」 真藤さんがみさきの頭上をあっさりと越えていった。斜め上へ向かって飛行したのだ。 どうして?! とにかく今は次の指示を出さないと! 「追うな! サードラインにショートカットだ!」 「う、うん」 指示に従ってみさきが飛行する。 ──どうして? 佐藤院さんは俺の肩を叩いて選手に声が届かないように、ヘッドセットのマイク部分を手で押さえて俺を見た。 何か言いたいことがあるらしい。俺も佐藤院さんにならってマイクを手で押さえる。 「落ち着いてはいかがかしら? 今のはあなたのミスでしてよ」 「俺のミス?」 真藤さんが凄いんじゃなくて? 「指示を出すタイミングが早かったのですわ。あんなに露骨に下に行く動きを見せたら、上に逃げるに決まっています」 ──あっ。 そうか。みさきの混乱した声に引きずられた。 あんな状態のみさきだったら、俺の声に反応してすぐに動いてしまうに決まっている。 真藤さんはみさきの反応を確認してから動いたのか……。本来なら待ち構える側のみさきがそれをすべきなのに──。 「……指摘してくれてありがとう」 「お互いを高めあう練習試合だからですわ。本番ではこうはいきませんことよ」 俺はヘッドセットのマイクから手を離して、 「みさき、落ち着いてやろう」 「さっき……」 「んっ?」 「真藤さん、あたしを追い抜いた時、変な顔で笑ってた」 「気のせいだろ?」 「かもしれないけど……」 みさきが短く息を呑んだのがわかった。 「………」 サードブイにタッチして二点目を獲得した真藤さんが、綺麗な前傾姿勢を崩して、ぐっと胸を張りながら反り返ってブレーキをかける。 「……あれってどういう意味だと思う?」 「………」 真藤さんがペースを完全に握っている状態だった。 あのままスピードを落とさずに行けば、みさきを振り切ってフォースブイにタッチして、3点目を入れることができた可能性はかなり高い。 ──それなのに速度を急激に落としたってことは……。 真藤さんが変な雰囲気の笑みを浮かべているのが、ここからでもわかった。 「あれってあたしのこと馬鹿にしてるよね?」 「挑発に乗るなよ」 まさか真藤さんがそんなことをしてくるなんてな。試合になると性格が変わるタイプなのか? 「………」 「おい! 返事をしろって!」 「あたし、ああいうの嫌いだなー」 「繰り返し言うけど挑発に乗るなって!」 「………」 「返事をしろ!」 みさきってこんな性格だったのか……。こういう時、俺はセコンドとして何をすればいいんだ? 「………」 真藤さんはゆっくりとみさきに近づいていく。 「それってどういうつもりですか?」 「このままスピードに任せて得点を重ねてもいいんだけど、それだと練習にならないよね」 ヘッドセット越しに二人の会話が聞こえてくる。 「だからどうしたいんです?」 「ドッグファイトにつきあって、あげよう、かなって」 「……あげよう、ですか」 「そう、あげよう、だよ」 「………」 みさきの苛立ちが手に取るようにわかる。 ──落ち着け、と言うのは簡単だ。 だけど、ドッグファイトを挑まれて、そこから逃げ出すようではファイターに勝ち目はない。 「みさき……。落ち着いて挑発に乗れ」 「それってどういう意味?」 「体は熱く、心は冷たくって意味だ」 「……ふ〜ん。わかったようなわかんないような感じだけど、つまりセコンドとしてはバチバチドッグファイトをしてもオッケーってこと?」 「やってオッケーということだ」 「相談は終わったかな?」 「あっ、はい。そのことなんですけど……えっと」 みさきは真藤さんに話しかけながら、目の前の虫を払うような何気ない動作を入れてから、すーっ、と静かに前に出た。 「あっ……」 自然な動作で右手を真藤さんの胸に伸ばして──。 弾ける音が響く。 「くっ」 真藤さんはバランスを崩して後ろに弾かれた。みさきも逆の方向に弾かれるが、バランスは崩していない。 静止した状態だったので、お互いにスピードが完全に死んでいる。ファイターが超有利な状況。 「体は熱く、心は冷たくってこういうこと?」 「そういうことだ。動きまくって翻弄しろ!」 「了解」 みさきがバランスを戻そうとしている真藤さんに襲いかかる。 「そういうことするんだね」 「どういうことだってしますよ」 真藤さんが腕を振り払うようにして、みさきに触れようとする。 「………」 みさきはそれを冷静にかわし、真藤さんの目前で短い上昇を入れながら体の上下を入れ替える。逆立ちの状態で降下しながら、真藤さんの頭にふれようとする。 「いい判断だぞ」 後頭部を弾けば、真藤さんは前向きに倒れ、バランスを崩して背中を見せることになる。 「…………」 えっ? 真藤さんがくるりと縦軸で反転しながら、真上から伸びてきたみさきの腕に、斜め上へ弾くようにふれた。 「きゃっ?!」 反発力で半回転させられたみさきは顔を真上に向けた姿勢で……。真藤さんから見れば、背中を無防備に向けた姿勢で、斜め上に飛ばされる。 真藤さんはみさきが姿勢を戻す前に真下から腕を伸ばして、 「はい。まず一点」 「ちょ、ちょっと!」 背中を真藤さんに向けた状態で再び真上へ飛ばされる。下から追い上げた真藤さんが手を伸ばして……。 「二点目」 「ふわぁ?!」 このままだとさらに連続得点を許してしまう。 「みさき、暴れろ! なんでもいいから、とにかく体を回しながら両手両足を振り回せ!」 「うわーっ!」 「そんなみっともない逃げ方をするなんてがっかりだな」 「うぐ〜〜っ」 まさか──。 真藤さんが腕を振り払うように両手を出して防御した時からこうなることが決まっていたのか? 前面を防御されたら、上から狙うのがセオリーだ。 セオリーってことは……。それ以降のみさきの動きを全部読んでた? そう考えないと、綺麗にみさきの攻撃をかわした動作を説明ができない。反射神経だけじゃあんな動きはできないはずだ。 喉が乾いてくる。 そんなことする相手にどう作戦を立てればいいんだ? 「この程度だったなんてがっかりだな」 「その言い方とその笑顔、頭に来るんですけど」 「そう言うならもっと真剣にかかってきたらどうだい? ファイターなのにオールラウンダーの僕に翻弄されるのって、恥ずかしいことだと思わないかい?」 「……ッ!」 「みさき! 攻撃するな!」 「するっ!」 「するな! 徹底的に防御しろ!」 「攻撃する!」 「するな! お菓子を好きなだけ食べさせてやるから!」 「……ッ! ケーキでもいいの!? ケーキバイキングは可なの!?」 そんなことで怒鳴るな! 「なんでもいいよ。だから俺の話を聞け」 「…………」 「攻撃をひたすらにかわし続けろ。攻撃のチャンスは真藤さんの誘いだから無視。ただしかわすのは超至近距離で。近づいてかわせ」 「でも攻撃しないと」 「ケーキ!」 「でも」 「バイキング!」 「あー、もうわかった! 近づいてかわすことだけすればいいんだね」 「そういうことだ。得点を取られても気にするな」 みさきはスーッと真藤さんに近づいていく。 「………ん? また奇襲?」 「どうでしょうか?」 「……?」 「………」 お互いに手を出さないまま接近する。FCではあまり見ない光景だ。 ──やっぱりな。 真藤さんはドッグファイトをする時カウンタータイプなんだ。つまり待ちだ。 相手を自分の思うように動かしてから攻撃する。つまり自分から攻撃するのは苦手──なはず。 「ファイターなのにそんなに近づいて何もしないのかい?」 「……真藤さんから攻撃してきてくださいよ。怖くてできないんじゃないですか?」 「どうだろう……ね!」 真藤さんが前傾姿勢になりながら手を伸ばす。 「ッ!」 みさきが寸前でそれをかわす。 真藤さんが前傾姿勢を深くして加速する。それにあわせてみさきも加速する。 「………」 「……ッ!」 右に回ろうとした真藤さんの進路を塞ぐように動く。 ──至近距離に居ろって命令を守ってるな。 これが狙いだ。 至近距離の戦いは一瞬の反射神経が重要。相手を思い通りに動かすのは難しいはずだ。 「………」 「……ッ!」 真藤さんにぴったりとくっついて次々と攻撃をかわしている。 あのグラシュならできるはずだ。だけど……。 「すごいわね」 「……かもしれません」 まだかわし続けている。まだかわし続けている。まだかわし続けている。 真藤さんがスピーダーよりのオールラウンダーのグラシュで、みさきがファイター特化のグラシュだからというのもある。あるけど……。 それだけじゃない。 みさきはここまでできたのか……。 あの反射神経。──あいつに似てる。 いやな記憶が、微かに胸をえぐる。 「………」 歯を食いしばったみさきが、真藤さんの胴体にからみつくみたいに、まるで蛇のようにヌルリと回り込んで──。 背後をとっていた。 かわし続けていれば自然と背後をとることになるかもしれない、とは思っていたけどこんなに早くそうなるなんて……。 「えいっ!」 「くっ」 真藤さんが背中をタッチされてサードブイの方向へと弾き飛ばされた。 「あっ! 攻撃しちゃった! もしかしてケーキなし?」 「ありだ! ケーキありだ! 集中力をきらすな!」 「う、うん!」 「やっぱり、やればできるじゃないか。じゃ、続きをしようか」 真藤さんが再びはじめた攻撃をみさきはかわし続けた。 それからみさきがもう1点を追加したところで、試合は終了した。 2対4。 試合を見学していた人達の間に、妙な空気が流れていた。それはみさきが攻撃をかわし続けたことへの驚きだ。 「お疲れさま。挑発するようなこと言って悪かったね」 「あたしにつきあって、わざと攻撃してくれたってことでいいんですか?」 「そんな意地悪な解釈をしなくていいよ」 「でも本当の試合だったらああいう戦い方はしませんよね?」 「どうだろうね。それは本番までの秘密だよ」 みさきが俺に近づいてくる。 「ねっ? ねっ? あたし凄くなかった?」 「凄かったけど0点」 「どして? 真藤さんから2点もとったのに?」 「0点なのは俺もだ。みさきは俺の指示になかなか従おうとしなかっただろ?」 「いや〜、それはその……。真藤さんに挑発されてカッとなっちゃったから」 「まぁ、俺の指示の出し方も悪かったしな。今日はお互いに0点だ」 「自己評価、厳しいなー。でも今日ので晶也の指示にしたがってもいいかなって思ったよ」 思った、じゃなくて、これからはそうする、って言えよなぁ。 「とにかく練習あるのみだ」 「わかりました、コーチ」 からかうような感じで、みさきは微笑んだ。 ──わかってんのかな、こいつ。 その後、真白の試合も終わり、明日香の出番が迫ってきた。 「が、がんばります!」 「気合を入れるのはいいけど、入れすぎるのはよくないぞ。肩に力が入ってるって」 「そ、そうでしょうか?」 「そうだよ。肩が上がってるって。深呼吸して力を抜いて」 「はっ、はい。すーーーー、はーーーー」 「もう一回」 「すーーーー、はーーーー」 「手をぶらぶらさせてから、肩を回そうか」 「こっ、こんな感じでどうでしょうか」 「まだ力が入ってるな。練習試合なんだからそんなに緊張しなくていいって」 「きっ、緊張してません」 「ん〜? 前に佐藤院さんと試合した時は、そんなに緊張してなかっただろ?」 「あの時は何も知りませんでしたから。でも今は、練習の成果を出さないと、と思うと……」 「緊張したらそれも出せないぞ。体が硬いと俊敏な動きができなくなるからな」 「リ、リラックス、します!」 ……できてないな。 「相手はスピーダーだからな。先回りして頭を押さえ込んでスピードを落とすこと」 「はい、落とします」 「そろそろ試合を開始したいのですけど、よろしいかしら?」 「わかりました」 「よろしくお願いします」 明日香の相手は、市ノ瀬だ。 市ノ瀬は先にファーストブイへと向かっていった。 「それじゃ、行ってこい」 「はい! がんばります!」 俺は明日香の背中をポンと叩いて送り出した。 ──初めてのちゃんとした練習試合だから、緊張するなって言うほうが無理か。 「よろしくお願いします、莉佳ちゃん」 「胸をお借りします」 試合開始のホーンが鳴った。 「………」 市ノ瀬が体を深く倒して、ローヨーヨーでセカンドブイに向かう。 「………」 明日香がそれについていこうとする。 ちょ、ちょっと! 明日香のグラシュはオールラウンダーの標準で設定してある。スピーダー寄りに設定してあるなら、試してみる価値はあるかもしれないけど……。 俺はヘッドセットに叫ぶ。 「明日香! スピード対決しても勝てないって!」 「えっ? あ、はい。そうでした!」 「ショートカットするんだ」 「はい」 慌てた様子で、セカンドラインへと移動していく。 ガチガチに緊張してるな。 ………。 ………。 「プレッシャーをかけろ」とか「挑発しろ」みたいな指示を出したんだ、って市ノ瀬に判断されたら面倒そうだな。 後から、そういう卑怯な指示を出す人だったんですね、とか言われそうだ。 「………」 セカンドブイにタッチして1点を獲得した市ノ瀬が、タッチの反動を利用して加速する。 俺は市ノ瀬を見ながら思う。 ──下手ではないんだけどな。 ローヨーヨーの上昇へ切り替える時のタイミングが、半呼吸くらい早いような気がする。 セカンドブイへのタッチする角度が甘いから、加速が微妙に弱い。 一瞬一瞬の判断を焦っているような気がする。 「………」 明日香はセカンドラインの真ん中で市ノ瀬を待ち構える。 「落ち着いて先回りして頭を押さえるんだぞ」 「はっ、はい」 「………」 市ノ瀬が緩やかに上昇していく。それにあわせて明日香も上昇する。 ──ここで押さえられればいいんだけど。 「………」 市ノ瀬が上昇しながら右側へ──。 それに反応した明日香が、ぐっ、と前傾姿勢になって加速する。 「押さえます!」 「させません!」 市ノ瀬は明日香を引きつけてから、体を捻って左下へと旋回する。 「あっ」 完全に逆方向へと飛行することになった明日香が、体をひねって市ノ瀬の後を追おうとしてバランスを崩す。 「わっ? わわわっ?!」 市ノ瀬が明日香を引き離していく。 「深呼吸しながら両手両足を広げて。それから後を追わずにサードラインへショートカット」 「わかりました! すーーーー、はーーーー。行きます!」 「まだ2点を失っただけだ。落ち着いて行こう」 気落ちしているのかと思ったが、 「凄いですね!」 明日香の声はなぜか明るかった。 「凄いって?」 「目の前から消えちゃったみたいに見えました! ああいう動きができるんだって思ったら、ドキドキします」 「そっか」 「楽しいです!」 相手に翻弄されたのに、純粋にそんなこと言えるなんて凄いな。 「もっと楽しんでこい」 「はいっ!」 明日香がサードラインにたどり着くと同時に、市ノ瀬がサードブイにタッチする。 これで0対2。 「………」 市ノ瀬は斜め下に進路をとる。ローヨーヨーで加速するつもりだ。 さっきバランスを崩した明日香が動揺してると読んで、スピードで一気に抜き去るつもりか……。 「上がってくるタイミングを捕らえろ」 「はい」 「………」 明日香が市ノ瀬の上昇ポイントへと移動しようとした瞬間、市ノ瀬がぐんっと急上昇する。 「捕まりません!」 「ふわわっ?」 それを追おうとして無茶な動きをしたせいで、再びバランスを崩してしまう。 ……容赦ないな。 いや容赦しないというよりは、真面目に全力でやっている、ということなんだろうな。 普通、スピーダーはあんな無茶な急上昇はしない。なぜならスピードが急激に落ちてしまうからだ。スピーダーはスピードが命だ。 だけど初心者が相手の場合はかなり有効。 なぜなら咄嗟に追おうとした時に、初心者はバランスを崩すことが多いからだ。 「バランスを取り戻してフォースラインに移動だ」 「はい!」 「バランスを崩さないように気をつけような」 「はい! なんだか少しわかってきた気がします」 「んっ? 何がだ?」 「うまく言葉にできませんけど、とにかくわかってきた気がするんです!」 市ノ瀬はブイにタッチ。 これで0対3。 市ノ瀬が今度はラインにそって真っ直ぐに飛んで、正面から明日香へと向かっていく。 このまま正面からぶつかるってことはないから、どちらかの方向へ途中で曲がるのだろうけど……。 ──さっき明日香が言っていた、わかった、というのは……。 市ノ瀬がフェイントをしかけてくるのがわかった、ということなんだろうけど──。 フェイントを潰そうとして、余計な動きを入れて自滅してしまうのも初心者によくあることだ。 だからと言って下手に指示を出せば、明日香を混乱させてしまうかもしれない。 経験しないとわかんないことってあるからな。 ──ここは経験を積ませる意味でも黙って見ておくか。 「いかせてもらいます!」 「……ッ」 接近してきた市ノ瀬がシザーズ、左右への蛇行を入れる。 ──初心者に厳しいことをするな。 待ち構える明日香が露骨に右へ左へうろうろして、飛行バランスを崩しかける。 「えっと、えっと……。えいっ!」 「えっ?」 えっ? 明日香が進んでくる市ノ瀬の頭を押さえかけた。寸前で市ノ瀬は急上昇でかわしたけど……。 「追え!」 「はいっ!」 市ノ瀬は蛇行と急上昇でスピードが落ちている。 ファイターほどじゃないけどオールラウンダーも初速は速い。あれなら追いつけるかもしれない。 「………!」 「………ッ」 明日香が距離を縮めていく。 追いつくか? 「……ッ!」 市ノ瀬がローヨーヨーに入ったのを明日香が追う。 ……ここで追いつけなかったら無理か。もう少し追わせてみたい気もするけど── 引き際も肝心だ。 本当にあと一歩だった。 「ファーストラインへショートカットだ」 「はい!」 ──あっ。 さっき明日香がわかったって言ったのは……。 市ノ瀬がフェイントを入れてくる、ということじゃなくて……。 バランスの立て直し方がわかってきたってことか? 試合中にわかったってことか? そういうこともあるんだろうけど……。 俺はチラリと横を見る。 「落ち着きなさい。そう興奮しては足をすくわれますわよ」 佐藤院さんが市ノ瀬をなだめているようだ。今の展開に市ノ瀬も驚いたらしい。 「明日香、寸前まで市ノ瀬の動きを見極めろ。慌てて反応する必要はないぞ。動くのを我慢しろ」 「はい!」 「いかせてもらいます!」 フォースラインの時と同じように真っ直ぐに突っ込んでくる。違うのはシザーズを入れなかったこと。 スピードで振り切るつもりだな。 「………」 「………」 市ノ瀬は小さなフェイントを入れるが明日香は反応しない。 ──我慢しろって言われたからって、よく我慢できるな。 市ノ瀬は右に旋回。 「押さえます!」 「ごめんなさい」 「えっ?!」 市ノ瀬は両手両足を広げながらハイヨーヨー、急上昇を入れた。 「全力でいかせてもらいます」 急激にスピードを落とし、市ノ瀬の目の前を明日香が背中をさらす姿勢で通過する形になる。 ──完全に裏をかかれた! まさかここでブイを狙わずに背中を狙ってくるなんて。 佐藤院さんの指示か? くそっ! せめて1点くらいとらせて、明日香に自信をつけさせてあげたかったんだけど……。 「くっ」 明日香が両手両足を縮めて、 えっ? 「えい!」 まるで空気を蹴るかのように逆方向へと高速で移動した。 エアキックターン?! 「くっ」 佐藤院さんと試合をした時のようには、綺麗には決まらなかったけど……。 伸びてくる市ノ瀬の腕を空振りさせることには成功した。 「そんな……まだ初心者の明日香さんに、そんなこと……」 「コーチにおそわったんです!」 空振りした市ノ瀬の体が明日香の横を通って前方へと流れていく。 「えい!」 市ノ瀬の背中にふれた。 「くっ」 1点とった! 「はぁっ、はぁ………」 「あっ! ミスしましたぁ!」 市ノ瀬は背中を押された反動を利用して、セカンドブイへと向かっていく。 さわる角度をもう少し下向きにしておけば、連続得点のチャンスだったんだけど……。 「いや、今のはよかったぞ。セカンドラインへショートカット」 「はい!」 それから明日香は市ノ瀬のスピードについていくことができず、ブイへのタッチを連続で許し、1対6になったところで、試合終了のホーンが鳴った。 「…………」 3日間の合宿も終わりが近づき、俺たちも荷物をまとめて帰るだけになった。 それぞれで仲良くなったみんなが別れを惜しんでいる。 俺も例外ではなく、 「ありがとう。有意義な合宿になったよ」 「こちらこそ。良い刺激を受けることができました」 「そうだ。君からも鳶沢くんには謝っておいてくれるかな」 「はは、あまりうちの選手をいじめないでください」 「…………」 「なんですか?」 「本気でそうは思っていないくせに」 「…………」 やっぱ真藤さんも気づいていたか。 みさきが垣間見せたポテンシャルが何かを期待させた。 「まあわかりました。謝っておきますよ。もっとも本人はそういうのを引きずらないと思いますが」 「だったらいいけど。彼女、ひやっとする目を見せたからね」 「え、みさきが……?」 そんな一面、みさきにあるんだろうか。 「彼女は伸びるね。……いや、彼女だけじゃないか」 真藤さんの目が向く。その先には、 「え? なんかわたしの話ですか?」 「目ざといな!」 とりあえず手で向こういけとしとく。 「ひどいです〜」 明日香も察したのか食い下がろうとはしなかった。 「ふふっ、仲がいいね」 「信頼関係も大事ですから」 これといって特別なことはしてないけど。 しかし真藤さん、みさきだけじゃなくて明日香にも何か感じてるってことか。 まだ確かな形にはなっていないから見抜いたとは言えないけど。 「君がFCに戻ってきた理由がわかったような気がしたよ」 「そんな大げさなことじゃないですって」 「さて、挨拶も後がつかえてるようだし」 「え?」 「…………」 たしかに今一瞬視線を感じたけど。 「君が彼女たちにどんな翼を与えるのか楽しみだよ」 「え?」 「夏の大会でまた会おう」 踵を返す真藤さん。 「あ、ちょっと待ってください」 「うん?」 「握手……させてもらっていいですか? 今度は俺から」 最初は真藤さんに求められた握手。 この人にはそれを返したい人だと思えた。 「喜んで」 真藤さんと握手を交わし、別れる。 そして次に、 「ぁ……」 「あなた!」 「さ、佐藤院さん……?」 「実に有意義な合宿でした。副部長としてお礼を申し上げますわ!」 「はあ……」 それ今真藤さんに聞きました。 ってか、挨拶も後がつかえてるって……佐藤院さん? 「ちょっと佐藤くん」 「佐藤院ですわ部長」 「今後のスケジュールについて少し相談があるんだ」 「お待ちください。わたくしはいま副部長として感謝のご挨拶をしているところですから」 「火急なんだ。佐藤くんの意見を聞きたかったんだが」 「佐藤院です! あの、すみません、慌ただしくはありますがこれで」 「え、ええ……」 なにがなんだかとぽかーんとしていると、 「あ、あの……!」 「い、市ノ瀬か」 さっきからちらちらと見えてはいた。 夕べ以来だ。 家に帰ってからと思ったけど、謝っておかなきゃな。 何はともあれそういう機会を作ってくれたんだ。 ここは開口一番、 「あ、ありがとうございました!」 「ごめんなさい!」 「ごめんなさい!」 「あ、ありがとうございました!」 お互い同時に頭を下げて 「はい……?」 「え?」 「え?」 「はい……?」 頭を下げたお互いが不可解な表情に変わる。 っていうか、夕べもやったぞこれ。 「……なんでお礼?」 「え、その……」 「あんなことがあったのに」 「ちょ、思い出さないでください!」 「いや、それは大丈夫だけど」 あんま自信もないけど。 「その、なにか言わなきゃって。でもなんて言ったらいいかわかんなくて、一番近かったのが、その」 「お礼だった?」 「変でしょうか……やっぱり」 「いや」 なにかを形にしようとしてくれた結果だ。 「家に帰ってからでもよかったのに」 「ここで言っておかないとまた言えなくなっちゃいそうな気がしますし」 「あ〜」 夕べの話を思い出す。 「それに今お話しするのが私にとってはいちばんキツそうだったので、それくらいしなきゃって」 ふと見ると、市ノ瀬の向こうで友達らしき子たちがにやにやと見ている。 初日にも見た子たちだ。 それをあえてやることで自分に戒めを与えているのか。 まったく……自罰的というか生真面目がすぎるというか。 「こちらこそありがとう」 「あ……」 「はいっ」 改めてお礼を言うと市ノ瀬が微笑んでくれた。 ありがとうか。気持ちのいい言葉だよな。 市ノ瀬から俺に、俺から市ノ瀬にそれぞれの…… 「あ、いや」 「どうかされましたか?」 「一応断っておくけど、さっきの俺のありがとうは昨日見たものに対してじゃなくてだな」 「え?」 なんのことかと首をかしげた市ノ瀬の顔が、 「〜っ!?」 思い当たったのか一瞬で沸騰する。 「さっき思い出さないでくださいってお願いしたばかりじゃありませんか!」 「いや、でもちゃんと断っておかないと俺のありがとうは誤解するとかなり気持ち悪い意味になるんじゃないかと!」 「それにちゃんと許してもらってないし」 「ちょ……」 不意に市ノ瀬が顔を近づけて声を潜める。 たしかに外聞の悪い話だ。 「許すって、許せるわけないじゃないですか! 二度もあんなの見られて!」 「だから不問です」 「不問……」 「それとも日向さん、責任取ってくれます?」 「え?」 「あ……」 「い、今のは言葉の綾です。勢い! 私にだって選ぶ権利はありますから!」 「だ、だよな……」 ちょっとびっくりした。 「……もう」 市ノ瀬はしょうがないなという感じでくすっと笑うと、 「なんだか日向さんには調子を狂わされてばかりです」 「重ね重ね……」 深々と頭を下げようとするのを市ノ瀬が止める。 「お互いにいきましょう。これでもう、とりあえずわだかまりはなしということで」 「ありがとうございました」 「こちらこそ。ありがとう」 「……っ」 「ん?」 ふと市ノ瀬が自分の身体を隠すように距離を取る。 「どうした?」 「いえ、あの、二度あることは……って」 嫌な記憶が脳裏をよぎったらしい。 「三度目の正直ってこともあるんで、その」 非常に肩身が狭い。 「ふふ、やっぱり日向さんにお礼を言われるとなんか違うこと思い出しちゃいますね」 「自分で不問って言ったのに!?」 「日向ー」 「そろそろ帰るってさー」 「あ、はーい」 両校が整列して向かい合う。 最後の挨拶だ。 両校の部長が対峙する。 「夏の大会で会おう」 「ああ、必ずな。首を洗って……って真藤、日向じゃなくてこっちを見ろ」 「はは」 「それでは、お互いに礼」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 「ありがとうございましたー!」 こうして。 ゴールデンウィーク、3日間に及ぶ高藤学園との合同合宿は幕を閉じたのだった。 「これで終わりじゃないぞ。家に帰るまでが合宿だ」 「ですね」 帰り道、気を引き締められながら家路につく。 「で、どうだった?」 「どうって」 もちろん合宿の総括のことだろう。 「勉強になりましたよ。でも……」 周りを見渡す。 「次はオレの筋肉特集とかどうだ?」 「いや〜、それは猥褻物陳列罪で発禁とか食らいそうなんで」 「オレの筋肉の何が猥褻物か!」 「ちょっとお兄、これ以上あたしに恥かかせたらお母さんに言いつけるからね」 「…………」 まああっちはいいとして。 「みさき先輩、なんだか元気なくないですか」 「……べつに」 「また先輩お腹減って……」 「…………」 「ううん違いますね」 「え?」 「もしかして今日の練習試合で」 「っ!」 「どこかケガでもされたんじゃ!」 「……いや、そういうんじゃなくてね」 「うそ! みさき先輩のことですからわかります! わたしそういうの目ざといんですから!」 「なんかこう、惜しいようなそうでもないような」 「さあ先輩、わたしに患部を! すべてをさらけ出しちゃってください!」 「とりあえずひとりにしてほしいな〜」 「…………」 「どうした?」 「いや、プレイヤー側に何かあったかなって」 別れ際の真藤さんの言葉を思い出す。 「君が彼女たちにどんな翼を与えるのか楽しみだよ」 真藤さんらしい表現だったけど、まさにその通りだ。 今回、夏の大会の中の具体的な目標が現れた。 それを前にみんながどう思うか。俺がどう思うかじゃない。 「俺はみんなをサポートできるように全力を尽くすだけです」 「それはそうかもな」 「だが晶也。おまえがみんなを引っ張ることもできるはずだ。考えて動くこともおまえの仕事だぞ」 「……はい」 とりあえず今日はゆっくりと休もう。 そして高藤で学んだことをノートにまとめて…… 「コーチ」 「明日香?」 「あの、ですね」 「どした?」 「このあと練習、つきあっていただけませんか?」 「さっき合宿終わったばっかなのに?」 「なんだかすごくいい風に乗れそうな気がするんです。だから忘れないうちにって」 「……やっぱりお疲れですか?」 「いや……」 俺の仕事は彼女たちの羽根をこしらえる準備をすることだ。 「ありがとな。遠慮せずに言ってくれて」 「じゃあ……!」 「みさきと真白にも聞いてきな」 「はいっ」 わたわたと明日香が飛んでいく。 合宿効果があったのかもしれない。 「え〜」 「え〜」 「え〜」 ……なかったのかもしれない。 「……っ!」 それでも、みさきや真白の声とは裏腹に、明日香が手でおおきなマルを作った。 了承はしてくれたみたいだ。 「合宿した意味があったかな」 「興奮した一過性のものかもしれませんけどね」 答えながら俺は。 とりあえず合宿で学んできた高藤の練習のどれを試そうかと考え続けていた。 「第3話END」 「ほら、見てください、星がとてもキレイですよ」 「日本の空気はスモッグが多いと聞いていましたが、仇州はとても澄んでいます、ステキです」 「永崎の空港からはヘリにして正解でした。先にこの空の美しさ、見ることができてよかったです」 「はい? なにか言いましたか?」 「飛びたかった……? めずらしいですね、あなたがそんなことを」 「ああなるほど、空気に慣れるためですね。それなら心配はいりません」 「……これから、いくらでも飛ぶ機会はありますから」 「そろそろ到着いたします、イリーナさま」 「ハイ、わかりました」 「長旅で疲れたでしょう、今日は着いたらもう休みましょうか」 「……え? ふふ、あなたらしいですね」 「わかりました、ではすぐに動けるよう、準備するようにしておきましょう」 「着きましたわ。ここがわたしたちのステージなのですね」 「あなたの生まれた場所にして、あなたが空に目覚めた場所……」 「そして、あなたがすべてを変える場所です」 「あなたならできます、いえ、あなたしかできません」 「わたし、ずっと楽しみにしていました。この日が来るのを、ずっと……」 「変えましょう、この空気を。超えましょう、この地平を」 「さあ、思うままにやりなさい」 「第3話アフターEND」 久奈浜学院FC部では部室で定期的にミーティングを開くようにしている。 今日は練習前に集まってもらっていた。 「はい。直線タイム、左右各ターン、上昇下降、シザーズ、ハイヨーヨー、ローヨーヨー諸々の昨日までのまとめがこれ」 「ん。サンキュ」 「とにかくデータになりそうなものは全部記録しておけって習ったから」 「へえ、あの合宿で勉強したのか」 「そうそう、高藤でね。がんばるから、ちゃんと活かしてよ?」 「ああ、必ず役に立てるよ」 「やだ晶也頼もしい……キュンときちゃうかも」 「それはともかくとして、ちょっと気になったんだけど」 「なーに?」 「いや、そういや、窓果だけはいつも俺のことを『日向』って名字で呼ぶよなと思って」 特に強制しているわけではないけど、みんなが名前で呼び合っているのに、なぜ窓果だけがそうなのか、ちょっと気になった。 「え、なに、このタイミングでその話題って、わたしを攻略しようとしてる?」 「あいたっ!」 「こらーっ! おでこの分け目のとこ狙って突っ込まないでよ!」 「いや、なんかちょうどいいなって思って。……で、別に深い意味はないんだな」 「そだね、なんか言いやすい方で定着したし」 「あ、でも、日向くんがどーしてもって言うなら、晶也って呼んであげてもいいんだけどぉ……?」 「日向でいいです」 「もうちょっと思案してよぉ!」 真面目なトーンがまったく持続しない窓果から、すっぱりと目を離す。 部員たちはまだ集まっただけの状態で、各々が好きな話をしていた。 「へ〜、モンタッタ4もう出たんですね〜」 「ちょうど今日発売なんですよ。え、明日香先輩、3はされてたんですか?」 「ううん、わたしはゲーム自体あんまりで。でもCMとか見てすごいな〜って」 明日香と真白は、ゲームの話をしているようだった。 しかし、モンタッタという気の抜けたタイトルはどうにかならなかったのだろうか。 おそらく略称なのだとは思うけど。 「真白ちゃんはゲーム好きなんだよね?」 「はい……まあ好きですね、そこそこには」 「そうなんだ?」 「は、はい……」 「――では先生、ここに筋トレ道具を持ち込んでもいいと?」 「普段きちんとしまっておけるならな。転がってるダンベルにつまづいて怪我とか目も当てられんだろう」 「ありがとうございます! 細心の注意を払います!」 「あ、じゃあうちに置き場に困っ……」 「……役に立ちそうなバランスボールがあるから、持ってこようかな〜」 「本音を先に漏らした上、ためらいもせず言い切ったか……。まあ鳶沢らしいな」 「しかしバランスボールは実際役に立つかもな」 「でしょ〜? 体幹トレーニングやっちゃいましょうよ」 「はい、私語は慎んでこっちに注目。ミーティングはじめるぞー」 「最近、練習に対するモチベーションが目に見えて高いように感じます」 これはゴールデンウィーク以来のことだ。 やる前は不安が大きかったものの、高藤との合宿は結果的にいい刺激や実感を与えたんだろう。 「よかったよかった」 ……一部、平常運転のやつもいるけど。 「コーチとしても非常に喜ばしいです。スコアに反映されるのも時間の問題だと思います」 「目標の県大会ベスト8に向けてこの調子、この勢いで頑張っていきましょう」 「はい!」 「おう!」 いま元気な返事があったのが特にノッている選手だ。 やる気ってこういう些細なところに反映されたりする。いや、決めつけるのは無言実行タイプに悪いな。 「はいはーい、マネージャーからひとつ」 「はいマネージャー」 「えっとね、コーチはこう言っておりますが、そろそろテスト前週間に入ります」 「……あ、そうか」 「忘れてた?」 「月の頭にひと月分の練習メニューを組んだから把握はしてたはずなんだけどな」 毎日の部活の時間が楽しくなってきていて失念していた。 「あの……」 「ん?」 「テスト前週間だと、どうかなっちゃうんですか?」 「わたしもちょっとわからないです」 転校生の明日香と新入生の真白は、年度最初の定期考査のことを当然知らなかった。 「中間は3日、期末は4日前から部活停止になるんだ」 「ああ、そういうのあるんですね」 「久奈浜は普通の学校だからな。スポーツ特待がある高藤なんかは違うかもしれないが」 「ん〜、残念ですけどちょっとの我慢ですね。お勉強も大事ですし」 「違う、ここでは勉強が本分なんだ。楽しい気持ちはわからないでもないが、その順番を履き違えると大変な目に遭うぞ」 「大変な目……ですか?」 「ああ。本テスト、追試と続けて赤点を取ると、そいつは再試の合格まで部活ができなくなる」 「ええぇぇええええ!?」 「ほんとですか!?」 「生徒手帳にも書いてあるぞ。一度ぐらいはちゃんと目を通しておくといい」 「どれどれ」 「見せて見せて」 「み、みさき先輩、生徒手帳でしたらわたしのをいま……!」 「あ、ほんとだ」 「くっ……!」 「というか、みなさんも知らなかったんですか?」 「部活やってなかったから関係なかったし」 「そのわりには驚かなかったような」 「赤点って取ったことないから関係ないかなって」 「実在するんだ?」 当然のように頷く面々。 一方、 「うぅ……」 「…………」 「すべては気合だ! やればどうにかなる!」 心なしか小さくなったり狼狽してる人たちの姿も。 部員の成績の明暗が大雑把にわかってしまった。 「しかし、となるとどこかのタイミングで勉強会でもやった方がいいか?」 「それ楽しそうです!」 「いや、楽しまれても困るが」 勉強そのものが楽しいなら別だが、そんなヤツは赤点なんか取らないだろう。 「わたしはみさき先輩に付きっきりで、手取り足取り教えていただけたらなんて……きゃっ!」 「勉強会ってさ、よく聞くけど本当にあれ効果あんの? 集団現実逃避じゃなくて?」 「うぅ……そう言われてしまうと」 「いや、だがマンツーマンは効率良いんじゃないか? 塾なんかでも取り入れられてるだろ」 「そして、マンツ・トゥ・マンツね」 「窓果は何かおかしい。言語感覚とか」 あとたぶん頭だと思う。 「ま、晶也がどうしてもやるって言うならいいけどー」 「……っ」 「俺、というかコーチの意見に従ってくれるってことな。わかったから睨むな、真白」 誰かの視線が鋭すぎて言い訳みたいに解説する。 「まあその辺の話はまたテストが近づいた時にでも考えるとして」 あと確か他にも話があったはず……えっと……どこかにメモってたよな……? (うっ……そうだ) そうだ、思い出した。真白に飛行スタイル転向を勧めるつもりだったんだ。 何の話かは思い出したけど、 「…………」 何というかタイミングが悪い。 デリケートな話なのでなるべくタイミングを図りたいところだ。 とりあえず、ちょっとご機嫌を伺ってみよう。 「真白」 「はい、なんですか」 至って冷静な普通の対応。 なのにどこか血が通っていないように感じるのは何故だろう。 いやわかってる。十中八九みさき絡みなのは。 「さっきの話だけどさ、俺でよかったら、勉強見てみようか?」 「いいえ結構です。センパイのお世話になるまでもありませんから」 「そうか」 どうも俺の望む結果が出る空気じゃない。 とりあえず今日は真白の機嫌がよくなるように…… 「ん?」 「……じっ」 明日香? 「……じ〜っ」 「え、なに?」 なんだ、その何かを期待するような視線は? 「……じ〜〜〜っ」 「どうした、何かあったのか明日香?」 「…………」 「なんでもありません」 え、今度はちょっと膨れてる? 突然なんでだ!? 「私には言ってくれないんですかー」 「〜っ、ま、窓果ちゃんっ」 「は?」 「まあまあ晶也。これ以上醜態を晒す前に練習に行こうよ」 立ち上がったみさきに肩を叩かれる。 「…………」 「おいおい……」 真白の機嫌を好転させるつもりだったのに、いきなり損ねているようで訳がわからない。 まあいい。とりあえずは。 「そうだな。練習に行こうか」 で、真白への話はもう少し機嫌のいい時にしよう。 本当にそんな時が来ればだけど。 「っ……た!」 「ん?」 「真白ちゃん?」 飛行練習に一区切りつけ、選手たちが砂浜に降りたところだった。 真白が突然、うずくまったのだ。 「痛ぁ……」 「日向! 窓果! 来てくれ!」 「どうしました!?」 先輩のトーンでただごとでなさそうだと慌てて駆け寄る。 「ちょっと着地の時にくらっときて、それで足を変な風についちゃって」 「診せてみて。グラシュ脱げる?」 「はい。ん……痛ぅっ……!」 「頑張って。こっち持つから」 「んくっ……」 グラシュとスキー靴は、着脱の感覚がすこし似ている。 なので傍目には脱がすというより、外すと言った表現のほうが適当に見える。 ガポッ、と仰々しいグラシュを外すと、真白の白くて細い素足が外気に晒された。 「あ、あの……」 「はい男子回れ右ー」 と、俺と先輩はみさきに促されて反対を向かされる。 「別にそんなやましい気があるわけじゃ」 「まあ、有坂のことは窓果にまかせておこう。間違った対応はしないだろうからな」 ……ま、それはその通りなんだけど。 こんなところでも、理解している度合いの差を感じてしまう。 「さて、素人だからあまりぺたぺた弄れないけど」 「うん、内出血は無いみたいだから、筋肉や血管に損傷はないみたいだね」 「痛みが強くて我慢できないとかは?」 「いえ、今はじんじんしてますが、我慢できないってところまでは……」 「だとしたら骨折、ヒビ、靭帯の損傷・断裂なんて心配もないかな?」 「でもちゃんと病院に行ったほうが確実だね。どうかな、各務先生でもいける?」 「…………」 「日向くーん? 日向くんに聞いてるんだけどー」 「あ、ああ悪い」 「どしたの?」 「いや、窓果が思ったよりちゃんとマネージャーをしてるから驚いて」 「うむ。確かに」 「おーい、すっごく失礼なやつらがいるぞー」 「窓果ちゃんすごいです!」 「ふっふっふ。高藤との合宿でレベルアップしたのはキミたちだけじゃないということだよ」 「私とてスコアの取り方からマッサージ、怪我の対応から洗濯の仕方までを習い!」 「すごい!」 「ネットで検索すればだいたい解決するってわかったんだから!」 「…………」 「…………」 「あ、ほんとにスマホ持ってる……」 「……ま、対応の早さで十分フォローできてるとは思うけどね」 「みさきが今いいこと言った!」 「あの、わたしはどうすれば……痛っ」 「ああっ、ごっめーん」 色々と残念だけど、窓果らしいといえばらしかった。 「で、日向くん、各務先生に診てもらえば大丈夫かな?」 「いや、怪我に対する処置やサポートはできるけど、さすがに診断は下せないよ。まず医者だ」 「真白っち、保険証持ってる? まあないよね。だったら一度取りに戻らないと……」 「それなら俺が行こう。窓果は真白についててくれ」 「あ、いえ、病院まで行くほどのことじゃありませんから。ちょっとひねっただけだと思いますし」 「だけどな……」 「心配してくださって、ありがとうございます」 「でも、わたしの不注意が原因で、部活がこれ以上中断してしまうのは……」 「…………」 真白の言っていることもわからなくはない。 人の手をかけさせている時間というのは、できる限り短い方がいいと考えるのは当然のことだ。 でもこの手のトラブルを軽視すると、あとになって大事になる危険性もある。 「真白」 俺は静かに息を吐いて真白の目を覗き込む。 そして諭すように言った。 「病院に行こう」 「イヤです」 一撃だった。 「ああいえ、今のは相手がセンパイでしたから反射的に……って、わわ、そうじゃなくて今のなしっていうか」 追撃まできた。 ……そこまで邪険にしなくてもいいだろう。 「まあまあ、無理してウニみたいにツンツンしなくても。晶也も純粋に心配してるだけだって」 「“も”ってことは、みさき先輩もわたしのことを心配してくださって……?」 「え? えっと、そりゃあねぇ」 キラキラと上目遣いの真白に、みさきはなんとなく歯切れが悪くなる。 「わかりました。わたし病院に行きます!」 「うん、まあ……それがいいと思うかな?」 「じゃあ私付き添ってくるね」 「頼む。先生には俺から報告しておくから」 俺も、さすがに今日はもう出しゃばろうと思わなかった。 真白は窓果に肩を貸してもらうと、よろっと立ち上がる。 「付き添い、みさきじゃなくてごめんね」 「これ以上、部活の時間を割きたくありませんから。青柳先輩こそ、ありがとうございます」 「…………それと」 真白は、首だけを俺の方に向けた。 「ん?」 「……(ぺこっ)」 どこかバツが悪そうに会釈すると、そのまま病院へと向かっていった。 邪険にしたり、頭下げてきたり。 ……えっと。どう解釈したらいいんだ? 「ま、スポーツをやってるわけだからな。こういうこともあるさ。気にするな」 部長は励ますように肩をたたいてくれる。 呆然とする俺の様子を、コーチとして落ち込んでいると勘違いしたらしい。 気持ちはありがたい。だけど、 「いえ、そうじゃないんです」 「ん? だったらなんなんだ?」 「その、俺、真白に好かれていないのかなと」 以前から、それこそFC部に入る前から薄々と感じてはいた。 普段は目上の人間として敬語で接してくれる。 だけど、そのやりとりは根本的に内容が薄いというか熱を感じないというか……社交辞令レベルだ。 その程度の仲なんだと、今まではそれだけだった。気にすることはないし問題もなかった。 だけどFC部でコーチとプレイヤーという関係になって色々と引っ掛かったり、やりづらい部分が増えてきている。 そして、言葉にするまでにその理由が俺の中で確信に近づいてた。 俺は真白に好かれていないんじゃないかと。 「えっ、そう……ですか?」 「まあ、コーチと選手となると、年齢の差よりも上下関係を意識するだろうからな。反発する人間がいてもおかしくはないかもしれん」 「それもそうだけど、あたしと晶也の間に何かあるって邪推してるだけじゃないのかな?」 「正直に言えば、オレもそれが一番だと思う」 「…………」 「ま、晶也さんが落ちこんでます!」 ここまであっさりな反応だと、明日香以外のみんなにも、俺と真白の空気はあからさまだったのだろう。 しかも好かれていない理由も俺の考えとおおよそ一致していた。 「晶也さん、ファ、ファイトですっ!」 「……ありがとう明日香。大丈夫だよ」 唐突な明日香の励ましも、実際に言ってもらえると少し癒される。 これぐらいハッキリしていれば、指導も振る舞い方もやりやすいんだけど……。 「日向、あまりひとりで背負い込むなよ」 「え?」 「お前はよくやってくれている。さっきオレは上下関係の話をしたが、お前は後輩だけど、コーチとして頼もしく思っている」 「だが、それは一面に過ぎない。お前はオレの後輩だ。他の部員から見れば同級生か先輩でしかない」 「お前はコーチなだけじゃない。頼ることを忘れるな。信用することを諦めるな。……そうすればオレ達も応えてみせるさ」 「部長……」 若干大仰ではあったけど、それも部長らしいのかもしれない。 「ま、大体筋肉が解決してくれるんだがな。ハッハッハ!」 訂正。どこまでも先輩らしい助言だった。 「そうですよ晶也さん! わたしでよければ、力いっぱいお手伝いします!」 明日香も意気込んで続く。 「あ、ありがとう。力いっぱい、か」 これもまた、明日香らしい助言だ。 「晶也さんは真白ちゃんと仲良くしたいんですよね。だったら簡単です! 仲良くしちゃえばいいんです!」 「うまく飛びたいのに飛べないなら練習します! ですから仲良くなりたい時は仲良くすればいいんですよ!」 「……ははっ、たしかに」 この真っ直ぐな感情に、俺はいつも力をもらっている気がする。 言葉ひとつ取ってみればズレてるんだけど、明日香はぜんぶ行動で示すんだからな。 「んじゃ、あたしはこれで」 「こらちょっと待て。どこへ行く?」 「だって晶也、真白と仲良くなりたいんでしょ? だったらあたしと距離を置くのが得策かなーって」 確かに真白が俺を近づけない動機の大きなところに、みさきの存在はあると思う。 でもそれをやったら本末転倒だし、それで解決したところで根本的に意味がない気がする。 いや、そもそも…… 「そんなこと言って、サボりたいだけだろ」 みさきの場合、そちらの心配をした方がいい。 「そんなことないってば……ないよ、ないかも」 「……おいおい」 案の定、言葉の端々に怪しい物が混じりだした。 真白のこともあって変なタイミングではあるけれど、ちゃんと言っておいた方がいいだろうな。 「みさきさ……」 「おまえ、もうちょっと本気でやれよ」 別にみさきがダラダラやっているというわけではない。 でも、こいつのFCへの取り組み方を見ていると、どこか心がここには無いような、そんなように感じる時がある。 「やってるって。本気出してるよ」 「やってないだろ。だってこの間、真藤さんと試合した時なんか……」 途中で言葉が止まってしまった。 「…………」 みさきが珍しく本気でむっとした表情を覗かせたからだ。 どうやら今していい話ではなかったらしい。 「みさき……」 「あたしはあたしなりに本気でやってるよ。……晶也が真剣なのはわかるけどさ」 「それがわかるなら、ちゃんと話してくれよ。そうじゃないと……」 「じゃ、行くから」 「待ってくれ。まだ話は終わってない」 だからって、このまま見送るのは、コーチとして無責任だ。 「じゃ、また明日」 しかしみさきは、俺の止める声も聞かず、そのまま飛んでいってしまった。 「……いや、なんでもない」 帰りたいって言っているやつを無理に押さえつけたところで練習の意味は見出せない。 それに、本当にサボると決まっているわけじゃないじゃないか。 「おー、話がわかるね。そういう晶也大好きだよ」 「適当なこと言うな」 「んじゃねー」 気楽に手を振るみさきを俺はそれ以上何も言わずに黙って見送った。 「晶也さん」 と、明日香が近づいてきた。 「みさきちゃん、真白ちゃんのところにお見舞いに行くつもりなんじゃないでしょうか?」 「あー……うん、そうかもな」 言われれば、そんな気もする。俺にそのことを言わないのも、あいつらしい。 でも、真白は、みさきの部活の時間を割きたくないと言っていたわけで。 本当にみさきが真白のことを考えているなら、最後まで部活をやっていくべきだと思うんだけどな。 ……こうやって改めて見直すと、真白との関係以外にも前途多難だな。 俺は思わずため息をつきそうになるが、 「きっとそうですよ!」 明日香が根拠もなく、きらきらと見上げてくる。 「……だったらいいな」 なんとなく頬が緩んでしまった。 「さ、ふたりになっちゃいましたけど練習続けましょうか」 「望むところだ」 「はいっ」 「――!」 「はぁっ、はっ、はぁ……っ」 「また……勝てなかった……」 「高藤の……キャプテン……」 「〜〜〜っ!」 「もう一回……」 「っ!?」 「誰……?」 「すごい飛び方してたな。でもそれ以上はオーバーワークになるぞ」 「晶也……?」 いるはずのない俺の姿にみさきが驚く。 そりゃそうだろう。 みさきは途中で帰ってしまったが、時間は部活終了後、しかもここは俺の家とは方向違いのみさきの家近くだ。 「その姿を部活で見せてくれれば、少しはアドバイスできそうなのに」 「…………」 俺の言葉を聞いて、みさきがまた目を鋭くする。 「誰か相手を想定して飛んでたのか?」 見えない何かにまるで食らいつくような、鬼気迫る飛び方をしていたみさき。 『また』勝てなかった、とか言ってたから、真藤さんを想定してイメトレしていたのかもしれない。 「……別に。最近無性に飛びたくなる時があって、がむしゃらに飛ばないとおかしくなりそうになるだけ」 高藤との合宿以降だろうな。 さっきはそこまで確信は持てなかったけど、この様子を見る限り、想定相手は真藤さんだろう。 「部活で飛べよ。ってか明日、明日香に謝っとけ」 「どうして?」 「真っ直ぐにみさきを信じてたからだよ」 ただサボったわけじゃないってな。 今日のところは、本当にそれだけでもなかったみたいだけど。 「よくわかんないけど、練習サボったことなら明日謝っておく。……というわけで帰って」 口調は鋭くはないけど、あまり顔は笑っていない。 「いや、突然押し掛けて悪い。携帯がつながらないから、みさきの家に電話して聞いてみたら、ここじゃないかってお祖母さんがさ」 「おばあちゃんが?」 お祖母さんの名前が出た途端、険のあるみさきの表情が多少和らいだ気がした。 ちなみに一番最初に連絡した先は窓果で、真白のところには行っていないことを確認済みだ。 「ふーん。で、じゃあ結局あたしのとこに来た用ってなに?」 「それなんだけどな」 そこで俺は空中ながらも姿勢を正すと、 「お願いします! 俺と真白の仲を取り持ってください!」 力いっぱい頭を下げた俺に、 「……は?」 みさきは呆気に取られたように目を丸くしたのだった。 「ふーん、要は晶也と真白が仲良くなるアドバイスをしろと?」 「誤解させる言い方をして悪かった」 「ま、ちょっと面白かったけどね。晶也と真白のカップリングとか、想像しただけでご飯が進みそう」 クククッ、と笑うと、 「でもさ、晶也わかってる? あの子が晶也に素っ気ない理由ってほぼあたしだよ?」 「だからだよ。みさきをわざと遠ざけても解決しないだろ」 「あえて近づいても火に油を注ぐだけじゃない?」 「そんなあからさまなことはしない。あくまで俺と真白の関係改善を考えている」 「みさきに頼みたいのは真白のことに詳しいだろうと思ってのことだ」 「わかったようなわからないような」 「部長に、みんなに頼れって言ってもらったからな」 少々みっともないが、なりふり構ってもいられない。 「本当にあたしが原因ならすぐ解決できる方法があるけど」 「どんな方法だ?」 「真白をしっかりと安心させる。具体的にはあたしが真白の望む関係になる」 あっさりと言い放ったみさきの顔を俺は見つめて、 「……いいのか?」 「いいわけないでしょ。何をどこまで望まれてるのかわからないのに」 「だよな」 何故だかちょっとほっとした。 「っていうかさ」 「ん?」 「みさきと真白の関係って、そもそもなんなんだ?」 「そうやって改まって聞かれるとあたしも頭が痛くなりそうなんだけど」 「いい子なんだけどね……甘い顔するとどこまでも際限なくなっちゃうんだ」 「馴れ初め……いや、きっかけは?」 それがわかれば有益な情報だとは思ったが、 「それはあたしひとりの話じゃないから言えないかな」 「そうか」 「多分普通の正しい形としてはさ、信頼とかって日々の言動の積み重ねが裏付けてくんだよ」 「俺もそうなればと思ってた」 頑張れば、小さな溝くらい自然と埋まるのを理想としていた。 「単純に、積み重ねる時間がまだ短すぎるってのはあるだろうね」 「誰も悪くないんだからいつか時間が解決するだろうけどそれを待っていられない現状があるわけで」 「さらに真白の場合は、あたしを挟んでスタート地点が通常よりもさらに後方だし」 「まともに話も聞いてもらえないんじゃな……というか」 「というか? なに?」 「何かちょっと楽しそうだな、みさき」 正直、相談する前までは、面倒くさがられると予想していた。 「あー、どうだろ?」 みさきは少し考える素振りを見せ、 「うーん、そうだね」 「いつも偉そうな晶也が、そこそこの付き合いではじめてあたしに殊勝に相談してきたから、面白がってるのかも?」 「俺って一体何なんだ……」 「まあまあ。嫌いじゃないよ、あたしは」 素直に喜べる発言じゃなかった。 「相談料は何かなー?」 そんな当てつけみたいに言わないでも。 「……成功報酬でいいか? うどんを仕事した分だけ」 「こうなったら荒療治しかないと思うんだよね、うん!」 俄然やる気が出てきたらしい。 「って、荒療治……?」 どういう意味だ? 「なあ、どこに行くつもりなんだよ?」 「任せなさいって」 みさきの不穏な『荒療治』発言のあと、何故かコンビニまで行ってプリンを買わされた俺。 そして今、また別の場所へと連れて行かれていた。 みさきの家の方向ではない。 「降りるよ」 「? ここって……」 いや、ほんとにどこだよ。 「報酬先払いってことか?」 「それでもいいけど、そういう意味じゃないんだな」 みさきはふふん、と笑うと、 「もうちょっとだけ黙ってついてきて」 って、ほんとに店の中に入っちゃったよ。 「いらっしゃいませー……って、あらみさきちゃん。いらっしゃい」 「こんにちは、牡丹さん」 接客のお姉さんが出てくる。どうやらみさきとは知り合いらしい。 「あら?」 と、そこでお姉さんは俺の姿に気づき、 「あらあらあらあらまあまあまあまあ」 「……彼氏?」 お盆で口元を隠し、みさきに尋ねる。 どうでもいいけど丸聞こえです。 「だったらよかったんですけどねー」 大してそんなことを思っていないトーンでみさきが流す。 「そうなんだ。残念。じゃあ、おうどん何にする?」 「……っ」 「……みさきちゃん?」 「みさき?」 「…………」 みさきはみるみる薄い汗をかき、呼吸を乱し、身体を小刻みに震わせはじめ、目に涙すら浮かべて。 最後に、振り絞るように答えた。 「い、いえ、あとで」 「あら、そうなの?」 ……どれだけうどんを我慢してるんだ。 俺が彼氏かと尋ねられたときと動揺の具合が違いすぎて、ちょっと切なくなる。 「無理しないで注文すればいいんじゃないか?」 「あたしの一世一代の決意を邪魔しないで」 ずいぶんと安い一世一代だ。 「じゃなくて、その……帰ってきてます?」 「あら、心配してきてくれたのね。たいしたことないみたいだし、もうそろそろ帰ってくる頃だと思うけど」 心配? たいしたことない? ……何かが引っ掛かるような。 「食べないなら上にあがって待ってる?」 「いいですか?」 「どうぞー。お茶とジュース、どっちがいい?」 「大丈夫です。お構いなく」 どこか釈然としないものを感じながら、 「…………」 「え?」 「……(にこっ)」 「……(ぺこっ)」 慌てて会釈を返すと、みさきに置いていかれないように、勢いでそのあとに続いた。 「うわぁ……」 通された部屋は、なんていうかアレだった。 言うほど散らかってはないけれど、物が多いからそう見えるのか、なんというかこう、乱雑な感じに見えた。 「ん? 晶也、中に入らないの?」 「なんだか嫌な予感がしてさ」 「じゃあ、ずっと廊下にいるつもり?」 「入る、入るよ」 再度促されて部屋の中に入る。 「ゲームでもしてみる?」 「いや……」 入るのに躊躇してるレベルで、平然とゲームに触れるはずがない。誰の物かもわからないのに。 改めて部屋を見渡すと、散乱するゲーム機類の他に、似たデザインのぬいぐるみが大小たくさん溢れていた。 『邪神』と書かれたネコらしき生物。 「ああそれ。なんだっけ? 『モンタッタ』ってゲームのオタスケだったかな。手伝って戦ってくれるやつ」 なぜ邪神? ……って仮に詳しく答えてもらえたとしても俺が困るだけだ。 「詳しいな」 「新作が出るたびにゲームをゲーム機ごと渡されてプレイしたからね」 「一緒にやってくれる人いないんだってさ。あの子、基本いい子キャラして猫かぶってるから」 「…………」 何故だかみるみる嫌な予感が確信に近づくような…… 「っていうか結局ここはどこなんだ? みさきの家じゃないよな。誰か知り合いか?」 「あれ、言ってなかったっけ? 真白の部屋だよ」 「やっぱりか!!!」 俺は飛び退くように部屋から出た。 「どしたの?」 「なんかちょっと気品漂う部屋だと思ったら!」 混乱して、汚点を塗りつぶすように部屋を褒める。 「晶也、入ってすぐにうわぁ……って言ってたよね?」 「言うなよ? 絶対に真白に言うなよ!?」 フリじゃない。必死なだけだった。 「大丈夫だって。コンビニでプリン買ったでしょ。あの子の大好きな生クリームの乗ってるやつ」 「これ手土産のつもりだったのか!?」 持っていたコンビニ袋をとっさに振り回しそうになり、あわててそっと床に置く。 「あの子、トウモロコシも大好きなんだけど、おばあちゃんが作ってるのは早くても6月にならないと採れないから」 「いや、中身について言っているわけじゃなくて、女子が見せたくないものを勝手に見るのはまずいってことだよ!」 「晶也、必死すぎない?」 そりゃ必死にもなる。 過去に似たようなことを仕出かして大変な目に遭ったんだから。 「とにかく出るぞ」 「えー、ここなら腹を割って話せると思ったのにー」 「これじゃ腹を割って捌いてるだけだ」 「お、上手いこと言った感ある」 「茶化すなよ。ていうか、仮にこれがみさきだったら、嫌な感じするだろ?」 「あたしだったら大して気にしないと思うけど」 「みさきは特別すぎるんだよ、多分」 「牡丹さんがあがってって言ってくれたし」 「遠慮すべきだったんだよ」 というか、あの真白のお姉さんは、俺たちが怪我をして病院に行った真白のお見舞いに来たと思った筈だ。 まず最初に俺がコーチとしてきちんと謝罪しなきゃいけなかったのに。 本当に申し訳がないし、取り返しがつかない。 「……もしかして、真白傷つくかな?」 「バレたらな」 キレるのか泣くのか、想像はつかないけれど。 「あー」 「どうしよう……」 みさきが深く静かに肩を落とす。 って、そこは落ち込むのかよ。 普段は素っ気ないけれど、みさきなりに真白のことを思っているのかもしれない。 ……理解するには難しすぎるが。 「本当にすみませんでした」 みさきと一緒に店内に戻った俺は、丁度他にお客さんの姿がなかったのを確認すると、取るものもとりあえず牡丹さんに頭を下げた。 「あら、なにが?」 俺が自己紹介をしなかった非礼や何より真白を怪我させてしまったことを挙げると、 「そんなこといいのよ、気にしないで」 ちなみに俺より先に真白本人、マネージャーの窓果、そして顧問の葵さんからも怪我の報告は受けていたそうだ。 「それと真白の怪我については、話を聞く限りあの子のドジだし本人もそう言ってたわ」 「ですが……」 「母親の言うことだから、信用してくださいな。ね、晶也センパイ?」 「え?」 「部活でのこと、真白から聞いているわ。いい先輩だって」 「…………」 「…………」 家でそんな風に言ってくれているのか、真白は? 好かれていないと思っていたのに。……それとも母親を心配させないための嘘だろうか? なんだか居た堪れない気持ちでいる俺に牡丹さんから、 「こちらこそ真白がお世話になっています。これからもよろしくお願いします」 しっかりと頭を下げられる。 「それと牡丹さん……」 「なにかしら?」 「……お姉さんじゃなかったんですね」 「あらうれしいー。おうどん食べてきなさい。ごちそうしちゃうから」 お世辞でもなんでもなく、本気でそう思ってたんだけどな。 どうみてもお姉さんぐらいにしか見えない。真白が幼く見えるにしても、だ。 俺は答える前に、もう一度深く頭を下げて…… 「ただいまー」 唐突な来客の音に慌てて頭を上げる。 今はたまたま他のお客さんがいなかったからよかったが、店先で客と思しき男(俺)が頭を下げていたら店に変な噂が立つかもしれない。 「……晶也センパイ?」 でもそれは客ではなく目を丸くした真白で、 「ちょ、ちょっとちょっと! やめてください困ります!」 痛めた足を庇いながら近づいてくる。 「って、待て待て。怪我した足で無理するな!」 「センパイがそんなことしてるからじゃないですか!」 慌てて制止するが聞いてくれず、目の前まで来る。 松葉杖はついていない。ギプスも見えない。 となるとおそらく湿布と包帯、もしくはテーピングで患部を固めてあるのだろう。 それほど重い怪我でなかったのは不幸中の幸いだ。 と、それはさておき、 「そもそも困りますとかそんなこととか、何のことだ?」 「どうせセンパイのことですから、怪我をしたのはコーチのせいだって、わたしのミスなのに謝ってたんじゃないですか?」 「う……」 あながち間違ってはいなかった。牡丹さんにもいま指摘されたばかりだ。 どうやら真白は俺が牡丹さんに頭を下げていたっぽいその一瞬で、何があったのか見当をつけてしまったらしい。 「わたしはわたしで判断して行動してます。そういう勘違いはやめてください」 「いや悪い。そこまで深い意味合いはなかったんだけど」 「真白」 牡丹さんも真白の刺々しい口調が気になったのだろう。たしなめるように名前を呼ぶ。 真白は反発するようにきっと見返すと、 「……またやっちゃったなあ、もう」 いや、破裂寸前まで膨らんだ風船の空気が一気に抜けて萎むように勢いを失い、 「すみません。頭の中ではセンパイの意図とか一応理解しているつもりなんですけど……」 「え……?」 いつもとは違う殊勝な様子の真白に戸惑ってしまう。 「真白〜」 「みさき先輩!? いらしてたんですか!」 真白にしては珍しく、今になってみさきの存在に気づいたようだった。 「診察結果、どうだって?」 「捻挫です。一週間くらいで治るそうで」 「そっか。うん、その程度で済んでよかったね」 「心配して様子を見にきてくださったんですか?」 「ううん。今日は晶也の付き添いで」 リップサービスぐらいしてもいいだろうに正直にみさきが答える。 本当に、真白の前では素っ気ないやつだ。 「晶也センパイの付き添いで……」 うっ…… 一方、みさきが絡んだことで今度こそ俺の真白に対する警戒度が上がる。 が。 「ごめんなさい、みさき先輩。少し晶也センパイとお話ししたいんですけど……」 「じゃ、あたしは帰るよ。元々付き添いで来たからね」 「そうですか……残念ですけどわかりました」 いつもと違う展開。 「それじゃね、晶也。頑張って」 「晶也センパイ、こちらへ」 「あ、ああ」 あれよあれよという間に、俺は隅のテーブルで真白と向かい合っていた。 「いらっしゃいませー」 丁度その頃から店内にお客さんが入りはじめ、まるで止まっていた時間が動き出したように錯覚する。 「何から話せばいいのかって感じですが……」 目の前の真白は何やら話しづらそうに重ねた指や視線をそわそわと動かしていた。 「……っ」 そしてやがて覚悟を決めたように、 「ちょっと、待っててください」 「え、あのちょっと、真白?」 言って、部屋の方へと歩いていった。 「何なんだ、一体……」 「えっと、これは……」 俺の目の前の席、椅子にはさっきの部屋で見た邪神ぬいぐるみが鎮座していた。 「あー、聞こえます?」 ぬいぐるみから真白の声。 念のために断っておくがもちろん真白がぬいぐるみになったわけじゃない。 スピーカーで通話中の内線電話がぬいぐるみの下に置かれているだけだ。 「あのさ、一応こういうことをする意図とか、想像できることではあるけど」 ぬいぐるみの方へ向けて、話す。 「でも明らかに不自然だし、こっち来て喋らないか、普通に」 「やです」 即答だった。 「想像なさってるのなら、多分それが答えです。そっとしておいて、その子と話してください」 「はあ」 「いいですね、センパイが喋ってるのは邪神ちゃんで、わたしじゃないんです。わかりましたね?」 「わ、わかりました」 色々突っ込むと楽しそうだけど、それは本意ではないので納得しておく。 まあ、真白の行動も含め、この状況はちょっとかわいいけど。 「さて、ではお話を聞きましょうか」 内容は別にかわいくない。 「じゃあ、まずはごめんな」 「え?」 「俺の顔も見たくないくらい怒ってるってのもあるんだろ、これ?」 顔を合わせたくない理由のひとつに、それがあるのはなんとなく想像できた。 だから、それが一番の理由なのだろうと、最初に謝ったのだけど。 「…………」 「真白?」 「ま、まあそれもありますけど」 意外に、真白の言葉は歯切れが悪かった。 「単に恥ずかしいだけよ」 「え?」 「おかーさん!」 「はい、お茶」 真白のお母さんは、涼しい顔で湯飲みを出してくれる。 「真っ赤にしてる顔、見られたくないのよ、きっと」 「ちょっと、おかーさん」 「まあ許してあげてね。あの子も女の子だし。恥ずかしがり屋だから」 「ちょっと……!」 「そんなに泣きそうな顔で心配しなくても大丈夫よ。別に変な顔にはなっていないから」 「え……?」 「え?」 と、唐突に真白が顔を出した。 「っ」 が、一瞬でまた隠れてしまった。 「引っ掛かった引っ掛かった」 「おかーさん! もう、あっち行ってて」 「真白かわいい〜」 「こら〜」 真白のお母さんがぬいぐるみの腕を上下にぴこぴこ動かす。 本当の真白の手でもないのに本人もその気になってるし。 「おかーさん!」 「はいはい」 母親相手だからか妙に子どもっぽい物言いだ。 「……うう〜っ」 で、結局本人が出てきて喋ることに。 邪神ちゃんの身代わりは一体なんだったんだ。 「それで今日はどういうことなんですか」 「普通にお見舞いでもと」 「あ、いや」 「?」 ここは正直に言った方がいいか? 真白と仲良くなりたい、と。 ……言葉にすると正直どうかと思う。というか我ながらちょっとキモい。 いや、でも意思くらいは伝えた方がいいか。どうせ器用にはできない。 部活のためだ。 それが真白は無理なら別の方法を模索すればいい。 「真白ともう少し親しくなりたいんだ」 「……は?」 「あ、もちろん部活的な意味でさ」 とりあえずストレートに伝えてみることにした。 はたして真白の反応は…… 「なるほど、そうだったんですか」 「わー、それはわざわざありがとうございます。わたしも晶也センパイとは仲良くなりたいなって常々思ってたんですよ〜」 「…………」 「これからぜひよろしくお願いしますねっ」 「あ、ああ」 真白は笑顔を浮かべる。 でも表情とは裏腹にその反応は白々しさや空っぽの寂しさを感じた気がした。 まだ怒っているのか、それ以前に相手にもされていないのか。 本当は言葉どおりの意味なのかもしれない。 いや、真白がそう言ってくれたんだから少なくとも俺はそう思わなきゃ。 「わかった」 「……え?」 「改めて明日からもよろしくな。それと今日は本当に悪かった」 席を立とうとする。 「ちょ、ちょっと待ってください」 「ん?」 「さっきので、本来は済ますところなんですけど、その」 「?」 なんだか歯切れが悪い。 「ひとつお聞きしたいんですけど」 「うん?」 「あの、センパイってどこか同年代に思えないというか……あ、大人っぽくて憧れるとかじゃないですよ?」 ひとつひとつ丁寧にフラグを踏みにじってくれる。 「ただ、強くてニューゲームっていうんですかね」 「今のセンパイって、興味あることあるのかなーとか熱くなることあるのかなーって」 「!」 「……センパイ?」 真白の声が怪訝そうなトーンになる。 「あの……わたし言い過ぎました?」 「ああ。まあ大丈夫」 手遅れだから。 「ほんとですか?」 「ちょっと驚いたけどな。真白って腹の底でそんなこと考えてたんだって」 「……っ!」 息の詰まったような気配を感じる。 どうやら痛いとこを突いたらしい。 ……さっきの俺と同じか。 「…………」 「どうした? 俺も言い過ぎたか?」 「本当は」 「ん?」 「本当はもう少し突っ込んだことを言いたいんですけど、センパイのことよく知らないのに言うのもひどいかと」 「うそだろ? これ以上心の奥底を探ることを言うつもりなのか……?」 底知れない恐ろしさだ。 「ですからこれ」 「え?」 いつの間にか真白がこちらに手を出していた。 差し出しているのはPSQだ。 「これは……」 「気にしないでください。うち3台ありますから」 「なんであるんだよ。ってそうじゃなくて」 「FCやっててこんな感じなんだから、別の方法しかないんじゃありませんか?」 「俺ゲーム苦手だぞ」 「わたしFC苦手です。合宿とか行っても相手にされませんし」 ぷいっと視線を外される。 あれ? 微妙に根に持たれてる? 「つってもなあ」 「まあちょっとやってみましょう。勝手な狼藉の罰ゲームだと思って」 「罰ゲームって」 「センパイがゲームやってるとこ見てみたいだけですから」 「…………」 まあコミュニケーションツールとしてならありか。 「わかったよ」 こうして俺は真白のPSQを半分強引に渡された。 真白の家を出て、家に帰る。 今日は二人の関係において何か進展があったのか、それとも、何も起こらなかったのか。 「……まあ、これは収穫なのか……な?」 持たされたPSQを眺めつつ、無理にでも納得しようとする。 「……この辺にしとくか」 早めに勉強を切り上げて、鞄から例の物を取り出した。 「うーん……」 真白から借りたPSQを前に座り込む。 正直あまりやる気はしない。 「今のセンパイって、興味あることあるのかなーとか熱くなることあるのかなーって」 「好き勝手言ってくれるよ」 俺は苦笑しつつ、立ち上がってクローゼットへ向かう。 雑に押し込まれたものをかき分け、奥からあるものを引っ張り出した。 今となっては小さくなったグラシュ。 もう二度と取り出さないはずが、ここ最近はこうやって出して眺めることも増えた。 「……やっぱまだ引きずってんのかな?」 もう本当に答えのわからない自問自答だ。 当時は息が詰まるほどの悔しさと形にならない感情がごちゃ混ぜになって、こいつを見ると立つこともできなくなるくらいだったのに。 今はもう、ただ胸の奥が燻るようにざわつくだけだ。 ……それがなんだか悲しい。 過ぎたことだ。こうやってまたFCに携わってるわけだし。 ただ、言われてみればあれくらい熱くなることはここ数年なかった。 意識的ではなかったけれどどこかでブレーキを掛けていたのかもしれない。 それは、もしかしたら今のコーチでもそうかもしれない。 「久々に夢中になってみるか」 いい機会といえばいい機会だ。 とりあえずやってみよう。 「……いや、先にウィキに目を通してみるか?」 意味はわからないだろうけど、効率良い進行を目指すなら初めから方針は考慮するのが良い。 PCを立ち上げる。 「と、メールだ」 文面に目を通し、とりあえず返信。 …… …………。 「日向さん?」 何度かのやりとりのあと窓の方から声がしてきた。 「こんばんは、市ノ瀬」 メールの相手は市ノ瀬だった。 こないだの合宿中に撮った、写真のやりとりをしていたのだ。 「ああ、よかった〜」 安堵したようにつぶやく。 「なにが?」 「いえ、いつもならこうやって窓を開けてお話されるので、もしかしたらお体の具合でもよくないのかと」 「……市ノ瀬の言葉は本心だよな?」 「はい?」 「ああいや、忘れてくれ」 今日の体験のおかげで軽い女性不信になりそうだ。 まあ市ノ瀬はそんなことないだろうけど。 「ありがとな。心配してくれたみたいで」 「いえいえとんでもありません。むしろ日向さんこそなにかされていたんでしたら申し訳ありません」 「まあ、してたしそれ以外の理由もあったりしてさ」 「理由……ですか?」 「隣だからって女の子の部屋の方を覗くと悪いかなって改めて思い直してさ」 「覗いてたんですか?」 「まさか! そんなことしてない」 「ですよね」 市ノ瀬は信頼したように頷いてくれる。 「それに、しっかりと自衛手段を取らせていただいてますし」 見せパンみたいなことだろうか。 「突然や無理矢理だと困りますけどね」 「その節は本当に……」 そのことをちくっと言われると弱い。 「ふふふ、冗談ですよ」 「罪悪感が半端ないよ」 「そんな日向さんだと思うからわたしはそれほど警戒してないんですよ」 「……ありがとう」 そしてこの純朴さ。 誰かには爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。 「それにしてもどうして突然そんなことを気にされるようになったんですか?」 「まあその、近いことがあったというか、勉強しておきたくなったというか……」 「近いこと……?」 「いやその、女の子の部屋を見る機会とでも言うか」 「〜〜〜っ」 と、突然市ノ瀬が口ごもってしまう。 「……市ノ瀬?」 「それはそうですよ! 女の子の部屋をじろじろ見るなんて……!」 「あ、明日香さんだってきっとすごい勇気を出したんだと思いますし」 「待て。ちょっと待て。すごい誤解が生まれている気がする」 おそらく、俺が明日香の部屋に行くとか、もしくは行ったとか思い込んでいるのだろう。 ……市ノ瀬は市ノ瀬で問題だ。どうも、俺と明日香をセットで考えているフシがある。 ともあれ俺は今日の出来事を素直に話した。 「というわけで、モンスターイーターをはじめようとしてたところでさ」 「モンタッタですか」 「本当に略称はそれなんだな……」 誰か止めた方がいい。 「ちょっと前に最新作が出たんですよね」 「市ノ瀬もやってるのか?」 「前作までは友だちとやってましたけど、わたしはまだ部活もはじめたばかりですし」 「そうか……」 「だったらなんかアドバイスとかないか?」 「アドバイスですか?」 市ノ瀬は考え込むように上を向くと、 「そういうのも含めて有坂さんに尋ねてみたらいいんじゃないでしょうか」 「仰るとおりです」 ぐうの音も出ないとはこのことだ。 あまりに真っ当すぎる市ノ瀬先生のアドバイスを胸に、俺は邪神さまに聞いてみることにしたのだった。 翌朝、俺は朝一で真白の教室を訪ねた。 「げっ……センパイ」 「げっ、とはご挨拶だな。ちょっと聞きたいことがあ……って、おい」 俺が話し出すのを制し、真白は俺の袖を引っ張ると、 「ちょっとこっちへ」 「おいおい」 人の多い入口付近から、少ない廊下へと案内された。 「朝一番から来たと思ったら武器の特性を教えてくれって」 「だってこれだけあるとわからないだろ」 「一応やる気はあるんですね」 「当たり前だ」 始めるに当たって、基本操作はチュートリアル的なクエストを実際にこなして身体で覚えつつある。 そんな中、最初に戸惑ったのが武器だ。 何種類あるんだこれ。 というわけで指示を仰ぐことにした。 「といっても、それぞれ特性や癖がありますし属性もあるので薦めるのも難しいんですけど」 「そもそもひとつの武器に絞らなくてもいいですし」 「いや、一度に全部は無理だ」 「好みはあります? 前衛後衛とか。あと近距離と遠距離、効率重視とか色々ありますし」 「あ、あと武器で性格占うってのもありますよ。結構当たるって評判なんで逆算で入れてみてもいいかも」 「センパイは……めんどくさがりなので大剣ですかね」 「勝手に人をめんどくさがりにするな。そういうのはみさきとかだろ」 「適当なことを言わないでください」 「それはすみません」 平穏な雰囲気ながら、初っぱなから睨み合っている。 ……こういうのを解消するのが目的じゃなかったっけ? 「じゃあちなみにみさきはどんな武器使ってるんだ」 「みさき先輩は覚えるのめんどくさいってそもそもやってません」 「言った通りじゃないかよ」 予想どおりすぎた。 「……でもまあFCと同じような考え方か」 「はい?」 「スピーダー、オールラウンダー、ファイター、向き不向きって結局性格に合わせるところが大きいからな」 ……待てよ。 じゃあ、真白って。 「……おまえ自分の武器って自分に合ってるの使ってるか?」 「どういう意味ですか」 「…………」 いや、まあそのままの意味だけど。 「あー、教えるのやめようかなー。生徒がこんなに反抗的じゃ教える気がしないなー」 「う……、それは悪かった」 たしかに教わる態度じゃない。 「どうしよっかなー」 「ってセンパイ相手にやってもですね」 「くっ……」 ムカつく。 「おはよう有坂」 「おはよう中島くん。今朝も元気そうだねっ」 「…………」 この変わり身の早さ。 あの減らず口を閉じさせるためにもまずは上手くならんとな。 「ねーねー、日向くんモンタッタはじめたんだって?」 「諸事情でな」 「あ、じゃあ部活が終わったらみんなでやりましょう〜」 「いいのか?」 「もちろんですよ」 「そうなると思って……じゃん!」 窓果がデコられたPSQを出す。 「没収」 「あー」 「テンポ良いな」 「違うんです先生。ダメって言ったのにPSQが勝手についてきちゃったんです〜!」 「そうか、じゃあ悪い子のPSQにしっかりと説教しておくから、放課後になったら迎えにきなさい」 「あ……うっ……」 「文句はないな?」 「見事すぎる」 「あはは、何も言えないですね……」 その日の部活後。 ちゃっかりと返却してもらったPSQを手に、窓果はフンスと鼻息荒く、準備を始めた。 「まさかこんなに大勢でやるなんて……」 そもそもの発端である真白が、この状況におののいている。 「じゃあやめるか?」 「晶也センパイは本当に意地悪ですね」 睨まれたので、それ以上はやめておいた。 「で、マジでここでやるのか」 一応、マネージャーに確認を取る。 「背徳的で良くない?」 「全員で没収エンドは避けたいんだが……」 放課後とはいえ、ここは部室だ。 先生に見つかったら、自覚が無いと怒られるのは必至だろう。 「どれくらいやったんですか?」 「キャラメイクはした」 「っていうか、みさきもやるんだ?」 「ん〜、みんながやるならやる」 みさきのそういうとこは嫌いじゃない。 「じゃあやってみるか」 初心者用の巨大イノシシを狩ることにする。 先にチュートリアルで一通りの武器を使って選んだほうがいいのではと思ったが面倒だと却下された。 「大剣にしよう」 「性格別判断は?」 「いいんです」 俺のいじわるを真白は流した。 明日香は片手剣、窓果は弓だ。 「窓果ちゃんはエレガント……ああっ部屋がいっぱいに!」 「だって最大4人プレイだろう。早いもの勝ちだ」 武器や服装から性格やFCにつながる何かが見えると思ったが、まだはじめたばかりで判断材料がない。 とりあえず、はじめてみる。 最初はそれでもよかったが慣れてきた頃に鼻っ柱を折るような敵が現れる。 「ああっまた死んじゃいました」 「ちょっ、こんなの本当に勝てるのか!?」 まったく歯が立たない。 「っ!」 突進に俺と明日香が跳ね飛ばされる中、真白と、モンタッタ4はまだ始めたばかりのみさきがごろんと回避する。 「さすがみさき先輩! 筋がいいです!」 意外なのかそうでないか3人で一番上達が早いのはみさきだった。 「真白、さっきの!」 「はいっ! 喰らえ!」 画面にフラッシュが走り、モンスターに混乱の状態異常が発生する。 「今です!」 「よし!」 「えいっ、えいっ」 当然俺も…… 「うおおおおおおおっ」 「どうして武器を研いでるんですか!」 「俺が聞きたい!」 どうしてこうなった。 「みさき先輩、すごいです! 天才です!」 「あんまりうれしくないけど一応ありがとう」 初プレイの結果。 みさき→意外な才覚。 明日香→慣れればなんとかなりそう。 俺→押すボタンすらおぼつかない。 暗澹たる結果だった。 まさかこの俺がこんなにゲーム慣れしてなかったとは。……いや、俺が普通だと思うんだけどな。 「今度いっしょにイビル狩りにいきましょう!」 「ごめん、ちょっと何言ってるのかわからない〜」 盛り上がるふたり。 なんていうか、表彰台にのぼった入賞者を健闘届かずに見上げているような気分だ。 たとえが間違っている自信はある。 「晶也さんにも苦手なものってあるんですね」 「俺そんなに万能じゃないよ」 同じく健闘届かなかった明日香と傷を舐め合う。 「明日香先輩、こっちの装備とか向いてるんじゃないですかね」 「どれどれ?」 「……あれ、あの」 一瞬で舐め合う相手を失ってしまった。 なんか本格的にひとりだ。 「あの、でしたら晶也さんも……」 微妙に惨めな誘われ方をされそうだ。 「センパイにはまだちょっと」 おい。……事実だけど。 「センパイ」 真白が右手を出す。 「?」 「これ右手です。わかります?」 「俺は左右さえおぼつかないプレイだったとそう言いたいのか?」 「……ごりごりごりごり」 「砥石使うマネはやめて擬音もやめて」 ……ここまで立場逆転となると、いっそ清々しい感もあるけれど。 「えへへー。気持ちいいなあ」 まあ、機嫌はいいみたいなので、よしとしておくか。 「よし、とにかく操作を覚えるか」 真白からちょっと離れたところで、つぶやきつつ操作を復習する。 「あのー」 「これもコミュニケーションをとるためと思えば……」 「ちょっと、わたしは? その、ねえ」 「明日こそはボタン操作ぐらいは克服するぞ!」 「こら! いい加減泣くぞ! すげーめんどくさい泣き方すっぞ!」 まあ、ともあれ。 真白を中心とした『部活後ゲームクラブ』は、微妙に荒れ気味ながらも無事発足したのだった。 そして2日目。 「3落ちすると終わっちゃうから晶也は少し下がってて」 「……悪い」 今日も散々だ。 というか差をつけられてきている。 女子たちが楽しそうに話している。 置いていかれた感が半端ない。 「くそ、どうもうまく動かせない」 思い通りにならない。 あまりの立場逆転に、言葉を挟むことすらしにくくなっている。 「なんかこういう晶也さんも新鮮でいいですね」 「うう……」 「そ、そんな泣きそうな顔をしないでください。ほ、ほーら、いい子いい子です」 まったく意味はわからないが、明日香から頭をなでられる。 「……ありがとう」 ていうか、そこまでみじめだったのか、俺。 なんだか泣きたくなってきた。マジがんばろう。 「…………」 「センパイ」 「左右くらいわかってるし、俺は自力でやってみせるって」 「……っ」 「だったらいいです」 真白はそれ以降、こちらに構ってくれなくなった。 「なにが言いたかったんだ、あいつは」 「いいぞ、そのまま姿勢を保って」 「はいっ」 「オッケー、そこで切り返す!」 「はいっ……!」 「よしっ!」 加速した状態からの切り返し、それもフェイントをかけてからの動き。 市ノ瀬のスタイルからして少し厳しいかと思ったけど、難なくこなす辺りにセンスが見て取れた。 「はあっ、はあっ、う、うまくいきましたか……?」 息を切らせながら聞いてくる市ノ瀬に、両手で大きくマルを作る。 「ああ、良い感じだった。あれならフェイントを悟られないと思うよ」 「良かったぁ……!」 市ノ瀬はホッとしたように息をついた。 「あの」 「ん? もう一回やってみる? それとも別のを」 「そうじゃなくて、その、ありがとうございます」 「え? ああ、そんな気にしなくても」 「しますよ。日向さんがされなくても、私はします」 「真面目だなあ……」 きっかけは、高藤での練習のあとだった。 合宿で一通り世話になって、……まあ、ちょっとしたアクシデントもあって、 そんな流れから、『何かお返しできることは』と聞いてみたところ、 「それじゃ、ちょっとお願いできますか?」 「日向さんじゃないと、頼めないことなんです」 一体何を頼まれるんだろう……と思っていたところ、それは実に、市ノ瀬らしいお願いだった。 「練習に付き合って頂けて、すごくありがたかったです」 「まあ、これぐらいなら。週に3回ぐらいだし、時間も1時間程度だし」 俺の言葉に、市ノ瀬は首を横に振る。 「いえ、あれだけ熱心に指導をされていて、その上でお時間を頂けるのは申し訳ないぐらいです」 「何かお返しをしなきゃいけませんね……」 「いや、これがお返しだからね……」 「でも、わたしはあくまで他校の人間ですし」 「いやいや、そこまで意識しなくても」 贈り物合戦みたいな様相になっても困る。 「しかし、市ノ瀬は……なんというか、真面目だな」 「そんなことないですよ」 「そんなことあるよ。うちと比べたら……」 「あ、ダメですよ、コーチ」 「え?」 「いくら冗談めかしてても、自分の学校の選手を貶めてはいけません」 「そこは、絶対に何があっても、味方になってあげないと……」 確かにそうだ。今のはちょっと口が滑ったな。 「ありがとう。その通りだな。反省する」 「いえ。私も、褒められて嬉しかったです」 「……ホントは、味方にもなって欲しいぐらいで」 「え、ごめん、風でよく聞こえなかった」 「な、なんでもないです、なんでもっ」 しかし、このまま市ノ瀬の練習相手を続けたとして。 同じ地区内にいるということは、うちの選手と大会であたることも予想されるわけで。 大会が近くなれば、夜間練習もしにくくなるかもしれない。 (そうなったら、どうしようかな……) 別に、そう気にすることでもないだろう。 学校全体の実力差として、久奈浜はまだまだ高藤に遠く及ばない。 市ノ瀬のように、正統派で力を付けている選手と、触れ合っておくのはメリットの方が大きいだろう。 (うちは変則型が多いからな……) 何より、教えていくことを次々に吸収していくので、教える側としても嬉しいのは確かだ。 俺自身のモチベーションという意味でも、この夜間練習はアリだと思う。 ……思うことにする。うん。 (やっぱりまずいかな……) 久奈浜のように弱い学校だと、選手個人の実力はもちろん、戦略面もなお重要になる。 俺が市ノ瀬に作戦をバラすようなことはありえないけど、一緒に行動する時間が多ければ、部員の不安にも繋がる。 まあ、適度に情報交換するぐらいで、これぐらい密度の濃い練習は、その内に終わりにしよう。 それで仲が悪くなるわけでもないんだし。 ……むしろ、あのラッキースケベが連続した方が、圧倒的に好感度は下がりそうな気がする。 「日向さん、考え事ですか……?」 「ん、いや、ちょっとな」 まさか、さっきのことを話すわけにもいかず、俺は話題を変えた。 「しかしまあ、本当に上手くなりたいんだな、市ノ瀬は」 一年生にもかかわらず、高藤でレギュラーになれる力。 それだけでもすごいのに、さらに上手くなろうとする向上心は、素直に尊敬できる。 「ですね、もっと上手くなりたいです、私」 そう言って微笑む市ノ瀬の言葉に、俺は別のことを思い出していた。 「もっと上手くなりたい……ね」 言われて、ついゲームのことを思い出してしまう。 「あの……何か?」 「ん、ああ……ちょっとね」 「家に戻ってから話すよ、FCとは関係ない話だし」 「……?」 「はあ……なるほど、大変なんですね」 市ノ瀬に部活であったことを話す。 ゲームを始める前に軽く相談したこともあって、経緯はすぐに理解してくれたけど。 どこか軽くあきれてる感じを見ると、練習もせずになにやってんだ、って感じがあるのかもと思った。 まあ、あれだけ真面目な市ノ瀬だったら、そう思っても不思議じゃないけど。 「なんだろう。ゲーム部にでもしたほうがいいか」 「日向さんもFC以外じゃ形無しですね」 「FCもそんなんでもないけどな」 「それは日向さんの謙遜ですよ」 「それはともかくとして、こんな立場は経験が無いからな」 「完全に教えられる側ですよね」 「うん、こんなにストレス溜まるとは思わなかった」 真白も何かにつけてこれまでの意趣返しをしてくるし。 だいたい、上位に立ったのなら、もっと教えてくれてもいいじゃないか。 「まず操作がややこしいんだよ」 すぐにボタンを押し間違う、個人的には一番難敵の操作性について話をする。 「だからこれも……」 言いつつ、どこが難しいか説明するため鞄の中からPSQを取り出そうとして、 「ん?」 自分で入れた覚えのない何かが、入っているのに気づいた。 なんだこれ? 「教えられる側に立つというのも、良い経験になるのかもしれないですよ?」 攻略本? 今さら? なんでこんなもんが…… ……誰だ? 「ちょっとお茶汲んできますね」 あっ。 付箋が貼ってある。 『がんばってください』 そのあとにぐじゃぐじゃとペンで消したあと。 裏から透かして見たら……邪神さまの絵だった。 「…………」 「はい、じゃあお茶を汲んできたので、ゆっくりお聞きしましょう」 「やっぱいいや」 「え、ええーっ?」 「教えられる側の気持ちってのはよくわかった」 「この短時間で、ですか?」 「ああ」 手に、付箋をそっと握って。 「褒められたり励まされたりしないと、やっぱりダメなんだなって」 「は、はあ……」 「んじゃ、おやすみ」 「はい、良かったです……? おやすみなさい」 とまあ、こうして。 色々と不思議な経緯から始まった、久奈浜学院のゲーム部は。 選手役であるコーチが、コーチ役である選手に励まされ……。 「……驚いた」 数日後には、コーチが驚くぐらいに、選手の側がうまくなったのだった。 まあ、そうは言っても、せいぜい普通にプレイできるようになった程度だけど。 「先輩、うまくなりましたね」 「そうかな?」 「そうですよ」 「それはどうも」 口では何気なく言いながらも、やってやった自負はあった。 「こいつ狩りましょう。雷属性で」 「亜種だから炎だろ」 「あ、そっか」 それからしばらく無言でPSQを触る。 お客さんの極めて少ない時間帯とはいえ、店内のすみっこでカチャカチャとゲームする様は、なんだかちょっと異質だ。 お客さんが入ってきたら移動しようと思いつつ、ひとまずは目の前の敵に集中する。 「……すごいですね」 ふと真白がぽつりと漏らした。 「なにがだ?」 「こんなにうまくなっちゃうんだ……って」 「教え方がいいからだよ」 「じゃあわたしのFCが上達しないのはなんででしょう」 「……俺の教え方、やさしくないか?」 自分でもわかりきった、今回の件で思い知った質問をする。 「センパイ、わたしにやさしくした記憶あります?」 実際にはやさしくする必要なんてない。 ただ距離感を確かめる必要はあったのかもしれない。 心の中で申し訳なく思っていると、 「ごめんなさい。うそです」 「? なんで真白が謝るんだよ?」 「センパイは悪くないです」 「センパイはわたしと同じようにはじめたばかりのモンタッタで」 「わたしと同じような気持ちになったはずなのに、それでもって練習し続けた」 「しょうがないってあきらめたわたしとは違った。誰かのせいにしないでちゃんと自分で努力した」 「だからセンパイは悪くないです」 「すみませんでした」 目を合わせずに言ってくる。 「まあ、どっちが悪いとかは水掛け論になるけど」 そもそも、そういう話じゃないんだ。 「でも、俺が今こうやって真白のことを少しでもわかるようになったのは、真白が引き込んでくれたからだ」 ゲームという、真白のフィールドに立つことで、はじめて理解できた感情。 それがわからなければ、今でもずっと、真白の気持ちは理解できないままだっただろう。 「ちゃんと相手になってくれた真白のおかげだよ」 「ごめん。でもってそれ以上にありがとう」 今度は俺がゲーム画面から目を離さない。 本当は目を見て話さなきゃだめだろうけど……。 こんな照れくさい告白は、相手の姿を見ないからこそ、言える言葉なのかもしれなかった。 「〜っ」 「え、ちょ、真白?」 真白のキャラがボスのいないエリアに移動した途端、真白がいつかのようにぬいぐるみを身代わりに置いた。 当の本人はさっと柱の陰に移動し、微かに目だけをこちらに出している。 「真白……?」 「聞かないでください。答えられないです」 「あ、そう……」 俺の感謝の言葉、気にくわなかったのだろうか。 拒絶のポーズ……なんだよな、これ? 「…………」 ぬいぐるみを見る。 昔はわからなかったこいつがゲーム内では憎まれ口を叩きながらも主人に尽くしてくれるやつだと知っている。 邪神……おまえはいいやつなのになぁ。 なんとなく小動物を愛でる気分でぬいぐるみを撫でる。 「ぎゃーーー!!!」 「な、なんだ?」 「な、ななななにして……」 「え? なにって」 「っ! なんでもないです!」 真白はそこまで言うと、ぬいぐるみだけ引っ掴んで、自分の部屋へ駆け込んでいった。 「?」 わけがわからん……。 「はぁ、はぁ……あんな、なに考えて……」 「いいの? 部屋に帰ってきちゃって」 「いいの! ここにいても、ちゃんと向こうに会話届くから!」 「あらそう。うふふ」 「……お、おかーさん、それでなんの用?」 「あとでさっきのあれ貸してくれない?」 「え?」 「ぬいぐるみ」 「〜〜〜〜っ!!!」 「い、いいわけないでしょっ!?」 「だめ? 今晩抱いて寝るから?」 「寝ーまーせーんー! ファブラーズかけまくるだけです!」 「またまたぁ」 「っていうかお母さんがなんであんなの要るのよ! 絶対必要ないでしょ!」 「いやね、ちょっと改造とかしてみようかなって」 「改造……?」 「あれにツインテールつけて誰かさんに似せて、それでなでなでされちゃったら、真白は一体どうなっちゃうのかしらーって」 「出てって! 出てってよぉ!!」 「…………」 なんか謎の親子喧嘩が全部聞こえてきてるし。 なんの話をしてるんだここの母娘は。 やたらと狩りだなんだと盛り上がった部室も、次第に平穏な日々が戻って来つつあった。 「やってるみたいだね」 俺のPSQをのぞき込むみさき。 その当の本人は、すでに飽きたらしくPSQも自宅に持ち帰ったようだった。 「やってるさ」 その、『やってる』には当然二つの意味があって。 みさきが言うもう一つの理由の方に、俺は答えたつもりだった。 「がんばれ」 「おまえのうどんのためにもな」 「だね。もちろん先払いでもいいよ」 「遠慮しとく。真白と一緒の時なら考えなくもない」 「え〜、なんかめんどくさそう」 めんどくさそうってなあ……。 あれだけ慕ってるんだから、と、外野からすれば思わなくもない。 「おまえ、もうちょっと真白にやさしくしてやれないのか?」 「べつにべったりすることがやさしさとは思わない」 「……とか言ったらそれっぽくない?」 「まあ俺も余計なお世話だった。気持ち悪いな」 「……晶也さ、気づいてる?」 「なにを?」 「長い付き合いの中ではじめてそんなことを言ったよね」 「……そうかもな」 「真白はさみしんぼで警戒心が強いけど一度デレるとすごいからね」 「迂闊な言動は命取りだと覚悟するんだね」 「体験談か、それは?」 「実行してないのにあれだから怖いんだよ」 「ああ……」 まあ、現状ではやっと好感度ゲージが真ん中に戻った程度だろうし。 何より、俺自身にそういう気などは一切無いから、この話は進展しようがない。 「大丈夫だろ、何も起こりゃしないよ」 「だといいけどね。じゃ、今日はあたし帰る」 「ああ、お疲れ」 帰って行くみさきに軽く手を振る。 がらんとした部室を見ながら、俺は何か忘れているような気がしていた。 「……なんだったっけ」 みさきが妙な話題を持ち出したせいで、まったく思い出せなくなった……。 「……ん?」 ふと気づき時計を見る。 さすがにそろそろ学校を出ないといけない時間だ。 PSQの電源を落とし、鞄を手に取った。 「さて、行くか」 立ち上がって、部室から外に出る。 「よう」 「げっ」 「なんだ晶也。そんな声が出るようなことをしてたのか?」 「い、いえ別に」 思わずPSQを後ろ手でズボンのベルトに挟んで隠す。 「やましいことなんて別にないだろう。放課後に部室にいた、それだけのことだ。そうだろう?」 「は、はい」 「なにか忘れ物でも取りに来たのか?」 「……まあ、そんなとこです」 「だろうと思った」 「そりゃよかった」 先生にしては物分りがいい。 「じゃあ後ろの手に持ってるものを正直に出してもらおうか」 「…………」 バレていた。 「すみません」 正直にPSQを差し出す。 怒られるのを覚悟していたが、 「……で、ちゃんと仲良くなれたのか?」 「えっ?」 意外にも。 先生が口にしたのは、ゲームの所持やプレイについてではなく。 その向こう側にある、俺と部活の内部事情についてのことだった。 「……窓果あたりから聞いてたんですか?」 「ビンゴだ。あいつああ見えて真面目だろ? しっかり報告しにきたさ」 「部室でゲームやってますが、程なく終わるので目をつぶってください、ってね」 窓果め。いつもはあんななのに、ちゃんとフォローしてくれていたとは。 胸中で、先生と窓果に揃って頭を下げた。 「で、どうだったんだ?」 「はい、なんとか。お互いのことを理解するところまでは」 「そうか、それは良かった」 「ちょっと手段は荒療治というか無茶苦茶でしたけど。手のかかる選手でしたが、なんとかなりました」 言いつつ、自分もまた手のかかる人間だと内心で反省していた。 「……思い出すな」 「何をですか?」 先生はフフッと笑うと、 「プロになるから学校は行かなくていいと、空を飛んでばかりいたガキンチョをなだめたのを、な」 「う、ぐ……」 痛いとこを突いてくる人だ。 傲慢な頃だった。 すべてが思い通りになると思っていた。 青い空は俺のためにあるんだとさえ思っていた。 恥ずかしい。 「あの頃とは違います」 「へえ……? なにがだ?」 「多少なりとも成長しましたから。理性的になりました」 「いつまで折れっぱなしかとやきもきしたがな」 「まだ選手としては整理がついてませんけど……。少なくとも、同じではないです」 FCは……気持ちの悪い言い方をすれば初恋みたいなもんだ。 もう乗り越えてる。とっくに。そんなこと誰にだってある。どこにでもある話だ。 まだ少し引きずってるのも、男の初恋っぽくて恥ずかしいけれど。 「まあ手段はともかくとして、晶也がいい顔になってきたのは嬉しいよ」 「……はい」 「思うようにやれ。余程のことじゃなければ、私は反対しないよ」 「葵さん」 「ん?」 「思い出したんですけど俺けっこう負けず嫌いなんですよ」 「…………ふっ」 きょとんとした葵さんは鼻から息を出して笑うと、 「思い出してないじゃないか。その自己採点は不正解だ。いや三角かな」 「え?」 「お前はムチャクチャ負けず嫌いだよ。負けたくないから興味を持たないようにしてるだけだ」 「…………」 「今の晶也も良い奴だと思うが、昔の馬鹿な晶也も、私はけっこう気に入っていたよ」 「…………」 「久々に話せて楽しかった」 じゃ、と手を挙げて去っていく葵さん。 この人は変わらないな、本当に。 「おっと、肝心なことを言い忘れるところだった」 感慨に浸っていた俺を、振り返った葵さんが現実に引き戻した。 「え、何か用事だったんですか?」 「そうだよ、忠告しに来たんだ」 言って、先生はにんまりと笑うと、 「中間テスト、準備は万全なんだろうな?」 「〜〜〜〜〜っっっ!!」 おも、思い出したっ……!! さっき、部室の中で、何か忘れてると思ったこと。 そろそろ試験前にもかかわらず、対策をロクにしていなかったのだ。 「その顔を見ると、何もしていなかったっぽいな」 先生があきれたような声を出す。 「……心配なのが、約三名ほどいます」 「ああ、あいつとあいつと……。転校してきたから、あいつもか」 以前の話の流れで、先生ももちろん把握していた。 「そっちのコーチもよろしく頼むぞ、晶也」 「そ、そんな」 「PSQで遊んでるぐらいだから、できるよな、当然?」 「ん……ぐぐっ」 「本人が勉強すればいいわけじゃないのがつらいところだが、これも経験だ。しっかりやってみろ」 「じゃ、健闘を祈る」 先生は、そう言って今度こそ去っていった。 「やばい……なんとかしないと」 あとには、PSQを手に、冷や汗を全身でかいている俺がひとり。 「……なんとか」 しかし、現状で名案がすぐに出るわけでもなかった。 「というわけで、そろそろ勉強しないとまずいです」 俺の言葉に、約一名が表情を硬くする。 「そう……ですよね、しなくちゃ……ですよね」 明日香のこんな顔は初めて見た気がする。 レア度の高い表情だけれど、ずっと鑑賞していたいものでもない。 本人のことを考えれば、むしろいつもの笑顔に早く戻ってほしい。 「だねー、何か対策たてないと、本気で部活できなくなっちゃうよね」 「ああ。というわけで、テストでヤバそうなメンバーについては、一週間前から勉強してもらう」 「やったー、お休みだ!」 「何言ってんだ、みさきにも協力してもらうぞ」 「えー、あたしも?」 「そうだよ。高得点間違いなし組は、ヤバイ組の勉強を見ること。これが部活だ」 「そんなの部活じゃないじゃーん! ぶーぶー」 「可愛く言ってもダメ。みさきは明日香の勉強を見てやってくれ」 「真白っちじゃないの?」 「考えてみろ。勉強が捗ると思うか?」 「あっ……」 窓果の顔に、『察し』という文字が浮かんだ。 それで説明は充分だったようだ。 「りょーかい。んじゃ、テスト終わったらうどんね」 「何かニンジンがないと動けないのかおまえは。……まあいいよ、うどん食おう、終わったら」 「わーい、うどんうどーん!」 心から嬉しそうに飛び跳ねるみさき。 これで学年トップクラスの成績優秀者なのだから、神様も意味不明なステータス配分をするものだ。 「がんばります……がんばります」 うどんモンスターに比べると、こちらは気の抜けた風船のごとしだ。 「だいじょうぶだよ、明日香ちゃん地頭いいし、ちょっとコツ掴めばすぐに成績よくなるよ」 「ああ。……それと窓果、ちょっとその、言いにくいんだけど」 「わかってるよ。兄ちゃんについては、ちゃんとやれってケツ叩いておくね」 前情報として、部長はどうやら、赤点は毎回のようにスレスレで回避しているらしかった。 上級生ゆえに俺たちが教えられないだけ、部長にはひとりで戦ってもらわないといけない。 それだけに、毎度危機を乗り切っているというのはこの上ない朗報だったのだ。 「よし。じゃあ……あとは残るひとり、だな」 「そうだね。知らせに行く?」 「ああ、行こう」 こうして俺は、窓果を引き連れ、もっとも難敵そうな相手の元へ向かったのだった。 「なんか緊張するね、こういうの」 「そうか?」 「こうやって、静かな廊下に靴音が響いて、何かを宣告するのって、緊張感出ない?」 看守にでもなったつもりか、窓果は。 「宣告するって言っても、まだ結果じゃなくて警告だからな」 死刑! ……ってならないよう、そうなる危険性を排除するのが仕事だ。 「しっかし真白っち、真面目そうに見えるのに、テストの点はそうじゃないんだね」 「あれは外交上の顔だからな」 内政は推して知るべしだ。 一年生のクラスはまだ授業中らしく、廊下はシンと静まりかえっていた。 あまり足音を立てないよう、静かに廊下を歩く。 「あ、ここだね」 真白の教室に着いた。 やはりまだ授業中のようだった。 「しまったな、またあとで来るか……」 「だね、せめて顔でも拝んでおこう」 なにがせめて、だ。……と思いつつも、ちょっと気になる。 真白が授業を受けている姿なんて、そうそうお目にかかれるものじゃないし。 「んじゃ、ちょっと……」 通りすがりがてら横目で教室を覗いてみる。 あいつ、まさか先生の目を盗んでゲームなんてやってないだろうな。 いやいや、外面はいいやつなので、そんなヘマするはず…… 席なんて知らないはずなのに不思議と真白はすぐに見つかった。 窓際の席。 そこに真白がいた。見慣れないめがねをつけて。 「……っ?」 あいつ、視力って低かったか? 意外な姿に、ただ驚いてしまう。 「……知ってたか?」 隣の窓果に聞いてみるが、 「知らない知らない」 ふるふると左右に振って否定する。 窓果にとっても意外な事実のようだった。 「……?」 と、真白がこちらに気づいた。 「!」 視線が合う。 「…………っ!」 「…………」 「……〜〜〜っ」 しばらく見つめ合ったのち。 真白は慌てて……あ、めがね取った。 と、これ以上長居はできないな。 「……行くか」 「……だね」 真白は俺たちが立ち去るまで恥ずかしそうに、そして恨めしそうにこちらを見ていた。 「あー、真白見られたんだ。そりゃ油断しすぎたね」 「油断?」 「あの子、めがねコンプレックスらしいからね。小さい頃、同級生の男子にからかわれたとかで」 「子供っぽい」 「実際子供なんだから仕方ない」 「あの子、隠してるの見られるの怖がるからね。本性とか、うどん屋の姿とか、めがねもだけど」 「そうなのかな?」 「うん?」 「真白っち、めがね見られたのが今まででいちばん慌ててたみたいに見えたから」 「そ? うどん屋はともかく本性よりも見られたくないってことはないと思うけど」 「じゃあ他の理由があるってこと?」 「他の理由ができたとか」 「どういう意味だよそりゃ」 「でも晶也的にはラッキーだったでしょ」 「……まあ興味として、ちょっとは」 真白には悪いけど、あんなに慌てた姿や恥ずかしそうにしていたのはなんというか…… 「やっと目が悪い尻尾つかんだんだもんね」 ……え、ああ、そうか。 そうだった。忘れていた。 真白の現在のプレイスタイルであるファイターは、視力の悪さが勝敗に大きく影響する。 以前から真白をスピーダーにしようと思っていた俺にとって、今日の一件は願ってもない説得要素だ。 それをせっかく得たというのに、なにを考えてたんだ俺は。 「だな、いい機会になった、ラッキーだったよ、うん」 ……しかしみさきのやつ、よくそのこと覚えてたな。 俺がミーティングでプレイスタイル変更について話したのなんて、せいぜい1〜2回ぐらいだったぞ。 「たどたどしい言い方」 「うっ……」 「本心は違うところにあると見た……そうでしょ?」 こいつ! 妙にするどい点をなんでこう、俺にとって都合の悪い部分にぶつけてくるんだ! 「ま、それじゃ勉強のことも決まったので、皆それぞれの役目を果たすように!」 「よし、がんばろっかー、明日香」 「は、はーい……」 「じゃ、俺も部室行くから! あとは窓果、よろしく!」 「こらー、都合悪いからって逃げたなー!」 追いかける声を背に、俺はひとまず部室の方へと走った。 まあとりあえずはスタイル変更云々の前に。 不本意な姿を見られた真白のフォローをしておかないと。 そして、その日の練習後。 ぐずる真白に、テスト勉強のことをまず告げた。 そうしたら、 「…………」 「無言でPSQを突き出されても困る。会話してくれ、会話を」 「わかりませんか? 死刑囚だって最後はおいしいご飯が出るんですよ?」 さっきの窓果は看守で、何かそういうの流行ってるのか? 「わかった、勉強ウィーク突入の前に、最後の狩りがしたいと、そういうことだな?」 こくり、とうなずく真白。 「みんなを誘うのもちょっと気が引けますし」 「まあ、テスト期間だからな」 言いつつ、俺もPSQの電源を入れる。 「センパイ、最近質問にくること減りましたね」 「だいぶ自分でできるようになってきたからな」 「ふ〜ん」 「…………」 「へえ……」 なんで不機嫌そうなんだか。 「晶也センパイって、さんざん女に貢がせたあとにポイっとか捨てそうですよね」 「俺はお前にどうしてそこまで言われるんだ」 「なんとなく……です」 なんとなくでディスられる身にもなりなさい。 「真白……おまえ、もしかして俺とゲームしたいの?」 「……なに言ってるんです」 そして、また黙る。 しばらく、ポチポチとボタンを押す音だけが響いて、 「み……たよね」 唐突に、真白がつぶやいた。 「ん?」 「見ましたよね、めがね」 「あ〜」 そのことか。 「見た見た」 「……っ」 「…………」 「……?」 「…………」 「あ、あの」 「ん?」 「言いますよね、こういうときって、普通、なにか」 なに言っても怒りそうだもの、とはさすがに口にはしなかった。 とはいえ、じゃあ何を言えばいいのか、俺にはさっぱりわからなかった。 「怒らないから言ってください。感想」 「感想なんてべつに」 「似合ってないとか変とか」 「かわいいって言って信じるのか、真白は」 「か、かわっ……!」 「怒らないんじゃなかったのか?」 「く〜っ」 怒りのあまりか顔が真っ赤になっている。 「かわいいのは事実だよ。信じる信じないは真白にまかせる」 言いながら、モンスターを追い詰める。 あと一撃、二撃といったとこだろう。 「よし、とどめ! 今日のラストは俺が飾るぜ!」 ボタンを長押ししてパワーをためる。 二段階、三段階とエフェクトとともにパワーが溜まり、あとはボタンを放てば、解き放たれた重い一撃が敵にとどめを…… 「えいっ」 「ちょ、なんで蹴った!?」 「あ、すみません。ちょっと操作をミスっちゃって。てへ」 「えいって聞こえたぞ!?」 その後、とどめを刺そうとするたびに真白に邪魔をされ、敵はねぐらに戻って体力を回復し、 制限時間ギリギリまで狩りをする羽目になったのだった。 こうして、最後の晩餐ならぬ最後のゲーム会が終わり、FC部の面々も勉強漬けの日々へ誘われていった。 明日香はみさきに。真白は窓果に。部長は……誇り高く、自らに。 それぞれ教えを受けつつ、黙々とテスト勉強を続けた。(みさきがうどん不足で買い食いしているのを俺が偶然発見したのを除いて) そして、中間テスト当日を迎える。 教室は物音ひとつしない空間に変わっていた。 日頃とは違う様子に、俺も妙に落ち着かず、皆のことを気にしたりする。 (みんなちゃんとやってるかな……) ひとまず、教室の様子を見る。 「すーっ……くーっ……」 みさきはすでに答案を裏返し、眠りに入っていた。 こいつの場合、諦めた上での放棄試合ではなく、すでに勝利を収めたあとというのが凄い。 きっと、答案用紙の表側には、満点に近い回答がびっしり書かれているのだろう。 (まあこいつは安全圏として、明日香はどうかな……) 明日香の席をチラッと見てみる。 (………………っ) 無言で、目をカッと見開き、答案用紙に向かって一心に文字を埋めていた。 鬼気迫るその様子からは、一片の油断も感じ取れない……ように見える。 (まあ、絶望してる感じじゃなくてよかった) あの様子なら、赤点ってことはないだろう。 (残るは一人……だな) 軽くため息をつきつつ、上の階の後輩を思う。 真白がここをクリアしないと、せっかく近くなった距離も無駄になってしまう。 なんとかして、突破して欲しい。 (俺が答えてあげられればな) (…………) (……さすがに過保護すぎるか、思考自体が) 最近は真白にかかりっきりだったので、ちょっと保護者的な思考になっていた。 そして、テストは3日間の日程を何事もなく終えた。 採点も終わり、答案も帰ってきた。 「……まあ、こんなところか」 自分の答案は、まあボチボチといったところだった。 おおむね80点台、不得意な数学のみ74点だったが、まあ赤点には遠い結果だ。 「ではこれで中間テストは終了とする」 先生の言葉と共にテストは終了した。 「よし、それじゃ青柳、号令だ」 「はいっ、起立! 礼!」 結果次第では、部活の存続にもかかわる……か。 ドキドキしつつ、俺は席を立った。 「明日香」 「ぎくっ」 「……擬音をそのまま喋るとは、ちょっと不安だ」 「あははは、そんなことはないですよ、ないです……よ」 「だ、ダメだったの……か?」 明日香は力なく微笑むと、 「ダメ、ではなかったんですが……」 ひらひらと、返ってきた答案を見せる。 「どれどれ……」 確かに、ダメではなかった。 さんざん言ってきた、部活を続けるための点数である、赤点クリアーは全教科で果たしている。 しかし、その得点は決して褒められたものではなかった。 「うーん…………」 「判断に困るって顔してます、晶也さん……」 まさしくその通り。 平均点が50〜60点というのは、褒めて良いのかダメなのか難しいところだ。 まあ、普通の感覚ならば、『もうすこしがんばりましょう』に位置するのだろうけど。 「おー、点数報告会始まってるんだね」 「報告会ってほどじゃないんだが」 「明日香ちゃん、なんとかクリアーだね。良かったじゃない」 「う、うん……」 さすがに明日香は納得がいっていないのか、ちょっと言葉の歯切れが悪かった。 「ねーねー、あたしの答案見る?」 「で、窓果。部長はどうだったんだ?」 「おい、1ミリもこっち見ないでスルーすんな」 「お前結果わかってるもん。見ても仕方ないだろ」 以前から言っている通り、こいつはどこでチートしてんのかってぐらい頭の具合はいい。 性格とか、うどんが足りなくなると死ぬとかについては、頭の具合を調整した方が良さそうだけど。 「つまんない。いいからさっさとうどん会しようよ」 乱雑に自分の答案を広げ、飛行機を折りながら言う。 端の方に『100』とか『98』とか見えていて、天の与えた才能に言葉のひとつも出なくなる。 「ま、みさきは安定枠よね」 「で、部長はどうだった?」 俺の問いに、窓果は苦笑すると、 「図ったようにいつもどおりだよ。40点から42点の間で全教科統一してた」 「そうか……」 ホッとするのと同時に、あまりのスレスレ具合に戦慄する。 同級生だったら、もっと勉強しろと注意するところだが、部長は上級生なのでなにも言いようがない。 「とりあえずケツは蹴っておいたから」 「ありがとう。……残るは、あいつだけか」 いつもなら、授業が終わると駆け込んでくるのに。 「来ないということは……ヤバイにおいがする」 「行くか」 俺が言うと、皆がうなずいた。 真白の教室へ行くと、こちらもすでにホームルームは終わったようだった。 ほとんどの生徒は帰ったあとで、ちらほらと数人が残っているだけだ。 そして、その中にひとり。 「真白ー」 呼ぶと、ビクッと身体が跳ね上がった。 「せ、せせせせせセンパイ、なななななにしにきたんですかぇ?」 「語尾おかしいよ真白っち」 「森の奥に住むおばあちゃんみたいな語尾だね」 明日香の表現はともかく、真白がまともじゃないのは、よくわかった。 「どうだった、真白」 聞くと、真白はガードするように机の前に立ちふさがる。 「……ヤです」 「真白……」 「いやです、見せたくないですっ」 真白は答案を机の中にしまったまま、取り出そうとはしなかった。 そんなことをしたところで、点数が変わるわけでもないのに……。 「真白」 「はぁい」 「ほら、怒らないから見せてみて」 「はぁい……」 みさきに言われ。 それでも渋々といった感じで、真白がそろりと、机の物を出した。 「ああ……」 「うーん」 「これは……」 「え、えーと」 それぞれに違う反応が出たものの、内心、抱いた感想はほぼ同じだったに違いない。 真白の得点は、ほぼ50点以下で揃っていた。 それだけならまだ良かったのだが、中でも古文31点、地理28点が目立っていた。 赤点、である。 「ごめんなさい……ダメでした」 ガックリ、と肩を落とす真白。 その横で、窓果も頭を抱えている。 「うーんうーん、予想範囲は間違ってなかったと思うんだけど……なにがいけなかったんだろ……」 コーチ役として、これは悔しい結果だろう。 「センパイ」 「ん……?」 「あの……これで、部活できなくなるんですか、わたし?」 不安そうな真白の顔。 さすがに弄る気にもなれず、安心させるように笑って言う。 「大丈夫、まだ追試がある。そこで挽回すれば、クリアだ」 「そ、そっか、そうですよね」 よほど落ち込んでいたのか、追試のことすら頭から抜け落ちていたようだった。 「追試はテスト終了後の翌々日だから、それまでにちゃんと見直しすればいけるよ」 「ごめんなさい、先輩」 「いいよいいよ、次はさっくりクリアして、何の心配もなくうどん会やろう」 「うどん、今うどんって言った!」 みさき、うるさい。 「そういえば、わたし初めてかもです、真白ちゃんの家に行くのって」 「そっか、じゃあ楽しみだね〜」 「でもその前に、真白がもうひとがんばりしないとな」 「わ、わかってます……もちろんですよ」 まだ不安げな真白に、窓果がドンと胸を叩き、 「いけるいける、それ終わったら打ち上げうどんだ! わたしにまかせなさいって!」 「い、いけますかね……!」 「いけるよ! 気合入れて行こう!」 「いきます、それで息抜きしますっ!」 こういう時は、窓果のノリの良さがありがたい。 明日香の真っ直ぐさはちょっと違うし、みさきに至っては自分のうどんのことしか頭になさそうときている。 「マネージャー、がんばってるな」 「ありがとー。でも、このあとのフォローはお願いね」 なぜか窓果は顔を引きつらせ、こわばった笑顔をこちらに向けている。 「……え?」 「日向くん、うしろうしろ」 ギギギ……と音のしそうなぐらいにゆっくりと、そっと後方を振り返った。 「ほう息抜きか。それもいいな」 冷たいほほえみを浮かべた先生が、いつの間にかそこに立っていた。 「わっ、せ、先生っ!」 「……知っているか有坂、息抜きってのはな、緊張を解いて、気分転換のために休むことをいうんだ」 「わ、わかりますっ」 「わかるか。それなら、今お前がしなきゃいけないことも……わかるな?」 「は、はいっ、追試、がんばりますっ!」 「って、いつの間にかみんないないしっ」 その後、真白がどうやって怒れる先生から逃れたのかについては、定かではない。 ただ言えることとしては、その後の真白は、いつも以上に真剣な表情で、ひたすらに追試の勉強をしたということだ。 結果、真白はどうにか追試で合格点を取り、危うく部活停止を逃れたということだった。 とはいえ。 俺は先生から保護責任者としてしっかりと『指導』を受け、次の期末試験までに対策を考えるように言われた。 ……部に大きな不安を残したまま、俺たちはうどんを食う会に突入したのだった。 「どうもー」 「あらみさきちゃん、お久しぶり」 「えっと、お取り込み中です?」 「ううん、ぜんぜん。ほら、そんなところで顔だけ覗かせてないで、みんな入ってきて」 「っていうか、真白います?」 「真白なら……」 「なんだかみさき先輩の気配が……あっ」 今、あっ、て言ったな真白め、俺の顔を見て。 しかも若干、顔をしかめやがった。 「真白ちゃんこんにちはー」 「おじゃましまーす」 「うす」 しかしみんなの顔を見ると一転して、 「う……、本当にうどん会になったんですね」 「そう言ったじゃないか、何度も」 今回のうどん会、真白は実は最後まで難色を示していた。 しかし、唯一の赤点が自分だったこと、そして、大好きなみさきがうどんを欲していることから、『仕方なく』了解となったのだった。 「まあまあ、皆さんとりあえず席についてくださいな」 「ちょ、お母さん!」 「それともあなたの部屋にしとく? あ・の」 「う……」 「……どうぞこちらへ」 真白が観念したように席を促す。 「今更ながら真白ちゃんのお家、おうどん屋さんだったんですねー」 「俺も知らなかったんだけど、こないだ来て初めて、な」 「転校生の明日香先輩はともかくセンパイは知っててもおかしくないと思うんですけど」 「あたしも知ってた。みさきと話してる時に話題に出てたしね」 「晶也センパイってそういう薄情なとこありますよね」 「はい、どうぞー」 そこで牡丹さんがうどんを持ってきてくれた。 「ご馳走していただいてありがとうございます」 「話題そらした」 「悪い男ですよねー」 ふたりのツッコミは華麗にスルーする。 「いいのよ。同じ部活のお友達がきてくれてうれしいわ」 「それに、真白の怪我ももう完治するみたいだし」 「そっか、完治のお祝いもあったんだねー」 「はい、ご心配をおかけしました」 言いつつ、真白もうどんつゆを運んできた。 「わー、おいしそうです!」 「明日香先輩はまだこっちのこと詳しくないかもしれませんけど、四島列島の四島うどんって、けっこう名産なんです」 「へえ、そうなんですね」 「うどん屋だけじゃなく、製麺所もたくさんあるからな」 「…………」 「ああっ、うどんを前におあずけ状態のみさきちゃんがみるみる不機嫌に!」 「どうぞみさき先輩! みなさんもご一緒に」 「いっただっきまーす」 「いただきます」 みんなでうどんをいただく。 「ほわー、麺ほそーい」 「お父さん自慢の自家製手延べうどんですから!」 「手延べってよく聞くけど手打ちと何か違うの?」 「本当の意味は違うかもしれませんが、生地を延ばして麺にするとき手打ちは食べる長さに切るんです」 「で、手延べは細くなるまで1回も切らずにずっと延ばしていくんですよ」 「うわ、なんか大変そう」 「大変よ。いちから作りはじめたらはたかけまで9時間10時間かかるんだから」 「よくわかんないけどすごい……」 「いまは製麺所が増えたんだけどうちはお父さんが手作りにこだわってて」 「でも、それだけのものではあります」 「じゃあちょっと……ちゅるっと」 「んー! すごい、すごいです! んー!」 「語彙はどうにかならないのか」 「口の中で麺が跳ねてる。白魚が口の中で踊りまくってるみたい」 窓果は窓果で極端すぎる。どこのコンビニコミックで毒されたんだ。 「それに、このダシもおいしいです! なんのダシですか、これ」 「明日香先輩の大好きなものですよ」 「え、うそ……」 明日香は信じられないという風にダシを見下ろし、 「パフェ?」 「っ!」 明日香の真顔に思わず噴き出しそうになる。 「あら、あごダシ好きなのね」 「あご?」 「トビウオですよ。焼いて干したのを使うんです」 「トビウオ!?」 「よかったね」 「うう……わたしの好きは食材的な意味じゃないんだけど……ちゅるっ」 「ごめんなさい。おいしいです〜」 泣きそうな顔で喜ぶ明日香。 「わたしのお父さんが延ばした麺とお母さんお手製のダシですから!」 ふふんと真白が胸を張る。 「みさきが真白っちと仲いい理由がわかるでしょ」 「だな」 「うどん目当てみたいに言わないでください」 「みさきちゃんそうだったの?」 「いえいえ、まさかまさか。……窓果、牡丹さんの前で変なこと言わないでよ」 「いやー、なんか一方通行の報われない愛なのかと」 「……オイ日向、あいつらは何の話をしているんだ?」 「話に巻き込まれないようにうどんをすすってるのが賢明だと思います」 本気でそう思う。 「ちょっと……なんかそれはそれでギブアンドテイクっぽくないですか。ビジネス仲良しみたいな」 「いやいや、ビジネス仲良しって」 「だいたいみさき先輩のおうどんだけはごちそうじゃなくてツケですもんね」 「え……」 「あら、初耳」 「どうしよう……軽く3桁は食べてる気がする」 「みさきは少し遠慮しとけよ」 「大丈夫です、心配ありません」 「どうして?」 「聞いた話で、ホントかどうかはわからないですけど」 「どうやら借金って籍を入れて夫婦になると白紙になるらしいですよ?」 「牡丹さん……うちで採れたたけのことか山菜でなんとか返済していきますから、どうか、どうか」 「あらまあ」 「冗談です、冗談ですよみさき先輩!」 「……今のところはですけど」 「ちょっと、やっぱガチなんじゃないの?」 「わ、わたしに言われても、そんなっ」 「聞こえるように言うな、窓果め」 「痛っ」 「そういえば鳶沢と有坂はなんでそんなに仲が良いんだ? きっかけとかあるのか?」 「まー、実家がうどん屋よりもよく聞く話だもんね」 「ほんと仲良いですね、あいつらは」 「む……日向も知ってるのか?」 「え? いえ俺は特に聞いたことは……」 「はぁっ?」 「晶也さん、それはないです! わたしが聞いたことあるくらいなんですから晶也さんも絶対ありますって!」 「そうだっけ?」 たしかに真白が熱弁を奮うのを何度か見たことがあるような気がする。 ああそうだ。感想を求められても困るからその度に聞かないようにしてんだ。 聞いたところで何を言えばいいのか。 「…………」 なんか微妙な目で見てるし。 「えっと、よかったら聞かせてもらえるか?」 「改めて聞かれるとちょっとですね」 「いつもなら聞かれなくても自分から言うのに!」 「欲しがられるともったいないみたいな」 「すみません、うどんおかわりください!」 自分のことを話しているにもかかわらず、みさきは相変わらずのフリーダムだ。 「みさきはマイペースだなあ」 「そこがいいんです」 そうですか、としか返せないことを言う。 「窓果、食べないなら天ぷらもらうよ」 「ちょ、それわたしの隠し財産!」 「あんな感じでもいいんだ?」 「……まあ許容範囲です」 真白はちょっとため息をつきつつも、やはりみさきのことは気になるのか、チラチラと視線を送っている。 当のみさきはうどんにご執心なのが届かぬ恋という感じで切ない。 「センパイ、ちょっとこっちいいですか?」 突然、真白に呼ばれた。 そのまま、袖を引かれるように外へ連れて行かれる。 「あれ、ふたりで外に?」 「ちょっと部活について相談がありまして」 「そうなんだ?」 「らしい」 真白について、俺も外に出る。 「…………」 「どうした? みさきの気をうどんからそらせたいとかそういうのは無理だぞ」 「そんな難しい問題は相談しません。ひとつ、お聞きしたいことがあって」 「聞きたいこと?」 なんだろう? 「みさき先輩ってその……最近の練習、どう思います?」 「どうって? 真白のことを気にしてたとかってことか?」 「いえ、そういうことじゃなくて……その」 「言いづらいことなのか?」 「みさき先輩の、やる気的な問題で」 「……ああ」 ふと真白の不在時、見たこともない気合いで飛んでいたみさきを思い出す。 「どうなんでしょう?」 「まあ、なんていうか」 やる気はあるんだと思う。そうじゃなければ、そもそもあんな飛び方はしない。 ただ、そのやる気のゲージが、他人からは見えにくいところにあるだけで。 だから心配しなくてもいいと言いたいのだけど。 (真白の知らない一面を話すのもな) 真白が知らないみさきを俺が知っている。 以前程じゃないにしても、それは真白から俺への感情が悪化する原因になりかねない。 話すべきかどうか、若干迷う話だ。 「みさき先輩、こないだの練習から、ちょっと様子が変だったんです」 「高藤との練習からか?」 真白は無言でうなずくと、 「きっと、向こうの部長さんのこと、意識してからだと思うんですけど……」 「ああ、実力差を見せつけられたからな」 ……まあ、実際にはみさきにも見る部分はもちろんあったのだけど。 それまでがかなりの無敵ぶりだっただけに、初めて壁を感じた瞬間だったのは確かだ。 「練習の時もボーッとしてたり、何か別のこと考えてたりしてるみたいで」 「だから、ひょっとしたら、やる気なくなっちゃったんじゃないかって、気になってたんです」 ……ああ、なるほど。 真白は真白で、みさきをよく見ていたけど、捉え方がちょっと違ったってわけか。 「心配することはないよ。あいつはあいつなりにやってるはずだ」 「本当ですか?」 「ああ、みさきはそんなことぐらいで、やる気をなくすタイプじゃない」 「それは、真白の方がよくわかってるんじゃないのか?」 真白はちょっとびっくりしたように、一瞬身体を引くと、 「……センパイに言われちゃいましたね」 「気を悪くしたか?」 「いえ。実際にそうですから。センパイはみさき先輩のこと、よく見ていらっしゃるんですね」 「うーん、まあこれについては、状況がそうさせてるだけかもな」 「……?」 強い敵にぶち当たって、無残に負けて。 その悔しさが正しい方へ向けばいいけれど、あさっての方へ向かうこともあり得る。 みさきにはそうなって欲しくないから、せめてそこだけは見届けたい。 だから、みさきの練習態度については、ちょっと注意して見ていた。 まあ、杞憂で安心したけど。 「話は以上か?」 「はい、ありがとうございます」 真白がしっかりと頭を下げてくる。 「じゃあまた明日からよろしくな」 「よろしくおねがいします」 話が終わり、店に戻ろうとするのを、 「あ」 「はい?」 「ひとつだけいいか? これはコーチとしてじゃなくて単純な疑問」 「はあ……えっと、聞いてみなければわかりませんけど」 「真白はさ、FC好きか?」 これだけは聞いてみたいと思っていた。 真白はしばらくきょとんとしたあと、 「センパイ……さっきもちょっと思いましたが」 小さくため息をついた。 「ちょっと明日香先輩に感化されすぎですよ?」 「えっ?」 ましろうどんからの帰り道。 停留所が同じ明日香と共に、自宅までのルートを飛んでいる。 「〜♪」 満腹だからか、ご機嫌そうに飛行を楽しむ明日香。 「なあ明日香」 「はい、なんでしょうか?」 「明日香はFC好きか?」 「……」 明日香はしばらくきょとんとすると、 「それはもちろんですっ」 「そっか」 力強い返答に苦笑する。 「どうしてですか?」 「いや、そこまでハッキリ言い切れるのって、すごいなと思っただけだよ」 「好きなことを好きって言うのって、そんなにすごいことでしょうか?」 「そう思えるのは普通にすごいことだ」 「そ、そうなんですかね……?」 明日香は本当に意外だったようで、首を捻っている様子だった。 「うん、でもやっぱり好きです、わたし」 「それはよかった」 嬉しそうに語る明日香を見ていると、俺もちょっと嬉しくなってくる。 これはやはり、明日香に感化されているからだろうか。 さっきの真白との会話を思い出す。 「ちょっと明日香先輩に感化されすぎですよ?」 「そっかな」 「でも、そうですね……」 「いまは好きになれるかもしれないって思ってます」 「ふふ、わたしもちょっと明日香先輩に影響されてますね」 「晶也さん、なにか楽しいことでもありました?」 「え?」 はたと我に返って両の頬をぺたぺたと触る。 「俺、笑ってたか?」 「はい。あの、わたしがちょっとはしゃぎ過ぎていたからですか?」 しょぼんとする明日香。 「ううん、明日香はすごいよ」 心からそう思う。 「心から好きと言える人間が一番強いんだよ」 「そ、そうなんですか……?」 「ああ、だから明日香は、その点だけは誰にも負けないようにがんばれ」 「それなら自信がありますっ!」 力強く言い切る明日香の向こう側に、大きな夕日が落ちていこうとしていた。 ちょっと感動的なぐらいな光景の中で、明日香はいつもどおりの前向きな姿で。 俺はそんな姿を見て、ほほえましいと思うのと同時に、ちょっとだけ怖くもなった。 この子はどこまでFCを信じられるんだろう。 この子はどこまで空が好きでいられるんだろう。 かつて、葵さんを悲しませてしまった、ひとりの選手の挫折。 それを繰り返さないためにも、俺ができることは何でもやろう。 そんなことを、考えていた。 「さ、また明日から練習だな」 「ですね、真白ちゃんの怪我も、そろそろ良くなるって言ってましたし」 そういや、明日はみんなで病院へ行って、完治の報告を聞くって話だった。 「よし、明日から気合入れていくぞ」 「はい、コーチ!」 ぐっ、と握り拳を作って、気合十分な様子を見せる明日香。 明日香も、真白も、もちろんみさきも。 えらく手のかかる選手ばかりだけど、コーチとしてうまく導きたい。 「責任重大だな……」 ひとり、つぶやきながら、夕方の空を飛んでいく。 夜の光景が次第に辺りを染めていたけれど、対照的に、俺のやる気は増す一方だった。 そして翌日。 前日言っていた通り、俺たちは真白の完治を見届けに、整骨院まで来ていた。 「なんか、妙に緊張しますね」 「結果がわかってることとはいえ、やっぱり怪我は怪我だもんね」 「だな、今後は気をつけないと」 「はー、こないだのおうどん、おいしかったなあ」 俺たち(一人除く)が、真白のことや怪我のことを話していると。 「あ、出てきたよ」 接骨院の入口から出てきた真白。 出てきてすぐに、Vサインをこちらに向けて、 「完治だそうです」 「おめでとう」 「わあ」 「よし!」 「おめでとうです!」 みんなが歓声をあげる。 「みなさん、そんなに……」 じ〜んと感動している真白。 だが俺はこの状況を理解している。 実はこの感動ストーリーには、ほんの少し裏話があるのだ。 「よかったね、これで自由の身だよ真白」 「はいーっ、みさき先輩とも存分に……」 「それはまた別の話」 真白は早速、みさきと百合小話を繰り広げている。 それを傍目に、俺は。 「明日香」 「はい?」 明日香の耳に、小さな声で話しかける。 「……してたんだろ、真白のために」 「え、なにをですか?」 「願掛け。甘い物食べてなかったんだってな」 「……っ!!」 「だ、誰から聞きましたっ?」 「いや、気づいたのは俺が普通に。確信を持って聞いた先は窓果だけど」 「ごめん、喋っちゃった」 「い、言わないでって言ったのに、窓果ちゃん……」 オロオロする明日香に、追い打ちをかけるみたいに俺は付け加える。 「しかも、甘い物断ちを機に体重も落とそうとしたみたいだな」 「なっ、ななななぜそれまで知ってるのですか!?」 「ごめんごめんごめん」 「ま、窓果ちゃーん……」 窓果はマネージャーとしては優秀だが、女子の友達としては試練が多そうだな……。 「でも、悪いことじゃないぞ」 「ほ、本当ですかっ?」 「ああ。ウエイトコントロールは重要だし、どこかのうどんモンスターもそうだけど、食事制限はきちんとやる必要がある」 ……まあ今でも充分に痩せすぎなんだがベストウエイトを模索しているのならデータを取る価値はある。 「よ、よかったです……」 「あ、でも、そうなるとパフェは……?」 「んー、じゃあもう少し先まで、我慢してみるか?」 「ああっ、やっぱり……」 ちょっと泣きそうな顔になる明日香。 まあでも、いじめてるわけじゃないし、ゆくゆくは彼女のためにもなるんだから。 「ひ、ひとまず、真白ちゃんにお祝いの言葉を……」 よろよろと、真白の方へ近づく明日香。 「明日香先輩……」 「ううう、真白ちゃんおめでとぉ〜」 「そんな泣いちゃうくらい、心配してくださったんですね……」 おそらく純粋なお祝いと同時に好きなもの断ちが関係していることは伏せておこう。 いや、実際みんなそれくらい心配したんだけどな。ホントに。 「今日は練習しましたねー」 「まあ、やっと全面解禁だったからな」 テスト勉強とその本番と、そして真白の怪我の完治と。 アクシデントもあったけれど、得た物を考えれば、そう悪いインターバルではなかった。 「で、センパイ。その……」 「大丈夫。心配するな。終わったら、約束だったもんな」 言って、手に持ったPSQを見せる。 「はいっ」 合図のように、笑顔を見せる真白。 ここまで笑ってくれるようになっただけで、かなりの関係改善を感じられる。 「よし、じゃあどこからやる?」 「前に放置してたクエストをやりましょうか」 「おっけ。じゃあ起動してる」 スイッチを入れ、ソフトが立ち上がるのを待つ。 と、そこへ。 「あれ、真白じゃん」 「え? げ」 「げ、ってなんだよ。ご挨拶だな」 「ん……なんだ?」 顔を上げると、そこには。 「こんちは、先輩。久しぶり」 えっ……誰? 「というか先輩、もしかしてあたしのこと覚えてないです?」 「俺、知り合いか?」 女の子の方ではなく、傍らの真白に尋ねる。 「なに言ってるんです、前の学校の後輩じゃないですか」 「! ……ああ!」 思い出した。 いつ頃からかみさきにくっついていた真白。その近くにたまにいたような気がする。 「たしか……」 「虎魚有梨華。今は四島水産の1年です」 「ああ」 そうそう、そんな名前だった。 オコゼ、という名字が印象的だったな、そういや。まあ、すっかり忘れていたわけだけど……。 「日向先輩は基本的に他人に興味なさそうでしたもんね」 「…………」 なんかひどいことを言われた気がする……。 「四島水産というと、あの四島水産か」 FCもそれなりに強いところだ。 高藤ほどではないが、窓果のレポートには要チェックマークがついていた。 「ですです、日向先輩よく知ってましたね」 「まあな」 特にFCの話は振らないでおいた。 四島水産に行ったからと言って、FCをやってるわけじゃないだろうし。 「そんでマグロ、何の用なの?」 「おめ、マグロって言うなー! それ定着したのおまえのせいだかんなー!」 「マグロ……?」 怪訝そうに言う俺に、真白が、 「そうなんです。昔っからの呼び名で。わたしが真白、この子はマグロ」 「痛いっ、なにすんのよ!」 「あんたがマグロマグロ言うからでしょーが!」 「いーじゃないマグロ、可愛いと思うけどな」 「この日焼け肌とその名前、セットにされた思いがあんたにわかるか!」 ……うん、ごめん真白。俺も同じことされたらちょっと恨むかも。 しかし、この雰囲気でマグロというのは。 「ぷふっ」 「あーくそ、先輩も笑いやがった。おめーら二人ともひどいぞ!」 「んで、結局何の用なのよマグロ。あんたの家、向こうの方でしょ?」 空の向こう側を指差す真白。 「意地でもその名前変えないつもりか……。まーいいわ。用事はこれよ、これ」 マグ……虎魚が差し出したのは、 「PSQ?」 「そっ。ブラブラしてたら、昔の顔なじみがこれ取り出してたから、じゃあ一緒にやるかってことで」 「えー、空気読んでよ」 「なに言ってんだよ、いいじゃないか」 「まあまあ」 なんか児童のケンカを仲裁してる気になってきた。 「人多い方が楽しいだろ、真白」 「まあそうですけど……マグロはちょっとなあ」 「ちょっとなあ、ってなんだよ」 「プレイスタイルが変なんです、この子」 「あんたに言われたくないわ!」 「ああもう、落ち着けふたりとも」 というわけで、なだめた結果、三人でゲームをやることになったのだった。 「ぶー……」 「そうふくれるなよ。またふたりの時にプレイするから」 「ほんとですか? 約束ですよ?」 ……先生にいい加減怒られなければ、な。 「負けないぞーってあれ? みんな一目散にどこへ?」 「マップCだ」 「センパイ、自動マーキングつけてるんですか?」 「このクエスト、ラグナロク侵食種の初期配置マップはG。だけど開始10秒で移動するからな。ここからならCで迎え撃ったほうが早い」 「へぇ結構やりこんでますね」 「やれること以上はできないさ」 「ちょ、ちょっと」 「下りてきたな」 「気を抜かないでくださいよ」 「!?」 と、降下してきたラグナロクがそのまま落とし穴に嵌る。 真白のやつ、移動先だけじゃなく降下ポイントまで熟知してやがる。 と、こうしてはいられない。 俺はキャラをラグナロクの弱点である胸の位置まで動かし攻撃を開始する。 真白も属性武器で一気果敢に攻める。 落とし穴でもがくラグナロクが抜け出す。が。 「させるかよ!」 閃光弾で空に舞い上がったラグナロクが再び地に叩き落とされる。 「肩壊しました!」 「こっちも爪を割った」 部位破壊を済ませてあとは集中攻撃。 「とどめはいただきます!」 「いいや俺だね!」 ボタンを連打する。 やがて敵を仕留め、ファンファーレが流れ出した。 真白がハイタッチをするように右手を挙げ、我に返ってそれを慌てて引っ込めた。 別にやればいいのに、この辺はまだ照れがあるらしい。 「なにあんたらゲーム部?」 「ごめんねーマグロ。なにもさせてあげられなくて」 「くっそー」 悔しそうに言う虎魚。 まあでも、なんとなく形にはなってよかった。 「さてと、じゃあ帰りましょうか」 「そうだな」 「えー、もっかいやろうよ、まだ明るいんだし」 「なに言ってんの、もうすぐに暗くなるって」 真白の言うとおり、日はもう落ちかけていた。 「だいじょうぶだって、まだ停留所もランプ点いてないじゃ……」 全員の目が、停留所に向けられる。 そして、ほぼ同時に、気づいた。 「あ、あの人、荷物忘れていってる」 「ホントだ」 ちょうど今、飛び立とうとしていた人が、紙袋をひとつ、停留所に置き忘れていた。 「行きましょう」 真白が走り出した。 停留所のボタンを押し、ドアを開ける。 「いくにゃ……えっ?」 その、間隙を縫うように。 「飛んじゃうぞ!」 脇から駆けてきた虎魚が、真白を出し抜くようにして、空に飛び上がった。 手にはいつの間にか、紙袋が握られていた。 「え、あの……えっ?」 真白が呆然とする間に、虎魚はスピードを上げて。 もうかなり前を飛んでいたはずの忘れ物の人に、紙袋のことを告げたのだった。 「あいつ……」 その飛行形態、スムーズな経路の選択。 飛ぶ際の見極めの良さ、そして何よりもスピード。 間違いない。あれは。 「フライングサーカス……」 真白も、同じことを考えていたようだった。 「いやー、焦った焦った」 虎魚がパンパンと手を払いながら、さして焦ってもない様子で戻ってきた。 行きのスピードも速ければ、帰りのスピードもまた、たいしたものだった。 「ねえマグロ、あんた」 「あ、見たか真白。あたし四島水産でFC部に入ったんだ」 ――ああ、やっぱり。 「結構なものなんだぞ」 「…………」 真白は言葉を失っている。 さっきまでの勝利気分は一気に醒めていた。 だってひと目で実力差はわかったはずだ。今の真白じゃ敵わないってことに。 「真白は何やってんだ?」 「わたしは……」 言いづらそうな真白。 俺は…… 「そうか。それは奇遇だな」 「え……?」 「ん?」 「俺たちもFC部なんだ」 「ちょっ……!」 「なんだ、そうだったのか!」 「ああ。しかもかなりの期待株」 「やめてください。なんでそんな嘘……」 「嘘なんかついてない。俺は本気だ」 「――っ」 「なんだ、違うのか?」 「……そうよ。FC部だから」 「首を洗って待ってなさい」 「おまえそれ小者のセリフだぞ……」 「そうか、そうかそうか! 面白くなってきたなー」 「あたし達四島水産だって負けないぞ! だってあたし達には」 「はい、そこまで」 誰だ? 声のした方を振り返ると、そこにはちょっとお姉さん風の女子がいた。 ご丁寧に、空を飛んでの登場だった。 「有梨華のお友達?」 四島水産の制服を着てる。 ということは、虎魚の先輩か? 「ごきげんよう。私は四島水産の二年生で、我如古繭と申しますわ」 「あ、久奈浜の二年、日向晶也です」 「一年の有坂真白……です」 「この人たちもFC部だそうですよ!」 「あら……そうなの」 我如古さんは、虎魚の言葉に微笑むと、 「夏の大会、いらっしゃるんですよね?」 「あ、はい」 「ではまたそこでお会いしましょう。それまでどうぞ、お元気で」 「帰りますわよ、有梨華」 「は、はいっ、お姉さま」 「お、お姉……?」 「さま……?」 なにやら、不思議な雰囲気を感じたけど、そこは突っ込みどころではないんだろうか。 だって二人とも、別にギャグでやってるわけでもなさそうだし。 「次に会うときを楽しみにしてるからな!」 「いや、わたしが聞きたいのはそうじゃなくて……ちょっと、待ちなさいよこらー!」 虎魚と、お姉さまこと我如古さんは、名残も残さず、あっさりと去っていってしまった。 あとには、呆然としたふたりだけが残ることに。 「行っちゃったな」 「…………」 改めて向き直る。 「どうするんですか」 「なにが」 「あんなこと言っちゃって」 「だから嘘は言ってないって」 「わたしはあんまりわたしを信用してないですよ? ……がんばりますけど」 「今度は俺がいる」 「俺が絶対真白を勝たせてやるから」 「まあ自分が信じられないなら、おまえの可能性を信じてる俺に騙されろ」 えらく歯の浮く台詞だとは思うが、コーチならこれぐらい自信があってもいいはずだ。 何より、俺は真白に、まだ肝心な提案を残しているわけで。 「騙されるのだって結局はわたしの意思ですよ。フォローならもっとうまくやってくれないと」 「それはすまない」 「……ひとつだけ聞いてもいいですか?」 「ん?」 「どうしてここまでするんです? 頼んでもいないのに」 「そんなの……」 「俺がそうしたいからだろ」 「仲の悪いわたしに?」 「スカイウォーカーの真白にさ」 「…………」 「なんでそんな釈然としない顔で睨みつけてくるんだ」 「センパイはもう少しご自分のなさっていることを振り返ってみた方がいいかと思います」 振り返ってみる。 「……どういう意味だ?」 「もういいです。じゃあ、うまく騙してくださいね」 そう言って、真白はにっこりと笑った。 「じゃあ行きましょ、センパイ」 その顔は、気のせいかもしれないけど。 なんだか妙に、いつも以上に可愛く思えたのだった。 真白を送っていって、自宅の前まで来た時。 意外な人物が、待ち受けていた。 「おっす、晶也、オラ……」 「うどんならもうごちそうになっただろ?」 「失礼ね、わたしはうどんにしか興味ないみたいじゃない」 「だってそうだろ」 「そうね」 そこで言い切るなよ……。 「で、ちょっとお願いがあるんだけど」 「ここで話して済む話じゃないのか?」 「うん。家まで来て」 「まじか、もう夜になるぞ」 「いーじゃない、ほらほら、はやく」 「ああもう、わかったから引っ張るな!」 「おじゃまします」 はじめて入ったみさきの部屋は、無頓着な部屋主の性格を考えれば、意外と整理されていた。 「適当に座ってて」 「……つか、みさきはほんとに躊躇しないな」 「なにが?」 「なにがって言われると困るが」 市ノ瀬の女の子的な反応が身に沁みているからきっとそう感じるんだろう。 「片付いてるし恥ずかしいとこなくない?」 「そうだな」 竹を割ったような性格が清々しい。 「んで、用事ってなんだよ」 「あ、そっか。まだ言ってなかったっけ」 普通、それを言ってから連れてくるだろ。 色々順番とか常識とかおかしいあたり、何ともみさきらしい話ではあった。 「テストの前ぐらいにさ、練習に持ってこようって話、してたでしょ」 「持ってこようって……なにをだよ」 「バランスボール」 「ああ、そういや」 家で余ってるのがあるとか言ってたな、そういや。 明らかに不要品処理っぽくて、先生からもあきれられてたけど。 「持って行くのを晶也にやってもらおうと思って、それで呼んだんだ」 「それぐらい自分で持ってこいよ……」 「いーじゃない。選手が練習以外に身体使って、怪我しちゃったら大変でしょ?」 「う……それは、まあ」 やっとのことで、真白の一件が終わったところだ。この上でまだ何かあれば、部としてかなり厳しい。 みさきは当てつけて言ってるわけじゃないだろうけど、この時期にそれを言われると、なにも言い返せない。 「んじゃ持ってくるから」 「ここにはないのか?」 「元々父さんが買ってきたんだけど、すぐ飽きて誰も使わないからずっと和室に転がってるんだよね」 「なんかそういうの、わかるな」 俺の家にも、2回ぐらい使っただけのエアロバイクが置いてある。 話題に上る度に、買った父さんが母さんから責められるので、我が家では軽いタブー扱いされている。 「あ、そうそう」 「ん?」 「クローゼット、あんま漁らないでね」 「しねえよ!」 なんで漁るの前提なんだ。 「ひひ」 どういうつもりかわからない笑い声を残してみさきが部屋を出ていった。 ……あいつめ。ほんとにやってやろうか。やらんけど。 じろじろ見回さない程度に部屋を眺める。 さっきもちらっと見たが、みさきの部屋は方向性が絞りにくいというか、結構カオスな雰囲気が漂っていた。 銃が置いてあると思えば小物はピンクだったり、戦艦の模型があると思えば、ぬいぐるみが積んであったり。 ぬいぐるみ……。みさきとのカップリングが想像できない。 本棚には小難しそうな厚い本が並んでいる。マンガは意外にも少なかった。 ふと見ると、ドアは少し開いており、隙間からはよく知った目が覗いていた。 「……って、おいこら」 「やー、持ってきたよ」 「白々しいぞ。なんで人を観察してるんだよ」 「まあまあ、ちゃんとバランスボールは持ってきたから」 「それを取りに行ったんだろ。……って、うわ、予想してたのよりもでかいな」 バランスボールは余裕で大人がひとり乗れる大きさがあった。 「そりゃバランスボールなんだからこれくらいあるでしょ」 「そりゃそうだが部室まで運ぶことを考えるとな」 「でも本当にこんなので効果あるのかねー」 「根本的な疑問だな」 「ね、ちょっと乗ってみてよ」 「別にいいけど」 「で、あたしも乗る」 「は? 一緒に乗るなんて無理……って、もうひとつあるのかよ!」 バランスボールはふたつあった。 みさきの父さん……無駄遣いにも程があるぞ。 「レディー」 「ゴー!」 っとと、意外と難しいなこれ。 ふらふらと揺れる身体を重心を移動させてなんとか安定させる。 「お、けっこうやるね」 「そう簡単に落ちてたまるかよ」 みさきの方はまだまだ余裕そうだ。 そのまま何十秒かが経過する。 「晶也しぶとい」 言葉とは裏腹に、みさきは楽しそうだ。 「ここまで来たら負けてたまるかよ」 「ひひ、そうこなくっちゃ」 またしばらく睨み合う。 「いい加減落ちちゃいなよ」 「そっくりそのままその言葉を返してやる」 「うりうり」 「ちょ……おおっ!?」 みさきが器用にもつま先で俺のボールをつついてくる。 「もうひと押しかなー?」 「っと、おっ、うわヤバっ」 一度大きく身体が揺れてしまうと立て直すのは難しい。 「とどめっ」 言葉どおりのひと押しにみさきの足が伸びてきて、 「っ! ひゃあああっ!?」 不意にバランスを大きく崩したみさきが、みさきの顔が、俺の方に倒れ込んでくる。 「うわあああああああ!?」 「い痛つつつつ……」 倒れた床から上半身を起こす。 尻もちをついた尻と、額がじんじんと痛い。 どうやら倒れ込んできたみさきと思いっきりおでこをぶつけてしまったらしい。 って、みさきは……? 「…………」 同じように倒れ込んだらしいみさきは何が起こったのかわからないという風にきょとんとしていた。 「おい、みさき……?」 「あはははははははははっ」 と、突然笑い声をあげる。 「面白かった!」 「大丈夫か? 頭でも打ったか?」 「そういえばおでこがじんじんする……」 ……本当に大丈夫なのか、おい。 「もっかいやろ晶也、勝負勝負!」 「は? なんでだよ」 「だってあれだけやって引き分けじゃ納得いかないよ」 「ちょっと待て。今のはどう考えても俺の勝ちだろ。お前がこっちに倒れ込んできただろ」 「あーあ、せっかく引き分けってことにしてあげたのに」 「どういう意味だよ?」 「先に床についた方の負けだからね。行司と5人の勝負審判はあたしを支持してる」 「倒れ込んできたってことは、あたしが上になったってこと。そう言ったのは晶也だし」 「いやいやいやいや! 納得いくか!」 「ふーん」 みさきはにやっと笑うと、 「じゃあもう一番いく?」 「なんで相撲みたくなってるかわからんが望むところだ」 ……というわけで、再戦。 「足攻撃あり、口攻撃ありってことで」 「足はともかく、口ってなんだよ、口って」 「明日香と最近どうなの〜?」 「えっ……」 「ほらっ、グラついた!」 グリグリと、みさきの足が俺のバランスボールに絡む。 「わわっ!」 すんでのところで、体勢を立て直した。 「おまえ、それはズルいだろ!」 「くやしかったら、そっちも口で攻撃してみなよー」 ……くっ。 しかし、俺の方にはそんなネタはなかった。 「いいよもう。俺は自分のバランスを保つのみだ。精神攻撃は耐えてみせる」 「ほーう。じゃあ次の攻撃いってみるよ」 「いいぜ」 「真白、うまくいった?」 「…………」 それは攻撃……なのか? 「ああ。なんかやる気も出たっぽい」 「そ、よかったじゃないの」 「なんか今日は昔の学校の後輩に会ったよ。虎魚って、覚えてるか?」 「んー? あー。あー……あの子か。うん、覚えてるよ」 「なんかちょっと反応がネガティブじゃないか?」 「あたしちょい苦手なんだよね、あの子」 相変わらずストレートなやつだ。 「まあほら、あの子と真白が仲良しで、真白が今あたしと……って感じじゃない?」 「えらくすっ飛ばした言い方だが、まあわかるよ」 要はお互いに意識し合ってるってことか。 「でも、あの子と会ったとして、それと真白のやる気がどう関係あんの?」 「四島水産。知ってんだろ?」 「うん。虎魚って、あそこ行ったんじゃなかったっけ」 「そう。そこのFC部に入ったんだってさ」 「……あー、なるほどね。そりゃ真白はメラメラするよ」 「しかも、今のとこ実力じゃ真白は勝てない。だから頑張るって言ってた」 「そっか。スタイルの話、した?」 「まだ。これからする」 「強情っぱりだから聞かないかもよ?」 「聞いてもらうよ。コーチとして責任持った上でな」 「ふーん……」 みさきは素っ気ない感じで答えた。 次の瞬間。 「スキありっ!!」 「わわっ!!」 「あははっ、今度は完全に晶也の負けだね、物言いもつかないよね〜」 「くそっ、不意打ち卑怯だろ!」 結局このあと、連続して5回も戦って、家に帰る時間が大幅に遅れることとなった。 バランスボールは2個もいらないということで、俺が一人で部室まで運ぶことになった。 みさきに振り回された形になったけど、まあ、あいつも真白のことを心配してたんだなと改めてわかったのは、よかった。 そんなイベントづくめの一日が終わり、翌日。 部室に集まってきた部員たちに、俺はまず真っ先に、報告をした。 「……前からミーティングで言ってたことだけど」 「真白のプレイスタイルを変更する」 「…………」 「真白、勝つためにはこれも必要なんだ。選手にはそれぞれ最適なスタイルがあって……」 真白を納得させようと、話し始めた瞬間。 「スピーダーですよね? わかりました。変更します」 「そう、スピーダーの重要性は……って、ええっ!? もう納得するの?」 「悪いですか?」 「そりゃ、悪いどころか俺にとっては願ったりだけど」 「じゃ、ゴネます」 「お前なあ」 「ウソですよ。ちゃんと納得した上で、変えます」 そう言うと真白は、皆の前に立って、ぴょこんとお辞儀をすると、 「今日からスピーダーになります。また右も左もわからなくなるので」 「右も左もわからずに武器を研いでいたセンパイみたいなものですので」 「その説明、いるかな?」 「……ともかく、よろしくお願いしまーす!」 「おめでとう……? なのかな」 「うん、それでいいと思うよ」 「まー、FCのことについては、日向くんの言うことに従って大丈夫だよ」 「窓果……そんなに俺のことを」 「今の、5ポイントね」 「そのポイントカード、貯まったら俺はなにをすればいいんだ?」 答えをあまり聞きたくはない。 「というわけで、コーチ」 真白が俺の前へとやってくる。 「よろしくおねがいします」 殊勝に頭を下げた。 そんな真白に、俺は……。 「脱げ」 「はあっ!?」 「シューズの設定変えるから」 「くっ」 なに赤くなってるんだ。 ていうか、このタイミングだったらシューズのことに決まってるだろう。 「みさきせんぱーい。セクハラされましたー」 「それはいけないねー、うどんで許してやろう」 「これのフォローで10ポイントいくね」 「だから! それ貯まったらなにがあるんだよ!」 「今日もがんばりましょう!」 「おう! やるぞ!」 最後はやる気の塊であるところの二人の台詞で、部活はまたいつもどおりの日常に戻ったのだった。 久奈浜学院FC部、まだまだ発展途上ではあるけれど……。 少なくとも、少しずつではあるけど、結束は固まっているように、思えた。 「第4話END」 FC部の結束も固くなり、みんなの練習に対する意識が、少しずつ高くなり始めた頃。 ムードを打ち消すような事態を前に、俺たちは打ちひしがれていた。 「いつか来るとは思っていたが……早かったな」 「そうね」 FC最大の敵と言われ、勝つことは不可能とも言われた、唯一無二の存在。 「もう少し待ってくれてもいいのに……。無情だよ、本当に」 「仕方ないよ、こればっかりは」 「ああ……」 ガックリと首をうなだれ、窓の外を眺める。 恐るべき『そいつ』は、情け容赦なく、すでに浸食を始めていた。 「なんで雨降るかな、こんな時にもう!」 そう。 日本には梅雨という、必ずやってくる多雨のシーズンがある。 それが今まさに、この四島市にやって来たのだった。 「しょーがないよね、シーズンなんだし。むしろ早めに来て去ってくれた方がいーんじゃないの?」 「確かにそうだけど、せっかく練習が軌道に乗ってきたところでの、この雨は痛いよ」 フライングサーカスは基本的に晴天でやるスポーツだ。 反重力のおかげである程度は、雨を弾くんだけど、すべての雨粒がそうなるわけじゃない。 濡れた練習着は重くなるから、動きが鈍くなるし……。 水を吸ったスーツを着ていると重心がおかしくなって、不規則な動きになってしまったりして危険だ。 忘れがちではあるけど、空を飛ぶ、というのは危険な行為だ。そこで接触プレイのあるスポーツをするのだ。危険な状態で練習をしてはいけない。 ゆえに、雨天時は何もできないし、練習自体もかなり制限がかかる。 「まいったなあ……」 予定していたプランが変更になり、困り果てる俺。 「わー、すっげ降ってるー、こりゃ止みそうにないわー」 一方こちらは妙に盛り上がっている。 「みさきはそんなに嬉しいのか?」 「なにが?」 「雨」 「まさかあ。あたしだって練習楽しくなってきたとこなのに、空飛べないのはすごく残念だよ」 「でもさ、なんかテンション上がんない? こうやって雨降ってる時って」 「あんまり」 「この降ってくるのがぜんぶジュースだったらなーとか思ったことなかった?」 「ねえよ」 「あるよ! そんなつまんない子供じゃなかったでしょ、晶也は!」 「お前が俺の子供時代の何を知ってるって言うんだ」 「はー、ジュースじゃなけりゃスープでもいいや、でもオイリーなやつだと髪ベトベトになるから、わかめスープぐらいがいいのかも」 「聞いちゃいねえ」 「ねえねえ、なんで梅雨って『つゆ』って読むか知ってる?」 「知らないけど」 「江戸の末期、雨水を椀に溜めて、梅肉を溶いて素麺のつゆにする遊びが大流行したんだって。それで」 「そういう嘘トリビアを考えてる暇があったら、雨の日でもできる練習するぞ、みさき」 みさきの首根っこを捕まえて、体育館に連行する。 「ちょー、聞いてよ、この話には実はまだ続きがあって」 「いらん。さっさとエンディングにしろ」 「きゃー、やだやだ、体育館の練習地味でやだ、ドーム球場みたいなの作ってよ、空飛びたいよ〜!」 「では今日も昨日に引き続き、体力作りのためのランニングとストレッチを行う」 「はい!」 「オゥ!」 「えー」 「はぁー」 「これだけ対照的にテンションが分かれると逆に笑えてくるな……」 「あはは、そうだねぇ……」 「だってぇ、もうここ3日ぐらい、ずーーーっと体育館に籠もって走り続けだよ?」 「そうですよ、ちょっとぐらい濡れてもいいですから、外で練習とかしなくていいんですか?」 「ちょっとした小雨でも中止になる競技で、雨の中の練習にどんな意味があるんだよ」 「そこはほら、根性ってやつでさ」 「雨にもめげず、力いっぱい戦うことで、何か生まれるかもしれませんよ……!」 「生まれません。じゃあまずは体育館の外周を50周な」 「鬼コーチめっ!」 「鬼コーチめっ!」 「鬼コーチめっ!」 「みんな、がんばってね〜」 「くなはまーっ! ファイッオーファイッオーファイッオー!」 「ファイッオーファイッオーファイッオー!」 「ふぁーい、ふぁーい、おー、おー」 「はぁ、せんぱぁい、はぁ、はぁ、わらし、まらそんとか、にがれれ……はぁ……」 「思いっきりやる気に差が出てるな……」 「しかたないよ、体育館の練習、ずっと同じだもの」 「そうは言うけど、まさかこの中を飛ぶわけにもいかないからな」 「うん、校則でも飛ぶなって決められてるしね」 「だろ? だからこそ、こういう時に体力作りをしておいた方がいい」 「うん、そうね……」 やがてランニングを終えた部員たちが、中央にいる俺の所へと戻ってきた。 「おつかれさまー」 「お疲れ様。部長と明日香は早かったですね」 「オス、50周きっちり、終わったぞ!」 「終わりました!」 抜群の体力を見せつけた部長と明日香は、何事もなかったかのように笑顔で返事をする。 「こっちも、お疲れ様……って、なんかもうぐちゃぐちゃだな」 「はあ……つかれた、ねえ晶也、ジョイサンのきのこハンバーグ定食出して、ここで。すぐ」 「具体的すぎるし無理だそんなの」 「はぁ、はぁ、はぁ、もうダメです、この続きは画面の中でやります」 「二次元と区別をつけろよ、ほら二人とも立って。急に座ったら身体に悪いぞ」 ぶーぶー言いながら文句を言い続ける二人を立たせ、身体を軽く動かすように言う。 「はい、じゃあ休憩したあとは反復ダッシュを5分間な」 「え〜、あたしあれ嫌い……」 「途中でセンパイがパンって手を打ったら逆方向に、ってやつですよね、それ」 「そう、それだ」 「わー、あれすっごいキツいじゃないですか、すぐにおいてかれそうになるし、やです!」 「じゃあそろそろ始めるぞ、笛吹いたらダッシュな」 「聞いてないし!」 「おう、まかせろ!」 「了解です!」 「ふたりとも体力どうなってんの……?」 「兄ちゃんと明日香ちゃんは元気だよねえ……」 「うーん……」 雨の日でもできる練習ということで、数日前から、体育館を借りてランニングを始めた。 そうしたら、予想通りというか、みさきと真白が早々に音を上げた。 まじめでまっすぐな明日香と部長は、これも予想通り、素直に練習をこなしているけど。 「あの二人がやる気にならないとなあ……」 あくまでも個人戦とはいえ、このままだと士気にも関わってくる。 「つっても、いいアイデアがあるわけでもないし」 対策を考えるも、特に何も思い浮かばなかった。 「何か名案が……ん?」 放課後、人の少ない廊下の先に、影が落ちているのに気づいた。 「晶也」 「……先生」 「どうした、険しい顔して」 「別に……そんなことないですよ」 「そうか、ならいいんだが」 先生はフッと笑って、相変わらず雨続きの空を窓越しに眺める。 「雨続きでロクに練習もできないな」 「はい、大会まで時間がないのに、困りますね」 「悪いな、私が見てやれればいいんだが、あいにくと期末試験の準備に追われていて、見事に修羅場だ」 軽く両手を挙げて、自嘲する先生。 俺が黙っているのを見て、視線をこちらに戻す。 「……焦ってるのか?」 「えっ?」 「高藤の練習、想像以上だっただろ」 「……ですね、規模も内容も、すごかったです」 「だからって、お前がそれをすべてなぞる必要はないぞ」 「…………」 見透かされていた。 他校の練習の充実ぶりに圧倒され、なかなか先に進まない練習と、何よりも自分に。 焦りが見えることを、先生は見透かしていた。 「天候だけはどうしようもない。できることを精一杯やればいい」 「……はい」 「あいつらには何をさせてるんだ?」 体育館での練習について報告した。 先生は俺の説明にうんうんとうなずくと、 「で、どうだ、反応は?」 「黙々とやってるのは明日香と部長ですね。あとのふたりはつまらなさそうにしてます」 「ハハッ、だろうな。鳶沢は特に退屈には耐えられなさそうだ」 「でも、こんな雨の中だと、実践的な練習は」 言い訳しようとした俺の言葉を、先生はさっと遮って、 「もっと楽しめ、晶也」 「…………」 「先頭を走っている連中に勝つには、心の底から楽しんで、せめてメンタルで勝たないとダメだ。お前はそれを、痛いほど分かってるだろう?」 「はい」 「それならこの状況も楽しめないと、な」 先生は俺の肩をポンとたたくと、小粋に手をさっと挙げて去っていった。 その姿が見えなくなっても、俺はその場に立ち尽くして、考え込んでしまっていた。 その夜。 時計がそろそろ寝る時間を指し示しても、俺はなかなか眠れないでいた。 「知らないうちに、俺一人がムキになってたのかもな」 雨だってずっと続くわけじゃない。 そこに一喜一憂していたのでは、その後の練習にだって響いてしまう。 先生の言う通り、もっと発想を柔軟にする必要があった。 「楽しむ、か……」 寝転がっていたベッドから起き上がり、昔の写真をアルバムから探す。 練習風景の中に、忘れていた自分の姿が写っていた。 「あ、これ……」 何枚かの写真に思いをはせた後、俺は傍らに置いてあったスマホを取り上げ、ボタンを押した。 「もしもし」 「あ、市ノ瀬か? ごめんこんな遅くに。ちょっと聞きたいことがあって……」 …………。 「鬼ごっこ?」 「ですか?」 「そうだ」 ポカンとした表情で俺の方を見る部員たち。 「なんでまた? あたしがヒマそうにしてたから?」 「まあそれもあるけど、これが意外に効果的だとわかってな」 「鬼ごっこが、フライングサーカスに効果的……」 「……どうかな、練習としてアリかなって気もするんだけど」 「そうですね……」 昨日の夜、市ノ瀬に夜遅くに連絡をとったのは、この鬼ごっこトレーニングに効果があるかどうかを確かめるためだった。 「あまりこういうトレーニングをしないので、正直わかりません」 「だよなあ」 「ですが、ただ走ったり反復運動をしたりするよりは、実戦に近いイメージもありますし、身体も動かせるし、悪くないのではと思います」 「おお、そっか」 「はい、うちでやってる雨天時の練習にも、そういうゲーム方式の練習を入れてもいいかなと、少し思ったぐらいですから」 「うん、市ノ瀬に言われたら自信出た。ありがとう、こんな時間に」 「あ、そんな、別に気にしてないですから」 「そっか、じゃあな」 「あ、あの」 「ん?」 「いえその、練習は青柳さんを入れて、二対二でするんですよね?」 「いや、部長は体力作りなんだ。グラシュの練習と違って男女対戦ができないからちょっと面倒で」 背中にタッチ程度とはいえ、お互いに微妙な空気が流れかねない。 「あの、じゃ私も……」 「……あ、いえ、何でもないです」 「ん、ああ、それじゃまた」 「はい……」 「……というわけで、市ノ瀬からも効果アリとの話をもらったから、大丈夫だ」 「それは心強いですね!」 「いいね、なんか面白そうだし、やってみよっか」 「みっ、みさき先輩がOKなら、わたしももちろんやります!」 「はい、じゃあルールを説明する。対戦は一対一で行い、攻守は一定時間で切り替え、タッチしたら1ポイント」 「体育館の中だったら、どこでも追いかけていいんですか?」 「今俺たちのいる場所を中心として、直径10メートルの円の中には入ったらダメだ。それ以外なら、どこでもOK」 「うおお、そうか、対戦ってだけで燃えるな!」 「あ、部長は見学です。もしくは体力作り」 「なっ、なぜだ!?」 「グラシュ履いてる練習なら、反重力で直接タッチできないですけど、今回はそうじゃないんです」 「おう、それがどうした?」 「……女子の背中に直接タッチするつもりですか、部長」 「ぬっ?!」 「えっ、兄ちゃん、まさか参加する気でいたの?」 「部長のことは人として嫌いじゃないけど、それはちょっと」 「ですねー……」 「うーん……」 「うおお、このわかりやすい難色の示し方! わかったよ、俺は外周を走ってるさ!」 部長はそう言うと、叫び声をあげつつ外周を回り始めた。 「じゃあ始めるか。まずはみさきと真白。真白が攻めで、みさきが逃げる。時間が来たら、みさきが抜けて明日香が入って」 「はーい」 「了解です! 絶対に捕まえてみせます!!」 「真白、顔こわいこわいよ顔」 「じゃあ、わたしはここで柔軟やってますねー」 「うん、そうしてくれ。……じゃあ始め!」 「はぁ、はぁ、も、げんかいです……、みさきせんぱいが、とお、い……」 「ほーらほら、真白ちゃーんこっちにおいで、追いついたら特別にごほうびあげちゃう」 「まじですか! まだやれます!」 「って、うわあっ、急に元気になった! ちょ、抱きつこうとしないのっ!」 「ごほうび、ごほうび、ごほうびっ!!」 「目! 目が血走ってるよ! ねえ!」 「ふうん、意外といけるもんだな」 昨日まで、やや萎えかけていた二人とは思えないぐらい、今日は練習に身が入っている。 「だね、みさきも真白っちもすごくやる気じゃない」 「まあ、真白のはちょっと別のやる気とも言えるけど」 「でも、こうやって避けたり攻撃したりしてる様子って、まさにフライングサーカスのバトルと同じだよね」 「うん」 「これって、日向くんが考えた練習なの?」 「いや、考えたのは俺じゃない。昔やってた練習ではあるんだけど」 「そうなんだ」 雨の日、俺がグラシュばかりいじってヒマそうにしてるのを見て、先生がやろうって言ってくれたんだよな。 「まだまだ手のひらの上だよ、俺は」 「はい……?」 窓果が不思議そうに言葉を挟んだ、瞬間。 「うおお、日向!」 「きゃっ」 「うわっ、部長、なんですか?!」 「50周全力で走ったぞ、次はどうしようか!」 「じゃ、じゃあ、柔軟で身体をほぐしてください。部長は身体が硬めですから、もっと」 「わかった! 地獄のようなストレッチを己の身体に課してくる!」 部長は言うが早いか、体育館の脇に全力疾走し、股割りを始めたのだった。 「ぐおーっ、痛い、痛いっっ!」 「……あの、なんか、ごめんね」 「いや、別に謝らなくても」 ……まあ、なんとなく謝りたくなった気持ちはわかるけど。 「こらーっ、晶也ーっ!」 「んっ?」 みさきが真白の攻撃をひょいひょいと避けつつ、こちらに拳を突き上げて怒っていた。 「もう時間終わってるでしょー! 早く笛吹いてよーっ!」 「あっ、しまった、そうか!」 見ると、5分の規定時間がとっくに過ぎていた。 「じゃないと真白が……きゃああっ!」 「ううう……みさき先輩のごほうび……シャッ!」 真白の顔が飢えたオオカミのようになっていた。 鳴き声のようなものをあげつつ、みさきに襲いかかっている。 「は、はい、じゃあ終了!」 「はあ、やっと、おわったあ……」 くずれるように座り込むみさき。 「うう……もう少しだったのに、残念……」 「真白、敵が全員みさきだったら、本気で全国が狙えそうだな……」 あながち嘘じゃないほど、さっきの動きはすさまじいものがあった。 「真白っち、ちょっと休憩しよ」 窓果が真白の身体をよいしょと持ち上げ、鬼ごっこゾーンの外へ移動させた。 「さあ、じゃあ次はみさきが攻撃で、明日香が防御だ」 「はい! やっと出番ですねっ」 「ちょ、ちょっと待って、明日香相手の時は、完全に呼吸整えてからやるから、ちょっと休憩っ」 「まあ、あれだけ激戦のあとなら仕方ないよな。明日香、悪いけどちょっと時間おいていいかな?」 「もちろんですっ、わたしもみさきちゃんとは万全の状態で戦いたいですし、待ってますね!」 明日香はうずうずする身体を抑えるように、勢いよく腿上げ運動を始めた。 「気合い入ってるね、明日香ちゃん」 「だな。鬼ごっこ対決、今のところ五分五分だし」 明日香とみさきの対戦は、今日これまでに攻守を入れ替えて四度行われ、2対2と同点だった。 グラシュを履いている状態だとみさきに分があるが、素の状態だと全身バネの明日香は引けを取らない。 「どっちが勝つかな」 「わからないけど、みさきはどちらかというと攻撃の方が得意なんだよな」 部活の残り時間を考えると、おそらくはこれが最後の勝負になる。 なので、ギリギリでみさきの方が有利だと俺は読んでいた。 「よしっ! 準備いいよ、いけるっ」 みさきが立ち上がって、軽く屈伸運動をして、身構えた。 「よし、じゃあ行くぞ」 「明日香、最後の1点はもらうよ」 「みさきちゃんでも渡さないよっ」 バチバチと火花の飛び交う中、 「はじめっ!」 「それっ!」 「わわっ……!」 開始直後、フェイントをかけるようにみさきの手が明日香の身体へと伸びた。 「いきなりっ?!」 戸惑う明日香をよそに、みさきの手がシュッシュッと身体へ向かって伸びてくる。 「ほらほら、こっち向いたままだと、すぐに捕まえちゃうよ〜」 まるでフェンシングの試合を見ているように、明日香の身体が壁際へと追い詰められていく。 「くっ……油断してましたっ」 明日香は体勢を立て直すと、みさきに背を向けて走り出した。 「お、やっとそっち向いたね、じゃあ本気で走るよ!」 全速力で逃げる明日香を追うみさき。 二人とも運動神経が良く足も速いので、中央の円を中心に高速回転する形になっていく。 「あ、またさっきと同じ形だ」 「だな、こうなると長くなる」 二人の戦いは、基本パターンが決まっていた。 ポイントの入るパターンは、さっきの明日香のように、片方が追い込まれてのタッチにいたるケース。 もう一つは、今のように、完全な追いかけっこになるケースだった。 「どうやら同点のまま終わりそうだ」 この状態から、どちらかがミスする可能性は低い。 「みさき先輩、このままだと追いつけなさそうです」 「おっ、真白復活したか」 「にしても、本当に足が速いですよね、ふたりとも」 「さっきから全速力のはずなのに、ぜんぜんスピード落ちないしねー」 みさきが運動神経抜群なのは知っていたけど、明日香もまったく負けていない。 「別のスポーツでもいいとこ行っただろうな」 むしろ、フライングサーカスでも、これぐらい戦えるようになれば凄いのだけど。 つぶやいた所で、明日香のスピードが少し上がった。 「このまま、5分間逃げ切りますっ!」 それまで一定だったふたりの距離が、少しだけ開いていった。 「おおっ、明日香ちゃんまだ力を残してたか」 「み、みさき先輩、がんばってくださーい!」 観衆のふたりが声援を送るも、みさきとの差は開いたままだ。 「これはみさきが逆転するのは難しいかな……」 その時。 みさきの顔に、ニヤッと笑みが浮かんだのを見た。 「あいつ、なにか企んでる」 「えっ?」 窓果が聞き返した、その瞬間。 「いくよっ!」 みさきの速度が明日香よりもさらに上がり、距離を十分に近づけたところで、 「そらっ!」 思いっきり、前方に向けて両手を伸ばし、タックルのような形で飛び込んだ。 「わわっ!」 明日香も後ろを振り返って察知し、すんでのところで攻撃を避けた。 「……おしいな」 手のひらひとつ分、距離が縮まっていたら、この時点でみさきの勝利は確定していた。 「まだまだっ!」 「きゃああっ!」 なおもみさきの攻撃は続く。 タックルで崩した体勢を側転で元に戻し、すぐさま明日香の背中に向けて走る。 「それっ!」 「ひっ!」 完全に防戦一方になった明日香は、お腹を前に突き出すようにして必死に避ける。 しかし、元より無理をした避け方のため、どうしてもみさきを引き離せない。 「きゃー、さすがはみさき先輩です、で、晶也センパイ、残り時間は?」 「あと1分。明日香にはキツいな」 「そうね、そこまで持たなそう」 その後も、ふたりの戦いは続く。 「それっ!」 容赦のないみさきの攻撃に対し、 「うっ……!」 なんとか手をかいくぐりつつ、逃げていた明日香だったが、 「はあっ、もう、そろそろ、だめ、ですっ」 さすがに体力も尽きてきたか、動きが鈍くなってきた。 みさきがその変化を見逃すわけがない。 「よおし明日香、覚悟っ!」 明日香が攻撃を避け、身体を少し前へと突き出した瞬間。 「えいっ!」 みさきは、走る勢いのままに、両手を前へと思いっきり突き出した。 「決まった!」 「きゃーっ!」 ……決まった、はずだった。 しかし。 いつまで経っても、明日香の声も、みさきの喜びの声も、聞こえてはこず。 「んっ……?」 「あ、あれ……?」 やがて、困惑したみさきの声が、代わりに聞こえてきたのだった。 「……すごい」 信じられない光景だった。 さっきまで、確かに背を向けて走っていたはずの明日香が、気がつくと、みさきの後方に立っていて。 後方から明日香を狙っていたはずのみさきが、入れ替わるようにして前に立っていたのだ。 「……へ?」 そして、当の明日香本人も。 何が起こったか分からない様子で、その場に突っ立っていた。 「あ、あの、なんかよく、わからないですけど」 明日香は注目を浴びて恥ずかしいのか、ちょっと照れながら言うと、 「わたし、どうしちゃったんですか?」 誰も、それに答えなかった。 でも俺は、その一部始終を見ていた。 「えっと、まずはとりあえず」 「ああっ、みさき先輩残念でしたっ」 「みさきー、ボーゼンとしてるけどだいじょうぶ〜?」 ふたりがみさきに駆け寄る。 静止した状態の試合に決着をつけたあとで、 「今、自分でどうしたか、わからなかった?」 明日香に質問してみた。 「は、はい、身体を前の方に突き出して避けようとして、足で床を蹴ったところまでは覚えてますけど」 「バク宙だよ」 「は、はい?」 「今、明日香はみさきの攻撃をバク宙で避けたんだ。……それも、結構信じられないぐらいの距離を飛んで」 元々、体操選手並みの身体能力は持っていたけど、まさかこれほどとは思わなかった。 「わぁ、えっと、びっくりしました。わたし、普段から宙返りとかしてないので」 してたら怖いよ。 「でもでも、なんか今の身体の感じ、とても気持ちよかったです!」 「そっか、じゃあこれを……」 言いかけて、ちょっと考える。 「どうか、しました?」 「あのさ」 「はい」 「これ、完全に思いつきだし、上手く行くかはやってみないとわからないけど」 さっきの、あのバク宙の瞬間と、明日香の身体能力の高さを信じて。 「もしかしたら、これは明日香にとって必殺技になるかもしれない」 「ひっさつわざ……ですか?」 「ああ」 背に向けて迫ってくる敵に対し、後方に飛んで後方を取り返すなんて技、少なくとも学生大会ではお目にかかれない。 さっきの明日香ぐらい見事に決まれば、かなりの強豪からだって、ポイントを取れるはず。 攻撃を避けて、その上で後ろを取れるなんて、百発百中で出せれば、無敵に近い。 「いいですね! わたし、そういうの憧れなんです!」 「お、やる気じゃないか」 「はい! 昔お父さんから借りた漫画で、ギャラクティカなんとかってのがとってもかっこよかったんですが、そういうのですよね?」 「えっと、まあ……そんなとこかな」 「わたし、がんばりますっ」 「あ、いや、なんでもない」 「?」 さっきのバク宙、ひょっとしたらフライングサーカスに応用できるかもと思ったけど……。 (まだ飛行形態すら安定してないからなあ) まだ、明日香にはちょっと早すぎる話だ。 もう少し基礎をきちんとやった後なら、これを技として活かせるかもしれない。 とにかく、今はまだ早いだろう。 「えっと、じゃあさっきのは、明日香がバク宙して、あたしの攻撃を避けたの?」 「ああ、なんか信じられないけど」 「ふーん……そっか」 みさきはそうつぶやくと、 「それっ!」 「うわっ!」 その場で、見事にバク宙をしてみせたのだった。 「びっくりした、なんだよ急に」 「べっつにー。ちょっとやってみたかっただけ」 ……あ、こいつ、負けず嫌い刺激されたな。 まあ、上手くなるための競争はいいことだけど、あまりトリッキーな方向に行きすぎても困るからな。 「よーし、それじゃ今日の練習はここまでにする」 「はーい!」 「お疲れ様でしたー!」 「おつかれー」 「んおおおっ、日向! 俺はいつまで股を割っていればいいんだっ!」 「俺は股割りしろだなんて言ってないですよ! もう帰りますよ部長!」 そんな、いつも通りの部活の光景の中で。 「…………」 なぜか、いつもより少しだけ、つまらなそうなみさきの姿が、妙に頭に残っていた。 と、そんなことのあった翌日。 「はっ、はっ、はっ、はい、とうちゃく〜っ」 大きなゴールデンレトリバーに引っ張られ、明日香が自宅の前で駆け足を止めた。 「もう、いいのか?」 「はいっ、今日はこの辺を回る程度でよかったので」 答えつつ、慣れた手つきでリードを外し、小屋の端に付けられた鎖につなぎ替える。 「本当にごめんなさい、休みの日に付き合わせちゃって」 「いや、いいよ気にしないで」 「でも、練習でもなんでもないのに、しかもすごく個人的なことですし……」 練習明けの土曜日、予定空いてますか? と明日香に突然聞かれた。 一体何の用事かと思いつつもOKすると、最初の用事は愛犬の散歩だった。 「ほら、テリー、おすわり」 倉科家の愛犬はテリーという名前だった。明日香のお父さんが命名したらしい。 「わうっ」 さっと、テリーは後ろ足を折りたたんで座った。 「おー、かしこい」 「ですよね〜、自慢の子なんです」 むふー、と鼻息を荒くさせつつ、明日香は立て続けに芸を披露した。 「テリー、お手!」 「わんっ」 「テリー、おかわり!」 「わんっ」 「ぐるぐる〜!」 「わんっ、わんっ!」 「すごい」 「しつけたのはお父さんなんですけどね。でもテリーは本当に覚えがいいんです」 「みたいだな。しかしこれだけ賢いと、もっと色々なことができそうだ」 「ですね、今もまた何か仕込んでるみたいです」 「今も……?」 「はいっ」 明日香のお父さんは、聞いている限り、ちょっと面白い人のようだ。 遠慮なく言えば、ちょっと変わってる人のようだったけど……。 「あまり深く聞かない方がいいのかもな」 「何を、ですか?」 「あ、それより急がないと。そろそろお店、午後の休憩に入っちゃうぞ」 「は、はいっ」 こうして、一つ目の用事を終えた俺たちは、街の方へと急いだ。 「こ……こんな、こんな大きなパフェ……」 「い、いいんですか、わたしひとりで、これぜんぶ食べちゃってもっっ!」 というわけで。 明日香の『もうひとつの用事』を済ませるため、俺たちはカフェへ入り、特大パフェを注文したのだった。 とある理由により、今回は俺のおごりだ。 「あ、ああ、いいよ、思いっきり食べるといい」 「おかわりもいいぞとか言って、あとになってとんでもないしっぺ返しが来るとか」 「……そんな漫画みたいな罠は無いから、安心していいよ。おかわりはダメだけど」 やっぱり、明らかにお父さんの影響受けまくってるよな……。 「わかりましたっ、じゃあ……いただきますっ」 明日香は剣を構えるがごとくスプーンを手に取ると、思いっきりクリームに突き刺し、口に放り込んだ。 「ん〜〜〜〜〜〜っ……!」 そして、ゴクンと飲み込む。 「ふぁ……さ、最高です、嬉しいです、おいしい、おいしすぎます……」 明日香の表情が一瞬で溶けた。 「そ、そんなに嬉しかったの……?」 「それはもう……! 頭の中に糖分が行き渡って、全身が火照ってくるのを感じるぐらいです」 そんなにまでブドウ糖の摂取制限はしていない。 まあ、それぐらい嬉しかったんだろうな。 「はむっ、んっ、はぁあ……あまぃです……、すごく、おいしいです……」 明日香はとろけそうな声を出しながら、表情までとろけそうになっている。 ――元々、真白がケガをした際に、みさきの栄養管理や願掛けを兼ねて食事制限をした、あの一件からの話だったのだけど。 正直な明日香は、忠実にそのルールを守り、余分なカロリーを摂取せず、ここまで来たのだった。 もしパフェを食べる時は、『コーチの見ている前だけにしますっ』と、強く宣言していたものだったけど……。 まさか本当に、休日に監視の下で、こうして実行するとは思わなかった。 というわけで、頑張った明日香へのご褒美として、今日はパフェをおごったのだった。 それに時々は好きなものを食べた方が、ストレスが減って体の調子がよくなり減量は成功する。 プロのスポーツ選手だって、ただストイックなわけじゃなくて食に関する解放日を決めていたりするのだ。 「生クリームが口の中でほどけて、ノドを滑り落ちて、胃の中に染み渡るまでがもう幸せで」 「具体的な幸せだな……」 「そこにいちごの酸味がふわぁって広がって、目の前もピンク色に染まっていくんです」 「あ、晶也さんの顔もちょっとピンク色に……」 「おい、大丈夫か……?」 流石にちょっと変な物でもやってるのかと心配になる言葉だ。 まあ、昔の人はコーヒーで酔っぱらったと聞くし、明日香もパフェを長く我慢していたのなら、視界がピンクに染まっても仕方ないのかもしれない。 ……いや、仕方なくはないか。 「はあ〜、幸せでした……」 空になり、運ばれていく容器を見つめながら、明日香はうっとりとした表情で呟いた。 「ホントに明日香はパフェが好きなんだな……」 「はい、あ、でも、どちらかと言うと」 「より好きなのはパフェに乗っているいちごですね」 目をキラキラさせつつ、答えた。 「あ、そっちなんだ」 「はい」 コクン、とうなずくと、 「いちごのことを考えると、どんなつらいことも乗り切れる気がします」 故郷に残してきた家族みたいな言い方をする。 でも、そこまで思いが強いのならば、上手く使えばモチベーションの向上に繋げられそうだ。 「よし、じゃあ約束だ」 「約束?」 「ああ。今度の大会で、もし明日香がいい成績を残したら、その時はパフェをもう一度おごりで食べさせてやる」 「っ……!」 「種類も自由に選んでいいぞ。だから一生懸命練習を……って、うわっ!」 いつの間にか、真顔になった明日香が、すぐ目前に迫ってきていた。 「……二言はないですね?」 「あ、明日香?」 明日香はちょっと泣きそうな顔になると、 「わ、わたしをやる気にさせようとして、にんじんだけぶら下げて、あとで『なしよー』とか、そういうのされたら、わたし泣いちゃいますから!」 「そんな人の道に外れたことはしないよ!」 「じゃ、じゃあ、ホントに、ですね? ホントに約束ですよ……?」 「あ、ああ、約束だ」 「うれしいっ!」 ぱあっ、と表情を華やかにして。 「これからも練習、頑張りますねっ!」 飛び跳ねんばかりの勢いで、喜びを露わにしたのだった。 (やれやれ……) ちょっとだけ呆れ気味に息をつく。 「嬉しいです、練習は楽しいし、試合も面白くて、その上にいちごまで食べられるなんてっ」 明日香はメニューの方を見上げると、嬉しそうに言葉を続ける。 「えーと、列島縦断スペシャルいちごサンデーか、水面に浮かぶ宝石の島パフェか、どっちにしようかなあ……」 だけど、中だるみしそうな時期にあって、明日香のモチベーションを上げられたのは、何よりのことだった。 (ま、いいか) 思うように出ない調子を、これを機会に出してくれるといい。 目の前で無邪気にはしゃぐ明日香を見ながら、俺はそんなことを考えていた。 「あっ……」 「おっ」 「あっ」 お店を出て少し歩いたところで、みなもちゃんに出会った。 「よう、みなもちゃん」 「は、はい……おひさしぶり、です」 「ひさしぶり……だったか?」 ついこないだ、白瀬さんの店で会ったばかりのように思うけど。 「こんにちは、みなもちゃん。えっと、倉科明日香です」 「はい、あの、白瀬……みなも、です」 「この前会った時はあいさつできなかったので、よかったですっ」 「あ、は、はい……すみません、すぐいなくなって」 「いや、別に謝らなくても……」 相変わらず小動物的というか、おとなしい子だ。 「今日はお兄さんは一緒じゃないの?」 「はい、兄は……福留島の方へ……行ってます……」 「そっか、じゃあひとりなんだね」 「はい……そうです……」 「…………」 「ん、なにか?」 みなもちゃんが、何かを訴えかけようと、俺の方を見ていた。 「お兄ちゃんがいなくても……お買い物とかはできますよ……」 「そ、そうだよね」 「子供じゃないですよ……」 ……あ、ちょっと不満げな顔してる。 あまり大きく表情が変わらないのでわからなかったけど、子供扱いされたと思ったのか。 「うん、少しも子供だとは思ってないよ。だってみなもちゃん、大きいじゃないか」 「っ……!」 みなもちゃんは、自分の反論が素直に肯定されたのが嬉しかったのか胸を打たれたようにじっとそこを抑え、見つめて、 「……まだまだ、です」 「え?」 「でも……成長過程なんで……がんばります」 なぜか、顔を赤くするみなもちゃん。……不思議な子だ、相変わらず。 「じゃあ、俺たちは行くけど、みなもちゃんはどうする?」 「一緒に行きませんか〜?」 「!」 「あ、あの……」 「い、いいです、やめておきます……」 「そっか、残念です……」 「ごめんなさい、でも……」 「邪魔とか……略奪とか……できないです……」 「…………?」 ……なんか、不穏なことを言った気がしたけど。 「それじゃ……失礼します……」 「あ、ああ……じゃ、また」 「白瀬さんにもよろしくですー」 みなもちゃんは、頭をこちらに下げつつ、素早い動きで去っていってしまった。 「みなもちゃん、やっぱりかわいいですね!」 「そ、そうだね……」 それ以外の感想の方が先に出そうなもんだけどな。 「これからどうしましょうか?」 「そうだな、まだ時間もあるけど」 スマホの時計は15時過ぎを指していた。 夕方まではまだ時間はあるけれど、ちょっと半端な時間でもある。 「長居する理由もないし、そろそろ……」 言いかけた、その時。 「おっ」 角を曲がった所で、見慣れた顔とバッタリ出会った。 「あっ」 みさきは俺たちの姿を見ると、さっと後ろを向いて立ち去ろうとする。 「こら、何も言わずに逃げることないだろ」 「ちゃんと『おっ』って言ったじゃない」 「言ったうちに入るかよそんなの」 「物言わずとも通じる仲じゃないのあたしたち」 なんでいきなりやり取りがめんどくさいんだ、こいつは。 「まあいいや。とりあえずはろー明日香。今日はコーチのつきっきり指導?」 「はい、そうです。栄養管理的な意味で」 「え、なんだって? しゃせ……管理? よく聞こえなかった、もう一回!」 「栄養管理です」 「えっ、しゃせ……?」 「すごい聞き違いもあったもんだな、みさき。明日香もそうだけど、お前も栄養管理してるんだからな」 「えっ、なんだって?」 「しつこいよ!」 ……買い食いとかしてるんじゃないだろうな、本気で心配になってきた。 「みさきちゃんはお買い物?」 「んー、なんか適当にぶらついてる感じ。お邪魔しちゃ悪いからもう立ち去るね」 「そういう勘違いからの気遣いするフリはいいから、お前もヒマなら一緒にぶらつこう」 「そうですよ、一緒に行きませんか?」 「ちっ、誘導に乗らなかったか。まあいいや、じゃあ一緒に行こ」 ……と、こうしてみさきを交えて、街中をぶらぶらすることになった。 「この3人で歩くのってなんか新鮮だね」 「ですねー」 「部活の時は真白や部長がいるからな。あの2人がにぎやかな分、すごく静かだ」 「だよね。でさ、せっかくだからこの3人だけの思い出とか作ってみたくない?」 「3人だけの?」 「いいですね、どういう思い出ですか?」 聞き返すと、みさきは周囲を見渡して、 「そうだねー、それじゃ」 ビッ、と、とある店先を指さしたのだった。 「若者のゲームセンター離れ」 「唐突に何だよ」 「深刻なんだよ〜。それに消費税増税も乗っかって、今やゲーセンはヤバいことになってる」 「ゲーセン事情はわかったから、何が言いたいのか答えろよ」 「や、そういえばゲームセンターって、あんまり入ったことないなー、と思ってさ」 「今はみんなネットゲームだしな」 「明日香はこっち転校してくる前、ゲーセンに通ってたりしてなかったの?」 「あんまりゲームとかしませんから。……あ。でも、クレーンでぬいぐるみを取るゲームはしたことあります」 「つまりそのくらいしかしたことない、と?」 「はい」 「ふむ。やはり若者のゲームセンター離れは深刻なようだね」 「そういうみさきはどうなんだ?」 「あたしも明日香と似たようなもん。……ここは若者らしくゲームセンターに行ってみるべきでは?」 「若者はゲーセン離れしてたんじゃなかったのか?」 「いやー、前から入ってみたかったんだけど、女子の立場じゃ入りづらいものがあるじゃない?」 「そういうもんか? ……確かに男子に比べて女子の姿は少ないかもな。入ってみたいのか?」 「女の子を二人連れの両手に花状態でゲームセンターに行くのは、男のロマンでは? 周囲に自慢できちゃうよ〜。誇らしいよ〜。美少女二人と入るなんてあたしが男なら感動で死んじゃうな」 「自分のことを美少女って言っちゃうのか」 「そこは大目に見るというか、価値基準を緩くしてさ〜」 「みさきちゃんはそうかもしれないですけど、私なんかは……」 「いやいや、そういう慎ましやかな謙遜はしなくていいよ。ここはダブル美少女ということで、晶也に高く売りつけよう」 「売るとか言うな。買う予定はない。要はゲーセンに行ってみたいんだな?」 「何も知らないダブル美少女を優しくエスコートするなんて、男の誉れだと思うなー」 「……よく咄嗟に誉れなんて単語が出てきたな。別に俺は行ってもいいけど、明日香は?」 「お二人が行くなら、私も行きますけど」 「んじゃ、行くか……」 「わ〜〜い! ほら、明日香も一緒に」 「あ、はい。わ〜〜い!」 「わ〜〜い!」 「うわ〜。音が凄い。お祭りみたいだー」 「表現が古いって。昔の人かよ」 「ふんふふふ〜ん」 謎の鼻歌を奏でながら、店内をぐるりと回る。 「何かやってみたいゲームとかあったか?」 「ん〜、とねー」 「あのパンチングマシーンとかみさき向けじゃないか?」 「お金出してパンチするくらいなら、晶也をパンチしてお金を貰うよ」 「それはマフィアの発想だな」 「あの床をペコペコ踏んで踊るゲームをしてみたい」 「ん〜? あー音ゲーか」 「晶也はやったことあるの?」 「少しだけなら。ハマる人はハマるみたいだけど、俺はそんなに好きじゃないな」 「ふーん。明日香は?」 「私も前の学校の友達としたことありますけど、たくさん足を動かさないといけないので大変でした」 「たしかにこれ以上ないぐらい踏むからな」 「足が増えてしまいそうな気がして怖かったです」 「それは斬新な恐怖だ……」 「よし、やってみよー!」 「おう、がんばれ」 「がんばれじゃなくて晶也も一緒にやるの。あれって二人同時にできるんでしょ?」 「できるけど、なんで俺もしなきゃいけないんだ?」 「一人で台の上でジタバタするの恥ずかしいじゃない。あたしが羞恥で悶えるのを見たい、というなら話は別だけど」 「そんなの見たいと思ったことはない! わかったよ。一緒にやるよ」 筐体に上がりコインを入れる。 「初めてなんだから簡単な曲でいいよな?」 「お任せします。これって勝ち負けあるんだよね?」 「あるけど?」 「ふふ〜ん。あたしが勝ったら何をしてもらおうかな〜」 「俺が勝ったら何をしてくれるんだよ」 「……いや、別に何もしないけど」 「なんでそんなに自分勝手なんだよ。いいから、ほら、始めるぞ」 「よし、来い!」 「二人ともがんばってくださいね」 「うう〜っ」 がくん、とみさきがうなだれる。 「はじめてにしてはがんばったじゃん」 ランクCだけど、クリアーできただけ凄い。 「足がもう一本ないと無理だと思う」 「ですよね、ですよね!」 うん、うん、と明日香が激しく同意する。 「→↓←↑とかどうやって踏めばいいわけ? 理論上不可能じゃない?」 「どういう理論が成り立ってるんだよ。みさきは腰を動かさずに片足で踏もうとしてるから、そうなるんだって」 「ん? というと?」 「ちゃんと腰をひねって、両足でリズムよく踏めばいいんだって」 「譜面はリズムで流れてくるから、タイミングだけで喧嘩売るみたいに踏むより効率的だぞ」 「喧嘩とか言うな」 「ん〜、リズムか……。よし! もう一回!」 「もう一回だけだぞ」 「おお〜〜っ」 明日香がぱちぱちと拍手をする。 「前のよりずっとそれっぽいです」 「わかってきた! わかってきた! 踊るように腰を使うわけだ。もう一回! もう一回だけ一緒にやろう」 「一人でプレイしてもいいゲームなんだぞ?」 「対戦相手がいないと張り合いがないじゃない。それに晶也の方が上のランクだし……」 ぷー、と頬をふくらませてモニターに表示されたランクを見る。俺がSでみさきがAだ。 「みさきって負けず嫌いだよなー」 「えっ? そんなことないと思うけど……」 「自覚してないのかよ。もう一回だけだぞ」 「わー、凄いです、凄いです!」 「よしよしよし! 盛り上がってきた!」 俺もみさきもSランクだ。 「これってSSはないの?」 「Sが最高だな。じゃ、引き分けってことで……」 「待った! 曲のランクを上げよー」 「なんでそんなにやる気なんだよ。そのやる気を練習でも出せよ!」 結果がすぐ出るから地味な練習をするよりも楽しいのはわかるけどさ。 「そう硬いこと言わないでよ。あたしがお金を出すからさ」 「自分の分は自分で出すって。わかったから、やるって!」 「ついに、みさきちゃんの勝ちですね」 「ぶーっ。むすー」 「なぜそんな不満そうに俺を見る?」 「ちゃんと本気でやった?」 「本気でやったって」 「負けとかないとこいつはしつこいぞ、とか思ってわざと負けたんじゃないの?」 「ちゃんと本気でプレイさせていただきました」 みさきは呆れたように肩を落として、 「晶也ってこういうとこで熱くならないタイプだよねー」 「……勝ち負けとか、そういうの苦手なんだよ」 「………」 「コーチをやってる人がそんなのでいいのかな?」 「余計な心配するな。みんなの勝ち負けにはちゃんと熱くなれるよ。自分のが苦手なだけだ」 「……ふ〜ん。何かあったの?」 「話すようなことは別にないよ」 「そうですか、と」 みさきはぴょんと筐体から飛び降りると、雰囲気を変えるためか、ちょっと無理した感じで笑った。 「んじゃ、このゲームの王者は私だってことで」 「王者って。その王国には俺とみさきしか住んでないのか?」 「住人同士のもめ事が多そうだね」 「王者ならその辺も対策してくれ」 とりあえず、エンゲル係数の異様に高い国にはなりそうだ。 「さ、次は明日香のしたいゲームがあれば付き合うけど?」 「えっと……。さっきから気になっていたんですけど、あのクレーンゲームのぬいぐるみが欲しいです」 「ん? ……アレが欲しいのか?」 「あー、キモ可愛い?」 「え? 普通に可愛くないですか? ほっぺの辺りがプリティーで素敵だと思いますけど……」 明日香が見ているのは、地元のゆるキャラ、シトーくん、だ。『四島』だから『シトー』、らしい。 生理的に受け付けない、とかいう意見が多数出つつも、なれたらそれなりに可愛い気がする、というキャラクターだ。 「ここは男の子らしく、晶也ががんばって」 「また俺ががんばるのか?」 「女の子が望む獲物を狩ってくるだなんて、王子様とか王様みたいでカッコイイじゃない」 「もう王者設定捨てたんだな」 「お金は私が出しますから」 「いいよ、多分、簡単に取れるから」 「見ただけでそれがわかるなんてカッコイイ。ね? 明日香」 「は、はい。王子様っぽいと思います」 「王子様はクレーンゲームなんかしないから」 言いつつ、クレーンゲームの様子を、もう一度確認した。 「……やっぱり、いじってるよな、これ」 とりやすいように、間隔を空けて横に向きにおいてあるのだ。 ──このゲームをする人がよっぽどいないんだろうな。 この状況はそのための客寄せなんだと思う。 「んじゃ、やりますか」 「がんばってください」 ──勝ち負けか。 そういうことを真剣に考えるのがもっと後だったら……。 やめよう。今になってそんなこと考えたってしょうがない。 「今日は楽しかったです」 「だったらよかった」 「あたしはここでお別れだ」 「また明日、ですね」 「晶也……」 「ん?」 「晶也に渡したいもの……あるんだ」 「なんだよ、急に改まって」 「はい、これ……。晶也にあげる。あたしだと思って大事にしてね」 「いらん」 差し出されたシトーくんのぬいぐるみを間を置かずみさきに押し返す。 二回のプレイで四つも取れてしまったので、みさきに一つあげたのだ。 「だってこんなのあったら、呪われそうだよ」 「そんなことないです。シトーさんは優しく見守ってくれるに違いありません」 「これに優しく見守られるっていうのも怖いけど。まあ、だったら晶也だと思って大事にしとく」 「そんなもんを俺だと思うのはやめろ」 俺が呪われそうだ。 みさきはシトーくんを見て、 「じゃ、帰ろうか、晶也」 「俺の名前をつけるな! 本格的に呪われそうだ」 みさきは、あははは、と嬉しそうに笑って、 「とぶにゃん」 グラシュを起動させ、 「二人ともまた明日ね」 「はい、それでは」 「んじゃ」 みさきはひらひらと軽く手をふってから、飛んでいった。 「行っちゃいましたね」 「だな」 前の練習のことがあったので少し心配したが、いつも通りのみさきで安心した。 (しかしあいつ、自覚なかったんだな) 普段は何事にも執着しないくせに、やたらと負けず嫌いな性格。 あれだけわかりやすく態度に出ているのに、自分で意識していないのがちょっと不思議だった。 「みさきちゃん、元気そうで安心しました」 「あいつはいつも元気じゃないか」 「そうでしょうか」 「?」 「こないだの練習のあと、ちょっとだけ落ち込んでる感じだったから、それが気になってたんです」 「……へえ」 「わたしの気のせいなのかな……」 「いや、よく見てると思うよ」 「え? 晶也さんにもそう見えてたんですか?」 「ああ、でももう安心っぽいけどね」 むしろ、明日香の注意力というか、状況を意外に冷静な目で見ていることに少しだけ驚いた。 休日、遊んでるだけだったけど、思わぬ収穫だったかもしれない。 「んじゃ、俺たちも帰ろうか」 「はい、ですねっ」 明日香は、俺から受け取った二個のシトーくんを嬉しそうに掲げると、 「じゃあ帰りましょう、晶也さん」 「……だからシトーくんに向けて言わないで」 土曜日が明日香のパフェ監視業務で終わったので、日曜日はひとりで買い物に出ることにした。 ちょっと欲しい本もあったし、少し見ておきたい場所もあったし。 このところFCと部活のことばかりだったので、自分もたまには気晴らしできればと思ったのだけど。 「…………」 「…………」 ……まあ、隣同士というわけで、こういうことも普通にあるんだろうけど。 ドアを開けて互いの方を見るタイミングまで同じだと、間の悪さも含めて様々なものを呪いたくなる。 「ど、どこへ行かれるんですか?」 「い、いや別に……適当に買い物でもと思って」 「そうなんですか……」 「市ノ瀬は何をしにいくんだ?」 「え、わ、私もその、買い物でもと」 「そ、そっか、偶然だな」 「で、ですね、あはは」 「あははは」 互いにあはははと、ぎこちない笑いを浮かべる。 「じゃ、じゃあ俺そろそろ行くから」 「はい、わ、私も」 「それで、買い物ってどこへ?」 「福留島のイロンモール」 「わっ」 「わっ、って。この辺で買い物行くって、そこぐらいしか」 「……そこぐらいしか」 「ないですもんね……」 「市ノ瀬もそこで買い物、か」 「で、です」 「ぐ、偶然だな」 「……じぃ〜」 「いや、一緒になったからっていきなり警戒しなくても……」 今日は天気もよく、海の向こうの島々まで見渡せるほど、空も澄み切っていた。 『こんな日は、グラシュを履いてちょっと遠くまで出てみましょう。きっといいことありますよ!』 今朝見た情報番組でも、そんなことを言っていた。 「…………」 「…………」 (どこがいいことだ、どこが) 言う通りにしてみたら、この有様だ。 可愛い女子と一緒にお買い物、と言えば最高だけど、実際は無言のままの飛行が数分間にわたり続いている。 これでは、番組も天気にも恨み言のひとつでも言いたくなる。 ……いや、問題はそこに至るまでのあれこれで、別に番組も空も、俺たちに当てつけてるわけじゃないんだけど。 「あ、あの……」 「はい?」 「……申し訳ないのですが、きちんと宣言してもらえませんか?」 「一体何を?」 「今日こうやって日向さんと会って一緒に行動してるのは、単なる偶然であってそれ以上のことは何もないってことです」 「え、だからそれはもうさっきそう言ったじゃ」 「あ、改めてもう一回ですっ」 「わ、わかったよ」 ……宣言したからって何がどう変わるんだ。 首をかしげつつも、それで市ノ瀬の気が晴れるのならと、 「ええと、今日ここで市ノ瀬と一緒にいるのは偶然であって、行く先が一緒なのも偶然です」 「はい、そうです。偶然です」 「もうほんっとに偶然、そうじゃなければありえない」 「ですね、全然ありえないです」 「俺の方から誘うとかも考えられないし、そういう可能性自体が皆無っていうか」 「……ない、ですね」 「こんな感じでいいかな……市ノ瀬?」 「…………っ」 「……これで、いいんですよね?」 「……ま、まあ、そうですね」 市ノ瀬はジト目でこちらを見ると、 「よそ見してるともう着いちゃいますよっ」 プイッと顔を背けると、俺の方から視線を外してしまった。 「あのすみません、どうすりゃいいんですか俺は」 ……難しすぎるだろう、この問題解決。 結局、情報番組が言ってたような『いいこと』にはならなそうな雰囲気だった。 福留島にあるイロンモールは、都心にある大手スーパー、イロンの運営する巨大なショッピングモールだ。 人口が急増しているとはいえ、まだまだ田舎なこの辺にとっては、ちょっと買い物、となるとこのモールへ来ることになる。 「私は2階のサマンサエンドラに行きます」 「俺も2階のユナイテッドガンズなんだけど」 「…………っ!」 「店の場所まで俺のせいにするな、おちつけ!」 なので、休日にフラッとこの辺を歩くと、いやでも誰かに会う。 ゆえに、『内緒で付き合ってる2人』のデートスポットには、まったく向いていない。 ……今はもちろん、付き合ってるわけじゃなく、疑われるからって話なんだけど。 「……じゃあここでお別れした方がよさそうですね」 「そこまで徹底するのかよ」 「そ、それは当然ですっ」 「その……仲良くして頂いているので恐縮ですが、私たちは一応、ライバル校なので」 「それはわかってるよ」 「ですから、疑われるようなことはできるだけ慎みたいんです。ここは自宅の近くではないですし……」 「……はい」 明らかに考えすぎだと思うんだが、この子の真面目さからすれば、この感覚で正解なんだろう。 しかし、ここまでガッチガチに考えが固いと、息を抜くヒマとか無いんじゃないかと心配になる。 「私はここで少し時間を潰しますから、日向さんは先に行ってください」 「いや、俺が待ってるから、市ノ瀬が先に行くといいよ」 「こ、こんなことで気遣われても困ります。気にせず行っちゃってください」 言って、市ノ瀬は俺の後ろに回り、エスカレーターに向かって背中をグイグイ押す。 「いや、だから……」 本人はこの場をさっさと収めたいのだろうが、この行為は逆に親密度をアピールしてると思われるんじゃ……。 「どーしたんですか、早く、ほらっ」 「わ、わかったから押すな、でないと」 誰かに見られたらどうするんだ、と言ったような気がする。 それがフラグになるんじゃないかと、自分でもわかってたのだけど。 「あなた……!」 ちょうど、エスカレーターを降りてきた、見覚えのある女子が、声をかけてきた。 「日向晶也、それに市ノ瀬さんも……?!」 「あっ……!」 「せ、せんぱ……っ!」 俺も市ノ瀬も、揃って目を点にして、目の前に颯爽と立つ女子を見つめている。 その女子、佐藤……佐藤院麗子は、最初は同じように驚いた表情を浮かべていたが、 「ふ〜〜〜〜ん」 目を細くしてこちらの様子を観察すると、 「ずいぶんと、仲が良いのですわね、ふたりは」 「ち、ちがうっ!」 「ちがいますっ!」 佐藤院さんの声を受け、一瞬で飛び退く俺たち。 顔を横に振るところまで、ご丁寧に同じ動きをして否定を示す。 「さ、佐藤さんは今日は何しに来たんです?」 「佐藤院よ」 ……ああもう、チェック細かいな。 「佐藤院さんは、今日は何をしにきたんですか?」 さすがに真藤さんのようなスルー力はないので、言い直して聞いてみる。 「わたくしは様子を見に来たのですわ。そろそろ工事が終わるという話を聞いていたので」 「工事?」 「そうですわ。お父様の会社が関わっている、屋上のスカイウォールの」 「あ……」 名前を聞いて、声を漏らした。 「スカイウォール……って、何ですか?」 横で聞く市ノ瀬に、 「このモールで名物の、屋上にある展望台だよ」 「そんなものがあるんですか? 何度か来てましたが、知りませんでした」 「それは当然ですわ。市ノ瀬さんが引っ越してきてから、まだ一度も公開はされていませんから」 「一度も……?」 「ああ、三年ぐらい、ずっと工事中なんだ。俺が子供の頃は開いてたんだけど」 「仕方ありませんわね。耐震設計の見直しは時間がかかるものです」 「しかしっ!」 佐藤院さんはそこでバッと手をかざすと、 「わが佐藤グループの手にかかれば、その空の壁の名の元、素晴らしい展望台に変わることでしょう!」 そこは院がつかないんだ。 しかし佐藤院さんの実家……一体何をやってるんだ。 「ちょっと、行ってみたいですね」 「……そうだな」 ――あの展望台、また行けるようになったのか。 階上を軽く見上げ、在りし日の姿を思い浮かべる。 「残念ですが、それは叶いません」 「え、どうしてですか?」 「工事が終わるのは来月だそうです。なのでガッカリして降りてきたのですわ」 佐藤院さんは残念そうにため息をついた。 結構、楽しみにしていたのかもしれない。 「そうですか、残念です」 「だな」 ん、待てよ。 佐藤院さんの用事はそれで終わりなんだよな……? 「じゃ、佐藤院さんは今ヒマなんですか?」 「ヒマとは失礼ですわね。やることが無くなったので、色々と思索にふけっていたところですわ」 それをヒマと呼ぶんだと思うが。 「じゃ、佐藤院さんも一緒に行きますか? 俺たちも偶然一緒になったんで」 「えっ?」 「いいじゃないか、三人の方が賑やかで」 それに何より、これでややこしい関係が解消されるわけだし。 「あら、お邪魔じゃありませんの?」 「邪魔も何も。ウェルカムです」 「それじゃ、お言葉に甘えようかしら。ちょうど一人で退屈してましたの」 「わたくし、2階で買いたい物がありますの。お付き合い頂いてよろしいかしら?」 「ええ」 「では行きましょう」 佐藤院さんは完璧な仕草でさっと振り返ると、登りのエスカレーターの方へと歩いて行った。 「ひ、日向さんっ、突然何をっ」 「これで二人きりにならずに済んだじゃないか」 「で、ですけど……。佐藤院先輩は別の用事でいらしてたのに」 「今の話の流れで、このあと全員バラバラでってのも変だし、普通の提案だったと思うんだけど」 「…………」 市ノ瀬は無言で軽く頷いた。 「それじゃ、行こう。2階だったよな、確か」 「……そうですね」 「市ノ瀬……?」 「行きましょう」 市ノ瀬は佐藤院さんの後を追って、エスカレーターの方へ歩いて行った。 「……何か、まずかったか?」 答えた市ノ瀬の顔は、ホッとしたような、ちょっと残念そうな……。 なんとも言えない複雑な表情をしていた。 「むずかしい……」 首を捻りつつ、俺もその後を追った。 「っと、あれ? 市ノ瀬は?」 トイレから戻ると、市ノ瀬の姿が無かった。 佐藤院さんが一人、ちょこんとベンチに腰掛けている。 「ちょっと観たい物があるそうです。すぐ戻ると言ってましたけれど」 「そっか、じゃあここで待っていればいいですね」 佐藤院さんの隣へと座る。 「しかし、今日はいい天気ですわね」 「ええ、絶好のFC日和ですね」 「確かにそうですわね。こんな日に練習しないと、上達はほど遠……」 「っ、しまった、うっかり引っかかるところでしたわ。わたくしを貶める為に巧みな誘導尋問を……」 「……違います。単なる世間話です」 「さすがは部長の認めた男……恐ろしいですわ」 「佐藤院さん、聞いてください頼むから」 「確かに今日はいい天気で練習日和だけど、息抜きも必要でしょう?」 「それはまあ……そうですけれど」 「どうしても練習練習だと息が詰まりますし。その辺、コーチしてても難しいところです」 大会まで時間がない分、どうしても密度の濃い練習を求めるのは仕方ない。 だけど、あまりにそればかりでは、空を飛ぶことすら嫌いになってしまう。 あくまでも楽しく。それができないと、先へは行けない。 俺が一番、よくわかっているから。 「まあ、高藤からすれば、甘いと言われそ……」 「仰る通りですわ」 言いかけた台詞を、頷く佐藤院さんの言葉で打ち消された。 「フライングサーカスは全身を使う競技。疲れが溜まっていては次に繋がりませんわ」 「ましてや、作戦も重要になるとあっては、日頃から興味を向けられるよう、この競技を好きにならなくてはなりません」 「へえ……」 「あなたの仰ること……わたくしは理解します」 ……ちょっと意外だった。 さっきの反応と、高藤の規模から考えれば、佐藤院さんはもっと詰め込み練習を是とする方だと思っていたのに。 思ってもない共通点に、俺は感心と、あとは少しだけ興味を持った。 「だからこそ、心配ですわ」 「心配……? 何が?」 「市ノ瀬さんです。彼女はとにかく、根を詰めすぎるところがありますわ」 なるほど。 この辺はさすが副部長といったところだ。市ノ瀬の性格をよく見ている。 「あの真面目な性格と才能が合わされば、我が校のような名門校でも、彼女はレギュラーになれる」 「……でも、そこから先は、真面目さだけでは勝てません」 「それを超える何かを彼女が得るには、もっと柔軟に物事を考える必要があります」 「うん、同感です」 「この佐藤院のごとく、彼女も市ノ瀬院として責任を持つようになれば、更なる発展が期待できるのですが」 (それは同感しかねる) 最後のはともかく、高藤の強さの一端を、垣間見た気がした。 「まあ、あまり悩ませずに、適度に休ませつつ、この競技を心から好きになるよう、持って行けるようにしたいです」 「それが、あなたの目標なのですか?」 「いや、好きにさせるのは最低条件ですね」 一度、この世界を捨てた俺がもう一度やるからには、嫌いにだけはさせてはいけない。 それだけは、自分で固く誓ったから。 「ふぅん……」 気がつくと、佐藤院さんが俺の方をジッと見つめていた。 「ど、どうかしました?」 「いえ、なんでもありません」 「久奈浜はいいコーチを持ったようですわね」 「は……?」 「それにしても」 まとわりついてくる湿気の多い空気を払うように、佐藤院さんは手でパタパタと身体を扇いだ。 「天気が良いと言っても、この湿気には参りますわ」 「こればっかりはなあ……」 確かに、雨天はもちろんとして、戦意を削ぐこのジメジメも何とかしたいところだ。 「梅雨の時期ですから、天候を含めてコンディションには気を遣いますわ」 「……そういや梅雨で思い出した」 「何をです?」 「鳶沢っていたでしょう、あいつが……」 「ねえねえ、なんで梅雨って『つゆ』って読むか知ってる?」 「江戸の末期、雨水を椀に溜めて、梅肉を溶いて素麺のつゆにする遊びが大流行したんだって。それで」 「……なんだって」 「へ、へえ……」 「こういうことばかり言ってんですよ、あいつは」 みさきの嘘トリビアを披露して、佐藤院さんに笑ってもらおうとした。 「いい勉強になりました。礼を言います、日向晶也」 「えっ」 しかし。 佐藤院さんはなぜか誇らしげな顔をして、 「い、いやだから、これは嘘で、その」 「すみませーん、お待たせしちゃって……」 言いかけたところで、ちょうど市ノ瀬が戻ってきた。 手には何か袋を抱えている。 「これを買いに行ってました」 差し出したのは、油紙で出来た小袋に、なにやら薄茶色の固まりが複数入ったものだった。 表にはニワトリの絵が描かれていて、『ケッコーな美味しさ!』と文字が書いてある。 「これって……唐揚げ?」 「はいっ」 市ノ瀬の表情がほころぶ。 今日一番だと言っていいぐらいにニコニコしつつ、嬉しそうに唐揚げの袋を開ける。 「今日はここでお店が出てるって話を聞いて、ダッシュして買ってきたんです。本場、仲津市から来てるんですよ?」 「美味ログでも星が4つついてて、今、仇州でもフェアをやってるんです。ご主人は昔、ホテルのシェフをされていて」 「それでそれで、醤油ダレに特徴があるんですが、これはご主人が誰にも教えない秘密にしてて、だからネットでも再現できてないんです」 「そんな幻の唐揚げなんで、出店情報もあまり出て無くて。だから見つけてテンションが上が……」 一心に話し続ける市ノ瀬に、俺も佐藤院さんも、ぽかーんとして聞いている。 「あ、あ……、え、えっと!」 「と、とりあえずっ」 市ノ瀬は袋を差し出すと、 「い、1個ずついかがですか?」 と言った。 「そ、そう言うなら……」 あのいつも冷静沈着で真面目な市ノ瀬が、こんなに言うのだから、よほどおいしいのだろう。 袋からひとつ摘んで、口に入れる。 「あ……確かにうまい」 揚げたてというのもあるのだろうけど、肉汁が口いっぱいに広がって、鶏肉の旨味が染み出てきた。 これはみんなが大好きなやつだ。 「…………もぐもぐ」 佐藤院さんはそうでもないのか。 妙にしかめっ面をしながら、口をはむはむと動かしている。 「佐藤院さんはこういう庶民の食べ物は口に」 「おいしい……ですわね」 「合ってる」 佐藤院さんは、次第に表情を緩め、なにやら頷きつつ、スマホにメモをしていた。 「これは魚に変えてもいけるかしら……。早速、料理長に伝えなくては」 よくわからないが、味には満足しているらしい。 「……まあ、喜んでいるのなら良かった」 しかし、まあ。 「ああ……おいしいです。これはすごくいいです」 目の前で言葉も聞こえないというぐらいに唐揚げを頬張るこの女の子を見ていると。 さっきの『真面目すぎる』という印象も、少し変えた方がいいのかなと思ったのだった。 「今日は思わぬ出会いもあって、楽しかったですわ」 「こちらこそ」 「二人は確か、帰る方向が同じでしたわね」 「ええ、偶然です♪」 楽しげに断言する市ノ瀬。 ……まあ、そうなんだけども。 さっきの態度からして、どちらが市ノ瀬の本意なんだか。 「では、わたくしは先に失礼します」 佐藤院さんは停留所の方へ向けて歩こうとする。 その様子を見て、市ノ瀬の表情が一気に不安げなものに変わる。 「あの、先輩……。まさか、今日は飛んで帰るのですか?」 おそるおそる尋ねる市ノ瀬に、 「当然ですわ、飛んできたのですから」 佐藤院さんはさも当然とばかりに、髪を風に流しつつ答えた。 「そう……ですよね」 なぜか市ノ瀬は、夕日の中でもわかるぐらい、顔を赤くしていた。 「どうしたんだ、市ノ瀬?」 「……すぐに分かります」 消え入りそうな声でつぶやく市ノ瀬をよそに、佐藤院さんはこちらに背を向け、 「それでは、失礼します」 サッと手を挙げると、 「我が翼に、蒼の祝福を!!」 「えっ、マジで?!」 何ら照れることもなく、とんでもない起動キーを叫ぶと、 「次は戦場で会いましょう、日向晶也!」 何やら物騒な言葉を吐いて、颯爽と去っていったのだった。 後には、クスクスと笑い声の漏れる周囲と、顔を真っ赤にした俺たち二人だけが残された。 「…………」 「…………」 「……なあ、あれ」 「はい……」 「ずっと昔から、あの起動キーなのか?」 市ノ瀬は頷くと、 「生まれて最初にグラシュを履いた時から、変わってないって言ってました」 「まじか……すごいな。うちの部長なんか目じゃないな……」 佐藤院麗子。 その強さを改めて思い知った瞬間だった。 「…………」 (……なんとか、買い物も無事に済んだな) 福留島の停留所を後にして、俺と市ノ瀬の二人は、揃って久奈島を目指し飛んでいた。 行きの時は何やら不穏だった空気も、今はそうでも……。 (そうでも、ないとは……) 「…………」 そうでもないとは、言えなかった。 市ノ瀬は飛び上がってから後については、一度も口を開いていない。 怒らせるようなことはしていないので、機嫌が悪いわけではなさそうだけど……。 ひとまず、こちらから何か話しかけた方がいいのだろうか。 (何か……何か話しかけるきっかけを) 『佐藤院さんの起動音、すごかったな』 (……これはさっき散々話した) 人のうわさ話をするようで、あまり趣味のいい内容でもないし。 『唐揚げ、おいしそうに食べてたな』 (……これも違うか) 仮に本人が気にしてたら地雷になりかねない。 『こないだの練習ではありがとう』 (……これかな) 色々あったので、具体的な話になるとややこしそうだけど、ひとまずの話題としては問題なさそうだ。 「えーっと……」 言いかけた俺よりも先に、 「あの……」 市ノ瀬の方から口を開いた。 「今日は……すみません」 「えっ」 「その、二人でいるのをいやがる感じで、ずっと、偶然がどうのと言い続けてて」 「で、でも、本当は嫌とかじゃなかったんです。日向さんに変な感情とかは、なかったんです」 「なのに、行きがかりでこんな感じになって、謝りたいなってずっと思ってて」 「だからその……ごめんなさい」 「…………」 ……なんだ。 「同じ立場だったら俺もそうするよ。気にしなくていい」 「そう……ですか?」 「……ああ」 部活のこともそうだけど、市ノ瀬ぐらい真面目だと、他の生徒からの目などもやはり気になるのだろう。 それこそ、俺とは比べものにならないぐらいに。 だから、少々気にしすぎるぐらいであっても、俺がとやかく言うようなことじゃない。 「まあ、俺は今日、市ノ瀬と買い物に行けて楽しかったけど」 「そ、それはわたしもですっ」 市ノ瀬はこちらを向いて、慌てたように言った。 「あ……そうだったんだ」 「は、はい……」 そして、恥ずかしげに俯く。 ……ちょっと安心した。 まさか、本気で嫌がっているとまでは思わなかったけど、気疲れしていたらと心配はしていた。 これで、こちらもちょっと気が晴れた。 ……まあ、ともあれ。 偶然の買い物デート(?)は、いくつかの発見と結果オーライにて、締めくくられたのだった。 「あの、これ、ありがとうございました」 市ノ瀬は、さっき俺があげた人形を手に、お礼を言った。 モールでやってた福引で6等だった、おなじみシトーくん人形だ。 もう見ることもないだろうと思ったわりに、今日もまた見ることになってしまった。 呪われてる。すでに。たぶん。 「え、ああ、シトーくんか。そんな礼を言われるようなもんじゃないし」 「そんなことないです、せっかく頂いたからには、大切にしますっ」 「……まあ、好きにしてくれ」 できることなら、人形とは縁を切りたいのだけど。 「日向さんだと思うぐらいの気持ちで大切にします」 「前言撤回する。それだけはやめて」 シトーくんに俺を重ねるブームでも起きてるのか。 本気で縁が切れなくなるので、勘弁して欲しい。 「そ、それじゃ失礼します」 「あ、ああ」 市ノ瀬はぎこちなく手を振りつつ、シトーくんを大切に抱え、去っていった。 ……あの調子だと、本気でシトーくんを俺の形見ぐらいに思いかねない。 「ふーっ、なんか変な感じだったなあ、最後」 「ですよねぇ、なんだか様子が変でしたっス」 「市ノ瀬は俺と話す時に限って、どうしてこうも緊張してるのかな」 「そりゃあアレっスよ、やっぱり思うところがあってっスよ」 「そっかー、そりゃ気づかなかったな。おまえがいたのも含めてな」 「…………」 「…………」 とりあえず、黙って横を向き、つかつかと声の主に歩み寄った。 「ちょ、ちょっとコーチコーチ、そんなに顔近づけられたら、いくらわたしが報道に身を置くモノだとしても少しは動揺するってもんで、だからその」 「……どういうことだ、保坂」 「偶然っスよ偶然!」 「当たり前だ!」 俺をつけて特ダネを狙っていたのだとしたら、本気でこいつを警戒しなくてはいけない。 ……いや、むしろ今の時点で警戒レベルは最高クラスに上がったのだが。 「どこからだ」 「……へ?」 「どこから見てたと聞いているんだ」 「あ、ははは、えーと、停留所で偶然を装ってご一緒に飛ぶ所から、あとはポーンと中抜きして、お揃いで帰宅されるところまで」 「なんでそこだけなんだよ!」 頭を抱える。 よりによってこいつに見られていたとは! しかも都合の悪い部分だけ! 「あ、どうかお気になさらずっス! 【悲報】コーチ不倫現場ワロタwwww【アカン】とかタイトル付けて記事にしようとか思ってませんから!」 「やろうとしてたんだな、やろうとしてたんだろ!」 危険だ。こいつを今ここで離すのは危険すぎる。 「メモリーカード出せ」 「はい?」 「メモリーカード。記録してんだろ。おまえのことだ、写真と映像と両方あるだろ、それを全部出せ」 「それは残念ながら無駄だと思うっスよ」 「そんな言い逃れこそ無駄だ」 「あ、ちょ、コーチ、だめですって!」 言って、カメラを奪い取る。 「いったいなにを撮ったんだ……」 さっと確認する。 「えっ、そんな」 フォルダを早速開くも、中は空っぽだった。 実里はチッチッと人差し指を上に突き出して横に振ると、 「こういうこともあろうかと、撮った先から全部Wifiで飛ばしてFTPでサーバに上げることにしてるっス」 「なんでそこまで対策してるんだよ!」 頭を抱える。 「こうなったら、お前の口をふさいで……」 ジリジリと、保坂との距離を詰める。 「ちょ、ちょちょちょちょ、なんでそうなっちゃうんスか、いきなりバイオレンスに走らなくても、話し合いで解決するのが現代社会じゃないっスか!」 「それは話し合いが通用する相手に対して、だ」 「だーかーらー! やりませんって、記事にしません! ほんっとうに言いませんから、信じてください〜っ!」 ピタッと、足を止める。 「本当にか?」 「本当ですよ〜っ、第一、うちのスキャンダルなんか出したら、久奈浜の勝利が遠のくじゃないっスか〜!」 「うむむ……」 一応、保坂は久奈浜の放送部に所属している。 それなりの愛校心を持っているのなら、自校が不利になるようなことはしないだろうけど。 「……正直、信じるのは難しいな」 「そういう言葉は心の声で言って欲しかったっス」 「じゃあ、信頼できるって証拠を見せろ」 「証拠……証拠、ですか」 保坂は、ムムムと考え出すと、 「わかりました。それじゃ、独自の捜査にて判明した、謎のライバルについてお教えしましょう!」 捜査って言ったかこいつ。取材だろ、取材。 ……思わず捜査と言うぐらいに、強引な手段をとっているのだろうけど。 「なんだよ、そのライバルって」 「フフフ、まあ見ててください」 保坂は鞄からタブレットを取り出すと、パスワードを打ち込み、画像を探し出した。 「実は今回、ちょっとだけ話題になってる学校がひとつあるっス」 「高藤か?」 「あんな名門はハナから話題っスよ。そうじゃなくて、海凌学園っス」 海凌……? 昔、それこそ葵先生が選手だった頃は、それなりに強かった気もするけど、今はそんなに名前も聞かなかったはずだ。 「そこがですね、実はいい選手をひとり獲得したらしいんスよ」 「越境入学でか?」 スポーツの世界では不思議ではない話だ。 もっとも、FCの世界では、高藤で数例あるぐらいで、あまり聞かない。 「で、その謎の選手をバッチリ写した写真が、ここにあるってわけなんですね」 「ま、マジでか」 「なので、この情報をコーチに教えることで、さっきの取材の件は見逃して欲しいってことっス」 保坂は、タブレットの上でスライドさせていた指を止めると、 「ありました、これっス!」 ……なんだろう、謎の選手ってのは。 海外? いや、まさか本場の選手が、FC後進国の日本に来ることはないだろう。 だとしたら……? 様々な予想を巡らせつつ、俺は、 「謎の選手……」 画像を見た。 そして、 「いたいっ!」 「何するんスか!」 「こっちの台詞だよ! 写って無いじゃないか、全然!」 そう、言われて見せられたその画像には、 ほとんど何も写ってなかったのだった。 「こんなカタパイアとかX58に掲載されてそうな画像でどう凄いって判断するんだよ!」 「だって仕方ないじゃないですか! この写真一枚撮るのだって、ヒヤヒヤだったんスよ!」 「……どういうことだよ」 「それはつまり、学園に忍び込んで、警備を潜り抜けてきたわけでして」 ……やっぱり、相当無茶なことやってきたんだな。 捕まってどこの学校かバレたら、これこそスキャンダルになりかねないぞ! 「いやでも、この選手はマジで凄かったですよ。今までに見たことないような動きしてましたっスから」 「どんな動きだよ」 「それはちょっと言葉では上手く説明できませんね……。手振りで伝えるので、ちょっと、離れてみてもらえます?」 「……わかった」 言われるがままに、保坂と少しだけ距離をとった。 その瞬間。 「日向晶也、油断したなりっ!」 保坂の身体が、一気に10メートルぐらい離れたのだった。 「あっ、クソッ、やられた!」 こんな古典的な手法に……! 「こら、待てよっ!」 「ジャーナリズム魂は不滅っスよ〜! そんなわけで、海凌には要注意っス〜!」 保坂はそのまま逃げて行ってしまった。 「なんだよ、もう……」 海凌学園か。 あまりにノーマークではあったけれど、そうそう、注意するほどのものでもないだろう。 それに、今はそんな不確かな情報よりも、何より高藤に少しでも追いつかなければいけない。 「俺も帰るか、そろそろ」 気を取り直し、自宅の方へと身体を向けた。 空はもうすっかり暮れて、初夏の夜を辺り一面に広げていた。 そして、家に帰り着く頃には、さっき保坂から聞いた話を、ほとんど忘れてしまったのだった。 市ノ瀬&佐藤院の高藤コンビ、そして保坂との謎会合から数日後。 教室は静かな空気に満たされていた。 日頃は何かと私語もある部屋の中は、今日だけは嘘のように静まりかえっている。 (試験の空気って独特だよな、しかし) そう、今日は期末テストの日だった。 風の音と、木々が擦れる音に混じって、カリカリとシャーペンの音だけが響いている。 (みんな頑張ってるかな) チラリと、明日香やみさきの方を見て、階上にいる真白のことを思う。 前回の中間テスト。一部散々だった部員の成績により、俺は先生からひとつの命令を授かっていた。 (外に出しても恥ずかしくないよう、部員の成績向上を目指せ……か) 主にそれは、赤点に突入していた真白と、転校直後とはいえ、危ない結果の明日香に向けられていた。 その後の勉強会を経て、皆それぞれに努力はしているはず……なのだけど。 (……正直、不安だ) 特にあのちんまいやつ。 昨日も4DSの新作がどうとか、窓果に喋ってたけど、ちゃんと勉強してるのだろうか。 (とにかく) (ここを切り抜けないことには、FCがどうとかも言ってられない) あくまでもFC部の活動は学校内の話だ。 学業に悪影響が出てしまうようでは、今後の活動も速攻で赤信号が点る。 (先生からも念を押されてるからな……) 高藤のような強化校ならまだわからないが、うちみたいな一般校では、スポーツの実績を試験に加味したりなんてことはない。 まして、まだ公式戦すら戦っていないのだ。 スタートからつまずくようでは、今後もやっていけそうにない。 「はい、じゃあ十分前。名前の書き漏らしが無いようにな」 (さすがにそれは無いよな) (…………) (……真白とか大丈夫かな) 妙にリアルな心配の中、念のため俺の答案も名前のチェックをした。 試験は無事に終了した。 ……もっとも、それは書き間違いもなく、大きなミスも無かった俺の話であって、他のみんなは不明だった。 あの二人さえなんとか切り抜ければ、どうにかなるんだけど……。 そして、数日後。 各教科の答案も無事に返され、悲喜こもごもの様子が教室内にも広がっていった。 (これで全部戻ってきた、か) 最後の現国の答案を確認し、皆のことを心配する。 考えているうちに、ホームルームとなって、葵先生が教室に入ってきた。 「よーし、答案も戻ってきたし、これで期末テストも終わって、もうすぐ夏休みだ」 「みんな、終わったからと言って羽目を外しすぎないようにな。それじゃ青柳」 「はぁい、起立! 礼!」 ……さて、果たしてどういう結果になったことか。 気になりつつ、俺は席を立った。 「晶也さん!」 廊下に出るのと同時に、明日香から名前を呼ばれた。 「ふふふーっ、聞いてください、聞いていいんですよ?」 「明日香は大丈夫だな、じゃあ次」 「わあ、ひどいです! せめてちゃんと一回目の報告は聞いてくださいっ」 「つってもなあ……」 自分の方から名前を呼んできて、それで満面の笑みを見せられたら。 「もうちょっと溜めというか、まさか?! って思わせる顔をしてもよかったのにな」 「そういうの、できないんです……。すぐに顔に出ちゃうんで」 ババ抜きとか不得意なタイプか。 ……いや、勝負事すべてに関わってくるぞ、これは。 「もうちょっとポーカーフェイスの練習とかできるようになった方がいいかも」 「勉強の次は表情作りですね……がんばりますっ」 フンス、と鼻息荒く決意する明日香。 「で、見てください、この結果!」 「ほほう、どれどれ……」 明日香は嬉しそうに、複数枚の答案を広げて見せた。 「うわ、マジかこれ……!」 驚いた。 俺もそこそこ……というか、テストでは平均80点台をキープしていたが。 明日香はすべてにおいて90点台、しかも教科によっては満点まで記録していた。 「わたし、がんばりましたっ」 「いや……これは本当にがんばったんだな」 前回は転校の影響もあったとは言え、明日香の点数はそうそう褒められるような物ではなかった。 そこからここまで得点アップとは、努力もしたのだろうけど、ちょっと常識外れに思えた。 (ホント、天才なのかもな……) FCにおいて明日香が見せる、一瞬の煌めきを思い出す。 このポテンシャルを引き出せるかどうかが、俺の腕にかかっているのか。 「おっすー、なになに、みんなで発表会してんの?」 「わー、明日香先輩すごいですー!」 「ほっほー、これは明日香頑張ったね-。軒並み90点超えてるじゃない」 「はいっ、わたしやりました!」 「三人とも来たのか」 「みさきちゃんの点数、知りたい?」 「おまえのは明日香以上に結果がわかってるからいらん」 「そう言わないで見てよー。今回はそれに輪をかけてすごかったんだから」 「どうせ90点代……って、うわっ、なんだこれ」 みさきが見せた答案群には、複数の『100』の文字が躍っていた。 「平均96。古文と数学と英語で満点だから、もうちょいで半分以上満点だったんだけどね〜」 「みさきちゃんすごーい……」 「いやー、さすがにトップは譲らず、って感じね」 「化け物め……」 相変わらず、勉強なんかロクにしてないのに、とんでもない高得点を取る奴だ。 「……で、真白はどうだったんだ?」 「まあ、わたしのことはいいじゃないですか。それよりもみさき先輩の高得点について話を」 「まさか、おまえ……」 「だ、大丈夫ですよ、赤点はしっかり回避しましたから! ほら、この通り!」 真白が突きだしてきた答案を見る。 「どーですか! 見事にすり抜けてるでしょ!」 「……まあ、確かにすり抜けてはいるけど」 「まさしくすり抜けた、って感じの得点だよね」 「もー、なんですか二人とも! もっとわたしの努力の跡を認めてくださいよ〜」 「みさき先輩! 先輩なら認めてくれますよね、このわたしにしては超努力した結果!」 「うはー、ギリギリだねこりゃ」 「先輩までっ!」 「で、でも、赤点回避には違いないですよ!」 「だねー、部活の存亡にかかわらなくてひとまずは安心ってとこかな」 「いや、でもなあ」 結果が出た以上、部活のことについては心配しなくていいとは思うけど。 真白のこれからを考えれば、心配することはいくらでもある。 「そーそー、晶也は堅いんだから。いいじゃない、結果が良ければ」 「確かにそりゃそうだけどさ……」 この調子じゃ、次もスレスレか、もしくはアウトだってことにもなりかねない。 「そんな綱渡りでいいのか、真白?」 「それじゃ、期末試験突破を祝って、今日はスパーッとお祝いしましょう!」 「おまえな!」 「ま、ま。今日は開放感にひたってもいいじゃない。何かやるにしても明日からって感じなのよ、真白は」 「それ、おまえ自身の心境だろ?」 「晶也の本心だよ……あたしにはわかる、わかってあげられる、だから安心して」 「ベテランのカウンセラーみたいな顔するな。俺はそんなこと思っちゃいないからな」 「今日はわたしもみさきの意見に賛成かな」 「お、おい、窓果」 「息抜きもたまにはいいでしょ、コーチ?」 ……まあ、引っかかってたのは真白の話だけだし。 試験明けで、少し休みを入れるタイミングではあった。 「わかった、じゃあ部活は明日からな」 「おしっ、じゃあお菓子持ち寄って女子会やろう!」 「わーい! やりましょうやりましょう!」 「いいね、じゃあ市ノ瀬ちゃんも呼んで。女子会だから当然晶也はアウトね」 「別にいいよ、それは」 「あ、でもいつもやってるみたいに女装してくれたら、特別に参加させてあげてもいいけど」 「呼吸するように嘘をつくな!」 「晶也さん、それずるいです! わたしも見たいです!」 「だからしてないって。みさきの適当な嘘に惑わされるな」 「センパイはさっきわたしに厳しかったから、いくら女装しても混ぜてあげませんよ」 「自然と女装キャラに持って行くな!」 女子連中は色々好き勝手に話しつつ、そのまま部室の方へと去っていった。 「今日はおとなしく帰るか」 部室に行けないんじゃ、特にやることも……。 「うおおおっ、日向!」 「うわっ、部長」 部長はいつも通りの暑苦しい笑顔を向けると、 「赤点は回避したぞ!」 そう言って、真白以上にスレスレの答案を俺に差し出してきた。 「……部長、ホントにやばかったんですね」 「そうか?」 「そうですよ! 古文・数学・英語の三教科で40点ギリギリじゃないですか」 奇しくも狙ったかのように、みさきが満点を取った教科でたたき出していた。 「結果がオーライならそれでいいじゃないか!」 「その言葉、あんまり部員の前で言っちゃダメですよ」 みさき辺りが聞くと、またサボりぐせが加速しそうだ。 「で、あいつらはどこだ? もう部室に向かったのか?」 「ああ、それなんですが……」 部長に、経緯を説明した。 「うおおっ、そうかそうか。時には休息も必要だからな」 「はい、なので今日はこれでかいさ……」 「よっしゃ、ならばこちらは男子会だ!」 「なんでそうなるんですか!」 二人しかいないのに男子会だと? 別に部長のことを嫌ってるわけじゃないが、二人で濃密な時間とか気がおかしくなりそうだ! 「いいじゃないか、たまには部活を離れて、互いに内面を打ち明けるのも大切なことだぞ」 「いいです、遠慮しておきます」 帰ろうとした首根っこを、部長の強い腕力で捕まれる。 「ガハハハ、気にするな! 全部オレがおごってやるから!」 「そんなことを気にしてるんじゃないですから! 離してください! 部長!!」 「はー……」 まるでアルコールでも飲んだかのように、フラフラする足取りで停留所に降り立つ。 もちろん、一滴すら飲んでいない。身体を強く揺さぶられたのが原因だ。 「部長のせいでひどい目にあった。なんだあの絡み方……」 「うおおお、わかるか、わかるだろう日向よ!!!」 「わかります、わかりましたから、お願いですから肩を持って振らないでください!」 「あの、お客様、他のお客様の迷惑になりますので、大きなお声は……」 「ご、ごめんなさいっ、すぐにおとなしくさせますので」 「うおおおおおーっ!!!」 「頼むから俺の言うことを聞いてください、部長!!」 「……あれで正真正銘の素面なんだから、もしお酒飲んだりしたらどうなっちゃうんだ、部長」 レスラーとか力士が大酒を飲んだ時の武勇伝を思い浮かべる。 なまじ部長はガタイもいいし、その列伝の中に並んでもおかしくなさそうだ。 「いいや、もう帰ろ……ん?」 後方に気配を感じた。 振り返るとそこには、こちらに向けて飛んできている誰かがいた。 「市ノ瀬……?」 いや、今日はうちの女子会に巻き込まれてるから、一人で飛んでるのは考えられない。 飛行形態のキレイさから言うと彼女だけど、どうもそうではないようだった。 誰だろう。どこかのインストラクターだろうか。 やがて、顔が判別できるぐらいに、その子はこちらに近づいて来た。 背はそんなに高くなかったが、ピンと伸ばした背筋のおかげで、ずっと高く見える。 それよりも、澄んだ銀色の髪と、透明感のある顔立ちが強く印象に残った。 「外国の……子?」 「……ではないか」 雰囲気から一瞬そうかと思ったけれど、よくよく見れば日本人の顔だった。 しかし、凛とした佇まいからは、どこか日本人ばなれしたものを感じる。 しばしその姿に見とれていると、女の子はスッと降り立って、こちらを見た。 「……何か?」 ……しまった、見てたのに気づかれた。 別に悪いことをしてたわけじゃないが、どうにも気まずい。 「あ、いえ、ごめんなさい。ちょっと知り合いと似てたもので」 なんとも下手な言い訳をする。 「……似てた? 私と……?」 「いや、その……」 「あなたも……似てる」 「えっ?」 「……なんでもない」 女の子はそれだけをポツリと喋ると、特に何を言うでもなく、去っていった。 「……似てた?」 なんだったんだろう。 こちらは単なる言い訳のつもりだったのに、妙なところから会話が広がってしまった。 「……まあ、広がったって言っても二言ぐらいなものだけど」 自分の顔について、すごく特徴があるとは思っていないけど。 他人の空似ぐらい、そう気にするようなことではない。 「……だけど」 女の子が去っていった方を見る。 「なんか、気になるな」 何かを思い出そうにも、もう女の子の姿はここには無かった。 仕方なく、俺は家の方へと足を向ける。 頭のどこかで、何か引っかかるものを感じながら。 それぞれが思い思いの休日を過ごした、その翌日。 テストの件も無事終了し、部活再開となったのだけど……。 「えっと、明日はみんな水着を持ってくるように。以上」 最初にそう言った瞬間、 案の定というか、全員からすごい顔をされた。 「いやまあ、そりゃ晶也も男だからね」 「いつか、こういうこともあるのかなって思ってたけど」 「期末テストも終わったし、次は身体測定だ〜って感じ?」 「ひぃ〜、発想が既に懲役ものだよ」 「まあ、こんなにストレートにセクハラしてくるとは思いませんでしたね、正直」 「ま、晶也さん……」 「みんな諦めない諦めない。あと明日香悲しまない」 ……ここまで信頼度が低いと、誤解される危険性のあることは何も言えなくなるぞ。 「だって、水泳部でもないのに、いきなり水着って言われたら疑うんじゃないの、普通は」 「すごいブラック企業でありそうだよね、今日は水着で営業だ! とか」 「センパイが何の商売を始めたのか知りませんが、わたしはそんな物の売り方、間違ってると思いますっ」 「みんな想像力豊かだな、しかし」 どこから突っ込むかも迷うレベルでな。 「わ、わたし、ちょっとぐらいならがんばります」 「がんばるのか?!」 明日香には一度、詐欺とか勧誘とかの注意をした方がいいな……。 「海で?」 「部活を?」 「する?」 「良い感じで分散してくれてありがとう」 そう。 明日はちょっと特殊な練習内容のため、場所を変えることになったのだ。 その際、水に濡れることが前提になるので、水着着用の話をした。 本当にそれだけなのに! 「でも、一体それで何をするわけ?」 「それは、行ってから説明するよ」 「日向くんが説明するの?」 「いや、ちょっと別に教えてくれる人を呼んでる」 「誰が待ってるんでしょうか」 「実演販売の名人とか……」 「いいかげん商売から離れろよ!」 そして翌日。 疑惑も無事に晴れたので、全員が水着着用の元、部活は開始されたのだった。 「おー。これが晶也のハーレムか」 「気持ち悪いこと言わないでください。ちゃんと俺以外の男もいます。部長!」 「おー、今日の指導員って、店長さんだったのか」 「ふむふむ、なるほど。こういうタイプのマッチョが一人いると、ハーレムに刺激があっていいよね」 「そのわけのわからない妄想から離れてください」 白瀬さんは部長をなめるように見つめて、 「ふむっ。……キミ、なかなかいい筋肉してるね。特に体の奥の方が鍛えられてるんじゃないか」 「むっ。俺の鍛えに鍛え上げたインナーマッスルに気づくとは……やりますね」 「ちょっとさわってもいいかな?」 「おうっ! 存分にさわってもらってかまいません!」 「ふむっ……」 「むふっ。んむっ……」 「ふーむ。んっ、んんっ。ここらへんどう痛くない?」 「おうっ、んくっ。……少し痛い感じがするが我慢できないほどじゃない」 「だったらこう動かせば楽になるかな? どう、ちょっと気持ちいい感じしない?」 「おっ、おふっ。……そ、そこはなかなか気持ちいいかも」 あんまり見たくない光景が繰り広げられてるな……。出すとこに出したら金が取れるかもしれないけど。 「広背筋をちょっと鍛えすぎじゃないかな? 腹筋の方とのバランスを考えないと体が歪むよ」 「そういえば最近、腹筋の方をしっかりいじめてなかったな。見る目があるな、白瀬さん!」 「トレーニング機材とプロテインもウチで取り扱ってるよ」 「頼もしい!」 「ふふふっ。キミの小胸筋、鍛えてみたいな」 二人は見詰め合ったまま、がちっ、と握手を決める。 ──だからなんなんだよ、これ。 「おーい! みんな集合だ!」 波打ち際でパシャパシャと遊んでいた女子集団に声をかける。 「はーいっ」 「はーいっ」 「はーいっ」 「はーいっ」 ……しかしまあ、確かに学校指定のとは言わなかったが、皆見事に私用の水着でやってくるとは。真白が着ているスクール水着なんて久奈浜のじゃないし、一体、どうなってるんだ……。 「あっ、グラシュのお店の……」 「白瀬さんだねー」 「よく覚えていてくれたね」 「店の名前に『白瀬』って付いてるじゃないですか。みさき先輩が特別な好意をもっていたみたいに言わないでください」 「教えに来てくれた人に無闇に噛みつくんじゃない」 「はぁい。で、今日はどうして白瀬さんを呼んだんですか?」 「今日はもしもの事故の時の訓練をするために、わざわざ来てもらったんだ」 「やー。みんな元気かなー。白瀬のお兄さんがやってきたよー」 「……お兄さん」 「なかなかふてぶてしいですね」 「ぬかしおるわ、って感じかな?」 「で、でも……えっと。まだ年齢的にはお兄さんで大丈夫じゃないかと、はい」 「けっこうギリギリかなあ……いや、難しいかもね」 「そ、そうかな?」 「自称というか、自傷ですよね」 「そ、そんなことないんじゃないかな? 自分で言うのはオッケーだと思いますよ、うん」 「あーすーか、フォローになってない、なってないから」 「ええっ、ご、ごめんなさいっ」 「あはははははっ。若い女の子にこういうこと言われるのってとっても素敵だよね?」 「だよね? って俺の顔を見ながら同意を求めないでください」 白瀬さんは遠い目をして、 「キミも少し年を取ればこの快感を理解できるさ」 「へ、変態だ!」 「みさき先輩の綺麗な目が汚されるので帰ってください!」 「事故防止の訓練のために来てくれた人を帰そうとするな」 「わたし達の前に変態がいるとこの先事故が起こるかもしれませんよ!」 「白瀬さんが変態かどうかはさておき、あんまり失礼なこと言うなよ」 「いやいや、失礼じゃないよ。もっときつく罵ってくれていいんだよ」 みさきはビシッと手を上げて、 「はい! そういう変態キャラを演じて、少しでも女の子と会話しようと努力しているとこが悪い意味で気持ち悪いと思いますっ」 「あはははははっ。……それは悪い意味で傷ついたな。あはははははっ。……ははははっ」 「……ねえ、帰っていいかな?」 「お願いですから素で落ち込まないでください。今日は事故が起こった時の対処法を教えてもらう約束です」 「……はあ」 「本気で落ち込んでないで続けて説明してくださいよ! みさき、責任をとってお兄さんって呼んでやれ」 「みさき先輩にふしだらなことをさせるつもりですか!」 「別にふしだらではないだろ!」 「はいはい、もうわかったってば〜。……ん、んー。こほん。白瀬お兄さん、今日はよろしくお願いします」 「お、お兄さん……お兄さんか、あははははっ。んじゃ、さっそく始めようか!」 「……立ち直り早いですね」 「想像してたよりずっと嬉しいね!」 ……いつまでこのノリを続けるつもりなんだ、この人は。 「はいはい。わかりましたから本題に入りましょう」 ボケ倒しの流れが止まないので、手を叩いて無理矢理変えることにした。 「スカイスポーツをする人は、一応、年に一度の安全教室に通うことを義務付けられてるんだよ」 「安全教室ですか」 「グラシュの安全性が今より低かった頃の名残だね。昔は飛行中に出力が落ちたり、停止してしまったり、という事故があったんだ」 「……飛行中に停止?」 「落下して頭をカチ割って死亡あるのみか……」 「私、そんな怖ろしいものをはいていたんですか?」 「昔でもそう滅多に死亡事故はなかったよ。ほら、靴は左右そろって一足だろ? 反重力を発生させる機械の特性ってなんだった?」 「えっと……。ん〜、わかりません!」 「わかれよ!」 「わからないものはしょうがないじゃありませんか!」 「真白もみさきの言うことをなんでも肯定するんじゃない」 「う〜っ……」 ……まるで俺が悪いみたいな流れになってるな。 「あの〜。一つの機械でも二つの機械でも能力が変わらない、という所でしょうか?」 「正解。一つは片方が壊れた時のための予備なんだ。でも、まあ、ほぼ起こらないけど二つ同時に壊れるということもある」 「可能性とか言ってたらなんでもありそうですけどねー」 「それに試合のユニホームは救命胴衣の役目もあるから、大変なことになる、というのはまずないけど……。万が一という事だってある」 「その時にキミ達の命を救うのはキミ達自身なのだ!」 「お〜」 「というわけで、今日は海への落下訓練をします」 「なるほど、それで今日はみんな水着なんですね〜」 「やっと納得がいきました」 「今の今まで、晶也への疑念が拭いきれなかったからね」 「普段の俺の信頼度をもう少し上げてくれ」 「ほら、そこは『変態の仲間は変態』的な感じで」 「…………」 「ああもう、また落ち込まないでください! みさきも余計なこと言うなよ」 「は〜い、ごめんなさーい」 ……反省してねえ、こいつ。 「……で、白瀬さん、続きお願いします」 「あ、ああ、大丈夫だよ、うん」 「その、落下訓練って、具体的にどういうことをするんですか?」 「2メートルくらいの高さで、グラシュを解除して海に落下するのさ」 「ちょっと怖いですね」 「大丈夫。下では僕と晶也が待機してるから、溺れる心配はない。深さも、僕の胸くらいまでのとこにするから」 「……ん? でもグラシュを空中で解除することってできるんですか?」 「あ、ですです。地面の近くじゃないと解除できないようになっているのでは?」 「事故や自殺を防ぐためにそうなってるけど、国の認可を得た人は解除コードを知ってるんだ。というわけで、みんなのグラシュを解除するから気をつけてね」 「国からの認可ですか。白瀬さんは凄い人なんですね!」 「そうでもないよ。スカイスポーツの店を経営してる人はみんな持ってる。じゃ、みんな靴を出して」 「これでよし、と。解除コードは『フォール』だから、変な場所で言わないように。普通に危ないからね」 「わかりました」 「は〜い」 「訓練の方法だけど落下地点に垂直に立って、そこで『フォール』。落下姿勢にはいろいろあるんだけど、足から垂直に落ちるように」 「これが体へのダメージが一番少ないからね。で、気をつけるのはお尻の穴をキュッと閉じること」 「へ、変態だ!」 「そう思うかもだけど、これは変態じゃないんだ。落ちた時に勢いがあって、お尻を閉めてないと、肛門から水が入ったりすることがある」 「もしそんなことになったら、結構切ない気持ちになりそうだね〜」 「確かに……。自分が生きている意味とかについて深く考えちゃうかも」 「うっ。……し、しっかり力を入れます」 「それと股間を両手でしっかりと覆うこと」 「セクハラ的な質問になるかもしれませんが、男が覆うのはわかりますよ。急所だから。女子も同じなんですか?」 「足から垂直に入水した時に水と激しくぶつかるのは、股間なんだ。急所とか関係なく、単純に痛い」 「痛いのは嫌だな〜」 「嫌だったらしっかりと両手で覆うこと。わかったね」 「それと、これこそセクハラ発言になるんだけど……」 「そう思うなら言わなければいいのに……」 「僕だってあまり言いたくないんだけど大切なことだからね。肛門に水が入るって話をしたけど、女の子の場合は他にも、その……穴があるでしょ?」 「うっ」 「いきなり保健体育の時間?」 「つまりその女の子の……晶也、続きを」 「えっ、俺が?!」 「僕が言うとまた変態扱いされるからね。今度こそは心が完全に折れるかもしれない……」 ……面倒くさい人だ! 「あ、そ、その、処女膜が……」 「晶也、いやらしい!」 「エッチです! 女の子の前でそんなこと言うなんて変態です」 「うるさいな! つまり落下の水圧で、そこが傷ついちゃうかもしれないから、気をつけろってことだよ」 「晶也はエッチだなー」 「こんなタイミングで裏切らないでください! と、とにかく、みんなちゃんと股間を両手で覆うように」 「初めての相手が大海原っていうのは、さすがにロマンがありすぎだよね〜」 「……ロマンなの、それ?」 「海の男、的な……」 こいつは一度、痛い目を見た方が良さそうだな。 「し、しっかり両手でガードします」 「わ、わたしも!」 「さて、それじゃ、姿勢を教えるから、僕の真似をするように。これは自分の命を守るためなんだから真面目にやってね」 みんなが空に浮かんでいるのを見ながら、俺と白瀬さんと窓果は腰で海水をかきわけて沖へ向かう。 「よし。じゃ、ここらへんでいいかな」 「怪我とか溺れるとか、そういうことがない限り、二人は女子部員の介助をしないようにね」 「わかってるって」 「本当にわかってるのかなー。そういうことがきっかけで、部が崩壊したりするんだよ?」 ──さすがにそこまでのことはないだろ。 でも反論したら面倒なことになりそうだから黙ってることにした。 「で、さ、ちょっと聞きたいんだけど」 「なあに?」 「なんでお前まで水着着てんの……うわっぶ!」 「なんでお前まで水着着てんの…… うわっぶ!」 質問の途中でタオルを顔に引っかけられた。 「……この状況でわたしだけ制服とかありえないでしょ」 「別にいいだろ、マネージャーなんだから」 「マネージャーだって必死なんだよ!」 「はあ……?」 よくわからないが、まあいい。 部員と同じ気持ちを味わうのがマネージャーとか、そういうことなのだろう、ということにしておく。 「最初は誰から始めようか」 「部長の俺が先陣を切るぜ!」 「了解。いつでもオッケーだよ」 部長が足を閉じ、股間を両手で覆ってから、 「フォール!」 ぶんっ、と風を切って落下し、すぐに水しぶきが跳ね上がった。 「うわわっ?」 「うひゃ〜。解除されたから当然なんだけど、唐突に落ちるんだね」 「こ、怖いですね」 「兄ちゃん、大丈夫?」 「案ずるな、妹よ。こんなのなんともないぜ」 「うん。今のでいいと思うよ。わりと真っ直ぐに足から入水できていたしね。やっぱり筋肉があるからかな? 姿勢が綺麗だったよ」 「筋肉の道は全ての道を征服しますからね」 「一理あるね。……ちょっとその上腕二頭筋をさわってもいいかな?」 「そういうのは後からにしてください」 「残念だけどそうしようか。んじゃ、次は誰にする?」 「わ、わたしが行ってもいいですか?」 「おおおっ? 真白、勇気ある!」 「怖いことは先にすませてしまいたいタイプなんです」 「気をつけてくださいね」 「失敗したら、海が彼氏になっちゃうよ?」 「し、失敗しません」 「みさき、余計なことを言うな。この高さだったらどんな失敗してもそんなことにはならない」 「あんまり緊張しないように。無理かもしれないけどリラックスして」 「真白ちゃん。深呼吸ですよ」 「そ、そうですね。……すぅぅぅ。はぁぁぁ。では、行きます!」 「がんばれ〜」 「はぁ……フォール!」 すとん、と真白が真っ直ぐに落ちてくる。 とぷん、と音を立てて水が少し飛び散る。 「おお〜。綺麗に落ちたね。どこも痛くないでしょう?」 「はい。全然、大丈夫です。むしろ、ちょっとおもしろかったくらいで」 「安全だってわかったらおもしろくなるもんだよね〜。遊園地の遊具にも落下の要素があるの多いし」 「みさき先輩、明日香先輩。何も問題ありませんよ〜。わたしが自分の体でそれを証明しました!」 「真白がそう言うなら。じゃ、次はあたしが行くね?」 「はい、どうぞ」 「受けを狙って変な姿勢で落ちるなよ。これは安全訓練なんだからな」 「言われなくてもわかってるって」 みさきは両足を伸ばして、股間を両手で覆って、 「フォール、と」 「きゃっ?」 「うわっ? 目に水が入りました」 部長や真白の時より大きく水飛沫が上がったのだ。 「あれ? 入水の時はそんなに乱れてなかったと思うんだけどね」 「いたたたた……」 みさきが顔を軽く苦痛にゆがめる。 「え? 痛いのか?」 「どこが痛いんです?」 「もしかして足をくじいちゃったりとか?」 「いや、そうじゃなくて……その。……えっと、ね?」 「隠すようなことじゃないだろ? 訓練なんだから直せるとこは直していかないと」 「だ、だから……その。えっと……。痛かったのは……」 みさきはイライラするようにパンパンと両手で水面を叩いて、 「……その。胸が……。胸が痛かったの!」 「あーっ、あ〜。……うん」 「え? きゃっ?! み、見比べないでください! 変態の上にセクハラですよ!」 「違うって! 邪心はなかった!」 「あってもなくても一緒です! 引っ掛かりがないから綺麗に水に入れたんだなって、そういう納得されたくありません!」 「まあまあ、そこが真白の可愛いポイントだよ〜」 「うー! まあ、可愛いならいいですけど!」 「そこはあっさり納得するんだ」 「みさき先輩が大きすぎるんです! そ、そこが可愛いんですけど!」 「あはははっ、相思相愛だね」 「愛って言葉が入ってるのが重いなー」 「今度、先輩が降りる時は、私がしっかりと下から押さえておきますから!」 「二人同時に落下するってそんな状況、まずありえないだろ……」 「まー、着水の状況によっては、胸が痛いってこともあるかもしれないね。ぐっと胸をはって背筋をそらせば軽減できるかもしれないけど」 「けど?」 「咄嗟の状況でそこまではできないでしょ? そこは我慢して、足からの入水を気をつけて、股間を守ったほうがいいかな」 「は〜。しょうがないのかー。まあ、でもそこまで痛かったわけじゃないし……。明日香ー! 明日香もきっと痛いよ」 「こ、怖いこと言わないでくださいっ」 「二人ともそんなこと言って! なんですか、これ! 差別ですか?」 「そんなことないってば」 「うう〜。怖くなってきましたー」 「胸を張って背筋をそらして入水すれば軽減できるかもってさ」 「……わ、わかりました」 「あたしが思うに、明日香のは千切れるね……」 「怖すぎますっ! そんな冗談言わないでください〜」 「あはははっ。大丈夫大丈夫。ちょっと痛かっただけだから」 「あはははっ……胸の大きい人たちの会話は痛快です……」 「真白の心の傷が深くなる前に落ちるんだ、明日香」 「べ、別に傷ついてなんかいません!」 「じゃあ明日香の番だ」 「は、はい、背すじをそらして……じゃ、落ちます。ふぉ、フォール!」 「……え?」 「わ?」 背筋をそらすことに集中しすぎたせいか、明日香の体が水面と垂直ではなく背中の方に──。 つまり、俺の方へと流れてきた。 咄嗟に避けようとしたが、水の抵抗が大きい。 変にぶつかるくらいなら受け止めた方が……。 「きゃあぁあぁぁぁっ!」 「ぐっ!」 「晶也?!」 「わわわっ!」 明日香を受け止めた状態でそのままぶくぶくと水没する。 ──やっ、と。 ぐぐっ、と膝と腰に力を入れて、 「ぷはっ」 「ふひゃ」 明日香を後ろから抱き起こすようにして立ち上がる。 「危ない落ち方をしたね。二人とも大丈夫?」 「俺は大丈夫ですけど、明日香は?」 「わ、私は平気です。スミマセン。受け止めてくれてありがとうございます」 「お互いに怪我はなかったみたいだからいいって」 「それで……あの──。あの、コーチの手……」 俺の両手が明日香の胸に……食い込んでいた。 「う、うわ。ご、ごめん!」 俺は慌てて手を離す。 「うわっ、ベタベタ……」 「狙ってましたね」 「咄嗟に狙えるわけないだろ!」 「そういうことの積み重ねで部は崩壊するんだよ?」 「こんなことを積み重ねるかよ!!」 「そうか、これが晶也ハーレムか……」 「だから!」 「日向、俺の大胸筋もさわっていいんだぜ」 「頬を赤らめながらそんなこと言わないでください!」 「はいはい。この話はこれでお終い。訓練はまだ続けないとダメなんですよね?」 「体に覚えさせる必要があるからね」 「じゃ、とっとと次に行こ〜」 頼りになるマネージャーだ! 窓果は俺に近づいて囁く。 「……ちゃんと感謝しておいてね」 訂正。 頼りになる、怖いマネージャーだ。 「ごめんなさい。私のせいで変なことになっちゃって」 「いや、気にしてないからいいって」 「むしろ、感謝してるくらいだよね〜」 「感謝はしてない!」 ……本当はしてるけど、絶対に口にはできない……。 「いいから、ほら。訓練を続けるぞ!」 「……晶也センパイの頭めがけて垂直に落ちたら、頚椎を折ることできますかね?」 「なんでそんな怖いことを想像する必要がある」 「わたしの胸をさわった時は報復するぞ、というのを覚えておいてもらおうかと」 「さわりたくてさわったわけじゃない! いいからほら、訓練に戻れ戻れ」 途中、思わぬハプニングもあったけれど、無事に訓練は行われたのだった。 ……窓果からは、ちょこちょことプレッシャーまがいの視線を向けられたけど。 「よし、じゃあ事故防止の訓練はこれで終了だ」 「はーい、お疲れ様でしたー!」 「白瀬さん、ありがとうございましたー」 「いえいえ。これを機にうちの店もまたご贔屓にね」 「最後だけまともなのがちょっと怪しいです」 「最後ぐらいは信頼してよ」 「経緯から考えてそれは図々しいです、白瀬さん」 ……あれ? そういやみさきはどこに行ったんだ? もう帰っちゃったのか? 「あ、もう終わりの挨拶中? 間に合ってよかった〜」 噂をすれば。 みさきはこちらに向けて戻ってくるところだった。 「晶也、これで今日の練習はお開きだよね?」 「ああ、みんな戻って着替えていいぞ……って、お前、なんだその手に持ってるの」 みさきの手には、何やら物騒な武器が握られていた。 「なにって、TEC-9だけど」 「名前が聞きたいんじゃない」 「スウェーデンのイントラテックが設計して出来た軍用向けサブマシンガン。80年代にアメリカのギャングが使い始めて、映画にもよく出てくるよ」 「そうじゃなくて! なんで水鉄砲なんか持ってるんだよ」 「そりゃもう、こうするからに決まってるじゃない♪」 みさきは楽しそうに言うと、 「はい、窓果はこれ。スターリング」 「え?」 「明日香はこれね。AK47」 「は、はいっ?」 「真白はちっこいからウージーで」 「先輩が勧めてくださるのならなんでも! ……でもこれ、なんなんですか?」 「それはこれから教えてあげる。はーい、それじゃみんな、空に浮かんで〜」 女子陣がみんな、みさきの言うとおりに空へと浮かび上がると。 「それじゃ今から、突発的水鉄砲サバゲ大会を行いまーす!」 「くらえーっ! おりゃーっ!!」 「うわああっ、いきなりなにすんのよみさきっ! お返ししてやるからっ!!」 「わ、うわあ、ちょっ、胸、胸狙うのなしっ、んっ……」 「そうやって悩ましげな声出したところでわたしは女だーっ! それーっ!」 「チッ、そうだった……。んじゃお返しだ、えーいっ!!」 「ひゃぁんっ、やだもう、狙ってるでしょ、ちょっと!」 「先輩! わたしも狙ってくださいっ!」 「えっ、あ、んじゃ、はいっ」 「キャーッ! くすぐったい、くすぐったいけどご褒美ですっ!」 「真白のはちょっとマジっぽいなー、こわいなー」 「あ、あの、もう始まってるんです……?」 「あったりまえよー、ほーら明日香も、えーいっ!!」 「えっ、えっ、わ、きゃああーっ! み、水が胸に、当たってますっ……、んっ……!」 「こらぁ晶也! 何ガン見してる!!」 「してねえよ!」 「先輩、これは記憶します!」 「するな!」 「じゃ、じゃあお返しですよっ、それぇっ!!」 「えっ……ひゃ、ひゃあんっ! あ、明日香、さすがに大切なとこ狙うのは、ナシで……」 「ね、狙ってるわけじゃないんです〜っ!」 「ほーら真白っち、手がお留守ですよ〜」 「えっ、って、わああっ、く、くすぐったいです、青柳先輩〜っ!」 ……なんだこれは。 さっきまで真面目にやってた練習のはずが、みさきの持ってきたオモチャのせいで、一気に緊張感が無くなった。 「うおお、なんか面白そうなことをしてるな!」 「部長まで混ざらないでくださいね。もっとも、窓果が止めると思いますけど」 「うりゃうりゃーっ!」 「もっと、もっと撃ってくださいーっ!」 「わ、わたしも負けませんからーっ!」 「覚悟しなさい、みさきぃっ!」 ……あきれるぐらいに楽しそうだな、しかし。 「ひどいな、もう。すみません」 ひとまず、白瀬さんに謝る。 「いいじゃないか、楽しそうで。それにこれなら、FCの練習と言えなくもない」 「ですね、一応は……」 上下左右に飛び回り、水を掛け合い避け合うのは、ドッグファイトの練習とも言える。 当然みさきは、そんな意図なんか一切無いんだろうけど。 「まあ、それに」 白瀬さんの顔が、真面目なものになっていた。 「……晶也が楽しそうにやってるみたいで安心したよ」 「安心?」 「いや、もっと暗い生活してるんじゃないかと思ってさ」 そう思ったのは──。俺が挫折したことを白瀬さんも知っているからだろう。 「……俺、選手には戻りませんよ」 「好きにすればいいさ」 白瀬さんはそう言って、少しだけ笑った。 ……こうして。 夏の大会に向け、俺たちは練習と、少しだけ練習じゃない物も含め、繰り返してきた。 そうしている間にも時間は流れ、ついに大会を目前に控えるところまで来た。 「というわけで、夏の大会まであと一週間を切った」 部員たちを見回し、言う。 「そこで、だ」 「試合勘を養うためにも、ここで本番に近い形での練習試合をみんなでしようと思うんだ」 「確かに、そろそろそういうこともしておいた方がいいかもね」 「わ〜い! 試合大好き! 基礎練習嫌い!」 「ダメすぎる発言、ありがとうな」 「ぬぅ! 本番を想定した試合か! 今年の夏は燃えるぜ!」 「でもセコンドはどうするんですか?」 「平等にセコンドなしだと、本番っぽくないですよね?」 「ん〜。片方だけがセコンドありっていうのも変だし、だからって両方のを同時にやるっていうのも変だよね」 「窓果ちゃんがするというのは?」 「練習試合をするなら、わたしは審判するから無理だよ」 「その心配はしなくていいぞ」 「わかった。晶也が分裂するんだ?」 「そんなアメーバみたいな特殊技能は持ってない」 冗談を受け流すと、 「セコンドは葵さんにお願いしている」 「各務先生かー。……各務先生のセコンドって怖そうじゃありません?」 「ちょ、ちょっと思いますね」 「冷笑とかされそうだよね?」 「んなことないって。試合展開に関係なく淡々と的確な指示を出すタイプだよ」 「晶也さんは出されたことあるんですか?」 「え? まあ、昔のことだよ」 「そ、そうですよね」 明日香が慌てて場を取り繕う。 別に明日香が悪いわけじゃないのに、変な空気、出しちゃったかな……。 「俺と葵さんのどっちがセコンドするかは、試合ごとにジャンケンか何かで決める」 「……それしかないですよね」 「で、どういう組み合わせで試合をするつもりだ?」 「この人数ですから、総当たりでいいでしょう」 「よーし! さっそく試合開始だ!」 「落ち着け」 普段の練習でも、そのくらい気合を入れてくれればいいんだけどな。 「曰く、試合は早くすればするほどいい」 「でたらめな格言を作るな。ウォーミングアップをしてからじゃないと、体が動かないだろ」 「ウォーミングアップなんかしたら、試合途中で疲れちゃうって」 「それ、わたしも同感です」 ……こいつら。 「二人とも徹底的に基礎体力を鍛えるとこから始めた方がいいな。いいから、ほら。まずはフィールドフライからだ」 総当たりの練習試合が終わり、みんなが先生の前に整列する。 「お疲れ様。短い練習期間だったけど、みんな成長したな」 「今日はありがとうございました、先生」 「晶也もちゃんとコーチできたようだな。これなら上位も狙えるかもしれない」 「ほ、本当ですか?」 「かもしれない、だ。ま、大会をベストコンディションで迎えるためにも、無茶な練習はしないようにな」 たしかに、ここで怪我をしちゃ意味がない。 「ちょっとの無茶もしちゃダメですか? 私、大会までにもっともっとたくさん練習したいです!」 「ダメだよ、あせっちゃ。怪我したら元も子も無いだろう」 「でも……」 練習試合、明日香は全敗だった。 まだ慣れていないとは言え、みさきや部長はおろか、真白にまで負けた。 まあそれだけに、あせりが来ているのだろう。 「大会までに体調を整えるのも強くなるコツだぞ? 普通の練習をするな、と言っているわけじゃないんだ。ハードな練習はするな、と言っているんだ」 「はい……」 明日香が納得いかないようにうつむく。 「………。……わかった。そこまで思いが強いなら好きなだけ練習すればいい」 「え? いいんですか?」 「いいよ」 「は、はい!」 「いいよ、ってそんなこと気軽に言っていいんですか?」 「次の大会のためだけに練習してるわけじゃないんだ」 「それはそうですけど……」 「本人のやる気を尊重した方がいいだろう? それに、滅茶苦茶練習したくなる時期ってのは、初心者には間違いなくあるからな」 そこで口を閉じて目で俺に、わかるだろ? と語りかけてくる。 ──わかる。 俺もそういうの、経験したことがある。 とにかく滅茶苦茶に打ち込みたくなる時期というのはあるのだ。 傍目から見ると、ちょっとおかしいんじゃないか? そんな練習は不合理じゃないの? そう思えるような練習をしてしまうことがある。 FCに夢中で冷静な判断ができなくなっているのだ。とにかくFCにふれていたいのだ。 強くなる選手というのは、そういうおかしな時間を過ごすことが多いと聞いたことある。 その気持ち自体が、才能の一種なのかもしれない。 ──それを考えれば……。 「…………」 今はまだわからないけど、もしかしたら明日香は強くなるのかもしれないな。 ちょっと落ち込んでるみたいだし、そのことを言ってあげる方がいいのか? ……そうだな、こういうことは言ってあげた方がいい。 明日香は俺の言葉を、ポジティブにとらえられるタイプだしな。 「練習、そんなにしたいのか?」 「あ、はいっ、したいです、とても」 「うん、いいことだと思う。そういう意欲があれば、明日香はもっと強くなるよ」 「ほ、ホントですか、ありがとうございますっ」 さっきまでしょげていた明日香の表情が、一気に明るくなった。 ……やっぱり、明日香はこうでなくちゃな。 「とはいえ、練習ならば、何をやってもいいってわけじゃないからな」 「そうなんですか……?」 一体、何をしようとしてたんだ? ……いや、あまり変に励ましてもな。 明日香は明日香で、自分で考えることも大切だし。 ここは何も言わないのがいいだろう。 「そうそう、晶也がコーチとしてちゃんと見て、怪我をしないように気遣うように」 「はい」 「本当に無茶なことを始めたら、その時は全力で、全身で止めるようにな」 「よろしくお願いします! 全力で全身で止めてください」 「いや、全力で全身で止めなきゃいけないような練習ってなんだ?」 「全力で岩に激突して体を鍛えるとかでしょうか?」 「……いや、それは自傷行為だから。とにかく、あまり無茶なことはさせないからな」 「はい!」 葵さんはああ言うけど、俺は明日香に大会で一勝くらいさせてあげたい。 勝つことの楽しさを知るのと知らないとでは、向き合う姿勢が変わってくるはずだ。 「えーっと。全勝の鳶沢は……。全部に圧勝したのは凄いけど、もうちょっと体力をつけないとな」 さっきまで、ぜーはーぜーはー、していたみさきが、 「はーい」 と返事をする。 見事に圧勝だった。うちの部員の中では明らかに一人だけレベルが違う。 そういえばみさきは昔の学校で、どのくらいFCをやってたんだろう? 質問しようとは思ってるんだけど、なんとなくその機会を逸してしまっている。 「みさきちゃんなら上位を狙えるんじゃないかな?」 「トーナメント運が悪くなければいけると思うぜ」 「そうですよ、そうですよ。優勝を狙っちゃいましょう」 「あはははっ、狙っちゃう? 狙っちゃおうか?」 「なんでも上を狙うのはいいことだぞ。出るからには当然、優勝を狙っていけ」 「はい!」 まあ、葵さんの立場として当然そう言うだろうけど──。 どこで真藤さんにあたるかだよな。最初であたらなければそこそこ上位までは行くだろう。 それと──。スピードで翻弄する相手にどこまで対応できるかだ。 前の合宿の時もそうだったけど、みさきはスピードでかき回されると、以外ともろい一面がある。 今回はスピーダーの部長に圧勝したけど、それは普段から部長の練習を見ているからだ。 部長は極端に引き出しが少ないからな……。 もし部長のことを何も知らずに試合したら、負ける可能性は結構あると思う。 「青柳は……。言うことはない。よくここまで他人の意見を無視してスピードに命をかけたな。三年間の全部をぶつけるだけだ」 「おう! まかせておいてください! ぶっちぎってやります!」 部長はぐぐっとポージングをとって叫んだ。 みさきには負けたけど、真白と明日香には圧勝している。 「部長みたいに飛べるようになりたいです」 「それはやめてくれ」 試合の勝ち負けを度外視した努力の結果だ。もうなんていうか一人だけ違う競技をやっている状態。 ──でも、だ。 引き出しが少なくて、何をしてくるか全部理解されている相手に圧勝というのは……。 ──それだけ部長が速いということだ。 正直、みさきではまだ真藤さんに勝てない。だけど勝ちパターンにはまれば部長は真藤さんが相手でも、もしかしたらもしかするかもしれない。 可能性はとんでもなく低いのは間違いないけど……。 ウチの部で優勝できる可能性がもっとも高いのは、部長なんじゃないかと俺は思う。 「有坂は……そうだな。まずは大会で一勝を目指してみろ。スタイルが固まっていないというか、ふわふわしているというか……」 「うう〜。そうですよね。自分でもわかっているんですけど……」 真白は明日香には勝ったけど、それは明日香の試合内容がひどかったからで……。 ファイターからスピーダーに変えたばかりだから、どうしてもスタイルがふわふわしてしまっている。 何をしたいのか自分でもわかっていないから、瞬間に判断に迷いが出る。 「真白は迷いすぎなんじゃないかな?」 「みさき先輩が迷わなすぎだと思うんですけど……」 「その名の通り、頭を真っ白にしてやればいいんだよ」 「わたしの頭が真っ白になるのは、みさき先輩のことを考えている時だけです」 「それはそれで問題だな」 「無駄なこと考えるのなんて、休むのと一緒だって」 「そんなことないぞ。考えないと成長しないからな」 「そうですかー?」 「誰もがみさきみたいに飛べるわけじゃないんだぞ。真白は真白らしく飛べばいいんだ」 「わたしらしくと言われても困ってしまいます」 「まぁ、ふわふわしているっていうのは、可能性があるということだからな。何かのきっかけで急に変わるってのはよくある話だ」 「そうですね。まずは経験を積んでいくしかないでしょうね」 「そこをサポートするのが晶也の役割だぞ」 「わかってます。とにかくきっかけを作らないとな」 「きっかけと言われても……」 「普段と違うことをしてみたら? 例えば、その……う〜ん。犯罪とかどうだろう?」 「それは悪の道を踏み出すきっかけだな。もっとFCと関係あることを考えてくれ」 「さて、倉科だけど」 「はいぃ……」 明日香はいい所は特になかったと言ってもいい。 実力は真白より上だと思うんだけど。 「ん〜。倉科は落ち込んでるみたいだけど、自分で思っているよりは悪くないぞ」 「どういったところがでしょうか?」 「素直なところがいいと思う。これだけ素直なプレイができる選手はそういないぞ」 確かに、ああも見事にフェイントにひっかかりまくる選手もそういないだろう。 だけど今回の結果は、みんな明日香がフェイントに引っかかりやすいと、知っていたからこうなったわけで。 公式試合ならここまでのことにはならないと思う。 「コーチの指示も悪いな」 「すみません……」 先生はセコンドの指示についてもダメ出しした。 FCでは、的確かつ短い言葉で指示を出さないと、選手の動きが鈍くなり判断が遅れる。 細かいようだが、ここをおろそかにしていると本番の試合で混乱が起きてしまう。 「フェイントに引っかかるな、という指示じゃなくて、もっと具体的に言ってやらないと、わからないところがある」 「それは反省してます」 合宿で市ノ瀬と試合をした時は、そういう指示でわかりあえた気がするんだけど……。 (今の明日香は、前よりもずっと、いろんな知識が頭に入ってるからな……) それが邪魔をして、判断が鈍ってしまっているのかもしれない。 「倉科はそのまま素直にやればいいと思う。そうすれば素直にフェイントを見破れるようになるさ」 「はい!」 「それにフェイントだろうがなんだろうが、集中して相手にくらいついていけばどうにかなる、ということもあるからな」 「がんばります!」 「ああ、それと……。倉科はちょっと、変だな」 ……変? 明日香が? 「へ、変ですか? うぅ〜っ」 「あっ、それ、あたしも思いました。明日香って変なタイミングで力を抜くよね?」 「え? そうですか?」 「こっちがガバーッといってるのに、妖怪みたいに、ぬるりと避けちゃうときある。空中の紙切れを掴もうとして失敗してるような感触というか」 「それに近いのはわたしも感じました。くにゃ、としたり、ガチッとしたりが極端というか……」 ──それって試合中に脱力できてるってことか? 体に余計な力が入っていない、というのはとても大切なことだ。 それができていて、ああいう試合になるってことは……。 ──自分の体を制御できてないってことか? 「部長は何か感じましたか?」 「俺は何も感じない!」 「……兄ちゃん」 呆れたようにつぶやく。 まあ、自分が全て、というスタイルが部長の強みだからな。 ──ともあれ、これからの練習で明日香が体の使い方を覚えれば……。 一勝や二勝はできるかもしれないな。 「それじゃ、今日はここまで。腹を出して寝て、体調を崩したりないようにな」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 練習試合が終わった。 それぞれの課題も見えたところで、次はいよいよ、夏の大会だ。 緊張感と、期待と、そして、ちょっとした不安と。 抜けるような空のもと、俺は少し感傷的になりつつも……。 来るべき日に、気持ちを委ねていた。 「空気が湿ってきたね、佐藤くん」 「佐藤院ですわ」 「梅雨だから仕方ないけど、みんなの士気にも影響するね、佐藤くん」 「佐藤院ですわ。それはそうと部長、こんな話をご存じですか?」 「なんだい?」 「梅雨の語源です。江戸の末期、雨水を椀に溜め、梅肉を溶いて素麺のつゆにする遊びが流行ったんですの。それで」 「それウソだよ」 「はぁっ?!」 「梅の咲く頃に降るからとか諸説あるけど、今佐藤くんが言ったのはデマだよ。誰かに担がれたんだね」 「部長〜! 準備できました〜っ」 「ああ、今行く! じゃあ佐藤くんも来てね。それじゃ」 「…………」 「……こ、こんな計略、卑怯ですわ、日向晶也! 覚えてなさい!」 「第5話END」 ととと、と弾むように前に出た明日香が、ぐるりと会場を見渡して、 「うわ〜〜〜。なんだか凄いですね! 本当に大会です!」 「これが嘘の大会だったら大変だぞ」 「はい、大変です! これからはじまるのはきっと本当の大会です!」 「きっと、じゃなくて絶対にそうだと思いますよ?」 「明日香はテンション上がってるな〜」 「上がってます! こういう時、なんて言えばいいんでしょうか? ……えっと、その……あげあげ……あげあげでしょうか?」 「真顔でそんなこと言われても……。──空を飛ぶような気分でいいんじゃないか?」 「ロマンチック!」 「晶也はロマンチック!」 「普通だろ! 普通のことしか言ってない!」 少し恥ずかしいことを言ったかもしれないけど、それでも普通の範疇だと思う。 「はいはい、みんな落ち着くように。こんな時間からそんなにテンションを上げてたら、熱中症でぶっ倒れるぞ」 「大丈夫です。熱中症対策グッズはバッチリ!」 「そういうのに頼らなくてもいい状態でいなきゃダメなんだぞ。熱中症になったら即刻、棄権だ。なりかけだって棄権だからな」 「熱中症は危険だから棄権ってことですね」 「ここまで来て棄権なんてむなしいだろ。みんなちゃんと気をつけるように」 「会心のダジャレを完璧に無視された!」 「だいたい直前にコンディションを崩したらバカバカしいからな」 「は〜い」 「じゃ、私は大会参加の手続きとかをしてくるから、変に暴れたりしないように」 「わかってますって」 歩きかけた葵さんが急に立ち止まって、 「そうそう。当日発表のトーナメント表が出てるはずだから、確認しておけよ」 「わかりました」 「晶也、後は頼んだぞ」 葵さんはテントの張ってある本部らしき場所に向かっていく。 真白は改めて、という感じで首を左右に振って、 「わたし達、早めに来たはずなのに、もう結構、人が集まってますね」 四島にある学園の生徒達が砂浜のあっちこっちで、がやがやとたむろっている。 「ん〜? 年齢的に明らかに参加者じゃない人もいるね? かといって学校関係者って雰囲気でもないし、観客って感じでもないよね」 「これから大きくなるって言われているスポーツだからな。いろんな人が絡んでるんだ。スポーツ会社やテレビ関係の人も来てるらしいぞ」 「テレビ?」 「は〜い! 今、テレビの話をしてたっスか?」 どこからともなく走り寄ってきた保坂が、 「うわっ?!」 真白にぶつかるようにして立ち止まる。 「実里も来てたんだ?」 「当然。こういう大会に顔を出すのが放送部の仕事だもん。それに……ぐふふふふっ。ぐふっぐふふっ」 「気持ち悪い笑い方だな……」 「ぐふっ、ぐふふっ。ぐふふふふっ」 「その様子だと何か激しくいいことがあったのかな?」 「その通り!」 「激しくいいことがあると気持ち悪くなっちゃうのか……」 ──損な癖だな。 「実はこの大会はテレビ放送が決定してるんっスよ!」 「ええ? そ、そうなの?」 「それは危険だ! あたしがテレビに映ったら、みんなのアイドルになっちゃうかもだよね?」 「……よね、って言われても」 「今日を最後にもう普通の生活はできないのかも〜。どーしよ〜」 「そんなのはわたしが許しません。先輩の顔にモザイクを入れるようにお願いします」 「あたしの顔が卑猥になったみたいでやだな、それ」 「どこで放送されるんですか?」 「四島地方のみで放送されてるケーブルテレビの『シトーちゃんねる』っス!」 「……シトーちゃんねる?」 「………。 ………。 ……そんなのあったっけ?」 「私は知らないけど……」 「あたしも知らないな〜」 「それって本当にやってるの?」 「やってるってば! 毎日、放送中だよ!」 「……むっ」 部長の目が怪しくギラリと光った。 「知っているんですか、部長」 「変に荒い感じのプロとは思えない映像で、地元の小学校の卒業式の模様などを繰り返し流し続けている、アレか?」 「そうそう、それっス、それ!」 ──それなんだ。なんか嫌なチャンネルだな。 「部長はどうしてそんなチャンネルを見てるんですか?」 「ケーブルテレビをザッピングしてたらたまたま見つけて、あまりにもどうでもいい映像の連続で逆に気になってな。見てると頭の中が真っ白になっていくのが気持ちいいんだ」 「あー。兄ちゃんが時々、呆然とした顔で見てるとこか〜。島のお祭りの様子を5時間くらい延々と流してたりするよね」 「編集が面倒で大嫌いだから撮ったらそのまま垂れ流すぜ、という製作者の熱い心意気が見えて俺は好きだ」 「つまり、あまりやる気のないテレビ局ってことですね」 「そんなとこで放送か……」 「いやいや、評判がよかったら地上波で深夜に放送する可能性も少しだけあるって話っスよ!」 「評判がよくても深夜の可能性が少しあるだけなんだ……」 「不必要にテンションが落ちてきちゃったなー」 「落ちないでくださいっス」 「こんなことでテンションが落ちるくらいなら、最初から聞かなければよかったかも……」 「ちゃんと話を最後まで聞いてよ! 決勝戦の実況は私が担当することになったんだから!」 「ええ? そうなの? 凄い……んだよね?」 「疑問に思わないで、凄いんだから! これをプロ野球選手の奥さんへの野望の第一歩に……」 「そこが第一歩だと到達まではかなり遠そうだな」 「とにかく、私が実況するんスからみなさんも決勝まで残ってくださいっスよ」 「わ、わかりました! 残ります!」 「おお? 明日香、頼もしい」 「そのくらいのつもりでがんばらないと、一回戦も勝てないような気がしたんです」 「ま、目標は高い方がいいもんね」 「それじゃ、私は準備があるっスので。みなさん、がんばってくださいっス」 「がんばれー、実里」 「うん! がんばるぜい!」 保坂は頭の上で手を振って、元気に砂浜を走っていった。 「………。……一応、テレビ映りを気にして、化粧とかしておいたほうがいいかな?」 「しなくていいって」 「ん〜? それってあたしがすっぴんでも可愛いから?」 「そういう意味じゃなくてだな……」 「私はお化粧をした方がいいでしょうか?」 「だから俺が言いたいのはテレビは気にせずに、自分達のできることをしっかりしようってことだ」 「でも、もし映るかもと考えたら、少しでも可愛くありたいですよね? そっちの方が試合でもやる気が出るというか……」 「そうそう。晶也は乙女心知らずなんだからなー」 「はいはい。この話はもういいからトーナメント表を見に行こう。気になるだろ」 「はい! 気になります!」 トーナメント表は当日発表になっているから、誰とあたるのか今のところ全然わからない。 「一回戦から強い人じゃなければいいなー」 「ですよねー」 「えーっと……わたしの名前はどこかしら、と。……はうっ?!」 トーナメント表が張られた掲示板を見上げていた真白が、驚いた猫みたいにびくついた。 「どした?」 「………。………。わたし、何か悪いことしましたか?」 そう言いながらトーナメント表を指差した。 「え? ……あー」 「あ〜。あ〜、やっちゃったね、真白」 「日ごろの行いが悪いせいでしょうか?」 「別に悪いことしたから、こうなったわけじゃないだろ?」 「じゃ、どうしてこんなことになったんですか! 前世の行いのせいですか?」 窓果が後ろから抱くように手を回して、 「運が悪かったんだからしょうがないってば」 「悪すぎますってば! どうしてわたしの一回戦の相手が佐藤院さんなんですか!」 「……まあ、その……なんだ。決して勝てない相手ではないぞ? うん、多分……うん」 「コーチの立場だから本音を言えない、というのが丸わかりなんです! どうせ言うなら、もっと力強く言ってください」 「勝てると思うぞ。うん、多分……うん」 「こんなに目の濁った人を見たことがないっ!」 「しょうがないって。二億回すれば一回くらい勝てるかもしれないよ?」 「可能性が低すぎます!」 「その一回を今日、持ってくればいいだけだって」 「うっ。……みさき先輩がそう言うなら持ってきます」 「物凄い信頼関係だな」 真白のセコンドは俺じゃなくて、みさきに任せたほうがいいかもしれない。 ……他人へ指示を出す能力は低そうだけど。 「あたしの運もなかなか悪いかなー」 「そうなんですか? 一回戦の人って……?」 「あー」 ──市ノ瀬莉佳。 「市ノ瀬か……」 「あの子とはあんまり試合をしたくないなぁ。さらにその……右隣の人が、ね」 「右隣? ……う」 隣に書かれていたのは真藤一成。 「……ありゃりゃ、ご愁傷様」 「まさか二回戦であたっちゃうなんてなー。というか、高藤の生徒同士がこんな近くに配置されてるの変じゃない?」 「一回戦で同じ学園の生徒は当たらない、ということ以外はシードとかナシで、完全にランダムで決めるみたいだよ」 歴史の短い大会だから、そこらへんのシステムは、あまりちゃんとできていないのかもしれない。 「みさきはスタミナ不足だからな。勝ち続ければ真藤さんとはどこかで必ず当たるんだから、早く当たった方が有利だって」 「前向きな発想だにゃ〜」 「でも、言ってることは間違ってないだろ? 二回戦で当たるということは、二日目の初戦で当たるってことだ」 三回戦で当たるよりは運がいいとも言える。 「はいはい。がんばりますよー」 「大丈夫です! みさき先輩なら勝てます! わたし、信じてますから!」 「真白に信じられてもなー」 「わたし以外の信用なんて無価値だってことに、そろそろ気づいてください」 「気づけそうにないなー」 「私は……。みさきちゃんの側です。一回戦は海凌学園の一年生ですね」 「おっ、それ運いいよ。海凌はあんまり強くないからね。それに二回戦の相手だってどっちが上がっても強くなさそう」 「で、三回戦まで行けば、みさきや市ノ瀬さん、真藤さんたちの中で勝ち上がった人と戦うことになるのか」 「そこまで行けるかどうかわかりませんけど、がんばります!」 「……もし、ですよ。もし、私もみさきちゃんも勝ち進んで戦うことになったら、セコンドはどうなるんですか?」 「その時はわたしが愛でみさき先輩をフォローします」 「その愛はハンデだな〜」 「そんなことありません!」 「同じ学園での対決になったらセコンドは一人。どっちにも同じセコンドの声が聞こえる設定にするんだ」 「それでは作戦指示がバレてしまいませんか?」 「セコンドは相手の位置を教える以外のことはしない。同じ学園での対決は自分たちの力だけでやるってことだな」 「まー、同じ学園なのにセコンドの差で負けちゃったら、釈然としないとこあるかもしれないからね〜」 「なるほどー、そういうことになってたんですか」 もちろん、習慣としてそうなっているということで、厳格に定められているわけではない。 練習試合や、選手同士が納得できる状況においては、他校の生徒がセコンドに入る場合もある。 まあ、今のところ気にする点でもないので、特に説明はしないでおいた。 「で、兄ちゃんは……」 「俺は海凌の二年生だな」 「乾沙希か……。聞いたことない選手だからあんまり強くないと思うけど……」 部長は、ぐぐっ、とポージングを決めて、 「相手が誰だろうが、この筋肉でぶっちぎってやるだけだからな!」 「それしかないですからね」 俺は軽く息を吐いてからみんなを見回して、 「いよいよ夏の大会が始まる。みんなが全力を出せるようにちゃんとサポートするから……ンンンッ?」 「いよいよ夏の大会が始まる。みんなが全力を出せるようにちゃんとサポートするから…… ンンンッ?」 「………」 「………」 「………」 「………」 「………」 「………」 「………」 「………」 「えっ?!」 「えっ?!」 「えっ?!」 「えっ?!」 「えっ?!」 「えっ?!」 「えっ?!」 「な、なんか今、凄い人がいませんでしたか?」 「いたいた! 覆面がいた!」 「ですよね? 覆面してましたよね? ぎ、銀行強盗でしょうか?」 「こんなとこで目立つ覆面をして、強盗するような蛮勇の持ち主はいないだろ? っていうか砂浜に銀行はないし」 「ということは……何なんだろう?」 「想像の限界を超えてきましたね」 「ここにいるんですから、選手の可能性が高いのでは?」 「覆面選手?」 「覆面スカイウォーカーか……。……かっ、カッコイイな」 「かっ、カッコイイですか?」 「敵か味方か……」 「個人競技に味方なんかいないだろ」 「はー。四島にはいろんな人がいるんですね〜」 「覆面スカイウォーカーを見たのは、四島で生まれ育ったわたしもはじめての経験ですけどね」 「そういうとこで四島を理解しようとしてほしくないなー」 セコンドの仕事として、他校の選手のことはそれなりに調べたけど、あんな選手がいるなんて知らないぞ。 「やー。おはよう」 「あ、白瀬さん。おはようございます」 「おはようございます」 「むっ。青柳くん。大会に向けて仕上げてきたね。大胸筋がキュッとなって、実戦的なキレがありそうだね」 「白瀬さんのアドバイスに従ったまでのこと。どうです? 腹直筋、指でなぞってみますか?」 「いいね〜」 「そういう卑猥なことは人気のないとこでやってください」 「ふふふっ。晶也には青柳くんの筋肉が卑猥に見えるのかい?」 「日向もそろそろこっちの世界に来たらどうだ?」 「俺を特殊な世界に引きずり込もうとしないでください。それより、さっき覆面のスカイウォーカーが通ったんですけど、見ませんでしたか?」 「覆面?」 「案山子みたいな覆面をした人がそこを通ったんです」 「いや、見なかったな。うん、見なかった。見なかった。そ、そんなことする選手がいるのかー。へー。ふ〜ん。おもしろいこと考える選手がいるんだね」 「何か知ってるんですか?」 「いやいや、知るわけないだろ。初耳だよ。へ〜、覆面ね〜」 「ルール的にどうなんです? 反則っぽくありませんか?」 「ん〜。覆面をかぶっても視界が狭くなるだけで、有利になることはないから、わざわざルールで禁止したりはしてないと思うけどね」 「テレビ受けとか狙ったのかな?」 「単純に顔を見られるのが恥ずかしい、とかかも。顔を見られると恥ずかしくて実力を発揮できないとか?」 「覆面をかぶった方が恥ずかしいと思いますけど……」 「でも顔を見られるだけで緊張しちゃうって人はいるよ?」 「相手に表情を読み取られると不利になるからね。覆面をすることで、そういうとこをカバーしてるのかもね。とにかく反則ではないはずだよ、うん!」 ──そんなに力強く断言しなくても。もしかして何か知ってるのかな? 「まっ、気にしてもしょうがないな。どうせ、大会が始まれば何者かわかるだろうし。で、白瀬さんはどうしてここにいるんです?」 「大会の運営に関わっているんですか?」 「少しは関係してるけどね。でも主な目的は出店を出すこと。大会の記念Tシャツやタオルなんかを売ってる」 「せっかくですからTシャツは買っておきたいです」 「それでは、向こうの駐車場でスポーツショップ白瀬の出店があるから、よろしくお願いするよ」 「買っても着る機会がなそうだけどね」 「そういうのって売れるんですか?」 「タオルとかの小物は、持って来るの忘れてきた選手が買ってくれるよ。あと熱中症対策グッズとかもよく出るね」 「ウチの部は私がバッチリ準備してるけど、そういうのをうっかり忘れる人はいそうですね」 「熱中症は選手より観客に多いかもね。あと競技用のグラシュもそれなりに売れるよ」 「え? グラシュが売れるんですか?」 「さすがに自分のグラシュを忘れてくる選手はいないんじゃ?」 「選手は買わないよ。この大会は観光客も結構、来るからね。中には自分もやってみたいと思う人もいるんだ。そういう方々へスターターキットを売るわけ」 「白瀬さんは大勢の人に、FCの素晴らしさを広めているわけですね」 「明日香は素直だなぁ。あたしにはただ抜け目ないだけに見えるけど……」 「我が店の売り上げは、キミ達がどれだけ観客のハートを掴む派手な試合ができるかに、かかってるわけだ!」 「プロじゃないんですから、そんな期待をされても困ります」 「そう言わずにド派手な試合を頼むよ。んじゃ、がんばってね」 「がんばります!」 「あの白瀬さん」 俺は立ち去ろうとしていく白瀬さんを追っかけて、 「どうかした?」 「出店の方が忙しいとは思いますけど、ウチの部の試合は見ておいてもらえませんか?」 「別にいいけどどうして?」 「白瀬さんから各選手についての感想とアドバイスを聞きたいんです。今後の参考にできればなって」 「わかった。でも、俺の意見って厳しかったりするかもよ?」 「それはそれでありがたいですよ」 「じゃ、しっかり見させてもらうよ」 「ありがとうございます」 軽く手を振ってから白瀬さんは自分の出店に向かって歩いていく。 ──白瀬さんの目に明日香やみさきはどう見えるんだろうか? 二人ともある程度の才能というか、特性というか……。FCに向いているとは思うのだ。 だけど、今の俺は二人をどう指導すればいいのか、わからないとこがある。 みさきの才能の方向性はハッキリしてるけど、明日香のは捉えどころがない。 白瀬さんに客観的に見てもらえばそれがわかるかもしれないと思ったのだ。 「真っ白ぉー!」 「う……この声は」 「はっはー、真白だぁー! やーやー本当にやってんだなーFCー」 「あ〜もう、テンション高いわねー……」 「ああ、虎魚だったか」 現れたのは、久しぶりに見る真白の幼なじみだった。 「で? わざわざ何の用なのよ有梨華」 「ご挨拶だな真白。改めて宣戦布告に来てやったのに」 「宣戦布告ぅ〜?」 「5月のあの日、おまえがこの大会に出るって聞いてから、ずっとおまえと戦うのを楽しみにしてきたんだ!」 「わかるか? あたしのこの格好」 「って、あんたそれってまさか……」 「そうだ、レギュラーになってきた!」 「っ!」 「……!」 虎魚の通う四島水産は、四島列島にあるFC部でも常勝・高藤に次いで、総合2位3位の実力を誇る学園だ。 そんな、層の厚いはずの四島水産で、部内でも上位数枠しかないレギュラー枠を勝ち取った? 虎魚は簡単に言っているが、そこに至るまでには並々ならぬものが存ったはずだ。 「どうしても真白とトーナメントでやりたかったからな」 「あんたって、こういうことになるとホント見境なしね。どんだけわたしのこと嫌いなのよ」 「フフン、うれしいか?」 「鬱陶しい。あとめんどくさい」 「おまえそれが今日まで必死に頑張ってきた幼なじみにかける言葉かぁー!」 「わたしには関係ないしー」 「それとこのトーナメント表はなんなんだー!? これじゃ、試合できるのは決勝戦じゃないか! 絶対に勝ち残れよ! あたしも残るから!」 「それ、絶対に無理」 「最初からあきらめるな、バカ。正直、あたしも無理だとは思うけど言うだけは言えよー!」 「どうしてそんな無意味なこと言わないといけないの?」 「きっと神様があたし達の対戦はまだ早いって思ったんだ。でもそれは今回までだ! 秋の大会では絶対に当たるようにしておけよー!」 「私じゃなくてトーナメントを作ってる人に言ってよ」 「秋に対戦できなかったら、路上ででも勝負を挑むぞ!」 「そんなことされたら絶対に警察へ電話する。不審者にからまれてますって」 憎まれ口を叩きつつ、真白もどこかうれしそうに見える。 これがきっと真白と虎魚、幼なじみの距離感なんだろう。……俺の目が節穴じゃなければ。 「ああ、誰かと思ったらマグロちゃんだ」 「マグロって呼ぶなぁ!」 また絶妙なタイミングでみさきが呟きを漏らし、それにくわっと虎魚が反応する。 虎魚は真白とみさきの関係が理解できず、何故か昔からみさきだけを敵視している節がある。 さらにみさきはそれを理解した上で虎魚をからかっている節があるからどうしたものか。 ……静観してればいいか。 「だいたいあたし何も変わってないし! ですし! 鳶沢先輩は今まであたしをどこで判別していたと!?」 「……にこにこ」 「せめてなにか! なにか言わないものですか!?」 「ちょっと、昔から一方的にみさき先輩に突っかからないでって言ってるでしょ! あとなに? そのビミョーな敬語は?」 「こ、これはその……目上の人には敬語を使わないと怒られるから……」 「怒られるって誰に?」 「それに、あたしは真白と鳶沢先輩のことはもう別に……(もごもご)」 「なにらしくもなく、もごもごもじもじしてんのよ」 「うぅ……」 「〜〜〜っ」 本当にどうしたんだ? この歯に物が詰まったような虎魚の態度は。 「まあまあ、言いづらいことみたいだから最初からゆっくり聞いてみたらいいじゃない」 「と、鳶沢先輩ゼッタイわざと言ってんだろ! あたしは昔っからあんたのそーゆー人を食ったような態度が……!」 「あら、また目上の人に敬語を忘れてるのね有梨華」 「きゃうっ!?」 「!!」 不意に、虎魚の背後からぬっと伸びてきた白い腕がそのまま彼女の首元に絡みついた。 立っていたのは虎魚に比べたら長身のせいか随分と大人びて見える女の子だ。 ──見覚えがある。 5月に一度有梨華と一緒に見かけた子かもしれない。 「お、オネーサマ……?」 「妹のあなたの失態は、姉である私の失態。悲しいわ。スールになってからの私の教育はなかなか実を結んでくれないのね」 「姉、妹……? これってどういうこと? っていうかあの人は誰?」 「みさき先輩は会ったことありませんでしたっけ。有梨華の先輩の我如古さんです。ほら、四島水産FC部独特のアレがあるじゃないですか」 「ど、独特のアレ?」 「あ、聞いたことあるような……スールだったっけ? 女の先輩と後輩で深い絆を作る制度」 我如古さんはみさきに向かって華麗に一礼する。 「はじめまして」 「は、はじめまして」 物腰は佐藤院さんに似ているかもしれないけど、我如古さんは雰囲気の湿度が高い。 俺を見つめて、 「またお会いしましたね」 「ど、どうも」 虎魚に絡みついた女の子の細く長い腕は宝物を抱いているようにも、首輪のようにも見えた。 ただ、虎魚は借りてきた猫のように大人しくなっている。 「有梨華はいけない子ね」 「ご、ごめんなさい、オネーサマ。あの……おしおきだけは、そのぅ……」 「ふふ」 すがるような表情の虎魚にお姉さまと呼ばれた少女はやわらかく微笑むと、 「だーめ(ハート)」 「オネーサマのドSううぅぅぅぅ!」 じたばたと暴れる虎魚をぎゅっと捕まえるお姉さま。 「安心して、私のかわいい有梨華。大好きなあなたにそんなひどいことはしないから」 「おねえさまぁああ」 虎魚が、普段のキャラからは信じられない猫なで声をあげる。 「…………」 「…………」 「…………」 っていうか、なんだこの胸焼けするような感覚は。 「…………」 「…………」 「みなさんとは試合でお会いできればいいですね」 「そ、そうですね」 「今回でなくても秋の大会もありますし、練習試合だって申し込んでいただいてもかまいませんから」 「あ、はい。機会があれは是非」 水産に行ったら、みんなこんな雰囲気なんだろうか? 「……おねえさま」 我如古さんの腕の中で、聞くだけで湿度が上がりそうな声を出しながら、微かに身をよじる。 「もう有梨華ったら。……どうやら出直した方がいいようですね」 さすがに空気を読んだらしい。 「それでは久奈浜の皆さん、トーナメントのどこかで相まみえることを楽しみにしています」 急に気を取り直したように、 「あたしとぶつかるまで負けるんじゃないぞ真白!」 「っていうか、あんたさぁ……今までわたしとみさき先輩のことを散々否定しておいて」 「じゃ、じゃあそーゆーことで!」 「あ、こら、逃げるなぁー!」 ……なんというか。 虎魚たちの去ったあとはまさに台風一過のような気分だった。 「な、なんだか凄い連中だったな」 「みさき先輩! こうなったからにはわたし達も負けてられません!」 「負けでいいって! というか勝負してない上に、勝負にならない」 「あははは。向こうはガチっぽかったもんね〜」 「わたしを偽者みたいに言うのはやめてください」 「ああいう世界もあるんですね。ドキドキします!」 「そんな告白しなくていいからな?」 「我如古繭か……」 「意味ありげにつぶやいてどうした? もしかして、ああいう世界に憧れがあるのか?」 「そんなんじゃないよ、もう。どっかで聞いたことがある名前だと思って……」 窓果はスマホをいじって、 「………。……やっぱり。今の二人、お姉さまの方は結構、強いよ」 「強いってどういう意味で? 夜の方が〜とか、指先のテクニックが〜とか、そういう意味?」 「なんでそういう情報が窓果のスマホに入ってると思うんだ?」 「いやいや、窓果だって向こう側な人かもしれないし。こっそりあたしを狙ってるかもしれないし! 油断大敵だよ」 「意味なく疑心暗鬼になるな」 「明日香だってあたしを狙ってるかもしれないし!」 「ええ?」 「くだらないこと言ってないで、私の話を聞くように! 優勝候補は勿論、真藤さんだけど我如古さんは対抗馬だよ」 「へ〜。……対抗馬か……」 「どの大会でもベスト4以下ってことはないみたいだよ。真藤さんが出ていない大会じゃ優勝したこともあるし」 「ああいう雰囲気で弱かったらむなしいですよね」 「今回のトーナメントじゃ離れてるからあたらないかもだけど、三年生じゃなくて二年生だから、これから先の大会であたったりすることはあるかもね」 「つまり未来のライバル候補ということですね」 「ライバルになるには、明日香も優勝候補の一員くらいにならないとな」 「が、がんばります!」 激しく頷いた明日香の肩越し、10メートルくらい向こうに知った顔があった。 「………」 「………」 「………」 高藤学園の生徒達がぞろぞろと歩いている。 トーナメント表を確認しに来た訳ではなく、アップする場所を探してるみたいだ。 「あ、どうも。おはようございます」 「………」 真藤さんは無言で頭を軽く下げただけだった。 ──んっ? あー、そうだな。 「みんなここを離れて、向こうの大きなテントの方に行こう」 「そうした方がいいな」 「え? 高藤学園のみなさんとお話しないんですか?」 「試合前だからな。真白は佐藤院さんと、みさきは市ノ瀬と試合だ。対戦相手と話すのは気まずいだろ」 「……そうかもしれません」 「あたしはわりとそういうの平気だけどねー」 「みさきがそうだとしても向こうがそうだとは限らないだろ。いいから行くぞ」 「はーい」 「………」 市ノ瀬が何か言いたそうにこちらを見ているけど……。こんな時は会話なんかしない方がいいに決まってる。 試合後には仲良くなれるかもしれないけど、試合前に仲良くしても試合しづらくなるだけだ。 ……ああだこうだ言っても、どれだけ美辞麗句で飾ったとしても試合というのは相手を負けさせるための行為なのだ。 格闘技みたいに相手の体を傷つける可能性は低いけど、相手の心を傷つけたり、自分が傷つけられたりするのは一緒だ。 市ノ瀬はすれ違い様に、 「私、負けませんから」 「は〜い」 みさきは真っ直ぐに前を向いたまま適当な返事をしてすれ違う。 後ろから佐藤院さんが、 「そういうことを言うものではありませんわ」 市ノ瀬を軽く叱っている声がした。 俺達はなんとなく無言で歩いていく。 ──試合前にこういう気まずい思いはしたくなかったなぁ。 「う〜ん」 みさきが不満そうにうなっている。 「あんまり気にするなよ」 「気にしてはないけど……。う〜ん。晶也が思っているようなことじゃなくて……」 「なんだよ」 「わかんない。うまく言葉にできないよ」 そう言ってみさきは自分のつま先をじっと見つめた。 野球の大会みたいに入場式があったりするわけでもなく、砂浜になんとなく参加者が集合した状態で、開会式が始まった。 大会実行委員長の短い挨拶があった後、注意事項などが読み上げられ……。 夏の真っ青な空に向かって、打ち上げられた花火が、スパン、と間抜けな音をたてて……。 そうやって夏の大会が──。 「本当に始まりましたね!」 「本当に始まったな」 始まった。 ──この大会は、全部で64試合を予定している。 諸事情で不参加の選手が出るから試合数は減るけど、それでも一日で全てをやるのは時間的に不可能だ。 なので初日に一回戦。二日目にそれ以降をする、ということになっている。 「自分の試合がいつ始まるか把握して、自分の試合の二試合前にはアップを開始しておくように」 「は〜い」 「アップをすると疲れちゃうんだよね〜」 「体をほぐしておかないと序盤で一気にやられるかもしれないぞ」 最初から全力で動けるように体はできてないのだ。 「わかってるって」 「……私の場合はせめて、試合をしたって実感くらい掴みたいですけどね」 「佐藤院さんはそこまで強くないって。心配するな。勝つつもりで俺はやるぞ」 「あはっ」 「青ざめた顔をして笑うな。最初からそんなんじゃ勝つ可能性がさらに減るぞ」 二億回に一回の勝利を今日、掴むんじゃなかったのかよ。 「えっと、試合の順番はどうなってるんだっけ?」 「兄ちゃん、真白っち、みさき、明日香ちゃんの順番だね」 部長の試合が始まるまで、あと三十分くらいか……。乾がどんな選手なのか少しでも調べておくか。 試合前の部長と話し合う。 「よしっ! 一回戦、気合入れて行くか!」 「一回戦の相手、乾沙希ですけど、誰だかわからないんです」 周囲に話を聞けばどんなタイプの選手なのかくらいは、わかるんだけど、乾沙希についてはほとんどわからない。 今年になって外国から転校してきた生徒らしい、ということはわかったけど、その程度だ。 「まぁ、相手が誰であろうと、俺は俺の戦い方をするだけだ!」 「頼もしいです。で……部長。試合の前に言っておくことがあります」 「言ってみろ、日向っ! 遠慮なく、忌憚なく、容赦なく、快活に言うがいい!」 「快活に言えるかどうかはわかんないですけど……」 テンション上がってるなー。部長の場合はそれでいいんだろうけど。 「ここだけの話、……ウチの部で優勝を狙えるのは部長だけだと思います」 部長はゆっくりと斜め上を見上げて、 「……フッ、言いおるわい」 「本気で言ってるんですから、遠い目をしないでください」 「どういうつもりでそんなことを言い出したのか聞こうか」 「例えばです。真藤さんとみさきが試合をしたら、100回中1回くらいしか勝てないでしょう」 それも怪しいくらいの実力差はあると思う。 「それは俺の場合もほぼ一緒なんじゃないか?」 「いえ部長なら圧勝の可能性があります。いいですか? みさきが真藤さんに勝つ可能性はほぼないです」 本人を前には絶対に言えないし、セコンドの時はどうにかして勝たせるつもりだ。 だけど客観的に見れば、ない、と言っていい。 「ですけど部長なら、可能性はあります」 「………」 「ハッキリ言って部長の実力は総合的に見て中の下でしょう。ですけど、自分の勝利パターンを持ってます。それがはまれば誰も追撃できません。誰が相手でも圧勝です」 部長の直線でのスピードは圧倒的だ。勝ちパターンにはまった時は半端じゃなく強い。 駆け引きとか抜きに、ただ飛ぶだけなら、最初のファーストラインを30秒。スピードの乗った次のラインからなら25〜20秒で通過できる。 これはプロのスピーダーと比べても遜色のない速さだ。 ただ違うのは、プロのスピーダーは他のこともできるけど、部長はただ速いだけなのだ。 ゲームで言うなら、パラメーターを全部、スピードに振ってる状態。 そこが問題だけど、そこが強みでもある。 今まで部長が勝てなかったのは、運が悪かっただけなんじゃないかと思う。 勝負に運なんてものはない、って意見もあるし、それも理解できる。 それでもやっぱり運が悪いだけだと思うのだ。 「まだスピードに乗り切れてないセカンドラインで、頭を押さえられたらきついですけど……」 「俺の負けパターンだな」 「でもそこを抜けて加速できたら、サードライン、フォースラインと、押さえられる可能性はどんどん低くなっていきます」 高スピードの相手を抑えるのは難しい。 「俺が言いたいのは単純に可能性の問題なんです。セカンドラインでぶっちぎったら、真藤さんが相手でも勝てる可能性はあります」 「………さようか」 さようか……って。あれ? あんまり乗り気じゃないのかな? 部長のテンションがより上がると思ったんだけど……。 ………? とにかくセコンドが弱気なとこを見せちゃダメだ。 「ですから優勝を狙っていきましょう!」 「フッ。優勝──甘美な響きだな」 「やってやりましょう!」 「やってやるか!」 「セカンドラインさえ気をつければ、部長のペースに持ち込めるはずです!」 前よりほんの少しだけどフェイントはうまくなっているし、もしかしてもしかすれば、もしかするかもしれない。良くも悪くもそのくらいの可能性はある。 「よっしゃ! 気合だ! 気合だ! 気合だ!」 部長がグラシュを起動させて、真っ直ぐにファーストブイに向かって飛んでいく。 「………」 女の子が笑顔で近づいてくる。 ヘッドセットをつけている、ということはセコンドをする海凌学園の生徒なんだろうけど……。 日本人離れした目鼻立ち、というか外国の人だよな? 「どーも、コンニチハー」 「えっ? あっ、どうも」 「よろしくね。私はイリーナ」 パチッ、とウインクする。どうやら、フレンドリーな人らしい。 「日向です。こちらこそよろしく」 イリーナさんは目を細めて、ファーストブイに向かう、乾沙希であろう選手を見上げる。 「あの娘は日本で試合するのは初めてなんデス。だから、そこはその……えっと……。ンムー……」 女の子は唐突に、パッ、と明るく笑って、 「……あっ、わかりマシタ。オテヤワラカニー! どうです? 正しいデスよね? 日本語上手くいってマス?」 「う、上手いと思います」 ……変なペースで喋る子だなあ。 「あの、乾沙希さんのことですけど、日本では初めて、ってことは、外国ではプレイしてたってことですか?」 「そうデス。あんまり強くないので、だから、オテヤワラカニー! デス」 「こちらこそ、お手柔らかにお願いします」 「はい」 大きく頷いてから、イリーナさんはトタトタと小走りで俺から離れていった。 改めてファーストブイの付近に浮かんでいる乾沙希を見上げる。 「よろしくだ」 挨拶をした部長への返事が、 「……よろしく」 マイク越しに微かに聞こえた。 淡々とした声だった。外国でやっていた選手だから、もしかしたら日本語に慣れてないのかもしれない。 どこの国でやっていたのか聞いておけばよかった。 外国って言ってもそれがどこかによる。アメリカや北欧や東南アジアは、日本よりレベルが高いけど、他の国ならそれほどでもないはずだ。 じっと見つめる。 ……身長は低めで、体の線は細めか。 ちょこちょこと逃げ回るタイプのファイターかな? もしそうだとしたら、部長の苦手なタイプだけど……。 ──ん? あのグラシュどこのだ? ミズキでもスモールグローブでもインべイドでもない。見たことのないグラシュだ。 海外のマイナーメーカーのなんだろうか? ……考えても無駄か。相手がどういう選手だろうと、部長は自分の戦い方をするしかないのだ。 俺はヘッドセットの位置を微調整しながら、 「ぶっちぎってやりましょう」 「おう! いつだってぶっちぎる覚悟だ!」 審判の、セット、の声がマイクで増幅されて響いた後、試合開始を告げるホーンが鳴り響いた。 ──えっ? 初速を稼ぐ為に、部長がローヨーヨーで斜め下に行くのと同じタイミングで、乾もローヨーヨーで斜め下へ向かった。 「部長! 乾もスピーダーです!」 「上等ッ!」 乾がスーッと前に出て、部長がそれを追う形になる。 乾はどういうタイプのスピーダーなんだろうか。スピーダーの中でも初速重視タイプと最高速重視タイプがいる。 先行したってことは、初速重視タイプなんだと思う。それならすぐに部長有利の展開になるはずだ。 スピーダー対決を突き詰めれば、どっちが速いかだ。最高速だけにパラメーターを振った部長が負けるわけない。 最初の勝負はローヨーヨーの上昇のタイミングか……。 「………」 「………」 下降で生み出した加速をなるべく殺さないように、緩やかなカーブで上昇しなくてはならない。 部長は姿勢がガチガチに固定されるグラシュを履いているから、スムーズな姿勢変更は苦手だ。 ファーストラインは負けてもいいか……。セカンドラインで前に出られれば部長のペースになるだろう。 「………」 乾が顎を上げるだけに見える動きで、飛行ルートを斜め上に変えた。 ──うまいな。 かなりスムーズな動作。 ……やっぱり初速重視のスピーダーで間違いないか。 「うおりゃ!」 遅れて部長が上昇姿勢に入る。ややギクシャクしているが、これはしょうがない。 「………」 乾はセカンドブイを後ろに弾いた反動を利用して加速する。 ──これもスムーズに加速したな。 カーブの半径はスピーダーとは思えないくらい小さかった。 直線での加速よりも、カーブやブイへのタッチといった場所での加速が得意なタイプか。 部長なら、小手先の技術、と言いそうだ。そういうのが得意なら、ファイターやオールラウンダー向きだと思うんだけどな。 とにかくこれで0対1か……。 「どりゃっ!」 少し遅れて部長がブイをタッチして加速する。遅れてのタッチは当然得点にならない。 乾が先行したのにショートカットして距離を縮めなかったのは、ブイにタッチしての加速の方が有利だと判断したからだ。 今は距離を縮めるより、スピードに乗る方が重要だから、間違った判断ではない。 「ここから部長の見せ場です!」 「わかってるぜ!」 ぐっ、と深い前傾姿勢をとって加速していく。 相手がファイターやオールラウンダーじゃないので、待ち構えられている心配がない。 部長の得意じゃない状況が生まれないので、遠慮なく加速できるはずだ。 行けっ! 部長っ! 「うらららっ!」 「………」 「ぬぉぉおおおぉぉぉっ!」 ……あれ? おかしい。 部長は加速しているし、乾との距離も縮まっている。 縮まっている、けど──。 ──思っていたより縮まっていない。 部長はいつもと変わらない。ということは──乾が速いのだ。 部長以下とはいえ、こんなに速いスピーダーがいるなんて……。 チラリと横目でセコンドのイリーナさんを見る。 「………」 少しずつとはいえ部長が背後に迫ってきているのに、特に指示を出している様子もなく、ニコニコ見上げている。 ──今はまだ追いつかれるような状況じゃないって判断か? 部長に聞こえないようにマイクを手で覆ってから、深呼吸を一つ。 落ち着け、俺。 こっちだって部長に慌てて指示を出す状況じゃないんだ。距離を縮めているのは事実。 このスピードでのスピーダー対決なら、二人の得点は合計して、20点を超えるはず。 序盤の2点や3点で慌てる必要はない。 「………」 乾がサードブイにタッチして加速。これで0対2。 大丈夫。この展開なら部長は勝てる! 「……くっ!」 ギリッと奥歯を噛み締める。 「………」 乾がサードブイをタッチした。0対10。 まさかこんな展開になるなんて! 部長はラインの後半で、乾の真横につけるまで距離を縮めてはいるのだが、完全に追い抜くとこまではいけない。 理由は三つ。一つ目は、乾が先行してブイタッチをすること。 ブイはなるべく動かないように工夫されているけど、それでも先にタッチされた直後のブイは揺れている。揺れたブイだとタッチで加速するのが難しいのだ。 二つ目は、ラインを移る時の九十度カーブ。 追っている立場の部長はどうしてもカーブ直前まで、スピードを上げてしまう。 そうするとカーブの手前で、急ブレーキでの効率の悪い減速になった上に、大きな弧を描くことになる。 結果、時間とスピードをロスしてしまう。 三つ目は、追い上げる立場だということ。 ファイター同士の対決なら背中を狙いやすい後ろが有利だけど、スピーダー対決だとそれが不利になってしまう。 先行する相手に体のどこかをタッチされた場合、姿勢を崩すのは一緒だが、相手は前へ、自分は後ろへと弾かれる。そのため、追う側は相手の手の届く範囲の外で飛行する。 先行する相手がブイを一直線に目指している以上、ブイを目指すには、相手と離れてる分の距離を無駄に飛ばなくてはならない。 こういう細かいテクニックの積み重ねで乾は自分より速い部長の追い上げを阻んでいる。 「………」 ──乾はスピーダー同士の対決に慣れてる。 これ以上、点差をつけられたらさすがに逆転は難しい。流れを変えるなら今しかない。 「部長っ!」 「日向っ!」 凄いハイテンションな声が返ってきた。 「提案があります」 「……不利を承知で乾の足に後ろからタッチしろとか、ショートカットして流れを変えろとか、無粋なことを言うつもりじゃないだろうな!」 「無粋とか関係ありません。いつかは追い抜けるかもしれませんが、このままだと負けます! 流れを変える必要があります!」 「日向っ! 俺は今、最高に楽しいぜ!」 「えっ?」 「スピードこそ最強だ! 俺は最速を目指す! そして俺より速い奴がいる! ならば俺はそれを全力で追い抜くしかあるまい!」 「これはFCの試合です!」 「わかってる! しかし、俺はこの方法しか練習しなかったんだ。小細工はしないっ! それに流れを変えろというが、これ以上の俺の流れがあるか? 全力で飛んでるぜ!」 確かに全力で飛ぶのが部長の勝利パターンだけど。 「だけどこのままじゃ……」 「わかる。日向の言いたいことくらいわかっている。俺だって勝ちたい! だが、しかし! ここで飛ばなきゃ、俺じゃない!」 ここで飛ばなきゃ──。 俺だって以前は、試合中にそういうことを思ったことあるはずだ。勝ち負けじゃなくなる瞬間。 試合も相手も関係なくて、ただ自分の全部を出したいって、出せたらそれだけでいいって、そう願ったことがあるはずだ。 「俺は飛ぶんだ!」 セコンド失格なのはわかっている。言っちゃいけないことだとわかってはいる。 だけど、そんな気持ちを止められるほど、俺は強くない。 「……………部長。ブイタッチの前に少しスピードを落としてください。高速で行っているから弧が大きくなってます」 「わかった!」 「乾をぶち抜いてください!」 「オゥケェェエエェェエエェエエエェェッ!」 「………」 乾がサードブイをタッチして、0対22。 だけどもうそんなことは関係ない! 問題なのは、サードラインで部長が乾と並んだ事実だ。 「日向、俺は音速の壁を超えるから、ソニックブームに気をつけろぉぉぉ!」 「オッケーです!」 どんな奇跡が起きてもグラシュでそんなスピード出るわけない。だけど、そういう問題じゃない。 部長が出すって言っているんだから出すのだ。 「………」 「りゃああぁあああっ!」 部長がついに乾を……。 抜いたっ! 「………」 「……ッ!」 一度、抜いたら、もう前方でこちょこちょと小賢しく部長の邪魔をする奴はいない。 「光速を超えてください!」 「オゥケェェエエェェエエェエエエェェッ!」 信じられないほど加速していく。 行け! 部長っ! 部長の爆走に観客の間に、異様なことが起こっている、という低いどよめきが広がっていって、 それがすぐに歓声に変わる。 歓声。爆発するような歓声。 「ドラァァァァァッ!」 フォースブイの手前でもスピードは落とさない。 「ていっ!」 フォースブイをタッチして、1対22。 「ぬわあぁぁぁああっ!」 部長はカーブできずに、そのまま真っ直ぐ飛んでフィールドを超えてしまう。 それと同時に、試合終了を告げるホーンが鳴った。 「見事にぶち抜きました!」 「……速さの上限は光速だったな」 「えっ? あ、はい」 「光速まではまだ遠いな」 「……ですね」 「ということは俺はまだまだ速くなれるってことだな」 「そういうことだと思います」 「ありがとな、日向……。いろいろ助かったぜ」 「そんなこと、ないですよ」 「ちょっとの間このまま飛ぶから、スマンが後のことはよろしく頼むぜ」 「はい。お疲れ様でした」 「おう」 部長がマイクを切った音がした。 全身の力を抜いた部長が慣性の法則で、場外へと飛んでいく。 俺は肩の力を抜いてうつむく。 ──優勝の可能性は本当にあったと思うんだけどな。 低い可能性だったとは思うけど、それを引っ張ってこれなかったのは、セコンドの俺の責任でもあるんだ。 「ん?」 後ろから誰かが近づいてくる気配。 「凄かったデース。フィールドがあと50メートル長いか、えっと、時間が倍だったら負けてたと思いマス」 それは同感だけど、そんなありえないことを言ってもしょうがない。 「お手柔らかにじゃないですよ。強いじゃないですか」 「相性がよかっただけデス。本当はそんなに強くないデスね。スピーダー相手が得意なだけデスから」 「そうですか」 「そうデス」 歯切れよく言って、微笑んだ。 「質問があるんですけど、彼女のグラシュはどこのメーカーのですか?」 「アヴァロンのアグラヴェイン、デス」 「アヴァロンの?」 「アグラヴェイン」 ──聞いたことのないメーカーとグラシュだ。 「イギリスではチイサイ有名デス」 チイサイ有名って、マイナーってことだろうか? あとからネットで検索してみるか……。 「教えてくれてありがとうございます。次もがんばってくださいね。応援してますよ」 「ありがとうございマス! 応援してくれるだなんてやさしいデスね!」 イリーナさんはニコニコ笑顔でうなずいてから、くるりと踵を返し、降りてくる乾に向かって走っていく。 「………」 強そうには見えないんだけど……。 スピーダーじゃない相手ならどんな戦いをするんだろう。 「………」 ──なんだろう? 微かに笑っているような、少しだけ歪な無表情が、妙に頭に残った。 「……って、あいつ!」 本人が去ってから、思わず叫ぶ。 そうだ、大会の少し前、家に帰る途中で会った、あの。 「そうか、やけにキレイな飛び方してるとは思ってたけど」 ……選手、だったのか。 「あれ? 部長は? 一緒じゃなかったんですか?」 「しばらくそこらへんを飛んでるってさ」 「……残念でした」 「ん〜……。晶也がもっとうまく指示を出せば勝てた試合じゃないの?」 みさきに言わせれば……。誰に言わせてもそうかもしれないけど……。部長は部長の勝負をしていたわけだから──。 「部長のやりたいようにやらせるのがベストだと思ったんだ」 「……部長はそういうタイプだから、そうなんだろうけどさ〜」 ──みさきから見れば、部長のそういうとこが歯がゆいのかもしれない。 「でも、兄ちゃんにしてはかっこよかったと思う」 「お? 急にブラコン発言?」 「いやいや、あの兄ちゃん相手にブラコンはありえないでしょ?」 「そ、そんなことないと思いますけど?」 「その話はともかくとして、ドワーとスピードを出してたし、最後にビューンって飛んでいったし、見てる人も凄くワーワーなってたし」 「そうですよね。凄く盛り上がっていました!」 「派手な試合だったから、グラシュを買う人が増えて、白瀬さん、大喜びかもね」 「部長ってあんなに速く飛べるんだってびっくりしましたよ」 「ですよね。私、今の試合を見て感動しました! ああいうのもFCなんですね!」 明日香はまぶしそうに目を細めて、体をキュッと縮めた。 「わわわ? いったいなんですか?」 「凄い試合になってるとか?」 「でも、試合はまだスタートしてないみたいですけど……」 「あ! スタートラインを見て!」 「さっきの覆面選手です!」 「えっと、この試合の選手ってことは……」 窓果がトーナメント表のコピーに目を落とす。 「あの選手は上通社学園の……」 「上通社? あそこってFC部やってないんじゃ?」 「でもハッキリと上通社学園って書いてあるよ。それで、選手名は……。………? ??????」 「どしたの?」 「難しい漢字で読めないとかですか?」 「キラキラネームってやつ?」 「じゃなくて……。『謎の覆面』って書いてあるんだけど……」 「謎の覆面!」 「謎の覆面!」 「謎の覆面!」 「謎の覆面!」 「……凄すぎるよね」 「自己申告で謎って言ったのかな? それとも大会側がつけたのか?」 「自己申告で謎だったら、謎という意味の深遠に迫りそうな気がするけど」 「自称謎っていうのは謎なのか? という問題ですね」 「そんなことより、それってありなの?」 「ナシだと思うけど、参加してるんだから実行委員会的にはありなんだろう」 「敵か味方か……」 「だから個人競技だから絶対に敵だって」 それ気に入ってるのか? 「試合が始まりそうですよ」 審判のセットの声が響き、 「ごくり」 ホーンが鳴った。 「どんな選手なんでしょうか? ドキドキです」 「なんせ謎の覆面だからな。グラシュはミズキの飛葉ってことは、オールラウンダーなのかな?」 普通はオールラウンダーだけど、ファイターが使うこともありそうなタイプだ。 「華麗な技を出すか、トリッキーな技で翻弄するか。とにかく普通じゃないことだけは間違いないでしょうね」 この試合を見ている人々も同じことを考えているらしく、期待に満ち溢れた歓声が砂浜に響いている。 「さてと」 ──どんな試合をするのかじっくり見させてもらうぞ、覆面選手。 終了のホーンが鳴ると同時に、俺は明日香と顔を見合わせた。 「……えーっと。その……普通、でしたよね?」 「物凄く普通のオールラウンダーだったな」 「……凄く基本に忠実だったよね?」 「そして負けましたね」 4対5の接戦で負けていた。 「とっても惜しい感じではあったよね?」 見ている人達の間にもどう反応したらいいのかわからない、微妙な空気が流れている。 強くも弱くもない。本当に普通の選手だ。 「……まあ、あまり気にしなくていいんじゃないか?」 「そうだね」 なんだか居たたまれない気分だ。 「そろそろ真白っちはアップしておいた方がいい時間だよ〜」 「う。……わかりました」 「そう暗い顔をするなって。……負けるって決まったわけじゃないんだからな」 「だからそういうことはもっと力強く言ってください!」 「……一回戦から運が悪すぎます」 「同じことを何度も言うな」 さっきからこればっかりだ。 「だって佐藤院さんが相手だなんて! 正直に言って勝てる気がまったくしません! 率直に言って不可能としか思えません、痛ッ」 軽く真白の頭を叩く。 「痛い! 運が悪かった上に、理不尽な暴力までふるわれた!」 「暴力じゃない。落ち着けって言いたいだけだ」 「落ち着いてますよ。落ち着いて考えてみたらやっぱり不可能だって言ってるんです。痛ッ。なんですか、ぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽんぽん!」 「そんなに連続かつ高速では叩いてないだろ。負けるつもりで試合に望むのは失礼だ。実力差があっても勝つつもりでやるのが礼儀だ」 「そう言われても……」 「佐藤院さんはああ見えて真面目でいい人だ」 「え? あ、はい。なんですか急に?」 「そう思うだろ?」 「思いますけど? 高飛車そうな外見に反して、真面目でいい人ですけど……。それが?」 「性格だけじゃなくてプレイスタイルも真面目だ」 「そうかもしれませんけど……。いったい何を言おうとしているんですか?」 「いいから最後まで聞けって。まず佐藤院さんはオールラウンダーだ。オールラウンダーは相手の弱点を突くスタイルだ」 「それはわかってますけど……」 ファイターが苦手なスピードで翻弄。スピーダーが苦手なドッグファイトで翻弄。 「つまりオールラウンダーっていうのは、相手に合わせて戦い方を変えるタイプが多いってことだ」 「ふむ。──なんか犯罪の匂いがしてきましたね」 「どこからそんな匂いをかぎつけてくるんだよ。で、真面目な性格っていうのは二種類あると思うんだ」 「と、言いますと?」 「自分に対して真面目なタイプ。他人に対して真面目なタイプ。前者は自分の信念で動く。後者は他人を気遣って動く。佐藤院さんは?」 「佐藤院さんは後者ですね。気遣い上手ですから」 「そう。つまり佐藤院さんはああ見えて、スタイルも性格も他人に合わせるのが上手なんだ。そこを狙う」 「……なんだか顔が黒いですよ?」 「真面目に勝つつもりでやろうと言っているだけだ」 「それで具体的にどうしたらいいんですか?」 「ファーストラインをショートカットしろ」 「わたしはスピーダーなんですけど?」 「わかってる。だけど普通にスピーダーとして勝負したら、捕獲されて滅茶苦茶にされるぞ。佐藤院さんとの間にそのくらいの差があることはわかるだろ?」 「それはわかってますけど……」 「だからあえてファイターのように戦う」 「スピーダーなのにファイターみたいに?」 「できないことじゃない。そういうことをする選手もいるしな」 スピーダーの靴をはいてドッグファイトを挑む、というトリッキーなことをする選手はいなくはない。 そういった場合はスピードの優位性を生かして、一撃離脱に徹するんだけど……。 「でもわたしはそういう練習をしてませんよ?」 「前にファイターの練習はしてただろ?」 「確かにしてましたけど……」 「真白の全部を出さないと佐藤院さんに掠ることもできないぞ」 「……それはそうだろうと思いますけど」 「ショートカットした後は、前じゃなくて上についてプレッシャーをかけ続けるんだ」 「前じゃなくて上ですか……」 「上だと佐藤院さんから真白の姿が見えないだろ? 背面飛行は姿勢を保つのが難しいからやらないだろうし」 「でも……」 真白はチラリと横を見る。 離れた場所で、佐藤院さんと真藤さんが話をしている。 「真藤さんがセコンドなら、見えなくてもプレッシャーにならないのでは?」 真藤さんが真白の位置を正確に伝えるだろうからな。 「いや、それでもプレッシャーにはなるよ。自分の目で確かめられないっていうのは怖いからな」 「そうかもしれませんが。……それでプレッシャーをかけ続けたらどうなりますか?」 「警戒するからスピードが鈍る。それに佐藤院さんは相手を気遣う性格だからな。無視し続けるか、相手をするか、の二択を迫り続ければ……」 「佐藤院さんがドッグファイトを挑んでくる?」 「そういうことだ。で、ここからが肝心。ドッグファイトを挑んできたタイミングで逃げ出して、スピード対決に持ち込め」 「つまり佐藤院さんの裏をかくと」 「そういうこと」 真っ当な勝負じゃ話にならない。 佐藤院さんは合宿の時の真白を見ていて、ファイターだと思っているだろうから、作戦成功の可能性は高い。 「……できますかね?」 「真白が上のポジションをキープしていれば降下の加速が使える。佐藤院さんの立場になって考えれば、相手に合わせたのに、その裏をかかれたらイライラするはず」 「佐藤院さんが最初からブイを狙ったら?」 「その時は単純にスピード対決だ。真白はスピーダーなんだから実力差があってもそこだけに限るなら勝負はできるだろ」 「いいことだらけに聞こえますね」 ──正直、そう都合よく試合は展開しないだろうし、スピーダーになって日の浅い真白じゃ、スピード対決でも佐藤院さんに勝てるとは思えない。 「……私を騙してます?」 「真白を騙して俺にどんなメリットがあるんだよ」 不安を与えないように力強く言っておく。 「気づいたら羽毛布団を買ったりしてませんかね?」 「ここからそんな話にもっていけたら俺は天才すぎないか?」 「……わかりました。言うとおりにやってみます」 「よし、勝つ気でいけよ。勝ったらみさきもよろこぶぞ」 「そ、そうですね! がんばります!」 真白は胸の前に腕を立てて、よし、と小さく頷いてから、ファーストブイに向かって飛んでいった。 あとは佐藤院さんがこっちの作戦につき合ってくれるかだな。 「よろしくお願いしますわね」 「こ、こちらこそ。わたし、がんばりますから!」 「わたくしだってがんばりますわ。いい試合をしましょう」 「は、はい」 真白のマイクから聞こえている声が微かに震えている。 ──初めての公式試合だからな。ファーストブイに立ったら、緊張してきたか……。 「開始したらすぐにショートカットだからな」 「わかってます。大丈夫です」 「試合を開始していいですか?」 「は、はい!」 「よろしくてよ」 「セット!」 ホーンが鳴り、試合がスタートした。 「………」 佐藤院さんは真白を横に見ながらゆっくりとスタートする。真白がショートカットするのか、それともブイを狙うのか見極めるつもりだ。 ……ここでブイを狙うふりをして駆け引きをしてもいいんだけど、真白にそれをうまくやれというのはまだ無理だな。 「………」 真白がセカンドラインへとショートカットしていくのを確認して、 「………」 佐藤院さんはファーストラインを真っ直ぐに進んで、セカンドブイを目指す。 「ブイ寄りの高い位置で待機。かと言ってあんまりブイに近づきすぎるなよ」 「わかりました」 できるだけ早くプレッシャーをかけたいけど……。 ブイに近づくということは、単純に佐藤院さんに近づくことになる。 真白がラインにたどり着く前に佐藤院さんが、ブイにタッチしてラインを走り抜けていくかもしれない。 「高さはこのくらいでいいですか?」 真白はラインから5メートルくらい上空で旋回する。 「そこでいい。もし、佐藤院さんがラインにそって駆け抜けていくようだったらスピード勝負だ」 「はい」 「その時もできるだけ上のポジションをキープすることを優先」 「どうしてですか?」 「佐藤院さんを真白の有利な場所に引きずり出すのが目的だから。その前に近づくのは危険だし……。そこをキープされたら佐藤院さんはイライラするだろうしな」 「なんだかハンティングしてるみたいですね」 「それに近いものはあるかもな」 「………」 佐藤院さんがブイにタッチする。 0対1。 「………」 佐藤院さんはスピードを落として、上空の真白を見つめる。 「晶也センパイ……。佐藤院さんに物凄く見つめられてますけど」 「うっ」 あまりにも狙いがわかりやすいポジション取りだったか? でも真白に勝たせるには手段は、他に思いつかなかったのだ。 佐藤院さんは一度、停止してから、サードブイを狙わずに、ゆっくりと真白に近づいていく。 「なるほど、なるほど……。そういうことですのね」 「晶也センパイ……。作戦が完全にバレているみたいなんですけど」 「バレることは別に問題じゃないんだ。問題は佐藤院さんがどう行動してくれるかだから」 「あっ! わたしの方が前にいるんだから、今からブイを狙いに行くというのはどうでしょうか?」 「ダメだ! それ反則」 「そ、そうでした」 ショートカットした選手は、相手選手と交差か接触しないと次のブイへは進めないのだ。 「狙いは悪くないと思いますわ。ブイを失う危険をおかしてでも、わたくしの上のポジションをキープしてわたくしをイライラさせる作戦ですわね」 「いえ、あの……」 「そういうことですわね?」 「あ、いや、その……決してそういうわけでは」 「つきあってあげてもよろしくてよ?」 逆にプレッシャーをかけられてしまってる。 佐藤院さんは徐々に高度を上げてる。同じ高度になってしまったら、高さの優位がなくなる。上のポジションを取った意味がなくなる。 ……こ、これは。これ以上追い詰められたら萎縮して動けなくなってしまう。 そうなってしまうくらいなら! 「真白! 佐藤院さんが下の位置にいるうちに行くんだ! ドッグファイトを挑め!」 「わ、わかりました! やります!」 えっ?! 佐藤院さんが苦笑したのが見えた。 「こうも簡単に挑発に乗ってもらっては困りますわ。乗ったのは日向晶也かしら?」 佐藤院さんは勢いよく前傾姿勢になると、ぐっ、と顔を下に向けて、前方に下降していく。 「うわ? わわわっ?!」 真白と佐藤院さんは×を描くかのように交差する。 「お先に失礼しますわ」 「ええっ?」 真白はセカンドブイ方向へ、佐藤院さんはサードブイ方向へ。 くそっ! そんなことするのか、佐藤院さん! 「こ、これはいったい、なんですか?」 「佐藤院さんに手のひらで踊らされた。今から追っても無意味だ。サードラインにショートカットするんだ」 真白は俺の指示通りに移動しながら、 「質問です!」 「なんだ?」 「えっと、佐藤院さんはドッグファイトをする気はなくて、わたしが佐藤院さんに挑みかかる方向をサードブイの逆方向に固定してから、挑発してきた、ということですか?」 「そういうことだ。スマン。釣るつもりが釣られてしまった」 「……あー。なるほど〜。うん。はい。わかりました!」 「ん? わかりましたって何がだ?」 「速く飛んだり、バチバチ背中を狙いあうだけじゃなくて、こういう空気の読みあい、と言えばいいんでしょうか? そういうのもFCなんですね」 「そういうことだ」 「なるほど、なるほど……。ということはですよ。……次はわたしが佐藤院さんを騙せばいいわけですよね?」 「何か考えがあるのか?」 「あるような、ないような」 「相当に不安な答えだな。とりあえずもう一度、同じポジショニングだ。さっきは佐藤院さんに踊らされたけど方法は間違ってない」 「わかりました!」 佐藤院さんは落ち着いた様子で、ゆっくりとサードブイにタッチして、真白に近づいていく。 0対2。 真白はサードラインの真ん中付近の高い場所で、佐藤院さんを待ち構える。 前のラインと同じく、佐藤院さんは少しずつ真白に近づいていく。 ──高速で移動しないってことは、時間稼ぎと体力温存かな? 今日は一回戦だけだから体力を温存する必要はないんだけど、絶対に勝てる試合で、そういう癖をつけておくことは悪いことじゃない。 時間稼ぎは卑怯に見えるかもしれないけど、真白は待ちの作戦なのだから、佐藤院さんに時間稼ぎされても文句を言える立場じゃない。 「また同じ作戦ですの?」 「どうでしょうか?」 「佐藤院さんが近づくスピードにあわせて、斜め上に後退しろ」 「はい」 距離を詰められたくない。このまま後退し続ければ、どこかで佐藤院さんがブイ狙いに行くかもしれない。 その時にスピード対決ができるかもしれない。 結果として佐藤院さんはこっちの挑発に乗ってくれているのだ。 不利な状況じゃない。 「………」 んっ? 唐突だった。 まるで何かに引っ張られるように、真白が横を向いた。 「………えっ?」 佐藤院さんもつられて横を見る。 「……あれ、あの赤いの。隕石じゃありませんか?」 「えっ?」 真白は前傾姿勢で一気に自分から距離を詰めた。 「ええっ?」 「ターッチ!」 真白は斜め横からすれ違いざまに、腕を伸ばして佐藤院さんの背中にタッチした。 「きゃんっ?!」 佐藤院さんが前につんのめるように、豪快に姿勢を崩す。 1対2。 卑怯だ! 多分マナー違反だと思うけど、反則ではない。 「戻って追撃を……」 「無理だ。接触したからブイを狙える! その加速を生かしたままブイに向かえ!」 「はい!」 真白は猛然とブイに進んでいく。 佐藤院さんはかなり激しくバランスを崩したから、立ち直るのに時間がかかるはずだ。 「えい!」 真白がフォースブイにタッチした。 2対2。 おおおっ! まさかの同点だ。 「おっ、おっ、おお〜〜っ? もしかしてわたし、勝てますか? 勝つ可能性が出てきましたか?」 「出てきたかもしれないぞ!」 「……で、これから先はどうすればいいでしょうか?」 「えっ?」 フォースラインにショートカットしてきた佐藤院さんがいた。 ──うっ。 佐藤院さんから待ち構えられる展開は考えてなかった。 「あの……。佐藤院さんが凄く怒っているように見えるんですけど……」 「見えるけど、それは自業自得だな」 髪の毛が逆立っているみたいだ。雰囲気としては、お寺の門にいる仁王像だ。 「自業自得とか言わないで作戦を考えてください」 「心配するな。怒っている相手は冷静な判断ができないからな。佐藤院さんの動きをじっくりと見て、追い越していけ」 「わ、わかりました」 「わたくし、マナー違反をする人、好きではありませんわ」 「わ、わたしも同感です」 「そう思うなら今すぐ棄権しなさい」 「いや、あの……。そ、それはちょっと」 「それがいやなら卑怯なマネを恥じて切腹すればいいのですわ」 「いや、わたしお侍さんじゃないんで……」 「別にお侍さんじゃなくても切腹していいのですわ」 「いや、あの……」 「………」 「し、します! 切腹します」 「無意味にプレッシャーに負けるな!」 「そんなこと言われても! 凄いんですから!」 「いいからスピード対決に持ち込め!」 「そんなこと言われても!」 「わたくしから行ってさしあげますわ」 佐藤院さんが正面から、真白に突っ込んでいく。 「ちょ、ちょっと! キャーッ!」 ──あー。これはダメだ。 ドッグファイトは気合勝負の側面もある。そこで完全に遅れを取った状態じゃ勝負にならない。 こうなったら俺の言葉は真白の耳に届かないだろうな、と思いながら叫ぶ。 「真白、落ち着け。深呼吸して。混乱すればするほど佐藤院さんのペースになってしまうぞ」 「にっにゃーっ! ふぎぃーーーーっ!」 結局、連続で5ポイントを奪われ、試合は2対7で佐藤院さんの勝ちになった。 「ひどい目にあいました。……トラウマになりそうです」 「確かにマナー違反な作戦だったけど、発想自体は悪くなかったと思うぞ」 「そうですか?」 「視線で敵を惑わせるのはフェイントの基本だからな」 「じゃ、私は間違ったことしてないってことですか?」 「だからマナー違反だって。横を向くのはいいけど、試合中に隕石とか言い出すのはダメ。もし本当だったら惨事になってるかもしれないんだから不謹慎だろ」 「うっ。それはそうかもしれません」 「かもしれません、ではなくて不謹慎なのです」 「う、うわ! さっきはスミマセンでした」 真白が高速で仰け反ってから、高速で頭を下げる。 「終わったことはもういいですわ。わたくしこそ大人げなかったと反省していますの」 「わ、わたしこそ反省してます!」 「あの状況で横を向くフェイントをしかけた勇気には、敬意を評します。有坂真白。あなた見所がありますわよ」 「ふへっ?」 「それでは失礼させていただきます」 佐藤院さんはくるりと華麗な回れ右をして立ち去っていった。 「見所があるってさ」 「ふふふっ。そんなことを言うとは佐藤院さんも見所ありますね」 「真白はもうちょっと反省した方がいいな」 ──結局、一回戦で二連敗してしまった。 この流れはここで断ってしまいたいんだが……。 「………」 みさきからやる気を感じられない。 「ここはしっかりと勝ちに行くぞ。明日、真藤さんに勝つためにもここはミスなしで行くんだ。そうすればいいイメージを持って明日を迎えられるからな」 「は〜〜い」 「……なんだよ、その気の抜けた返事は」 「ん〜。ハッキリ言って試合をしたくないです」 「……はぁ。あのな! いくら気分屋だからって一回戦からそんなこと言うな!」 「気分屋って、気分を売り物にしたことなんかない。晶也はあたしの気分をいくらで買ってくれるわけ?」 「やる気を出すなら100円くらい払う」 「安いな〜。でも気分が変わるたびに100円もらえば、時給2000円くらいいくかな?」 「1時間で20回も気分を変えるつもりなのか……。で、どうして試合をしたくないなんて言い出したんだ」 「対戦相手」 「市ノ瀬がどうかしたのか」 「うん」 みさきは頷いて、少し離れた場所へ視線をやる。 その先には、佐藤院さんと話をしている市ノ瀬がいた。 「……知り合いと試合するのは嫌か?」 友人知人と本気の試合はしたくない、という人は多い。関係がギクシャクしてしまうことがあるからだ。 「………」 漫画やアニメみたいにそれで友情が芽生えるってこともあるけど、それと同じくらいの確率──いや、それより高い確率で、ギクシャクした関係になってしまうものだ。 理由は単純。負けたら悔しいから。 負けを認めたくないから対戦相手にその責任を被せる。 「でも対戦スポーツをやっていれば、そういうのを避けて通ることはできないぞ」 特にFCはそんなに競技人口の多いスポーツじゃないからな。同じ人と対戦することになる、というのはよくある話。 「それもちょっとあるけど……。なんか言いづらいな。言いづらいっていうのは言いたくないってことじゃなくて……」 「………」 「言葉にしづらい。……晶也は市ノ瀬ちゃんのことどう思う? 体が好みとかそういうことじゃなくてだよ」 「このタイミングで、体の好みの質問をされるとは思わない」 どんな性格破綻者だ。 「脱いだら意外と大きいんじゃないかとか、そういう妄想の話じゃないよ?」 「不安そうな顔して無意味な確認をするな!」 そんな妄想を聞かせたことなんかないだろ! 「着実というか、ソツのないプレイスタイルだと思うよ」 一つ一つの動作をちゃんと綺麗にやろう、という意思が見える。 「だよねー」 「それがどうかしたのか?」 「ちゃんとちゃんとっていうのが見えすぎるから、その……。えっと……。真藤さんや佐藤院さんとは合宿の時に話したけど、別に試合をするのはいやじゃないんだよね〜」 「市ノ瀬は二人と何か違うっていうのか?」 「うん。……えーっと。真藤さんはその……。えっと……。あたしより強くて、その……。あっ、うん」 「――怖い」 「怖い、か」 「真藤さんほどじゃないけど佐藤院さんも怖い。性格がって意味じゃないし、体がってことじゃないよ?」 「どうして俺が他人の体のことばかり考えてると思うんだ? その怖いって意味はわかるよ」 俺もプレイヤーだったのだ。対戦相手が怖いって気持ちは痛いほどわかる。 相手が強いのは当然、怖い。 何をしてくるかわからない相手というのは怖いし。オーソドックスにプレイしてくる相手でもその普通さが怖い、と思うこともある。 対戦相手のことを怖いと思うのはごく普通の感情だ。 「その怖さがあるから、あたしも全力でやろうと思える、ってとこがあると思う。怖い相手と試合するのは楽しいし」 「……つまり、市ノ瀬は怖くないから試合したくないってことか?」 「そう言うとあたしが凄く傲慢な人みたいだけどそういうこと。練習が凄く丁寧だから試合で何をしてくるのか、全部、見えちゃう気がする」 みさきの言っていることはわかるけど……。 「ん〜。対戦相手を見下すと足をすくわれるぞ?」 みさきは苦笑してから自分のつま先を見つめて、 「そういう意味じゃないんだってば……。それに市ノ瀬ちゃんは真面目だから、負けたくない、って気持ちをこめてくると思うんだよねー」 「今朝もみさきに向かって、負けない、とか言ってたな」 「うん。そういうとこが、その……。なんていうか、う〜ん、って感じ」 「でも、負けたくないっていうのは普通のことだろ。この会場いる選手がみんなそういう気持ちだよ」 「それはわかってるんだけど……。市ノ瀬ちゃんは、ん〜、真っ直ぐにこめてくると思うから、それにたじろぐというか……」 「たじろぐか……」 「それを前面に出すくらいなら、プレイに集中すればいいのに、と思っちゃって、戸惑っちゃうんだよね」 あぁ、そういうことか……。 「みさきの言いたいこと、少しだけわかったかもしれない」 真面目でプレイを丁寧にしっかりやって、その延長線上に勝利があることを疑ってない。 その考え方に戸惑うってことか……。 もし勝ちたいなら、勝つためになんでもしろ、ってことだ。信じるだけで勝てるわけがないのに、信じてる。 いや、自分を信じるっていうのは大切なことだ。 自分の力を信用しないと技の精度が落ちる。自分の技を信用しないと出すタイミングが狂う。自分の心を信用しないとペースが乱れる。 だけど、市ノ瀬は、自分を信じることを信じてる、というような状態になっているのかもしれない。 それって自分を信じてないってことだ。 「市ノ瀬のことはどうでもいい。自分が勝つことだけ考えろ」 「まあ、そうだよね……」 みさきは無理した感じの笑みを浮かべ、 「で、コーチ。どうやりましょうか?」 からかうような口調で言った。 「スピーダー相手は部長と練習してるから慣れてるだろ。市ノ瀬は部長より遅いからスピードで戸惑うことはないと思う」 「うん」 「だけど部長よりはフェイントをたくさん入れて、どっちに動くかの選択を要所要所で迫ってくるぞ。その場合は先に動くな」 「市ノ瀬ちゃんが動いてから?」 「そう。向こうが選択を迫ってきたら、それをそのまま向こうに返すつもりでプレイしろ」 「なるほどね。市ノ瀬ちゃんのフェイントは正直だから、ってこと?」 「そういうこと。みさきならできるだろ?」 「う〜。なんか気が重いなー」 「いいから行って来い」 「わかりました〜。んじゃ、行ってきます」 みさきがいつものふらふらとした飛行で、ファーストブイに向かっていく。 「よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしくお願いします。あの!」 「な、なにかな?」 マイク越しに二人の会話が聞こえてくる。 「真藤先輩は鳶沢さんに期待してるみたいですけど、私、負けませんから」 「えっ? あ、はい」 「負けませんから」 「あたしも……と言った方がいいのかな?」 「知りません」 ──みさきがやる気を失いませんように……。 それはそれとして……。俺が心配することではないのだけど……。 市ノ瀬は気負いすぎなんじゃないだろうか? 肩に力が入っていたら、飛行姿勢をうまくとれないぞ。 横を見ると、 「…………」 セコンドの佐藤院さんが少し険しい顔で、市ノ瀬に何か言っている。 今の会話は行儀が悪いとか、体の力を抜けとか、そういうことを言っているのだと思う。 「試合を開始します。セット!」 「………」 「………」 ホーンが鳴り、試合が始まる。 みさきはファイターで、市ノ瀬はスピーダーだ。 「………」 当然、みさきはショートカットでセカンドラインへ。 「………」 市ノ瀬はセカンドブイへ。 みさきがセカンドラインの真ん中にたどり着いた頃、 「………」 市ノ瀬がセカンドブイをタッチ。0対1。定石どおりの展開だ。 市ノ瀬は真っ直ぐにみさきを見つめて、 「行きます!」 「………」 市ノ瀬は合宿の時に明日香にやったように、左右の蛇行、シザーズでみさきに近づいていく。 「…………」 みさきはボクサーがステップを踏むみたいに、上下左右に体を揺らしながらそれを待ち構える。 「…………」 多分、市ノ瀬はみさきの手前で上か下のどちらかに進路を変える。左右の動きに相手の目を慣らしておいて、急に上下の動きを入れる。 定番のフェイントだ。 確かに効果的なんだけど……。あまりにも狙いが見えすぎな飛行なのだ。 それでも上と下どっちに変更するかはわからない。 「………」 みさきにアドバイスしようとしてやめた。 ここはみさきの動きを見よう。 「………」 みさきは市ノ瀬を引きつけてから、 「……えい!」 直立した状態で、水泳のバタフライをするかのように両手を真上へと伸ばした。急上昇するための動作だ。 「……っ!」 市ノ瀬はそれに反応して、斜め下へと進路を変える。 「とっ」 みさきはその場で、くるりっ、と縦に半回転して、斜め下に向かった市ノ瀬に真上から迫る。 「えいっ!」 「きゃっ?!」 市ノ瀬は完全に抜いたと思っていたのだろう。真上から背中に伸びてきた手に弾かれて、派手にバランスを崩す。 セコンドの佐藤院さんからみさきの位置は聞いていたのだろうが、状況を飲み込む前に触れられてしまったのだと思う。 1対1。 「追加チャンス」 バランスを崩して、おぼれたように手足を動かす市ノ瀬の背中に触れて、 「きゃっ!」 得点追加。 2対1。 「くっ」 市ノ瀬は姿勢を整えながら、みさきと距離をとるために下降するが──。 「それはダメ!」 佐藤院さんの叫びがこちらまで聞こえた。 下に向かって二回も弾かれてから、下降してしまったのだ。 「あっ」 市ノ瀬は水面近くまで降りてしまっている。 スピードを殺されたスピーダーが下へは逃げられない水面。初速が遅い上に、上昇はスピードが出ない。 そして上には、初速が速いファイター。しかも下降の加速を使える位置。 さらに失点する覚悟で、無理をしてでも横か上へ逃げるべきだった。 ──市ノ瀬の一つ一つの判断に間違いはないのだ。ちゃんとやっている。 相手が上に行く動きを見せたから下へ逃げる。 攻撃されたのでスピードで振り切るために下へ逃げる。 それなのに、それらを総合したら最悪の状態になっている。器用にいろいろこなせるはずなのに、総合力が弱い。 「水面をセカンドブイ方向へ逃げて!」 佐藤院さんが珍しく大声を出している。 「はい!」 市ノ瀬が水面にそって逆方向に飛んでいく。 「どうする? 追う?」 「聞く前に追えよ。もう今からじゃ遅いだろ。真面目にやれ」 「真面目にやってるけど……。だけど市ノ瀬ちゃん、あたしを泣きそうな顔で見てるから、つい動きがとまっちゃったんだって。うわ〜、やりづらい!」 「さらに追加得点できるチャンスだったのに……」 でもそれをやってしまったら、市ノ瀬は立ち直れないくらいショックを受けていたかも。いや、変な温情をかけられる方がショックか? 「とりあえず、市ノ瀬は逆方向に行っちゃったから、サードブイにタッチしてサードラインに移行しよう」 「了解」 みさきはサードブイにタッチする。 3対1。 「どうする? このままフォースブイを狙う?」 「さすがに途中で追いつかれるだろうけど、狙わないよりは狙ったほうがいいだろうな」 「了解」 ファイターが先行して、スピーダーが追うか……。変な展開になったな。 ──もしかしたら、市ノ瀬の心は折れてしまっているのかも。 後味の悪い試合になりそうだな。 「………」 みさきがブイまで残り数メートルになった時、 「待ってくださいっ!」 市ノ瀬が猛スピードで真っ直ぐにラインを走ってきた。 「んっ? あれ?」 体ごと振り返ったみさきの戸惑いの意味がすぐわかった。 まったくフェイントを入れる様子がないのだ。ただひたすらに──。 まるで部長みたいに真っ直ぐに突進してくる。 「……んっ?」 みさきは上下左右に体を揺らすが、それにまったく反応しない。 「これって、もしかして……」 「衝撃に気をつけろ! 市ノ瀬は真っ直ぐに突進するつもりだ! がっちり押さえろ!」 「私! 負けませんから!」 「きゃっ?!」 市ノ瀬は頭からみさきにぶつかる。 「くぅっ」 「わわわっ?」 激しく弾け合う。 素早く姿勢を戻した時、みさきの体はブイの向こう側にあった。 そしてブイの目の前には姿勢を崩したままの市ノ瀬がいた。 ──それが狙いだったのか! 正面からぶつかりあった時、それぞれ逆方向に弾けあう。市ノ瀬は後ろにはじけたように見えるけど、実際は少しは前に進んでいるのだ。 弾け合うというのは相対的なことだから、弾ける力よりも強く前に進んでいれば、後ろに向かったように見えても、実際は前に進んでいる。 スピードは静止に近い状態まで落ちたけど……。みさきをブイの向こう側に弾き飛ばして、自分はブイの目前で止まることはできたのだ。 「1点、追加です!」 市ノ瀬はブイをタッチした反動を利用して、前に進みながら姿勢を戻す。 3対2。 「まだまだわかりませんよ!」 「なんだ、市ノ瀬ちゃん。ちゃんと怖くなれるんだ。それなら!」 ぐい、と前傾姿勢になって前進し反動を利用するために、ブイを叩いて加速する。 市ノ瀬がスピードに乗る前に、捕まえるつもりだ。 「えい!」 「……っ」 市ノ瀬が伸びてくるみさきの手から逃れるために、体を横に回転させる。キリモミというテクニックだ。 腕を伸ばしたり、縮めたりすることで、スピードに緩急をつけて、ちゃんと綺麗に逃げている。 「市ノ瀬のスピードを殺せ」 「わかってる!」 後ろから触れたら、市ノ瀬を加速させることになってしまう。なんとか横から……。 「好きなようにはさせませんから!」 「ちょっと!」 市ノ瀬はハイヨーヨーで急上昇。加速していたみさきが前方に押し出される。 「ドッグファイトができないわけじゃないんです!」 急下降して、がら空きになったみさきの背中を狙う。 「それを言うなら、あたしはドッグファイトしかできないんですけど!」 みさきが急上昇でかわす。 「ッ」 逆に前に押し出された市ノ瀬がみさきの背中を追って、再び急上昇。 二人が互いの背中を狙って、ジェットコースターのような回転を始める。 市ノ瀬はスモールグローブのメインクーンというスピーダー用のグラシュなのにちゃんとやれてる。 あのグラシュでここまでドッグファイトができてるってことは、相当に練習してきたんだと思う。 ──だけど。 「えい!」 「くっ」 みさきが市ノ瀬の背中に触れて弾き飛ばす。 4対2。 さすがにみさき相手にドッグファイトは分が悪いか……。 「追加!」 「させません!」 「ちょ、ちょっと!」 市ノ瀬は体をその場で回転させて両手を伸ばして防御する。スピーダーのする逃げ方じゃない。 ──スピーダーのする逃げ方をセオリーどおりにやったら、一気に追い詰められるって判断したのか。 セコンドの佐藤院さんの判断か、自分で判断したのかわからないけど勇気のある決断だ。 だって──。 今の得点はかわせたけど、これから先、初速の遅いグラシュでどうやって、この状況から脱するつもりなんだ? 「今の市ノ瀬ちゃん、ちゃんと怖い」 「言っている意味がわかりません」 ──あっ。 ここから脱出する手段は一つあるか……。 それはわざと触ってもらって、反動を利用して初速の遅さを補うこと。 肉を切らせて骨を断つつもりか。 「みさき、ちゃんと勝ちたいか?」 「うん! ちゃんと勝ちたい」 「だったら市ノ瀬の周りを回れ」 「わかった」 「………」 みさきが市ノ瀬の周りをぐるぐるし始める。 「これから?」 「市ノ瀬が動いたら背中を狙え。動かなければ何もするな」 「えっ? 何もするなってどういうこと?」 「何もするなってことだ」 「どうしてそんなことを言うのかってことを聞いてるの!」 「市ノ瀬は触れられた反動を利用して逃げるつもりだ。それが、狙いなら触らなければいい。タイムアップまで市ノ瀬を周回するんだ」 「そんなやり方は卑怯だってば」 「ちゃんと勝ちたいなら手を抜くな。手を抜いたら試合後、みさきも市ノ瀬も傷つくことになる。わざと相手が有利になることをすればそういう結果になる」 「………」 「後味の悪い試合は誰の得にもならないぞ」 「……わかった」 「………」 市ノ瀬が悔しそうにじっとしている。動いたらすぐにみさきに背中を狙われるのがわかっているから、動けないのだ。 市ノ瀬が本気で勝つつもりなら、みさきの気が変わってドッグファイトを挑んでくるのを待つしかない。 互いに本気で勝ちたいと思って、この膠着状態は生まれているのだ。 「………」 佐藤院さんが俺を見ていたのに気づいた。 「………」 俺は佐藤院さんにうなずく。 「………」 佐藤院さんは少しだけ苦笑して、俺にうなずき返した。 ──これで試合終了だ。 こういう結末もある。 そしてこういう結末を招いてしまったのは、市ノ瀬に何かが足りないからだ。 数分後にホーンが鳴り、4対2でみさきが勝利した。 「お疲れ様。言いたいことがあるか?」 「ん〜。いや、別に。こういう試合もあるんだなって思ったけど……。手を抜いたわけじゃないから」 「うん。でも前半は手を抜いただろ?」 「誤解。やりづらかっただけ。市ノ瀬ちゃん、ちゃんと強かったからほっとしたよー」 強くて、ほっとする、って本当に傲慢だな。 それがみさきらしさなのかもしれないけど……。 「ありがとうございました」 近づいてきた市ノ瀬がそう言って頭を下げた。 「いえ、こちらこそ」 「ちゃんとプレイしてもらえて安心しました」 市ノ瀬は安心してたのか……。 「でも次は負けませんから!」 「あたしも負けるつもりはないよ〜」 そう言ってみさきは笑った。 笑顔で終わったのだから、これはいい試合だったのだろう。きっと。 最終的に、今日の戦績は二勝二敗のタイとなった。 市ノ瀬に勝ったみさきと、そして。 「あ、ありがとうございます! や、やりましたっ」 明日香が一回戦を見事に突破したのだ。 「おめでとー!」 「おめでとうございます!」 「凄い凄い! やったねー!」 「よくやったぞ。いい試合だった」 みんなが明日香を取り囲んで拍手をする。 「まさか勝てるとは思いませんでした。奇跡です! 奇跡が起きました!」 「そんなことないって。実力だよ、実力」 「いえ、奇跡です。何か変なことが地球規模で起きているのかも。私のせいで地球が危ない?!」 「想像が飛躍しすぎてるぞ。どうして明日香と地球がそんな密接に関係してるんだよ」 「でもそうとでも考えないと納得が……」 「実力だ、実力」 「でも……」 「でもじゃないぞ、倉科」 葵さんは少しだけ真面目な口調で、 「実力で勝ったんじゃなかったら、相手が可哀想だろ?」 「え?」 「もし倉科が逆の立場だったらどう思う? 相手が強かった、という理由以外で負けたとしたら、納得できないと思わないか?」 「……そうかもしれません」 「運だってあるだろう。それも含めての実力だ。それなのに、実力じゃないなんて言い方は、相手に失礼だ」 「……失礼ですか」 「そうだ」 「………」 「明日香は勝ってどう思った?」 「勝って……勝ってとても嬉しかったですけど、申し訳ないような気もして。嬉しいけど複雑です!」 「だったらそれでいいよ。次かその次の試合かわかんないけど、大会が終わればもっと気持ちはハッキリするから」 「……ハッキリですか」 「うん」 会場の端に目をやる。 「………」 「……あの?」 「トーナメントの勝者は絶対に一人だけだから」 「………」 「………」 「だからほぼ間違いなく明日香は負けるよ。勝った気持ちと負けた気持ちが明日の明日香の中に、ちゃんとあるから。だから、大丈夫」 「大丈夫、なんですか?」 「そう大丈夫。だから今は勝った気持ちを噛み締めてればいいんだ」 「──わかりました」 「晶也がわかったようなわかんないようなことを言って、明日香を言いくるめた!」 「え? 言いくるめられましたか、私?」 「言いくるめてない。経験することに素直になれって言いたかったんだ」 「素直ですか……」 「そういうこと」 「………。………。………」 「……不気味に、にまにま、してるね〜」 「す、素直にと思ったら自然にそうなっちゃったんです」 空を見上げると、今日最後の試合が終わった所だった。 「さて、今日は終わりだな」 窓果は手元のトーナメント表を見て、 「兄ちゃんと真白っちが負けて、明日香ちゃんとみさきが勝ったわけか。順当といえば順当か……」 「わたしの負けを順当とか言わないでください」 「当然だけど真藤さんは勝ったね〜」 「真藤さん、スタイルを変えてたのが気になるな」 「スピーダー寄りのオールラウンダーなのに、今日の試合はほとんどファイターだったもんね」 「真藤さんの試合、怖かったです」 真藤さんはセカンドラインでドッグファイトを仕掛けて、そのままラインを移動せずにタッチで得点を重ねて、圧勝していた。 対戦相手を潰そうとしているかのような試合だった。 「四島水産の二人も勝ってるね」 「……あの人たちはあたしと当たらないよね?」 「我如古さんと虎魚さんは逆ブロックだし、そもそも明日のみさきの初戦は真藤さんだから余計な心配しなくていいよ〜」 「あたしが負けるのを前提にするなー! 真藤さんに勝って決勝戦で当たるかもしれないんだからさ」 「そうです、そうです! みさき先輩の前では真藤さんなんか、存在意義を完全に喪失した存在でしかないんですから」 「みさきはFCの神様か何かなのか?」 「大まかな意味では、それで間違っていないかと」 「マジでか……」 「あははは、あたし神様だったんだ。だとしたら神社とかに奉られたりするのかな?」 「店の裏に神社を作りましょう。そこで暮らしてもらってもかまいません」 「ダンボールとかで作られそうだなー」 「いえいえ、大理石とかを使って、千年は残る立派なのを作ります」 「それは普通に困るなー。わりと困るなー」 「私、FCが上手になるようにお祈りに行きますよ」 「明日は真藤さんに勝ったら、みさきは神になるわけか……。よし、がんばろうぜ!」 「そんなのでモチベーションを保つのは無理だー」 みさきはちょっと無理した感じで、あははは、と笑ってから、 「……まあ、晶也に言われなくてもがんばるけどね」 「よし。明日香もがんばれよ」 「はい。明日も勝てるようにがんばります!」 「んじゃ、今日はこれで解散。真っ直ぐ家に帰るように」 「明日、同じ時間に集合だぞ。遅刻しないように気をつけてな」 「は〜い」 「は〜い」 「は〜い」 「は〜い」 「は〜い」 「はい!」 「なんとか終わったな……」 大会の一日目が終わり、みんなと別れて、帰宅する途中。 歩きながら、今日の試合を振り返っていた。 「明日香が勝ったのは大きいな。次の可能性も見えてきたし」 ポテンシャルの高さが形になって、結果に繋がったのはとてもいいことだった。 「……ただまあ、問題はこれからだな」 明日香の力では、ここからさらに勝ち続けるのはさすがに無理だろう。 となると、次の大会に向ける形で、何か収穫をということになる。 「何かの技術か、それとも戦術か」 明日香の戦い方を見つつ、判断していくことが迫られる。 「そして、みさきか」 現時点での能力を見ても、みさきが残るのはなんとなく予想はできた。 しかし、市ノ瀬に対して、ある種余裕とも取れるぐらいに力をつけていたのは意外だった。 「性格と言ってしまえば、それまでなんだろうけど……」 あれでは、真面目に取り組んでいた市ノ瀬が、ちょっとかわいそうに見えるぐらいだ。 「……むしろ、市ノ瀬が心配だよな」 まあ、高藤のメンバーを考えれば、ケアも対策もしっかりしているんだろうけど。 それに、試合後は元気も良さそうだったし。 「俺も会ったら声ぐらいかけ……」 気がつけば、家の目の前まで迫っていた。 そして。 いつの間にか、もうひとつ、目の前に迫っていたものがあった。 「あっ……」 市ノ瀬だった。 俺の方を見て、ペコリと頭を下げる。 「よ、よう」 俺も手を挙げて応える。 さっきの今で、なんだか妙な感じではあった。 ……まあ、隣同士で同じ大会に出ていたんだから、会っても全然不思議じゃないんだけど。 軽く今日の話をして、明日に備えて別れるはずだったのだが。 二人とも、今日の試合のことを話したかったのか、立ち話から窓越しの会話へと続いてしまった。 「そうですか、明日香さんは無事に一回戦を突破したんですね」 「ああ。本人も喜んでたよ。まだちょっと実感が無いみたいで、少し戸惑ってたけどな」 「戸惑う?」 市ノ瀬に、明日香の話をした。 奇跡ではなく、本人の力で勝ったということ。そして、それはまだ明日香の中では完全に消化し切れていないこと。 「明日香さんは、発展途上にあるんですね」 「そうだな、メンタルもまだまだこれからってことだ」 「すごいなあ……私なんかとは違うな……」 市ノ瀬は、少しため息をつきながら、ポツリとそんなことを言った。 「なんか、俺が言うのも変な話だけど」 「はい?」 「今日は、ナイスファイトだった。どっちに転んでも不思議じゃなかったよ」 「ふふ、ありがとうございます」 市ノ瀬はふっと笑うと、 「私の試合を見て、日向さんはどう思いましたか?」 「どう思う、か……」 一考した後、素直に言った。 「ハッキリ言うと、良くも悪くも素直な戦い方だと思った」 「素直、ですか」 「ああ。そこは正直、弱点だと思う」 ある意味、みさきに与しやすいと思われた要因でもある。 「でも、途中から奇襲も仕掛けただろう。ああいうのは、悪くないと思う」 「ドッグファイトを仕掛けた時ですね」 「ああ。ただ、みさきの得意戦術だからな。分が悪いところに飛び込んだのはミスだった」 「……そう、ですね」 「あれは、理由があったのか?」 「ええ」 市ノ瀬は、少し苦笑しつつ、 「途中、1対3になった時点で、気づいたんです。総合力で鳶沢さんには勝てないと」 「やっぱりあそこか」 急に市ノ瀬の動きが鈍くなったところだ。 あの時は、心が折れたのかと思っていたが、その後、逆襲を仕掛けてきたのには驚いた。 「で、佐藤院先輩に相談したんです。そしたら先輩から言われました」 「なんて?」 「『これからのあなたを考えるために、ちょっと試してみましょう』って」 「へえ……」 これまでとスタイルの違う戦い方、相手を攪乱させるやり方。 佐藤院さん本人とはまったく異なる戦い方だが、それを市ノ瀬に試させたのか。 結果負けはしたけれど、経験を積ませるという意味では良いコーチングだ。 「ドッグファイトもやってみましたが、それより何より、まだまだ経験が足りないみたいです」 「だから、もっと練習します」 「戦い方も、考え方も、未熟だということがわかりましたから」 「練習のための練習にならないように気をつけないとな」 「えっ?」 「いや、これはあくまで俺の感想なんだけど」 市ノ瀬の弱点とも言える、素直すぎる戦い方。 それは彼女を見る限り、練習にも表れていた。 ただ単に反復練習を繰り返すだけでは、そこからの脱却は難しいだろう。 「……素直すぎるというのは、そういうことも含めてなんですね」 「ああ。佐藤院さんも、同じことが言いたかったんだと思うよ」 「先輩が……ですか」 佐藤院さんのスタイルは、愚直なまでにオーソドックスだ。 だからこそ、自分と被るスタイルの市ノ瀬に、重ねて見ている部分もあるのだと思う。 「汚くなれとは言わないけど、もっと変わったことをした方がいいと思う」 「…………」 市ノ瀬は何かを考えるように黙り込んだ。 自分のスタイルを否定されるというのはつらい。可能ならば、信じた道をそのまま進んでいきたい。 しかし、今の市ノ瀬では、このままだと先へ進むことは難しいだろう。 なんとか、きっかけを掴んでくれるといいのだけど。 「あ、あの……」 しばらく経って、市ノ瀬が再び口を開いた。 「ん?」 ちょっと言いにくそうにしながらも、市ノ瀬は一度、ゴクッと息を飲んで、 「日向さんに、ちょっとお願いがあるんです」 「俺に?」 なんだろう。 さっきの流れからすると……。わかんないな。一体なんの話だろうか。 「その……久奈浜の練習になんですけど」 「時間のある時に、私も参加させていただけないでしょうか?」 「えっ……?」 思わぬ、提案だった。 「それは、どうして?」 「私、試合が終わったあと、佐藤院先輩から言われたんです」 「市ノ瀬さんは、もっと色んな物を見た方がいいって。そうじゃないと、すぐに限界に行き着くって」 「だから、ちょっとでもいいから、日常の出来事に変化をつけてみようかな、って」 「…………へえ」 いや、佐藤院さん。 ……あなた、やっぱりいい先輩であり、コーチだ。 さっき話していたことは、もうすでに、彼女にアドバイスしたことだったんだな。 「だから、せっかく親しくなったことですし、もっと久奈浜の人たちとも話したり、練習したりしたいって思ったんですけど……」 「ダメ、でしょうか?」 ギュッと自分の手を握りしめ、忠実な犬のような目でこちらを見る市ノ瀬。 この『お願い攻撃』を、拒否できる男などいるんだろうか。 「もちろん、いいよ」 「本当ですか!」 市ノ瀬は、ぱあっと明るい表情になると、 「ありがとうございます、ありがとうございます!」 何度も頭を下げつつ、礼を言った。 「そんなに礼なんか言わなくていいよ」 「でも、無茶なお願いなのに……」 「いや、これはうちの為でもあるから」 これからの久奈浜の成長を考えると、強豪校で練習してきた市ノ瀬の経験はとてもありがたい物になる。 それに、タイプの違う選手と戦って成長するのは、なにも市ノ瀬だけではないのだ。 「じゃあ、夏の大会が終わった頃合いで、いつ練習に来るか、相談しよう」 「はい、その時は部長と一緒に伺います」 「部長……か」 「どうかしましたか?」 「あ、いや、なんでも」 真藤さんが満面の笑みで現れる瞬間を想像した。 ……合同練習の引き替えに、妙なことをお願いされないといいけど。 「それじゃ、明日もあるしこの辺にしておこうか」 「はい、ありがとうございました。ではまた明日、会場で」 「ああ」 こうして、大会初日の夜は更けていった。 そして大会二日目。 真夏の太陽が照りつける中、今日も予定通り、会場に選手たちが集った。 大会の朝の独自の低いざわめき。 主催者側の準備の音と参加者側の準備の音。朝の眠気と、大会前の抑えた活気が入り混じっている。 マイクをテストする音が気づいたように響く、本部のテントや物販ブースが立ち並んだ場所を歩いている時、 「あっ……おはようござい……ます」 背後から話しかけられた。 そこには白瀬さんの妹、小動物的にもじもじしているみなもちゃんがいた。 「おはよう、みなもちゃん。お兄さんのお手伝い?」 「は、はい。あの……。……それも、あって……その、はい」 「ん? そっか……」 変に言いよどんだのが気になったけど、みなもちゃんはいつもこんな感じだからな。 「俺もお兄さんに用事があったとこだし、ブースまで一緒に行く?」 「え? ……あ、は、は、はい。……ご一緒……します」 「………」 「………。……あの?」 みなもちゃんが俺の斜め後ろに立ったままじっとしている。 「あ、ごめん。みなもちゃんが来るの待ってた」 「あ……ごめんなさい」 「別にあやまらなくていいけど」 お互いに歩き始めるきっかけを待つような変な緊張感が、一瞬、流れてしまった。 その雰囲気を消すためにわかっていることを質問する。 「お兄さんの出店、こっちだよね?」 「はい」 短い歩幅で足を素早く前後させて、トトトトとみなもちゃんは俺の横に並んだ。 「んじゃ、行こうか」 「………」 朝から何かいいことでもあったのか、みなもちゃんはニコニコ顔だ。 「そういえばみなもちゃんはFCはやってないの?」 「……はい。やってま……」 みなもちゃんは急に何かに気づいたように俯いて、 「……ません」 「んと……。やってないんだ?」 「は、はい」 「お兄さんに教えてもらえるし、環境もこれ以上ないくらい整ってるのにもったいないね」 「………」 「ごめん、もしかしてFC嫌いだった?」 みなもちゃんは髪をなびかせながら、ぶんぶん左右に頭を振って、 「ち、違います! 好きです!」 「そ、そうなんだ。だったらどうしてFCをしないの?」 口にしてから、人に話したくない理由があるかもしれないと思って後悔する。 「ごめん。答えなくてもいいよ」 「いえ……。その……恥ずかしいだけ……です」 「恥ずかしいことだったら答えなくていいから」 「あの……答えるのが恥ずかしいのではなくて……えっと……。飛んでるとこ……誰かに見られるのが……恥ずかしくて」 「そうなんだ」 ──飛んでるとこを見られるのが恥ずかしいか。 「そういえばいつかは思い出せないけど、前に海の上を飛んでるの見たよ。結構、綺麗な飛び方だった。さすが白瀬さんの妹さんだな、と思ったよ」 「……ッ!」 「ど、どうかした?」 「のぞき見をするなんて……晶也さん……えっち……です」 「のぞき見なんかしてないよ? えっちじゃないぞ?」 みなもちゃんはくすっと笑って、 「えっち……ですよ」 からかうように言った。 「だからそんなんじゃないって」 「はい」 くすくす笑いながら、みなもちゃんはうなずいた。 「練習すれば結構、いいとこいけそうだけどなー」 「……やっぱり恥ずかしいから」 「そっか。そこが問題か……」 精神的に引け目があると、もってる力を発揮できなかったりするからな。 「知らない人の……前だと……。緊張……するから」 「オッスだ、日向!」 「ひゃっ!」 背後から唐突に響いた声にびっくりして、みなもちゃんが飛び上がった。 「おう! 白瀬さんの妹さんもいたのか」 「お、お、お、おはよう……ございます」 「あれ? 部長はみなもちゃんのこと知ってるんですか?」 「筋肉の相談をしに白瀬さんの店には何度も行ってるしな」 白瀬さんと部長は相性がよさそうだもんな。 「そ、それでは私は……むこうに……用事があるので……」 「あれ? お兄さんに会っていかないの?」 「家で……会ってますから」 「そうだよね。それじゃ、またね」 「は、はい!」 みなもちゃんはペコリと頭を下げると、トトトとリスみたいに走っていった。 部長は遠ざかる背中を見つめて、 「アレか? 日向は妹キラーか?」 「いや、一度もキラーしたことないですよ」 「ウチの妹ならたまにキラーしてくれてもかまわんぞ」 「殺しませんから心配しないでください。……部長、会場に来てたんですね」 昨日のこともあって、会場に来ないんじゃないかと思っていたので、少しほっとした。 部長は毅然と胸を張って、 「一回戦で負けたとはいえ、部長として部員連中の試合を最後まで見届ける義務があるだろ」 「そうですよね」 「やー、おはよう晶也」 部長の肩越しに白瀬さんが顔をのぞかせた。 「あれ? 二人は一緒だったんですか?」 さっき店に行くとは言っていたけど、行動を共にするような仲になってたんだ。 「俺と白瀬さんは仲良しだからな」 「筋肉で結ばれた二人なのさ」 「気持ち悪い表現ですね」 「今日は僕の方から彼にちょっとした用事があってね」 「用事?」 白瀬さんは俺に顔を近づけて、わざとらしく声を潜め、 「ここだけの話なんだけど来年、スーパーフライが計画されていてね」 「スーパーフライって超長距離レースの?」 「そう、それ」 アメリカの西海岸やフィリピンなんかで行われ始めた競技だ。 最低でも100マイル、つまり160キロ以上の距離を飛び続ける過酷なレースだ。 「日本じゃまだ開催されたことないんだけど……」 「白瀬さんが言うには、仇州一周のレースの開催予定があるらしくてな。それに参加しないかって誘われてたとこだ」 「それ部長に向いてると思いますよ」 長距離レースで俊敏な動きは必要とされない。長い距離を安定した姿勢で飛び続ける力が必要とされる。 ちょっと頭おかしめなグラシュを愛用している部長なら、普通のスカイウォーカーよりずっと楽に対応できるだろう。 きつめにスピーダー調整してあるインべイドのバルムンクなんて、それこそ会場を見回しても部長以外に誰も履いていない。 「ただ、それだけの長距離となるとスタミナ面でどうなるかがわかんないですけどね」 今の部長みたいにバキバキの体だと、疲れの元となる乳酸が溜まりやすいので、長距離向けではないと思う。 短距離走の選手に長距離走をさせるようなものだ。 「そこらへんはこれから肉体改造していくってことで……」 「まあ、参加してみるのはいいんだ。……しかし、だな」 「何かあるんですか?」 「………。……………。………………」 部長はまぶしそうに青空を見上げ、 「俺は昨日の試合、後悔してないぞ」 「はい」 部長に後悔は似合わないと思う。 「だけど後悔しているんだ」 「え?」 「勘違いするなよ。後悔はしてないけど、後悔はしてるんだ」 「……どういうことですか?」 「昨日の自分に一切の後悔はない。だけど……FCに対する後悔はあるんだ」 部長はニヤリと微笑んで、 「あれはFCじゃなかったからな」 「だね。我慢比べというか、意地の張り合いみたいな試合だったね」 「はい」 もしかしたら勝てていたかもしれない試合だ。 「──だからな」 「はい」 「この学院でのFCは終わったけど、FCは続けたいんだ。もしスーパーフライに参加するとしても肉体改造はしない」 「……すみません。俺がもっとしっかりセコンドできてれば……」 「日向が謝る必要はないぞ。俺がちゃんと日向と向き合えなかっただけだ。だけど今は、そういうのができそうな気がする」 部長は苦笑して、 「そう思えるのが遅かったけどな。とにかくちゃんとFCと向き合ってみたいんだ。教えてくれて、ありがとな、日向」 「そう言ってくれるのは嬉しいですけど、俺がちゃんと指導できなかったわけですから……。でも、その……そう思ってくれて、ありがとうございます」 「あはははっ、青春だね。いいね。見てるだけで若返りそうだ」 「俺はここでみんなの応援をしてるから、何かあったら来てくれ」 「みんなと一緒に応援しないんですか?」 「最後の試合で負けた俺が行ったらみんな気を遣うだろ? そういうとこでテンションを下げてしまいたくないんだ」 「部長がそう言うなら……」 それが部長の厚意みたいなものなら受け取っておこう。 「それじゃ、俺は行きます」 「がんばれよ、日向」 「はい」 俺は大きく頷いてから歩き出した。 二日目の競技がスタートした。 いよいよ、みさきと真藤さんの試合だ。ウチの部としては最も意味のある試合になると思う。 ──なんとか喰らい付いて欲しいんだけど。そのためにはどうしたらいいのか……。 「昨日の試合で真藤さんはオールラウンダーのくせに、バチバチのドッグファイトでファイターに圧勝したな」 「まさかファイター相手に、ブイをまったく狙わず、次のラインに進ませない鳥篭状態にしちゃうとはね」 セカンドラインの中だけで戦って、11対0の大差で真藤さんは勝利していた。 実力差があったんだろうけど……。 「あたし、ああいう試合あまり好きじゃないなー」 「まあ、ちょっと陰惨な感じになっちゃうからな。はー。あんな試合を見せられちゃうとな……」 「遠い目をするな! ちゃんと作戦を考えてきたんでしょうね」 「考えてるって。真藤さんは前の合同合宿の時と比べて、ドッグファイトに磨きをかけたみたいだな」 「だねー。合宿の時は、スピードで翻弄されちゃったし。ドッグファイトじゃあたしの方が優勢だったんだけど……」 ──あの試合を見ると今は互角といったところだろう。 もし勝ちに徹するなら、真藤さんが想像もしてなかった作戦に出る必要があるけど……。 「いまさら逆をついて、スピーダーをやれと言っても無理だろ?」 「絶対、無理」 「……だったらみさきの得意なドッグファイトでやるしかない」 「そこにしか勝機はないかー」 「みさきは誰が相手だろうと勝機はそこにしかないだろ」 生粋のファイターだからな。 「多分、真藤さんもそのつもりだろうしな」 昨日の試合は、バチバチやろうよ、というみさきへのメッセージなのだと思う。 「あんな形で宣戦布告してくるなんて、真藤さん、人のよさそうな顔して結構、熱いとこあるねー」 「強い人は熱いとこがあるもんだよ」 そういう熱さがないと、ハードな練習に耐えられない。 「あたし、闘志をむき出しにされるの苦手だな」 ──怖くないのがヤで、闘志を出されるのもヤなのか。 本当に面倒だな。 「苦手だろうと得意だろうと、自分ができることを全力でやるだけだぞ」 「はいはい。わかってますよ、コ〜チ〜。一応、合宿の時のリベンジはしておきたいしさ。で、どう戦えばいいかな? 弱点とか発見できなかった?」 「……試合を見て思ったんだが、真藤さんはキリモミが遅い」 「キリモミ、ね」 横から覆いかぶさるように背中を狙われた時、その場で横方向にスピンして逃げるテクだ。 「前の試合、一瞬劣勢になった時、それで逃げたんだけど」 「けど?」 「対戦相手は翻弄されて逃がしちゃったけど、みさきならあの速さのキリモミに対応できると思う。そこで追い込めば連続得点も可能かもしれない」 「ふ〜ん」 「なぜそんな気の抜けた顔をする?」 「それって真藤さんを、あたしから逃げる、という状況に追い込まないといけないわけだよね?」 「終始その状態にしろ、と言ってるわけじゃないんだ。バチバチやれば、必ずみさきが攻撃する状況を生み出せるから」 攻撃した直後は、誰にとっても攻撃されやすい姿勢だ。 なぜかと言うと、防御姿勢がもっとも崩れるのが、攻撃姿勢だからだ。 実力差があれば一方的にやられることもあるだろうけど、みさきと真藤さんの差なら、一方的にやられることはないはずだ。 相手の防御と自分のスタミナがある以上、永遠に続く攻撃のコンビネーションなんて存在しない。 不利になっても我慢を重ねれば、必ず攻撃のチャンスが来る。 「真藤さんがキリモミで逃げようとしたら畳み掛けろ」 「えっと……。つまり、こういうこと? キリモミ中の真藤さんの背中を全力で追ってタッチ」 「キリモミは体の中心軸で回るテクだから、タッチで崩してもスピードは落ちづらいけど……」 「その分、キリモミから別の飛行に変えるのに間ができる……。ということを言いたい?」 「言いたい。うまくやれば真藤さんをずっとキリモミの檻の中に、閉じ込められるかもしれない。そうなれば連続得点のチャンスだ。」 「……そううまくはいかないよね?」 「いかないだろうな。でも勝つならチャンスはそこにあると思うぞ」 「……はー」 みさきは短いため息を捨てるように吐いて、 「最初は失点覚悟でバチバチやるってことね?」 「そういうことだ。どっちにしろ、バチバチやり合う中でしか、得点チャンスはないんだからな。気合入れていけ」 「気合だー気合だー気合だー」 「そういうこと。いいか? 集中力を切らすなよ?」 みさきは、飽きっぽいというか、諦めが変にいいとこがあるからな。 「わかってますよー。と、そろそろ試合開始だね。んじゃー、行ってきます。とぶにゃん!」 「――真面目にやれば勝てると思うぜ」 「本気で言ってる?」 「わりと本気で言ってる」 「わりと、ね」 んふっ、とみさきは可愛らしく笑って、 「ありがと。がんばってくる」 「よろしくね。鳶沢さん」 「どうもどうも〜。よろしくお願いします。手を抜いてくれると助かるんですけどね」 「あははっ。そういうわけにはいかないな。この大会に出るのは今年で最後だから、悔いのないように全力で飛ばせてもらう」 「あたしもがんばりますから、バチバチ来てくださいね。バチンバチンで楽しくやりましょうよ」 「そういう展開になればね」 「無駄な話はしないように。試合、開始するよ?」 「はいは〜い」 「じゃ、よろしくね」 「よろしくお願いします」 「セット!」 間を置いて、試合開始を告げるホーンが鳴り響いた。 「………」 真藤さんはローヨーヨーで加速しながらファーストラインをセカンドブイめがけて飛んでいく。一方、みさきはショートカットしてセカンドラインに向かう。 「落ち着いてしっかり真藤さんを止めろよ」 「わかってる」 セカンドブイにタッチして1点獲得した真藤さんが、ラインに沿って、みさきに向かって真っ直ぐ加速してくる。 「………」 「えっ?!」 唐突な動きだった。みさきが反射的に上に向かったのだ。 「えっ? あっ……うわっ?!」 その下を猛スピードで真藤さんが通過していく。 はぁ?! 「あれ?」 どうして自分から進路を空けたんだ?! 「止めるチャンスだったのに何やってんだ?!」 完全に抜かれた状態で、ファイターのみさきが後を追ってももう遅い。 「じっとしてれば止めれただろ!」 みさきはサードラインへショートカットしながら、 「上に行くってフェイントに引っかかっちゃったよ〜」 「フェイント?」 「うん。肩を、くいくいっ、て動かしてたから急上昇するのかと思って先回りしようとしたら抜かれちゃった」 どういうことだ? ──フェイントを入れたにしては、真藤さんのスピードは全然落ちなかったぞ。 「次はごまかされるなよ?」 「わかってる」 みさきがサードラインへとショートカットする間に、真藤さんはサードブイにタッチ。 これで0対2。 「………」 「次は止めるよ〜」 「………」 「えっ? ちょっ、ちょっと! わっ? わわわっ?! えっ? ええええええっ?!」 真藤さんは、スピードを殺さない緩やかな角度の上下蛇行をし、肩や首で間違った方向を指し示すわかりやすいフェイントをばらまいてから、本当の急降下。 「………」 「え? えええ〜っ?」 フェイントに引っかかりまくって、完全にバランスを崩したみさきの4メートルくらい横を真藤さんは楽々と通過していく。 みさきは追えないから、これで0対3だ。 「あれ? あれ? あれ?」 どうしてこんなことに……。 なんでこんな簡単にフェイントに引っかかってるんだ? ………。……あっ! しまった! 前の試合自体がフェイントだったのか! 俺の作戦ミスだ! 「みさき! 真藤さんはバチバチするつもりはない!」 「ど、どういうこと?!」 「本気で勝ちに来てるんだ! 前の試合でバチバチやって見せたのは、俺達にドッグファイトを印象付けるためだったんだ」 「え?! 真藤さんってそんな小細工するの?」 「それだけ本気だってことだろ。みさきは真藤さんがバチバチやりに来ると思い込んでるから、フェイントに簡単に引っかかるんだよ」 「そっ、そうかも……」 真藤さんのドッグファイトで有利なポジションをとるための動き、とみさきと俺が思っていたものが全部、高速で突っ切るためのフェイントになっているのだ。 くそっ! 最初に抜かれた時に気づいていれば! あの時、スピードが落ちなかったのは、肩を微かに動かすだけのフェイントだったからだ。 みさきは元々、相手の動きに対する反応がいい選手だ。それがドッグファイトで強い理由。瞬間、瞬間で相手の動きを読んで先回りできる。 だけど、今はその反応のよさを逆手に取られてしまってる。小さなフェイントに過剰に反応してしまってるのだ。 「どうすればいい? どうすればいい?」 「混乱するな。フォースラインに真藤さんが来るまでには時間がある。深呼吸」 「うん。すー、はー、すー、はー」 「フェイント全部無視。反応するな」 「反応するなって言われても!」 「真藤さんは基本的な動きをしてるだけで、トリッキーな変化はつけてない。次もきっと同じやり方でくる」 2回同じパターンが通用したのだ。得点を奪えている間は、作戦を変えないのはFCのセオリーだ。 真藤さんはセオリーを大切にする人だから……。 って! バカか、俺は! 真藤さんは基本に忠実でセオリーを大切にする人だ、ってわかってたのに! オールラウンダーの真藤さんが、勝てる自信があったとしても、みさきレベルのファイターに、ドッグファイトを自分から挑んでくるわけないじゃないか! 「相手はスピーダーだと思ってやるんだ。いくら真藤さんが速くても部長よりは速くない。フェイントに引っかかられなければ余裕で押さえられるはずだ」 「わかった。やってみる」 みさきがフォースラインへとショートカットする間に、真藤さんはフォースブイにタッチ。 これで0対3。 「………」 「とっ、あっ! うわわっ?!」 やっぱり真藤さんのフェイントに引っかかってしまう。抜かれまくった動揺が消えてないのだろう。 ──みさきはメンタルが弱いからな。 「ちょっ、とっ、届け!」 それでも姿勢を正して、真藤さんに向かって手を伸ばす。 おしい! つま先の部分だったけど、もう少しで触れられそうだったのに! 「くっ!」 「追うな、みさき! 追いつけない! ファーストラインにショートカットだ」 「うっ。くぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」 みさきがファーストラインへとショートカットする間に、真藤さんはファーストブイにタッチ。 ──これで0対4か。 ここまで一方的にやられるとは思ってなかった。厳しい序盤になってしまったな。 「どうしよう? どうしよう? どうしよう? フェイントに体が勝手に反応しちゃう!」 「……これは半分反則というか、マナー違反だと思うんだけど、ファーストラインについたら、目を閉じるんだ」 「目を?!」 「見るから反応しちゃうんだろ。俺が指示を出すからその通りに動くんだ。俺が目を開けろと言うまで閉じてろ」 「……………わかった。晶也を信じる」 みさきがファーストラインに辿り着くとほぼ同時に、真藤さんがファーストラインに沿って真っ直ぐ加速してくる。 「……………」 「俺を信じろよ」 「わかってる。信じる」 俺は真藤さんを凝視する。 「……………」 「…………?」 真藤さんがフェイントに無反応なみさきに気づいた。 今だ! 「目を開けて、9時の方向に全速!」 「オッケーッ!」 ちょうど真藤さんの蛇行が上昇から下降に移動する瞬間。そこを真下から! 「やっ! と」 「くっ!」 みさきの手が真藤さんの胸にふれる。真藤さんが真上に跳ね上がった。 「みさき、ナイス!」 下がる瞬間を下から突き上げたから、かなりスピードを殺すことができたはずだ。 立ち直りは生粋のファイターであるみさきの方が早い! 「一度、さわれば!」 相手に触れないのはテンションがかなり落ちるけど、触ることができれば一気に上がる。 自分のペースに持ち込めるかも、という希望はかなり大きい。 「……ッ!」 「うっ!」 立ち直りかけの真藤さんの胸をもう一度、下から押し上げた。さらに真藤さんのスピードを殺し、バランスを崩させる。 「みさき、今だ! 横から回り込んで背中を狙え!」 「オッケー!」 ファイターの初速の速さを活かして、蛇のように体をくねらせて真藤さんの背中に回りこむ。 「やっ!」 「くっ!」 真藤さんが回避行動を取る前に背中に触れた。 真藤さんが真下に弾かれる。 これで1対4。 「いいぞ! 連続ポイントのチャンスだ!」 反重力とはいえ、重力の影響から自由なわけではない。反発しているだけで地球の重力はちゃんと働いているのだ。 だから、上昇するよりも下降する方がスピードが出る。 今、みさきは真藤さんの真上! 一気に距離を詰めることができる。 「真藤さん! 練習試合の時みたいにバチバチやりましょうよ!」 「できればやりたくないんだけどね」 真藤さんは海面に背を向けて水平になり、みさきと向かい合い、両手両足を広げて姿勢を安定させた。 姿勢は安定するけど、スピードは出しづらくなる。 「真藤さんはリバーサルするつもりだぞ!」 「大丈夫、その前に上から押さえ込んで潰すから」 リバーサルとは上から来る相手の脇をくぐり抜けて、逆に自分が上へと出るテクニックだ。 「………」 真藤さんの首と肩が、みさきから見て右側に動く。みさきの右側を抜けようとする動きだ。 「真藤さんにはこのまま下にいてもらいます!」 蓋をするみたいに、みさきは右側に体を傾けて……。 あっ! いつの間にか、真藤さんはエビゾリになって両足を右側に移動していた。 「それ!」 みさきから見て右側にあったはずの真藤さんの顔が、ぶんっ、と一気に左側に移動した。足を基点にして体を戻したのだ。 「えっ?!」 高速で近づいていたみさきからは、真藤さんが消えたかのように見えたはずだ。 「バチバチやろうか?」 一瞬でみさきの左脇を抜けた真藤さんが真上から、 「うわっ?!」 みさきの背中に触れた。 1対5。 くっ! みさきのメンタル面の弱さが出たか……。 リバーサルを狙う相手は高速移動できないのだから、ゆっくりと近づいて上がってくるとこを潰せばよかったんだ。そうすればフェイントに引っかかることもなかった。 勢いに任せて慌てて近づくから……。 って、そんなこと悔いていてもしょうがない。 「バチバチに持ち込むのが目的なんだからそれでいい! 真藤さんもバランスを崩してる」 リバーサルした直後、全身をくの字に折り曲げた状態で、みさきの背中に触れたから、弾かれた反動から回復できてない。 立ち直りはファイターのみさきの方が早いはずだ。 「えいっ!」 みさきが斜め上の真藤さんに襲い掛かる。 あっ! 真藤さんの横からのしかかるように背中を狙う形だ。 俺達が求めていた姿勢! 「行け! みさき! チャンスだ!」 「うん!」 「………」 真藤さんがキリモミで逃げようとする。それにあわせてみさきが移動する。 いける! いける! いける! 真藤さんに勝てる! 「私の方が速いっ!」 んっ?  真藤さんの動きに違和感。 まるで、自分から隙を見せたかのような──。 あっ! 「ダメだ! タッチするな!」 「えっ?!」 俺が叫んだ瞬間、みさきはもう真藤さんの背中にタッチしていた。 2対5。 「………」 真藤さんはみさきを一瞥もせずに、タッチされた反動を利用して綺麗な飛行姿勢に入っている。 「あっ」 みさきがタッチした方向は、セカンドブイのある方向。反動を初速に利用されてしまった。 逆方向に反動をくらったみさきが追いつくことは不可能。 「くっ!」 俺はバカだ! 自分のヘッドセットを叩き落としたくなるのを堪える。 こんなの初歩の失敗だ! 真藤さんがバチバチで来ることを否定していたのに、あの場面ではバチバチで来るんだ、と思ってしまった。 真藤さんの逃げを俺は想像できなかった。 「みさき……。セカンドラインへショートカットだ。気持ちを切らすなよ。最後まで何があるかわからないんだからな」 「……わかってる」 そう答えたみさきの声は完全に折れてしまっていた。 ──結局。それからブイで得点を重ねられて、2対7でみさきの負けとなった。 落ち込んでいるかと思っていたが、戻ってきたみさきの顔はなぜか明るかった。 「真藤さんとセコンドの佐藤院さんに挨拶してきたのか?」 「してきた。ありがとうございます、勉強になりました、って」 「勉強に?」 なんだかみさきらしくない言葉だ。 みさきは軽い感じで笑って、 「いやー、圧倒的に負けちゃったけど、見た目ほど圧倒的じゃなかったと思うんだよね〜」 「というと?」 「そもそも真藤さんがバチバチで来ると思ってたから、序盤に一気に4点もとられたわけで、そういう思い込みがなければ展開は違ったはずだし」 「それはそうだろうな」 「攻撃にしてもキリモミとリバーサルで判断ミスしたのってあたしの慌てすぎだし、もっと言えば経験不足ってことだよね?」 「確かにな。あそこはしなくてもいいミスだった。俺も悪かったと思ってる」 「……真藤さんってさ、全国で最強クラスなわけでしょ?」 「んっ? そうだな」 「もっと練習すれば私だってそこまで行けるかもな〜。なんて」 「………」 「どうしてビックリした顔をするの!」 「それって今までより真面目に練習するってことだぞ?」 みさきは真剣な顔をして顎を引き、 「わかってる。今はそういう気分なんだからいいじゃない」 言い終えてから照れくさそうに笑った。 みさきの意外な反応に驚いたその少し後。 さらに驚くような出来事が、久奈浜のメンバーにもたらされた。 「す、すすす、すごいですっ」 明日香は興奮した様子で首を上下に振りながら、 「まさか二回も勝てるとは思ってませんでした!」 そう。 明日香が昨日に続き、二回目の戦いも勝利を収めたのだった。 トーナメント運がかなりよかったのだけど、それにしても二回も勝ったのだ。 つい最近まで素人だったし、部内の練習試合じゃ最下位だったけど……。 「試合を始めたばかりの頃ってこういうことがあるんだよ」 「……ビギナーズラックという意味ですか?」 「そういうことじゃなくて、試合中に強くなるってことだよ」 「え? わ、私、強くなりましたか?」 「強くなった」 努力にしろ、才能にしろ、強くなるっていうのは、たくさんある、何か、をどれだけ多く掴めるか? ということなのだ。 上級者は掴めるモノが少なくなっているので、練習でも試合でもなかなか上達しない。 何かを一つ掴むために、血のにじむような努力をしなくちゃならないこともある。 だけど、初心者は掴めるモノがたくさんあるから、一度にごっそりと掴んで、急激に強くなることがある。 「自分ではわかりませんけど……」 「わからないんだったら、真藤さんと戦って自分の強さを実感してくればいいよ」 俺は横を見て、セコンドの佐藤院さんと話している真藤さんを見た。 佐藤院さんは、部長にスピードで圧勝した乾に、一方的に翻弄されて負けている。 ──あの試合を見るとやっぱり部長に、優勝のチャンスはあったと思うんだよな。 初めて会った時、部長は佐藤院さんに負けていたけど、周囲が思っている程に実力差はない。 乾の試合を思い返すと、やはり胸がチクッと痛む。 部長が勝負にこだわる性格だったら、違った展開にできたかもしれないのに……。 乾か……。──気になるな。 って、今はそんなこと考える場合じゃない。 「みさきとの試合を見てたと思うけど、真藤さんは絶好調だ」 「きっと凄いんでしょうね! 間近でどんなプレイが見れるのかドキドキします」 素直すぎる反応だな……。 「で、作戦なんだけど……」 「真藤さんが相手だったら、全力でぶつかるしかないんじゃありませんか?」 「それはそうなんだけど、真藤さんが相手だと全力を出す前に潰されてしまうかもしれない」 「それは困りますっ」 一回戦の相手は一方的にやられていたからな。明日香もそうなってしまう可能性はある。 「だから明日香が全力を出せる状況を作り出さないといけない」 「はい! そのためにはどうすればいいですか?」 みさきの時はドッグファイトでその状況を作ろうとしたけど……。 正直言って、明日香の場合は真藤さんを上回っているかもしれない、という部分がない。 ──あえて言うなら、咄嗟のひらめきか。 明日香はこっちの想像を超える動きをすることがある。だけど、咄嗟のひらめきがいつ出るかなんて、誰にもわからない。 というか、咄嗟のひらめきを頼りにプレイするなんて、あまりいいこととはいえないけど……。 そこにしか武器がないなら、それで戦うしかない。 「明日香が全力を出すには、できるだけ長い時間、真藤さんに近づいていないといけない。どうしてかわかる?」 「えーっと……。……んーっ、と」 少し考え込んでから、 「真藤さんはスピーダー寄りのオールラウンダーだから、距離を取ったらブイを狙われてしまう、ということですよね?」 「そういうこと」 どういう試合展開になるとしても明日香から距離を取る、という展開だけはナシだ。 「だからといって最初から近づいたらスピード勝負になる」 「それだと引き離されてしまいますよね」 「だから、明日香はショートカットして待ち構えることになる。だけど、みさきがやったみたいに頭を押さえる作戦はダメ」 「どうしてでしょうか?」 「その方法で明日香が真藤さんを押さえられる可能性は低いから」 「……そうですね。私、みさきちゃんみたいに素早くないです。真藤さんにぴゅ〜と行かれてしまいそうです」 「だからなるべく長い時間、真藤さんの近くを飛ぶんだ。近くにいれば何かが起こるかもしれない」 「何かとはなんでしょうか?」 「……それは、その……。何かだ」 明日香は、うんうん、とうなずいて、 「なんとなく素敵な感じはします」 「そ、そう思ってくれるならよかったけど……」 真藤さんが何かを起こすかもしれないし、明日香が何かを起こすかもしれない。 真藤さんがプレッシャーを感じて、変な動きをして自滅してくれるのが理想だけど……。それは期待しない方がいいか。 「ショートカットしたら、なるべく最初のブイに近い位置のやや高めで旋回しながら待機」 「やや高めで旋回しながら待機ですか。……ということは、できるだけスピードを殺さないように、ということですね」 「そう。真藤さんはブイからブイへ真っ直ぐに飛ぶはずだから、真藤さんの横の少し前を狙って飛ぶように」 「少し前、ですか?」 「真藤さんの方が速いから。少し前を押さえるくらいで丁度いい。前に出すぎると、真藤さんが明日香を追い抜きやすくなるし、自分よりスピードの速い相手の後ろにつくのは無意味だ」 「そこが私にとってちょうどいい距離、ということですね。それで少し前の横を飛べたらどうしますか?」 「できることをするんだ」 「できることって……なんですか?」 「背中を狙えるなら狙うし、飛行の邪魔をするために全身で頭を押さえにいってもいいし、どこでもいいから、触れられるなら触れるんだ」 「つまり……そこで全力を出すわけですね!」 俺は明日香を安心させるために、自信たっぷりに見えるようにうなずき、 「真藤さんのペースになってしまうのだけは避けたい。自分から動いて動いて動いて真藤さんのペースを乱すんだ」 「はい!」 「ラインの終わりまでついていくと、ショートカットのタイミングがなくなるから、絶対に俺の指示に従うように」 「わかってます! コーチを信じてますから!」 ショートカットの意味は先回りできることにある。 ショートカットのタイミングをミスしたら、先行を許してしまって、次のブイへのタッチも簡単にされてしまうことになる。 戦って2点を失うならともかく、そんなミスで2点を失うのは避けたい。 「上で待って、ブイを狙う真藤さんと並んで飛ぶ、というのはわかりました。でも、真白ちゃんと佐藤院さんの試合みたいに……」 「真藤さんが積極的にドッグファイトを仕掛けてきたら、ってことだよな」 「はい。受けた方がいいですか?」 「受けちゃダメだ。真藤さんはみさきを翻弄できるくらいドッグファイトが上手だ。正直に言って明日香じゃ相手にならない」 「そ、そうですけど……逃げる自信もありません」 「できるだけ全力で逃げるんだ」 「……逃げる」 「そう逃げる。明日香の目的はできるだけ長い時間真藤さんと並んで飛ぶこと。逃げるのもその目的に適ってる。全力で逃げるんだ」 「全力ですね!」 「そう全力だ。……よし。じゃ、そろそろ時間だ。行って来い!」 「はい! 全力を出してきます、コーチ!」 明日香はファーストブイに向かって、真っ直ぐに飛んでいった。 ──明日香の全力で真藤さんが少しでも慌ててくれれば。そこに明日香の咄嗟のひらめきがはまれば……。 落ち着くために小さな息を吐き捨てる。 ──もしかしたら。 何かが起こるかもしれない。 勝てるかも、とまでは思えない。 「あの言葉……伝えとくべきだったのかな」 俺が誓った、あの言葉。 誰よりも強くなれる言葉を、今は明日香の為に、噛み締めていた。 「少し前まで初心者だったのに、よくここまで上がってきたね」 「がんばりました。全力でがんばりますので、よろしくお願いします!」 「……全力か。それなら僕も全力でがんばろうかな」 「はい! よろしくお願いします!」 「まさか明日香ちゃんがここまで残るなんてねー」 「ほんと、びっくりですにゃー。もっともあたしは最初からやる娘さんだと思っていたけどね」 「本当に?」 「本当だって」 「明日香先輩がファーストブイに向かってますよ! ガンバレー! 明日香先輩!」 「がんばれ〜、明日香ー」 「がんばれ〜」 「もっと真剣に応援してください」 「真白っち盛り上がってるね」 「真藤さんはギタギタのメタメタにされるとよいのです。落下してオットセイにお尻を噛まれればいいと思いませんか?」 「なんでオットセイ?」 「サメやシャチだとしゃれにならないじゃありませんか。でもオットセイだといい感じに笑えそうです」 「でもオットセイはなかなか凶暴らしいよ。お尻を噛み千切られたりしたら笑えないよ?」 「じゃ、トビウオでどうでしょうか?」 「急にスケールが小さくなったね」 「う〜ん。……鮭あたりでどうかな?」 「さすが、みさき先輩! トビウオだと口が小さすぎて面白みに欠けますもんね。ここは是非、鮭さんに頼みましょう」 「そんなこと真顔で言うなんて、凄いぞ真白っち」 「真藤さん、真白にそこまで言われるようなことした?」 「合宿の時にお尻をさわられたとか?」 「そんな私怨はありません! みさき先輩のことです!」 「あたしのこと?」 「まったく、ぷんぷんですよ。みさき先輩に勝つとは……。真藤さんは空気を読めない人ですね」 「最後の大会の真藤さんに勝っちゃう方が、空気を読んでない気がするけどね〜」 「むぅ。……ということはみさき先輩は真藤さんを気遣って?」 「え? ん〜。ま〜、そういうとこもあるかもね〜」 「さすがみさき先輩!」 「まあ、秋の大会あたりでは気兼ねなくさくっと優勝しちゃったり?」 「頼もしすぎます! 不肖、有坂もせいいっぱいお手伝いします」 「あははは……。優勝は冗談だけど、真藤さんがいないなら上位には行きたいよね」 「試合が始まりましたね。がんばれ明日香先輩!」 「やっぱり明日香はショートカットか……」 「同じオールラウンダーでも真藤さんの方が、ずっと速いからね〜」 「まずは普通にスタート、ということですね」 「変な負け方して傷ついたりしなければいいけど……」 「明日香ちゃんは変に強いから、そういうのは余計な心配だと思うなー」 「だろーけどねー」 「ガンバレ! ガンバレ! 明日香先輩、ガンバレ!」 明日香がショートカットを完了する少し前に、 「………」 真藤さんがブイに触れた。 0対1。 ──やっぱり真藤さんは速いな。 明日香がもうちょっとブイよりにショートカットしていたら、勢いでぶっちぎられていたかもしれない。 さてと……ここからだな。 「………」 明日香も俺も息を潜めて、真藤さんの判断を待つ。 ラインに沿って飛んでブイを狙うか。それともドッグファイトを挑んでくるか……。 真藤さんは上空の明日香をチラリと見て、 「………」 ラインにそって真っ直ぐに飛び始めた。 「明日香! 行け!」 「はい、コーチ!」 明日香が下降の加速を利用して、真藤さんに斜め上から近づいていく。 「………」 「横を飛ばせてもらいます!」 「僕の横をか……。どういう作戦なのかはわからないけど、ついてこれるかな?」 「むっ」 加速していく真藤さんに明日香がついていく。少し前方を狙っていたから、その分の余裕がある。まだ簡単に振り切られる状況ではない。 ──ここから先は明日香のひらめきに期待か。 咄嗟の判断に指示を出すのは不可能だ。 ……明日香の全力を見せてくれ。 「………」 んっ? 真藤さんの加速が弱い? それとも明日香が速いのか? あれ? 真藤さんが何を考えているのかわからないけど──。 このスピードで併走すれば、もしかしたら明日香が真藤さんにタッチできるんじゃ……。 そう思った瞬間、 「えい!」 明日香が全身を傾けて、真藤さんに急接近する。 ナイス判断だ! 「………」 「えっ?」 「えっ?」 真藤さんが消えた? 明日香が手を伸ばした位置に、真藤さんの背中があったはずなのに。 ……ッ?! 「………」 真藤さんが垂直の状態で飛行していた。飛行の前傾姿勢から、体を起こして急ブレーキをかけたのだ。 何を考えてるんだ? 明日香から逃れるためだろうけど、そんな風にブレーキをかけたら不利になるんじゃ……。 ドッグファイトを誘ってるのか? だったらその誘いには乗らない! 「明日香、サードブイを狙え!」 「はい!」 セカンドブイから少し前方に出る感じで併走していたから、厳密に言うと反則になるんだけど、ずっと併走していたから審判が見逃す可能性は高い。 ──反則をしてでも真藤さんを混乱させたい。 「えっ?」 「えっ?」 急ブレーキをかけたはずの真藤さんが、瞬間移動をしたかのように距離を縮めて、 「本気でやるって言ったじゃないか」 明日香の背中にタッチをしていた。 「わっ? わっ? わわわっ? えっ? ええ〜〜〜〜っ?!」 明日香が斜め下へ倒れるようにバランスを崩す。 0対2。 「………ッ!」 いっ、今の──。 今の──。……コブラだ。 飛行中に両手を広げながら身を起こしてブレーキをかけた後に、すぐに飛行姿勢へと戻して加速。 首を広げて威嚇するコブラの姿勢に似ているところから名づけられた技の名前。 待てよ! ──コブラだなんて、そんなのプロの技だろ。こんな大会で出てくる技じゃないぞ。 わずかな飛行姿勢のブレで、ブレーキをかけすぎて停止してしまう危険をはらんでいる。 練習でふざけて出すならともかく、試合で出すなんて……。 「コーチ! 何が起こってるんですか? あれ? あれれ? 真藤さんは?」 「えっ? あっ! 真藤さんは……」 どこだ? 俺が見失うって。何のためにセコンドをやってるんだ! 真藤さんは? 真藤さんは? 「真藤さんは真上だ!」 「真上?」 明日香にタッチした反動を利用して、明日香を踏み台にするかのように上へと移動したのだ。 「状況確認が遅いよ」 「きゃっ?!」 反転しかけた明日香を真上から勢いよく水面にむかって弾く。得点にはならないけど……。 明日香のグラシュの反重力に押されて水が豪快に弾ける。 ──今のはスイシーダか?! 真上から相手を水面に叩きつけるように弾いて動きを止める、強引なプレイを好む選手が使う荒技だ。 ……コブラなんて華麗なテクニックから、そんな荒々しい技につなげるなんて。 こんな連続技プロでも見たことないぞ。 何かを起こしてるのは、明日香じゃなくて真藤さんだ。 みさきとの試合で、真藤さんにできることの底を見たような気がしてたけど……。 完全に勘違いだった。俺が想定しているよりも真藤さんはずっと強い。 チラリとセコンドの佐藤院さんを見る。 「………」 じっとフィールドを見上げている。これといった指示を出している様子はない。 佐藤院さんは真藤さんがここまでできるって、知っていたってことか……。 ……もしかして、真藤さんは今までずっと──。 「──本気じゃなかった?」 「真藤さんはあたしとの試合は本気でやってなかった?」 「……あたしとやっている時、手を抜いてた? どうして──あたしじゃなくて明日香に?」 「えっ? 何か言いましたか? 歓声が凄くてよく聞こえませんでした」 「え? いや、なんでもない。なんでもない。う、うん。なんでもない」 「……? だったらいいんですけど?」 「うわっ、危ない! ガンバレー明日香ちゃん!」 「あ、明日香! ガンバレー! ガンバレー! 真藤さんなんかぶっちぎっちゃえ!」 「ガンバレー! ガンバレー! 真藤さんなんか鮭に食べられろー!」 「明日香、落ち着いて姿勢を戻せ」 「は、はい!」 真藤さんは距離をおいて、 「………」 高い位置から水面ギリギリにいる明日香を見下ろしている。 スイシーダはスペイン語で自殺の意味。水面に向かって突撃していく姿から名づけられた技。 スイシーダを使う選手は水面近くでも突進を繰り返して、ぐちゃぐちゃの展開に持ち込むのを狙うけど……。 真藤さんは距離を作るために利用したのか……。 「立ち直りが遅かったらもっとドッグファイトを仕掛けてもよかったんだけどね」 真藤さんは少しだけ笑ってから、サードブイに向かって飛んでいく。 「………」 明日香が水面まで落とされたこの状況でサードブイに向かわれたらショートカットしてもフォースブイまでとられるかもしれない。 そうなったら0対4か……。 ──落ち着け、落ち着け。興奮した声を出さないようにしないと……。 「明日香、深呼吸」 「はい! すーーーっ、はーーーっ」 「フォースラインにショートカットだ。サードラインは捨てる」 「……わかりました」 さらに2点を失うことになるけど、無理して追ったら僅かにあるかもしれない勝利のチャンスを完全に逃してしまう。 明日香はフォースラインに向かって飛びながら、 「あの、私はいったい何をされたんでしょうか?」 「真上から水面方向へ押し込まれたんだ」 「その前です。真藤さんが消えたと思ったら、背中をタッチされてました」 「コブラって技だ。急ブレーキと急加速を一瞬でやる技。ブレーキで明日香を前に出して、加速で背中にタッチしたんだ」 「どうやったらそんなことできるんですか?」 「理屈はエアキックターンと一緒。どっちも急ブレーキ急加速。エアキックターンが逆方向へ、コブラは同じ方向へと進むテクニックだ」 「同じ方向へのエアキックターンですか……」 「次に目の前から真藤さんが消えたら、すぐにエアキックターンだ。真藤さんは背後にいるはずだから、それで対応できるはず」 「わかりました!」 ──明日香のエアキックターンの精度はまだまだ低いけど。だけど今の明日香にできることを考えれば、それで対応するしかない。 「基本的な作戦に変更はないぞ。少しでも長く真藤さんの横を飛ぶんだ」 「はい!」 明日香はサードラインを無視して、フォースラインまでショートカット。 ブイよりの位置で旋回している間に、 「………」 真藤さんはサードブイ、フォースブイにタッチ。 0対4。 「………」 真藤さんはチラリと明日香を見てから、セカンドラインの時と同じようにラインを真っ直ぐに飛ぶ。 いいタイミングで降下した明日香が真藤さんの横につく。 「次はさっきよりも長く一緒に飛びますから!」 「僕は速いけどついてこれるかな?」 「がんばります」 加速する真藤さんについていく。 「………」 真藤さんは小さなシザーズやハイヨーヨーを入れるが、明日香は惑わされずにぴったりと寄り添うように飛んでいる。 ──これって明日香を振り払うっていうより、飛ぶことだけに集中させるための動きだな。 振り払うつもりならもっとトリッキーな技を入れているはずだ。明日香を飛ぶことだけに集中させて……。 「………」 指示を出しそうになるのを、ぐっ、と堪えた。ここで口出ししたら、明日香の集中力を削ぐことになるかもしれない。 「……ッ」 真藤さんが加速したと思った瞬間に消えた。 首を広げる蛇を模した名づけられた技。コブラ。 一気に明日香が前に押し出される。 「行けッ!」 「はいッ!」 明日香が丸まるように両手両足を縮め、まるで空気を蹴るかのように全身を伸ばす。エアキックターン。 体を一気に背後の真藤さんに向けて飛ばす。 「………」 真藤さんが微かに笑ったように見えた。 試合中に微笑んでしまう選手がいる。 別にふざけてるわけじゃなくて、集中力を高めた時、顔の筋肉がゆるくなってしまうことがあるのだ。 ──集中してる? ってことは、驚いてないってことか? 明日香の動きを予想していた? 真藤さんが体を丸めた。 コブラの姿勢から、ほとんど垂直に──。 「ッ」 「えっ?」 上方向へのエアキックターン。 「そんな!」 コブラから姿勢を変えずに上方向にエアキックターン?! そんなことまでするのか! ぶぶぶっ、と肌があわ立った。 さっきのコブラからスイシーダの連携とはレベルが違う。高速の急ターンを方向を変えて連続で入れるとは……。 真藤さんから見て、明日香の背中ががら空きの絶好のポジションになっている。 ──レベルが違いすぎる。 「行きますッ!」 「え?」 行く、って? ──どこに? 俺の疑問が消える前に、 「……ッ!」 明日香が連続でエアキックターンを入れた。 「えっ?」 タッチするために降下してきた真藤さんと激しく衝突した。 「行きます!」 ──行きますって? 衝突で弾けた反動を利用してさらにエアキックターン。 明日香の伸ばした手が──。 「えっ?!」 真藤さんの背中に触れていた。 1対4。 「行きます!」 さらに反動を利用して、エアキックターン。 「くっ!」 明日香の手が背中に触れていた。 そんなバカな! こんなことって! 真藤さんから連続得点?! エアキックターンの応用でこんな連続得点方法があったのか! さらにもう1回! 「………」 三回目に伸ばした手が真藤さんに届かなかった。 エアキックターンは体を丸めることで、メンブレンの移動を一瞬で変え、急速ターンを可能にする技だ。 つまり最初の力の方向性を変えてやることで成立している。 だから、振り子が摩擦や空気抵抗などで静止するのと一緒で、方向性を変えるごとに力を失ってスピードは落ちていく。 三回目は真藤さんに届くスピードを失っていた。 だけど、二点連続得点できたのだ。 ──どうする? 真藤さんが混乱してると見てドッグファイトに持ち込むか。それとも一度、距離をとってブイを狙うように指示するか? どっちが正しい? 咄嗟に答えが出せない。どちらも正しい気がする。どちらも間違っている気がする。 「コーチ!」 「あっ、うっ……。明日香! バチバチ行け! どこでもいいから真藤さんに触れるんだ」 「はい!」 ──こんなチャンスはない。真藤さんは驚いて警戒しているはずだ。 そういう時、人は守りに入る。 例えばだ。突然、岩が落下してきた時。 素早く逃げれば助かるのに、動けなくなってしまうことがある。 なぜか? 驚いて動けなくなった、というのもある。 しかし、多くの場合そうではない。 向かってくるものを、避けるか? 受け止めるか? という判断を迫られた時、人間の本能は、受け止める、と判断してしまうらしいのだ。 今の真藤さんなら、明日香の攻撃を受け止める防御をするはず。 「えい!」 「……ッ」 真藤さんの足に触れた。 「くっ?!」 変に堪えたせいで、腰を中心にぐるりと回転しながら、真藤さんが弾かれた。 これは、立ち直りがかなり遅くなるぞ! 「チャンスだ!」 「はい!」 明日香が回転を止めた真藤さんの背後に回って、得点を追加! 3対4。 「凄い! 凄い! 凄い! 明日香センパイ凄い!」 「うわーーー! うわーーー! どうしよう! どうしよう! こんな展開になるなんて想像してなかった!」 「……も、もしかして。真藤さんに勝つの……。明日香が……真藤さんに?」 「勝ちますよ! このペースなら勝てます!」 「明日香が、真藤さんに……勝つ? そんなことって……。うそ、でしょ?」 「うそなんかじゃありませんよ! 勝ちます! きっと勝ちます!」 「……そ、そんなわけ。明日香が勝つなんて、そんなの──」 「……」 「何をやっているのです、部長。ペースを変えないと面倒なことになりますわ!」 「わかってるよ」 「わかっているのでしたら、それらしいことをしてください」 「……ここで負けるのは、みんなを裏切るということですわ」 「佐藤くんは厳しいな」 「強い人が余裕を見せながら戦うのは好きではありません。しっかりと、泥臭くやってください」 「そうやって、何をしてでも勝つのが、わたくしの知っている部長ですわ」 「そうかもね」 「……あと、佐藤院ですわ」 「わかったよ、佐藤院くん。……君の言うとおりだ」 「うわあっ!」 明日香の攻撃を避けて水面すれすれまで急降下した真藤さんが、突然、叫んだ。 「きゃっ?!」 あまりの大声に、明日香がびくついて肩をすくめる。 「うおおおぉぉっ!」 真藤さんの叫び声に、一瞬、明日香の動きが止まった。 「………」 大声に人は萎縮する。 「明日香、止まるな!」 「……え?」 「止まるな!」 まさか、真藤さんがそんな大声を出して、気合を前面に出すとは想像してなかった。 そういうプレイをしない人だと思っていた。 「きゃっ?!」 「……ッ!」 停止した明日香の肩に触れるようにぶつかる。 ぐるん、と横に回転しながら明日香が弾ける。 「わあぁっ!」 「きゃ!」 バランスを先に取り戻した真藤さんが明日香の背中にタッチする。 まずい! まずい! まずい! 明日香はこういう相手と試合をしたことがない。練習試合でここまで気迫を前面に出す人はいない。 部長は出すけど、いつも出しているから冗談になってしまっている。 明日香の前の二試合の相手は普通……普通以下の選手だったし、気合を前面に出すタイプじゃなかった。 「……?」 気合を、負けたくないという気持ちを、正面からぶつけられるのは生まれて初めての経験なのかも。 「えっ? えっ? えっ?」 気迫に飲まれている。テクニック以前のテクニックだ。 スポーツ以前の、人間と人間が向かい合った時の、技だ。 「うおおおぉぉぉっ!」 真藤さんの気迫が二人の立場を固定していく。 食べる側の真藤さんと、食べられる側の明日香だ。 「落ち着いて! 真藤さんは真藤さんだ! 何かが変わったわけじゃない!」 「は、はい!」 明日香の返事が微かに震えている。 「もう1点!」 「きゃ、わっ? わわっ?!」 ドッグファイトであっという間に2点取り返された。 3対6。 くっ。──引き出しの多さが違うか。 明日香に試合経験があれば……。 そうじゃないだろ。 気迫をむき出しにしてくる相手に慣れていない状態で試合をさせたのは──俺だ。 練習でカバーすることだってできたはずだ。 「………」 今からでも、今からでも……。 何かアドバイスできることが……。 「明日香! あの時の! 雨の日の体育館でした練習のことを思い出せ!」 「え?」 「その場で回転して、バックを取るんだ!」 「でも、そんなの……」 「できる! 今の真藤さんはがむしゃらに突っ込んでくるだけだ!」 気合を入れて叫ぶ。その声は相手を萎縮させる効果があるけど……。 その副作用というかマイナスの面として、頭が熱くなり冷静な判断ができなくなってしまう。 叫び声は叫んでいる人を狂気に落としてしまうのだ。 ──だから。明日香は! 「今こそ落ち着いて対処するんだ! 真藤さんは冷静さを欠いてる」 「わかりました、コーチ!」 真藤さんが前傾姿勢で、明日香の背中を狙って突っ込んでくる。 「うおぉぉぉおおぉっ!」 「行け、明日香!」 「はい!」 明日香がその場でバク宙をするかのように、回転をしようとした瞬間、 「………」 真藤さんがコブラをするかのように、上半身を起こしてブレーキをかけながら、右手を上げて、 「きゃっ?!」 「?!」 バレーのアタックでもするかのように明日香を叩いた。 「そんな風にかわしに来るとは思わなかったけど、予備動作が大きすぎるんじゃないかな?」 ──真藤さんは冷静? あんな声を出していたのに? もしかして……。剣道や柔道の選手みたいに声を出しても冷静でいられるのか? 「きゃっ!」 「………」 真藤さんが明日香から次々と点を重ねていく。 くっ! なんのアドバイスもできないまま時間が流れていく。 ──打開策は? 打開策は? その思いだけが、脳裏を流れて、具体的な形にならない。 拳を強く握りながら、フィールドを見上げることしかできなかった。 明日香が翻弄されるとこを見ることしかできなかった。 ホーンが鳴る。 ──3対10。 それが結果だった。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 明日香の荒い呼吸がヘッドセットから聞こえる。 矢折れ刀尽き、疲れ果てた明日香をあざ笑うかのように、真藤さん……いや、当代最強のスカイウォーカー・真藤一成が上空で悠然とこちらを見下ろしていた。 『きみたちはこの程度か?』 ……そう、言っているように見えた。 「っ……!!」 ――気づいたら、痛くなるほど肩に力が入っていた。 真藤さんの気が立っているせいか、明日香がおびえているせいか、二人はほとんど会話をせずに別れた。 明日香が疲れたような頼りない飛び方で、帰ってくる。 「……全力を出せませんでした」 「そんなことない。真藤さんを追い詰めた展開もあったんだ。あんなことできる選手は、この大会でもそういないぞ」 なぐさめではない。 俺は本気で、明日香の戦いぶりに見とれていた。 あの真藤さんを、なりふり構わないところまで追い詰めたのだ。 「試合がこんなに怖いってこと、知りませんでした」 「うん」 「だけど! 怖いけど……おもしろかったです!」 あんな試合をした直後にそんなことを言えるのか……。本当に強いと思う。 普通ならしばらく萎縮したり、落ち込んだりしてもおかしくない。 「──明日香は強いな」 「そんなことありません! 全然、弱いです! もっと強くなりたいです!」 「うん。わかった。応援するよ」 「はい! よろしくお願いします、コーチ!」 「負けてしまいました」 「明日香ちゃん!」 窓果がパタパタと慌しく近づいて、 「わわわ?!」 明日香の頭をなでなでする。 「よしよし、大丈夫? 怖くなかった?」 「大丈夫です。怖かったですけどもう大丈夫です。はい」 「女の子にあんなことするとは、真藤さんはひどい人です。もう、ぷんぷんですよ」 「真藤さんもそれだけ必死だったってことだろ」 「必死と言っても、結局は7点も差をつけられちゃったけどねー」 「はい。後半は何をされているのかよくわからない状態でしたー」 「次の大会の目標は、打倒、真藤さんですね!」 「真藤さんは三年生だってば。この大会で最後だから打倒する機会はないって」 「……う。そうでした」 「みさきも明日香も真藤さんと試合しておいて良かったな。いい経験になっただろ?」 「はい。真藤さんと試合ができてよかったです!」 「………」 どこが憮然とした様子で、みさきは顔を背ける。 「……どうかしたのか?」 「……いい経験だったかもしれないけど、真藤さんと試合をするためにFCをしてるわけじゃないし」 「それはそうだろうけど……」 「みさき先輩はもっと上を見てるんですよね? そこから見れば真藤さんとの試合も踏み台にすぎない、と」 「そ、そう。それ。だから、つまり……そういうこと」 「そういうことなんです」 「……そういうことなのか」 なんとなく踏み込まない方がいい気がしたので、曖昧に流しておく。 「これで我が部の夏の大会は終わったわけだけど、帰ったりせずに決勝戦までちゃんと見ておくように。他の人の試合を見るのも勉強になるからな」 「はーい」 「しっかり見ておきますっ」 「自分ならどうプレイするか? 自分ならどう動くか? そういうことをよくよく考えながら観戦するように」 「どう騙すか? ということですね」 「そういう見方でもいいけど……。じゃ、俺は葵さんや白瀬さんに今回のこと報告してくるから」 「私らはここで見てるからごゆっくり〜」 「……あ! どーも。コンニチハ!」 人懐っこそうな笑みを浮かべた金髪の女の子が、トタトタと小走りで近づいてくる。 「あ、えっと……」 「忘れないでください。イリーナ、デス」 無遠慮に、ぐっ、と顔を近づけて、パチッ、とウインクする。 「お、覚えてます。乾さんのセコンドのイリーナさん」 「そうです。イリーナさんデス」 部長が負けた相手のセコンドだ。 「乾さんは勝ち続けてますね」 「はい。次も勝って次も勝ったら、イチバン、デス」 部長と似たタイプの乾さんがここまで勝ち進むなんてな。 「ソチラのえっと……。一回戦の……」 「青柳です」 「はい、青柳さん。青柳さん、強い人デシター」 「そう言ってもらえると嬉しいです」 「それと試合、見てマシター。凄い面白い試合。興奮しまシタ。興味ありマス。倉科さん」 「高藤の真藤さんとウチの倉科の試合のことですか?」 「はい! 見ていて……楽しかったデス。ユカイ? ユカイで日本語正しいデスか?」 「ん〜。愉快ですか……。正しいような、間違っているような……」 間違っているとは断言できないけど、試合を誉める時に、愉快、という単語はあまり使わないと思う。 「飛んだり跳ねたり、あっち行ってそっち行ってという試合で、えっと、サーカス……。日本語でサーカスはなんと言いマスか?」 「サーカスは……。サーカスは日本語でもサーカスだと思います」 「あの試合はサーカスデスね。いろんな技が出て、上下左右に激しく移動していて、見ていて楽しいけどFCではアリマセンネー」 ──え? FCじゃない? 「……どういう意味ですか?」 「え?」 意外そうに俺を見つめる。 「いや、だから、FCではない、ってどういう意味ですか?」 あれは立派なFCだったと思う。 「私の日本語おかしかったデスか?」 「そうじゃなくて……。繰り返しますけど、真藤さんと倉科の試合がFCじゃないってどういう意味ですか?」 イリーナさんはニッコリと笑って、 「勝つことが目的なら、あんなに派手に動き回る必要ないデス」 「いや、勝とうとしてああいう試合になったんですけど……」 「そうデスか?」 「そうですよ」 「勝つために、エアキックターンやコブラやスイシーダが必要だった? そう言いたいんデスか?」 「イリーナさんは必要じゃなかったと言いたいんですか?」 「ヒツヨー、ですか?」 きょとん、とした顔で言う。 「……必要だからやったんだと思います」 二人とも本気で勝つためにやっていたのだ。 派手な試合になったことは否定しないけど、別に誰かを喜ばせるために技を出したわけじゃない。 イリーナさんは片頬だけを微かに吊り上げて、 「──愉快です」 「……そうですか」 「でもあれは、私の知ってるFCとは違いますね」 「……イリーナさんの知っているFCって、どういうものなんですか?」 「きっと決勝戦は真藤選手と乾になります。それを見てもらえば私の言いたいことわかると思います」 「………」 「本当のFC、わかります」 「本当のFCですか?」 イリーナさんは大きくうなずきながら、ニッコリと笑って、 「はい。本当のFCです」 「………」 イリーナさんの人懐っこい笑顔が、怖くみえた。 俺にさらに近づき、囁くように、 「知ってますよ、日向晶也さん。……ジュニアの時」 「……ッ? どうしてそのことを?」 「乾と同じ年頃の選手はできるだけ調べてるんです」 「調べるって、俺がFCをやってたのは何年も前の……」 「ですから、調べてるんです」 「……なんのために?」 イリーナさんは俺の質問には答えず、 「日向さんの育てた選手でも、日向さんでもいいです。いつか乾を潰しに来てください」 「あの娘はマゾですから、そうしてくれると凄く喜びます」 「はぁ?」 マゾって、いきなり何を言い出した? 「誰かに潰されるのを心待ちにしてるんです。乾は真面目な性格ですから」 イリーナさんは口端で小さく笑って、リズムを刻むような足取りで俺から離れる。 「いったい何を考えてるんですか?」 「………」 どこかぎこちない動作でペコリと頭を下げると、俺の質問には答えずに、ぱっ、と身を翻してトタトタと歩いていってしまった。 ──どういうつもりなんだ? 変なことをたくさん言われたので、何から考えればいいのかわからないけど……。 一番、気になるのは……。 「……本当のFC?」 スピードでぶっちぎるのが本当のFCだって言いたいのか? ──それもFCだけど、それだけがFCなわけがない。 真藤さんとの試合を見ればわかると言っていたけど……。 ……あんなこと言って決勝に残れなかったら、相当に恥ずかしいと思うんだけどな。 「ごきげんよう、日向晶也」 「あ、佐藤院さん。試合、残念でしたね」 乾に15対0で負けている。 部長の時もそうだったけど、スピーダーにペースを握られてしまうと、実力差がなくても極端な結果になってしまうことが多い。 「乾沙希がわたくしより強かっただけのことです」 「ウチは全員負けたので、その結果を知り合いに伝えに行く途中なんだけど、佐藤院さんは?」 「わたくしは散歩中ですわ」 「散歩中? そんなことしていていいんですか? 真藤さんのセコンドについてるの、佐藤院さんですよね」 「部長は少しピリピリしていますの。今は一人になってクールダウンする時間が必要だと判断して、席を外しました」 「そういうことか……」 俺が忠告するようなことじゃなかったな。 「今、話していたのは乾沙希のセコンドですか?」 「親しいわけじゃないんだけど、ウチの部長の一回戦の相手が乾だったので」 「そういうことでしたの。乾沙希は不思議ですね」 「不思議? それって具体的にどういうことで?」 「──そうですわね。………。……堅い感じがしました」 「堅い……か」 「下手にぶつかったら、弾き返されてしまいそうな」 「威圧感のあるスピーダー、ということ?」 「威圧感は確かにありましたけど……。わたくしが言いたいのはそういうことではありませんわ。……スタイルが完成されている、といえばいいのかしら」 「スタイルが完成されている? あれで?」 乾は確かに上手だけど、あれが完成なのか? 「彼女自身というよりも、その後ろに、わたくし達の知らないスタイルがあるような気がしますの」 「……それは単純にスピーダーとしてのその……。えっと……後ろにあるスタイルというのは、細かいテクニックの話ではなく?」 「それも含めての話ですわ。大小を含んだ体系的なテクニックがあるのかもしれません」 ──佐藤院さんは間違いなく乾を特別だと感じたようだけど。 大小を含んだ体系的なテクニックと言われてもな。 それは普通のことだ。どんなテクニックだって、何かの体系に含まれているはずだ。 「どういった点で、試合中に乾を特別だと感じたんですか?」 「──動かされている、と思いましたわ」 「動かされている?」 「気づけば乾沙希の有利な方向に動かされているのです」 「………」 「自分で判断しているつもりなのですけど……。セコンドの方がとても優秀なのかもしれませんわね」 ──気づけは乾の有利な方向に動かされているか。 つまり、その為のスタイル、ということなんだろうか? 「なら、どういう選手が乾に有利だと思います?」 「……そうですわね。部長のように引き出しの多い人なら、乾沙希の裏を行くことができると思いますわ。それと……」 「それと?」 佐藤院さんは試合会場を見上げた。 「ちょうどいいタイミングでしたわね。これから試合をする選手みたいなタイプも苦手かもしれません」 「……どっちの選手のことを言ってます?」 これから対戦するのは、四島水産の選手と堂ヶ浦の選手だ。 「堂ヶ浦の選手ですわ」 「………」 「名前は黒渕霞。その様子だとあの選手の試合、見ていなかったようですわね」 「セコンドとコーチをやってますから、見ることのできない試合もありますよ。……彼女、手足が長いですね」 大体のスポーツで言えることだけど、リーチは短いよりも長い方が有利。 リーチが長くて不利になることもあるけど、それよりも有利になることの方がずっと多い。 ドッグファイトなら、相手より遠い間合いから手が届くし、ブイを競い合っている時なら手が長い分だけ有利になる。 「話を戻しますけど、リーチの長い相手を乾は苦手にしている、ということですか?」 「そういうことではありません。試合を見ていればわかると思いますわ」 審判が黒渕選手に近づいて何か言っているのが見える。 「………」 「………」 何を喋っているのかは、当然ここまで聞こえてこないけど、不穏な空気は漂っている。 「何をしてるんですか?」 「反則の常習犯なので、最初から警告を受けているのだと思います」 ──反則の常習犯か。 「ラフな選手なんですか?」 「そうですわね。何かにイラついているようなプレイスタイルですわ」 「セット!」 ホーンが鳴り響いた。 「………」 黒渕選手は中央に全身を傾けながら、両手を大きく水平に広げた。 ラインを強引に奪って前に出ようとしたのだろう。それ自体は反則でもなんでもない。 問題なのはスーツの浮き袋が不自然に広がって、四島の進路を遮断したことだ。 弾けあう音がして、四島の選手がファーストブイより後ろに飛ばされた。 「反則! 黒渕霞選手の反則負け!」 周囲に低いざわめき広がる。その中に呆れたような失笑が幾つか混じっている。 おもしろいから笑っているんじゃなくて、びっくりして笑ってしまった声だ。 「………」 黒渕選手が眉の端を吊り上げ、大きく口を開けて罵りながら、審判に迫っている。 開始直後のファーストラインでの接触プレイは反則だけど、最悪でもポイントをマイナスされる程度で済むはずだ。 接触プレイで即反則負けする選手を初めて見たかもしれない。 「今の裁定、厳しすぎませんか?」 佐藤院さんは苦笑して、 「初回の反則ならそうですわね」 「ということは……」 「彼女、一回戦からずっと同じ反則をしてますの」 「意図的──」 「そうとしか考えられませんわね。スーツの浮き袋が不自然に動いたのも気になりますし」 「あれはどうやったんですか?」 「わかりませんけど、練習をすればできるのではありませんか?」 「……なんでそんな練習を」 「乾沙希はああいったプレイに弱いのではないかと思います」 「反則を混ぜてくるプレイに、ということですか……」 「そういう選手が得意というスカイウォーカーはあまりいないでしょうけれど」 「反則に対処する練習なんてしませんからね」 「そういう意味もありますけど、彼女は枠を超えてこようとするスタイルに弱いかもしれませんわ」 「なにせ、自分の思うように動かせないでしょうから」 枠か──。 そこでまた佐藤院さんは苦笑して、 「だからと言って反則はすすめません」 「反則負けになるようなスタイルなんか問題外ですよ」 「そちらの方々でしたら、鳶沢みさきや倉科明日香よりも、有坂真白の方が、乾沙希と相性がいいかもしれませんわね」 ──佐藤院さんは真白をやけに評価するな。 「では、わたくしはそろそろ戻ります」 「あ、時間とらせてしまってすみませんでした」 「そんなことありませんわ。乾沙希について部長に何を伝えたらいいのか、整理できましたから」 「セコンド、がんばってください」 「言われるまでもなく。それでは、ごきげんよう」 佐藤院さんは華麗に一礼して離れていった。 「おう、日向。お疲れ様だ。終わったな」 「はい。終わりました。これからは秋の大会の準備です」 「今から秋の大会を見ているとは頼もしいぞ、日向。俺は3年で引退だが、FCをやめるつもりはないからな。何か手助けできることがあったら声をかけてくれ」 「はい。もちろんお願いします」 「や〜、ちゃんとキミらの試合を見てたよ。いい試合だったね」 「どの試合のこと言ってます?」 「どの試合もだけど、あえて言うなら、明日香ちゃんと真藤くんの組み合わせが一番よかったかな」 「うむ! 俺も見ていて興奮したぞ」 「最後で得点差は出ちゃったけど、この大会のベストバウトだろうね。明日香ちゃんはいい選手になったね」 「……そのことで白瀬さんに相談したいんですけど」 「なんだい?」 「認めるのが少し怖いというか……。近くにいすぎて客観的に見れてないから、判断に自信がないというか……」 「明日香ちゃんのことで?」 「はい。もしかしたら……。その……。ちょっとそうじゃないかと思っているんですが……」 そこで一旦、言葉を切って、問い直す。 「――明日香は、凄いですか?」 「凄いよ」 なんの気負いもなく白瀬さんはさらりと言ってから、肩をすくめて、 「それがどうかしたの?」 明日香の前ではこんなこと絶対に言えないけど……。 「俺が不安なのはビギナーズラックみたいなものじゃないのか? ということなんです」 「……ふ〜む」 「偶然、明日香はいい試合ができたんじゃ? と思うんです」 「明日香は好不調の波が激しいんですよ。好調は偶然が重なった結果で不調が実力なんじゃないかって」 「………」 「明日香のどこからどこまでが実力なのか、それがわからないんです」 「晶也は勘違いしてるな」 「……運も実力のうちだって言うつもりですか?」 「そんなこと言うつもりはないよ。僕はもっと具体的なことを言える」 「教えてください」 「……大会記念Tシャツを買ってくれるなら教えるよ」 「後からちゃんと買いますから意地悪しないでください」 「じゃ、教えようかな」 白瀬さんは部長に振り返って、 「すまないけど、ちょっとの間、店番を代わってもらえないかな?」 「了解! 日向にたっぷりと役立つ話をしてやってください」 「役立つ話ができるかどうかはわからないけどね」 白瀬さんは、さて、とつぶやいて、 「真藤くんとの試合のハイライトのエアキックターンの連発。あれは晶也の指示じゃないだろ?」 「はい。明日香の咄嗟の判断です」 ドッグファイトは一瞬一瞬で行動が変わっていく。その全てに指示を出すのは不可能だ。 仮に出せたとしても多くは出せない。 一秒を競い合う勝負だ。セコンドの指示を聞いてから行動したのでは遅すぎる。 「あそこでエアキックターンの連発をできたのは、もしかしたら偶然かもしれない」 「………」 「だけど、あそこでエアキックターンを連発しよう、と思いついたのは偶然かな」 「……あっ」 「FCで、特にドッグファイトで重要なのは、咄嗟のひらめきだろう? 身体能力も重要だけど、本当に必要な才能っていうのは……」 白瀬は自分の頭をとんとんと叩いて、 「ここだと思うけどね」 明日香は体じゃなくて、FC脳がいいってことか……。 なかなかうまく飛べなかったのに、急にうまくなったのも、そのおかげかもしれない。 今までは、頭ではわかっていても、体がついてこなかっただけなのか。 「みさきの試合はどう見ましたか?」 「……ここだけの話だけど、みさきちゃんはつまんないね」 「つまんない……ですか?」 足の裏の感覚が遠ざかるような意外な一言だった。 明日香はなんて言われるか心配していたけど、みさきのことを悪く言われる心配は全然してなかった。 いくら明日香が試合中にレベルアップをして真藤さんといい試合をしたとしても、まだみさきとの間には大きな実力差があると思う。 「みさきはウチのエースなんですよ……? どのあたりがつまんないんですか」 「みさきちゃんは明日香ちゃんと逆だね。プレイを感覚に頼りすぎてると思う」 白瀬さんの言っていることはよくわかる。 みさきなりに考えてプレイしているんだろうけど……。体の反応が抜群にいいから、普通のスカイウォーカーよりも頭を使わずにプレイできてしまっているのかもしれない。 「みさきはもっと頭を使ってプレイした方がいいってことですね」 「言うのは簡単だけどね」 白瀬さんは疲れたように肩を落として、 「これまで使わなかった部分を使うっていうのは、一朝一夕でできるようなことじゃない」 「……それは」 「みさきちゃんがどうかって話じゃない。一般論としてこういうのは本当に難しいことなんだ」 「……言っている意味、わかりますよ」 だって使わずに勝てたのだ。必要ないものを使おうとは普通、思わない。 壁にぶち当たっても、今までの自分の経験を頼りにするから、体だけでどうにかしようとする。頭の使い方がわからないままになってしまう。 「そこで頭の使い方を教えるっていうのは大変だよ。特にみさきちゃんみたいなタイプはね」 ……みさきは気まぐれだからな。 「まとめて言うと、明日香ちゃんはFC脳がいいと思うんだ。頭を使って、先を見通して、相手の動きを見て自分で考えて、行動している。今は体がついていってないけどね」 「そうですね」 「で、みさきちゃんはFC脳が鍛えられてない。咄嗟の反応で動いているだけで、全体を見通したり、相手の動きを見て考えたりしてない。つまり彼女には戦略がない」 「明日香ちゃんは頭が鍛えられてるけど体はまだまだ。みさきちゃんは体が鍛えられてるけど頭はまだまだ。そういうことになるね」 白瀬さんは軽くため息をついて、 「結論を言うとだ……」 「才能の引き出しやすさも努力のさせやすさも、明日香ちゃんがずっと上だと思う。彼女はもしかしたら本物かもしれない」 「そこまで言えますか……」 「明日香ちゃんは秘めた身体能力が発揮できれば、みさきちゃんもすぐに超えるだろうね。これまでは出し方を知らなかっただけだから」 「みさきはそうじゃない?」 「フィジカルだけを鍛えるならそこそこ行くだろうね。だけどそのままじゃ本物になれない」 白瀬さんは言い辛そうに頬を少し歪めて、 「来年の大会のベスト4レベルの強さまでなら簡単に行くよ」 「その先は難しいと思うんですか」 「……思うね。きつく言えば天才肌であって天才ではないと思う。彼女の才能の限界が目の前にあったとしても、僕は少しも驚かないね」 「言いづらいことを言ってくれてありがとうございます。真白はどうでしたか?」 「ん〜。まだスタイルが固まっていないようだからどうとも言えないね。ただ頭はいいんじゃないかな? 彼女たちをどうコーチするのか楽しみにしてるよ」 「がんばります」 「もし僕がコーチするなら、明日香ちゃんよりもみさきちゃんを選びたいね」 「え? どうしてです?」 「真っ直ぐな性格の人より、歪んだ性格の人の方が好きだからね」 「みさきは自分勝手なとこはありますけど、歪んだ性格はしてませんよ」 「ああいうタイプがFCを本気で続けていれば、そのうち性格は歪むだろ?」 「……嫌なことを言いますね」 「そうなったら、そこから伸びるかもしれないよ」 他人事のように言って、また苦笑した。 「お疲れさん、晶也」 「こっちにいたんですか」 葵さんはみんなの所にいた。 俺が本部に向かっている途中で行き違いになってしまったようだ。 「初めてにしてはみんないい試合をしたと思う。そう言って褒めていたところだ」 「じゃ、これから貶す番ですか?」 「それは晶也の仕事だろ? 頑張れ」 「言われなくても少しはやりますよ」 俺は携帯で時間を見て、 「そろそろ決勝戦の始まる時間だな」 準決勝が終わった後に、30分のインターバルがある。 先に終わった選手の方が休憩を長くとれる、という不公平を少しでもなくすためだ。 「夏の大会の決勝戦は真藤さんと乾さんかー」 イリーナさんの言うとおり、そういうことになった。 「乾さんって凄いですね」 「凄いって何が?」 「だってですよ──」 明日香はトーナメント表のコピーを覗き見て、 「全試合で凄い点差をつけて勝ってます」 「スピーダーが勝つ時って点差が広がっちゃうこと多いからね」 「だとしても全試合がそうだっていうのは……怖いな。誰も乾を止められなかったってことだろ?」 「偶然ってことはないですか?」 「さすがに偶然がこんなに重なるってことはないだろう。実力だと思うぞ」 「強いと言っても真藤さんほどじゃないんじゃない? 佐藤院さんと当たった以外は、トーナメント運も良かったみたいだし」 「いや、そんなことはないぞ。水産の選手にも勝っているしな。運だけで決勝に残れる選手はいない」 「そうかもしれませんけど……」 「それにしても、ほっとしたな〜」 「何がですか?」 「だって兄ちゃんが負けた相手が二回戦で負けたら、兄ちゃんが一番弱いことになってしまうもん。決勝まで来てくれたから兄ちゃんが弱いわけじゃない」 「ほんと、意外とブラコンなんだからな〜」 「ブラコンじゃない!」 「それを言うなら明日香とみさきに勝った真藤さんも決勝戦に残ったわけだからウチの部はみんな……あっ」 「……いいですよ。どうぞ遠慮なくその先を言ってくれてもいいんですよ」 「真白の相手は佐藤院さんだったからな」 「部の中でわたしが負けた相手だけ決勝に残ってないですから!」 「気にする必要なんか全然ありません。佐藤院さんが相手だったら私だって負けてました」 「いやいや、あたしや明日香なら佐藤院さんに勝ってたかな〜」 「いいんです。わたしはわたしの道を行きますから」 「あれ? そうなの? 自分の道を行っちゃうんだ」 「みさき先輩の道を行きたくても、みさき先輩が進むの早すぎるんです」 「そんなこと言わずについておいでよ、真白」 「自分の道を見つけようとしている後輩を誘惑するようなマネはするな」 「……と。二人がファーストブイに向かってるな」 ファーストブイの審判が待ち構えている場所へ、真藤さんと乾が近づいていく。 「………」 「………」 当然ここまでは声は聞こえてこない。 聞こえたとしても、『よろしくお願いします』程度の内容のない会話が聞こえただけだろう。 「いよいよ、決勝戦の始まりか〜」 「みんなしっかり見ておけよ」 「ぎやっ?!」 「ん? 今の悲鳴はなんでしょうか?」 「なんだろうな? 別に何もおきてないみたいだけど……」 「野良犬が次々と観客を噛んでるとか?」 「それだったらもっと騒いでるよ」 「ふぁっ?!」 「いぎゃっ?!」 な、なんだ? なんだ? 「決勝戦を前に感極まった人たち?」 「そういう人たちの声の質じゃないよね?」 「びっくりしたって感じですよね?」 「観戦に飽きたどっかの生徒がふざけあってるんだろ。そんなことより、試合に集中しろ」 「そうですね」 真藤さん、気合の入った顔をしてるな。 一方、乾沙希は、自分がそこにいることに戸惑っているかのような茫洋とした顔をしていた。 ──いろいろあるけど。やっぱりここは真藤さんに勝ってほしい。 それが一番綺麗な夏の大会の終わりだと思うのだ。 「決勝戦なのに普通に始まっちゃうんですね」 「ファンファーレでも流せばいいのに」 「競馬じゃないんだし、アマチュアの大会でそんなことしないもんだろ」 「でも花火の一発くらい上げてもいいですよねー」 「そういえば真白っちの友達が実況をするって言ってなかった?」 「そうでした、そうでした! 実況を聞かないと!」 「聞くって言ってもどうするんだ? まさか会場に実況を流すわけじゃないだろう?」 選手の耳に入ったら試合に影響してしまうかもしれない。 「確かヘッドセットを利用するって言ってました」 「なるほど〜。参加者はみんなヘッドセットを持ってますもんね」 「えーっと」 みさきは小さな液晶モニターをボタンで操作しながら、 「周波数? よくわかんないけどそういうのは全部、晶也の方で設定する仕組みになってるみたいだよ」 「わかった。えーっと、多分、これで……。ところで、どこのチャンネルに合わせれば、その実況は聞けるんだ?」 「それはわかりませんけど、早くしないと試合がはじまっちゃいますよ」 「わかんないのに急かされてもな。上から順番に試していくしかないか」 「いよいよ決勝戦が始まります! 四島最強のスカイウォーカー真藤一成! 対するは、謎の最速スピーダー乾沙希!」 「きゃ?!」 「きゃ?!」 「きゃ?!」 「きゃ?!」 「お前たちまで、一体どうしたんだ?」 「音が大きい設定になってるんですよ」 ヘッドセットを持っていなかった葵さんと窓果は、納得がいったというようにうなずいて、 「さっきあっちこっちから聞こえてた悲鳴って、これだったんだー」 「早くボリューム下げて! ヘッドセットは外れにくいんだから!」 「おう!」 「実況を担当するのは久奈浜学院1年の保坂実里です! プリティーな声でガッチリ実況します。略してプリガチな実里と覚えてくださいね!」 「あー、びっくりしたぁ」 「……プリガチ。はりきってるな〜」 「──微妙にがんばって考えた感が切ないわね〜」 「あ、あはは、がんばってるのはいいことですよ〜」 「いよいよこの夏、四島で最強のスカイウォーカーが決まります。果たして、真藤か? それとも乾か?」 会場の緊張感が急速に高まっていくのがわかった。空気が固体になっていくような雰囲気。 「………」 「………」 乾の表情に変化ない。 これから試合をする奴の顔じゃない。 気合が入りすぎて、顔の筋肉に力が入らなくなってしまったわけでもないみたいだ。 「………」 近所に散歩に出かけようとするかのようだ。 贔屓目に見ても、教室で、今日の小テストは面倒だな、と思っているような……。 その程度の感情の変化しか読み取れない。 昨日、部長と試合した時は顔つきに注目しなかったけど……。 ──部長と試合した時も。佐藤院さんと試合した時も。他の誰かと試合した時も。 ずっとこういう顔をしていたのか? 「セット」 「………」 「………」 今日、最後の試合開始を告げるホーンが鳴った。 「夏の大会最速の乾選手がローヨーヨーで一気に加速します。真藤選手はセカンドラインへとショートカットです。まずはスピーダー対オールラウンダーの定石どおりの展開です」 「真藤さん、ちゃんと乾さんを抑えられるでしょうか?」 「できるでしょう? まあ、最初は抜かれるかもしれないけど、今までの乾さんの対戦相手みたいに抜かれっぱなし、ということはないんじゃない?」 「まあ、そうだろうな」 ──というか、真藤さんに抑えられなかったら、四島の誰にも乾を抑えられないことになってしまう。 「セカンドブイにタッチして乾選手まず一点です! セカンドラインにショートカットした真藤選手は、乾選手と接触か交差しなくてはいけません」 真藤さんはラインの中央やや前で、旋回しながら乾を待ち構えている。 ──乾は抜くのがうまいけど。 みさきの言うとおり、そう簡単に抜いたりはできないと思う。 「そういえばこの大会で乾さんってドッグファイトしました?」 「私の記憶だとまだしてないと思うよ」 「スピーダーなんだからそんなに強くないでしょ」 真藤さんがどの方向にも対応できるように、上下左右に小刻みに体を揺らすように飛ぶ。 「………」 乾が全身を微かに硬直させたように見えた。 「………」 身を起こしながら、ぐんっ、と加速する。 「は、速いです!」 「方向を変えたのに加速してますよね?」 「スピードに乗った乾選手が真藤選手の手前で急上昇! これで一気に抜き去るのが乾選手の必勝パターン! どうする真藤選手!」 「………」 真藤さんは両手を頭の上にあげながら、まるで、バレーのブロックみたいな姿勢で乾を追う。 「……ッ」 真下から迫るような形になった真藤さんの手が、乾の肩に触れた。 弾け合う音が響き、乾と真藤さんがバランスを崩す。 「乾選手、この大会ではじめて進路を抑えられました! 真藤選手のペースになるのか? それとも乾選手にこの先の展開があるのか?」 「真藤さんのペースになるに決まってるよ。乾さんもあんな風に加速したら、フェイントじゃないってわかっちゃうよね〜」 「確かにフェイントだったらあの加速はありえないな。でも、乾のミスというより真藤さんが凄いんじゃないか? 乾は今まであれで抜いてきたんだからな」 「トーナメント運がよかっただけ。あんなわかりやすい動きなら、あたしや明日香でも止められるって」 「わ、私には無理かもしれません」 「当然のようにわたしは無視なんですね……」 「ま、真白でも止められるって。う、うん」 「そんな信用できない声を出さなくても! ……でも、そんなみさき先輩も好きです!」 「愛が重いにゃー」 ──さてと。 乾は大きくバランスを崩してスピードも失った。真藤さんが有利な状況。 ……これからどうするんだ? 佐藤院さんは、──気づけば乾選手の有利な方向に動かされている、と言っていた。 イリーナさんは、──本当のFCです。と言っていた。 乾は何を見せてくれるんだ? 「真藤選手はいち早く姿勢を戻し、下から乾選手の背中にタッチ! これで1対1! 今大会、乾選手、二度目の失点です!」 「二度目?」 「真白っち! 一度目は兄ちゃんがとってるんだよ」 「あ、そうでしたね」 「兄ちゃんと真藤さんが並んだみたいで凄いな〜」 「いよいよ本格的にブラコンだなー」 「だからブラコンじゃないって!」 「やっぱり乾さんはたいしたことないんじゃない? このまま真藤さんが追加得点して終わりそう」 そう簡単に終わらない気がするけどな。 「………」 「明日香、どうかしたか?」 「何かに気づいたのか?」 「え? あ、はい。な、なんでもないんですけど……」 「けど?」 「言ってみろ」 「私の勘違いかもしれないんですけど、その……。コーチは自分ならどうするか考えながら観戦するように、と言いましたよね」 「何か気づいたんだ?」 「気づいた、というほどのことでもないんですけど……。私なら真藤さんと同じように動くと思うんです」 「あたしもそうすると思うけど、それが?」 「だからその……。考えすぎだとは思うんですけど……」 「……もしかして、こう言いたい? 真藤さんは乾に動かされてるんじゃないかって」 「は、はい!」 「………」 「コーチも同じことを?」 「似たようなことは考えてた」 ──佐藤院さんに言われなかったら、そんなこと考えなかったと思うけど……。 その想像が正しいか間違っているのかわからないけど、そこに気づくなんてやっぱり明日香にはセンスが……あるのか? 「二人とも考えすぎじゃないかな〜。だって乾さんがああ動いたら、真藤さんはそうするしかないじゃない?」 「……そうするしかないでしょうか?」 「え? うーん。う、うん。真顔でそんなこと言われても困るけど……。あたしなら真藤さんと同じことするな、あ!」 試合が動いている。 「真藤選手が真下から乾選手を跳ね上げてからタッチ! 得点追加! 2対1! 一方的な展開になってしまうのか。乾選手、厳しい時間が続きます!」 「………」 乾がイルカみたいに体をくねらせて、上へと逃げている。 「……ッ」 それを真藤さんが下から追う展開。 「ほら、一方的な展開になってきたって。二人とも考えすぎなんだからな〜。このまま終わっちゃうかもよ」 「まあ、そうなるかもしれないけど乾もあれだけ高い場所まで逃げたんだから、逆襲は試みるだろうな」 「高い位置にいるから長いローヨーヨーでスピードをかせいで、一気に突き放そうって考えかな?」 「そうだろうな。乾の速さならブイのタッチだけで一気に逆転可能だろうし……」 ──だけど。 それが本当のFCなのか? そんなわけないよな。 それはFCの一つの形であるだけだ。 「………」 明日香が固唾を呑んで空を見つめている。 俺やみさきが気づいていない何かに気づいてるのか? 「………」 「………」 乾が縦方向や横方向のシザーズを入れた動きで、真藤さんを振り切ろうとする動きを繰り返す。 そのたびに真藤さんは乾の頭を抑えようと先回りする。 乾のフェイントにまったく動じていない。ほぼ完璧に対処している。 「両者牽制するような動きを繰り返します。膠着気味ですが、真藤選手の方がやや有利か。このまま試合が終わってしまうのでしょうか?」 「これってある意味、あたしと市ノ瀬ちゃんの試合みたいな感じ? 先に大きく仕掛けた方が不利になっちゃうという、膠着?」 「そうかもしれないけど──」 「私は違うと思います」 「と、言いますと?」 「えっと……その……。わかりました」 「何がわかったの?」 「追い詰められてるのは真藤さんです」 「そうですか? わたしには完璧に先回りしているように見えますけど……」 「真藤さんは完璧に先回りしてますけど……。乾さんは少しずつ下降してるんです。下降する乾さんの頭を抑えようと先回りを繰り返せば……」 「……ッ」 「……ッ」 「……ッ」 「水面まで追い詰められる?」 「そんなことくらい真藤さんだって気づいてるはずだよ」 「気づいたところでどうすればいいんだ?」 「え?」 「この展開なら乾の頭を抑えないわけにはいかないだろ?」 「そ、そうかもしれないけど……」 「このままだとどうなっちゃうんですか?」 「このままだと……。真藤さんもセコンドの佐藤院さんも現状に気づいていないとしたら」 「飛びづらいな、と思っているうちに、どんどん狭い空間に閉じ込められてしまうことになる……」 「二人とも気づいてないなんてことはありえないでしょ?」 「そうだろうけど……。え?」 「………」 真藤さんは不意に乾の頭を抑えるのをやめて身を翻した。 「真藤選手どうしたのでしょうか? 有利かと思われていましたが急にサードラインへ向かってショートカットです。乾選手がゆっくりとラインをすすんでブイにタッチ」 「………」 「セカンドラインで乾選手を押さえ込んでいるように見えましたが、このままでは展開がないという判断でしょうか? しかし、その代償に1点奪われました。2対2です」 「真藤さんは仕切りなおしを選択したか……」 「仕切りなおしというより、手遅れになる前に逃げた、といった方が正しいだろうな」 「真白の友達、全然わかってないね」 「そこは大目に見てあげてください」 「……乾さんって、怖くありませんか?」 「怖くはないけど……」 「そうですか? 私は怖いです。だって、あんな風に自分が思うように試合って、コントロールできます? 相手は真藤さんですよ」 「……それは」 「私は一瞬先のことしか考えられませんでした」 「………」 大技は一度も出ていない。トリッキーな技もない。乾がやっているのは、ローヨーヨーとハイヨーヨーと縦横のシザーズだけだ。 それだけで試合をコントロールしている。 ──なんだ、この試合は。 サードラインで真藤さんと乾が上の位置をとるために、飛び回っている。 「………」 「………」 「2人が螺旋を描くように牽制しあいながら上を目指します。螺旋から飛び出してブイを狙うチャンスもあるように見えますが……」 違う。二人がやっているのはそういうことじゃないのだ。 ブイを狙ってあの螺旋の動きから飛び出したら、上のポジションをキープされてしまう。 それが嫌なのだ。 上のポジションをとられると試合をコントロールされてしまう。 コントロール? 「………」 「………」 二人の動きが加速していく。 ──これは? 心臓が、キリッ、と痛んだ。 試合をコントロールするのが重要なのか? 「……晶也。これはなんだ?」 「わかりません」 なんなんだこれは? ──この会場の何人が今、異様なことが起こってるって気づいているんだ? もしかして──。 スピーダーもオールラウンダーもファイターも、そういうものは関係ないと言っているんじゃないのか? FCというのは、ドッグファイトのうまさやスピードを競うものではなく──。 「………」 相手をコントロールするものなのだと乾は言っているのか? 「………」 そして、それに真藤さんが応答しているのか? それで間違っていない、と真藤さんは言っているのか? 「どうして……」 喉がつまってその先の言葉がでてこなかった。 だって──。 真藤さん! 心の中で問いかける。 真藤さん! そいつは、乾は! 俺たちが今までやってきた、ドッグファイトやスピードを否定してるんだぞ。 そんなものより大事なものがあると言っているんだ。 なんで反発しないんだ! しろよ! 強引にドッグファイトを仕掛けろよ! 同調するな! 俺たちのやってきたことは無意味だって言ってるんだぞ! 「せ、先輩、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」 「大丈夫だ」 いつの間にか真藤さんがさっきと同じ下の位置になって、水面に追い詰められている。 「うまく飛んでいたように見えたのに……。どうしてセカンドラインと同じ展開になってるの?」 異様なことが起こっているのには気づいていても、それが何か、みさきはまだわかっていないのか……。 明日香は? 「………」 「あす、か……?」 ゾッ、とした。背中にぶつぶつと鳥肌が立った。 明日香は笑顔だったのだ。 それも心からうれしそうに。 おもしろくておもしろくてたまらない、という気持ちが伝わる、無邪気すぎる笑顔だったのだ。 ──これがおもしろいのか? この無味乾燥の、ただ相手を追い詰めていく、特殊プレイのような試合が、おもしろいのか? 俺たちが思っていた、FCの魅力など欠片もない、違うスポーツにすら見える、これが。 ――凄い。 明日香は凄すぎる。 凄すぎて、恐い。 「………ッ」 真藤さんが水面ギリギリまで追い詰められた。 「………」 乾は無表情のまま上へとリバーサルしようとする真藤さんの動きを的確につぶしていく。 このままでは真藤さんの動くスペースがなくなってしまう。 「………」 「くぅぅぅぅっ」 真藤さんの顔が歪んでいる。 そんな顔をしてる場合じゃないだろ。そこから逃げる手段があるはずだ。 わかってるはずだし、それができるはずだ。 それさえ成功すれば、真藤さんは、俺たちは……。乾に否定されずに済む。 いずれ負けを認めて、乾の戦術を研究しなくちゃならなくなるだろうけど、少なくとも今だけは肯定される。 その今が欲しいんだ! やるんだ。やれ! やるんだ、真藤さん! やればそのポジションから一気に抜け出すことができるばずだ! 「………」 真藤さんが水面を滑るように飛ぶ。 「………」 それを乾が追う。 「ああ! そんな風に逃げても展開はないよ!」 「大丈夫だ、ある!」 真藤さんがきゅっと手足を縮めた。エアキックターンだ! 真藤さんなら角度を変えられるはずだ。横から上への高速ターン! これなら! 「……ッ」 乾は大きく弧を描いてカーブしてから上へ向かった。 「あっ……」 咄嗟の反応ではなかった。それなら真藤さんに翻弄されたはずだ。 真藤さんが何をしたのかしっかりと確認してから、さらに真藤さんの上へと出たのだ。 「――強い」 ただ、その言葉しか出なかった。 エアキックターンは急速ターンできるけど、そのままスピードを維持はできない。 確かに一瞬、乾より高い位置へは出た。結局はしっかりと基本に忠実に移動した乾が、真藤さんより上の位置をキープした。 『横綱相撲』という言葉が頭をよぎった。 乾の動きには、真藤さんの動きに対して、動じる様子がまったく見受けられなかった。 「………」 そして再びシザーズ。乾はまた同じ展開を繰り返すつもりなのか! 「………」 真藤さんはそれを嫌って、フォースラインへショートカットした。 移動を確認した乾がブイにタッチする。 2対3。 乾が再び逆転した。 「………」 「………」 「二人が距離を置いて動かなくなってしまいました。これはいったい何を意味するのでしょうか? 実況の難しい試合になってきました」 「真藤さん! 無茶苦茶にでも突っ込んでいかないと!」 「さっきの焼き直しの展開になるって。それがわかってるから動けないんだろ」 「だけどこのままじゃ時間切れで……」 「凄いです!」 「え?」 「これもFCなんですね!」 「う、うん」 毒気を抜かれたように、みさきはうなずいた。 「お、おっ……。おおおぉぉおおぉぉぉっ!」 ──真藤さん。 真藤さんがビリビリと空気を震わせるように叫んだ。 「………」 乾は真藤さんの気合を平然と受け止める。 突撃してきた真藤さんの攻撃をハイヨーヨーでかわし、上のポジションを取る。 ──徹底してるな。 「うおぉおおぉおぉぉっ!」 「………」 真藤さんは必死に食らいついていくが……。 残酷に──。試合終了のホーンが鳴る。 「優勝は乾沙希選手です! 決勝戦はゆっくりとした展開でしたが……」 俺はヘッドセットを操作して音声を切った。 会場は変な雰囲気に包まれていた。 誰もが真藤さんの優勝を信じていたし、結果を見てもどうして真藤さんが負けたかわからないのだと思う。 俺もイリーナさんと佐藤院さんから話をきいていなかったらただ呆然としていたかもしれない。 「なんだよ……これ……」 絶望的な思いで、空を見上げた。 そこには、試合を終えたばかりの乾が浮かんでいた。 疲労困憊、茫然自失といった感じの真藤さんと比べ、汗ひとつかいてなさそうな様子が、とても不気味だった。 その視線がふと、下へと注がれた。 「…………」 「あっ……」 乾は、間違いなく俺の方を見ていた。 それは思い込みでもなんでもなく、確信があった。 名前を呼ばれたわけでもないのに、そうとしか思えなかった。 (次はお前だ) そう、言っているようにも見えた。 イリーナさんの言葉が蘇る。 「『本当のFC、わかります』」 これ以上ない形で、俺に見せつけてきた。 実際に戦ったのは真藤さんだけど、挑戦状を叩き付けたのは、俺にだった。 いや、俺だけじゃない。 これは、FCというスポーツ全体への、挑戦なんだ。 いつまでそこにいるつもりだと、上の世界から見下しているんだ。 進化した両生類が、水の中でしか生きられない魚類を見るように。 火を使うことを覚えた人類が、他の種族を蹂躙していったように。 飛ぶこと、勝つことで上位に立った乾が、すべてのFCの選手たちを、見下している。 「くっ……そ……!」 ギリギリと歯を噛みしめ、上空を睨みつける。 乾は相変わらず、動じる様子など微塵も見せない。 まるで心など不要だと言うように、平静そのものの姿勢を保っている。 戦いは心が動く。 まして、駆け引きが重要になるFCは、心の動き無くしては語れない。 だけど。この、目の前にいる怪物には。 「こんなの……ありかよ……っ!」 ――絶望。 ただ、絶望的だった。 概念から覆してくる相手に、既存の方法で、どうやって勝てばいいんだ。 その時の俺には、まったく予想すらできなかった。 ただ、その圧倒的な勝者を前に、視線を逸らさず、見続けることしかできなかった。 「そんな、真藤さんが負けるなんて……」 「圧倒的な負けだったな」 「3対2なんだから、圧倒的ってわけじゃないんじゃ……」 「いや、真藤さんが勝つチャンスは一回もなかった。2点だって乾の撒いた餌みたいなものだろ」 「………」 「圧勝だよ。これ以上ないぐらいの、な」 自分を負かせた相手が圧倒的に負けるだなんて、そんな現実は見たくない、という気持ちはわかる。 ──だけど。 結果から感情的に目を逸らしても、得る物はない。 「コーチ!」 明日香が目をキラキラさせて俺を見ていた。 「どうやったら乾さんに勝てますか?」 「俺にもわからないよ。まずは今日の乾の試合を分析してみないとな」 「はい!」 「明日香は……。真藤さんが負けたこと、何も思わないの?」 「ドキドキします!」 「あはははっ」 みさきは乾いた声で笑って、 「そっかー。ドキドキするんだ……」 「はい!」 もしかしたらみさきが怒り出すんじゃないかと思ったが、みさきは笑顔でみんなを見回した。 「んじゃ、今日は解散ってことだよね。あー、おなか減った。コンビニに寄って帰ろ」 「お供します」 「明日香はどうする?」 「私はもう少し会場に残っていたいです。余韻にひたっていたいというか……」 「そっか。あたしは腹ペコだと死んじゃうので先に帰りま〜す」 「あっ、待ってくださいよ」 腹が減っているわりには早足で歩いていくみさきを真白が追っかけていく。 俺はみさきを追っかけて、 「みさき、ちょっと待ってくれ」 「なに?」 「えっと、だな……。……その」 「……?」 何か話しかけないといけないような気がして、つい声をかけてしまったけど……。 いったい俺は何を言いたかったんだ? 「……告白、じゃありませんか?」 「それだ!」 「違う!」 「なんだ、違うんだ」 「えっと……。明日、部活ちゃんと来るよな?」 「……ん〜、行く……かな?」 「曖昧に言わずに断言しろよ」 「明日のことは明日にならないとわからないな〜」 みさきはわざとらしく大げさにお腹を両手で抱えて、 「お腹がすきすぎて、今は何も考えられませ〜ん」 「わかったよ。だけど、できるだけ来るようにな」 「は〜い」 「それじゃ、私たちはお先に失礼します」 適当に手を振るみさきの横で、真白がペコリと頭を下げた。 「みさき、ショックだったみたいだね」 「俺だってショックだからな。あいつ気分屋だからフォロー頼んだ」 「わかってるけど、日向くんもちゃんとしておいてね」 「できるだけのことはするよ」 「みさきちゃん、様子が変でしたね」 「あんな試合を見せられたら変にもなるよ〜」 「え? どうしてでしょうか?」 「……もしかしてわかんないのか?」 「……は、はい」 「ははははっ。倉科は大物だな。多分、鳶沢は真藤を目標としていたんだろう」 「目標としていた選手が負けてしまったらショックだろ?」 「……あっ」 「しかもそれが言い訳のしようのない、圧倒的な負けだったからな。信じていたものが崩れたようなもんだろ」 「わ、私! あの試合を見ていて興奮しちゃって……。空気を読まないことを言ってしまいましたか?」 「あんまり気にしなくていいよ。明日香ちゃんはみさきじゃないんだからさー」 「で、でも。今からでも追っかけて謝った方が……」 「そんなことしなくていいって。明日香は悪いことを言ったわけじゃないんだ」 「そうだぞ。決勝戦はおもしろい試合だったんだから。そうだろう、晶也」 「……そうですね。おもしろすぎる試合だったと思いますよ」 ──俺は空を大きく仰いで深呼吸する。 いったいこれから何が始まるんだろう? 部員のこともそうだし、FCのこともそうだ。 きっと、大きな変化があると思う。確信に近い予感があった。 心臓が、少しだけ痛い。 ★★デバッグ用 共通→個別のルート選択部分★★ よっ、と。 俺は学校の停留所に降りて、改めて空を見上げた。 青すぎる空で、夏の太陽が輝いている。 「まだまだ夏か……」 当たり前だ。 夏の大会が終わったからといって、夏が終わったわけじゃない。というか、これからが本番だ。 ──夏の大会を終えて、それぞれが何を思ったのか、それを確かめる必要がある。 みんなの様子を見ないと、部の方針を決めることだってできない。 大会が終わった直後で気が抜けちゃってもしょうがないから、部活を休んでも文句は言えないし、文句を言うつもりもない。 だけど、来て欲しい。 やる気を見せて欲しいっていうわけじゃなくて……。もっと、俺の個人的なわがままみたいな気持ちで……。 自分じゃこの感情をうまく説明できないけど、今、俺は不安なんだと思う。 だから、みんなに会いたいのかもしれない。 ──とは言っても。 携帯を引っ張り出して、時間を確認する。 ちょっと早すぎたな。 ──一人で部室にいるのはなんだか空しいし、次に来た部員に、気合が入りすぎてる、と引かれそうだ。 教室で時間を潰してから部室に行くか。 「あっ、コーチ!」 グラウンドに出てすぐ、明日香から声をかけられた。 「今から部活ですか?」 「いや、まだ早いかなと思ってたんだけど」 「あ、やっぱりそうですかね……」 明日香はちょっと恥ずかしそうにする。 「明日香はもう行くつもりだったのか?」 「え、ええ、はい。ちょっとやる気出し過ぎでしょうか……?」 わざわざ時間を潰したのは取り越し苦労だった。 考えてみれば、明日香は真っ先に来てそうな雰囲気ではあった。 先日の大会、俺は内心、明日香に恐怖した。 あの、凍り付くような状況の中で、明日香一人が、『笑っていた』のだ。 とても楽しそうに。とても嬉しそうに。 地獄とも形容できる、それまでの絶対王者の無残な敗北劇を、面白いと形容したのだ。 「今日の練習は何にしましょうか。やっぱり、試合のあとですし、反省会からでしょうか〜?」 目の前で楽しそうに話す明日香からは、あの時に感じた恐ろしさは見えてこない。 むしろ、この無邪気そうな感じのまま、どこへでも行けそうなのが、明日香の恐いところなのだろう。 そしてそれは、強さにも繋がっている。 「明日香は――」 「はい?」 「昨日の大会、どうだった? 素直な感想を聞かせてくれ」 改めて、聞いておきたいと思った。 あの時の笑顔の意味を。そして、面白いと話した意味を。 心のどこかで、期待していたのかもしれない。 明日香だって恐いのかも、やせ我慢で、楽しいと言ったのかも、と。 でも、返ってきた答えは。 「感想は……楽しかったです」 「自分の試合も、そして、みんなの試合も。びっくりするぐらい、ドキドキしていました」 「最後の試合だって、あそこで、乾さんと戦っているのが、なんでわたしじゃないんだろう、って思ってました」 「まだそんな選手じゃないことなんて、わかってるんですけどね」 本来なら、コーチをしている選手が、これだけのやる気に満ちあふれているのならば。 もっと、高揚感のみを感じているはずだった。 なのに俺の中では、複雑な感情が渦巻いている。 「そうか……」 俺は、明日香に、超えられるかもしれない。 それを、恐怖していたのか。 ただ、その恐怖と同じぐらいの濃度で、この素材が、どこまで突き抜けるのかを、見届けたいという思いもあった。 明日香は、どこまで行くんだろう。 その到達する場所は、俺が見ることのできなかった、場所かもしれない。 「コーチ、いえ……、晶也さん」 「ん……」 明日香が、いつになく真剣そのものの表情で、こちらを見つめていた。 「今日の練習から、お願いがあるんです」 「お願い……?」 「はい」 そのまま、俺の目をまっすぐに見据えて。 「本気でわたしを鍛えてください」 「本気でって、どういうことだよ……?」 「乾さんに、勝てるぐらいです」 「…………」 「それが、どのくらい大変なことかは、わたしにだってわかります」 「でも、そこに行きたいです。わたしは、勝ちたいんです」 「……だから、そのための指導を、わたしにしてください」 「お願いします」 内心を、突かれた。 俺の中で葛藤する、二つの心を。 まるで明日香に見抜かれたかのように、お願いという形で、突きつけられた。 俺は……どうするんだ。 ……そうだ。 明日香は、俺にも戦おうと言ってくれているんだ。 あの怪物と。FCを否定する、上位の存在と。 「昔さ」 「はい……?」 「葵さんと、練習してた時。もう、すごかったんだよ」 「あっ……」 明日香の前で、この話をするのは初めてだった。 でも、今するのが、正しいと思ったから。 「毎日毎日、FCばっかりで。寝ても覚めても、空の上にいる気がした」 今でも時々思い出すことがある。 両親が心配するぐらいのレベルで、あの頃の練習は過酷だった。 「でもさ、そんな練習を続けていて、ある日突然、身体が反応したんだ」 「どんな風に……ですか?」 「身体が、意識せずとも動けるぐらいに、とても軽くなったんだ」 不思議な感覚だった。 手足を動かすぞ、と思う前に、自然と反応するようになっていた。 相手の次の動きが読めるようになって、その通りに動くと得点できるようになった。 空と一緒になる。 突き抜けた選手には、そういうこともあるのだと、葵さんは言ってくれた。 「ちょっと前までは、明日香にそんな練習をさせるのが、正直言って恐いと思っていた」 「でも今は、明日香にも、そこへ行って欲しいと思ってる」 明日香の方へと向き直る。 「明日香」 「はいっ」 「厳しくなるぞ。お遊びの練習は、もうできなくなるかもしれない」 「はいっ……!」 二人揃って、強い意志をこめた笑顔。 よし、やるぞ。 乾に、上位存在に。俺たちの飛び方で、勝ってみせる。 「ただ、矛盾してるかもだけど、明日香のその、楽しいって思うこと、すごく大切だと思う」 「えっ、そ、そうなんですか?」 「ああ。それは、俺が最後まで……」 持ち続けられなかったものだ、と言いかけて、やめた。 「最後まで、離さなかったものだから」 「それは……」 「それは、大切ですね」 「うん」 明日香には、空を飛ぶのが嫌だとは、絶対に思わせたくない。 あの楽しそうに、軽やかに飛ぶ明日香を、ずっと見ていたいから。 だから俺は、彼女と戦う。 空の一番てっぺんで、彼女と笑うために。 「よしっ、じゃあ部活始めるぞ!」 「はいっ、お願いします、コーチ!」 「……いや、それはできない」 「えっ……?」 「明日香はまだ、そこのレベルに至ってない。まずはしっかりと足場を固めて、それからじゃないと」 「そう……ですか」 「もちろん、練習をしないってわけじゃないぞ。チャンスがあれば上は狙うし、これからの頑張り次第では、方針も変える」 「そ、そうなんですねっ」 「ああ。今はまだまだだけど、この夏休みの練習が終わって、秋の大会になるころには、な」 「……じゃあわたし、目標を決めました」 「コーチに認めてもらえるように、毎日の練習、がんばりますっ」 「ああ、楽しみにしてる」 「はいっ」 ……俺には、この巨大な才能を、抱えきれるようには思えない。 技術的にどうとかいったことではなく、精神的に、あまりにかけ離れている。 だから今は、大きなことは言わないでおこう。 明日香はいったん教室へ戻り、それから部室へ来るとのことだった。 ひとまず別れ、ひとりで部室へと向かう。 教室には誰もいなかった。 こんな時間の夏休みなんだから当たり前か……。 幾つかの机の上にタオルやカバンが乱暴な感じで載っている。多分、体育会系の連中が教室に来て、荷物を置いてから練習に行ったのだろう。 「………。ふーっ」 窓際の机に腰掛けて、ぼんやりと外を眺める。どこかの部がランニングをしているらしく、神輿を担いでいるみたいな掛け声が微かに聞こえた。 ──これから、俺はどうなるんだろう。 ぼ〜っと漠然としたことを考える。 昨日の興奮が冷めていないのか、頭がうまく稼動していない気がする。 ……。 結局、誰も来なかったか。誰か来るような気がしたんだけど……。 ──それは都合のいい話なのかもしれない。 そろそろ部室に誰かがいる時間かな? 「よっ、と」 俺は机を叩くように立って教室を出た。 「……あ」 「コーチ!」 こっちに向かって明日香が歩いてくる。 「早いんだな」 「そんなことありません。ちょっと寝坊してしまいました」 「寝坊してこの時間なのか……。まだ部が始まるまで時間があるぞ」 「いえ、実は……」 「何かあったの?」 「あの、私、夏休み前、最後の日直だったんですけど」 「え? うん」 急に何の話だ? 「黒板消しの掃除をするのを忘れていて、それが凄く気になってるんです! だからコーチは先に部室に行ってください」 「う、うん。わかった」 明日香は一つうなずくと昇降口に向かって、パタパタ走っていった。 ──キッチリしているようなしてないような性格だな。 「おっ?」 「あっ」 俺が来たタイミングで練習着姿の真白が部室から出てきた。 「また着替えをのぞいてたんですか?!」 「またって言うな! のぞいたことなんかないって」 「ど〜もあやしいです」 「あやしくなんかないって」 ──窓果が何か言ったんじゃないだろうな。 少しだけ動揺してしまう。 「こんな時間にもう着替えてるなんてやる気だな」 「やる気……なんですかね?」 「わかんないならやる気あるってことにしとこう。俺の希望だけどな」 「…………」 なんて不満そうな顔で人を見るんだ。 「センパイ、ちょっと」 「ん?」 「こっちにきてください。いいから」 「お、おい真白……!?」 半ば強引に、少し離れた場所まで連れ出された。というか引っ張られた。 「どうしたんだよ」 「ちょっと……他の人には聞かれたくない話で」 「なにか言いづらいことか?」 と言っても夏の大会敗退後、やる気うんぬんの話題の直後の流れだ。 まさか、が脳裏をよぎる。 「……言いづらくなってくれますかね」 「? 何の話だ?」 「な、なんでもありません。こっちだってそうなってみないとわかんないですし」 「は?」 本格的にわけがわからない。 「で、お話なんですけどもっ」 「お、おう」 「『今度は俺がいる』」 「……は?」 「『俺が絶対真白を勝たせてやるから』」 真白のやつ、藪から棒に何を言って……? あ!!! 「もし忘れてるんでしたら本気でサイテーです」 「……覚えてるよ」 というか思い出した。 いつだったか真白に約束した俺の言葉だ。 大会までずっとそればっかりだったから、ものすごく当然のことすぎて記憶から抜けていた。 「覚えておられましたか。それはよかったです」 「で?」 「で、とおっしゃいますと……?」 「結果はどうでしたでしょうか」 1回戦負け…… 相手が悪かったってのは言い訳にならないよな。 「うそつきー」 「……すまん」 真白の口調は決して本気で俺を責めているものじゃない。 拗ねているような、俺をいじめてからかっているようなトーンだ。 きっと真白なりに気を遣ってくれているのだろう。俺としては色んな意味で謝るしかない。 「それでですね、ちょっと悩んでるんです。わたし、まだ部活を続けるべきなのかなって」 「…………」 やっぱり脳裏をよぎったまさかだったか。 「センパイはどう思われます?」 俺は…… 「好きにするといい」 「……っ」 真白が息を飲んだのが気配でわかった。 真白が俺に何を委ねたのかは何となく察せたつもりだ。 だけど、 「約束を破ったのは俺だ」 それがすべてで、それ以上の言葉は出なかった。 「……はあっ」 真白は大きく息をつくと、 「よかったぁ……センパイのこと嫌いで。そうじゃなかったら大変なことになってました」 「ごめん」 冗談っぽく笑ってくれる真白。 こんないいやつを俺の勝手で、本当は……なんてもう縛る気になれない。 「まぁそれはそれとして、センパイ、約束を破ったペナルティは覚悟してくださいますよね?」 「けじめか」 「散々わたしとみさき先輩の仲を引っかき回してくださったお礼をしないと」 「しかもそれなのか……」 だけど何かあった方が気持ちの整理はつけやすいかもしれない。 「この場限り。尾を引かない、あとあと話を引っ張り出さないということで」 「ものすごく凄惨な暴行を加えられるんじゃないだろうな……」 「安心してください。平手の一発くらいですから」 「平手なんだ!?」 「はい、目を閉じてー。歯を食いしばってー」 言われたとおりに目を閉じ、歯を食いしばって真白からの一発を待つ。 …… ………… …………………… …… …… ………… あれ? 「真白……?」 目を開ける。 そこにはもう真白はいなかった。 いや、代わりに足元の土に、 『昌也センパイ、ありがとうございました!』 「バカ……字、間違えてるぞ」 ヤバい。声が震えそうになった。 とりあえずスマホで写真に残しておこう。 「ちょっと! なに恥ずかしいことしようとしてるんですか! 変態ー!」 「お、おまえもいなくなったフリして見てんじゃねーよ!」 「いっしょに続けたい」 真白が俺に何を委ねたのかは何となく察せたつもりだ。 だから、 「今度こそ約束を守りたい。真白を勝たせる」 今日、真白に会ったときに聞かれたとおりだ。 真白がやる気を持って練習に臨むことが俺の希望で、俺もまたそれに報いるだけのコーチをするつもりがある。 ちゃんと言葉に、形にする。 「…………」 「なんでまた不満そうな顔で見るんだ……」 これまたさっきと同じ反応だった。 おい、なんでだ? もしかして辞めろって解放してほしかったのか? 「センパイの言葉って、なんていうかブレがないですよね……」 「確固たる揺るぎない意思だからな」 「逆に熱がないというか軽いようにも見えてしまって」 「マジか!? っていうかどうすればいいんだ」 「自分が言ってることの意味をもう一度咀嚼してください」 「それは嫌だ」 「どうしてですか」 「冷静になったら恥ずかしいこと言ってるだろうから」 「あ、それは一応理解されてるんですね」 「……真白、おまえは俺に何を望んでるんだ」 「うそつきー」 「おまえなんか今痛いとこ突かれたんだろ!?」 「うそつきー、うそつきー」 「くうっ……!」 とはいえ、痛いのは俺も一緒だった。 「いい加減にしないと俺も泣かない保証はできないぞ」 「はいはい、ごめんなさいセンパイ。ほんとはそんなこと、ちょっとしか思ってませんから」 「フォローのようで追い打ちだろそれ……」 「さてと、じゃあ部室に戻って練習しましょう」 「…………」 「なんか、みさき先輩がいればちっちゃなことはどうでもいいかなーって」 「結局そこなのか……」 いつもどおりの結論に俺はどっと肩を落とした。 だから、 「ま、ちょっと気も晴れましたしね」 そんな真白の呟きは。 俺の耳には届かなかった。 「ん? やる気がないのか?」 「あるような、ないような……どうなんでしょう?」 真白はそう言ってからじっと考え込む。 「こんな時間に来て着替えてるんだから、考えるまでもなくやる気はあるんだろう?」 「そうですね。きっと、そうなんだと思いますよ」 そう言って、真白は笑った。 「みさきちゃんが来ないですね」 「みさき先輩もそうですけど、青柳先輩は?」 「窓果なら今日は来ない。昨日の試合の動画を見せてもらえないか、実里を通してケーブルテレビ会社に頼みに行ってるから」 昨日の試合。できれば決勝戦だけでも、動画で確認しておきたい。 「真白、昨日のみさきの様子はどうだった?」 「いつもどおり……を装ってる雰囲気はありました」 「……わかった。とりあえず来るのを持ってるのは時間の無駄だから、先にアップしておこうか」 「わかりました」 「いつもと同じでフィールドフライでいいんですね?」 「うん。綺麗な姿勢になるように気をつけながらな」 「はい」 「はい」 「はい」 二人がフィールドをぐるぐる回り始めてから数分。 頭の上から人の気配。 ──みさきが遅刻してきたのか? 「やあ、こんにちは」 「あ、真藤さん。どうしたんですか?」 「キミ達の様子が気になってね。それでやって来たんだ」 ……俺たちからすれば、真藤さんのことも心配ではあったんだけどな。 「試合、見てました」 「無様なところを見せてしまったね。申し訳ない」 「申し訳ないなんて、そんな」 一番つらかったのは、真藤さんのはずなのに。 「この僕があこがれの日向くんに美しく完全勝利を見せられなかったのは、残念で申し訳ないよ」 ……あ、意外と立ち直ってるかも。 「まあそれに、僕にはまだ仕事が残ってるからね。落ち込んでるヒマなんかない」 「仕事……ですか?」 「ああ」 「……ほら、隠れてないで出ておいでよ。君から頼まないと意味がないだろう」 そう、言って。 真藤さんの背後から、ひょこっと顔を出したのは。 「こ、こんにちは……」 「い、市ノ瀬……?」 「彼女と、あと佐藤くんから聞いたよ。なんでも、今後こちらの練習に、参加させて欲しいって頼んだそうじゃないか」 高藤の部室あたりで、『院が足りません』と声が響いてそうだ。 「はい、一日目の試合のあとに、そういうことを」 「それで、だ。僕の方から、もうちょっと踏み込んだお願いをしたい」 踏み込んだ、お願いだって? なんだろう、わざわざ真藤さんが言うようなことって。 「ほら、言って。市ノ瀬くんが自分で言いますって言ったんだろ?」 「は、はい、でも、ちょっと心の準備を……」 市ノ瀬は思いっきり大きく深呼吸をすると、 「あ、あの、日向さんに……」 なんだか、果たし状を突きつけるかのような思い詰めた目で。 「私のコーチを、お願いしたいんですっ」 そんなことを、お願いしてきたのだった。 「え、ええっ、コーチを……?!」 市ノ瀬の表情は真剣そのものだった。 別にその場の思いつきで言っているようには思えない。 「無茶なお願いなのはわかっている。キミは何より、久奈浜のコーチなのだからね」 「ええ……」 「それでもなお、キミにお願いしたいのは理由がある。それは……」 「……殻を破らせたいから、でしょうか」 「なんだ、佐藤くんが先に言ってたのか」 「コーチを依頼する話ではなかったですが、市ノ瀬の話として聞いていたもので」 「それなら話は早い。その課題を克服するためには、高藤の流れではない、血が欲しいんだよ」 「もちろん、僕自身も彼女の指導には協力する。久奈浜の子たちに教えられることも多いだろうし」 「それは、とても助かりますが」 真藤さんが、うちの指導をしてくれるのはとても助かる。 特にみさきなんかは、それでやる気を出してくれるように思うし。 「その……市ノ瀬自身も、それを望んでるんだよな?」 念のため、意思の確認をする。 「もちろんです。私がちゃんと自分でお願いすることなのに、部長に付き添って頂いてしまって」 「みなさんへのご指導の傍らで、面倒をおかけするとは思うのですが、どうぞよろしくお願いします」 ……どうしたものだろうか。 市ノ瀬は選手としては面白い素材だ。 真面目一辺倒の考え方さえ変われば、面白いところまで十分行けるだろう。 だけど、俺には自分のところの部員の指導がある。その上で、他校の生徒である市ノ瀬の指導をするとなると。 (市ノ瀬は特別だって言うようなものだよな) 俺はどうするべきなんだろうか。 「俺でいいのなら……やります」 市ノ瀬は他校、高藤の生徒だけど、俺の中では、もっと特別の位置にいた。 選手としての魅力もそうだし、色々と話をするようになって、本人自身にも興味を持つようになった。 しっかりとコーチできるのなら、面白いことができそうな気がする。 「俺でいいのならって、そんな言い方はイヤです」 「えっ?」 「だって、私は日向さんだからコーチをお願いしたんです。他の人だったら……」 「そ、それはごめん」 横で俺たちのやり取りを見ていた真藤さんが、思わず苦笑する。 「うちで誰かにコーチをお願いするにも、不満げだったぐらいだからな、市ノ瀬くんは」 「ぶ、部長っ!」 「はは、まあ、願いどおりになってよかったじゃないか」 「……っ〜〜!」 ジト眼で真藤さんを見る市ノ瀬。 しかし、そこまで強く希望してくれたのは、他の血を入れたいということ以外に、何か理由があってのことなんだろうか。 「じゃあ、快諾頂けたことだし、僕はこの辺で失礼するよ」 「あ、では私も……」 「何言ってるんだ、これからお世話になるんだから、今後のことについて話し合っていきなさい」 「え、えええっ……!」 「それじゃ日向くん、頼んだよ」 「ドSですね、真藤さん」 「僕は人によってはドMにでもなれる男だよ。……それじゃこれで、失礼する」 こうして真藤さんは、本当に一人きりで、帰って行ってしまった。 「あ、あのっ、あの、その」 残されたのは、飼い主のいなくなった子犬という様相の女子が一人。 明らかに戸惑った様子で、オロオロしている。 「ま、その……なんだ」 頭を掻きつつ、とりあえずは挨拶をすることにした。 「これからよろしくな、市ノ瀬」 「は、はい、ひな……」 「……っ」 「って、なんで黙るんだ?」 俺の名前を言おうとして、急に口をつぐむ市ノ瀬。 「えっと、あの、そうじゃなくて」 「みなさんとその、呼び方が違いますよね?」 「呼び方……?」 ……あ、そうか。 「うちのルールに沿うなら、今のじゃないよな、うん」 「は、はいっ、ちょっと図々しい気もしますが」 ……図々しくはないけど、さっきの借りてきた子犬のような感じは、もうそこにはなかった。 市ノ瀬莉佳。これからどんな選手になるんだろう。 楽しみだ。とても。 「そんなことないよ。じゃあやり直しで……」 居住まいを正し、改めて言う。 「それじゃこれからよろしく、莉佳」 「はい、晶也さん!」 「……ごめんなさい、できません」 市ノ瀬が望んでいることとは言え、やはり俺には、この学校のコーチという役目がある。 「市ノ瀬がこちらの練習に参加するのは自由だから、それで納得して貰えないでしょうか」 「は、はいっ、もちろんです、と言いますか、すみません、図々しいお願いで」 「そんな、俺の方こそ」 学校の垣根が無ければ、俺もコーチの件を引き受けていたかもしれない。 でも、一度こちらのコーチをしたからには、まずは責任を持って、役目を全うしなければならない。 「いや、無理なお願いをしたのはこちらの方だよ。キミがそこまで気にすることはない」 「ごめんなさい……希望に添えなくて」 「あの、本当に、いいんです。私は練習に参加させて頂けるだけで、すごく嬉しいので……」 「市ノ瀬くんの言うとおりだ。まあ、誰か特別に指導するにしても、それは余程のことがないとできないだろうしね」 「そうですね……いや、まだそういう選手も見つかってはいないんですけれど」 「へえ、そうなのか。ならば、今後のキミの課題かもしれないね」 「そうですね」 エースの存在。高藤で言うならば、真藤さんのような存在。 俺がそれを、ここで育てられるかどうか。難しい課題だ。 「じゃあ、僕たちはこれで。さっきの話の通り、市ノ瀬くんについては来週からこちらの練習にも顔を出すから」 「わかりました」 「よ、よろしくお願いしますっ」 少し緊張気味に、市ノ瀬が言う。 「こちらこそ、よろしく」 「では失礼するね」 真藤さんと市ノ瀬は、軽く手を振って飛んでいった。 コーチの話は無しになったけど、二人が練習に協力してくれるのはありがたい。 二人がフィールドをぐるぐる始めてから数分。 頭の上から人の気配。 ──みさきが遅刻してきたのか? 「やあ、こんにちは」 「あ、真藤さん。どうしたんですか?」 「キミ達の様子が気になってね」 「気にしてくれるのは嬉しいですけど、大会が昨日、終わったばかりなんですから、高藤学園の方に顔を出した方がいいのでは?」 「そんな心配をしてくれなくても大丈夫だよ。向こうにはあまり顔を出さないようにするんだ」 「どうしてですか?」 「自分で言うのは恥ずかしいけど、高藤学園といえば真藤一成だろう? そういうイメージを引きずるのはあまりいいことじゃない」 「それはそうでしょうね」 真藤さん自身がどうであろうと、後輩達にとっては大きな壁になってしまうに違いない。 大きく重い壁があると、風通しが悪くなるのは当然だし、その壁を前に萎縮してしまう部員もでてくるだろう。 「ここは僕と無関係だからね。たまにFCをしたくなったら、ここに来てもいいかな?」 「それは是非お願いします。ウチの部員の相手をしてくれると助かりますよ」 「ありがとう。それを確認しておきたくてね。今日はこのくらいにしておくよ。それじゃ、また近いうちに」 「はい」 真藤さんは軽く手を振って飛んでいった。 ──真藤さんが来てくれるなら助かるな。 でもそれって敵に塩を送ることになるんじゃないのか? 高藤学園の生徒から変に敵意をむき出しにされたら困るな。 まあ、それを差し引いても真藤さんに来てもらえるメリットの方が大きいか……。 「昨日の今日だし、このくらいにしておこう」 見ていると二人とも集中力を微妙に切らしている。疲れが残っているのだろうから当然だ。 戻ってきた二人はクールダウンのためのストレッチを開始する。 運動後にちゃんとやっておくと、筋肉痛などの体の故障を起こしづらくなる。 「……結局、みさきちゃん来ませんでしたね。二人だと寂しいですね」 「確かにな。二人っきりだと煮詰まってきちゃうからな」 「明日になればきっと来ますよ」 「そうだといいけどな」 みさきは落ち込んでいたからな。 携帯を手にする。 後でメールしておくか……。 練習を終えて俺は街の中を歩いていた。 一人で考え事をしたかったのだ。何を考えたらいいのかよくわからないけど……。 ──考えないといけないってことがあることだけはわかるのだ。 んっ? ポケットの中で携帯電話が震えた。 「メール……みさきからか」 ──意外だな。 遅れたとはいえ、みさきから律儀に返信があると思ってなかった。 「『海にいます。探さないでください』……か」 ──面倒くさい奴だな。だいたい海ってどこの海だよ。ここは島だから海だらけだ。 でも……まあ──。どこの海にいるかくらいは想像できるな……。 わざわざ、こんなことを言ってくるなんて恥ずかしい奴だ。 近くの発着場を脳内検索してから、俺は走り出した。 「………」 昨日の大会を思わせるものがほとんど残っていない砂浜に立って、みさきがじっと海を見つめていた。 「よう」 みさきはゆっくりと俺に振り返って、 「……コーラとポテチは?」 「欲しいんだったらメールに書いておけ」 「そこらへんはあたしの気持ちを汲んで欲しかったなー」 「超能力者じゃないんだからそんなもんわかるか。っていうか、ジャンクフードをあんまり食うなよ」 「……どうして?」 「体によくないだろ。FCを続けるなら体にも気をつけて欲しいんだけどな」 みさきは俺から海に視線を戻してため息混じりに、 「FCねー」 「……なんだよ。真藤さんに負けた後、真面目にやるって言っただろ?」 「………。………。……言ったっけ?」 「言いました」 「そうだったかな〜」 「FCをやりたくなくなったか?」 「そういうわけじゃないけど……。おもしろいスポーツだとは思うし? だけど、その……真面目にするのもなんだかな〜、って感じ」 「………。………。……自分の目標より上の存在が出てきたからショックなのか?」 「……ッ! べ、別にそういうのじゃない。真藤さんが負けたからってそんなの全然関係ない。晶也は全然わかってない!」 「わかってないって何が?」 「あ、あたしは……その……。 ………。……別になんでもない」 「途中で言うのをやめるな」 「……別に最初から言いたいことなんかなかったから」 ──面倒な性格してるな。 「………。ちょっと考えたいから……。明日から部活、少し休むから」 「……好きにしろよ」 「ん。……そうさせていただきまーす」 自分を見つめなおすっていうのも大切だろうからな。 「いつでも部に来ていいんだからな。というか、明日香と真白の二人だけだと、練習に幅がなくてきつい」 「はいはい、そのうち行くから……。今はいろいろ考えたいの」 「わかったよ」 俺はみさきの横顔を見つめてうなずいてから、その場を離れた。 みさき自身があんな状況じゃ、俺が何を言っても事態は好転しないだろう。 俺は街に戻った。 一人になりたかったけど、完全に一人にはなりたくない曖昧な気持ちだったのだ。 心の中がもやもやして、考えなきゃいけないことがあるはずなのに、何を考えたらいいのかよくわからない。 携帯をポケットから引っ張り出して、一応、確認する。 みさきからメールの返事はなしか……。 いったいどこで何をしてるんだ? ……まあ、何をしていてもいいんだけど、練習を休むならせめて連絡くらいしてくれればいいのに。 「よう! 日向じゃないか」 「あっ、部長。こんなとこでどうしたんですか?」 「家にいても頭の中を空っぽにしてシトーちゃんねるを見るくらいしかすることないからな」 「三年生の夏休みなんですから、いろいろとしなきゃいけないこと他にもありそうですけど……」 「日向こそ、部活の方はどうなんだ?」 「今日はもう終わりにしました。みんな疲れてますから、無理させたら怪我につながりますし」 「そっか……」 部長はまぶしそうに空を見上げた。 「俺の夏は終わったのに、季節的にはこれから夏の本番っていうのは不思議な気分だぜ」 「──そうですね」 部長はニヒルに、ふっ、と短く息をはいてから、 「くそったれが!」 「な、何がですか?」 「俺もよくわからん! だけど、こういう時はそう叫ぶべきじゃないのか日向!」 「街中でポージングしないでください」 「俺のキレのある大胸筋、さわってもいいんだぜ」 「遠慮しておきます」 「日向!」 「な、なんですか? いったい部長は何をしたいんですか?」 時々、行動におかしなとこがあるけど、今日は特にからみづらい。 「日向に言っておきたいことがあるんだが、それをどうやって口にしたらいいのかわからないんだ。それがもどかしくてな」 「俺に言いたいことですか……」 「うむ。コーチとしての立場でいろいろと考えるとこあるんだろうけど……」 「………」 「もうちょっと積極的になってもいいと思うぞ」 「どういうことですか?」 「部員連中は日向のことを信用してるんだから、受身じゃなくてもっと積極的に行ってもいいと思うぜ」 「積極的ですか……」 確かにそれはそうかもしれない。みんなのことを考えすぎ……。いや、考えて悪いことはないのだ。考えすぎでいいのだ。 そうじゃなくて……。 みんながどうなりたいのかってことばかり考えていて、みんなをどうしたいのかってことをあまり考えてなかったかもしれない。 「痛いとこをつきますね」 「だからさ、日向……」 「はい」 「選手に復帰することにおびえるなよ」 「……ッ」 絶句してしまった。 この人はいきなり何を言うんだ? 「別に俺は怯えてなんかいないですよ。選手をしたくないだけで……」 「だったら、それでいいけどさ。もし、復帰したくなったら言ってくれよ。その時は協力するぜ」 「………」 そんな日なんか来ませんよ。 そう言おうと思っていたのに、口から出てきたのは、 「その時はよろしくお願いします」 言ってから気づいた。 ──もしかして俺は復帰したいのか? そんなはずないのに……。押し出されるように言ってしまった。 「日向と試合するのが楽しみだぜ」 その笑顔があまりにも素直でまぶしくて……。 「そうですね」 大きくうなずきながら、俺はそんなことを言ってしまっていた。 「第6話END」 指先を揃え、左右の腕の高さを均一にする。 左足は踏み出すために前へ、右足は反動をつけるために後ろへ。 重心は少しだけ前に。飛び上がった瞬間、すぐに前傾姿勢を取れるように。 息を大きく吸う。吐く。 身体の隅々まで酸素が行き渡るイメージで、ゆっくりと何度も、呼吸を繰り返す。 風の行方が変わった。首の後ろ辺りを撫でる、微かな追い風。 閉じていた目を開き、短く、そして鋭く、言葉を出す。 『FLY!』 「おーい、日向くん、日向くーん」 「寝てんのかー? こらー、コーチ、起きろー!」 「んあっ……?!」 「ふあ……ごめん、もう終わったか、練習?」 「ううん、まだ。今、ちょうどローヨーヨーに切り替えたとこ」 「そっか、悪いな、寝ちゃって」 「いや、むしろ心配だよ。日向くん、部長になったからって、ちょっと頑張りすぎじゃないの?」 「そんなことないよ、ちょっと寝不足なだけだ」 「その寝不足が問題だって言ってんのよ、もー」 「……ここ数日、ずっと夜通しで明日香ちゃんの試合の検証やってるんでしょ?」 「……ま、それはそうだけど」 毎日、部活が終わった後、検証をするのが日課になっていた。 ホワイトボードを使って作戦のパターンを作り、家に帰ったら実際に軽く飛んでみて確認する。 みんなには気づかれないようにしていたのだけど、窓果にはしっかりバレてしまっていた。 「明日香には言わないでくれよ、心配させるから」 「そりゃまあ、わかってるけど……。でも、コーチが先に倒れちゃ育つものも育たないよ?」 「ん、まあ気をつけます。……ちょっと、みんなの様子見てくる」 「あ、こら〜、その言い方、聞いてないやつ!」 夏の大会の数日後。 久奈浜学院FC部は、秋の大会に向けて方針を決めるべく、全員参加のミーティングを開いた。 「それじゃ先生、よろしくお願いします」 「よし、全員揃ったな」 「はいっ」 「はいっ」 「はーい」 「はい」 「はい!」 「それでは、ミーティングを開催する。……青柳妹」 「はいっ」 「議題に沿って進めてくれ」 「わかりましたぁっ」 「えーと、それでは最初の議題、部長交代についてです」 体育会の部活なら恒例のことなのだが、3年生は夏の大会が最後の行事となる。 そして、それが終わるのと同時に、新しい部長が2年生の中から選任されるのだ。 「事前にお知らせしていた通り、新部長は日向晶也くんがなるということで、皆さま異論ありませんでしょうかー?」 「意義なーし」 「賛成ですっ」 「それしかないですもんね」 ほぼ一瞬で、部長の選任は終了した。 まあ、今の役割とか考えれば、自分しかいないと思うけど。 「あ、でも、別に呼び名はすぐに変えません。俺はこれまで通りでいいし、部長も部長ってことで」 「おう、そうだな。青柳は二人もいるしな」 それもそうだし、『シオンさん』って呼ぶのもなんかあまりにイメージが違いすぎる。 やっぱり、部長は部長と呼ぶのが一番しっくりくる。 「しかし、選挙もなくそのまま決まっちゃいましたね」 「別に真白が立候補してもいいんだからな?」 「わたしが部長になったFC部……」 「……いや、ごめん。それはないな」 「ちょっ、ひどくありません!? それっ」 「はいはい、それぐらいにしておけ。今日は大切な議題が控えてるんだからな」 「はぁーい」 「は、はい」 ……そうだった。 俺が部長だとかそういうことなんかより、今日は本当に大切な議題があるんだ。 「さて、夏の大会も終わり、次は秋の大会に向けて練習を開始するわけだが……」 「ここで、その目標を決めたいと思う。晶也、方針を聞かせてくれるか?」 「はい」 立ち上がり、みんなに向けて話し出す。 「前回の大会では、目標だったベスト8は、残念ながら達成できませんでした。ですが……」 ホワイトボードに貼った、トーナメント表を指す。 「これは、組み合わせの運に恵まれなかった点も大きかったと考えています」 「つまり、実力的にはもっと上を目指せたということです。なので、ベスト4以上を基本と考えた上で、みんなの意見を聞きたいと思います」 「んじゃ、まずはみさきから」 「んへ? なんであたしから?」 「最初に目が合ったから……ってこらこら、今更目背けて逃げるんじゃないよ!」 「みさき、観念して意見を言ってくれ」 「う〜、言うよ、言う言う」 「えっと、今回はベスト4狙いでいいんじゃないかな。んで、次の大会でもう一個上を狙うってことで」 「控えめな感じだな」 「うーん、まあ、ああいうの見せられちゃ……ね」 ……まあ、みさきの意見も理解できる。 あの圧倒的な強さだった真藤さんが負けたのだ。一歩引いて考えてもおかしくはない。 「んじゃ、真白っち」 「わ、わたしは……その、みさき先輩と同じ、かなあ」 「お前の意見でいいんだぞ、こういう時は」 「だって、部活全体の目標ってことですよね? ……わたしにはわかんないです」 確かに、真白とトップランカーとじゃ、今の時点では世界が違いすぎるか。 まあそれにしても、目標は高く持って欲しいんだけどな。 「では、次は部長……」 「元、部長ね」 「うおお、心は今でも部長だ!」 「えーと、じゃあ部長、どうですか?」 「もちろん優勝だ!!」 「……と、言いたいところだが、この夏の戦いぶりからすれば、ベスト4目標、次の夏で優勝を狙うのが妥当だろうな」 さすが部長、一番現実的な意見だった。 最後の質問に移る前に、一呼吸置く。 「わかりました、じゃあ最後、明日香は?」 「はい、わたしは……」 明日香はそこで一度言葉を切ると、力を込めて、 「乾さんに勝ちたいです」 「……そうか」 大会の後で話したことの確認だった。 明日香の決心は、少しも揺らいでいなかった。 「そうか、かなりの難関だな、それは」 「はい、それでもやりたいです、わたし」 「明日香すごいねー、あんなすごいのに勝つ気なんだ」 「もちろん、これからすごく頑張らないといけませんけど」 「わたしなんか、そもそも頑張ろうとも思えないですから」 「そこは少しぐらい頑張ろうな?」 「まーでも、仮に今回ダメだったとしても、次の夏の大会まで時間があるんだしねー」 「鳶沢、今なんて言った?」 「え? 次の夏の大会もあるし、って……。今あたし、何か変なこと言いました?」 「いや、普通ならそうなんだけどな。でも、乾沙希に関して言えばそれは間違いだろう」 「どうしてですか?」 「――世界に行くからだよ」 「世界……!」 「……っ」 「乾はおそらく、この秋を制したら、それを土産にして日本から旅立つだろう。目指すは世界一だ」 「で、でも、それって推測ですよね……?」 「国内で誰も寄せ付けずに二連覇した選手が、そのままもう一年もいてくれると思うか? しかも、あの乾沙希だぞ?」 まあ、ありえないだろうな。 夏の大会が終わってすぐ、俺は先生と白瀬さんに頼んで海凌のことを調べてもらった。 深いところまではわからなかったが、グラシュの製造メーカーであり世界的企業であるアヴァロングループが、その運営に参画していることがわかった。 海凌学園はあくまでも表皮でしかなく、その中には世界レベルの企業体が詰まっていた……というわけだ。 これまでの概念を覆す戦い方といい、バックアップする企業の巨大さといい、乾は国内での戦いを、前哨戦としか見ていない。 ここは、葵先生の予想が正しいだろう。 「乾の強さはみんなも知っているとおりだ。生半可なやり方では、軽く捻られてお終いだろう」 「じゃ、どうすりゃいいんですか?」 「そこから先は、新部長が言うさ。なあ、晶也?」 「ええ」 みんなを見回し、俺は、 「乾に勝とうと思ったら、一人の選手をある程度集中的に鍛える必要があると思う」 「一人の選手?」 「一番勝てそうな選手を、ってことですか?」 「そうだ。技術、センス、そして何よりも気持ちの面で乾に負けない奴だ」 「みんなをまんべんなく育ててってのはできないんですか?」 「来年の夏まで時間があるならできたかもな。この秋までじゃ、時間がなさすぎる」 「……そういうことだったら」 みさきが口を開く。 「明日香しかいないんじゃないかな?」 「みさき」 「現実、3回戦まで進んだのは明日香だけだしね。それに、勝ちたいって言ったのも一人だけだったし」 「みさきちゃん……」 「みさき、本当にそれでいいの?」 「いいよ〜」 「わ、わたしはみさき先輩がそれでいいのなら……」 「先生、質問があります」 「なんだ? 言ってみろ」 「本当にその……明日香ちゃんに集中して練習するって目標で、いいんでしょうか?」 「現実的に、ベスト4を目標にするって方向も、考えてみた方がいいんじゃ……」 「ベスト4ぐらいなら、取れるよ。そこまで苦労しなくても、な」 「ええっ……?!」 「マジですか」 「夏の大会、はっきり言ってしまえば真藤と乾、この2人がずば抜けていた。ここに勝つのが至難だった」 「だが、今回は真藤がいない。他にも有力選手はいるが、倉科と鳶沢、有坂が出たとして、誰ひとりとしてベスト4に残らないとは考えにくい」 「でも、優勝するにはこのままだと厳しいんですよね?」 「そういうことだ。能力はもちろんのこと、目標、そしてモチベーションの高さが求められる」 先程の話で、その条件に該当するのは、明日香ひとりしかいなかった。 「だからこれは選択なんだ。強い選手から目を背けるか、向かい合うか。前者ならグッと楽になるが、後者は当然、厳しくなる」 「乾さんに勝つためには、厳しい内容になる……」 「そういうことだ。どうだ? 望むならばもう一度、決を採るが……?」 皆を見回す。 しかし誰ひとりとして、今回の決定に対して異を唱える部員はいなかった。 「あ、あの……本当に、わたしでいいんでしょうか?」 明日香が、やや戸惑い気味に問いかける。 「みんなが明日香を選んだんだ。本人が納得しているなら、それで何の問題もないよ」 「はい……それはそうですけど」 納得はしているものの、自分に寄せられる期待と、みんなへの申し訳なさで、今ひとつ踏み切れない様子だった。 「倉科」 「は、はいっ」 「お前は、青柳兄の夢を聞いたことがあるか?」 「えっ、部長の……ですか? 聞いたことがないです、一度も」 「だ、そうだ。聞かせてやってくれないか、青柳」 「えっ……マジですか。今となっちゃあ、恥ずかしいんですけど」 「構わん。今はその夢が必要なんだ」 「はい……。あー、その、俺の夢ってのはな、久奈浜FC部の地区大会優勝、だよ」 「えっ……!」 「おおっ……」 「わぁっ……」 「そうだったんですね、部長……」 「ああ。まあ、部そのものが無い頃の夢だからな。無謀すぎるって笑われもしたよ」 「……でも今は、それが叶うかもしれない」 先生は明日香に笑いかけると、 「青柳兄は、残念ながらもう引退だ。しかし、卒業するまでの間に、夢を叶えることはできる」 「わたしが、秋の大会で優勝すれば……!」 「そういうことだ。来年の夏では、できないからな」 「……わかりました」 明日香は、部長と葵先生と、両方に顔を向けた後、 「わたし、やってみます!」 力強く、そう言い切ったのだった。 「倉科……ありがとうよ、気持ちだけで俺は嬉しいよ」 「兄ちゃん、そこで気持ちだけとか言っちゃったら、戦う前から諦めてるみたいに聞こえるってば」 「ぬおおっ、そうだ! 倉科、俺は信じてるからな!」 「あはは……はい、がんばりますっ」 「じゃ、決まりだな」 先生は席を立つと、 「では、久奈浜FC部は秋の大会に向けて、倉科を集中的に鍛える方針をとることにする」 「……以上だ」 ……というような経緯があり、秋の大会までは明日香を集中的に鍛えるという方針が決まった。 他の部員、みさきと真白にももちろんコーチはするが、熱量は明らかに違うことになる。 決まりはしたが、俺自身、本当にこれが正しいのかまだ少し悩みながらの出発となった。 「お疲れ、明日香」 「はいっ」 「毎日同じ練習ばかりで飽きないか?」 明日香は首を横に振ると、 「ぜんぜん、そんなことないです」 「こうやって同じことを繰り返していると、身体が飛ぶことに馴染んでいくみたいで、とても気持ちいいんです」 「そっか、それはよかった」 明日香に課していたのは、いわゆる基本的な練習をひたすら反復することだった。 フィールドフライ、ハイヨーヨー、ローヨーヨー。FCを習い始めた子供がやるようなことを、ただひたすらに、繰り返し続けさせた。 野球で言うなら、走り込みを。サッカーで例えるなら、リフティングを。 すでに公式の試合にも出て、勝利している明日香に、そんな初歩的な練習を強いたのだった。 にもかかわらず、明日香は、不満ひとつ言わず、粛々と練習をこなしていた。 それだけでも、驚くべきことだった。 「じゃ、わたしはもうちょっと飛んできますね!」 「おい、少し休憩しなくて大丈夫か?」 「大丈夫です! ちゃんとオーバーワークにならないように、窓果ちゃんも見てくれてますから」 「うん、今のとこまだいけるよ。でも30分経ったら基礎練は終わりだよ〜」 「了解〜。それじゃ、FLY!」 両足をキレイにそろえ、明日香の身体が、ほぼ垂直に空へ浮かび上がる。 空気抵抗を感じさせない、教科書に載せてもいい程の飛行姿勢だった。 「しっかし、キレイに飛ぶようになったね、明日香ちゃん」 「そうだな……」 「最初の頃は、素人目に見ても危なっかしかったのに、段々とすごくなってきたからね」 繰り返し、基本練習をさせたのには、もちろん意味があった。 明日香はそのセンスと反射神経の良さで、見事に試合を勝ち進んでいった。 しかし、その反面、基礎的な練習の不足から、作戦が限られてしまうという欠点も見つかっていた。 なので、まずは何よりも初歩的な練習を徹底させたのだけど……。 「思った以上に、上達は早かったな……」 「だよね〜」 二人して、明日香が空を飛び回る姿に見とれる。 こちらが舌を巻く程に、明日香の動きは良くなっていた。 部員の中でもっとも飛行姿勢が美しいのはみさきだが、たった一週間足らずで、それに匹敵する程に成長していた。 「すごい……」 そしてここに、その美しい動きに見とれる部員がもうひとり。 「はあ……」 ジッと見つめたまま、視線を動かす様子もない。 「真白……?」 「はぅっ……?!」 「なななんですか、今ちょっと確かに明日香先輩の飛ぶ姿に見とれてはいましたけど、決してみさき先輩から浮気したわけじゃないですからっ」 「……丁寧にどうもありがとう、真白」 ここまで素直に心情を吐露されると、逆にウソなんじゃないかと疑いたくなる。 「でもホント、すごいですよね……」 「だな」 いつもの、ちょっとだけ皮肉っぽい真白の言葉はそこになく、ただ純粋に憧れる言葉が、真白の口から漏れる。 「いいなあ……楽しそう」 「そう見えるか?」 「はい、ずっと同じ練習ばかりしてるのに、明日香先輩、ホントに楽しそうです」 「わたしも、これぐらい飛べたら楽しいだろうなって思いました」 「真白も飛んでくればいいじゃないか」 「えっ」 「明日香を強化選手にしたからと言って、真白の練習を見ないとは言ってないぞ」 「楽しくきれいに飛べるように、アドバイスだってしてやれるから」 「…………」 「ですよね……じゃあ、行ってきます」 「ああ。その前に、ちゃんとメンテして、確認しておけよ?」 「あっ、そうでした」 夏の大会以降、俺がコーチに専念するため、各自にグラシュのメンテと調整の仕方を教えたのだ。 明日香とみさきはすぐに覚えたんだけど、真白はどうも手順を間違えたり、そもそも調整すら忘れていたりする。 「スピーダー用の反重力調整はできてますし、ブレーキングも問題なし、アラートも出ていません」 「最後に、切ったバランサーを戻さないと」 「あ、そうでした、バランサー」 反重力調整を行う際、身体を安定させるバランサーのスイッチを、一旦切る必要がある。 なので、調整の後には必ず、これを元に戻しておく必要があるのだけれど、忘れっぽい人はこの作業を放置してしまう。 ……結果、空に飛び上がった後で、宇宙遊泳のごとくもがく選手ができあがるというわけだ。 「これ、つい忘れちゃって、こないだも空の上でぐるぐる回ってしまったんですよね」 「安全装置がついてるとはいえ、ちゃんと忘れないようにな」 状況が容易に想像できる。 「わかってますって。それでは……」 「いくにゃん」 真白の身体がふわりと浮かび上がり、明日香に比べると幾分拙い動きで、よろよろと空へ上っていった。 「真白っちが、めずらしいね」 「明日香が良い影響を与えたのかな」 「かもね……そうじゃないっぽいケースもあるけど」 窓果の言葉に、軽くうなずく。 「ほらコーチ、ちょっと行ってきなよ」 「……ああ、そろそろ言っておかないとな」 再度うなずき、『そうじゃないっぽいケース』の方へ歩み寄る。 「よう」 皆が練習している場所から少し離れた場所で、ぺたんと座り込んでる女子の元へ行く。 「お、やって来たね、コーチ」 手をひらひらさせ、似合わない笑顔を見せると、『よっ』と声をかけて立ち上がる。 「まだ、基礎練習終わってないだろ?」 「うーん、まあ、そうとも言うね」 「別の言い方なんかあるかよ」 「ははは、そりゃそうだ」 どこか空疎な笑いに聞こえる。 「……気にしてんのか?」 「それなら話したじゃん。してないって、別に」 「明らかにやる気無くなってるじゃないか」 「そっかな」 「俺のやり方、やっぱり不満か?」 「そんなことないってば〜。熱血コーチと愛弟子って感じで、見ていてまぶしいよ」 「みさき」 「あーもうわかってるわかってる、自分でもふて腐れてるのはわかってんの」 「わかってるなら、おまえも身体動かしてみろよ。今よりは少しでもラクになるぞ」 「前向きないい意見だね。……でも、今のあたしには無理だわ」 「……おまえ」 「明日香はすごいよ。負けて、目の前であんなすごいもの見せられて、それですぐにそこを目指せるなんて」 空を気持ちよさそうに飛ぶ明日香を見上げ、みさきはポツリとつぶやく。 「ま、あれよ。練習休んだりして心配かけたりしないから、適度に一人にさせといて」 みさきの表情が、いつになく真面目だった。 こんな顔をしている人間に、あれこれ言ったところで、それは無駄だ。 「わかった」 「んじゃ、そろそろあたしも行ってくる。とぶにゃん!」 元気よく言うと、みさきは勢いよく空へ向かって飛び上がった。 「こらー、明日香ーっ! そっちだけ楽しそうに飛んでずるいぞー!」 「わわっ、みさきちゃん、やりますか、ドッグファイトですねっ!」 明日香の基礎練習が終わった頃合いを見計らって、自然とドッグファイトに移った。 なんだかんだ言いながらも、みさきは宣言通り、明日香の邪魔はしていなかった。 「悪いな、みさき」 みさきには、ちょっとだけ申し訳ない気持ちがあった。 あの大会の前まで、久奈浜のエースは、間違いなくみさきだった。 しかし、その大会のあとで、強化選手に選ばれたのは、明日香だった。 みさきは勘も頭もいい。きっと、俺が選んだ理由なんて、百も承知に違いなかった。 自分に何が足りないのかも、そして、それを埋めるには、今の明日香以上に変化が必要なことも。 俺もみさきも、互いに理解していた。そこへ行き着くまでの距離が、遠く険しいと。 だから、みさきも抵抗しなかったし、俺もまた、深く追求はしなかった。 「いずれ、ちゃんと話をしないとな……」 みさきだって、才能あるFCの選手には違いないのだ。ここで埋もれてしまうには、あまりにも惜しい。 「おう、日向ぁ! 行ってきたぞ、練習試合の件」 砂浜の向こうから、意気揚々といった感じの部長がやってきた。 「どうでした?」 俺の問いに、部長はニカッと笑うと、 「まったく問題なしだ! 四島水産、上通社、高藤と、どこも喜んで応じてくれたぜ」 「おお、それはよかった。ありがとうございました」 「何言ってんだ、これも全部、日向の指導でみんながレベルアップしたからだろ?」 「昔の弱小のままだったら、無視されて終わってた可能性が大だからな!」 確かに、あの大会以来、久奈浜の知名度は段違いで上がった。 部から同好会に格下げされ、活動もままならないというイメージは消え、秋の大会では注目株と目されるようになった。 FCのファンサイトでも、項目が独自に作られるほどになったぐらいだ。 「鳶沢も倉科も強いし、このままいけばうちも立派な強豪だよ、なあ?」 「ええ、まあ……そうですね」 「なんだ、表情が浮かないな、日向」 「理由は……知ってるじゃないですか、部長は」 俺の言葉に、部長は頭を掻くと、 「……まあ、そうだな。ありゃ、衝撃的だったからな」 FCに慣れ親しみ、育ってきた選手にとって、あの試合は等しく衝撃的だった。 当然のごとく、部長もまた、その衝撃を受けた一人であった。 「でもまあ、今からそんなに落ち込むな。部員に伝染するぞ?」 「……ですね、すみません」 「それじゃ、オレもちょっとひとっ飛びしてくるぞ」 部長は貰ってきた書類を置きに、部室の方へと戻っていった。 少し向こうの空では、明日香とみさきが、ドッグファイトを繰り広げていた。 俺はどこか別の世界を見るような目で、その姿を眺めていた。 「いきますよっ!」 市ノ瀬が宣言し、急速で上昇を試みる。 突き進んでくる明日香の動きを見つつ、ハイヨーヨーで背後を取ろうとする狙いだ。 「させませんっ!」 明日香の反応は早かった。 市ノ瀬の変化を察し、すぐに体勢を変え、逆に市ノ瀬の背後を取ろうと、潜り込んで下降する。 「くっ……!」 明日香の早い動きに、市ノ瀬の反応が一瞬遅れた。 ループ状の動きに乱れが生じ、耐えきれなくなった市ノ瀬が、輪から抜け出す。 「そこですっ!」 明日香は見逃さなかった。 抜け出す際に、一瞬だけ背を見せた市ノ瀬を、最短距離で射止める。 「きゃあっ」 見事に、明日香が莉佳から1ポイントを奪った。 「……やりますね、明日香さん」 「莉佳ちゃんこそ、動きが速くてついていくのに必死です」 「ふふっ、じゃあ次は、また違ったシチュエーションでやってみましょう」 市ノ瀬はそう言うと、セカンドラインの方まで移動した。 「次は明日香さんが不利な立場、最初から背を向けた状態になってもらって、私が背後からそれを狙う形になります」 「わあ、大変そうです……」 「でも、そこで頑張れたら楽しそうですね……! やってみましょう!」 「そうこなくては。では行きますよ……!」 「うーん、違うなあ……」 「もう一度……それっ!」 「あ、うん、この感じ、この感じ……」 「よーし、忘れないうちにもう一回……!」 少し離れたところで、明日香がただひたすらに、一人で飛行訓練を続けている。 「しかし、本当に上達が早いですね、明日香さん」 市ノ瀬が心底感心したように言う。 「とてもではないですが、FCを始めて数ヶ月に満たない選手とは思えないです」 「それについては俺も同感だ」 「ですよね。驚異的、と言っていいと思います」 市ノ瀬はため息をつきつつ、目の前であれこれと試す明日香を、羨ましそうな目で見つめる。 「……もちろん、意識してるんですよね?」 「……乾沙希のことか?」 なにも言わず、頷く。 「わたしもそうキャリアがあるわけではないので、滅多なことは言えませんけど……」 「あの選手は、ちょっと違う世界にいると、そう思いました」 市ノ瀬の表情が、一気に硬くなった。 「私たちにとって、真藤部長というのは、本当に絶対的な存在だったんです」 「何があっても負けない、誰よりも強い、ただそこを見ていればいい、という存在でした」 「なのに……そんな常識を、いとも簡単に打ち砕かれました」 そこで一旦、息をついた。 「日向さんが思っているよりずっと、私たちの絶望は、深かったんですよ?」 絶対的な強者として存在していた真藤さん。 俺たちよりもずっと、間近で見ていた彼女たちにとって、それを突破されたショックはさぞ大きかったことだろう。 当たり前のように全国へ行き、優勝した真藤さんが、まさかの地方予選で負けるなんて。 四島のレベルは全国でもトップクラスだとは言え、その事実は皆の中に影を落とすこととなった。 「でも、個人的には、それよりもショックなことがありました」 「それは……何だ?」 俺の問いに、市ノ瀬は微笑むと、 「わかりませんか?」 「いや……思い浮かばない」 「明日香さんですよ」 ……ああ。そうか。 「あの試合のあと、久奈浜のみなさんと、ちょっとだけ話をしたんです」 「みんな落ち込んでいるか、呆然としている中、明日香さん一人が、興奮冷めやらない様子でした」 「『莉佳ちゃん、すごかったね、真藤さんの試合。わたし、乾さんに勝ちたいよ!』」 「……そんなこと言ってたのか、明日香は」 「ええ。もう、衝撃でした。あんな試合のあとで、こんなに無邪気に、って」 どこか遠くを見るような市ノ瀬。 「でも、だからこそ、明日香さんには、頑張って欲しいです。敵討ちを、して欲しいと思ってます」 市ノ瀬の目には、敵を射貫く強さがあった。 それは目の前の明日香を通して、遠く向こうにいる絶対的な王者へと向けられていた。 「私で良ければ協力しますから、いつでも言ってくださいね」 「いや、心強いよ。ありがとう」 市ノ瀬がそう言ってくれるのは、本当にありがたかった。 部活で基礎練習をみっちりと行って、夜の自主練習では、試合を想定したアクションを繰り返す。 これを続けていけば、少なくとも実戦において、明日香は段違いに強くなっていくはずだ。 「しかし……」 「しかし、なんですか?」 「それでも、相手が相手だからな。明日香が本当に勝てるかは、未知数だ」 「そうですけど……でも」 「でも?」 「うまく言えないですけど、明日香さんは、期待させる何かがありそうです」 「へえ……」 「それはもう、日向さんも感じてるはずですよ。明日香さんの、底知れない部分とか」 それは確かにわかる。 明日香には無限の可能性を感じている。日々彼女と向き合うにつれ、その思いは強くなってくる。 「だから、信じましょうよ。そうじゃないと、勝てるものも勝てないです」 市ノ瀬の言葉に頷くのと同時に、明日香が飛行練習を終えて、やってきた。 「戻りました!」 「おかえりなさい、どうでしたか?」 「はい、もうバッチリです! 下降する動きから上昇に転じるパターン、やっとコツをつかめました!」 心底嬉しそうに、ひとつひとつの動きの会得について話す明日香。 そこには、大きな相手に対しての悲壮感は、一切感じられなかった。 「明日香さんなら、大丈夫ですよ、やっぱり」 「え、え? 何のこと、莉佳ちゃん?」 「ふふ、内緒です。ね、日向さん」 「あ、ああ……」 「…………?」 「明日香なら大丈夫……か」 ベッドの上で寝転がりつつ、莉佳の言葉を繰り返す。 確かに、明日香の潜在能力は高い。 でも、相手の絶対的な力もまた、常軌を逸したレベルで、高い。 どちらが本当に上なのかはわからないが、現状では、相手の方がまだまだ上だろう。 「今日も眠れないな……」 窓果の心配する声が聞こえるようだ。 「……はあ」 ベッドから起き上がり、PCの電源を付ける。 FCのファンサイトで、先日の大会についての話題が出ていた。 やはり話題の中心は、絶対王者である真藤一成の敗北と、新王者の乾沙希のことだった。 観ている彼らは、まだその本質には気づいておらず、ただ、その試合巧者ぶりを称えていた。 しかし、そこで付けられていた称号は、偶然にも、乾沙希の戦い方を象徴するにふさわしいものだった。 「…………」 「『空域の支配者』……か」 夏の大会から数日が経過した。 明日香を徹底的に強化し、来るべき秋の大会に向けて対策を練る。 あの大会の後、明らかに意気消沈するメンバーの中にあって、明日香一人だけが、異次元に存在していた。 本来、久奈浜のコーチとしてやるべきことは、部員全体の実力をアップさせ、大会に向けて鍛えていくこと、だと思う。 それは間違いないし、本来ならそうすべきことも、わかっている。 しかし、あの時見た、乾沙希の力は異常だった。 ただ強い選手というわけではなく、FCそのもののあり方を変えてしまう程、その存在は異質だった。 このままでは、俺が、そしてみんなが信じてきたものも、いとも簡単に崩されてしまう。 そんな危機感の中、選ばれたのは、あの場で一人『立っていた』明日香だった。 この子ならば、ひょっとしたら。あの怪物に、立ち向かえるかもしれない。 望みを託し、空に送った。 ――だけど。 そう覚悟を決めた俺の中には、ずっと不安が立ちこめていた。 これで本当に大丈夫なのだろうか。明日香は本当に勝てるのだろうか。 不安が不安を呼び、黒い物が脳内で増幅し、疑心暗鬼に陥っていく。 なぜか、日々に見る夢は、希望に満ちあふれたものばかりだった。 空に向かって整然と立ち、今にも飛び立とうとする、瞬間。 初めてグラシュを与えられた、あの喜びと、期待に満ちた瞬間。 夢の中で味わう、甘くさわやかな感情と、現実の不安感は、あまりにもギャップがありすぎた。 不安から逃れようとする心境からなのか、この状況でも希望を見つけようとしているのか、俺にはわからなかった。 確かなのは、目が覚めた時に、突きつけられる現実だけだった。 それでも今は、信じてやる他は無い。 あの絶対的な王者に勝つためには。 少しずつでもいい。積み重ね、研鑽をして、一歩でも距離を縮めなければ。 「……こうした混乱の中、足利義満は太政大臣となり、公武両方を兼ねた最高権力者となった。そして――」 学校は夏休みに入る前ということで、授業もほとんどなく、午前中授業に切り替わっていた。 HR直前の4限目、教室では日本史の授業が行われている。 (どうしたものかなあ……) 俺は黒板の方を眺めつつ、練習について思いを巡らせていた。 心の中では、乾の冷たい表情が、そしてイリーナさんの笑顔が、変わらずまとわりついている。 「本当のFC、わかります」 何度頭を振っても、その姿は強烈な印象として離れなかった。 (今はあの二人を意識しすぎてもいけない。足下をちゃんと固めないと……) 悶々としながら、頭を振って雑念を払う。 目の前のことに集中しなければ……。 雑念が多すぎるのか、耳鳴りまでしてきた。 ヘリか何かの音みたいなのが、頭に響いてきて……。 (…………) (……耳鳴りじゃないな、これ) 音の聞こえる、窓の外を見た。 と、そこで。 「義満はそれだけでは飽きたらず、天皇の座をも我が物にしようとしたんだな。そのためにまずは行動を起こ……」 「行動を、起こし……て?」 先生も、窓の方へ移した視線が、そこから戻らなくなった。 「……なんだ、ありゃあ……」 呆然と呟いた言葉に、生徒たちも一斉に窓の外を見た。 「え、あれなんだ、おい!」 「わーっ、なんであんなのがここに来てるの?」 「ちょ、写メってアップしようぜ、これ」 「こらーっ、静かにせんか、静かに!」 授業中の教室がにわかに騒がしくなる。 ヘリだ。ヘリコプターが一台、グラウンドに降り立っていたのだった。 「なんだ……これ」 その時はまだ、ただの異変として、自分に関係するものじゃないと思っていたのだけど。 「あっ……!」 そこでやっと、窓の外の来訪者が、自分に関係あることを知ったのだった。 「マジか……おい」 窓の外、グラウンドの中央には、見知ったというには強い印象過ぎる二人が、風を受けながらこちらを見上げていた。 「晶也さん、あの人……!」 同じように窓の外を見ていた明日香が、驚いたように声を上げる。 「ああ……」 乾沙希と、イリーナ・アヴァロン。 見間違えるはずもない、因縁の相手だった。 「何のために来たんでしょうか?」 「さあな……まあ、俺たちに関係してるのはおそらく間違いないだろうけど」 今の時期は、全国大会に向けて練習をしているはず。 なのになぜ、ここへ来たんだ? 「穏やかじゃない訪問だよねー。わざわざ見せつけるようにして」 「わざわざヘリで来るぐらいだから、何か意味はあるよね、きっと」 皆が想像を巡らせる中、二人は一言二言、互いに言葉を交わす。 一緒に降り立った黒服の男たちと共に、その場で何かを待っている様子だった。 「あ、先生が来ました」 やがて、校舎の方から、年配の先生と若い先生が一人ずつ、彼女たちに近寄り、何か話をしていた。 しばらく後、先生の方が何度かうなずき、おそらく職員室の方へ、何かしらの連絡を取った。 「生徒指導部の景山です。えー、先ほどグラウンドにヘリコプターが不時着した件につきましては、現在、搭乗している方に説明を……」 ヘリについては、『不時着』という表現を以て、何事もなかったかのように納めるつもりらしい。 「なんだ不時着かよ」 「誰か海外のVIPでも来たのかと思っちゃった」 ……まあ、ある種当たってはいるけどな 「……と、いうことにしたみたいね」 「穏便に、ってことでしょうか」 「まあ、あたしら以外にはたぶん関係ないことだもの」 ともあれ、この説明によって、生徒たちの混乱は一瞬で収束したようだった。 「えー、それで、各務先生には対応に当たって頂く関係で、2年C組は本日、ホームルームは行われない。生徒は授業終了後、そのまま下校しなさい」 (やっぱり、何かあるんだな) ただの不時着なら、その場にいる先生たちで対応が可能だ。 そこにわざわざ各務先生が呼ばれるということは、FC絡みの話としか思えなかった。 「それと、2年C組の日向晶也、2年C組の日向晶也、放課後、職員室まで来るように」 「あっ」 「やっぱり」 「そう来たか」 ……これで決定的だった。 一体、何を考えてここにやってきたのか。様々な思いが、俺の頭の中を巡っていた。 「気をつけてくださいね、晶也さん」 「まあ、別にさらわれたりはしないだろうから、何が目的かをちゃんと聞いてくるよ」 俺が考えている理由なのだとしたら、それはそれで、気が重いのだけど……。 でも、たぶん、それが理由なのだろう。 「……へえ、それが理由なんだ」 「ハイ、それが理由デス」 「ふーん」 「イリーナさん、か? かわいい顔してえげつないね、やることが」 「先生、質問です」 「何か?」 「『エゲツナイ』、ニホンゴわかりません。意味、教えて欲しいです」 「そうか、意味がわからないのか」 「えげつないってのはな、そうだな……、容赦ないとか、いやらしいとか、そういう意味だ」 「わあ、わかります。容赦ない、情け容赦ない、よくわかります。時代劇でよくあります」 「あ、でも……」 「でも?」 「……先生も、現役選手の時は、『エゲツナイ』選手だったではないデスか?」 「ほう……?」 「第5回の世界大会、3回戦。今でもハッキリ思い出せます」 「サードラインを回ったところ……、相手が動けなくなるのをショウチで、トラウマの残るような動きを見せました」 「……よく知ってるな。で、今日は同じことをしに来た、と?」 「いえいえ、ごあいさつです。そうですね、ブンカコウリュウとでも言いましょうか」 「ははっ、文化交流とはね。たいしたもんだ、あんたは」 「おホメにあずかりまして、ありがとうございます」 「と、言ってきたわけだが、どうする?」 「……そんなの、決まってるじゃないですか。試合なんか、させられません」 イリーナさんが言ってきたのは、至極わかりやすい話だった。 乾沙希と明日香との練習試合。ルール・試合時間は、通常のFCで用いられるものとまったく同じ内容。 まさかとは思っていたが、ありえるかもしれないとも思っていた、相手を先行して潰す作戦。 横綱が成長著しい若手を出稽古で叩きのめす、あれをやりに来たのだ。 「倉科のメンタルを考えれば、普通はそうだろうな。だが――」 「晶也、お前、決勝の時にあいつの顔、見たか?」 「……はい、もちろん」 「そうか、見たんだな」 「長らく、このスポーツに関わってきたが、あの場面であんな顔のできる選手を、私はそう見なかった」 「背筋に寒気が走ったよ」 「……俺も同じでした」 「はは、やはりそうだったか」 先生はひとしきり笑うと、 「強い相手に出会うほど楽しさが増す――。あいつは、強くなるために何より必要なものを、すでに手に入れている」 「今回の対戦にしても、勝とうが負けようが、きっと倉科は前を向き続けるさ」 「はい、でも……」 まだ心配する俺に、先生は真剣な表情をすると、 「晶也。お前が倉科の心配をするのはわかる。だがな、今のあいつはまだまだ発展途上だ。良いことも悪いことも、経験はこれからだ」 「いずれは当たる相手だ。その機会が思ったより早くなった――。そう、考えればいいんじゃないのか?」 確かにその通りだ。 乾が以前の状態からさして変わってないとしても、明日香との実力差は歴然としているだろう。 でも、それを認識することもまた、大切だ。 現在の力の差を理解した上で、秋の大会に備える。今は何よりもそれが、必要に思える。 「……そうですね、これも経験です」 「よし、話は決まった。では先方にも伝えておく」 「はい、よろしくお願いします」 一礼し、帰ろうとしたところで、もう一度俺は先生に向き直った。 ちょっとだけ、腑に落ちない部分があったのだ。 「珍しいですよね」 「なにがだ?」 「相手の言うことをそのまま受け入れるなんて、先生にしては、めずらしいですよね」 「そうか?」 「戦う前から試合は始まってるって、よく教えてくれたじゃないですか」 先生はよく、『戦うとはどういうことか』を、俺に教えてくれた。 曰く、戦争は戦う前から始まっているのだと。 戦う前から萎縮していたり、変な先入観があれば、それはハンデを負って挑むのと同じなのだと。 だから、今回のように、相手の言うがままに意向を受け入れたことが、ちょっと意外に思えたのだった。 「まあ私も、倉科の戦いぶりを見てみたいというのもあったしな」 「それに、すべて受け入れたわけじゃないぞ。最初に言ってきたことは、即座に断った」 「最初に?」 「それはもう無しになったからいいじゃないか。……さあ、試合の準備をしよう」 「わかりました。先生はどうされるんですか?」 いつも通りだと、練習は見に来ない流れになるけれど。 「今日は少し離れたところから観戦させて貰うよ。何かあれば、すぐに出て行く」 「あっ、はい……わかりました」 「なぜそこで驚く。顧問なんだから、それぐらいするさ」 確かにそうなんだけれど、やっぱりめずらしい。 逆に言えば、乾がそれだけの相手だってことなんだろうけど……。 「お久しぶりです、日向さん」 「……はい」 職員室を出て30分後、すでに舞台は揃いつつあった。 「今回は急な話にもかかわらず、練習試合を受けて頂き、ありがとうゴザイマス」 「海凌はあまり他の学校と交流がなく、こういうムチャな方法をとるしかなかったので、オキヅカイに感謝します」 「目的を、聞かせてもらえませんか?」 「目的……? 今回の、対戦の、デスか?」 「もちろん、そうです」 全国大会を差し置いて、なぜここに来たのか。 その理由を、はっきりと聞いておきたかった。 「えーと……」 「はい、そうです、沙希のジョウタツのためです、はい」 「…………」 「沙希はまだまだ技術がオトってますし、何より経験が不足してます。それで……」 「……わかりました。それでいいです」 「は、はい、そうですか……?」 「では、こちらも準備してきますね」 「はい、お待ちしてマス」 「……お待ちしてますよ」 「……なんて言ってた?」 「本音は一切言わなかったよ。はぐらかされた」 「ま、そりゃ言うわけないよねー」 「大丈夫でしょうか、そんな相手と戦って」 「相手はともかく、明日香は大丈夫だと思う」 「乾さんと試合ができる……! あの、真藤さんに勝った乾さんと……!」 「ん〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」 「よおっし、気合です、気合気合気合っ!」 「……な?」 「部長みたいなことやってるねー」 「緊張してはいるけど、嬉しくて仕方ない、って感じでしょうか」 「作戦は……どうする?」 「うん、ちょっとは考えてる。明日香にはこれから話してみる」 ただの練習試合ではない。 ここで明日香が、そして、俺たちがいることを相手に思い知らせなければ、意味がない。 明日香だって基礎能力が飛躍的に上がった今、真藤先輩とまではいかずとも、それなりに渡り合えるはずだ。 だから、堂々と真正面から戦った上で、こちらの戦いを刻みつける。 それぞれの準備が終わり、選手やセコンドを含めた全員が海岸に集まった。 「それではただいまより、海凌学園と久奈浜学院の練習試合を開始します」 「海凌・乾沙希、久奈浜・倉科明日香、それぞれ一礼ののち、スタートの準備に移るように」 二人がそれぞれ、審判である部長の所へ行き、軽く会釈をする。 「よろしくお願いしますっ」 「……よろしく」 乾沙希の姿を見るのは、あの試合以来だ。 相変わらず、無表情で声にも抑揚がない。 このポーカーフェイスは地なのか、それとも、戦い方なのだろうか……。 「…………」 「ん?」 一瞬、乾がこっちを見ていた気がしたけど、気のせいだったか。 俺がそっちを向いた頃には、すでに乾は、イリーナの方へ歩き出していた。 「さすが、オーラというか、雰囲気ありますね、乾さん」 明日香が、わくわくした様子で、乾の方を見ている。 「いいか明日香、相手のペースに飲まれないように、さっき言った通りの作戦でいくぞ」 「これまでのやり方通り……ですか?」 「そうだ」 明日香には、基本の動きをベースにして、あくまでもこれまでの戦い方を踏襲するよう、伝えた。 「えっと、これまでの、ということは……」 「スピード対決で部長に勝った乾に、スピード勝負はできないからな」 「ということはセカンドラインにショートカットして……」 「明日香はオールラウンダーだ。乾が仕掛けてくることに応じていけば、そこで展開があるはずだ」 一般的なオールラウンダーは、佐藤院さんみたいなスタイルで、敵の長所を消して短所を狙っていくものだ。 だけど明日香には俺にもわからない力がある。咄嗟のひらめきでとんでもないことをする。 それを最大限に生かすには、相手に合わせることを怖れずに、近距離で飛ぶ時間を多く作ることだ。 接触する機会が多ければ多いほど、明日香はいろいろなことを試すことができる。 夏の大会の時の明日香だったら、乾のスピードに翻弄されるだけになったかもしれない。 しかし、基本を完全に押さえた今ならば、乾の動きに反応し、勝利の糸口を見つけられるかもしれない。 得意分野から安易に離れず、熟達した技術から、その先を見通そうというわけだ。 「まずはスタートしてショートカット。そこから先は夏に真藤さんと試合した時のことを思い出して。なるべく近くで飛ぶこと。できれば乾の頭を抑えて……」 確認のために話し出して、そこで明日香の表情が曇りがちなことに気づく。 「明日香?」 「あ、はいっ」 「考え事か? 今はちゃんと作戦を聞いて……」 「あ、いえ、そうじゃないんです。作戦はちゃんと聞いていたんですけど、その……」 ……なんだ? 何かわからない点でもあったかな。 「わからないところがあったなら、もう一度ちゃんと説明するぞ」 「大丈夫です。……わかってるんです」 「……わかってるんですけど、なんか、とても不安で」 「ああ、そりゃまあ、不安だろうな」 あんなに未知な部分の多い敵と戦うんだ。安心しきれるはずもない。 しかし、戦う前はあれだけワクワクしてた明日香が、急に不安になるなんて。 よほど、相手のプレッシャーがすごいのだろう。 「まずはやってみないとな。それからいくらでも考えよう、な?」 明日香はその一言で吹っ切れたのか、 「はいっ!」 と、元気良く言った。 「そろそろ試合を開始してもいいか?」 「大丈夫です」 「いつでもできます」 「よし、それでは両者ともスタートラインについて」 「行ってこい、明日香」 「はい!」 明日香と乾がスタート位置へと飛んでいく。 ファーストブイで明日香が横の乾をしっかりと見据えて、 「よろしくお願いします」 「こちらこそ」 乾の平坦な声がヘッドセット越しに聞こえた。 二人の姿勢が揃い、準備ができたのを見計らって、部長が小さく頷き、ホイッスルを手にする。 「セット」 「さあ、行くぞ……」 唾を飲み込み、目の前の光景に集中する。 試合開始を告げるホイッスルが鳴り、乾はローヨーヨーでセカンドブイを目指す。 明日香は予定通りセカンドラインへショートカット。 「ずいぶん素直に行くんだね。乾さんの後ろについてプレッシャーかけて動揺させてもいいんじゃない?」 「そうですよね。って、乾さん滅茶苦茶速いですよ!」 「え? あっ! あの子……あんなに速かったの?」 「兄ちゃんと試合した時より速いかも……」 「ま、晶也センパイ!」 声が明日香に届かないよう、マイクを手で押さえてから、真白に、 「乾が速いのなんてわかりきったことなんだから、横で動揺した声を出したらダメだぞ」 「そ、そうですね」 背後からプレッシャーをかける作戦も考えてはいたのだが変な小細工はやめようと判断したのだ。 もしかしたら必要な時がくるかもしれないけど、今の明日香に小細工は似合わないと思うのだ。 マイクを口元に寄せ、 「明日香、セカンドラインについたら深呼吸するんだ。乾は速いからすぐに来るけど、慌てるなよ」 「はい!」 少しの後、深呼吸する音が聞こえた。 明日香はセカンドラインの中央からセカンドブイよりの位置で、旋回しながら待機。 「…………」 乾がセカンドブイをタッチして0対1。 「……ん?」 「え?」 一瞬、乾の姿が消えた。 「コーチ! 乾さんは?!」 「上だ。セカンドブイのずっと上!」 高速90度ターン? エアキックターンの応用か? いや、今はそんなことはどうでもいいんだ。 部長の時のようなスピード勝負じゃなくて、真藤さんの時みたいな試合をするつもりか……。 「………」 高い場所から、明日香を見下ろす。 「沙希、いい動きです。では言った通り、『バードケージ』で」 マナー違反だけど少し離れた場所にいる、イリーナさんの指示が耳に入ってしまった。 ──バードケージ……鳥かご……? 「コーチ、どうしたらいいですか?」 「大丈夫。上を取られただけだ。慌てる必要はないぞ」 黙ってしまっては明日香を不安にさせてしまうので、特に内容のないことを喋りながら、頭の中で現状を整理する。 乾はセカンドブイの数メートル上空で待機。 明日香はショートカットしたので、乾と接触するかすれ違うまではサードブイにタッチできない。 得点は0対1。 この膠着状態が続けば勝つのは乾だ。 夏の大会のみさきと市ノ瀬の試合の時と一緒だ。 本気で勝つつもりなら、有利な側がその状況を崩す必要はない。 ──明日香から行かなきゃいけないってことか。 相手を身動きできない状態にするから、バードケージ……。 「………」 「………」 無為に時間が流れていく。 ──どうする? 下から斜め上に向かって飛んでいって、ドッグファイトを仕掛ける、なんてことは向こうも想定済みだろう。 できればそれ以外の手段で、乾を引っ張り出したい。 「コーチ?」 「──体は充分にほぐれてるな?」 「は、はい。大丈夫です」 「いきなりだけど、勝負をかけるぞ」 「はっ、はい!」 「セカンドブイに向かって飛ぶんだ」 「乾さんにではなくて、セカンドブイですか?」 「そうだ。乾はセカンドブイの上にいるから、そこまで行けば交差したことになって、サードブイを狙える」 「もし乾がギリギリまで動かなかったら、セカンドブイにタッチしてその反動を利用して加速」 「でもきっと動きますよね?」 「その時はエアキックターンで逆方向に加速。合図は俺が出すから、できるな?」 「はい! できます! では……行きます!」 明日香がセカンドラインを逆走する。 「………」 どこでそこから降りてくる? 重力を使って加速するつもりなんだろうけど、今の明日香ならむこうの予想を上回るスピードで反転ができるはずだ。 「………」 スーッ、と滑るように乾が斜め下に飛ぶ。 屋根に積もった雪が自分の重みで滑り落ちる時のような、見ているのに瞬間に気づけない、予備動作のほとんどない自然な動きだった。 「ターンだ!」 「はいっ!」 体を縮めた明日香が空気を蹴るようにして反転した。 俺の指示が一瞬遅れたか? 明日香は最短距離を飛んでいるけど、重力を利用して加速していく乾に僅かに追いつけないかもしれない。 ブイにタッチできればいいけど、もしできなかったとしてもそれはそれでいい。結果的に乾と接近することになるのだ。 差は僅かだ。 「ブイにタッチできないと判断したら、どこでもいいから乾に触れるんだ」 飛行姿勢が綺麗なら崩してやればいいだけのことだ。 「無理矢理でもドッグファイトに持ち込むぞ」 「はい!」 「………」 離れていた二人の距離が縮まってくる。 想像していたよりも乾は明日香の前へ出ていた。 ──やっぱり乾の方が速いか。 試合は始まったばかりだ。まだセカンドラインでの勝負だ。一喜一憂する必要はない。 「………」 そのままブイにタッチするかと思った乾が、 「え?」 「え?」 ブイの手前でクルリと半回転して明日香に向いた。 ──ブイが目の前にあるのに、このタイミングでドッグファイトを仕掛けてきた? どういう意図が──躊躇するな! この距離で明日香を悩ませたらそれがそのまま敗因になる。 「行け! 最初はどこでもいいからタッチだ」 「はい!」 「………」 乾は明日香が伸ばした手を下に軽く弾いた。 「ッ」 バランスを崩しながらも明日香はさらに前へ出る。 「………」 「くっ」 明日香が前に出て乾が弾く、という攻防が繰り返される。 なんだこの違和感は? どうして──。 どうして明日香は違う方法で攻撃しているのに、気づいたら明日香の斜め上に乾がいるんだ。 ドッグファイトはぐるぐると動き回るものだ。だから互いの位置はどんどん変わっていく……はずだ。 それなのに、まるでそうなることが決まっているように、明日香と乾の位置関係は変わらない。 「………」 「はっ、はっ、はっ、はっ」 明日香の呼吸が乱れ始めている。 ──そういうことか。 乾が明日香を弾く角度が毎回、同じなのだ。だから気づくと斜め下に明日香は飛ばされてしまっている。 ダメだ! これの繰り返しじゃ明日香が疲労するだけだ。 「距離をとるんだ。呼吸を整えよう。セカンドブイ方向へ逆走だ」 「は、はい。ひっ……」 初めて聞く何かを恐れる声が、イヤホン越しに聞こえた。 「こんなえげつないことができるのか……」 思わず、つぶやいていた。 明日香の動きに、まるで鏡面のように、かならず乾がついて回るのだ。 右に動けば右に。左に動けば左に。 ほんのわずかな動きですらも、乾の前では見抜かれるようだった。 「………」 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……っ」 背中を狙わずに、ひたすら明日香を疲労させる作戦だ。 もしここで明日香が動くのやめたら、すぐに背中をとられて連続得点を許してしまう。 だから、疲労するとわかっていても明日香は動き続けるしかない。 「晶也……さんっ……!」 完全に逃げ場を失った明日香が、困ったように声を上げる。 「フェ、フェイントをかけろ! 左右だけじゃなく、上下に動きながら、抜け出るタイミングを」 「だ、ダメですっ!」 「なんだって!?」 「どこへ行っても……乾さんは、そこにいます」 明日香は、おそらく現場の空気で察していた。 選手は、動く時に、当然ながら前触れ的な動きをする。 上に動く時は下に反動をつけ、下に動く時はその逆、といった具合だ。 おそらくは、そのわずかな反動を見て、乾は動きを合わせてきたのだろう。 「出口が……ないんです……っ」 「…………っ」 『鳥かご』――。 まさしく、どこに逃げても檻が迫る、完全な包囲網だった。 「……ひどい」 真白が絞り出すように声を漏らす。 この状況で動きを封じられることが、どれだけつらいか、理解したのだろう。 「え、これ、パーッと出し抜けないの? いつもの明日香ちゃんだったら、なんかこう、上か下にピャーって」 「……相手が他の人だったら、ね」 「あ……」 「ああも完璧に睨まれたら、明日香は動けない、動きようがない」 さすがに、みさきは状況を把握したようだ。 しかし、手をこまねいて見ているわけにもいかない。俺が指示を出して、この構図から逃れないとっ……! 「明日香、コンビネーションだ。ローヨーヨーで逃げると見せかけて、少し潜ったところでエアキックターンで急速上昇をかけろ」 「は、はいっ!」 乾はローヨーヨーの気配を見て、一直線に下降して仕留めにくるはずだ。 そこを狙ってエアキックターンで上昇すれば、乾もすぐには反転できないはずだ。 これは夏の大会で真藤さんが乾に試した作戦だ。 あの時は乾と真藤さんの間に距離があった。だから乾は真藤さんの動きを見極めて、上の位置を取り直すことができた。 だけど……。 「………」 「………」 明日香と乾は至近距離。至近距離から繰り出されるエアキックターンには、反応できない……はずだ。 乾を釣り出して逃げることができれば──。 それができれは明日香の自信になるはずだ。今の明日香は悲鳴をあげたことからもわかるように、乾に飲み込まれつつある。 だけど展開を変えればまだこの試合、どうなるかわからない。 「……っ!」 明日香が両手をぴったり身体の側面につけ、素潜りをするような体勢で下方へ沈み込んだ。 乾もそれに呼応し、位置を下方へ修正する。 「それっ!」 明日香がエアキックターンで一気に浮かび上がる! 「よしっ!」 最高のタイミングだ! これなら乾を欺ける! 「……行かせない」 「あっ!」 ……希望は、一瞬で絶望に変わった。 乾の下降はフェイクだった。明日香の動きを完全に読み取り、上昇と共に動きを連動させる。 どうしてわかったんだ? 確かにエアキックターンは予備動作の大きい技だけど、あのタイミングで出されたら反応することなんて……。 わかってた? あそこで明日香が急上昇するってわかってたのか? どうしてわかったんだ? 「あ……ああ……」 結局、二人のポジションは変わることは無かった。 「ありかよ……」 呆然と目の前のできごとを見つめながら、圧倒的支配の前に、言葉を漏らす。 「ありかよ……こんなの」 甘かった。あまりにも、甘かった。 俺は今更にして、この現実に気づき始めていた。 夏の大会を見る限り、乾は、まだFCのルールに沿って、戦っているように見えた。 その戦法があまりにもストイックなだけで、FCをやること自体は変わりないと思っていた。 しかし、それがそもそも間違いだった。 乾は、今までのFCのルールそのものを壊しにきていたのだ。 ポイントを取るのではなく、ポジションを確保することで、常に支配的立場にいて、『世界』をリードしようとする。 正攻法だとか奇襲だとか、そんなレベルではない。 乾沙希と戦う以上、もはやFCは今までのFCではいられない。 「これが、空域の支配者……!」 ――そう、強烈にアピールしてきたのだ。 「沙希、残り1分です」 「はい」 「最後まで気を抜かず完璧に。わかっていますね?」 「はい、イリーナ」 そのやり取りを、俺は歯噛みしながら聞いていた。 何も……何もできないのか! 「こんなの……って」 拳を握りしめ、空の上の乾を睨みつける。 「ただのなぶり殺しじゃないかよっ……!」 淡々と、時が流れ、そして――。 「し、試合終了……っ!」 1対0。 またしても『僅差』で、圧倒的に支配された試合は、終わりを告げたのだった。 「お疲れ様でした」 「……お疲れ様でした」 挨拶が済み、二人がそれぞれの陣営に戻る。 「明日香……」 「…………」 明日香は今まで見たことのないような、青白い顔をして、立ち尽くしていた。 「明日香ちゃん……」 「明日香先輩……」 心配そうな皆の視線を避けるように、明日香は休憩用に置いてある椅子へ座り、何も言わず俯いた。 ショックを受けるな、という方が無理な話だ。 明日香なりに練習を重ね、もしかしたら通用する部分もあるかもしれない。そう思った結果が、これだった。 力の差があるのはわかっていた。しかし、その差の度合いが想像よりも更に一段、上だった。 「お疲れサマでしたっ!」 無言だった久奈浜の一同に向けて、場違いな程に明るい声が、響き渡った。 「いい試合でした、ギリギリでしたね〜。沙希にもいい勉強になりましたデス」 「っ……!」 ここまでガチガチに状況を作り上げて、そんなことを言うのか、この人は。 すべてを周到に計画し、あんな屈辱的な技名までつけて、相手を拘束して。 ――それで出てきた言葉が『いい試合』だと? 「あのな……」 つい、強い言葉を吐きそうになった、 その時だった。 「……気に入らない、その言い方」 「はい?」 そこまでジッと黙っていたみさきが、急に会話へ割って入ってきた。 「おい、みさき」 「黙ってて!」 「……ごめん晶也、ちょっと言わせて。あたし、我慢できない」 「ナニか、ありましたか?」 きょとん、とした表情のイリーナ。 「全部わかった上で仕掛けて、トラウマの残るような戦い方して。それでよくそんなことが言えるよね」 「…………」 「あの戦い方。ファーストのスピード勝負で勝ったら、あとはブイを取らずに延々通せんぼとか。何なのあれ?」 「みさき……」 俺の声も届かない様子で、みさきはなおも続ける。 「そんな無茶苦茶な戦い方しておきながら、僅差とかいい試合とか、ふざけないでよ……!」 「こんなんじゃ……明日香が……」 みさきの言葉が、少しかすれていた。 同じく戦う立場だからこそ、明日香の無念は、痛いほど伝わっていたはずだから。 ……しかし。 「鳶沢みさきさん」 「……な、なに?」 「では、どう答えればいいのデスか?」 「ど、どうすればって」 「完全勝利でしたねとか、手も足も出ませんでしたねとか、こちらの思うツボでしたねとか、そう言えばいいのデスか?」 「急に押しかけてきた非礼はオワビします。……だからこそ、いい試合として収めたいのデス」 「…………っ」 みさきが黙り込んだ。 そう、負けた以上、ここで何を言っても遠吠えにしかならない。 別に相手は汚い手を使ったわけでもない。 それに、一切動じることのないイリーナを前に、無駄だと悟ったのだろう。 「……言い方を変えマスね」 イリーナは、ひどく落ち着いた声で、 「日向さんに、前にわたし、言いました。本当のFC、見せてあげますと」 「……ええ」 「でも今日は、そちらはずっと別のスポーツをされていたように思いました」 「っ……! なんだとっ……」 「別のスポーツを見ることができて愉快でしたが、次に試合する時は、わたしたちのするFCで、戦いたいデス」 ――別のスポーツ。 そう、乾の動きと、明日香の動きは、まさに別のスポーツをしているかのように、格段の違いがあった。 しかし、それを明確に突きつけられると、頭を割られるように、悔しさが痛みとなって沸き上がってくる。 「それでは、わたしたちはこれで。――沙希」 「はい」 「行きましょう」 「はい、イリーナ」 去っていこうとする二人を、 「待ってください、イリーナさん」 俺は、懸命に作った平静な口調で、呼び止めた。 「はい?」 「今回は完敗でした。それは認めます」 「認めるのですね」 「俺たちは、あなたたちのしていることに比べれは、地を這う虫に見えるんでしょう」 「でも」 二人を真正面から睨みつける。 「……でも、俺たちには羽根があります。近い将来、必ずあなたたちと同じ高さに飛び、そして」 「――絶対に、超えてみせます」 「晶也……」 俺の言葉に、みさきの声が微かに震えた。 自分でもわかるぐらい、低く乾いた声だった。 「ふふっ……」 しかし、イリーナは、あくまでその穏やかな笑みを浮かべたままで、 「やはりデスね」 「え?」 「あなた……日向さん、とても面白い、いいえ」 「――とても、愉快です」 「…………」 「……楽しみにしています。では、その時まで」 二人は去っていった。 音もなく、何の動揺も見せず。すべての出来事が、計算の上だったかのように。 やがてヘリの飛び立つ音が聞こえ、姿は完全に消えた。 その行く先を、見えなくなるまで、俺はずっと見据えていた。 「絶対に倒してやる……」 痛くなるほど、握った拳と共に。 「…………」 「…………」 俺と同じく、みさきは空を見つめていた。 らしくない、真剣な表情で。 「…………」 「……あのさ、みさ……」 何か言おうと、声をかけた。 「あ〜〜〜〜〜〜っっっっ!」 「うわっ!!」 その声をキャンセルする勢いで、みさきは大声を上げた。 「言っちゃった、言っちゃったよ……」 「ごめーん晶也、先走ってケンカ売っちゃって」 「あ、ああ……?」 「キャラに合わねーって思ったんだけど、なんかこう、ここであたし言っておかないと、って思っちゃって、それで言っちゃった……」 「どうしよ、あの子怒ってなかったかな? お嬢様だから爆弾ぐらい持ってるよね? 明日爆撃されたらどーしよ……」 「……はは」 珍しいこともあるもんだと思ったけど、その理由がやっとわかった。 みさきが口を出したのは、俺が怒りにまかせて何か言う前に、自分が怒ることで目を覚まさせる狙いだったのだ。 コーチとしての俺の立場を心配して、また、明日香のことも考えた上で。 そこまで計算して、言ってくれたんだ。 そうじゃなければ、こいつがこんなに感情的になることはない。 「みさき」 「あい?」 「……ありがとな、気遣ってくれて」 ポン、と頭を軽く叩く。 「はい?」 そのまま、明日香の前へと向かう。 「明日香」 「…………」 まだ、明日香は俯いたままだった。 表情がはっきり確認できないけど、相当、落ち込んでいるのは確かだろう。 どう、言葉をかければいいのか。 「明日香、今日は俺の作戦ミスだ。責任は全部、俺にある」 探りながら、必死で言葉を探す。 「まずはゆっくり休んで、それから今後の……」 「……くっ」 「明日香?」 「くっやしぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜っ!!! です! です! くやしいですっっ!!!」 「え……?」 「すっごく! くやしい! です!!」 「明日香……」 「やられちゃいました! もうかんっっっぺきに、やられちゃいました!」 「手も足も出ないって、ああいうことを言うんですね……。すごいです、勉強になりましたっ」 「でも、あんなすごい人がいて本当に楽しみです」 「わたし、もっともっと頑張って、秋の大会では乾さんに勝ちます!」 「あ、あれ……? 晶也さん、どうかしましたか……?」 「あ、いや……」 なんなのだろう、この感情は。 明日香は、不思議だ。俺とは違う所に、ずっと居続けている。 俺やみさきが、悔しさを負の感情にして、露わにして、叩き付けていたのに。 明日香はその負の感情を全部ひっくり返して、完全な前向きの感情にして、「どうだ」と見せてきた。 俺は圧倒される。いつも、この子に圧倒される。 「あ、あの……晶也さん?」 だから、思う。 「明日香」 「は、はいっ」 「……次、絶対に勝とうな」 座っている明日香に向けて、手を差し伸べる。 「明日香なら、できるよ。……約束する」 「あ……」 「はいっ!」 明日香も手を握り返し、立ち上がる。 そのまま、何と言うこともなく、つい見つめ合った。 「……その辺で済みましたか?」 「うわっ」 「ま、真白ちゃんっ」 「そこにいたの? 的な感じ、やめてくださいよ。さすがに落ち込みますよ」 真白はひとつ咳払いをすると、 「あの、晶也センパイ。提案があります」 「提案……?」 部活でイチャイチャするなとか言われるのだろうか。 「今、みさき先輩とも話したのですが」 「真白の前でイチャイチャしないでくださいって、お願いしたいみたいよー」 「えっ?!」 「違いますっ! そうじゃなくて、……まあ、ちょっとだけそうでもありますけど」 ……あるのかよ。 「えっとですね、これから秋の大会に向けての練習ですが……」 「わたしとみさき先輩、二人とも、明日香先輩の強化のために、使ってください」 「え、ええっ?!」 「真白ちゃんと、みさきちゃんが?」 ……それは、何と言うか。 VS乾沙希のために、願ってもないことではあるけど。 でも、そんなことをすれば、少なくとも秋の大会まで、真白とみさきは裏方へ回ることになる。 「いや、ダメってことはないんだけど、その……いいのか?」 「そりゃ、わたしだって少しぐらいは、前に立って練習したいって気持ちもありますけど……」 「でも、今はそれよりも、明日香先輩に、リベンジして欲しいんです」 「そのために、わたしたちを使って欲しいって、真白が言ってきたわけ」 「そ、そうです……どうでしょうか?」 「…………」 みさきだけじゃなくて、真白も、これだけ真剣に、明日香や部のことを考えてくれていたのか。 「真白」 「はいっ」 「よろしくお願いします」 「は、はいっ、よろしくです……」 「みさきも……ありがとうな」 「ん、明日香には久奈浜代表としてがんばってもらわないとね〜」 明るく言ってるけど、みさきだって内心は思うところがあるのだと思う。 その思いを押し殺して、言ってくれたみさきに頭が下がる。 「み、みんないいんですか……本当に」 「あーーーすかっ」 「はい、って……うわあっ!」 「がんばれよー、このーっ!」 「が、がんばりますっ、がんばるから、む、むねをさわらないでくださいーっ!」 「んーっ、むねってのはここかな? ここじゃな?」 「ひゃぅっ!」 「ギッ!」 「いや、そこで視線チェックとかするなよ、見てないから!!」 ……ともあれ、なんとかなって良かった。 もちろん、これですべて解決したわけじゃない。状況はむしろ、悪い方へ後退したのは確かだ。 あの乾に、どうやって勝てばいいのか。そもそも、反撃の糸口をどうやって掴めばいいのか。 課題は多い。多すぎる。 「ま、だけど……」 「こらー明日香ーっ、にげるなーっ」 「に、にげますよ、にげますってばー!」 「みさき先輩、わたし、わたしも追いかけてくださいよー!」 この、何とも騒々しくも頼もしい連中を見ていると、なんとかなってしまう気も、する。 散々にやられっぱなしになった練習試合、実は得た物の方が多かったのかもしれない。 「……さあ、じゃあまず俺がちゃんとしないとな」 明日から、練習メニューも全部書き換えだ。 やることは、いくらでもある。 「よかったねえ……一時はどうなるかと思っちゃった」 「………………」 「あれ? どったの、兄ちゃん」 「…………グスッ」 「うおおおおおおおおっっっっっっ」 「え、ええっ、に、兄ちゃん、マジ泣きするの、ここでっ?!」 「うおおお、窓果、窓果、オレは幸せだ、本当に幸せだっ!」 「え……っ?」 「友が敗れたことで本気で泣き、怒り、そしてやる気を出して。こんなFC部に、オレはしたかったんだよぉ……」 「兄ちゃん……」 「ずっとFC部をやっててよかったよ、ひとりでもずっとやっていてな……」 「よし、オレもあいつらのために、なんでもやってやるぞ! うおおおお、気合だ!!」 「…………」 「……そっか、そうだよね」 「兄ちゃん、ずっと欲しかったんだもんね、仲間が」 「それが最後の夏で手に入ったんだもん、泣くよね、泣いちゃうよね」 「うおおおおおおおおっっ、おおおおっっっっ……」 「うんうん、泣くがいいさ、泣くといい。ぐすっ……やだ、わたしもちょっと泣けてきちゃったよ」 「久奈浜FC部、再出発だねえ……」 こうして、空から襲来した、ライバルとその騒動はひとまず収束した。 と言っても、もちろんこれで終わりなどではない。 翌日、部活の前半を急遽変更し、VS乾沙希のための作戦会議をすることになった。 「さて、今日集まって貰ったのは他でもない」 「他でもない、だってさ」 「ちょーっと、雰囲気出しにきてますよね。秘密結社の秘密会議的な」 「わたしアレかな、ちょっとお色気秘書とかやった方がいい?」 「俺は筋肉を活かした用心棒役だな」 「さ、作戦って、そういうものだったんですか?」 「きみたち」 「わかりましたー。ちゃんと聞きまーす」 「まーす」 「ったく」 「秘書いらない?」 「いらねえ!」 昨日のちょっと感動的なやり取りはどこへいった。 ……まあ、暗くなってふさぎこんでるよりは100倍マシではあるけど。 「気を取り直して、じゃあ始めるぞ」 議題は明快だった。 乾沙希の、あの支配的な試合運びに対し、どのように対抗するか、その一点だけだった。 「俺としては、乾のやろうとしてる、FCを壊すやり方を研究し、取り入れる部分があってもいいかと考えている」 「俺たちのFCを……ってとこから、少し方向転換するってこと?」 「もちろん、これもまだ考え方のひとつだ。何より……」 明日香の方に向き直る。 「明日香」 「は、はいっ、なんでしょうかっ」 「昨日の戦いで感じたこと、それに対しての作戦、なんでもいい」 「今、明日香が思っていることを、一通り話してみてくれないかな?」 「思ってることをですか」 「FCのことだけだよ、明日香ちゃん。プライベートで思ってることまで言っちゃダメだからね?」 「ま、窓果ちゃんっ?!」 「部長」 「おう!」 「ちょっとだけ、窓果をログアウトさせてください」 「おう、わかった!」 「え、ちょっ、ログアウトってなに」 「よし窓果、外へ行くぞ!」 「うわっ、なにすんの、兄ちゃん、担ぎ上げないでよ、こら〜っ!!」 「あら窓果、急にかわいくなっちゃって。思春期かな?」 「魅力たっぷりになりましたね、肌は青いけど」 「こらーっ、本人より評価高いってどーいうことよーっ! それクマでしょーっ、わたしじゃねーっすよー!」 「無駄なこと言わないし可愛いし、ずっとこの窓果でいいな、正直」 「あ、あの……さすがにかわいそうですし、入れてあげましょう、ね?」 「そうか、明日香が言うなら仕方ないな」 「わたしの意見はどうでもいいのかーっ」 「うん」 「ショック! 一瞬の間も置かずに言っちゃったよ!」 「コーチごめんなさいコーチ、お願いだから中に入れてーっ!」 「はあもう……。じゃあ部長、鍵を」 「おうっ」 「はあ、こ、このまま表舞台から去るところだった……」 「次に変な茶々入れたらもっと遠いところ連れて行くぞ」 「ひぃ、それは許して……」 「クマさんになった窓果、また見たいね〜」 「ですよね〜」 「ふたりとも冷たくない、ねえ?」 「はいはい、話戻すぞ」 完全に話が脱線、どころか、路線ごと変わってしまった。 改めて、明日香の方を向いて問いかける。 「で、明日香が試合で気づいたことについて、だけど」 「は、はいっ、えっと、その……」 「ああすればよかった、こうすればよかった、というのが一つも思いつかないくらい負けました」 「手も足も出なかった、ってことだな」 「そうです、まさに」 バードケージ、鳥かごとはよく言ったものだ。 飛んで競い合う競技のはずが、まさか包囲作戦を最強化するとか、普通思わない。 「その、わたしって、作戦とかそういうのは、あまりわかってないというか、考えられないんですけど……」 「乾さんの戦い方に合わせたんでは、やっぱり敵わないと思うんです」 「ほう……」 明日香から、こういう形で自分の意見が出てくるのは面白い。 「あ、あの、なんか生意気言ってますか、わたし」 「いや、興味がある。続けて」 「はい、その、乾さんはたぶん、すごく長い時間をかけて、あの形を作り上げたんだと思うんです」 「同じことを今からしたとしても、全然、敵わないんじゃないかなあ、って。それなら――」 「わたしはわたしなりに、何か飛び抜けた部分を作って、それで対抗した方がいいのかなと」 「す、すみません、間違ってたら言ってくださいっ」 「なるほど……」 いや、これは明日香の方が正しい。 乾のやり方を学ぶのはいいとして、そこに合わせていくのは、今から2ヶ月ちょっとではあまりに無謀というものだ。 それなら、一点突破で、明日香の言う『飛び抜けた部分』を作った方がいい。 「うん、明日香の意見、取り入れよう」 「えっ、ホントですか?」 「ああ。ただそのためには……」 飛び抜けた部分、つまりは強力な武器を作る必要がある。 あの包囲を突破するには、ファイターとしての特化が必要になる。 冷静な判断力と、動物的な勘を鍛え、一点に集中する。 言うのは簡単だが、それをうちのメンバーで、できるのだろうか。 「うちのメンバーで……ん?」 みさき、真白、そして部長。 皆を見回していた瞬間、何か変なモノが降りてきた。 と言っても物理的にではなく、頭の中に、だけど。 「待てよ、これで……」 いや、確かに変なモノではあるけど、これは意外と……。 「はは……っ」 「晶也さん?」 「いや、なんでもない」 「なんかもう、少年マンガっぽい話になってきたなって、そう思っただけだよ」 「……??」 「なになに、何か思いついた?」 「あの笑い方だと、いやらしいことかもしれません」 「ボスゥ、この書類、ンッ、なんですけどぉ……、ね、こういう感じかな、えろい秘書って?」 「いたっ、ちょ、なんでわたしだけっ?!」 「さっきワンペナあったからな」 「ひどいよ!」 「ひどくない。またクマさんになるか?」 「そ、それだけは〜っ!」 「わたしたちが」 「みんなで一斉に」 「倉科に襲いかかるだと!?」 「……みんなノリがいいな」 あと、部長が最後にその台詞だけ言うと、ちょっと危ない気がする。どうでもいいけど。 「まあ聞いてくれ、ちゃんと理由はあるんだ」 乾にはとにかく死角がない。 どこから攻めても回り込まれるし、下手に裏を掻こうとすると確実にやり返される。 ではどうするか。 「昨日やられた、あの鳥かごの状態から、抜け出すにはひとつしか策はない」 スピードで出し抜けず、あれこれ対応を考えていてはどれも劣る。 「それなら、一対一になった時、これならば勝てる、という絶対的な武器を作ればいいと考えたんだ」 「ということは、倉科をファイターに特化させるのか」 「そうです」 頷いて、ホワイトボードに簡単な図を描く。 「乾の恐ろしいところは、どう動いても対応してくる、あの反射神経と瞬発力だ」 「うちにいるメンバーそれぞれでは、残念ながら、それに匹敵する人間はいない。でも……」 ボードに、三人の図を描き、それらがすべて明日香に向けて攻撃をしかける意味の矢印を付ける。 「ルーチンを決めて、こうやって矢継ぎ早に攻撃を仕掛ければ、乾より更に強力な包囲網を擬似的に作ることができる」 「……という、作戦だ」 「わたしが、みんなと一斉に戦う……」 あまりのことに、明日香にもちょっと混乱が見える。 正直、かなり荒唐無稽というか、そこまでするかというのはある。 しかし乾は、明らかに常識を外しにきているのだ。 常識外れには常識外れを。それぐらいして、やっと同格というところだろう。 「どうだろうか、みんな」 全員の顔を見渡す。 「グレイトな作戦デース、これなら沙希もイッツピンチちがいないデース」 「みさき、うるさい」 しかも物真似が微妙に違う。イリーナはもうちょっと日本語上手いだろ。 「コーヒーが飲みたいネー」 「うるさい! お前もクマにするぞ!」 どこで覚えてきたんだ、そんな小ネタ。 「まあそれはともかくとして、ちょっとマンガみたいな世界になってきたね」 「それは俺も思った」 「でも、そのマンガみたいなことをするんですよね……?」 「ああ。そうでもしないと、あいつには勝てない」 「……そうだろうな。怪物に勝とうと思ったら、こっちも何か対抗できるものにならないと」 「化け物とか?」 「それはさすがに明日香がかわいそうかな〜」 「化け物はちょっと……」 「ですね、せめて宇宙人とか」 「そ、それもいやですっ」 「はいはい、詳細はともかくとして、OKということでいいんだな、みんな?」 「おう!」 「はーい」 「了解でーす」 「よし、ではこれから、倉科明日香最強化計画を実行する!」 「さ、最強になれるように、がんばりますっ!」 「じゃあ、今から配置を決める」 「はいっ」 「おうっ」 「はいっ」 「はいっ」 「おうっ」 今更確認するまでも無いが、部長はスピーダー、みさきはファイター、そして真白はスピーダーだ。 この組み合わせで効果的な攻撃パターンを作るには、それなりの工夫が必要だ。 「まずみさき」 「はーい」 みさきはファイターで、しかもかなり器用な選手でもある。 となると、明日香の前面に立って貰って、仮想乾をやってもらうのがいいだろう。 「みさきは、ひたすら明日香に通せんぼをしてくれ」 「うん、了解」 「明日香が嫌がる事を徹底的にやってほしい」 「ひぃっ」 「あら、それは楽しそうだね、うひひっ」 「お、お手柔らかにです、みさきちゃん」 「女子会で得た情報を惜しげもなく晒しちゃ……もごっ」 「わーっ! やだ、ぜったいだめ、だめですからねっ!!」 明日香がすっ飛んでいって、みさきの口を塞いでいる。 ……一体どんな秘密があったんだろう。 「……晶也、今ちょっとツバを飲み込んだでしょ?」 「してない。とにかく、いやがることってのはそういう意味じゃないから」 「……どうせわかってるんだろうけど」 「いひひ。ひとまず了解」 「う〜〜〜〜っっ……」 みさきは(性格はともかく)いい障害になってくれるだろう。 キーになるのはここからだ。 「真白」 「は、はいっ」 スピーダーである真白は、通せんぼをするには技術が拙い。 なので、ここは元々やっていたファイターとしての経験を活かし、みさきのフォローに回ってもらう。 「真白は、明日香を挟む形で、常にみさきの正面にいるようにしてくれないか」 「えっと、どういう感じですか?」 「真白は理科とか得意だったか?」 「そこそこ……っていうか、それって今関係ある話なんですか?」 「あるんだよ。えっと、惑星と恒星の関係って、わかるか?」 「惑星はわかりますけど……コウセイって?」 ……んー、まあ、こんなもんか。 こういうのは興味がないとわからないものなんだな。 「言葉の意味はいいや。えっとまず、みさきが太陽とする」 「お、まじ、みさきちゃんそんなにいいポジション?」 「みさき先輩が太陽であるという仮定はとても素晴らしいです!」 「続けるぞ。で、明日香が地球、真白が火星だ」 「わたしが地球……なんか嬉しいですっ」 「真白、地球に比べるとちょっとランクダウンだね……」 「ひどいです! わたしも地球がいいです」 「たとえだから! もういいからそれは気にするなって」 本当にややこしいな、もう。 「で、太陽系の惑星が、太陽を基点に同一軌道上にあるのはわかるな?」 「…………??」 次のテスト、また見てやらないと心配だ……。 「まっすぐ引いた線に沿ってるってことだ」 「あ、ああ! わかりました。わかります」 「わかったならいい。その関係を崩さないように、動いてほしい。そして……」 「そして?」 「その関係だと、明日香は基本的に、真白に背中を見せていることになる」 「なるよねえ」 「みさきちゃんに集中してますからね」 「うん、なので、背後から明日香に攻撃をしかけてくれ」 「背後……ですか」 「火星が地球にドッキングしちゃうんだね」 「そ、それは大事故じゃないですか!」 「もう惑星のたとえは忘れてくれ!」 下手にあんなたとえをするんじゃなかった。 宇宙ネタが大好きすぎるのは、男の子の特権だったんだなと痛感する。 「とにかく、真白はみさきと明日香の動きを見つつ、スキがあれば背中にアタック。以上!」 「はーい!」 ……やっと説明が終わった。 さて、最後。 「おう! オレの番だな」 問題は部長だ。 部長のように、とにかくブイ優先で他のことは気にしないというタイプは、この手のドッグファイト特化の練習には向かない。 その中から、あえて向く方向を見つけるとしたら。 「部長は、明日香のいる辺りで、急降下と急上昇、これをひたすら繰り返してください」 「おう。で、攻撃はどうする?」 「そこは真白と同様です。スキがあれば、すれ違いざまにタッチを狙ってください」 「わかった!」 ……こういう時だと、部長は話が早くて助かる。 こと、筋肉だの根性だのって話になると、やたらとややこしくなりそうだけど。 「よし、あとは休憩を挟みつつ、どんどん連続で対戦していってくれ」 「わ、わかりましたっ」 「はーい」 「はぁーい」 「おう!」 全員の返事が届いたのを確認して、 「窓果」 「はいな」 「ちょっと練習見ててくれないか」 「いいけど、どっか行くの?」 「ああ、ちょっと色々確認しに行ってくる」 「……確認?」 「ほう、倉科をファイターに特化か」 「……まずいでしょうか?」 「いや、私がコーチでもそうしただろうな。晶也は間違ってないよ」 ……良かった。 正直、先生にそう言ってもらえれば、少しは俺も自信がつく。 「しかし、それで鳥かごを抜けたとしても、その後の戦い方も考えなければな」 「一応、プランはあります」 「ほう……」 「でも、まだしっかり定まってません。明日香がこのミッションをクリアしてから、しっかり固めていきます」 「ちゃんとするまでは報告しない、か」 「はい……すみません」 「謝る必要があるか。あやふやなことを言うより、ずっと賢明な判断だ」 先生はそう言ってフォローしてくれたけど、内心は不安でいっぱいだった。 確かに、鳥かごを抜けることができたとして、その後、どうやって攻勢に転じればいいか、悩むところだ。 こういけばいいのかな……という曖昧な方法はあるけれど、まだそこまで確定的ではない。 明日香の様子を見つつ、しっかりと組み立てていくしかない。 「まあ、心配するな。今は晶也の思うままにやればいい」 「ありがとうございます」 「ヤバくなったらちゃんと言ってやる。存分にやれ。中途半端が一番許されない」 「……特に、あの相手では、な」 先生をここまで警戒させるんだから、乾と、あとイリーナは、かなりのレベルにある相手なのだろう。 やはり、まだまだやることは多すぎる。 「ああ、晶也……」 「はい、なんですか?」 「倉科はみんなとうまくやってるのか?」 「え、あ、はい、それはもちろん」 むしろ、今が一番、部として結束してるぐらいな気がする。 そのことを先生に伝えると、 「そうか……まあでも、みんなのフォローは忘れずにな」 「は、はい、それはもちろん」 一体先生は、何が言いたかったんだろう。 みさきにしろ真白にしろ、今は一致団結して部にも協力的だ。特に心配する部分は無いように思うけど……? 「ただいま……あれ、なんで窓果が外に?」 「お疲れ。今ちょうど、みんな着替え中だよ」 「そっか」 着替え中と聞いて、以前の思い出が蘇る。 あのアクシデントは……画像としては、うん。 「貸し一個……」 「うっ……」 「日向先生とは長い付き合いになりそうですねぇ」 ……まだ覚えてたのか、こいつは。 「むしろさっきのログアウト事件で帳消しだよ」 「ひどい! むしろあれもポイントに入れたいぐらいよ!」 「はいはい。……で、今日の練習について聞きたいんだけど」 「あ、そうだった」 「ボスゥ、今日の練習について、報告しますわァン」 「そのキャラ、もういいから」 「チッ、ちょっと気に入ってたのに」 ……気に入ってたのかよ。 「それはいいとして、どうだった?」 窓果は首を横に振ると、 「まー、さすがに全然ダメだったね。明日香ちゃんがポイント取られまくり。いいとこなく終わった感じだったよ」 「……そうか」 まあ、いきなりこんなムチャをやって、効果が出るって方がこわい。 案外、みさきみたいなタイプだったら、こういう変態的なことをしても難なくやってしまいそうだけど。 「あと、みんなもさすがに慣れない練習だったからか、普段は見ないような動きもしてたね」 「普段は見ない? なんだそれ」 「真白っちが宇宙飛行士みたいな動きしてた」 「……窓果、それは普段も見る動きだ。真白のミスだ、思いっきり」 「あ、そうなの?」 おそらく、スピーダーのまま練習していたので、真白が気を利かせて、ファイター用に調整をかけたのだろう。 だけど、いつもの忘れっぽい癖が出て、バランサーを戻さずに飛んでぐるぐる、ということか。 真白にはメンテの手順をもう一度ちゃんと説明しておく必要があるな……。 「ケガしないように言っておくよ。で、他には何かあった?」 「そんくらい、かな」 「あ、ただ……」 「ただ?」 窓果は、あきれ半分、感心半分、といった感じで、 「明日香ちゃん、一度たりとも弱音は吐かなかったね」 「そっか」 「最後、ボロッボロになって、ホントに吐くんじゃないかってぐらいになってた」 基礎練習の時もそうだったけど、明日香は本当に黙々と練習をする。 雑念の入り込む余地がなく、素直に練習するからこそ、上達が段違いに人より早いのだろう。 明日香なら。……本当に、やってくれるかもしれない。 と、そこへ。 「ふぃ〜……ふしゅぅ〜……」 「あっ……明日香?!」 部室のドアが開き、変わり果てた姿で、明日香の姿が現れた。 「はいはい、みんな下がって下がって〜」 「明日香せんぱーい、もうちょっとその……自分で立てないですかぁ〜?」 ……みさきと真白に、両肩を抱えられて。 「あぅ……」 当の本人は、宇宙人のアレみたいに、身体を二人に預けて放心していた。 「あ、晶也……しゃん」 「お、おい、大丈夫か、明日香」 「あーダメダメ、患者に触れちゃ」 「患者ってなんだよ。しかし、本当に精根尽き果てた感じだな、これは……」 「もう最後は、気力だけで飛んでる感じでした」 「それは止めような、次からは」 「わたしたち止めたんですけど……」 「ああ、それでも倉科がやめなかったんだ」 あとからやってきた部長も、そう証言した。 「そうだったのか……」 「ちゃんと明日香に言っておいてね」 「わかった、そうする」 ちゃんと忠告を聞かないと、あとで大変なことになりそうだな。 「明日香、その、疲れた時はちゃんと……」 「晶也しゃ……さん、今日、大変……らったですけど、その、えっと……」 「すっっっごく、楽しかったれす!」 「……そっか」 苦笑しつつ、ポン、と肩を叩くと、 「いいから今日はもうおとなしく帰ろう、な?」 「は、はぁい……」 コクコクと頷く明日香。 その腕を真白から受け取り、俺の首へと回した。 「というわけで、今日は明日香を連れて帰るわ」 「その方がいいだろうね〜」 「気をつけて帰ってくださいね」 「ああ、歩くのもやばそうだし、ちゃんと家の前まで連れて帰るよ」 「日向くん日向くん」 窓果が、妙にニヤついた表情で近寄ってきた。 「すごく嫌な予感がするけど、なんだ、窓果?」 「あのね、色々しちゃうチャンスだってのは重々承知してるけど、今しちゃったら大会に影響」 「ぐわっ」 「……じゃあ帰るから」 「お気をつけて〜」 「センパイ、ちゃんと真っ直ぐ帰らないとダメですからね」 「当たり前だ!」 「はーっ、やっとここまで来たか……」 明日香に肩を貸して、飛ぶことおよそ5分。 ようやく、家の近所の停留所まであと少しの所まで来た。 「窓果のやつ、また明日にでもぬいぐるみと交換だな」 あいつなりに場を和まそうとしてるのかもしれないが、こっちは良い迷惑だ本当に。 「なあ、明日……」 そろそろ着くぞ、と言いつつ、顔をのぞき込んだ。 「明日香……?」 「すーっ……んーっ……」 「……まじか」 やけに何も喋らないなとは思っていたが、明日香はすっかり眠ってしまっていた。 しかし、いくら俺が見ているとはいえ、ちょっと無防備というか、危ないんじゃないか、これ。 「……………………」 「……その、色んな意味で」 いつも明るくて、ずっと喋ってるイメージが強いからかもしれないが。 眠っている明日香は、なんかこう、改めてみると目鼻が整ってるというか、その……。 かわいい。 「くっそ、窓果!」 あいつが余計なこと言ったせいで、どんどんと妙な方向へと考えが行ってしまう。 「しっかりしろ、今は飛行中! 気をそらさない!」 自分に言い聞かせ、ジッと前方を見る。 ……見つつも、 「ちらっ」 ……やっぱ、かわいいな、うん。 「ああもう!」 そもそも、最初に路上で会った時から、明日香がかわいいことなんて認識済みだったわけで。 今更、その事実を呼び起こしたところで、何がどうなるわけでもないんだけど。 ……ただ、練習一辺倒だったこれまでを思うと、すごく新鮮な気持ちになったのは、間違いなかった。 「……もしもし、ああ、突然すまない」 「近々、ちょっと様子を見に来てくれないか」 「わかってる。お前にも立場があるからな。迷惑をかけないよう気をつけるよ」 「前に言ってた件? そうか、まだ返事していなかったな。 秋の大会が終わるまでは待つように言っておいてくれ」 「それじゃ、よろしく」 「おっ」 「あっ……」 「あら」 「こんな所で会うとは奇遇だね、真藤くん」 「はい、ご無沙汰しております。夏の時は、ご挨拶に行けず失礼しました」 「いやあ、いいよそんなことは。それより今日は……」 「あ、あ〜〜っ……!」 「そういうことか、あいつ……」 「どうかされましたか?」 「あ、いや、こっちの話。君たちも久奈浜の陣中見舞いだよね?」 「ええ、そうです」 「そうか、じゃあ一緒に行こう。ちょっと僕は顧問に挨拶してくるから、少しだけ待っていて貰ってもいいかな?」 「ええ、もちろんです。白瀬さんの言うことには逆らえないですよ」 「そういうのはよしてよ。じゃ、行ってくる」 「あの、部長」 「なんだい?」 「さっきの方、スカイスポーツ白瀬の店長さんですよね?」 「そうだけど、それが何か?」 「いえ、部長とそこまで親しかったんだなあって」 「ここでFCをやってる人間なら、白瀬さんとは自然と親しくなるんじゃないかな」 「それは確かに……」 「まあ、僕はちょっと別の理由もあって、親しくさせて頂いてるんだけどね」 「え?」 「神様みたいなものだよ、僕にとっては、あの人も」 「え、ええ……?」 「あ、白瀬さんが戻ってきたね。じゃあ行こうか」 「は、はいっ……」 「『あの人も』って、どういうことなんだろ……」 「あっ」 「あらっ」 練習の最中、ふと学校の方を見ると、見知った顔が並んでいるのに気づいた。 「よう、頑張ってるみたいじゃないか」 「こんにちは」 「お疲れ様です、これ、差し入れです」 「わーっ、ありがとう市ノ瀬さんっ」 「皆さんおそろいなんですね、今日は」 「たまたまそこで会ってね。合流したのはついさっきなんだ。そんなことより……」 白瀬さんの目が、俺の後方のやり取りに向かう。 「なかなか、面白いことをしてるんだな」 「はい、まあ苦肉の策ではあるんですが」 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 息を荒くしている明日香が、正面のみさきと向かい合っている。 「よっし、んじゃコンビネーションでラスト1セット、行ってみよっか?」 「はい、お願いします!」 「うしっ、じゃあ真白、行くよ!」 「はいっ、先輩!」 真白の返事に呼応するように、みさきの身体が一瞬でその場から消える。 「……速いな」 真藤さんが、その速度に感想を漏らす。 「っ!」 みさきが左から、真白が右から回り込むようにして、明日香との距離を詰める。 「まだ……まだ動いちゃだめ」 明日香は小声でつぶやきつつ、相手の動向に目を光らせている。 「っりゃあ!」 ちょうど、明日香の死角になるところで、みさきが急速潜行からの浮上で背中を狙ってきた。 「あ、いいタイミング……!」 ラグも無く、動作に移るまでもスムーズで、思わず市ノ瀬もその動きに反応した。 しかし。 「させないです!」 「っ……!」 明日香はみさきの手をかいくぐると、背面跳びのようなポーズで後方へと飛び退く。 「チャンス! それーっ」 体勢を立て直す前の短い時間を狙って、真白が迫る。 「これはキツいぞ」 そう、避けようとするタイミングで、他方から攻撃を仕掛けられては、普通は避けきれない。 「もう一回……っ!」 「わわわっ!」 だけど。 明日香は空中で描く弧を途中でキャンセルし、伸ばしてきた真白の手からもすり抜けたのだった。 「すごい……!」 「いや、まだだ」 目の前の動きに感嘆する市ノ瀬に、真藤さんは視線を上へ向ける。 「はははっ、まだまだ甘いぞ倉科っ!」 そこに、上空からフルスピードで落下してくる部長がいた。 「そこにもいたか!」 二者連続で避け、後方がガラ空きになっていた明日香。 その背中をめがけ、部長の手が迫る……! 「っ、さすがにやられたか……?」 「いえ、違います。あれを」 しかし、真藤さんの指差した先には。 「ご、ごめんなさい、つい反応してタッチしちゃいました……」 「く、くそっ、ついに倉科からポイントも奪えなくなったか」 水面近くで悔しそうにしている部長と、その傍らで、なんだか申し訳なさそうにしている明日香がいた。 「明日香さんのポイント……!」 「ほう……」 見事、明日香のポイント獲得により、練習を終えたのだった。 「え、たった一週間でここまでに?!」 「は、はいっ、そうです」 「すごいですね……。てっきり、もっと前からこの練習をやってたのかと」 三対一練習の開始時期を知って、市ノ瀬はかなり驚いた様子だった。 「まあ、実際に練習してるあたしたちが信じられないもん」 「ですよね〜。昨日と今日では、明日香先輩の動きがまるで違ったりしますし」 「オレの捨て身の攻撃も全然当たらなくなったしなあ」 「そ、そうなんですか……?」 「実際に当たってないんだから、もう兄ちゃんは超えたも同然ってことだよ」 「窓果、それはちょっと地味に堪える……」 「それにしても、すごいと思いますよ」 莉佳が、急成長する明日香をなおも賞賛する。 「このまま行けば、秋の大会でも間違いなくベスト4まで行けそうですね……!」 「それはありがと……う?」 べた褒めの市ノ瀬に礼をしつつ、俺の目は傍らで考え込む真藤さんと白瀬さんに向いていた。 二人の目は笑っていない。 「……白瀬さん」 「なんだい、晶也」 俺は、一瞬軽く目を閉じると、 「まだこれでは不十分だと、そう言いたそうですね」 楽しげだった空気が、ピッと引き締まる。 視線が二人へと注がれる中、白瀬さんは笑顔で、 「晶也はどう思うんだ?」 「俺は……」 明日香は確かに急成長を遂げている。 一週間前の乾沙希と、今練習試合をすれば、今度はいい戦いができるのではないかと思う。 ……でも。 「このままでは、乾沙希には勝てないと思います」 「っ……」 明日香が息を飲むのがわかる。 本当は褒め称えたいところだけど、そこはコーチとして、嘘はつけない。 白瀬さんはうなずくと、 「同感だね。このままでは、乾沙希に一太刀浴びせることすら困難だと思う」 ……白瀬さんはそこまで差があると思っているのか。 確かに勝つのは困難だと思っていたけど、俺が考えているよりずっと、白瀬さんは厳しい判断だった。 「どうだろう、真藤くん」 白瀬さんは傍らの真藤さんを見て、 「明日香ちゃんと戦ってみたら?」 「ええっ……!」 「真藤さんが……!」 明日香と、真藤さんが……? いや、それは願ってもない機会だけど、いいのか? 夏の大会で引退したとはいえ、真藤さんは高藤の部長であることには違いない。 市ノ瀬や佐藤院さんを指導する立場なのに、他校が有利になるようなことをするのは……。 「白瀬さん」 「ん?」 「奇遇ですね。僕も同じことを言おうと思ってました」 「……マジですか」 「もしやと思って、用具一式を詰めてきて正解だったよ」 「いいね、そうこなくちゃ」 ……心なしか、二人とも嬉しそうなんだけど。 「明日香、そっちは大丈夫……」 言いかけて、やめた。 「真藤さんと……再戦なんですね……!」 メラメラとやる気を見せる明日香に、心配など無用だった。 「……わかりました、ではお願いします、真藤さん」 「望むところだよ、日向くん」 「えー、それでは、高藤学園と久奈浜学院の練習試合を開始します」 「両者、スタート位置へ」 部長の声に、少し後方で待機していた真藤さんと明日香が、揃ってファーストブイの横へと移動する。 「よ、よろしくお願いします」 「ああ、よろしく」 「倉科くんと戦うのは、あの大会以来だね」 「は、はいっ」 「いい戦いにしよう」 真藤さんは平常通り、さわやかな笑顔を浮かべている。 ……まあ、これがいとも簡単に豹変するのを、俺はもう何度も見ているわけだけれども。 「部長、さっき言ってましたよね?」 市ノ瀬が、何か思うところがあるように口を開いた。 「何を?」 「その、白瀬さんが明日香さんとの対戦を促した時、『僕もそう思っていた』って」 「あれってやっぱり、何か考えてのことだったんでしょうか。そうでなければ、言わないですよね?」 「言われてみれば……そうだな」 真藤さんは、戯れで人と対戦したがるタイプではない。むしろ、手の内を見せる見せないを含め、慎重に判断するはずだ。 なのに、今回は自ら進んで対戦役を買って出た。 「何か思うところが、それも明日香と乾についてあった。そう考えるよな、普通は」 「明日香さんにとっての何かポイントになることか、もしくは、乾さんと戦って気になった点があるとか」 「うん……まあ、注目すべき戦いなのは間違いない」 「……はい」 市ノ瀬は、目の前の光景を固唾を飲んで見守っている。 これがただの練習試合でないことは、彼女にもわかっていた。 ただその目的が何なのか……。それは、真藤さん本人にしかわからない。 「セット!」 (見せてもらいますよ、真藤さん) 真藤さんも、白瀬さんと同じく、このままだと明日香はダメだと認識していたようだ。 ならば、この戦いの中に、答えがあるはずだ。 試合が始まった。 両者、弾かれるようにしてセカンドブイを目指す。 「あっ……!」 ……と思われたのだが。 「えっ?」 明日香が思わず、驚いて声を上げた。 セカンドブイへ向け、同じく横を飛んでいたはずの真藤さんが、 「……っ」 スタート直後、あっさりとセカンドブイを捨て、サードブイの方へと向かったのだった。 「めずらしいですね、部長がショートカットするなんて」 確かに言われてみれば……。 真藤さんはスピーダー寄りのオールラウンダーだ。 スピーダー以外の相手に対して、いきなりセカンドブイを捨てる戦法に出たのは初めてだ。 明らかに、何かを狙っている。 「明日香、気をつけろ」 「真藤さんの動きに、ですね」 「そうだ、ブイにタッチしたらすぐに周りを見つつ、真藤さんがどこにいて何をしているか、注視するんだ」 「はいっ」 明日香がセカンドブイに向け、無駄なく進んでいく。 そして無事、セカンドブイへのタッチに成功した。 これで1対0。 しかし、この相手での一点差など、あってないようなものだ。 「よし、それじゃ明日香、次は……」 セカンドラインからサードブイへ向かいつつ、進行方向にいるだろう、真藤さんをいかに避けるか。 もしくは、ドッグファイトに持ち込み、身につけた瞬発力と判断力を試すか。 そんなことを、考えていた。 「あっ……!」 しかし。 「晶也さん、これって……!」 明日香が声を上げ、動きを止めた。 「フッ……」 真藤さんが微かに笑い、両手を広げた。 セカンドライン。ちょうど、ブイの中間ぐらい。 その、少し高い位置に、真藤さんは、いた。 「……っ」 「どうした? 来たまえ、倉科くん」 明日香の前に立ちふさがる、大きな壁となって。 「あっ……」 そうか、そういうことか。 「どうしたの、何か気づいた?」 「真藤さん、自分の戦い方をしてない」 「え?」 「確かに、動きがいつもと違いますが……。でも、だとしたら一体どういう作戦で?」 「作戦というか、これは」 FCは上級の選手になると、スピーダーもファイターもオールラウンダーも、ジャンルを問わずスタイルを変えることができる。 そして更に上級になると、ある程度のレベルまでなら、動きや戦い方をトレースして、他人になりきることもできるようになる。 「今、真藤さんがやってるのは――乾沙希のトレースだ」 「乾沙希の……!」 「トレース?!」 「ああ、たぶんだけど」 もちろん、真藤さんは、先日の明日香と乾の試合を見ていない。 だから、これはおそらく、真藤さんなりに乾を分析し、彼女ならこうするだろう、という予測の元に立てた作戦なのだろう。 例えば、サッカー選手のポジショニングで作戦が見えるように、ボクシング選手の構えでファイトスタイルが見えるように。 FCでもポジショニングと飛行姿勢から、作戦が透けて見える。 「さすがというか……すごいな」 あの『鳥かご』の威圧感、閉塞感が、見事に表現されている。 場を支配する乾の戦法が、まざまざと蘇った。 「……くっ」 明日香が少し悔しそうに、吐息を漏らす。先日圧倒された記憶が蘇ったのだろう。 トラウマで戦えなくなるタイプじゃないと思うけど、あまりこのままの状況だと、気力を失ってしまう。 「ん……?」 ここでひとつ、気づいたことがあった。 「近づいてきてる?」 乾沙希のポジションを再現した、バードケージ。 そう思っていたのだけど、実際は少し、異なるようだった。 「フフ……」 じわりじわりと、圧力をかけるように、真藤さんは明日香の方へと迫ってきている。 微かに浮かべた笑みが、圧迫感を更に増していた。 「……晶也さん、これって」 「明日香も気づいたか」 「はい、真藤さんが、こっちに」 明日香も、徐々に距離を詰めてくる真藤さんに気づいたようだ。 「そうか、これは違うんだ」 「違うって?」 「俺は、真藤さんが乾のトレースをしていると思っていた」 「え? そうじゃなかったの?」 「先ほど、日向さんがそう仰っていたんじゃ……」 「ああ、でも今の動きを見て、そうじゃないって思い直したんだ」 真藤さんは、試合開始直後にセカンドブイを捨てた。 ということは、最初から相手にポイントをリードされた状態になる。 「これは鳥かごじゃない。口を開けて迫ってくる……怪物だ」 迫ってくる壁に押しつぶされるシーンを、ゲームなどで時々見かける。 今の真藤さんの動き方は、まさにそんな感じだった。 「明日香、上だ」 「上、ですか?」 「このまま待っていても潰される。斜め上に飛んで、高さを合わせろ。ドッグファイトに持ち込め」 「わかりました!」 明日香が勢いをつけ、真藤さんにめがけて突進する。 まずは高さを対等にして、優位な立場を崩さないと。 ……しかし。 「甘いね」 「きゃっ!」 真藤さんは明日香の動きを読んでいたかのように、進行方向へと絶妙のタイミングで立ち塞がる。 常に上の位置をキープし、明日香との立ち位置を変えようとしない。 「さすがに甘くはない……か」 そう簡単にポジションを譲ってはくれないと思っていたが、これで真藤さんの狙いは明らかになった。 一対一における、優位なポジションの独占。 まさに乾沙希のやろうとしている、支配的なFCそのものだ。 「晶也さん、どうしたら」 明日香の声にも、さすがに微かな緊張が混じっている。 でも、明日香だってあれから練習を繰り返してきた。 あの時の乾そのままとはいかなくても、どこまでやれるかは試す価値はある。 「明日香」 「はいっ」 「一度離れろ。真藤さんの間合いに入るな」 「は、はいっ」 俺の指示通り、明日香はするすると真藤さんから離れ、少し下方へと移動した。 「あっ、それはダメだ、明日香!」 「えっ?」 嫌な予感がした。 明日香にしてみれば、間合いを調整する一環としての移動だったのだろう。 しかし、これだけポジションに執着する真藤さんが、高低差の変化に反応しないわけがない。 「ははっ、そこだよ!」 真藤さんの声が、響いた瞬間には。 「きゃああっ!」 あっという間、だった。 高い位置からの急速攻撃。 「真藤一成、1ポイント!」 部長のコールがかかる。あっさりと、同点に持ち込まれた。 「明日香、油断するな!」 「ええっ?!」 「真藤さんは絶対に次を狙ってくる! 連続で来る!」 予感だった。 真藤さんは確実に、貪欲に、『次』を狙うはずだと。 そして。 「まだ終わらないよ、倉科くん!」 「はあっ……!」 「し、真藤一成、2ポイント!」 悪い予感ほど、当たってしまう。 これで2対1。逆転だ。 「くっ……!」 明日香が押され、水面ギリギリの所まで追い込まれた。 「エアキックターン! 体勢を立て直せ、上がれ!」 「は、はいっ……!」 必死に叫び、それに明日香も応える。 「はは、逃がさないよ」 そこを執拗にコブラからの連携で追ってくる真藤さん。 一度食らいついたら離れない、猛獣のような戦いぶりだ。 「っ……強い」 追いかけてくる触手から逃れるように、明日香がなんとか、セカンドブイの付近まで逃れる。 振り返った時には、 「あ……また……」 真藤さんは、さっきと寸分違わない姿で、 「――ほら、どうしたんだ、倉科くん」 優雅にさえ見える動きで両手を広げると、再び、明日香の前へ立ちふさがったのだった。 「明日香、横の動きだ、回り込め!」 「は、はいっ」 上下動だけではさっきと同じで芸がない。だから、左右の揺さぶりで不意を突こうとしたのだが……。 「左右の動きを加えれば、いけると思ったかい?」 こちらの試みを、一瞬で見抜くと、 「っ!!」 「同じことだ!」 ミサゴや鷹が水面の魚を狙うように、 「うっ……!」 「真藤一成、3ポイント!」 テリトリーに入ってきた獲物を、真藤さんは絶対に取り逃さなかった。 「……っ、これが」 唇を噛みしめ、なおも両手を広げて威嚇する鷹を見る。 「真藤さんの回答ってことか……!」 乾沙希なら、これぐらいのことはしてくるよ。それに対し、どう戦うんだ? 言葉よりも如実な回答を、真藤さんは突きつけてきた。 ――明日香はこのままでは勝てない。 本来なら2ヶ月先にあるはずのバッドエンドが、今ここで展開されたのだ。 「ははっ、強いなあ……うん」 しみじみと、といった感じでみさきがつぶやく。 「あんなに強くなった明日香先輩が……、ぜんぜん歯が立たないです」 絶望的な面持ちで見つめる真白。 「部長……」 市ノ瀬は、少し複雑な様子だった。 無理もない。これまで見てきた真藤さんの戦い方とは、まったく違う物を見せつけられたからだ。 しかもそれは、屈辱的な敗北を喫した、あの乾沙希のスタイルに似ている。 それは、これまでの真藤一成を、否定することにも繋がるのだ。 「……でも、そうなんだよな」 真藤さんは、常に変化している。変わらないのは、『強い』ということだけだ。 そして、本当に強い選手というのは、スタイルにこだわらない。 ひたすら貪欲に、そして徹底的に。 ――かつての葵さんも、そうだった。 「やるしかないん……だな」 その後も、あの手この手で真藤さんに挑むも、明日香は容赦なくはね除けられ、失点を重ねた。 終了直前、真藤さんは悠々とサードブイにタッチし、堂々たる試合運びで、勝利を収めた。 圧倒的な、支配力を以てして――。 「ふぅ〜……ただいまです」 「お疲れ様でした」 「ふたりともお疲れ様でした! あ、えっと、飲み物持ってきますね」 「部長、タオルですっ」 「ありがとう」 ふたりが空から戻り、やっと空気が元に戻る。 でも、俺の中では、試合の中で感じた様々なことが、終わってからもずっと渦巻いていた。 「おつかれさま」 降りてきた二人を笑顔で出迎えつつ、白瀬さんはこちらに視線を送る。 「……晶也、わかったかな」 俺は無言で頷く。 「三対一の練習は、とっさの判断力を鍛えたり、どこから何をされるかわからない状況を作って戦うことで、勝負勘は養われたと思います」 「でも、乾沙希のような圧倒的支配力の前では、どうしても雑なものに映ってしまう」 「……そうですね」 「さっきの真藤くんの戦い方を見ていてもわかる通り、あれは恐ろしく頑強で分厚い、鎧みたいなものだからね」 まったく、その通りだった。 精度のそう高くない槍で矢継ぎ早に突かれるのと、迫ってくる強固な鎧に相対するのでは、そもそも戦い方が違う。 『このまま練習を続けていても、勝てない』その理由が、そこにあった。 「じゃあどうすればいいか。その答えは、きっと真藤くんが持っているはずだよ」 戦いを終え、タオルで顔を拭いた真藤さんが戻ってきた。 「やあ、お疲れ様」 戻ってきた真藤さんは、口調こそいつもの様子だったけど、表情は真剣なままだった。 「日向くん、ひとつ質問したいのだけど」 「はい」 「乾沙希に有効な武器、君はどう考える?」 武器……か。 さっき、白瀬さんが言った通り、乾沙希はまるで固い鎧のような存在感を持っている。 だとすれば、素直に打ち合えば必ず負ける。 「一撃、誰にも負けないぐらい、鋭い一撃が必要だと思います」 元々、三対一の練習を始めた目的は、明日香に強力な武器を作るということだった。 それが、今日の試合で更に明確になったのだと考える。 「鎧を打ち破るような、強い武器ということかな?」 真藤さんの言葉に、首を横に振る。 「いえ、そうではなく、鎧の隙間を狙うような攻撃です」 まともに打ち合えば勝てないのなら、その間隙を狙う。 経験値で劣る明日香が勝てるのは、そこしかない。 「……なるほどね」 真藤さんは頷いた。 「僕もその意見には賛成だな。あれほどに堅い守りを、正面から打ち破るのは困難だからね」 「だけど、乾の鎧は硬く厚い。隙間は見つかるかな」 「……見つけます、明日香なら、可能だと思います」 「ほう」 「彼女のような戦い方なら、それは面白いかもしれない」 真藤さんも、俺の案に納得したようだった。 しかし、そうは言ったものの、今の俺に、はっきりとした具体があるわけではなかった。 鎧の隙間を突くと言ったって、あの完全な乾の戦い方に綻びを見つけるのは相当に難しい。 下手に変則的な戦い方をすれば、より悲惨に餌食にされる未来が見える。 (……もう一度、整理して考えなければな) 真藤さんと白瀬さんのおかげで、課題は更に明らかになった。 しかし、見ようによっては、これで振り出しに戻ったとも言えるのだ。 「……おっと、メールだ。失礼」 「真藤くん、ちょっと先に職員室へ行くよ。用事が済んだら先に帰っていてくれ」 「はい、わかりました」 「それじゃ。晶也もがんばれよ」 「はい、それじゃ」 白瀬さん、忙しいのかな? いや、職員室と言っていたから、葵先生に用事か。 「日向くん」 「え、あ、はい」 真藤さんの表情は、すっかりいつも通りに戻っていた。 ファンの多そうな、朗らかな笑顔を浮かべながら、 「どうだろう、日向くん」 「ここに一人、試合予定が無くなってヒマを持て余している選手がいるんだが」 「倉科くんの練習相手として、採用してみる気はないかな?」 「ヒマを持て余してるって、あの、それ」 言ってから、微笑を浮かべる真藤さんを見て、 「え、えええっ?!」 やっと、言葉の意味に気づいた。 「どうだろう、力不足かな、僕では」 「ち、力不足とかそんなとんでもないとんでもない」 ……むしろ、もったいなくてヤバいレベルだ。 真藤さんクラスの選手が練習相手になってくれれば、明日香は短期間で格段に強くなるだろう。 願ってもない機会ではある、けど。 「あの……」 チラッと、横目で傍らの市ノ瀬を見る。 そもそも、高藤の部員が聞いて、いい話ではないだろう。自分のところのエースが、他校の生徒に教えるのだから。 しかし、 「……大丈夫ですよ、私も聞いてますから」 市ノ瀬は軽く微笑みつつ、了解している旨を告げた。 「そ、そうか」 まさか真藤さんの独断ではないと思ってたけど、部員が聞いているのならば、よしとしよう。 「え、ええとそれじゃ……おーい、明日香ーっ」 みさきと話していた明日香に声をかける。 「は、はい、なんですかっ」 「明日から、指導してくれる人が一人、増えたから」 「え? えーと、どこにいらっしゃるんですか?」 黙ったまま、真藤さんの方を手で示す。 「え、ええっ〜?!」 「というわけだ、倉科くん」 「え、えっとその、高藤の練習もあるしその、あの、いいんですかっ?!」 「もちろんだよ、よろしく頼む」 案の定、オロオロする明日香をよそに、真藤さんは笑って挨拶と握手を交わしたのだった。 「さ、それじゃ早速、鎧の隙間をいかにして縫うか、その作戦を考えていかないとね」 「あの、真藤さん」 「なんだい?」 「ありがとうございます」 「ははっ、いいよそんな」 「これは君たちの戦いでもあると同時に、僕にとってのリベンジマッチでもあるからね……」 「はい……」 そうだ、真藤さんだって、乾にあんな負け方をして、悔しくないわけがない。 その気持ちを含めて、俺たちに力を貸してくれるんだ。 ありがたいのと同時に、プレッシャーと責任も感じる。 「……それに」 「それに?」 「神様から頼まれたら、とてもじゃないけどイヤだとは言えないよね」 「…………?」 「よくやるよお前」 「なにが?」 「コーチの件だよ。仮にも他校の子だぞ? いきなり話をつけにいくなんて、乱暴すぎるだろ」 「ちゃんと対価を用意しておいたさ」 「なっ、お前まさか……こないだ言ってた北欧リーグの件」 「真藤ぐらい楽しんでやれる奴なら、海外へ連れて行けば面白いと思わないか?」 「……当然、先方には連絡済み、学校の手配も完了済み、か」 「フィンランドは寒そうだ。冬になったら毛布でも送ってやるかな」 「……お前には参ったよ」 「それで、見立てとしてはどうなんだ?」 「どう、というと?」 「明日香ちゃんは勝てそうか、あいつに」 「正直、わからん」 「……そうか」 「伸びは確かにいい。あれで結構負けず嫌いだし、店先で売れるほど根性は有り余ってる」 「だが、どこかで天井はやってくる。突き抜けて空に行けるかどうかは……あいつ次第だ」 「晶也か?」 「今のあいつは周りが見えていない。何かやらかした後に、どう持ち直せるかだろうな」 「……言わないんだな、そのことを」 「経験しないとわからんだろう。それに、倉科と一緒に失敗してこそ、意味がある」 「もっとも、駄目なコーチのせいで、深手を負わせてしまう例もあるから、難しいけどな」 「葵、おまえ……」 「……雲が出てきた。今日は一雨くるかもしれないな」 「よし、倉科くん、こい!」 「はいっ!」 明日香は感触を確かめるように、シザーズ、蛇行を始める。 シザーズはドッグファイトで背後を取られた時に、相手を前に押し出すための技だ。 向かって行く時にする技ではないが、明日香はそれで向かっていく。 「っ……!」 すぐに角度が鋭くなり、それは蛇行よりもジグザグと表現すべきレベルに達する。 真藤さんはその様子を、落ち着いた様子で見つめている。 そして明日香は五芒星を描くように縦横無尽に飛び始めた。 超急角度の連続シザーズ。 「っ……!」 何度か折り返した後、明日香が不意に、真藤さんの方へめがけて突進した。 猛スピードで、真藤さんの死角を取りに行く。 「よし、いいフェイントのかけ方だ、しかし……!」 「きゃっ!」 真藤さんは、明日香の到達する地点を予測していたかのように、身体を捻りつつ軽やかに上昇した。 「最後、攻撃をしかける少し前に、視線がこっちに来ていたね」 「い、行っちゃってましたか……」 「僕でわかるってことは、乾くんはまず見逃さないよ。市ノ瀬くん、どうだった?」 「はい、最後の折り返しの際、少しですけど身体の向きに変化がありました。あれは動きを悟られるように思います」 「……と、いうわけだ」 「あ、あうう……ダメダメですね」 「最初からできたらおかしいよ。今やってることは世界レベルの技術だからね」 「じゃあ、次は動きを悟られないよう、あと視線にも気をつけてやってみようか!」 「は、はいっ!」 「はー、すごい気合入ってるね、真藤さん」 「そうだな、指示も的確だし、欠点が一つ一つ解消されてる」 真藤さんが練習に参加するようになって一週間が経った。 当初思っていたより、真藤さんはかなり熱心に、明日香に対しての指導を行ってくれた。 「日向くんの考えたジグザグ攻撃、上手くいくといいね」 「真藤さんがいるからこそできる技だけど、それだけに成功すれば大きいからな」 乾の堅い守りを突破するために、まずは自らを囮にして、揺さぶりをかける。 要はフェイントの延長なのだが、そこに連続性とハイスピード、そして急速転換を用いて、攻撃の出所をわかりにくくする。 やり方はシンプルだが、センスと技術力があれば最強の攻撃法にもなり得る、プロの技術だ。 「乾は絶対に進化してる」 「えっ?」 「鳥かごを俺たちの前でやってみせたのは、もうこの技は見せてもいい、と思ったからだろ?」 「あー、そっか、そうなるよねえ」 「つまりは、こないだの真藤さんのやった仮想乾から、更に何かを仕掛けてくる可能性が高い、ってことだ」 もちろん、それが何なのかはまだわからないけど。 「だったら、鳥かごぐらいはさっさと抜けられなきゃ、ってことよね」 「そういうこと」 期待を込めつつ、上空で飛び回る明日香を見る。 「明日香がこれを会得すれば……戦えるはずだ」 今はまだ動きに戸惑いもあるし、フェイントのかけ方に難もあるけれど。 この数日の上達ぶりを見れば、実に楽しみだ。 「おつかれさまでしたぁ〜……」 「おつかれ明日香、本当におつかれ」 足下を少しフラつかせつつ、明日香が歩いてくる。 「聞いてください、晶也さん!」 「今日はついに、真藤さんからポイントを取りましたよ!」 「ああ、見てたよ。かなり上手く悟られないよう動けてた」 「はい、このままもっとポイントを取れるようにがんばりますっ」 「あーすーかー」 「ひっ……み、さきちゃん……」 意地の悪そうな顔をしたみさきが、明日香の腕を掴む。 「休憩のあとはあたしたちの番ね!」 「更なる速度を以て倉科を倒しに行くぞ!」 「わたしだって常に明日香先輩の背後を狙ってますからね!」 「あ、あうぅっ……たーすーけーてー……」 ズルズルと引きずられ、明日香が去っていった。 「がんばって鍛えてやってくれよー」 明日香と入れ替わりに、真藤さんが近づいて来た。 「真藤さん、お疲れ様でした」 「お疲れ。鳶沢くんたちも熱心にやってるみたいだね」 「ええ、真藤さんのアドバイスで、三対一練習がすごく効率的になりましたから」 真藤さんの提案した『武器』の開発には、三対一練習で得られる瞬発力、とっさの判断力が必要だった。 なので、練習を前半と後半に分けて、後半をこれまでの三対一練習にしたのだった。 「僕は何もしてないよ。簡単なポジショニングの話と、あとは役割分担を明確にしただけだ」 「それが何より大切だったんです」 実際、担当が更に明確化されたことによって、皆生き生きと動くようになった。 明日香のための練習であるのと同時に、皆それぞれの技術向上にも繋がっている。 「まあでも、久奈浜のみんながちゃんとしてるのもあると思うよ。だから安心して……」 「きゃーーーーっっっっっっっ!!!!」 その時、後方の空で叫び声が上がった。 「まっ、真白ちゃん、だいじょうぶっ?!」 「空中でグルグル回ってるが、新しい技か何かか?」 「真白ぉ〜、あんたまたバランサーONにするの忘れたでしょ?」 「ごめんなさいぃ、設定直す時にどうしてもうっかり〜っ」 「…………」 「…………」 二人して苦笑いする。 真白には一度、メンテナンスの講習を正式に受けさせる必要があるな……。 「それにしても、今日は有意義だったよ」 「そうでしたか」 「ああ。倉科くんは間違いなくセンスがある。毎日来ていると、それがはっきりわかるね」 「一度の失敗を絶対に次に残さない。あんな選手は初めて見たよ」 「真藤さんから見ても、そうなんですね」 「日向くんが夢中になるのもわかるね」 妙にニヤニヤした顔で、真藤さんが言う。 「念のために聞きますけど、選手として、ですよね?」 「おや? 他に何かあったかな? 僕には想像できないけれど」 ……くっ! 妙な誘導に引っかかった。 「それが何かは、また今度ゆっくりと聞こうかな。今日はこれで引き上げることにするよ」 「は、はい、お疲れ様です……」 変なところで失点してしまった。 まあ、確かに明日香は選手として、そして教える側としてすごい魅力があるけれど……。 「あの、日向さん」 「は、はいっ……あ、市ノ瀬、か」 「今日は私も失礼しますね」 「あ、それはもう、はい」 「…………」 「……なにか?」 「選手として以外に、何かあったんですか?」 「キミもそこ突っ込むの、ねえ」 「うへへ、ボス、頼まれてたもの、手に入りましたぜ」 鞄からUSBメモリを取り出し、窓果が不敵な笑みを浮かべた。 「そうか、よくやったぞ窓果」 「えへへ、そうでもないですぜ」 窓果はメモリを渡したあと、両手の平をこちらを向けた。 「ご褒美は大会で明日香が優勝したらな」 「うぇっ、それちょっとハードル高すぎじゃない?」 「いーから。ほら、見るぞ早く」 「わかったわよ。ほら、日向くんの座ってる方に差し込み口があるから」 二人の前にはノートパソコンが一台置いてある。 その左側に、空いているソケットがひとつあった。 「よし、ここか」 差し込むと、日付の書かれたフォルダーが出現し、その中に、映像ファイルが一点入っていた。 「これだな?」 「そうだよ。クリックした瞬間、わたしのすっごいエッチな映像が」 「少しは躊躇してぇ!」 「いちいちうるせえ! ……あ、出てきたな」 現れたのは乾沙希だった。 「どれぐらい前だ?」 「ちょうど1年前だね。去年の夏の大会だから」 と言っても、これは海外の大会で、つい先日行われた、日本のものではない。 乾沙希の戦いぶりについてもっと知ろうと、窓果の情報網を駆使し、探し出して貰ったのだ。 「わたしの情報収集能力を少しは褒めていいのよ?」 ……なんかムカつくから口に出しては褒めない。まあ、確かにありがたいとは思うけど。 「あ、これは」 乾だけが映っていた映像に、他の選手の姿が入り出した。 「ドッグファイトだねえ」 お互いに牽制しながら、入り込む隙を窺っている。 どちらもなかなか、警戒して手を出そうとしない。 「相手のイギリスの選手、男なんだ」 「そうだな」 「背も高いんだね。そのわりに動きも速くて、戦いにくそう」 「アンソニー・フロックハート。欧州学生選手権で3位に入った選手だ」 「へえ……日向くん、めっちゃ詳しいんだね」 「まあな。あ、ほら、仕掛けてきたぞ」 フロックハートが持久戦に耐えきれず、乾がわずかに左へと動いたのを見計らって、次のブイへと突進したのだ。 「あ、でもこれ、やられちゃう」 思わず窓果が言う。 確かにタイミングは悪く、乾なら止めてしまいそうな動きだった。 「わざと上に避けて急降下してタッチか、それとも」 何通りかのシミュレーションの可能な、まさに得点パターンと言っていい状況の中で、 「ええっ?!」 「なっ……!」 乾が選んだのは、あまりに予想外の行動だった。 「サードラインへのショートカット……!」 そう、乾は明らかに取れるポイントを取らず、まるで興味がないかのように、サードラインへ移動したのだった。 ポイントを取ったフロックハートの方が、不思議そうな表情で乾の方を見ている。 「……この頃からやってたってことか」 「え? なにを?」 「従来のFCとは違う何かをだよ。ほら、見てみろよ」 映像の方を指差す。 その先には、サードラインの上空で、威圧するように相手を見下ろしている乾の姿があった。 「おそらくだけど、この試合、乾は勝負を捨ててる」 「負けてもいいってこと? でも、なんで……?」 「そうしてでも確証を得たい何かがあったんだろう。だから、真剣勝負の大会の場で、それを試した」 フロックハートはヨーロッパの学生選手の中ではそこそこ名を知られた選手だ。 しかし、いわゆるトップランカーではない。言い方は悪いが、乾にとってはラスボスになりえないのだ。 「……はあ、しかしこれ、相手もイヤだよねえ」 「だろうな、実際、嫌な顔してる」 試合終了のホーンが鳴り響いたあと、カメラは勝者であるフロックハートの顔を映した。 そこには、勝者としての喜びの顔はなく、得体の知れない物に襲われた、恐怖に支配された顔が残っていた。 「1年前からこんなことをしていた選手と、戦わなきゃいけないのか……」 「なかなか、厳しいねえ。まあ、やりがいはあるけど」 明日香も俺も、更にもっと頑張らないと、この選手を超えることは不可能だろう。 まだ更に強い覚悟が必要になりそうだ。 「というわけで窓果」 「なに?」 「次の情報も期待してるぞ」 「うーん、それなんだけどね……」 窓果は妙に歯切れの悪そうな口調で、 「ここから先はガード固くて、映像とかほとんど残ってないんだな……」 「げっ、マジかよ」 「うん。ちょっとだけ残ってたヨーロッパの試合のも、これがギリギリ一個だけあったって感じ」 「なんか、あちこちで消されてるみたいね、乾さんの試合映像」 ……なんてこった。 確かに、特殊な戦法を使っている以上、乾は戦いの軌跡をあまり知られたくはないだろうけど……。 そこまで徹底しているとなると、情報戦で勝つのは相当厳しいということになる。 「あとはもう、海凌に潜入でもしないと無理だろうね」 「それはまた難しい話だな……」 「ただいまー、あれ、もう練習終わり?」 「うん、明日香もヘットヘトだし、時間もキリがいいからこの辺でってことにした」 「そか。お疲れ様、明日香ちゃん」 「…………」 「……え、え? あ、う、うん、お疲れ様です!」 「だーいぶ、お疲れだねえ……」 「明日香先輩、今日は調子良かったですからね」 「いつも以上にガンガン飛ばしてる感じだったな」 「あれ、そういや晶也は?」 「白瀬さんに相談があるって先に帰ったよ。明日はまた同じ時間だからよろしく言っといてって」 「ふーん……了解〜」 「お疲れ様でしたっ」 「おぅ、お疲れ!」 「は、はぁい……」 「…………」 「セカンドからサードへのルートを早めに選択して、ポイントを捨ててでも先行する」 「で、乾はおそらくここで仕掛けてくるから、それに対してこう反応を……」 ホワイトボードに予想される動きを書きつつ、こちらが上回れる要素を探していく。 「……ダメだ、限界がある」 ペンを置いて、腕組みをする。 想像上の乾ならば、いくらでも対策は取れる。シミュレーションは幾通りにも組んでいて、それに沿っての練習も取り入れている。 でも、こと本人の動きがわからない以上、実戦を睨んでの練習は、想像がメインにならざるを得ない。 「ふう……」 椅子にもたれかかり、天井を仰ぐ。 頭の中には、昨日の乾の映像が鮮明に残っていた。 「白瀬さんも知らないとなると、お手上げだよな……」 世界規模でFCに詳しい白瀬さんをしても、乾沙希の情報はほとんど得られないとのことだった。 「今はひたすら、練習あるのみだよなあ」 情報が無い以上、そこに囚われていても仕方がない。 こちらには、前年のチャンピオンもいれば、世界で戦った経験のある人間だって、サポートにいるのだ。 練習する上で困るようなことは、無い。 「おっす、コーチ」 部室に、みさきがフラッと顔を出した。 「おう、みんな揃ったか?」 「もうウォーミングアップ始めてるよ」 「そうか、じゃあすぐに行く」 「うん」 みさきは答えて、なぜかその場にとどまっていた。 「どうした?」 「晶也、余計なことかもしんないけどさ」 みさきはちょっと心配げな顔で、 「明日香のこと、ちゃんと見てる?」 「え?」 ……なんだ、急に。 「見るもなにも……毎日、一緒に見てるじゃないか」 「んー、まあそうっちゃそうなんだけど……」 「ま、そーだよね。うん、気にしないで」 「はあ……」 なんだったんだ、今のは。 そんなことを言うからには、理由があるんだろうけど。 「んじゃいこっか、海岸」 「ああ、そうだな」 結局、みさきがその続きを言わなかったので、話はそれで終わりになったのだった。 「よし、んじゃ昨日の続きで、少しずつペース上げていくよー」 「わかりました!」 「おう!」 「……お願いしますっ」 前半の真藤さんとの練習が終わり、明日香はみさきたちと三対一の練習に移っていた。 ほんの一週間前からしても比べものにならないぐらい、明日香の反応速度は格段に上がっていた。 「日向くん」 「真藤さん、お疲れ様です。今日はどこまで進……」 言いかけたところで、言葉を遮られた。 「倉科くん、ちょっと様子を見た方がいいかもしれない」 「え?」 「動きは普通だったけど、話しかけた時の反応が鈍かったし、呼吸もいつもより乱れ気味だった」 「明日香が……?」 確かに少し疲れた様子を見せることはあったけれど、そこまで言われるとは、ちょっと予想外だった。 「おーい、みさ……」 一旦、練習を引き上げさせて様子を見るため、みさきに声をかけようと空を見上げた。 その瞬間だった。 「あれっ、ちょっ、明日香……?!」 いつもと明らかに違うトーンの、みさきの声が聞こえた。 「一体何が……明日香っ?!」 見上げると、明日香が空中でぐったりと頭を垂れていた。 「晶也ーっ! 明日香が……っ」 「今行く!」 すぐにメンテ用の機材の入った箱を開き、緊急と書かれたスイッチを手に、飛び上がった。 明日香のちょうど真下まで移動すると、 「明日香のグラシュのスイッチを緊急停止させる、念のためバックアップを頼む」 「ば、バックアップって?」 「一旦下に降りて、防護用のネットを持って海面で広げておいてくれ」 「わ、わかった……! 部長、真白っ」 「おう!」 「はいっ……!」 三人が急いで海岸へと降りていく。 皆がネットを持って再度飛び上がったのを確認して、 「大丈夫か、明日香……!」 「あれ……わたし、練習してた……はずなんですが……、どうして晶也さん、が……」 良かった、意識はあったか。 ホッとして、張っていた気が一瞬だけ緩んだ。 「みさきたちと練習中に、明日香の身体がフラついたんだよ」 「そ、そうなん……ですか……すみません……」 「大丈夫、今はしゃべらなくていいから、身体を楽にして」 緊急用のリモコンを使い、明日香のグラシュの出力を少しずつ慎重に下げていく。 反重力子の出力を少なくしていけば、当然、地球の重力に引っ張られて明日香は下がっていく。 ブゥン……と微かな機械音が響き、明日香の身体が、ゆっくりと下降し始めた。 「よし、そのまま……」 反重力子の発生が少なくなれば、触れても反発は少なくなる。 つまり触れても反動で飛ばされる、というようなことはなくなる。 触れた場所に軽くビリリッと振動が走るだけだ。 「っと……」 明日香の身体を抱きかかえた。 そのままゆっくりと下降しつつ、海岸の方へと進んでいく。 「あの……わたし、いったい……?」 「明日香、今はしゃべらなくていい、じっとしてて」 「は、はい……そうしま……す」 明日香はちょっと疲れたようにつぶやくと、再び目を閉じて、身体の力を抜いた。 「…………」 「……ごめん」 俺はまともに明日香の顔を見ることができず、申し訳ない思いをずっと抱き続けていた。 「うん、そう。ただの疲労だって。別に病気とかそういうのじゃないからって」 「……そっか、ありがとうな、付き添ってもらって」 「いいよいいよ、こういう時のマネージャーでしょ」 あのあと、練習を急遽中止にして、明日香を病院まで連れて行った。 そして明日香のことはひとまず窓果に任せ、俺はひとりで部活へと戻った。 なので、明日香の状態について聞いたのは、夜になってからのことだった。 「せっかく、みさきが言ってくれたのにな」 「みさき、何か言ってたの?」 「練習の前、ちょっと心配してたんだよ。その時に、もっと突っ込んで確認すべきだった」 ちゃんと見てるかってことは、明日香の様子を把握してるかってことだ。 みさきはきっと、明日香の細かい変化に気づいていたんだろう。 「まあ、仕方ないよ。本人ができるやりますって言ってるし、なかなか周りが止めにくいじゃない、そういうのって」 「でも、それを止めるのがコーチだよ」 「そりゃね。でも、日向くんだってベテランじゃないんだし、すべてにおいて完璧ってわけにはいかないよ」 「…………」 「明日香ちゃんも単なる疲労だったんだし、まあ、次から気をつけようねってことでいいんじゃない?」 「……わかった、そうするよ」 「よし、じゃあこの話は一旦おしまい! 明日のことはまた連絡するね〜」 「ああ」 「……つっても、ショックだよ」 明日香は、ひとまず練習を休ませることにした。 戻ってくるまでの間に、色々と考えよう。 もっと明日香自身に気を配らないと、取り返しのつかないことにもなりかねない。 そして翌日。 俺は皆を練習に出すと、一人で職員室へと向かった。 「連中はどうだ、ちゃんとしてるか?」 「明日香に専念する日が続いてたからか、今日は普段通りというか、それぞれに練習してる感じです」 「……ちょっと、というか、かなり、気は抜けてしまった感じになってますが」 「はは、そうか。まあそうだろうな」 さも当然という感じで、先生が答える。 「で、報告はそれだけか? 他になにかあるんだろ?」 ……先生は、俺に監視カメラでも付けているんだろうか。 何か伝えたい、話したいと思って訪ねた時は、別の話を持ち出しても、必ずこうして追いかけてくる。 息を大きく吸って、 「ちょっと、明日香を休ませようかと思ってます」 「ほう……?」 「あまりに無理をさせ過ぎました。明日香がやりたいと言うのをそのまま信じて、際限なく練習を続けさせたのは、俺が全面的に悪いです」 「だから……これまでよりも少し休むように、言います」 「…………」 先生は俺の答えにYESともNOとも言わず、ただジッと、俺の方を見つめていた。 そして、静かな口調で、 「なあ、晶也」 「なんですか、改まって」 「お前、倉科のことをどう見てる?」 「どう……見てるって」 明日香は、とても素直で、明るくて、FCも飛ぶことも大好きな子だ。 練習というとこっちが止めるまでやり続けるし、飲み込みも早いし、センスもある。 「……というような、とこでしょうか」 でもそんなことは、先生だって知ってるはずだ。 説明しながら、なんでそんなことを今更聞くんだろうと、疑問に思う。 「……それだけか?」 「それだけですよ。他は別に取るに足らないことばかりで」 「――化け物」 「えっ?」 「あいつは化け物だ。FCと、空に取り憑かれてる」 「……そう、思ってるんじゃないのか?」 先生は一体、何を言っているんだ? 「先生、いくらなんでもそれはちょっと」 「乾が乗り込んできた時、似たようなことを言ってたじゃないか」 「…………」 確かに、近いことは言った。 それどころか、あの大会の最中、あの明日香の表情を見たその瞬間においては、俺も恐れから、同じ感想を抱いていた。 ――化け物、と。 「……はい、そう思っている部分は、あると思います」 先生は俺の言葉に微笑むと、 「じゃあ次の質問だ。お前、倉科の好物、知っているか?」 「好物……?」 えっと、たしか明日香は……。 「いちごと、あとはなんだっけ、トビウオだったかな」 「よし、じゃあ嫌いなものは?」 「嫌いなもの……は」 なんだったっけか。聞いたような気もするし、聞いていなかったような気もする。 「家族構成は?」 「た、たしか一人っ子だったような」 「得意な教科は? 好きな漫画は?」 「あの、その」 「ここに来る前はどこに住んでいた? 特技は? メールと電話はどちらが好き? 家に帰ると何をしている?」 「先生、あのっ……」 「……落ち込んだ時に、して欲しいと思ってることは?」 「……っ」 ……そんなの。 そんなの、わかるわけないじゃないか。 「わかるわけないだろ、って顔をしているな」 「そんなつもりじゃ」 「いや、そんな顔をしてたよ。そんなことを知る必要なんか、あるのかって顔も、な」 「…………はい、ちょっとしてました」 「わかるよ」 「えっ」 「私だって、昔はそう思っていたからな」 「戦い方と、特性と、あとは何を武器にできるかがわかれば、それ以上は知らなくていいと思っていた」 「今は、そう思っていないということですか?」 「今は、じゃない。お前にはそう思って欲しくないんだ」 「俺に、ですか」 「ああ」 先生は、カップのコーヒーを一口だけ飲む。 「お前はコーチとしてはよくやってると思うよ」 「そんなことないです。今の話を聞いたあとだと、なおさら」 「いや、いいんだよ、コーチとしては。本来は個人に対して過度に入り込んではいけない役割だ。その点で、お前は合格なんだよ」 「相手が、あの乾沙希じゃなければ、な」 乾沙希……。どうしてここで、その名前が出るんだ? 「……それは、どういうことですか」 「まさに、今言った通りのことだよ」 「あのイリーナというセコンド……。おそらく、乾沙希のことを、誰よりも知り尽くしている」 「性格、嗜好、経歴、習慣。すべて把握した上でじゃないと、あんな完璧な選手は作れない」 「ちょっと待ってください、その話の流れだと」 ……ある意味、これは。 知らないことよりも、酷い話になる。 「乾沙希に勝つため、俺に、明日香の内面まで入り込めって、そういう話なんですか?」 先生は、俺の目をじっと見据えていた。 笑顔ではなかった。優しい表情でもなかった。 ……ああ、この目。俺は覚えがある。 確か、あの時の。 「それを手段にしろなんて、私が言うと思うのか?」 怒り、ではなかった。どちらかというと、少し寂しそうな。 「…………」 「いえ、先生は……葵さんは、絶対に言わないと、思います」 ふっ、と。 先生の表情が和らいだ。 「……ありがとう」 ……そうだよ、何を言ってるんだ。 先生が、そんなことを言うわけがないじゃないか。 俺が拒絶した空で、ずっと待っていると、言ってくれた人が。 「倉科明日香は、久奈浜学院FC部のエースであるのと同時に、2年C組出席番号12番の生徒でもあるんだ」 「同じく、2年C組出席番号20番、日向晶也のクラスメイトでもある」 「……はい。でも、それがなにか」 「恐いんだよ」 「このまま、お互いのことをよく知らないまま、精神的に追い詰め合っていくことが、な」 「っ……」 言われてみれば。俺は、明日香という人間のことを、ほとんど知らない。 毎日、部活で顔を合わせても、FC以外のことを、ほとんど喋ることはない。 それは、明日香が喋らなかったから、俺が聞かなかったから。 干渉しないのならば、特に聞く必要もない。俺も、何も話すこともない。 「そんな状況なのに、倉科がどう思っているか推察して、対応を考えるのって、とても危険なことじゃないか?」 「私は、それが恐いんだよ」 「…………」 言葉も無かった。 明日香が倒れて、無理をしているから休ませよう。 それは、コンディションから考えて、コーチとしては別に間違ってはいない判断だ。 でも、それは明日香の本心に沿ったものなのか? ただ、ヒアリングをすればいいだけのことなのか? 本人のことを理解すらしようとせず、作戦がどうの、武器がどうのと、上っ面の思考ばかりじゃないか。 「勝つために倉科と仲良くなれとか、そんなことは言わない。だが、今のままじゃ、お互いに悪い方へ向かうだけだ」 「要は楽しくやれってことだ、晶也」 何度言われたか、わからない言葉。 でもまた、先生は、同じことを俺に言った。 「倉科は、FCの選手であるのと同時に、お前の同級生だ。楽しいことを忘れたら、それはもう部活じゃない」 「……はい」 「ふたりが楽しく飛ぶことで、あいつらを見返してやれ。お前たちなら、いや、お前たちしか、できないはずだ」 楽しく飛ぶことで、乾に勝つ。 あの夏の大会のあと、強く願ったことだった。そして、あまりに高いハードルであることも実感した。 ……でも、やるんだ。 「話は以上だ。今日は見舞いに行くんだろう?」 「ええ、そのつもりです」 「じゃあ、早く行ってやれ」 「……はいっ」 答えて、大きくひとつ、礼をした。 そして、振り返ってそのまま走り出した。 なんだか、今の表情を見られたくなかった。 完全に、『葵さん』を前にした時の顔になっていたから。 「……晶也、すまない」 「人のことを言えた義理じゃないんだがな。私ができなかったことを、お前に押しつけてしまった」 「……でも、お前ならできると思ってるよ」 「私と同じ道だけは、通らないでくれ」 「はーい」 インターホンを鳴らすと、落ち着いた感じの声が家の中から響いた。 おそらく、明日香のお母さんだろう。電話した時に、すごく朗らかに挨拶をされた。 部員名簿の保護者欄に『倉科京香』って書いてあったけど、おそらくこれが、お母さんの名前なのだろう。 「すみません、先ほど連絡した日向ですが」 「ああ、日向くんね。どうぞ上がって。鍵は開いてるから」 「はい、失礼します」 「ごめんなさいね、わざわざ来て貰って」 「いえ、そんな」 お母さんの京香さんは、明日香にそっくりというか、そのまま大人にしたようなきれいな人だった。 「もう、朝から学校行くって聞かないから、さっきも無理矢理ベッドに押さえつけたのよ」 性格もなんというか、明日香の元気な感じをそのまま大人にしたような感じの人だった。 「……そうなんですか」 いつもの明日香の様子を思うと、なんとなく予想がつく。 「あの、あす……いえ、倉科さんは、今起きて……」 「あら、うふふ。名前で呼ばないの? 部活ではそういう決まりだって聞いてるけど」 「……え?」 「部内の結束を高めるため、なんでしょう? 親しそうでいいなって思ってたのに」 「そ、そうですけど、部活の外までは、さすがに」 「いいわよ、ここは外じゃないし。わたしも晶也君でいいかしら?」 「え、あ、はい」 ……いきなり主導権を握られたような気分だ。 「明日香ー、入るわよ」 「もう、おかあさん、おとなしく寝てるからだいじょう……」 部屋に入った瞬間、明日香は不満そうにつぶやき、 「………………えっ?」 「えええええええええええっっっっっっ〜〜〜〜〜!!!!」 「な、ななななななな、なんでまさや、いや、ひな、日向くんが来てるんですかーっ!!!」 「あら、晶也君が来るわよって、さっき言ったじゃない」 「きょ、きょきょ今日、しかも今すぐ来るって言ってなかったじゃない!!」 「……っていうか、なんでおかあさん、名前でしかも君付けで呼んでるの……」 「へえ、そうだったかしら」 「そうだよ〜っ!!」 「じゃ、帰ってもらう?」 「えっ?」 「風邪引いてるんだし、無理して会わなくてもいいわよね」 「……………………」 「ちょ、ちょちょちょっと待って!!」 「ふふ、やってるやってる。病み上がりのくせに大掃除〜」 「あの……本当に、俺帰った方が」 「いいのよぉ、あれで絶対に嬉しいはずなんだから」 「は、はあ……」 「は、はあっ……はあっ……はあっ」 「だ、だいじょうぶです、入ってくださいっ……」 「明日香、ちゃんとベッドで寝てなさいよ、部屋の真ん中で仁王立ちじゃ、病人らしくないわよ」 「も、もぉ〜、おかあさんのせいでもあるのに〜!」 不満を言いつつ、布団に潜り込む音が聞こえる。 「はい、じゃあわたしはここで。ごゆっくり〜」 「はあ……」 結局、最初から最後まで、ずーーーっとペースを持って行かれたままだったな……。 ひとまず気を取り直し、部屋のドアを開ける。 「おじゃましまーす……」 初めて入った明日香の部屋。 掃除のおかげなのか、いつもそうなのかはわからないけれど、明日香の部屋は比較的きれいに片付いていた。 みさきの部屋などに比べると、圧倒的に女の子っぽい感じがする。 いちごグッズが妙に多いのは、とてもそれらしい気がした。 「あ、あのぉ〜……」 「あまり、部屋の中のもの、見ないでくださいぃ〜……」 「わ、ご、ごめんっ」 思わずガン見してしまったことを詫びて、明日香の方へ目をやる。 「い、いらっしゃい……です……」 明日香は思いっきり緊張した面持ちで、ベッドの上に寝ていた。 ちょっと熱っぽい感じなのは、発熱のせいだけじゃなく、きっとさっきの緊急大掃除のせいだろうと思われる。 「もう、さっきはすみません、おかあさんがなんか急に……」 「いや、俺の方は別にいいんだけど……」 明日香は恥ずかしそうにもじもじしているが、俺の方は別の意味で少し恥ずかしかった。 というのも、明日香は熱がまだあるのか、パジャマの胸元を大きく開けていた。 それが、本人の胸の大きさとも相まって、とても俺としては困った画となって、映っていた。 (目のやり場に困るんだよなあ……) 明日香は気づいていないというか、気にしていないようで、俺の方を見て邪気のない笑顔を浮かべている。 もう、これは気にしないことにしておこう。したら、色々と終わりそうな気もしてくる。 (……しかし、こんなに大きかったか、明日香) 言った先からこれだ、俺は! 「あの、晶也さん?」 「わっ、あ、あの、そのっ!」 慌てて体裁を取り繕うと、話題を変える。 「ぬ、ぬいぐるみとか多いんだな」 「はい、けっこう好きなんで、集めてます」 枕元にも、トビウオのゆるキャラみたいなぬいぐるみが置いてある。 ……しかし、会話のとっかかりがこことか、ちょっとコミュニケーションが下手すぎないか、俺。 「あ、あのさ」 「は、はいっ」 「明日香って、その、家に帰ってきたら何してるの?」 「え、えっ?」 「ほらその……趣味とか」 ……最悪だ。 本当に何考えてるのかわからないぐらい最悪だ。 こんなに俺ってコミュニケーションとれない奴だったのか? 趣味って……お見合いでもするつもりかよ、もう……。 「趣味ですか、えーっと、そうですね……」 「あ、マンガ読むの好きなんで、読んでます! お父さんが昔のマンガとか集めるの好きなんで」 「へ、へえ、じゃあ最近のよりも、昔のマンガの方が詳しかったりするんだ」 「そうなんですよ、すごい熱血ものとか、根性ものとか、そういうのばっかり読んで、育ちました」 「そ、そっかー」 明日香、ありがとう……ありがとう。 俺のありきたりなネタ振りに、こんなに答えてもらえて、その優しさが身に染みる。 (って、そうじゃないだろ、俺は!!) 今話している明日香は、言うなればよそ行きの明日香だ。 そうじゃない。そうじゃないんだ。 (明日香と、話したい) FCがどうとかじゃないんだ。もっと、心から話すことを、しないと。 でもその前に……。 「あのさ、明日香」 やっておかなければいけないことがあった。 「はい?」 明日香の返事と同時に、俺は思いっきり頭を下げた。 「その、ごめんなさいっ!」 「ええっ?!」 「俺がもっと、ちゃんと明日香の体調とか見てたら、倒れる前に休ませてあげられたのに」 「それができなかったのは、俺のせいだ」 そもそも、明日香とちゃんと関わってなかったから。もっと親身になって考えられなかったから。 だから、明日香が倒れるようなことになってしまった。それだけはまず、素直に謝らなければいけない。 「違いますっ!」 「えっ……」 明日香は俺の言葉に、首をブンブンと横に振ると、 「ぜんっぜん、そんなことないです、晶也さんは何ひとつ悪くないですからっ!」 「悪いのは、体調が最悪にもかかわらず、いけますいけますって言ってはしゃぎ回ってた、わたしです、わたしが全面的に悪いですからっ」 「え、いや、そんなことないって! 明日香は思いっきり練習するのが役目で、俺はそれを監督するのが……」 「そ、そうかもしれませんが、わたしも自己管理できなかったのはダメです、ぜんぜんっ」 「いや、俺だって自分で考えて……」 言いかけたところで、二人揃って、目を合わせる。 「ぷっ……」 「はは……」 そして、二人して笑った。 「あはは……」 「ごめんなさい、変なとこで一生懸命で、わたし」 「いや、俺の方こそ……」 どうやら、俺も相当な意地っ張りだが、明日香も負けてはいないようだった。 改めて、明日香とこうやって話をして、ちょっと新鮮な気分になる。 「明日香」 「は、はい」 「今の話は痛み分けにするけど、俺が、コーチとしてまだまだ至らないのは確かだ」 「そんな、晶也さんはすごいコーチです……」 「いや、俺はまだ全然足りないと思ってる。だから、もっとちゃんとすることに決めた」 明日香の方を、じっと見つめる。 「もっと、明日香と話そうって、決めた」 「わ、わたしと……ですか?」 「ああ」 先生との会話を思い出す。 俺は明日香を、FCの選手として見ている部分が大きすぎた。 確かにコーチとしてはそうかもしれないけれど、そもそも、明日香が俺にコーチをお願いした理由は、最強の選手になりたいとか、そんなことじゃなかった。 ――もっともっと楽しく飛ぶために。 そんな、基本的なことを、忘れかけてたから。 だから俺は、明日香をもっと知りたい。知った上で、向き合って、コーチをしたい。 もっと楽しく、誰よりも楽しく、飛ぶために。 「今日は、体調はもういいの?」 「はい、熱ももう収まりましたし、あとはおとなしくしてれば、明日には学校に行ってもいいって言われました」 「そっか。じゃあ……よろしくお願いしますっ」 「ひゃ……ひゃいっ、よ、よろしくお願いします……」 明日香の声が妙に裏返る。 しかし、どうにも不自然というか、流れが下手というか……。 俺はこんなことで、ちゃんと明日香と話せるんだろうか。 (ええい、もうぶつかるだけだ!) 腹を決めて、明日香に向かい合った。 明日香は、棚から一冊のアルバムを取り出した。 「わ、ちょっとホコリついてる。ちょっと待ってくださいね」 ホコリをはたいて、ティッシュで丁寧に拭いている。 ――昔の話をしよう。 どちらからともなく、そんなことになった。 知らないことが多いなら、昔のことからゆっくり聞けばいい。 俺も賛成し、まずは定番のアルバム拝見から始まったのだった。 「はい、これです」 明日香がアルバムを開いた。 そこには、明日香が小さかった頃の写真が収められていた。 「ほら、今と全然、雰囲気が違うと思いません?」 「ほんとだ……」 白いワンピースを着た、写真の中の女の子は、姿形こそ明日香だけれど、雰囲気はまったく異なっていた。 どこか怯えるような、伏し目がちの目。柱の陰に隠れようとしている、弱々しい姿。 いずれも、今の明日香からは想像もつかない様子だった。 「これで信じてもらえますか?」 「信じるって?」 「前に、晶也さんにこのことを話した時、信じられないって顔してましたよ?」 「……したっけ、そんな顔」 言いつつも、したような記憶がある。 でも、この写真を見せられたら、信じる他は無い。 「しましたよー。……というわけで、証拠はしっかり提出しました」 「はい、信じます……失礼しました」 「わかって頂ければ、それでよしです」 ……なんか、妙なやりとりだ。 「で、この引っ込み思案でロクに外にも出られない子が、ある出会いをきっかけに、外に出るようになったんです」 「それが、前に言ってた女の子との出会いか」 「はい、そうです」 「で、その子と仲良くなって遊ぶうちに、わたしは大きく生まれ変わることになるわけです」 言いつつ、アルバムの次のページをめくる。 「…………えっ?」 そこには、髪型や顔は同じだけれど、まったく別の雰囲気を持った女の子が写っていた。 ワンピースは動きやすいミニスカートとTシャツに変わり、手にはカブトムシを持って振り回してはしゃいでいる。 「……双子?」 「って、よく笑われます、これを見せると」 明日香は苦笑しつつ、 「もちろん、2枚ともわたしです」 解答を出して、アルバムを閉じた。 「というわけで、わたしの人生は、小さかった頃に大きな革命が起きたんです」 「そうみたいだな……」 これほど大きな変化が起こったのだから、よほどのビッグイベントだったに違いない。 それこそ、革命と言っていいぐらいの。 「――約束なんです」 「約束……?」 明日香は頷き、 「わたしを変えてくれた、その子との、約束なんです」 「ずっと上を向いていること、頑張り続けること、そして、元気でいること」 「いつか、その子と再会した時に、がっかりさせちゃいけないって思って」 明日香は、にっこりと力強く笑って、 「だから、絶対に後ろを向きたくないし、一度決めたことを、やめたくはないんです」 「そっか……」 俺にだって、小さい頃に交わした約束はあった。 でもそれは、今は果たせないまま、押し入れの中でグラシュと共に眠っている。 どんなに強い誓いであっても、それは時間と共に色あせて、弱くなる。 なぜ、明日香はそんなに強いんだろう。 なぜ、強い思いを持ち続けたまま、自分を保ち続けているんだろう。 「明日香は、心が折れる時とか、無いのか?」 「……えっ?」 「FCで言うなら、試合で負けた時とか、練習で思うように飛べない時とか、他にも、生きていればたくさん、心が折れる時はある」 「そんな時、悩んだり、落ち込んだりとか、しないのか?」 でも、明日香は俺の見ている限り、そうなったことは一度だって無かった。 ひょっとして、明日香はそういう部分で、人と違った感情を持っているのかもしれない。 それこそ、化け物としての部分を。 「……晶也さんは」 明日香は、ちょっと不満げな顔で、俺の顔を見つめる。 「ひょっとして、わたしが完璧超人か何かだと思ってませんか?」 「うっ……」 薄々、思っていたことを当てられ、口ごもってしまう。 明日香はその反応をわかっていたかのように、話を続けた。 「わたし、本当はすべてにおいてダメ人間なんです」 「そうなのか?」 「はい、運動神経も鈍いし、頭も良くないし、性格だって、本当はウジウジしてて、内にこもりがちで」 信じられない思いだ。 明日香はなんでも器用にこなすし、テストの点もすぐ良くなったし、それは能力だと思っていた。 でもそれは、他人の勝手な思い込みだった。 「本当にダメづくしだったところに、たったひとつだけ、才能みたいなのを貰ったんです」 「例の子との約束、か」 「……はい」 「上を向くこと、頑張り続けること、元気でいること。そして、好きなものに真っ直ぐであること」 「それを続けている限り、わたしの欠点なんて、どうにかなるって、わかったんです」 「だから、それだけは、誰にも負けないって、決めたんです」 「…………」 すごいな、と思った。 言うのは簡単だけれど、努力し続けることなんて、普通はできるものじゃない。 ましてや、明日香はスタートラインが低いと自覚してる。そこから這い上がるのは、並大抵のことじゃないだろう。 それを、想いひとつだけで続けているのは、本人も言うとおり、明らかに才能なんだろう。 「あ、でも……」 明日香は、ちょっと恥ずかしそうに、言葉を続ける。 「そうは言っても、やっぱりくじけそうになる時は、あります」 「……でも、そんな所、見せないじゃないか、全然」 「はい、人に見せないようにはしてますけど……あるんです」 明日香だって、人知れず悩むことがある。 その言葉に、例外は無いんだろう。 と、いうことは、つまり。 「――FCでも、あるのか?」 正直、これを聞くのは恐かった。 でも、聞かないと、明日香との思いが同じにならない。 「……そうですね」 明日香は少しだけ言いにくそうに、でも、はっきりした言葉で、 「つらくて、きつくて、もう空を見たくないって思うことも、本当に稀にですが、あるんです」 ドキッとした。 いつだって楽しそうに空を飛んでいる明日香。 申し子じゃないかと思うぐらい、ずっと空に居続けた明日香でも、そんなことを思うことがあったなんて。 彼女の口から、空を見たくないって言葉を聞くなんて。 驚いたし、つらかった。 「なので、本当につらい時は、これに助けて貰ってました」 明日香はそう言いつつ、いつもつけている髪留めを手に取った。 羽根の形をした、プラスチック製の髪留め。 特に何ということのない、むしろ、どこか安っぽい感じのものだった。 「これ、例の女の子に貰った物なんです」 「ああ、そうだったのか」 ずっと付けていると思ってたら、そういうことだったとは。 「本当につらくなって、どうしようもなくなったら、これを持ってお願いしたら、助けてやるって」 「その女の子が言ったのか?」 「はい。まだそのお願いをしたことはないんですが……。でも時々触って、思い出すようにしてます」 「結局、名前も聞けなかったですし……」 「そうか、名前も知らないんだな」 言われてみれば、明日香はその子の名前を今まで一度も出したことがなかった。 つなぎ止めるものが他にない以上、この髪留めは、本当に大切なものなんだろう。 『どうしようもなくなったら、助けにきてやる』 本当に助けに来てくれるわけじゃないけど、そういうのって、心の支えにはなってくれるから。 「お守りみたいなものなんだな、それが」 「はいっ……」 明日香はしっかりとうなずいた。 「小さい頃に持ってたものって、当時の自分にとっては、本当にすごく大切なものだよな」 「そうですよね……」 「ああ、だからそれをあげるってことは、その子も明日香のことを、大切に思ってたんだと思うよ」 それぐらい願いの強いものだからこそ、明日香をこれまで助けてあげられる糧になったんだろう。 俺にだって、ちょっとだけわかる。 「晶也さんにも、そういう物があったんですか?」 「うん……思い出せないけど、あった、と思う」 ひとつは、確実にあるけれど。 でもそれは、今はホコリを被って押し入れの中にある。 「明日香が強い理由が、やっとわかったよ」 「ちょっとガッカリしませんでしたか? わたし、実はぜんぜんダメだったってことで」 「いや、むしろ安心したよ。これで明日香を、本当に心から尊敬できる」 「へ……?」 「そ、そんな、わたしなんてぜんぜん、ぜんぜんっ……」 明日香はブンブンと手を振って、思いっきり否定しようとする。 でも俺はもう、知ってしまった。 明日香は、決して化け物なんかじゃなかった。 それは間違いなく、弱さを持った『人』だった。 暗くなった部屋の中、電気をつけることもなく、テレビから流れる映像をぼんやりと見ている。 明日香が言っていた、俺が大切にしていたもの。なんとなく、そのことを思い出していた。 「小さかった頃か……」 テレビからは、昔のアニメの再放送が流れていた。 『天空覇者ゼフィリオン』。やたらとグロかった記憶があるけど、大好きなアニメだった。 「ねだってフィギュアを買って貰ったっけな、確か」 主人公が操る、翼竜を迎え撃つ決戦兵器のフィギュア。すごく大切にして、いつも側に置いていた気がする。 だけど、気がついたら、無くしてしまっていた。 今はどこにやったかも思い出せない。 「そういうものなんだよ、普通は」 小さい時の記憶を、ずっと大切に持ち続け、その時に教わったことを、守り続けている。 そんな恐いぐらいの意志の強さを、明日香は持っていた。 悲しいぐらいの思いを、その糧にして。 ギリギリのところで、頑張っていたんだ。 「俺が助けないと」 情けない、何がコーチだよ。 それより前に、やることがあるじゃないか。 「……俺も、まだ残ってるのかな」 立ち上がって、押し入れの中から、グラシュを取り出す。 もう何度、こうやって出しては眺めたことだろう。 「明日香に……言ってみようか」 刻まれた、誓いの言葉。 書かれた文字をなぞると、不思議と、あの頃感じた空気や、風や、匂いまでもが、蘇るようだった。 約束した時の熱い思いまでもが、じわりと、胸の中に去来するようだった。 明日香の体調もすっかりよくなり、早速練習再開となった、翌日。 俺たちは、真藤さんたち共々、揃って集合していた。 「……それで、日向晶也」 「はい」 「説明、して頂けるのでしょうね?」 「いや、ですから、今日は練習と違うって話、先にしたじゃないですか」 「確かに伺いましたが、それは実戦的な意味であって、作戦や技術についての座学があるのだとばかり……」 「まさかこんな形で、練習時間を奪われるとは思ってもいませんでしたわ!」 「まあまあまあ佐藤くん落ち着いて」 「佐藤院ですわ、部長」 「部長は君に譲ったじゃないか……」 「『名誉部長』だからいいのです。それはともかく、部長だけでなく市ノ瀬さんまでもが一緒になってのこの騒ぎ、一体どういうことですか?」 「ごめんなさい佐藤院先輩、わたしが誘ったばかりに」 「いや、高藤も練習漬けだろうし、たまにはいいかなと思って」 「だからこその強豪ではありませんか! そもそもわたくしは、新部長として責任をもって」 「はいはい、わかったからわかったから。んじゃ日向くん、またあとでね」 「せ、先輩、ごめんなさいっ」 「あ、ちょっと待ちなさい二人とも、まだわたくしはこの日向晶也に言っておきたいことがございまして、ちょっと、押さないで、押さないでって言ってるでしょう、もう!!」 「いやー、しかしまさかまさか、晶也の方から公認サボリとか、長く生きてみるものよねー」 「……なんだよ公認サボリって」 適当な名称をつけるなっての。 「え、だって、別に練習のお休みの日でもないし、いきなり今日はイロンモールに集合って言われたら、そうなのかなーって思っちゃわない?」 「思わない。他のみんなは……来た来た」 「ごめんなさい、ちょっと遅れちゃいました」 「……またグラシュでトラブったのか?」 「違いますよ! 行きがけにひと狩りしようと思ったら、意外に難敵でトラブっただけです!」 「……あっ」 「……真白、明日ペナルティな。で、あとはみんななんで遅れたんだ?」 「わたしは寝坊でーす」 「いだっ!」 「はい次。部長は?」 「おう、朝練やってたら時間になってた!」 「……それは責めにくい理由ですね」 「で、明日香は?」 「え、あの、空飛んでたら楽しくて、それでちょっと、遠回りしちゃいました」 「…………」 「よし、じゃあ今日の活動だが」 「ちょおっとぉ! なんか明日香ちゃんだけ処分が甘いんですけど〜!」 「そーだそーだ! ヤホー質問箱に書きますよ!」 「書くな騒ぐな! いいからちゃんと聞くように!」 「ぶー」 「うー」 不満げな二人をなだめ、話を続ける。 「えー、そういうわけで、明日香が無事に復帰しました」 「よかったねぇー」 「ぱちぱちぱち〜」 「ありがとうございますっ」 「……で、だ」 「とは言え、いきなり部活復帰でフルの練習をするのは、身体にも心にも良くないと判断した」 「なんかわたしの時と待遇が違うなー……」 「わかるわかる、しょせんはずれヒロインだよ、あたしたちゃ」 「……なので、今日は1日オフとし、みんなでイロンモールでのんびりします。以上!」 「うーし、んじゃひとまずなんか食べにいこっか」 「あ、わたしも一緒に行きます!」 「だったら、市ノ瀬さんが教えてくれたお店行こっか! たしかフードコートのとこにあって……」 一気に、三人がバタバタと行ってしまった。 「……行動が速いな、こういう時は」 「えっと、それじゃわたしたちはどうしましょうか?」 「あ、あの……それじゃ」 「よし! 3階にある筋トレ専門店に行くか! 雑誌の後ろについてるようなアヤシゲなものから、ジムで使ってるような本格的なものまで取りそろ……」 「はいはい、青柳くんは僕らと一緒に行こう、ね?」 「ぬおっ、い、いきなりなんだ、こらっ」 「じゃ、青柳くんは借りていくよ〜」 「……え、あ、はい……どうぞ」 「連れて行かれちゃいました、ね」 「……だね」 「…………」 「…………」 「……じゃあ、一緒に回ろうか?」 「……は、はいっ、そうですね」 「ふーっ、行ったみたいだね」 「どうにか。しっかし、みんな察しが悪くない? 普通、この流れになったら気づくってもんでしょ」 「そんなの、説明されないとわかりませんわ。日向晶也と倉科明日香が、そんな仲だなんて……」 「いやいや、そうは言ってないですよ……?」 「不器用なコーチと、不器用な女の子が、もっとお互いを理解できるようにしようかなって、そういうことじゃないですかねー」 「それを普通は『そんな仲』と称するのです! まったく、練習もせずにこんなことを……」 「いや、違うぞ佐藤くん」 「佐藤院ですわ。何が違うのですか、部長」 「選手とセコンド、それにコーチならばなおさら、お互いに信頼関係で結ばれていなければならない」 「それを疎かにしてもいいとは、佐藤くんらしくないんじゃないかな?」 「佐藤院ですわ。……わかりましたわ、部長。わたくしも納得することにいたしましょう」 「わかってくれたようで何よりだ」 「では部長も、セコンドであるわたくしと、理解を深める必要があるということになりますわね」 「それは別にいいかな」 「話が違うではないですか!」 「まあまあ、それより今はあの面白コンビを観察するのに集中した方がいいんじゃないのかな〜」 「うん、それもそうだね。主に日向くんに」 「気になりますね、明日香さん」 「……なんか、思惑が裏にありそうでこわいですね、みんな」 「おれと筋肉だけはいつも正直だぞ、何を言ってる」 「兄ちゃん、ちょっと黙ってて……」 「どうでしょう、か……?」 「わあ……」 いきなり言葉を無くし、凍り付く俺。 説明をしよう。2階にあるセレクトショップで、明日香が試着を始めた。 まあよくあるイベントだよねーと思いつつ待っていたら、予想外にこう、本人のキャラと違う服を着て出てきた。 いや、かわいくていいんだけど、その……。 (胸、やばいだろ、やばすぎだろ!) 「あ、やっぱり似合わないでしょうか……。かなり大人っぽい感じですもんね、この服」 「そ、そうじゃないっ」 「えっ?」 は、反応を返さないと! な、なにか、胸以外で感想を出すんだ、感想を。 こういう時は、正直に言うのが一番いいんだ、うん! 「そ、その……似合ってる、すごく」 「ほ、本当ですか? ちょっと恥ずかしいですけど、なんか、肌とか出てるし……」 FCのスーツはどうなんだよ、って言いそうになったけど、それを言い出すと色々終わるので、言わなかった。 「いや、全然かわいいと思う、マジで」 「そ、そうですか、ありがとう……ございます」 ふたりで視線を合わせたまま、妙に照れる。 「ほ、ほかの試着もする?」 「あ、この服がいちばん気に入ってたので、もうちょっと、色んな角度から見てみますね」 「そっか、それなら……」 色んな角度、というところで、すごく短いスカートが目に入る。 「…………っ!」 慌てて、視線を元に戻した。 「あ、慣れてくるとかわいいかもです……!」 明日香は、その場でくるんと回りつつ、後ろ姿を確認したりする。 (や、やめて、それ) その度に、スカートがふわりと浮き上がって、大きな胸が、ふるん、と揺れる。 「ふふーん……ふふーん♪」 鼻歌を交えつつ、笑顔の明日香。 俺は若干引きつった笑顔を浮かべつつ、その横で立ち尽くす。 (う、嬉しいしかわいいけど、なんか色々試されてる感じが……!) 「……もうちょっと上手いほめ方できないかなー、しかし」 「きっと、正直に言えば伝わる、それが一番! とか思ってるんですよ、センパイのことだから」 「日向くんは、あんな表情もするんだね……」 「部長、正直に言いますがちょっと恐いですわ」 「あ、今どさくさに紛れて身体に触れた! 触れたよ!」 「えっ、うそ、見逃した、もっかい触れ、晶也!」 「よし、よくわからんがいけっ、日向っ!」 「みなさん……」 「ほら、買ってきたよ」 「わあ、ありがとうございます!」 前にここへ来た時、市ノ瀬から教えて貰った唐揚げ屋。 今回も来ていると聞いていたので、さっそく、買ってきたのだった。 「揚げたてにしてもらったから、早めに食べて」 「じゃあ、遠慮無く……!」 明日香は口にひとつ、唐揚げを放り込むと、 「あつっ! っ……〜〜っ!」 「そりゃいきなり噛むと熱いよ……」 揚げたてだって言ったのに……。 きっと、『早めに食べて』の方に意識が集中しちゃったのだろう。 「あひ、あふ、ふ……もぐ、んっ……」 熱そうに悲鳴を上げていた明日香だったが、噛む内に笑顔になってきて、 「んっ……ごくっ」 「おいしいです!」 飲み込む頃には、晴れやかな表情になっていた。 「よかった、明日香用に一袋買ってあるから、食べるといいよ」 自分用のを開けつつ、明日香に袋を渡す。 「ありがとうございますっ」 明日香は袋から更にひとつつまみ、満足げな顔をした。 「おいしい、おいしいんです、が……」 明日香は急に妙な表情をする。 「あまり唐揚げは好きじゃなかった?」 「い、いえ、大好きなんです、本当に!」 「ただその、これがさっきから気になって……」 言って、包み紙をこちらに見せる。 ニワトリの絵が描かれていて、『ケッコーな美味しさ!』と文字が書いてある。 「これが……どうかした?」 「え、だって、気になりませんか?」 明日香は俺の目をまじまじと見ると、 「ニワトリが自分でおいしいとか言ってるのは、ちょっとその、どうかと……」 「……はい?」 「わたし、トビウオが大好きですけど、飛んでるトビウオが『ぼく、おいしいよ!』って言ってきたら、引きますもん、絶対に!」 「だから、こういう袋とか、あとは『おいしいんだモー』とか『おいしいブー』とかいうのは、ちょっと違うと……って、晶也さん、なに笑ってるんですかっ」 「……え、これは笑うとこじゃなかったの?」 明らかに明日香の笑いどころだと思ってたんだけど。 「ちーがーいーまーすーっ! 本当に思ってるんですよ、世界を変えるぐらいの勢いで!」 「わ、わかった、理解した、ごめんごめん……」 「もう……」 「特になんということもない会話してる」 「晶也センパイの話の持って行き方が下手なんですよ、うん」 「やっぱそれだよね。『唐揚げより君を食べたい』ぐらい言いなよ、晶也〜」 「おっさんかあんたは」 「しかしまあ、心配していたけど、思ったより自然に会話してるじゃないか」 「そうですわね。別に監視の必要はなかったんじゃ……」 「あ、あのっ」 「ん、どったの市ノ瀬さん」 「わ、わたし、あの唐揚げ、買ってきていいですかっ!」 「あれっ、ちょ、あの、市ノ瀬さーん!」 「もう行ってしまったようだな……」 「……あの子にしてはめずらしく、了解もとらずに行ってしまいましたね……」 「じゃあひとまずこれでお開きにしようか」 「だね。んじゃこっちもそろそろ別行動ってことで」 「じゃあ俺は筋肉の店へ行ってくる」 「兄ちゃんその言い方……みさきたちはどうするの?」 「んー、じゃあ真白、行こっか」 「はいっ、どこまでもついて行きます!」 「部長はどうされますの?」 「僕は帰るよ」 「……日向晶也が関係なくなった途端、淡泊ですわね」 「聞こえてるよ、佐藤くん」 「佐藤院ですわ」 「もうだいぶ見て回ったかな……」 各階のお店も見て回り、時間もある程度経った。 「あの……晶也さん」 横を歩いていた明日香が、急に立ち止まった。 「ん?」 「今日は、ありがとうございます」 そして、ぺこりと礼をする。 「わたしがなんか暗い話をしちゃったから、心配してくれたんですよね?」 ……わかってたか。 明日香の過去の話を聞いた時、めずらしく、ちょっと沈んでいるように見えた。 なので、気分転換にもいいかなと思い、こうやってモールまで出てきたんだけど。 本人に意図を悟られるようでは、まだまだ俺も甘いというか……。 「お礼とかやめてくれよ。たまにはみんなで楽しくすごそうってだけだから」 「でも、晶也さんが気遣ってくれたの、嬉しかったです」 「…………うん」 まあ、本人が良く受け取ってくれたのなら、それは良かった。 「まあ、それもそうなんだけど……。ちょっと、見せたいものもあったんだ」 「見せたいもの……ですか?」 「うん……そろそろ、頃合いかなと思って」 言いつつ、壁に取り付けてある案内板を見る。 前に来た時は、ここに工事中のステッカーが貼ってあり、屋上には行けないままだった。 「よし、ちゃんと無くなってる」 しかし、今回は、そのステッカーはきれいにはがされ、あとにはしっかりと、目的地が記載されてあった。 「じゃ、行こうか」 「どこへですか?」 「屋上」 「え……屋上……?」 明日香を連れ、エレベーターに乗り込む。 『R』と書かれたボタンを押すと、エレベーターは静かに上昇を始めた。 「さ、着いたぞ」 ドアが開き、光が中まで差し込んできた。 「わあ……っ」 思わず、明日香が声を上げる。 ずっと改装中だった、イロンモールの屋上。 そこは完成当初から、この島を代表するスポットとなっていた。 その理由は、この島の空を独り占めできる、見渡す限りの青で満たされた、空の壁。 ――スカイウォール。 誰とも無く呼び始めたその言葉が、そのまま、この場所の呼び名となった。 「柵が見えないようになってる……」 以前は、安全のために、周りに柵を設けていた。 でも今は、柵の場所を段差にすることによって、見えないようにしていた。 「これは佐藤院さんの実家にお礼を言わなきゃな」 美化された昔の記憶以上に、この風景は素晴らしいものだった。 「すごいだろう、明日……」 名前を呼ぼうとして、明日香が両手を広げているのに気づいた。 「…………」 風を全部、身体で受けようとしているのか。それとも、このまま飛びたいと思っているのか。 大きく息を吸い込み、周りを見渡しながら、この景色を存分に楽しんでいるように見えた。 「…………んーっ」 気持ちよさそうに身体を伸ばしたところで、 「はっ、あ、晶也さん……?」 「ん?」 「あの、さっき、呼びました、わたしのこと……?」 思わず苦笑する。やっぱり、気づいていなかったようだ。 「うん、呼んでた」 「ああ、やっぱり。ごめんなさい、ごめんなさいっ」 「……つい、景色がすごすぎて、見とれてました」 ……ああ、やっぱりそうだったのか。 「いいよ、楽しんでもらえたみたいだし」 「はいっ!」 「こんな良いところがあったなんて……、また絶対、来ようと思います!」 それは佐藤院さんのご実家も、イロンモールも喜ぶだろう。 「この空を見てると、今すぐにでも飛んでいきたくなります」 「……そっか」 「はい、きっと、ここに来て最初に見た空がこれだったら、グラシュが無くても空を飛びたいって思ったはずです」 だよな。そう、思うよな。 「ここさ、俺が小さい頃からあったんだよ」 「あ、改装される前ですね」 「そう、まだそこのところに柵が付いていて……」 指差しながら話していると、あの頃の景色が蘇ってくるようだった。 「その辺りには出店があって、ホットドッグとか売ってて」 「あっちからは、その頃この辺で流行っていたハングライダーが、紙飛行機みたいに風を切って飛んでたんだ」 青は色あせない。 今こうして話していても、すぐ側にその色があるようで。 そして、思い出もまた、鮮明に浮かび上がった。 「で、ここが、俺の特等席」 屋上のちょうど真ん中。前も後ろも、右も左も、全部等間隔。 「見上げてみて」 「え、ここでですか?」 「ああ」 明日香は、俺に言われた通り、顔を真上へと向ける。 「わあ……」 「青で、いっぱいです……!」 「俺が、独り占めしてた、空だ」 ここで、どこまでも広がっている空を見て、胸がいっぱいになった。 ずっとここにいたい、というよりも、空の上へ、ずっと彼方へ、行きたいと思っていた。 ――そして、連れて行ってもらったFCの大会。 そこで、誰よりも速く、一番上に居続けた人に、俺は強く憧れた。 「だから、空を飛べるってわかった時、もう何も考えず、そればかりに夢中になってたんだ」 グラシュのテストユーザーに、父さんに頼み込んで応募して。 朝から晩まで、ずっとずっと、空ばかり飛んでいた。 「本当に、大好きだったんだ」 空も。あの人も。……そして、FCも。 小さかった頃に見上げた空に、いちばん近くにいるのが、自分だと思っていた。 これがあれば、どこへも行けると。 誰よりも先に、彼方へ行けると。 そう、信じていた。 「……でも、俺は空に背を向けてしまった」 彼方にあったはずの蒼の世界は、自分のものでは、なくなってしまった。 伸ばした手は空を切り、掴んだ掌の中には、何もなかった。 「…………っ」 明日香は、ただじっと、俺の話を聞いてくれていた。 その目に映った青を見ていると、余計なことまで全部、話してしまいそうになる。 「……だから」 明日香に向けて、笑いかける。 「明日香には、そんな思いをして欲しくないんだ」 「ずっと楽しく、この空を見た時の思いのまま、飛んでいて欲しい、そう思ったんだ」 「……だから、連れてきたんだ、ここに」 「だから、わたしを……」 頷いて、ゆっくりと伝える。 「――空を見ろ。空を見続けろ。答えはそこにある」 「えっ……?」 「これさ、俺が昔履いてたグラシュに、書いてある言葉なんだ」 葵さんと一緒に練習して、ジュニアの大会で初めて勝った時。 俺がせがんで、葵さんに書いて貰ったサインと、言葉。 「つらいことがあって、どうしようもなくなった時は、空を見て、見上げて、見続けてろって。そうすれば、どうしたらいいかわかる、って」 「空を見ろ。空を見続けろ。答えはそこにある……」 「なんだか、力の湧いてくる言葉です」 「……うん、そうだ。強い言葉なんだよ」 ……だけど、俺は空を見続けられなかった。 視線を切って、葵さんにさよならを言った時、すごく、寂しそうな顔をしていた。 今でも、先生の顔を見ると、その時のことをちょっと思い出して、切なくなる。 「わたし、もう俯きたくないんです」 明日香は空を見上げながら、言った。 「下ばかり見てた時のわたしは、ずっと、悲しかったから」 「だから、空を見ます、わたしも」 「空を見続けて……信じます」 「……ああ」 カモメの一群が、海の方から山へ向けて、鳴き声と共にゆったりと飛んでいく。 山の稜線に薄い雲がかかり、風で流されて、消える。 上空から白が無くなって、完全な青になる。 澄み切った世界で、俺も明日香も、ずっと同じ所を見ていた。 遠い蒼の彼方にある、何かを。 「遅いな、みんな」 「あ、みさきちゃんからメール来てました」 「なんて?」 「えっと、『お邪魔みたいだったのでみんな先に帰るね、あ、物産展で四國のおうどんが売ってたの思い出したから、それ買ってきて、5袋ぐらい』」 「………………」 「……帰っちゃいましたね」 「あいつら……」 とりあえず、みさきにはうどんと見せかけて冷や麦でも買って行って悲しませよう。 それでも旨そうに食うんだろうけど。 「仕方ない、じゃあ俺たちも帰るか」 「あ、あの、晶也さん」 振り返ると、明日香はわずかに照れた顔で、 「あの……ちょっと寄り道して、帰りませんか?」 「寄り道?」 「はい、そうですっ……」 「どうですかーっ、晶也さーんっ!」 「ああ、いいな、ここは」 少し後ろを飛んでいる明日香に声をかける。 「ほら、見てください、一緒に飛んでくれてますよっ」 水面スレスレのところを、明日香が仰向けで飛んでいる。 そこに、ちょうど同じような高さで、トビウオの群れが交ざった。 時折跳ねる水しぶきに目を細めつつも、明日香は一緒になって、楽しげに飛んでいる。 「行きがけにここを見つけて、あ、絶対ここで飛びたいなって」 「で、さっきの空を見て、いてもたってもいられなくなったんです」 「確かに、ここはちょっと飛んでみたくなるな」 福留島から少し沖の方に出た、北東の海。 太陽光を浴びてキラキラと光るこの一帯は、昔からトビウオがよく跳ねていて、漁場にもなっていた。 (しかし、そんなに照れて言うことなのかな) まあ、何かを好きだと言うのは、ちょっと照れくさい部分はあるのも確かだけど。 「……さっきはちょっと、格好つけすぎだったかも」 空とかFCとかになると、ちょっと気負いすぎかもしれない。 「晶也さーん!」 「なんだー?」 明日香が再び俺の名前を呼んだ。 顔を向けると、嬉しそうな笑顔のままで、 「わたし、やっぱり大好きでーす!!」 「…………」 「……えっ……」 い、いきなり何を言い出すんだ、明日香は……。 「空を飛ぶのがー!」 「好きでーす!」 「………………あ」 ……なるほど、そういうことか。 さっきの流れなら、そっちだよな、当たり前だけど。 「あの言葉、大切にしますねっ」 「……そっか」 「空を見ろ。空を見続けろ」 「答えはそこにある」 「答えはそこにある」 「答えはそこにある」 明日香はトビウオたちと一緒に、なおも飛び続ける。 義務とか責任とか、プレッシャーに関わることなく。ただ、楽しいから、そうしている。 この、心から楽しげに飛ぶ子を、絶対に俺と同じ目に遭わせてはいけない。 「空を見ろ、空を見続けろ……」 「……空を楽しもう」 幼い頃に貰った言葉に、そっとひとつ、付け加える。 それは明日香のための言葉でもあり、同時に――。 「俺も、楽しまなくちゃな」 空の彼方に、少しずつ、オレンジ色の光が混じり始めた。 なおも楽しげに飛び続ける明日香を見ながら、俺はそっと、誓いの言葉を繰り返していた。 イロンモールで一日遊んだその翌日、早速、みんなで練習を再開した。 「いきますよ、真藤さんっ!」 「いつでも来たまえ、倉科くん!」 2日間の休養で、明日香はすっかり元気になったようだった。 動きも判断も、明らかに良くなっている。 「明日香、良かったね。もう万全じゃないの?」 「だな、こないだはついて行けなかった動きにも、今はちゃんと対応できてるみたいだ」 ひとつひとつの機敏な動きに、体調の回復がしっかりと見て取れる。 「楽しんでやるって大切だよなあ」 「あたしはいつもご飯を食べる時は楽しんでるよ」 「部活にその10分の1でも向けてくれたらなあ」 「あはは、そっちは明日香にまかせる。好きのレベルが違うもん」 それはまあ、その通りだろうけど。 「おーい、日向くん」 「なんだ、まだ時間じゃないだろ?」 真藤さんと明日香の練習は、10分で1セットにしている。 まだ5分も経ってないはずなんだけど……。 「そーじゃなくて。先生から電話。ちょっと来てだって」 「先生が……職員室か?」 「それがね、なんか白瀬さんのお店まで来て欲しいんだって」 「……スカイスポーツ白瀬まで?」 「あれ、お出かけするんだ。いいな」 「遊びに行くんじゃないんだからな?」 しかし、一体何の用事なんだろう。 明日香の話は終わったばかりだし、気になる。 「よっ、来たね」 「悪いな、練習中に呼び出してしまって」 「それはいいんですが……なにかありましたか?」 「……まあな。隼人、あれを」 「ああ」 先生の合図で、白瀬さんはノートパソコンを持ってきた。 「全国大会、やってたのは知ってるだろ?」 もちろん、知らないわけがない。 本来ならば、さっきまで一緒にいた真藤さんが、そこで試合をしているはずだったのだから。 でも今回、その場所にいるのは、あの乾沙希だ。 「結果、出たんだよ。ついさっきね」 「そうか、今日が決勝だったんですね。どうでした?」 乾の動向については、確認していなかった。 場所が仇州の南部、しかも離島とあって遠方だったし、何より、結果についてもある程度予想がついていた。 「優勝だ。一度も相手にリードを許さない、完全な勝利だった」 「……そうでしたか」 予想通りではあったけれど、少々複雑な思いだった。 真藤さんに勝ったからには、それぐらいやって欲しいと思う部分もあったし、改めてその強さに畏怖する気持ちもある。 「問題はな、その勝ち方なんだよ」 「え、それはどういう……」 「ま、これを見てみなよ」 俺の疑問に、白瀬さんがパソコンの方を示す。 全国大会の模様を、会場の地域にあるケーブルテレビが中継していたものが、動画ファイルになっていた。 「これ、乾の試合ですか?」 「ああ、そうだ」 「すごい、じゃあ参考になりますね、今後の」 窓果も言っていたが、乾は意図的に試合の動画を隠滅し、人に見せないようにしているようだった。 さすがに行われてすぐの大会となると、消去まで時間もかかる。入手してくれた白瀬さんに感謝だ。 「と、思うだろ。ところがだな……」 白瀬さんは眉根に皺を寄せつつ、ファイルをクリックした。 乾と、相手選手が画面に浮かび上がる。 ちょっと安っぽい感じのテロップに、学校名と選手名が示されていた。 「あ、この相手の選手……」 FCのサイトで見たことがある。 「磐手県の代表、浅見忠彦。彼も決勝までは圧倒的に勝ってきた」 ああ、そうだ。思い出した。東北ではかなり有名な選手だと聞いていた。 あの辺りの入り組んだ地形を美しく飛ぶことから、付けられたニックネームが『リアスの申し子』。 名前に負けることなく、全国大会の常連だったはずだけど。 「確か、真藤さんともいい勝負だったんですよね、去年」 「乾はその実力者相手に、どういう戦い方をしたと思う?」 「え、それは……」 あの乾のやり方なら、セカンドラインで待ち構えて、例の忌まわしい鳥かごを展開して……。 「じゃ、ないんですか?」 「ああ、見てみろ」 画面を、見た。 「ええっ……!」 思わず声を上げる。 画面の中の乾は、ファーストからセカンドまで、一直線にブイを狙いに行ったあと……。 そのまま、サードブイを狙って、また一直線に飛んでいったのだった。 「あの、これって」 明らかに、戦い方がこれまでと違う。 「スピーダーの戦い方じゃ……」 ファーストからセカンドへ、セカンドからサードへ。 あまりにも馬鹿正直な、ストレートな戦い方を、乾はしていた。 「そうだ。乾沙希は、この全国大会において、スピーダーとして戦い抜いたんだ」 「その意味……わかるな?」 「はい……推測ですが」 乾は、相手を選んだ上で、戦い方を考えているのだろう。 真藤さんには、その実力を認めた上で、これまでの王道的な戦い方を封じるやり方を見せつけた。 全国大会では、舞台は上になったとはいえ、真藤さん以上の選手がいないから、言い方は悪いが手を抜いた。 何より、手の内を探られないために……。 「というわけだ。俺もなんとか資料を集めてきて、晶也と明日香ちゃんのためになればと思ったんだがな」 「ごらんの通り、敵の方が一枚上手だった、というわけだ」 「いえ……ありがとうございました」 わざわざ、呼ばれた理由がわかった。 相手はこんなにも周到に考えている。この事実だけでも、十分すぎる燃料になり得る。 楽しみながら勝つ。これがいかに難しいか、相手のストイックさを見る度、思い知らされる。 「……へえ、あまり落ち込まないんだな」 「むしろ、顔がニヤけてるぞ、晶也」 「そうですか? まあ、確かに楽しみにはなりましたけど」 何を考えているかわからない以上、もちろん恐さはある。 でも、それに引っ張られても仕方ない。むしろ、楽しみにするぐらいでいいじゃないかと思う。 お店からの帰り、しばらくは飛ばずに道を歩きながら、乾の情報を得る方法について考えていた。 やはり、知らないよりは知った方がいい。特に、乾がどういう練習をしているのか、気にはなる。 しかし、正攻法ではどれも難しそうだ。ネットで拾うにも限界はある。 「……どうしたものかな」 いずれ戦う最強の相手ということで、やはり気にはなる。 しかし、その内実は、ひたすら厚いカーテンで、遮られている。 (なんとか……知る方法を探さないと) あれこれと考えながら、帰り道を歩いて行った。 「ほらほら、あんまり先へ先へ行かないでくださいっス、あんまり調子乗って進むと見つかっちゃいますよ?」 「ここからどっち行くんだ?」 「あ、そこを左っス。いやーそれにしても、あのお堅いコーチがわたしの提案にホイホイ乗ってくるとはまったく思いも寄りませんでしたね〜」 「人聞きが悪い! ホイホイもしてないし乗ってもいないぞ!」 「ま、まあまあ二人とも……」 結局、俺には情報収集のための妙案は、ひとつとして思いつかなかった。 そうして思い悩みつつ家へと帰ろうとしていたところ、まさに狙い澄ましたように、保坂が現れたのだけど。 「ちょうど弱ってるところに話したのが運の尽きで、強引とも言える手法で連れて来られたのだった」 「ちょ、コーチ、心の声が出てますって!」 「……あの画像、明日香に見せたら承知しないからな」 「わかってますって〜。その辺の約束事についてはジャーナリストとして守りますってば」 ……すげー信用できない。その情報を盾にしてここまで連れてきたくせに。 「ていうか、明日香は関係なかったんじゃないのか? わざわざ連れてきて、何かあったらヤバいだろ」 「あ、晶也さん、わたしは自分で来たいって言って連れてきてもらったんです」 「え、そ、そうなの?!」 「はい……どうしても、乾さんを見ておきたくて」 「そうですよ、わたしのせいじゃないんですからねっ」 「明日香に潜入取材のことをバラしてる時点でダメだろ……」 「ま、いーじゃないですかそんなことは。あ、コーチそこの道は右で、あとはもう真っ直ぐっス」 「はいはい……わかりました」 バレた時は全部責任とってもらうぞ、保坂……。 「さー着きましたよ、ここが海凌の練習施設っス」 「ここって……すごいな、屋根付きなのか」 「すごいですね……」 森を抜けた先にあった、海凌の練習施設。 そこは野球のドーム球場のように、広い施設の上を半円形の屋根が覆っていた。 「全天候型っスね。この施設を使って、雨の日も風の日も、コンディションを一定にして練習できたのが、乾沙希の強さの一端でもあるっス」 「それに、全部を覆うことで、情報が漏れることもない、か」 「そういうことっスね。つまり我々みたいなのは、排除すべき存在ってわけです」 「……ここからはあまり大きな声で喋らないでくださいっス。実際、バレたら堅気には戻れなくなるっスから」 「どんなだよ……まあ、わかった」 「はーい、ちっちゃな声で喋ります〜」 「じゃ、ここから見てください。いちおう、全景がなるべく見えるとこを探したっス」 言われるままに、中をのぞき込んだ。 「どんなことやってるんでしょうかね〜」 「どれどれ……あ、見えた」 「はい、わたし……も」 「って、これ……!」 のぞいた瞬間、明日香が声を上げた。 「…………っ!」 俺も同じタイミングで、息を飲んだ。 乾は、空中でドッグファイトを行っていた。 問題は、その内容ではなく、対戦の方式だった。 「乾さんも、三対一で……っ!」 そう、乾も俺たちと同じように、三対一の練習を行っていたのだった。 「しかもこれ、相手が半端ないな……」 「ですよね〜」 「そんなにすごい人たちなんですか……?」 「……フィンランドのヨハンソンに、イギリスのチャップマン、最後は去年の欧州選手権2位の、ドイツのグライナーだ」 「え、ええっと、その、どういう選手なんですか?」 「それはわたしから説明するっス」 「ルミッキ・ヨハンソンはフィンランドの女性選手で、学生時代は欧州学生選手権で優勝経験もあり、その軽やかな戦いぶりで『北欧の風』という異名も持っていたっス」 「イギリスのエリック・チャップマンは、現在若手の男性選手で一番の成長株と言われてるっス。相手に食らいついたら絶対に離れない、蛇のような戦いぶりで恐れられてるっス」 「んで最後が本命の、ドイツのゲルベルト・グライナー。イニシャルを取って『ビッグ・GG』とも言われる大物で、コーチが言った通り、昨年の欧州選手権は2位に入ったっス」 「と、とにかくすごい選手ばっかりってことなんですね……!」 「ですです、それも本場ヨーロッパの凄腕ですから、まず日本じゃ見かけないメンツだと思うっスよ〜」 実際、おそろしいメンツだった。 俺でもテレビとネットでしか見たことのない選手ばかりで、海外での対戦経験のある葵さんでも、一度か二度ぐらいしか会ったことがないレベルの選手ばかりだった。 それらをまとめて練習のコマとして使っている。しかも三対一練習という、明らかに格下相手のやり方で。 「これは……」 「いや、さすがのコーチもこれにはちょっとガクブルっスよね、怖じ気づいちゃったんじゃな……」 「楽しそうじゃないか、なあ、明日香?」 明日香の方を見ると、 「はいっ、あの人たちの動きすごいですし、堂々と戦ってる乾さんも、すごく格好いいです……!」 「だよなあ……!」 恐がることはいくらでもできる。 でも、必要以上にプレッシャーを抱えたところで、動きが固くなっては何の意味もない。 むしろ、この逆境を楽しむぐらいじゃないと。 ……やっと、わかってきましたよ、先生。 「……あら、なんか反応が予想と違うっスね……」 「…………」 「……ま、そんなもんスかね」 超人的にレベルの高い、乾の練習の数々。 俺たちはそれを存分に観察し、揃ってため息の連続だった。 でもそれは、決してあきらめの心境からではなく――。 感嘆の、そしてこっちもやりたい、という思いを込めた、ため息だった。 「ちょっと遅くなっちゃったっスね」 「実里ちゃん、今日はありがとうございましたっ」 「いえいえ、お役に立てたなら嬉しいっス」 「それはもう、すごくですっ」 「じゃ、晶也さん、また明日がんばりましょう!」 「ああ、また明日な」 明日香が手をぶんぶん振って、帰って行った。 「……あの、コーチ」 「なんだ?」 実里は、神妙な顔をしつつ、一枚のメモリーカードを取り出し、 「これ、コーチにあげるっス」 「……なんだ、これは?」 「これまで取材してきた中で、乾沙希の写ってるものをまとめたものっス。門外不出っスよ?」 「え、でもこれって、お前……」 いわゆる、取材のネタってやつで、大切にしてたんじゃ……? 「もちろん、すげー大切なやつっスよ! だから取り扱いには気をつけてくださいね」 「あ、ああ……でも、なんでだ、また」 ……なにかまた、弱みでも握られるのかとビクビクする。 「……楽しみっス」 「え?」 「あの無表情な『空域の支配者』を、笑顔の明日香先輩が倒すのを見られるかと思うと、取材よりも楽しみっスよ」 「保坂、お前……」 「だから、いい戦いにするためなら協力は惜しまないっス!」 「以上です、それではわたしも失礼しますっス!」 「…………」 「……ありがたく使わせて貰うよ、保坂」 「……侵入者は、練習を最後まで視察した後、速やかに裏口より脱出、帰宅した模様です」 「……そうですか」 「如何致しましょう、学校を通じて警告を与えましょうか?」 「いえ、それには及びません、今日の練習は見せてもいいものでしたから」 「は、はいっ、承知いたしました」 「他にはなにかありましたか?」 「はっ、それが……様子を観察していたのですが、久奈浜の生徒は、その……」 「その、なんですか?」 「その、とても楽しげというか、ショックを受けた様子がまったくなかったのです」 「…………」 「あ、すみません、くだらない事ですが」 「いえ、重要な報告です……ありがとう」 「は、はいっ」 「下がってください、ご苦労様」 「はいっ、失礼しました」 「…………」 「……甘いですね、日向晶也」 「そろそろ、きちんとお話しする時期かもしれません……」 「よーし、そこだ明日香、回り込め!」 「はいっ! わかりました!」 「くっ……やるな、倉科くん!」 「よし、真藤さんを押したぞ、そのまま下に追い込め!」 「わかりました!」 「っはー……、こりゃすごいねー」 「もう完全に真藤さんも圧倒しちゃってるね、明日香ちゃん」 「動きが速すぎてよく見えないですよ〜」 「そうか? 俺にはよく見えるがな」 「兄ちゃんのスピード馬鹿がちょっとだけ役に立った!」 「そういえば、ここ何日かの練習で、日向さんがセコンドをするようになりましたね」 「ああ、なんか実戦を意識して、ちょっとずつ慣れていくってことみたいよ」 「えっ、まだ大会までしばらくあるのに……」 「なんか、ワクワクしてやってるとこもあるみたい、あの二人は」 「こないだの視察の効果なのかもね〜」 「そうなんですか……」 「え、何、この音」 「携帯の呼び出し……? でもわたしじゃないですよっ」 「あ、ごっめーん、これわたしー」 「もしもし、あ、各務先生。おつかれさまですー」 「窓果だったのか……」 「あれ、何の曲なんでしょうね……」 「ええ、日向くんは今練習で……え、って、えええっ!!」 「はい、はい、すぐに伝えます、はいっ!」 「……どしたの?」 「明らかに大変なことが起きたっぽい感じでしたけど……」 「……うん、結構びっくりした」 「何か事件でもあったんですか?」 「ん、日向くんにお客さんだったんだ」 「……ま、よりによって今この人ですか、って感じ」 「……?」 「……こんなとこ来るの、久しぶりだな」 校舎の一番屋上にある、大きな庭園。 久奈浜の名物でもあり、昼時にもなれば、生徒で溢れるぐらいの人気スポットだ。 俺たちはメシを部室で食べるようになったし、放課後もここへ来ることはそうない。 なので、1年ぶりぐらいにここへ足を踏み入れるのだけど。 「よりによって、久しぶりに来て会うのがこの人ってのもな」 庭園の奥の方で、背筋をピンと伸ばして立っている人に、近づく。 「すみません、遅くなりました」 その人は、以前に会った時と変わらず、にこやかな笑みを浮かべ、 「いえいえ、ゼンゼン、待ってませんでした」 俺を出迎えたのだった。 イリーナが久奈浜に来たのはこれで二回目だ。 最初の、あの大仰な登場に比べれば、今回はとても静かだった。 しかし、それだけに何を考えているのかわからず、恐い。 (また、練習試合の申し込みなのか) そうだとしたら、その思惑を絶対に打ち破る。 (明日香の心を折りに来たのだとしたら……そうはさせない) 呼吸を整え、目の前にいる恐ろしい相手に向かう。 実際の身長よりもずっと、大きく、威圧的に見える。 「今日は、なぜいらしたんですか?」 なるべく平穏を保ちつつ、話し出す。 「まずは、先日のオワビをしにきました」 「お詫び……? 突然、練習試合を申し込んだことですか?」 「ハイ、そうです。あれはさすがに唐突すぎました。礼儀としてなってなかったと、反省しました」 イリーナはペコリと頭を下げると、 「大変、失礼しました……この通りです」 ……謝罪を受けているはずなのに、どうしてこう、胸騒ぎがするのだろうか。 一癖も二癖もある相手だからなのだろうけど、それにしても、さっきから身体の中が疼く。 「いえ、こちらも気にしていませんから。ご用件は、それで終わりですか?」 念のため、尋ねてみた。 すると……。 「いえ」 イリーナは下げた頭をゆっくりと上げ、その穏やかな笑顔をこちらに見せつけながら、 「ここからが、本来の目的デス、日向晶也さん」 「…………!」 「失礼します」 「おー青柳妹。練習、終わったのか?」 「はい。明日香ちゃんだけは、日向くんの話が終わるのをジッと待ってるみたいですけど」 「はは、相変わらず忠実だな、明日香は」 「……先生」 「どうした青柳、似合わないぞ、そんな恐い顔して」 「なんで、イリーナさんを日向くんに会わせたんですか?」 「……そのことか」 「イリーナさんのことだから、またどうせ、何か妙なことを考えてるに決まってる……」 「せっかく明日香ちゃんも元気になったのに、ここでまた変なことされたら、振り出しに戻っちゃいます」 「先生だって、それはわかってるはずなのに、なのにどうして……」 「……学内への不法侵入」 「えっ……」 「不問にするから、会わせろと言ってきたよ。いきなりそんなカードを切られたら、文句も言えないだろ」 「…………っ」 「その顔を見ると、知ってたみたいだな。ダメだぞマネージャー、ちゃんと報告しないと」 「すみません……何も無かったから、気づかれなかったのかなって思って」 「まあ、そこまで深刻にならなくてもいいさ。そろそろ乾の動向が気になる頃だろうし、ある程度は予想もできていた」 「でも……これでまた明日香ちゃんが何かされて、やる気を失うようなことになったら、どうしたら……」 「何を言ってるんだ、青柳」 「えっ……?」 「今日、いや、これまでずっと、イリーナがやってきたことは、明日香を潰すためなんかじゃないぞ」 「先日の道場破りも、今日の訪問も、練習をわざと見せたのも、すべてはひとつの目的のためだよ」 「え、でも、明日香ちゃんじゃなかったら、目的って……」 「……っ、まさか、そんな」 「今、お前が想像した通りだよ」 「何ですか、その目的ってのは」 イリーナは俺の問いに答える前に、一歩、前へ出ると、 「質問をさせてください、日向さん」 「……どうぞ」 「本当は、乾沙希の前に立つべきなのは、倉科明日香さんではない、そう思いませんか?」 「一体何を言い出すんだ、今更」 イリーナは、相手が不足だと言いたいんだろうか。 でも、みさきも真藤さんも、明日香が本当に強くなり、乾の相手として不足はないとまで言うようになった。 実際、俺が見ていても、そう思うぐらいだ。 「明日香では力不足、とでも?」 「いえ、そうは言ってマセン。明日香さん、とても強いです」 「だったら」 「いつまで、そうやって逃げているのですか?」 急に。おそろしいぐらいに落ち着いたトーンで。 イリーナは隠し持っていた『刃物』で、俺を正面から、突き刺した。 「………………えっ」 「いつまで、そうやって逃げているのですか、フライングサーカス元ジュニア日本代表、日向晶也さん」 「日向くん……なんですね」 「……ああ」 「イリーナさん、一体、日向くんに何をするつもりなんですか」 「そんなの、ひとつだよ。あいつの傷を抉りに来たんだ」 「傷……?」 「でも、いつかは向かい合わなければいけない。晶也がFCに関われば関わるほど、それとの距離は近づく」 「わたし、日向くんのことは深くは知りませんし、自分からあれこれ聞くことも無いですけど」 「傷を抉られて、大丈夫なんですか、日向くんは」 「わからない。だが、今の晶也には、仲間がいるし、何より、倉科がいる」 「明日香ちゃんが……」 「あいつは強くなったよ。私が出て行かなくても、きっと大丈夫なはずだ」 「…………」 突然の痛みに、声が上手く出てこない。 「なに……を……?」 「わたし、前に言いました。日向さん、知ってますって」 夏の大会、確かに言われた。 日向さんでも、日向さんの育てた選手でも、と。 でもそれは、社交辞令みたいなもので、本気じゃないと思っていた。 「だから、夏の大会が終わった時、沙希と日向さん、戦わせようと思いました」 「……っ!」 「各務先生に止められました、残念ながら」 ……そうか、先生が前に言ってたあのことって。 「それに、すべて受け入れたわけじゃないぞ。最初に言ってきたことは、即座に断った」 「最初に?」 「それはもう無しになったからいいじゃないか。……さあ、試合の準備をしよう」 「世界でも有名でした、日向さん。いずれはこの少年がFCを変えると言われ、わたしも、とても熱心に調査していました」 「それなのに……わたしが戦いの場に現れた時、あなたはもう、そこにはいませんでした」 「あんた、一体何を」 乾いた声で、それだけ答える。 「何度でも言いましょう。日向晶也さん、いつまで逃げているのですか?」 「何言ってるんだ、俺は逃げたりなんか」 「飛べるのに? 羽根があるのに、それを隠してるのに?」 「っ……」 「本当は誰よりも強いことに渇望し、嫉妬し、誰よりも先へ、上へと望む、日向晶也なのに?」 「そんな自分を隠し続け、コーチの立場を利用し、部員たちを戦わせるなんて、逃げているとしか言えません」 「なんだと……!」 「図星、なのですか? 言われて腹が立ちましたか?」 「ち、違う!!」 「違わないでしょう」 「女の子を矢面に立たせて、才能がある才能があると褒め、強い敵と戦わせる、それはあなたの本意ですか?」 「違う!!!」 「セコンドだコーチだと言って逃げていれば、安全圏でショックを受けずにいられる、そのオイシイ立場を失いたくないんじゃないですか?」 「違うと……言ってるだろ……!!」 「答えなさい、日向晶也!」 「あなたは、戦わずして逃げるのですか? それがあなたの、真意なのですか?」 「答えなさい」 「………………っっ!!」 膝を突き、崩れ落ちた。 地面に手をついて、芝生を握り、手の中で固く潰す。 「違う……違うんだ……」 震える身体から、ただ否定の声だけが漏れる。 もう、断ち切ったはずなのに。もう、背を向けたはずなのに。 傷が疼き、俺を責める。次第に、黒いものが浸食してくる。 「ちが……」 イリーナにさえ聞こえない小さな声で、否定しようとする。 そんなことをしても、届かないとわかっているのに。 相手にも、何よりも自分にも。 千切れそうになる気持ちを堪え、下を向いた、 その時――。 「違いますっ!!!」 「えっ……」 「っ……!」 俺を殺そうとする言葉を否定し、そして、俺を奮い立たせようとする、言葉。 ハッとして、上を向く。 「違い……ます……!」 俺の前で、イリーナに対して仁王立ちする、明日香がいた。 「晶也さんは……そんな人じゃ、ありませんっ……!」 「倉科明日香さん……いらっしゃったのですか」 イリーナは、先ほどとまったく変わらない表情で、明日香の方を見据えている。 一切動じない、恐ろしいまでの、強さ。 厳然たる様子で、俺たちに向き合っている。 「明日香……?」 「ごめんなさい、お話、聞いていました。晶也さんが戻ってこないから、心配で、探してて」 「そしたら見つかって、それで、我慢できなくなって」 「我慢……ですか? それはどうして」 「イリーナさんは、晶也さんが逃げていると言いました。それは絶対に、違います」 「言った通りです。彼は逃げています。自分が戦えるのに、戦おうとしていません」 「それが、違うと言ってるんです」 「……聞きましょう、どのようにですか?」 「晶也さんは、戦っています。わたしの前に立って、ずっと」 「コーチとして、夜も昼もずっと、作戦や練習方法を考えて、実際に戦うわたしの何倍も、悩んで苦しんでいるんです」 「それなのに……逃げているだなんて、そんなことは絶対に言わせません!」 明日香の強い言葉。 一歩も退かないという覚悟を前にしても、イリーナは、一切変わらない様子で、 「倉科明日香さん」 「はっ、はい」 「……あなたに非礼があったのは謝罪します」 「でもわたしには、日向さんが逃げていること、曲げる気持ちはありません」 「……どうして、そんなに」 「日向晶也は、世界で戦える選手だからです」 イリーナは、先ほどと打って変わって、穏やかな口調で話すと、 「行きましょう、日向さん」 こちらに向けて、手を差し伸べた。 「わがアヴァロングループは、世界で戦える選手を育てています」 「そこに国境も性別もありません。必要なのは、誰よりも強くあろうとする、確固たる意志です」 「日向さんには、それが、あります。誰よりも強くいたかった、その気持ち、大切です」 「俺に選手として復帰して、戦えと?」 「ええ。そうすることが、沙希のためにもなりますし、世界のFC界を動かすことにもなります」 心から愉快そうに微笑むイリーナ。 「明日香さんはまだ発展途上です。そのコーチには別の人間を当てて、同じく鍛えます。それで、安心でしょう」 「わたしに、別のコーチを……?」 「よそ見をしている暇などありません。早く、そこから出るのです、日向晶也」 その言葉を聞いて、心がびくん、と動いた。 俺は、明日香に。そうだ、何をしているんだ。 「あなたは、そこにいるべき人じゃないのです。だから目覚めてください」 「さあ、今すぐ」 イリーナは差し伸べた手を、更に俺の方へ近づける。 俺は、一瞬だけ逡巡した後、その手を……。 「えっ……」 握ることなく、自分で立ち上がって明日香の前へ出た。 「アヴァロンの最新施設の中で、何も考えず、強くなるためだけに鍛える環境か……」 「理想的だ。きっと、幼い頃の俺が聞いたら、喜んでヨーロッパに行っただろうな」 「晶也……さん」 明日香の声が、少しかすれたようになった。 「そうでしょう。では早速……」 「でも、今の俺はその選択はしない」 「…………」 「イリーナさんが間違っているからだ」 「間違ってる……それは、どこがですか?」 「明日香のことだよ」 「……っ!」 「明日香は……あんたが思ってるような、小さな選手じゃない」 「小さいじゃないですか。現に、まだ沙希の相手じゃないデス」 「今はな。でも、明日は違うかもしれない」 「明日は……ですか」 「明日のその次の明日も、またその次も。どこまでも上っていくし、天井を知らない」 「馬鹿なことをおっしゃいます。相手を意識していれば、いつかは限界が見えるでしょう」 「そこだよ。明日香は違うんだ。見ている場所が違う」 「聞かせて、頂けますか……? 一体、彼女はどこを」 「空ですよ」 「えっ……?」 「空の彼方、どこまでも上へ、飛ぶことだけを考えて。それが、倉科明日香です」 「空の……彼方を」 明日香がどうすごいのかについて、ずっと考えていた。 なぜ、強い相手に怯まないのか、底知れず強くなるのか。 その答えが、やっと見えた気がする。 「俺は、乾沙希という選手を恐れていた。でも本当は、そんなことはどうでもよかった」 「……俺は明日香と共に、あんたたちを倒しに行く。だから、要求は聞けません」 ひとつ、深く礼をして、 「明日香」 「はい」 「行こう」 明日香は、大きく一度うなずくと、 「はいっ……!」 俺たちはそのまま、後ろを向いた。 一拍の時間も置かず、階段の方へと歩いて行く。 「もう、決して戻らないんですか」 「あれほど強く、空を駆け抜けた伝説の選手なのに――」 立ち止まる。 振り返ることなく、言葉だけを伝える。 「戻りますよ」 「二人で」 「…………っ」 「失礼します」 誰よりも、上へ、遠くへ。 俺がかつて目指した場所に、明日香は行こうとしている。 楽しそうに、笑いながら。 「…………」 「…………」 互いに無言のまま、部室へと戻ってきた。 練習が終わり、誰もいない中、二人で向かい合って座る。 なんとなく視線を合わせづらくて、互いに宙を見つめる。 「あ、あの、晶也さん、ごめんなさい」 最初に口を開いたのは、明日香だった。 「勝手に話に割り込んで、あんなことまでして、その」 「明日香」 明日香の言葉を途中で遮るように、言う。 「え……あ、はい?」 「さっき、一緒に戦ってるって言ってくれて、嬉しかった」 「嬉しかっただなんて、そんな……」 「本当に思ってるから、言いたかったんです。晶也さんはずっと、戦ってましたから」 「ありがとう、でも……」 明日香が言ってくれた言葉は嬉しかった。 コーチとして、共に戦っていることを、明日香は強く意識してくれていた。 でも、俺にはやっぱり、心にしこりが残っていた。 「でも俺、本当は飛べるのに……飛んでないもんな」 足下、ずっとあったはずの競技用グラシュ。 今そこには、普通の通学用のローファー型のグラシュがある。 「色んなもの、掴んでた気がするんだけどな」 手を握って、閉じてを繰り返す。 あれほど着慣れて、私服よりも慣れていたフライングスーツ。 今はもう、着ることすらなくなった。 「昔さ、俺、FCの選手だったんだよ」 自然と。口から、言葉が出てきた。 小学校の頃だった。 当時の俺は、授業もスポーツも成績はそこそこで、特に目立つ物は何も無かった。 懸命になって取り組めるものも無く、ずっと居場所のない毎日を送っていた。 だから常に、何か夢中になれるものを探していた。 誰よりも強くなりたい、誰もが遊んだことのない面白いゲームをプレイしたい、誰も行ったことのない場所へ行きたい。 思いは、次第に強くなっていった。 FCと出会ったのはその頃だった。 きっかけは、父親から誘われた地区大会。 特に何かの目的があったわけではなく、ただ暇だったからとか、そんな理由でついて行った。 ――俺は、一瞬でFCに魅了された。 見たこともない速度で空を駆け回る選手たち。ポイントを巡る駆け引きと、それぞれにタイプの違う戦略の数々。 そして何よりも、あるひとりの選手の戦いぶりが、俺の中に強い印象を残すこととなった。 各務葵。 当時、日本では群を抜いた成績を収めていた選手だった。 地区大会を圧倒的な強さで優勝したその選手に、俺は強く魅了された。 一直線に伸びるコントレイルの美しさ、そして圧倒的なまでの強さ。 『俺も空を飛びたい』 ぼんやりしていた思いは、この日をきっかけに強くなった。 空を飛べる靴、グラシュとの出会いは、俺の日常を大きく変えた。 許可の下りる年齢になってすぐ、早速入手して空を飛んだ。 当時は飛行区域も限られていたけれど、見たことのない世界はどこまでも新鮮だった。 しかし、身体はあの日見たFCの光景を覚えていた。 ただ飛ぶだけでは満足できず、更に刺激的なものを求め始めていた。 もっと速く。もっと燃えるものを。 俺は、空を飛ぶきっかけとなったあの選手に、もう一度会いたいと願った。 その機会は突然訪れた。 父の知り合いが葵さんと繋がりがあったおかげで、俺は葵さんから、直接飛び方を教えてもらうことになったのだ。 基礎を一通り教えてもらったところで、俺は思い切って、葵さんに頼んでみた。 FCを教えて欲しい、と。 葵さんは一瞬の戸惑いのあとで、大笑いしていた。 俺の頭をくしゃくしゃと撫でて、言った言葉を、今でも覚えている。 『空は好きか?』 何て答えたのかは覚えてない。 多分、好きですとかすごくとか言ったのだろうけど、俺には、葵さんの表情の方が印象に残っていた。 優しくも、さみしそうな目。 優勝したばかりなのにそんな目をした理由が、その時の俺にはわからなかった。 「明日香は、空を飛ぶのが大好きだよな?」 明日香は黙ったまま、うなずく。 「でも、好きだからこそ辛いってこともあるんだ」 これを今の明日香に伝えるべきなのか、悩む。 でも、これからの明日香を考えれば、そのつらさはいずれ知ることになる。 「……続き、聞くか?」 「…………」 「……はい」 明日香は、さっきよりも強くうなずいた。 一言も聞き漏らさないように、じっと俺の方を見つめて。 俺は彼女に確かめるようにその目を見返すと、続きをゆっくりと話し出した。 葵さんのコーチを受けることになった俺は、そこから夢のような時間を送ることになった。 半年間、みっちりと基礎を鍛えられたあと、何歳も上の学生や格上の選手が混じった大会で、俺はいきなり3位という好成績を残した。 そして新設されたU-12というジュニアの部で、俺は有力選手として協会から強化選手の認定をされた。 メディアの取材も増えた。同じ時期、葵さんが世界大会に出場したこともあって、各務葵の秘蔵っ子という看板も増えた。 天才少年ともてはやされたのもこの時期だった。 ここが居場所なんだと、俺は思いっきり羽根を広げて、思うがままに飛び回った。 俺が飛ぶ度に、喜ぶ人が増えていった。 最初はそれが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。 ……しかし。 「はあっ……はあっ……なんだよ……もう」 じわりと汗がにじんで、荒い息をつく。 その日、悪夢を見て目が覚めたのは3度目だった。 カラカラになった喉が痛み、視界の奥が疼く。 眠れない日が、ずっと続くようになった。 地区大会を勝ち進み、全国大会でも優勝した。 葵さんも自分のことのように喜んでくれた。 周りの大人たちはすでに世界の話をするようになっていた。 でも、そうやって勝てば勝つほど、あれだけ楽しかった飛ぶことに、恐さが付き纏うようになった。 一心同体だったはずのグラシュが重くなり、視界も狭まっていった気がした。 ――プレッシャーだった。 でも、葵さんには言えなかった。 葵さんは、誰よりも俺を信じてくれて、成長を自分のことのように喜んでくれていた。 俺が弱音を吐いたら、きっと葵さんは親身になってくれるだろう。 でも、その時の残念そうな顔を思い浮かべたら、とてもそんな気にはなれなかった。 それに当時の葵さんは、世界で更に上を目指すために猛練習を続けている頃だった。 ただでさえ貴重な時間を俺のために割いてくれているのに、この上に厄介な悩みごとまで持ち込んだら、更に負担を増やしてしまうかもしれない。 俺が憧れている各務葵という選手に、とてもじゃないけど、そんなことはできなかった。 自分ひとりで頑張ろう。俺はそう決めて、プレッシャーと戦い続けた。 ……だけど、世界を相手にしての重圧は、ちっぽけな俺の身体では到底受け止められなかった。 「ううっ……気持ち悪い……ぐっ……」 悪夢と不眠は、その度合いを更に高めて、毎夜のように続く吐き気へと変わっていた。 「なん……で、こんなに」 うなされ、ふと棚の方を見ると、自分が取材を受けた雑誌や、表彰された賞状が目に入る。 「こんなはずじゃなかったのに……」 なんでこんなに、苦しい思いをしなくてはいけないんだろう。 空を飛ぶのって、もっと楽しいはずだったのに。 誰よりも高く、速く飛ぶことは、とても楽しいことだった。 でもそれを果たすためには、相手と戦い、勝ち続けることが求められた。 楽しいことがずっと続けばいいと思った。だから練習して試合にも勝ち続けた。 それなのに、勝ち続ければ勝ち続けるほど、楽しさとは別のなにかが俺にのしかかってきた。 今はもう、俺にあるらしい『才能』と、勝つことで得られる『栄誉』だけが、プレッシャーを誤魔化す材料になっていた。 ……でも、もはやそれが誤魔化しきれないほど大きくなっていることに、俺は気づいていた。 「飛びたいだけだったのに……」 「楽しく飛びたいだけだったのにな……」 汗でじっとりと濡れた手を見つめながら、俺は自分に問いかけていた。 でも、答えは何も返ってはこなかった。 ……そして、世界大会を翌週に迎えたあの日。 俺は練習中に偶然出会った、見知らぬ少年と戦った。 負けるなんて微塵も考えていなかった。全国を制した自分が、FC未経験の素人に、負けるはずがなかった。 それなのに、あいつは……。ほんの1〜2時間程度で、驚異的に上手くなっていった。 俺が必死に練習してモノにした技も、泣きベソをかきながら繰り返した飛び方も。 ほんのちょっとのコツを手がかりに、次々と自分の物にしていったのだ。 「凄いな。キミはそういう風に飛ぶんだ。これ、面白いね」 面白くなんかない。 いいから、俺から奪っていったもの、返せよ。 「ねっ? ね〜! もっと凄い飛び方をして見せてよ」 見せないよ。お前は、俺の物をどれだけ奪うんだよ。 葵さんと、頑張って作ってきたものを、なんでお前は、そんな風に。 返せよ、返してくれよ。 「どうしたの? 試合は?」 うるさい。もうしないよ。 だってこれ以上したら……俺は。 聞くな、聞くなよ、そんなこと……! 「どうして?」 うるさい、帰れよ、もう来るなよ! どうしてとか、聞くなよ!! 聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな聞くな!!!! 「はあっ……はあっ……はあっ……!」 目の前には、破り捨てられた雑誌と賞状。 貰ったトロフィーは、首の所から真っ二つに折れていた。 「なんだよ……なんだよっ!!」 飛び散った破片を掴んで、床に投げつけた。 俺のことを書いた記事の、『天才』という部分がふと目に入った。 涙で滲んだ視界の中、その二文字が揺れる。 「ははっ……はははっ……」 自嘲してその破片を見つめる。 「天才なんて……どこがだよ……俺みたいなのが」 何もかもすべて奪われた。 ずっといられる場所だと思ったのに。 ずっと空を見ていられると思ったのに。 ずっと自分が先にいると思っていたのに。 全部、ボロボロになって崩れてしまった。 「あいつみたいなのが、本物の」 何もかも一瞬で身につけてしまう、あいつみたいなのが。 あいつみたいなのが、空にいるべきなんだ。 「ひっ……ぐすっ……くっ、くそぉぉっ……!!」 忘れよう。 空のことも、世界のことも、FCのことも。 俺はもう、葵さんと同じ場所にはいられないんだ。 空にいることすら、許せないんだ……。 「それで俺は、空から逃げたんだ」 ずっと、話し続けた。 どうしてFCをやめたのか、何を考えていたのかを。 いま、ここにいる明日香に、昔、ここにいた俺が話しているというのは。 過去を清算しているのかもと、少しだけ思った。 「恥ずかしいな、俺」 「格好つけて、みんなに、明日香に、色んなこと言ってるわりには、自分は一番ズルくて、逃げてばっかりいた」 「コーチ、失格かな」 イリーナの前では、あれだけ啖呵を切ったけれど。 それは、明日香を馬鹿にされたくなかったからで。決して、俺自身が強くあったわけじゃなかった。 一本つなぎ止めた線で、どうにか立ち向かっただけだった。 「そんなこと……」 明日香は、絞り出すような声で。 「そんなこと、ぜんっぜん、ないですから!!」 「話を聞いて、思ったんです。晶也さんは、やっぱり最高のコーチだって」 「そんなことないよ」 「そんなことあるんです!」 すぐに否定され、言葉を続けられた。 「晶也さんは、つらかった過去があって、だから、わたしみたいなダメな子にも、教えられるんです」 「でも俺、逃げたんだ」 「でも、それがつらいってわかるから、つらいんだよって教えられるじゃないですか」 「そんなの、誰にだってできることじゃないんです」 「…………」 「だからそんな、悲しいこと言わないでください」 「晶也さんはかっこよくて、やさしくて、それに、飛ぶことの楽しさを教えてくれた人なんですから」 「俺が……」 『飛ぶことの楽しさを教えてくれた人』 明日香の言葉と、そして、俺が葵さんに言った言葉。 ふたつがリンクして、思い出される。 憧れは、常に憧れであってほしい。俺もまた、葵さんにそれを求め続け、そして応えてくれた。 なのに俺だけが、それを否定するなんて、それこそ、逃げじゃないか。 「明日香」 「は、はいっ」 「……ごめん、もう弱音は吐かない」 「明日香がかっこいいと言ってくれてるのに、それにふさわしくないと、な」 「あ、あの……わたし、余計なこと、しちゃいました?」 「そんなことないよ……そんなこと、ない」 明日香の頭を、ポンと軽くたたく。 「ありがとう、元気出た、ほんとに」 「…………っ」 「はいっ……」 そうだ、俺がこの子の前で落ち込んでいてどうする。 そういうのは自分ひとりでやっていればいい。この子の前では、ずっと憧れであり続けないと。 「よし、じゃあ今日はもう帰るか」 差し込む光がオレンジ色に変わりかけ、そろそろ夕方になろうとしていた。 「明日香も帰る準備して……?」 明日香の方を見る。 なんだか、キラキラした表情をして、こちらを見つめていた。 「晶也さん、わたしの……わがままを聞いてくれませんか?」 「わがまま……って?」 「わたし、見たいんです。晶也さんが、飛んでいるところ」 「見せてください、日向晶也が、どんな選手だったのか」 「………………」 窓の外から風景を眺める。 オレンジ色に変わりつつある空の向こうに、細く伸びる飛行機雲が見えた。 あの、果てしなく広い世界を駆け巡りたいと、ひたすらに思い続け、飛び続けた。 「――空を見ろ。空を見続けろ。答えはそこにある」 小さく、強く、言葉を連ねる。 知らず握りしめていた手は、しっかりと硬くなっていた。 「ごめんなさい、練習用のシューズしかないのに」 「いや、仕方ないよ、それは」 部室の道具箱に入れてあった、汎用タイプのグラシュ。 使えそうだったので、ひとまずはそれを履くことにした。 「……何年ぶりだろう」 自分の足下が、違和感の塊になっている。 通学用のグラシュと比べると、やっぱり感覚が全然違う。 「あのっ、もしやりにくそうだったら、また他の日にでも……」 「いや」 明日香の言葉を否定し、ニコッと笑いかける。 「――十分だ、これで」 そして。 ゆっくりと落ちかけている、夕日の方をめがけて。 ――何年かぶりに、飛んだ。 「あ……ああっ」 明日香の驚く声が、後ろの方で微かに聞こえた。 まずは直進。ファーストラインを想定し、空気抵抗を少なくした状態で一心に飛ぶ。 「すごく、すごく速い……っ!」 思ったよりもずっと、身体が覚えていてくれたようだ。 (ありがと、俺の身体) 久々の競技用グラシュだったけど、あまりブランクを感じなかった。 シューズを抱いて寝てたぐらいハマっていた、あの頃の感覚。 それが今も生きていることに、ちょっと感動した。 「よし、じゃあ実戦っぽいこともしてみるか!」 ターンで切り返すと、そのまま明日香の方へ向けて飛ぶ。 「えっ、ええっ……?」 戸惑う明日香に、 「そのまま! そこで止まってて。もし俺にタッチできそうなら、してもいいぞ」 「そ、そんな、いいんですか?」 「ああ、できるなら……な」 言いつつ、スピードを上げる。 「明日香、見ていろ!」 「は、はいっ」 「セカンドブイの先に敵が待ってる時の対応だ」 動きを止めることなく、更に突っ込んでいく。 「いつも、ここで一旦停止するだろ?」 「で、ですですっ」 「こういう抜け方もある!」 明日香の正面へ全速力で当たりつつ、その直前で少しだけ軌道を変える。 「わわっ……!」 小さな半円を描くように、明日香の部分だけを最小限の動きで避け、スピードを落とさずに突き抜ける。 飛ぶことに慣れきっていないと、振り回されてしまう技だ。 「いいだろ、これ!」 「はいっ! こんな避け方、初めて見ました……!」 「よし、じゃあ次はドッグファイトだ……」 またターンし、明日香の前で一時停止する。 「この状態で、カゴを抜けるための方法はいくつかあるけど……」 「今練習してる、矢継ぎ早に攻撃を仕掛ける方法ですねっ」 「うん。でも、それより強い方法ってのも、あるんだ」 「それは……どういう?」 「こういうこと」 まずは明日香の左側に向け、勢いをつけて飛ぶ。 「あ、逃がしませんよっ!」 明日香が反応し、右に飛んで俺の背中を狙う。 その手が、近づいてくる瞬間に。 「よし、今だ!」 明日香の反動を利用し、背面跳びを仕掛ける。 「あ、これって……」 まさしく明日香の必殺技、バク宙からの形勢逆転だ。 「でもこれは読めますっ!」 明日香がすかさず身体を反転させ、俺の背面に回ろうとする。 「いい反応だ、でもっ!」 途中で回転をキャンセルし、45度に身体をひねり、跳ぶ。 「ああっ……!」 2回連続の動きには耐えきれず、明日香は背中を晒した。 そこにタッチし、ポイントを得る。 「はあっ、はあっ、そんな動き、一体どうやってるんですか……?」 明日香が息を切らせながら、不思議がっている。 まあ、動作途中からの別の技の発動なんて、相当な慣れがないとできないからな……。 「できるようになるまで、すげー時間かかったけどな。でも、できるとメチャクチャ楽しいぞ」 「はいっ、すごく楽しそうですっ」 「ああ、楽しいぞ。明日香がもっと上手くなったら教えてやる!」 「絶対にですよ!」 夕方の柔らかな光の中で、二人とも夢中になって、ただ一心に飛び続けていった。 日が落ちることを知らせる放送も、少し冷たくなってくる空気も、まったく気にすることなく。 ここだけ時間が止まったかのように、楽しい空間は、ずっと続いていた。 「もう、こんな時間か……」 散々空を飛び回って、ふたりして疲れ果てて。 身体がそろそろ動かなくなってきた頃、夕日が空の向こうに落ちようとしていた。 「えーっ、まだまだ、飛んでいたいです……」 「実は、俺も……」 言って、二人で笑い合った。 こんなに無邪気に、空を飛ぶのが楽しいなんて。 なんで、避けてきたんだろう。今にして思えば、馬鹿みたいだ。 「晶也さん、ありがとうございました」 「えっ、なんでお礼?」 「だって、わたしのために、飛んでくれて」 「……恐かったかもしれないのに、わがまま、聞いてくれました」 「なんだかもう、わたしダメですね……いつもこんな感じで。晶也さんが優しいから、甘えてばかりです」 「そんなこと……ないよ」 「は、はい……?」 「甘えてばかりなのは、俺の方だ。それに……」 「それに、お礼を言わなきゃいけないのは、こっちの方だよ」 「え、それこそなんでですかっ?」 どこから、お礼を言わなければいけないんだろう。 ずっと、恐がっていたことから、少しずつ、ゆっくりと、手を引いて近づけてきてくれて。 「最初に、明日香が言ったから、俺はまたFCに関わろうって思えた」 「コーチをお願いした時……ですか?」 「ああ、あんなに熱心に言われるなんて、思わなかった」 「ごっ、ごめんなさい、あの時はわたしも、夢中で」 「……そう、夢中だったから、俺も思い出したんだ」 「えっ……?」 憧れを口にして、連れて行って欲しいと頼んだ日のことを。 思い出させて、鮮やかに広げてくれた。 それがきっかけとなって、次第に俺の中にも、あの時の気持ちが蘇ってきた。 飛びたい、という気持ちが。 「俺、今明日香が背中を押してくれなかったら、もうずっと、FCをやることはなかったと思う」 明日香はどこかで、俺のその気持ちを、感じ取ってくれたのだと思う。 それを、本人なりの優しさで、わがままを言うフリをして、言ってくれた。 「ありがとう……明日香」 「…………」 「俺、明日香と一緒に空を飛べて、本当によかった」 どれだけ、明日香に助けられてるのだろう。 イリーナからあれだけ否定されても、明日香は精一杯の言葉でそれに立ち向かってくれた。 俺のことをどこまでも肯定してくれた。 いくら感謝をしても、足りないように思う。 「さ、じゃあ今度こそ帰ろうか。明日からまた練習も……」 家の方を向いて、飛ぼうとした。 「晶也さん」 そこで、名前を呼ばれて、振り向いた。 「晶也さん」 もう一度、名前を呼ばれた。 明日香って、こんなに柔らかい声だったっけ。 「あす……か」 応える声が、ちょっとかすれ気味になる。 ……あっ。 なんでなのか、わかった。 さっき、空を飛んだ時、無邪気で楽しかった理由が。 たぶん、俺一人じゃ、ダメだったんだ。時間だけじゃ、解決できなかったんだ。 明日香がいたから。 だから、飛ぶのが恐くなくなったんだ。 「晶也……さん」 これまで、あえて考えないようにしていた感情。 明日香の顔と、声とがきっかけとなり、波を打って押し寄せてくる。 痛めつけられ、叩きのめされた時、フッと包まれた、暖かな気持ち。 絶望の淵に立たされた時にもなお、上を向こうと思える、強くて優しい言葉。 明日香によってもたらされた数々の気持ちが、一つ一つ、思い起こされる。 「明日香、俺……」 夕日を背に受けて、暖かい光に包まれた明日香。 色々なものがこみ上げてきて、叫び出したくなって。 その感情を表すのにどうしたらいいかも、わかってるのに。 「晶也さん」 何度目だろう。 明日香が俺の名前を、また呼んだ。 「こうやって、名前を呼んでいるだけで、わたし、幸せな気持ちになるんです」 「ずっと、なんでなんだろうなって、考えていて、さっき飛んでいる時も、考えていて」 「それで今、晶也さんから、ありがとうって言われて、身体の奥の方が暖かくなって、わかりました」 「晶也さん……」 「大好き……です」 「あ……」 ……なんてこった。 ここで格好つけないといけないのに、相変わらずバカだ、俺。 「ごめん、明日香」 「晶也さん……?」 「俺、ホントに馬鹿だよ」 「こんなに明日香のこと大好きなのに、先に明日香に言わせてしまって」 「あ……っ ふふっ」 「ははっ……」 二人で顔を見合わせて、屈託なく笑った。 「明日香」 「はい」 明日香の顔を見つめる。 ずっと顔を合わせているのに、初めて会ったような気がする。 「俺も、明日香の事が大好きだ」 「…………」 「……はい、嬉しいですっ」 背中で輝く、夕日と同じぐらい暖かな笑みで、元気よく答えた、その直後。 「……ぐすっ、うれし……ですっ……わたし」 「えっ、あす、か……?」 その明日香の目から、ぽろぽろと光るものが、こぼれては落ちていった。 「あの、ごめんなさいっ、わ、わたしっ……」 「ぐすっ、その、晶也さんを見てたら、気持ちがふわーっと高ぶって、それで告白しちゃって」 「なのに晶也さんは優しく、俺も好きだよって言ってくれたのが、嬉しくて、それで……」 「それで……ぐすっ、泣いちゃいました……」 「…………」 俺は、この子の優しさに、どこまで応えてあげられるんだろう。 明るくて元気な外見の裏に、隠し持っている弱さと、それに伴った優しさ。 好きだと言って貰ってたまらなく嬉しいけれど、それは強く責任を持つことでもあるんだ。 「明日香」 「はい……」 「よろしくな、明日香」 「…………っ」 「はい、晶也さんっ……」 彼女の目には、まだちょっと光るものが残っていた。 でも俺は、それには気づかないふりをして、明日香の方を見て、笑っていた。 明日香もまた、微笑んだままで涙をこぼしていた。 日が落ちて、夜の色が周りを染めても。 ずっと、そうしていた。 「めずらしいじゃないか、ここに呼び出すなんて」 「はい。何年ぶりかな……」 「もう、忘れた。それぐらい長かった」 「ですね……」 「今日、明日香と一緒に練習しました」 「……そうか」 「久々に競技用履いたら、身体が覚えてて、昔練習した技とか、ずっと繰り返してました」 「……うん」 「……楽しかった」 「……そうか、楽しかったか」 「はい」 「……ずっと、ここで練習したな」 「あれ、ジュニアの全国大会の時でしたっけ。先生が敵役になって……」 「そうそう、あまりに私が晶也をボコボコにするから、スネて帰るって言い出して……」 「あれ、今だから言いますけどひどかったですよ! やめようかって思いましたもん」 「ははは、ごめんごめん。悪かったよ……」 「…………」 「今のが、呼び出した理由か?」 「はい」 「『FCはもうしません、話もしません、もう、思い出したくないんです……』」 「あの話をしたのも、ここだったな」 「はい、ここでした」 「私が言ったこと、覚えてるか?」 「もちろんです。『私はずっと、ここで待ってる』と」 「帰ってきたら、ちゃんと出迎えてやるから、いつでも帰ってこい、と」 「は……いっ……」 「あんなに好きだったFCをやめて、私は、晶也がどこへ行くのか、ずっと、心配だった……」 「長かったよ、晶也。本当に長かった」 「ごめん…なさい…っ」 「謝るな。私は嬉しいんだ。やっと、言いたかった言葉が言えるんだからな……」 「…………」 「……おかえり、晶也」 「はいっ……ただいま、葵さん」 「明日香ルートEND」 「部活に来いよ」 「…………はぁ」 「わざとらしく肩を落とすな。わざとらしく遠い目をするな。わざとらしくため息をつくな」 「わざとじゃない! あたしの自然な動作にツッコミを入れるな〜」 「いいから部活に来いよ」 みさきは微かに鼻で笑って、 「部活ね〜」 「来いよ」 「…………」 「…………」 みさきは間を持たせようとしているのか、長い髪を両手でかきあげた。 きっと──。みさきはイタズラっぽく微笑んで見せたつもりなんだと思う。 だけどその裏にある感情がハッキリと見えてしまっていた。 それは、悲しみとも寂しさとも怒りとも違う。もっとドロドロとしていて明確な言葉にはしづらい気持ち。 あれ? ──どうしてみさきのそんな気持ちが俺にわかるんだ? 「……あははははっ」 沈黙を埋めるためだけの、みさきの乾いた笑い声が、すぐ波の音にかき消された。 「いいから部活に来いよ。夏の大会で終わりにするつもりじゃないだろ?」 斜めに俺を見ながら、わざとらしい笑顔で、 「晶也ってそんなに積極的だった? そんな顔をして肉食系? あはっ、もしかして私は食べられちゃうとか」 「食べるわけないだろ」 「わけないんだ。あははは……意外とおいしいかもよ?」 「残念だけど、脂身の多い肉はあんまり好きじゃない」 「私の肉質はそんなんじゃない! ちゃんと赤身でキュッとしまってる!」 「どうだか。霜降り肉みたいに脂のサシがはいってるんじゃないか?」 みさきは大きく髪を振り乱して、 「そんなわけない! 失礼すぎる!」 「まあ、それはどうでもいいとして」 みさきは、ドンッ、と靴の裏で砂浜を踏み叩いて、 「どうでもよくない! 傷ついた! 冗談だとしてもちゃんと否定して!」 「みさきが部活に来たら否定するよ」 「……は〜。んー。なんだかなあ。晶也はどうして、そんなに部活に来て欲しいわけ?」 「どうしてって……」 そんな根本的なことを質問されるとは思っていなかったから、軽く戸惑ってしまう。 「…………」 みさきが思いっきり不満そうに見つめてくるので、慌てる必要なんかないのに慌ててしまう。 「別に、どうしてって言われても困るけど……」 「ふ〜ん。困っちゃうんだ?」 「困るよ。部員に部活に来て欲しいと思うのは、コーチとして当たり前のことだろ? そこに特別な理由なんかないだろ」 「ふーん、コーチとして、ね……」 みさきは砂浜に、つま先をぐりぐりと回して押し付ける。 「他になにがあるって言うんだ? 言いたいことがあるんだったら言ってみろよ」 「いや、別に〜。……はぁ」 「別に、って言うなら遠い目をしてため息をつくな」 「晶也はどうしてコーチをしてるの?」 「どうしてって……。俺がコーチをするように仕組んだのはみさきだろ?」 「仕組んだって程のことじゃないでしょ。あの時はそうした方が面白いかなって、そう、思っただけのことだってば」 「…………。──で、どうだった? 面白かったか?」 「うん……面白かったよ。気づいてもらわないと面倒だから一応、言うけど過去形ね」 「……そっか」 「あのさ──」 「うん?」 「あのさ。……コーチってそんなに真面目にやるようなこと?」 ……なんだ? どうしてそんなことを聞いてくるんだ? 「なんだよその質問……」 「いいから、答えてよ。答えて欲しいから質問してるんだって」 「…………。…………。──どうだろう。わからないな」 みさきは意外そうに俺を見つめて、 「わかんないんだ?」 「だな…………わかんないよ」 「何を真面目にして、何を真面目にしなくていいのかなんて、そんなこと真剣に考えれば考えるほどわからなくなる」 「わかんないのにやってるのか……」 みさきは小さく苦笑して、 「最近、晶也は明日香に影響されてたから、ハッキリと何か理由を言うんだと思ってた」 「何かって何だよ」 「わかっていれば質問なんかしない」 「そうかもしれないけど、それって簡単に答えていい質問じゃないだろ?」 「そうかもね」 「……なんだよ、もう」 「……なんでもないよ、もう」 互いの様子を伺うような曖昧な沈黙。波の音が、耳に絡み付いてくるような気がして、やけにうるさい。 波の音に耐えていると、体の内側から音がしてくる。 トクン、トクン、と、鼓動が。 心臓が少しずつ上がってくるような気がした。 みさきが耐え切れなくなったように口を開く。 「何か言ってよ」 「部活に来いよ」 「……言うことはそれだけ?」 本当は──。もっと言うべきことがあるのだと思う。 わかっている。みさきが何を言って欲しくて、何を言って欲しくないのか。 きっと、その二つはまったく同じことで──。 真藤さんのこと。乾のこと……。──そして明日香のこと。 「…………」 わかってるんだ。何か言わないといけないってことくらいわかってる。 ──それなのに。 言葉が出てこない。喉の奥で詰まっている。 「……ねえ? 素直に答えてよ」 「なんだよ」 「あたしと明日香はどっちが強い?」 「みさきだろ」 「そうだね。あたしが勝つね。じゃ、二試合目はどう? 三試合目はどうかな?」 「みさきが勝つだろ」 「ふーん……じゃ、質問を変える」 みさきは少し意地の悪い笑みを浮かべ、 「あたしが明日香に勝てるのは何試合目まで?」 「っ…………」 「黙ってないでさ、答えてもいいんだよ」 意地の悪い笑みは苦笑へと変わった。 「それは二人の練習次第だ。答えられる質問じゃないってことくらいわかるだろ」 「明日香の方が絶対にあたしより早く上手になるよ」 「そんなのやってみないとわかんないって」 「そのくらい、あたしだってわかるって」 「わかんない」 「わかる」 「…………」 センス、感覚。もしくは才能。 明日香には恐いくらいにそれがある。 真藤さんと乾の試合を見た時の様子を見て、それを確信した。 ──きっと、みさきも……それに気づいた。 「…………」 神経がささくれだつ嫌な気持ち。叫びたいのに、叫べない気持ち。 俺は前にどこでこの気持ちを──。 (あっ……) そうか……。 頭の奥に鈍い痛み。胸がよじれるようにキュッと痛む。 「晶也? どうかしたの?」 今のみさきを見ていると、あの時のことを思い出すのだ。 「晶也?」 挫折した日のこと。 きっと、今のみさきみたいな気持ちを抱えていたんだと思う。 それがわかってしまうから言葉が出てこない。 「どうしたの大丈夫?」 「あ、うん。なんでもない」 「そ、そう?」 怪訝な様子のみさきが何か言う前に、口を開く。 「……みさき、部活に来いよ」 「変に考え込むよりも体を動かした方がいい。動かないとわからないことって、やっぱりあるからな」 みさきはほっとしたように短いため息をついて、 「そうかもね……。気が向いたら行く。今日の話し合いはこれで終わりでいいよね?」 「これでいいよ」 「……あたしはもう行くね」 「…………明日、来いよ」 「はいは〜い」 心のこもっていない適当な返事をしたみさきは、砂浜を道路に向かって歩いていった。 胸が痛かった。 呼吸がうまくできず、苦しかった。 その痛みとつらさから逃れるように、俺は空に助けを求める。 でも当然のように、そこには答えなんかなくて。 ただ、いなくなったみさきの余韻を残すように、強い海風が俺の全身に吹き付けるだけだった。 海から風が吹いてくる。 陸は暖かくて海が冷たい時、その温度差で空気が移動して、海から陸に向かう。それが風になる。 海風と呼ばれる現象。逆は陸風だ。 砂が巻き上がる。 「──結構、強い風だな……」 手のひらで顔を守りながら、目を細めて砂浜を見つめる。 えっ? 風が首筋をくすぐった瞬間──。 ……っ?! ジュニアだった頃の俺の横を飛ぶ、知らない男の子。 あの時の光景が、やけにリアルに脳裏をよぎった。 ……どうして? 再び風が吹いて、 そういうことか……。 と思う。 昔、FCをやっていた頃、俺は女の子みたいに髪を伸ばしていた。 肩くらいまではあった。 髪がメンブレンに張り付くような感触や、そこから剥がれて風になびく感触が、好きで──。 「…………」 首の後ろに手をやる。 ──ここを髪でくすぐられるような感触が好きだったんだ。 ここがくすぐったい時はFCをしている時だから。FCをするのが好きだったから。 だから両親や葵さんに、髪を切れと言われても聞かなかった。 首に手をやったまま立ち止まる。空を見上げる。 ちょうどこの場所だな。 記憶が刺激される。 どんどん蘇る。 ジュニアの頃だ。 俺は葵さんに綺麗な飛び方を教えてもらっていた。葵さんが教えてくれる技術が自分のものになって──。 葵さんそのものが俺の中で溶けていくみたいで楽しかった。 試合が面白かったし、練習も面白かったし、飛ぶことが面白かったし……FCの全部が面白かった。 面白いだけじゃなくて、俺は無敵だった。負けたのは初心者の頃だけだ。途中からは負けることなんか少しも考えなかった。 勝って、勝って、勝ちまくった。自分の思ったような勝ち方ができなかったという理由で、悔しくて泣くようなガキだった。 その上のクラスでやってもそこそこ行けるはずだって思ってた。プロの大会に出たって対応できるんじゃないかって……。 だけどそういう気持ちは、少しずつだけど崩れていった。 世界大会が決まった頃、俺は不眠症になっていた。 ──世界的なスカイウォーカーだった葵さんの秘蔵っ子で、国内の大会に敵はいない。 周囲からそういう声が聞こえてくる。 楽しく飛びたいだけだったのに、勝ち続ければ勝ち続けるほど、その声に応えることが俺の飛ぶ理由になっていく。 ──圧力。 応援の声も、期待の声も、俺を潰していった。 あの時、葵さんに相談していれば解決したのかもしれない。 プレッシャーを気にしない方法を教えてくれたかもしれない。 そうじゃなくても葵さんならきっと話を親身になって聞いてくれたと思う。もしかしたら、それだけで解決したかもしれない。 だけど、葵さんは更に上を目指す大切な時期だった。そんな時に自分の悩みを打ち明けるなんて、とてもじゃないけど、できるわけがなかった。 楽しく飛びたかっただけなのに、楽しく飛んでいたはずなのに、どうやったら、楽しく飛べるのか、その時の俺にはわからなくなってしまっていた。 そして、あの夏の日。 決定的に崩れた。 軽く目をつぶる。 ──胸が痛い。 心臓がドンと弾んで、肺がキューッと縮む。 酸素が足りないよ、って体が言っている。だから肺に必死に空気を入れる。 体が酸素の溶けた血液を求めている。だから心臓が速いリズムを刻む。 その結果──。呼吸が乱れている。鼓動が乱れている。 体の欲求に応えようとしているのに、体がどんどん壊れていく気がする。 「はあっ! はあっ! はあっ! はあっ! はあっ!」 ──何が起きているんだ? 俺はそう思っている。天才少年とか呼ばれていた頃の俺がそう考えている。 敵に追いつかれる。その恐怖が全身を包み込んでいく。 相手は見たことのない男子だった。 夏休みだからおばあちゃんの家へ遊びに、本土から来たんだって言っていた。 やけに馴れ馴れしい性格で、一人で練習中だった俺に、試合をしよう、と言ってきたのだ。 飛び方はギクシャクしているし、無駄な動きが多かった。 だから最初はあわせてやっていた。一試合目は当然、俺の圧勝だった。二試合目も同じ。 だけど、三試合目で1ポイントとられて、今の四試合目で、俺は恐怖している。 俺に追いついて併走する男子と目が合った。 「…………」 男子が、ニコッ、と笑う。 「くっ!」 どうして追いついて来るんだ! 俺は速さで勝負するタイプじゃないけど、それでも素人とは比べものにならないくらい速いはずだ。 さっきまで素人みたいなヘロヘロの飛び方をしていたのに……。それなのにどうして綺麗に飛んでいるんだ?! しかも、横からふれて、バランスを崩してやったのに、あっさりと姿勢を戻して追いすがってくる。 何度もやったのに、まるで何もなかったかのように復活してしまう。 一試合目と二試合目は実力を隠していたのか? もしかしたらそうかもしれない。でも……多分──違う。 なぜなら少しずつ飛び方が良くなっているから。隠していたのを出したなら、もっと急にうまくなったように見えるはずだ。 それに隠していたんじゃないと決定的にわかるのは──。 俺に似ているのだ。 こいつは俺をマネて飛んでいるのだ。 俺は飛行姿勢には自信がある。だからスピードが出るし、バランスだっていい。 自分がどんな風に飛んでいるかは、葵さんに撮ってもらった動画で何度も確認してるから知ってる。 ──どうしてそんなことができるんだ。 背中にドロドロとした汗がにじみ出てきて気持ち悪い。油を浴びたらきっとこんな感じだ。 「…………」 俺を笑顔で見ている。 何がおかしいんだ! 何を笑っているんだ! 「……っ!」 口端からうめき声を漏らし、ぐぅ、と全身を斜め下に向ける。 ローヨーヨーで加速して振り切ろうとしたけど、ピッタリとついてくる。 「凄いな。キミはそういう風に飛ぶんだ。これ、面白いね」 「…………っ」 ──面白い? これが楽しいのか? 自分の体から何かが抜けていくような気がした。 同じ場所で飛んで、同じ競技をしているのに、俺は必死なのに、こいつは面白いと言っている。 その時、ようやく決定的な何かが起こっているんだって、思った。勝つとか負けるとかじゃなくて……。もっと大切な何かだ。 胸がチリチリとして、決定的に崩れてしまう予感がした。 ──面白い? こいつは、これを、楽しい、と、思って、いるのか? 「ねっ? ね〜! もっと凄い飛び方をして見せてよ」 血管が切れそうだ、って表現がある。それの意味がわかった。 太い血管が切れたみたいな感じがして、頭がカーッと熱くなったのだ。 ふざけるな! 面白いだなんて! 楽しいだなんて! 俺が持って来れなかった感情を持ったまま飛んでいる相手には、絶対に負けられないと思った。 歯を食いしばって必死でやって俺はここにいるんだ。 楽しいって気持ちを、どこかに落としてしまってまで、ここにいるんだ。 面白いなんて思っている奴に一瞬でも、一箇所でも、負けたらそれは自分を失うことと一緒だ。 絶対に振り切ってやるッ! そう思って前傾姿勢で加速した瞬間だった。 「……遅いってば」 そう言いながら、男の子が俺を真横から抜き去っていった。 「え?」 一瞬、世界が止まった気がした。 止まった世界が動き出したと思った瞬間、視界が真っ白になる。まるで、ミルクの中を飛んでいるみたいだ。 真っ白な風景の中を男の子が飛んでいく。刹那の時間、飛んでいるのは葵さんなのかと勘違いした。 違う。そうじゃなくて──。 あれは未来の俺だ。 未来の俺が、今の俺を追い抜いていったのだ。 全身が痺れる。先っぽの感覚が遠く、自分の手足がどこにあるのかわからないのに心臓の位置だけが不思議なくらいハッキリとわかる。 心臓から血液以外の何かが体に流れていく。それは、黒々として、ネバネバとして、どうしようもない気持ち。 俺が奪われた……。 もう飛べない。すぐにそう思った。 飛べるわけがない。 だって、未来の自分が目の前にいるのだ。俺の理想を俺じゃない奴が叶えてしまっている。 だったら俺が飛ぶ必要なんかない。俺はもう飛べない。その必要がない。 だって、楽しく飛べない俺の前を、楽しそうに飛んでいく俺がいるのだ。 吐きそうだ。 海の上のフィールドから離れて、手足を初めて飛んだ日みたいに震わせながら、落下するかのように砂浜に着地し、転がる。 口の中に入った砂を吐き出す。 試合を続けていれば俺は勝ったと思う。だって、全ての技術で上を行かれたわけじゃない。 だけど、試合を続けていけば、あの男の子はいつか必ず俺を追い越すと思う。 混乱する頭で必死に考える。 なんだ、これ? 俺は何年もかけてここに来たんだ! 毎日、毎日、飛んで、飛んで、それでここにいるんだ! それなのに……。並んで飛んでいるだけで俺を追い越すだなんて! たった一時間くらいで未来の俺になってしまうなんて! ──それなら。 俺が飛ぶ理由なんかない! 俺がやる必要なんかない! 同じことを何度も反芻する。 悔しい。こんなに悔しいのに──。 ──いつもと違う。 いつもなら悔しさをバネにできた。悔しいからがんばろうと思えた。 だけど、今の、この悔しさは、違う。 ──才能。 それだ。 熱いものが口から入ってきて、食道をゆっくりと通って、胃の中で溶けた気がした。 才能。 それに負けたのだ。数年かけて自分がたどり着いた場所のその先まで、たった一時間でたどり着かれてしまったのだ。 持っているものが違いすぎる。俺が悪いわけでもないし、俺の努力が足りなかったわけでもない。 今は勝てても明日はきっと勝てない。 こんな奴を見てしまって、FCを続けることなんかできない。 「どうしたの? 試合は?」 「もういい。試合はしない」 「どうして?」 不満そうに男の子の声が尖った。 その気持ち、わかる。せっかく楽しくなってきたのに、やめる、って言われたら、頭に来るもんな。 それはわかる、わかるから──。 おまえの! おまえの物語に俺を巻き込むな! 「いいからどっか行けよ」 勝手に俺を脇役にするな! 「え?」 「こんなくだらない遊びなんかどうでもいいだろ」 ほんとは、そんなこと思ってないけど──。 「空飛んでぐるぐる回って馬鹿みてー」 「……馬鹿みてーって、それをやってたんじゃないの? 馬鹿みたいだってわかっていて飛んでたの?」 「だから、今、それに気づいたんだよ。なんだよ、これ。くっだらねー」 そう言わないと、そう思わないと……。FCを否定しないと、自分を保てない気がしたんだ。 FCが上手くても下手でも俺の何かが変わるわけじゃないって。 そう考えないと、自分がバラバラになって砕けて、消えて無くなりそうだったんだ。 「そういうもんか?」 「そういうもんだよ」 「そっか」 男の子が俺を冷たく見下ろしているのがわかった。 俺の体の中に大切な何かがあって、──それは魂みたいなものかもしれなくて……。 男の子の視線は鋭いナイフみたいで、俺のそれを容赦なく削っていくみたいだった。 泣いてしまいそうなほど胸の奥が痛い。 「俺、帰るから。ぐるぐる回るのが好きなら勝手にぐるぐる回ってろよ」 そこから先の記憶はない。 家に帰るまで泣いていたのか、怒っていたのかもわからない。意外と無表情だったのかもしれない。 ただ覚えているのは、FCをやめるって強く決意したこと。 気づいた時、目の前には、破り捨てられた雑誌と賞状。貰ったトロフィーは、首の所から真っ二つに折れていた。 自分の心をもっと砕こうとするみたいに、俺はFCに関係するものを破壊していた。 「……今より小さかったからな」 未来の自分を他人に見せられて、冷静でいられるわけがない。 でも、もし今、同じことがあったとしても……。もしかしたら……。 「もしかしたら、なんてこと考えてもしょうがないか……」 あそこで終わったんだ。もしかしたらだなんて考えてもしょうがない。 「……っ」 もう昔の話なのに……。それなのにまだ胸の中で何かが蠢いている。黒くてドロドロの感情がいる。 シャツの胸の部分をねじ込むように握る。 俺はなんでコーチなんかやってるんだ? 離れたはずのFCにしがみついてるんだ? 吐き気に似た気持ちの悪さ。 ──俺は何をやってるんだ。 気安くコーチなんかやって……。俺はどうなりたいんだよ。 「……っ」 大きく口を開けて、海に向かって何かを叫びかけてやめた。 どうせ叫んで消えるような気持ちじゃないから。 それに喉の奥でドロドロにへばりついていて、どんなに努力したって、口から出てくるわけがないから。 強くなってきた海風の中で立ち続ける。 俺はあの男の子に直接的に負けたけど、みさきは明日香や乾に真藤さんを通して間接的に負けたんだろう。 ──どっちがマシなのかわからないけど。 煮え切らないのはみさきの方だろうな。 いや、俺だって充分、くすぶってるか……。 こんな気持ちなのに、砂を蹴ることさえできない。 「ふふふっ。おそい、おそい。おそいよ、明日香」 みさきは机に手をやって、右に行くと見せかけて左へというフェイントを連続で入れて、 「きゃっ!」 前まで迫ってきた明日香を翻弄して走る。 「コーチ、みさきちゃんがそっちに行きました!」 「まかせろ」 「うふふふふ! つかまえてごらんなさいな!」 俺を挑発するように、たたん、とステップを踏んで前後左右に体を揺らす。 敵を挑発するボクサーみたいな動きだ。 「ちょこまかと逃げ回るのはもうやめにしろ。そろそろ諦めたらどうだ?」 「おほほほ、この程度で諦めろだなんて……。えい、ですわよ?」 みさきは佐藤院さんの口真似をしながら、手元にあった椅子をツーッと床に滑らせた。 「うわ?!」 椅子は的確に滑って俺の進路を妨害する。 「くっ! 窓果!」 「まかせて! ほらほら〜、お菓子だよ〜。新発売だよ〜。ね? 素直に言うことを聞いたら、お菓子をあげるから」 ピタ、とみさきが止まる。 「……うき?」 まるでジャングルから出てきたサルのように唸って、 「うきっ?  お、か、し?」 「そ、そうだよ。ほら、お菓子あげるからこっちに来なさい。おいしいんだよ、お菓子」 「うき?  ……うきき、うきっ?」 「人間は恐くありませんから! 安心してついてきてください」 「そうだよ、みさザル。人間は恐くない! 優しく捕獲して、ちゃんとした動物園に移送するから、だから安心してこのチョコレートを……あっ」 「うきっ! ……と」 みさきは半身になって、さっ、と手を伸ばし、窓果の手を軽く下から叩いてお菓子を跳ね上げた。 「いただきます」 華麗にジャンプして、パシッ、と空中で掴み取る。 「みさザルは動物園よりも自由なジャングルを選ぶのさ。これはありがたくいただいておきます」 「ふふふ」 「む? その余裕ありげな笑いの意味は?」 「私が囮になっている間に、フォーメーションは完成していたのだ!」 「な、なんと!」 教室の前のドアに俺、後ろのドアに明日香が待ち構えている。 「これで教室から出ることはできないぞ」 みさきが一週間も部活に来ないまま、今日の終業式を迎えてしまった。 今日は夏休みの活動について、大切な話をしなくてはならない。だいたいいつまでも不貞腐れられては、部の士気に影響する。 もう強制的に連行するしかない! ということで昨日、みさきを部に連れて行こうとしたが、あっさりと逃げられた。 なので今日は作戦をたてて、みさきを捕獲することにしたのだ。 「みさきちゃん。もう逃げられません。そろそろ一緒に練習しましょう」 「正直、みさきがいないと、明日香ちゃんの頑張りばかりが目立つんだよね〜」 「ええ?! わたしってそんなに目立ってましたか?」 「あはははっ、明日香って真剣になると周りが見えなくなるからね〜」 「超真剣状態の明日香ちゃんが近くにいると、それだけでわたしの呼吸がとまってしまいそうだよー」 「窓果ちゃんを窒息死させそうになっていたなんて……ううっ、反省します……」 「反省しなくていいぞ。マネージャーは死んでも代わりがいるからな」 「凄いこと言われた!」 「それだけ集中できるってことは明日香の強みだから、反省する必要は一切ないぞ」 「は、はい!」 「私の死亡確定? みさき〜、私を殺さないためにも部活に来てよ〜」 「う〜ん、もう一声欲しい条件だな〜」 「私の命がかかってるのにもう一声とな……」 「あ、明日から夏休みですし、ミーティングだけでも参加しませんか?」 「そうだぞ。秋の大会に向けて、夏休みの予定を立てなきゃいけないだろ?」 「そーだよ、みさきはウチのエースなんだから、ちゃんと自覚を持ってもらわないと……」 「エースねー……」 みさきは急にニヤニヤしながら、とんとん、と踵を上げたままバックステップを連続で踏む。 「あたしにはそういうの重荷だなー」 みさきはそう言うなり、窓を開いて身を乗り出した。 「そんじゃ、またね〜」 「みさき、まさかグラシュを窓の外に隠してた?」 「指定された場所以外でグラシュを使うのは、校則違反ですよ!」 「わかってる、わかってる〜。各務先生に怒られちゃうしね……よっ、と」 そう言って校舎の外に飛び降りた。 「ちょ、ちょっと待て!」 窓に駆け寄ると、ネコみたいに上手に着地したみさきが、発着場所に向かって全力疾走していくのが見えた。 こちらを振り返りもせず、見事な逃げっぷりだった。 「逃げられちゃったね〜」 「まさかここから飛び降りるとは思わなかったよ」 「……みさきちゃん、凄い運動神経ですね」 「そうだな……」 短距離走の選手みたいな走りだ。 「靴底にバネが仕込んであるみたいに見えるね。あんなに全力で逃げられるとなんだか気持ちいいよ」 「……気持ちいいか?」 「はー……」 横で明日香がため息をつく。 「明日香のせいで逃げられたわけじゃないんだから、落ち込む必要なんかないんだぞ」 「あ、そういうことじゃなくて……。私もみさきちゃんみたいな運動神経があればよかったのにな、って思ったんです」 「明日香には明日香のいいところがあるからな。無いものねだりしてもしょうがないぞ」 「でも……。やっぱりうらやましいです。あんなに綺麗に体を動かせたら、きっと楽しいです」 「んー、そうかな。みさき自身は別に楽しいと思ってないんじゃないかな?」 「え? どうしてですか? あんな風に走れるのに楽しくないなんて……」 「楽しいとか楽しくないとかじゃなくて、みさきはな〜〜〜んにも考えてないんだと思うよ。だって努力しなくてもああいう風に走れるんだから」 「努力しなくてもあんな風に走れるなんて、とっても楽しいんじゃ……?」 「ただただ普通に歩くだけのことを楽しいとか楽しくないとか考えないでしょ? それと一緒」 「……うーん、そうですか、楽しくないんですか」 納得いかない様子で首を傾げる明日香。 「みさきはアレが普通だから。せいぜい、どうしてみんな私みたいにできないんだろ? と思ったりするぐらいだと思うよ」 「それも、嫌味とかじゃなくて、素の疑問でね」 「あれを普通だと認識しちゃうなんて、みさきちゃんは凄いですっ」 「あはは、そういうことではなくてね」 「あれ? もしかしてわたし、また変なこと言ってます……?」 「いいよ、いいよ。そういう前向きな思考を忘れずに行こうな」 「はっ、はい、わかりました……!」 「あれー? その様子だとみさき先輩に逃げられちゃいました?」 振り返ると、真白がドアのレールの上に立ってこちらを見ていた。 「オッス、真白っち。その通り、逃げられちったよ〜」 「窓から飛び降りてそのまま元気よく走っていった」 「凄い運動神経でした」 真白はため息をつきながら近づいてくると、 「飛び降りるとはまた無茶なこと……。それでも無事だったとは、さすがわたしのみさき先輩です」 「いつの間にみさきは真白っちのモノになってたの?」 「いずれそうする、という予定です! ……それでここに来るまでぼんやり考えていたんですけど、逃げられてよかったと思いますよ」 「その真意は?」 「みさき先輩って、なかなか『真白ラブ』になってくれないところを見てもわかるように、頑固なところありますからね」 「それをみさきの性格を計る物差しにするのはちょっとどうかと思うぞ」 「まー、頑固なとこがあるのはその通りだと思うよ」 「負けず嫌いですしね……。ドッグファイトの練習をしてる時とか、1点でも取られたら本当に悔しそうにしていますよね」 「練習中マイペースなのは頑固だからかもな……」 「ですから、しばらく放流というか、好きなようにさせておくのがいいと思います。押せばより頑固になるだけだと思いません?」 「でもさ、みさきの性格をそこまで理解してるのに、真白っちはどうしてぐいぐい押すわけ?」 「その程度のことでやめられるような愛じゃないからです。みさき先輩にぐいぐい行くのをやめたら、わたしはわたしじゃなくなります」 「そんなとこで自己を認識してたのか……」 「みさき先輩は夏の大会からまだ立ち直ってないんですから、そっとしておきましょうよ」 「それだけみさきちゃんは本気で試合してたってことですよね?」 「そういうことになるんだろうけど……」 みさきが抱えているのは、明日香が想像しているだろう、試合に負けて悔しい、という単純な気持ちじゃないと思う。 「みさき先輩がやる気になるまで、温かく見守っていればいいのです」 「みさきちゃんのことをよく知っている真白ちゃんがそう言うならそうなんでしょうね」 「でもさ……。見守るのはいいんだけど、ずっとやる気にならなかったら、ずっと見守ってるのかな?」 「うっ」 「うっ」 「うっ」 「うっ」 「ずっとやる気にならないなんてそんなことないですよ……多分」 「このままやめちゃうってことも意外とあるかもよ〜」 「……あるかもな」 「こっ、コーチ!」 「そんなこと絶対にないですってば!」 「とにかく、なるようにしかならないし、みさきのことはみさきが自分で決めることだ。部活は強制参加じゃないんだからな」 「それは……そうですけど」 不満そうに明日香はうつむいた。 「今日はみさき抜きでミーティングをするしかないな。じゃ、部室に行こうぜ」 「だねー」 「みさき先輩には後からわたしが伝えておきますね」 「……ん?」 「…………」 みんなが教室から出て行こうとしているのに、明日香がじっと外を見ていた。 「どうした?」 「……みさきちゃんってやっぱり凄いですね」 「部に来ない事のどこが凄いんだ? サボってるだけだろ?」 「だけ、ということはないと思います。だって部に来る方が精神的に楽じゃありませんか」 「そうかな?」 「部活に参加していれば目標に近づいてるって思えます。練習をせずに、結果と向き合う方がつらいと思いませんか?」 ──それは。 明日香の言っていることは間違いなく事実だ。練習をしている方が楽だ。 夏の大会が終わった次の日、俺はみさきに体を動かしている方が楽だってことを言った。 「みさきちゃんは真剣に向き合って、何かを見つけようとしてるんでしょうか……?」 ──たぶん、それは違う。 見つけようとしているんじゃなくて、きっと、逃げようとしてるんだ。 俺があの時にそうしたように──。 逃げ続けていれば、つらいってことにも馴れて普通になって、考えなくて済むようになるから……。 みさきの心の中を想像する。それはすぐに昔の自分の気持ちを思い出すことにつながってしまって……。 ──つらいから、考えるのをやめた。 「今日もみさきは来てないのか?」 「来てませーん」 不満そうに顔を歪める。 「はー。夏休みでもみさき先輩に会えるからFC部を続けてるのに……」 「そんな理由で来てたのか?」 夏休みが始まって一週間たった。 夏の大会が終わってから約二週間。みさきは一度も練習に来ていない。 「こんなに練習に来なくてつらくないんでしょうか? 私だったら耐えられないと思います」 「……まさかこのままやめちゃうなんてことないですよね?」 「無理矢理にでも連れて来た方がいいんじゃないかなー」 「何度も言うけど部活は強制参加じゃないんだから、来たくないならそれはしょうがないことだ」 「……そうですけど」 「真白っちがみさきの様子を見に行ったんじゃなかったっけ?」 「行ったんですけど、あやふやにごまかされたと言うか……。部活の話になると逃げられたというか……。後輩で愛してる立場だと強く言えないじゃないですか」 「そこが愛の見せ所なんじゃないの?」 「わたしは愛に翻弄されたい派ですからねー。みさき先輩に翻弄されるこの状況、それほど苦ではないです!」 「そんなこと力強く言われても……」 変なとこで需要と供給が一致してるな。 「真白っちは想像以上にダメ男に引っかかりそうなタイプだねぇ」 「そんなことないですっ! ちょっと愛が深いだけです!」 「それはともかくとして、そろそろコーチの出番じゃ?」 「俺が行っても逃げられるだけだろ」 「そんなことないと思います! みさきちゃん、コーチの話なら聞くと思うんです」 「仮にみさきが俺の話を聞くとしてだ。何を話せばいいんだ?」 「部活に来たらどうかな? という話じゃないんですか?」 「それはわかるけど、来たくないって言っている奴に何を話せばいいんだ?」 「それは……その……。みさきちゃん、やる気はあると思うんです。ただ、そのうまく行動で表せないだけで……」 「うまくも何も、やる気があるなら練習に来ればいいだけのことだろ?」 「そ、そうですけど……。だけど、その──」 「その程度の意思表示もできないってことは、やる気がないってことと一緒だよ」 「そ、そうかもしれませんけど……」 「はいはい」 パンパン、と窓果が手を叩く。 「そんな風に明日香ちゃんをいじめてもみさきが練習に来るわけじゃないでしょー」 「いじめた覚えはないぞ。ただ本当のことを言っただけだろ?」 「本当のことだからって、明日香ちゃんを責めるような口調になっちゃダメだよ〜」 「……うっ」 そう、聞こえてしまってたか。 「ごめん、明日香。乱暴な言い方してしまったな」 明日香は慌てて首を横に振って、 「いっ、いいえ。私の方こそ何も考えずに喋っていたと思います」 「それにしても兄ちゃんとみさきがいないと、練習が単調になっちゃうよねー」 「確かにな……」 夏の大会が終了後、部長が引退し、基本的に部にも顔を出さなくなった。 生粋のスピーダーである部長と生粋のファイターであるみさきがいるのは、練習するのに都合がよかった。 スピーダーに先行された時の定石や、ファイターに追い詰められないようにする飛び方とか、シチュエーションを作っての実戦的な練習ができたからだ。 「少しの間、兄ちゃんに戻ってきて貰う?」 「うーん、今も一応、部長ってことになってるけど……。」 部長職自体は俺が継いでいたけれど、なんとなく今も部長と呼ぶことになっている。 「うううう! ごめんなさい! わたしがもっと上手だったら……」 「なんで真白が謝るんだよ」 「だって私がみさき先輩や明日香先輩くらい強ければ、練習に幅ができるし、切磋琢磨できますよね?」 「でも、今の私だと明日香先輩の足を引っ張るだけで……」 「そんなことないです、そんなことないです! 私はまだまだ真白ちゃんに追いついたとさえ思ってないです」 確かに夏の大会の前の試合では、真白は明日香に勝っていたけど……。 「ううう〜。真藤さんとあんな試合をした人にそんなこと言われても……」 「あ、あれは夢中だったから、その……。自分でも信じられないくらいですから……」 明日香は夏の大会で何かを掴んだからな。 真白も佐藤院さんとの試合で何かを掴んだと思うけど、明日香ほど大きなものではない。 「やっぱり兄ちゃんを召還しよっか? 喜んで来てくれると思うよー」 「進学のための勉強とかあるだろうし、そう簡単に呼ぶのもな」 「別にいいと思うけど? 勉強するぞー、と唸りながら筋トレしたり、だらだらとシトーちゃんねるを見てるだけだし……」 ──そんなんで進学は大丈夫なんだろうか? 「いずれ来てもらうかもしれないけど、今は基礎練習をしっかりとする時間だ」 「はい!」 「また基礎ですか〜、う〜」 「なんでも基礎は大事なんだぞ」 「綺麗な姿勢で飛べるようになるのって楽しいですよ?」 「真白はスピーダーなんだから、綺麗な姿勢を維持することが大事なんだぞ」 「わかってますってば。お二人はいつも前向きで正しいことばかり言うんですから……」 「いいから、アップとして軽くフィールドフライだ」 「はい、FLY!」 「いくにゃん、と」 2人が起動キーを口にして飛んでいく。 「ねえ、日向くん」 「ん?」 「……正直、明日香ちゃんと真白っちの2人じゃ練習に限界があるでしょ? 実力差も結構あるし」 「まあ……な」 俺は真っ直ぐ前を向いたまま頷く。 今の明日香ならみさきといい試合をすると思うから、練習もそれなりに熱が入るんだろうけど……。 今、下手に明日香と真白の練習試合をさせたら、実力差を実感した真白がやる気をなくしてしまうかもしれないし、明日香は真白に申し訳なく思って萎縮するかもしれない。 メリットがほとんどない。 「他の学園との共同練習を入れる予定だから、実戦的な練習はそこで補うしかないな」 ……ん? 上空に気配。 「どうだ? ちゃんと練習してるか?」 とん、と葵さんが俺のすぐ横に下りてきた。 「ちゃんとして……ではないですね」 「ああ……また鳶沢はさぼってるのか」 「強制的に来いって言うわけにもいかないですからね」 「言った方がいいんじゃないのか?」 「部活なんですからそういう訳にもいかないですよ」 「鳶沢は少しぐらい強く言われたがってるかもしれないぞ?」 「それはどうですかね〜。みさきは干渉されるの嫌いですからー」 「好きな男が相手なら話は別だろ?」 「無意味にからかわないでください」 「いやいや、あり得るかもよ? 乙女のアンテナがその可能性ありと受信しました」 「そのアンテナ腐ってるぞ?」 「感度良好だよ、しっつれいな!」 葵さんは俺たちのやり取りに軽く笑ってから、不意に表情を改めて、 「私にはわからないが、晶也にならわかるんじゃないのか?」 「何がですか?」 「鳶沢が来なくなった理由に決まってるだろ」 「夏の大会の結果がショックだったんじゃ……」 「その先の話だよ」 「先?」 「同じく飛ばなくなった者同士だろ?」 「まだ、みさきは飛ばないって決めたわけじゃないです」 「まだ、な。そうなる前に、晶也にならできることがあるんじゃないかと、ふと思っただけだよ」 「……俺にできること、ですか」 葵さんは話を変えるようにフィールドに目をやって、 「倉科はここ2週間でずいぶん伸びたな。飛行姿勢がだいぶ綺麗になった」 「そうですね」 「スピーダーを相手にスピード勝負をしても、いい勝負ができるんじゃないか?」 「できると思います、はい」 いろいろ試してみないとわからないけど、明日香は真藤さんみたいに、スピーダー寄りのオールラウンダーの適性があるのかもしれない。 ──エアキックターンを自在に使いこなせるから、バリバリのファイターに向いている可能性もあるよな。 コーチの方針次第でどういう方向にも育っていきそうだ。 「…………」 じーっ、と練習をみつめていた葵さんが、 「ふ〜ん」 何かに納得したように鼻を鳴らした。 「どうかしましたか?」 「練習試合の予定は入れてるんだろうな?」 「幾つかは決まってますけど。詳しくは窓果に聞いてください」 「スマホに部のスケジュールを入れてますから、ちょっと待ってくださいね〜」 窓果はスマホをくいくいと指でなぞってから、葵さんに手渡す。 「四島中の学園に練習試合は申し込んでますよ。高藤と水産とはもう日程まで決まってますし。高藤との合同合宿だってバッチリです」 「どれどれ……少ないな。これの倍は入れるんだ」 「倍?!」 「そんなに?!」 「なんなら私の紹介で、社会人や大学生と試合をしてもいい」 「ちょっと待ってください。そんなに試合をする必要がありますか?」 「倉科は試合で伸びるタイプだろ。それならガンガン実戦に出した方がいい」 「そうかもしれませんが……」 「それに倉科だって試合をしたがってるように見えるぞ」 「話したんですか?」 「話さなくても、あの弾むような飛び方を見ていたらわかるさ。晶也も昔は、ああいう飛び方をしていた」 俺は一度、口を閉じてから、 「明日香が教えやすいタイプだとして、みさきはどういうタイプだと思います?」 「なんだ急に?」 「特に理由のある質問じゃありません」 「むらっけのある天才肌、だろ?」 ──天才肌って嫌な言葉だな。 練習を見つめる葵さんの横顔に向かって、 「みさきは天才だと思いますか?」 葵さんは軽くびっくりしたように俺を見つめ返して、 「まさか」 「思わないってことですか?」 「天才なんて滅多にいないから天才なんだ。天才らしく見える人間は無数にいるけどな」 そこらへんの冷静な考え方は白瀬さんと一緒だな。 「もっと具体的に説明してもらえませんか?」 「具体的にね──。例えば鳶沢が凄いのは反射神経だな」 「はい」 「ドッグファイトでそれはとても有効だ。だけど鳶沢はそれだけで勝負しすぎだろう? 咄嗟の判断で、動いているだけだ」 「先、先の動きを読んで、試合を組み立てていないということですか?」 「そういうことだ。総合力がないという意味では鳶沢は青柳と同じタイプだな」 ここらへんの意見も白瀬さんとだいたい同じか……。 ──本当にそうなのか? 小さな違和感が胸を刺す。 みさきはその程度の選手じゃないと思う。だけど、どうしてそう思うのかわからない。 「今の話、先生からみさきに伝えたことはあるんですか?」 「ないね」 「どうして伝えてやらなかったんですか?」 「それは晶也の仕事だろ?」 「そうかもしれませんけど……」 葵さんは口元に少しだけ険しいモノをにじませた。 「選手には様々なタイプがある。だけど突き詰めれば、選手自身にどこまでやる気があるのか? ということになると私は思う」 「才能のあるなしではなく?」 「ではなくて、だ。どれだけ才能があっても、やる気がなかったら意味がないだろ?」 「……みさきはやる気のない選手だと言うんですか?」 「そうは言わないが……。教えたことに関して、そうですか、と聞くタイプじゃない。私には私のやり方があると反抗するんじゃないか?」 それなりに素直なとこもあるんだけど、葵さんにはそう見えていたのか……。 「そういうタイプの選手を教えるには、どうすればいいんですか?」 「病人が自ら病院に行くには、自覚症状が必要だろ?」 「そりゃ、まあ」 定期健診でもなければ、病気だと気づく前に病院に行く人はあまりいないだろう。 「つまり、そういうことさ」 「気づかせてやるのもコーチの仕事なんじゃないですか?」 「わかったのなら、そうしてやればいいさ」 「…………」 ──気づき、か。 俺はあの時、自分の限界に気づいてそのままになってしまった。 全身が、ズキン、ズキン、と痛む。鋭利な刃物で刺されているみたいだ。 ──あの時に見た限界は、 本当の限界だったんだろうか? わからない。 「鳶沢を心配する気持ちもわかるが、今は練習してる倉科と有坂をしっかり見てやれ」 「わかってます」 大きく頭を振って、パンパンと両手で両頬を軽く叩き、余計な思考を頭の中から振り落とす。 この時、振り落として振り落として最後に残ったのは……。 ──本当にみさきはその程度の選手なのか? 頭の中にそれを否定する言葉も肯定する言葉も出てこない。 「……今日の練習はもう終わりか」 「クールダウンに入ってますからね」 「明日も見に来るよ」 「先生、夏休みに入ってから毎日練習に来てますね」 それまではあまり来ていなかったから、意外だった。 「ま、少々気になることがあってな」 ──気になることか。 間違いなく明日香のことなんだろうな。 「じゃ、私は先に帰るから、後はよろしく」 「はい」 「お疲れ様でーす」 窓果は葵さんが消えたのを確認して、 「んじゃ、どうする?」 「ん? どうするって何が?」 「2人にスピード勝負をさせて、負けたら服を一枚ずつ脱ぐ練習をするのかって話」 「そんな話をした覚えは一切ないんだが」 「2人とも結構きゃいきゃい喜んですると思うけど?」 「…………。……マジで?」 「あ! エロ顔した!」 「してない!」 「した!」 「してない!」 俺は窓果の後頭部を軽く叩きつつ、俺はメガホン代わりに両手を口に当てて、 「よし、10分たったぞ。今日の練習はこれで終わりだ」 クールダウンのため、空を適当に飛んでいた2人が降りてくる。 筋肉を動かすと体内に乳酸という疲れの元が溜まってくる。練習後に軽く体を動かすと乳酸濃度が低下して、体の回復が早くなるのだ。それがクールダウン。 「さっきのエロ顔のことを黙っていて欲しかったら、わかってるよね?」 「くっ……。わ、わかってる」 前のバスをのぞいていた時と同じく、貸しにしとくということだろう。 ──なんで窓果に弱みを次々と握られてるんだ? 「2人ともお疲れー。ほい、水分補給はしっかりね」 「うひゃ〜。はひりゃとうございます」 窓果からドリンクボトルを受け取った真白が、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む。 試合の時とかは、スポーツドリンクの粉末を溶かしてあるけど、こういう練習の時はただの水。 「ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ」 「はい、明日香ちゃんも」 「ありがとうございます。んくっ。んっ……」 「ぷはーっ!」 豪快な声と同時に、ドリンクホルダーから口を離した真白が明日香を見つめて、 「もっと豪快にゴクゴク飲んでいいんですよ?」 「そうそう、女同士なんだから恥ずかしくないって」 「豪快に飲んでもらうのは全然かまわないんだけど、俺は男だからな?」 「形の上はそうですけどね」 「中身の上でも男だからな?」 なんだよこのめんどくさいやり取りは……。 明日香は窓果にドリンクボトルを返しながら、 「最近あまり喉が渇かないし、疲れないんです。きゃっ?!」 窓果が明日香の背中を変な手つきで撫で回す。 「な、なにかな?」 「水のない砂漠でも生活できるように、背中に脂肪のたまった袋ができたりしてないかなーと思って」 「私、ラクダに向かって進化してますか?」 「練習量は前と変わってないはずだけどな」 「というかむしろハードになってませんか? 少しずつハードル上げてますよね?」 「上げていると言えば上げてるけどさ」 「やっぱり! そうやってジワリジワリと気づかないうちにわたしたちを締め上げていたんですね。発想がブラック企業的です」 「変な例えをするな。できるようになったら、さらに上を目指すのが基本だ。自転車に乗れるようになってから補助輪をつけたりしないだろ」 「詭弁だ!」 「少しも詭弁じゃない! ていうか変な言葉ばかり覚えやがって!」 「練習の質が上がってるのは間違いないのに、喉が渇かないっていうのは……」 「やっぱりラクダですか?」 「ラクダに進化した人間なんて聞いたことないから安心しろ。喉が乾かないのは飛び方が綺麗になったからじゃないのか?」 「え? 飛び方が綺麗になると疲れないんですか?」 「もちろん。綺麗に飛ぶっていうのは無駄な力を入れないってことだから。綺麗になってるんだよ」 「き、綺麗に、ですか? わたし、ずーっと飛ぶの下手だったのに……」 「コツを掴んできたんだろうな」 「あ、ありがとうございます!」 「あんまり進まないでください。置いてかれるのはつらいんですから〜」 冗談めかした真白の言葉で、焦燥感が胸を突き上げる。 ──みさき。 心の中で噛み締めるように名前を呼ぶ。 明日香がこんなに成長してるのにどこで何をやってるんだよ。 「でもみさきちゃんの方が綺麗に飛びますよね?」 唐突に明日香がみさきの名前を出したので驚く。 ──偶然だよな。 「それはそうですよ。みさき先輩は無敵なんですから!」 「だとしたら、綺麗に飛んでるのに、疲れた疲れたって言ってたのは何なんだろうね?」 「半分は怠け癖からだろうけど、半分は本当だと思うぞ。スピーダーが全力を出す時やファイターが変化をつける時は、綺麗に飛んでいても疲労するからな」 「そういうものなんだ?」 「スピードを上げ続けるには姿勢維持の筋力が必要だし、急角度で向き変える時は全身の筋肉を稼動させないといけない」 明日香は体操をするみたいに両手両足を動かして、 「基礎が出来てきた、って実感があまりないです」 「試合で試してみないとわからないことってあるからな」 「対戦練習は他校との練習試合で補うとしても、みさきがいないとやっぱり練習の幅が狭いな」 言い訳しているような気分で口にする。 「みさきちゃんと試合をしてみたいです。久しぶりにみさきちゃんに上下左右に翻弄されたいです」 「まったく同感ですね」 「あははは、2人の言葉の中身は違うんだろうねー」 予想していた方向に話が流れて安心する。 「みさきは家にいるのかな?」 暑い暑い面倒くさい面倒くさいと言って、部屋でゴロゴロしてる姿が容易に想像できる。 「携帯で直接確認したらいいんじゃありませんか?」 「あいつ、電話もメールも平然と無視するからな」 「ですね。わたしの愛してますメールも冗談でごまかされるか、無視されるかします」 「それは無視されてもしょうがないんじゃないかなー」 「いきなり家に押しかけてもいいものなのかな?」 前にバランスボールを取りに行ったから場所はわかる。 「押しかけても居留守を使われてしまうのでは? おばあさんはみさき先輩に甘々ですからね〜」 「外出先で捕まえた方がいいってことか……。心当たりはないのか?」 「どこにいるかは日によると思いますけど……」 「でも、出歩くタイプでもないだろ?」 「確かにそうですけど……あ、そういえば、前に会った時はダンスで日本一を目指すとか口走ってましたよ」 「ダンス?」 「……悪性の電波が来ちゃった感のある目標だね」 「みさき先輩を全肯定するわたしでも、スルーしてしまいました」 「ダンスで? 日本一?」 都会じゃヒップでホップな若者がダンスをしたりしてるらしいけど、四島にそういう文化は入ってきてない……と思う。 「……あ。コーチ、もしかしてあのことじゃないですか?」 「ん? あのことって?」 明日香が息を切らせながら、パタパタと走ってくる。 「すみません! 遅刻しました」 「2分の遅刻なんか遅刻のうちに入らないだろ」 「いえ、時間は大切ですから」 無邪気に明日香は言った。 ──時間は大切か。確かに、少しでも時間は惜しいところだ。 明日香と一緒に、練習の前に繁華街に寄るようになって3日目。 「今日はいるでしょうか?」 「それは入って確認してみないとな」 並んで入ったのは前に3人で来たゲームセンターだ。 前に来た時はちょっとすさんだ雰囲気だったけど、夏休みに入ってからは小さな子供達が多い。 ゲームセンターにこんなこと言うのも変なのかもしれないけど、子供が多いと健全な雰囲気が漂う。 「相変わらず凄い音ですね」 「そうだな。──ん?」 洪水のような電子音の中に、いつもと違う音。暴力的な超高速ビートが鼓膜を揺らす。 「おおおーっ、この姉ちゃんスゲーぞ!」 「マジスゲー! ここまでパーフェクトじゃん!」 「この曲難易度トリプルSだぞ?! スゲー! ツエーッ!」 低年齢のギャラリーの視線の先にいたのは、ダンスゲームの筐体の上で高速で足を動かしてるみさきだった。 「ふふ〜ん」 ギャラリーの声援に、みさきは機嫌よさげに鼻を鳴らす。俺と明日香の姿にはまったく気づいていない模様。 「……楽しそうにやってるな」 「そ、そうですね」 なんというか……。──もうちょっと悲壮感のある雰囲気かと思ったんだけど。 「イエスッ!」 凄く楽しそう……ってこともないのか? 「変な迫力がありますね。ただ遊んでるわけじゃないのかもしれません」 「確かに変な迫力はあるな」 集中してやっているせいなのか、無理矢理、楽しもうとしているような、楽しくないのが楽しいみたいな微妙な顔つき。 真白が、みさきはダンスをしてる、と言っていたので、ここで踊っているんじゃないか? と明日香が予想したのだ。 「まだまだいくよ!」 みさきはお菓子を口に放り込んで、パキパキと小気味いい音をたてて砕く。 「うおおぉぉおおぉぉぉぉおぉおお! おかし食べてるーッ!」 「余裕だ! 余裕を見せてやがるぜ!」 「カッケー! マジカッケー! スゲー!」 ──ギャラリー反応いいな……。 「よーし! ラストーッ!」 踊るように両手をリズムよく揺らしてから、ダダダンッと高速ステップを踏んで、ビシッ、と決めポーズをとる。 「パ〜〜〜フェクトッ!」 「おっ、おおぉぉおぉぉ〜! ノーミス! ノーミスでた!」 「姉ちゃんスゲー! 天才だ! カッケー!」 「全国ランキングで1位いくんじゃね? 姉ちゃんなら出せるんじゃね?」 「とーぜん、楽勝〜っ。体を使うゲームなら無敵だし。……ん? ふえ?! ふわああぁぁあぁあぁあぁぁ!」 自慢そうにギャラリーに答えていたみさきが、俺と明日香に気づいた。 頭蓋骨が外れそうな変な悲鳴を張り上げ、硬直する。 「…………」 みさきは無言で筐体を降りると、 「お?」 「おお?」 ギャラリーをかきわけて逃げ出そうとする。 「待て!」 「待ってください! みさきちゃん!」 「三角関係だ!」 「エロスだ、エロス!」 「そういうんじゃない!」 子供にそう言い捨ててみさきを追う。 学園の時もそうだったけど、あいつ逃げる時は躊躇なく逃げるな。 普通ならもうちょっと長く硬直したり、戸惑ったりするんじゃないかと思う。 思いきりがいいというか、判断が早いというか……。 さすが判断力が命のファイターだな。 「よ、と……。ほい」 軽いステップで次々と人をかわして店の外に出て行く。反射神経が良すぎるぞ。 「待ってください、みさきちゃん!」 「どうしてそこまで全力で逃げるんだよ!」 「……え?」 路上に出たみさきが一瞬、とまった。 「ん?」 追って外に出てその理由がわかった。 みさきが逃げようとした方向に、 「あら? 鳶沢みさき」 「それに日向さんと、明日香さんも」 みさきの進行方向に、佐藤院さんと市ノ瀬がいたのだ。 「お願いします! みさきを捕まえてください!」 「……っ!」 振り返って俺を強く睨んでから、 「見知らぬ男に追われてるんです! 助けてください!」 「俺は見知らぬ男じゃないだろ! どうしてそんな嘘が佐藤院さんに通用すると思うんだ?」 「見知った男に追われてるんです」 「ストーカー扱いかよ」 「相変わらずにぎやかで楽しそうですわね……」 「全然楽しくない状態なので、とりあえず逃げるのを手伝ってもらえませんか?」 「よくわかりませんけど、見知った相手なら、話し合いで解決できるのではありませんか?」 「う〜」 「さすが、佐藤院さん。超正論」 「わたくしはいつも正しいことしか言いませんわ」 凄い自信だ。 みさきは呆れたようにうなだれて、 「はー。わかったって。逃げないって。降参、降参。で、晶也はあたしに何の用があるわけ?」 「どうして部活に来ないんだ?」 「……そ、それは。その──。あはははは。えーっと……。そんなこと、どーでもいいじゃない」 「みさきにとってはどうでもいいのかもしれないけど、俺にとってはどうでもよくないから、ここに来たんだ」 「そんなこと言われても……」 「あ、あのー……」 明日香が唐突に手を上げた。 「ど、どうしたんだ?」 「こういうことですよね? 私と真白ちゃんが基礎練習をしている間、みさきちゃんはゲームを使って反射神経を鍛えていた、とか」 みさきは苦笑しつつ、明日香を見やった。 「あたし……」 「はい?」 「あたしは明日香のそういうとこ、ちょっと苦手」 「え。あ、あの、みさきちゃんはFCの練習を、ゲームセンターでしていたんですよね?」 「違う! 私は……ただ……。とにかく違う!」 「違うとしても!」 「ひへっ?」 明日香はみさきに、ぐ〜っ、と顔を寄せた。 「反射神経を鍛えていたのは本当ですよね。じゃないと、あんな風に動けるわけありません!」 「だから鍛えていたわけじゃなくて!」 「わたしコーチに飛び方が綺麗になったと言われたんです。反射神経を鍛えて強くなったみさきちゃんと試合してみたいです!」 「だからあたしは練習なんかしてないんだってば!」 「じゃ、どうしてあんな得点を出せるまでゲームしてたんですか? 私にはFCの練習にしか見えませんでした。だから――」 「明日香、それ以上みさきを追い詰めるな」 「え?」 明日香はキョトンと俺とみさきを交互に見る。 「…………」 みさきは気まずそうに俯く。 「わたしがみさきちゃんを追い詰める? そんなこと……してましたか?」 明日香はFCのことになると視野が狭くなるからな。 集中力という点では頼もしいけど……。そういう無邪気な姿を見せられると落ち込む人もいるのだ。 「……悪い、ちょっと、な」 「……は、はい」 俺は少し黙っていてくれと明日香に目で合図してから、みさきの正面に立つ。 「なに?」 「練習にちょっと顔を出してみたらどうだ? 動いたら少しは楽になるかもしれないぞ」 「楽になるって、今のあたしが苦しんでるみたいな言い方だねー」 「苦しんでないって言うつもりかよ」 「……そんなこと」 みさきは苦しそうに顔を背けて。 「そんなことFCをやめた晶也に言われたくない」 「…………」 胸をえぐる一言だった。確かに、俺に言えることじゃないのかもしれないけど。 でも──。 「お取り込み中のところ申し訳ないのですけど、お話は長くなるかしら?」 「あ、変に引き止めてしまってスミマセン。こっちはもう大丈夫なので買い物を続けて……」 「あの、そういうわけにはいかないんです」 ……そういうわけにはいかない? 「もしかして、俺達、取り返しのつかない邪魔をしちゃったか?」 この騒動のせいで、バスに乗り遅れたとか、映画の開始時間が過ぎてしまったとか、そういうことをしてしまったのかも。 「いえ、そういうことではなく……」 市ノ瀬は言いづらそうに口ごもってから、 「私と佐藤院先輩はみなさんに会いに、そちらの学院に行く前に、ちょっと街に寄っていたんです」 「私たちに会いに?」 明日香と顔を見合わせる。 「合同練習は来週の予定なはずだけど」 「ですよね」 「…………」 佐藤院さんは、タンッ、とアスファルトを靴底で叩くような音をたてて、肩幅よりも広く足を開いた。 「実はわたくし──」 長い髪をお嬢様っぽくかきあげ、 「決闘を申し込みに来ましたの」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 一瞬、時間が止まったかと思った。 「ふふふ」 佐藤院さんは堂々と胸を張って、戸惑う俺達を傲然と見つめている。 「──けっとう?」 口の中で確認するように言う。物語の中でしか聞くことのない、非日常感ありすぎな言葉だ。 「そうですわ。決闘でしてよ」 「試合ではなくて?」 「することはだいたい同じですけど試合ではなくて決闘です」 「じゃ、何が違うと?」 「まず一番違うのは心意気ですわ」 こ、心意気! よくわからないけど、佐藤院さんの体内に熱き血潮が流れていることだけはよくわかる。 「街に寄ったのは赤いバラの花束を買おうと思ったからです」 「なぜバラが必要なんですか?」 「決闘に赤いバラを持っていったら素敵だと思いませんこと?」 「つ、ついていけない」 「………」 「……あの〜。そんな目で見られても困ります。今のあたしにはそういうことをするつもりはないので……。飛びたい気分じゃないし」 「いいえ、違いますわ。わたくしが決闘をしたいのは……」 ビシッ、と明日香を指差す。 「え?」 「倉科明日香! あなたとの決闘を望みます! わたくしの心の赤いバラ、あなたに託しますわ!」 「え? あ、はい。わ、わかりました? わかりましたで、いいですか? コーチ? えっと、どう答えれば……」 「えっ? いや、あの……えっと……。決闘?」 「日向晶也ではなく、倉科明日香に聞いているのです!」 「は、はい? はい!」 オロオロしながら勢いに飲まれるように、明日香は首を縦に振った。 「あはははは」 みさきは軽い調子で笑うと、 「決闘なんて凄いなー。がんばってね〜。応援してる。んじゃ、そういうことで……」 「待て! 何気なく逃げようとするな。話は終わってないぞ」 「そうです。話は終わってません」 進路をふさぐように正面に回った明日香が、みさきをしっかりと見据えて、 「とりあえず今日だけでも部活に来てください。そうしてくれないと私……えっと、その……えっとえっとえっと泣きます!」 みさきは若干のけぞって、 「な、泣くって言われても……」 「……ぐすっ」 「ほ、本当に涙をためないでよ! 明日香ってそういう脅しを平気でする娘さんだったんだ?」 「来てくれないんですか、みさきちゃん? だったら、取り返しのつかない号泣をしますっ」 「そ、それは俺も困る」 繁華街で隣の女の子が号泣というシチュエーションがまず困る。 あと、取り返しのつかない号泣、というのがどんな号泣なのか想像できなくて恐い。 「…………」 明日香は真っ直ぐな目をして、みさきの左手を両手で握る。 「わかった、わかったから、腕をぐいぐい引っ張るなー!」 「はーもー……。行くだけは行くから、それでいいでしょ?」 「本当に来てくれるんですね?」 「だから行くってば。こういう時の明日香は強引なんだから」 「やったあ! ありがとうございます!」 「そんなに喜ぶようなことじゃないと思うけど……」 「喜ぶようなことです! 私、ずっとみさきちゃんと試合をしたかったんです!」 「あたしはただ部活を見に行くだけだから……」 「それだけでもいいです!」 「言っておくけど試合をするつもりはないよ?」 「みさきちゃんと試合できるかも、と思うだけで楽しい気持ちになりますから!」 佐藤院さんはみさきにすがりつく明日香をあきれたように見つめて、 「みさきちゃん、みさきちゃん、みさきちゃん……って。倉科明日香。あなたはこの佐藤院麗子に、決闘を挑まれている自覚がありますの?」 「え?」 「不思議そうな顔をしないで欲しいですわ。決闘を申し込んだはずです。挑まれている自覚があるのかと聞いていますの!」 「いえ、あの……。えっと……。んと……。ご、ごめんなさい、わかってません……!」 「うっ」 素直に放った明日香の言葉に、佐藤院さんは絶句してから、 「今日のあなたの相手はこの佐藤院麗子!」 「は、はい」 「うふふふ。面白いですわね。その無邪気さに興味ありますわ。決闘、受けてもらいます。では、あなた達の練習場へ行きましょう」 佐藤院さんは踵を返すと、さっそうと歩き始めた。 「そういうわけですので、よろしくお願いします」 「…………っ」 「……ん? あたしの顔に何かついてる?」 「い、いえ、なんでもないです」 「あの、佐藤院さん。一応、責任者は俺です。勝手に話を進められると……」 「これは練習じゃなくて決闘です。コーチの出る幕ではありませんわよ」 「そう言われても……。明日香はどうなんだ? いやじゃないのか? 断ってもいいんだぞ」 「佐藤院さんと試合をしてみたいです。初めて試合をしてくれたのも佐藤院さんですから」 ──明日香がどれだけ成長しているかのいい目安になる、か。 「みさきはどう思う?」 「あたしに意見を求める必要がある?」 「部員に意見を求める必要はあるだろ」 「ふ〜ん。いいんじゃない?」 どうでも、が頭に付きそうな、いいんじゃない、だった。 俺は佐藤院さんに向かって、 「試合なら数日後にできるはずなのに、どうして今したいのか聞いてもいいですか?」 「合同練習の前にしておきたかったのですわ」 「だから、理由は?」 「──真藤部長との試合」 「…………」 「…………」 真藤さんと聞いて明日香とみさきの表情が微かに変化したのがわかった。 繊細な心情の機微を抜いて言ってしまえば、明日香は明るく、みさきは暗く。 「部長とああいう試合をした選手を放置しておくのは、わたくしのプライドが許しませんの」 「佐藤院さんのプライドが? どういうことですか?」 「部長といい試合をしたいと願っているのは、あなた達だけではないということですわ」 「それは……佐藤院さんもそう思ってる、という話ですか?」 「ええ、四島でFCをしているのですから、そう考えるのが当たり前です」 「そう思うなら同じ学園の同じ部に所属してるんですから、真藤さんに試合をお願いすればいいだけのことなのでは?」 「本気の試合でないと意味がありませんわ。そして本気で試合をしてください、なんてお願いできるほど恥知らずな女ではなくてよ」 佐藤院さんは不満そうに口を尖らせてから、 「それに、わたくしは高藤の次期部長ですわ。最強だった前部長を追い詰めた相手には、きちんと筋を通しておく必要があるのです」 「……学校のメンツ、って奴ですか」 「ええ。ちっぽけだとお思いかもしれませんが、伝統を背負うというのは、こういうことなのです」 笑みを浮かべる佐藤院さんの口元に、いつもと違う色が浮かんでいた。 佐藤院さんもそういう『色』を持ってるのか……。 よく言えば矜持、悪く言えば、執着。 拠り所はチームだったり、学校だったり、人によっては、自分自身だったり。 その色の濃さは、敵を認識した時に、強く浮き出る。 ──俺は自分の中にあるその色が嫌いで。だから、あの時、FCから離れたんだと思う。 佐藤院さんは俺やみさきよりもずっと、強い気持ちを持っているんだろう、きっと。 「…………っ」 市ノ瀬が不安そうに佐藤院さんの横顔を見つめている。 きっと、佐藤院さんがこういう不穏な空気をにじませることは、今までそうなかったんだろう。 確かにこれは練習試合じゃなくて決闘かもな。 それにしても──。 前からずっとあった小さな疑問。明日香と一緒に初めてFCを見た時からあった疑問。それが物凄い勢いで膨らんできた。 あれは、つまり──。 俺は佐藤院さんに近づく。 「佐藤院さん。ウチの部長、青柳紫苑と野試合をした理由はなんです? あれも決闘のようなものですよね」 「久奈浜学院の『院』を奪うためですわ」 「冗談としては面白いと思うけど……。──ウチの部長は佐藤院さんとは相性が悪くて、真藤さんとは相性が良いかもしれない」 「…………」 「四島で真藤さんに勝てるのは部長だけだと俺は思ってた。だけどそれは実力とは微妙に違う、確率的な話で……。何回かに一度は部長が勝つと思ってた。今も思ってる」 「わたくしには、青柳紫苑が何百回勝負しても、部長に勝てるとは思えません」 「確率の問題だから実力とは微妙に違いますよね? 部長は自分のペースに持ち込めば無敵の人です。佐藤院さんもそれに気づいてそれが不安になったのでは?」 「そもそもあれはそちらの部長がわたくしに、挑んできたのですから、わたくしの考えが入る余地などありませんわ」 「でもその機会に、部長にこんなんじゃ真藤には絶対勝てない、と思わせるくらいの意図はあったんじゃないですか?」 「…………」 「部長は図太い性格ですから効果はなかったと思いますけどね」 「面白くない推察です。それは日向晶也の勘違いですわ」 「気に障ったのなら謝ります。でも、強豪・高藤からすれば、うちの部長の一撃で王者である真藤さんが負けるなんてありえなかったんでしょう」 市ノ瀬は俺と佐藤院さんを交互に見て、 「そういうことがあったんですか?」 「終わったことですし、もうどうでもいいことでしょう。わたくしは挑まれた決闘から逃げなかった、それだけのことで後は日向晶也の想像です」 確かにこんなのは俺の想像なのかもしれない。 佐藤院さんはそんなことしそうにない。 だけど、強い人というのはそういう表の顔の下に、強い気持ちを抱えているものだ。 ──それが顔を出してしまうことだってあると思う。 「今は倉科明日香と試合がしたい。それだけですわ」 「ふ〜ん。佐藤院さんって高藤のガードマンだったんだ」 「ですからそれは日向晶也の想像です」 先頭に立って歩いていた佐藤院さんは回れ右をして、 「…………」 「なっ、なんですか?」 「鳶沢みさき、あなたは悔しくないのかしら?」 威圧するかのような眼差しを向ける佐藤院さんにみさきは苦笑を返して、 「悔しいって?」 「倉科明日香が自分よりも真藤部長といい試合をしたことがです」 「そ、そんなことありませんっ……」 「倉科明日香はああ言っているけど、あなたはどう思うのかしら?」 「んー、何も思わないけど」 「本当にそう思うのかしら?」 「もー、しつこいな。思わないって言ったじゃない」 「あくまで、倉科明日香と自分を比べる気はない、と」 「うん、全然興味ないな〜」 ──わかりやすい嘘だ。明日香と自分を比べることに興味を持っていないわけがない。 「そう言うのならそれでいいですわ」 佐藤院さんはみさきから離れて俺を見る。 「それでは行きましょう。あなた達の練習場へ」 上から真白と窓果が降りてくる。 「おっ、みさきの捕獲に成功したんだ」 「なんとかな」 「人を野生動物みたいに言うな〜」 グラシュを止めて、すたっ、と地面に足をつけた真白が両手を広げて、 「みさき先輩! ついにあたしに愛される覚悟を決めてきたんですね」 「そんな覚悟を決める日は来ないと思うよん」 突進してきた真白をさっとかわして、 「こらこら、いきなり抱きつこうとするんじゃない」 「どうして我慢できると思うんですか?」 「そんなこと言われてもな〜」 「みさき先輩! みさき先輩! みさき先輩!」 連続で突撃してくる真白をみさきは闘牛士のようにヒラリヒラリと避けていく。 「うわ、わっ、おっと……ふふふ、まだまだだね真白。抱きつきたいなら実力で勝ち取ってごらんなさい」 「ふ〜、手加減してくれないといつまでもみさき先輩のふわふわな胸に顔をうずめることができません」 「やけに顔から突撃してくるな、と思っていたらそんなとこを狙ってたのか……」 「最近、真白っちの動きもよくなってきたんだけど、飲み食いしてぷくぷく状態でもみさきの方がまだ上かー」 「ぷくぷくになんかなってない! むしろ痩せたぐらいだから」 「それはないかなー」 「ないとか言うなー!」 「わたしはどちらも素敵だと思います。ぷにぷにもガチガチもムチムチもペキペキも全ての状態を愛しきってみせます!」 「うへぇ愛が重いにゃ〜」 「そういや、明日香ちゃんと一緒だったんじゃないの? って、うわっ! 市ノ瀬さんがいる?!」 「こんにちは」 少しびっくりした感じで市ノ瀬は頭を下げた。 「なるほど……こういうことですね。市ノ瀬さんと明日香先輩をトレードしてきた、と」 「……何がこういうことだ。あと俺はどんな強い権限を持ってるんだよ」 「これで1年生が2人に増えるのかあ……」 「増えません。人の話を聞きなさい。ていうか、佐藤院さんも来てるんだって」 「佐藤院さんも? そりゃまたどうして」 「佐藤院さんさ……明日香と決闘したいんだってさ」 「決闘?!」 「決闘?!」 「決闘?!」 俺は繁華街であったことを簡単に説明した。 「決闘ね〜」 窓果は、呆れたような顔でつぶやく。 「明日香先輩、大丈夫でしょうか? 不安で胸がざわざわします」 「胸がペタペタになります?」 「よっ、よくもそんな残酷をことを……! ですけど、その大きいのを触らせてくれるなら、許してあげてもいいです」 「今日は胸にこだわるね〜。それは嫌だから逆にあたしが真白の撫で回してあげようか?」 「…………」 「こういう場面で、顔を真っ赤にして黙ったらダメだと思うんだな〜」 「綺麗な状態じゃないとみさき先輩に失礼ですから、シャワーを浴びてきます」 「真顔でとんでもないこと言わないように。冗談に決まってるでしょ」 「じょ、冗談ではありません!」 「言ったのはあたしなのに否定された?!」 「夏ですから、胸を冷やしておくとみさき先輩への気遣いになるでしょうか?」 「信長の草履を温めていた秀吉みたいだな」 「前から思ってたんだけど靴を人肌に温めておくって、生々しくてちょっと気持ち悪いよね?」 「もしかしてわたしの気遣いも……?」 「うんっ!」 「子供みたいな無邪気さでうなずかないでください! さすがに傷つきますっ!」 「それにしても、人が決闘って言葉を真面目な顔で口にする場面に立ち会えるなんて、長生きはするもんだねー」 「まだ学生だけどな」 「佐藤院さんも変なこと思いつくよ、ほんと」 「…………」 みさきは所在なさげに立ちすくんでいる市ノ瀬に、 「市ノ瀬ちゃん市ノ瀬ちゃん」 「は、はいっ」 「佐藤院さんって、よくああいうことしてるの?」 「そ、それが、初めてなんです。先輩は昔からやってるみたいに言ってましたけど、普段は本当に真面目な方なんで……」 確かに、ちょっと無理をして気勢を上げているようにも見えた。 「そっか……」 「それはそうとして、さっきあたしの方見てたのって、何か意味があったのかな?」 「…………っ」 市ノ瀬は微かにあごを引いてから、 「それは……っ」 「何か言いたいことがあるってことなの?」 「……言いたいことがあるとは思うんですけど、うまく言葉にできないんです」 「胸だね」 断定的に断固と断言した。 「え?」 「みさき先輩の胸がうらやましいんですね」 「真白っちと市ノ瀬さんで『胸ナシーズ』だね」 「胸ナシーズ?! わ、私はあります!」 「失礼な! わたしにだってあります! というか勝手にユニット名をつけないでください!」 「まあまあ、みさきの胸に憧れる、ない者同士ってことで」 「いつの間にか一緒にされてる……」 「ハッキリ言っておきますけど、みさき先輩の胸はわたしのモノですから!」 「そ、それはご自由にとしか言いようが……」 「市ノ瀬ちゃん、許可を出しちゃダメっ! まだ真白のモノになった覚えはないんだよ〜」 「そんなこと言ってられるのも時間の問題ですよ」 「あはははっ、あたしはいったい何をされてしまうのかしらー」 みさきは頬に浮かんでいた笑顔を消して、 「……それで、本当に思ってることってのは?」 「ああんもう、重い空気にならないようにって思って言ってたのにっ」 「ふふっ、ごめんごめん、あたし、途中でうやむやにされる方が苦手なのよね」 「みさき」 「だーいじょうぶだって、ケンカするわけじゃないんだから。別にあたし、何言われたって腹は立てないもん」 みさきは肩をだらんと下げて、わざとらしく脱力する。 「というわけで、言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってくれていいのにゃ」 「…………」 市ノ瀬は、一度だけごくりと唾を飲み込んで、 「……はい、では僭越ながら言います」 「夏の大会……いえ、合同練習の時、鳶沢さんって、独特の恐さがあったんです」 「そんなに胸の出る服とか着てたかにゃん」 「そ、そうではなくて、FCの話ですっ」 「ごめんにゃー、つい茶化しちゃうの、よくないね」 「……で、話を続けると、今の鳶沢さんは、恐いのか恐くないのか微妙です」 「……どういうこと?」 「パッと見は恐いんですけど、よく見ると恐くない気がします。変な言い方ですけど、ちゃんと恐くない感じがします」 「ひひひ。市ノ瀬ちゃんにそんなこと言われるなんてねー」 「ごめんなさい、偉そうなことを言って」 「ううん、こっちが言えって言ったんだもん。ごめんね、言いにくいこと言わせちゃって」 「……そっか、迫力無くなったか、あたし」 みさきはちょっとだけ、元気のなさそうな声を出した。 しかし、市ノ瀬がそんなことを思ってたなんてな。内心、みさきとも戦ってみたいと思ってるんだろうか。 「市ノ瀬は、みさきと戦ってみたいと思うのか?」 「はい、もしできるのなら。試合用のグラシュも一応、持って来てます」 「ごめん、あたしはパスだな」 「……そうですか」 「うん、今はやりたくない。市ノ瀬ちゃんがどうってんじゃなくて、ね」 「練習試合くらいしたっていいじゃないか。決闘ってわけじゃないんだし」 市ノ瀬の意図は図りかねるけど、それで少しはみさきのやる気が出るなら……。 みさきは苦笑しながら肩をすくめて、 「こうやって来ただけでも褒めて欲しいにゃー」 ……意地でも、試合はしたくないんだな。 みさきがへへっ、と気の抜けた笑いを漏らした時。 同じように、ぎゅーっ、と気の抜けた音がして、部室のドアが開いた。 明日香と佐藤院さん、着替えた2人が出てきた。 「決闘って言っても、ウォーミングアップはちゃんとしましょうね、2人とも」 急に動いて怪我とか、そんな馬鹿馬鹿しいことはしたくない。 「それで、ルールは通常の試合と同じでいいですか?」 「当然です。倉科明日香が実力を出せる状態で戦いたいですし」 「ただ一つだけ、条件をつけてもよろしいかしら?」 「条件?」 「なんですか?」 「セコンドの介入は基本的に禁止。相手の位置以外は教えない、というルールにしたいですわ」 「それはまた……どうして?」 「選手が持っているモノだけで、試合をしたいのです」 「私の持っているモノだけで……」 「そうですわ。今、わたくしが戦いたいのは、日向晶也ではなく倉科明日香ですもの」 明日香がビシッと手をあげて、 「はい! そのルール面白そうです! やってみたいです」 「……うーん」 そのルールのことを考える。 選手の実力を測るのに面白い方法だとは思う。 だけどそんな試合で負けてしまったら──。 どんなスポーツでもそうだけど選手は繊細な生き物だ。図太いと言われる選手だって、些細なことで傷ついたりする。 セコンドの仕事を制限するということは、負けた時、選手は負けをセコンドのせいにできないし、セコンドは「指示が悪かった」と言って選手を守れない。セコンドがショックを肩代わりしてやれない。 だからこの試合はさせない方がいいのかもしれない。 だけど。 「明日香がOKなら俺もOKだよ」 「良かったです! じゃ、そのルール、採用しますっ」 今の明日香のそのままの実力がどの程度なのか失礼な言い方だけど、佐藤院さんという定規で見てみたい。 だから、OK、と言った。そう思っていたけど──。 ──あ。 頭の片隅に電気が流れたかのようなチリチリとした痛みが走った。 考えちゃいけないことを考えそうになっている、そういう想いが先に浮かんでから…… こんな形式の試合で負けても明日香は前向きなままなのかな? その想いが疼くように湧き上がってくる。 下種な好奇心だし、コーチとして考えちゃダメなことだってわかってる。 だけど──。 嫌な、変な──。 ドロドロとした不定形の……。粘つく気持ちが俺の中でゆっくりと渦を巻いている。 俺は慌てて口を開く。 「その形式ならセコンドは俺じゃない方がいいですね」 こんな精神状態でセコンドをしたら、明日香にとってよくないことになるはずだ。 「位置を教えてくれるだけでもコーチがいいです!」 「いや、俺だと余計なこと言っちゃいそうだからな。真白、話を聞いてただろ? セコンドをやってくれ」 「ひぇっ、わたしですか? い、いいですけど……」 チラリと明日香を見る。 「セコンドは真白だ」 「わかりましたっ、コーチがそう言うなら……」 「わたくしのセコンドは市ノ瀬さんでかまいませんわね? もちろん場所以外のことは言わない約束です」 「はい、約束します」 「それじゃ、審判は窓果な」 「別にやってもいいけど、日向くんの方がいいんじゃ?」 「俺はここで試合を見てたいから。じゃ、明日香と佐藤院さんはアップをはじめてください。5分後くらいに試合開始で」 「はい」 「わかりましたわ」 皆がそれぞれの持ち場に散っていった。 俺は、取り残された人間の元へと行く。 「ありゃ、やっぱりこっちに来るんだ」 バスにもたれかかっているみさきの横に、立った。 「そんな近づいてこなくても逃げないってば〜」 「わかってる」 今の明日香の試合は、みさきにとって見たいものでもあるし、見たくないものでもあるはずだ。 葛藤があるとしても、プライドの高い性格から考えれば、逃げ出したりはできないだろう。 「話し相手になって欲しいだけだよ。そのくらいはしてくれるだろ?」 「別にいいけど……。今のあたしなんかと話すくらいなら、壁に向かって話していたほうがマシかもよ」 「そう自分を卑下するなって」 「そんなのしてない」 むすっ、としてみさきは口を閉じた。 みさきだけに聞こえる声で質問する。 「どっちが勝つと思う?」 「……晶也はどっちが勝つと思うの?」 「佐藤院さんだと思うよ」 「あらら? あっさり答えちゃうんだ」 そう言った瞬間に浮かんでしまった笑みをみさきは慌てて苦笑に変えた。 もしかしたら──。俺の口元に似たような笑みが浮かんでいたかもしれない。 ──今の、強くなった明日香が負けるところを見てみたい。 黒い気持ちでみさきと共感したんだと思う。直視したくない嫌なモノが広がっていくのを感じる。 それを感じたのは俺だけじゃないらしく、 「でもさ……」 みさきは不自然に何もなかったかのように喋る。 「明日香は真藤さんといい試合をしたじゃない? 佐藤院さんより強いかもよ」 「あの試合、明日香は実力以上の力で、真藤さんと戦ったんじゃないかと思うんだ」 「真藤さんが相手だからああいう試合になった?」 「だろうな。ペースメーカーみたいな役割になったんだと思う」 真藤さんが明日香の良さを引き出した。 展開から考えても、そう分析するのが妥当だと考える。 「でも佐藤院さんのスタイルから考えると、この試合は、そうはならないと思う」 佐藤院さんは相手の苦手とする部分を丁寧についてくるタイプだ。 明日香の能力を引き出すような試合にはならないだろう。 「今回はセコンドの指示ナシで経験の差が結果に反映されるだろ。明日香にあまり勝ち目はないかも」 「佐藤院さんは自分に有利な方向へルールを変えたってこと?」 「それはどうなんだろうな。純粋にそのままの明日香と試合をしてみたい、と思ったのかもしれないし」 黙々と柔軟体操をしている佐藤院さんの横顔を見つめる。 明日香と試合をしたい、という気持ちがわかるようなわからないような。 「質問があるんですけどいいですか?」 アップのフィールドフライのために飛ぼうとしていた佐藤院さんを明日香が不思議そうな顔で呼び止めた。 「何かしら?」 「思ったんですけど……。決闘を挑む相手はどうして私なんでしょうか?」 「その説明ならしたはずですわ」 「私が真藤さんといい試合をしたからですよね? でもそれならどうして乾さんじゃなくて、私のとこに? 乾さんとはもう決闘したんですか?」 「いいえ。乾沙希とは会ってもいませんわ。あなたの方が真藤部長といい試合をしたように見えましたけど」 「それは違います! 絶対に違います!」 「え?」 みさきと比べられた時とは全然違う、鋭い否定だった。 「……明日香?」 あまりの変化に驚いたようにみさきが小さくつぶやく。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 他のみんなも息を呑む。 「真藤さんと乾さんの試合が一番凄い試合でした。私の試合なんて問題になりません!」 「…………」 いつも自分のペースで喋っている佐藤院さんが、気圧されたように黙り込んだ。 「あの試合が、一番凄かったんです。……本当に」 「あ、あの……人それぞれ物の感じ方にはいろいろあると思います。佐藤院先輩がそう感じたということまでは否定できないと思います」 「否定します。否定しないとダメなんです」 「そ、そこまで言い切っちゃうんですか……」 「物事には人それぞれのこともありますけど、これは、FCは、人それぞれじゃないんです。だってFCは決着のつけ方が決まってるじゃないですか」 「それが?」 「それが……その……。人それぞれじゃないんです。そういう話じゃなくて……。そうじゃなきゃダメなんです。乾さんが凄い、じゃないとダメなんです」 言いたいことを言葉にできないもどかしさが伝わってくる。 その口調には迫力があって、何か大切なことを言おうとしていることだけは、痛いほどわかった。 「コーチにはわかりませんか? わたしが、言おうとしてることの意味が……」 「乾が凄いのはわかるよ。だけど、佐藤院さんが評価してくれたことは、素直に受け止めたらいいんじゃないか?」 「そうですわ。わたくしが試合をしたいのは、乾沙希ではなく倉科明日香なのですから!」 「……わかりました!」 「な、何がわかりましたの?」 明日香はフン、と鼻息荒く佐藤院さんを見据えて、 「乾さんの凄さを、わたしが佐藤院さんに伝えます!」 明日香の勢いに仰け反っていた佐藤院さんの口端が、微かに上がった。 「ふふふふ……。オーッホホホホホホホホホホホホ!!!!」 甲高く笑ってから挑発的に胸を張り足幅を広げて、 「わかりましたわ。何を仰りたいかはよくわかりませんが、全力でかかっていらっしゃい、倉科明日香!!」 「わかりました!」 明日香は毅然と言い放った。 みさきはもたれかかっていたバスのボディに、コツンと後頭部を当てて、けだるそうに空を見上げる。 俺もそれにならって、コツンと後頭部をバスに当てる。 ファーストブイに2人が向かっていく。 「熱いおんにゃのこだと思ってはいたけど、あんにゃにも熱いとはね〜」 「確かにああいう自己主張するとは思わなかったな」 「すごいなーとは思うけど、あたしにはついて行けない」 「別についていく必要はないだろう。みさきはみさきなんだからな」 「あたしは、あたしか……」 みさきは真っ直ぐ前を向いたまま、 「──そんな簡単な話だと思うわけ?」 「複雑にするのも単純にするのもみさき次第じゃないか?」 「…………」 みさきは言葉を捜すように短く沈黙した。結局、答えは見つからなかったのか、話を変えた。 「乾さんの凄さって何なのか晶也にはわかってるの?」 「わかってるような、わかってないような」 「また曖昧なことを言って〜」 「だから真藤さんとの試合で乾がやったことだって」 「理解してるなら言葉にできるんじゃないの?」 「だから……。対戦相手をコントロールするってことだな、うん」 「その、コントロール、ってそれは具体的にどういうことなの?」 「それは……まだわからん」 「何もわかってないのと一緒じゃないの?」 「そうかもな」 ずっと気にして考えてはいるんだけど答えが出ないのだ。 ──誰のせいでちゃんと考えることができないと思ってるんだ。 そう考えてしまう。 みさきがちゃんと部活に来てくれれば、余裕を持って考えることができたのかもしれない。 みさきのことを考えたり、昔のことを思い出したりして、乾のことを真剣に考える精神的余裕がなかった。 フィールドを見上げているみさきを横目で見る。 「…………」 みさきが部活に来なくなってから、精神的に追い詰められているような気がするのだ。 いったい何なんだよ、この気持ちは! みさきのことが大切なような、みさきのことが憎いような、みさきのことが恐いような。 みさきを想うと嬉しい気がするし、みさきを想うと悲しい気がするし、みさきを想うと不安になる気がする。 とにかく心がぐちゃぐちゃになる。 ──俺がみさきのこと考えている間に、明日香は乾の、何か、を理解したのかもしれない。 だとしたら……。それって……。 コーチ失格なのかもしれない。 「そろそろ試合はじまりそうだね」 「そうだな」 ファーストブイに2人が並んで立っている。 「ゲット・レディ? ゲット・レディ?」 真面目ぶった窓果がアメリカのプロリーグの審判みたいなオーバーアクションでうざい感じに両手を振って2人を指差している。 「窓果、はしゃいでるなー」 「あれは何のパフォーマンスなんだ……」 どんな時も楽しくやろうとする窓果の姿勢には感心するけど。 「…………」 「…………」 窓果の雰囲気に対して、スタートの合図を待つ2人は真面目そのものだ。 あの様子だと2人もセカンドブイ狙いで行くのか? 「セット!」 「…………」 「…………」 「ぷおおぉぉぉん!」 ホーン代わりに窓果が口で叫ぶと同時に、2人はローヨーヨーでスタートした。 こつこつ、とみさきは後頭部で二回、バスを叩いた。 「ふ〜ん。2人ともブイを狙うんだ」 「2人ともスピーダー寄りでもファイター寄りでもない純粋なオールラウンダーだからな。当然そうなるだろう」 スピード勝負でどっちが有利なのかは、やってみないとわからないけど……。 「明日香は綺麗に飛べるようになったって言ってたけど、それって佐藤院さんより速く飛べるってこと?」 今のところ、2人は平行に飛んでいるけど──。 「佐藤院さんの方が速いだろうな」 いくら明日香が速くなったとはいえまだ経験に差がある。 ファーストラインの半分をすぎたあたりで、佐藤院さんが1メートル弱、前に出る。 「明日香はどこまでねばるかなー」 水平に飛んでるなら逆転の可能性は低いけど、2人ともローヨーヨーだから上昇のタイミングで逆転はある。 ──でも。 俺がセコンドならショートカットしろ、と指示を出すだろうな。 そう思った瞬間、明日香がセカンドラインに移動する。 「当たり障りなくって感じ?」 「定石通りってことだろうな。深追いするのはリスクが高い……。んっ?」 明日香は高い場所で、スピードを殺さないように旋回しながら、佐藤院さんを待ち構える。 どこかで見たことがあるような……。 「あれって真白が佐藤院さんにしたのと同じ作戦?」 「それか……」 夏の大会で俺は真白にはこう指示した。佐藤院さんの上についてプレッシャーをかけ続けろ、と。 ──明日香は乾の凄さを証明するつもりなんだよな。 今の明日香なら、あの作戦を真白よりもうまくできるだろうけど。 でも明日香がしたいのは、そういうことじゃないはずだ。 もしかしてあの時、真白に与えた作戦と乾の戦術には、何か共通点があるのか? 佐藤院さんは上の位置を取った明日香を見上げながら、セカンドブイにタッチして加速する。 「佐藤院さん、積極的に行くつもりだね」 一気にサードブイを狙う飛行だ。 「……っ」 明日香が呼吸を止めて、斜め下に加速し、佐藤院さんを追う。 距離は直線でブイとブイの間の最短距離を飛ぶ佐藤院さんが有利。スピードは重力を利用できる明日香が有利。 「……ふっ」 「……っと」 佐藤院さんに追いつけないと判断したのか、明日香は体をくねらせて方向転換して、サードラインへショートカットする。 「あきらめがいいね。性格的にギリギリまで行っちゃいそうだったけど」 「確かにな」 明日香は努力家だ。努力家は諦めが悪いから努力家なのだ。 だから指示がない状態なら、ギリギリまでブイにこだわるような気がしたんだけど……。 「…………」 佐藤院さんがサードブイにタッチした時、 「…………」 明日香はすでにサードラインの上空で待機していた。 佐藤院さんがブイめがけて最短距離を飛び、明日香がローヨーヨーでそれを追う。 ──明日香は何を考えているんだ? 同じ展開がサードラインとフォースラインでも続いて、0対4。 空を見上げるみさきは小さくため息をついて、 「明日香って、晶也の指示がなかったら、意外と単純な動きをする選手だったんだね」 ため息の中に、安堵の成分が混じっていることに気づいてしまう。 あっ、と思う。 最近よく感じるチクチクとした痛み。 その痛みをじっと見つめる。こういうこと前にあったぞ。 いったいこの痛みは何なんだ? 黒い感情がドロドロとしたアメーバになって、筋肉の繊維という繊維の隙間に入り込んでいく錯覚。 わかっている。 これは──他人の才能に憧れる気持ちだ。 もちろん、単純な憧れなんかじゃない。その才能を潰したくなる感情。嫉妬よりももっとたちの悪い感情。 そういったものが、みさきのため息の中に混じっていた。 「…………」 みさきがそれを出してしまうのはわかる。理解できる。 だけど──。どうして俺まで──。俺が──。 トクン。心臓の音。 トクン。 どうして俺が──。 トクン。 どうしてコーチの俺が──。 明日香に嫉妬しないといけないんだ? 違う違う違う! 俺にそんな感情はないって! 俺がこんな気持ちを抱くのは、抱いていいのは! 子供の頃に見たアイツだけだ! 「…………」 フォースラインからファーストラインの高い場所まで、ショートカットした明日香が、上体をぐいと上げて、仁王立ちするみたいに胸を張って停止する。 「ん? 何かあった?」 「どうしました? どこか痛めましたか? 足ですか? 背中ですか?」 そう感じさせる不自然な停止だった。それに合わせて佐藤院さんも急停止する。 「どうかしましたの? 体調が悪いのでしたら試合を中断してもよろしくてよ」 「……いえ、大丈夫です。それより――」 明日香は左右に首を振りながら、目を閉じて大きく息を吸い込むと大きな声で、 「どうですか? わかっていただけましたかっ?」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 巨大な?がフィールドに浮かんだ気がした。 何を言っているのか誰にもわからない空間の中で、発言者の明日香だけが自信たっぷりにうなずく。 「そういうことですから、決闘はこれで終わりです」 超真剣にうなずいて、フィールドを離れていこうとする。 「ちょ、ちょっとお待ちなさい」 「はい?」 物凄く素朴な眼差しを佐藤院さんに向ける。 「……不思議そうな顔をしないでいただきたいですわ。わたくしは何も理解していません」 「……え?」 「だから、不思議そうな顔をするのはやめてくださいな。わたくしは何もわかっていないのですけど……」 「何も、というのは……。ど、どこまででしょうか?」 「全部ですわ。それ以外の意味はありませんわ」 「えーっと」 窓果は明日香と佐藤院さんを交互に見てから俺に向かって 「試合は続行? それとも明日香ちゃんの試合放棄でいいのかな?」 「試合は続行だ」 「そうなんですか? コーチはわかってくれましたよね?」 「少しわかったけど、明日香がここからどうするのか見たいから続けてくれないか?」 「わかりました!」 窓果は佐藤院さんを見て、 「ということだそうですけど……」 「釈然としませんけど、試合続行でいいのですわね」 「はい!」 佐藤院さんが前傾姿勢になってブイを狙う。上空から明日香がそれを追う展開が続行される。 「明日香のやってることの意味、わかってたんだ」 「……完全にはわかんないけど、ああ言わないと格好がつかないだろ?」 「晶也はずるいね〜」 「いや、少しはわかってるんだ。ただ確信が持てないから、続けてもらった」 もし、俺の推測が当たっていたなら。 明日香は……もう一つ上のステージへ行こうとしている。 佐藤院さんが華麗にブイにタッチして、 「これで5対0ですわよ」 「…………」 「晶也が思うに、あれは明日香が何もできない、って展開じゃないわけだ」 「真藤さんと乾の試合の時、明日香と話した」 「そういや、なにか言ってたよね〜」 「あの時明日香は、乾が真藤さんをコントロールしてる、みたいなことを言ってたんだ」 「ふ〜ん」 「……………………え?」 みさきの目が険しくなり、強い光を帯びた。 あえぐように口を数回パクパクさせてから、俺の様子をうかがうように、 「……この試合は明日香がコントロールしてこうなってる、って言うつもり?」 「言うつもり、というより……。明日香はそのつもりで真剣にやってるんだろうな」 「でも0対5だよ? 何もコントロールできてないんじゃないの?」 「得点差とどちらが試合をコントロールしてるかは、今の明日香にとっては別の問題なんだろう、きっと」 「別の問題だったら意味なくない? FCは点を取り合うスポーツなわけだし」 「だから今の明日香には、って言っただろう」 「…………」 フィールドでは明日香が佐藤院さんの前を飛んでいた。 「えい!」 「くっ!」 「明日香が1点取ったな」 「まだ5対1……5対、1」 みさきはつまらなそうにつぶやいた。 「……はっ!」 明日香がブイのタッチで3連続得点。これで5対3だ。 「くっ」 佐藤院さんがスピードを緩め、この試合で初めてショートカットした。 「……よしっ」 明日香が佐藤院さんの背中を確認しながら、ゆっくりとブイにタッチしてこれで5対4。 「どうして急に佐藤院さんはブイにタッチできなくなったわけ?」 「……明日香が高い位置にいる以上、佐藤院さんはブイを狙うならラインに沿って飛ぶしかない」 「しかない?」 「しかない。繰り返すけどブイを狙うならだぞ。ドッグファイトをするなら話はまた別だ」 「わかってる。続きを話して」 「明日香より低い位置にいる時、ローヨーヨーは使えないだろ?」 「え? あー。明日香の方が高い場所にいるから、落下でよりスピードを稼げるからか……」 「明日香は下がるだけでいいけど、佐藤院さんは上昇を入れないとブイに届かない」 上昇はスピードをロスする。 「……つまり、こういうこと? ブイを狙う時、明日香があの位置にいたら、佐藤院さんはラインに沿って真っ直ぐ飛ぶしか選択肢がない?」 「断言はできないけどそうなる気がする」 「でも明日香がコントロールしていたとして、じゃ、どうして5点も取られる必要があったわけ?」 「計ってたんだろう。佐藤院さんより速くブイにたどり着けるスピードと角度をさ。ショートカットした明日香は佐藤院さんを追い越せないだろ?」 ショートカットした側は、交差するか触れるかするまではブイにタッチできないルールだ。 「無闇にスピードを出してスピード勝負に持ち込まれたら、いずれ不利になる。だからブイで得点した後に、ドッグファイトにも行ける適度なスピードを探してたんだろ」 「そこまで明日香が考えてたって言いたいの? 試合中にそんなに考えたりしないよね? 試合中って瞬間のことしか考えないよね?」 ──脳裏に白瀬さんと葵さんの言葉が蘇る。 「みさきちゃんは明日香ちゃんと逆だね。プレイを感覚に頼りすぎてると思う」 「総合力がないという意味では鳶沢は青柳と同じタイプだな」 「で、みさきちゃんはFC脳が鍛えられてない。咄嗟の反応で動いているだけで、全体を見通したり、相手の動きを見て考えたりしてない。つまり彼女には戦略がない」 「咄嗟の判断で、動いているだけだ」 殴られたような痛みを感じると同時に口が開いてしまう。 「……考えない選手は、強くなれないんだ」 「……っ」 みさきが息を呑んだ。 ──今、言うべきことじゃなかったのかもしれない。 みさきが今どんな顔をしているのか見るのが恐くて、俺はじっとフィールドを見上げていた。 困惑を微かに滲ませていた佐藤院さんが、それでも好戦的な姿勢を崩さずに、 「少しわかってきましたわ。確かに乾沙希と同じ感触がしますわね」 「わかっていただけましたか! 嬉しいです!」 「ですけど、まだまだ終わりませんわよ!」 佐藤院さんは下から斜めに明日香めがけて飛ぶ。 ──ドッグファイトを挑むつもりか。 「…………」 明日香が佐藤院さんの飛行を観察するように見てから、下降姿勢になった時みさきが小声でつぶやいた。 「もういい」 「もういいって?」 「もういいは、もういいだよ」 ぷい、とフィールドから目をそらして、 「これから先どうなるか、あたしにもわかる」 「そっか……。そうだな」 「真藤さんと乾さんの試合の焼き直しでしょ?」 「明日香の理想としてはそうだろうけどな。でもそううまくはできないだろう」 「最初はね。でもどうせ明日香ペースの試合になる。結果として明日香は負けるかもしれないけど。──この試合で負けても、どんな結果になっても」 みさきは微かに唇を震わせ、搾り出すようにしてなんとか聞き取れるくらいの声で、 「佐藤院さんより、明日香の方が強い」 「そうだな」 間違いなく明日香の方が強い。 明日香は新しいことを試している段階だ。この段階で互角以上に戦えるなら──。これから先どうなるかは簡単に想像ができる。 「んしょ」 バスにもたれかかっていたみさきは、背筋をそらした反動で、真っ直ぐに立った。 「あは」 やけに明るい満面の笑み。 「明日香は凄いな。あたしより全然凄いよ」 それは見覚えのある笑顔。きっと、あの日に俺が浮かべてしまった笑顔と一緒で。 非力な自分を守るために、自分に嘘をついた時の笑顔で……。 「…………」 何も言えずにみさきを見つめ返すことしかできなかった。 「…………」 黒いモノが胸を焦がす。俺は──。 どうして俺は何も言えないんだ? 「…………あ」 唇が微かに開く。 言え、言え、言え、なんでもいいから言え。じゃないと、みさきが……。 「…………っ」 「くっ!」 空から苦戦していることがわかる佐藤院さんの声が聞こえた。 ジリジリと時間だけが過ぎていく。 言わなきゃいけないことがあるはずなのに、どうしてもそれが口から出てこない。 「ぷおっ、ぷおっ、ぷおぉぉぉん!」 口でホーンの真似をする。 「6対6で引き分け。得点が同じ時は5分間の延長戦だよね?」 「延長戦はしません。決闘に延長はありませんから」 「えーっと?」 窓果が俺に視線を送る。 「佐藤院さんがそう言うならそれでいいだろう。明日香は?」 「それでいいです」 「…………」 佐藤院さんは無言のまま、こちらに近づいてくると、 「我が翼に、蒼の祝福を……」 グラシュの起動を停止するキーワードだとわかっているけど、いろいろと意味深な言葉に少し心が疼く。 「佐藤院先輩……」 呼び止めた市ノ瀬を無視するように、バスに入り込んでドアを閉める。 ……もう着替えるのか。 せっかくだから練習も一緒にしていけばいいのに。 だけど、あんな試合の後じゃそんな気にならなくて当然か。 「6対6か……。静かな展開だったのに、わりと点が入ったね」 「序盤はブイ狙いの展開で、佐藤院さんが5点、明日香が3点取ってるからな」 明日香はドッグファイトで決して深追いをしなかった。常に佐藤院さんより高い位置を堅持する。 たったそれだけ……。傍目には、それだけ、にみえることで3得点を挙げている。 華麗な空中戦はなかった。上から水面へとジリジリと追い詰めていく戦いだ。 明日香がフィールドからみさきに向かって笑顔で叫ぶ。 「みさきちゃん! 私と試合しませんか?」 「…………っ」 明日香の呼びかけに、みさきは顔を伏せて小声でつぶやく。 「──バケモノ」 「……みさき」 「……ごめん」 みさきは明日香ではなく俺に向かって囁くように言う。 「あたし、FCをやめるから」 「え?」 「FCをやめる」 「おい、待てよ」 「行く。ついて来ないで」 さっ、とみさきが身を翻した。 みさきがフィールドで飛ばないまま、夏の始まりが終わろうとしている。 「…………」 あの日、あの時──。決定的な負けを経験した時、俺はあんなにも饒舌だったのに……。 みさきが昔の俺と同じような目にあっているのに、何も言えないのが不思議だった。 「みさきちゃん?」 近づいて来た明日香が、みさきの変化を感じ取ったのか、心配そうな様子で話しかける。 「後のことは晶也に聞いて」 しかし、みさきは少しぶっきらぼうな口調で明日香に言うと、 「とぶにゃん、と」 少しのためらいも見せずに、グラウンドへ向かって最短距離で飛んでいってしまった。 明日香が不安そうに、 「あの、みさきちゃんは?」 「帰るってさ。今日は試合をする気分じゃないって」 「そうでしたか……。残念です」 「明日香さん……」 「は、はい!」 後ろから不意に呼びかけられて、一瞬びくっと硬直してから明日香は振り返った。 「鳶沢さんのことが心配なのはわかりますが、その、試合が終わった直後ですし、佐藤院先輩のことも気にかけて欲しいです」 「えっ……はい、ご、ごめんなさい」 「いえ、なんか少し、先輩がつらそうで」 確かに、さっきの試合で傷ついたのは、佐藤院さんだって同じことだ。 明日香に言うのは少々筋違いかもしれないけど、目の前で気をよそにやられていたら、気になるのかもしれない。 ましてや、信頼を寄せている後輩なら、特に。 「おやめなさい」 強い声と共に、ミミミミミッと死にかけのセミみたいな音をたてて、バスのドアが開く。 「興味を持ってくださいと懇願するなんて、そんなみっともない真似はする必要なくてよ」 「そ、そういうつもりじゃ……。私はその……気遣いというか」 「ううっ……ごめんなさい、気遣えなかったですね、わたし」 「いいよ、そこまで落ち込まなくてもいい」 「そうですわ。強い選手というのは傲慢な部分があるものです」 「私は強くなんかないですし……」 「わたくしと引き分けたのですから強い選手と言っていいのではありませんか?」 「そうです、そうですよ。佐藤院さんは超強いですもん」 「真白っちじゃまだ全然勝てない選手だもんね」 「…………っ」 「明日香?」 「……強くないです」 「明日香さん?」 「それはわたくしが強くないということかしら?」 「佐藤院さんだけじゃなくて、私も……みんな強くないです」 「どういう、意味ですか?」 「……強いのは、乾沙希だけ、そう言いたいのですわね?」 「…………はい、そう言いたかったんです」 「ふふふふ……。オーッホホホホホホホホホホホホ!!!! ……面白いですわね」 佐藤院さんは、ザッ、と土を蹴って回れ右をして、明日香に背を向ける。 「市ノ瀬さん、帰りますわよ」 「は、はい」 「──倉科明日香。多分あなたはわたくしよりも、一段高い場所を見ているのでしょうね」 「え? あの……それってどういう意味ですか?」 「バカ負けしたということですわ。まったく、嫉妬すらできません」 「ば、バカ……ですか?」 「ふふふふ、それではみなさん合宿でお会いしましょう。我が翼に、蒼の祝福を!」 「あ……」 佐藤院さんがかっこよく飛んで行ったのを見て、市ノ瀬はペコリと頭を下げてから、 「色々と……ご迷惑をおかけして失礼しました。明日香さんにも、失礼なことを言ってしまいました」 「そんな、わたしこそ……」 「また改めて伺いますね……飛びます」 グラシュを起動させ、佐藤院さんを追っていった。 2人が去って、辺りは一瞬で静かになる。 「嵐の後の、って感じだな」 「ほんと、嵐のような人ですねー」 「……で、明日香、感想は?」 「ずーっと考えていたことを試すことができて、佐藤院さんとの試合は、楽しかったです。でも……」 「そっか……」 なんともいえない気持ちが胸の中にあった。 明日香が近いような遠いような不思議な気持ちだった。 ──みさきは今、どんなことを考えてるんだろう? 頭の隅でそんなことを考えていた。 みさきがFCをやめると言って2日経った。 ──みさきは本気でやめるつもりなのか? これで終わりだなんて、そんなのでいいのか? 「日向くん、日向くん」 「ん?」 「ぶーぶーぶー」 「なんだよ。顔が近いって」 「ぶ〜〜〜〜〜っ」 「だからなんなんだよ」 「ぶー。さっきから何回も呼んでるのに無視して〜」 「無視してたわけじゃない、ただ気づかなかっただけだ。もっと大きな声で言ってくれればよかったのに」 「ぶ〜〜〜っ。そう思ったから、こんなに口を近づけて顔の側で話しかけてるの〜」 「わかったって。俺が悪かったから離れろ」 窓果はやれやれと首を振りつつ、呆れたようなため息をついて、 「最近、ぶったるんでるんじゃないかなー」 「ぶったるんでなんかいない」 「……いや、ぶったるんでるね」 「え? 先生、いつ来たんですか?」 「はあー。各務先生が来てた事にも気づいてなかったの? も〜、しっかりしてよ。明日香ちゃんと真白っちは真面目にやってるんだからー」 「俺だって真面目にやってるって」 「そうかな〜。最近ぼ〜っとしがちじゃない?」 「そんなことないって」 「明日から高藤で合宿なのにそんなので大丈夫? たるんでたらバカにされちゃうよ? しりこだまを抜かれちゃうよ?」 「高藤の選手は河童なのか?」 「晶也。ちょっと部室に来るんだ」 俺が返事をする前に、窓果が小さくジャンプして、 「わ〜い、お説教だ! お説教だ!」 「なんでそんなに嬉しそうなんだよ」 「だって、いつもしっかりしてる日向くんが怒られるのって、ちょっとドキドキするじゃない?」 「どういうツボなんだ、それ」 「ほら、いいから説教部屋に来い」 「いつの間に部室からそんな進化を?」 「ほらほら、早く行って日ごろの行いを悔いてきなさい」 「悔いるような日常を過ごしてるつもりはない」 過ごしてるけど……。 「早く来ないと説教部屋が折檻部屋にレベルアップするぞ」 「やったー!」 「だからなんでそんなに嬉しそうなんだよ! 行きます、行きますって」 「倉科の試合、見たぞ」 「え、いつの間に?」 「上の方からこっそりとな」 「顧問なんですから、堂々と見ればいいじゃないですか」 「おまえと鳶沢が痴話喧嘩してて行きづらかったんだよ」 「痴話喧嘩なんかしてないですって!」 「ほう? で、試合の後、鳶沢は何て言ったんだ?」 「FCをやめるって言ってました」 「あの試合を見てそう言ったのか?」 「そうですよ」 「ということは、鳶沢にもあの試合の意味がわかったんだな」 「そういうことでしょうね」 「それで、鳶沢は本気でやめるつもりなのか?」 「そんなの俺が知るわけないでしょう」 「…………ふっ」 「なんでそこで笑うんですか?」 「いや、別に。……倉科にあの戦い方を教えたのは、晶也か?」 あの戦い方とは、常に上をキープするスタイルのことだろう。 「違います。俺は明日香に何も教えてません。そもそも俺はあのスタイルを誰かに教えられるほどには理解してませんから」 「ということは、倉科が自分で勝手に理解したってことか……」 「そういうことになりますね」 「…………」 先生は不自然に沈黙した。 「どうしました?」 「倉科はもっと晶也にベッタリだと思っていたけどな」 「どういう意味ですか?」 「おまえたち二人で何かやってくれるんじゃないかと思っていたんだけど……。倉科に冷たくしただろう?」 「してませんよ。いつもどおりですよ」 「俺のことはあきらめろってサインを出してたんじゃないか?」 「あきらめるもなにも。何を言いたいんですか? そもそもの前提が間違っていると思いますけど……」 「まあ、晶也がどう思ってようとそれはおまえの勝手さ」 「……棘のある言い方ですね」 「そう解釈するのも晶也の勝手だよ」 「…………」 「さて、と。本題に入ろうか。今までコーチをしてきての感想は?」 「何か指導してくれるんですか?」 「それは……おまえの答え次第さ」 「……どうしてコーチをしてるのかわからなくなってきました」 夏の大会の翌日、みさきに同じような質問をされて、──わからないな、と。そう答えた。 あの日、あの時──。 挫折した時の自分と、みさきと、今の自分とかが繋がってしまって──そのままだ。 真剣に考えなくてよかったのに。ずっと目をそらしたままでもFCのコーチを続けられたのに。 「…………」 急に喉が渇いて、生唾を飲む。 もしかしてたら──。あのままコーチを続けていたら。選手として復活する、ということだってあったかもしれない。 だけど、今はそんなこと考えられない。みさきの挫折に引っ張られて、俺まで身動きできなくなってる。 「どうしてコーチをしているのかわからないか……」 「はい」 先生は一瞬、片頬を吊り上げて変な笑いをすると、すぐに真面目な顔になって、 「今の晶也じゃ、部の士気が落ちる」 「え?」 「コーチがやる気のない呆然とした顔をしていたら、選手はどうしたらいいのかわからなくなって戸惑う」 「そうかもしれませんけど……」 「何があったって選手を動揺させないために、冷静なふりをするのもコーチの仕事だ」 「…………」 正論だとは思うけど、機械じゃないんだからそう上手く出来るわけがないと思う。 「まあ、選手と一緒に泣いて笑ってというコーチもいるが、だからってマネージャーに気を遣わせているようではな」 「窓果に?」 「晶也が心ここにあらずだから、一生懸命、雰囲気を良くしようと努力してるんだ」 「…………」 言われてみたらそうだったかもしれない。 ──というか、だ。 先生に言われるまで、そういうことに気づかないなんて相当にダメなんじゃないか? 「おまえはなんでコーチをしてるんだ? 教えた選手が楽しそうに飛んでいるのを見るのが好きだから……」 「…………」 「自分の持っている何かをゆだねた選手が飛んでいることに感動するからじゃないのか? 少なくともあの時の私はそうだった」 「…………」 「まあ、教え子に逃げられた私が言っても滑稽かもしれないがな」 「そんなことないです。俺が勝手に挫折しただけで、先生の指導が悪かったわけじゃないですから」 「…………ふっ」 先生は俺に苦笑を返してから、 「コーチを続けたいか?」 「続けたいです。中途半端なことはしたくないですから……」 「ダメだね」 「え? だ、ダメってどういう意味ですか?」 「晶也が今、一番、教えたい選手は誰だ?」 「みさきです」 するり、と。なんの抵抗もなく、当たり前のようにその名前が出てきた。 「FCをやめたいって言ってる選手なのにか」 「そんなの嘘に決まってるじゃないですか」 「どうして嘘だってわかるんだ」 「それは……」 頭の奥底がぐわんぐわんする。 ──扉だ。 ぐわんぐわんする場所に巨大な扉がある。そういうイメージ。 分厚くて、重くて、開けようのない扉。 「…………」 先生がじっと答えを待っている。 「それは……」 ぐわんぐわんが大きくなって、心の奥底の扉が震えている。 「それは、それは……その」 ただ立っているだけなのに、全身が震えている錯覚。 自分が何を口走ってしまうのかわからなくて、恐い。 開け! もう、いい! この扉は開いてしまっていい。開け! 心が、ぎしぎし、みしみし、と音をたてる。 そして……開いた。 心って鉄と風なんだな、って思う。 なんでかって、分厚い鉄板を叩いたような音が響いた瞬間、ざーっ、と海風のような音が、つま先から脳天までを貫いたのがわかったから。 「俺が嘘つきだからですよ。みさきと俺は同じ嘘をついてるから。だから、わかるんです」 「……そうか。晶也は嘘つきだったか」 「嘘つきでした」 「今、何をしたい?」 「みさきを復活させたいです」 「おまえは評価してるみたいだけど、鳶沢はそこまでの選手じゃないかもしれないぞ」 「だとしても……。それは少しも関係ないです。才能とか努力とか能力とか、そういうの全部、関係ないです。やりたいことをやりたいだけですから」 「そっか……」 「みさきの嘘を直さないと──」 俺の心のなかで、もうぐちゃぐちゃに絡んでしまっているから、 「俺は前に進めません」 言ってから、熱い何かが、こみ上げて来るのがわかった。 何を俺だけ興奮しちゃってるんだ? みさきは俺の期待に応えるつもりなど、微塵もないかもしれない。 俺だけ真面目になってしまって、かなり恥ずかしいことになるかもしれない。 だけど、だとしたらそれをちゃんと見ないと。 唾を飲み、繰り返す。 「俺は……進めません」 先生は、そんな俺の言葉を噛みしめたあとで、ゆっくりと、 「晶也はコーチ解任だ」 はっきりとした口調で、そう言った。 「……え?」 「解任」 「なんで? やるって言ってるじゃないですか」 「特定の選手に入れ込むコーチがいては、他の部員の士気が下がる」 「いや、言い方を変えよう。それが部活全体のためになるなら、あってもいいことだ。しかし、今の鳶沢に入れ込むのは、明らかにマイナスだ」 「そうかもしれないですけど……」 「私は前から倉科を指導してみたかったしな。有坂も鍛えようによっては面白い選手になりそうだ」 「……何を言ってるんですか?」 「他の部員とは別行動で鳶沢に集中してみろ、という話だよ」 先生の言葉を頭の中で反芻する。 「……………!」 そうか、そういうことか。 「……ありがとうございます!」 葵さんは窓から外を見る。 「言っておくけど、おまえがモタモタしている間に、倉科は鳶沢じゃ追いつけないくらい強くなってしまうぞ」 「……でしょうね」 ──だけど。 大きく息を吸い込みながら思う。 葵さんや白瀬さんは違うと言うかも知れないけど……。だけど、みさきは──。 みさきは本物だって俺は思う。 間違っていてもいい。これからハッキリと思う。 みさきは本物だ! 「がんばってみろ、晶也」 俺は一度、呼吸を止めてから静かにうなずく。 部室を出て、先生と共に海岸へと向かう。 にへっ、と笑った窓果が、こちらに話しかける。 「お説教タイムは終わった?」 「ああ、終わった」 ヘッドセットのマイクのスイッチを入れて、フィールドを飛んでいる明日香と真白に呼びかける。 「2人ともこっちに来てくれないか」 「はい」 「わかりました」 近づいてきた2人がグラシュを停止させて、こっちに小走りで近づいてくる。 「どうしたんですか?」 「あ、各務先生が来てる。お説教されましたか?」 「どうしてそう思うんだよ」 「最近、晶也がたるんでるように見えたからだろう」 「その通りです」 「……俺ってそんなにぼ〜っとしてた?」 「してましたよね?」 「う、うーん……してたかも、しれませんね」 「みんなも思う通り、今の晶也はコーチとして不適任だ。よって、解任することにした」 「……? えっと、あの、それって」 「コーチをやめてもらう、という意味だ」 「えっ……?」 「ええええええっ?! どういうことですか!」 「ごめん。2人には迷惑をかけるけど、このまま続けていたらもっと迷惑をかけることになるから」 「そんな、迷惑だなんて……!」 「指導の方は私が晶也より厳しくしてやるから心配するな。今の晶也には全員のコーチは荷が重い」 「……ん? 全員のは、ですか?」 「そういうことだ。駆け出しのコーチが全員の面倒を見るのは、無理があったということだ。今まで晶也はよくやったよ」 葵さんは俺をフォローしてくれる。 「…………っ」 明日香は痛みに耐えるみたいにキュッと全身に力を入れてから、斜め下を見てつぶやくように言う。 「みさきちゃんですか?」 「……そうだ」 「は〜〜〜」 窓果は納得したような、呆れたような、そしてからかうような息をついて、 「そうなるような気がしてた。まーねー。日向くんは最近、みさきのこと気にしてたもんね」 「まだみさきの了解はとってないけど、今、みさきを放置したら後悔すると思うんだ」 今のみさきは昔の俺とつながってしまっているから。みさきの挫折は、俺の挫折になってしまっているから。 「専属コーチって、なんだか妙にHな気がします」 「深読みしすぎだろ」 先生は肩をすくめて、 「気まぐれな選手を相手するには手間がかかるってことだ」 「2人には本当にすまないと思ってる。だけど、俺は今……そうしないといけないんだ」 「しょうがないんじゃ、しょうがないね〜」 「…………」 明日香は、なおも地面を見つめていたが、 「わかりました。私、強いみさきちゃんと試合したいです。よろしくお願いします……」 そう言って、やっと前を向いた。 「みさき先輩にこのまま終わられてしまったら、なんだかこう下腹部がもにょもにょしますしね。強くなって戻ってきてもらわないと困っちゃいますよ」 「2人ともありがとな」 「言っておくけど、私は晶也より厳しいぞ。覚悟しておけよ」 「はい」 「はい」 「はい」 帰り道、明日香と2人になった。 相手の様子のうかがうような沈黙が続いてから、意を決したように明日香がパタッと立ち止まって俺を見た。 「コーチはみさきちゃんがこのままだと後悔するんですよね?」 「そうだな。後悔する」 「──私や真白ちゃんのことは後悔しないんですか?」 「すると思う」 「……それなのにみさきちゃんを選んだ理由、あるんですか?」 「明日香や真白は俺じゃなくても強くなれる。でも、みさきは──」 俺がいないと強くなれない、と言ってしまうのは傲慢な気がして、口ごもってしまう。 「みさきちゃんはずっとついていないとダメな人ですか?」 「自分勝手でわがままで頑固な性格だけど……。だからこそついてやらないとダメなんだろうな、多分。だけど、理由はそういうことじゃなくて……」 「…………」 「うまく説明できる自信がないけど、みさきは俺なんだ」 「みさきちゃんが、晶也さん?」 「同じような……その……。マイナスの気持ちを持ってる。自分の暗いとこを見せられてるようでつらいんだけど、そこから目をそらすと、その……」 「…………」 「これから先、うまくやっていけない気がする」 「……ふふっ」 「明日香?」 明日香が小さく笑った。 「みさきちゃんがうらやましいです」 「そんなことないだろ。立ち直れなくて真っ黒なオーラを出しまくってるんだぞ?」 「そうですね。失礼な言い方でした。わたし、みさきちゃんと試合したいです。本気のみさきちゃんを見てみたいです」 「それを見せれるように努力するよ」 「努力じゃダメです!」 たん、と足音をたてて明日香が顔を近づけた。 「え?」 あと少しでキスができてしまいそうな距離。 「わたしと真白ちゃんを捨ててみさきちゃんに行くんですよ?」 「捨てるわけじゃないって。ただ俺が限界だっただけでさ」 「同じことですよ」 明日香はあっさりと言い切って、 「絶対にそうするって約束してください。……そうしてくれないと、わたしが報われませんっ」 「…………」 明日香が報われる? 何を言っているのかよくわからなかったけど……。 「む〜〜〜っ」 気持ちの強さや重みだけは殴られたみたいに強く伝わってきた。 「わかった。約束する。本当に強いみさきを必ず明日香に見せる」 「はい!」 明日香は踵を上下させて、全身で大きくうなずき、くるりと背を向けた。 「あ」 長い髪が俺の鼻先をくすぐる。 明日香はそのまま走り出して、 「私、先に行きますから! がんばってください!」 振り返らずに、そう叫んだ。 明日香なりの、わかりやすい決意表明だった。 ──がんばるか。 明日香の背中から目を逸らして空を見上げ、口の中でつぶやく。 その前にみさきを説得しないといけないんだよな。 「ん〜〜〜〜。むにゃむにゃむにゃ」 だらけ真っ最中のネコみたいな仕草で、机に頬っぺたを押し付けている。 「おはよう」 「ん。おはよ〜」 机に突っ伏したままひらひらと手を振る。 「相変わらずつらそうだな」 「うあ〜〜〜〜〜、つーらーいー。久しぶりに学校に来たらお腹が減った〜。眠いー。登校日なんか無視すればよかった〜」 「まあ、用事があれば休んでいいみたいだしな」 「あー。そういえば真白が今日から高藤で合宿……っ」 みさきは、がばっ、と上半身を起こして俺を見る。 「…………っ」 目を見開いて、俺を観察する。 「……おはよう」 「あー……そうだよね、晶也がここにいるわけないか。お腹が減りすぎて幻覚を見てしまったわけか。納得、納得」 再びうたた寝に戻ろうとするみさき。 「納得するな。幻覚じゃなくて本物だ」 「幻覚はすぐにそういうことを言うー」 「幻覚に幻覚じゃないって否定される幻覚を頻繁に見てるのか? 病院に行った方がいいぞ」 みさきはマジマジと俺を見つめた後、明日香と窓果の席を見る。 2人とも今日から高藤の合宿に行ってるから当然、空席だ。 「晶也だけ後から行くの? ……あ! もしかして私を迎えに来たとか?」 「逃げようとするな! 腰を浮かすな。踵を上げるな。ドアをチェックするな。窓をチェックするな。他の逃げ道を探すな。俺の動きを読もうとするな」 「ツッコミが多すぎる!」 「最近、俺を見たら警戒心強めなネコ並みに逃げるだろ」 「シャーーーーッ!!」 「無意味に威嚇するな。とにかく、合宿に連れて行こうなんて思ってないから逃げなくていい」 「……だったら、どうして晶也はここにいるわけ? 合宿に行かなくていいの?」 「今の俺はみさきと一緒だからな」 みさきは不思議そうに首をかしげて、 「あたしと一緒?」 「部をやめたんだ」 「ふひぇ?!」 聞いたことのない変な声が響いた。 「や、や、やめたってどういうこと?!」 「だからそのままの意味だよ」 「ば、ば、ば、バカじゃないの! そんなことしたら明日香は?! 誰が明日香にFC教えるの?! 誰が教えるんですか!」 「なんで詰問口調なんだよ。葵さんだ。俺より上手に教えるだろ」 「そういう問題じゃない! 明日香は晶也に教えてもらいたがってるんじゃないの?」 「昔はそうだったかもな」 「昔って……」 明日香のそういう気持ちって、アヒルのヒナが初めて見たモノを親と勘違いする、みたいなものだと思う。 「今だって明日香は晶也に教えてもらいたがってるよ」 「かもな。でも、明日香は俺が教えなくても、佐藤院さんとやった時みたいな試合ができるんだからな」 自分で考える力が明日香にはある。俺が距離をとってしまったことで、それが前に出てきたみたいだ。 「それに明日香と真白には納得してもらってるからな」 「納得ねぇ……。どうしてコーチをやめたの? 明日香が凄いからコーチをやめたわけじゃないよね? ……もしかしてあたしのせい?」 「別に……」 みさきだけのコーチをしたいんだ、という言葉を飲み込む。 前に真白がみさきは頑固だって言ってた。俺もそう思う。俺が変に説得したらますます頑なになってしまうかもしれない。 それに、みさきからやる気になってもらった方がいいに決まってる。 やる気にならなかったらコーチをしようがない。 「今日はFCの話はいいよ。久しぶりに普通の話をしようぜ」 「普通の話とは?」 「なんでもいいよ」 「マスダ屋の新作ポテトチップスで株価がどう変動するか、とか?」 「マニアックすぎる! 知らないよ、そんな話」 「いやいや、そこがどう変動するかで新作路線が続くのかどうかの瀬戸際なわけだから、ファンの間では注目なのよ」 「みさきがその話をしたいなら付き合うよ。とにかくさ、みさきが逃げてばっかりだったから、最近、普通に話してないだろ」 みさきは納得していないのか、警戒するように俺を見上げて、 「……そうかもね」 「そうだよ。それだけのことだよ」 「ふ〜ん。ふぁぁぁああぁぁぁぁ。別にそのくらいいいけどさ〜〜」 みさきは見せ付けるように、わざとらしく大きなあくびをしてからむにゃむにゃと口をならして、 「話をするのは後からでいい?」 「いいよ。今はがーがー腹を鳴らして寝てろ」 「がーがーなんて鳴らしてない! あたしのお腹の音は可愛いんだから! 仔猫の鳴き声みたいなんだから!」 「仔猫を丸呑みしちゃったのか?」 「そんなわけあるかー! あー、怒鳴ったらめまいがしてきた。お腹へってきた〜。うにゃ〜」 「寝ろ」 「そうする〜〜〜。おやすみ〜〜〜」 これから担任が来るのに、おやすみ、なのも変だけど。 「……んす〜〜〜〜、んす〜〜〜〜」 みさきは目を閉じて鼻をスースーと鳴らし始めた。 みさきが窓際に立って窓を大きく開く。入ってきた海風が黒い髪をゆっくりと揺らした。 「もう夕方か〜」 どうでもいいことを語り合っているうちに、こんな時間になってしまった。 しかし、5分後には何を話してたか忘れそうなことばかりで、みさきの頭の中は何が詰まってるんだと少々不安にもなった。 もうクラスメイト達はみんな帰ってしまうか、部活に行くかしてしまったので教室に2人っきり。 グラウンドの方から金属バッドでボールを叩く、甲高い音がした。 「野球部がんばってるな」 「だねー。金属バットでボールを叩く音って変に寂しくてさ、いつも遠くから聞こえる気がしない?」 「なんとなくわかる気がするよ」 みさきは妙に明るい声で、 「世界に取り残されたみたいな感じがするなー」 「世界って、規模がでかい妄想だな」 「そんなことないでしょ。あそこもここも向こうもこっちも世界なんだから」 「じゃ、あそこからもここからも向こうからもこっちからも取り残されたわけか」 「まー、そうなるね。……にひひ〜。ここは2人だけの世界です」 「あんまり楽しい設定じゃないな」 「楽観的に行こうよ。2人だけの世界。2人だけの惑星だからね〜。どうする? とりあえず、子供を2人くらい作って育てる?」 「いきなり凄いとこに来たな」 「2人だけになったらそのくらいしかすることないでしょ?」 「まあ、本当にそうなったら考えるよ」 みさきは外を見て軽く深呼吸してから、 「夏休み、どうするの?」 「別に……」 「部に行かないんだからヒマなんじゃないの? どう? あたし達、つきあっちゃう?」 冗談っぽく言う。 俺は肩を落として、 「ヒマな者同士でか?」 「ヒマな者同士って言うな。そんなのヒマだからつきあうみたいじゃない」 「違うのか?」 「違わないかもしれないけど言い方の問題。いや、言い方の問題なんてとこに落としたら、後々、遺恨を残しそうな気もするにゃ〜」 「まあ、そのことはおいおい考えていくとして……」 「おいおい、ね。なんだか大人みたいな言い方」 「そうか? でもみさきはすることあるだろ。ゲーセンには行かなくていいのか? 日本一を目指してるって真白から聞いたぞ」 「あれならもう日本一になったからいいよ」 「……マジで? 日本一ってそんな何気なくなれるもんなの?」 「いや〜、今は他のゲームが人気らしくてさ。あそこに置いてるのをやってる人って少ないらしいんだよね〜」 「それでも日本一って凄くないか?」 「たいしたことないって。マンスリーランキングでのトップだし。あれは反射神経だけのゲームだからねー。頭を使う必要ないし」 やっぱり反射神経はとんでもないんだな。それは強力な武器だ。 だけど、そこに頼っていたら、白瀬さんや葵さんが匂わせていたように、みさきは今のままで成長しないのかもしれない。 ──そういえば。 みさきってどうしてFCを始めたんだろう? 「前から聞こうと思ってたんだけど、みさきがFCをやろうと思ったのっていつからだ?」 「FCの話はしないんじゃなかったの?」 「このくらいは別にいいだろ。こっちに引っ越してくる前にやってたんだよな?」 「こっちに引っ越して来る前だから、前の学園の2年の夏までしてた。引っ越してきたのをきっかけに、やめちゃったから」 「前の学園って永崎の市内だったよな?」 「うん」 四島ほどじゃないけどFCが盛んなとこだ。 「成績はどうだったんだ?」 みさきならそれなりにいいとこまで行ったはずだ。 「1回だけ偶然準優勝したことがあるけど、それだけ」 「それだけ?」 「だから、それだけ。他はまあ、3回戦とか準決勝で負けてた」 「おかしくないか?」 「別におかしくはないでしょ?」 「そうか? 優勝くらいしていてもおかしくないだろ」 みさきはへらへらとだらしなく笑って、 「あたしはそんなたいした選手じゃないってば〜」 みさきのことだから適当にやっていたんだと思うけど……。だとしてもその成績はおかしいだろ。 四島は全国でもっともFCのレベルの高い地域だ。永崎も高いけど、ここに比べると劣る。 みさきに約2年のブランクがあったとしてだ。あれだけ飛べたってことは、そんなレベルだったわけがない。 「嘘をついてないか?」 「ついてない、ついてない。だから、あたしなんてそんなもんだってば」 釈然としないな。 スタミナ不足のせいもあるんだろうけど、それだけだろうか? みさきは半笑いで、 「晶也の指導がよかったんじゃない? なんか体に馴染む感じがしたもん。晶也が理想としてるとこがわかるっていうのかな」 「俺の理想か……」 「こんなこと言うの初めてかもしれないけど、晶也とそういうとこ似てると思うんだよね」 「で、みさきはどうしてFCを始めたんだ? 今回は明日香や俺との関係で入ったんだろうけど、部活をやるタイプじゃないだろ?」 時間を拘束されることも上下関係も嫌いだろうに。 「え〜と、いつだったかな。とにかく、まだ永崎に住んでた頃。両親の仕事の都合で、夏休みの期間はおばあちゃんの家に預けられてたんだ。今、住んでるとこね」 「ふ〜ん。じゃ、四島には転校する前から来てたんだ」 「その時にFCをやってる同い年くらいの女の子を見て、あたしもやってみたいなーって、興味を持ってお願いしてプレイさせてもらったのが最初かな」 「ふ〜ん。四島でFCをやってる女の子か……」 俺は葵さんの方針で年上相手に試合をしていた。 だから、同い年くらいのスカイウォーカーのことは、あまりよく知らなかった。 「素人だったあたしが見ても飛行姿勢がとっても綺麗でさ〜。ああいう風に飛んで見たいなー、と思った。だから部に入ってFCを本格的にやることにしたんだ」 「そんなに綺麗に飛ぶ奴だったんだ」 「うん。髪がたなびいて、ギリギリの前傾姿勢で……。方向転換もスムーズで、イルカが空を飛んだらあんな感じかなって思った」 そんな素直な憧れでFCを始めたのか……。 「実際、FCやってみてどうだった?」 「前の学園で部に入ってた時は、な〜んか違う感じがした。あたしがあの時に見た飛び方をしてる人は1人もいなかったし、ドキドキ感があんまりなかったな」 「……ドキドキか。そいつはドキドキする飛び方だったんだ?」 「うん」 まぶしそうな顔をしてうなずく。 「ドキドキしたなー。かっこいい感じの女の子でさ〜」 かっこいい女の子か……。 「その時に試合をしてもらったんだけどさ、向こうは玄人であたしは素人だからイライラしたのかな? 途中で急に怒ってどっか行っちゃって」 「なんだそれ」 「あたしがあまりにも下手だからキレちゃったんだと思う。凄く綺麗な飛び方だからずっと横で見てたかったんだけど、あれは本当に残念だったなー。もっと一緒に飛びたかった」 「みさきはその女の子みたいに飛びたいんだな?」 「飛びたかった、だね。今は結構……どうでもいいかな」 「そっか……」 「あの女の子を怒らせちゃったのは今も微かに密かに心の傷。あたしがもっと上手だったら、もっと楽しく飛んでられたんだろうになー」 ん? あれ? とろり、と重油のような粘っこい何かが、体のどこかで流れた気がした。 不安。 理由がわからないまま漠然とした不安が広がっていく。 「どうかした?」 「いや、えっと……」 言葉にまだなっていないけど──。 FCをやってる女の子が……。 素人のみさきと試合をして……。 途中でキレて帰る。 ドミノ倒しみたいにパタパタと倒れて──。思考がゴールに到達する。 息が止まる。 「…………」 「だからあたしの顔をじっと見てどうしたの?」 髪の長いFCをやってる女の子が……。 素人のみさきと試合をして……。 途中でキレて帰る。 「にひひ。ようやくあたしの可愛さに気づいたとか?」 「その頃のみさきって、今みたいに髪が長かったか?」 「んにゃ。あの頃は男の子みたいに短くしてた。小さい頃は活発なおんにゃのこでしたからにゃ〜」 「短かったんだな?」 「え? う、うん。ど、どしたの? 恐い顔をして」 「胸はどうだったんだ?」 みさきは引き気味に、 「ど、どうだったって?」 「膨らんでたのか膨らんでなかったのか、だ。エロい気持ちで聞いてるんじゃないからな。ただ知りたいだけだ」 「人の胸の成長を聞いておいてエロくないって言われてもな〜。特別に答えてあげるけど、あたしは二次性徴は遅めでした。どう? 晶也の特殊な部分が反応した?」 「しない」 「せっかく答えてあげたんだからしなさいよ」 「その試合をしたのって久奈島の海岸か?」 「え? う、うん? どうだったかな?」 「思い出せ!」 「ちょっとなんでそんな恐い顔してるわけ?」 「いいから! 思い出してくれよ!」 「わかったって。ちょっと待って……。えーっと……」 みさきは目を閉じて考え込んでから、 「うん、間違いなくあの海岸だと思う。記憶の中にある不機嫌そうに帰ってく女の子の後ろの背景が、あそこだ」 「みさきはその試合で得点したのか?」 「うん。何試合かして1点だけ。もう全然レベルが違ったからさ。本当に必死に頑張って取ったから、ハッキリと覚えてるんだ」 前から思ってたんだ。 みさきの飛び方はどこかで見たことがあるって──。あれは……。 「…………」 あの飛び方に似てる奴って……。 「……だから恐い顔してどしたの? 黙ってないで何か言ってよ」 何を言えばいいのかわからないまま口を開く。 俺はみさきに何を言うつもりなんだろう? 「許さないぞ」 思ってもない言葉が出た。 俺は何を言うつもりなんだ? 「ひへ? 急に何を?」 「許さないんだ」 言葉の後に感情がついてくる。 そうだ。許せるわけがない。 「……どうして急に会話ができなくなっちゃったの? だいたい何を許さないわけ」 「みさきがFCをやめること、に決まってる。俺はFCをやめさせないぞ」 「な、なにを言ってるの? 許すとか許さないとか、そんなの晶也の言うことじゃないよ。あたしが決めることじゃない」 「俺が決めないとみさきは本当にFCをやめちゃうだろ。みさきにFCをやめられたら……俺は──」 言葉がそこで潰える。気持ちは今にも飛び出していきそうなのに言葉にならない。 「俺は──」 「……晶也、どしたの? 変だよ?」 変にもなる。 「俺は、髪がメンブレンに張り付くような感触や、そこから剥がれて風になびく感触が、好きだったんだ」 「その気持ちはわかる気がするけど……。はがれる時は、パリパリの薄いチョコチップが入ったアイスを食べる時の感触に似てるよね」 「張り付く時はさらさらしてて不快じゃないんだよな」 「わかるけど……。晶也の髪って短いよね?」 「FCの選手だった頃、髪を伸ばしてたんだ」 「ふ〜ん、そうだったんだ、晶也が髪をね……」 「…………え?」 みさきの顔の上を緊張が走った。 「俺の話を聞いてくれ」 「…………」 みさきは無言でうなずく。 「昔、俺は見たことのない素人の男の子と試合をしたんだ。本当にそいつは下手だったんだけど、試合をしているうちにどんどん成長して……」 「俺より綺麗に飛ぶようになったんだ。少なくとも俺と同じくらいには飛んでた。俺が葵さんに何年も教えてもらって到達した場所なのに……」 「…………っ」 「そいつはたった数時間でたどり着いたんだ。──今ならわかるよ。初心者は短い時間でいろんなものを一気に掴むことがあるって」 100メートル走だって、コツを掴めば13秒や12秒はいける。 バスケットボールだってコツを掴めば、ランニングシュートくらいすぐ打てるようになる。 コツを掴むのが速いか遅いかだけの差で、そのくらいならだいたいの人はできる。 「才能のある奴は短い時間で一気に掴んだりする。でもその頃の俺はそれがわからなかった」 もう何年も前のことなのに、話しているうちに胸が早鐘を打ち始めた。 「目の前が真っ白になって、何も考えられなくなった。絶望した。挫折した。自分の数年間を数時間で越えられそうになったんだぞ」 そういうことは、ある、ことなのだ。 夏の大会を境に明日香が急に上達したようにそういうことが起こっても不思議じゃないのだ。 みさきはあの日、掴んだ。それだけのことなのだ。 だけど、俺はそれを認められなかった。才能の違いに愕然として……。 俺より上手に飛べる奴がいるなら、俺が飛ぶ必要なんてないって、そう思ったのだ。 「……あの時、あたしは晶也と試合をしてたの?」 「俺と試合したんだ。夏休みに、本土から来た、髪の短い、同い年くらいの奴が、FCを、俺とする。これだけ揃ってれば充分だろ」 「あの時の女の子は……」 じっと、俺の顔を見る。怖々とうなずく。 「う、うん。晶也だったのかもしれない。女の子だと思い込んでいたから、こんなこと考えもしなかった」 「あの時の髪の短い男の子は……みさきだったんだな」 口を開けて驚愕していたみさきが、 「あはははは」 どうしたらいいのかわからない、といった様子で笑う。 「俺はみさきを見て挫折して、みさきは明日香を見て挫折したんだな」 「挫折なんて言い方が大げさだなー」 「挫折だろ?」 「そうかもしれないけどさー」 「何て言うか、その……」 「……その?」 「──俺を!」 感情をコントロールできなくなっているみたいで、大きな声が出てしまった。 「な、なに?」 「俺を──」 心の中に口がある。心の中に歯がある。ガシガシとそれを噛み締めるようにして想う。その想いを口にする。 「俺を挫折させた責任を取ってもらうぞ」 「はあ? ……責任って、身体で、とか? そっか〜、それが目当てか〜。晶也のえっち〜」 「まぜっかえすなよ。俺を挫折させたんだ。俺を挫折させたみさきまでが挫折したら、俺は二度挫折したことになるだろ」 「そんなこと言われても……」 「みさきが挫折したままなのを、見たくないんだ。だからFCを続けてほしい」 「晶也、聞いてたよね……? あたしはFCをやめるって言ったんだよ」 「挫折したままにしておけないって言ってるんだ」 「晶也は大げさなんだって。あたしは別に挫折なんか……」 「してるだろ! 明日香を見て! 明日香に劣等感を抱いて! 明日香に負けたくないから、明日香に負けるのが恐いから! だから、こうなってるんだろう」 「こうなってるって?」 「挫折して、FCやめるとか言い出したってことだよ。そんなの俺と一緒だ! みさきに劣等感を抱いて、飛べなくなった俺と一緒だ」 「勝手に一緒にしないでよ」 「いや、するね! 一緒だ! 否定しないと一歩も動けないんだろ? 俺はその気持ちを忘れてたのに、忘れたままでどうにかなってたのに!」 「…………」 「みさきにそんな姿を見せられたら、俺まで一歩も動けなくなってしまうだろ!」 「……っ。なにそれ? こういうこと? 晶也のためにあたしはFCをしなきゃいけないわけ?」 「そうだよ」 「あははは、そんなハッキリと肯定されるとは思わなかったな。そんなことを理由にあたしがFCをすると思う?」 「俺は動けなくなりたくないし、動けなくなるみさきを見たくない。それだけのことだよ」 「そんなことを言うなら、晶也が勝手に復活すればいいじゃない。晶也の都合にあたしを巻き込むな」 「みさきが挫折してるのに、俺が復活して何の意味があるんだよ。みさきが復活するんだ。そうしてくれないと俺……」 「…………」 「俺──悔しくて、死にそうな気持ちになる」 「……っ! だ、だから、そんなこと言われても」 「みさきだってそういう気持ちなはずだ」 「決め付けないで」 「わかるんだよ。俺はみさきと一緒だからな。死にそうなほど悔しいから、現実を直視できないんだろ?」 「か、勝手なこと……」 「嘘をつくなよ。悔しくないなんて言わせないぞ。劣等感で体中がパンパンなんだろう?」 「…………くっ。ううう……。う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」 「俺は本当のことしか言ってないぞ。だからみさきも本当のことを言ってくれ」 「わかんないの! こんな気持ちはじめてだから! どうしたらいいかわかんないから! だから──」 「だから、それが死にたいほど悔しいって気持ちなんだ」 「そうかもしれないけど、だったらなんなの? あたしは……ううぅぅぅ! だって、無理じゃない!」 「何が無理なんだ?」 「明日香に勝つことに決まってる! 見てる世界が違う。明日香が遠くを見てるってことくらいあたしにもわかる。だけど──」 微かに喉を鳴らす。微かに涙をにじませる。 感情を押さえ込もうとして失敗してる顔。 「あたしは明日香が何を見てるのかもわからない。だけどあたしが見るよりも遠いとこだってことはわかる」 「……あたしの手は、明日香に届かないよ」 「そんなもん届けてみないとわかんないだろ」 「届かないってあたしにはわかってる。あたしがわかってることを晶也に変えることはできないよ。いい? あたしはわかってるの……」 「…………」 「それにあたしは、別に明日香に勝ちたいからFCをしているわけじゃないし……。あたしはただ……その──」 「…………」 「明日香に置いてかれるのは悔しいよ? だけどそれだけじゃなくて……そんなことじゃなくて。あたしの問題だから、その……苦しくて、えっと……」 「やめろって。そういうのって言葉にできないだろ。言葉にできてちゃんと考えることができたら、そんなに悩まないよ」 「…………っ」 嫉妬に似ているんだろう、と思う。 嫉妬をそのまま全部含んでるかもしれないけど、嫉妬とは簡単に言えない色。 決闘を挑んだ佐藤院さんの口元にあった色が問題ならないくらい、黒の混ざった濃い色が、みさきの顔に浮かんでいた。 「わかんなくて当然だと思う。俺にだってわかんない。どうしてこんな面倒な感情があるのかわかんない。考えたってどうしようもないと思う」 「……そうなのかな」 「頭でわかんないんだったら一緒に動いてくれ。俺がみさきを届けるから。絶対に届けてみせるから」 「届けるって、明日香のいる場所に?」 「違う。そういうことじゃない」 「じゃ、どこに?」 「今のその滅茶苦茶な感情から目をそらさなくても歩ける場所だ」 「目をそらさなくても……」 「みさきが歩いてくれないと俺も歩けないんだ。だから、そこまで絶対に届ける」 少しの沈黙があった後に。 「…………夏休みの残りで、2人だけの惑星で子供を2人くらい作って育てるの、なし?」 「なしだな」 みさきは、ふっ、と短いため息。 「目をそらしてる方が楽なんじゃないかね〜」 「かもな。だけどそれもつらいよ。もう真っ直ぐには飛べないんだって、そう思うのはつらいよ」 「つらかった?」 「つらかったけど、そのつらさに馴れたとこだった。そこを乗り越えて先に行けたかもしれないのに……」 「みさきが俺を、昔の場所に引きずり落としたんだ」 「勝手に落ちたのをあたしのせいにするな〜」 「もう一度言うけど、やめるなんて許さない。そして絶対に届けてやる。だから……」 「だから?」 「情けないこと言うぜ?」 「え?」 佐藤院さんが明日香に決闘を挑んできた日。 みさきに言わなきゃいけないのに言えなかった言葉が何なのか、今ならハッキリとわかる。 「俺を助けてくれ、みさき」 「っ…………!」 「みさきが飛んでくれないと、俺はずっとここだ」 「……それってつまり、あたしもずっと、そこ、なわけだ」 「そういうことになるかもな」 「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」 みさきは長いため息をついた。 時間が過ぎて、少しだけ空気が冷えて。 2人の肌を撫でて、汚れが少し落ちた気がした。 みさきは、妙に憑き物の落ちたような、素直な顔で。 「──いいよ」 微笑む。そして、俺に向かって手を差し出した。 「晶也をそこから連れ出してあげる」 「俺はみさきにつらいことをするぜ」 「つらくしてくれても痛くしてくれてもいいよ。ずっと、ここ、なのかと思うと少し寒気がするしね。言われてみれば、それよりはマシかもしれない」 「でも約束して。あたしを届けるんじゃなくて晶也も一緒に来て。じゃないと、あたしが晶也を助けたことにならないと思う」 「約束する」 「……あたしを助けて、晶也」 「助ける」 俺はみさきが差し出していた手を握った。 握った瞬間、みさきが熱い息を吐き出しながら笑って、それで──。 「…………」 「…………」 夏の大会でとまった時間が動き出したってことがわかった。 そして同時にはっきりとわかった。 ──俺はみさきのことが好きだ。 いつ言えるかわからないけど、いつかちゃんと言わなきゃいけないことだと思う。 今、言うのは勢いで言ったみたいで卑怯な気がする。 だから、いつかその時が来たらちゃんと言おう。 画用紙にカッターナイフを引いたように軌跡が蒼穹を切り裂いていく。 動線は二本。俺が見ているのはその二本目だった。 明日香……部長……真白……みさき…… 姿の定まらない誰かが、ぐんぐんと風を切っていく。 目の前の相手に食らいつくような形相で追いかけている。 ああ俺は……この光景を知っている。 一昨日かその前か、地上から必死に見上げていた。 聞こえるはずのない風を置いていく音。 観客たちの割れんばかりの歓声。 光線の束のように突き刺さる夏の光と、凶悪なまでに照り返す海。 これが夢だと気づいた理由は、強烈だったのにどこか曖昧なそれらじゃなかった。 熱いのに、胸の芯だけが底冷えするような異様な冷たさ。これが夢だとわかった訳。 それはきっと悔しさだ。 俺はこの光景を知っている。みんなはこの試合で……負ける。 それはもうどうにもならない決定された過去。だって俺は知っている。 だから…………だけど。 「頑張れ! 負けるなあっ!」 約束したのを覚えている。絶対に勝たせてやると。 あれはみんなとか、それとも特定の誰かだったか。 試合は大詰め。二つの軌跡はもつれるように激しいデッドヒートを繰り返す。 俺は再び声を張るために肺を膨らませる。現実にはマイク越しであまり必要のないことだ。 頭の中では冷静にと警鐘が鳴り続けているけど抑えられない。 胸の芯がまだ冷たいのか熱くなっているのか、もうわからなかった。 ただ衝動的に、嗄れんばかりの声をあげる。 やがて試合は終息する。 焼きついて離れないみんなの悔しそうな顔。 それが徐々に遠ざかっていく。 「っ!?」 身体がびくっと震えた。 夢は終わってくれなかった。 すべての境界が曖昧になった目の前いっぱいに広がるオールブルー(一面の青)。 エラーを起こしたPCのブルースクリーンのようだ。 口の中に苦々しい感情が蘇ってくる。 それは不安と挫折。 俺はこの光景を知っている。 忘れようがなくて、でもここ数年は薄らいでいたトラウマと呼んで差し支えのないもの。 身体がすくみ上がる。 冷たい汗が全身に広がる。 見せないでくれ。 全部持っていかれる。奪われる。 傲慢も自信も好きも青い空も。 嫌だ……嫌だ嫌だ。 ぎゅっと目を瞑る。 もう見なくても済むように。 「さてと、じゃあ部室に戻って練習しましょう」 「っ!?」 「夢……?」 夢か……。 跳ね起きた上半身に薄く張りつく冷たい汗の感触にぞっとする。 力を抜くように息をついた。 「はぁ……」 「今さら思い出すか……」 「っと。戻ったぞー」 お菓子やらジュースでぱんぱんに膨らんだビニール袋を持ち直して部室に入る。 「おかえりなさいっ」 留守番の明日香がわざわざ奥からぱたぱたと駆け寄って出迎えてくれた。 「外暑かったですよね。どうぞ、タオルですっ」 「サンキュ」 夏の大会が終わって数日経った今日、ここFC部ではちょっとした会が催されることになった。 「しかし晶也がお疲れさま会をやろうなんて言い出すとはね〜」 「そうですね。晶也センパイのキャラじゃない気がします」 「俺はなんだと思われているんだ……」 「わたしは素敵だと思います!」 「ありがとな明日香」 お礼を言いながら、実は自分でもらしくないと感じていた。 大きな大会が終わった目標の喪失。 胸にぽっかりと穴が空いたような燃え尽き症候群。 大会前までの俺なら今頃みんなを鼓舞し、新しい目標に向かって練習をはじめているだろう。 引きずってでも前に向かう。FC部コーチを務めるからにはそうありたい。 だけど今日は……。 「なにか裏があったりして」 みさきの目はいつも通りなのに挑発的ですべてを見透かしているようにも見える。 「ああ、アメとムチでこのあとひっどいことを企んでるわけですね。それならセンパイらしいです」 俺らしさの認識に周囲との温度差が激しすぎる。 「何もない。……ただ今朝ちょっと変な夢を見てさ」 ふと普段はしないような与太話が何故か口をついて出た。 「夢ですか? お疲れさま会をしないと呪われるみたいな?」 「だからなんていうか……供養?」 「ちょ、どうしてわたしを見て拝んでるんですか! なんかこわいんですけど! 縁起でもない夢とか見たんじゃないでしょうね!」 「…………」 口を滑らせたのを自覚したのと真白の追求から逃げるために視線を逸らす。 「ほら、こんなに作っちゃったんですよ」 「お〜。いいね、らしいね〜」 窓果と話している明日香が示したのは、縦長に切った折り紙を輪っかにしてつなげる飾りだった。 たしかにこれは存在だけでパーティー感が増す。 どうやら選手たち留守番組が部室の準備とともに用意してくれていたらしい。 「よし、これは兄ちゃんに『おーいちょっとこれ貼っといてー』してもらおう」 「あ、いえ、それはあとでいいですから」 「え、そうなの?」 「お、窓果。日向も戻ってたか」 と、タイミングを見計らったように部長が部室に現れた。 「みんなで一致団結して準備しているこのときに、一体どこをほっつき歩いてたのさー」 「いや、おまえが出先から『各務先生も誘っておいて』って難題をメールしてきたんだろうが」 「あ、そうだった。兄ちゃんよくやった。偉いぞ!」 「準備ができたら呼びに来……って、おいっ」 「行きましょう、窓果ちゃん!」 「うっす!」 明日香と窓果がばたばたと部室を出て行く。 おそらく先生を呼びに行ったんだろう。 「行っちまった」 「最後まで話を聞きませんでしたね二人とも」 「日向、妹ってのはこんなもんだよ。しょせん兄の言うことなんか聞きやしないんだ」 愚痴ってるわりにニヤニヤしているところを見ると、ここの兄妹仲はなんだかんだいっていいんだろうな。 「さ、じゃあ今のうちに買ってきていただいたお菓子を広げたり、準備をしちゃいましょう」 「じゅるっ」 「菓子を開けるのは最後にしよう」 「晶也ぁ〜」 「はいみさき先輩、別にちゃんとわたしが持ってきたおやつがありますからね〜」 「とりあえず使わないものはよけて……む? この輪っか飾りはどうしたんだ?」 「あ〜、それはあとでいいですから」 「そうなのか?」 そんなやり取りをしながらパーティの準備は進んでいった。 「では乾杯の挨拶を部長から」 「手短にだよ」 「わかっている……こほん」 「正直、こんな日が来るとは思っていなかった」 「うっわ、長そう」 「許してやれよ」 「つい数ヶ月前までFC部はオレひとりだった。FCが大好きだったから苦ではなかった。だが心のどこかで仲間が欲しいと思って……ん?」 「…………」 「と、鳶沢……」 「悪いが少しだけ待ってくれ。オレの気持ちを皆に伝えねば気が済まんのだ」 「………………」 「…………くっ。今オレの側には奇跡と呼ぶべき仲間がいる! 改めてこの場でひとりひとりに礼を言いたい! まずは」 「……………………」 「乾杯!!!」 「わーい」 (……部長、かわいそうに) 人の心が折れる瞬間を見てしまった。 まああれだけみさきに恨みがましい目で見られたらなかなか耐えられないよな。 「まったくおまえたちときたら……」 一方こちらでは葵さんが呆れている。 「各務先生には本当にお世話になりました。是非おかわりを注がせてください!」 「飲み干せたらな」 「すみません。わざわざ呼び出しちゃって」 「まあたまにはいいよ。おまえたちの気持ちも嬉しいしな」 「596、274、513、427、117、408」 「…………」 「521、487、211、629、774、391では!」 「5千……348だ!」 「ほう」 「電卓を打った明日香ちゃん、正解は?」 「えっと……3965です」 「な!?」 「兄ちゃん残念! フラッシュ暗算成功せずー!」 「くっ、そうか……ミスとは……脳にまで筋肉が行き渡っていなかったか……」 「いや間違っているのは倉科だ」 「えっ、わたしですか?」 「計算を間違えている。どこかで打ちミスがあったんじゃないか」 「ほ、ほんとですかっ?! 窓果ちゃん、もう一回数字言ってみてくれます?」 「もう覚えてないよ。1回限りの行きずりの数字だもん」 「そこはちゃんと覚えておくもんでしょ……」 ひとしきりの余興を終えると、 「さて、そろそろ誰か締めるんだな」 「えー、もうですかぁ」 「まーいいんじゃない?」 「みさき先輩、もうお菓子全部食べちゃったんですね……」 「明日香先輩、そろそろあれを」 「あっ、そうでした。忘れちゃうところでした」 「あ〜」 「?」 何やら隅のほうに移動した女子選手3人で話しはじめる。 そして、 「皆さん、横一列に並んでくださいー」 「なんで?」 「ほらほら、いいですからっ」 みんな腑に落ちない表情のまま、とりあえず窓果、部長、先生、俺の順に並ぶ。 「じゃあ窓果ちゃんから……じゃーん!」 明日香が後ろ手にしていたのは壁に掛ける用に作ってそのまま忘れられていた輪っか飾りだった。 明日香が取り出した輪っかは天井から下げるのに比べてかなり短くなっている。 それも糊でくっつけたのか小さな輪になって、ハワイで見る首からかけるレイのようになっている。 どうして壁に掛けるのを拒んだのかと思ったらこういうことだったのか。 「窓果ちゃん、マネージャーのお仕事ありがとうございます。明るい笑顔にとっても助けられましたっ」 「キャー、やめてそういうの!」 「時々明るすぎる時もありますけど……」 「FC部に入るまではそんな人じゃないと思っていたのにね」 「わ、途端にこみあげるものが引っこんでった」 「でも、そういう部分を知れたことも含めて、窓果先輩がマネージャーでよかったと思います」 「ありがとね、窓果」 「ちょっとー、泣かすのかどうかはっきりしてよー」 「そんなつもりは全然ないって」 3人が窓果の首に輪っかをかけ…… 「待って待ってそんなことされたら本当に泣いちゃう!」 「ちょ、だからって拒否することないじゃないですかー」 「ハンカチならありますよ!」 「そういう問題じゃない!」 わずかな攻防のあと、結局受け取ることになった窓果が礼をする。 「ありがとうありがとう。みんなはわたしが担当した中でも最高のプレイヤーだよ」 そりゃそうだ。担当したのは現メンバーしかいないんだから。 「次は部長です!」 「思うにオレはそっち側じゃないか?」 「だって部長がいなかったら、このFC部はなかったんですよ?」 「部長がどこかで諦めていたら今日この日はなく、このメンバーが集まることもありませんでした」 「よく頑張ってくれました部長」 「ばっ、馬鹿野郎! みんなで頑張ったんじゃないか! だいたい礼を言いたいのはオレの方で……くそっ、汗が目に沁みる!」 「くっ……うおおおぉぉぉおおお!!!」 定番の言い回しで部長が男泣きする。 輪っかをかけ損なった3人は困っていたが結局部長の手に押し込んだ。 「それじゃ、次は先生です」 「ああ、ありがとう」 「わ、あああっ!」 先生はさっさと明日香から輪っかを奪ってしまった。 「わざわざ言葉にしてもらわなくてもいいさ。こいつは貰っておくけどな」 輪っかを示す先生に、3人が頭を下げる。 そして、 「最後は晶也さんです!」 「俺も先生と同じく……」 俺も改まってとか湿っぽいのは苦手だったから先生と同じ手を使おうとしたのだが…… 「だめです! 晶也さんにも言いたいことがいっぱいあります!」 すでに読まれていたのか、阻まれてしまう。 「晶也さん!」 「は、はい」 明日香の勢いに思わず返事をする。 「本当に、ほんとーーーうに今日までありがとうございました!」 「そうだね。ありがとうだ」 「……ん」 ちくりとちいさな棘が胸に刺さった。 「これからもよろしくお願いしますね!」 だけどそれは一瞬のもののようで、 「どうして手を出す?」 「ありがとうございますの握手をしましょう!」 言うが早いか手を取られ、ぶんぶんと勢いよく上下に手を振られる。 「痛たたたた……」 肩が抜けそうな元気だ。 でも明日香の満面の笑みを見ていると気にならなくなる。 なんとなく残りのふたりに向き直る。 「あう……」 真白は俺の手と自分の手をわずかに見比べていたが、やがて意を決したように自分の手を制服でこすって、 「いや、あたしはしないよ〜」 「わ、わたしだってするわけないじゃないですかぁ!」 「大丈夫だ。俺も望んだわけじゃない」 真白はあからさまに下を向いたまま差し出しかけた手を慌てて引っ込めたのだが、触れない方が賢明だろう。 明日香、みさきと礼を言ってくれたので促すわけではないが視線は自然と真白に向く。 「…………」 真白は何やら言いづらそうにしていたが、突然ウインクをしてきた。 ウインクといっても魅了するようなものでなく、『例のあれ頼む』みたいなニュアンスのものだ。 どうやら何か合わせてほしいことがあるらしい。俺はわかったと目でちいさく頷いた。 「まあわたしからも……これだけはちゃんと言っておかなくちゃって思いますから」 「うん」 「晶也センパイ、本当にありがとうございました」 真白のツインテールがぴょこっと跳ねるくらい深々とお辞儀をしてきた。 「……あ、いやでもお礼なら大会の次の日、ふたりのときにちゃんと言ってもらったよな」 「センパイぃぃいいい!?」 「うわっ」 襟首を掴むような勢いで真白が距離を詰めてくる。 「それは言わないでくださいって、わたしウインクしましたよね? ちゃんと口止めしましたよねえっ!?」 「あ、ああ、さっきのはあれのことだったのか」 真白に気圧される。 「ヘンな誤解で面倒なことにならないように先回りしておいたんですよ! それを……」 「ふたりきり……?」 「ウインク?」 「ほらぁ!!!」 「……悪かった」 実は全部真白自ら暴露しているが、(しかも事実以上に心証は悪い気がする)同じレベルの言い争いに益を感じないので頷いておく。 「なんでもありません! なんでもありませんから!」 「必死に否定するところがますます……」 「そういう定番のやつとかいらないです!」 「せめて最後まで言わせてよ……」 「そっかー。真白にもそういう相手ができたかー。うんうん」 「誤解です。わたしにはみさき先輩だけですよー」 「っ!」 「わかったわかった」 真白に目で促され(脅されて)仕方なく助け舟を出……そうとしたところで、 「晶也さん……」 「明日香!?」 「『明日香が捨て犬のような目をして日向くんの仲間になりたそうに見ている!』」 「そんな目はしていませんよー」 「わたしのそうあってほしいという願望かな?」 「センパイ、早くみさき先輩の誤解を解いてください!」 「真白こそ明日香をなんとかしてくれよ!」 「なんとかってひどいですー!」 「おまえたち、程々にしておけよ。下校時間が迫ってるんだからな」 「オレにはよくわからんが犬も食わないってやつか?」 「そんなんじゃ……! もういいです」 真白があきらめたようにちいさくなる。 「わたしはみさき先輩についていくだけですから」 「いやいや好きにしてくれていいんだけどね」 「好きにしてるんです! ともあれ」 みさきからの平常運転なつれない返事には動じない真白は、 「これからもご指導ご鞭撻のほどお願いします」 「よろしく」 「だってさ」 「だってさって」 まあみさきからそういうのは期待してない。 「それじゃ晶也さん、首を出してください」 「まずはひとまずお疲れさまでした」 「明日香先輩、それだとやっぱりこう、一区切り感が強いような」 「そうですね。でしたらやっぱり……」 「これからもよろしくお願いします、コーチ」 「よろしくお願いします」 「おつかれー」 「みさきちゃん!」 「みさき先輩!」 「はは」 3人が首に輪っか飾りをかけてくれる。 「…………」 頭を下げていたので誰がはじめたかわからない拍手まで添えて。 照れくさいようなくすぐったいような逃げ出したいような気持ち。 どこかでこの会は負け犬の傷の舐め合いでしかないのかもしれないと思っていた。 だけど、やっぱり素直に嬉しかった。 「センパイ似合いますよ」 「そのセリフはこういうときに言うものじゃないってことくらいわかるからな」 「はい、以上でわたしたちからのお礼式は終わりです。みなさんありがとうございましたっ」 「ストップ」 「はい?」 「輪っか飾りはもう余ってないのか?」 「えっと、余ってますけど……」 「それってまさか」 「勿論。感謝してるのは俺たちも同じってことだよ」 「ああ、まったくその通りだ」 「いいぞ日向くんー、がつんとやってやれー!」 「いや普通に窓果も手伝えよ」 「その場合、誰が誰にかけるかは日向くんに決めてもらうことになるけどいいかい?」 「……ひとりひとりに感謝を伝えたいと思っていたとこだった」 「うわ、八方美人」 「どうしろって言うんだ」 輪っか飾りはちょうど残り3人分が残っていた。 渡す順番は並んでいる通り。 嬉しそうにこっちを待ってる明日香、普段どおりのみさき、気恥ずかしいのか髪を手櫛で軽く直している真白となる。 「明日香」 「はいっ」 「部長にも感謝してるけど明日香との出会いがなかったら確実に今日はなかったと思う」 「一生懸命ついてきてくれてありがとう。感謝してる」 「晶也さん……」 明日香に輪っかをかけて、みさきに移る。 「みさき」 「晶也……」 「…………」 「自然に目を閉じるな」 みさきのおでこを軽く叩いてやる。 「いやほら、ちょっとこういう雰囲気が苦手でね」 「それはわかるけど」 まあそれはそれとして、別に全員に感謝を伝えるのが同じトーンでなきゃってことはない。 「みさきにはこの輪っか飾りのいい部分をやろう」 「そんな魚の一番おいしいとこみたいに言われてもねー」 「一箇所だけ金紙銀紙が連続で使われてるとこがあってさ」 「あたしそういうの好きなキャラだって思われてた?」 思ってないけど、なんとなくキラキラしたのは喜びそうなイメージはあった。勝手にだけど。 「ありがとうみさき。部のレベルを上げてくれたのはみさきだよ」 「晶也が好き勝手やらせてくれただけだよ」 俺の差し出す輪っかをみさきは手で受け取った。 最後は真白の番だ。 「…………」 困った。なんて言えば機嫌を損ねないんだろう。 しかもなぜか既にちょっとジト目気味だし。 「……あの、早く何か言ってくださらないと間が持たないんですけど」 そりゃそうだ。 「ま、どうせわたしはセンパイにとってみさき先輩のおまけみたいなものでしょうけど」 「そんなことはない」 「こう言えばそうフォローするしかありませんよね」 「いや」 一瞬迷ったけど……素直な気持ちを言葉にすることにした。 「たしかに最初はみさき関係で何かと目のカタキにしてくるしポイントポイントで生意気だし、俺のこと嫌ってそうだし、二面性はひどいし、腹の中で何考えてるかわからないし」 「なんか怖いし、みさき先輩みさき先輩面倒だし、まあどれにしたっていまだにあんま変わってないけど……」 「晶也、晶也」 「どうしたみさき?」 「あんたは何を考えとるんだ」 「え?」 「…………っ」 見れば真白が怒りのせいかぷるぷると震えていた。 ……しまった。素直な気持ちがあふれて止まらなくなってた。 「今までお世話になりました」 「違う違う違う!」 俺は体全体を使って制止する。 「なにが違うって仰るんですか。どうせわたしはセンパイを嫌ってて目のカタキにして……」 逐一覚えてるし!? 「生意気で二面性がひどくて腹黒くて怖くて面倒で……」 「だからそういうのを乗り越えてちゃんと話せるようになって嬉しかったって言いたかったんだよ!」 「…………」 「本当にだ」 「……なんだか取ってつけた感がものすごいですけど」 「こんな場で不満だけぶつけるほど性格破綻してないぞ俺」 「信じられないか?」 「……信じてなかったらまだ続けようとは思いません」 ホッとして少し気が抜けた。 どうやら、怒りはしたものの不信に繋がったわけではなさそうだった。 「センパイは……どうも掴みどころがなくて、ふわふわ何を考えてるのかわからなくて、みさき先輩と不条理に仲が良くて」 上ふたつは俺よりもみさきに当てはまる気がするけど。 「だけど、FCをやってるときのセンパイはセンパイって感じでした」 「なんだよそれ」 と、輪っかの存在を思い出す。 「本当に、FCをはじめてくれてありがとう。これからもよろしくな」 「それはみさき先輩次第ですけどね〜」 最後は真白っぽく、お返しにちいさく舌を出された。 「なんか……いいな、こういうの」 「じ〜んとか感動するのはいいけど、それを言葉にしたら台無しだよ兄ちゃん」 「よし、締めに挨拶や言葉なんて無粋だ! 最後は秋の大会に向けて円陣を組もうじゃないか!」 「うわ、この人なに言い出してんの!?」 「いいですねそれ!」 「ちょ、肯定しちゃうんですか明日香先輩!?」 「まあ部長がこう言ってるんだ。従おうぜ」 「いいけど……部長の両隣は晶也と窓果でね」 「兄ちゃん汗っぽ! タオルタオル!」 「よーし肩を組むぞ窓果」 「だからちょっと待っ……ぎゃー!?」 「マネージャーが死んだ」 「二代目はあたしがやるよ」 「死んでないし!」 「先生はどうされます?」 「いや私はいいよ。あと、部室の中だとさすがに無理があるんじゃないか?」 「それは確かに……」 というわけで外に出て円陣を組む。 夕方といえど昼の熱気とセミの声はまだまだ残っていた。 久奈浜学院FC部は、みんな多少の汗を滲ませながら、肩を組んで頭を突き合わせる。 「号令は部長、お願いします」 「おう。……夏の大会が終わって今日から再出発だ」 「そしてこの区切りの日に我がFC部は新部長を日向に任せようと思う」 「ちょ、部長!?」 唐突な発表に俺が顔を上げるが、 「わー、晶也さん、大出世ですね! おめでとうございます!」 「そうですね。妥当な線だと思います」 「ちっ」 ……窓果は何か狙っていたのだろうか? 「部長、部長が引退するにはまだ早すぎませんか? それに突然すぎますよ」 「オレも今がいいと思ったばかりだからな。その辺りはどうでもいい。やってくれるだろ?」 「……みんなが俺でいいって言ってくれるなら」 「大賛成でーす」 「異議なし」 「みさき先輩と同じくです」 「ま、得てして組織っていうのはナンバー2の方がおいしいもんだよね」 「みんな……窓果以外……」 「おいっ、口に出てる言葉で表してる!」 「全力で頑張ります! よろしくお願いします!」 みんなが円陣を崩して拍手をくれる。 「円陣を組む前に言えよって話だよね」 「さて新部長、最初の仕事だ。号令を頼む」 「やっぱりまた組むんですね」 「それは前部長が残した負の遺産なので俺のせいにしないように」 「ぐ……まあそう言うな」 笑いながら円陣を組む。 「じゃあみんな、俺が声をあげたら一斉に『オー!』で応えてくれ」 「はいっ」 「わかりました」 みんなが一斉に腕を組もうとした、その時。 「と、その前に新部長」 その輪からひとりだけがそっと離れた。 「どうした?」 「あたしも今日で引退するから」 「みさき先輩!?」 「みさきちゃん!?」 「ちょ、みさき!?」 「…………」 「…………」 「……わかった」 「晶也センパイ……!?」 「ん。そんじゃね」 みさきは手を振ってみんなの輪から離れていく。 俺たちはその後ろ姿を見送りつつ、やがて所在なさげに互いを見つめ合う。 「……それじゃ行くぞ」 俺はその空気を破るように言うと、 「秋の大会に向けて……久奈浜FC部、全力で頑張るぞ!」 ……………… ………… …… 俺の部長就任最初の仕事の結果は。 なんとも中途半端なものになってしまったのだった。 「どうしてですか」 「なにが?」 「さっきからずっと言ってるじゃないですか。みさき先輩の引退の話です」 「あー、それね」 「どうしてやめちゃうんですか? みんなでこれまでずっと頑張ってきたじゃないですか」 「んー、だからかな?」 「え?」 「これ以上は頑張れない、頑張る気もないってこと。お腹もすくしね」 「そんな……またみんなでやってけるって思ったのに」 「ごめんね〜。いつも通りいい加減で」 「…………」 「! そうだ、センパイ!」 「ん? あたし?」 「違います、晶也センパイです! 晶也センパイも、みさき先輩が辞めるのを止めようとしてるんじゃありませんか!?」 「そう、晶也センパイなら……あの円陣のときは驚いて混乱してたとしても、そうです」 「晶也が? ううん」 「え……?」 「全然さっぱり」 「えっと、それはみさき先輩が逃げてるわけじゃなくてですか……?」 「うん、至って普通に。あ、あのあとで改めてもう1回だけ聞かれたっけかな」 「それって!」 「いや、普通にもうやる気ないって言ったら向こうもそうかわかったーって」 「みさき先輩がこてんぱんにひどいことを言ったとかじゃなくてです……?」 「んー、さっきからなにげにひどいことを言われてる気がするなー」 「あう、ごめんなさい……」 「いいけど。でもどうして晶也があたしを止めると思うの?」 「約束したからです」 「あたしがFCを辞めようとしたら晶也が止めるって?」 「いえ、わたしとなんですけど」 「……絶対に勝たせるって」 「よくわかんないけどさ、なんでそれがあたしを止めることになるの」 「だって、みさき先輩が辞めたらわたしが辞めないわけないじゃないですか〜!」 「好きに続けなよそんなの」 「みさき先輩と一緒がいいんです!」 「そう言うとは思ったけどね」 「まあさ、選手としては引退だけど、やることないからちょくちょく顔は出しに行くと思うし」 「窓果にも手伝いとか頼まれそうだから、気にしなくていいと思うんだけどなー」 「はい……」 「ま、辞めたくない理由があるなら続ければいいんだし、辞めたきゃ辞めればいいじゃん」 「みさき先輩が引退を撤回されるということは」 「ないと思うな〜」 「でも可能性はゼロじゃないですよね?」 「まー、可能性の話にまでなるとわからないかな」 「わかりました。それじゃ部活に行きましょうか」 「あ、あたし今日パース」 「いきなり行く気ないじゃないですかぁ!」 「おつかれさまでーす」 「おっ、おつかれー。って真白っちひとり?」 「みさき先輩、今日はいらっしゃらないそうです」 「あんにゃろ。マネージャー業も手伝うとか言ってたから、めんどくさいデータ整理押しつけてやろうと思ったのに〜」 「ああ、めんどくさいって数字に気を遣うって意味ね。みんなが成長してくの見るのはやりがいあるから、うん」 「はい、見ててくださいね窓果先輩」 「おや、選手続けるの真白っち」 「え?」 「あれ?」 「あの、わたしそもそも引退とか言った覚えないですけど……」 「でもさ、みさきがいなくなったら真白っちも当然辞めるよね」 「それは……そうですね。はい」 「そんなのダメです!」 「ひゃっ」 「みさきちゃんに続いて真白ちゃんまでいなくなっちゃうなんて、寂しいです絶対にイヤですー!」 「でも、ここのふたりは1セットだから。本体と付属品みたいな。入ってきたのも一緒だったし」 「というか、く、苦しいです明日香先輩ぃ……」 「ああっ、真白ちゃんごめんなさい、しっかりして〜」 「けほっ、けほ……」 「大丈夫ですか、真白ちゃん?」 「……大丈夫ですよ、明日香先輩」 「ほんとにですか?」 「はい。きっといなくならないです。なんとかしてくれますよ」 「え、えっと……なんの話?」 「あ、そういえば今日晶也センパイは?」 「あ〜日向くんならさっき来たけどやることがあるってすぐ出てったかな」 「やることって……そうですかセンパイ、もう」 「うん、大会終わったばっかなのにもう新しい練習方法考えたみたい。準備があるからって先に行っちゃった」 「え? 練習の準備……ですか?」 「どうかした?」 「い、いえ別に……あれ?」 「晶也さん、部長になってからいっそう熱心というか力が入ってますよね」 「ああ、ちょっと鬼気迫る感じになったかもね」 「教室で晶也さんがFCのメモを取ってたみたいなんですけど書き込みで真っ黒になっちゃっててすごいなって。やっぱり部長になったからでしょうか」 「っていうか、誰も日向くんのこと部長って呼ばないよね」 「はっ! 最近頑張ってるのはもしや新部長になったのに誰にも部長と呼ばれないから? だとしたら承認欲求なのか、不安か……」 「ええっ、晶也さんにそんなことが!」 「ん〜、しばらくは意識して多めに部長って呼んであげた方がいいかな」 「そ、そうですね! ちゃんと晶也さ……部長を部長って思ってますよって晶也さ……部長に伝えます!」 「……明日香ちゃんの場合、逆効果になるかもね」 「っと、ごめんごめん真白っち。話がズレちゃってた」 「それよりも先にやらないといけないことが……ううん、なにか作戦みたいなものを考えてるとか」 「なんかこっちもズレちゃってる?」 「もうわけがわからなくなってきちゃった……」 「あの、もう一度最初から説明してくれる……?」 「だからー、あの人が最初にアレしたのを破っちゃったのね。もちろん故意じゃないし、あの人が頑張ってたのは見てたし、わたしに足りなかったものとかも当然あって」 「だからアレを破ったことは本当に気にしてなかったんだけど、あの人は責任感が強い人だから気にしてるのかなと思って、気にしてないですよって冗談のトーンで伝えたの」 「そしたらまたアレすることになって、でもそれは嫌じゃないっていうか、くすぐったい感じで不思議とこれからもやろう、頑張ろうって思えて」 「だけどあの人は忘れちゃったみたいに何も言ってこなくなって……わたしのこととかどうでもいい、気にしてないみたいな感じで」 「それでなんか裏切られたーみたいな気持ちとか、勝手に感じちゃってて」 「ねえお母さんどう思う? わたしもうほんとよくわかんなくなっちゃってて」 「真白……」 「わかったの?」 「……それ、本当にお母さんにしてもいい話?」 「なに? どういう意味?」 「だからその……ね、たとえるなら、階段を昇っちゃったみたいな」 「きゃっ! びっくりしたぁ……お父さん?」 「あなた! 気持ちはわかりますけど女同士の話に食器を洗ってるフリして聞き耳立てないで!」 「気持ちわかるんだぁ。すごいね夫婦」 「男親ならみんな怒り狂いながら泣くんじゃない? あなたの反応見たら違うみたいだから安心したけど」 「ふーん?」 「で、わかった?」 「あなたのあの説明で話を理解しろっていうのも、ものすごく乱暴な言い分だと思うけど」 「恋じゃないかな」 「コイ? ……ああ故意ね。うん絶対故意じゃない。っていうか、今さらそこ重要?」 「なんにせよ、自分の気持ちをもう一回よく考えてみたら? それしかないでしょ」 「やっぱそれしかないよね〜」 「それと真白の言うあの人の気持ち」 「あの人の……」 「あの人の何が、あなたをそんな気持ちにさせているのか」 「ね?」 「……うんわかった。ありがと、お母さん」 「と・こ・ろ・で〜」 「なに?」 「あの人って……こないだうちに来た日向くん?」 「なっ!」 「もう、あなたー! お小遣い減らすからね!」 「…………」 「約束、破っちゃうんですか、センパイ……?」 「よーし、ふたりともよく頑張った。今日の練習はここまでにしよう」 「はぁ、はぁ……」 「はぁっ……はぁ……ま、晶也さ……ぶ、ぶちょ、鬼です〜」 「窓果、クールダウン手伝ってやってくれ」 「はいは〜い部長、お任せください部長、部長!」 「……ふたりして突然部長呼ばわりしてきてるけど、新手の嫌がらせか? ふさわしくないってことか?」 「……いや、でも明日香はそんな陰険なことしないよな」 「部長ー!? なんかわたしたちの思いやりがまったく伝わっていない上に、今の発言について問い質したいことが山ほどあるんだけど部長!?」 「俺もいつか黒幕が窓果だって尻尾を掴んでギッタンギッタンにしてやるからな」 「話が噛み合う気配がない! わたしたちは永遠に出会えない歯車!」 「じゃ、俺は先に帰るからあとは頼む」 「お任せあれ〜」 「晶也さ……部長、行っちゃいましたね」 「最近、部活終わるたびに部室に戻らずにどっか行っちゃうね。……あと、日向くんのことを無理して部長って呼ぶのそろそろやめにしようか。ギッタンギッタンこわい」 「せっかく最近慣れてきたところだったんですけど」 「それ気のせい。全然慣れてないから」 「明日香先輩、窓果先輩」 「あ、真白ちゃんおつかれさまです〜」 「その……今までありがとうございました」 「え、真白ちゃん……?」 「決めたんだ……そっか。辞めちゃうか」 「はい。自分なりによく考えてみた結論です」 「やっぱり、自分が教えてる相手を大事にしない人には、ちょっとついていけないです」 「みさきのことは……そうだね。たしかに説得も追いすがりもしないのは日向くんらしくない気はするかな」 「晶也さんなりに理由があると思いますけど……。真白ちゃん、信じられないですか?」 「わたし、それほどセンパイのこと知らないですから」 「多少はそんな気持ちもあったかもしれませんけど……もう」 「…………」 「…………」 「やっぱり信じてたんですね」 「素直になれないタイプだよねー」 「過去の話ですから!」 「プレイヤーは辞めても、おふたりや部活のことはみさき先輩と手伝わせていただきたいです」 「それは大歓迎だけど」 「晶也センパイと絶交……なんてことにならなければですけど」 「ええっ?」 「それでは失礼します。センパイを探さなきゃいけませんから」 「できるだけ穏便にねー」 「約束できかねます。それでは!」 「はあ……ちょっと前までみんなで頑張ってたのに。どうしてこんなことになっちゃってるんだか」 「大丈夫ですよ、きっと」 「明日香ちゃん?」 「みんな、誰かを嫌いになってるわけじゃないですもん」 「だからきっと心配いらないです」 「えっと、たしかセンパイはこっちの方に飛んでいったはず……」 「考えましたよ、ちゃんとセンパイの気持ち」 「もしかしたら、やっぱりわたしにFCの才能はないからってフェードアウトできるようにしてくれたのかなって」 「でも、だとしても、直接言ってほしかったです」 「期待、しちゃったじゃないですか……」 「わたしからだと、きっと売り言葉に買い言葉でセンパイにひどいこと言っちゃう気がして、話せませんでしたけど、もう……」 「っていうかひっぱたいちゃったらどうしよ……」 「! センパイいた!」 一度横になってしまえば、しばらくは身体を起こす気力が湧かなくなる。 最近は、そうなるくらい自分を追い詰めている。資料を読みあさり、次の練習のことを考えている。 今までやってきたことの一段上のステージを模索し、実践している。 「はあ……」 両手で前髪をかきあげるように顔を覆う。 久奈浜FC部が初めて参加した公式大会で、俺たちは負けた。 もちろんすべてが俺の責任だなんて思い上がり。驕りだ。選手のみんなに、みんなの努力に申し訳ない。 だけどまず俺ができることとして、勝つ方法を作り上げることが現状の最優先だった。 無理をしすぎて身体を壊しても自己満足でしかない。当然そんな姿をみんなに見せるわけにはいかない。 だから根を詰めすぎないよう、気持ちをフラットに戻すために意識して休むようにしていた。 ……なんてなと朦朧とした頭で考えながら、目を閉じる。 なんか自分に酔って慰めてる感じがあるな。カッコ悪い。 力不足が悔しかっただけだろ。 さっさと振り切ろう。 目を開ける。 最初、何が起きているのか理解できなかった。 それくらい現実味がなかった。 だってさっきまで何もいなかったところに……目の前に女の子が浮いていた。 天使なんかがいたらこんな風に迎えに来るのかもしれない。 「生きてます?」 しかもこの天使は律儀にも生存確認をしてくる。 「死んでる」 こう答えたら、この天使は空に連れていってくれるだろうか。 どうも現実味がなさすぎて、思考がふわふわまとまらない。 脊椎反射みたいな考えなしの答えが口をつく。 もしかしたら疲れが溜まって、俺はいつの間にか寝てしまっているのかもしれない。 「……もしかして、なにか落ち込んだりしてます?」 「…………」 「その……泣いてるみたいに見えましたから」 手で顔を覆っていたのがそう見えたのか。 でもそうだ。本当に 「落ち込んでるよ」 どれだけ強がっても結局のところ気持ちは沈んでいた。 負けた悔しさとか、ああしてればの後悔とか、全部終わってみればの結果論だけど。 何度目だって慣れられるかよ、こんなもん。 昔と違うのは少しだけ齢を重ねたことと今の俺はコーチだということ。 選手に後悔を、不安を、弱いところを見せちゃいけない。 だからこうしてひとりのときだけ少しだけ自分を許して気持ちを緩ませて、引き締めて。 でも本当に消えてしまいたくなるときはある。 このまま空に連れていってもらえたらって…… 「センパイ」 「行きましょう?」 「…………」 本当に? 「空を飛べばきっと気持ちも晴れますよ。わたしもお付き合いさせていただきますから」 「ああ」 俺はゆっくりと手を伸ばし…… ふにゃ。 「うわあああぁぁぁあああ!?」 「え……きゃあっ」 「え、あれ……真白……?」 飛び退くほど驚いた。 だって夢うつつの中で、握ってくれた手の感触だけがリアルだったから。 ちいさくて、やわらかくて、あったかくて。 「誰と話してるつもりだったんですか、もう。今さら何を……」 と、地面に降りてきた真白は何かに気づいたように目を細めて、 「明日香先輩じゃなくて申し訳ございませんでした」 「邪推するなよ」 っていうか、それ以上に俺、恥ずかしいことを考えてなかったか? いやいや、それよりも選手の背中を押さなきゃいけないコーチが選手に参っている姿を見せるなんて言語道断だ。 「あ〜悪い。少し寝ぼけてたみたいだ」 「ふふ、センパイでも弱気になることなんてあるんですね」 「ハッ、まるでないな」 「やっぱりFCのことでしたか」 「……会話が繋がってないだろ。俺の話を聞いてたか?」 「センパイが強がる理由なんてFCに関すること以外ないじゃないですか」 「ひどい言い草だ。そんなことないだろ」 「そんなことあります。センパイ、FCをはじめるまで妙に悟っちゃったみたいな顔でいつも飄々としてて」 「どうしてみさき先輩がセンパイを気に入ってるのか本当にわからなかったですもん」 「みさき先輩って勘が鋭いから、もしかしたらセンパイのそういうとこ、見抜いてたんでしょうか」 「はは。ないない」 みさきとは、一度メシをおごったとかそんな感じで仲良くなった覚えがある。 気まぐれに懐に入ってくるのが妙に上手くて、だけど気がついたらいなくなってる、そんな奴だ。 ……今回のFC部もそうだった。 「ひとつ、聞いてもいいですか?」 「質問によるけどな」 「悩んでいたのはみさき先輩のことですか?」 「…………。どうして?」 「センパイ、みさき先輩の名前を出したときにちょっとさっきみたいな顔をしました」 「さっきみたいとは……ああもうわかった言わないでいい」 泣いているのかと勘違いした情けない顔だってことだ。 「…………」 「ん?」 真白はなんとも表現しがたい微妙な表情を浮かべていた。 何かを言いたいようなそれを躊躇するようなそんな顔だ。 「言いたいことがあるなら言っていいんだぞ」 「本当は言いたいことがあってセンパイを探していたんです」 「なんだか穏やかじゃないな」 そういえばまだ真白が突然現れた理由を聞いていなかった。 それが突然すぎて、俺は現実味を感じなかったんだ。 「でも今日はもうやめときます」 「どうして?」 「センパイがそんな調子だからじゃないですか」 「…………」 「なんですか?」 「なんだか真白がやさしいと調子狂うな」 「……センパイ、わたしのこと嫌いなら嫌いってはっきり仰ってください」 「それなら、みさき先輩も辞めちゃいましたし、わたしも……」 真白の声は、ぼそぼそとよく聞き取れなかった。 「覚悟はできてますから」 「ありがとう」 「……え?」 「真白がいるから俺は今頑張れてるんだと思う」 それは本当の話だ。 目標に届かなかった初の大会。 無力さは時間の経過とともに疼痛になって心を蝕んでいった。 先のお疲れさま会は、俺の心の弱さの権化だった。 俺はあの会で選手たちがまだFCを続ける気があるのか、俺に付いてきてくれるのかを見極めようとしていたんだ。 心の準備もないままに言われるのが怖かったんだと思う。 お陰かどうかはわからないが、みさきがFCを続ける気がないのは言い出す前に気づいた。 ここで俺はここまでの不安の正体にはじめて気づいた。 例えば大会までにもっとみさきと真剣に接していれば。 例えば明日香が才能を開花させて大会で結果やそれに近いものを残せていたら。 同じことが起きても違う未来があったかもしれない。 みさきに追い縋れなかった。明日香の潜在能力を引き出せなかった。真白との約束は果たせなかった。 ……だけど真白は言ってくれた。「今度は勝たせてくれ」と。 それだけで俺が頑張る理由は十分だった。 みさきや部長の姿がなくなった練習だって全力を注げる。 「本当に真白のおかげだよ」 「えっ、えと、あの、意味がよく……?」 「聞き返されても繰り返さないし詳しくも言わないからな」 というかこんな情けないこと、もう、恥ずかしくて口に出せない。 「でもわたしはみさき先輩が辞めちゃったから……」 「余計に頑張ってくれるだろ?」 「えっ」 「みさきを呼び戻すにはそれしかないと思ってる。強くて楽しそうなFC部にすれば絶対みさきは帰ってくる」 「センパイ、みさき先輩のことあきらめたんじゃなかったんですか……?」 「誰が。ただあいつは一度決めたら人の意見に耳を貸す奴じゃないからな」 一度確認を取って、それでもう言うのは止めた。 「だけどあの不完全燃焼女は俺のコーチ人生を賭けて灰にしてやる」 「…………」 「どうした」 「センパイ、みさき先輩のこと好きなんですか?」 「あのな……なんでもすぐに色恋に結びつける風潮はどうかと思うぞ」 「わたしはみさき先輩が好きです」 「知ってるよ」 「わたしがみさき先輩を追ってFC部を辞めるって考えはしなかったんですか?」 「……あっ」 「あっ?」 「いや、考えもしなかったな。マジで」 「どうして髪の毛を掻き毟るみたいになってるんです。脂汗も出てません?」 「く……」 「とんだ自惚れ屋さんですね。勘違い大安売り中です」 「いや……だってさ」 「なんですか?」 「……約束したから。真白を勝たせるって」 「…………」 真白は一瞬息を呑んで、 「……仕方ないですね」 わざとらしく大きなため息をつき、 「センパイとわたしは今日、今から、みさき先輩をFC部に連れ戻す同志です」 妙に力強く宣言した。 「いや、俺はそれだけじゃなくてちゃんと秋の大会も目指していくからな」 「もちろん一勝の約束も果たしてもらいますけど」 「それは当然やる」 「壁は高ければ高いほど燃える方ですか」 「高い壁くらい、すぐに飛んで置き去りにできる翼を植えつけるのが俺の役目だ」 「それに、みさきの方はともかく真白が自虐するほど壁は高くないって俺は思ってるよ」 何故か相手が強敵になってしまうのは運がないけど、実力がないわけじゃないのはコーチの俺が一番よくわかっている。 「センパイってなんだかんだでコーチとしてわたしたちを信じてくれていますよね」 「真白はコーチをなんだと思っているんだ」 「わたしはセンパイを信じられてなかった」 「ちょっと待て。なんだ今の不穏な発言は」 「わたし、本当はここに来るまですっごく怒ってたんですよ?」 「衝撃の告白だ」 「回答次第ではセンパイをひっぱたいて終わりにしようって」 「一応、理由くらいは聞かせてもらえるのか?」 「今となっては恥ずかしいから嫌です。絶対嫌」 「ひどすぎるな」 「というわけで……」 真白が深々と頭を下げそうな気配を感じた。 だから俺は、 「せっかくいい感じで話がまとまって終わると思ったのに」 「え?」 「はあぁ……やっぱり俺じゃ力不足なのかなー。選手ひとり笑顔にすることもできやしない」 「い、いえ、そういうつもりはなくて、ただ謝らなきゃいけないことは謝ろうってだけで……」 真白が慌てる。 真白はいい子だな。 ひっぱたきたいほど怒っていた相手が落ち込んでいたから手を差し伸べるってなかなかできることじゃない。 真白にあまり好かれていない俺にできるんだったら、きっと誰にでもやさしくできるんだろう。 「センパイ、ズルいですよ! わたしに謝らせないでそうやって話を逸らそうとして」 「あーへこむ。なんか泣きそう」 「もー!」 そもそも付き合わなくてもいいのに、振り切れず下手に出ている辺りに人の善さが滲んでいる。 俺は心の中でもう一度繰り返す。 ありがとう。元気出たよ。 「この仕打ち、忘れませんからね。覚えててくださいよ」 セリフだけ聞くと、とてもそうは思えないけど、一生懸命励ましてくれている真白に、俺は苦笑いした。 「部ちょ……コーチ」 「どうした明日香」 「えっと、なにかありましたか?」 「随分大雑把な質問だな。どうしてそう思う」 「なんだか肩の力が抜けたというか部ちょ……コーチ、リラックスできてるような気がします」 「鬼気迫る感じがなくなってるよね日向くん」 「いつも通りのつもりなんだけどな」 気合いを入れているだけのつもりだったが、どうも傍目から見たらおかしい部類だったらしい。 「ま、変わったんなら何かあったのかもな」 「どうして人ごとなんですか〜」 それはなんとなくすっとぼけたいからだ。 ちなみに思い当たるもうひとりの当事者は、 「はて、なにがあったんでしょうね」 バラしてしまおうか。なにが『はて』だ。 あと明日香と窓果からの俺の呼称が元に戻っていた。 相変わらず面倒なので触れないようにする。 「それじゃ今日も練習をはじめるんだけど……」 俺は目の前に並んでいる明日香、窓果、真白を眺め、 「どうしたんですかあなた方は」 さらに真白の横に並ぶみさきと部長……いや元部長に半眼になる。 「いや、有坂がたまには遊びに来いと窓果を通して連絡してきてな」 「あたしのとこはホットラインだった。ま、元から部活辞めても冷やかそうとは思ってたけどね」 「真白が?」 「…………」 なんで知らんぷり。 「しかし日向、最近肩に力が入りすぎていたって? お前でも部長というプレッシャーが重く圧し掛かったか!」 「いえ、別にそんなことはないんですが」 「そうか、やはりなあ! オレもまだお前に教えていないことがあったんだなあ」 「……何が言いたいんですか」 「日向、お前がどうしてもと言うのなら、オレが仕方なくもう少し部長を続けてやってもいいんだぞ」 「えっと……?」 近しい血縁者(窓果)に視線で尋ねる。 「兄ちゃん、お疲れさま会の雰囲気と勢いで引退を決めちゃったことを、後になって後悔しまくったみたい」 「FC部に戻れないなら新FC部を作る、とかなんとか」 「部長……」 「FCがやりたいんだよおおおおおおおおお!」 魂の叫びで元部長が部長に復帰した。 「あ、ちなみにあたしは戻らないよ」 「わかってるよ」 「…………」 真白が視線でちいさく頷く。 それでも俺たちはみさきが戻ってくるまで頑張ろう。 秋の大会に向けて、久奈浜学院FC部が再始動した。 「うおおおおおおおおおお!!!」 部長の怒号のような気合いの声が響き渡る。 「なんだか練習風景が大会前に戻ったみたいですね」 「いや、人数が戻ったが形は違うぞ」 みさきが手伝いに回ったことで、窓果を入れれば、ほぼマンツーマンでつけるようになった。 練習内容や何に注意すればいいかポイントを説明して、プレイヤーにより濃い指導ができる。 みさきにはプレイヤーに戻ってほしいのが本音だけど、この状況を利用しない手はなかった。 「まず明日香は基本の反復をしてほしい」 「それが終わったら、過去の印象的なゲームシチュエーションを再現して頭に叩き込んでもらう」 「はいっ!」 明日香のひらめく力を活かすためにも、発送の糧となる基本とシチュエーションを学んでもらう。 彼女の無限の選択肢をさらに広げる方法だ。 「新しいことを知るのは楽しみです。わくわくします」 「いつまでそんな笑顔でいられるかな?」 俺はわざと意地の悪い笑みを浮かべる。 「えっ……それってどういう」 「明日香のこれからの日課メニューを発表する」 「は、はい……」 「まずはハイヨーヨー、ローヨーヨー、300ずつ」 「さ、300ずつですか!? まずはって、それだけで部活の時間が終わってしまいます!」 「うん、最初のうちはそうだろうな」 「どういう……ことでしょうか?」 「だって俺が今提示した数字は、実際に明日香が試合で出したものを引き出せればちゃんと終わるんだ」 「わたしが、ですか……?」 「2秒ずつ縮めればいいだけだって」 「軽く言わないでくださいよぉ〜」 「明日香にはまずその力を練習の段階で引き出してもらうことから始める」 「それができなきゃ乾には到底勝てない」 「勝てない……」 「どうする? もっと軽いものにすることもできるけど」 「わたしは、乾さんに……勝ちたいです!」 「よく言った。全力でしごいてやる」 「あ、でも……部活をもう2時間くらい増やせばもっと色々な練習ができますよね?」 「オーバーワークになるからダメだ」 「う〜、いいアイデアだと思ったんですけど」 「明日香らしい発想だな……」 「……ってわけで、晶也が言うところによると身体が小さい分、持久力が絶対的に足りないと」 「だからまずは持久力、それができたら次は爆発力をつけてプレイに緩急のリズムをつける……って聞いてる?」 「え、も、もちろんです!」 「みさき先輩とマンツーマンで練習だなんて、幸せすぎて罰が当たるかもしれません!」 「本当に最高で……」 「また気が向こうにいってる。なに、明日香と晶也がどんな練習してるか気になるの?」 「いえいえ、そんなことありません」 「ただあの軽薄センパイの記憶には約束とか同志って言葉は残ってるのかな〜と」 「誰が何だって?」 「み、みさき先輩は気になさらないでください。個人的な話ですから」 「そう? なんか珍しくぶすっとしてない?」 「うっ……すみません。せっかくみさき先輩とふたりっきりなんですから笑顔でなきゃもったいないですよね!」 「それは大丈夫。笑顔なんて一瞬で歪む練習メニューを晶也から預かってるから」 「えへ〜。みさ〜き先輩」 「……聞こえてる? あたしの言ってること」 「コーチだって本当は大好きなくせに! 言ってください、ちゃんと大好きって」 「ん?」 「…………」 「言葉は力になるんですよ」 「わかる気はするけどさすがにそれは勘弁してほしいというか」 「言ってください。照れずにちゃんと大好きって」 「……どうしてもか?」 「どうしてもです!」 「…………きだ」 「聞こえないです!」 「大好きだよ、大好きだ!」 「はいっ、わたしもです!」 「いちゃいちゃしてるなー」 「…………」 「あ、一応聞こえてるみたいだね。……向こうの話が」 「わかってると思うけどあれFCの話だからね」 「べっ、べつに明日香先輩とあの人が何の話をしてようとわたしには関係ありませんし」 「じー」 「やだみさき先輩、そんなに見つめられちゃうとわたし……」 「ねえ、いつの間に?」 「みさき先輩、もしかして何かとても失礼な勘違いをなさってませんか?」 「ふ〜ん、なるほど。やきもちね〜」 「よくわからない理由でにやにやなさらないでください!」 「…………」 「っと、やば。鬼コーチに見られてる。ちゃんとしないと……」 「…………」 「やきもち……」 「もう、みさき先輩ってばそんなにやさしくしないでください。ますます大好きになっちゃうじゃないですか〜」 「えっ、突然なにその棒演技!?」 「ああっうっかりバランスが! みさき先輩抱きとめてくださーい」 「はあ? いやこっちに来られても弾いちゃうけど、物理的に」 「はあ助かりました。さっすがはみさき先輩。この世で一番頼りになります!」 「いやいや、あたし何もしてないし。っていうかこんなことしてたら……ああほら、ほんとに晶也来ちゃってるし」 「っ」 ………… ふと見ると、みさき・真白組に動き出す気配がなかったので、俺は早めに釘を刺すべく近寄っていく。 「こら、そこのふたり」 「はいはいわかってる。ちゃんとやるって」 「ん。だったらいい」 「でも、どこかのコーチさまにそれを言う資格はあるんでしょうかね、みさき先輩」 「…………」 真白の含みのある言い草を聞くにさっきの明日香とのやり取りを見られていたんだろう。 「わかった悪かった。俺もちゃんとやるからさ」 「いちゃんいちゃんとの間違いじゃなく?」 「なんだその聞いたことない日本語は」 両立しそうにない言葉がくっついている。 っていうか真白、なんか虫の居所が悪そうだな。 せっかくのふたりの時間を俺が邪魔しているからか? 「いちゃんいちゃんとっていうのは……こうですよね! みさき先輩っ」 「あーもう物理法則を無視して近づこうとしないのー」 ふたりきりなのにみさきがつれないからか? それともその両方か。 「にゅ〜♪」 謎の甘え声をあげる真白がみさきの周りをくるくる回りながら、 「…………」 ちらっとこっちを見てくる。 「わかったよ」 「っ」 「おふたりの邪魔はいたしませんから練習だけはちゃんとやってくれな」 「……っ」 「うわ」 なんだ? 何が癇に障ったんだ? 真白には個人的に感謝しているから可能な限り応援してやりたいと思っているのに。 それほどみさきが素っ気ないのだろうか。 はあ……なんて真白に厳しい奴なんだ、みさき。 いやまあ俺もいつの間にか真白に肩入れしてるけどさ。 「晶也さ、ちょっとパートナー交代してよ。このままじゃ集中できそうにないから」 「みさき先輩……っ」 とかなんとか考えている間に、みさきはこんな気の利かない提案をし出すし。 みさきにはもっと真白の気持ちを考えてあげてほしい。 だから、 「絶対嫌だ。俺には明日香がいるからな」 「…………」 「あ、石になった」 「石?」 みさきは何を言ってるんだ…… 「っ! いいです、みさき先輩練習しましょう」 真白が空気に耐えられなくなったように場を離れていく。 残された俺とみさきはお互いを見て、 「どうしてわからないかねー」 「? よくわからんがお前はやさしくしてやれ」 「とりあえず真白を見てきてよ。あたしは明日香とやっとくからさ」 「真白はみさきに頼んだろ」 「んー、じゃあちょっと練習の説明がうまくいかなかったってことでひとつ」 「頭のじゃあから全部引っ掛かるんだが」 とはいえ練習の内容に関わるのなら無碍にもできない。 真白のことを考えれば本意ではないが了解する。 「……つーわけで今日は俺が見ることになった。悪いな」 「…………」 「みさきが振り向いてくれないのには同情するが、なんとか我慢してくれ」 「…………」 「しかし、今さらながらあのみさきのどこがそんなにいいんだ……?」 「…………」 どうでもいいけどなんでこんなに睨まれてるんだろう俺…… 「じゃあまずは練習を……」 「…………」 よっぽどみさきとうまくいかなかったのだろうか。 だからって俺に当たるような奴でも無さそうだけど。うーん。 どうやら前途は見た目以上に多難のようだった。 「うおおおおおおおおお!!!」 ちなみに部長、窓果組はずっと筋トレをやっていた。 「ひゃー。この時期は特に一汗かいたあとシャワーが欲しいねー。兄ちゃんに作ってもらおっかな」 「手作りのシャワールームですか。それはそれでこわいような……」 「っていうか、あんた筋トレしてる部長の足を押さえたりしてただけでしょ」 「真白っちはどう思うよ?」 「はあ……」 「どしたの?」 「いえ、改めて皆さんにお話しするようなことでもないんです。思わせぶりであれですけどごめんなさい」 「そう? なにかあったらいつでも言ってほしいです!」 「ありがとうございます。明日香先輩」 「ふう……」 「晶也でしょ」 「……みさき先輩。油断させておいての追求は……惚れ直しちゃいます」 「言葉に詰まって無理にそっちに転がさなくていいから。あと油断させたんじゃなくてみんなに聞かせない方がいいのかなーって配慮だから」 「それはほんとにうれしいです」 「うんまあ話が逸れそうだからそれはいいとして」 「う」 「話の続きしようか」 「どうしてわたし、あんなことしちゃったんでしょう」 「と言っても、わかってるんじゃない?」 「なんでかセンパイに風当たりが強くなってしまって自分でも抑えられなくて」 「わかりやすい症状だよね」 「もしかしてわたし」 「うん」 「明日香先輩のこと、苦手になってるんでしょうか」 「いや待って。なんでそうなるの」 「だって明日香先輩とセンパイのお話が聞こえてきたらなんでかムッとなってしまって、引きずっちゃってて」 「わたし、あんなにやさしい明日香先輩に含みのある嫌な人間になっちゃったのかなって」 「んー、もうマジメに話す気がしないんだけど」 「ちょっと確かめてみます」 「確かめるって?」 「明日香先ぱーい」 「ん、どうかしましたか真白ちゃん?」 「お、真白っちも白熱のシャワー談義に混ざる? やっぱお湯の勢いが痛いくらい強くないと、シャワーを浴びてる気がしないよね!」 「ちょっと抱きしめさせてください」 「えっ?」 「ぎゅー」 「え? え? ええっ?」 「ふくふくですね」 「おお、なんかよくわからんけど、私もやるやる」 「なんなんですかぁ〜」 「今こそ兄ちゃん直伝の鯖折りがうなるとき」 「え、窓果ちゃん今なんて……きゃ〜っ!?」 「わぁ……可哀想に。……で、どうだった?」 「嫌かなって思ってやってみたんですけどわたしむしろ明日香先輩のこと大好きですね」 「ま、真白ちゃん助けて〜!?」 「ん〜、どういう理屈の結論かわからないしそのわりに聞こえないふりとかひどい仕打ちだと思うけどなあ」 「でも原因が明日香先輩じゃないならどうしてわたしはあんなことをしちゃったんでしょう」 「晶也が好きだからでしょ。気になるとか」 「…………」 「なんでキョトンとした顔してるの」 「いえ、だって……」 「なに?」 「ふふ、そんなわけないじゃないですか。わたしはみさき先輩がだーい好きなんですよ?」 「そう言ってくれる気持ちはありがたいけどさ……」 「あ、わたしちょっと外で乾かしてたタオル取ってきますね」 「あ、ちょっと」 「…………」 「あの子、色々だめではあったけどあそこまでだったっけ……?」 「タオルタオル……っと」 「……ふう」 「とりあえずセンパイには謝らなきゃ」 「好きって……やっぱりそうなのかな?」 「お、有坂。女子の着替えは終わったのか?」 「っ!?」 「ほら見ろ日向。女子の着替え時間は俺のスクワット200回と同じくらいのタイムなんだよ。今日はちと向こうが早いが」 「いや、部長はこなす速度が尋常じゃない……って、なにやってんだ真白?」 見ると真白は部室の壁におでこだけつけていた。 反省のポーズにも見える。 「壁におでこなんかくっつけてたら昼間から残ってる熱で火傷するぞ」 「…………きゃ」 「きゃ?」 「きゃあああああああぁぁぁああああああ!!?」 「うわ、ちょ、真白どうした……?」 「いくにゃんっ!」 言うが早いか、真白の後ろ姿はかなりちいさくなっていた。 「なんなんだ一体……」 「脱兎のごとく、とはこのことか」 「うちのうさぎは跳ねるんじゃなくて飛ぶんですけどね」 「はぁ、はぁ、はぁ……」 「はあぁ〜……」 「だめだわたし……」 「センパイごめんなさい。わたしにご指導お願いします。センパイごめんなさい。わたしにご指導お願いします」 「よし、今日こそはちゃんと謝ろう。……好きとか嫌いとかそうと決まったわけじゃないし」 「センパー……」 「コーチ、今日もあれやりましょう!」 「いや、それで少しでも気持ちが入るなら、俺もコーチとして付き合わざるを得ないけどな。コーチとして」 言い訳で乗り気じゃないことを強調するが明日香には上手く伝わっていないみたいだ。 「部長の起動キーみたいだな」 「気合いだ、気合いだ、気合いだー!」 ちょうど砂浜から部長の声が聞こえてきた。 「わたしに続いてくださいね」 「大好きです」 「大好きだ」 「大好きですっ」 「大好きだっ」 「だーい好きですっ」 「大好きだぁぁあああ」 「…………」 「あのさ、真白……真白さん?」 「…………」 「もう少し楽しい雰囲気で練習できるとさ……」 「……ごめんなさい」 「お……」 「…………」 「…………」 「…………」 「いや、謝るだけ謝られて態度が全然軟化しないというのはさ……」 「はあ……」 「よっ、真白ー」 「あ、実里」 「夏休みに入ったのにこんなとこでなにを……って部活に決まってるか」 「教室に漢和辞典取りに来たとこだけどね。実里は?」 「うちはいま運動部が夏の大会中で取材ラッシュなの」 「忙しそうだね」 「FC部も世代交代した高藤との練習試合があるか。取材には行けないけど応援してるよん」 「え?」 「ん?」 「練習試合なんて聞いてないんだけど」 「ん〜、だったらわたしの勘違いかも。ここんとこずっとバタバタしてるから。ごめんね〜」 「ううん、忙しいのはいいことじゃない。取材がんばってね」 「あんがと」 「それじゃ。またメールすると思う」 「真白もがんばって『いくにゃん』!」 「あははは。ありがと。じゃね」 「ん。……ん?」 「……はぁ」 「…………」 「まーしろーん」 「わっ、ちょっと、なに? 行ったんじゃなかったの!?」 「にひ♪」 「っていうか、後ろから首に手を回したまますりすりしてくるな〜! 暑苦しい〜」 「なんかあった?」 「……なんでよ藪から棒に?」 「そりゃ〜友だちがため息なんかついてたら気になっちゃって取材魂に火がつく……おっと」 「パパラッチさんは離れてください。はい、どいたどいた〜」 「冗談だって。話して楽になる悩みなら聞くよ?」 「忙しいんじゃなかったの?」 「超多忙。超多忙だけど友達の相談に乗る時間を捻出できるくらい優秀な記者でもあるってことを知らない?」 「実里……」 「きっと『練習が大変で毎週のTVゲームの自分ノルマがこなせない』だよね? わかるわかる」 「……やっぱり話すのやめようかな」 「それで、あの……友達の友達がさ」 「友達の友達が?」 「最近……気になる人がいるって」 「おー、やっぱりその手の! おめでとう!」 「お、おめでとうなのかな……?」 「って、わたしの話じゃなくて! あとなんかやっぱりとか言ってなかった?」 「ちょっと日本語を間違えたかも。それでお相手は?」 「それ聞く普通?」 「聞くでしょ普通」 「……たしか、部活のセンパイとか」 「お名前は?」 「…………」 「わからない? ああ、印象薄くて覚えられない名前だったとか」 「忘れるわけない! ひ……!」 「どうして途中で慌てて口元を押さえたの? ひ? 名前?」 「ひ、ひ……や、ま……氷山センパイ、だったと思う……」 「氷山センパイ……久奈浜の2、3年にそんな名前のセンパイいたっけ?」 「よかったぁ下の名前聞かれなくて……」 「なにか言った?」 「ううん、久奈浜のセンパイとは限らないしって」 「そうね。そういうことにしときましょう」 「……なんか物言いが引っ掛かるんだけど」 「で、その氷山センパイの何が気になるの? 借金? 前科? 女関係?」 「それはまた違う意味で気になる人じゃないの……」 「まあ、その、友達の友達曰く自分がセンパイのこと実際どう思ってるのかなって……」 「うわ、めんどくさっ」 「ばっさり切り捨てないでよ」 「いや、告白の手段を一緒に考えてとかなら協力のしようもあるんだけど……ってそんなことは本人が一番わかってそうなことか」 「…………」 「ということは他にも問題があるのかね?」 「……その子ね、氷山? センパイの前に昔から好きな人がいるの。じゃなくているらしいの」 「あー」 「そういうのどう思う?」 「びっち」 「……二次元でしか聞いたことのない言葉だぁ……」 「そ、そんな涙目にならなくても! 本気で思っているわけじゃないし、安易なスラングじゃんか」 「うん……」 「でも! でもね!? 好きにも色々あるし、人はそんなに簡単に人を好きにはならないと思うの! 恋愛的な意味で!」 「それは人それぞれだと思うけどね」 「わたしは、の話!」 「友達の友達じゃなかったっけ?」 「言い間違えただけ!」 「なんて力技……スタイルもファイターに戻したら?」 「そうだ、こういうのはどう!?」 「なにか思いついた?」 「昔から好きだった先輩と愛を確かめあっても〜っと好きになっちゃえば、いま気になってるセンパイも気にならなくなるんじゃない!?」 「それ底なし沼のような気もするけど……」 「実里、なにかいいアイディアないかな?」 「まあ確かめあう愛とやらの度合いにもよるけど」 「もちろん本気で全力全開!」 「言葉通りに迫るなら最終的には……ちょっと耳を貸して」 「ん? これでいい?」 「ごにょごにょごにょ……」 「ふむふむ………〜〜〜っ!?」 「なっ、ななななっ、なに恥ずかしいこと言ってるのよバカ! バカぁ!」 「……まあその反応でよかったと言うか」 「耳が……耳が汚されたぁ〜」 「だったら全力で甘えるコースかな」 「う〜」 「やっぱり何かが壮絶に間違ってるような……」 「だけどもうみさき先輩に電話してお願いしちゃったし」 「もしみさき先輩が乗ってくれて、かわいいかわいいって相手してくれて、そのあと……」 「……そのあとは、どうしたいんだっけわたし」 (い、いらっしゃっちゃった) (だめだめっ、余計なこと考えるなわたし! 今はとにかく先輩に甘えることだけ考えて……) (お、お互いに姿が見えるようになる奥に入ってくるまで引きつけて、そこでがぶっとかわいく!) (す〜は〜……近づいてきてる。やれるよ真白、タイミングを合わせるのなんてゲームでは日常茶飯事だもん) (カウント3……2……1……!) 「に、にゃあ〜……あ」 「うわっ、びっくり……え?」 「…………」 「…………」 お互いに、お互いが目にしたものが理解できずに硬直する。いや、相手がどうかはわからないけど。 とりあえず俺は練習前の部室、そのテーブルの下にちょこんと陣取った後輩に……本当に真白かこれ? というか現実か? え〜っと……あ、だめだ。まったく考えがまとまらない。正直あまり考えたくもない。 観察したところで状況は把握できそうにない。 ただ真白も戸惑っているようなので彼女にとっても俺が現れたのは不測の事態と思われる。 怒り出すだろうか。泣き出したらどうしよう。 「にぃ……」 呆然とした心細そうな鳴き声。 ……どうやらまだ思考が現実に追いついていないようだ。もしくは現実逃避かもしれない。 仕方なく俺は、 「こ、こんなところに捨て猫が!」 真白だと気づかないフリをしてみることにした。 ……うん、自分で考えていた以上に混乱していたらしい。すぐに対処法を誤ったことに気づいたが、あとの祭りだ。 「ひどいな。一体誰が……こんなにかわいい子猫なのに」 「か、かわっ」 「ああ、うちに連れて帰って飼いたい。白い清潔なふっかふかタオルでやさしく包んで温かいミルクをあげたい」 「…………」 「だけどうちは父さんが猫アレルギーだから絶対に無理だろうしなー」 馬鹿だ俺は。何を口走っているんだ…… 一言発するたびに深みに嵌っていくような気がする。背中を伝う嫌な汗が止まらない。 だけどこれでお互いに気づかず無かったことに…… できるとは到底思えないけど、最悪、真白が俺の今のアホ発言を罵ってくれれば、彼女だけがいたたまれない空気になることは防げる。 ……かもしれない。 本当になんなんだこの状況は。FCのコーチになって以来、最大の無理難題だ。試合中でもこんなに迷ったり自信がなかったことはなかった。 「飼えなくてごめんな」 「にぃ……」 「はは」 ……ん? あれっ、いま真白が乗ってきてくれたか? 「お、お前、俺の言葉がわかるのか?」 「にぃ」 本音を言うと、ちょっと泣きそうになった。 人生でここまで心細かったことは記憶にない。 手探りで進む真っ暗な闇の中で、不意にあたたかな手を差し伸べてもらった気分だ。 ……そういえば、ちょい前にも真白にはそんなことをしてもらったことがあったっけ。 「…………」 っと、出口を見つけたかもしれないからってここで気を緩めるわけにはいかない。 二人でこの絶望しかない混沌を抜け出すんだ。……まあこの混沌を生み出したのも俺たちだけど。 「にぃ……?」 「そんなに心細そうな声を出すなよ。大丈夫。俺が必ずなんとかしてやるから」 「にぃにぃ」 「ははっ、ほんとにかわいいなお前は」 真白が真白じゃないみたいに素直だったのが俺を勘違いさせたのかもしれない。 俺は意識せず、自然に真白の頭を撫でようと手を伸ばし、 「〜っ」 真白の大きな瞳が何かの感情で揺れたのを見て、びくっと手を止めた。 俺は、何を…… 女の子の頭を気安く撫でるなんて気持ちの悪いことをしようと…… 「っと、よく見たら箱の脇にねこじゃらしがあるじゃないか」 「…………」 「これで遊ぶか?」 「……にぃ」 真白の寂しそうな、残念そうな演技に勘違いしそうになる。 って何考えてるんだ俺は。頭を振る。 ちゃんと真白の望むところに返してあげないとな。 「そういえば、みさきの家ならデカいし飼えるかもな。ちょっと聞いてみるか」 っていうか、今日俺をこの時間に来いって呼び出したのはそういえばみさきだった。 ……あいつ、俺にこれを押し付けたな? 最悪どこからか見てるかもしれない。 俺はねこじゃらしを左手に持ち替え、右手で携帯の着信履歴からみさきの名前を探す。 「みさき先輩……」 「え?」 と、不意に真白の雰囲気が変わったかと思ったら、 「やさしくするなー!」 「おおっ!?」 いきなり真白が、俺の持っていたねこじゃらしに噛み付いた。 突然の豹変。みさきの名前で真白が我に返ったのか。 それはともかく。 「しょんなことしゃれてゃってわにゃしにゃしぇんぱいをしゅきににゃりましぇんにゃら!」 「……いや。何を言っているのかわからん」 「んぎぎぎぎぎ……」 「あっ」 という間に真白が走り去ってしまった。最近このパターン多いな。 「大丈夫かな、真白のやつ」 頭に猫耳つけたままで出て行ったけど。 またどこかで新たな惨劇を生み出したりしないだろうな。 しかしそれとは別に気になることがひとつ。 「みさきと真白って、俺たちの知らないところでいつもあんなことをやってるんじゃないだろうな……」 あとでみさきに今回の呼び出しに対する文句ついでにさりげなく真白の猫耳について尋ねたところ、 「にひっ♪」 「……頼むから意味深に笑うだけじゃなくて何か言ってくださいませんか」 その後で俺の元に保坂が謝りに来た。 「今回は私の考えたことで日向先輩に多大なご迷惑をお掛けしたようで……」 「真白に謝りに行けって言われたんだろ? なんかこっちこそごめんな」 ……というわけで、とりあえず心配していたみさきと真白の仕業じゃないということだけはわかった。 「ところで」 「ん、まだ何かあるのか?」 「あのとき隠し撮りした動画、真白に渡したっス。正確に言うと存在をバラした瞬間に没収されたんスけど」 「……まさか本当に存在した上に撮っていたのはみさきじゃなくて保坂だったとは」 「新しい小型カメラのテストであの猫耳にちょいっと。あとからそういうのを見るのはちょっとって気づいたもんで、真白に確認するよう頼んだら、おでこ叩かれちゃって」 「隠し撮りしといて見れないとか……」 支離滅裂でアホだ。いい奴っぽいけど。 「よかったな保坂」 「なにがスか?」 「俺は寛容だから保坂の鼻を90度捻るだけで許してやる」 「私の鼻はなんかのスイッチっスか!?」 「冗談だ。俺の分まで真白に叩かれたと思って反省しとけ」 その辺で手打ちとしよう。 「えっと、それで映像確認の方は……?」 「そもそもあんな恥ずかしいもの、もうこの世に現存していないと思うぞ」 俺にとって大概だったが、真白にも相当のはずだ。 現物が手に入った瞬間、何度もアスファルトに叩きつけて完膚なきまでに燃やし尽くし、灰を海に撒くだろう。俺ならそうする。 そう考えればあの映像は二度と日の目を見ることはない。脛に同じ痛みを持つ共犯者の手に渡ったのだから。安心だ。 「そっ、そんな恥ずかしいことをされたっスか……ふたりともオトナっスね……」 「勘違いというか妄想が逞しすぎるからな」 やっぱ口封じに鼻を捻ってやろうか? 「きっ、聞き間違いかもしれないからもう1回!」 「『にぃにぃ』」 「『ははっ、ほんとにかわいいなお前は』」 「〜〜〜っ!」 「はぁ、はぁ……ま、待って待ってよ? もしかして今、実は『ほんとに河合だなお前は』って言ってなかった?」 「河合さんが誰のことだかわからないし、確認のためにもう1回……今度はちょっとリアルに」 「え、と……にぃにぃ?」 「『ははっ、ほんとにかわいいなお前は』」 「〜〜〜っ!!!」 「ちょっと〜」 「にゃあああああぁぁぁあああ!?」 「……にゃあって何?」 「にゃっ、なっ、なんでもない! っていうかお母さん、ノックもなしに入ってきちゃだめだってば!」 「したわよ。なのに返事もしないでどったんばったん」 「埃が落ちるから特に営業中はベッドの上で転げ回るのやめてって言ってるでしょ」 「そ、そうだったね……ごめんなさい」 「反省してくれるのならいいんだけど。……あら、このパソコンに映ってるのって」 「『んぎぎぎぎぎ……』」 「『あっ』」 「出てって出てって出てってよもー! お母さんのバカー!」 「はいはい、わかった、わかりましたからそんなに背中を押さないでも……」 「はあっ、はぁっ……」 「はぁ……見られちゃったかな……」 「あれ? いつの間に……ちょっと、なにこれ」 「重ね撮り? 別のデータ? 古いFCの試合みたいだけど……」 「えっ、これって」 「センパイ……?」 「さて、じゃあ練習前の連絡事項は以上かな。あと他には……」 「ねえ、あれ、そろそろみんなに伝えた方がいいんじゃないの? 再来週の」 「ああ。でもあれってまだ……」 「各務先生に聞いた。結局なしでまとまったらしい」 「そうですか。じゃあ」 「?」 「…………」 俺はプレイヤーのきょとんとした顔を順に見てから、 「今日はみんなに伝えることがある。再来週末、高藤学園と合同練習をすることになった」 「高藤と?」 「ほんとですか! わー、お会いするのは夏の大会以来になりますね。莉佳ちゃん元気かなあ」 「ゴールデンウイーク以来だな。今度は泊まりじゃないけど」 「今回は残念ながらスケジュールが合わなかったからな」 「ゴールデンウイーク……もうなんだかものすごく遠い昔のように感じます」 「それだけ濃密な時間を過ごしてきたんだと思おう」 「あと成果も確かめる。練習試合をするぞ」 「練習試合……」 「晶也、あたしは多分さ……」 「ああ、参加の強制はできないな。個人的には来てほしいけどさ」 「な、真白?」 「え、あ……え?」 「……話、聞いてなかったのか?」 みさき関係の話なのに? 「えっと、いえ、代替わりした高藤の皆さんとの練習、楽しみですよね!」 「…………」 「…………」 「あ、あれ?」 「……俺、高藤が代替わりしたこと言ったっけ?」 「仰いませんでしたか?」 「んー?」 「そうなんですか?」 「実際、代替わりはしたらしい。新部長は佐藤院さんで、真藤さんはプレイヤー引退。コーチとしてはあと少しだけ残ってるとか」 ちなみに今回の合同練習はその真藤さんからの熱心なお誘いによるものだ。 「引退……」 みさきはみさきで何か思うところがあるようだが、 「というわけで、練習も今後は実践的なものへ変えていく。目標は勝つこと、わかったな?」 「はい!」 「真白は?」 「えっ、あ、はい、もちろんです!」 「何が?」 「勝ちます!」 「よし、わかってるなら頼もしい」 「あ、当たり前じゃないですか!」 「だって……約束した、一勝なんですから……」 「下半身が流されてる! 急制動、急旋回どこからでもすぐに姿勢を立て直せ!」 「は、はいっ!」 「このまま身体に覚えさせるぞ。あと20セット、いけるか明日香」 「いきます! てやあああああぁぁぁあああああっ!」 明日香が空を走り抜けていく。 「気合いが入ってるのはいいことだけどあんまりやりすぎると消耗するからな」 「たぁぁあああああぁぁぁっ!」 「……って、あっちもか」 明日香と俺のマンツーマンの向こうで真白とみさきが練習をしている。 「負けんぞー! ぬおおおぉぉぉおおおおおおお!!!」 海岸では、部長と窓果が念入りな筋トレ。 「部長まで……」 「負けてられませんね! すーっ……」 「いや、大声合戦はやめてくれ。キリがない」 「はーい10本目終了ー。ちょっと休憩ー」 「はっ、は、はっ、はあっ……」 「ノってきてるね。声出てたじゃん」 「そっ、それはっ、あっ、あしゅか、せんぱいがっ……!」 「あ〜ごめんごめん。喋んなくていい」 「ど、どうですか……? モノに、なってきてます……?」 「ちょっと目がちかちかしてきた」 「ちかちか?」 「あーなんでもないなんでもない。こっちの話」 「モノになってるかって聞かれたらまだ全然。見た目まだ感覚が掴めてないんだろうなーって感じ」 「…………」 「なに?」 「そういう感覚って、わかるものなんですか?」 「はい?」 「みさき先輩も、それから明日香先輩も。そういうのってどういう風に感じるのかなって」 「そんな熱心に見られても」 「えーっと、そーだなー。ピキーンって感じ?」 「ピキーン、ですか?」 「あ、ごめん、全然違うかも」 「なんていうか自転車の補助輪を取ったときに、あ、乗れちゃう、みたいな。これ知ってる! みたいな」 「いや、そんな子ども見たことないな……」 「ピキーンときませんね」 「そのピキーンもさ、感じ方が違うんだよ。あたしが耳で、おー聞こえるって風だとすると、明日香は身体全体をアンテナにして受信してるみたいな」 「難しいんですね」 「でもま、何度も転べば自転車も乗れるようになるし。気にしてもしょうがないって。あたしは転ぶの嫌だけど」 「うちのお母さん、何度も転んだのにいまだに自転車乗れません」 「……そういう家族の暴露話はやめといた方がいいよ」 「それに大丈夫。個性っていう便利な言葉もあるし」 「みさき先輩、わたしが転んだらやさしくやさしく受け止めてくれますか?」 「結局この話、そこに行くんだ……」 「だってうちのコーチ、明日香先輩ばっかり見てる気がしますし」 「あ、そっちね」 「なに? 明日香に才能があるから晶也が明日香の方ばっか見てるって?」 「まあそうかもね。どんだけ晶也が平等のつもりでも出るときはあると思う。人間だし。実際あたしも感じるときあったし」 「でもま、それがわかってるならあとは自分がどうするか、でしょ」 「みさき先輩」 「お、あたしを追ってFCやめる?」 「より一層のご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします」 「……そこまで好きか。FCかMHかは知らないけど」 「MH? ゲームの略ですか? わたし春頃出た4Cからできてませんけど」 「それこそわっかんないけど。でも最近の真白はやっぱ目がちかちかするなー」 「……保護フィルムの話ですか?」 練習後。 今日は練習の開始が朝からだったので早めに終わりになっていた。 「晶也さーん」 と、声をかけてきた明日香が学校カバンを軽く上に掲げてみせる。 帰ります、の意味だ。 明日香と俺は自宅近くの発着所が同じなのでお互いのタイミングが合えば一緒に帰ることが多かった。 今日も声を掛けてくれたんだろうけど、 「先に帰ってくれ。ちょっと部長と話があるんだ」 「おう、すまないな倉科」 「ふふ、ではお先に失礼しますねっ」 「ふう……今日も一日お疲れさまでしたっ」 「明日香先輩」 「ひゃっ!」 「きゃ」 「まっ、ま、真白ちゃん……!?」 「突然だからびっくりしましたぁ……てっきりもう帰ったんだとばかり」 「ごめんなさい。飛びあがるほど驚くとは思わなくって」 「あの、明日香先輩って毎日帰る前に今みたく部室に挨拶してらっしゃるんですか?」 「いや、まあ、たまにだよ? たまーに」 「たまーに……やってるんですね」 (なんかやっぱり天然系のいい人だ) 「真白ちゃんこそどうしたの? 部室になにか忘れ物?」 「いえ、明日香先輩に用がありまして」 「わたしに?」 「はい。えっと……た、たまには一緒に帰りませんか?」 「わたしと?」 「あ、というか、よろしければで、その……」 「……〜っ」 「ま、真白ちゃん、なにが言いたいのかはわかんないけど、がんばってっ!」 「は、はい、そのですね……っ」 「わ、わたしとどこかで一緒に、あ、遊んでいただけませんかっ?」 「っ」 「……? あ、あの……?」 「きゃ〜! かわい〜です〜!!!」 「むぎゅっ!?」 「上目遣いで真っ赤になって恥ずかしそうにそんなこと言われちゃうのって破壊力すごいです! きゅんきゅんきちゃいます!」 「あ、明日香先パっ! 抱きしめられちゃうと……!」 「みさきちゃんズルいですうらやましいです! 真白ちゃんほしいです!」 「い、息が苦し……胸おおき……はぅ」 「わわっ、真白ちゃんがぐったり真白ちゃんに! しっかりしてくださいー!」 「は、はぁ、はあっ……」 「だ、大丈夫ですか真白ちゃん」 「はぁ、ふぅ……大丈夫です。もう大丈夫ですから明日香先輩」 「ごめんなさい……なんだか真白ちゃんがものすっごくかわいくて、テンションあがっちゃって」 「その、わたしもこんなことを改まって誘う機会ってあんまりないもので、緊張しちゃって」 「ううん、とっても嬉しかったです。それでどこに行きますか?」 「えっと、それは明日香先輩のご都合次第で決めようかなと思っていたので……」 「それはどうも気を遣っていただきまして。どこに行きましょうか。う〜ん…………はっ!?」 「いいことを思いつきました!」 「いいこと……?」 「さあ真白ちゃん泳ぎましょう!」 「本当にいいんでしょうか。こんな……練習着で泳いだりして」 「お姉さんに任せてください。責任持ってちゃ〜んと手洗いでお洗濯しますから」 「え〜っと、そういう問題ではないような……」 「真白ちゃん、この海で見つけたら逃げなきゃいけないものがふたつあります。さて、なにかわかりますか?」 「えっと、くらげの時期はまだ早いですし……なんでしょうか?」 「ひとつはナンパの人です。即逃げます。恐いです」 「あの手の人たちは目的が狩りですからね」 「そしてもうひとつ……というか、もうひとりは晶也さんです」 「センパイですか?」 「そもそも練習着で泳いだりしてるのに、さらにもしケガなんてしたら、怒られて心配されて、泣かれてしまうかもしれません」 「色々と考えていらっしゃるんですね……」 「というか、センパイのこと、実は苦手なんですか?」 「まさか。晶也さん大好きですよ」 「っ……そ、それって」 「もちろん真白ちゃんもみさきちゃんも窓果ちゃんも部長も各務先生も大好きです」 「あ〜……」 「えへへ……だから今日は真白ちゃんから誘ってもらって嬉しかったです」 「ささ、真白ちゃん、ケガをしないように入念に準備運動をしときましょう」 「はいっ」 「はふぁ〜さすがに疲れましたぁ〜」 「明日香先輩、部活のあとなのに全力すぎです」 「遊ぶのも一生懸命です。後悔なんて残さないくらい!」 「FC部で頑張ってると、なんとなくですけどそういうことも教わってる気がします」 「先輩、感受性強すぎですよ」 「そうですか?」 「あっ真白ちゃん真白ちゃん、ほら、隣に寝転がってみてください」 「髪にべったり砂がついちゃいますよ」 「空しか見えなくて、なんだか飛んでるみたいです」 「…………」 「ほんとですね」 「今でも夢みたいです。毎日毎日、この中を飛べるってこと」 「本当にしあわせすぎます。昔、空をず〜っと見上げてたちいさい頃のわたしに教えてあげたいです」 「夢は叶うよって。あなたは空を飛べるようになるんだよって」 「……明日香先輩」 「はい?」 「先輩は、FCの才能があるとか天才ってよく言われてますよね。それってどう思ってます?」 「…………」 「気分を悪くしちゃったならごめんなさい。スルーしてください」 「……嬉しいです」 「え?」 「すっごくすっごく嬉しいです」 「わたし、これといって取り得のない地味な子です。あとちょっと抜けてるとこ、自分でもわかってます」 「ずっと他の子がうらやましかった……なにか持ってて、きらきらしてて、まぶしくて」 「なにもできないこともそうですけど、なにも一生懸命になれることがなかったことの方がすごく惨めで、悲しかったような気がします」 「空は好きでしたけど、FCとは縁のない生活をしていましたから」 「もし転校してきて、晶也さんがわたしの手を引いて空に連れていってくれてなかったら、今のわたしはいなかったような気がします」 「……それ、わたしにとってのみさき先輩みたいなものかもしれません」 「そうなんですか?」 「全部が全部そうってわけじゃないですけど」 「でしたら、お互い、いい人に巡り会えましたね」 「くすっ……ですね」 「って、勝手に口を挟んじゃいました。ごめんなさい」 「いいえ、えっと、どこまで話しましたっけ」 「センパイが、明日香先輩を空に連れていったって」 「そうでしたそうでした。ですから、そうですね、晶也さんがわたしの空なのかもって思います」 「…………」 「こんなこと言うと、きっと晶也さんは怒っちゃいますけど。明日香には自分だけの空があるはずだ、とかって」 「ふふ。晶也センパイはそういうこと言いそうですね」 「その晶也さんが、わたしにFCの才能があるって言ってくださったんです」 「わたしなんかがって思っちゃいそうですけど信じます。信じたいです。だって晶也さんがそう言ってくださったんですから」 「でも同時に、ほんのちょっとだけ悔しいです。空が好きで、頑張って、汗もいっぱいいっぱいかいて、それで才能の一言は、努力が足りないのかなって感じます」 「センパイは決してそんなつもりで言ってないと思いますよ」 「はい、わかってます。ぜいたくです。難しいです。だからきっとわたしがうらやましいって思って見てたきらきらした人たちも、こんなことを考えてたのかなって」 「あっ、わたしがもうきらきらしてるって自分でそう思っているわけではないですよ!?」 「かわいい」 「ひえっ!?」 「明日香先輩はきらきら輝いてますよ」 「……う〜、真白ちゃんいじわるです」 「でも、やっと見つけた大好きなものだから大切にしたいなって、心からそう思っています」 「…………」 「えっと、大丈夫、ですか? わたし、こういうのは苦手で……言ってる意味、ちゃんと伝わってました?」 「……うらやましいです」 「えっ?」 「そこまで空が大好きなこと。すごくうらやましい」 「……真白ちゃんにも大好きなものがきっとすぐに見つかりますよ」 「…………」 「……真白ちゃん?」 「その、明日香先輩にこんなことを言うのは自分でもおこがましいかもって思うんですけど……」 「はい、なんですか?」 「……わたし」 「わたしも、空が好きなんです」 「えっ」 「正確には、好きかも……ですけど」 「それ素敵です!」 「わわっ……、突然起き上がらないでください。手まで握って」 「だってなんだか嬉しいです! 好きな友達と好きなものが共有できるって最高です!」 「でも、わたしは明日香先輩ほど純粋じゃないから、ちょっと不安です」 「先輩ほどまっすぐじゃないから、他にも好きなものがあったりするから気後れしちゃいます」 「好きなものがひとつだからまっすぐだとは限らないと思います」 「えっ?」 「好きにも色々あると思いますし、尽くしたり感じたり付き合い方はものによってそれぞれで、でも全部を心から好きだと思えるなら」 「わたしは好きなものが……好きになれるものがたくさんある人の方がずっと魅力的だと思います!」 「……どうでしょう? 嘘はついていないのですが」 「……明日香先輩」 「どうしました? ……ん?」 「ごめんなさい。嘘をついているとしたらわたしの方かもしれません」 「真白ちゃん、あれってもしかして……」 「わ、わたしが好きな空というのは、実は……」 「逃げましょう!」 「きゃっ!? なっ、なんですか先輩、いきなり手を引いて。痛いですよ!」 「なっ、ナンパの人です!」 「えっ? あ、ほんとだ。あっちから来る2人組のいかにもって格好の人たちですね?」 「ああっ、ち、近寄ってきます!」 「飛んで逃げましょう。わたしもこのカッコ、ナンパの人になんて見られたくありません」 「んん……身体がまだ濡れてるからシューズが履きづらいです!」 「ほら、早くしてください!」 「んんん〜!」 「わっ、あいつら走り出しましたよ!」 「ぜ、絶対絶命です! どっ、どどどどうしたら!?」 「〜っ」 「ちょ、ちょっとわたしが行って追っ払ってきますから、先輩はその間に逃げててください」 「ちょっとって、そんなっ!」 「大丈夫です。わ、わたし地元民だし、うちで接客とかしてるから、な、慣れてますし」 「だめです! 真白ちゃん声震えてるし顔も青いし、涙目になっちゃってます!」 「ちょ、ちょちょちょいのちょいですから!」 「全然ちょちょいになってません! ……あっ真白ちゃん、行っちゃダメですってば!」 「う〜こわくない、ぜんぜんこわくないんだからぁ……!」 「わたしを守ってください、センパイ……!」 「……って、あれ?」 「ま、真白ちゃんひとりでは行かせられません! 恐いですけどわたしも行きますー!」 「それが明日香先輩、あれを……」 「え、あれ、渋々って感じで帰っていってますね……どうしてでしょう?」 「さあ?」 (……あれ? いまあの人たち空を見た? ……あっ) 「なんとか追い払えたみたいだな」 諦めて去っていくチャラそうな男2人組の背中を見下ろしてとりあえずほっと息をつく。 あいつら完全にナンパ目的だったもんな。 今は夏休みの観光シーズンだ。人気の少ないこの砂浜でも油断はできない。 「……って言ってあったはずだぞ。特に明日香には」 部室を出て帰ろうとしていたところ、練習着に着替えて飛び去っていく明日香と真白の姿が見えた。 何事かと思って慌ててついていったら、海で泳ぐだけだった。 仕方なく遠くから監視することにしたが、ふとこの息を潜めて女子の泳ぐ姿を見ている状況は男としてどうなんだと自問自答する、苦しい時間になった。 ナンパが現れたら現れたで、明日香と真白に状況説明ができないから下に降りれないことに気づいたし。 結局、急降下で突っ込む素振りをナンパ男に見せて、やっと追い払うことができた。 ともあれこれで一応監視した甲斐はあったか。なんとか自分を許せそうだ。 明日香と真白ももう十分遊んでいたし、こんなことがあってはさすがに帰るだろう。 俺はコーチ。日陰の存在。このまま最後まで裏方として陰となって二人を守ろう。 って、携帯? メールか? 開いてみよう。……なんでか嫌な予感がするけど。 差出人:有坂真白 件名:センパイ すけべ 「…………」 コーチ株が大暴落した音が聞こえた。がっくりと肩を落とす。 気づかれたか…… どうやら気づいたのは真白だけのようだ。 砂浜の真白は、明日香にだけでも気づかせない配慮なのか俺の方を見上げようとはしない。 ……あいつは優しいんだか優しくないんだか。 「お?」 よく見るとまだかなり下にスクロールする。続きがあるらしい。 延々と下にタップしていくと、 きょうはありがとうございま かっこ良かったこともな もしよければ今度お礼 「なんだこの打つのに途中で飽きたような内容は……」 心がこもってない。 お礼にしても、全部言うにはまだまだ足りないコーチだとでも言いたいのか? 「いいだろう。明日からの練習はさらに密度を上げてやる」 俺は人知れず、気合いを入れ直した。 「あれ、真白ちゃんメール打ってたんですか?」 「え、あっと……ちょっと勇気出してみちゃいました」 「えへへへへへ……」 「……えっと、誰に?」 「みさき先輩、本日もご指導よろしくお願いします」 「お」 「? どうされました?」 「いや、いつもとちょっとなんか顔つきが違うというか吹っ切れたというか」 「そうですか?」 「あいつのこと諦めた?」 「なんの話ですかっ!」 「いや違うな。この感じはむしろ……」 「破……されちゃった?」 「えっと、言い直されても意味わかんないです」 「あーいやーごめん忘れて。あたしも溢れ出る興味のあまりオジさん化した」 「よくわかりませんけど、わたしが機嫌いいのは大好きなみさき先輩と一緒だからではないかと」 「いい。そういう答えはいい。求めてないから」 「明日香先輩や窓果先輩、部長、各務先生も好きです」 「今日は何? 急にどうしたの気持ち悪い。そういう占いでもあった?」 「そういうつれないみさき先輩もたまりません!」 「あーそれは最近ちょっと懐かしいノリだけど……昨日まで明日香のこと親の仇みたいな目で見てたのに」 「そ、そんな目で見るわけないじゃありませんか!」 「別に証明する気もないけどさ。あとさっきの好きです枠に、晶也の名前がなかった特別扱いについては?」 「あの人はメールもろくに読めない原始の人ですから、好きじゃありません」 「何をしたのさ晶也……」 「はい、ではそろそろ練習をはじめましょうか。頑張っている明日香先輩や部長に負けてられません」 「部活を辞めたのにこき使われているあたしのこと、そろそろみんなは再評価してくれてもいいと思うわけよ」 「ダシと具をもらってきましたからお昼は家庭科室で冷やしうどんにしましょう。麺もおかわりがたくさんあります」 「絶対に負けられない戦いがここにあるね!」 「よろしくお願いします!」 「わたしは、尊敬する明日香先輩より空を好きになりたい……!」 「違う違う違う」 「はぁ、はぁ、はぁっ……」 「言ったでしょ。忘れた? その通りにやればできるって」 「はっ、はい、やってみます!」 「あー嘘! いや嘘じゃないけどごめん!」 「薄々わかってんだ、あたしが教え方あんま上手くないこと」 「い、いえ、きっとわたしの勘が悪いだけです。明日香先輩ならとっくに理解できてると思います」 「明日香は、まあ規格外だから……」 「大丈夫です、問題ありません。わかるようになるまで繰り返せばいいだけですから!」 「明日香ならって、明日香は明日香、真白は真白だろ」 「あ、晶也」 「センパイ……」 「そんな恨みつらみの積もってそうな目で見るな」 あからさまに態度が変わったぞ。 今の真白は、俺に対してなぜかちょっと機嫌が悪い。 昨日の海から明けて今日、練習前の部室で会ったときはまだそうでもなかったんだけど、 「せっ、センパイ!」 「おう。おはよう真白」 「そっ、その、あのですね……ちょっと」 「ん?」 「……昨日のメール、読んでいただけたかなーって」 「ああ、もちろん読んだよ」 「そ、そうですよね……」 「うん」 「…………」 ……ん? 「どうした? まだ何かあるのか?」 「い、いえ、ですから、読んでどう思われたのかなって」 読んでどうって。 「しかと受け止めたよ」 「しかと受け止められましたか……!」 「ああ、メールに潜んだ本当の意味にな」 「〜っ」 「気づいたときは熱くなった」 「わ、わたしのメールを見てですかっ」 「他に何があるんだよ。って真白顔が赤くないか? 日射病じゃないだろうな」 「へ、平気です。平気ですから早く続きを……っ。ああっ、でも聞きたいような聞きたくないような」 「どうした」 「続きをっ」 聞きたいんじゃないか。 「続きって……いやだからさ」 「ああいうことをわざわざ伝えるのはものすごく勇気が必要だったろ? ありがとな」 「そ、そんなこと……こうして言っていただけただけでも十分に報われてますからっ」 「いや、さっきも言ったかもしれないけど、俺は受け入れることにした」 「受け入れるって、じゃあ、じゃあ……?」 「ああ。より一層練習に、指導に、コーチ業に邁進する」 「センパイわたしもだいす……!」 「……って、あれ?」 「ダイス……? サイコロ?」 「いえそうじゃなくって……えっと、コーチ業?」 「ああ。だから今の俺はまだ真白にとってお礼を全部伝えるには足りないコーチだってことだろ?」 メールの内容を思い出す。 差出人:有坂真白 件名:センパイ すけべ きょうはありがとうございま かっこ良かったこともな もしよければ今度お礼 「耳が痛いけど、真白は改めて問題提起……いや、多分俺を信じて励ましてくれてるんだよな」 「いえ、あれは本文や改行をわざと不自然にして別のとこを読むという、もう使い古された……」 「俺もっと頑張るよ。ありがとな真白」 「あうぅ……恥ずかしくて変に頭を使っちゃったのが仇になってる……」 「ん、どうした真白」 「センパイ……」 「なんだ?」 「〜っ」 「……ん?」 「…………」 「せめて何か言ってくれ!?」 なんで罵倒して非難している真白の方が、なんとも表現しづらい微妙な顔をしていたかは気になったけど…… 俺がまだ何か読み取れていないのか真白が情緒不安定なのか。 練習の中まで気に掛かるようなら言及するとしよう。 「で、なんだ、みさきの説明じゃ明日香には伝わりそうだけど真白に通じないって話だよな」 ふたりとも今日は気合いが入っているようで、俺も遠くからぼんやりと聞いていた。 「あたしって、どうも人にものを教えるのが苦手みたいだ」 「ま、優れた選手が名監督やコーチになれるわけじゃないからな」 「そうやってナチュラルに持ち上げられても引くだけで、復帰しようとか考えないから」 「そりゃ穿ちすぎだ」 ……実はそうでもないけど。さすがに安易すぎたか。 「ちょっと実際にみさきがどういう風に教えてるのか、やって見せてくれないか?」 そういえば、みさきが人にものを教えている姿を注意して見たことがない気がする。 「じゃあさっきのをそのまま言うね」 「もっと、がーっと勢いよく降りて。で、ここぞって時にお尻がひゅんってなるからそれを合図にぞわぞわを一気に頭のさきっぽで尖らせる」 「あとは身体を傾ければそっちの方にぐりんってターンできるから」 「……こんな感じ。だめじゃない?」 「惨劇じゃないか」 「そこまで!?」 「真白も怒ってやれ。このまま放っておくとみさきがダメなままだぞ」 「……あたしがボランティアだってこと忘れないでよね」 「FCに限らず、今後の人生で他人にものを教える局面はきっと出てくるだろ」 「ぶー。今を生きるあたしは今を大事にしてるんだー」 「で、でも、明日香先輩ならきっとわかると思うんです!」 「もし仮にそうだったとしても真白には理解できないだろ」 「ぁ……」 「さっきも言った通りだ。明日香は明日香、真白は真白。真白は明日香じゃない。明日香になる必要はないって」 「でも……」 「…………」 「みさき、ちょっとこっちに来てくれ。この先の指導をどういう風に進めるか指示する」 「え〜」 「また今度うどんおごるからさ」 「あたしって今きっと世界で一番健気で安い女だよね。うどんとなら冷やしだろうと天ぷらだろうとすぐ寝るって噂されちゃってさ」 「誰にだよ」 ………… 「センパイ……わたし、きっと早く明日香先輩みたいに上手くなりたいだけなんです」 「だってそうしなきゃ、センパイはわたしを見てくれないじゃないですか……」 ………… 「おっしわかった。ちゃんと聞いてきた。完璧!」 「頼もしいです、みさき先輩!」 「そう、動画を撮ってフォームとか比較画像で確認すればよかったんだよ」 「あ〜、意外とオーソドックスな方法なんですね」 「まったくどうして今まで思いつかなかったのか……いや、一度考えたんだけど変な動画サイトに売っちゃいそうだから自重したんだっけ?」 「みさき先輩……あの、信じてますからね……?」 「それと、晶也お手製の『みさ和辞典・簡易版』ももらってきた!」 「なんです、その人の名前みたいな辞典は」 「あたしの言うガーッとかグアーッを全部日本語に直してくれる」 「もう昔のあたしとは違うから」 「英和辞典とかの『みさき先輩言葉→日本語』バージョンですか」 「たとえば、あたしが言うガーッをこの辞書で引くでしょ」 「ほら。もしかして1、重心を下半身に落とし、腕の遊びに気をつけて飛ぶ。もしかして2、背筋を伸ばし、空気抵抗が最小となる角度を意識する。もしかして3……」 「それが全部の擬音分あるんですか?」 「そう。これがグアーッになると、もしかして1、重心を下半身に落とし腕の遊びに気をつけて飛ぶ。もしかして2、背筋を伸ばし、空気抵抗が最小となる角度を……あれ?」 「どこかで聞いたような」 「っていうかこれよく見たら内容全部同じじゃん! 手抜き! 突貫工事! 欠陥辞書だ!」 「でも、これだけでも言語化できるのってすごいです。よくみさき先輩のこと見てらっしゃるんだろうなって。わたしにはわかりませんでしたから」 「違う。晶也が見てるのは真白」 「わたしですか?」 「よくよく考えたらあたしの言ってることを理解してる必要はないもんこれ。真白の修正ポイントを並べておけば当てはまるのは出てくるもん」 「実際ぱっと見であたしが言いたいこと網羅してあるし。なんか悔しいな。ギギギ」 「センパイが……」 「あたしと晶也で真白に教える練習メニューが違うのも練習的に地味な基礎を晶也、派手な実践をあたしにした方があたしとの時間を楽しめるだろとかそんな基準だからね」 「だからこんなことになってんだけどさ」 「わたしのため……」 「嬉しかったら素直に喜びなよ。別にあたしの前だからって我慢しなくていいって」 「そ、そんな顔してません!」 「にやけないように口の中で頬の内側噛んでるくせに」 「っ! どうしてそれを!?」 「当てずっぽ」 「……っ!」 「ああ、それと」 「まだ何かあるんですか?」 「さっき言ってた明日香は明日香、真白は真白」 「それは間違いないけどさ、明日香を意識してるってこと自体はいいことだと思うよ」 「みさき先輩……」 「……って、ちょっといい声でみさきの口から真白を褒めてやれって晶也が」 ………… 「晶也さん、どうして突然両手で顔を覆ってるんですか?」 「台無し娘の処遇について考えてたんだ……」 みさき、お前全部言うなよ…… 「わたしは、晶也さんの口からちゃんと伝えてあげればいいと思います」 「……そんなこと言うってことは、明日香も向こうの会話が聞こえていたのに事情がわからないふりをしてたな?」 「あれれ?」 「かわいらしく小首を傾げても騙されないぞ」 「……まあ、みさきの口から言った方が真白の励みになると思ったんだよ」 「上辺だけの言葉で真白ちゃんが喜ぶでしょうか……」 「みさきからなら喜ぶだろ」 「う〜ん、たしかに喜ぶかも……」 「な?」 「でも、晶也さんからの言葉でも十分受け止めてもらえると思います」 「そうかな? 蹴られないか?」 「どうしてそうなるんですか……」 「ま、そういうとこは意外と素直か、真白」 「あの、ところでですね」 「うん?」 「…………」 「さっきから向こうの真白ちゃんが晶也さんをじいっと熱い視線で見つめているんですけど」 「気づいてる。気づいて見ないようにしてる」 「きっとお礼が言いたいんだと思いますよ」 「だからだよ」 みさきへの小細工や入れ知恵がバレてお礼を言われるなんて、ちょっとカッコ悪すぎる。 「〜〜〜〜」 「あ、真白ちゃんの顔がちょっとむっとしてます」 「そりゃ明日香はちらちら真白を見てるのに俺だけ気づかないってのはあからさまに不自然だもんな」 どうやら真白の視線に対応しようとしまいと結局バッドエンドだったらしい。 「さ、練習を再開しよう」 「いいんですか、真白ちゃん」 「いい、いい。今は部活の時間だ。高藤との合同練習もあるんだからな」 ただし怖いので、あとのことは考えないことにした。 練習で取ったタイムは窓果がほぼすべて記録してくれている。 俺は記録が伸びた部分、停滞した部分の推移から、定期的に練習メニューを組み替えている。 「ま、こんなもんか」 作業が一段落して、ぐっと背伸びをする。 練習後の部室にはすでに俺しか残っていない。 最後まで残っていた明日香が帰ったのは、もう1時間以上前になっていた。 今日の練習は早上がりだった。 外に出ると、むあっとした大気と照りつける太陽光、覆うようなセミの声が一層主張を増した。 鬱蒼とした緑の匂いが夏の気温でむせ返るほど広がっている。 「早く帰ろ」 と言って…… 「ん?」 出口のすぐそばにソーダキャンディーが置いてあるのを見つけた。 『ありがとうございました』というメモが添えられている。 一人、今日の練習でお礼を言ってくれそうな後輩の顔が思い浮かんだ。 「一緒に食ってけよな」 口に入れたソーダキャンディーは冷たかった。 「――っ!」 「いいよ、ここまで完璧! 気合い入れて、声出していこう!」 「はい!」 「よし、最後のポイント!」 「下半身が遊ばないように注意して、重心を素早く移動させる!」 「はあああぁぁぁあああ!!!」 「よし、ゴール!」 「はあっ……はっ、はぁ……」 「っ、タイムは? 目標タイムには届きましたか?」 「…………」 「みさき先輩!」 「……おめでとう」 「きゃー!」 「って、わぷっ、ちょっと……!」 「やった、やりましたよ、みさき先輩!」 「うん、そうだね、よく頑張ったと思う」 「〜〜〜っ」 「もっとっ! もっと褒めてくださいみさき先輩!」 「調子に乗るでない」 「ちょっと、みさき先輩飛行中のツッコミは吹っ飛んじゃいますって!」 「でも、えへ、えへへへ……」 「わぁ、こりゃ重症だ」 「とりあえずコーチにできたよーって報告に行ってきたら?」 「でもまだ明日香先輩のコーチ中ですし邪魔しちゃうのもよくないかなって」 「いいじゃん。邪魔するだけの価値はある報告だよ、きっと」 「……行くだけ行ってみて、話せそうなら話してみます」 「ん。行ってらっさい」 「はいっ」 「喜んでるなあ。そりゃそうか」 「こないだ晶也が口挟んできたときから一週間くらいか。頑張ってたもんね」 「…………」 「……いいなあ」 ………… 「センパイ、喜んでくれるかな」 「コンコン、センパ〜イ?」 「明日香、もう1度いくぞ」 「はっ、はいコーチ!」 「わっ、気迫すご……ちょっと待たせてもらおっと」 「よし、そこからコンビネーション!」 「……っ!」 「あ、わたしと同じ練習してる。……明日香先輩すごい。なんだか今さらになって明日香先輩のすごさがわかる気がするな……」 「でもみさき先輩からお墨付きをいただいたわたしから見れば、これに関してだけは、ちょっと下半身が遊んじゃってますよ? なんて言ってみたりして」 「よし、そこから派生に入って! 相手はスピーダーを想定しろ!」 「派生?」 「基本の姿勢を絶対に崩すな! 初手をどれだけ完成度高く繰り出すかでその後の攻守、コンビネーションが大きく変わると思え!」 「はい、コーチ!」 「基本……」 「ふー。よーしオーケー、明日香戻って来てくれ」 「コーチ、今の出来はどうでしたか?」 「視線でフェイントを入れろって言ったのどうした?」 「あっ……」 「それさえできたら」 「完璧ですか!」 「また次の問題点を指摘できるな」 「厳しい道のりですね……」 「まだまだ覚えられることは山ほどあるからな」 「…………」 「あれ、どうした真白」 気がついたら向こうでみさきと練習をしていたはずの真白が、何故かこっちまでやってきていた。 「あ、いえ、何でもありません」 「何でもないことはないだろ」 互いの練習中に入り込んでくるなんてことは滅多にないんだから。 「じ、実は、その……コーチに一応ご報告というか」 「うん?」 「……ちらっ」 「? わたしがどうかしました? ……あ、いちゃいけない系のお話ですか」 「な、なんだよいちゃいけない系の話って」 「あとは若いふたりに任せまして?」 「し、失礼しました!」 「って、真白が帰っちゃうのかよ!?」 踵を返した真白を勢いのまま呼び止める。 「た、ただの成果報告ですから。あとでこっそりお伝えしますから!」 「なんでこっそりするんだよ」 「そ、それはぁ……」 「課題にしてたコンビネーションができるようになったんだよね、真白」 「みさき先輩、それを言うのは!」 「なんで? だって報告に来たんじゃない」 「でもそれを明日香先輩の前で仰るのは、なんともいたたまれない気分になりますから……」 「やったじゃんか、真白!」 「真白ちゃんすごいすごい!」 「センパイたちならきっとそういう反応をしてくださるとは思いましたけどぉ!」 俺と明日香、おそらくみさきも加えた3人の心からの祝辞にだけど何故か真白は素直に喜ばない。 「だって明日香先輩は基本でなさってることじゃないですか。それを今さらできたとかって言うのはなんとゆーか……」 「いつ誰が真白と明日香を比べたよ?」 「はい?」 「俺のコーチって、そんな競争原理だったか? いっつも誰かと誰かを比べてるような雰囲気悪い感じか?」 「……比較的あるよね?」 「そもそもFCは競争の要素も含んでますし」 「あははは……ノーコメントです」 「おかしいな……指導側としては個性を伸ばすのびのびとした環境を心掛けたつもりなのに」 「そんなゆとりとか放牧された牛みたいなこと言われましても」 「少なくともあたしは練習の時いつもにっくき太陽め、早く沈めって願ってたけど」 「見解の相違だな」 それはさておき。 「できなかったことができるようになる。それが努力の成果なら本当にすごいことだと思うよ」 「でも明日香先輩から見たら全然で……」 「ん〜、たまに忘れるというか当たり前すぎて見落としそうになるけど、自分以外のみんなも生きてるだろ?」 「なんですか急に?」 「ってことは、みんな生きてる限り何をしていたって、大なり小なり常に自分と戦ったり葛藤したり我慢したりしてるわけだ」 「結局、他人から見える自分っていうのは自己研鑽した自分だけで、自分の本質は自分しか知らない」 「はあ……えっと?」 「積み重ねだよ。最初から大きい山なんて登れない。だけど段階をつけていけばだいたい頂上に辿り着くもんだ」 「はじめのうちは人のものが羨ましくてしょうがないけどさ。いつか自分が手に入れたものが誇れるようになれたらいい。生まれ変わってもまた自分に生まれたいみたいな」 「えっと、伝わってるか?」 「よくわかんないです」 「明日香、タッチ」 かなり恥ずかしいことを言ったつもりだったけど伝わらなかったらしく、折れた心で明日香にバトンタッチする。 「真白ちゃん」 「明日香先輩……」 「誤魔化してますけど、本当は心の底から喜んでるんですよ」 「ほんとですかぁ?」 「っていうか、俺はよくわかんないことを言ったつもりは毛頭ないんだけどな……」 「晶也さんはさっきからずっと、真白ちゃんの練習を気にしてたんですよ」 「えっ?」 「お、おい明日香、何を言って……?」 「さっきもですね、真白ちゃんたちが目標タイムに届いたって雰囲気で伝わってきたとき、ちいさくガッツポーズしてました」 「おーい明日香さん!?」 「晶也さん、ダテにずっとコーチを受けてないです。指示のタイミングがズレたりするとわかります」 「う……」 「きわめつけは最後の練習です」 「そ、そこも……?」 「あそこはコンビネーションではなくて正しくは『綺麗な姿勢を徹底する』でした」 「え、俺、コンビネーションなんか指示したか?」 「考えてたことと途中で中身がすり替わっちゃってる」 「ちゃんとわたしの練習を見てましたか……?」 「いや、なんというか」 「コーチ?」 「ごめんなさい……」 確かに真白の様子が気になってはいたけど、それが周囲に影響を及ぼすほどだったとは。 「本当に明日香には失礼なことをしました」 「大丈夫です。1日に1、2度あるかないかくらいでしたから」 「……3、4度だったかもしれません」 「いやもう本当にごめんなさい!」 全力で頭を下げる。 「わたしはもういいですから、ね?」 促された先には真白の顔。 なんだか微妙な顔をしている。きっと今の俺の顔もこうなんだろう。 正直どんな顔をしていいのか皆目見当がつかない。 「っていうか、そもそも何を言えと?」 「もうちょっとわかりやすく感想を言いましょう!」 「わかりやすくって」 言ったつもりなのに。 「……よかったよな」 思わず齢相応以下の、ぶっきらぼうに、素っ気なく振る舞ってしまいそうになるが、今からそれも情けない気がする。 何を求められているのかはわからないけど、わかりやすくと言われるなら思ったことを伝えよう。 羞恥心をかなぐり捨てて、素直な気持ちを。 「俺も嬉しいよ」 「え、よくわかんないです」 「おい……」 「もう一度言ってくれたらわかるかもです」 「本当になんなんだこの仕打ち!?」 とんだ羞恥プレイだった。 「センパイが褒めてくれた……」 「〜〜〜っ」 「って、だめだめ、また埃が立つって怒られちゃう」 「あ……」 「…………」 「なんだ、うれしかったのかよ真白」 「正直泣きそうだったわよ」 「ハハ、あんな程度でか。安い女だなおまえは」 「うっさいなあ」 「あいつのこと好きなのか?」 「…………」 「おまえ、そこだけははっきりしないよな」 「……なんかね、ちょっとこわいんだ」 「こわいだあ?」 「ちゃんと形にするのが。もう後戻りできなくなりそうで」 「もう十分深みだと思うけどなあ」 「うっさいってば」 「また頑張ればきっと褒めてもらえるぞ」 「…………」 「おまえのこと、ずっと見てくれるかもしれないぞ」 「いいの。わたしはそんな安い女じゃないの」 「たとえば朝と夜にゲームをしてた時間を練習に使えば……」 「やーらーなーいー。やりません。そんなの褒めてもらいたくってやってるの見え見えじゃない」 「FCが上達すれば、おまえの好きなみさき先輩とやらもおまえを見直すんじゃないか?」 「みさき先輩を、とやらって言うな」 「という言い訳でどうだ?」 「言い訳って言うなぁ〜」 「おいおい、ベッドの上でそんなに足をばたばたさせてるとまた……」 「……ちょっと真白、さっきからひとりで誰と喋ってるの?」 「に゛ゃあああああ!?」 「驚くにしても、せめてもうちょっとかわいい悲鳴をあげなさいな、年頃の娘」 「だいたいさ、馬鹿に、しすぎだって」 「センパイに褒められるくらいで、わたしが自主練とか」 「褒められたのなんて全然嬉しくないんだから」 「部活のあとに自主練なんて無理。ていうか部活を真面目にやってないみたいじゃないですか」 「そもそもわたし、そんな努力家タイプじゃないし。真面目なんかじゃないし」 「自主練なんて、どうせすぐに飽きちゃうんだから……っ。単なる、気まぐれ、こんなのゲームみたいなものだって……」 「……シザーズ……からの急制動。ハイヨーヨーからの……」 「はっ!……はぁ、はあ……」 「あれ、次のコンビネーションどう動くんだっけ?」 「ありがとうございましたー」 「ふぅ……」 「ちょっと真白」 「んー?」 「もういいわよ、お客さん捌けたし。ありがとね。でもお店の手伝いなんてしなくていいのよ」 「え、でもさっき見たら忙しそうだったし」 「そりゃ忙しいときは忙しいけどね」 「なんかね、いま何かやってないと張り詰めた糸がぷつんて切れちゃいそうなの。わたしってほら、そんなちゃんとした人間じゃないから」 「それで毎日部活して、朝と夜にも自主練って出て行って、うちの手伝いまでするの?」 「極端から極端というか……普段は手伝ってって言っても、嫌そうな声あげたりするのに。うちの娘の不器用さ加減には涙が出そう」 「娘のやる気に水を差さないでよ」 「もちろん応援してるわよ。最後は倒れるわね」 「縁起でもないこと言うしぃ〜」 「うそうそ。真白ちょっとこっち来なさい」 「う〜なによ〜」 「抱きっ」 「ちょっと、もう〜」 「……でもお母さんにこうやってもらうの、久しぶりだね」 「それ最近まで久しく頑張ってなかったってことじゃない?」 「う……」 「冗談冗談。真白はみさきちゃんとゲームを頑張ってたわよね」 「発言に悪意を感じます……」 「お母さんは真白の頑張ってる姿が好きだし、もちろん応援もしてる」 「だけど、頑張りすぎて無茶してないかちょっと心配」 「お母さん……」 「甘やかすつもりはないけど、お母さんとお父さんは真白のことを見守ってるから。忘れないでね」 「……ん。ありがとう。大丈夫だよ、できることしかやれないから」 「真白がそう言うなら信じるけど」 「でもあんまり無茶してると思ったら、真白がうちで働けないようにパートさんとか雇うから」 「それはそれで家の中が息苦しくなるかもだから、やめてほしいような……」 「頑張るのはいいことだと思うけど根を詰めすぎるのも絶対よくないからね」 「真白は不純って思うかもしれないけど、たまには自分を褒めたりご褒美を用意するとかしないと」 「……いや、その不純なごぼうびのために頑張ってたりするんだけどね……」 「ん、なに?」 「なんでもないなんでもない」 「……あ、ふと思ったんだけど」 「なにを?」 「お母さんとお父さんの馴れ初めってどんなだったの?」 「きゃっ! って、聞いてたんだお父さん……」 「…………」 「お母さんは止まってるし……」 「真白ぉ」 「むぐっ……、なに急に!? 力入れてこないでよ、くーるーしーい!」 「ふふふ〜正直に言いなさい」 「何をぉ!?」 「みさきちゃん以外に好きな人できたでしょ。男の子で!」 「ぶっ……!」 「なっ、ななななな、なんで突然!?」 「突然なのは真白。わけのわかんないタイミングでわけのわかんないこと聞いてきたじゃない」 「あっ……もしかして朝と夜の練習もその人と……そもそもほんとに練習?」 「って、あなたいい加減うるさいー」 「うるさいのはお母さんだから!」 「わたしは! ひとりで! マジメに! 練習してます! ……そりゃ動機は不純かもしんないけど」 「察しちゃったみたいな空気と変な勘繰りやめてよね。なんなら見に来ればいいでしょ」 「じゃあそれはおいおい見学に行くとして」 「ほんとに来るんだ……いいけどさ」 「じゃあかわいい娘のためにお母さんがお父さんとの馴れ初めを話してあげよっかな」 「えっと、なんかもういいけど」 「懐かしいわね……恋する乙女だった頃の私。まずかわいかったでしょ」 「え、自分で言う?」 「清楚で可憐で健気で、風が吹いたらくしゃみして」 「くしゃみのくだりって必要……?」 「髪の毛なんかふわっ、くるっとしてて、いるだけで甘い香りがして、目もぱっちりしてて」 「目がー!?」 「どこで驚いてるのよ……まあいいけど」 「好きな人ができて頭がいっぱいになったときは慣れない占いとかおまじないに頼ってみたりして」 「……あ、真白、あとで消しゴム見せて?」 「好きな人の名前とか書いてないからね」 「そうなんだ。残念」 「で、いよいよ気持ちを抑えきれなくなって告白しようかなって思うんだけど、なかなか勇気が出なくてね」 「…………」 「踏ん切りがつかないのよ。だから学校から家までずっと白い線を踏んで帰れたら告白するとかね」 「これができたら告白するんだって。ほんと色々やったなぁ」 「……それで?」 「きっと自分に自信が欲しかったのね。失敗するってわかってる挑戦と本気のが混ざってて。やっと納得できるだけの自信が持てて、ついに告白……」 「うん……!」 「あ」 「え、なに?」 「これ相手お父さんじゃなかったかも……」 「ちょっとー!?」 「あはははははは」 「……なーんちゃって。私は昔からお父さん一筋だから大丈夫。あの人には内緒よ?」 「もう……そういうのはちゃんと本人に言ってあげなよ」 「あの人、ちゃーんとまだ私にもやきもち妬いてくれるんだーと思って」 「もし妬かなかったら機嫌悪くなるくせに。っていうか子どもの前でそういう駆け引きやめてよ」 「ごめんごめん」 「だけどそういうのちょっと羨ましいかも」 「真白もがんばれ。お父さんは適当に誤魔化しといてあげるから」 「いらないお節介ですー」 「あ、そうなんだ」 「でも……」 「うん?」 「もしそういうときが来たら……お願いしたいかも」 「はあ……うちの娘かわいい。この子の良さがわからないやつがもしいるなら、ぶっ飛ばしてやりたい」 「も〜抱きしめながら物騒なこと言わないでよぉ」 「今日の部活は雨のため中止です。各自休養にあててください。よろしくお願いします……っと」 部活のメンバーにメールを一斉送信して息をつく。 ここまで練習漬けだった選手たちの身体にはきっと恵みの雨になるだろう。 明日以降も続くようなら、恨みがましく睨み上げるしかない。 「さて、俺も帰るか」 荷物を取って部室を出ようとしたそのとき…… 「っ!」 「え?」 「……お、おはようございまーす」 真白が入れ替わるように部室に入ってきた。 ……なんでだ? 「はあ、急に降ってくるから結構やられちゃいました……あれ、センパイだけですか? 他の皆さんは?」 「えっ、と……携帯見たか?」 「携帯ですか? いえ……あれっ? 今日休みですか!?」 「そう決めたんだけど」 「あっ、これ送信時間ついさっきじゃないですか! こんなのわかりませんよ!」 「真白が早すぎなきゃ気づけたはずなんだよ」 なにせ予定していた部活開始の時間まで、まだ1時間以上ある。 当然俺もそれを計算して出てきてたんだし。 「そっか……朝はまだ降ってなかったし、わたしも寝過ごさないように部室でちょっと寝ようと思ってたから」 「徹夜でゲームでもやってたのか?」 「あっいえいえこっちの話ですから!」 「そうか?」 まあプライベートに首を突っ込みすぎるのは良くないか。 「……ということは、わたしたちふたりだけなんですね。あ、いえ、変な意味じゃなくって!」 「わかってるよ」 というか、その言葉を付け足したがために、変な意味みたいに聞こえてしまう。 「センパイと、ふたり、っきり……」 そして小声で繰り返すな。言葉を足すな。 「…………」 「…………」 なんだこの沈黙は。 「……っ」 真白が誰かにメールを打ち出す。 ……と思いきや、メモ帳らしき場所に『間が持たないよ〜。助けて〜』と書いてあるのが見えてしまった。 「……帰るか」 「そ、そうですね!」 二人して立ち上がる。が。 ……決心をいとも簡単に叩き折る音が聞こえてきた。 さらに追い討ちまで。 「…………」 二人して無言のまま椅子に戻る。 と、思いきや、 「…………」 「真白?」 立ったままの真白に疑問の声を投げる。 「帰ります」 「はぁ!?」 「いや、だって雷と雨の音が聞こえただろ!? 帰るなとは言わないけど、今じゃなくていいだろ? もう少し雨脚が弱くなってからでも」 「ここにいるとそのうち何かしでかしちゃいそうですから、ああいえセンパイが嫌いとかでは決してなくて、ただそれなら雨に濡れたほうが100倍マシっていうか」 「ちょ、悲壮な決意を浮かべて何わけのわからないこと口走ってんだ!?」 悪魔にでも憑かれたみたいだ。 「しっかりしろ! 雷が鳴ってるんだぞ雷が! 聞こえただろ雷!?」 「かみなり……?」 「そうだ。雷だ」 「雷こわいです。おへそ取られちゃいます」 「よし」 言葉の意味はわからなくても真白の口調が普通に戻ったことでとりあえず安心する。 「……すみません。その、ちょっと取り乱しちゃったみたいです」 「いいさ。誰にだってそういうことはある」 言いながら『あるか?』と疑問に思いつつも、大切なのは真実ではなく、真白に余計な疑問や感情を抱かせない答えだ。 ……真白に限れば最近多いか。こういうの。 「で」 「…………」 俺から遠めの椅子にちょこんと腰掛けた真白。 とことん嫌われてるな…… と、昔の俺なら思っただろうけど最近はどういうわけだかそうでもない。 どちらかと言うと、異性と意識した距離の取りかたとか警戒されてるとか…… 一見何も変わってなくて果てしなく落ち込みそうだけど、それでもちょっとポジティブな理由だと思える。 それは真白からの接し方が俺の考え方を変えてくれているように思える。 真白が何を望んでいるのかまではわからない。 だから俺は俺の思うように接することにする。 「いくらなんでも離れすぎだろ。傷つくぞ」 コミュニケーションを取って。いや取りたくなって。 それから空気を読んで真白との距離感を埋めていきたい。 「雷……」 「ん?」 「近くに落ちたりしたら、抱きついてしまうかもしれません」 「ほんとに雷苦手なのか?」 「やばいです」 「そんなになのか」 「雷こわくないのに、抱きついてしまうかもしれません」 「それって……」 恥ずかしそうに俯きがちだった真白は、顔をあげてにやっと笑う。 「え?」 「で、どさくさでセンパイに5、6発腹パンを入れてしまうかもしれません」 「なんだその告白!? 俺やっぱり嫌われてるのか!?」 「……恥ずかしいからですよ」 「は?」 「いえ、自分でもわかってるんです。最近どうも情緒不安定気味で」 「そうなのか?」 「笑ったり、泣きたくなったり、喜んだり、あんなこと言うつもりじゃなかったのに〜って後悔したり」 「なんかもうそんなことの連続です」 「大変そうだな」 「誰のせいですか誰の……って全部わたしのせいですよね。ごめんなさい」 ……情緒不安定っていうのはどうも本当みたいだ。 「……大事に使ってくれてるな」 「言われてもよくわかんないですけど」 「ありがとう」 「えっ、いえ、ありがとうだなんて! むしろわざわざこうして見ていただいて、こちらこそありがとうございますってくらいで」 雨が降り止むまでまだ時間がありそうなので俺は真白のグラシュを見ることにした。 「最近の真白の上達ぶりを見てると設定をもう少し上級者向けにしても大丈夫そうだな」 今の真白を見るにこれでも十分操れるだろう。 「そ、そんなこと……」 「自信がないか?」 「いえ、そうじゃなくて上達とか、そんなこと言われることあんまりないですから」 「みさき……」 そういうのはちゃんと言葉にしてくれよ。 「真白はすごく上達してると思う。特にここ数日の伸びは加速度的だ」 練習で習ったことが翌日には出来るようになっている。 どういうわけだかわからないけど、これはこれまでの真白にはできなかった驚異的な力だ。 「センパイ……ちゃんと見ててくれたんですね」 「そりゃコーチだからな」 グラシュを弄りながら、真白の成長性を考えていると色々なカスタムを試したくなってくる。 個性を武器に昇華させて伸ばすか総合力を上げるか……真白にはどうするのが相応しいだろうか。 次第に俺はグラシュの設定変更に没頭していく。 聞こえる真白の声に、上の空で返事をし、浸れば浸るほどに反応できなくなっていく。 「センパイ、センパイ……?」 「センパーイ」 「…………」 「……………………」 「……ん?」 ふとした感触で俺は我に返った。 さっきから足の脛に、こつこつと軽い何かがぶつかっている。 なんだ? 何かと思って確認してみると、正体はごくちいさな振り子のように振られた真白のつま先だった。 「…………」 真白は、本人も無意識なのかこうしていることに気づいていないようだ。 ……ま、いいか。 クセみたいなものかもしれないし特に注意するほどのことでもない。 とりあえず放っておくことにする。 「……ん?」 それからしばらくして、俺は再び気がついた。 相変わらず、俺の脛にこつこつとリズム良く当たっている真白のつま先。 「……じっ」 そしてそれ以上に、俺を観察するように見ている真白の視線に。 「…………」 「…………」 俺が顔をあげると最初から見てなんかいませんとばかりに目を逸らす。 だけど、しばらくするとまた、こつ、こつ、こつというリズムと共に 「……じっ」 真白の視線を感じた。 というか、もう間違いない。どういうつもりなのか真白は俺の顔を見ている。 俺はそれを窓ガラスの反射で確認した。 ノックをして、伺うような上目遣いでグラシュを弄る俺を見ていた。 視線も反射する。ずっとこうして窓ガラスを見ていたら、きっと真白も俺の視線に気づくだろう。 俺に気づかれたと知った真白はどんな顔をするだろう。 顔を赤らめてしらを切るだろうか。趣味が悪いと逆に怒ってくるだろうか。言葉に詰まって、恥ずかしそうに俯……これはないか。 どの真白も見てみたいな、と思いながら俺は視線を落とした。 なんとなくこの、こつ、こつという心地よさを失うのも惜しい気がしてきていた。 コーチとして頼られているときの気持ちに似ている。 遠い雨の音と真白のノックと静かな空気。今ならグラシュを弄って最高の仕事ができるような気がした。 「雨、弱くなってきたみたいだな」 「わざとですよね?」 「さ、そろそろ帰ろう」 「絶対気づいてましたよね?」 「…………」 恨みがましそうな顔の真白がつま先で何かを蹴る仕草をするが、 「はて、何の話だ?」 「もうべつにいいですけどぉ……いいです、ちょっと空見てみます」 心なしか軽く足を引きながら、ちょっと半泣きの真白。 そうか……あれは気づいてほしい合図だったのか…… 心地良い贅沢な時間を堪能していた俺と真白さんとでは感じ方にだいぶ差があったらしい。 ちなみにその時間は実に、俺が真白のグラシュを弄っていた1時間以上にも及ぶ。 おかげでグラシュに関しては最高の仕事ができた。……けど悪いことをした。ごめん真白。 ただ、今度の高藤との合同練習がまたひとつ楽しみになったのは確かだ。 「空はどうだ?」 「降ってるか降ってないかってくらいですね。帰るなら今です」 「ならさっさと帰るか」 「…………」 「ん、どうした? 空になんかあったか?」 「いえ、ただこういう良くない空模様だと一度見てみたいなって思っちゃいますね」 「なにを?」 「前にセンパイが話してくださったオールブルーです」 「……ああ」 それは、俺にとっては不安と挫折の象徴の空。 輪郭が曖昧なブルースクリーン。 だけどいつかの俺の言い方が悪かったのか勘違いした真白は、それをとても綺麗なものだと認識しているらしかった。 「まあ、見つけたら教えるよ」 「ほんとですか!? 絶対、絶対ですよ!? 約束です!」 「ああ」 本音を言えば、二度とお目にかかりたくない光景だ。思い出したくもない。探す気もない。 だから早く忘れたくて、形だけの口約束を交わし、話題も変えてしまう。 「約束といえば、真白とも大事なのがふたつあったよな」 「覚えててくださったんですか」 「さすがに忘れるわけないって」 それは夏の約束の直後に交わしたものだ。 「ひとつはみさき先輩をFC部に、プレイヤーとして呼び戻すこと。そしてもうひとつは」 「真白を、ちゃんとした試合で勝たせること」 「はい、そのとおりです」 「真白を勝たせる方は今度の高藤との合同練習なんて大チャンスだよな」 「もう俺は真白を勝たせるなんておこがましいことを思ってない。真白なら勝てるって信じられる」 「そ、そんな……言い過ぎですよ」 「言い過ぎなもんか。本気でそう思ってる」 「でも練習試合ですから公式戦じゃないですし」 「高藤のスカイウォーカーなら、下手な公式戦よりよっぽどレベルが高いだろ。ま、その辺は真白がどう認識してるかによるけどさ」 「あんまり初心者の方でなければ、まあいいかなと」 「俺は正直、佐藤院さん相手でも試合になると思ってる」 「ええぇぇえええ!!? そんなそんな、まさかまさか!」 「こないだの大会でボコボコにされちゃったばかりなの忘れちゃったんですか!?」 「わたしも練習やってますけど佐藤院さんも必ずされてます! FCってそんなに甘いものじゃないはずです!」 「それを身に染みて理解してきた今の真白だから、まだ地力に差があるのは間違いないけどワンチャンあると思えるんだよ」 「……いや、ワンチャンは俺が必ず作るけど、手繰り寄せる糸が真白のおかげで太くなってる」 「俺がそう思ってるの信じられないか?」 「センパイの仰ることは……その、信じたいです」 「ありがとう」 まっすぐな素直さに、ちょっと胸にくるものがあった。 「まあ本当に佐藤院さんとやることになるかどうかはわからないけど」 しかしそれはあまり考えづらいパターンだ。 今の高藤最強のプレイヤーは佐藤院さんのはずだから、実力順で戦うならうちからは明日香になる。 「違う人と当たったら、それはそれで素直に喜べないものがあるかもしれませんね」 そしてそれをラッキーと思えなくなってきている真白はやっぱり本当のスカイウォーカーになってきているのだろう。 「今日逸れた台風の影響で週末はまず間違いなく快晴だ」 「頑張ろう。頑張ってまずはひとつめの約束を果たそう」 「はいっ」 そして、これだけの強い決意を固めてしまったらコーチとして告白しなければいけないことがあって…… 「だから、その、まあ……」 「はい?」 「……右足、念入りにマッサージしとけよ」 「へ……?」 「…………」 「あーーーっ! やっぱりわたしが突っついてたの気づいてたんですねー!?」 「……いやまあ」 俺は視線を逸らす。 「……てください」 「え?」 「罰としてわたしの右足をマッサージしてください」 「はあっ!?」 「わたしだって恥ずかしいんですからね!」 「でも、もし明日わたしの右足のふくらはぎとかが痙攣を起こしたら、わたしがセンパイは悪くないですって言ったとしても、センパイ、自分を責めずにいられます?」 「それは……自信ないな」 「だったら後悔しないように念入りにお願いします」 「一応聞いておきたいんだけど……復讐入ってるよな?」 「けっこう根深いです」 俺は観念した。 そして…… 「あっ、やあっ……!」 「こら、へんな声あげるなって!」 「わ、わたしのせいじゃありません! センパイの触り方がやさしすぎて……くうんっ」 「いつになったら終わらせてくれるんだよー!?」 その後のマッサージタイムは。 実にグラシュを弄っていた時間の倍以上も掛かったという…… 「ふぁ……」 「ん〜、いい朝ぁ。台風一過って感じの澄み切った空だ」 「こうして見ると空にも表情があるみたい……とか言うと、みさき先輩に呆れた顔されちゃうんだよね」 「いつもよりちょっと早起きするだけでこんな風景か。今日はラジオ体操の小学生より全然早いもんね」 「ん、右足の調子も悪くない。センパイが念入りにマッサージ……」 「うあぁ……」 「って、いけないいけない。思い出して悶えるんじゃないわたし。昨日だって部屋で散々思い出したでしょ」 「深呼吸。すー、はー」 「昨日雨で出来なかった分も頑張んなきゃね。だからって張り切りすぎてケガはしないように。センパイにあそこまでやってもらったんだから」 「あそこまで……」 「って、だめだめ。無限ループ無限ループ。レフェリー止めてー」 「さて、今日もまずは……」 「あっ」 「まったく今日まで何をしていたのでしょう」 夢を見ていた。 そこはゴールデンウィークに一度だけ行ったことのある高藤学園の練習場で。 練習を重ね、意気揚々と高藤に乗り込んだ俺たちは、完膚なきまでに叩きのめされた。 「……君には失望したよ」 夢だとわかったのは、この二人がこんなひどい言葉を他人に浴びせないと知っている……いや信じているからだ。 でも現実は、意外と簡単に手のひらを返す。 世界は理不尽に溢れている。見えるものだけを信じていれば、手痛いしっぺ返しを喰らう。 空を飛ぶ天才は、それを超える才能に叩き落とされる。 ああ、またこの世界だ。 境界の曖昧な青の世界。 不安と挫折と失意と……ネガティブの象徴。 どれだけ成長して強く心を持とうと、努力と虚勢でコーティングしようと。 この青を一度見てしまった心の芯は熟れすぎて腐った果実のようにぐちゃぐちゃのずるずるで。 張り詰めては自壊してひびだらけの表面からぷしっ、ぷしっと汚い汁を噴き出す。 どうしてあのとき逃げ出したんだろう。どうしてあのとき乗り越えなかったんだろう。 おかげで頑張るのがこわいじゃないか。 頑張って頑張って、報われないのがこわいじゃないか。お前の才能はここまでだって言われるのがこわいじゃないか。 だから頑張ることをやめたのに。 なのにずっと。ずっとずっと。ずっとずっとずっと。 苦しいじゃないか…… 今度こそ。 今度こそ俺は乗り越えられるだろうか。 この青を見なくてもすむようになるだろうか。 俺は…… 「うそつき」 「―――っ!?」 目が覚めると自分の部屋だった。 「はぁ……はぁ……っ」 ただ寝ていただけなのに呼吸が荒い。 全身をべっとりと冷たい汗が覆っている。 「だいぶヤバいな、俺は……」 起きているときは意識的に抑えられる不安や恐怖が、睡眠時の無防備なときに必ず現れる。 知らず、次の高藤との試合がかなりの負荷になっているようだ。 いつかまた、俺はあの青を繰り返すのかもしれない。 たとえば次の高藤戦で結果を出せなかったら…… 「うそつき、か」 「キッツイなあ……」 もしあいつにそんなこと言われたら多分本気で立ち直れないぞ俺。 「って、ん……?」 その時になって俺はようやく気づいた。 この音……窓が外からノックされてる? こわっ! 時計を見るとまだ6時前だ。 一応、ノックをしているとはいえ周囲の環境や俺以外の迷惑には配慮した叩き方ではある。 誰かは知らないけど理性はあるみたいだ。 あ、いま連打した。気は短いとこがあるのかもしれない。 のそっとベッドを抜け出す。 この窓と縁があるというと、ひとりだけなんとなく思い浮かぶ顔はあった。 「もしかして……市ノ瀬か?」 窓の向こうに部屋を持つお隣さんの女の子の顔を思い浮かべつつ、 変質者の可能性も考慮してわずかに構えると 俺はカーテンを一気に引いた。 「きゃっ!」 「おわっ!」 そこにいたのは市ノ瀬でも変質者でもなかった。 「ま、真白!? 何してるんだ?」 「しーっ!」 常識も良識も飛行禁止区域も関係なく。 早朝と呼んで差し支えないこの時間、人の部屋の窓の外を飛んでいる真白が口元に人差し指を立てる。 若干の理不尽を感じつつも声量を抑える。 「センパイよかった……起きてくださったんですね。携帯持ってなかったからどうしようかと思って」 「いや、俺はそんなことを聞いてるんじゃなくてな」 「そう、そうなんです! 早くしないと間に合わないかも!」 「待て待て! 話が噛み合ってない」 「いいですから早く行く準備をしてください!」 「行くってどこへ!?」 「説明は向かいながらしますから早くグラシュを!」 「あ〜もう!」 俺は真白の勢いに押され、玄関からグラシュを取ってくる。 部屋の中でグラシュを履くのに一瞬躊躇するが、 「ギリギリですからセンパイ急いで! これ以上遅くなったら間に合わなくなっちゃいます!」 「わかったよ!」 申し訳程度に雑誌を広げてその上でシューズを履くと 「行きますよセンパイ!」 「了解。……FLY!」 俺は真白の後を追って部屋の窓から文字通り飛び出した。 ………… 「…………」 「……あれ? 外から話し声が聞こえてきたと思ったんだけど」 「ふあぁ……んん〜、寝ぼけちゃってたのかな?」 「でも日向さんの部屋のカーテン開いてる……それになんか聞き覚えのある声だったような……」 「なあ真白、こんな朝っぱらからどこに行くんだ?」 「着いたら話しますから今は急いで飛ぶことだけを考えててください」 「さっきは向かいがてら説明するって言ってなかったか?」 俺の疑問の声は、すごい勢いで追い抜く風に紛れたのか真白の耳には届かなかったようだ。まあいい。 それにしても…… 改めて思う。真白は本当に飛ぶのが上手くなった。 正直、今の真白が本気で飛んだら今の俺ではもう追いつけないかもしれない。 そんな真白を頼もしく感じ、同時にいつの間にとも思う。 ここ最近の真白の上達は、練習を見ている俺の把握している枠を明らかに超えていた。 「着きました!」 考えごとをしている間に目的地に到着したらしい。真白にならって空中で静止する。 「着いたって……?」 いつの間にか真白の家のほうまで飛んできていたらしい。 眼下の風景でそれを悟るが、他には何も変わったものはない。 「セーンパイ、そっちじゃありませんよ。こっちですこっち」 「こっちって……」 反射的に真白の声がした方に振り返る。そして。 「うわ……」 思わず声をあげた。 まず目に入ってきたのは真っ白な朝の光だった。 清涼な生まれたての光で、視界が一瞬ホワイトアウトする。 そして次に浮かび上がってきたのは綺麗な一面の青。 台風後の雲ひとつない青空と白い光を散りばめた海の青が地平線なんてないみたいにどこまでも伸びて、境界線を失くしたようにつながっていた。 「どうですか」 「綺麗だな」 心からの感想だった。 「ね、オールブルーです」 「っ」 その言葉で真白の意図がようやくわかった。 真白はこの風景を俺に見せたいと思ってくれたんだ。 真白はオールブルーをとても綺麗なものだと勘違いしてるから。 俺の中に巣食う不安や挫折や失意を知らないから。 「……ごめんなさい」 「え……?」 「違っちゃったみたいですね」 「どうして?」 「センパイ、なんだか、うれしそうじゃないですから」 「…………」 「わたし、この風景を見たときこれかもって思っちゃって、こんなに綺麗な青は今朝がはじめてで」 今朝がはじめて? 「センパイ、喜んでくださるかなって考えたら、もう次の瞬間には身体が動いてて」 「あああ、今になって冷静になってきちゃいました……」 「考えなしでした。ご迷惑をお掛けして、本当にごめんなさ……」 「ありがとう」 「え?」 「不安にさせちゃってごめんな。ちょっとだけ懐かしくなってたんだ。うん、これだよオールブルー。よく見つけてくれた」 想像した。 朝から、宝物を見つけたみたいにこの景色を両手に大事に抱えて俺の元に息せき切らして飛んできてくれた真白の姿を。 それからふと思う。どうして真白はこの景色を見つけられたんだろう。 今朝がはじめて、とさっき真白は言った。 もしかしたら真白はひとりでこんな朝早くから練習をしていたんじゃないか。 単に朝の空中散歩が日課だという線も充分ありえる。だけど最近の真白の上達ぶりから、俺はそう思った。 「綺麗だろ? ううん、俺が昔見たものよりずっとずっと綺麗だ」 それは俺の中に蝕むオールブルーより当然綺麗で。 「あの……本当ですか? わたし、センパイを困らせていませんか?」 塗り替えたいと思った。 俺の青もこうありたいと強く願った。だから。 「本当だよ。お礼しかない」 真白も薄々俺のついている嘘に気づいているのかもしれない。 それでも俺が、一緒に見ているこの青を信じたいと思っているのは伝わってくれたのか、 「……だとしたら、センパイは感動が少ないです」 「表に出にくいだけだよ。そんな拗ねてるみたいに唇尖らすな」 「尖らせてません!」 「俺さ」 「はい?」 「小さい頃、FCやってたんだ」 「っ」 真白がかすかに息を飲んだ気配を感じた。 俺だって考えての発言じゃない。 真白の行動はきっと見返りなんて求めていない無償のものだろう。 ただ、これだけのものをくれた真白に何かを返したいと思った。 何らかの形で応えたいと強く思ったから。 そして、塗り替えたいこの青をいつまでも残すために。 オールブルーを拭い去ろうと思ったから。 「知ってます」 「もてはやされてたもんな。まあ四島の同年代なら知ってるか」 俺がこれから話そうとしているのはゴールなんてない、取り止めのないつまらない話だ。 真白にとっては迷惑かもしれない。 そうと感じたらすぐに打ち切る。元々人には話さない、話せなかった話だ。 俺の心の一番弱くてやわらかい部分で俺だってそうそう傷つきたくはないから。 「それもありますし、部活内でも薄々とそんな空気はあって」 「覚えてますか? あの、こないだの実里の」 「保坂?」 「いたずらというか、入れ知恵というか、ねこの……」 ……ああ。言いづらそうにしている真白にようやくピンときた。 「『にー、にー』」 「っ!」 「『ははっ、ほんとにかわいいなお前は』」 「っ!」 「え、言ったか? 言ってないだろ俺そんなこと!?」 「言ってます! 確実に言ってます! わたしが何度聞き返してると思っ……!」 「聞き返してる?」 「言い間違えただけです! というか、この話は痛み分けということで」 「わかった」 なんだか泥沼に嵌りそうな予感がしたので頷いておく。 「とにかく、あのとき撮られていた動画、それが入ったメモリの中に一緒に入っていたんです」 「何が?」 聞き返しながら、あ、一度はアレを開いたのかと察す。 しかし次の瞬間、そんなことは頭の中から吹き飛んでいた。 「晶也センパイの……現役時代の動画です」 「っ!?」 一瞬動揺する。だけど、 「まあ……話の流れ的にはそうなるか」 保坂が探し出したんだろうな。さすが報道を目指すと豪語するだけのことはある。 「ごめんなさい」 「別に謝ることはないだろ」 「勝手に見ちゃいましたから。センパイはあまり見てほしくないのかなって」 「いいよ。著作権とかあるわけじゃないし」 真白が言いたいのはそういうことではないのはわかっていた。 だけどなぜか心は不思議なくらいに穏やかで 「……ああいや、ネタにするにはまだちょっとしんどいか」 そういうことも虚勢もなく素直に認めることができる。 「まあ、そういうことがあったんだ」 「FCを辞めて、たまに大人びてるとかクールだとかすかしてるなんて言われたけど、心を動かすことが怖かっただけでさ」 「高く飛べば飛んだだけ、落ちたときが辛かったから」 「かっこ悪いな」 「正直、FCをはじめる前の晶也センパイはさっき仰ったみたいに、顔がいいのを鼻にかけてみさき先輩にちょっかいを出す人って思ってましたけど」 「え、そんな風に思ってたの?」 「でも今のセンパイは、とてもいいと思います」 真白はそれだけでは伝わらないと思ったのか言い直す。 「その、『いい』というのは……かっこいいの『いい』です」 「……そんなこと言ってもらえるの久しぶりだな」 あの頃は信じられないくらいモテたし言われてたけど。 「明日香先輩が言ってるじゃないですか」 「明日香のはアレあからさまに贔屓目だろ」 「……贔屓されてる事実を気にした方がいいと思いますけどー」 「何だって?」 「いえいえ、こちらの話で。……ライバルに塩を送るわけにもいきませんし」 「?」 さっきから真白が小声で言っていることが聞こえない。 悪意のある悪口ではなさそうだけど、なんかこう、ちくちくする。 「でも小さいころのセンパイは、なんと言いますか気が強そうで……」 「……素直にクソ生意気なクソ餓鬼だって言っていいぞ」 なにせあの頃の俺は天狗の絶頂期。葵さんの前以外では天上天下唯我独尊を地で行っていた。 黒歴史ってああいうことを言うんだろうな。 「わたしはその頃より今のほうがずっとずっと……」 「いいな、と思います」 「救われるよ」 心からそう思った。 「……わたしは才能のある人の気持ちってわかりませんから」 「ん?」 「動画を見たとき、ちょうどわたしもどうして自分には才能がないんだろうって悩んでた時期で」 「明日香先輩に才能を持つ人の気持ちを聞いてしまいました」 「明日香、なんて言ってた?」 「それは女の子同士の秘密ですけど」 「俄然気になるんだけど」 「でも案外普通なんだってちょっとほっとしました」 「そりゃ同じ人間だから。勝てば嬉しいし負ければ悔しい」 「…………」 真白は何も言わない。 さっきから俺を気遣ってか突っ込んだことだけは聞いてこなかった。 だからだろうか。俺が余計に吐き出さなきゃって思うのは。 真白が聞きたそうなことを、言葉にしてしまう。 「あのとき、どうして俺は悔しかったんだろう」 いや、俺が聞いてもらいたいのか。 話して、真白に何かを言ってもらいたくなってるんだ。 「FCは相手のいるスポーツです。みんな勝つために必死で頑張ってるんです」 「だからこそ余計に勝ちたいし負けたら悔しいんじゃないですか?」 「うん」 ずっとわからなかった。 FCを今日始めたようなやつに圧倒されたのが悔しかったのか、そんなやつに才能を与えた理不尽が悔しかったのか、他に理由があったのか。 でもそんなことはそれこそ理屈じゃない。 ただ、負けたら悔しいんだ。 「でももしかしたら、本当の本当に努力して死力を尽くしてお互いを讃えあえる、尊敬しあえる試合ができたら」 「負けても笑ってピースってできるかもしれません」 「俺は嫌だけどな。そんなやつ」 「どうしてですか! 漫画やゲームだとよくありそうな、ちょっといいシーンじゃないですか!」 「いやー、そんな高尚な精神に俺は至れるかどうか」 「そんなこと言ってもわたしがピースする相手はセンパイですからね! ふたりで試合するんですから」 「やめてくれよそんな負けフラグ。高藤との合同練習を控えたこんな時に」 「言われてみれば確かにそれはそうですね」 真白は少し悩む素振りを見せたあと、 「決めました!」 「なにを?」 「おまじな……ご褒美です!」 「ご褒美?」 「こないだお母さんと話したときに聞いたんです。これができたら○○、みたいな」 「馬の鼻先に吊るす人参みたいなものか」 「そうなるものをセンパイに言います」 「俺っ!?」 「絶対に言います。必ず言います」 「いや、そんなに決意を固めなくても……っていうか、何を?」 「かわいい後輩の言うことくらい聞くものです」 「あんまり高いものは勘弁してくれよ」 「お金なんて必要ありません」 「蓬莱の玉の枝とか言われても無理だからな」 「センパイにとってわたしってそんなイメージですか……」 真白にジト目で見られる。 いや、違うけどどこかでそうあって欲しい気がするだけで。 「たしかに無理難題かもしれませんけど……ダメだったら断ってくださってもいいですし」 泣き出しそうな顔で言われてもな。 「わかった。聞いてから考えるよ」 「いざとなったら、センパイは黙ってうんって頷いてくださればいいですから」 「全然断ってもよさそうじゃないな」 ふう、と息をついて肩をすくめる。 「まあさ、まずは勝って約束を果たせるようにしないとな」 「必ず……はいっ」 それが叶ったら。 この抜けるような青はオールブルーは永遠になるだろう。 もうこわくない。 この青の世界で、俺と 真白と、 真白のお母さんだけがいるこの世界で、強くそう思った。 ………… 「……え?」 「あ、え〜っと、おにぎり食べる? 朝ごはんに握ってきたんだけど」 「お、お母さん!? なんでっ?」 「え、だって真白がいつでも見に来てもいいって言ったんじゃない。朝と夕方の自主練」 「……夕方も?」 「言った? 言った! 言ったけど! っていうか、自主練のことは内緒にしてくれないと!」 「そうなの? あ、日向くんお久しぶり。おひとつどうぞ」 「あっ、えっと……いただきます」 「ちょ、渡さないで!」 「遠慮しないで、ほら、一気にがぶっと」 「あ、はい……はぐっ」 「センパイも食べないで!」 「んぐんぐ……中の具が……うどん?」 「あらそれ大当たり♪」 「なんでよりにもよって今日来たの〜!?」 そして週末。 「よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 「よろしくおねがいします」 「よろしくおねがいします」 「よろしくおねがいします」 「よろしくおねがいします」 「よろしくおねがいします」 「よろしくおねがいします」 「よろしくおねがいします」 予定通り、高藤学園で合同練習が行われることになった。 「さあ、行きますわよ!」 高藤の新部長、佐藤院さんの掛け声で選手たちが群れとなって飛んでいく。 「僕の引退後、彼女……佐藤くんが妙に張り切っていてね」 「みたいですね」 圧倒的なカリスマでチームを牽引した真藤さんに対して佐藤院さんにはアジテーターとしての才覚を感じる。 「どうやら僕が泥を塗ってしまった常勝高藤を建て直そうとしてくれているらしい」 去年まで二年連続この地区大会の覇者だった真藤さんは、今年海凌から現れた選手に……言い方は悪いが完敗した。 それがこの間の大会、最大の番狂わせだったのは明白で、ネットニュースにもなったほどだった。 「泥を塗っただなんてそんな」 「もちろんそうさ。僕が乾沙希くんに負けただけのことだ。高藤が海凌に負けたとは思っていない」 「彼女はきっとそれを証明してくれると僕は確信している」 「頼もしい後進が育っていますね」 「おかげで引退が若干寂しかったくらいだよ」 「そちらはどうだい? まだ1年早いけれど後進は」 「俺らの学年の下ってひとりしかいませんからね」 「有坂くん……だったかな」 「そこまで先のことを真剣に考えたこともないしどうなることやらって感じですけど……そうですね」 「新入部員が入ってきて、それを引っ張る彼女も今はちょっと見てみたいかな」 「お互い憂いは少ないのかな」 「こっちは本当にまだ早い話ですけどね」 「やっぱり僕もあと1年遅く生まれたかったな」 「いきなり思いっきり憂いていませんか?」 「日向くん、佐藤くん、乾くん、倉科くん、鳶沢くん……は引退してしまったが」 「ええまあ」 みさきは今日来ていない。 「ふう……いいなあ」 「いいなあって直球すぎますね」 「素直な気持ちだよ」 お互いに苦笑する。 「本当にお疲れ様でした」 「ありがとう」 それから握手を交わした。 合同練習は昼を回った。 5月と同じようにスタイル別に分かれた練習を行い俺はファイター、オールラウンダーに続き最後にスピーダーを見ていた。 「はいじゃあ次、ハイヨーヨー10本」 しかし久しぶりに多人数相手の練習をしているけど内容がどうしても大味になってしまっている気がする。 個人にアドバイスは飛ばせるけどそれをひとりひとりに実践してもらって目を行き届かせるのは不可能に近い。 10人近くいるマネージャーと分業したとしても真藤さんの仕事はかなり大変だっただろう。 現在うちがほぼマンツーマンで見ているのとは対照的でそれは間違っていなかったと思える。 もちろん高藤も練習の手の内をすべて見せてくれているわけじゃないだろうけど。 「センパイ!」 「ん、どうした真白?」 「大変なことに気づいちゃいました」 「大変なこと?」 「ここだけの話ですが……」 聞き返す俺に真白は体を寄せて、 「わたし、FC上手くなってるかもしれません」 衝撃の内緒話をしてくるように話してくる。 「いや、上手くなってるだろそりゃ」 「はう!」 「?」 「…………」 「……なんで固まってる?」 「いえ、なんかこう、あまり聞きなれない感じの言葉だったので」 聞きなれない……? ああそうか。 ついさっきマンツーマンの少人数練習で間違いないと思ったばかりだけど、弊害はあったということだ。 真白には比較対象がいないんだ。 いや、もっとタチが悪いかもしれない。だって唯一の比較対象は明日香だ。 真白は出来ないことが出来るように、昨日よりも今日という気持ちで頑張っているはずだ。 でもそれの、なんて難しいことか。 「わたしってこう、何をやっても結局はだめかなって部分、ありますし」 さらにみさきとの報われない関係が拍車を掛けて真白の増長に決定的にブレーキをかけているらしい。 「だって真白、今日の約束」 「勝ちます! 絶対勝ちます! ですけど……」 どこかで自分を信じきれていない。 努力を積み重ねた自負はあっても、それを実感できる場があまりに乏しかったから。 だったら真白に自信を与えればいい。 「特に秘密にもしてなかったけど真白は上手くなってるよ」 「もちろんそうありたいとは思っていますが」 「ひいき目なしに見ても高藤の上位に食い込むと思う。……何人かは既に真白をチェックしてる」 「えっ?」 真白がマークされはじめているのは間違いない。 今日、主にデータを取られていたのは明日香だったけど、午前に比べて明らかに真白にも人数が割かれている。 ただ高藤の上位に入るというのは、正直まだちょっと言い過ぎかもしれない。 「今からちょっとお腹が痛いふりとかしたら、今日の試合、少し手加減してもらえるでしょうか」 「なんで急に小物臭くなっちゃうんだよ……」 「だって、今日の試合だけは絶対に勝ちたいですから」 「例のご褒美か」 「はい。覚悟してください」 「もうその受け答えが怖いんだけど……」 なにを要求されるんだろう。生き血とかか? みさきの半径10メートル以内に近づかない、なんてのも有力かもしれない。 「これは俺の本心なんだけど」 「はい?」 「真白はさ、そろそろ報われてもいいと思うんだ」 「…………」 「ここ最近の頑張りもそうだけど何だかんだでFC部の立ち上げからやってきてるんだ」 「明日香やみさきと同じ練習メニューで、それに勝るとも劣らないくらい頑張ってきてるのを俺は見てきた」 「もういい頃だ。もう真白が笑ってもいいと俺は思う」 「センパイ……」 真白は俺を見上げて、 「そのセリフ、なんだかすっごく負けフラグの匂いがするんですけど」 「ゲームやマンガに影響されすぎるのもよくないぞ……」 「それに、センパイに報われてもいい頃だと言われるのはなんだか複雑です」 「……当事者なんですから」 「ああ、そうだったな。俺だって一緒に戦うんだからな」 「…………」 「わたしは全部の力と勇気を振り絞りますから、センパイもできれば全力で応えてください。試合も、そのあともです」 「そのあと?」 「その話はあとでいいとしまして、ですからそれまではこう、練習も抑え目に行こうかと」 「結局三味線を弾くつもりなんだな。……でも、果たしてそううまくいくだろうか」 「どういう意味です?」 「ほれ、あれ」 「…………」 さっきから俺と真白の話を市ノ瀬が少し離れたところから見ていた。 「市ノ瀬さん?」 「特に盗み聞きをしようとか、そういった類の目的ではないようだけど何かを見抜くような目でこっちをじっと見てるだろ」 「どういうことなんでしょう……?」 「ちょっと見ない間にめきっと力をつけた有坂真白の実力を見抜こうとしてるんじゃないか?」 「ま、まさかぁ」 「知らない仲じゃないし本人に直接聞いてみよう。おーい市ノ瀬……んぐっ!?」 「ちょ、ちょっとセンパイ! 突然なに抜かしてくれちゃってるんですか!? 黙ってください、しーっです、しーっ!」 「いや、真白こそいきなり飛び掛ってくることはないような……」 「やっぱり……」 「っ!」 失言したとばかりに自分の口元を抑える市ノ瀬。 「いまっ、今やっぱりって言ってませんでした!?」 「一流は洞察力も一流って言う。もし市ノ瀬がそうなら真白の実力を見抜いたのかもな」 「今のしーっ! で何がわかるんですか」 「俺に飛び掛かってきたときの挙動がアメリカで伝説と呼ばれたFC選手、ザ・レジェンド、グレース・アリスに見えたとか」 「どなたですそれは!?」 「…………」 「っと、市ノ瀬が行っちゃったぞ」 「あ、うう……自分でも気付かない弱点とか見抜かれたんでしょうか?」 「それなら俺も気になるな。個人的に聞いてくるか」 「あの、えっと」 「やっぱり一緒に行くか?」 「……おねがいします」 というわけで、二人して市ノ瀬に何が『やっぱり』だったのかを尋ねに行く。 「それは、あの……私としては非常に言いづらいことなんですけど」 市ノ瀬は真白と、そのコーチである俺を順にちらっ、ちらっと見ると、再び逃げるように視線を逸らしてしまった。 「なんでもいいんだ市ノ瀬」 「どんな小さなことでもいいの。おねがいします」 「というか、そもそもおふたりは勘違いされているのではと思うのですが」 「勘違い……」 それは辛辣な否定の言葉に聞こえた。 問題は、それが練習方法なのかスカイウォーカーの真白という存在についてなのか周囲との認識の差なのか。 「おふたりの表情を見てると、きっとまだ何か違うんだろうなって気がします……」 「お願い、教えて、市ノ瀬さん」 「親しい相手に引導を渡すような真似は辛いとは思うけど、自分たちを見つめ直すために、言ってくれないか市ノ瀬」 「……わかりました。お二人が望まれるならお話しします。ただし辛くなったらいつでも止めてください」 市ノ瀬の口調は重々しい。真白に、よっぽど重大な欠陥でもあったのだろうか? 「ちょっとやそっとの忠告くらいじゃ諦めない。だから大丈夫だ。な、真白?」 「はい、何回、何十回、何百回繰り返しても絶対にやめません!」 「そうだったんですか……全然知らなかったです。いつの間にかおふたりが、そんなことに」 市ノ瀬が俺たちの信頼関係に驚いている。 「でも、だとしたら、ちょっと控えてくださると助かるのですが……」 「ん?」 「何の話?」 俺と真白が会話の齟齬に気づいたときにはもう遅かった。 「朝帰りというのは若いお二人なら仕方のないことかもしれません、いえわかりませんけど、もう少し周囲に気を遣えばトラブルも抑えられるかと……」 「朝帰り?」 「ちょ、ちょっと何の話してるの!?」 「え? ですから3日ほど前の朝、有坂さん、日向さんの部屋から朝帰りされてましたよね? 『しーっ!』とか声を潜めたりして」 「わたしがセンパイの部屋から朝帰りぃ!?」 「…………」 あー、あのオールブルーを見た朝か…… 「でもお二人の絆がそれほどだったなんて。何回、何十回、何百回繰り返しても絶対にやめないだなんてちょっと素敵ですね。うらやましいです」 「そんなことしてません! まだ! 1回もしてませんー!」 「意味が変わるから、まだって言うな……」 よかった……スカイウォーカーとして欠陥のある真白なんていなかったんだ…… 高藤、久奈浜、両校の部員の注目を一身に浴びながらとりあえず俺はそう現実逃避した。 合同練習の最後は、予定通り練習試合が行われることになった。 「今日こそは捻り潰してあげますわ、倉科明日香!」 「負けません! わたしだって強くなってるんですから」 因縁の二人とでも言うか、明日香は佐藤院さんとだ。久奈浜の部員数の都合上、対校試合は2試合のみとなる。 トリがこの明日香対佐藤院さん。 そして1戦目は、 「なんとなくそうじゃないかって気はしてたけど」 「よろしくお願いします」 真白対市ノ瀬のスピーダー対決だ。 「はぁ……」 「市ノ瀬の実力を知ってる分ため息が出るか」 「いえ、勝ちます。勝ってみせます。絶対に」 心だけは折れていないみたいだ。必死に支えているだけかもしれないけど。 「真白は市ノ瀬の実力しか知らないけど俺は市ノ瀬と真白の実力を両方とも知ってる」 「っ」 「決して負けていないよ、真白は」 「センパイを信じます」 「ありがとう」 「第1試合の開始は10分後とします!」 佐藤院さんの号令がかかった。 市ノ瀬と佐藤院さんか…… 「窓果、市ノ瀬と佐藤院さんのスコアデータを」 「もう用意してるよん」 「サンキュ。よし、じゃあブリーフィングを始めよう。明日香と真白、こっちに……」 「あの、ちょっといいですか?」 これからという矢先、高藤の女子生徒に声を掛けられた。 「はいなんでしょう」 「うちの学園の校舎に久奈浜の関係者っていう女子生徒さんがいらっしゃってるみたいなんですけど」 「うちの女子生徒?」 「もしかしてみさきちゃんじゃないでしょうか」 明日香が嬉しそうに言う。 「みさき先輩がきてくれるかな……?」 「みさきじゃないならあの子じゃない? ほら、あの放送部の。ひときわヒロインの星の輝きが薄そうな」 「保坂のことか」 保坂実里ならたしかにゴールデンウィークの合宿のときも取材にきていた。 「それで、その女子生徒がどうかしましたか?」 「私服ですし、生徒手帳など身分証明書も持ってないそうで、警備の方からこのまま確認が取れないようなら、もう警察に通報しようかって話になっているようでして」 「大変じゃないか」 っていうか、何をやってるんだ……みさきか保坂かはわからないけど。 なんかみさきのような気がする。 みさきは一度合宿で来ているので、正面から入るのをめんどくさがってグラシュで忍び込もうとしたのかもしれない。 「急ぐなら日向くんが行った方がいいけど」 確かに窓果と俺ではトップスピードにかなり差がある。 一刻を争うなら俺が行った方がいいが、それでもセコンドには間に合わなくなるだろう。 だけどそうするとこの試合に賭けている真白が…… 「センパイ、行ってください!」 しかしみさきのこととなると真白もそんなことは頭から抜け落ちるのか自分のことは顧みずに促してきた。 「センパイが試合開始に間に合わなかったら明日香先輩にセコンドをやってもらいますから」 「それはもちろんいいですけど……」 「案外、わたしと明日香先輩の相性の方がばっちりかもしれませんよ」 いいのか? と言っている場合でもないな。 「ちょっと私、佐藤院さんのところに行って試合を始めるの遅らせられないか聞いてくるよ」 窓果が走り出そうとする。 「だったら試合の順序を入れ替えるよう……!?」 真白にぐっと腕を引かれた。 「だめです」 「でも出来ることなら……」 「なんて仰るつもりですか」 「センパイがセコンドをしないで、明日香先輩が佐藤院さんに負けたらどうするんですか?」 「それは……」 「っ」 「日向くん?」 「……ごめん。いい。行ってきてくれ。俺も行く」 「約束です。わたしはきっと勝ちますからセンパイは帰ってきてわたしが勝つ瞬間を見届けてください」 真白はこう言っているのに、結論ももう出ているのにどうしてか躊躇ってしまう。 セコンドとして? コーチとして? どうして俺はここまでこの子に肩入れしてる? 「いってらっしゃいです、センパイ」 約束だ。 「なるべく早く戻ってきて真白の勝ちを見届ける」 「FLY!」 俺は高藤学園まで続く空へと飛び出した。 ………… 「真白ちゃん、本当にわたしで大丈夫ですか?」 「心配しないでください。わたし、この日のために結構頑張ってきたんですよ」 「それに、センパイが負けてないって仰ってくださいましたから」 「真白ちゃん……」 「頼りにしてます、明日香先輩」 「はい! 莉佳ちゃんならわたしも対戦したことがありますからきっとお役に立てると思います!」 「みんな〜! 待望のわたしが帰ってきたよ〜! ……って、あれ日向くんは?」 「もう校舎の方へ向かわれました」 「あの、それで試合開始時間の方は……?」 「合同練習終了のタイムリミットが近づいてるんだって。申請書の時間を破ると、今後の申請が通りにくくなるんだって」 「そうなんですか……」 「こちらも融通を利かせたいところでしたが、こればかりは仕方ありません」 「って、佐藤院さんいますしっ」 「うん、ついてきちゃった」 「人を寂しがりの妖怪みたいに仰らないで下さい」 「そちらの都合も考慮したいのですが申し訳ありません。予定通りあと5分で試合を始めなければ間に合いません」 「いえいえそんな!」 「滅相もないです!」 「……センパイ……」 早くも高藤学園が見えてきた。 「みさきか保坂か……」 と、校門前に警備員らしき人といる女の子が目に入る。 「あれか……!」 「あ、日向先輩!」 「虎魚……?」 そこにいたのは、かなり予想外な顔だった。 それとも虎魚は偶然ここに居合わせただけで、うちの女生徒とやらは他に……って、そんなことあるか? 「……ああはい。知り合いで間違いありません」 警備員さんに彼女の素性を問われ、状況を長引かせないため、口裏を合わせるように答える。 ということは、やはり俺を呼び出したのは虎魚で間違いないらしい。 立ち去る警備員さんの背中に頭を下げ、 「どうして虎魚がここにいるんだ」 これはもう怒りやそんなものはなく出し抜けな現状に対する心からの疑問だった。 「それはその……夕べ真白からきたメールの様子がおかしかったから朝から探し回ってて……」 虎魚が小声で何やら言っているが、 「と、こんなとこで悠長に話してる時間はないんだ」 もう真白の試合ははじまっているはずだ。 「とりあえず高藤の練習場所まで戻ろう。話はそっちで聞くから」 「あたしは行けないです。その、真白に怒られるから……」 「真白に? どうして?」 「多分またなんつーか、出しゃばるな〜みたいな感じでさ。……実際出しゃばっちゃったし」 ということは、身分を隠そうとしたのも真白を恐れてか。 「ひとつ聞いていいですか?」 「うん?」 「真白、誰か好きなやつっています?」 「みさきだろ」 考えるまでもなかった。 「あーいや、好きなやつできました? って聞いたほうが正しいか。しかも同じFC部の男で」 「FC部の男は今俺しかいないぞ。あとは引退した部長か」 「日向先輩は真白と鳶沢先輩をめぐるライバルポジションなんでないです」 「なんだそのポジション」 「となると、部長か……?」 「真白が部長を……?」 ないだろ。とは思うけど俺の知らないところで何かあるかもしれない。 「……ってか、もしかしてそんな話をしに来たのか? だったらくだらない。戻るぞ。さすがに迷惑だ」 おそらく虎魚の身勝手な行動にだろう、いらっときて俺は棘のある言葉を放ってしまう。 しかし虎魚は真剣な顔で、 「日向先輩、ちょっと真白に注意を配ってやってくんないかな」 「注意?」 「真白、最近何かに入れ込みすぎというか無理してる感じがするんです」 「あたしは同じ部活で好きなやつが出来たんだって踏んで、今日は後先考えずに真白探し回っちゃって……あ、迷惑掛けてすみませんでした」 「真白を心配してるのか?」 「いやー、その言われ方はなんか身体が痒くなってくる」 「ただ、その、なんつーか」 虎魚はしばらく何を言うか迷ったような素振りを見せたあと、 「よろしくお願いします」 ただ頭を下げてきた。 「……わかったよ」 「本当ですか?」 「真白のコーチだからな」 「ありがとうございます!」 「あたしはどうも肝心なときに側にいられないからなー……」 「うん?」 「ああいえ、こっちの話で。あ、そうだ、今日あたしがここに来たことは内緒にしておいていただけると、その」 「どうして?」 「いや、過保護すぎって怒られたりするんで。ンなわけないのに、自惚れられても困りますし」 「わかった」 過保護とまではいかなくてもよく心配してるなと思いつつ頷いておく。 「じゃあ真白と顔を合わせられないなら悪いけど俺は戻るぞ」 「さっきからやけに急いでません?」 「真白が試合やってんだよ」 「は!? ちょ、セコンドの日向先輩がなにこんなとこでいつまでも油売ってんすか!」 「全部お前が原因だ!」 都合よく原因を忘れたのか非難する虎魚に俺は全力で抗議した。 ともあれ早く戻ろう。戻って真白の勝利の瞬間を見届ける。 約束したんだから。 「約束したんだ……」 「真白ちゃん、莉佳ちゃんが急上昇してきてます!」 「たあっ!」 「――っ!」 「か、間一髪でしたね」 「大丈夫です。まだ余裕あります……!」 「ポイント、3対3の互角です! きっと勢いのついた方が押し切れます!」 「それ、わたしと市ノ瀬さん、まだどちらにも可能性があるってことですよね」 「気持ちで負けないでください!」 「この試合、気持ちだけでは誰にも負けない自信が……っ!?」 「真白ちゃん! 莉佳ちゃんが真上から……!」 「見えてます……くっ!」 「驚きました」 「市ノ瀬さん……! 攻めてる最中に……っ」 「私の知っている有坂さんと全然違います。格段に地力が上がっています」 「悪いけど、勝たせてもらうから……!」 「残念なのは、久奈浜の選手層の薄さですね。圧倒的にスピーダータイプの選手との経験不足が見て取れます」 「動きは目を見張るものがありますが、後の先は取れない。行動選択肢が次善以下の策ばかりです」 「なにを……」 「指示を出しているのは明日香さんですね。動きがオールラウンダーの、いえ明日香さんのものです」 「おそらく日向さんがそこを埋めるつもりだったんでしょうが……」 「センパイ……! そうだ、センパイと……!」 「やああああぁぁぁあああ!」 「くっ!」 「真白ちゃん、ナイス反撃です!」 「市ノ瀬さん、わたしからもひとつ忠告させて」 「はい、なんでしょう?」 「さっきからあなたの言ってるの、全部負けフラグだから! 冥土の土産に教えてやろうだから!」 「そういうのって、指摘しちゃうと効果なくなっちゃいそうなのが大半じゃありません?」 「あ、それある……って、えと、ゲームとか好き?」 「そこそこでしょうか。それなりにしてますよ」 「……わたしたち、もし違う出会い方をしてたら結構いい友達になれたかもね」 「いえ、だからって心中エンドみたいにするのはやめてくださ……ひゃあっ!?」 「今のは惜しかった……」 「え〜っと、いい友達がどうとかではなく勝つ気まんまんみたいですね」 「わたしはね、勝ってやらなきゃいけないことがあるの」 「やらなきゃいけないこと……」 「え〜っと、朝帰りは控えていただけると……」 「たあああああぁぁぁぁぁあああああ!!!」 「ああっ、ごめんなさい! ごめんなさいー!!!」 「……センパイがわたしを信じてくれてる」 「だったら応えなきゃだめでしょーが!」 「はぁっ、はぁ、はぁ……」 ようやく戻ってこれた。 試合は…… 「間に合わなかったか……」 コートには誰も飛んでいない。 時間的に1試合目と2試合目の谷間だろう。 往復で思ったよりも時間が掛かってしまった。 どっちにしろ、間に合ったところで試合途中のセコンドの交代は認められない。 それでも間に合いたかった。間に合って、真白の勝利の瞬間を見届けたかった。 そうだ、そもそも結果は……? 俺は久奈浜のみんながいるところに戻ろうとして、 「真白!」 「あっセンパイ」 どこかに向かおうとする真白とすれ違いそうになった。 「みさき先輩か実里、いました?」 「ああ、あれは色々と手違いでさ。ごめんな、約束守れなくて。真白こそ試合は……?」 「ぁ……」 「っ」 真白の沈んだ表情。 最悪の結果を想像して、ぎゅっと心臓が締めつけられる。 「な〜んちゃって」 「……へ?」 「えへへ」 「ぶいっ! です」 真白が指2本を立てたポーズを取ってみせる。 「そっか……そっかそっかぁ」 俺はほっとして思わずその場で崩れ落ちそうだった。 「センパイ、大げさすぎですよ。たかだか試合結果ひとつで」 「いやだってさ、俺がどれだけ……」 「っと、話はあとです。今は先にコーチのお仕事がありますよ。明日香先輩のところに急いでください」 「そうか、そうだな。真白は?」 「……言わせたいんですか?」 「ああ」 ジト目で察した。トイレか。 「じゃあ詳しい話はまたあとで」 「それでは」 真白と別れて、みんなのところに戻る。 よかった……よかったぁ〜。 これまでの経緯が経緯なので本当に胸を撫で下ろした。 そうなると今度はご褒美の約束が怖いけど……ま、それくらいお安い御用だ。 「晶也さん!」 「ごめん、待たせたな」 「あれ、みさきちゃんか実里ちゃんは? 一緒じゃないんですか?」 「ちょっとした手違いだった。気にしないでいい」 「ほい、佐藤院さんのデータ」 「サンキュ」 窓果から渡された今からの対戦相手、佐藤院さんのデータを再確認する。 「明日香、準備万端か? 真白の勢いに続くぞ!」 「はっ、はい! 真白ちゃん本当に凄かったです。真白ちゃんの分まできっと勝ってみせます!」 「うん、その意気だ」 ……ん? 「え?」 微妙な違和感に、思わず明日香の方に顔を上げる。 「途中から差をつけられたけどほんと粘って、最後まで肉薄したよね。スコアをつけながら手に汗握っちゃったよ」 「今までに見たことないくらい負けたくないって気持ちを感じました。わたしちょっと感動しました!」 「待て……ちょっと待て」 「真白は、勝ったんじゃないのか……?」 まさかと思いながら問いかける。 明日香と窓果は顔を見合わせてから、 「残念ですけど……」 「8対6。善戦したんだけどね」 いや。 いやいやいやおかしいって。 だってさ、真白、さっきぶいって…… 「負けても笑ってピースってできるかもしれません」 「そんなこと言ってもわたしがピースする相手はセンパイですからね! ふたりで試合するんですから」 真白のやつ、わざと誤解させるように言ったな……! 俺にあの場で負けたって悟られないように。 待て。だったら真白は今どこに…… 「っ!」 思わず真白を探しに行こうとして、 「ちょ、日向くん?」 「晶也さん、どこに行かれるんですか?」 ギリギリで、俺は自分がコーチだと思い出す。 「…………」 「〜〜〜〜〜〜!!!」 ぐちゃぐちゃの感情で足元の砂が巻き上がるほど殴りつけたいのを必死に堪えた。 代わりに拳が白くなるほど握り締める。 「窓果、真白の居場所を確認しておいてくれないか」 「え、だってトイレって言ってたよ? あの、今はひとりにさせておいてあげた方がさ……」 「声は掛けなくていい。いるかいないかだけでいい。念の為に頼みたい」 「……ん。そか、わかった、行ってくるね」 「晶也さん……」 ……明日香が心配している。きっと俺は今そんな顔をしているんだ。 「っ!」 俺は両手で思いっきり顔を叩く。 「ま、晶也さんっ!?」 そして両手を拭うときには壊れた表情を不敵な笑顔に作り直した。 「さ、それじゃやるぞ明日香。佐藤院さんと言えど、絶対に勝ってやろうぜ」 「晶也さん……」 「はいっ、絶対に勝ちます!」 「それでは2試合目をはじめますわよ!」 明日香の気合いに、佐藤院さんの試合を告げる声が続いた。 「しっかし佐藤院さんにあれだけの大差をつけるとはね〜」 「いえいえ、まぐれですよ、まぐれ。というより、あの試合に関してはわたしというよりも……」 「あ〜確かに」 無事に合同練習を終えた俺たちは、一度久奈浜に戻ってきて、解散前の総括をしていた。 「もしも今日のMVPを決めるとしたら間違いなく日向晶也の名前が燦然と輝くね」 「決めんでいい。そんなもん」 明日香と佐藤院さんの試合は実力差以上の大差をつけて明日香が勝利するという予想外の試合展開に終わった。 どうやら俺の采配がことごとくハマったらしい。 ……どうやらと言ってしまったのは、試合に集中していたつもりだが、どうしても別のことが頭から離れずによく覚えていなかったりするのだ。 「過去最高の策に次ぐ策。あの試合は間違いなく日向晶也ベストゲームになるね」 「すぐに塗り替えてみせるさ」 「頼もしいです晶也さん!」 ……いや、そうしないとあまりに色々と申し訳ないだけで。 ちなみに俺の頭から離れなかった別のことは、 「明日香先輩のモーションもすっごく勉強になりました! わたしもいつかあんな風に飛びたいです!」 「そんなことないです! 真白ちゃんならもうわたしより上手いです!」 「明日香先輩、それ、今日のわたしの試合結果を知っててのいじわるですか〜?」 「そんなそんなそんなっ」 「ふふ、冗談ですよ。というか、必死に否定される方がリアルに……しょぼん」 「無限ループじゃありませんかこれっ」 「あははっ」 窓果によると、真白は本人の申告通りトイレにいたらしい。そして何も変わらないいつも通りの真白だったと。 話を聞いた真白は俺の杞憂だと笑った。 (……いつも通りじゃないくせにな) 「はぁ〜」 「っと。なんだ? どうした窓果」 「結果が出るってわかりやすくていいな〜。私もさ、たまには誰かに褒められたいな〜(チラッ)」 「窓果、お前はガヤの才能あるよ。天才かもしれない。おそらくガヤ界の歴史は窓果の登場以前と以降で分けられるようになる。紀元前、紀元後みたく」 「すごく持ち上げてもらってるのに全然嬉しくないっ」 「じゃあ、これで解散にするけどみんな気をつけて。よく言う、家に帰るまでがってのを忘れないでくれよ」 「はいっ!」 「やっぱりいつもみたいにフォローがない!」 「それじゃ、解散」 「明日香ちゃ〜ん、飲みに行こう」 「な、何をですかっ」 「飲まなきゃやってられない時もあるのよ〜。どうしたらそんなメインヒロインっぽくなれるの〜」 「えっ、え〜っ!?」 「嫌な蟻地獄だな……」 「それではお先に失礼しま〜す」 そこを真白が逃げるように抜け出す。 「…………」 「ま、晶也さんはどうされます?」 「俺ももう行くよ。窓果の供養は任せた」 「人を地縛霊みたいに〜」 「窓果って俺の中で、30直前になっても嫁に行けてなさそうな女子ランキング第1位なんだ」 「なにそのいらない情報!?」 「じゃ、そういうことで」 「窓果ちゃんはお引き受けします。ですから晶也さんもお願いしますね」 「ふぇ、何の話?」 「……ああ、任せといてくれ」 俺がこれから何をしようとしているのかどうやら明日香にはバレているみたいだ。 「はぁ……はぁ……」 「もう、我慢しないでいいんだよね……」 「我慢しきれなくて、隠れてちょっと泣いちゃったけど、もういいんだよね……」 「いまわたしが泣いても、いなくなっても、もう誰も自分のせいだって思わないよね……」 「〜〜〜っ」 「あは、あは、あははっ……我慢しすぎたからかな、うまく泣けないや」 「わたし、どこまで不器用なんだろ……」 「うくっ、ひっ、ひぃぃぃいいいいい……ん」 「勝てなかった……わたし、約束守れなかったよぉ……」 「信じてくれたのに……報われるって言ってもらえたのに……」 「センパイごめんね……ごめんなさいセンパイ……」 「こんなことなら、もっとセンパイと仲良くしとけばよかった……」 「もっと思い出覚えとけばよかった……」 「でもしょうがないよね……だってあのころはそんなこと思ってなかった……」 「どうして今になってセンパイとの昔のことばっかり思い出してるんだろ……」 「わたし、諦めかけてる……。また報われないから……折れそうになってる」 「やだぁ……いやだよぉ……センパイぃ……」 「生きてるか?」 「そんなの、そんなのもう……」 「ぇ……」 声を掛けると、真白は涙でぐしゃぐしゃになった顔で信じられないものでも見たように呆然と俺を見上げて、 「……っ!」 慌てて顔を拭った。 まったく、こいつは。 「どうして、どうしてセンパイがこんなところにいるんですかっ」 「前に真白が落ち込んでた俺を見つけてくれた時ときっと同じだよ」 「真白を見てたからわかった。真白だって一度やってくれたことじゃないか」 ……なんて。 本当は必死で探したんだよ。 「どうして……」 「え?」 「どうしてわたしを見てくれてたんですか……?」 真白の目が縋るように俺を見上げる。 「どうしてって……」 そんなの簡単だ。 真白が好きだからだよ。 今はじめて形にしたけど素直にそう思っていた。 好きな女の子が泣いていたら側にいたい。 明日香との試合のあと、姿を消して、笑顔で戻ってきた真白。 でも俺は、涙の跡に気づいた。 それから、みんなに気づくなと思ってしまった。……明日香は気づいていて、俺に託してくれた節があるけど。 気持ち悪くて卑怯で姑息で酷い俺がいて、真白の涙を拭うのは俺でありたいと願ってしまった。 最低な俺は、明日香にも窓果にも、真白が一番喜ぶとわかっているみさきにさえこの役を譲りたくなかった。 いつからかなんてわからない。恋愛なんて知らない。 だけどいま真白の隣にいたい気持ち、泣きじゃくっていた彼女を抱きしめたい愛おしい気持ちを。 「好きだからだよ」 きっと恋と呼ぶんだと思う。 「ぇ……?」 「俺は真白が好きなんだ」 真っ直ぐ、はっきりと告白した。 チームのことを考えたら、真白のことを考えたらコーチとして絶対に言っちゃいけないことだったはずなのに。 「びっくりして涙、止まったか?」 「ぁ……な、なんだ、うそ……だったんですか……」 「嘘なもんか。どこまでも本気だよ」 「今日、約束守れなくてごめん。そしてお疲れさま。ひとりでよく頑張ったな」 「……っ」 「試合の結果は残念だったけどさ、真白がまた頑張りたいって言ってくれたら嬉しい」 「……そのとき俺の力を必要としてくれたらきっともっと嬉しい」 「……センパイはきっと血迷われているんです」 「血迷ってるって」 もの凄い言われようだ。 「周りに綺麗な子やかわいい子、友達みたいに気の置ける子がいるのに誰がわざわざ4番目を選びますか?」 えっと、順にみさき、明日香、窓果かな? 「センパイはきっと同情されているだけです。何もできないかわいそうな子が目の前にいたから、やさしいセンパイが手を差し伸べているだけのことです」 「……いくら真白でも俺の好きな子を侮辱するなら本気で怒るぞ」 「いいか、俺の好きな子は好きなことのためにものすごく真っ直ぐ頑張る子だ」 「すぐ近くに同じくらい頑張る素直な子がいて、でも俺が好きな子は不器用で、ちょっと意地っ張りだからなかなかそういうのは目立たなくて」 「よく見てないとそれがわからないからすぐ近くにいるお母さんとかずっと見てるコーチとかしかきっと気付けなくて」 「でもさ、気づいたらすっげーかわいいんだよ。すっげー応援したくなるんだよ」 「好き好きって自分の気持ちを押しつけてるようで本当に肝心なときには周りを気遣って自分の気持ちを隠してそのうえ失敗して隠れて泣いて」 「だから」 「好きだから、泣かないでほしいんだ」 「笑っててほしいんだ……できれば俺の側で」 一通り言い終えて。 俺たちの間には風が吹いていた。 相変わらず、真白は俺に背を向けたままだ。 真白はいまどんな顔をしてるんだろう。 「センパイ……」 「わたし……」 「〜っ」 「わたしも、センパイのことが好きです」 「……ありがとう」 その夜、俺は夢を見た。 なんてことのない、代わり映えのない夢だった。 ただ、隣にずっと真白がいてくれた。 「セーンパイ」 そう言って笑っててくれた。 それだけで俺はなんだかとても幸せで。 朝、目が覚めて。 「……俺があんな夢を見るようになるなんて」 俺は、自分で自分の首を絞めた。 「あ〜昨日はさ、なんていうか残念だったみたいだね」 「はい、残念でした!」 「内容と言動が噛み合ってなくない?」 「あ〜それはぁ……」 「…………」 「何?」 「いえ、まだ諦めたわけではありませんから!」 「よくわかんないけどさ、爛々とこっちを見るのやめてほしいんだけど……」 ………… 「…………」 「コーチ? ……コぉーチぃー?」 「ああいや悪い」 一瞬、真白と目が合って、なんとも言えない初々しい気持ちに包まれてしまった。 しかし練習は練習だ。 真白との関係が変化したからってうつつをぬかして疎かにするわけにはいかない。 俺と真白が付き合ったことでどちらかがスランプを起こしたとか周囲に目が届かなくなったなんて不幸は起こさせない。 やることはきちっとやる。 俺たちFC部の今の目標は秋の大会だ。 「よーし明日香、気合い入れていくぞ!」 「はいコーチ!」 練習後。 「さて、一段落ついたし、そろそろ」 「晶也さん、帰るんですか? でしたら一緒に帰りましょう」 「あっと、真白は……」 「真白ちゃん? 真白ちゃんに何かご用ですか?」 尋ねてくる明日香の顔に一瞬躊躇するが、 「ご用というか、お伺いかな。俺と真白、付き合いはじめたからな」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「せっ、せせせセンパイ? ななななにを言ってくれちゃってるんです?」 「別に。聞かれたから答えただけだ」 部のみんなには嘘をつくよりも正直に話す方が誠実だろう。 「それとも嘘をつくか?」 「それは……そうですけど」 「でも俺と明日香が仲良く帰ったら絶対根に持つだろ」 「必要以上に仲良く帰ったらそれは持ちますけどっ」 「わたしだって事情や状況を察して不条理に怒ったりはしないんですから」 「知ってる。だから聞く。嫌じゃないのか?」 「…………」 「ん?」 「……たとえ校門まででも一緒に帰ってくれなきゃヤです」 「真白はめんどくさかわいいな」 「センパイ……わたし、かわいいで誤魔化されてませんからね。ちゃんとめんどくさいって言われたの根に持ちますからね」 真白の恨み言はスルーするとして、話はついたと顔をあげる。 「ああいやいいよ。話は聞こえなかったけど雰囲気でなんとなくわかるから」 「そうか?」 と、俺は姿勢を正し、 「とはいえ部活には私情は持ち込まないようにするから……」 「無理でしょ」 「え、無理か?」 「だって私が持ち込むもん。フォッフォッフォッこりゃいい弄るネタができたわいって」 「あ、あたしもあたしもー」 「えっと、わたしもちょっと言っちゃうかもです……」 「〜っ!」 「キミたち……」 「というかね、私情を持ち込めないようならそんなの本当の恋愛とは言えないよ!」 「抑えようとしても抑えようとしても溢れ出ちゃう何かが……こう、何かがね? まあそれがどんなものか具体的にはわからないけど」 「いや、ちゃんと棲み分けとかけじめはつけるように努力するよ」 「そんな理性、喰い尽くされちゃいなヨ!」 「窓果は面白がってんだろ。絶対そうなんだろ」 「ともあれさ、なにがどうなってそうなったのかはわからないけど、おめでとっ」 「窓果……」 「窓果先輩……」 「…………」 「あれ? これって罠? 今日ってエイプリルフールだっけ?」 「なんでそうなる……」 「FCはじめた頃にはさ、思いも寄らなかったカップリングだからじゃない?」 「みさき先輩……」 「そっか〜。時代はみさき×真白から真白×晶也か〜」 「いえ、わたしはソフトなのならみさき×真白も十分アリだと思いますっ!」 「いやいや、日向くんが受けってとこ否定してくれないとわたしはこれからそーゆー目で見ちゃいそうなんだけど」 「お前ら頼むから日本語で喋ってくれ。わけがわからん」 「あたしは、まあ正直ここ最近はどうなるもんかな〜って見てたけど」 「晶也」 ちょいちょいっと呼ばれ、小声で囁かれる。 「真白かわいいでしょ」 「みさきはよくアレ相手につれない反応できたよな」 「あたしガチじゃないもん。真白もそうだけどね。あたしが相手にしなかったから自分から深みに入ってって戻れなくなっただけで」 「密かに俺を安心させる情報ありがとう。信じるよ」 「晶也はあたしにもっと感謝することがあるよ」 「何が?」 「ずっと延々あたしがデレなかったおかげであの子、かなーり愛に飢えてるはずだからね」 「何年モノの孤独分、多分ものすっごく甘えてくるよ。センパイちゅきちゅきって」 「みさきは酷いやつだな」 「嬉しいの? 嬉しくないの?」 「そんなことされたら……俺、駄目人間にならないだろうな。自信がないぞ」 「よし。……あたしの分まで大事にしないとブン殴るから」 「それは本当にみさきが言うなだな」 みさきが離れる。 「何の話をされてたんですか?」 ちょっと不安そうに真白が尋ねてきた。 「ん、左半身が俺、右半身がみさきのってことで真白たん条約を締結してきた」 「本当に何の話ですかっ!?」 「あの、わたしからもお祝い、いいですか?」 「ああ、もちろん」 というか、いつの間にこんな趣旨の流れになったんだろう。 「明日香先輩……」 「えっと、なんだかちょっと急展開すぎてびっくりしましたけど」 「あっ、いえ、ごめんなさい! まずはおめでとうございます、ですよね」 「うん……」 あまり考える機会はなかったけれど。 俺は出会った頃、きっとこの倉科明日香に魅かれていた。 彼女の底抜けの素直さや明るさが、気持ちのいい真っ青な空を見上げるみたいにどこまでもどこまでも俺を吸い込んでくれたから。 この子が、俺をもう一度空に連れ出してくれたから―― 「あの、晶也さん……?」 「センパイ……」 「……なんでもない。大丈夫だよ」 言葉が止まった俺。 きゅっと俺の服の裾を握ってくれる真白の手に自分の手を重ねる。 真白が俺の服の裾を握ってくれる。それが今は嬉しくて愛しい。 だからこの淡い何かは、空に返そう。風船から手を離すみたいに。 未練はない。 「ありがとう、明日香」 その言葉には、出会ってから今日までの全部を込めて。 「…………」 真白も隣で、垂れたお下げが地面に着くくらい深々と頭を下げていた。 そんな俺たちに明日香はいつもの笑顔で、 「はいっ」 と答えてくれた。 「はいはい、それじゃあ新郎新婦は退場ということで」 「いや、結婚したわけじゃないからな……」 「あ、ちょっと待って。お尻に缶がじゃらじゃら付いた紐をくくりつけるから」 「結婚式後の車みたいにするな! 逃げよう、真白」 「…………」 真白はもう一度残った3人に頭を下げて。 俺たちは部室を出た。 ………… 「はい、もういいよ明日香ちゃん」 「なにがですか?」 「ベタだけど……我慢しなくってさ」 「我慢ですか? べつに」 「……あれ? あれれ?」 「受け答え、最後の『はいっ』とかなんかおかしくなってたもんねぇ」 「わたし、本当によかったなって思ってるんですよ? それなのに、どうして……?」 「わかるわかる。そういうの『りぽん』でよく見た」 「漫画じゃん」 「違います、わたし『なかよち』派です〜」 「論点はそこじゃない」 「まあさ、明日香ちゃん今日も飲みにいこう」 「今日も!?」 「こないだは炭酸ジュースに炭酸水混ぜたのをグラスに注がれました〜! あれ口が痛いからいやです〜!」 「いいじゃん。思いっきり泣けるよ」 「〜〜〜っ」 「…………」 「あたしはうどんが食べたいな〜」 「あ、そうだ。どっか行くならましろうどんにしない?」 「鬼だ。ただの本物の鬼だ」 「真白、あんま喋らなかったな」 「……センパイの空気の読めなさにはちょっと本気で引きました」 「ごめん。勝手なことをした」 「いえ、わたしもきっと問題を先延ばしにしようとしてただけでしたから」 「センパイが、わたしを一番に考えてくださったのはわかりました。ありがとうございました」 「そこは当然……」 「ただし、タイミングや前準備が万全だったとは思いません。今回は成り行き上仕方ありませんでしたが、次からはちゃんと相談してほしいです。でないと」 「でないと、どうなる?」 真白はちいさくため息をついた。 「明日からちょっと部活に行きづらいです」 「そうか?」 「センパイは男の人ですからいいですけど、わたしは多分根掘り葉掘り聞かれることになります」 「みさきとかまったく他人に興味なさそうだけどな」 「みさき先輩は、他の人に興味はなくてもあっちの方とかは……」 「あっちって……ああ」 察す。 「筒抜けになるか?」 「一応がんばりますけど」 「オープンにするのにも弊害があったか……」 「あっ、あの、でも、そのときはがんばりますから!」 「この話、やめようか真白さん」 「な、なにかわたし失敗しましたか?」 「いや、そうじゃなくてその……」 「意識しちゃうからさ」 「え? あっ……」 ぽんっと爆発したように顔を赤くした真白が俯く。 ちなみにキスの話です。少なくとも俺は。 と、それはさておき。 「……みんな、おめでとうって言ってくれたな」 「感謝感謝ですね」 「だな……」 なぜかちょっとだけ胸が痛んだことは、真白には伝えない。 「…………」 だけど真白は、 「明日香先輩、前に仰ってました」 「え?」 俺の心でも読んだみたいに、 「好きにも色々あるし、尽くしたり感じたり付き合い方はそれぞれで」 それとも自分でも思い当たる節があるみたいに、 「だけど全部を心から好きだって思えるなら好きになれるものがたくさんある人は魅力的ですって」 あるいは両方かもしれないけど、 「でも、みんな好きだからでしょうか。『特別な好き』を伝えるのはちょっと苦しかったです」 俺が思ったことと同じことを口にした。 「…………」 それはふたりの間にあった本当になんでもない何かを洗い流したような気がした。 「どうかされました?」 「真白さ……このあと時間あるか?」 「どうしてです?」 「このままどっか遊びに行こうか?」 「遊びに……って、それってもしかして、で、でででっ、デーーー?」 「最後まで言い切らないから変な驚き声みたいになってるぞ。デートな、デート」 「行きたいっ! 行きたい行きたい行きたいで……っ」 「どうした? やっぱり何かあったか?」 「あ、あ〜、え〜っとですねぇ」 目が泳いでいる。 「そ、そういえばわたし、うちの手伝いが入っちゃってて、夏休み、観光のお客さんとかでちょっと忙しいんです」 「俺にはなんだかその場しのぎの不自然な嘘をついてるように見えるんだけど……忙しいってのは本当なのか?」 「本当なんです!」 「本当なのか……」 俺もまだまだ真白を見る目が足りないらしい。 まあ恥ずかしさや遠慮で誘いを断ってるようにも見えないし、真白が俺を大事に思ってくれているのはわかるので、真白の言うことを信じることにする。 「あの、怒ってます……?」 「なんでさ」 「だって、せっかくセンパイが誘ってくださったのに断っちゃったから……」 「いや、俺ってそんな狭量な男に見えるかな?」 「ほんと、わたしってば、こんなときにどうして……」 「泣きそうになるくらい落ち込むことないから!」 ちょっと……というかかなり本気で慌てる。 「おねがいですからセンパイ、また誘ってくださいね」 「もちろん」 「絶対、絶対ですよ?」 「ああ」 「絶対絶対絶対絶対ですよ?」 「わかったって」 「絶対絶対絶対絶対絶対絶ったっ……!」 「〜っ」 「舌噛んだな」 「ふぇんふぁい……」 「痛いのか?」 「うぇ〜」 「いや、見せなくてもいいよ……」 それはそれでかわいかったけど、ムダにケガをしてほしくはなかった。 「あれ……もうこんな時間か」 世界レベルのスカイウォーカーの試合での動きを一本の線で描き起こして考察する、なんて作業をしていたら数時間ワープしていた。 「さてと、もうちょい頑張るか」 と、なんとなく携帯を手に取って、 「あ、真白からメールが来てる」 こんなとき、彼女ができたんだってものすごく実感する。 真白という女の子がものすごく愛おしくて、あたたかな気持ちで胸をじーんとさせながらメールを確認する。 56分前 差出人:有坂真白 件名:セーンパイ? こんばんは。 もしよろしかったら、お電話してみてもいいですか? 47分前 差出人:有坂真白 件名:ごめんなさい あ、お忙しかったらぜんぜん大丈夫です さっきのメールは全然気になさらないでください 42分前 差出人:有坂真白 件名:確認みたいな あの、このメール、ちゃんとセンパイに届いてますか? お返事だけでもいただけたら嬉しいかなって 39分前 差出人:有坂真白 件名: お返事いつでもいいです 今日はその、寝ないで待ってます 「真白ぉぉぉおおおおおお!!?」 俺は慌てて真白に電話をかける。 じーんとあたたかかったはずの気持ちはいつのまにか全身を覆う冷や汗に変わっていた…… 「いえ全然気になさらないでください。ちょっとベッドの上でちっちゃく三角座りして、携帯が鳴ってくれるのをじーっと待ってただけですから」 「笑えないよ……」 「な〜んちゃって冗談ですってば冗談。いくらなんでもわたし、そこまでセンパイに左右されるほどか弱くないですから。……ぐすっ」 「…………」 一転した明るさも、最後の鼻をすすりあげる音で、真偽のほどはグレーだった。 「ともあれセンパイ」 「ん?」 「こういう関係になって、はじめての電話ですね」 こういう関係になってもなにも真白との電話自体はじめてな気がする。 「真白ってさ」 「なんですか?」 「カレンダーとかスケジュール帳にそういうのびっしり書いていきそうだな」 「え、やだ、どこで見ちゃったんですか?」 どうやら図星だったらしい。 「えっと、あれとあれはパスかけてあるし、これは部屋から動かせないし、あっちはカバンの中で……」 「まさか……複数なのか?」 たった今、唐突に人類が文明ごと滅びたとして。 遠い未来、新たな地球の主となった種族がロストテクノロジーだと真白のスケジュール帳を見つけたらこれほど解明のし甲斐がないものはない。 今のうちに謝ろう。ごめんな、遠い未来の新種族の人。 「もしかして、重いですか?」 「それはもしこの先感じることがあったらおいおい言う」 「よろしくおねがいしますぅ……」 まあ女の子のノリだってわからないでもないし。 「えへ、えへへっ」 「どうした?」 「でもやっぱりこんな時間にセンパイの声が聞けるっていうのはうれしいです」 「そんなもんかな?」 「だってわたしだけがセンパイを独占できる時間ですっ」 「…………」 「あれ? 照れてくれてます?」 「やかましい」 「センパイはぁ〜声もかっこいいですよ?」 「いじってくるなって」 これが電話でよかった。いま俺絶対顔が真っ赤になってるぞ…… このままではマズそうなので反撃の糸口を探す。 俺が真白をいじれるネタ……えっとえっと…… 「『にーにー』」 「にぃ、にぃ!」 真白は俺と付き合いはじめて脳と羞恥心が溶けていた! ヤバいな。もう少しで結婚してくださいって言っちゃうな俺。 「待っててくれ真白……俺はきっといつか!」 「にぃ?」 ふたり揃ってひどいバカップルだった。 ちなみに後になって真白も、 「さ、さすがに今のは頭が沸きすぎましたね……こほん」 我に返って恥ずかしそうだった。 その後もひとしきり他愛のないことを話した。 電話越しだと声だけだからなのか、普段は耳で聴いているだけのものが胸まで響く気がする。 あとは相手に伝えたい気持ちが先走るのか、いつもよりちょっとだけ距離感が近い感じもあった。 「ずっとずーっと話していたいですけれど……」 「そうだな、そろそろだな」 俺も切るのがこんなに名残惜しくなるとは思わなかった。 「センパイ」 「うん?」 「夢でもお会いしたいです」 「え〜っと……努力してみる」 返答に困ったが、この電話が終わったらとりあえず、真白の家の方角に念を送っておこう。 「枕の下に、会いたい人の名前を書いた人型の紙を入れておくといいらしいですよ」 「そうなのか」 それは覚えていたらということで。 「……いつまでもずっとこの時間が続けばいいのに」 「続くよ」 「え?」 「真白が望んでくれるなら俺はいつでも側にいる。……俺だって真白の側にいたいんだから」 「センパイ……」 「っと、もう11時か。じゃあそろそろ」 「うう、なんだか世知辛いです……いつでも側にいるって言ってくれたばっかりなのに」 「キリがなくなるだろ」 「愛が足りないです〜」 「愛って」 「男の人って、終わっちゃうと淡白だというのはこういうことなんでしょうか……?」 「それは多分違うし俺以外の前では口にするなよ」 俺はふうっと肩から力を抜く。 「本当に寂しいならすぐにグラシュで飛んでってやるから」 「…………」 「えへ、えへへっ」 「ど、どうした急に……真白?」 「満たされました。おやすみなさいセンパイ」 「ん。(よくわからないけど)おやすみ」 「…………」 「…………」 「…………」 「えっと、まだ何か……?」 「こういうのは男の人の責任で切ってもらいたいです」 「そうなのか」 よくわからないけど真白にとってはそういうものなのかもしれない。 「じゃ、おやすみ真白」 「おやすみなさいセンパイ」 ……今度こそ通話が終了した。 「ふう……」 ちょっと疲れたけど……ああ、確かに真白の言ったとおり。満たされた気分だ。 「さて、じゃあもうひとふんばり」 今度は選手としての真白のために、引き続き作戦を練ることにしたのだった。 「晶也、楽しいか?」 葵さんの声がする。 すごく遠くから聞こえるようで、でも、とても近くにも思える声で。 「うん……楽しい」 「本当か? なんだか、辛そうに聞こえるぞ」 「そんなことないっ……、飛ぶのはいつだって楽しいよ」 むきになって反論した俺を、葵さんは心配そうな目で見つめる。 「なあ晶也。私は、お前に無理してまで、空を飛んで欲しくないと思ってる」 「…………」 「辛いことがあったんだろ? 言ってくれないかな、私を信じてるなら」 「っ…………葵さん」 泣き出したくなるぐらいに、心の中のぐちゃぐちゃが、いっぱいになってきて。 それが葵さんの一言で、喉まで上がってきて。 自分が爆発してしまいそうな、そんな感情。 でも葵さんは、そんなぐちゃぐちゃで爆発してしまいそうな俺を、相変わらず優しく見つめている。 「言ってごらんよ、晶也」 「お前のバラバラになった気持ち、私で良ければ、受け止めてやるから」 じわっと、目の前の風景が滲んでいく。 そっか、やっとわかった。 あの時俺は、我慢していたんだと。 あふれそうになる感情を、必死で堪えていたんだと――。 「――さん、起きてください」 ……ん? 誰の声だろう。 とても優しげで、それでいて、ちょっと張り詰めたような空気のある声が、耳に届いていた。 「晶也さん」 二度、名前を呼ばれて。 それでやっと、声の主が思い浮かんだ。 「おはようございます、晶也さん」 目の前に広がったのは、満面の笑み。 柔らかくて陽の光のような、暖かな笑顔。 「……ごめん、寝ちゃってたな」 謝りつつ起きると、 「あっ……」 慣れ親しんだ部室の風景が、少し変わっていることに気づく。 「すごくキレイになってる……」 俺がうたた寝をしてる間に、部室はキレイに掃除されていた。 置かれている物は変わっていないが、隅々までホコリが払われ細かいゴミがきちんとまとめて捨てられている。 「あ、当てつけとかじゃないんですよ。ついいつものクセで……すみません」 莉佳が申し訳なさそうに言う。 「いや、むしろこっちが礼を言わなきゃ、だ」 いつもは気がついた人間が適当に掃除しているのだけど、こうやって丁寧に掃除されると、同じ部室でも見違えて見える。 「喜んでもらえたなら、よかったです」 微笑む莉佳の顔を見て、尋ねる。 「普段からずっと、こうなの?」 「そうですね。高藤で練習する時も、最初に来て掃除をするようにしています」 「それに、久奈浜に来てみなさんに教えてもらうんですから、これぐらいはして当然です」 「そっか……ふふっ」 莉佳の持っている生来の生真面目さに、思わず笑ってしまう。 「えっ、私、なにかおかしなこと言いましたか?」 「ううん、何も」 「それならいいんですが……」 「じゃ、残り、片付けちゃいますね」 「ああ、それじゃよろしく」 再び、床を掃き始める莉佳。 その後ろ姿を眺めつつ、俺は先日の出来事を思い出す。 3日前。 夏の大会を終えたあとの、最初のミーティングだった。 「えー、それでは、みんな揃ったところで、ミーティングを開始します」 窓果が開始を宣言して、ホワイトボードに記載していく。 「えーと、今日の議題は、部長の交代と、秋の大会について。そして、莉佳ちゃんの練習参加についての3本です」 「何かの次回予告みたいだ……」 「よ、よろしくお願いします、みなさんっ」 「よろしくお願いしますねっ!」 「市ノ瀬さ……じゃなかった、莉佳さんに色々教えて貰いたいです」 「そ、そんな、こちらこそですっ」 歓迎と驚きの入り交じったような反応。 ちなみに莉佳もほかの部員と同様に名前で呼ぶことになった。 「しかし晶也は次から次にかわいい子探してくるよね〜」 「別に選んでるわけじゃないからな、断っておくけど」 「はい、何の話ですか……?」 「いいか莉佳、みさきの言うことはそんなに気にしなくていいからな」 「こらー、いきなり部員同士の関係を壊しにかかるなー」 「その言葉をそっくりそのまま返してやる!」 ていうか、久奈浜への部活参加は元々は莉佳の方から頼まれたことだしな。 もちろん、部に入ってくれることでこちらは助かることも多いから利害は一致してるんだけど。 「莉佳が練習に参加するのはまず7月中の夏休み期間、その後、秋の大会までは何日かおきに参加する予定だ」 「結構長い期間なんですね〜」 「高藤の次期主力と練習できるのか、とてもいいことだ!」 「ん? 青柳兄はもう引退だろう?」 「そうだよ兄ちゃん、まだ部活に来るつもりだった?」 「ぐぬ……っ、そうだった、オレは引退するんだよな……」 そう、今日の議題のひとつに、部長交代もあったんだった。 「次期部長は……日向くんでいいんだよね?」 「ああ、オレはそう思っていたが日向はどう考えてたんだ?」 「ええ、俺もそう思っていました」 特に断る理由もないし、対外試合をしたり色んな手続きをするにも、その方が便利だ。 「じゃ、次の部長は日向くんってことで。よろしく〜」 「よろしくお願いしまーす!」 特に大きなトラブルもなく、新部長に俺が就任した。 「ああ。とはいえ当面の呼び名については、部長は部長、俺は今まで通りでいいから」 「あれ、そうなんだ?」 「今更呼び方を変えても紛らわしいだろ」 「それもそうだな、オレもまだ部室に来るわけだし」 「部長、引退は……?」 「じゃ、日向くんの呼び方は、コーチとか日向くんのままでいいってことね?」 「ああ」 「じゃあ次は、実は意外と早い秋の大会についてだけど……」 そんなこんなで、ミーティングは無難に終わった。 秋の大会における目標と、これからの練習と。むしろ拍子抜けするぐらいに、すんなりと進んでいった。 「よし、じゃあみんな、ケガには気をつけてな」 全員を気遣う先生の言葉で、解散となった。 「ああ、それと晶也」 先生は俺を呼び止めると、 「この後、時間を作れるか? 少し話があるんだが」 「今日はミーティングだけですから、大丈夫ですけど……?」 「……また何か悪いことした?」 「本当に何かしたかのような口調で言うのはやめろ、みさき」 「ほう……? じゃ、そっちのことについても聞くべきかな?」 「ええ、ぜひ聞いてあげてください♪」 「こいつ!」 「わざわざすまないな」 「いえ……一体、何の用です?」 莉佳が練習に参加する話は既にしてあった。 その時、先生は「そうか」と一言言ったきりで、それ以上その話題について触れる様子はなかった。 だから、呼ばれた理由については、特に思い当たることがなかったのだけど……。 「市ノ瀬莉佳のことだ」 でも、理由はまさにそのことだった。 「彼女のことで、なにか……?」 「いや、晶也がどうして市ノ瀬を教える気になったのか、それが少し引っかかってな」 「本人から頼まれたからですよ。特に、俺が特別な理由を持ってるわけじゃないです」 「そうか? 頼まれたからと言っても、理由が無ければ断ってもよかったんじゃないのか?」 「それは……」 確かにそうだった。 受けた理由は莉佳に頼まれたから。だけどそのお願いに拘束力はまったく無い。 うちの選手を優先させるなら断るのが妥当だったかもしれないのに…… 「理由ありか……」 先生はフッと笑う。 「私は、倉科も鳶沢も、そして有坂にしても、それぞれ面白い部分を持った選手だと思っている」 「俺もそう思います」 「ならば、この中の誰かを鍛えるだろう」 「……そうですね」 「それで、市ノ瀬の頼みを聞いた理由は?」 莉佳の頼みを聞いたからと言って、他の部員たちと差をつけ、特別視するつもりはない。 でも、先生はそんなことを聞きたいんじゃない。 合同練習からの付き合いがあったとはいえ、深い関連のない他校の生徒を呼んだとしたら、何かしらの理由があると考えるのが普通だ。 それが個人的感情からくるものなのか、それとも、もっと他の理由があるのか。 先生は、俺がそうした動機を聞きたいのだと思う。 「――俺は」 「ん?」 「莉佳に、少し近いものを感じたんだと思います」 「お前に近いものをか?」 「はい」 「まったく、タイプは別に見えるがな」 「いえ、そうじゃありません」 確かに他の人からはそう見えるかもしれない。あの頃あんなに近くにいた、先生から見てもだ。 でも、俺には今の莉佳が感じていたような、行き詰まった心境が理解できていた。 それまで上手く行っていたことが、急にできなくなって、壁を感じるようになったこと。 やさしい問題ばかり解いていればよかったのに、急に無理難題に挑まねばならなくなったこと。 そういう、理解が追いつく間もなく追い詰められたことが、俺にだってあったから。 「……って思ったんです」 そんなことを、先生には話した。 「……そうか」 風で煽られた髪を軽く手で押さえ、先生は短く答えた。 「すみません、なんか生意気言って」 「何を言ってる。晶也がちゃんと考えているとわかって良かった」 先生は、優しげな目で俺を見ると、 「これ以上、口を挟むことはない。あとはおまえの好きにやれ」 「はい」 (……さて、これからどうしようか) 正直なところ、俺にはまだ迷いがあった。 莉佳がどういう選手なのか、これからどうしたいのか。 おぼろげに方針らしきものは見えているけれど、果たしてそれが彼女にふさわしいものかは、まだわからない。 「晶也さん、考えごとですか?」 「ん……ああ、なに?」 「掃除、終わりました」 言われて、部室を軽く見渡す。 窓の端に付いていたホコリも、隅にまとめてあった雑誌も、すべてきれいに掃除され、整頓されていた。 「真面目というか生真面目だな、莉佳は」 「性格もありますけど、下心もありですよ」 「というわけで、早速色々と教えてくださいね」 「ああ、今度はこっちがお返しする番だな」 立ち上がりつつ、俺は先生とのやり取りを思い出していた。 俺は、この市ノ瀬莉佳という子に、どういうことを伝えるべきなんだろうか。 この時点ではまだ、答えになるべきものは何もなかった。 「みさきちゃん、ちょっと左右の動きが大きくないですか〜」 「そっかな、いつもと変わんないつもりだけど?」 「いえ、私もちょっと大きいと思います。いつものみさきさんでしたら、もう少し動きが小刻みじゃないかと」 「うひー、莉佳ちゃんよく見てるね〜、あたし自分の動きとかあんま考えてないからなー」 「みなさーん、そんなことより置いてかないでくださーい」 空の上では、4人のスカイウォーカー達がひらひらと飛んでいる。 フィールドフライからスラロームに移行した辺りで、手が空いたのか、互いの動きについて話し始めたようだった。 「はーい、それじゃあと3往復したら、順番に下に降りてきて一旦休憩するよー」 「はーーいっ!!」 「わっ、みさきちゃん声が元気っ」 「ふふ、休憩を待ち望んでいたと」 「まさにそんな感じですね……」 みんな、まるで以前からそうしていたかのように、自然と練習を続けている。 ひとまずは莉佳が馴染めているようで、ホッとした。 そんな練習後。 「さあ莉佳ちゃん、一緒に帰りましょう!」 「はい、お待たせしました明日香さん」 「仲いいね〜、そこ」 「はい、停留所も同じですしその上かわいくて、こんな感じの妹がいたらいいな〜ってとても思います」 「あ、そこまで熱烈に思われてたんですね……」 「なんでしたら明日香お姉ちゃんって呼んでいただいても構わないくらいです!」 明日香が珍しく頼もしそうに言うが、 「えっと……それはごめんなさい」 「振られてしまいましたっ」 「はは、残念だったねぇ〜」 「……み、みさきおねえちゃん……?」 「無理。勘弁してください。いやホントマジ勘弁」 「振られちゃいましたっ」 「…………」 「……はっ」 明日香の視線に気づいた真白。 今、振られた者同士が惹かれ合い、共鳴し、新たなる関係を……! 「真白ちゃんっ」 「明日香先輩っ」 「ひしっと抱き合ってはいるがあぶれた者同士で姉妹になったりはしないんだな……」 新たなる関係は生まれなかった。人間って難しい。 「まああたしはね、兄ちゃんが姉ちゃんとして生まれなかっただけでよかったなって」 窓果は何かしみじみとホラーじみたことを言っていた。 まあ仲は良さそうなのでよかった。 「色々とすまないね、日向くん」 今日の練習には、真藤さんが見学に訪れていた。 「とんでもない。真藤さんこそすみません、わざわざ休日なのに出てきてもらって」 「そりゃ、僕は頼んだ側だからね。市ノ瀬くんの頼みだったとはいえ、僕も一緒に依頼したんだし」 律儀だな、真藤さん。 まあ、これだけ気の回る人の指導があったから高藤は強いし、いい選手も育っていくんだろうけども。 「しかし、意外だったよ」 「何がですか?」 「君がまさか、この件を引き受けてくれるなんてね」 「それは……莉佳は色々とうちに協力してくれてましたし、真藤さんにもお世話になってたから、それで」 「いや、違うね」 「えっ?」 「たとえ義理があろうと、君は立場的に断れる状況だった。他校のコーチが大会前にとるべき行動ではないわけだし」 真藤さんも葵さんのように、そこを突いてくるのか。 「はっきり言ってしまうが、市ノ瀬くんは選手としてそこまで特徴があるわけではない」 「そうですね、それはわかります」 「スピーダーにせよファイターにせよ、彼女は一定のレベルまで器用にこなすし、総合的な能力は高いと思う」 「……が、それ故にどこか能力の突出した相手には弱い。そういう特化型の選手に対抗するには、まだ相当な時間がかかるだろう」 ……さすがに同じ学校の先輩だけあって、よく見ているな。 「同じコーチをするにしても、短期間で考えるならば、倉科くんや鳶沢くんを教える方が面白いはずだ」 「ましてや、彼女たちは同じ学校の生徒だ。普通ならば優先はそちらだろう」 「なのに、君は市ノ瀬くんを受け入れた。良かったら、その理由を聞かせてくれないか?」 「それはですね……」 俺は真藤さんに、葵先生に聞かせたのと同じことを説明した。 真剣な面持ちで聞いていた真藤さんは、俺が話し終わるとおもむろに、 「同情……ではないんだろうね? だとすると、彼女にとっても君にとっても、辛いことになる」 「そうではないです。莉佳には俺と同じような壁にぶつかって欲しくないから、という思いが一番です」 「……そうか、それなら納得だ」 「でも、君は彼女に何を教えていくつもりなのかな? 壁を破れずにいる子に、破る方法を教えるのは至難だと思うけれど」 「その通りです……でも、こうじゃないかな、っていうのは少しずつ考え始めています。大丈夫です」 「わかった、それなら信頼して任せよう」 そこで真藤さんは姿勢を正した。 「堅物だけどかわいいうちの後輩を、よろしくお願いするよ」 「はい……責任重大ですが」 「はーい、じゃあみんな降りてきてー。これから30分休憩だよー」 窓果の合図と共に、皆がわらわらと空から降りてきて、砂浜へと次々に着地してくる。 「ふひー、つっかれたーつかれたぁ……」 みさきは荒っぽく、ざくっと両足を砂地に突っ込むようにして降りてきた。 そのままだるそうにして、スポーツドリンクの置いてある場所にへろへろと歩いて行く。 「みさきちゃんみたいによく動いたら、ご飯がおいしくなりそうですね〜……わ、わわっ」 次いで明日香は、比較的スムーズに降りてきた。 だけど、相変わらずバランスを取るのが苦手らしく、着地後の数歩で転びそうになっていた。 「はー、わたしもみさき先輩や明日香先輩みたいに、すいすい飛べるようになりたいなー」 「って、あわわわっ」 真白は減速に失敗して、そのまま片足を地面にめり込ませていた。 きちんと着地する時もあるのだけど、やはりむらっ気というか、ブレの幅が大きい。 「そっか……まだ切り返しの時に無駄が多いんだ、もっと素早く体勢を戻さないと……」 三者三様の降り方とは対照的に、莉佳のは基本を忠実に守ったキレイなものだった。 ゆっくりと減速、降下位置を確認して両足で着地、膝をクッションに、ショックを吸収して安定させる。 細かい点だけど、みんなにも参考にして欲しい、模範的な着地だ。 (……だけど) そう思いつつも、さっきの掃除の件も含めて、莉佳の真面目な部分が少し気になっていた。 真面目……生真面目……すぎる? ぼんやりとしていた考えが、次第にはっきりと形になっていく。 「やあ、市ノ瀬くん」 「はい? あ、部長、お疲れ様ですっ」 真藤さんの姿を見つけ、駆け寄ってくる莉佳。 「今の部長は佐藤くんだろう? 僕はもうOBだよ」 「その佐藤院先輩が、真藤先輩は名誉部長だからこれまで通り部長と呼ぶようにって……」 「参ったな、そんなこと言ってたのか佐藤くんは……」 苦笑しつつも、別にいやがっている様子はないようだ。 そういやうちだって、部長は部長のままだったし、どこも呼び慣れた名前を変えるのは抵抗があるらしい。 「ところで、ずっと君の飛び方を見ていたけど、いつもながら飛行姿勢がキレイだね」 「ありがとうございますっ」 「だけど、その飛び方に固執していては、ここから先の成長は望みにくいかもしれないね」 「え……?」 ……あ、ひょっとして。 真藤さんもまた、俺と同じ結論に至っているのだろうか。 「教科書通りに美しく飛ぶのはいいけど、FCは飛型点があるわけじゃないしね」 「より上を狙おうと思ったら、今までとは違う形の練習法が必要になるだろう」 「それは……一体どうすれば」 「それを学ぶために、ここに来たんじゃないか」 「そうだろ、日向くん」 「あっ、はい」 「そう……なんですか?」 「うん、色々と考えてはいるけど……」 「楽しみだね、君がどういうことをしてくるかが」 うーん、プレッシャーをかけてくるなあ、真藤さん。 まあもっとも、俺が何を考えているかぐらい、真藤さんぐらいの人ならお見通しなんだろうけど……。 その日の練習はその後、基礎的なもので終わり、簡単な模擬戦を行ったあと、解散となった。 「莉佳は……思った通りの選手だったな」 模擬戦はドッグファイトのみの3分間限定で、みさき、明日香、真白とそれぞれ行った。 流石に経験者だけあって、真白相手には終始優位に戦いを進めていたが、みさき、そして今の明日香には苦戦が続くようだった。 「ちょっとでも変則的なものが混じると、途端に弱くなる……」 それは応用が利かないというよりは、意外性や莉佳自身の予想を越えた動きに対応できない、と言った方が近いだろう。 基本的には効率のいい、最短の手を取ろうとする。 ベッドで横になりながら練習時の動きを思い出し、次に、佐藤院さんの言っていたことを振り返った。 あれは確か、莉佳と3人でイロンモールに行った時だったか……。 「あの真面目な性格と才能が合わされば、我が校のような名門校でも、彼女はレギュラーになれる」 「……でも、そこから先は、真面目さだけでは勝てません」 「それを超える何かを彼女が得るには、もっと柔軟に物事を考える必要があります」 「そうだ、よく見てるなって思ったんだよな、あの時」 佐藤院さんは自分が伝統に縛られていることを理解し、その上で後輩である莉佳に変化を求めていた。 だからこそ、今回の武者修行についても、快く莉佳を送り出してくれたのだと思う。 「……なら、俺がやることは決まってるか」 ベッドから起き上がり、忘れないうちにとスマホでメモを取っておく。 全員の動きと、その後の指示と。そして最後に、キーワードの一言を。 「『楽しい練習を』……と」 翌日。 前日に引き続いて晴れ渡った空の下、まずはいつも通りの基礎練習が行われた。 その後、皆を海岸に集めて、俺は……。 「今日は新しい練習をするぞ」 「パン食い競争的なお腹いっぱいになる練習?」 「俺の人生でパン食い競争を練習に取り入れた競技は聞いたことがない」 「そういう運動会みたいなの面白そうですね〜」 「運動会というのは近いかな」 「そうなんですか?」 「目隠し競争や後ろ向き競争に近い練習だな」 「運動会でもマイナーな種目だね〜」 「あるとこにはあるだろ。じゃ、まず二人一組になってもらうぞ」 「うわ!?」 真白は飛びつくみたいにみさきの腕を取った。 「みさき先輩はいついかなる時もわたしと一緒です」 「相変わらず愛が重いにゃ〜」 「では莉佳ちゃんはわたしと組みましょう」 「あ、はい。よろしくお願いします」 「こちらこそ!」 明日香が真白のマネをして、莉佳の腕を抱きしめた。 「……え、あ、あの……。えっと?」 明日香は戸惑ってる莉佳を見て手を離す。 「ご、ごめんない。わたし、調子にのりましたか?」 「いえ、あの、そうじゃなくて……どう反応したらいいのか、わからなかっただけです、はい。ご、ごめんなさい」 「こちらこそごめんなさい」 「そんなことで謝り合わなくていいよ〜」 「は、はい」 だからそこで生真面目に頷かなくてもいいんだって。 そういうところが、プレイスタイルに出てしまっているのかもしれない。 「片方が選手、片方がセコンドをするから、その組み合わせでヘッドセットを合わせておいて。俺は両方に聞こえるようにしておくから」 「りょーかい。……で、そろそろ何をするのか教えてくれない?」 「今日は逆向きに飛んでもらう」 「逆向き……。というと背面飛行ということですか?」 「普通、背面飛行は水面に背中を向ける飛び方のことを言うだろ? じゃなくて、進行方向に背中を向けた状態で飛ぶんだ」 「進行方向に背中を……ですか」 「そんな状態じゃ真っ直ぐ飛ぶのも難しいんじゃないですか?」 「だからセコンドをしたもう片方が、どう動けばいいのか指示を出すんだ。それに従って飛べばどうにかなるだろ?」 「まー、いつもの基礎練習に比べたら面白そうだけど、それは何のためにやるわけ?」 「そこを自分で考えてFC脳を鍛えるのも練習の一部だ」 「FC脳を鍛える……」 莉佳は釈然としていない空気を漂わせている。 ともすれば悪ふざけにしか見えないこの練習の意義がまだ見出せないのだろう。 ……とりあえず、経験させた方がいいだろうな。 「タッチは禁止。得点はブイのみだ」 「じゃ、最初は莉佳と真白が上がってくれ。明日香とみさきがセコンドでスタートだ」 「了解です」 「わかりました……」 ファーストブイの近くでいつもとは逆に、セカンドブイへと背中を向けた状態で真白と莉佳が並んで浮かんでいた。 「こ、これでいいんでしょうか?」 「それでOKだよ」 「本当にOKなんですか? なんだかとても不安です、凄く不安です!」 「背中がスースーする感じがしますね」 「ですよね? パンツをはき忘れて外に出たらこんな感じですよね?」 「んーと……そう言われても経験がないもので……」 「わ、わたしだってありませんけど、なんとなくですよ、なんとなく!」 「真白、莉佳にセクハラしないように」 「してませんっ! ただそのくらい不安だって話をしてるだけですってば」 「大丈夫、大丈夫。あたしがしっかり指示を出すから」 「百人力です、みさき先輩!」 「莉佳ちゃん」 「あ、はいっ」 「わたし、うまく指示出せるかどうかわからないけど、頑張りますね」 「ありがとうございます、私も頑張ります」 「それじゃ、行くぞ。セット……スタート」 合図と同時に、 「わわわっ?」 「こ、これは……」 一気に混乱の声が上がった。 「お〜い、真白。なにやってるの?」 「大丈夫ですか、莉佳ちゃん」 同時にスタートした二人は、超スロースタートを切ったのだ。 「う、後ろに進むのって難しいです……!」 「試合の流れの中で後ろ向きになるときは、体が自然に動きますけど、最初から後ろなのは……」 「頭でこうしなきゃ、ああしなきゃって考えが追いつかなくなって、余計にどうやったらいいのかわからなくなります」 「でも、考えるのも練習のうちなんですよね?」 「最初からそんなに考えなくてもいいぞ。まずは真っ直ぐ飛べるようになるのを目指すんだ」 みさきが身振り手振りを交えて真白に指示を出す。 「背筋を逸らす感じで、体をグーッと後ろに傾けないと前に進まないんだから、倒れる感じで思い切っていこう!」 ──そんな思いっきりのいい指示を出したらロクなことにならない気がするんだけど。 でもあんまり口出しすると練習にならないしな。 「お、思い切って行きます! ……えい!」 放り出すように真白が体を傾ける。 「……きゃああぁぁああああぁぁぁぁ!」 「ま、真白ちゃん?!」 ぐるん、とバック転を繰り返しながら、上下左右へとランダムに動き回る。 「うわわわっ? うわわわっ?!!!」 「両手両足を伸ばして重心を安定させろ。初歩の初歩だぞ」 両手両足を大の字に伸ばした真白の回転速度が、すぐに緩やかになって、 「は〜〜〜〜〜〜〜」 長いため息をついた。 「みさき、こうなるんだから適当な指示を出すな。こういう時は慎重に指示を出さないとダメだろ」 「は〜〜い」 「莉佳ちゃんは慣れるまで慎重に行きましょう」 「はい」 莉佳がじれったくなるぐらいのスピードで前に進んでいく。 「ちょっと右に寄りすぎました。少し左に行きましょう」 「わかりました。左ですね」 不自然に肩をねじるようにして、ゆっくりと方角を変える。 「違います、違います、左です」 「え? だから左ですよね」 「……明日香、ちゃんと莉佳から見ての右左で言わないと、伝わらないぞ」 「あ……。そんな初歩的なミスをしてすみませんでした!」 「いえ、そんな私の方こそ、気づかなくて……」 逆向きだから選手の右左がいつもと違うのだ。だからこういうミスをしてしまう。 ──これで考える力がつけばいいんだけどな。 「ん?」 背後から視線を感じて振り返る。 「やあ、こんにちは」 いつの間にか真藤さんが来ていた。 俺はヘッドセットのスイッチを切って真藤さんに近づく。 「声をかけてくださればよかったのに」 「指導中に声をかけるほど無作法じゃないよ。……しかし面白い練習をしてるね。さすがだよ」 「そう言ってもらえるような効果が出るといいんですけど……」 莉佳の悲鳴が響いてきた。 「きゃ!」 背中からブイにぶつかってしまった莉佳が反動で、ファーストラインを逆走した。 「んきゃ!」 「わわわ?!」 そして後ろを飛んでいた真白にぶつかる。その反動で再びブイにぶつかって……。 「ごっ、ごめんなさい〜っ……ひゃあっ」 器用にピンボールの玉みたいになっている。 明日香とみさきも必死に指示を出しているけど、うまくいっていないみたいだ。 「逆向きで飛ぶことで体のバランスを強化しよう、ということか?」 「ええ」 「うん、体幹を鍛えればスピードも上がるはずだからね」 「ドッグファイトでバランスを崩した時の立ち直りも早くなればいいと思っているんですけど……」 「うまくいくと思うよ。もっともそれは選手が練習をどう理解するかにもよるんだろうけど」 ──莉佳がどこまでできるかは、俺がどこまで理解させることができるのか、ということか。 全部説明したんじゃ、考える能力を鍛えることができない。 かといってきっかけがなかったら、なかなか前に進まないかもしれないな。 「セコンドを選手にさせているのは試合を客観的に見る癖をつけるためかな?」 「それもありますし、指示を出すことに慣れれば、セコンドの指示を理解するまでの時間が早まると思うんです」 「なるほどね。高藤でも変則攻撃に対応させる練習はしていたけど、こういう形は思いつかなかったな」 褒めて貰った……と思っていいんだろうか。 「結果がうまく出ればいいんですけどね」 真藤さんに認められたのは良かったけど、今の段階ではまだ喜ぶわけにいかない。 手探りでやっていることに変わりはないのだ。 「今日の練習はどうだった?」 「いつもと違って楽しかったー」 「そうですね。楽しかったです」 「……できる人はいいなあ。わたしなんか何回もぐるぐる回って怖かったですよ」 「それが楽しいんじゃない」 「そ、そうですね。それはもう楽しかったような」 「みさきに合わせて意見を変えるな。うまく飛べなくて当たり前なんだから気にするな」 「………」 「莉佳はどう思った?」 「あ、はい。えっと……その、正直よくわかりませんでした」 「うん。最初はそれでいいんだ」 「この練習には、意味があるんですよね?」 「ありますよ! コーチは無意味な練習をさせたりしませんから」 「そ、そうですよね。すみません。ということは、まだ私だけ理解が……」 「いやいや、そんなことないって。あたしも全然わかってないもん。ただ楽しかった〜ってだけでさ」 「そうなんですか?」 「何かこう、普段やらない飛び方でしたから、いざという時に役に立つのかなーってくらいです」 「うん。まあ、こういうのは楽しい部分がないと続かないからな」 「……はい」 納得いってない……というよりもよくわからないという雰囲気で莉佳は頷く。 莉佳が終始混乱気味ではあったが、ひとまず練習は終了したのだった。 「今日は莉佳ちゃん、先に帰っちゃったんですね」 「うん、用事があるとか言ってたな」 練習後のミーティングが終わり、雑談に切り替わるぐらいのタイミングで、莉佳は帰って行った。 「急に練習の内容が変わったから、戸惑ったかな」 まだ気持ちを消化できず、雑談する気にはなれなかったのかもしれない。 そう思うと、ちょっと前もって説明した方が良かったかとも思えた。 「でも、慣れてくればきっと楽しんでもらえるはずです」 「そうだな、明日香もありがとう。色々とフォローしてくれて助かったよ」 「いえいえ、莉佳ちゃんと一緒に飛ぶの、楽しいですし」 「あんなにキレイな飛び方する子と一緒だと、わたしも基本的な動作をがんばらなきゃって思えてきます」 莉佳は応用、明日香は基本。お互いに足らない部分を補っている感がある。 この2人を組み合わせたのは偶然だったけれど、案外、ベストマッチだったのかもしれない。 「明日からもよろしく頼むよ。莉佳も頼りにしてると思うし」 「はい、がんばって莉佳ちゃんが楽しく飛べるよう、お手伝いしますっ」 「やっぱ気にしてんだろうな……」 家に帰り、夜になっても、莉佳からの連絡はまったくなかった。 いつもならば、練習のことなどについて色々と質問がきてもおかしくないはずなのに。 こうしてベッドの上でゴロゴロしていても、一向にコンタクトが来る気配がない。 「あまり悩みすぎてないといいんだけど」 明日まで何も連絡がなかったら、会った時にでもちょっとフォローを入れることにしよう。 「あれ?」 誰か来客らしい。 「晶也〜、今お母さん手が離せないから、ちょっと出てくれないかな〜」 夕ご飯の準備をしているらしく、1階から母さんが声を上げる。 「はーい」 ベッドから起き上がり、階段へ向かった。 階段を下りつつ、首を捻る。 「……あれ?」 なんかこの流れ、前にも。 「あったような、気がするんだけど……?」 「…………」 「…………っ」 ドアを開けると、そこには真剣な表情の少女がひとり立っていた。 (そうだよ、最初に会った時もこんな感じだった) ウシさんのミトンをつけた両手でウシさんの鍋を持ち、俺の方を見上げていたのは、他ならぬ、 市ノ瀬莉佳、本人だった。 (で、これは……角煮……?) 鍋の中には、持っている本人に似つかわしくないものが入っていた。 居酒屋で出てきそうな、かなりこってり風味の豚の角煮。 卵がゴロゴロと入っていてとてもおいしそうだけど、かわいらしい莉佳の姿とはまったくもって不釣り合いだ。 状況を整理するため、考えを巡らせていると、 「……あ、あのっ!」 俺が話しかけるより早く、莉佳は堰を切ったように話し出した。 「あのこれ、私が作った豚の角煮なんですが……」 「すっごくおいしくできたと思うんです……!」 確かに、とてもおいしそうだ。きっと匂いだけでメシが食えるってやつだ、これ。 「鹿乃島でトンコツを作るときに使うのと同じ、黒砂糖と芋焼酎をふんだんに使っています」 「鹿乃島産の黒豚なので風味も豊かで、噛むとじゅわっと脂の旨味が広がって……」 「それに、圧力鍋でしっかり煮込んでますから、煮卵もおいしく味がしみこんでいるはずですっ」 何故か作り方の手順を教わっていた。 ……ひょっとして、今日はこれを作るために早く帰ったのかな? 「だから、その……」 「そのっ、ぜひ食べてくださいっ!」 「あ、ありがとう……」 勢いに押される。 「そ、それでですね」 「……お食事のあと、ちょっと窓のとこでお話ししませんか?」 あ、ひょっとして。 ちょっと時間のかかる話になりそうだから、一品用意して、お礼代わりにってことなのかな。 仮にそうだとしたら、なんと律儀というか……。 「話って、FCのことなんだろ?」 「はいっ……」 「じゃあ断る理由なんか何も無いよ。だって俺、コーチなんだし」 「あ……ありがとうございますっ!」 莉佳はちょっと嬉しそうな顔でお辞儀をすると、 「それでは失礼しますっ」 なんだか嵐のように去っていった。 「…………」 俺の手には、まだ暖かくて湯気の立っている、できたての豚の角煮がしっかりと残っている。 「ま、こんなに良いもの頂いちゃったからには、悩みをきちんと取り除いてあげないとな……」 ホカホカした角煮の香りに包まれながら、場違いなシリアスなことを考えていたのだった。 「……そんなわけで、大変おいしかったです」 「そうですか。それは良かったです」 莉佳特製の豚の角煮は、両親にも、特に酒飲みな父親には大いに受けが良かった。俺ももちろん大いにご飯が進んだ。 人間、甘辛い食べ物があればそれで満足するようにできている。そういう説を唱えてもいいと思えるぐらい旨かった。 「普段食べるのとちょっと味が違う気がしたんだけど、材料が凝ってるんだっけ?」 「それはたぶん、芋焼酎と黒砂糖のせいですね」 「鹿乃島にあるトンコツという料理のレシピを、角煮に応用してみたんですよ」 そういえば言ってたっけ。 「っていうか、莉佳って鹿乃島から来たんだよな」 その頃の話は、そういやあまり聞いたことがない。 「……ええ、まあ」 「それで、お話ししたいことなんですが」 「うん」 あまり好ましい話題ではなかったのか、鹿乃島時代の話はすぐに本題へと置き換えられた。 「今日の練習、もしかしてあれが、真藤部長が仰ってたことなんですか?」 「全部ではないけれど、そうなるな」 「ずっと後ろ向きのままで練習なんて、初めてのことでした」 「そうだろうね」 「意図を、聞かせて頂いてもいいですか?」 「いいよ」 莉佳に、俺の考えていることを話して聞かせた。 莉佳が真面目な性格のおかげで、基本的な動作はそつなくこなせる反面、とっさのアクシデントに弱いという点。 だから、わざと不安定な環境を作ることで、そこでの対応を身体で覚えさせようとしたのだった。 「それに、今日みたいな練習なら、セコンドとの連携も強化できるしな」 「確かに、セコンドの重要性は実感しました」 莉佳は大きくうなずいた。 どうやら、明日香との連携で、伝達させることの大変さと重要性が理解できたらしい。 「……はあ」 莉佳は大きくひとつため息をついた。 「練習、不満があったのか?」 練習後の様子から、やはりそういう点があったのかもと思う。 実際、高藤で普段やっている練習とはまったく違うはずだ。 「いえ、そうじゃないんです。今のため息は、その……」 「ちょっと、情けないなって思っただけです」 「情けない?」 「はい。自分の弱点に気づかされながらも、なかなか受け入れられず、改善できない自分が、です」 「元々、私の性格からくる問題については、佐藤院先輩からも指摘されていました」 「そうだな。夏の大会の時に聞いた気がする」 あの時の会話が元で、今の莉佳への指導に繋がった面もある。 「なのに、私が意地を張ったせいで、その弱点への対応が遅れてしまいました」 「もっと早く、認めて対策していれば良かったなって、思います」 「まあ仕方ないよ、誰だって自分の弱いところは認めたくないものだし」 「で、今はどうなんだ?」 「正直、まだ半信半疑です」 「うん、正直でいい」 そんなすぐに納得できる方がおかしいからな。 こういうところは、むしろ莉佳が素直でありがたいと思う。 「でも、頑張ります」 「そうか、練習を……」 頑張ってくれるか、と言おうとした俺を莉佳の言葉が遮った。 「私、変になろうと思います!」 「………………」 「…………は?」 変、に、なる? 言っている意味がよくわからない。 「型にはまっていると上手く行かないんですから、もっと変になるため、努力しようと思うんです」 「ですよね、晶也さん?」 「いや、あの」 …………これは何というか、その。 俺は、莉佳に『もう少し』頭を柔らかくしてもらおうと、ちょっと変わった練習を試させるつもりだった。 で、彼女なりにその意図も理解して、頑張ることになったのは喜ばしいのだけど……。 (……もっと根本的なところから、ダメな気がする) まさかこんなに真剣な表情を向けられて、『変になる』宣言をされるとは思わなかった。 「私、今なにかおかしいこと言いました……?」 当の本人は、俺が黙っていることについて、なにやら不審げな顔を向けてくる。 と。 「ぷふっ……」 つい。 その表情があまりに真剣だったので、俺も思わず噴き出してしまった。 「晶也……さん?」 怪訝そうに莉佳が名前を呼ぶ。 「ご、ごめんごめん。えっと」 本人は至極真面目に取り組んでいるのに、頭から笑うのはさすがによくない。 自然と練習を楽しんでいく中で、こういう点も覚えていってもらわないと。 「莉佳がこの練習について、真剣に考えてくれているのはとてもいいことだと思う」 「でも、あまりに行き過ぎてしまって、堅苦しくなってしまうようじゃ、意味がないぞ」 「…………っ」 「そういうところも含めて、肩の力を抜くんだ。今の莉佳には難しいかもしれないけど、がんばってみて」 言いつつ、自分の言葉がなんだか。 葵さんぽくなってるなと、思った。 「ごめんなさい。つい肩肘張っちゃうの、良くないですよね」 「どうしても、みんなに申し訳ないから……」 「みんなってのは、高藤の?」 「あっ、それもあるんですけど、その……」 「……なんでもないです」 「……そっか」 何か、話したくない事情があるのかもしれないな。 それが莉佳を生真面目たらしめている……? 真面目で優等生で、自分のことを話さなかったから、わからなかったけど。 莉佳も内面に、色んなことを抱えているのかもしれない。 「あの、晶也さん」 「んっ?」 「ありがとうございます」 「なんで急にお礼なんか……」 「いえ、その……晶也さんがすごく、私のことを考えてくださってるんだって、それで」 「一言、お礼を言いたいなって思ったんです」 「コーチを頼まれたんだ。選手のことを真剣に考えるのは当たり前だよ。それに……」 「……それに?」 「あ、いや、ごめん。なんでもない」 「……?」 つい、自分のことを語り出すところだった。 このタイミングで話しても、莉佳の重荷を増やすだけだ。 『俺のようになって欲しくないから』だなんて。 「なんだかお互いに、言いづらいことがあるみたいですね」 「そんな感じだったな」 「じゃ、いつか聞かせてくださいね。晶也さんのこと」 「莉佳こそ、話してくれよな」 「それは、晶也さんともうちょっと親しくなったら、です」 「豚の角煮以上の親しさがあるのか……」 「そっちはお隣さんポイントもプラスしてるんですよ?」 そんなものも付加されてたのか。 まあ確かに、単なる友達とか先輩を相手に、豚の角煮ってのはかなりポイントが高そうだけど。 「わかった、じゃあ約束」 「はいっ」 練習を終えて制服に着替えたみんなが部室でくつろいでいる。 「今日は涼しいですし紅茶でも入れましょうか?」 「さんせ〜」 「わたしも手伝います。あれ? ……えっと」 真白は窓果の方を向いて、 「紅茶のティーバッグってどこにありましたっけ?」 「ん〜? ……えーっとね、机の下だったかな? そこにないんだったら、もう私にはわからないなー」 「わからないなー、って……。窓果が部室を管理してるんじゃなかったのか?」 「最近、部室のことは莉佳ちゃんに任せてたからね〜」 「怠慢だ、怠慢だー。罰だー、窓果に罰を与えよー」 「マネージャーにはいろいろ仕事があるんだから! 大変なんだから! もう!」 「そういえば莉佳がいると部室はいつもピカピカだもんな」 「今は心なしかくすんで見えるような気がします」 「こらーっ、聞けーっ!」 「別に窓果に文句を言ってるわけじゃないって。莉佳が真面目にやってたんだなーって話」 「んぐぐ……まあでも確かに莉佳ちゃんは真面目だよね。私が気づかないとこもしっかりカバーしてくれたし」 「へー、そうだったんだ」 「そーそー。めんどくてついサボっちゃう窓枠の水拭きとか、やんなくていっかーと思っちゃう机の上の整理とか」 「それは気づいてるのにやらないだけじゃ……」 「莉佳ちゃん、向こうでどうしてるんでしょうね?」 「ね〜。すっかり馴染んでたからいなくなっちゃうと寂しいね」 「だな……」 話は五日前まで遡る。 「こちらで練習させていただくようになって一週間が経ちました」 「高藤の様子も見ておきたいので、また少し向こうで練習しようかと思うんです」 「そんなこと言わずにずっとこっちで練習すればいいと思います」 「えっと、そう言っていただけるのは嬉しいですけど……」 「明日香、莉佳は高藤の選手なんだから、向こうの様子が気になるのは当然だろ」 「あの……いろいろ勉強になりましたから、ご迷惑でなければまたここで、練習させていただきたいのですが……」 「迷惑とかそんな。すっごく助かってます!」 「うん、ぜーんぜん。いつでも来てくれていいよ〜」 「そうです、そうですよ」 「……というわけで、練習の幅が広がるし莉佳が来てくれて感謝してるくらいだ」 「あ、ありがとうございますっ」 「そうだ。一度、高藤に帰ったという設定で、今日からここで練習をしたらどうでしょうか?」 「う、う〜ん、さすがにそれは……」 「だめですか……?」 「はい……私も、明日香さんと練習したいですけど」 「うう〜、じゃあ次の時に約束で!」 「はいっ」 明日香は、すっかり莉佳がお気に入りになっていた。 なのでどうしても別れたくなかったらしい。 「必ず戻ってきますので。その時はよろしくお願いします」 結局、莉佳はペコリと頭を下げてそう言ったのだった。 「莉佳ちゃんいつ戻ってくるんでしょうか?」 「向こうにも都合があるだろうからな……。まあ、待っていれば戻ってくるって」 「いつ戻ってくるのかわからないのってモヤモヤしますね」 「待つ側はそういうものですよ」 真白が大人びた口調で明日香をなぐさめる。 「んじゃ、こっちから押しかけちゃおうか?」 「ん? 押しかけるってどういうことだ?」 「そのまんまの意味よ〜」 「莉佳ちゃんがなかなか戻ってこないから、こっちから高藤の練習に参加しに来ましたってプレッシャーを何気なくかければどうかな?」 「あははは、それ、何気ないかな? こっちの目的がすぐに伝わっちゃいそう」 「それならそれで素直に思いを伝えるってことで」 「あのな、向こうの都合もあるんだぞ。そういうのはあまりよくないと思うけど?」 「センパイ、そんなこと言って本当は莉佳さんに戻ってきて欲しいと思ってるんじゃないですか?」 「……確かに部室は荒れる一方だしな」 「荒れてない! ちゃんと掃除してる!」 「あら……窓果サン、この窓枠と机の上、……どんなおつもりで掃除なさったのかしら?」 「姑が嫁に言うみたいな口調で言うなーっ!」 「ぐぬぬ……マネージャーにも色々とあるのっ」 「練習のレパートリーも増えるし、莉佳がいてくれたらと思う機会は多いけど、でもなあ」 「決まりですね! 莉佳ちゃんに会いに、みんなで高藤に行きましょう!」 「決めるのがちょっと早くないか?」 「行くくらい別にいいんじゃありませんか?」 もうみんな莉佳に会いたくて仕方ないって感じだな。 みさきのこと以外に執着のなさそうな真白でさえ、莉佳については強く望んでいるっぽいのが意外だった。 「まあ……みんながそう言うなら考えてもいいけど」 「だけど、向こうの迷惑になることは避けるように。『戻ってきて〜』とかそういうのを直接言っちゃダメだぞ」 「はーい!」 「わかりましたー」 「いひひ〜。本当は晶也が一番戻ってきて欲しいんじゃないの?」 「……どういう意味だよ」 「あははは、どういう意味でしょうか〜。それは自分で考えてください」 手をひらひらさせて、はぐらかすように笑った。 「んじゃ、高藤のFC部に電話して、いつなら行っていいか聞いてみる。向こうの許可をもらえば迷惑じゃないでしょ?」 「ああ、じゃあ連絡は頼んだ」 「みんなで高藤に行って練習ですね!」 「気分転換にいいし莉佳ちゃんに会えるし、晶也がニヤニヤしちゃうわけだよ」 「ニヤニヤなんかしてない!」 そうした経緯があり、俺たちは二日後に高藤に行くことになったのだった。 日差しが夕方のそれになり、辺りがオレンジ色に染まり始めた。 明日香は窓の外の景色を眺めて、 「夕方になっちゃいましたね」 「ほんとだ〜」 今日の高藤は軽い練習の後に、ミーティングをして解散だそうだ。 ミーティングが終わり次第、莉佳が来ることになっている。 もしかしたら、高藤の部員を何名か交えて合同練習をすることになるかもしれないので、そうなってもいいように今はストレッチをしていた。 「こういうちゃんとした施設だとさ、ストレッチもぐいぐい真面目にやっちゃうよね〜」 ぐいぐいと身体を伸ばしながらみさきが言う。 「普段から真面目にやるようにな」 「おやおや、普段は真面目にやってないように聞こえましたか?」 「聞こえました。ストレッチを真面目にやっておくと関節の稼動範囲が広くなって試合で有利になるんだぞ」 「関節の稼動範囲が広くなると、どうして有利なんです?」 「ドッグファイトとかで激しく飛ぶ時は全身を動かすじゃないですか。その時、関節を広く動かせる方が、より急な角度で方向転換ができたりするんです」 「お〜。まるで晶也センパイが乗り移ったみたいです」 「えへへ。わたしも以前コーチに同じ質問をしましたから。あと、腕が大きく動けばタッチできる範囲も広がるんですよ」 「タッチできる範囲が広がる……な、なんか微妙にエロいですね」 「エロくない。まあそういうわけだから、普段からちゃんとストレッチをしておくようにな」 「はい、はい、と。それにしても高藤のみんな遅いね〜」 「そうだな……確かに」 「いったいどうしたんでしょうか」 「普通に考えればミーティングで遅くなってるとかだろうけどな」 「莉佳ちゃんなら連絡くれるはずだもんね〜」 「わかります、そういうところしっかりしてそうです」 「電話が通じないとなったらたとえ雨の中でも晶也のところに飛んできそうなタイプだよね」 「そんなタイプの人間はいない」 「なんでもないとは思いますけど、来るのが遅いと少し不安になりますね」 「……約束の時間、間違えて伝えたかな?」 「おい」 「大丈夫、大丈夫。ちゃんと伝えた……はず」 「大丈夫かな〜」 「大丈夫だよ! お掃除はサボるけどその他はおおむね優秀なんだよわたしは〜!」 「ついにサボりを認めたか……」 「ん? ……莉佳からだ」 「ほら大丈夫だった!」 「これから行きますよって連絡でしょうか?」 「多分、な」 携帯を耳に当てる。 「もしも――」 話しかけようとした俺の声を、莉佳の声がかき消した。 「晶也さん!」 ──え? 莉佳の声から強い緊張が感じられた。 「どうした? 何があった?」 「……?」 「……?」 「……ん?」 「……?」 「……?」 声質の変化に気づいたみんなが俺を見つめる。 「た、大変なんです! すぐに海岸まで来てください! お願いします!」 「え? お、おい? 何があったんだ?」 通話が切れた。俺の声は多分、届かなかったと思う。 「莉佳ちゃん、どうかしたんですか?」 「大変なことが起こったからすぐに海岸に来てくれって。それだけで電話が切れてしまった」 「た、大変なことですか?」 「それっていったい?」 「い、急いで海岸に行かないと!」 「待て、ちょっと落ち着け」 「そんな電話があったのに落ち着けるわけないじゃないっ」 「莉佳が動揺して伝えられなかっただけで、誰かが練習中に怪我したのかもしれないだろ?」 「そ、そっか……」 「窓果、応急手当の準備はできてるか?」 「もちろん! とは言ってもテーピングの他は、絆創膏とコールドスプレーくらいしか持ってないけど」 「よし。じゃ、みんなで海岸に行こう」 日が向こうへ落ちかけている中、俺たちは海岸へ向かって走る。 「莉佳ちゃん……大丈夫でしょうか?」 「とにかく行ってみないことには、な」 あの電話の様子からすると、莉佳というより、他の部員に何かあったように思えた。 あんなに慌てた様子の莉佳はそう見ないし、どうしても不安が先に立ってしまう。 (……今は考えても仕方ない、急ごう) そして、俺たちは海岸へと着いた。 「え?!」 「え?!」 「え?!」 「え?!」 「え?!」 「え?!」 「み、みなさん大丈夫ですか?!」 「どうしたんだ……」 高藤の選手がひとり、ふたり、三人……砂浜に横たわっていた。 具合が悪そうに倒れているだけで、今すぐ、命に別状が、という状況ではないみたいだけど……。 「まだ何が起こったかわかんないんだから、安易にさわっちゃダメだよ。揺らしたりしたら、症状が悪化するかもしれないんだから」 「窓果の言うとおりだ、触れちゃダメだぞ」 言ったところで、倒れていた選手のひとりが声を上げた。 「うっ……うううっ」 「あ、佐藤院さん! だ、大丈夫ですか?!」 明日香が佐藤院さんに駆け寄る。 「これってどういう……え?」 突然、真白が凍ったように固まって絶句した。 一瞬遅れて、みんなも気づいた気配が伝わってくる。 真白の視線の先に何かがいた。 誰かが、いた。 雨雲で薄暗い風景の中に女の子が立っていた。 長い手。長い足。長い髪。長い胴体。すべてが長い印象の女の子がこちらを向いて立っていた。 俺たちを除いて、立っているのは彼女だけだ。 上半身が、がくん、と折れるように動かしてから、不気味な軟体動物のように体をくねらせる。 腰関節の稼動範囲が広い。 蛇のように腰を、ぬるり、と回して俺たちに振り返る。 「うっ……」 長い髪の間から、目が見えた。 好戦的な目だ。しかも、ただ好戦的な目ではない。 対戦競技をしていれば、そういう目はよく見る。みんなだって試合前にそういう目になることがある。 彼女の目はそういうレベルではない。肉食獣のような殺気といえばいいのだろうか? そういったものに溢れていた。 「……っ」 威圧するように口端から鋭く息を吐いた。 恐怖のようなものを感じる。足の裏の感触を意識していないと、引っ張られそうな気がする。 「……い、いったいこれはどういう状況なんですか? 何か知ってるんですよね?」 「……フフフッ」 微かな笑い声が、鼓膜を揺らす。地の底から這い上がってくるような不気味な笑い声だった。 恐さを払うために俺は強い口調で、 「これはどういう状況なのかって聞いてるんです!!」 「………」 彼女は俺たちに向かって一歩、歩いた。 「っ?」 「っ?」 「っ?」 「っ?」 「っ?」 「っ?」 その行為だけで全員が少し仰け反り、半歩後ずさる。 見えない何かが彼女から放射されているような気がした。 「……終わりだ」 「え?」 今のが起動キーだったらしく、女の子のグラシュが起動した。 「………」 そのまま何も言わずに、海の方へ向かって飛んでいってしまった。 ……心臓がバクバクと強く動いている。 「い、今のは誰ですか?」 「どこかで見たことあるような気がするけど……」 それがどこなのか思い出せない。 「追っかけなくていいのかな? た、逮捕とか?」 まだ彼女が何かをしたとは決まっていない。だけどあの状況は…… 「いや、今は介抱する方が先だ。たぶん脳震盪だから体を揺らしたりしないようにして、意識があるのかどうか確認するんだ」 「わかりました」 もしかしたら…… 「佐藤院さん、大丈夫ですか?」 「う、うう……。あなたは倉科明日香ですわね。他の部員は……」 みんな、それぞれの倒れている部員に話しかけて、受け答えしている。 「大丈夫です。とりあえず意識はあるみたいですよ。今は落ち着くまでここにいましょう」 足音がして顔を上げる。 「いったい何があったんだい?」 驚きに顔を歪める真藤さんの後ろに、真っ青な顔をした莉佳がいた。 「……わかりません。でも試合をしていた人が次々と倒れてしまって……」 莉佳がかすかに震えている。 「なんですかこれ……なんなんですか……?」 「莉佳、落ち着いて。こういう時は落ち着かないとロクなことにならない」 「日向くんの言うとおりだ」 「は、はい」 莉佳はギクシャクとした仕草でうなずいた。 「よし、じゃあ動かせる人から保健室に運ぶぞ。みんな手伝ってくれ」 「了解」 「わかりましたっ」 「佐藤院さんも保健室へ行きましょう」 「わたくしは大丈夫ですわ……それより他の子たちを」 責任者らしく皆を気遣っている。 「しかし、何があったらこんなことに……」 状況は明らかに異常だった。 一段落したら、事情を聞いていくしかない。 脳震盪を起こした部員たちを運び、その場で久奈浜のみんなには解散して帰ってもらった。 高藤で起きたアクシデントで、他校の人間が大勢いるのもかえって迷惑になりかねないからだ。 結局、ここに残ったのは俺と真藤さんと莉佳と……。軽い症状で済んだ佐藤院さん、ということになった。 他の生徒も比較的軽い症状で済んだのだが、佐藤院さんよりは重かったため、保健室で横になっている。 「病院に行かなくてもいいんですか?」 「頭痛も吐き気もありませんから平気ですわ。病院に行くために動き回るより、こうやって安静にしていた方がいいと思いますし」 そこで佐藤院さんは莉佳を安心させるように微笑んで、 「もちろん、念のため明日の朝には行って参りますわ」 「さて、何があったのか話してもらえるかな」 佐藤院さんは俺を見て、 「日向晶也はあの場にいたスカイウォーカーを見ましたか?」 「はい。見ました。手足の長い人ですよね」 「それなら誰かわかりますわよね?」 「え? お二人はあの人と面識があるんですか?」 「……いや、それが、その……どこかで見た気はするんだけど」 佐藤院さんは呆れたように息を吐いて、 「夏の大会で一緒に見たではありませんか。堂ヶ浦工業の──」 夏の大会の光景を思い出す。 ──試合開始直後に反則負けになっていた選手。 「……思い出した、アレだ。ファーストラインでの接触プレイを繰り返して、反則負けになった選手」 「そうですわ。名前は確か、黒渕という選手ですわ」 「──黒渕さん、ですか」 「で、その黒渕選手は何をしたんだい?」 「全体練習が終わってミーティングをし、解散して大半の部員は家に帰ったあとでした」 「わたくしをふくめて4人の部員が自主トレで残って海岸にいました。これから武道場に戻って、久奈浜のみなさんとお会いしましょうと思っていた矢先……」 「その黒渕さんが現れたんです」 「彼女は練習試合をしてくれませんか? と言って来ましたわ」 「練習試合……か」 「もう練習は切り上げるつもりでしたから断ったのですけど……」 「最初、黒渕さんは低姿勢だったんです。高藤と試合をしてみたいんです、勉強させてください。そう言って、何度も頭を下げるので、林田さんが……」 林田さんは2年生の男子だ。 「そこまで言うなら俺が相手します、と林田さんが言って。佐藤院先輩もそれを止めにくい雰囲気でした」 「今、思えば許可を出さなければよかったのですけど……」 練習に参加させてくださいと、低姿勢でお願いしてくるのを断るのはなかなか難しいだろう。 しかも、練習試合をしてもいいです、と言う部員まで現れたら、これは余程のことがなければ許可してしまうのが普通だ。 「試合開始してセカンドブイを黒渕霞が取った後、セカンドラインで激しいドッグファイトになりました。それが始まってすぐに林田さんの様子が変になったんです」 「ドッグファイトの最中に?」 「はい。それで黒渕さんが、様子が変です、と言って……。脳震盪を起こしているみたいだって」 「ですので、緊急用の機材を使って林田さんを砂浜に下ろしました」 「そんなことがあったのにどうして試合を続けたんだい?」 「偶然の事故だと思いましたの。黒渕霞も申し訳なさそうにあやまっていましたし……」 「黒渕さんに気の毒なことをしてしまった、という空気でした。脳震盪は軽いようでしたから私と佐藤院先輩が介抱している間に五十嵐さんが代わりに試合をする、ということになって……」 五十嵐さんは2年の女子だ。以前の練習でみさきたちの練習相手になったこともある。 「……ですけど、すぐに同じことが起こって……」 「同じこと……」 「脳震盪を起こしたのですわ」 「………っ」 思わず息を飲む。 「その時、私と佐藤院先輩を見下ろしていた黒渕さんの唇が、不自然なくらい吊り上っていて……」 「わたくし達を見下ろして笑っていましたわ。……嘲笑ですわね」 「……嘲笑ですか」 「そこでようやく脳震盪を狙ってやったのだとわかったのですわ」 「佐藤院さんはそんな状況なのに試合を……?」 「ええ、恥ずかしながら挑発に乗ってしまいました」 「そこまで冷静さを欠くのは変じゃないかな? 普段ならそんな相手と試合はしないだろう」 「今はそう思いますわ」 「その時はそう思えなかった?」 「はい。なんと言ったらよいのでしょうかその、黒渕霞の雰囲気が……」 「私も黒渕さんから変な雰囲気を感じました」 ──雰囲気、か。 「もう少し詳しく説明できる?」 「……見ているだけで足元が危うくなるような、引きずり込まれるような、そういう恐い雰囲気です」 「佐藤くんの感想は?」 「同じですわ。そこに行ってはいけないとわかっているのに……。ポジティブな闘争心ではなくて、ネガティブな闘争心を刺激されると言えばいいのかしら」 ──ネガティブな闘争心を刺激される、か。 「そういう選手っていますからね」 「確かにね」 数は少ない。天性のものでマネが難しいから、もしくは、そもそも学ぼうとする選手が少ないからかはわからないけど。 罵声を浴びせる、挑発的な言葉を浴びせる、そういった単純な行為だけでなく、些細な仕草、目つき、表情、手の位置……。 仕草の全てで挑発してくる選手がいるのだ。 脳裏に砂浜に立っていた黒渕の姿が思い浮かぶ。 あれはそういう選手が持つ独自の雰囲気だ。 気づいた時には向こうのペースになっている。引きずり込まれている。 対戦相手は無闇に攻撃を繰り返すことで、あっという間にペースを乱し、スタミナも失ってしまう。相手の手のひらの上で踊っているのだ。 ──そして佐藤院さんは踊らされた。 「佐藤院先輩も同じようになってしまっていて、私には試合を止められそうになくて……、晶也さんに電話をして、校舎に真藤部長を呼びに行ったんです」 「それはいい判断だったと思うよ」 「佐藤院さんも自分を責めないで下さい。向こうはそういうのに馴れている相手だったんです。引き込まれてしまうのが普通なんですよ」 「いえ、責めますわ。全ての面において、黒渕霞にわたくしが負けてしまったということになりますから」 相変わらず自分に厳しいな。 「それでどうして脳震盪を起こしてしまったんだい?」 「それがよくわからないのですわ。最初の二人も、もつれたと思ったらそうなっていましたし」 「……もつれたら、ですか」 もつれただけで普通は脳震盪を起こしたりしない。特殊なもつれ方……。 悪質な反則を意図的にしない限りそうはならないはず。 いや、それでも難しいはずだ。 黒渕だけが持っているコツみたいなものがあるんだろうか? 「ともかく、今日のことは堂ヶ浦に抗議しておこう。絶対に野放しにしていいことじゃないからね」 「……黒渕さんはどうしてうちを狙ったんでしょうか?」 「……僕は心当たりがないな」 「わたくしにもありませんわ」 「それは黒渕に聞いてみるしかないだろうな」 「……そうですよね」 莉佳はうつむいて、じっと自分のつま先を見つめていた。 「……もしかして、……でも……」 帰りは莉佳と一緒だった。 さすがに今日のことはショックだったようで、莉佳の言葉数はいつもよりずっと少なかった。 「気にするなって言っても無理だろうけど……」 「………」 「それでも気にしない方がいいぞ。堂ヶ浦に連絡が行けば、最低でも黒渕の対外試合は禁止になるだろうしさ」 「そう……ですよね」 「そうだよ」 「…………」 「……?」 莉佳は唐突に無言で立ち止まった。 「とっても……恐いんです」 「気持ちはわかるけど……」 「そういうことじゃないんです」 「そういうことじゃないって……どういう意味だ?」 「……黒渕さんが見下ろしていたのは佐藤院先輩じゃなくて、私だったと思うんです」 「そうだったのか?」 「そうだったと思います。ハッキリとはわかりませんけど……。私を狙っていたんだと思います。引きずり込まれそうで……。もし佐藤院先輩がかばってくれなかったら……」 「佐藤院さんが莉佳の代わりに?」 「佐藤院先輩は違うと言うと思いますけど、きっとそうだと思います。私が引きずり込まれそうになってるのを見て……それで……」 「もしそうだったとしても気にするな。悪いのは全部、黒渕なんだからな」 「……でも私が強ければ」 「格闘技じゃないんだ。脳震盪を起こさせるから強いってわけじゃないぞ。むしろ、そういうことするのは弱い選手だ」 「いえ、そういうことではくて……。私の心が強ければ……ということです」 「………」 「わたしの心が強ければ、飲み込まれたりせずにキッパリと拒絶できたんじゃないかと思うんです」 「そうかもしれないけど、そこで後悔してもしょうがないよ」 「わ、私……恐いんです」 莉佳の肩がかすかに震えていた。 「次、黒渕さんに会ったら……。自分がどういう行動を取るのかわからなくて……。黒渕さんに滅茶苦茶にされちゃうんじゃないかって……」 莉佳の震えが大きくなっていく。 「大丈夫だ!」 「え?」 俺は莉佳の肩を抱きしめていた。 「次に黒渕が来たら俺が相手をする。ちゃんと追い返すし、うまくいかなくても俺がどうにかするから……」 「は、はい」 「だから莉佳がそんなに心配する必要なんかないんだ。俺を信じて安心してくれ」 「晶也さん……」 「ありがとうございます……」 莉佳は少しだけ表情を緩めて、俺に礼を言った。 俺は無言で頷いて腕に少し力を入れた。 莉佳の震えが止まるまで、俺はずっとそうしていた。 部で昨日のことをみんなに説明してから、練習を葵さんに任せて俺は高藤に向かった。 ……昨日の今日だから気にするな、と言う方が無理だ。 一応、莉佳にはこれから行くとメールを入れてある。 高藤の練習場に入ると、佐藤院さんと莉佳の二人だけがぽつんと立っていた。 「あ、晶也さん」 「あら、日向晶也ですか……」 「佐藤院さん、身体の具合は?」 「今朝、病院で検査を受けてきましたけど、どこにも異常はありませんでしたわ」 「そっか、よかった。安心した。……それで、他の部員のみなさんは?」 いつもの活気のある練習場との差が凄くて不安になる。 「外周でランニングをやってるとか?」 莉佳は悲しそうに俯いて、 「違います。それが……その……。今日は中止なんです」 「そういうことにしましたわ」 「中止……やっぱり昨日のことがあったからですか?」 「そうですわね」 昨日──。黒渕が佐藤院さんを含めた高藤の選手三人を試合中に脳震盪にしてしまった事件があったばかりだ。 「練習前のミーティングで、今日は中止にした方がいいんじゃないか? という提案がありまして……」 「それもしょうがないですね」 「そうですわね。また黒渕霞が来て何かするかもしれない、という不安が部員の間に広がっていますから……」 そんな状況で練習を強行するわけにはいかないのはわかる。 「ここで練習をやめてしまったら、黒渕霞の思い通りな気がしますけど……」 「わたくし一人の部ではありませんから、仕方がありませんわ」 悔しそうにつぶやくが、確かにこればかりはしょうがないことだ。 黒渕の処分が決まって、時間が経てば自然と解決するだろうけど、慌てて行動してどうにかなるようなことでもないと思う。 ましてや、人の気持ちやモチベーションまでそう思い通りに操作できない。 「練習が中止になるのは黒渕さんのせいだけでもないんです」 「他に理由が?」 「FCで脳震盪が起こるなんて、滅多にないじゃないですか」 「ですから、黒渕さんが何かをしたのではなくて、設備自体に問題があるんじゃないかという人もいて……」 確かにアマチュアの試合で、脳震盪が起こるのは珍しい。ましてや三人連続で発生するなんてありえない話だ。 そういう不安を抱く部員が出てくるのも当然か…… 「念のため、午前中に業者の方に来ていただいて、諸々の設備をチェックしてもらったのですが、問題はないというお話でしたわ」 「今日の練習は中止として、これから先は?」 「なるべく早くに部を再開したいのですけど……。いったいどこから手をつけたらいいものか困惑していますわ」 ──佐藤院さんは部長になったばかりだからな。真藤さんの後の部長というのはいろいろ厳しい立場だと思う。 こうなった以上、真藤さんがいた時と同じレベルまで部の士気を上げるのはかなり難しいだろう。 「……急な申し出ですけど、明日からうちと合同練習をしません?」 「え? 合同練習ですか?」 「佐藤院さんと莉佳しかいないとしても、うちの部員が加われば人数的な問題は解決されますよね」 「……そうかもしれませんが」 「部長の佐藤院さんが率先して練習するのを見れば、部の人たちもついてくると思いますよ。少なくとも今は練習の継続を考えたほうがいいと思います」 「私も晶也さんと同じ意見です」 「市ノ瀬さん……」 「こういう状況ですから、助けてもらえるなら助けてもらった方がいいと思います。晶也さんに下心はないと思いますし」 「……下心がまったくないとは思いませんけど」 「え? そうなんですか?」 「まあ、ここの施設を無料で使えるのはありがたいかな」 「わたくしが言っているのは、そういう意味の下心ではないのですけど……」 佐藤院さんはフッと笑ってから、すぐに真剣な面持ちで俺を見て、 「申し訳ありませんが、久奈浜の方々に協力して頂いてもよろしいでしょうか?」 「うちの部員もここで練習するの好きなんで、申し訳ないなんてことは全然ないですよ。こちらこそ、よろしくお願いします」 「コーチはあなたがしていただけるのかしら?」 「それで問題がないのなら」 「問題なんて少しもありませんわ。それでは明日から、よろしくお願いいたしますわ」 「こちらこそ」 ん? 後ろから足音がした。 「あ、部長……」 「やあ。日向くんもここにいたのかい」 「余計なお世話かと思いましたけど、やっぱり昨日のことが気になって」 「気にかけてくれてありがとう。さっき聞いたのだけど、昨日の処分が決まりそうでね。それを伝えようと思って」 「処分というのは、黒渕霞……ですわね?」 「そういうことだよ」 「…………」 息を飲んだ莉佳の前で、 「対外試合7日間停止だそうだ」 真藤さんは淡々と言葉を発した。 「え? たったそれだけなんですか?」 「秋の大会の出場停止くらいはあるかと思っていましたわ」 「三人連続で脳震盪にするようなラフプレイをしたのに、それだけの処分というのは軽すぎませんか?」 「県のFC委員会が出した処分だから、僕からは何も言えないよ」 「あと、黒渕さんはとても深く反省しているそうだから、それが考慮されたんだろうね」 「……反省、ですか」 あの時の黒渕の顔──雰囲気。本当に反省なんかするだろうか? 「…………」 佐藤院さんはため息をつきながら肩の力を抜いて、 「そう決まったからには、わたくしたちがとやかく言うことはありませんわね」 「そ、そんな……。佐藤院先輩はそれでいいんですか?」 「それでよくない、とわたくし達が言ってもどうしようもありませんわ」 「残念だけどそうだろうね。その場には当事者しかいなかったわけだからね」 「私たちが嘘をついてると思われるかも、ということですか?」 「そうじゃなくて、証拠がないということだよ。第三者が見ていたわけじゃないからね」 「そんな……」 「本人が深く反省している、事故と見ることもできる、その状況でこれ以上の処分は難しいのですわ」 「……で、でもこっちが三人も脳震盪を起こしたのは事実ですよ」 感情を押さえ込むように佐藤院さんは静かに言う。 「あのようなラフプレイや挑発に乗ったわたくしが悪かったのですわ。次はあのような申し込みは受けませんし、受けたとしても、あんなラフプレイには負けませんわ」 「佐藤くんの言うとおりだ。そういう選手はいるんだ。だったら、どう対処するのか考えたほうが建設的だと思うね」 「……そうかもしれませんが」 「ところで、真藤さんは黒渕が何をしたんだと思います?」 「いろいろ考えたのだけど黒渕のあの長い手足から想像すると、やはりカニバサミだろう」 「やっぱりそう思いましたか……」 「あの……カニバサミってなんですか?」 「FCのルールに、相手を両手、もしくは両足で挟み込むのは反則というルールがあるのは知っていますわよね?」 莉佳は少し考えてから、 「あ、はい。知っています。それをすると危険なんですよね」 「正確に言うと危険なこともある、だね」 スカイウォーカーは反重力のメンブレンで覆われているから激しいぶつかり合いをしても怪我の危険はない。 「カニバサミを仕掛けられた時だけは、メンブレンが衝撃を選手に伝えてしまうことがあるんだ」 「それはどうしてですか?」 「例えば右から来た衝撃は左へ逃げていくんだけど、挟まれた時はその衝撃を左で抑えて右に送り返す、という状況になるんだ」 メンブレンは不思議な力の移動を見せることがある。だから、エアキックターンやコブラができるのだけど……。 「右へ左へと移動した衝撃が内部へ向かって、逃げていこうとすることがあるんだ」 「内部ですか……」 「内部と言ってもメンブレンの内側という意味で、選手の内臓にダメージがあるわけじゃないよ」 「とは言え、力の向きによっては、脳震盪や捻挫を起こしてしまうことがある」 「試合を見ていてどうだった? 両手か両足で挟み込むような動きはなかったか?」 「夕方で暗かったですし、確証はないです。攻守の入れ替わるドッグファイトだったので、あったといえばあったような気もしますが……」 「実際に試合をした佐藤院さんは?」 「後ろから顔を挟まれたような……気はしますわ。ですが、すぐに気を失ってしまいましたから、よく覚えていないのですわ……」 「それはそうか……」 脳震盪を起こした時、直前の記憶を失っていることは多い。 「カニバサミはかなりの近距離じゃないと難しいから、気をつければそう簡単にはかからないと思うのだけど、気になるのは……」 「どうやって三人連続で脳震盪を起こさせたのか……。ということですよね?」 メンブレンの内側に伝わる衝撃の方向を頭に向けないと脳震盪にならないはずだけど……。 その方法がよくわからない。 「とりあえず、黒渕には関わらないようにしよう。それでいいね?」 「……はい」 莉佳は不満を押し隠すように頷いた。 「……僕も来た方がいいかな?」 「正直、お願いしたいところではありますが、ご遠慮頂ければと」 「どうして? 緊急事態だろう、今は」 「だからこそですわ。ここで前部長に頼っているようでは、高藤に明日はありません」 「……なので辛いですが、わたくしたちだけで頑張りますわ」 「そうか、わかった。期待しているよ」 「ご期待に沿えるように努力いたしますわ」 口元をキリッと引き締めて、佐藤院さんは深く頷いた。 斜め下を見つめながら黙って隣を歩いていた莉佳が、急に顔を上げて、 「私……黒渕さんが許せないんです」 「それは当然そうだろうな。俺だって許せないと思うよ」 「だけど、その、えっと……。許せないにもふたつの気持ちがあって……」 「ふたつ?」 「はい。許せないから関わりたくない、という気持ちと……。許せないから試合をしたい、という気持ちがあるんです」 ──試合をしたい、か。 「………」 まじまじと莉佳の顔を見る。 「……え? 私、何か変なこと言いましたか? 試合したいなんて……変、でしたか?」 「いや、変なことは言ってないよ。莉佳でもそういうこと思うんだな、って」 「それってどういう意味ですか?」 「反則をするような相手に、試合で決着をつけたいって考えがあるんだな、って」 こういう好戦的とも言える一面をちゃんと持ってるんだな。 ──当たり前か。対戦競技をしていて、そういうとこが皆無なわけない。 思い返してみれば、夏の大会でみさきと試合をした時だって、そういった感情を表に出していた。 「反則する相手に正々堂々と戦って勝って、間違いを認めさせたい、って思います」 「莉佳って意外と熱いとこがあるよな」 「そ、そんなことないと思います」 「その気持ちはよくわかるよ」 三人も脳震盪を起こしたのだ。 敵討ちといったら変なのかもしれないけど、試合で打ち破りたい、という気持ちはよくわかる。 「だけど関わらない方がいいだろうな」 「それもわかっているんです」 「話を聞くと、向こうはラフプレイに馴れているっぽいからな。何をしても向こうのペースになるよ」 「だから……それはわかっているんです。でもこのままだと黒渕さんの思うままじゃないですか?」 「これ以上そうならないためにも関わらないのが一番だよ」 「……そうですね。すみません。わかっているんですけど、どうしても」 「わかっていても納得できないってことがあるからな」 「……はい。でも、納得するつもりです。私は新部長をしっかり支えたいですから」 「佐藤院先輩が一番つらいと思いますし……」 「ああ。でも莉佳がしっかりサポートしてるから、佐藤院さんも心強いだろうな」 「や、やめてください」 「やめてくださいって何がだ?」 「私なんかまだまだですから……。まだまだだから、佐藤院先輩のお役に立てるように頑張ろうと思っているんです」 「莉佳なら大丈夫だよ」 「いえ……まだまだです、ほんとに」 そう言って莉佳は小さく笑った。 合同練習の初日を終えて、佐藤院さんがみんなに頭を下げた。 「今日はうちの練習場に来ていただいてありがとうございました。みなさんのおかげで部活を再開できて、充実した練習ができましたわ」 高藤からの参加者は、佐藤院さんと莉佳と他二名だったけど、続けているうちにみんな戻ってくるだろう。 「いやいや、こちらこそですよ〜。やっぱり高藤で練習するとやる気が出ちゃったにゃ〜」 「ですよね。凄く頑張って練習しちゃいました」 合同練習のこと気にしないでね、と佐藤院さんに言いたいのだろうけど……。 「普段からやる気はちゃんと出そうな?」 「はいは〜い」 「本当に今日はありがとうございました」 「こちらこそ、莉佳ちゃんと練習できて楽しかったですっ」 莉佳ははにかむように笑って、 「そう言ってもらえてうれしいです。ありがとうございました」 「莉佳ちゃんはいつも丁寧だね〜」 「あ、はい。すみません」 「謝らなくてもいいですよ?」 「は、はい。すみません、って、あの……。今のはちょっとなしで」 軽く笑いが起こったところで佐藤院さんは小さく頷き、 「それでは今日は終わりにしましょう。明日また同じ時間に練習ですわよ」 「あの〜」 明日香が手を上げた。 「どうした?」 「もう少し練習したいです!」 「うお〜、明日香がやる気だ!」 「シザーズを莉佳ちゃんから教えてもらっていたんですけど、もう少しで、何かコツが掴めそうな、そういう気がするんです」 「そういうことでしたら、私も一緒に居残り練習させていただきます」 「わぁ! ありがとうございます!」 「だったらコーチの俺も残らないとな」 「責任者であるわたくしも残る必要がありますわね」 「ご、ごめんなさい! 私のせいで皆さんに迷惑かけて……。ほんの少しだけで終わりますから」 「明日香ちゃんのほんの少しだけは長そうだな〜」 「そ、そんなことないと……思います」 「気にしなくていいです。明日香さんと一緒に飛ぶのはとても勉強になりますから」 「しっかりと体を休ませるのも練習のうちなのですけど……」 佐藤院さんはみんなを見て、 「時間内で練習をすることが大切ですから、他のみなさんは帰宅なさってください。居残り練習が当たり前になるとけじめがなくなってしまいますから」 「なんだか本当にすみません!」 「たまにはこういうのも楽しくていいですわ。しっかり練習なさってください」 「はい!」 「んじゃ、あたし達は先に帰るね〜」 「お疲れ様でした〜」 「おっつかれ〜。また明日ね〜」 久奈浜のみんなに続いて、高藤の部員達もあいさつをしてから帰宅していく。 「それじゃ、はじめましょうか」 「はい! よろしくお願いします!」 「──日向晶也」 俺の隣で莉佳と明日香の練習を見上げていた佐藤院さんが小声で話しかけてきた。 「なんです?」 「あなたに助けてもらわなかったら、どうなっていたかわかりませんわ」 「え?」 「部員が練習を嫌がるなんて想定していなかったのですわ。ですから軽く混乱してしまって……」 「まったく恥ずかしい話ですわ。心からお礼を言います。ありがとうございました」 「そんなのはいいですよ。こちらも高藤で練習できるのはメリットが多いしお互い様、そういうことにしとくってことでどうですか?」 佐藤院さんはクスッと微笑んで、 「わかりましたわ。言っておきますけど、秋の大会で久奈浜の選手と当たっても手加減したりしませんわよ」 「それもお互い様、ということで」 「そうですわね」 それから再び莉佳と明日香の練習を見上げた。 ──ん? 「…………」 莉佳が変なタイミングで急に停止して、フィールドから俺達の後ろの方を見つめた。 「どうかしたのか?」 そう言いながら振り向いた先に……。 「……っ!」 長い手、長い足の特徴的な姿。 黒渕が立っていた。 「…………」 様子を窺うようにじっとこちらを見ている。 「……っ!」 自分でも何をするのか何を言うのかわからないまま、黒渕に向かって踏み出した瞬間、 「……待ちなさい、日向晶也」 佐藤院さんに手で制された。 「これはわたくしたちの問題ですから……」 「……わかりました」 無闇に俺が出て行っても混乱するだけかもしれない。 「佐藤院先輩!」 「コーチ!」 降りてきた二人が、グラシュの起動を停止した。 「ここは私に任せていただけますかしら?」 「は、はい」 莉佳が硬く頷いた。 佐藤院さんは黒渕に向かって一歩、踏み出した。 「いったい何をしに来たのかしら?」 「………」 黒渕は無言で、がばっ、と体を二つに折るかのように、深々と頭を下げた。 「昨日の謝罪をしようと思って来ました」 「謝罪ですって?」 「そうです。謝罪です」 黒渕の両目の端に涙が浮かんでいた。 「昨日のことは本当に申し訳なく思っています」 ──なんだ、これ? ふざけている様子は微塵もないのに、真剣に謝罪しているとは思えない。 いや、思えない、という程ではないのだ。思えない自分が変なのかな? という微妙な違和感だ。 「本当に許して欲しくて。もし誤解をされているなら、それを解いておきたいと思ったんです」 「……誤解? なんの誤解かしら?」 黒渕は申し訳なさそうに何度も頭を下げて、 「ですから……。みなさんに脳震盪を起こさせてしまったことです」 「脳震盪……誤解……。わざとやったんじゃない、アレは偶然だって、そう言いたいのかしら?」 「…………」 「……っ?」 違和感が大きくなった。 いったいどこに違和感があるんだ? ──あっ。 真面目な顔のまま口端だけが徐々につりあがっていく。 「………」 不気味な笑みが、いつの間にか黒渕の顔にできていた。 「なんだ。勘違いしてなかったんだ」 「……どういう意味ですか?」 「偶然なんかじゃないって気づいてたんだ〜。うふふ〜」 「な、何がおかしいんですか!」 「ちゃんと現実を直視することができるんだって思って」 「だからそれの何がおかしいのか聞いているんですわ」 「あんな目にあったんですから、私のこと恐いですよね? それなのに無理して気丈な態度を取っているから、なんだかおかしくて……。うふ、うふふ〜」 「……っ!」 「うふふふ。あはっ、あははははは。で、どう? あのままじゃ納得できないんじゃない? 名門の高藤の選手があんな風に三人もやられたんじゃね〜」 「納得するもしないもありません!」 黒渕は急に人のよさそうな笑顔で、 「うんうん、そうだよね〜。よくわかる〜」 「何がそうだって言うんですか!」 ……まずいな。 佐藤院さんが挑発に乗りつつある。 どこかで俺が止めないとダメなんだろうけど、下手に横から口出ししたら、黒渕の挑発の道具になってしまいそうだし……。 ──それにしても。 黒渕は挑発が上手だ。 言葉だけなら、大したテクを使ってるわけじゃないと思う。煽るのがもっと上手な人はいるだろう。 だけど黒渕の場合は表情とジェスチャーが凄い。表情、というよりも顔の筋肉の動き、と言った方が、的確な表現かもしれない。 黒渕の意図が嫌というほど伝わるのだ。 人のよさそうな笑顔の後に、嘲笑。 その落差で人をイラつかせる。 しかも、それだけでなく、人のよさそうな笑顔も過剰に人がよさそうで、裏に何かあるとわかってしまう。 大げさに頭を下げる謝罪もそうだ。 見ているだけで、イライラする。頭に来る。 ──あ。 空気が……。 黒い空気が黒渕を中心に渦巻いているような気がした。 昨日、佐藤院さんが言っていた、ネガティブな闘争心を刺激される──というのはこれのことか。 「ごめんなさい、本当に申し訳なく思ってるんです」 そう言ってから、はっ、と乱暴に息を吐いて、 「でもでも〜、わざとだとしても前に二人もされてるんだから最後の一人はもっと警戒するものだと思いま〜す」 「………」 「あれ? 最後の一人って誰でしたっけ?」 「……お帰りなさい! これ以上あなたと話すつもりはありませんわ」 「そんなこと言わないでください! お願いします!」 黒渕は健気な女の子みたいな口調で言ってから、 「悔しくて悔しくて泣いちゃいそうなんですよね? だから私がまた試合をしてあげようかな〜と思って、来たんですけど」 「試合? 何をおっしゃっているのかしら? あなたは対外試合を禁じられているはずですわ!」 「明日から対外試合7日間停止。残念、禁じられているのは明日から〜」 「そんな詭弁……!」 「どこが詭弁なんでしょうか〜。だって〜明日からだもん。だから今日はまだ試合をしてもいいの」 「……っ!」 「おいで〜。今度は逆に私を試合で痛めつけて〜。しましょう? ねえ」 「――楽しい楽しい、試合をね」 「……くっ!」 佐藤院さんの首筋と肩にガチガチに力が入っている。 「……佐藤院さん?」 「日向晶也、そんな心配そうな声を出さなくても大丈夫ですわ」 佐藤院さんは口元に手をやって、 「オーッホホホホホホホホホホホホ!!」 「……っ?!」 突然の笑い声に黒渕が息を呑んだのがわかった。 「そのように挑発を繰り返してもわたくしは絶対にあなたと試合をしたりはしませんわ。お帰りなさい」 「くふっ、ふふふ……」 「何がおかしいのかしら?」 「後ろの人の意見は違うみたいだけど〜」 「え?」 「……っ!」 莉佳の顔が真っ赤になっていた。 かなり怒ってる。 怒りの風船がパンパンに膨れ上がって、今にも爆発しそうになっている。 ずっと黙っているから、少し変だなとは思っていた。しかし……。 「…………」 まさかここまで怒りを溜め込んでいるとは思いもしなかった。 「あんな風に言われても黙っていなきゃいけないんですか?」 「アレは挑発だって。怒っちゃダメだ。聞き流すんだ」 「私が聞き流せてないとでも言うんですか!」 「聞き流せてないだろ……!」 行け! と叫んだり、肩をポンと叩いたりしたら、黒渕に飛び掛って噛み付きそうな勢いだ。 「佐藤院先輩にあんな口の聞き方して!」 「そう思うんだったら試合しよ? ね? それに〜。ほら〜。ちゃんと書類も用意してきたんですよ〜」 「しょ、書類ってなんですか!」 「前回は約束もなくお邪魔しちゃいましたから、今回はちゃーんと申し込み書を書いてきたんです」 「正式なお願いなのに断るんですか〜」 「……っ!」 莉佳の怒りが更に強くなる。 「いいか? 絶対に挑発に乗ったらダメだぞ。そんな状態で試合をしたら黒渕の思うつぼだ」 「わ、わかってます。わかってます」 ガチガチに体を硬くしてる莉佳が黒渕に向かって、 「あ、あなたとなんか、試合はしません!」 黒渕は、がくん、と、まるで頭を落とすみたいにかがんで、斜め下から莉佳を見つめる。 「残念だな〜」 にぃ、と口端が上がっていく。 嘲笑、軽蔑、という黒渕の感情が、嫌でも伝わってくる口の動き。 嘲笑されて、軽蔑されて、平気な精神状態でいられる人は少ない。 「試合してもらうまで帰るつもりはないんだけどなー」 長い髪が不気味に揺らめいている。 「するつもりはありません!」 「私だってありません!」 「私、試合してもいいですか?」 「え?」 「え?」 「え?」 「え?」 「私、黒渕さんと試合をしてみたいです」 「へ〜、ふふふっ、私は誰が相手でもいいよ」 「明日香、何を言ってるんだ?」 「黒渕さんって何だか違うなって思うんです。FCって面白いじゃないですか。面白いことをするのに、どうしてあんな雰囲気になるのか不思議で……興味があるんです!」 「ああいうタイプには興味を持たなくてもいいんだ」 「そう、なんですか? でも試合してみたいです!」 「相手は反則してくるんだぞ。脳震盪になりたくないだろ?」 「それも含めて興味があります!」 「興味を持つな!」 「でも、せっかくFCをしてるのに……。どうして反則なんかするのか全然わからないんです。だからプレイしてみたいんです!」 「倉科明日香、挑発に乗ってはいけませんよ」 「いえ、私はそういうのじゃなくて……」 「佐藤院さん、明日香は挑発にはのってません」 「え?」 「明日香は本当にFCが好きなんです……。だから言ってるんです、きっと」 純粋なあまりに、言動や行動が突き抜けることがある。 今の明日香はまさにそういう状況にあった。 「私は本当にただ興味あってやってみたいんです! 黒渕さんに凄く興味あります!」 「へ〜。そんなこと言われたら、私もアナタに……興味……でてきた。あはっ」 黒渕はさわやかに笑ってから、長い両足を引きずるようにして近づいてきた。 「試合、しようよ。ねぇ? ──試合、しようよ」 「はい! しましょう!」 「……いや、ダメだ」 「でも、コーチ!」 「でもじゃない」 「でも、です!」 「うっ……」 明日香の目に力が入っていた。 「やらせてください!」 そこには単なる興味を超えた、明日香自身の強い意志が感じられた。 もしかして明日香には、黒渕に対しての『これ』という策があるのだろうか? あるいはこの場面で試合をする意味を彼女なりに強く感じているのか。 どちらなのかはわからないけれど、俺が怯むぐらいの視線を明日香が向けているのは確かだ。 「………」 ──明日香なら。 今の状況では、佐藤院さんや莉佳では黒渕とやっても勝負にならないだろう。 なぜならすでに黒渕のペースに飲み込まれているからだ。 ──だけど明日香はまったく飲み込まれていない。むしろ、興味を持っているような状況だ。 冷静に考えて……。 明日香なら勝てるかもしれない。いや、勝てる可能性はかなり高いんじゃないか? 黒渕は自分のペースで戦ってきた選手だろう。 そういうタイプはそこを無視されたら脆い。 え? 「決まりでいいんですよね?」 いつの間にか黒渕が俺をじっと見つめていた。 「わ、わかった」 「やったー!」 「日向晶也!」 「……晶也さん」 背筋に冷たいものが走った。 ……い、今の。 今のは、完全に黒渕に言わされてしまった。 黒渕にあのタイミングであの口調で問われなかったら、試合を許可していたかどうかわからない。 こんなテクニックをどこで身につけたんだ? (……恐い) 一瞬、身震いするほどの恐怖が全身に伝わった。 ──でも、明日香なら。 「楽しみです!」 ニコニコしていて、恐怖なんて感じていない。 新しいものに興味を持つ明日香の性格なら、威圧されずに済むはずだ。 黒渕は試合をするにあたって、フライングスーツへと着替えに行った。 そして戻ってきて早々気になることを言い始めた。 「私はセコンドがいないから、お互いにセコンド無しでお願いしま〜す」 「おい、待て! そんな変則的なスタイルの試合は認めないぞ」 黒渕は挑発するように笑って、 「ふふふ、私はファーストブイで待ってるから、早く来てくださいね〜」 黒渕は警戒するように少し後ずさってから、 「──終わりだ」 嫌な起動キーを口にして、ファーストブイに向かって飛んでいった。 「……晶也さん!」 莉佳から一気に詰め寄られる。 「おやめなさい、市ノ瀬さん」 「で、でも……挑発に乗っちゃダメだって」 「今のは相手の乗せ方が見事でしたわ。日向晶也を責めるわけにはいきません」 佐藤院さんは実際に黒渕と戦ったから、あの乗せ方の上手さを実感している。 「それに日向晶也は倉科明日香のことをよく知っています。だからこそ、あえて受けたのかもしれませんわ」 「ええ、明日香なら勝てると思ったんです。性格的に明日香は黒渕に相性がいい」 「そうなんですか?」 「おそらくは、ね」 100%の確証があるわけじゃないけれど、かなり高い確率だと思ったのは確かだった。 そもそも合わないと思っていたら、挑戦そのものを受けるつもりはなかった。 「わかりました……が、頑張ってください、明日香さん!」 「がんばります! さっきはあんな風に言いましたけど……みなさんの気持ちのためにって思ってるんです」 「そう……なんですね」 「はい、ああいう選手に負けたままなのってとてもよくないと思うんです!」 「倉科明日香、あなたがそんなこと気にする必要はなくてよ」 「いえ、気にさせてください! ちゃんとみなさんの気持ちも受け止めて、試合しますから」 ──明日香はそこまで考えていたのか。 「明日香」 「はい」 「俺は黒渕のことはあまり詳しくないけど、反則も厭わないラフスタイルの選手のことなら少しはわかる」 上のクラスになら、そういう選手は稀にいる。 「基本的に反則は相手への1点の加算になる。1点を捨てでも反則をして、自分のペースに強引に巻き込むスタイルだ」 「自分のペースを大切にするスタイルということですね」 「そういうこと。学生の大会でそういう選手はほぼいないけど、上のクラスは少数だけど必ずいるんだ」 「明日香くらいのキャリアの頃に、いろんなスタイルの選手とやっておくのはいいことかもしれない」 「私もいろんな人とプレイしたいと思います」 「ただしだ!」 俺は明日香に負けないように力を込めて目を見る。 「は、はい」 「危険だと思ったらすぐに棄権するように。約束できるな?」 「はい!」 「よし。まずファーストラインは特に気をつけるんだ」 「どうしてファーストラインなんですか?」 「夏の大会、偶然を装って浮き袋をぶつける反則を繰り返して、反則負けになったんだ。きっと、それをしてくるぞ」 「浮き袋をぶつけるですか……。故意にそういうことができるんですか? 私は浮き袋を自分の意思で動かせたことないです」 「できないのが普通。体を覆うメンブレンは浮き袋も覆ってるから、体に添って後ろ側に行くことが多い」 「そうですよね。試合中もあまり気になりません」 「だけど浮き袋を覆うメンブレンが薄かったら、普通の状態、反重力子を発生させていない状態と同じように振り回せると思わないか?」 「確かにそうかもしれませんけど、でも一部だけ薄くするなんてできるんですか? あ、グラシュの設定を変えて?」 「それをすると反則をしたって証拠が残ってしまうからな。だから、特殊なボンドを使うんだ」 「特殊なボンド?」 「ジオキサン社の特殊なボンドを水で溶いてスーツに塗ると、なぜかメンブレンを遮断する効果が出るらしいんだよ。理由は諸説あるけど今もハッキリとした答えは出てない」 反重力子そのものに影響を与えているとは考えづらいので、発生装置の方に影響を与えているんじゃないか、とは言われているけど、ハッキリしたことはわからない。 「からくりがわかっているなら、スーツチェックをすればいいんじゃないんですか?」 「それが難しいんだ。塗った部分を何回か振り回せば、効果が消えてしまうんだ。だからチェックされそうだったら、その前に何気なく振り回してしまえばいい」 「……そんな」 「トーナメントで何回も繰り返せば故意の反則をとられるけど、最初は偶然と見分けがつけづらい。というかこんな素朴な反則をする選手ってあんまりいないから、チェックもゆるい」 「普通はやらないことなんですね」 「反則の中でも特殊な類だよ。下手すれば即退場だからね」 ファーストブイに立っている黒渕をチラリと見上げてから、 「こっちがチェックを希望すれば浮き袋を振り回してから、差し出すだろう。それで黒渕の反則は防げるんだけど……。あえて注意しない」 「……注意しないんですね」 覚悟を決めたように明日香は頷く。 「最初の攻撃をかわせば、『手の内は知ってるんだぞ?』というプレッシャーをかけることができるからな。動揺してくれるかもしれない」 「相手の反則を逆手にとる……?」 「ラフプレイをする選手が強く見えるのは、普通の選手はそれに対応する練習をしないから。だから知ってるという態度で出れば動揺して自滅するかも、だ」 「わかりました。黒渕さんにペースを与えないことが大切なんですね」 「そういうこと。とにかく、最初は浮き袋を振り回してくると思うから、届く範囲に入るな」 「はい。ファーストラインから勝負します」 「ああ。ファーストラインを越えたらドッグファイトに気をつけろ。あの長い手足を使ってカニバサミに来るぞ」 カニバサミがどういうものなのかは、昨日の事件の説明をした時に話してある。 「いくら黒渕の手足が長いといっても、警戒さえしていればカニバサミを食らうことはないはずだ」 超接近戦にならないとカニバサミの状態にはならない。 「もしされそうになったら、両手両足を子どもの喧嘩みたいに動かすんだ」 明日香が両手をぐるぐるして、 「こうですか?」 「そう、それでいい。両手両足が邪魔して近づけない」 普通の超接近戦でそんなことしても飛行姿勢が乱れて相手に隙を与えるだけだけど、 カニバサミに入るには特殊な飛行姿勢を取らないといけないはず。そういう飛行姿勢ではスピードは出ない。 だから、明日香が両手両足を振り回せば、効果的な邪魔になるはずだ。 もし、本当にカニバサミをしてくるようなら、明日香がジタバタと抵抗している間に俺が割って入る。 「ドッグファイトはスピードを重視して、近づきすぎない距離で相手の周囲を回って背中を狙うんだ。近すぎる距離での駆け引きは避けるように」 「わかりました」 「よし、それじゃ行って来い」 「行きます!」 「何度も言うけど無茶するなよ」 「わかっています」 明日香は硬く頷いてから、グラシュを起動して、ファーストブイに飛んでいった。 「あきれましたわね」 「すみません、勢いで許可を出してしまったことは反省してます」 「そうではなくて黒渕霞への対策を考えていたことですわ」 「それはまあ……気になりますからね。いつか戦う羽目になるかもとは思ってましたし」 まさかそのトリガーが明日香だとは思わなかったけど。 「晶也さん」 莉佳が釈然としない顔で質問する。 「なぜ私はダメで、明日香さんには許可を出したんですか?」 「今の莉佳が戦っても意味がないからだよ」 「……どういう意味ですか?」 「怒りで興奮した状態で黒渕と試合しても黒渕にからかわれるだけで終わってしまう、という意味だよ」 「……そんなっ!」 「そこで怒ることが感情をコントロールできてない証拠ですわ」 「あっ……」 「嫌味で言ってるわけじゃないんだ。あくまで冷静に見て、今の莉佳と黒渕は相性が悪いんだよ」 「……はい、わかりました」 莉佳は搾り出すように言った。 理解はしたけど納得はしてない、という感じか……。 「審判を決めていなかったですわね。わたくしがさせていただきますわ」 そう言って佐藤院さんが上がっていく。 「晶也さん、私はまだまだなんでしょうか?」 悲しそうな目で尋ねてくる。 「強くはなってるよ。だけど今の莉佳には黒渕と試合をさせたくないんだ」 「……今の、ですか」 莉佳は俺の言葉を反芻し、そして黙った。 ファーストブイの横で黒渕が、口元が切れそうなぐらい鋭い笑みを浮かべる。 「本当に私と試合をするつもりなんだね〜」 「よろしくお願いします」 「余計な会話は慎みなさい。試合を開始しますわよ」 黒渕はギョロリと佐藤院さんを睨みつけて、 「早くしてくださーい」 「黙りなさい、黒渕霞」 「ふふふふ、戦えなくて残念だったねお嬢様〜」 佐藤院さんは黒渕の挑発を無視して、 「倉科明日香の準備はよろしくて?」 「問題ありません!」 「では……セット!」 一呼吸置いて、 「スタート!」 黒渕のスタイルはスピーダーだと聞いていた。 それに対し、明日香はオールラウンダーだ。 普通なら明日香は対抗せずに、ショートカットする場面だけど、 「行きます!」 「……っ」 明日香がスーッと前に出た。その後を黒渕が追っていく。初速は明日香の方が速いので先行する形になる。 ──うまく機先を制することができればいいけど。 黒渕がどこまでできるかわからないけど、今の速さなら、ラインの2/3くらいで追いつかれるだろう。 「えい!」 明日香が斜めに腰をひねりながら、ドルフィンキックをするように下半身を動かした。 「おっ……?」 「明日香さん、何を考えているんでしょうか?」 明日香がシザーズを入れたのだ。 蛇行飛行のシザーズは、ドッグファイトで有利な背後をとるため、相手を前に押し出す技。スピード勝負のファーストラインで使う必要のない技だ。 「……あ、いや、これでいいんだ」 一瞬驚いたが思い直す。 「これでいいとはどういうことですか?」 「セコンドなしだから、後方の相手を見失う可能性が高いだろ? シザーズの状態なら、蛇行するたびに少し首を動かすだけで、後方の確認ができる」 「あ……そういうことですか」 「もしかしたら黒渕を惑わすことだってできるかもしれない」 「明日香さんは晶也さんの指示なしで、そういうことを咄嗟に思いつくんですね……」 「明日香はひらめきのある選手だからな」 「……ひらめき、ですか」 「……っ」 黒渕がイラついたような動作で加速する。 ……気をつけろよ、明日香。 黒渕が明らかに距離を測っている。 「……」 わかってるんだろうな? 大丈夫なんだろうな? 来るぞ明日香! もう来るぞ! ヘッドセットで指示を出せないのがもどかしい。 来るぞ! 明日香! 「シャッ!」 黒渕が口端から擦過音を響かせて、両手を前に突き出した。 その動きにあわせて浮き袋が前に出る。 「えい!」 浮き袋が、ぶんっ、と風を切って、明日香のいた場所を通過していた。 明日香は黒渕の動きに合わせて、ハイヨーヨーを入れたのだ。 「このッ!」 黒渕が急ブレーキをかけながら斜め上の明日香の足に向かって、偶然の動作を全く装わず、露骨に振り回した。 「きゃっ、と」 キュッと丸めるように足を縮めて、それをかわす。 「くっ」 「……と。えい!」 明日香はそのままくるりと縦に半回転して、斜め下のブイに向かって飛行する。 「くそ!」 二度も浮き袋を振り回した影響で、完全に飛行姿勢を崩してしまった黒渕は明日香を追えない。 「まず1点です!」 「凄いです、明日香さん!」 「……っ!」 ブイの反動を利用してセカンドラインへ入った明日香を黒渕が追う。 ──黒渕の攻撃をかわした上に1点。完璧な出だしだ。 明日香はブイにタッチしてスムーズな加速。黒渕は姿勢を崩した場所からショートカットして、セカンドラインに向かうけど、明日香には届きそうもない。 「……っ」 どうやら明日香はサードブイまで狙うつもりのようだ。 「……っ」 スピーダー相手にブイで2点。2点差の状態でサードラインでドッグファイトを挑めば、余裕を持って戦える。 かなり楽な展開になるはずだ。 サードブイを狙わずにセカンドラインでドッグファイトを挑む、という展開もあった。 ファーストラインで成功した勢いのまま、自分のペースに持ち込もうと考えれば、そうするはずだ。 目先の利を取らずに、サードブイを狙ったのは賢い選択だ。 ──明日香はいいFC脳をしてる。 「よし!」 明日香はサードブイにタッチする。 「………」 黒渕はまだ後方にいる。 サードラインに入った明日香を黒渕はもたもたと追う。 ……ん? 「様子が変ですね」 「そうだな」 黒渕がうまく加速できていない。 「グラシュの異常でしょうか?」 「わからないな。フェイントの一種なのかもしれないし」 「………?」 明日香も気になるらしく、飛びながら後方の黒渕を何度も確認する。 「……くっ」 黒渕の顔に焦りの色が浮かんでいる。 あんな大見得を切っておいて、グラシュの故障だとは言いづらいのだろうか? 「………」 黒渕はフォースラインに向かってショートカットする。 「タッチします」 明日香がフォースブイにタッチ。 これで3対0だ。 「何か考えがあるんでしょうか?」 「そうかもな」 スピードに乗ってフォースラインに入った明日香は、 「……ッ」 ショートカットしてラインの後半にいた黒渕をなんなく追い抜いてしまう。 「タッチします!」 明日香がファーストブイにタッチしようとした瞬間、 よろめいた飛行で背後に近づいてきていた黒渕が話しかけてきた。 「倉科さん。お話ししたいことが……」 綺麗な声だった。 その声が風に乗って俺の耳まで届いた。 「倉科さん、私、話したいことが……」 「え? あ、はい」 ゾッと寒気がした。 黒渕はうつむいていたので、明日香からは見えなかったと思う。 下から見えた黒渕は、冷酷な表情を貼り付けたまま、綺麗な声を出していたのだ。 明日香に近づくにつれて、黒渕の口端と両目の端が、徐々に吊り上っていく。 ──え? まさか、黒渕! 俺は明日香に向かって怒鳴る。 「動け! なんでもいいから動け!」 「逃げなさい!」 佐藤院さんも叫んだ。 「え?」 「話したいことは……ない!」 黒渕の飛行姿勢が安定した。 やっぱりフェイントだったのか! 黒渕はムササビのように両手両足を広げて、明日香を覆うようにかぶさっていく。 「明日香っ!」 「ひはっ! ひはははははははははっ!」 「きゃあああぁぁああああぁぁぁっ!」 ──黒渕ッ! ブイと黒渕の間に挟まれる。 これはカニバサミと同じ様な状況になってしまう。メンブレンに添って力が抜けていかず、ブイと対戦相手の間で反動が繰り返される。 普通に挟まった状況ならその状態はすぐに解消されるので、選手がダメージを受けることはない。 だが、今、黒渕がやったように覆うようにかぶさると、接触面が多いため、力が増幅されてしまう。 「きゃああああぁぁぁ!」 増幅された力が体内を走り回るだけでもダメージなのに、その力が抜けていく場所によっては……! ……脳震盪を起こす! 「……っ!」 明日香の表情がうつろだ。 「FLY!!」 俺はグラシュを起動して全力で飛ぶ。 「はぁあああぁ〜〜〜、あっははは!」 黒渕の目が血走っている。 「くっ!」 黒渕は止めに入ろうとした佐藤院さんを踏み台にするよう押して上に向かう。 「……っ!」 飛行バランスを崩した明日香めがけて、上から真下へ押し込むように突撃していく。 水面に叩きつける技、スイシーダだ。 間に合え! 間に合え! 間に合えッ! 「くっ!」 間に入り、黒渕を下から突き上げるように両手を出す。 「くぅうぅ!」 「くあ!」 反動で黒渕は上へ、俺は下へ飛ばされる。 びりりりっ、と両腕に強い痺れが走った。 脳震盪状態の明日香にスイシーダを仕掛けるって! 「あんたは何を考えてるんだ!」 「この子が生意気なプレイをするからだよ〜、あはっ、あははは……」 「降りろ、こんなふざけた試合は終わりだ! おまえの反則負けだ!」 ――今のプレイ。 ブイと自分の体で相手を覆うように挟む。故意の場合、即反則負けのプレイだ。 「反則負けなんか、私にとっては勝ったようなもんだね!」 「堂ヶ浦には厳重に抗議させていただきますわ! わたくし、絶対にあなたのことを許しません!」 「勝手にすればいいと思いまーす」 「くっ」 「うふ、ふふふふっ。残りはあなただけ」 「え?」 黒渕は莉佳を見下ろして言ってから、そのまま飛んでいってしまった。 「あ、あれ? コーチ?」 明日香が目をぱちくりする。 「試合は終わりだ。ゆっくり降りてグラシュを解除するんだ」 「試合は終わり?」 「いいから降りて、グラシュを解除だ」 「は、はい」 地面に近づいた明日香がグラシュを解除して着地する。 「明日香さん、大丈夫ですか?」 「いえ、あの……大丈夫? 大丈夫だと思います」 「痛いとこはないか?」 「痛いところ? ……っ。あっ、手首が……」 明日香は後から気づいたように痛みを訴えた。 「って、これは……」 「捻挫をしてるんじゃないか? 手首が腫れ上がっている」 「そ、そんな……明日香さんがこんな怪我を……」 「見せて下さい」 佐藤院さんが明日香の手を見て、 「……なんてことを。やはりわたくしが身体を張ってでも止めるべきでしたわ」 「俺の責任です。俺の想像力が足りなかった。黒渕は試合に勝つために反則をすると思ってました。試合を捨ててまで反則をするなんて……」 「あ、あの、気にしないでください。悪いのは試合をしたがったわたしです。このくらいの怪我はすぐに治りますって」 言って、明日香は手を上げようとするが、 「いっ……たたっ……」 それがすぐに治るような怪我じゃないことは一目瞭然だった。 「動かさないで。コールドスプレーとテープを持ってきますわ」 「よろしくお願いします。テーピングは俺がしますので……。その後、病院に行くぞ」 「大丈夫。本当に大丈夫ですから……」 明日香が無理して作る笑顔が痛々しかった。 「私、こんなの許せません。……こんなの、絶対」 つらそうに莉佳が何度もつぶやいていた。 「……なるほど、事情はわかった」 明日香のケガと、その経緯について、先生と白瀬さんに話して聞かせた。 「呆れたな。あそこは昔からラフプレイで有名だったが、まだそんなことをやってるとは」 「伝統のようになっているからな。もっとも話を聞く限り、その黒渕という選手は飛び抜けて好戦的なようだが」 「……ですね、気味が悪いぐらいに」 あの目は一度見ると忘れられないぐらいのインパクトがあった。 むしろ、あそこまで彼女を駆り立てるものは何だというのだろうか。 それがわかればまだ何か手を打てるのかもしれないけれど……。 「それにしても厄介だな。堂ヶ浦の子がやってる戦法、勝つためじゃないとするとかなりやりにくいぞ」 「そうだな」 「それでも対策を考えたいんです。このままじゃ、みんなも納得できないでしょうから」 「委員会に報告して処分を待つよりも、戦って反則を潰し、きっちり落とし前をつける……か」 「……はい、そうです。俺はきちんと戦った上で、黒渕に勝ちたいと思ってます」 「委員会に報告は上げておくが、公的な試合でない以上、処分は限定的だろうな」 「しかし、一番優位に立てそうな倉科がケガとはな。そうなるとメインに据えるのは鳶沢か?」 「いえ、その役目は莉佳にさせようと思います」 「ほう……?」 「莉佳ちゃんにか……?」 二人が揃って、意外だという反応を示す。 無理もない。二人が想定していた対黒渕の作戦には、きっと莉佳は含まれていなかっただろうから。 「なあ、晶也」 「はい」 「厳しいことを言うようだが、今回の作戦において、おそらく市ノ瀬は一番向いてないと思うぞ」 「同感だな。技術的なことや経験面では良いものを持っていると思うが、性格がとにかくミスマッチだ」 「仰ることはもっともです。でも……彼女は、被害にあった高藤の部員です」 「それならば、今の部長でもいいんじゃないのか? キャリアなら間違いなく彼女の方だろう」 「傷は軽微だったとはいえ、佐藤院さんは黒渕との戦いで一度負けています。心理戦で不利になりかねません」 「前知識がない分、優位に働くこともある、か」 「はい、そうです。それに性格面についても、適したものに変えていくのは可能だと判断しました」 「う〜ん……」 自分で答えながらも、無理を通している部分があるなと思った。 先生たちの言うように、きちんと勝とうと思ったら、ファイターとして成長著しいみさきか、もしくは経験を買って佐藤院さんだろう。 でも、ただでさえ自信をなくしている莉佳が、この上戦えないということになったら。 これをきっかけに、FCをやめてしまうかもしれない。空を飛ぶことすら、嫌いになるかもしれない。 ……もうそんなことは、ごめんだ。 「わかった。対抗できる練習法を考えていこう」 「おい葵……それでいいのか?」 「晶也がそう言ったんだ。一度決めた以上、フォローするのが仕事だろ?」 「ありがとうございます……先生」 「わかった、その通りだな。早速フォーメーションから考えていくか」 「すみません、白瀬さん」 「いいよいいよ。ただ、選手を鍛えるだけじゃなく、性格面も変えていくってのは至難の業だぞ?」 「……はい、覚悟していきます」 やることは決まった。あとはいかに本人に納得をさせて、取り組んでいくかだ。 立て続けのショックのあとだけに、やや心配ではあるけれど……。 俺が不安そうにしていたら、何も始まらない。空元気でも出して、しっかりしないと。 「晶也は帰ったか?」 「ああ。当然だが、悩んでいるみたいだったな」 「当然だろう。同じ部のメンバーがやられているんだ。私だって内心は腹が立って仕方がない」 「……葵、わかってるとは思うが」 「昔みたいに突然怒鳴り込みに行くとでも思ったか?」 「お前、切れるとホント恐いからな」 「さすがにもうしないさ。だが、大人として向こうの顧問にはケジメをつけてもらう」 「そう言うだろうと思って先に手は打っておいた。明日香ちゃんの件を表沙汰にしない代わりに、堂ヶ浦でも処分はなされるだろうさ」 「ふっ、そうか……すまないな」 「ただ、ちょっと気がかりなこともあってな」 「……それは?」 「お前もさっき言っていたが、黒渕霞……彼女だけは堂ヶ浦の中においても相当異色の存在らしい」 「相手を圧倒することに貪欲すぎるというか……。まるでFC全体を憎んでいるかのような、そんな破壊的な行動を続けている」 「……何か、深いわけでもありそうだな」 「ああ。晶也たちが変に巻き込まれなければいいんだが」 「明日香を連れて病院へ行ってきたんですが、しばらくは部活をお休みすることになりました」 明日香についての経過をみんなに報告する。やはりと言うか芳しい物ではなかった。 「とはいえ、日常生活を送る上ではあまり不自由ないので、『心配とかしないでください〜』ということでした」 「でも、部活はお休みなんだよね?」 「出てくるとなると、どうしても身体動かしたくなっちゃうだろうからって」 「なるほど……明日香先輩なら納得の理由です」 「絶対に、楽しくなっちゃってケガしたとこ動かしちゃうだろうしね〜」 「なんだか申し訳ないです……」 「莉佳ちゃんのせいじゃないでしょ、これは」 「そうそう、あのズルい戦い方する子が悪いんだからね」 「とは言え、私たちのために倉科明日香が戦い、そしてケガをしたのは事実ですわ」 「まあ気持ちは分かるけど、今は平常通り練習をすることが先ですから」 「しかし……」 「佐藤院さんも、部長としてこれ以上の混乱は避けたいんじゃないですか?」 「……そうですわね。このままでは高藤の名がすたりますわ。一日も早く、元の状態に戻さないと」 佐藤院さんを納得させ、ひとまずは皆の意識を練習に向ける。 「で、これからしばらくの練習についてだけど、秋の大会に向けてその対策を意識していこうと思う」 「大会に向けての対策?」 「ああ。具体的に言うと、黒渕へ向けての対策だ」 「……っ!」 莉佳がハッとした顔で俺の方を見つめる。 「もちろん、大会で当たると決まったわけじゃないし、それだけの為に練習するつもりでもないけど」 「もう、黒渕の思い通りにはさせない。俺が約束する」 明日香をケガさせてしまった時点で、コーチとしては情けない限りなんだけど……。 だからこそ、これ以上は皆に心配させないよう、しっかりとした対策を練っておきたいと思う。 「そこで、今日の練習なんだけど」 「みんなには、キャッチボールをやってもらおうと思う」 「え?」 「キャッチ?」 「ボールですか?」 「フライングサーカスに球技部門とかあったっけ?」 「言うまでもなく、ございませんわ」 「想定通りの反応をありがとう。で、みんなが思ってるようなキャッチボールとは違うんだ」 「いったい、どんなものなんですか……?」 「それは実際にやってもらった方がいいだろうな。じゃ、窓果を除いてみんな一旦空に上がろうか」 「わたしは高みの見物ってわけね〜。みんながんばってー」 「あ、窓果は下で記録の方よろしくな。確認すること多めで、絶対に大変だから」 「げっ、そんなひどいーっ!」 「よし、じゃあ説明した通りにやってみようか」 「は、はい」 数メートルおいて、真白とみさきに挟まれた位置に立った莉佳が不安そうにうなずく。 「まず軽く飛んだ真白がぶつかってくるから、莉佳はそれを両手で押さえるんだ」 「そうなると、弾かれますね……」 「それでいいんだ。反動で動いたらまた指示する」 「は、はいっ!」 「んじゃ、行きますよ〜」 軽く飛んでから、 「えいっ」 真白は柔らかく莉佳にぶつかった。 「わっ、と……」 莉佳は反動で後ろに進んでいく。真白の衝突はゆっくりだったので、莉佳もゆっくり。 「そこで反対側を向くんだ。後ろからみさきが迫ってくるぞ」 「あ、はい」 みさきは莉佳が半回転して、自分に正面を見せたのを確認してから、 「莉佳ちゃん、あたしを受け止めてね〜」 「はい。……ん!」 みさきの突撃を受けた莉佳が反動で来た方向へ飛ぶ。 「莉佳さん、行きますよ〜」 「は、はい」 莉佳は、乱れた姿勢を素早く戻しながら、真白の方を向く。 「それっ!」 「は、はい!」 反動で再びみさきの方へ飛んでいく。 「えい!」 「はい!」 莉佳は何度か真白とみさきの間を行ったり来たりした。 「というわけで、これが俺の言っていたキャッチボールだ」 「まさか人間を使ったキャッチボールとはね〜」 「えいっ……なんかちょっと楽しくなってきました」 「上下にトランポリンのある遊戯があったら、こんな感じかもね。えい!」 「わっ、と……ええっと……」 早くも馴染み始めたみさきと真白に対して、莉佳はまだ違和感の方が勝っているようだった。 「じゃ、今度は強めに角度をつけて飛ばしますから、姿勢を変えてみさき先輩の方へ!」 「え? そんな難しいこと……わ? わわっ!」 「はい、今度はたてかいてーん!」 「わっ、わわわ?!」 くるんとみさきに縦回転をつけられて、ぐるぐるまわりながら、真白の方へ飛んでいく。 「回ったり飛んだりって遊園地の遊具にそっくりですよね!」 「は、はわわわわ、はいっ……」 慌てる様子を言葉で表しつつも、莉佳は回転に身を任せていた。 莉佳はふらふらした状態のまま、 「頭も体もくらくらします……」 「次はわたしもくるくるしてみたいです」 「真白をうどん玉のように回してあげようか」 「みさき先輩の手の内で弄ばれるのなら、うどんでもそばでも大丈夫です!」 「やっぱ今のなし」 「そんなあ!」 「……うーん」 莉佳は相変わらず、腑に落ちない様子だ。 「これはタッチされて姿勢を乱された時に、どう立ち直るかの練習なんだ」 「は、はい。どう立ち直るか……ですか?」 「うん。姿勢を戻すのが遅れたら、時にケガに繋がってしまうことになるからな」 「です……ね」 明日香のことを思い出したのか、莉佳の表情が暗くなる。 「そんなに落ち込むことはないよ。繰り返さないためにこうやって練習してるんだからさ」 「はい……」 頷きはしたものの、やはり莉佳の表情は明るくはなかった。 「莉佳は今日の練習、楽しくなかった?」 「はい、楽しかったです……けど」 「けど?」 「こんな、遊んでるような感じでいいのかなって、少しそのことで考えてしまいました」 「いいんだよ、遊んでるような感じで」 「えっ?」 「楽しくて自然と身体を動かして、意識しないうちに上手くなるのが理想の練習だから」 「はあ……」 「じゃ、ちょっと俺は窓果のとこに行って記録を見てくるから」 「あ、はい……」 「あの、佐藤院先輩」 「思いつきませんでしたわね」 「えっ?」 「こういう発想は、わたくしたちには無かったものですわ」 「あの、先輩は……こういう練習も、受け入れられるんですか?」 「大抵の人が、練習と言えば自然といやがるものですわ」 「私はそうじゃありませんけど……」 「あなた一人で部活をするわけではないでしょう? それに、義務感だけでやっていることは、その内容が形だけになりがちですわ」 「……そう……ですね」 「日向晶也は、それがわかっているからこそ、あえて遊びの要素を取り入れ、馴染みやすくしたのですわ」 「それに思いませんか? 黒渕霞の件で落ち込んでいた空気、これで少しは和らいだのではと」 「あっ……」 「日向晶也、敵ながらあっぱれ……いえ、今は味方なので、その言葉は適切ではありませんわね」 「…………」 「真白のやつ、あんなに言ったのに結局頭フラフラのまま飛んじゃってたな」 「ええ……」 「でもまあ、あれで練習の意味なんかもなんとなく掴んでくれてるといいんだけど」 「……はい」 その日の部活のあと。 二人して帰路を飛びつつ、反省も兼ねて話をしていたのだけど。 「…………」 莉佳はどこか上の空のままで、話があまり頭に入っていないようだった。 「莉佳」 「え、ええっ、あ、はいっ」 「……なにか、悩んでる?」 「い、いえ……何も、悩んでないですよ?」 目を逸らし手を横に振りながら、ゆっくりと後退していく。 こんなに全身で表すウソも珍しい。 (……気にしてるんだろうな) その後、特に話すこともないまま俺たちは停留所へと降り立った。 「……さてと」 いつも通りの雰囲気だけど、今日はその動きに少し緊張を含んでいるように見える。 「…………」 俺は何も答えず立ち止まって、先を歩く莉佳を見つめる。 「……あれ?」 やがて莉佳は自分ひとりが先に進んでいることに気付き、そっと振り返った。 「あの……なにか?」 ここでそのまま帰したのでは、莉佳は結局何かを抱えたままになってしまう。 そうならないためにも、ここで空気を抜かなくては。 「……莉佳は、頑張ってると思う」 「えっ、どうしたんですか突然……?」 「誰の世話にもならず、自分のことは二の次で、常にみんなのことを先に考えている」 莉佳らしいと言えばそうなんだけれど、その『らしさ』はきっと、隠されたものであって。 「あの、晶也さん……?」 「本当に頑張ってる……けど」 「流石に、無理しすぎじゃないか?」 「…………っ」 「辛いことがあったんだろ? 言ってくれないかな、私を信じてるなら」 「言ってごらんよ、晶也」 「お前のバラバラになった気持ち、私で良ければ、受け止めてやるから」 どうしてあの時、素直に言うことを聞けなかったんだろう。 意地を張らずに正直になっていれば、もっと楽になれたのかもしれないのに。 世界大会に出るのが怖くて仕方なくて、でも誰にもそのことを言えなくて。 結果、どこの誰かもわからない相手と気まぐれで野試合までして、勝手に自信をなくしてしまった。 「俺さ、これでも莉佳のコーチとして、力になれるようにって思ってるんだよ」 「はい……すごく、ありがたいって思ってます」 「よそ行きの気持ちではな」 「えっ……」 「強がる気持ちは俺にもわかるし、それは色んな場面で必要になるものだと思う」 周りから与えられる印象や願望を、なるべく裏切らないようにするための武器。 でもその武器は諸刃の剣で、使い続けると次第に自分の身をも削っていく。 「そういうのも含めて、俺は莉佳の味方になりたいって思ってる」 「ごめんなさい、晶也さんが何を言ってるのか、私には……」 「あー、わかりにくかったか。んじゃもっとハッキリ言うよ」 照れくささの反動で頭を掻いた後、 「せめて俺の前では強がるなよ、莉佳」 その一言を出した瞬間、 「っ……!」 莉佳の表情が、突然硬くなった。 「無理するな。抱えてるものがあるなら、言ってほしい」 俺が、昔の俺に言ってやりたかったこと。 先生がかつての俺に言ってくれたのに、素直に受け止められなかった言葉。 「…………」 莉佳の表情はずっと硬いままで、凍り付いていて。 「うっ……ひっ……」 でも次第に、それはボロボロと崩れていって。 「わ、私……私はっ……」 しゃくりあげながら言った言葉で、完全に崩壊した。 「私……っ、ほんとは、ぐすっ……もっと、ちゃんとしなくちゃ、いけないのにっ……!」 「なのに、全然成長しないで、ひぐっ……、なにも、できてなく、てっ……!」 「怒りにまかせて……ひっ、めいわく、かけたり……練習のこと、理解できなかったり……」 「うっ、ううっ……ひっ、ぐすっ」 まるで子供がそうするように。 悔しさとやるせなさがない交ぜになった感情が、莉佳の顔に次々と浮かんでいった。 ああ。莉佳って、こんな顔をする子だったんだ。 強がって良い子であろうとしてた裏には、こんな素直な表情が隠れていたんだ。 黒渕との試合の時、怒りを露わにした莉佳の顔。 それは決して唐突に出たものじゃなく、実は素直な性格を表していたんだ。 「ごめんなさい……こんな情けない顔して、ごめんなさい……」 涙を何度も手の甲でぬぐいながら、莉佳は延々としゃくり上げている。 どうしてやるのが、莉佳のためになるのだろう。 「莉佳……」 「ひっく……え、ええっ……!」 莉佳の驚く声が耳元で聞こえてきた。 自然と莉佳の身体を抱き寄せていた。 この間したのとは違って、もっと身体が密着するように。 どくんどくんと莉佳の鼓動が直接伝わってくる。 微かに震える身体も、荒くなっている呼吸音も。 まるで昔の俺を取り入れたかのように、近い場所で聞こえてくる。 「晶也……さん……」 「嫌だったらごめん、離れてくれ。ただ……」 少しだけ、抱き寄せた腕に力を入れる。 「俺で良かったら、頼って欲しい」 彼女の小さな耳に口を寄せて優しくつぶやく。 「…………」 莉佳はしばらくの間、何の言葉も発しなかったけれど。 「あの……」 「……ん」 「このままで……いさせてください」 戸惑ったまま行き場をなくしていた莉佳の両腕が。 「泣き止むまで、晶也さんの身体を私に貸してください……」 俺と同じように背中に回されて、強く抱きしめた。 「……ああ、もちろん」 この時間、停留所には他に人影はなかった。 でも仮に他に誰かがいたとしても、俺は彼女を抱きしめるのを止めるつもりはなかった。 そう覚悟するぐらい、莉佳の身体はか弱くて儚く思えたから。 「ごめんなさい、涙で汚しちゃいましたね」 「ちゃんと洗ってお返しします」 俺にすがりついて泣いたからか、シャツには莉佳の涙の跡がにじんでいた。 「いいよ、そんな。すぐに乾くし」 「でも」 「莉佳が洗濯した俺のシャツ、持って来たら色々とうるさそうだし、周りが」 「あ……それは確かに」 家だと母さんが、学校だとみさきたちがそれぞれめんどくさいことを言ってきそうだ。 「それに、さっきも言ったけど、こんなのすぐに乾くしな」 言いつつ、ふと空を見上げる。 いつしか時間は経って夜空が広がっていた。 「……そうだ」 「ちょっと時間あったら、もう一回、飛ばないか?」 「いいですけど……?」 「こんなに高いところまで飛んできて、どうするんですか?」 「いいからいいから」 かつて練習場にしていた森の上空から、更に奥の方へ。 そして、普段は使わないぐらいの制限ギリギリの高度へと上がっていく。 「この辺なら、誰かの迷惑になることもないな」 俺は手足を大きめに広げ、首をコキコキと鳴らす。 「あの……いったい、何を」 俺は莉佳に無言のまま笑いかけると、息を思いっきり吸い込んでそのまま、 「うおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!」 「きゃあっ!」 「ちっきしょーーーーーっっっっっ!!!!!」 「あ、あの、晶也……さん?」 おろおろする莉佳の前で、俺は渾身の叫びを空に向けて投げつけた。 「……やってみないか?」 「え?」 「大声。なんでもいいから言ってみるといい。溜まった物吐き出したら、ちょっとは楽になるよ」 「そんな、だってそんなことしたら近所めいわ……」 言ってから、キョロキョロと辺りの様子を窺う。 「近所……いませんね、誰も」 「だろ? さ、いっちょやってみよう」 「でも……なんかすごく変なことしてるような」 どうしても踏ん切りがつかないようで、莉佳は軽く下を向いて躊躇している。 「……がんばって、変になるんじゃなかったっけ?」 「うっ……確かに言いました」 「じゃ、これもその練習の一環だ。コーチである俺が言ったってことで、そのせいにしていいから」 その一言で少しは楽になったのか。 「…………っ」 莉佳は顔を上げると、両手をギュッと握りしめた。 「わたし……やってみます」 「うん」 品行方正な莉佳にとっては、かなり思い切りのいることだったようだけど。 すうっ、と息を大きく吸い込むと、 「わああああああああーーーーーっっっ!!!」 「うわっ!」 思わず声を上げる程に莉佳の声は大きかった。 「はあっ、はあっ、はあっ……」 「…………あ」 莉佳はそこでようやく、俺が呆然としてるのに気がついて、 「す、すみません、ちょっと声、大きすぎました……?」 「ううん、そんなことはない。でもびっくりはした」 まさか莉佳の小さな身体から、こんな大きな声が出るなんて……。 「う、うう〜っ……ちょっと思い切りすぎました」 「……でも、今ので少しは楽になったんじゃないのか?」 「……っ」 「言われてみれば……。すごく、身体が軽くなったような気がします」 「よし、じゃあもう一回言ってみるか!」 「え、ええっ……もう一回ですか?」 「するの、恥ずかしいか?」 「…………」 「いえ、言ってみますっ……!」 「よし、いけっ!」 「ちょ、ちょっとノドが痛いです……」 「張りきり過ぎたかな、少しばかり」 結局あの後、数分間にわたって大声大会は開催された。 「でも、本当に気持ちが楽になりました」 「それは良かった。カラオケに行くより安上がりだしな」 「ふふっ、そうですね」 莉佳は笑って、 「晶也さん……ありがとうございました」 「お礼はいいって。言っただろ? コーチになったからにはなんでもするって」 「はい……でも、お礼は言いたいです。だって、本当に感謝しているんですから」 まあ、この丁寧さも含めて莉佳だからな。 自然に出てくるところは仕方ないだろう。 「佐藤院先輩が仰ってました」 「なんて?」 「晶也さんはすごいって。わたくしならこんな練習方法は思いつかない、って」 「そっか……」 まあ、葵さんや白瀬さんのアドバイスから考えたので、完全なオリジナルってわけじゃないけど。 それでも、佐藤院さんをしてそう言わせるのなら、効果的な練習にはなったのだと思う。 「それなのに私ったら遊んでていいのかって、つい思っちゃって」 莉佳はそこで言葉を一度切ると、 「わたし、本当は飛ぶことが楽しいんです」 「明日香みたいなことを言うんだな」 「はい。明日香さんと同じか……それ以上かもしれません」 「でも、部活をしてる時はその気持ちを抑えてました。楽しいことと目標は違うんだって思って」 「だけど、そうじゃないかもって言ってもらえて、少し楽になりました」 「ああ、いいと思うよ、好きってことをもっと出しても」 「はい……正直になりたいです」 強がるところ、用心深いところは、莉佳の良い点にもなるし悪い点にもなる。 ただこのふたつについては、時間を経ることで良い方へと変化していくはずだ。 そのためには俺が信頼を得なければいけないのだけど、きっと今日のことで、少しはそれも増したはずだと思う。 「一緒に練習してれば、変わっていくよきっと」 「……ですね。楽しみにしています」 莉佳もまたその予兆を感じたかのように、にっこりと笑った。 「じゃ、また明日な」 言って、別れようと莉佳に背を向ける。 「あ、あのっ……晶也さんっ」 「ん? な……にっ?」 振り返ったその時。 思わず語尾がおかしくなるぐらい、俺は……。 「…………っ」 さっき俺がしたように、莉佳がギュッと胸へ抱きついてきて。 「…………わ」 ……俺は、すごく動揺してしまった。 「ん……んっ……」 莉佳は、何かを確かめるように俺の胸へ顔を埋めた。 秒針が数回転するぐらい、ゆっくりと時間を過ごしたあとで。 「……はーっ、これで安心して眠れそうです」 やっと、莉佳は身体を離した。 そして呆然とする俺を見て、 「ご、ごめんなさい、びっくりしました……?」 「うん、正直言ってびっくりした」 「あ……あああ、さっき、その、して頂いたから、私からしてもいいのかな、って思っちゃいまして……」 急に申し訳なさそうに、しどろもどろになる莉佳。 その様子が堪らなくかわいらしくて、俺は堪らず、 「いいよ」 「えっ?」 「莉佳の気持ちが収まるんなら、いつでも抱きついてきていいよ」 びっくりしたっていうのは、まさか莉佳の方から近づいてくると思ってなかったからで。 むしろ、ちゃんと頼ってくれるということを、行動で示してくれて安心したぐらいだった。 だから、嫌なことなんかひとつもなかった。 「あ……あぅぅぅ」 莉佳は、驚きとうれしさと戸惑いが混じった顔を浮かべて、 「あ、ありがとうございます、失礼しますっ!!」 恥ずかしさを誤魔化すように、ペコッと頭を下げて家へと駆け込んでいった。 莉佳が駆け込んでいったあとの余韻を、俺はそのまま見送っていた。 でもそれは、余裕の表情で後輩を見守る先輩のそれではなくて……。 「…………」 「……か、かわいかったな……」 妙な部分が決壊しそうになっていた俺が、情けなくもすぐには動けなくなっていたからであって。 これまでと違う視点を莉佳に対して持ってしまった俺が、必死でそれを打ち消すためのクールダウンの時間でもあった。 「い、いや、莉佳は俺をコーチとして信頼してくれてるんだ、それを忘れるな、マジで!」 ひとり自宅の玄関前でそう言い聞かせる姿は、我ながらとっても情けなかった……。 「さあ、じゃあもう一回行きましょう!」 「おっしゃこーい!」 「いきますよーっ、それっ!!」 真白が莉佳の身体を弾きだして、みさきの方へと送る。 「よーし、今度はこっちからいくよ〜、そーれっ!!」 「きゃーっ、目が回ります〜〜〜っ!!」 「莉佳さーん、今度は逆回転いきますよーっ!」 「お、お手柔らかに〜っ、きゃーっ!」 「見違えるようですわね」 「……でしょう?」 「あんなに戸惑いながらやっていた練習が、今日はとても楽しそうに……」 「日向晶也、あなた一体どんなアドバイスを?」 「特に何も言ってないですよ。『肩の力を抜け』とか、そんな程度です」 「……嘘ですわね」 「言葉のニュアンスは違うかもしれませんが、だいたいはそんなところですってば」 佐藤院さんは俺の方をジロッと睨み、その後、フッと笑みを浮かべると、 「まあ、そういうことにしておきましょう」 「そうしてもらえると助かります」 目の前ではみんなが練習に集中している。 莉佳については俺からの直接の影響もあるだろうけど、少なくとも他の部員についてはこの練習方式が良い方に作用していたようだった。 「それーっ、今度は変化球行っちゃうよーっ」 「ひゃあ〜っ、みさき先輩の愛と回転で目が回りますーっ!」 練習を楽しい物にすることは様々なメリットがある。 長時間の練習を難なくこなすことができること、そして、今ひとつやる気のない部員のモチベーションを上げることだ。 俺たちの中ではみさきがそのマイナス方向の筆頭だった。夏の大会以降、どうにも様子が変だったのだ。 このままだと部活自体を辞めかねないと、真剣にその対応を検討していたぐらいだった。 でもその件も、みさき自身のモチベーションの変化によりなんとか無事に着陸させることができた。 『楽しい』とは、それぐらい強い武器になりえるのだ。 「こんなに変わるのなら……、わたくしもコーチしてもらいたいぐらいですわ」 「へえ……?」 めずらしいこともあるものだ。 佐藤院さんほどプライドの高い人が、そういうことを言うこともあるんだな。 「……と、言っていたかもしれませんわね。一年前のわたくしならば」 「ああ、なるほど」 今は違うってことか、さすがに。 「さあ、そろそろ時間ですわ。交代して市ノ瀬さんを休ませましょう」 「ですね……おーい、集合!」 海上で練習する皆に声をかけて集合させた。 「おっけー、じゃあ降りるね」 「莉佳さん、お疲れさま〜」 二人の言葉に笑いかけつつ、一番にこちらへやってくる莉佳の表情は、 「はーい、お疲れ様ですっ!」 憑き物が落ちたかのように、明るい表情に変わっていた。 「……以上で今日の練習についての説明を終わります。あと、コーチから何かありますか?」 「はい」 佐藤院さんから促され、列から一歩前へと出る。 「みなさん、だいぶ練習にも慣れてきたかと思いますが、油断はケガに繋がります。今一度、注意していきましょう」 当初は混乱もあった高藤との合同部活も、次第にお互い慣れてくるようになった。 1週間も経つと元からひとつの部活だったかのように自然と振る舞えるようになって……。 残っていた違和感もすっかりなくなっていた。 「今日の班分けですが、1班はキャッチボール、2班はハイヨーヨー、3班と4班と5班はフィールドフライとなっていますが、その後は入れ替えてください。順番は……」 そして時間が経つにつれて、部活全体も黒渕のショックから立ち直りつつあった。 休んでいた部員も復帰し、次第にいつもの光景を取り戻していく。 いつしか、部員の数も増え、班分けしての練習が普通のものになっていた。 「以上です」 「ありがとうございます、では今日もケガのないよう、気をつけましょう!」 佐藤院さんのかけ声をきっかけに、部員たちが練習場へと散っていく。 「最近、なんだかすごくコーチって感じだねぇ」 「今までの俺はコーチまがいだったのか、知らなかった」 「そういう意味じゃなくてさ、なんかこう大人数に教えてるのって、久奈浜じゃ見かけない光景だからね〜」 確かにそうだよな。 久奈浜だとひとりひとりを相手にコーチできるという利点の反面、どうしてもコーチと選手の距離が曖昧になりやすいという欠点もある。 まあ、無理して直そうとする部分じゃないけれど、高藤での経験が新鮮に映るのもまた事実だ。 「まあでも、そろそろいいかもな」 「あ、やっぱりそのこと考えてた?」 「ひょっとして窓果も同じこと考えてたのか……?」 言うと、窓果はちょっと胸を張って、 「掃除には自信がないけど、マネージャーとしてはちゃんと見てるのよ、わたしゃ」 ……掃除のことを根に持たれてしまったか。 「うん、まあ……頃合いだってわかるよな」 「佐藤院さんに言いに行く?」 「ああ」 「うん、よろしくね〜。わたしもみんなにそれとなく伝えておくから」 俺はその場を離れて、少し離れた所で練習を見守っている佐藤院さんの方へと近づいていく。 「あの、佐藤院さん」 「あら、日向晶也。ちょうどいいところへいらしたわ。お話ししたいことがございましたのよ」 「へえ、奇遇ですね。俺も同じでしたよ」 「ではわたくしの方からでよろしいかしら? すぐに終わる話ですので」 「ええ、どうぞ」 「では先に失礼して……」 佐藤院さんは言うと、ペコリと頭を下げた。 「10日間の合同練習、大変お世話になりましたわ」 ……ああ、やっぱり。 予想通り、佐藤院さんと俺の用件は同じだったようだ。 「おかげさまで部員たちも平静を取り戻し、秋の大会へ向けての体制も整いつつあります」 「……なので、合同練習を今日で終わりにし、明日からはまた別々の行動としましょう、ということですね?」 「そうですわ。さすがに察しがいいですわね」 「同じでしたからね」 「同じ……?」 「話しに来た内容ですよ。俺も同じこと考えていたんです。そろそろ合同練習を解消でいいかな、って」 「…………」 「……佐藤院さん?」 「……妙なところで息が合うものですわね、わたくしたちは」 「確かに……」 ふたりして苦笑した。 「佐藤院先輩、3班のフィールドフライが一通り終わりました」 莉佳が練習場から降りてきて、練習経過を報告した。 「ご苦労様。ではハイヨーヨーに移ってくださいな」 「はい……あっ、何かお話し中でしたか? すみません」 俺がいたことで察したのか、割り込んだことを謝罪する莉佳。 「いいよ、大丈夫だ。今日で合同練習をやめにしようかって、そういう話をしていただけだから」 「えっ……?」 「部員も戻ってきたし、そろそろ時期としてもいいかなって思ってな。莉佳もそう思わないか?」 「そ、そうです……そうですよね……」 「…………はあ」 「…………」 こうして高藤との合同部活は終了した。 莉佳の表情がどこか浮かなかったのは気になったけれど、その他は何事もなく終了したのだった。 そして部活は久奈浜へと戻ってきた。 「あ〜〜〜〜〜〜〜、クーラーが効いてるって素晴らしいことだったんだな〜」 戻ってきて早々、ダラケ虫の帝王が不満の声を上げる。 「海岸とか空の上はクーラーなかったでしょ? それに体育館ならうちだって空調あるじゃない」 「バスケ部とバレー部の間に挟まれて肩身狭く練習するのは嫌なのじゃ〜。それにさ、できるのって柔軟体操ぐらいなもんでしょ?」 「あと部室! 向こうの部室よかったなぁ〜。なんかドリンクとかついてたし〜」 「文句を言うでない。ここにだって冷房設備はあるじゃないか」 言って、扇風機をみさきの方へ向ける。 「ドリンクだってありますよ、ぬるい水道水」 「おぉ〜そういうのじゃないのだ〜、あたしは疲れた時のスポドリや冷風もそうだけど、ぶっちゃけ莉佳ちゃんの甲斐甲斐しい世話を求めてるの!」 「本音が出たな」 「ねー晶也、莉佳ちゃんは来ないの?」 「遊びに来るんじゃないんだぞ。今は高藤が大変な時なんだし、レギュラーである莉佳が向こうにいるのは当然じゃないか」 「ぶー、そうだけど……」 みさきは不満を露わにする。 元々、俺が莉佳のコーチをするという話があった。 だから彼女が久奈浜に来ること自体は本来ならば問題ないことだったんだけど。 (まあ、あんなことがあっちゃな……) アクシデントの後、高藤は以前にも増して結束しなければならない。 その時に、1年生にして注目選手である莉佳の存在はかなり重要なものとなってくる。 いくら本人の希望があると言っても、そう易々とこちらに呼ぶわけにはいかないのだ。 「みさき先輩、わたしという人がいながら……ううっ」 「真白と莉佳ちゃんはジャンルが違うからな〜。莉佳ちゃんはほら、妻って感じあるじゃない?」 「じゃあ、わたしはなんですか。愛人枠……?」 「愛人にするにはちょっとキャラが違いすぎるな〜。うーーーん……フェレット的な?」 「いいです、もうわたしペットとして生きていきます。せめて窓枠でも舐めてキレイにしますから」 「ちょっーーと待った、それって微妙にわたしへのディスり入ってるよね、小姑っぽい遠回しさでさぁ」 「違いますよぉ、誰も名前に窓の字が入ってるのに窓の扱いに長けてないとか言ってませんから〜」 「あ、言われてみればそうだ、名前負けぇ〜」 「うわ〜っ、うわ〜っ、聞いてよ晶也もん、みんながいじめるんだよ〜」 「掃除がんばれよ。あとお前名前呼びグループじゃねえし」 「冷たいよ! わたしもヒロインズに入れてよ!」 「あー、莉佳ちゃん来ないかなー」 「この嫁と姑のギスギスした空気を和らげてほしいですね」 「姑にいびられた哀れなわたしに、優しく『お疲れ様です』ってお茶を入れて欲しいよ〜」 改めてモチベーターの大切さを思い知る。 みさきも真白も一度練習が始まると意外なほど熱心だが、ノるまでがとても長い。 だから最初に景気付けのできる明日香が声を上げて、やれやれとみんなで腰を上げるのがパターンだった。 しかし明日香はケガで離脱し、それに代わってモチベーターになっていた莉佳も高藤へ戻っていった。 佐藤院さんのようにピリッと注意できる人間もおらず、このままでは堕落の一方である。 「ウホンっ……おまえらな」 ここはひとつ、俺が佐藤院さんの代わりになって、しっかりと注意を……。 「ごめんなさい、遅くなりましたっ!」 「ちゃんとし……えええっ?」 しようと思った瞬間に部室の扉が開いて、話題の中心だった人物が現れたのだった。 「あの……みなさん一斉にすごくびっくりされてるんですけど、一体……?」 「きゃーっ、莉佳ちゃん来た、ホントに来たぁっ!」 「え、あっ、はい、来ましたけど……みさきさん?」 「すごいですね、願えば叶うんですねっ」 「願えばって……何を、ですか?」 「莉佳ちゃん、お茶いれたげるから、そこ座って!」 「は、はいっ、ありがとうございますっ……」 莉佳は言われるがままに座り、キョロキョロと見回す。 「あの……晶也さん、これって一体?」 「いや、俺の方が聞きたいんだけど、なんで高藤じゃなくてこっちの練習に?」 「ちゃんとメールを送ったはずなんですが……届いてないですか?」 「メール?」 慌ててスマホを確認する。 いつの間にか未読メッセージが届いていた。 「……ごめん、見逃してた。あんまり頻繁にメールチェックしないから」 「もう説明された後なのだとばかり思ってました」 「すまない」 「ふふっ、電話の方がよかったかもですね」 「でも佐藤院さんは大丈夫だったのか? 莉佳が抜けたら、せっかく立て直した部活が」 「いえ、あの……むしろ佐藤院先輩が、行ってきなさいって仰ってくださったんです」 「えっ……」 「では今日の練習を始めますわ」 「みなさん、ケガのないように気をつけていきましょう」 「はいっ!!」 「はいっ!!」 「はいっ!!」 「はいっ!!」 「はいっ!!」 「はいっ!!」 「…………」 「市ノ瀬さん、ちゃんとやれているかしらね……」 「じゃあ、次はキャッチボールやるから、もう一周したら準備に入ってくれ」 「わかった〜」 「は〜い!」 海上をすいすい飛んでいるみさきと真白に、次の練習のことを告げる。 さっきまでダラダラしてた二人とは思えないぐらい、動きもキビキビしていて見違えるようだ。 まったくもって、莉佳の登場はありがたい限りだった。 「よーし、準備オッケー」 「いつでもいいですよ、晶也センパーイ」 「よーし、じゃあ莉佳をそっちに行かせる」 窓果と一緒に柔軟をしていた莉佳に声をかける。 「莉佳、じゃあそろそろ準備いいか?」 「あ、はいっ」 莉佳は立ち上がると砂をはたいて飛ぶ準備をする。 「なんか……ありがとう。練習に参加してくれて」 モチベーターを必要としていたうちにとっては、まさに渡りに船の状況ではあった。 でもそれはこっちの勝手な事情であって、莉佳にとっては別の話だろう。 「私がそうしたいって言ったから……お礼言われると、逆に申し訳ないです」 莉佳はそう言って笑う。 「そうなのか?」 「はい。晶也さんのコーチをもっと受けたいですから」 「まだ教えて貰わなきゃいけないこと、たくさんありますよね?」 「……ああ、それはもう」 莉佳に教えることはまだたくさんある。 対黒渕戦の話だけでも、今やっているのは防御のことばかりで、これが一段落したら次は攻撃を考えなければいけない。 考え方、判断力、フェイント……。挙げ始めたらキリがない。 「でもまあ……佐藤院さんには今度何かお菓子でも持って行かなきゃいけないかもな」 「ふふっ、そうですね。その時は私も何か持って行くことにします」 莉佳は口に手を当てて笑うと、 「それに……」 「それに?」 少しいたずらっぽい表情を浮かべつつ、 「私の恥ずかしいところを見たんですから、責任とってもらわなきゃです、晶也さんには」 「えっ?!」 「なっ……?!」 「それじゃ、行ってきますねっ!」 いきなりとんでもないことを言って、そのまま空へと上がっていってしまった。 「…………」 「…………」 「……昔さ、スパムメールでよくあったじゃない、『わたしの恥ずかしい画像を見せてあげる』っての」 「……あったな、そういうの」 「で、開けてみると、『これがわたしの恥ずかしい0点の答案です』って書いてあって、恥ずかしいの意味がちゃうやないかーっ! って怒るやつ」 「あはは、あったあった」 「ねー、誰が引っかかるんだよっていう」 「……さっきの莉佳ちゃんのも、一応そういうことだって処理しておくけど、これは貸しだからね」 「いや、だから! これはホントにそのまま勘違いというかあいつが思わせぶりな言い方したからで!」 天然なのかそれともSなのか。 あの日の夜の一件もそうだけど、気のせいか莉佳にはペースを持って行かれている気がする……。 莉佳が再び練習に加わって、数日が経った。 以前とはちょっと違うとは感じていたけれど、莉佳は思っていたよりもずっと変化を見せていた。 「ハイヨーヨー、ローヨーヨー、それぞれ20本ずついきます!」 「よし、行ってこい!」 「同じく行きますっ」 「よし、行ってこい!」 「…………あ」 「ま、晶也さぁん?」 「狙いがバレバレだからさん付けで呼ぶのやめような? で、なんだ」 「つい勢い余って『同じく!』とか言っちゃったんだけど、あたし20本もやる根性ないから、減ら」 「ダメ。飛んでいらっしゃい」 「お、鬼だ、鬼がいらっしゃる……!」 「ぶつくさ言わず飛んでこい、ほらっ」 「うう〜っ、わかったわよーっ」 不満げに言いつつも、みさきもヒョロヒョロと飛んでいく。 「ああみさき先輩、わたしがずっと無事を祈ってますから」 「みさきが練習してるのに、真白はしないってのもなんか変だよな?」 「……それに気づかないフリをしてたのに、晶也センパイってホントにドSですよねっ」 「ドSとかそういうのじゃなくて、真白ひとりが練習で取り残されたら可哀想だなって思ってな」 「んぐっ……」 「で、どうする? 練習するか?」 「い、行きます、行きますって!」 真白もみさきの後を追うように、ヒョロヒョロついていった。 「……すごい効果だな」 莉佳が来てからというもの、みんなとても練習するようになった。 ……明らかに本人の資質以上に。 そしてみんなが練習に慣れ始めてくると、普段の意識までもが変化するようになった。 「……ってわけで、飛んでる時にいきなり来るんだよね、なんかそういう瞬間が」 「すごいです、わたしには全然こないですもん」 「んー、真白がそういうのわかるようになるには、もちっと上手くならないとダメかにゃ〜」 「ううっ……みさき先輩のダメ出し嬉しいですっ」 「立派なSMカップルができつつあるね〜」 練習後の部室、いつもならば他愛のない話で占められるはずなのに……。 莉佳が来て以降はFCの話題がグッと増えた。 「こう、メンブレンの使い方が感覚でわかるというか、なんて言うのかな……」 「みさきさんっ」 「は、はいっ」 「その話、もっと詳しく聞かせてもらっていいでしょうか?」 「いや……別にたいした話じゃないけどホントにいいの?」 「はいっ、なんでしたら今からでも」 「え、もう部活終わりなのにっ……て、こら〜っ! あたしたちを置いてそーっと帰るんじゃない!」 「いやー、だってお邪魔かなって」 「仕方ありませんね、今日は莉佳さんにみさき先輩を譲ります」 「はいっ、ありがとうございます!」 「こらこら、あたしを所有物にするんじゃないよ、ってか、晶也まで帰っちゃうの?!」 「だってお邪魔かなって」 「コピペみたいに適当なセリフ返すなーっ!!」 「……で、結局そのまま話に付き合って、夜までずっとFCトークでございました」 「ご愁傷様でした」 「そこまでとはな……」 久しぶりの登校日、話題はもっぱら莉佳のことだった。 「真面目だなーとは思ってたけど、まさかここまで熱いタイプだとは思わなかったね」 「そうだな、それは本当に意外だった」 練習に真面目に打ち込むタイプなのは知っていたけど、それはあくまでも部活にウエイトを置いているからで。 そこまで、楽しめるタイプだとは思っていなかった。 『空を飛ぶのが大好きなんです』 ……その言葉に嘘偽りなしだったんだな。 「明日香の霊が乗り移ったんだね、な〜む〜」 「ひどいです、わたしまだ生きてます!」 「……まだってなんだよ」 これからすぐにそうなるみたいで縁起でもない。 「でも、ホントに明日香ちゃんがもう一人いるみたいだね」 「う〜っ、早くわたしも復帰したいですっ」 「ここで明日香が戻ってきたら、とんでもなく賑やかになりそうだな……」 強烈なモチベーターがふたり、ガンガンに引っ張る部活。 それはそれでとても楽しそうではある。 「まあ、あまり引っ張られると身体が持たないから、その辺は晶也がちゃんとコントロールしてよね〜」 「そこは任せとけ」 さすがに身体を壊すような無茶はさせない。 もっとも、あまり調子に乗っていると自分でも歯止めが効かないかもしれないので、注意しておく。 「しかしまあ、罪作りだよね〜」 俺の方をなぜかジロジロと見つめながら、みさきは意地悪げな口調で言う。 「何が言いたいんだ」 「言葉通りよ〜。罪作りだと思わない?」 「罪作りって……FCがってことか?」 FCというスポーツ、そして空を飛ぶこと。時間と身体の加減をも忘れてしまうぐらいの魅力がある。 莉佳もまたそれに取り憑かれたひとりだ。対黒渕のことがどうこうより、今は純粋に飛ぶことに夢中だ。 そこには懸命さが生み出す美しさもあるけれど、一方、危うさも孕んでいる。 だからコーチとしてはその危うさに近づかないよう、上手く誘導することが必要になってくる。 みさきもそういうことを言っていると思ってたのだけど。 「………………」 「…………はぁ」 「なんだよその明らかにガッカリした顔!」 「……なんでもない。んじゃ練習行こっか」 「おっし、行こう行こう」 「みなさんお気をつけて〜」 「一体なんだったんだ……」 ……と、一部で理不尽な非難を受けつつも、莉佳を中心とした練習は順調に進んでいた。 「……ま、そういう時に限って降るよね、雨って〜」 「ホントになー……」 そりゃまあ、一日も雨が降らない土地なんてありえないけれど。 こうも練習が乗って来てる時に、雨のせいで一回休みを食らうのは正直言ってつらい。 「というわけで今日の練習はお休み〜。みんなに連絡回しておいてね」 「わかった。窓果の方は明日の調整をよろしくな」 「うん、練習メニューの調整しておくよ〜」 「……で、ちょっと窓果に聞きたいことがあるんだけど」 「おっ、奇遇だねえ。実はわたしも日向くんにちょっと確認したいことがあるんだけどな」 「へえ……どっちから言おうか」 「そりゃもう、コーチからどうぞお先に〜」 ……なんだそりゃ。 と思ったけど、突っ込むようなところでもないので、先に話し始めることにした。 「莉佳のことなんだけどさ」 「……やっぱりそうなんだね」 「やっぱりって?」 「わたしも莉佳ちゃんのことだったから、確認したいこと」 「……そっか」 「あ、ごめん。続けて?」 「そう。それでさ……」 ずっと、引っかかっていることがあった。 莉佳が再び久奈浜に来ることになって、すっかり部の一員となってのことだった。 「莉佳って……うちに馴染みすぎてないか?」 「……あー」 電話口からは、ため息に似たような声が聞こえた。 おそらくは、窓果も同じ違和感を抱いていたのだろう。 「間接的なことだけど、自分の学校のことで明日香をケガさせたの、気にしてるんじゃないかな」 「だから、明日香ちゃんの代わりをしてるっていうか、そういうキャラを演じてるんじゃないかって、日向くんは言いたいんじゃないのかな?」 「……正解だよ」 そう。莉佳はあまりにも、久奈浜にいて欲しい人になりすぎてた。 それこそが、俺が引っかかっていたことだった。 「無理をしてるってわけじゃないんだけど、そういう努力みたいなの、してる気がするんだよ」 「なんか、都合が良すぎるんだよね。わたしたちにとってあの子の存在が」 「だよな」 そう、元々の莉佳はあんなキャラではなかった。真面目ではあるけれどそこまで積極的ではない。 それが、こんな急に変化するなんてこと、本来ならばなかったはずで。 変わったのだとしたら、超常現象が起こったのか、そうでなければ――。 「もちろん考え過ぎかもしれないから、もし本人に言うんだったら気をつけてあげてね」 「ああ、もちろん」 「まあ、何かあってもフォローはするから、コーチは自分の思うままにすればいいと思うよ〜」 「ありがとう、この借りはどこかで返すから」 「これはマネージャーの仕事だから貸し借りは無しで。でも、こないだの恥ずかしい話についてはいずれ聞くから〜」 「切るぞ〜」 「あ、ちょっと、こらーーっ!!」 問答無用で通話を切ったあと、スマホの向こうに感謝をする。 「……さてと」 「…………」 「……出ないな」 莉佳は通話に出なかった。メールを打っても返信が無い。 これまでに何度か連絡した限りではあるけれど、莉佳は真面目にレスを返す方だ。 着信があったら折り返すし、メールもすぐに返信がある。 「……まさか」 窓から外を見ると、薄曇りの空からポツポツと雨粒が落ちてきていた。 ギリギリ、空を飛べるぐらいの天気だった。 「……行ってみるか」 「あれ……いない?」 部室の外から眺めるに、中には人がいなさそうだった。 来たけれどその後家に帰ったという流れかな? そのわりにはまだ電話もかかってこない。他の部員は自宅待機だということだった。 「しかし……俺もかなり濡れちゃったな」 家を出る時にはまだ小雨だったのに、今はもうバスの窓を叩くまでに強い雨へと変わっていた。 「雨宿りしてから帰るか……」 ノブに手をかけ、一気に開ける。 「わわっ!」 「うおおっ!」 扉を一気に開けると、そこには。 ずぶ濡れになって座っている莉佳の姿があった。 「ご、ごめんっ、いるって思わなくって……」 「い、いえっ、私の方こそっ……」 あまり莉佳の方へ目を向けないようにして、椅子へと座る。 「…………」 「…………」 互いに黙り込んでしまう。 やがて、莉佳の方から口を開くと、 「あの、今日の部活は……?」 「この雨だしな。休みの連絡をしようとしたけど、繋がらなかった」 「あ……そっか私、今日はスマホを置き忘れて来ちゃったから」 莉佳は申し訳なさそうに言う。 「慌てて出てきちゃって、それで雨に降られてこの有様です」 「そっか、ついてなかったな」 「なんかこう、飛びたいって気持ちが先走っちゃって。いけないですね、こういうのはっ」 わざと、気を紛らすような明るい言い方で。 いつもなら俺もそれに乗るところだったのだけど、今日はそこへは乗らずに話をする。 「……なあ、莉佳」 「これはお説教ですよね……ごめんなさい。明日の練習でセット追加とか、あ、それだと私は逆に喜んじゃいますよね〜」 「ありがとう」 「えっ……?」 突然お礼を言われて戸惑う莉佳に、 「もし違ってたらごめん。でも、どうしても……気になってしまって」 「何の……ことですか?」 「俺たちのことを気遣って、そうやって明るく振る舞ってくれてるんじゃないのか?」 「――明日香がしてるみたいに」 「晶也……さん」 外の雨脚は更に強くなってきたようだった。 窓に当たる雨の音がパチパチからバチバチへと変わる。 遠くの方で雷鳴が鳴り響いて、やがて近づいてくる予兆を含んでいた。 「………………」 莉佳はずっと黙っていたが、やがて身体の力を抜くと、 「はあ…………」 ため息と一緒に、ぺたんと座り込んだ。 「すごいです、晶也さんは」 「じゃあ、やっぱり……」 「はい、ちょっとだけキャラを作ってました。やっぱり明日香さんと、久奈浜のみなさんに申し訳なくて」 「明日香さんと一緒に練習して、久奈浜のみなさんにとってどれだけ大切な存在か知りました。その存在が無くなった時にどれだけつらいかも」 「だから、少しでもその代わりになれればって、頑張ってみたんですが……付け焼き刃はすぐにわかるんですね」 「いや、実際わからなかったよ。俺は本当に莉佳ってこういう子なのかと思ったぐらいで」 「だったら、なんでわかったんですか?」 「あまりに上手くいきすぎてたから」 「あっ…………」 「優等生で、人のために頑張ろうとする莉佳らしいなって、そこでやっと気づいたんだ」 莉佳にそこで頭を下げる。 「ありがとう。でもそこまで気を遣わなくてもいい。俺たちのためよりも莉佳自身のことを考えて欲しい」 「…………」 「俺の前では強がらないでいいよって、言っただろ?」 あの時、俺の前で泣きじゃくった莉佳は。 勧められて大声で空に叫んでいた莉佳は。 色んなものから解き放たれて自由だったはずだ。 だから今更、そんなことで気負わなくてもいい。 「ふう……」 莉佳がため息をつく。 外では相変わらず雨が降り続いていた。 さっきよりもむしろ、雨音は強くなってきている。 「晶也さんは少し勘違いをされていると思います」 「勘違い……?」 「そうです」 莉佳はにっこりと笑うと、 「確かに、私は久奈浜のみなさんに接する時に、ちょっとだけキャラを作ってました。それは間違いないことです」 「……でも、それって決して無理してたわけじゃないんです」 「え……? でもそんな」 自分と違う性格を演じるのなんて、負担でしかないだろう。 仮に俺だったらすぐに疲れてしまうに違いない。 「なりたかった自分になるため頑張るって言うか……。無理とか強がりじゃなく、そういうのだったんです」 「それって……」 「明日香さんみたいになりたかったんです」 「明日香……みたいに」 こくん、とうなずく。 「はい。あんな風に、心から空を飛ぶのが好きだって、言えるようになりたいなって思ったんです」 「――空を飛ぶのが好きだってことは、紛れもなく嘘じゃない、ホントのことですから」 「ああ……」 「好きなことを素直に言えるって、すごく大変なことなんです。少なくとも私の中では重労働です」 「だから強がったりしてもみたんですけど、それは明らかに無理しててつらくて……」 「そんな時に晶也さんと出会って、強がるなって言われて、もう一度、自分で決め直そうって思ったんです」 「自分がどこに向かえば楽しいのか、って」 莉佳は、俺たちの心地よさのためだけに、性格にカバーをかけていたわけじゃなかった。 それは自分のためでもあったのだ。 これまでと違う形で楽しく生きようとするために。 「黒渕さんとの対戦の時、『強くいたい』って言ったのを覚えてますか?」 「もちろん覚えてるよ」 「その答えなのかなって思ったんです、楽しくいられることが」 「だから一番楽しそうにしてる人を見て、こうなろうって思ったんです」 明日香は確かに黒渕に負けた。 でもその接し方は、明らかに他の人間と異なっていた。 黒渕自身、おそらくは狼狽したんじゃないかと思う。 多分これまで一度も、楽しいという価値観で迫られたことがなかったから。 そしてそれは、莉佳の気持ちにも変化を与えていた。 楽しいは強い。そう思わせただけでも、明日香の戦いに意味はあった。 もちろん、ケガをさせてしまったのはコーチとして痛恨の極みだけれど……。 「というわけなので、あまり心配しないでください」 「私は……ちゃんと元気です」 「……うん、わかった」 莉佳は俺が考えているよりもずっとずっと大人だった。 俺が先走ったために説明させてしまいかえって申し訳ないことをした。 でも、莉佳の考えていることがわかって本当に良かった。 「そうだ、もうひとつ……」 「作ってない、ホントのことがあるんです」 「それって……なんだ?」 「それはですね」 莉佳はそう言って、すっと自分の身体を俺の方に寄せて。 「晶也さん……」 そのまま。 俺の身体へ自分の手を回して、ギュッと抱きついてきた。 「っ……り、か……?」 「ホントのことは、これです……」 「晶也さん、私のことを気遣ってくれて、ありがとうございます……」 「…………」 「感謝の気持ちと、今晶也さんを抱きしめたいって気持ち、これは全部本当のことです……」 莉佳の小さな身体を見ている。 それは俺の両腕の中に、すっぽりと収まっている。 いくらしっかりしているからと言っても、莉佳はひとりの下級生であることに変わりはない。 1年生で名門校のエリート選手として活動し、それだけでも大変なのに、予期せぬアクシデントにまで巻き込まれた。 心が疲れるのは当然だ。 「……俺でよければ、いつでも頼っていいから」 身体を強く抱き寄せて耳元でささやく。 人のことをちゃんと考えて、その上で自分のことも考えていて。 この優しくて小さな女の子を前にして、俺は抑えていたはずのもうひとつの感情が、形になって出てくるのに気づいた。 でも今はもう、それを抑える気にはならなかった。 それは莉佳のことをFCの選手としてではなく、ひとりの人間として支えたいと思ったから。 だから俺はその気持ちを表すためにも、強くその身体を抱きしめた。 「…………はい、頼ります」 莉佳は小さな声で、俺の言葉に応えた。 雨脚は弱まることを知らず、水の束を延々と地面へ叩き付けている。 しばらくは誰も来ないだろうし、帰ることも難しそうだ。 それをどこかで考えに入れた自分が、ちょっと浅ましく感じたけれど。 「…………あっ」 俺は軽く身体を離して、莉佳の顔を真正面に見据えた。 どこか幼さを残しつつも、きれいに整った莉佳の顔。 じっとその目を見つめる。 「………………はい」 莉佳は微かに頷いて、小さく返事をした。 そして俺がどういうつもりかわかったのか、静かに両目を閉じた。 すごく緊張している。 初めて空を飛んだ時と同じぐらい緊張している。 自然と両手に力が入って、痛くしていないか気になってしまう。 ガチガチの身体を呼吸で収めて、そっとゆっくりと唇を近づけて……。 「んっ……」 莉佳の唇と合わせた。 「……ちゅっ」 ふわふわで柔らかくて不思議な感触。 繋がった部分の感覚はドキドキする心で麻痺して、流れこむ互いの呼吸にむしろ意識が集中する。 俺の呼吸と莉佳の呼吸が混ざり合っている。 生まれて初めて、人と呼吸が交ざった。 唇を合わせると同時に初めての経験が増えていく。 「はぁっ……」 長い時間のあとで、やっと唇を離した。 「はぁ……晶也さん……」 莉佳は少し眠そうに見える目を向けながら、すがりつくようにして両腕を背中に回した。 そしてまだ乱れたままの呼吸と一緒に、 「…………すき、です……」 小さな声でそう言って、顔を胸へ埋めた。 「…………」 莉佳の小さな頭と背中をゆっくりと撫でる。 いつしか、濡れた服も乾いていた。 「……俺も、莉佳が好きだ」 せめてちゃんと言わなくてはと。 俺はしっかりと噛みしめるようにして、莉佳に告白した。 「嬉しい……嬉しいです……」 雨音が少しずつ収まりかけていた。 無理をすれば外に出て帰ることもできたけれど。 俺たちはそのまま夜が更けるまで、ずっと一緒に寄り添っていた。 「すっかり遅くなっちゃいましたね……」 「ああ、ほんとに……」 夕方にはもう雨も上がっていたのに、結局帰り損なってしまった。 理由はまあ、有り体に言ってしまえばイチャついていたからだ。 内容についてはちょっと恥ずかしくて言いにくい。ただし、断じてキスから先のことはしていない。 「……あの、早速ちょっと文句を言っていいですか?」 「え、ああ、うん……」 何事だろうと身構える。 「えっとその……キス、しすぎだと思います、晶也さん」 ボッと、顔を真っ赤にしながらそんなことを言ってきた。 「恥ずかしいです……もう」 「ご、ごめん」 キスから先のことはしていないけど、キスだけはたくさんしてしまった。 唇だけに飽き足らず、首筋とか耳とか、頬とか。 莉佳の色んなところが愛おしくて、止まらなかった。 「いやあの、いいんです、いいんですけど……」 「まだこれからその……できるんですし」 「っ……そ、そうですね」 「だから、ちょっと我慢もしてください。ね?」 「はいっ……」 妙に小気味よい返事をしてしまい、それでふたりで笑い合った。 「じゃあ、帰りましょうか」 「うん」 そっと自然に手を繋いで、一緒に飛び上がる。 広がった星空にはさっきまでの雨が嘘のように、雲ひとつ残っていなかった。 「よーし、じゃあ柔軟始めるぞー」 「はいっ」 「はーい」  「はぁーい」 「はいっ」 「はーい」 「はぁーい」 「終わったらいつもの通りフィールドフライ、次のセットは20ずつでいくぞ」 「はいっ」 「はーい」  「はぁーい」 「はいっ」 「はーい」 「はぁーい」 「よし、じゃあ今日も練習を始めます」 「お願いしまーす!」 「お願いしまーす!」 「お願いしまーす!」 「お願いしまーす!」 みんなで挨拶を交わして、いつもの練習を始める。 少し離れたところで見ていると、窓果が手を振ってこちらへやって来た。 「遅い、遅刻」 「仕方ないでしょー。兄ちゃんが体育大の推薦通ったから今日から筋トレだって、それで2時間近く付き合わされたんだから」 「冗談だよ、お疲れ」 ドリンクの入ったペットボトルを投げて渡すと、窓果はそれを受け取ってニカッと笑った。 そのまま俺の横に来てぺたんと座り込む。 「元気そうだねー」 「莉佳のことか?」 「もちろん。あのあと、話したの?」 「ああ、ちょっとな」 「そっか。何言ったかまでは聞かないけど、気のせいかな、今日はあまり構えてない感じがする」 「前とは違うのか?」 「自分で意識して型を作ってるなーってのは同じなんだけど、それが自然というか……自然体なポーズっていうのかな?」 「……難しいことを言うな」 「とにかく良い方向にはなってるってことだよ。安心してる感じはあるもん」 「安心……ね」 窓果の話を聞きつつ、昨日の夜のことを思い出した。 「ん……?」 莉佳と家の前で別れて、すぐにメールが来た。 なんだろうと思って開けるとそこには、 差出人:市ノ瀬莉佳 件名:ありがとうございます 今日はありがとうございました、おやすみなさい 「………………」 「……真面目だなあ」 さっきの今でこの内容というのが、莉佳の拭えない根っからの真面目さというか、気遣いの人間だなと思い知る。 これがたとえば明日香ならば、もっとストレートに好きと書いてきただろう。(注:推測だけど) これがたとえば真白ならば、もっと回りくどく好きと書いてきただろう。(注:推測だけど) これがたとえばみさきならば、そもそもメールなどせずさっさと寝ただろう。(注:推測だけどたぶん当たり) それがこれだ。ありがとうございました、おやすみなさい。 咎めるつもりなんかさらさらないし、むしろ莉佳らしいとますます好きになるメールなんだけど。 「メールなんだし、もうちょっと自由に書い……」 言いかけた時に、追っかけでもう一通メールが届いた。 慌ててメールを開いた。 差出人:市ノ瀬莉佳 件名:なし (空行)  (空行) (空行) (空行)  (空行) (空行) (空行)  (空行) (空行) だいすきです 「…………」 「……あー、もう守る。絶対守る何があっても」 おそらくそこで出されたのは、莉佳なりの超最大の勇気。 きっとベッドの上で悶えまくりつつも、やっとのことで押した送信ボタンなんだろう。 そこまでさせたからには、俺も覚悟しなくてはいけない。 「……大切にします、このメール」 速攻で保存フォルダに入れたのは言うまでもなかった。 (安心……してくれてるんだろうなあ) 昨日の今日で変わったことと言えば、莉佳の横にひとりの男がいるようになったということで。 それが俺である以上、目の前にいる莉佳が少し楽になったように見えるというのは、とても嬉しいことであった。 「だから言葉の端々にも余裕が……って、お〜い、聞いてる、日向くん?」 「っわっ?! き、聞いてる聞いてる」 「……聞いてない時はちゃんと聞いてないって言いなよ。さすがに今のは聞いてないってわかるぞ〜」 「すみません……」 「ま、ともあれよかったじゃない。これで明日香ちゃんが戻ってきたら、それはそれで楽しみになりそうだよね」 「明日香か……」 そう。夏休みが終わる頃には明日香が戻ってくる。 「ちょっと、考えていることがあるんだ」 「明日香ちゃんのことで?」 「それもあるけど、どっちかって言うと莉佳のことかな」 「ほうほう……」 窓果にそっと耳打ちし、計画の内容を話して聞かせた。 めまぐるしく過ぎていった夏休みももうすぐ終わる。 あと10日もすれば新学期になって、じきに秋の大会を迎えることになる。 莉佳は自分のことに、そしてFCとの付き合い方に、どういう答えを出していくんだろうか。 そして俺は莉佳のその答えに対して、良い形で導くことができるんだろうか。 悩みは尽きないけれどやっていくしかない。 莉佳はあの小さな身体で、それらに立ち向かっていくのだから。 「やあ」 いつも通りの爽やかな表情で真藤さんが現れた。 「真藤さん、早かったですね。向こうの練習はどうですか?」 「連日ハードな練習ばかりで疲れるよ。日向くんの練習見学がいい息抜きだね」 と言いながら、真藤さんはどこか楽しそうだ。 真藤さんは葵先生の紹介もあって、今は国外の選手たちと練習をしていた。 上手く状況が噛み合えばヨーロッパの大学に進学し、欧州リーグに参加するかもしれないとのことだった。 今の俺には到底想像もつかない世界だ。 「それで、今日はどんなものを見せてくれるのかな?」 「ちょうど良いところです。あれ、見てください」 俺が指差した先に真藤さんが視線を走らせる。 海上では、みさきと莉佳のペアが練習を開始したところだった。 「あたしがわざと下の位置でタッチされるから、莉佳ちゃんはそこから更にもっかい追い込んでね」 「はいっ、わかりました!」 「んじゃ、行くよ〜」 みさきがスルッと莉佳の下方へと滑り込む。 「こちらもいきますっ」 莉佳はそれを確認し上方へ移動する。 ふたりの位置がほぼ同一線上に揃った瞬間。 「それっ!」 莉佳は一気に下降し、みさきの背中へタッチした。 「きゃーっ、やられたーっ!」 わざとらしい悲鳴を上げ、みさきは海面に向けて飛ばされる。 「そこでもう一度ですっ!」 莉佳は反動から切り返して再びみさきへと突進する。 「ひょーっ!!」 変な悲鳴と共に、みさきの身体が水面へと叩き付けられる。 水しぶきが上がって、みさきの身体がガクンと曲がった。 「だ、大丈夫ですかみさきさんっ」 「だいじょーぶだいじょーぶ、ちゃーんと受け身とったよ〜」 「さ、んじゃもっかいいこっか!」 「はいっ……!」 ふたりはまたさっきの位置へと戻っていった。 その様子を見て、真藤さんが感心したように口を開く。 「へえ、スイシーダか。なるほどね」 「はい。対策として考えたら、これかなと」 黒渕の持ち込んでくる反則には明確な対抗策が必要だ。 それに相手が仕掛けてくる技を理解するためにも、莉佳がこれをできるようになるのは大きな意味がある。 「でもこれは、君の信条には反する技だね」 「ええ……、だから使う時は選びます、もちろん」 スイシーダは混戦に持ち込む技だ。反則ではないけれど、ラフプレイには位置づけられる。 真藤さんもその使い手ではあるけれど、使う場所と相手には気をつけている様子が窺えた。 「そのことは俺じゃなくて別の人間が教えてくれますよ」 「そこまで考えているんだ」 「……はい」 答えたものの、そこまで確証があるわけでもなかった。 莉佳の抱えている内面と、そして憧れと。 考えた結果がそこにあるのは事実だけど、100%の回答というわけではない。 「今僕が見てるだけでも、彼女は間違いなく変わったよ」 真藤さんはそう言ってうなずく。 「なんというか……自然になったよ、すごく。動きも考え方もね」 「真藤さんもそう感じたんですか」 「その言い方だと、僕以外にもそう感じた人がいたということか」 「はい」 「なら、更に確信を持ってそう言えるんじゃないかな」 正直言って、俺にはまだその差はわからない。 それは莉佳の内心を聞いてしまっていて、フラットに物を見られないからだと思う。 でも、そういう余計な情報のない真藤さんが、フラットに見てそう思ったのだとしたら……。 (莉佳は変わりつつあるのかもしれないな) ずっと着続けていた優等生の衣装を、やっと少しずつ脱ぎ始めている。 あとは、代わりの服を見つけてあげるだけだ。 「えっ……本当ですか?」 「ああ、真藤さんが言ってたよ。ずいぶんと変わったなって」 莉佳は俺の報告を聞くと、本当に嬉しそうな顔をした。 「そうですか……真藤先輩がそう言ってくださったんですね」 莉佳にしても佐藤院さんにしてもそうだけど、真藤さんは間違いなくあこがれの人物だ。 (まあ、全国大会優勝だもんな……) 普段から親しくさせて貰っているけど、よくよく考えればとんでもない人だ。 その人からポジティブな意見をもらえただけでも、莉佳にはいい効果が得られるだろう。 「にしてもさっきのスイシーダ、あれをタイミング悪くやられたら確かにキツいよね」 「まあな。正直言ってかなり痛い」 「黒渕さんに使わせないようにしないとですね」 「そうだな。なので次の練習では、ポジショニングのことも含めて話をしようと思う」 やっとのことで、試合展開の細かい話ができるようになった。 アクシデントで練習時間が限られてしまったけれど、莉佳の加入のおかげもあって何とか盛り返せてきた。 「…………」 その莉佳は、今日の練習について何か考えているらしかった。 あとで少し聞いてみることにしよう。 「よし、じゃあ今日はこの辺で解散にしよう。また明日がんばろうな」 「はい」 「はいっ」 「はーい」 「はぁーい」 「はーい」 「スイシーダを覚えていれば、ラフプレイを防げますよね?」 「基本はね。完全ではないけど防御にはなる」 「はい。これを積み重ねていって、黒渕さんへの対抗策を磨きます」 「うん……」 黒渕の仕掛けてきたカニバサミやスイシーダなどのラフプライに対抗する作戦をずっと教えてきた。 その甲斐あって、莉佳は次第にラフプレイへの対抗策を自分で作りつつあった。 それ自体は見事に成長している現れだし、何も悪いことはないのだけれど。 (その次へ行くには、実戦が必要だよな) それもしっかりと強い相手に立ち向かう必要がある。 その為の作戦も、一応は考えているけれど。 (莉佳に上手く伝わるといいんだけどな) 間に合わせられるといいのだけれど。 「晶也さん」 「ん?」 「今日はその……もう部活は終わりですよね?」 「そうだな、みんなももう帰っちゃったし」 みさきたちが部室から出て行って、すでに2時間近く経っていた。 忘れ物を取りに来る気配もないし、ほぼ間違いなく俺たちが戸締まりをすることになる。 「じゃあ……1時間だけ、いいですか?」 「………………」 莉佳と付き合って以降、俺はあることを守ってきた。 それは、キスから先はしないこと。 そしてあまり人目をはばからずイチャイチャしないこと。 要はこれから大会も控えているのに、何をしてるんだと言われそうなことは控えてきたのだ。 「んっ……ちゅっ、ちゅっ……」 ……でも。 俺のそんな意志は、このかわいい女の子の前ではもろく崩れ去る寸前になっていた。 「ん……晶也、さん……ちゅっ……」 その原因は言うまでもなくこの子本人で。 普段の生活の真面目さが嘘に思えるぐらい、莉佳はとにかくあらゆる場面で積極的だった。 ……いや、恋愛に対しても真面目という意味では、これもまた性格によるものなのかもしれないけど。 「晶也さん……ここ、触ってもいいですか?」 莉佳が指差したのは、俺の太ももの部分。 「いいけど……わかってるよね?」 「はい、もちろんです……触っていいのはここだけ、ですね?」 莉佳の細くて小さな手が、俺の太ももにするっと伸びる。 「じゃあ……触ります」 すりすりと、そっと撫でるようにして俺の太ももが触られていく。 (ぐっ……ううっ……!) 莉佳は何かというと、俺の身体に触れてこようとした。 それは顔の一部分であったり、身体だったり、手足だったり。 彼女にとってはただの愛情表現なのだろうけど、俺にとっては生殺しに近い状態なわけであって。 (太もも……あと5センチで、やばい所に……) わざとやってるのかと聞きたくなるぐらい、莉佳は毎回のように危ういところを責めてくるのだった。 「もうちょっとだけ……触らせてくださいね?」 すりすりすりすり。 (ああっ……うあああっ……!) 「はあ……晶也さんの身体、すごく暖かいです……」 夜。両親が揃って出かけている時を狙って、俺の部屋で会ったところまではよかったけれど。 話の行きがかり上、なぜか俺のベッドの上にふたりして並んで寝転がることになって、なぜか身体を密着させることになった。 これでまだ『なにもしていない』のだから、自分でもこの自制心はすごいと思う。 「胸のところ……筋肉がすごいんですね」 「あ、あの、莉佳……? 触るときはその、注意して」 「ふふっ、大丈夫ですよ。絶対に変なところは触りませんから」 言いつつ、莉佳の手は俺の胸の真ん中辺りを、何度も何度も行ったり来たりさせている。 さすさす、と撫でられる度、鼓動が大きくなっていくのがわかる。 (あーやばい、やばいやばいやばい……) 変なところっていうのは、言うまでもなく先端の部分で。 ここを触られたら高い確率で変な気分になって大変なことになるので、先回りして禁じていたのだった。 「なんだか……ずっと触ってても飽きないです」 莉佳は耐えず手を動かしながら、軽く絡ませた足と身体を、もどかしくなるぐらいにゆっくりと動かしている。 おそらくは無意識なのだろうけど、その動きがひとつひとつ俺の身体に反応として伝わってくる。 「はぁ……晶也さん、大好きです……」 そしてこの声と吐息。 これが拷問だとしたらその発明者に賞をあげたい程、莉佳の攻撃はあまりにも厳しかった。 「もう一度……触りますね?」 さすさすさすさす。 (ひぅっ……ひぃぃぃっ……!) ……というようなことがあったのだ。 莉佳のことはもちろん大好きだけれど、その……ちょっとその『好き』が強い感がある。 何かをする前でこの有様では、した後はどうなってしまうんだろうか。 行為の前からすでに俺は不安でいっぱいだった。 「あの、莉佳さん?」 「……はい、わかってます。晶也さんの言いたいことは」 俺が問い直すより先に、莉佳は首をすくめた。 「この前から何度こうしてるんだとか、いくらなんでもイチャイチャし過ぎだろうとか」 「わかってるのなら、その」 「でも……ごめんなさい。私、晶也さんと今すごくぎゅうってしたいんです……」 「あ…………」 やばいな。 なんか、俺の中で外れちゃいけないものが外れかけてる。 「……ごめんなさい」 莉佳は真面目さ故にそう謝りながら、部室の扉の鍵を内側からガチャリとかけた。 「甘えさせてください……」 莉佳が俺の真横に座って、身体全体を預けてくる。 「んっ……」 手を俺の背中に回して顔と身体を密着させる。 こういう時の莉佳はどこまでも無邪気だ。 気合いを入れて甘えてきてるだけあって、いつもの真面目な莉佳とは全然違う。 莉佳の手が俺の首筋をなぞる。 俺の身体に自分の触れていない部分があるのが我慢ならないと言わんばかりに手を伸ばす。 「ちょ、くすぐったいって莉佳」 実際ぞくぞくしていた。 莉佳は莉佳で嫌がる俺の態度に何か感じたのかなかなか積極的だ。 やわらかく甘い匂い。そしてすぐ近くに莉佳がいる。 「……っ。晶也さん」 「なんだ?」 「これ……」 「ん?」 正直わかっていないわけじゃなかった。 勃起している。そしてそれに気付いたら歯止めが利かなくなる。 「これですよこれ」 しかし莉佳はさらにそこに手を伸ばしてくる。 「っ」 俺は思わず莉佳の手を握って制していた。 「これ以上そこに触ったらさすがの俺ももう歯止めがきかなくなるぞ」 俺は言い含めるように莉佳に告げた。 「……私、晶也さんがずっと我慢してたの、すごくつらそうだって思ってました」 「でも、今はそうしなきゃいけない時だから」 黒渕のこともそうだしFC部のことについても、楽しく遊んでいていい免罪符なんてどこにもない。 すべきことをしてからじゃないと、お互いにモヤモヤしたものを抱えたままになってしまう。 特に、莉佳にそれを負わせるのだけは避けたい。だから俺はキス以上のことはしないようにしている。 「晶也さんが真面目に考えてくださってるのはわかります。ですけど……」 莉佳の目が俺の顔を真っ直ぐに見上げてくる。 「我慢……してますよね?」 「うっ……」 そりゃ、してる。 こんなかわいい子を目の前にして身体に触れられまくった上、甘い声でずっと名前を呼ばれてれば、それは。 苦行にも思えるぐらいにつらい気持ちになることもある。 「私に言ってくださったことそのまま返しますよ? ……無理しないで、強がらないでください」 「え……」 「晶也さんに好きって言って、一緒にいられるようになって、本当に気持ちが楽になりました」 「なのに、その晶也さんが私と一緒にいる時に、我慢してつらそうなのは見てて悲しいです」 「晶也さんは、私が悲しそうにしててもいいんですか?」 「……いいわけがないだろ」 「だったら」 莉佳はきゅっと俺の腕を握ってきた。 「この先のこと、我慢しないでください……」 思わず息を飲む。 「……いいのか?」 莉佳は、俺が掴んだ手を優しく握り返してくると、恥ずかしそうに顔を背けながら、 「はい……」 と呟いた。 それで俺はもう、すべての壁を取り払った。 「〜っ」 自分でチャックから一生懸命取り出したくせに実際に目の当たりにすると莉佳は目を丸くした。 「すごく……」 「そっから先はノーコメント……」 「私は晶也さんが喜んでくれるなら何でもしますよ」 「やめてくれ。調子に乗る」 「本当ですってば」 ムッとむくれる莉佳がかわいい。 「あのさ……こういうこと今更聞くのもどうかと思うけど」 「はい……?」 「どうしたらいいのか、わかるのか?」 男ならばそういうサイトなり何なりでどうするのか自然にわかっている。 その手のゲームでだって行為自体はありふれたものだ。 でも女子がどこでどういう知識を得ているかなんて、俺には当然知りようもないことであって。 つい、そんなことを聞いてしまった。 「ふふっ」 莉佳は楽しげに笑うと、 「女の子は耳年増だって、聞いたことありませんか?」 「そういうイメージはあるけど……実際もそうなの?」 「何人か集まったらそういう話はしますよ。私は聞いているだけでしたが……」 「おかげで、こういう時に何をしたらいいかはわかってしまいました」 そういや少女漫画の雑誌かなにかで、口でするあれこれの仕方を解説してたって聞いたな。 男が妄想でしてることよりずっと、女の子の方が知識を持っているのかもしれない。 「……わかりました。お任せします」 「はい、お任せしてください」 いつも通りの丁寧語で答えると。 莉佳は頬をぽっと染めながら唇を近づけてきた。 「ちゅっ。ちゅ……くちゅ……」 最初は軽くやさしいキス。 それから莉佳の舌が亀頭の上をなぞるように這う。 舌でぺろぺろと先端を舐める。 丁寧な愛撫にむずむずが、快感に変わっていく。 ぎこちない手つきが初々しくて、かわいい。興奮が高まる。 「ちゅ、ちゅむっ、れろれろ、ちゅっ……」 「こういうのってほんとに気持ちいいんですか」 「すごくいいよ……やばい」 「んー不思議です」 「自分がされてるとこ想像してみたらいいんじゃないか」 「自分が、ですか……?」 少し考えるような表情のあと、 「……はぅ」 微かな声と共に莉佳の顔の赤みが増した。 想像したらしい。 「晶也さん……えっちです」 消え入るような声で抗議の声を上げる。 自分が今どんな姿なのかわかっていないのか。 俺のモノのそばに顔を寄せる莉佳は例えようもないぐらいにエロい。 「じゃあ、続けさせていただきます……」 ちゅっと一際やさしいキス。 さっきよりも少し消極的にも感じる。 自分のときはそういう風に扱ってほしいということなのかもしれない。 「ちゅ、ちゅ……んちゅ」 というか上目遣いが懇願するように訴えかけてきている気がする。 俺は笑顔で、 「莉佳、もう少し強くてもいいよ。俺もやるときは同じようにするから」 「ううぅ……ふぁい」 莉佳は諦めたのか、また手厚い愛撫を再開してくれる。 「ちゅ、ん……ちゅぷ、んっ」 「私……んっ、ちゃんと……はふぁ、できてますかぁ……?」 「うん、莉佳すっげーかわいい」 「そういうことを聞いてるんじゃないれふ」 とはいえ満更でもなかったらしい。 「ちゅっ、れろ、恥ずかしい……ん、ん……」 言葉とは裏腹にさらに丹念になった気がする。 「っ」 思い出したように莉佳の細い指が俺のモノをしごきはじめる。 実際忘れていたのだろう、おずおずとくにくにと皮をひっぱるように竿に刺激を与えてくる。 俺を気持ちよくしたい一心が伝わってくるようだった。 俺がお礼の代わりに莉佳の頭を撫でる。 「……んっ。んちゅ、はふ」 嬉しそうな莉佳が口に含んでくれる。 「はむ、ん……晶也さんの……あはぁ、私の口の中で、ぴくぴくってしてまふぅ」 「どんどん……ん、おっきくなってきて……このままじゃ入りきらなくなっちゃいまふよぉ……ちゅっ」 「かたくて……ちゅっ……、先っぽから、なんかたくさん、出てきました、ちゅうっ」 俺のモノに懸命に吸いついてくる莉佳。 「はぁ、ふぅ、むちゅ……ぷはぁ」 息継ぎをするように口を離すと、どこかとろんとした目でうかがってくる。 「どこが気持ちよかったですか?」 「え?」 「その、せっかくなら晶也さんが一番気持ちいいところにしたいなって思いまして」 「じゃあ、先っぽのところいいか? 竿の方は手を上下させてしごくみたいにしてさ」 「えっと……はい、こ……こうですか?」 莉佳は少し頭の中でシミュレートするような素振りを見せて再び俺のモノと向き合う。 「そんなにしっかり見られるとさすがにちょっと恥ずかしいよ」 「先っぽのとこ、よく見たらさかさまのハートマークみたいでかわいいなって」 「その感性はちょっとわからないな」 「このハートは私にしか向けちゃだめですからね」 「こんなとこにそんなものがあるのを知ってるのは莉佳だけだよ」 莉佳は照れたように微笑むと、そのハートを見つめて 「ここ、よく見たらつるつるじゃなくてちょっとぶつぶつしてるんですね」 「気持ち悪いか?」 「いえ、晶也さんのだからでしょうか。全然そんなこと思わなくて」 「舌もちょっとざらざらしてるから軽い摩擦とかで気持ちよくなるんでしょうか」 「嫌になったらすぐ止めていいんだからな」 「大丈夫です……その、私も気持ちよくなっちゃうんです……ちゅっ、はむ……」 「……っ!」 莉佳が俺の先っぽを控え目に咥えた。 「晶也さんの、こんな、かたち、なんでふね……ちゅっ……ちゅっ……」 傘のように広がる輪郭を確かめるように莉佳のちろちろとした舌とやわらかい唇が俺をなぞっていく。 「ぷくっとふくらんでて……はぁ、ちゅ、なんだか、どきどきが、強くなってきます……んっ」 たっぷりのとろっとした莉佳の唾液がぬるぬると塗りたくられていく。 「ふぁ……割れ目がありまふ……ちゅ……」 「うぁ……!」 尿道口の切れ目を舌でなぞられると思わず上半身がびくっと軽く反ってしまった。 「……っ、はぁ……」 「ご、ごめんなさい……痛かったですか……?」 「い、いや、逆。すごく……きたから」 元々、亀頭は厚い皮から薄い皮膚が剥き出しになっている敏感な部分だ。 尿道口はそこからさらに内側に切れ目が入っている。事実上、最も感覚が鋭いのかもしれない。 「きた……そ、そうなんですか」 ちょっと嬉しそうな莉佳。 「わかりました。晶也さんに一番尽くせるところ」 「いや、ちょ、待て莉佳」 嫌な予感がして制止をかけようとするが、 「ちゅうっ! んっ、んんっ、んっんぅっ……んんっ!」 「うぁ、ぁ……!」 莉佳の舌が、先端を尖らせて先っぽの割れ目を執拗になぞってくる。 「ちゅううっ! 晶也さん、ちうぅ、いっぱい、感じて……ちゅる、んんっ」 「ちゅ、ふぁ……ちうううぅぅぅっ! んっ……がまん、しないで……んっ、声とか、出してください……ちゅ……」 亀頭を舌が何重もの円を描くように這い回り、次の瞬間には、尿道口を舌の先でぐりぐりとほじってくる。 「莉、佳……っ」 さすがに声をあげるのはためらわれるが、快感は格段に増していた。 「んじゅ……! ちゅ、ちゅぷちゅぷちゅぷ、ちうぅぅ……」 莉佳の、主に髪の毛から香る甘い香りに、俺のモノから広がる本能の塊のような獣の匂いが混じる。 俺の先端からだらだら溢れる先走りと莉佳が口の中から分泌するとろりとした唾液が溶けてぴちゃぴちゃと水音を立てる。 髪を揺らしながら、莉佳のかわいい顔が、くいくいと深いキスを繰り返す。 触覚、嗅覚、聴覚、視覚から流れ込む気持ちよさが俺の胸の奥と脳を焼いていく。 「ちゅく……ちゅぷ、ん……晶也さんの……震えてますよ……んじゅ」 「びくびくって、ちゅ、ちゅぷっ、ふふ、いいこいいこ、んんぅっ……」 「〜っ」 俺の意思とは無関係に腰ががくがくと震え、浮きはじめていた。 きっと莉佳の口の中の、もっと奥……物理的な意味でなく、快感を求めているんだろう。 「じゅぷっ、んっんんぅっ、晶也さんの、味が、しまふぅ……ちうぅぅ」 頑張ってくれているのは莉佳なのに、息苦しくて喘ぐように酸素を求める。 動悸が激しい。全身に力が入らない。 そして、下半身から熱い塊がせり上がってくるのを感じた。 「莉佳っ、俺……っ」 「あふぁ……晶也さん、我慢、しないで、くださいね……」 俺のモノから口を離した莉佳が手で竿の部分を上下にしごくのは忘れずにうっとりと言ってくる。 「晶也さんが……私で感じて、いっぱい出してくれるとこ見せてくれたら、うれしいです……」 「く、っ……!」 莉佳が俺に尽くして言ってくれたのは伝わったが、あからさまに明言されると恥ずかしい。 羞恥心で反射的に抵抗しようとするが、 「あ、だめっ……私の口の中で、出しちゃってください……はむっ」 「ちゅっ、んじゅっ、ちゅぷちゅぷちゅぷ、ちゅぱっ」 「〜〜〜っ」 無理だ。抗うことなんてできそうもない。 たった数秒前の決意が痺れて薄れ、消えていく。 「ちゅううぅぅぅ! 晶也さん……晶也さんのを、私が……んっ、んんっ」 「じゅ、ちゅ、ちゅ……、私に、くだふぁぃ……ちゅ、ちゅる、ちぅうううう……!」 「イく……莉佳……!」 びゅるっ! びゅるるるるっ! びくっ! びゅるる……! 莉佳に促されるままに、俺は射精した。 「んんん……」 熱く白い塊を次から次へと吐き出し、暴れ、跳ね回る俺の全部を莉佳が口内で受け止めてくれる。 「……っ」 びゅる……びゅるびゅる……びゅるるるっ…… 自分でも信じられない量が噴き出していた。 「んむ……んぅ!」 莉佳の唇の端から白い粘液が零れそうになるのを彼女が慌てて吸い込む。 そして、 「ん……んく……んっ、んくっんくっ……」 莉佳は、口内に溜まった俺の精液を喉を鳴らして飲み下していく。 口でするのが初めての莉佳にとっては大胆な選択に俺は少し心配になるが、 「んくっ……んく、んく、んく……」 莉佳は俺のすべてを受け入れてくれるように次から次へと喉へと流し込む。 「ん……く……はあぁぁ……ふふ……喉からお腹まで、熱くなっちゃいました……」 「けほ、けほっ……!」 「だ、大丈夫か?」 「平気です……喉にちょっとからまっちゃっただけで……」 「無理しなくて良かったんだぞ……?」 「いえ、私もちょっと興味がありましたし、それに……」 「それに?」 莉佳は恥ずかしそうに目だけでちろっと俺を見上げて、 「晶也さん……喜んでくれるかなって」 「莉佳……!」 「晶也さ……あっ!」 莉佳の従順な態度や、いちいちかわいい反応に、俺はもう我慢できなかった。 莉佳の身体を引き上げ、今まで俺が座っていた椅子にほとんど押し倒すようにして寝かせる。 「……っ!」 俺はその莉佳の身体の上に圧し掛かると、ほぼほぼ本能のままに制服の上をたくしあげ、ブラジャーを捲り上げた。 ぷるんっとこぼれた莉佳の形のいい胸が揺れて、俺は我に返った。 「……ごめん」 「どうして謝るんです? えと、ここまできてその気がなくなっちゃったとかでしょうか?」 「そんなわけあるか」 射精したばかりのはずの俺のモノは目の前の莉佳を欲しそうに、天を衝いている。 「なんか、かなり強引にしたというか……」 「最初に晶也さんを強引に誘ったのは私ですから」 「そんなことはない。俺も同意した」 「でも、きっかけは私でしたし……突然押し倒されちゃったときは、ちょっとびっくりしましたけども」 「だけど、晶也さんがその気になってくれてしめしめって思っちゃってますから」 「しめしめって」 「こういうことしたいって考えてたの、私だけだったのかなって内心心配してたもので」 「だから晶也さんに強引にされたときはちょっと、その……ときめいてしまいました……」 「莉佳……」 恥ずかしそうに白状する莉佳がかわいい。 「ですが、しめしめと思ってもときめいても、そのはじめてですので……」 「? 何が言いたい?」 「あまりこのままで放置されていますと、えっと、かなり恥ずかしかったりしまして……」 「そ、そうか」 莉佳の言いたいことが伝わってきて謝るトーンで頷く。 確かに初めて男に服を剥かれ、肌をさらしているのに、そのままなのは酷すぎるよな。 「…………」 「…………」 戸惑いと怯え、羞恥と信頼、そして愛情の入り混じった表情をした莉佳と見つめ合う。 まずは……キスをしよう。 「ふぁ……ぁ、ちゅ、ん、く、んっ……」 「好きだよ、莉佳」 「わたしも……はむ、ちゅっ、ちゅぷ……」 「ちゅっ、ふぁ……んく、ん……んぅっ、ちゅうぅ」 俺が求めると、すぐに応じ、それ以上を返してくれる莉佳に愛しさが募っていく。 俺は、俺がさらけだした莉佳の胸に手を伸ばした。 ふにゅっ…… 「あ、ああんっ!」 いきなり莉佳から大きな嬌声があがって少し驚いた。続ける。 ふにゅっ…… 「やぁ、だめぇ、だめです晶也さんんん……!」 「…………」 「……ふぇ?」 すぐに動きを止めた俺に気付き、莉佳が不思議そうに見上げてくる。 「あの、どうかされましたか?」 「莉佳さ……女の子ってのはそんなに繊細なものなのか?」 「と、言いますと?」 「いや、ちょっとしか触ってないのにそんなに感じてて大丈夫なのか心配になったもんで」 言いながら、そこまでじゃないんじゃないかと自分では思っていた。 だってさっきの莉佳の声は、なんというか本気じゃなかったような気がした。 「えと、こういう風にちゃんと声をあげて反応した方が、男の人は興奮すると聞いたもので……」 少し言いづらそうに莉佳が白状する。 ……困った耳年増だ。 「そんなこと気にしなくていいよ。莉佳とこうしてるだけで堪らなくなってるし」 「でも、私こういうのはじめてですから至らないところも多いかと思いまして……」 「わかった。じゃあ俺が気にならなくする」 「ぁっ……」 再び莉佳の胸に触れる。 「ふぁ……はぁ……あっ、ぁん……」 柔らかで吸い付くような莉佳の肌は触れるだけで気持ちいい。 「はぁ……ん……なんか、ぞくぞくって、します……」 「そういう普通の反応、すごくかわいいよ。興奮する」 「んんん……ほんと、ですかぁ……はあぁ……」 「どんな感じ? 気持ちいい?」 「ん、く……よく、わかんないです……ふうぅぅ……」 ちいさく身体を震わせる莉佳。 何もしなくても指が埋まっていきそうな莉佳の胸をちょっと力を入れて揉んでみる。 「んく……! ん……ん、ふあぁぁ……」 覆い隠すように莉佳の胸をつかんだ俺の手のひら。その指と指の間から莉佳の乳肉がはみ出してくる。 やばい。予想以上にやわらかい。 その感触と、ふるふると堪えるような莉佳の表情に俺のモノがびくんっと震えて硬さを増す。 もっとその快感と可愛さを味わいたくなって執拗なまでに指を動かす。 「あ、はぁ……あぁ、ふぁ……晶也……さん、私の胸、好きになって、くれますか……?」 「とっくに大好きだよ」 「あ、ふ……よかったです……ん、はぁ……」 健気なことを言ってきてくれる莉佳を見ていると、すぐに理性や我慢が吹き飛んでしまう。 俺はお預けにしていた莉佳の胸の頂点、白い胸に浮かび上がる小さな果実のような乳首を指の先で引っ掻いた。 「ひゃんっ……!」 びくびくっと莉佳が身体をのけ反らす。 「ま、晶也さん……そこ、いじめたら……やあぁ」 莉佳の反応がかわいくて嬉しくて、やっぱりいじりすぎてしまう。 くにくにと莉佳の乳首をいじったり、ぐにゅっと胸の中に押し込む。 「ひゃうっ! あ、あぅ……ふああぁぁ」 押し込んだ乳首は元に戻ると、さっきよりもつんと主張しているように見えた。 少し硬く尖った莉佳の乳首を爪の先でかりかりと引っ掻いたり、きゅっと軽くねじりながらつまんでみたりする。 「ひぁっ、あ、あん……晶也さ、ああぁぁっ」 莉佳が言ったように、本当にいじめているみたいだ。 莉佳がかわいくて仕方ないのに止まらない。むしろさらにエスカレートする。 俺は舌を出して莉佳の胸を舐め、ぴんと勃った桜色の乳首を唇で挟んだ。 「ふあっ……あ、ああ、はぁ……あうぅぅっ!」 唇で感じる莉佳の乳首は、指で触れたときよりも熱や硬さが伝わってくる気がする。 懸命にぷっくりとふくらんだ自己主張もより近しく感じる。 俺は莉佳の乳首を吸い込み、舌を這わせて口の中で転がした。 「あ、あぁうぅっ、ふっ、ふあぁ……あはぁっ!」 胸元での愛撫から、快感から逃げるように、莉佳が首を反らして嬌声をあげる。 だけど逃がすわけがない。 口の中の乳首を甘噛みしながら、もう片方の空いている胸へと手を伸ばし、ふにゅっと形を変えた乳房の先っぽを指でつまむ。 「や、は、やぁぁぁ……! はんっ、ふぁっ、はぅ、あ、はああぁぁ……っ!」 びくっ、びくっと小刻みに震える莉佳の身体。 俺は口内と手指、それぞれでいじっている莉佳の胸にこれまでで一際やさしい愛撫をすると、いじめる胸を入れ替えた。 「くふぅん……! はっ、はぁっ……」 直前まで指でいじっていた莉佳の乳首を口に含む。 さっきまで口内で転がしていて、久しぶりに外気に触れた方の乳首は手を伸ばし、やさしく円を描くように一度揉むと、 莉佳のわき腹からへそ、下腹部、足の付け根へと指先を滑らせた。 「え……やっ、そこはぁぁ……!」 「熱い……下着がぐしょぐしょになってるぞ莉佳」 俺の指先が触れた莉佳の局部は、中がふやけていそうなほど熱く湿っていた。 「そ、そういうことは言っちゃダメです……っ!」 あまりの羞恥のためか莉佳が夢から醒めたようにはっきりと抗議してきた。 「下着が汚れるから脱がせていいか?」 「晶也さん……とっくに手遅れだってわかってて言ってますよね?」 莉佳がちょっとむくれている。恥ずかしさのあまりか半分泣いているようにも見える。 「脱がせちゃだめか?」 「い、いいです、けど……少し我に返ってしまったのでちょっとだけムードをですね……」 「ちゅっ……ん、れろ……」 「んんんんん〜〜〜っ……! そ、そういうことじゃ……んちゅ、ちゅぱ、んんっ、くふぅ、ぅぅんっ……!」 「……下、脱がせるからな」 「ふぁぁ……は、はぁ……もう、こういうときだけ……好きですけど」 莉佳が腰を少し浮かせてくれて、俺は下着に指を掛けた。 普通に脱がせるつもりだったけど、くるくると巻いて莉佳の太ももの途中で止まってしまう。 だけど、莉佳のその部分は露わになっていた。 「………………〜〜〜っ」 莉佳が必死に羞恥に堪えている。 それがわかっていても申し訳ないことに俺の視線は莉佳のそこに釘付けになって動かせなかった。 今まで見たことのないピンク色の女性器が莉佳の奥から分泌された愛液でてらてらと輝いていた。 よく見ると、粘液が脱がした下着と莉佳のその部分との間で一本の銀糸となって繋がっている。 その糸は俺の見ている前でつーっと細くなって切れてしまった。 「ど、どうでしょうか……?」 「いや、どうでしょうって聞かれてもな」 莉佳のピンク色の部分はそれだけ濡れていたのに下着に覆われていたせいで、少し蒸れているように見えた。 恥ずかしくて泣きそうな莉佳の顔の下で裏腹に、ひくひくと誘うようにひくついているその部分に思わず生唾を飲み込んでしまう。 「ご、ごめんなさい……わ、私も、もう、何を言っていいかわからなくて……」 莉佳のか細い質問は、内容よりも不安や沈黙を埋めたいためのものだったのだろう。 さっきも裸の莉佳を放置して抗議されたじゃないか。 どこかで、本当に触れていいのかと恐れ多さを感じている。 同時に、莉佳が許してくれたのは俺だけなんだということも思い出す。 少し頼りない指先に決意をこめて、莉佳のその部分に触れる。 「ふぁ、あ、ぁぁぁ……」 莉佳のそこは、やっぱり熱く感じた。 まずは形を確かめるように指の腹で輪郭をなぞっていく。 「あっ、ふぁっ、やっ、晶也さん、やさしすぎ……っ、ゆ、指が、えっちですぅ……」 壊れものを扱うように形をなぞっていると、たちまち俺の指先が第一関節の辺りまで莉佳の愛液で濡れた。 「……っ、くふぅっ、あ、はぁっ……」 羞恥からか何かを押し殺すような声をあげる莉佳。 そんな姿もかわいいけれど、あまり我慢はさせたくない。 俺は実戦経験皆無のあまり詳しくない知識の中から女の子が一番感じると言われている部分を探して触れてみる。 「くうんっ! そ、そこは、あ、あ、あぁ、あぁぁっ……!」 ゆっくりと、やさしく、強くなりすぎないように指と指の間でしごいていく。 尽くしたい。気持ちよくしてあげたい。 莉佳も俺のモノに奉仕してくれたとき、こんな気持ちだったのだろうか。 「んんっ……すご、すごいです、まさ、やさん、そこ、そこ、ふぁ、はぁぁっ……!」 「気持ちよくなれてるか?」 「はい、はい、は、あぁぁっ、ぅあ、ふあぁぁっ……!」 「もう少し続けるな」 「あぁっ、こんな、きもち、きもちいいっ、ふぁっ、あぅっ、あぁ、あ、ああぁぁぁぁ……っ」 俺が動かす指のリズムに合わせて莉佳が声をあげてくれるのが心臓が潰れそうなほど嬉しい。 次第にこの敏感な部分も先ほどの乳首のようにぷっくりと膨らみ、硬くなってくる。 ここもこんな風になるんだな…… もっと、気持ちよくしてあげたい。 「あっ、あぁっ、んく、ふっ、晶也さんの、ゆび、ゆびが、ふぁんっ……!」 指を軽い鉤形に曲げて、軽く愛液を掻き出すように刺激を与える。 くちゅっくちゅっと水音を立つのが酷く扇情的だ。 「あぁぁっ……なんだかっ、じんじん、してっ、むずむず、してきてます、ふぁっ、あ、あぁぁ……!」 もじもじと切なそうに腰を揺らす莉佳。 ちょっと強めにいじってみる。 「ああぁぁぁっ、あぁああっ、ふぁっ、ひぁぁあんっ……!」 指の先で広げてみたり、開いてみたり、逆に挟むようにぎゅっと閉じると、中から溢れた透明な蜜がぴっと顔に飛んできた。 「やあぁぁっ、ぅあっ、あふっ、はぁっ、ああぁぁぁ……!」 もう腰を揺らすという程度じゃない。くねらせて、俺が与える快感に身体を震わせていた。 ……いや、もしかしたらもっと欲しいのか? 俺はわざと動かす指の力を弱めてペースを落としてみる。 「ぅあ、ああぁぁああっ……! はっ、はぁ、は……んく……あぁ……はぁん……うぅ……」 桜色に上気した肌。荒い呼吸。うわずった声。そして…… 「くうぅぅん……晶也……さん、晶也さぁん……」 潤んだ瞳の莉佳が、恥ずかしげにだけど何かをねだるような声音で俺の名前を呼ぶ。 全部勝手な勘違いかもしれないけど、そんな莉佳の姿に俺はもう耐えられなくなっていた。 「莉佳……」 俺は莉佳に顔を近づける。 「俺、莉佳が欲しい。莉佳に挿入れたい」 「私も、晶也さんに全部あげたい……ひとつに……なりたいです」 「ん」 「ぅん……ちゅばっ、くちゅっ……」 この期に及んで少し照れくさくなってじゃれあうようなキスを交わす。 それから俺は、とろとろの愛液がお尻にまで垂れている莉佳の大事な部分に自分のモノをあてがった。 だけど……本当にちゃんと入るんだろうか。 こんなことなら、怖がらずに指を入れて確かめておけばよかった。 俺が逡巡するように自分のモノを莉佳の入り口の辺りでずりずりと上下させていると、 「あ、あの、晶也さん……」 「ん?」 「多分、もうちょっと下の方だと思います……」 「何が?」 「挿入れる場所です……そ、その、本当に多分ですよ? 私だってよくわかってないんですから」 「そっ、そうか」 そういえば女の子の穴は男が思う予想より下の方にあると聞いたことがある。 「ありがとな莉佳」 「も、も少し下、じゃないかと……」 「そ、そうなんだ」 「……〜っ」 恥ずかしそうに目を伏せる莉佳に誘われて、ようやく狙いを定める。 一刻も早く莉佳の中に入りたがってビキビキと硬くなっている自分のモノを自制するように握る。 「いくぞ、莉佳……」 「は、はいっ。いつでもどうぞ……!」 心臓が破裂しそうなほどの動悸で痛いくらいだ。 人は人をこんなに好きになれるのかと思う。俺の中の恋心、愛情、性欲すべてが莉佳を欲していて狂ってしまいそうなほどだった。 逸る気持ちを押さえつけるように一呼吸置いてから。 俺は莉佳の膣口へ俺のモノで狙いを定めたままぐぐっと腰を進めていく。 ちゅぷっ…… 亀頭が愛液に沈み、莉佳の割れ目を押し開いていった。 「んっ……んうっ……」 にゅちゅ……ぎち…… 「……っ!」 しかし、すぐに抵抗が亀頭の進行を阻んだ。 潤滑させる愛液の量が足りていないわけではない。 莉佳の中の、初めて通る膣内が狭すぎるだけだ。 間違いなく莉佳には痛い思いをさせることになる。 莉佳はとっくにその覚悟を決めて俺を受け入れてくれているのだろうけどさすがに気は引ける。 でも止めない。莉佳が止めてくださいと頼んででも来ない限り、俺は莉佳の中に進んでいく。 「ぁあっ……ん、くっ……」 莉佳が苦痛に顔を歪ませる。 きっと莉佳自身、俺を気遣って極力そういった反応をしまいと頑張ってくれていたはずだ。 その莉佳が声をあげたのだから、よっぽどなのだろう。 「無理しないでくれよ? もしここで止めたとしても、俺は莉佳を嫌いになったりしないから」 「そんな、晶也さんだから……っはぁ……私も、っ、無理、したくなっちゃうんです……」 「いいよ。莉佳が一番大事なんだ」 「で、もぉ……この先、またどこかで、無理しなきゃいけない、ならぁ……私は、今がいいです……」 「……健気に笑うなよ。かわいさでイっちゃいそうになる」 「いい、ですよぉ……晶也さんのは、この先ぃ、はぁ、ぜーんぶ、私が受け止めてあげますから」 「……っ、くっ……!」 危うく本当にイきかけてしまった。なんとか堪えた自分を褒めてやりたい。 「っていうか莉佳、お前今絶対わざとだろ。俺をイかせようとして」 「えへ」 悪びれもせずにちょろっと舌を出してくる。 「こんの小悪魔が……」 「ふあぁぁっ……! ああぁ、また乳首、甘噛みぃ、感じすぎちゃいますか、らぁぁぁっ!」 「んん……ふ、は、はあぁぁ、や、ら、んんぅ……」 かわいい乳首を両方とも少しずつ堪能して、また莉佳と目を合わせる。 「もう……ふふっ」 「はは」 最後に子猫のように顔をこすり合わせて、ようやく元の体勢に戻った。 莉佳の中はまだ狭いままだが、さっきまでよりももっとひとつになりたい気持ちが強まっていた。 「覚悟しろよ?」 「それ、こういう時の女の子に言う台詞じゃないと思います……」 「最後に言い残すことはあるか? 延々と乳首を甘噛みしてほしいとか」 「……もう一回、私が欲しいって言ってください」 「わかった」 「莉佳大好きだ。莉佳が欲しい。莉佳の全部を俺にくれ」 その言葉を合図に、 ぎちぎちぎちぎちっ……! 莉佳の中への進行を再開した。 「あ、は、あぁぁぁあぁぁぁ…………っ!」 莉佳が悲鳴のような声をあげる。 だけど俺はもう突き出す腰を止めたりしない。 頑張ってくれている彼女を必要以上に苦しませたくない。 「んんんっ……! あぁ、は、ああぁぁぁぁ……っ!」 ぷちぷちっ……! 何かを引き剥がしたような感覚と共に、莉佳から一際大きな声があがった。 「く、っ……!」 みちみちみちみち……っ 峠を越えたのか、少しだけ進行が楽になる。 俺のモノは、もう竿の半分以上が莉佳の中に埋まっていた。 あと、少しだ……! 「……っ!」 「あぁぁぁっ! ああぁぁぁぁぁぁっ!」 ぐっ……ぎゅちっ……! そんな感覚とともに、俺のモノは莉佳の根元まで埋まっていた。 「はっ、ふあっ、は、はっ、はあぁぁ……!」 さすがの莉佳も、肩を上下させて荒い息をついていた。 「ありがとな莉佳。俺を受け入れてくれて」 さらさらの髪の毛をすくいあげるように頭を撫でた。 「は、はぁ……え、えへ」 薄く浮かんだ目尻の涙には自分でも気付いていない様子で、かわいく微笑みかけてくる。 両足の付け根……突っ込んだ俺のモノでいっぱいになっている隙間からは、莉佳の純潔の証が垂れていた。 「これでやっと……身体も、晶也さんのものになれました……」 「莉佳……」 根元まで莉佳に埋まった俺のモノは中でずっとぎちぎちと締め付けられている。 それとは別に、莉佳の健気な言動に、ぎゅっと胸が締め付けられる。 「あとは……そうですね、晶也さんが気持ちよくなってくださったらうれしいです」 「もうとっくに気持ちいいし俺は莉佳にだってそうなって欲しいんだ」 「心も身体も……いっぱいいっぱいですよぉ」 「……余裕あるなら動いてみるぞ」 「はい、晶也さんのお好きなように……っぅ……!」 少し腰を引いただけで莉佳が悲鳴を押し殺した。 痛々しくも一生懸命に俺を気持ちよくしようとしてくれている。 だから俺も、莉佳を気持ちよくするためにできることをしよう。 「莉佳……」 「ぁ……ちゅっ」 「んん……ちゅるっ、んっ、ぷちゅっ、はぁ、んちゅ、ちうぅぅ……」 「はぁ……莉佳はかわいいな、大好きだよ」 やさしく撫でてから髪をかきあげ、露わになったちいさな耳たぶを甘噛みし、舌の先を尖らせて、耳の中に入ろうとさせる。 「ふあぁぁ……ひぁっ、あぁぁ、んんんっ……」 ちょっとくすぐったそうに肩をあげる莉佳。 俺はその白くて細い首筋に何度も舌を這わせ、鎖骨のラインもつっとなぞる。 「んっ、んんっ……や、です、変なとこをぉ……」 その間にも指は莉佳のわき腹を撫で上げ、上にスライドさせて、膨らみの稜線を手のひらでなぞって頂上へ登り、ぷくっと突き出た乳首を軽く指で弾く。 「おなかとか……ある意味、一番恥ずかしいような……んっ、ふぅ、はあぁ、ああぁぁ……!」 ゆっくりと腰を動かすことも忘れていない。 莉佳の反応を見ながら、少しずつストロークのペースを上げていく。 気持ちよすぎてほとんど拷問だ。気を緩めると、自分勝手に壊れそうなほど腰を動かしてしまいそうになるのを必死に耐える。 それでも莉佳の下乳、くるぶしから足の裏、へそ、お尻といじっている頃には、 「はぁ、はぁ、ふあぁ……」 莉佳の呼吸が荒く乱れ、上ずってきていた。 膣の中も、ゆっくりながら何度も出し入れしているうちにかなりほぐれてきた気がする。 ぎちっと締め付けられていたモノが、今は温かく包まれて、時々うねるような気持ちのいい圧迫に中が絞られそうになる。 莉佳も下半身を動かすと痛みではなく、別の違った感覚に身体を震わせているように見えた。 「莉佳、下の速度をもう少し上げてみていいかな」 「はい、私もその、だいぶ……」 「うん」 少し上半身を起こして、腰の動きと莉佳の反応に集中する。 ずちゅっ、ずちゅっ、ずちゅっ…… 少し動かしただけなのに、俺は早くも後悔していた。 これは……ヤバイ。気持ちよすぎる。 魂を引き抜かれそうなほどの甘美な快感。理性をさらわれそうになるのに必死になって抗う。 「ふぁぁっ、晶也さん、あっ、やあ、あぁぁ……!」 欲望を押さえつけるため、何重にも巻いた鎖にぴしぴしっとヒビが入っていく。 ずちゅっ、ずちゅっずちゅっ…… 「んあ、ぅあ、あ、あ、あ、あはぁぁ……!」 莉佳の手が俺の腕をぎゅっと握ってくる。 何となくその意味を、ずっと誤魔化し続けていた限界をすぐ間近に感じるようになる。 お互いの下半身がどろどろに溶けてひとつになるように遠慮を忘れて突き上げていく。 じゅちゅっじゅちゅっじゅちゅっ……! 「あ、あ、あぁぁ、んあっ、は、んん、まさや、さんっ……」 「莉っ、佳……?」 「このまま、中でっ……中に、まさや、さんの、ください……っ」 「最後っ、まで、あ、あぁぁ、ん、まさや、さんの、モノで、いたいですっ……!」 「わかった」 このまま莉佳の中へ。 莉佳の懇願のようなお願いに俺も覚悟を決めた。 「あ、あ、あぁぁ……ん、んん、ん、んっ……!」 「あぁ、はぁっ、あ、あ、あ、まさやっ、さんっ、まさやさん、まさやさん……!」 「莉佳……!」 「くるっ、くるくる、きちゃいますっ……! まさやさ、あ、あっ、ンあ、あーーーーーーっ!」 びくっと莉佳の身体が跳ね、ぎゅううぅぅっと莉佳の中が俺を締め付けた。 その瞬間、 びゅるっ! びゅるるるるるるる……っ! 俺からも白くて熱い塊が莉佳の粘膜の中に噴き出した。 「ああああーーーーっ! ふぁ、ああぁぁぁぁっ!」 どくっ、どくっ、どくっと莉佳の胎内に俺の精液が流し込まれていく。その度に、莉佳の中が収縮する。 びゅくっ! びゅくっ! びゅくっ! 「んあ、ぅあ、あ、ああああぁぁぁぁ……っ!」 なかなか衰えない俺のモノを、莉佳が身体を震わせてすべて受け止めてくれる。 俺自身、こんなに射精した覚えはない。どれだけ身体が莉佳を繋ぎ止めたいのかと思った。 「はぁ、はふぁ……お腹の中、いっぱいって……ほんとに感じる、ものなんですね……」 ようやく収まってきて、莉佳が身体全体で呼吸を整えながら、そんなことを言ってくる。 「熱い……晶也さんの……うれしい……」 俺は熱さを確かめようと、莉佳の下腹部に手を伸ばそうとして……なんか違う気がしてやめた。 どっちにしろ、魂をごっそり引き抜かれたように身体に力が入らない。 莉佳を潰さないように張った腕だけは体裁を保っているが、一方でがくっと首の力が抜けた。 と。 「ふふ」 「……なに幸せそうに笑ってるんだよ」 「晶也さんってイったあと、そんな顔をされるんですね」 「自分じゃわからないけどな」 「じゃあ私だけが知ってる顔です」 「そうだな」 「これからもたくさん見せてくださいね」 「それって……」 「私のためにたくさん頑張ってくださってありがとうございます……ちゅっ」 そう言って、莉佳は首を伸ばし、疲れを癒してくれるように俺の顔中にキスの嵐を降らせる。 「ちゅ、愛してます、晶也さん……ちゅ、ちゅっ」 そんなの…… 「俺も愛してるよ莉佳……ん」 莉佳の唇を迎え撃ち、吸い上げる。 「ふぁん……ちゅく、じゅるっ、んく、晶也さん……んんっ」 堪らない様子で腕を伸ばし、俺にしがみついてくる莉佳。 そうやって俺たちはいつまでも甘いキスを交わし続けた……。 「……結局、1時間が3時間になっちゃいましたね」 「部室で寝ちゃったのがなあ……」 お互いにすごく楽しくて疲れる行為だっていうのはわかった。 わかったから、次にする時はちゃんと気をつけないと……。 「ね、晶也さん……?」 「んっ?」 「しちゃって……どうでしたか? 後悔とかしてませんか?」 「後悔なんかするわけないだろ……」 実際に肌を合わせてみて、莉佳がこんなに可愛くて、そして大切な存在だってことが改めてわかった。 俺があれこれ悩んでいたことや考えていたことが、結局は自分の言い訳だったんだということも。 我慢してると言えば聞こえはいいけど、実際はそれに莉佳を付き合わせただけだったんだと。 「……良かったです」 莉佳はにっこりと笑って、 「思い切って言ってみましたけど、ホントはどう思ってるのかちょっと恐かったので」 「う……ごめん」 莉佳を不安にさせてしまったのは本当に申し訳ない。 「いえ、いいんです。晶也さんがそれだけ真面目な人だってわかって、すごく安心しましたから」 「……あと、する時はすごくえっちなのも」 「あ……その」 ふたりして顔を真っ赤にして佇んでしまう。 なにしてるんだって感じだ……。 「まあとりあえず遅くなっちゃったし、帰ろう」 手を伸ばして、 「はい……ですねっ」 それを自然に掴む莉佳の手。 ちゃんとふたりでしたことも嬉しかったけど。 こうやって自然に触れられるようになったことが、実は一番嬉しかったかもしれない。 俺は帰る途中、そんなことを考えていた。 葵さんと久しぶりに長く話した日の、夜。 とても鮮明な夢を見た。 夏の大会が終わった頃によく見ていた、希望に満ちあふれた、空を飛ぶ夢。 両手を広げ、上を向いて、風を切りながらどこまでも飛んでいく、夢。 最初はなぜ、こんなものを見るのか、わからなかった。 プレッシャーと悩みを抱えていたあの頃、それに対しての逃避なのかなと、想像していた。 でも、それは違った。 俺は手を繋いでいた。 とても暖かで、繋いでいる部分から全身に熱が伝わるような、そんな、とても暖かな手だった。 夢で見たその子は、俺に向かって、『今とっても楽しいです、わたし』と言った。 俺も何か、同じようなことを返したような気がする。 一緒にいるだけで、一緒に飛んでいるだけで、暖かな気持ちになって、上を向いていられる。 何度も迷いながらも、ここへ戻ってくる。あの強くて優しい笑顔に、出会うことができる。 まるで、太陽と手を繋いでいるような。 「明日香」 夢の中でも、名前を呼ぶ。 俺の頑なだった部分をすべて溶かしてくれた、大好きな人の名前を――。 「…………」 目が覚めたら、布団も掛けずにそのまま寝ていた。 昨日あったすべてのことも、夢の内容も、ぜんぶ、覚えていた。 「ははっ、なんか……」 「……ちょっと、恥ずかしい」 妙に照れくさい気持ちになって、苦笑する。 ちょうど、今から起きて準備をすれば、余裕を持って通学できる時間だった。 「たまには早く起きるか……」 起き上がろうとして、何気なく、右手の辺りを見た。 窓から差し込む朝の光が、ちょうど、手のひらの辺りに差し込んでいて、そこだけが強く熱を持っていた。 「あー、なるほど」 夢の内容を思い出しつつ、妙に納得したのだった。 「この時間だと、人が全然いないんだよな」 いつもよりも30分近く早く家を出ただけで、周りの景色がまったく違うものになる。 「だいたいここで、幼稚園のバスが来て」 歩道を歩いていると、真横の車道にバスが走ってくる。 そして通りの奥から、保母さんと子供たちが歩いてくる。 「で、この辺りで、小学生の一群が飛び出してく……」 角のところで、低学年の男子が数人、走ってくる姿を思い出していたら……。 「あっ……」 「あっ」 不意を突かれて、言葉が出てこなかった。 「お、おはようございますっ」 「う、うん、おはようっ」 互いにぎこちなく頭を下げ、朝のあいさつをした。 「きょ、今日はその、早いんですね、晶也さん」 「あ、うん、なんか早く起きちゃって、それで」 「そう、だったんですね、ははっ、あはは……」 二人とも、絵に描いたようなぎこちなさで、なんということもない会話をしている。 「それで昨日さ」 「っ!!!」 どうやら、その一言はコンロの点火スイッチだったらしく。 一気に、明日香の顔が真っ赤になってしまった。 「あ、あの、明日香……?」 「き、きき昨日、昨日、の、ことですか……?」 何をそんなに慌てているんだ、明日香は……。 (あっ……そっか) そうだ、このタイミングで昨日がどうとか、俺の方がちょっと無神経だった。 単に、葵先生と話したことを伝えたかったのが、明らかに明日香との一件を指したことになっている。 「あ、えーと、昨日……は、その、嬉しかった」 変に誤魔化すのもおかしな話なので、率直に感想を言った。 タイミングも変だし、感謝するのもちょっとおかしいけど、誤解されるような物言いをするよりはマシだ。 「は、はいっ、その、わたしも……」 「嬉しかったです、すごく……」 あっ。やばい、なんかもう、明日香がすごくかわいい。 照れる仕草とか、ちらっと目を合わせたり逸らしたりを繰り返すのとか、もう全部がやばかった。 周りに誰もいなかったら、引き寄せて抱きしめたくなるぐらい、明日香の様子は初々しくて、愛らしかった。 (まあ、抱きしめる勇気は俺にはなかっただろうけど……) それぐらいの気持ちだった、と言いたかったのだ。 実際にできたかどうかについては、ここでは深く考えないことにする。 「明日香はいつもこの時間なの?」 明日香は首を縦に振ると、 「そうですね、ほぼ毎日、この時間に家を出てます」 「結構、早いんだな。すごいよ、俺にはできない」 「ほら、最初にここへ来た時、遅刻しそうだったじゃないですか」 「……そういやそうか」 あの時は確かにギリギリだったっけ。 で、仕方なく空を飛ぶことになり、結果的に間に合ったんだけど。 「だから、ちゃんと間に合うようにって、早めに家を出るようにしたんです」 「ちゃんと活かしてるのか、えらいな」 俺も見習わなきゃいけない点だ。 「あ、でも……」 「でも?」 「あの日、遅刻しそうになったおかげで、晶也さんと出会えたから……」 「だから、そう悪いことばかりでもないです」 「!……な、何言ってんでしょうかね、わたし……。い、今のはその、気にしないでくださいっ!」 あああ、もうっ、かわいいなあ……! 「あの、それで、どうしましょう……?」 「なにが?」 「わたしたちってその……昨日から、付き合ってるってことに、なるんですよね?」 「う……うん」 改めて言われるとさすがに照れるけど、そういうことだ。 「みんなにどう言いますか?」 「あ……っ」 そうだ。 「さすがに、何も言わないわけには……いかないか」 「ですよね……でも、どう言えばいいんでしょうか」 まさか、会議の席上で報告するわけにいかないしな。 こういうのは、ひとりひとりに言っていくしかないか……。 「俺の方から話すよ」 「いいんですか? 晶也さんにお任せして……」 「ああ、明日香からは言いづらいだろうしな」 「そ、そうですねっ……」 しかし、言うとしても、いつ言えばいいんだろうか。 あまり日を開けると言いづらくなるだろうし、早いほうがいいんだろうけど。 「おはよー」 「お、おうっ」 「おはようございますっ、みさきちゃん」 最初からいきなりぎこちなくなってしまった。 あまりに怪しまれる態度を取ると、それだけで妙な詮索をされかねないぞ……。 「今日は二人揃ってなんだね」 「そうだね、最近はずっと別々だったのに」 「…………」 「そっ、そそそそうなんですっ、本当にたまたま、家を出たところで一緒になって、ね、ですよね晶也さんっ」 「あ、ああ、そうだ、そうなんだ、うん、ちょっと偶然が重なって、たまたまなんだ、うん」 「そっか、普段は来る時間が違うもんね」 「コーチと選手の息が合ってるってのはいいことだよ〜」 「そ、そうだな、ははは(あぶないとこだった)」 な、なんとかごまかせた、のか……? みさきのやつ、知らずに言ったんだろうけど、いきなり心臓に悪い話題を振りやがって! 「あ、窓果ー、真白のとこに委員会のプリント持って行くの、まだやってなかったんじゃ」 「そーだね。一緒に行く?」 「ホームルーム始まる前に済ませときたいよね。んじゃお二人、ちょっと行ってくる」 「ああ」 「はーい」 「じゃ、行ってきまーす」 「ふ〜〜〜〜〜っ…………」 「は〜〜〜〜〜っ…………」 二人して、特大のため息をつく。 「き、気づかれてないですよね、今のっ」 「だ、大丈夫だと思うぞ、あの感じだったら」 ひとまずは切り抜けに成功したようだ。 まあしかし、このヒヤヒヤした状況を繰り返すのかと思うと、さっさと言ってしまいたいという気持ちもある。 「放課後、部活の後にでも窓果に相談してみるよ」 「そうですね……」 「……どー思う?」 「……限りなく黒に近いグレーと見た」 「だよね。あたしはむしろ確定なのかなと」 「こないだの休日ぐらいから本格的かなーと思ってたけど、どうやらちょっと進展があったみたいだねー」 「晶也センパイめ……、いつの間にちゃっかりそんなことを」 「で、どーする? 色々と楽しいことできそうだけど」 「ドキドキ質問タイムが始まるんですね! 明日香先輩ってかわいいですねーって晶也センパイに言うとか、お互いを見ている時の視線を観察するとかっ」 「明日香の方にも色々できそうだよね、晶也って格好良くなったよね、って言ってみるとか、告白しちゃおうかなって言ってみるとかー」 「まー、あの二人だとホントにオロオロしちゃうだけだろうし、いたずらは今日だけにして、会議の後にでもバラしちゃおうよ」 「えー、そうなの? 最低3日は楽しめると思ったのに」 「一週間ぐらいいけそうですよねっ」 「君らドSか。でもまあ、これについてはわたしの意見を優先してもらうよ」 「ぶー」 「ぶーじゃないの。ふたりともわかりましたね?」 「はーい」 「わかりましたー」 「それでは、今日のミーティングを始める」 「じ〜〜〜〜〜〜〜〜っ……」 「何こっち見てるんだ、みさき」 妙なこと企んでるんじゃないだろうな……。 「ううん、べっつにー」 「なんか晶也って最近、かっこよくなったよね」 「……っ!!」 「なっ……なんだよ、いきなり」 「ねー、明日香?」 「えっ、ええええっっ!!」 「わっ、わたしは、わわわたしは、その、そのっ」 ……明日香、反応しすぎ反応しすぎ。 「なんでそこで明日香に振るんだよ。おかしいだろ」 「そんな、師匠と弟子の関係じゃない、あたし以上にちゃんと見てるかなって思っただけだよ」 みさき、明らかになにか考えてやがるな。 (カマをかけてるのか、それとも遊んでるだけか) まあ、言ってしまえばいいのかもしれないけど、さすがにこのタイミングはどうかと思う。 「そういや、明日香先輩も、最近いっそうかわいくなった気がします」 「真白まで何を言ってる」 「晶也センパイはそう思いませんか?」 「えっ、いや、俺は、その」 「っ……じぃ〜っ……」 「……明日香、こっちを観察しない」 「はっ、す、すみません、ついっ」 ……これもう、時間の問題じゃないのか。 ていうか、みさきにしろ真白にしろ、この態度と発言は絶対におかしい、おかしすぎる。 「……二人とも、何を企んでる」 「いいえー」 「なにもー」 怪しすぎるわ! 「はいはーい、じゃあマネージャーから」 「はい……どうぞ」 今度はなんだよ、もう 「えっと、二人ってもう、付き合ってるんだよね?」 「うわあっ!」 「わああっ!」 「……ま、予想通りってことで」 「あまりにそのまますぎて、ちょっとつまんないです」 「ま、そうだったね」 「お前ら……いったいいつから、その」 「おお、すまん! 授業が遅くなってな!」 「……うっ」 「……ひっ」 「……あっ」 「……おう、なんだなんだ、この空気は」 「兄ちゃん、とりあえず回れ右して、帰って♪」 「なんでだ!」 「そうか……日向と倉科がなあ……うん」 「なんで兄ちゃんはそんな親戚のおじさんみたいな感想なの」 「まあ、どうしてこうなったかについてはおいおい聞くとして」 「やっぱり、どこが好きなのかとか聞きたいですよね〜」 「わ、わたし答えなきゃいけないんですかっ?!」 「そりゃまあ、当たり前よねぇ」 「ですですっ」 「そんなあ……え、え〜っと、晶也さんの好きなところは」 「答えなくていい明日香。あとみさきと真白も煽らない」 「へー、晶也さんは命令できちゃうんだ」 「さすがは晶也さんです」 「おまえら……」 「はいはいはい、もうそろそろ高藤の人たちも来るし、かわいがりはその辺にして着替えるよー」 「はーい。んじゃ明日香、続きは着替え中にね〜」 「は、うぅ……」 「ふたりでいる時はちょっと違ったりするんですか〜?」 「こら!!!」 「よーしいいぞ、じゃあ次はそこから連続してのコンビネーションで」 「はいっ!」 「真藤さんは明日香の攻撃を避けつつ、裏に回りながら仕掛けていってください」 「わかったよ、日向くん。それじゃ倉科くん、いつでも来てくれ!」 「わかりました、いきますっ!」 ジグザグに動いてからの攻撃が様になってきたので、次は『その後の乾』を想定しての練習に移行していた。 真藤さんは鳥かごの覆いを作りつつも、明日香に崩されそうになったらすぐにブイへ移行する。 もちろん明日香も、それに対応してショートカット、真藤さんの行く先に構え、逆に包囲を作る。 この前見た乾の戦いぶりを参考にしつつ、より戦略的に明日香を動かしていく。 「くっ……本当に速くなったな、倉科くん……!」 「まだまだっ、そんなことないですよっ……!」 実力は伯仲……いや、もうすでに、真藤さんひとりだと、相手をするのが厳しくなってきていた。 「以前からポテンシャルの高さを評価されていたとはいえ、この成長は目を見張るものがある」 「……と、満足げに語る日向コーチであった」 「俺の考えてることを勝手に予測しないでくれ、窓果」 「でも、だいたいそんなとこでしょ?」 「……まあ」 他の人間の目にも、明日香の凄さは同じく映っていた。 特に、マネージャーである窓果の目には、より際だって映っていたに違いない。 「なあ、窓果」 「なーに?」 「ごめん、こんな時期に、その」 先ほどのことを詫びる。 大事な大会を控えた時に、コーチのとるべき行動でないことは、さすがに自分でも理解できていた。 マネージャーからしてみれば、頭の痛い一件だったに違いない。 「ううん、わたしは、良かったと思ってるよ」 「えっ……?」 「だって明日香ちゃん、日向くんのことを、本当にすっっごく好きだったから」 「我慢しなくてよくなったんだって、かえってホッとしてるぐらいだよ」 「……そ、そうなのか?」 「え、いやあの、さすがにちょっとぐらい、気づいてたよね?」 「いや、ぜんぜん……」 「…………」 「ちょーっと日向くん、おでここっちに寄せて?」 「なんだ一体……ぐわっ!」 「なんだ一体……」 「ぐわっ!」 「今のデコピンは明日香ちゃんと神様からの罰だと思いなさい」 「な、なんだよ、俺がそんなに悪いのか!」 「悪いわよ! 鈍感は罪なのだよ、日向くん」 「くっ……!」 「ま、日向くんの度を超した鈍感はともかく、明日香ちゃんとしては良い結果になったなって」 「でも、俺はコーチだし、立場としてはだな」 「じゃ、付き合うのやめる? コーチだからって言って」 「や、やめるわけないだろ、そんなの」 「うん、だよね。だったら、大切にしてね、明日香ちゃんを」 「……はい、それはもう」 「日向くんだったら、コーチとしての立場を見失ったりしないだろうし、だから、わたしとしては安心してるよ」 「だからまあ、月並みな言葉だけども、明日香ちゃんのことも、部活のことも、ちゃんと大切にしてね?」 「…………」 「な、なに、ジッと黙ってこっち見て」 「なんか窓果って、いいマネージャーだな」 「今頃気づいたか、ふふんっ」 一時はどうなることかと思ったけど、こうして、俺と明日香との仲については、皆に知れ渡る結果となったのだった。 ……しかし窓果には、本気で頭が上がりそうもない。 「そうだったんですか、窓果ちゃんが……」 明日香には、地上での出来事を話して聞かせた。 「なんか、がんばらないとって思いましたっ」 拳を握りしめ、ファイトのポーズを取る明日香。 「でも、これからどうしましょうか、わたしたち」 「変に意識しなくていいんじゃないのか? まあ、いつも一緒にいるしな……」 「そ、そうですよねっ」 そう、別に付き合い始めたからと言って、特に二人の間で変わることもない。 強いて言えば、こういう二人きりの時に、ちょっと落ち着かなくてムズムズするぐらいで……。 (これからどうしましょうか、か……) むしろ、考え始めると、大変なことになりそうで。 (い、言えない、明日香には……!) ひとり、頭を振って雑念を払った。 停留所へと到着し、二人で通学路を歩く。 「それじゃ、また明日」 分かれ道のところで、明日香に手を振って別れる。 「あ……」 なのに、明日香は挨拶もないまま、その場に立ったままだった。 「明日香……?」 何か用事でもあるのかと、振り返る。 「あ、いや、そのっ、たいした事じゃないんですけど……」 身体をもじもじさせつつ、明日香は恥ずかしそうな声で、 「その……今日はもうちょっと、お話ししたいです」 そう、言ったのだった。 「迷惑……ですか?」 「……いや、俺も話したいって、思ってた」 「ほ、ほんとですか、良かった……!」 「それじゃ、うちに来てくださいっ」 「え、明日香の家に……?」 「はいっ」 「おじゃまします……」 「あ、今日はみんな出かけてるんです、家に誰もいなくて」 「そうなんだ、じゃあ明日香ひとり……?」 「ですです、だから、晶也さんと喋りたくて」 いきなり家に来て欲しいって言うから、何事かと思ったけど。 (ひとりだとさみしいからってことか) 少し残念な気持ちもあったけど、ホッとした。 (いやいや、と言っても、明日香ひとりなんだぞ、今は!) 状況から考えれば、ドキドキが収まらないのは確かだ。 少なくとも好意は持たれているんだろうけど、その真意はなんなのだろうか……。 (……いや、好意は持たれてるだろ、そりゃ) (告白し合っているのに、何考えてんだ、俺は……) このシチュエーションに浮かれすぎて、頭が少し変になってるな……。 「晶也さん、これ」 明日香から、いちごのクッションをひとつ渡される。 「ん、ありがと」 それを敷いて、ひとまずは腰を下ろす。 「はぁ……」 明日香はベッドの上へ座る。 そして、お互いに顔を見合わせて、笑った。 「……なんだか、変な気持ちです」 「ああ、俺もそんな感じ」 「ふたりで話しても、みんなから言われても、付き合ってるってのが信じられなくて」 「実感がないな、確かに」 「あの、晶也さんは、わたしのこと、どう思……」 「好きだよ、大好きだ」 「わ……わわ、すごい、言えちゃうんですね……」 明日香は顔を真っ赤にして、顔を伏せた。 「わたしも……好きなんです、大好きなんですけど、どうしたらいいのか、わからなくて」 「どうしたらってのは?」 「その、初めてなので、付き合うってなったらどうするのかとか、全然、わからないんです」 「そ、そうですっ、晶也さん、ここでもわたしをコーチしてくれませんか?」 「は、はあぁっ?!」 一体何を言い出すんだ、この子は……。 「こう、付き合ったらこういうことがあるとか、そういうのをコーチしてくれないかなと思って……」 「だ、だめでしょうか?」 「あのさ、明日香」 「はいっ」 「それは無理だよ、コーチなんかできない」 「ダメですか……そうですか」 「だって俺も初めてだし、付き合ったりするの」 「えっ……えええええっ!」 「そんな、本当ですか?!」 「……本当だよ、申し訳ないけど」 気のせいか、酷い仕打ちに遭っている気がする……。 しかし、交際経験が無いのはどうしようもない事実だ。 「……そんなにかっこいいのに、今まで誰とも……」 「それ言ったら、明日香だってそんなにかわいいのに、今まで」 「わ、わたしなんかもうほんっっっっっとに、なにひとつとしてそういう話、なかったですから!!」 「お、おうっ……」 「だから、だから、ダメって言われたらどうしようって、好きだってわかっても不安でしょうがなくて、困ってたんですよ……?」 「そんなの、俺だって似たようなもんだよ、自分の感情がどうなってるのかわからずに悶々として、それが好きだって気づいたのもギリギリで……」 「…………」 「…………」 「………ふふっ」 「………ははっ」 思わず笑い出した。 二人してこんなことで何を一生懸命になっているのだろうと、ほぼ同時に我に返ったのだった。 「あはは……おかしいですね、わたしたち」 「まったくだな、うん」 笑ったことで、少し気分がほぐれた。 心なしか、明日香の表情も柔らかさが増したように思う。 「あ、ごめんなさい、ちょっと出ますね」 ウインドウの名前を確認し、明日香が電話に出る。 「もしもしおかあさん? うん、もう家に帰ってる」 電話で京香さんと話す明日香。 こういう丁寧語じゃない明日香の声は、新鮮でちょっとかわいい。 「え……ええっ? あ、うん……わかった、はい……」 「なんだって言ってたの?」 「そ、それが……その」 明日香は、困ったような、恥ずかしそうな顔をこちらに向けて、 「今日はお父さんと一緒に出先でそのまま泊まるから、帰ってこない、って」 「…………えっ」 「ふたりっきり……ですね」 状況が、『みんな出掛けている』から、『今日は帰ってこない』へ変化し……。 それに伴って、俺の心臓も一気に早鐘を打ち始めた。 「晶也さん、まだ、その……うちに、いてくれますか?」 「うん、そりゃ……明日香、ひとりになっちゃうし」 「よかったです、ひとりになったら、さみしいですもんね」 明日香はホッとしたように笑うと、 「……っ、ええと」 ぎゅっと、スカートの裾を両手で握りしめて、 「……決めました、わたし」 意を決したように言った。 「晶也さん、ちょっと立ってください」 「あ、ああ……なにを?」 「で、ここに座ってください」 明日香は、自分が座っているベッドの脇を、ポンポンと叩いた。 「うん……わかった」 言われるがままに座る。 女の子のベッドに座るというのも初めてのことなので、実は密かに緊張していた。 ふわふわの感触が、ドキドキする感情を煽ってくる。 「あ、明日香……それで、何を決めたんだ……?」 高ぶった感情のまま話しかけた俺に、明日香はにっこりと笑うと、 「今までは、さっきみたいな距離で、お話ししてました」 「そうだな、いつもはそれぐらいだった」 「だから、ちょっと近づいてみることにしたんです。この距離だったら、晶也さんが近くて、ドキドキします」 ……ああ、なるほど。 確かに明日香とこの距離まで近づくのは、初めてのことかもしれない。 一緒に飛んだ時とか、そういう時と違って、ちょっとドキドキする。 「どうするかわからないので、ひとまずこうしてみようかなって……だめでしょうか?」 「ううん、いいよ。やってみよう」 「はい、ありがとうございますっ」 というわけで、どうにも不器用な者同士、近づいてみることにしたのだけど。 「…………」 「…………」 し、しかし、この距離まで近づくと、なんというか、照れる。 普段まじまじと見ることのなかった、明日香の目の形や唇の形を、強く意識してしまう。 「な、なんと言いますか……」 「すごく、恥ずかしいです……」 明日香もまた、顔を赤くしながら、俺の方を見ている。 「そ、そんなにジッと見ていたら、疲れないか?」 「い、いえっ、疲れないです、ぜんぜんっ」 明日香は首を横に振って、 「晶也さんの眉の形とか、鼻とか、じっくり見たことがなくて、今すごく、興味が湧いてきてますっ……」 ……明日香も、俺と同じような感想だったらしい。 「俺も、明日香の目と、あと口を見てる」 「く、口をですか……?」 「うん、ちっちゃくて、かわいいなって……」 「あ、ありがとうございますっ。晶也さんの口も、キリッとしてて、かっこいいです……!」 「ありがとう……そんなとこ褒められたの、初めてだよ」 しかし、これはとてもじゃないけど、他人には一切見せられない。 こういうのがバカップルというのか……。まさか、身を以て体験するとは思わなかったけど。 でも、明日香のかわいい顔を見続けられるのなら、別にバカでもいい。そんなのどうだっていい。 「晶也さん……」 明日香が、かすれたような声で、俺の名前を呼んだ。 その声が、エコーみたいに俺の中で響いて、心の中のスイッチをひとつ、プチンと切った。 「あのさ、明日香」 「はい……」 俺は一瞬、息を飲んだ。 「キス……したい」 明日香は、微かに口を開いたり閉じたりしたけれど、視線はずっと、俺の方から離れなかった。 目を、一度、二度と、まばたきさせて。 「……はい」 明日香は、そっと目を閉じた。 「明日香……」 明日香の顔へ、自分の顔を近づけ、そして。 「っ……」 「んっ……」 ちゅっ、と。俺の唇と、明日香の唇が、微かに触れた。 柔らかくて、ふわふわしていて。あと、明日香がドキドキしているのか、ちょっと震えていて。 「んっ、ちゅっ……」 キスしながら、そのまま、明日香の身体に手を回した。 「あっ、晶也、さ……んっ、んんっ……」 一瞬、口を離した明日香を、再び抱き寄せる。 「ちゅっ……んちゅっ……」 さっきよりも、ずっと強く、明日香の唇に合わせる。 何度も、付けたり離したりして、感触を楽しむ。 「はあっ、晶也、さぁん……んっ……ちゅぅっ……」 明日香の上気した声が、俺の身体を更に熱くする。 両手から伝わる明日香の体温も、いつもより上がっているはずで。 クーラーをつけているはずなのに、ふたりして軽く汗をかくほど、お互いの唇を求め合っていた。 「明日香……かわいい……ちゅっ」 明日香のことを、いくら褒めても足りない。 顔のどの部分も愛らしくて、全部を自分のものにしたい。 「わたしも……晶也さんが……んっ……ちゅうっ」 喋りつつも、それでも何度も唇を合わせる。 言葉よりも先に、行為で相手の好きなところを知らせたくて。 だから、何度も何度も、色んなところにキスをした。 「晶也さんの目って、すごく好きです、わたし」 明日香は言って、俺の目のところにキスをする。 「俺は……明日香のここも好きだな」 耳たぶのところに、軽く唇を当てる。 「ひゃうっ」 「くすぐったかった?」 「は、はい……すこしだけ」 明日香はクスクス笑うと、 「ちょっと、エッチですね、耳たぶのとこにキスとか」 「ごめん、ちょっと触れてみたかったんだ」 「いいんです、エッチでも。わたしも、すごくドキドキしてますし」 明日香はそう言うと、俺の胸の辺りを撫でて、 「晶也さんとこんな近くにいられるなんて、付き合うってすごいことなんですね……」 感動したように、つぶやいた。 「俺も本当に……そう思う」 そのまま、自然な流れで。 特に何か意図したわけではなく、明日香がそうしたから。 右の手のひらで、明日香の胸元を、そっと撫でた。 「ひゃんっ……!」 瞬間、明日香の身体がビクッと跳ねた。 そのまま、逃げるようにして、ベッドの上へと上ってしまった。 「あ、明日香っ?」 「はあ、はあ……ご、ごめんなさい、何もないんです、けど」 「急に、胸を触られて、びっくりしちゃいました……」 「だ、だって……」 「そ、そうですよね、わたしが先に触ったんですよね……、晶也さんは何も悪くないです、何も」 明日香は、少し戸惑ったような目でこちらを見ながら、息を荒くしていた。 大きく柔らかそうな胸は上気して微かに揺れていて、自然と、その部分に目が行く。 「明日香……俺」 「はい……?」 「明日香の胸、もう一度触りたい……」 「…………っ!」 明日香の目が大きく見開かれる。 「ええぇ……さ、触っちゃうんですか……」 「それって……さっきみたいに撫でるとかじゃ……ないんですよね?」 「う、うん……それだけじゃ、ないと思う」 「ひゃ、ひゃぁぁぁ……」 明日香は恥ずかしそうに声を上げると、 「そ、そんなことされたら、わたし、もう絶対におかしくなっちゃいます……」 ……それは、俺もそうなる自信がある。 でも、こんな状態になってしまうと、なにもしないままだと更におかしくなりそうだ。 「ど、どうしても、触りたいですか……?」 「……うん」 「うう……晶也さんの返事がすごく素直です……」 明日香は諦めたように肩を落とすと、 「……はぁぁ、わかりました、すごくはずかしいけど、晶也さんが触りたいのなら……」 明日香は身体から力を抜いて、無防備になった。 「それじゃ……」 俺はベッドに上がり、明日香のすぐ目の前へと近づく。 「ま、晶也さんが……近い、です」 改めてまじまじと、明日香の胸を見る。 何かにつけて大きいとは思っていたけど、こうして見ると、本当に大きい。 「うう……あまりまじまじと見ないでください……、はずかしいです……」 「ごめん……でも、ずっと見ていたいし、触りたい」 「さ、触っちゃうんですか……! うう、い、いいですけど……」 ふにっ、と。 明日香の胸に、両手で触れてみる。 「はぅっ……!」 明日香は声を上げて、身体をビクッと動かした。 制服越しとは言え、明日香の胸はとても柔らかく、そして、とても熱かった。 手を通じて熱が伝わってきて、明日香がドキドキしてるのがわかる。 「ふぁっ、ま、晶也さん、ぜったい、動かしちゃ、だめですよっ」 「え、なんで……?」 「触れられてるだけでもすごくドキドキしてるのに、ここで動かされたりしたら、わたし、死んじゃいます!」 「死んだら嫌だけど、明日香のドキドキしてるとこ、俺は見たいな」 ……一応、言ってから。 「えっ、いや、だからっ……」 両手で円を描くように、胸を軽く揉んだ。 「ふあぁぁっ、あああっ!」 明日香は顔を微かにのけぞらせて、びくびくっと全身を震わせた。 「あ、明日香、かわいい……」 その反応がたまらなく愛らしくて、俺はまた胸を大きく揺らす。 「だ、だからだめです、だめですって……!」 連続した動きで、さっきよりも強めに。 「ああっ、んっ、やぁぁっ……!」 いやいやをするように首を横に振り、明日香は声を上げて強く反応する。 熱い吐息が俺の手にかかって、それが更に感情を高ぶらせる。 「晶也さん、もう、ほんとに、ほんとにだめですっ、これ以上動かしたら、きらいになりますっ」 「えっ……」 「あっ……いや、そんなことないです、きらいとか、ぜったい、きらいにならないですけど、あの、その」 「ちょっとだけ、怒るかもです……ごめんなさい」 少ししょんぼりした口調で、言い直す明日香。 「……わかった、触るのは一旦やめにしよう」 「は、はいっ……すみません」 「その代わりに……」 「えっ……」 俺は明日香の服の裾を掴むと、するりと上へずらしだした。 「えっ、えっ、晶也さん、それはあの、ちがっ……」 抗議する声をあえて無視して、一気に上までめくりあげる。 「や、やあっ……!」 明日香の、小さくいやがる声と共に、ブラに包まれた大きな胸が、空気に晒された。 「は、恥ずかしいですっ……!」 「どうして……?」 「ど、どうしてって、こんな、普段は自分しか見てないものを、晶也さんに見せるなんて、はずかしすぎますっ……」 ……すごく興奮する。そんなこと言われたら。 「そうか、明日香しか見たことないものを、今俺が見てるんだな……」 「く、口に出して言わないでくださいっ」 「触ってみてもいいかな?」 「なっ……なんだか今の晶也さん、ちょっと強引です……」 うん、ごめん。自分でもわかってる。 でも、今のこの明日香を目の前にして、平静でいられる気がまったくしない。 「触るよ……」 明日香の了解が出るその前に。 「はぅっ……!」 さっきよりも地肌に近い感覚の胸を、両手で触れた。 「うう……制服の上からよりもずっと、はあっ……晶也さんの手が感じられます……」 声を上擦らせつつ、興奮させることを言う。 「すごく、熱い……明日香の胸が」 柔らかい感触よりも先に、熱さと、しっとりとした汗を手のひらに感じる。 すごく、興奮しているのだろう。 「も、もういいですか、晶也さんっ、そろそろ……」 明日香の困ったような声。 それでまた少し、いたずら心が芽生えてしまった。 「うん、これで終わりに……」 と、言いつつ、明日香の胸の真ん中から少し下あたりを、軽く指を立てて、掻くようにして触る。 「ひゃうぅっっ!!!」 とたん、明日香の身体がこれまでになく跳ねて、 「は、はあっ、はあっ、はあっ……!」 びっくりしたような顔を、こちらに向けた。 「い、今、晶也さん、変なところ、触りました、よね……?」 「変なところって?」 「そうやってなんでも聞き返すの、ずるいですっ」 「その……わたしの、胸の、先のとこ……です」 「そうか、気づかなかった」 ……ごめん、明日香。俺、普段は嘘をつかないようにしてるけど、今はずっと嘘ばかりついてる。 わかってて触りました。ごめんなさい。 「気づかなかったからさ、明日香」 「うう……いやな予感がしますけど、なんですか……?」 「胸の先のとこ、見たいな、俺」 「わ、わああ……」 明日香は口をパクパクと開閉させた後、 「う、ううう……っ」 怯える子犬のような目を、こちらに向けてきた。 「そんなに恐がらなくても……」 「だ、だって、このブラを取ってしまったら、もう、何も残ってないんですよ……?」 「わたしの胸、なんか大きいとか言われてはずかしくて、そんな恥ずかしいとこ、大好きな晶也さんに見られるとか……」 「そんなの、恥ずかしくて消えたくなります……っ」 死ぬとか消えるとか忙しいなあ、明日香は……。 「うん、ごめん。でも、俺は見たいな、明日香の」 「う、ううっ……晶也さんが、諦めてくれないです」 「だって、明日香のこと、大好きだし、全部知りたいから」 明日香の頬に手を添えて、軽くキスをする。 「んっ……ちゅっ」 「だから、見せて」 「ふぁ……はぁぁ……」 明日香は、とろんとした目でこちらを見つめて、 「晶也さんにそうやってお願いされると、逆らえないです……。見て……ください……」 そう、小さな声で、ささやいた。 「うん……」 うなずくと、ブラをゆっくりとたくし上げて、首の方へとずらしていった。 キュッと締め付けられていた部分が外に出て、やがて、その先端と共に、すべてが露わになった。 「あぅぅっ……や、やっぱり、恥ずかしいです……っ」 明日香が目をギュッと閉じて、顔を真っ赤にしている。 (うっ……は、初めて見た……) 初めて見る女の子の胸は、理性が飛びそうになる程のものだった。 さすがに声には出さなかったけれど。 (しかも、あの明日香の胸なんだよな……) いつも元気で素直な子で、どちらかというとあまり強くは異性を感じなかった明日香。 でも今は、これまでにない程に強く、『女の子』であることを意識している。 「はあ……見られてる……晶也さんに、わたしのを……」 途切れ途切れに、そんなドキドキすることを言う。 明日香の胸は大きいけれど、とてもきれいで、張りのある形だった。 胸の先はピンク色で、ツンと突き出ていた。 乳首って、立つってネットで見たことがあるけど、実際にそうなんだな……とか思っていた。 「ま、晶也さん、そうやってずっと見てるの、すごく、恥ずかしいから……」 「えっと、じゃあ……触る?」 「うっ……そ、それも恥ずかしいですけど、ずっと見られてるのよりかは、そっちの方がいいです……」 「……わかった」 胸を隠すように、両の手で覆う。 「はっ……んんっ……!」 明日香が息を飲む。 両方の胸はどちらも適度な反発力があって、柔らかいけど、手が沈み込むほどではなかった。 肌はしっとりと吸い付くような感触があって、ずっと触れていたい気になってくる。 「やっ、あまり動かしちゃ……んっ!」 手で覆ったまま、ゆっくりと円を描く。 「ああ……あっ、やっ……晶也、さぁん……」 時折、指を少し埋めるようにしながら、明日香の表情と、声を楽しむ。 俺の名前を呼びながら、明日香が少しもどかしげに身体を動かしていく。 その様子だけで、俺はもう、おかしくなりそうだった。 「んん、も、だめ……ああっ……むねだけ、でっ……んっ」 明日香の声が、少しずつ上擦り始めた。 そこで少し、動かすのを止めることにする。 「はあっ……んっ……ふあぁっ……」 興奮をなだめるように、明日香は呼吸を整えていた。 俺の手の中には、さっき明日香が強く反応した、先端がある。 もうすでに固くなっていて、少しでも手を動かせば、またさっきみたいになるのが予測できた。 (明日香、怒るかな……?) 少しだけ心配しながらも、俺は、 「えっ、晶也さん……?」 軽く手を離すと、その先端を右手の指で触れ、転がした。 「ひゃうっ!!」 「だ、だめっ、晶也さん、そこだけさわる、のっ、ああっ……!」 明日香は身体をよじらせて、俺の手をどかそうとする。 でも、その声と身体の動きが、たまらなく扇情的で。 「明日香、もう俺、だめだ」 「はあっ……えっ、だめっ、て……?」 「明日香を滅茶苦茶にしたくなった。我慢できない」 「えっ、えーーーっ……!!」 明日香の乳首をいじる右手をそのままに、俺は左の乳首を、口に含んだ。 「やっ、やぁぁーっ……!」 明日香が、身体を後ろにそらして、俺の口から逃げようとする。 (ごめんな、明日香) 一応、謝りつつも、口で明日香の乳首を吸う。 「ひゃうっ……ん、んぅっ、ちくび、だめ、ですっ、そこばっかり、やっ、やああっ……!」 右手の人差し指で転がしていた乳首を、今度は親指と二本で摘んで、小刻みに動かす。 「ああっ、つ、摘むの、だめ、ですっ、から……っ、んんっ、んうっ、ああっ、あああっ……!」 明日香の声が、上擦ったまま戻らなくなってきた。 俺も高ぶった気持ちをそのままに、舌で明日香の乳首をもてあそぶ。 「ああーーっっ……!!」 明日香の身体が、更に強く反応した。 「な、なめるのだめ、それはだめです、晶也さん聞いてますかっ、そんなの、変になりすぎてっ」 聞こえているけど、明日香の要望には応えずに。 「あああっ、あうぅっ……!」 なおいっそう、舌で明日香の乳首を転がした。 何度も何度も、繰り返し、明日香の胸をいじる。 「やぁっ……もう、ほんとに、ほんとにだめですっ、これ以上、されたら、ほんと、わたしっ……」 明日香は身をよじりながら、なんとかして俺の身体から逃れようとしている。 でもそれは本当に強い力ではなくて、自分の身体の気持ちよさに抗っているような感じで……。 「きゃうっ、んっ……も、もうだめっ、だめっ、あっ……あああっ」 だめと言いつつも、身体に流れてくる快楽に、明日香は次第に負けそうになってきていた。 「あっ、あっ、だめ、もう、あっ、おかし、くっ、おかしくなりそう……です、あっ、あっ、んんんっ……!!」 明日香の声が、何かから解放されたようなものに変わった。 だめと言って抗うことはせず、ただ気持ちよさに従っているような声。 「ああっ、ああっ、いっ、もう、ああっ、ああっ、はあっ、もう、だめ、だめぇっ……」 俺の身体をどかそうとしていた力が抜けた。 顔を上に反らせつつ、口を半分だけ開いて、気持ち良さそうに息を漏らす。 俺は明日香の乳首を軽く甘噛みするのと同時に、右の乳首もキュッと摘んだ。 「あっ、あああっ! あああああっっっっ……!!」 瞬間、明日香の身体が大きく跳ねて、震えた。 「はあっ、はあっ、んんっ、はあああっ……」 明日香は身体を震わせた後、しばらくは甘い息をするだけで、何も話せなかった。 口は半開きで、気持ちよさそうにトロンとした目と共に、俺の心を煽り立ててきた。 (……ひょっとして、明日香、イったのか……) 寄せ集めの知識でしかないけど、普通、さっきみたいな状況を『イった』と言うのだと思う。 途中から無我夢中だったとはいえ、生まれて初めての体験に、俺も興奮が冷めやらない。 「はあっ……ま、晶也、さん……」 やっと呼吸の落ち着いてきた明日香が、尋ねてくる。 「あの、気づいてたんですか……?」 「気づいてたって、なにが……?」 「わたしの、その……弱いところ、胸の先のとこ、だめだってことを……です」 「そ、そんなの気づくわけないだろ、こんな短時間で」 俺だって、初めての経験なのに、そんなの。 「そう、だったんですか? だから、そこばかり触ったり、その、なめたりしたのかなって」 明日香はきょとんとした顔をする。 俺がむしろ、きょとんとしたいぐらいだ。 「残念ながら違うよ。俺だって、明日香がかわいかったから、ずっと夢中で考える余裕とかなかった」 「あっ……」 そこで明日香は、やっとさっきの様子が蘇ってきたのか、 「なんか、すごく恥ずかしいところを見せましたね、わたし……」 おろおろした様子を見せる。 「さっき、イッたんだよな、明日香は……?」 「あ……あれが、イくってことなんですか? その、気持ちがふわーっとなって、飛びそうになったのは、わかるんですけど……」 「そっか……晶也さんに、そうされちゃったんですね……」 また、興奮するようなことを言う。 「その、嫌いに……なりませんでしたか?」 「えっ、なんで?!」 「だって、こうやって胸を触られたり舐められただけで、大きな声上げたりして……」 「ああっ、もう恥ずかしいです、思い出すだけで……っ」 ……なんというか、その。 このかわいい子を、もっと滅茶苦茶にしたい。俺はその欲望が止められそうにない。 もう、胸だけじゃ抑えきれない。 「明日香、その……言っていいのかわからないけど」 「そ、それはたぶん言っちゃだめなことです!」 危険を察知した明日香の言葉を無視して、体育座りをしている足から見える、その部分を示す。 「明日香のそこ……すごく、濡れてる」 「きゃーーーーーっっ!!」 明日香がかわいい悲鳴を上げる。 「ま、晶也さんはえっちです、すごくえっちすぎます! そんなこと言っちゃだめです!」 「そうは言っても、こんなに……」 再び明日香に近寄り、その部分に手を伸ばす。 「あっ……だ、だめぇ……」 さっきので力の抜けた明日香は、抵抗らしい抵抗もできず。 「ほら……すごく濡れてる」 「あっ、んっ……や、やあっ……!」 俺の指を受け入れて、甘い声を漏らした。 明日香のそこは、見た目通り水分を含んでいて、触るとくちゅくちゅと音がした。 「や、です、んんっ……そんな、音させちゃ……ああっ」 わざと音が響くように触ると、明日香がかわいい声をあげて反抗する。 でも、もうそこには力が残っていない。 明日香の抵抗が弱いのをいいことに、なぞっていた指を、ぐっとその中へと押し入れた。 「はうぅっ……!」 明日香の身体がびくっ、と撥ねる。 すでに濡れていたからか、下着の上からでも十分すぎるぐらいに感じてしまっていた。 「はぁっ、はああっ、んんっ」 明日香のかわいらしい吐息が、俺の耳を溶かしていく。 「だ、だめですっ、んっ、晶也、さんっ、もう、やめて、んっ、んんんっ……!」 我慢しようとする声も、止めようとする声も、俺の動きを止めるほどにはならないようだった。 「明日香……」 「はあっ、はあっ、まさや、さぁん……」 とろけそうな声で、答える明日香。 「俺……明日香と、したい」 明日香は、甘い息を漏らしながら、無言でその言葉の意味を受け取って……。 「晶也さん……」 「わたし、ちょっと恐いです、でも……」 「晶也さんだったら、いいです……。晶也さんがしたいこと、してください」 そう言って、明日香はそっと、身体を横にした。 俺は明日香の下着に手をかけると、するりと足から外して……。 「…………っ」 緊張して息を飲んだ明日香に優しく触れると、ゆっくりと、自分のものを明日香の前に出した。 「あっ……」 明日香は、一瞬驚きと共に、声を漏らした。 俺のそれは、ちょっと自分でも悲しいほどに、固く大きくなっていて……。 かわいらしい明日香の身体と比べると、ひどくいやらしく、暴力的な感じもした。 「……ちょっと、恐かったか?」 正直に、聞いてみる。 明日香は、首を横に振ると、 「ううん、そんなことはないです。でも、びっくりはしました」 まあ、こんなものがいきなり出てきたら、最初は誰だって驚くよな……。 自分が女の子の立場で、これを見せられたら引きそうな気がする。 「ちょっと、震えてますね……」 明日香はそう言って、俺のものをまじまじと見つめた。 なんだか、すごく恥ずかしい気持ちになる。 「あまりジッと見ないで……」 思わず言うと、 「ふふっ、さっきわたしの恥ずかしいところ見られたから、そのお返しです」 ちょっといたずらっぽくそう言って、 「先の方、こんな風になってるんですね……」 更に興味津々で、色んな方向から観察を始めた。 「晶也さん」 「はい」 なんだか明日香に支配された気になって、丁寧語で返してしまう。 「こんど、晶也さんのも、ゆっくり触らせてくださいね」 ……うわ。明日香が、こんなこと言ってしまうのか……。 「……ああ、俺もしたんだし、もちろん」 「はい……その時は色々とお返しします」 明日香がちょっとだけ含みのある感じで笑った。 一体、何をされるんだろう……。 「それじゃ明日香、いいか……?」 明日香に確認し、身体を近づける。 「は……はい……」 明日香がギュッと目を閉じたのを確認し、俺は自分のものを、明日香のそこに宛がって……。 ゆっくりと、進入していった。 「あっ……、ああああっ……!」 ぐっと、突き入れていく。 明日香のそこは、すでに濡れていたのもあって、すごく気持ちよかった。 (うっ……やばい) 明日香の中に入っている、ということを考えると、興奮が増して、身体の奥がギュッと熱くなってくる。 こんな状態で動かしたりしたら、そう長くはもたなそうだ。 「んっ……んんっ……!」 身体が少し痛むのか、明日香は声を漏らしながら震えていた。 「大丈夫か、痛くない……?」 「は、はいぃ、だいじょうぶ、です……っ」 やはり、少し痛いみたいだ。 「明日香、落ち着いたら言って」 「っ……わ、わかりました……」 「すーっ、はーっ……すーっ、はーっ……」 明日香は呼吸を整えるように、吸って、吐いてを繰り返している。 「はぁ……お、落ち着きましたっ」 明日香が答える。 「じゃ、じゃあ、もう少し奥まで入れるぞ……」 「はい……っ」 明日香の返事で、更に奥まで差し入れる。 「んっ……! くっ、うっ……!」 息を飲んで堪える明日香。 俺のがしっかりと明日香の中に入って、微かに、赤い血が漏れていた。 「明日香、痛かったらこのままにしておくから」 言うと、明日香は首を横に振って、 「ううん、大丈夫です。晶也さん、動いてください」 「でも、痛くないのか……?」 「さっきはちょっと……。今はそうでもないですし、それに」 明日香は俺の方を見て微笑むと、 「えっと、その……動かさないと、晶也さんは気持ちよくならないんですよね?」 「そ、それは……うん」 正直、ずっとそうしたいと思っている。 入れただけでこれだけ気持ちいいのに、動かしたらどれだけ気持ち良くなるのかと思ってしまう。 でも…… 「だったら、気持ち良くなって欲しいです、晶也さんに……」 明日香は、トロンとした目でそんなことを言って。 「晶也さん、わたしの中で、動いてください……」 それで、もう俺の方も糸が切れた。 「明日香……明日香っ……」 ずっ、と、明日香の中に体を埋め、密着させる。 「んんっ……んっ、はああっ……!」 そして、ゆっくりと引き抜く。 「ふあああっ……!」 もうその動きだけで、明日香は高い声を上げる。 さらに、明日香の中に体を埋める。 「あああっ……はあっ、はああっ……!」 体を震わせながら、また声を上げる明日香。 乳首がピンと上に向かって立ち、感じていることを俺に向かって示している。 「はあっ、はあ……ま、晶也さんが、わたしの中にいるの、すごく、不思議な気持ち、です……」 「はあっ、そ、そうか……?」 「は、はいっ……つい、さっきまでは普通にお話ししてたのに、今、こんなことをしてるのが、不思議です……」 明日香はそう言って、お腹の辺りをさする。 「でも、すごく暖かくて、嬉しいです……」 「明日香……」 明日香と話していると、いけないことだと知りつつも、嗜虐的な気持ちが出てきてしまう。 こんなに良い子が、俺の前で、どんな表情をして、どんな声を出すんだろうと、思ってしまう。 「あっ……んっ、はあっ、あっ、あっ」 いけない気持ちを抱きつつ、再び動き始めた。 「んっ、まさや、さんっ……、ちょっと、うごき、はや、く、なっ……んっ!」 明日香があまり痛みを感じない程度で、少しだけ動きを速める。 「んんっ、んはぁっ、はあっ……はあっ……!」 痛がるかと思っていたけど、明日香は徐々に、さっきと同じような甘い声を出すようになって……。 「はあっ、はあっ、あっ、ああっ、んっ……ふあっ、ああっ、はああっ……!」 すっかり、さっき感じていた時と同じ、抜けるような吐息混じりの声になっていた。 「ま、まさや、さんっ、んんっ、、も、もうすこし、ゆっくり、うごかっ、しっ、んんっ……」 明日香はお願いをしてきたけど、それは痛みからじゃないのはわかっていたので、 「もうちょっと速く動くよ」 「はあっ、はあっ……え、ええーっ!」 抗議の声もむなしく、俺は動きを速める。 「だ、だめっ、あふっ、あああっ……ふあっ……!」 明日香の胸が、気持ちよさそうにふるふると揺れる。 時折手を伸ばし、その先端を指でなぞる。 「やっ、むね、んっ、さわっちゃ、だ、ああっ、だめです、だめですってば、あああっ……!」 明日香の中は、さっきよりもずっと、キュウッと狭くなっていた。 気持ちよさからか、力がそこに入っているようだった。 「はあっ、んっ、きもち、いっ……んっ、はあっ、はあっ、はぁっ、はああっ……!」 明日香が気持ちよさそうに声を漏らす度、俺の方も締め付けられ、次第に熱が高まっていく。 (っ……もう、そろそろやばい) 腰の奥の方から、しびれるような気持ちよさがせり上がってきた。 「あっ、ああっ、も、だめです、晶也さんっ、また、いく、いきそう、ですっ……」 「いいぞ、いって、も……っ」 「はあっ、まさや、さんのまえ、でっ、また、はずか……んんっ、はうっ、はぁぁっ、ふぁあっ、ああっ……!」 胸のところでぎゅっと結んでいた明日香の手が、次第に弛んでいった。 気持ちよさが達したのか、我慢することを諦めたように、声を上げている。 「イく、イきそうっ……ですっ、んんっ、晶也さん、イき、そう、ですっ、ああっ、あああっ……」 「おれももう、イく……っ」 腰の奥のしびれが、頭へ気持ちよさとなって突き抜ける。 明日香の中へ、更に深く突き入れた瞬間、 「あっ、ああっ、い、イくっ、イきそう、ですっ、もっ、もう、だめっ、あっ、ああっ、ああああっ……!!」 明日香の身体がビクッと震え、中がキュッと締まる。 そのまま、明日香の身体の中へ引っ張られる感覚に襲われた。 「ふああっ、あああっ……ああああっ…………!!」 明日香は身体を震わせて、イった余韻に浸っていた。 「はあっ……はあっ……はあっ……はああっ……」 半分だけ開いた口から、甘い吐息が漏れている。 「明日香」 「は、はい、晶也さ……んっ、ちゅっ……んんっ」 明日香の口を塞ぐように、キスを交わす。 「んはっ……」 明日香の口を解放すると、ふわっとした笑みを浮かべ、 「晶也さん……ふふっ」 「んっ……?」 「晶也さんと……しちゃいましたね」 「晶也さんのいつもと違う顔……たくさん見ちゃいました」 「俺も……たくさん見た。明日香のかわいい顔とか、声とか」 「……はい、もう全部、知られちゃいましたね」 明日香は身体を起こすと、俺の身体に抱きついてきた。 「お、おい、明日香……?」 「好き……大好きです、晶也さん……」 そして、俺の名前を呼びながら、何度も何度も、顔中にキスを繰り返していた。 「……もしもし、あ、ごめん。今日はちょっと部室に泊まるから」 「え? ひとりに決まってるだろ、何言ってんの……。じゃ、切るよ」 「うーそーつーきーでーすー」 明日香がわざとらしいジト目で、俺の方を見ている。 「……じゃあ正直に、かわいい女の子と二人で夜を明かしますって言ってよかったのか?」 「うっ……そうやって、さりげなく褒めるの、ずるいです。何も言い返せないです……」 「言い返せないようにしてるからな、そりゃ……」 言って、明日香の髪を撫でる。 「明日香の髪、きれいだ、すごく」 「さっきから、褒められてばかりです、わたし」 「そりゃ褒めるよ、だって明日香はかわいいし」 「も、もう……ん〜〜〜〜〜〜っっ!!!」 明日香は身体を俺の方にぐいぐいと押しつけてくる。 「晶也さんの方が、ずーーーっと、ずーーーーっと、かっこいい、ですから、ねっ!」 「はいはい……」 クセになったのか、明日香は頭を俺の胸につけて、ぐりぐりとするのが好きなようだった。 まるで子犬みたいな愛情表現だなと思いつつ、その頭をよしよしと撫でる。 「あの、晶也さん……」 「ん?」 明日香が頭ぐりぐりに飽きたのか、俺の方を上目遣いで見てきた。 「ちょっと、お願いがあるんです」 「お願い? いいけど、何?」 「ふたつあるんですけど、一つ目は、呼び方です」 呼び方……? いったい、何のだろうか。 「今、わたしって、晶也さん、って呼んでますよね?」 「うん、そうだね」 「それを、二人だけでいる時は、晶也くん、って呼んでもいいですか……?」 「いいけど……どうして今更?」 「わたし、人と知り合ったら、どうしても敬語というか、丁寧語で喋っちゃうくせがあって、それで少し距離ができちゃうんです」 「だから、せっかくお付き合いするんだから、がんばって、この距離を縮めてみようかなって……」 「へえ……」 明日香は人見知りしない感じだけど、内心、そんなコンプレックスも持っていたのか。 「じゃあ、俺と話す時も、もっとフランクに喋ってみる?」 「そ、それにはもうちょっと、慣れが必要そうです……」 「いいじゃないか、ちょっと試してみよう」 「えーっ……」 明日香は困ったような表情を浮かべつつも、やがて意を決したように、 「えっと、晶也、くん……その……」 「れ、練習、がんばろう、ね……?」 「……ぷふっ」 「あーっ! 笑った、笑いましたね!? 今っ!」 明日香が怒って、俺の胸をビシビシと突いてくる。 「ごめんごめん、あまりに慣れない感じだったから、つい」 「もう……」 頬をふくらませて、不満そうにする明日香。 ……この顔もかわいいから、つい怒らせたくなりそうだ。 「で、もうひとつのお願いっていうのは?」 「あ、そうでした。もうひとつのお願いはですね……」 「秋の大会が終わったら、言います」 「へ?」 「フライングサーカスに関することなので、その時の方がいいかなと思って」 フライングサーカスに関するお願い……ってなんだろう。 今は想像できないけど、明日香なりに考えていることがあるんだろうな。 「……実は俺も、明日香にひとつ、お願いがあるんだ」 「晶也くんも、ですか? それはどういう……?」 「俺も、大会が終わってから言うことにするよ」 「えーっ、教えてくださいよ、今すぐ」 「じゃあ、明日香も教えろよ、不公平だろ?」 「わ、わたしのは絶対にだめです、教えられませんっ」 「それなら、一緒に言うってことでどうだ?」 「えっ?」 「大会が終わって、落ち着いたら、一緒に言おう。それでいいだろ?」 「…………」 「……うん、そうですね。じゃあ約束ですよっ」 「ああ。約束する」 「はい、じゃあ指を出して下さい」 「ああ」 ふたりで指切りし、笑って約束を交わした。 「はー、しかし、さっきの明日香、かわいかったなあ……」 「えっ、いつのですか……?」 「その、してる時の明日香が……ぶふっ!」 「その、してる時の明日香が…… ぶふっ!」 言いかけたところで、クッションを口元に押し当てられた。 「そ、そういうことは改めて言っちゃだめですっ!」 「でも、かわいかったのは確かで、特にイってる時の……」 「わーっ! わーっ! わーーーーっ!!」 明日香が声を上げて俺を妨害しようとする。 「そ、それ以上言ったら、怒りますからねっ……!」 明日香がちょっとだけ怒って、かわいい表情を見せた。 「すごく気持ちよさそうにしてて、もうイきます、って……」 そこで、俺が調子に乗ったのがいけなかった。 「……晶也くん、許しませんっ」 明日香は布団に潜り込むと、俺のその部分に手を滑り込ませて、 「あっ、こら! そこ触っちゃだめだって!」 さっきのことを思い出して、ちょっとだけ固くなってるそれを、ぎゅっと握りしめた。 「ほら、晶也くんだって、こんなにエッチなこと考えてます!」 「だ、だめだって言ってるだろ、こら、動かすな!」 「そっか、ここを動かすと気持ち良くなって……わかりました!」 「だっ、だから、そんなに擦ると、あっ、だめっ……!」 「ふふっ、気持ち良さそうな顔してる晶也くん、とてもかわいいです……」 「あっ……ああああっ……ああっ……!」 「……ごめんなさい、晶也くん……」 「……これ、あとでパンツ洗わないとな……」 「せ、責任取って洗います、わたしが!」 「こ、ここでか?! それこそだめだろ!」 「そ、そうでした……うううっ」 「いや、俺も悪かったです、ごめん……」 「青柳窓果、部活日誌」 「夏休みも終わり、学校は9月の新学期に入りました」 「校内は色々と切り替えの時期に入りましたが、秋の大会を控えたFC部は、これからが本番です」 「なのでその大半は練習なのですが、それ以外の部分について、主に記録していこうと思います」 「みんな、夏休みはちゃんと遊んで、勉強もしたか?」 「中間テストで泣きを見ないよう、今からきちんと対策しておけ……私からは以上だ」 「……とまあ、先生だけに先生からの先制パンチを頂き、みんな戦々恐々と2学期を迎えたわけです」 「うどんうどんうどーん!」 「みさき先輩みさき先輩みさきせんぱーい!」 「飛びたいです飛びたいです飛びたいでーす!」 「そんな中、おなじみFC部三人娘は平常運転。まあ、平穏なのはいいことです」 「つっても、実際に練習すると疲れるしお腹も減るよね〜」 「減りますよね〜」 「……なんでお前らは俺の耳元でそんなことを言う」 「偶然だよ、たぶん」 「そうですよ、たぶん」 「うるさいうるさい、ほら、真藤さんの練習終わったぞ、次は皆さんの出番でございます」 「げー、もうなのー。うどんよこせー、ぶーぶー」 「お菓子持ってきてくださーい、センパーイ」 「うるさいっ、早く行け!」 「腹ペコとその部下一名も、まあ変わらず……」 「でも、不満は言ってるものの、二人とも練習はホント真面目にやってるようですね」 「こちら、差し入れですわっ」 「そうそう、突然佐藤院さんが現れて、色々と食べ物を差し入れしてくださいました」 「腹ペコ女王を哀れんでなのかな……と思いきや、どうもそうじゃなかったようで」 「えっと、『たたみいわし』に『蒲鉾』、それに……『昆布』?」 「こっちは、『はんぺん』に『カニかま』に『魚河岸揚げ』……ですね」 「我が佐藤水産工業が世界に誇る水産加工品の数々です! ぜひ皆様で召し上がって頂きたいですわ」 「どうもご実家の宣伝だったみたいです。しかし佐藤院グループ、いったい何社あるんですかね……」 「公式ホームページからは通販も可能よ。爆天市場からはギフトも……って、倉科明日香、あなた何を妙な顔なさっているの?」 「あ、あごダシのパックもあります……」 「あら、何か不満でもあるのかしら?」 「わ、わたし、トビウオのダシはちょっと……」 「何を仰いますか倉科明日香! トビウオのダシは四島に住む者にとって血液も同じよ! 食べなければ大きくなれませんわ!」 「うう〜っ、違うんです、違うんです〜っ」 「……とまあ、文化・宗教上の理由などもあり、部分的に意見の相違もあったようですが」 「佐藤院さんもまた、皆を気遣ってくれていたんですね〜」 「今日は筋トレをするよ」 「うおーっ、筋肉か、筋肉回だな!」 「……あの日は兄ちゃんがとにかくウザかったなあ……」 「まあ、そんな日もあったってことで、省略っ」 「ああそうだ、ウザいと言えば日向くんもなんというか、ダメ〜な部分が露呈してましたね」 「いや、FCの方はさすがなんですが、プライベートの方が、まあ、ちょっと」 「今日の練習試合、いい結果だったな、明日香」 「はい、ありがとうございますっ!」 「これで勝率が9割を超えたし、いよいよ最終段階に入ったと言っていいだろうね」 「とはいえ、乾くんはその辺の敵とはレベルが違う。わかってるだろうけど、心してかかることだね、倉科くん」 「はいっ!」 「メンタルな部分を突かれるかもしれない。その対策も十分にしておくといい」 「は、はいっ、でも……」 「それは、晶也くんがいれば大丈夫ですっ!」 「わっ、明日香、それっ……!」 「ん……?」 「……そっか、『晶也くん』がいれば、ね」 「……へ?」 「明日香はいつから、晶也を『くん』付けで呼ぶようになったのかなぁ?」 「あ、そう言えば……」 「あ、あわわわわわ……」 「その報告も聞かせてくれるかなー、明日香♪」 「え、あ、わ、わかりました……」 「何言ってんだ、きょ、拒否する、拒否だっ!!」 「……なるほど、それは僕も興味があるね」 「よくわからんが、部の中に秘密はいかんぞ、日向っ」 「じゃ、真藤さん、部長と一緒に晶也を抑えておいてください♪」 「了解だ」 「おうっ!」 「ちょ、なにするんですか、やめてくださいよ二人とも!」 「で、明日香、どうなの……? ほうほう、晶也って、実は……へえ〜、ふーん……」 「はー、ふたりきりになると、そんな……うわー……」 「こらーっ! 明日香も何しゃべってんだ、やめろーっ!!」 「……いやー、まさかこんなに堂々とノロケるとは思いませんでしたが」 「ちなみに、『もう晶也くんで統一すればいいじゃん』というみさきの提案は退けられて、今まで通りってことになったそうです。でもしばらくはいじられそう……」 「ともあれ、この二人は順調な模様です。末永く爆発するがいいです」 「で、それはともかく、明日香ちゃんの強さはもはや誰も敵わない域にまで到達したのでした」 「行くぞ明日香!」 「はい、晶也さん!」 「いざ練習となると、みんな目の色が変わります」 「ま、そうじゃなければ、こんな日誌なんか書かずにもっとビシビシいってますけどね〜」 「おーおー、気合い入ってるね明日香ちゃん」 「次はどんな形で攻めましょうか、みさき先輩っ」 「倉科、いいスピードだ! オレの名を受け継ぐのはお前しかいないようだな!」 「いいね、実に楽しみだよ、倉科くん。……来年のため、よく見ておくんだぞ、市ノ瀬くん」 「……はいっ!」 「――そして、ついに大会まで一週間となりました」 「果たしてどうなる、明日香VS乾! ついでにどうなる、明日香&日向!」 「以上、青柳窓果でした〜っ」 「よいしょ、よいしょ……」 「ふう、これで終わりっ、と」 「悪いな、手伝わせちゃって」 「いいよいいよ、これもうどんのためと思えば」 「……俺、おごるとかいつ言ったかな」 「そういうのは阿吽の呼吸ってやつでいこうよ」 「そんな金が際限なく減りそうな呼吸は嫌だ」 ……ま、でも助かったのは確かだから、うどんの一杯ぐらいはおごってやるかな。 「しかし、これ着けて戦うとか、本気でマンガじみてきたな〜」 持ってきた重りを手に、みさきが呆れたような声を上げる。 「確かに。でも、効くんだよ、これが」 FC専用に作られた、特殊素材で作られた重り。 明日香に着けさせるため、わざわざ白瀬さんに用意してもらったのだった。 「これ着けてもスルスル動けるようになれば、外した時はハイパー化しそうだもんね」 「まあな。でも、あまり明日香の負担にならないようにしないと」 慣れれば、全体的な動作速度が一段と向上するが、もちろん、練習時の負担は増すことになる。 「そうだねー」 「強くなるための練習ではあるけど、楽しくやれるレベルを超えちゃいけないからな……」 「ふ〜ん……」 「何、ジッと見てんだ?」 「晶也、ちょっと変わった」 「えっ……?」 「FCを再開する前からだと、別人みたいに見える」 「そうかな」 「昔の晶也って、他人にそこまで興味がないように見えた」 「でも今は、こんなに明日香のためを思って動いてるじゃない」 「そう見えてたのか……」 確かに言われてみれば、俺は他人に対してあまり興味がなかった。 かと言って自分にも興味があるわけでもなく、淡泊でつまらない毎日を送っていた。 それが変わったのは、間違いなく、FCを再開してからだ。 「でも、晶也をここまでさせる明日香もまた、すごいんだね」 「うん……」 「付き合ってよかったと思う。お似合いだよね」 「そこで冷やかすのかよ」 「じゃなくて。本気でそう思ってるんだって」 「二人ともそれぞれ、良い方に変わったじゃない」 「うん、まあ……それはそうだな」 葵先生も言っていたけど、俺たちはお互いのことを、部活以外では何もわかっていなかった。 お互いのことを知るようになって初めて、思っていることが少しずつわかってきたように思う。 (しかし、みさきが、な) そこまで俺たちのことを見ていてくれたのが、ちょっと意外でもあり、また、嬉しかった。 思えば、乾がやってきた時の態度なんかも、真剣に考えていたからだったのだろうし……。 案外みさきは、色んなことの変化を、誰よりも感じ取っていたのかもしれない。 「あたしさ、正直言って、ちょっと明日香が苦手なとこあったんだ」 「まあ、タイプがまったく違うからな、二人とも」 「だね。だから、夏の大会のあと、もし乾さんがやってこなかったら、あたし、明日香とぶつかってたかもしれない」 「いや、ぶつかる前に部活そのものをやめてたかな。そっちの方があたしらしい」 「リアルに想像できるな」 「眩しかったんだよね。あんなに真っ直ぐな子、今まで会ったことがなかったから」 言って、羨ましそうに目を細める。 「あたし、どんなに好きなことでも、あんなに一生懸命にはきっとなれないもの」 「どこかで飽きるか、壁にぶつかって投げるか、どっちかだと思う」 「頑張ってみたら、面白かったのにな」 「え……?」 「みさきだって、頑張ったらきっと面白い選手になったと思うぞ、俺は」 みさきは、俺の言葉を受けて、少し戸惑い気味に目を見開いたけど……。 「…………」 やがて、ふっと優しい感じの笑みを浮かべて、 「……ありがと、純粋に嬉しいな」 「お世辞言ってるわけじゃないんだぞ」 「わかってるって。晶也、そういうとこ不器用だもの」 「悪かったな」 「うん、じゃあ秋の大会が終わったら、あたしもちょっとやってみるかな」 「『努力』ってのを、真剣にね」 「……ああ、それは楽しみだな」 みさきは、くるっと身体を回し背を向けると、 「さ、んじゃそろそろ真白が来るから、そっちのことは任せる」 「あれ? 練習見ていかないのか?」 今日は三対一練習はお休みだったが、普段のみさきなら、きちんと見学していたのに。 「……うん、ちょっとね」 「ありえるかもしれなかった未来について、ちょっと感傷的になったのだ」 「なんだその説明的な言葉、ってか、似合わないぞ」 「あはは、だよね。だから頭冷やしてくる」 「……そんじゃね、晶也」 「あ、ああ……」 みさきはそれ以上何も言うこともなく、砂の上を颯爽と走り去っていった。 みさきの中にも、少しぐらいは未練があったんだろうか。 語ろうとしないあいつが、少しだけ見せた本音。 (ほんと、どうなっていたんだろうな) 夏の大会の後、俺が肩入れしたのが、明日香ではなくみさきだったら。 互いに近くにいただけに、どうしても、その『IF』を考えてしまった。 「こんにちはー。あれ? みさき先輩いませんでした?」 「真白か。みさきなら、あっち行っちゃったぞ」 砂浜の向こう側を指差すと、真白はわかりやすく残念そうな顔をした。 「えーっ、じゃあここでセンパイと二人きりで、みんなが来るのを待つんですか?」 「えーって、お前なあ」 「冗談ですよ。でもみさき先輩がいないの、残念だなあ」 「冗談に聞こえないぞ」 「ま、いーじゃないですか。二人で待ってましょ?」 「あ、ああ」 真白は俺の言葉を気にする風でもなく、座って、砂浜に打ち寄せる波を見始めた。 特に理由があったわけじゃなく、俺と話すことも特になかったからかもしれない。 黙ったままというのも気まずいだろうし、こっちから話でも振ってみるか。 「あのさ、まし……」 言いかけたところで、真白の方から、 「ねー、センパイ」 唐突に、話しかけられた。 「なんだ?」 「率直に言ってください」 「一体何をだ」 「わたしって……弱っちいですよね」 「いきなりなんだよ」 「練習しても、考えてやってみても、それでも全然、上手くなる気配がないんですよね」 「それって才能が無いのかなって、ちょっと卑屈になってたとこでした」 「だからさっきのは、その確認です」 才能が無い、か。 俺も少し前までは、それを拠り所にして、あるいは言い訳にしてきたこともあったっけ。 でも今は、そうは思っていない。 「真白」 「はい」 「さっきの答え、回答はYESだよ」 「はは、ですよねー」 「でも、その次の話は納得ができないな」 「次の話って……才能がどうとか、いうことですか?」 「ああ」 「そんなことを言ったら、明日香はどうなるんだ」 「明日香先輩ですか?! だって先輩はすごいじゃないですか、強いし、かっこいいし」 「でも、久奈浜に来た当時の明日香ってどうだった? まだ、覚えてるだろ?」 「そうですけど……でも、あの状態から上手くなったのなんて、それこそ才能じゃ」 「違う。明日香はそう言う意味で才能はない。生まれ持ったものなら、みさきの方が全然すごかった」 「そんなの……全然……」 まあ、明日香自身の情熱が何よりの力になっているからな。 「でもあいつはものすごく努力をして、誰よりも懸命に黙々と頑張ることだけはできた」 「その結果が、今の明日香なんだよ」 「……それじゃわたしも、一生懸命頑張っていれば、明日香先輩みたいになれたのかもってことですか?」 「そのままは難しいとしても、近い所までは行っただろうな」 「…………」 「ま、だから、才能がどうとかは言っちゃダメだってこと。それこそ、明日香に怒られるぞ」 真白は黙ったまま、再び水面に目を向けた。 今日は風もなく、海面は時折白い波頭を見せつつ、ゆらゆらとこちらに向けて波を送っている。 「もし、ですよ」 「もし、わたしが明日香先輩以上に練習して、すごく頑張ったら、ひょっとしたら」 「その……晶也センパイは、わたしと一緒に頑張ったりとか、してました?」 「……それは、もちろんそうだろうな」 「え、そんな即答でいいんですか?」 「だって、俺は一度だって、真白に頑張るなとは言ってないだろ?」 「あ……はい」 「真白も、それにみさきも、はっきりした目標があって、誰より強く思っていたら、それを一緒に叶えようとしたはずだ」 明日香が、最初から特別だったわけじゃない。 誰より特別であろうと前を向いて、結果的にそこにいたのが、明日香だったんだ。 「それがコーチの仕事だからな」 「そう、ですか」 「……だったら、やってみればよかったな」 「えっ?」 聞き返したけれど、真白がその言葉をもう一度言うことはなかった。 太陽光を反射し、キラキラと輝いて見える。 でもそれは砂浜からは少し先で、手が届く距離にはない。 立ち上がって、水に手を触れてみないと、その光にはたどり着けない。 「基礎練、終わりましたっ!」 「お疲れ、だいぶゆっくりだったな」 「はいっ、あれ? 今日は人数が少ないんですね」 「まあ、うん」 「明日香先輩っ!」 「は、はい、真白ちゃん、なんでしょうっ」 真白は、明日香の腕を取って抱きつくと、 「こんど、明日香先輩の話、いっぱい聞かせてくださいっ」 「はっ、はい、いいですよっ……!」 「えへへ、ありがとうございますっ」 なんかこう、邪気のない時の真白って、ちょっと突き抜けたぐらいのかわいさがあるな。 明日香もちょっと照れているように見える。 「それと……晶也センパイの話も、ですよ?」 「えっ……そ、それはさすがに、怒られちゃう、かも……?」 弱った目でこちらを見る明日香。 「かも、じゃない。怒る」 「ほ、ほらほら〜っ!」 「いーじゃないですか、それぐらい! 晶也センパイってケチですよね〜」 「お前な!」 「よし、いいぞ。だいぶ飛行姿勢が安定してきた」 「はいっ」 「この上下運動で姿勢を崩さなければ、もう一段、速くなれるはずだ。やってみて」 「わかりましたっ!」 言われた通り、軽やかな動きで夜の空に線を描く市ノ瀬。 極めて優等生的な、らしい飛び方だった。 「じゃ、この辺にしておこうか」 「はいっ」 一通りの練習を終えて、空の上で休憩をする。 「日向さん」 市ノ瀬はペコリと頭を下げると、 「ありがとうございます、ここのところ毎日、練習を手伝って頂いて」 「いつも、真藤さんと一緒に明日香の練習を見て貰っているんだ。これぐらいは当然だよ」 「いえいえ、それだけじゃお返しになりません。今度、何かお料理作って持って行きますね」 「あ……でも、明日香さんに誤解されちゃいますかね……?」 「気にしなくていいよ、大丈夫だから」 「日向さんが気にしなくても、明日香さんは気にすると思いますよ」 「そういうものかな……」 「そうです。気をつけた方がいいですよ、日向さん」 「うん……わかった」 呑気に捉えていたけど、付き合うってのはそういうこともあり得るんだもんな。 まあ、市ノ瀬と俺となんて、そうなる可能性すら考えたことはなかったけど……。 「それにしても……」 市ノ瀬は、しみじみといった感じで息をつくと、 「なんか、最初に疑ったのが、バカみたいですね」 「俺、何か疑われたっけ?」 「最初の高藤での練習の時、私、だいぶ失礼なことを言っちゃったじゃないですか」 ……ああ、そういやそんなこともあった気がする。 つっても、まだ半年も経ってないぐらいなんだけど、今からすればすごく昔のことにも思える。 「それなのに、今じゃこうやって、誰よりも信頼して練習を見て貰っていて……」 「巡り合わせって、本当に不思議です」 「うん……不思議だ、本当に」 明日香と出会ったきっかけも不思議ならば、部を作ることになったのも奇縁だった。 少しボタンの掛け違いがあったら、まったく別の状況に変わっていたのだろう。 「もし……日向さんが、もう少し前にFCを再開していたら」 「そしたら、高藤に入っていたかも、しれないんですよね?」 「うーん、そうかもしれないな」 まあ、葵先生がいる以上、久奈浜以外の選択肢があったか、微妙なところではあるけれど。 でも、むしろ先生のことだから、復活したなら練習熱心な学校に行けって、背中を押されていたかもしれない。 それこそ、縁はどこにでも転がっているわけだし。 「そうしたら、日向さんは先輩だったわけですね」 「そうだな……佐藤院さんは同学年の友達ってことか」 ……あの色んな意味で難易度の高そうな子と、同級生か。 まあ、見た目に似合わず世話焼きで親切だし、普通に仲良くなってそうな気もするけど。 「ふふっ、そうですね。想像すると、ちょっとおかしいです」 「うん、ちょっと面白いシチュエーションだ」 「真藤先輩も佐藤院先輩も、きっと今とは全然違ったでしょうし、それに、私も」 市ノ瀬はそこで言葉を切って、何かを考えこむように、空を見上げた。 「市ノ瀬……?」 「私も……」 何かを辿るように、もう一度つぶやくと、 「うん……ですね。私も、変わります、これから」 「あ、ああ」 何か、思うところがあったんだろうか。 市ノ瀬は軽くもう一度うなずくと、 「もう一回だけ、飛んでみてもいいですか?」 「うん、もちろんいいよ」 「はいっ!」 にこやかに、星でいっぱいの空に飛び上がっていった。 今日最後の飛行は、その日で一番、いや、これまででもっとも、市ノ瀬らしくない――。 言うなれば、とてもやんちゃな、飛び方だった。 いよいよ、大会まであと3日となった。 練習の最後を締めくくるべく、皆が集まったのを確認して、挨拶をする。 「これまで、みんなお疲れ様でした。いよいよ、あと3日で秋の大会を迎えます」 大会の前日は、休養に充てると決めていて、明日は作戦の確認が主で、軽めに切り上げる予定にしていた。 なので、大規模な全体練習は、今日が最後。 全員の顔にも、どことなく緊張感が漂っていた。 「それで、今日はどんな練習にするのかな?」 「最後だから、全員対明日香ってのでどう?」 「ひぃ……そ、それは大変そうです」 「……ある意味、それより更に厳しいかもな」 「はぁ?」 「それより?」 「厳しい……?」 「一体、何が待ってるんでしょうか……」 「早速、教えてもらおうかな、日向くん」 「……はい、わかりました」 全員で海岸へと移動する。 いつも準備をする砂浜の所に、白衣を着た背の高い女性が一人、立っていた。 「よう、遅かったな、みんな」 「えっ……えええええっ!」 「あの、まさか、明日香先輩の最後の練習相手って」 「そ、そう来ましたか……」 「ははっ、確かにこれは、僕たち全員を相手にするより大変な相手だね」 「ええ、そういうことです」 「今日、倉科の相手をするのは、わたしだ。よろしくな」 「は、はいぃっ……」 当然のことながら、明日香は緊張しまくっている。 そしてその周囲にも、戸惑いの声が広がる。 「わたし、先生がFCするとこって初めて見るかも」 「オレだってそうだよ……、というか、日向以外は全員そうじゃないのか?」 「いや、僕は見たことあるよ。もう何年も前になるけどね」 「そっか、真藤さんは見てておかしくないか」 「どんな選手だったんですか、各務先生は……?」 「どんな選手……?」 「どういうタイプだったのかとか、得意技とか……」 「ははっ、それは難しい質問だね。そうだな、強いて言えば……」 「強いて言えば?」 「強い」 「へ?」 「いや、ふざけてるんじゃないんだ。ただ、それしか言いようが無いんだよ」 「FC選手、各務葵は、他を寄せ付けない程に強かった。それしか、印象にないんだ」 「スピード、勝負勘、駆け引き、各種動作、すべてにおいてハイレベルなのはもちろん、動きにも無駄がなく、美しかった」 「真藤さんをして、そう言わせるんだ……」 「むしろ、なんで選手をやめたのかわからないぐらいだ。間違いなく、世界に通用する選手だったから」 「……だから、今日ここで各務先生の試合が見られるのは、FCの選手として本当に貴重で、ありえないことなんだ」 「ありえない、こと……」 「それだけ、日向くんの存在が大きいんだろうけどね」 「そっか、頼んだのは日向くんですもんね」 「ありがとうございます、先生。まさか試合までしてくれるとは思いませんでした」 「……お前が空に戻ってきたんだ。私が燻っている理由など、何もないだろう?」 「……はい」 「晶也がこの半年で何を思ってきたのか、倉科と戦えば、すべてわかりそうだな」 「……実に楽しみだ」 先生がニヤッと笑う。 こんな笑い方をする先生を、俺はもう何年も見ていなかった。 ぶるっ、と、身体が震える。 (先生、当然だけどマジでやる気だ) 頼んだのは自分とはいえ、明日香にとって良いことなのかどうか、正直迷う。 先生はすべてわかった上でやってくれるはず、そう思いつつも、その圧倒的な力に怖くもなる。 「準備、終わりました。えー、それでは練習試合を行います」 下方から、部長が上がってきた。 「では、両者準備ができ次第、始めます」 部長がホイッスルを手に、吹く姿勢へと入る。 「準備、できました。いつでも大丈夫です」 「こちらもだ。いつでもいいぞ」 両者の言葉を確認し、部長がホイッスルをくわえた。 そして。 「さあ、付いてこられるか、私に!」 「えっ、あああっ……!」 音が先なのか、先生の動きが先だったのか、それすら一瞬わからない程に。 明日香が飛び出すのよりもずっと速く、先生の身体は一瞬で、ずっと先へ向けて進んでいた。 「速い!」 「これって……乾さんより、ずっと……!」 「すごい……」 一筋の光となって、先生はセカンドブイへ。 皆が驚きの声を上げる中、俺は静かに明日香へコールを送る。 「明日香」 「はいっ!」 「焦るな。焦ったら先生の思うツボだ。ブイは捨てて、セカンドラインで迎え撃て」 「わかりました!」 「落ち着いてるね、日向くん」 「……いつも以上に、頼もしいです、センパイ」 「きっと、わかっているんだろうな、彼には」 「何がですか……?」 「各務先生の恐ろしさと、そしてその相手とどう戦うかってことを、だよ」 「それは……晶也が、先生と古い知り合いだからですか?」 「もちろんそれもある。だけど、過去の記憶だけじゃ、対処しきれないことも沢山あるだろうからね」 「この半年で学んだこと、その経験が、彼の出す指示の裏付けになっている」 「日向くんもまた、凄まじいまでに成長を遂げているんだよ」 「そっか、そうだよね……」 「いつも、部室で話してる時のセンパイとは、まったくの別人に見えます……」 先生がセカンドブイに到達した。 これで0対1。 そして、その到達時間を見た窓果が、驚きの声を上げる。 「乾さんの到達タイムより、2秒も速い……!」 あっという間の時間に思えるけれど、コンマ一秒で動くFCの世界において、2秒は長い。 「ていうか、先生、フライングスーツも着てないのに」 「そうですよね、動きにくそうな服なのに、まったくハンデとかなさそう……」 「さ、ここからどう仕掛けるか、だ」 明日香がセカンドラインに到達した。 「着きましたっ!」 「よし、じゃあそこで待機だ。先生が来たら、いくぞ」 「はいっ……」 少しの間も置かず、先生はゆらりと明日香の目前へと現れる。 「ほう、乾ばりの通せんぼか。しかし私を止められるかな?」 「いえ、通せんぼはしません。わたしは……」 俺が小さく「行け」の指示を出し、明日香の身体が動く。 「先生の背後を……獲りに行きますっ!!」 攻撃を仕掛ける場所を絞らせないよう、まずは5つの点を基に動き回る明日香。 先生の前には光の残像で描かれた五芒星が広がり、その先端は凄まじい速さで移動している。 「これは……」 先生の驚く声が聞こえる。 「高い完成度だ。倉科くん、本当に腕を上げたな」 「ですね……!」 共に技を磨いた二人からも太鼓判を押される。 「多角形連撃、やっているとは知っていたが、まさかこのレベルまで達しているとはな」 「まるで、世界レベルの選手とやっているようだ」 落ち着いた声の中に、わずかな緊張が見て取れる。 「よし、先生が驚いているうちだ、行くぞ!」 「はい、いきます!」 5つの点のうち、もっとも先生の視界から見にくい場所。 そこを折り返す力を踏み台に、エアキックターンで先生へと襲いかかった。 「フッ、それは読めるぞ!」 しかし、先生は仕掛ける場所を読んでいた。 相当な速度で迫る明日香を、闘牛をかわすがごとく回避する。 「そこだ、いけっ!」 「はいっ!」 「なっ……?」 明日香は先生の回避行動を確認したと同時に、急速のエアキックターンで、再度転回した。 そのまま、無防備になっていた先生の背中にタッチする。 「っ、やるなっ……!」 思わず、先生がつぶやくほど、明日香の動きは完璧だった。 これで同点、1対1だ。 「やった……!」 「すごいですっ!」 「いや、まだだ。ここでもう1ポイント取らないと」 そう、真藤さんの言う通りだ。 同点では、もう一度得点チャンスを得なければならない。葵先生も警戒するだろうし、次は更に難度が高くなる。 ここは連続してもう1ポイントを取らないと、後半が一気に不利になる。 「明日香、もう一度だ」 「はい、準備します!」 得点の際の反発により、先生とは若干の距離が生まれた。 先生は上空へ逃れて、有利なポジションへ持ち込もうとしている。 (今なら、背中がガラ空きだ) 立て直される前に、もう一点を……! 「晶也」 「はい……って、え、先生……?」 突然、名前を呼ばれて一瞬狼狽する。 「昔、散々言ったはずだぞ。あからさまなチャンスは、間違いなく落とし穴だ、と……」 その一言で、一気に総毛立った。 「まずい、明日香! 止まれ、ターンだ!」 「えっ……!!」 急いで止めた言葉もむなしく。 「倉科、もらった!」 突っ込んできた明日香をあざ笑うかのように、するりとその場で一回転した先生は……。 「きゃあっ!」 まさに間一髪の差で攻撃をかわし、明日香の背中へ一撃を叩き込んだ。 1対2。再び、先生がリードした。 「ああん、せっかく同点に追いついたのに!」 「い、今の、先生って何やったの……?」 「えっと、その、どうしたんでしょうね……?」 周りはみんな、首を傾げるばかりのようだ。 そりゃそうだ、あの一瞬の動きの中で、全部を把握できてるのなんて、そうはいない。 「どうした、晶也。あれぐらいのフェイント、予想できたはずだぞ」 先生の言う通りだった。常に状況を想定できていれば、かわせた攻撃だった。 しかし、それはこの試合の立ち位置からすれば、やはり異例のことではあった。 練習などではない、完全なガチ勝負。それを想定していないと、厳しい。 「そこまで本気で来てるんですね、先生」 「当たり前だ。全力でやらなければ、お前にも倉科にも失礼だからな」 「……わかりました。ではこちらも、その気でやります」 「そうこなくてはな。倉科、気合い入れていけよ?」 「は、はいっ、次はやり返しますっ!」 「いいぞ、その勢いだ……なりふり構わずやり合うことで、真の勝負ができる」 「――さあ、来なさい。私は強いぞ」 セカンドラインの上空で、両手を広げて構える先生。 「……久しぶりだな」 驚異的なまでに強く、仇州だけではなく日本中にその名を轟かせていた選手、各務葵。 その姿が、当時とまったく変わることなく、目の前に現れている。 「倒したい、先生を」 こんな気持ちになるのだと、自分でも意外だったけど。 でも今は、先生に勝つこと、先生より向こう側へ行くことしか、考えられない。 明日香と俺とで、やってやる。 「はー……なんかもう、見てるだけで消耗しそうな戦いだね」 「わたしもう、なにがなんだか」 「先生、今まででもメチャクチャ強かったのに、その上に本気出されたら、勝てないですよね……」 「ど、どうなんですか、真藤先輩……?」 「素晴らしい……」 「え?」 「神様だよ、やっぱり」 「かみさま……?」 「久奈浜の生んだ大スター、各務葵と白瀬隼人。もう見ることなんてできないって思ってた神様のうち、一方の試合を、卒業間近で見ることができるなんて」 「……やめるわけには、いかなくなってしまったな」 「先輩、その、やめる、って……?」 「僕はね、フライングサーカスをやめるつもりだったんだよ」 「え、ええっ……ど、どうしてですか?」 「僕はこのスポーツで一度頂点に立った。でも内心は、常に不安で押しつぶされそうだったんだ。頂いた様々な誘いも、すべて断ろうとしていた」 「だけど今、気が変わった。ここに来いって言ってるんだよ、各務先生は。だから僕は決めたよ……」 「一体なにを……?」 「世界へ行け、ってことさ」 「…………!」 「そうしなければ見えない景色があるってことを、今、あの二人に教えているんだよ、先生は――」 戦いはなおも続く。 ブイを巡る攻防は、すでに一周半に達しており、得点も更にプラスされていた。 しかし、どうしても突き放すことはできず、常に先生のリードする状況は、変わらなかった。 「くっ……な、なんとか、先にっ……!」 得点は3対4。先生の一点リード。 二周目のファーストラインで逆転された明日香は、転じてセカンドブイを狙いに行く。 「ははっ、スピード勝負では分が悪いだろう、倉科!」 先生もその後を追いかけるようにして、一気にセカンドブイを狙いに行く。 「そんなことありません!」 明日香も負けじと最短距離でブイを狙いに行くが、どうしても差がジリジリと縮まっていく。 「……そんなこと、あるようだね」 「う、ううっ……」 悔しそうに明日香が呻く。 「明日香が不得意なスピード勝負かー。先生も厳しいね、しかし」 「でも、自分が有利な勝負に持ち込むのは、戦法としては基本ですから」 「そうなんだよねえ……。ま、でも晶也も何か考えてるんじゃないの?」 「でも、まだ何も動きませんね……」 「いや、ブイに近づいたところで、何か仕掛けてくるはずだ」 先生はブイと同じ高さを維持したまま、平行に進んできている。 一方の明日香は、ごく緩いながらも蛇行しており、距離を考えても不利なのは確かだ。 「明日香、そこから上に移動できるか?」 「は、はいっ、でも、それだと、先生に追いつかれそうで」 「それでいいんだ。先生に気づかれないよう、なるべく自然に上へ行ってくれ」 「わかりましたっ……!」 明日香は言われた通りに、ゆっくりと軌道を上方向に変える。 先生との高度差が、次第に開く。 「どうした? かけっこで敵わないと見て、上空から背中でも狙いに来たか?」 先生は挑発しながらも、なおも真っ直ぐセカンドブイへ進む。 ついには、明日香を追い抜き、先生が先頭に立った。 「ああっ、ついに抜かれちゃったよ」 「もう、センパイは何してるんですか、ドッグファイトでもないのに上へ行くとか……」 「……なるほどな」 「真藤先輩、日向さんの狙いがわかったんですか?」 「たぶんね。これは……」 真藤さんが、続く言葉を言おうとした、その時。 「……ほう」 先生が感心した声を発したのと共に、 「行きますっっっ!!!!」 上空から、角度をつけて、明日香がブイに向かって突進した。 「なるほどな。倉科の動きそのままでは、直線での戦いで私に勝てる見込みはない……」 「ならば、重力を利用して落とせばいい。変則のローヨーヨーを使えば、軌道も一定になるし、速度だって、私を上回れる」 「――正解だ、晶也」 4対4。同点に追いついた。 「よしっ!」 「やったぁ!」 「これで同点だねっ!」 「…………」 「……おかしいな」 「なにか……?」 「いや、さっきの各務先生の発言からすれば、今のセカンドブイを巡る動きも、予想できたんじゃないかと思って」 「んー、言われてみればそうかもしれない」 「重力を使った戦法自体は、基本戦略だもんねー」 「各務先生が真剣勝負をしているのは間違いないんだ」 「でも、その時々において、何かしらのメッセージを送っているようにも見える」 「メッセージ、ですか……」 「おそらくは、日向くんに、ね」 先ほどから、妙な感覚に襲われていた。 先生を相手にして、真剣勝負を繰り返している。 どの場面においても気が抜けないし、張り詰めたままの状態が続くことで、疲労も強くなる。 ……それなのに。 (なんで俺、こんなに) (懐かしいって、思ってんだろ……) 戦いの中で、明日香と、先生の姿を見ていると、過去の何かを掘り起こされるような、そんな感覚に襲われる。 (ちょっと、振り返ってみるか) はじめは、スピード勝負。 次いで、ドッグファイトからのフェイント。 左右の揺さぶりや、飛行経路のトリックを経て、重力を使うことでのブイへの移動。 「あっ……」 思わず、口を開いていた。 「先生、これって、まさか」 つぶやいた言葉を、待っていたかのように。 「……気づいたみたいだな、晶也」 先生が、少し優しげな口調で、言った。 「すみません、気づくまでに時間がかかりました」 「まったく……昔だったら、罰ゲームものだ」 「あの、一体、何のことなんですか……?」 明日香が不思議そうに、俺たちのやり取りを見ている。 「ずっと、重なってたんだよ」 「重なってた?」 「俺と、先生が、昔やってた練習に……」 「昔の、練習に……?」 そう。この試合でやってきたことが、先生との練習で何度となく繰り返されてきたこと、そのものだった。 スピード勝負のコツを学ぶために、延々、飛行姿勢を矯正されたこと。 ドッグファイトでの叩き合いに勝つため、いかにタッチを潜り抜けるか、身体の使い方を学んだこと。 フェイントの対応と読み方、左右の揺さぶりから、逆に仕掛けてやり返す方法。 そして、重力を利用しての、ブイの落とし方……。 すべてが、ずっと繰り返してきたことだった。 驚異的勝者だった、各務葵の技のすべてを。 日向晶也に教え込んできた、そのすべてを。 「真剣勝負の中で、順番に教えてくれていたんだ」 「そう、だったんですか……」 「……だがそれも、これで最後だ」 先生は少し寂しげに、俺に話しかける。 「晶也、覚えてるか? 一度だけ見せた、あの技……」 「あの技……って」 口に出してすぐ、思い当たる。 「まさか先生、あれを明日香に……!」 「……試合時間も残り少ない。それに、最後を飾るにはちょうどいいと思わないか?」 ……先生、それはさすがに、明日香には厳しすぎるんじゃないか。 でも、先生の中での区切りは、そこなんだろうな。 「ま、晶也さん、アレって、なんなんですか……?」 「注意して、先生の動きを見ていて」 「いくぞっ……!!」 気合を込めたかけ声と共に、先生の姿がその場から消えた。 「えっ、先生、ど、どこですか……っ?」 「周りだ、明日香」 「ま、周りって、なん……え、えええっ!」 驚きの声と共に、明日香は顔を左右に動かす。 先生は、捉えるのが困難なほどの速さのまま、明日香の周囲を円を描くようにして回っていた。 光の軌跡は明日香を包み込むように彩られ、天使の輪のように、完全な円へと近づいていく。 「アンジェリック・ヘイロー……世界大会で付けられた名前だ」 一度、輪の中に囲まれたが最後、そこから出ることは叶わない必殺の技。 死のイメージと共にその美しさから、天使の輪という皮肉な名前を付けられた。 「……もう、ちょっと理解超えてるんだけど……」 「あの、白く光ってるところに、先生が飛んでるんですよね……?」 「って、ことだよね、うん」 「……すごいな、この技まで出てきてしまうのか」 「真藤先輩は見たことがあるんですか?」 「まさか。もう伝説レベルの話だよ」 「各務先生が、世界大会で一度だけ使った技で、その後封印した、ぐらいの知識しかない」 「封印、しちゃったんだ……」 「どうしてですか?」 「禁じ手、だからだろうと思う」 「アンジェリック・ヘイローは、膨大な体力を消費するため、残り時間の少ない時にしか使えない技だ」 「でも、発動している間は、相手に一切の自由を与えないことから、物議を醸した技でもあったんだ」 「乾さんのやってきた、あの鳥かごみたいなものなんですか?」 「バードケージに比べればその支配力は低いけれど、絶望的な状況を作り出すことにかけては、引けを取らないね」 「夏の大会で鳶沢くんと市ノ瀬くんがやった試合のこと、覚えているかな?」 「はい」 「覚えています」 「あの試合、鳶沢くんが市ノ瀬くんの周りを回転して、時間切れを狙っただろう?」 「はい、しました」 「簡単に言ってしまえば、アンジェリック・ヘイローはあれを凄まじくハイレベルにしたものだ」 「ハイレベルに……。攻撃できない状態に強制的に追い込んでしまう、ということですか?」 「そういうことだね。逃げようとして倉科さんが動けば、高速移動中の各務先生につかまってしまう可能性が高い」 「あの中から逃げるって……」 「よほどタイミングよく高速で逃げ出さないと、連続得点を取られてしまうかもしれないね」 「でも各務先生が履いているシューズって、飛燕シリーズの旧モデルですよね?」 「飛燕シリーズの紅燕。旧モデルとはいえ当時のハイエンドだ。今でも愛好者は多いよ」 「たしか飛燕シリーズはオールラウンダーのグラシュじゃ」 「え? それっておかしくない? ファイター用のグラシュじゃないと……。ファイターのグラシュでもあの速さはおかしいけど」 「理屈はエアキックターンやコブラと同じだよ」 「どういうことですか?」 「エアキックターンは体を丸めて足と腕を触れ合わせて、メンブレンの移動をショートカットさせて急速ターンを可能にする技だよね」 「それの応用で同じ方向へとメンブレンの移動を一瞬で変えるのがアンジェリック・ヘイローだ。腕を体に沿わせて真っ直ぐに飛ぶ。その腕をタイミングよく体に触れたり離したりする」 「そうやって圧倒的な加速を可能にするんだ」 「理屈はわかったような気がしますけど、どうしてこの技はメジャーにならないんですか?」 「鳶沢くんはエアキックターンを絶え間なく100回連続で決めることはできるかな?」 「ぜ、絶対に無理です、そんなの」 「そういうことだよ。逆方向へ力を移すのと、同じ方向へ力を移すのとでは後者の方が遥かに難しいんだ」 「自分で言うのも変だけど僕みたいなコブラの使い手は少ない。コブラは同一方向での急停止急加速だ」 「どちらも難度は高いけど、まだそちらの方が、メンブレンを移動させるタイミングは簡単なんですね?」 「そういうことだね」 「アンジェリック・ヘイローのように急加速だけを続けるには、メンブレンから加速の部分だけ取り出す必要がある。僕でも……2秒が限界かな」 「真藤さんで2秒……」 「2秒じゃ武器になるほどの加速はできない。つまり使えない」 「各務先生みたいに2分近く続けるのは、普通の人間には不可能だよ」 「ただし……弱点もある」 「じゃ、そこを突けば!」 「だが、この場合、無意味な弱点だけどね。強引な加速は直線移動できない。なぜなら、メンブレンのバランスが崩れるからね」 「そうなんですか……」 「高速移動を続けていると、次第に円を描くようになる」 「前に進めない以上、普通は使い道はないんだけど……。ああやって技にしてしまうのが各務先生の凄いとこだね」 「これを破ってみろ、ってことなのか……」 先生自ら、これはするなという但し書きを付けた上で、見せてくれた大技。 それを俺たちの前で見せるということに、先生の思いが感じられる。 しかし、この難攻不落の技を、どうやって破るのか。 「晶也さん……」 明日香の不安げな声。 「乾さんの技の時みたいに、この技も、隙がありません」 「どこに向かっていっても、止められてしまいそうで……!」 迂闊に飛び出せば、タッチでポイントを失う。たとえ縦軸の動きで逃げようとも、超高速で飛ぶ葵さんはすぐに背中を狩るだろう。 上下左右、どこにも逃げ道はない。 かと言って囲まれたままだと、時間切れギリギリまでまで粘られた上、遠心力で飛び出されてブイを取られる。 おそらく、先生はそれを狙っている。 「考えろ、考えれば、答えは出る」 空を見上げる。見続ける。 あの時に言われたことを、呼び戻す。 思い出せ、思い出すんだ。 「いいか晶也、この技は『禁じ手』なんだ」 「禁じ手……」 「使っている側にも、後ろめたさがある。やってはいけないと思いながら、使っている」 「だから、その心の隙を突くんだ。真っ直ぐに、相手をとらえて、突け」 「真っ直ぐに、突く」 「そうだ。怪しいことをしてるやつは、絶対に一番上へ行けない。それを信じていれば、勝てるんだ」 「……うんっ!」 「そうだ、そうだった」 先生は、最後にやっぱり、教えてくれていたんだ。 「明日香」 「はいっ」 「俺の言うタイミングで飛び出せ。一切迷うな」 「迷わず……ですか?」 「そうだ。ここでいいのかな、ダメかもしれない、そんな迷いがあっては、この輪は抜けられない」 「突き抜けた時に背後を奪えるタイミングを俺が計る。明日香は、俺を信じて、全力で飛んでくれ」 「それなら、大丈夫です」 「晶也さんを信じることだけは……自信があります!」 「うん……俺も明日香を信じるよ」 「はいっ……!」 目を凝らし、先生の動きを見る。 高速で回転するその動きは、一見すると逃げ場が無いように見える。 しかし、セコンドの的確な判断と、スカイウォーカーの信頼があれば、解法は必ずあるのだ。 敵は、自らの恐怖心と、信頼の崩壊だ。 「絶対に……間違えない……っ!」 指でタイミングを取りながら、最適な時間を計測する。 「試合時間、残り1分!」 時間がない。これが最後のチャンスだ。 先生が、明日香の後方、7時の方向にくるぐらいで、GOをかける。 そうすれば、いけるはず――! 「3・2・1……」 「今だっ!!」 「はいっ!」 俺のかけたコールと共に、明日香の身体が躍った。 一筋の赤い光が、輪の中から外へ、強く浮き出た。 「……動いたっ!」 「お願いっ!」 願いと共に、光同士が、大きくぶつかる――! ……そして。 輪は引きちぎられ、二人の信頼が勝った。 「試合終了っ! 5対4で倉科の勝利っ!!」 「やった、明日香の勝ちだ!」 「すごい……っ!」 「よく、あんな技から抜け出せたねえ……。すごいよ、明日香ちゃんっ」 歓喜の中、未だ明日香だけが、 「…………」 「あ、あれっ……? わたし、勝ちました?」 まだ、状況が理解できずに呆然としていた。 「明日香、とりあえず、降りてきて」 「は、はいっ……」 明日香は俺に言われて、するすると下に降りてくる。 そこには、先に下へと降りていた葵先生が、待ち構えていた。 「倉科」 「は、はいっ、先生」 「お前の勝ちだ。おめでとう」 先生が明日香に近寄り、肩を叩いて、言った。 「あ、ってことは、わたし、あの技を破れたんですね……!」 「そうだよ、明日香が、やったんだよ」 「いえ、違いますよ、晶也さん」 「え?」 「わたしたちが、やったんです。そうですよね?」 「……ごめん、そうだよな。俺たちが、だ」 「そうだ、セコンドとスカイウォーカーの信頼だ。そこさえ忘れなければ、乾にだって勝てるさ」 「先生……」 「おめでとう、まずはステージ1のクリアだ、倉科」 「は、はいっ、ありがとうございます……! きゃっ!」 「明日香ー! やったじゃない!」 「明日香先輩、すごいですっ! 先生に勝っちゃいました!」 「よかったねえ、頑張った甲斐があったよねぇ〜!」 思わず頭を下げた明日香に、みさきたちが飛びつく。 一息ついて振り向くと、 「……ひとまずやったね、日向くん」 「お疲れ様でした!」 「ありがとうございます、なんとか格好はつきました」 「とんでもない。すごい試合を見せて貰ったよ。むしろ僕の方がお礼を言いたいぐらいだ」 「真藤さん……」 「自信を持って戦うといい。乾沙希は確かに強敵だが、君たちなら相手として不足はないはずだ」 「ありがとうございます」 「明日香さんをねぎらってあげてくださいね」 「ああ、もちろんだよ」 ……でも、その前に。 今は何より、話したい人がいるんだ。 「先生」 砂浜にいつものポーズで颯爽と立ち、風を受け、海を見ていた先生。 俺の呼ぶ声に、穏やかな笑みを向ける。 「晶也」 何度、その名前を呼んでもらっただろうか。 でも、こんなに感慨深い時は、小さい頃、教えて貰っていたあの頃以来だ。 「ありがとうございました、先生」 「昔、私が言っていたこと、覚えていてくれたようだな」 「所々、ミスもしました。すみません」 「いいんだ。得点も失点も、すべて勉強だ。すべて活かして、試合でぶつけるんだ。いいな?」 「はい、わかりました」 先生は一度、そこで言葉を切った。 「晶也には、礼を言わなくてはな」 「え、いや、俺の方ですよ、そんなの」 俺の言葉にも、先生は静かに首を横に振る。 「……いや、礼を言うのはこちらの方だ。お前たちには、長年付き添った亡霊を祓って貰ったんだからな」 「亡霊……?」 「いずれ話すよ。長い話だ」 「とにかく、本当によくやってくれた。お前は素晴らしいコーチだよ、晶也」 「ありがとうございます……でも、まだ終わったわけじゃ」 「そうだな。本番は明後日だ。でも、これまでよりずっと、希望の持てる展開になった」 「はい。明日香は、勝ちます。今日、アンジェリック・ヘイローを破った時のように、あの鳥かごを壊してみせます」 「…………」 「……そうだな、もう、あんな技は必要ないんだ。私と同じ思いをする人間を作らないためにも、そうしてくれ」 「先生……?」 「ともかく、おめでとう。ほら、早くパートナーをねぎらってやれ。それもセコンドの大切な仕事だぞ」 「は、はいっ!」 「……晶也」 「……ありがとう」 こうして、本当に色々なことがあった一日が過ぎた。 翌日は予定通り最終確認が行われ、解散となり……。 ついに、大会の前日を迎えたのだった。 「ふぁ……あ……」 窓から差し込む日差しに起こされ、目を覚ました。 「なんだよ、まだ8時じゃないか……」 目覚ましを掴んで時間を確認し、再び元の場所へ置いて、睡眠を試みる。 ここしばらく、緊張する日々が続いたこともあって、さすがに今日は疲れが溜まっていた。 「今日ぐらいは二度寝してもいいだろう……おやすみ」 ……。 …………。 ………………。 「もう、誰だよ……」 「っ!?」 ウィンドウに映し出された名前を見た瞬間、一気に意識がはっきりした。 「も、もしもしっ?」 「あ、ごめんなさい、寝てましたか……?」 「い、いや、寝てない寝てない、普通に起きてた」 「どうしたの、今日は休みにしてたのに……」 「あ、はい、お休みの日なので、その……」 「……晶也くんに会いたいなって、思って……。ごめんなさい、お休みの日なのに」 「………………」 「……あの、晶也くん、どうしましたか?」 「いや、その、なんでもない、ただ……」 「ただ……?」 「ちょっと感動して嬉しくてドキドキして、言葉が思いつかなくて……」 「ご、ごめん、待ったよね?」 「い、いえ、ぜんぜんっ」 ……そうは言っても、30分は待たせてしまった。 「それで、どうしようか、これから?」 「はい、でも、そんなに長くはかかりませんから」 「え、そうなの?」 「ちょっとだけ、晶也くんと話したかっただけなんです」 「あまり長い時間だと、迷惑かな、って思って。ほ、ほら、試合も控えてますし……」 ……正直、少しだけ迷った。コーチならば、本当の休養に充てるべきじゃないかと。 そう言っても、納得してくれる人はいると思うし、現に明日香だって、理解するはずだと思う。 でも、俺はFCの選手として以前に、倉科明日香のことが好きなんだ。 「あ、あのさ」 「はいっ」 ……だから、こんなにあからさまに、一緒にいたいと言ってくれている彼女に対し、 ちょっと立ち話をして終わりなんて、できるわけがなかった。 「今日……よかったら、ちょっと遊びに行かない?」 「え……で、でも、いいんですか?」 「いいんだよ、今日は本当に休日にしてるから。それに……」 「それに?」 「その、彼氏らしいこと、何もしてないから……」 「あ…………」 「そ……そういうこと」 二人して、土曜日の朝から顔を見合わせて赤面する。 もっとも、この場面を人に見られようものなら、赤面だけでは済まないぐらい、恥ずかしいと思う。 「すごく久しぶりにバスに乗った気がします」 「まあ、学生はみんなグラシュで移動するからな」 今日は、二人でバスを使って街の方へと出てきた。 理由としては、大会前の一日ぐらいは、グラシュと離れてみるのもいいだろうと思ったからで、そこまで深い理由はない。 ということで、雨の日ぐらいにしか使わないバスに久しぶりに乗ったんだけど。 「朝と夕方しか運行してないんだな……」 「利用する人、減ってますもんね」 実際、一緒に乗った人たちを見ても、年配の人か、もしくは幼い子供連れのお母さん、といった構成だった。 もちろん、同世代は一人もいない。 「というわけで……今日は夕方まで時間もあるし、ゆっくり遊ぶことにしよう!」 「わあ! で、どこに行きますか?」 「…………」 「…………」 「……ちょ、ちょっと一瞬いいかな?」 「はい?」 明日香に気づかれないよう、後ろを向いて、密かに呻く。 (まったく考えてなかった……っ!!!) 普段からそんなに遊ぶわけでもなく、買い物というとイロンモール一択の生活が完全に裏目だ。 そういや俺、デートスポットとかそういうの、なにひとつわかってないんじゃないか。 何かないか、なにか……。 「え、えーと、それじゃ……」 再び明日香の方を向いて、 「こないだのパフェ、また食べようって言ってたから、あそこに行こうか、うん」 我ながら良い提案だ、うん。 「わ、またあのパフェが食べられるんです……い、いやいや」 明日香は一瞬目を輝かせるも、すぐに首を振って否定し、 「すごく嬉しいんですけど、その、やっぱりパフェを食べるのは、大会が終わってからのご褒美がいいかな……って」 「そ、それもそうか……」 確かに明日香の言う通りだ。 これから頑張ろうって日の前日に、ご褒美クラスのものを食べてどうする。 決起集会的なものならまだわかるけど……。 「ごめんなさい、せっかく誘ってもらったのに……うう」 「いや、い、今のは俺が悪かった、悪かった!」 パフェは明らかにミスチョイスだった。大会が終わってから、改めて食べに行こう。 となると……あとはなんだ。 バスとフェリーに乗って福留島……は時間かかりすぎだし、島の散歩……ってのもグラシュ無しじゃただの山歩きだし。 (い、意外に何もないぞ、この島!) ましろうどんに行くって手もあるけど、その際は後輩のジト目に晒されることになる。 「いらっしゃいま……あっ、先輩と、センパイだ」 「センパイ……ひょっとして大会の前日がお休みなのって、明日香先輩といちゃいちゃしたかったからじゃ……」 「いえいえ、いいんですよ? あ、お二人で一緒に食べる、カップル専用風呂桶うどん、よろしければどうですか〜?」 「いひひひ……うふふふ……」 「い、いや、その選択はない!」 「……?」 ……さすがに危険すぎる。やめておこう。 しかしそうなると、本当に選択肢が無くなってくる。 どこか……どこかないか……! 「もうちょっと……もう、ちょっと……!」 「やった! やりましたよ、晶也くん!」 「よ、良かったな、うんっ」 「もう一個、欲しいのがあるのでそれも頑張りますね!」 明日香は再び、クレーンゲームに向き合った。 意気揚々とクレーンを操作する明日香の後ろで、俺はひとり、密かに落ち込んでいた。 「俺、デートスポットとか知らなすぎるな……」 明日香を誘ったのはいいとして、その後の流れが最悪だった。 グラシュを使わない日なのはいいとして、じゃあ移動手段をどうするかとか、ちゃんと考えてから行動するべきだった。 結局行き先が、よりによって、前に来たことのあるゲーセンとか……。 「……ほんと、FC以外に反省するところが多すぎるな……」 窓果を先生に、一度真剣に教えて貰う必要がありそうだ。 「やったー! もう一個ゲットですーっ!」 「お、おおーっ、やったな!!」 ほんと、明日香が楽しそうなのが救いだ。 「やっと着きましたね」 「なんか、晴れの日だと雰囲気が変わるな」 「雨の日ぐらいしか通学路を歩かないので、坂道がちょっと新鮮でした」 「まあ、グラシュのおかげで、だいぶ助かってるよな久奈浜は」 ゲーセンを出たあと、なんとなくブラブラと散歩になった。 海沿いの道を歩いていたら学校が見えてきて、明日香がちょっと行きたいと言い出して、こうなったわけで。 最初からグラシュだった明日香にとっては、晴れの日の徒歩通学にとても興味があったらしい。 俺は飛ぶのを避けていた時期があったから、その頃は毎日、このルートで通学していたけど。 「この時間に、私服でここにいるなんて、ちょっと新鮮です」 「確かに、いつもなら午後の練習をしてるとこだからな」 今日は少なくとも、FC部員は一人もいない。 そこに二人だけで学校にいるというのは、確かにちょっと面白い。 「そう言えば……」 明日香は旧校舎の右の方を見て、 「あそこって、晶也くんは行ったことありますか?」 「ああ、あれか……」 校舎脇にある、少し年代物の教会。学校の設立当初から存在している。 『学院』と名前が付いている通り、久奈浜学院はかつてミッションスクールだったのだけど、最近はめっきり、使用されることも少なくなった。 「俺も実は、一度しか入ったことがないんだ」 「そうなんですね」 「中に入ってお祈りとかはした。でもそれだけで、あとは一度も」 神様もきっと、この不信心なやつのことは覚えていないだろうし。 「ふーん……」 明日香は教会の方をじーっと見つめると、 「こういう時って、必勝祈願とかしますよね?」 「あ、うん」 「だから、教会に行っておけばよかったなあ、って。今日はお休みなので、残念でした」 必勝祈願……まあ確かに。 でも、この手の教会で祈願ってのは、さすがにちょっと違和感があるな。 「昨日、行っておけば良かったです」 「学校が開いてる時なら、入れたんですよね?」 「あ、いや、今日も入れるけど、一応」 「……えっ?」 「晶也のやつ、試合前日に学校へ来るとは意外だったな」 「休日なのに妙なことをするもんだ。……まあ、むしろ倉科の方は楽しそうにしていたが」 「ほう……この上さらに来客とは」 「お久しぶりです、各務葵さん」 「これはこれは。先日は晶也が大変世話になったみたいだね」 「ちょっとお話があるのですが」 「生憎、愛弟子のライバルと大会前に話すことなんか何も無いね」 「……アンジェリック・ヘイローを使ったそうですね」 「…………」 「……いけないお嬢さんだ。うちの学校に忍者でも寄越したのか?」 「そんなことは別にどうでもいいことです。大事なのは、あなたがそこまで本気だという、その一点に尽きるでしょう」 「本気……だって?」 「かつて世界大会の3回戦でわたしが見て、いつかこれを再現したいと思った、唯一の技……」 「バードケージの元になったその技の持ち主が、何年にもわたる封印を解いたのです。心躍らないわけがありません」 「……結果的に、相手を引退に追い込んだ技だ。使ってはならない禁じ手、という意味で見せたんだ」 「そうも言ってられないかもしれませんよ?」 「……ほう?」 「明日の大会で、恐れおののかないためにも」 「知っておいた方が、いいと思います」 「……そこまで言うのなら、楽しませてくれるんだろうな?」 「はい、それはもう……」 「こんにちは……」 「……おじゃまします」 裏口の鍵を開け、そっと中に入る。 夏場でクーラーも効いていない場所なのに、妙にひんやりした空気が漂っていた。 「裏口の合い鍵が、そんな所にあるとは知りませんでした」 「うん、俺も本当に偶然だったから」 前に偶然、教会の横を通りがかった時に見つけたんだよな。 あとでちゃんと、裏口の配電盤の中に返しておかないと。 「じゃあ、早速お祈りしようか」 「は、はいっ……」 二人で揃って、正面のステンドグラスの前に立つ。 大きな十字架が、俺たちを見下ろすように掲げられている。 「えっと、こういう時って、両手を組んでお祈りするんでしょうか?」 「たしかそんな感じだった……と思う」 「そ、それでやってみましょう」 いささか自信のない中、両手を組んで静かに目を閉じる。 「……勝てますように」 「明日の試合……練習の成果が出ますようにっ」 「優勝します、ってお祈りしないの?」 「うーん、高望みしたら叶わなそうな気がします」 「こういう時は大きめに言っておく方がいいと思うよ」 「そうなんですか……?」 「ああ。だから明日香も優勝で、ひとつ」 「わ、わかりましたっ、それじゃ優勝で……!」 もう一度目を閉じて、優勝をお祈りした。 「お祈りしましたっ」 「うん」 「はーっ、これでもう明日を迎えるだけですね……」 「そうだな……」 長かったように思えた練習も、これでひとまずは区切りとなる。 結果がどうなるかは……神のみぞ知ることだ。 「……よし、じゃあ行こうか」 「……はいっ」 再び、裏口へ向けて歩き出す。 「ん?」 しかし、明日香は俺の後ろについてこようとせず、その場に立ち止まったままだった。 「明日香、どうしたんだ?」 明日香のいる所に歩み寄って聞くと、 「……今、ここには誰も入れないんですよね?」 逆に、そんなわかりきったことを確認してきた。 「まあ、鍵かかってるし、休日だし……って、んんっ……!」 「んっ、ちゅっ……」 明日香の顔が急に迫ってきて、俺の唇を塞いだ。 「ちゅっ……ちゅぱっ、んっ」 そのまま、角度を変えつつキスを繰り返す。 「はあっ……」 やっとのことで、明日香が離れた。 ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべつつ、 「不意打ち成功ですっ」 「今日は逆にわたしから仕掛けてみましたけど、どうでしたか? ドキドキしました?」 俺は突然のことにびっくりしていたが、 「うん、ドキドキした」 「ホントですか、やりました、わたしっ」 「おかげで、まだドキドキしてるのが止まらないぐらいだ」 「それはよかったです……って、えっ?」 俺は明日香の背中に回ると、 「あ、あの、晶也くん……?」 「俺、今のキスでスイッチ入っちゃった」 言って、明日香の身体を両手で撫で回す。 「ちょ、ちょっと、それはさすがに、あの、晶也く……」 右手でスカートの上から、左手で胸の辺りを。 「あっ……あああっ……!」 すこしだけ強めに、上下に擦り動かす。 「ん……明日香、かわいい……」 「だ、だめ、がまん、できな、く……なりま……すっ」 明日香の身体をくまなく撫でさする。 最初は拒もうとしていた手足も、次第にゆるんできて……。 「ふぁ……もう、だ……め……」 明日香は屈ませていた身体を元に戻すと、 こちらに向き直り、ギュッとしがみついてきた。 「神様に怒られちゃうでしょうか……?」 「あとでよく謝っておくよ」 「晶也くんが悪いんですよ、もう……」 明日香は、顔を赤くしながら、消え入りそうな声で、 「こうなっちゃった身体……鎮めてくださいね」 「……ああ」 「んっ、ちゅっ、ちゅぱっ……くちゅっ」 「ぺろっ……んっ、やっと、晶也くんのを、ちゃんと触れました」 明日香の舌先に、俺のものが赤く濡れそぼっている。 「ちゅっ……ぺろっ……ちゅっ」 そして俺の顔の前では、明日香の大切な場所が、ぐしょぐしょに濡れている。 「ちゅっ……んっ、んっ……はあっ、や、ぁんっ……」 俺が少しでも動きを速めると、明日香はすぐに気持ち良くなってしまう。 お互いに大切な場所を舐め合っているけれど、明日香はなかなか、俺を気持ち良くするところまでいかなかった。 「んっ……はあっ、晶也くんのが、すごく、びくびくしてますね……」 そんなことを言ってくる明日香。 特に意識して言ってるわけじゃないんだろうけど、すごく興奮してしまう。 「明日香のだって、さっきからずっとひくひくしてる」 「う……そ、それはそうですけど、あっ、あああっ……!」 でも、ほんの少し触れるだけで、明日香はとたんに声を上げてしまっていた。 「はあっ、はあっ、はあああっ……!」 「ちょ、だ、だめです、晶也くん、とめっ、いったんとめて、くださ、いっ……」 「ん……わかった」 「はあ、はあ、はあっ……!」 俺が動きを止めると、明日香は呼吸を整える。 「もうっ、だめですよ! 一緒にしようって言ったのに、すぐにルール違反しちゃうんですから……」 「そうかな……?」 「そうかな、じゃないです! コーチの時はすごくしっかりしてるのに、こういう時になるとすぐいじわるするんだから……」 「それはほら、明日香がかわいいから」 「ほ、ほら、すぐにそうやってほめて話題をそらすの、本当に良くないですよ!」 「だってかわいいんだもの……ちゅっ、ちゅうっ……」 返事を待たず、再び明日香の大切なところにキスをする。 「ああっ……!」 明日香の身体がビクッと跳ねた。 「ま、まけないですからっ……!」 なすがままにされるのが悔しかったのか、明日香はしがみつくように俺のを掴むと、 「あむっ、ちゅっ、ちゅぱっ、ちゅぷっ……」 俺の先端の敏感な部分を、キスをするように舐め始めた。 「んっ、くちゅ、ちゅっ……れろっ、ちゅっ、んんっ……」 そして、咥えてからの上下運動。 明日香の柔らかい舌が俺のものを蹂躙し、裏側を指でチュクチュクと擦ってきた。 (っ……! う、これは、ちょっと……) この流れで油断したら、すぐにでも明日香にイかされそうだ。 (じゃあ、俺も……っ) 両手と舌を使って明日香の中を弄る。 「んっ……! んんんっ……!!」 明日香が咥えたままうめいて、動きが止まった。 我慢できなくなったのか、俺を攻める口の動きが、すこし疎かになる。 「んふっ……んっ……んんっ……!」 それでも頑張って舐めようとする明日香。 追い打ちをかけるように、指でコリコリと突起をいじめる。 「んっ、んっ……んはっ! はあっ、はあっ、ああっ……!」 ついに、明日香が堪えきれなくなって、俺のものから口が離れた。 「まっ、晶也くん、だめ、だめですっ、そんなに、あっ、あああっ……!」 「あっ! あっ、あっ、だ、だめっ! だめですっ、や、やあぁっ……!」 「明日香、イっていいよ……!」 「だ、めです、んっ、はあっ……まだ、イきませんっ……!」 明日香も負けじと俺のものへとむしゃぶりつく。 「ちゅぷっ、ちゅっ、んっ、んはぁっ……はむっ、ちゅうっ、ちゅっ、ちゅぅっ……!」 (んっ、んんっ……んーっ!) その一撃で、俺の中からも遡るものが一気に押し寄せた。 「ちゅっ、ぺろっ、んっ、んっんっん〜〜〜〜っ!!!」 明日香の口の中で盛大に弾けるのと同時に、本人も全身を震わせた。 「っはあっ……! ああっ、ああっ、あああっっ!!」 俺のを口から出し、白いもので口元を汚しながら、明日香はガクガクと震えつつ、イった。 「んっ、はあっ……はあっ、はあっ」 溜まっていたものを明日香の口内に発射し、俺も気持ちよさの中でぼんやりとしていた。 「はあ、はあ、まさや、くん……ちゅっ」 明日香が俺のを握ったまま、先端にキスをした。 「っ……! あっ……!」 敏感になっている時に触れられたせいで、ビクビクと震えてしまった。 「ふふ……かわいいです、晶也くん」 「……明日香もね」 「うん、それじゃ……もっと、かわいがってください」 明日香はそう言うと、すっと身体を起こした。 「こうやって、ギュッとして……ください」 明日香は俺の正面に回ると、だっこされるように、身体へと跨った。 「晶也くんの顔、近くでずっと、見ていたいです……」 そして、ゆっくりと身体を下へ落とした。 「んっ……あっ、あああっ!」 挿入した瞬間、明日香が堪えきれずに声を漏らした。 「大丈夫か、明日香……?」 我慢するような雰囲気があったので、少し心配したが、 「だ、だいじょうぶ、です。その、恥ずかしいんですが……」 ふう、ふう、と息を切らせながら、 「あの、恥ずかしい話なんですが、今晶也くんが入ってきた瞬間、その……」 「入った瞬間?」 「その、イきそうになっちゃって……それで、我慢してました」 「…………」 明日香の言葉に応える前に、身体を少し揺する。 「ひゃっ、ひゃうっ、あっ、あああっ」 「は、はあっ、はあっ、も、もう、晶也くんっ、いきなり動かすの、なしですっ!」 「明日香」 「はい……? あ、んっ……」 明日香の身体を抱き寄せ、頭をよしよしと撫でる。 「あ……ふあ……ぅん……」 俺の胸元で、明日香は甘えるように顔をすりつける。 明日香のすべてがかわいくて仕方がない。 「こうやって繋がってるだけでも、すごくドキドキして、気持ち良くなってしまいます……」 「うん、俺もそんな感じ」 繋がってる部分だけが熱を強く持っていて、ゆるやかな快感が、じわっと伝わってくる。 イくことはないけれど、頭をしびれさせるような遅効性の気持ちよさだった。 「わたしの中で、晶也くんがびくびくって動いたり、固くなったり少し柔らかくなったりして……」 「一緒にいるんだなあって、実感しちゃいます」 仕草の、会話の、ひとつひとつが、麻酔薬のように身体をしびれさせてくる。 明日香って、こんなにすべてがかわいい子だったんだ。 身体を合わせる度に思い知らされる。 そして、このかわいさを独り占めできていることの、例えようのない優越感を噛みしめている。 「……なんか、明日香とこうしてると、すぐに滅茶苦茶にしたくなってきてヤバいな」 「ま、晶也くんはやっぱりSの人だったんですか?」 「うーん、そういう気はないと思ってたんだけど……」 「どうも、明日香と一緒だと、そういう気が起きやすいみたいだ」 「そ、それはなるべく……抑えて欲しいですっ」 困ったような顔で、明日香が訴える。 でもまあ、そのお願いは聞けないだろうな、きっと。 だって、こうしている今だって、俺は明日香を困らせたり、恥ずかしくさせたりしたいから。 「んっ……あっ……くっ」 明日香が位置をずらしたいのか、腰をくねらせて移動しようとする。 「明日香、痛いのか……?」 「そ、そうじゃないんですけど……」 「こ、ここだと、んっ、ちょっと、あっ、敏感なとこに、こす、れてっ……んんっ……」 「変な声出ちゃうの、あっ……は、はずかし、くてっ……んっ」 明日香のこのスキの多さというか突っ込みどころの多さ、これこそ本当に天才なんじゃないかって思う。 「いいこと聞いた」 「え、ええっ、だ、だめですって、今の、今のなしです、晶也くんっ!」 明日香の制止を振り切って、腰の上で明日香の身体を跳ねさせる。 「んっ、んんっ、はああぁっ……!!」 繋がった部分が音を立てて、明日香が甘い声を上げた。 「やだっ、晶也くんのが、当たっ、て、こすれてっ……! ん、んんんっ……!!」 「明日香……」 「はあっ、はあっ……は、はい……?」 「俺、明日香の中で動きたい、かき回しても、いいか?」 明日香は赤くした顔のまま、恥ずかしそうに伏し目がちになると、 「は……い、して、ください。気持ち良く……」 そう言ってお願いする明日香を見ていると、また少し、いけない考えが頭に浮かび上がる。 「どうしようかな……明日香、もっと普通にお願いしてみて」 「え、普通って……どういうのですか?」 「その、丁寧語じゃなくて、普通に」 「そっ、そんな……恥ずかしいですっ、お願いするだけでも恥ずかしいのに……」 「んー、でも今は二人きりだし、こういう時じゃないと聞けないからなあ……」 「…………っ」 「ね、明日香。お願い」 「ううぅ〜……晶也くん、ほんとにいじわるです……」 そう言って嫌がりつつも、やがてゆっくりと口を開き、 「ま……晶也くん、お願い、きっ……気持ち良く、して……?」 顔を赤くしながら、途切れ途切れに言う明日香は、もう例えようがないぐらいにかわいかった。 「も、もうこれ以上言えないです、恥ずかしいですっ……!」 「……うん、すごく気持ち良くして欲しいんだって、伝わった」 「〜〜〜〜〜っっ!!」 ジトッとした目でこちらを見る表情を楽しみつつ、 「じゃ……動くよ」 明日香の身体をしっかりと支え、小刻みに揺らし出す。 「あっ、ああっ、あっ、んっ、いっ、はあっ、はああっ」 明日香の口から吐息と声が漏れ、目がトロンと半開きになる。 「んっ、晶也くん、んんっ、いい、きもち、いい、ですっ、あっ、ここ、が、こすれ、てっ……はあぁっ……!!」 声が一段と上擦り、合わせ目から漏れる音もクチュクチュとエロくなる。 「ここが、気持ちいいのか……?」 身体の向きを少しだけ変えて、さっき明日香が反応した場所を突く。 「んっ……!!」 明日香の顔が一瞬だけ反り返って天井を仰いだ。 「やっ、そ、そこ、ばっか、りっ……んっ、だめ、あっ、ああっ、晶也くんっ……やあぁっ……!」 恥ずかしがる明日香に追い打ちをかけるように、胸元に添えた手を動かし、乳首をはじく。 「ふああああっっ!!」 明日香の身体が再び跳ね、大きな声が上がった。 「あっ、あっ、あっ、こっ、こん、なにっ、こえだし、て、はずか、し……ですっ、ひゃあんっ、ひゃあああっ!」 口元を少し弛緩させながら、明日香は気持ちよさそうに甘い声を漏らし続ける。 俺は明日香の身体を連続して揺すりながら、胸をゆったりと揉み続けた。 「あっ、そ、そこっ、んっ、あふっ、ああっ、きもち、いいっ、ですっ、まさや、くんっ……!」 胸と同時に擦られるのが気持ちいいらしく、トロンとした表情で明日香が気持ちよさを表した。 「そうか、ここがいいんだ、な……」 胸の辺りを触り、上下の動きで先端が擦れるようにする。 「やだっ、やめっ、ちく……び、さわっ……んっ! はあっ、さわっちゃ……ひゃんっ、ひゃっ、ああっ!」 指で明日香の堅くなった乳首をくりくりと回す。中がキュッときつくなり、快感が増す。 「あっ、い、いま、のっ、すごく……んっ、きもち、よかった……ですっ……あっ、あああっ……」 擦れる速度は次第に上がってきた。 俺の中でも、しびれに似た感覚が、徐々にせり上がってきた。 「やぁっ、ああっ、あっ、いっ、イっちゃ、う、イっちゃいます、からぁっ、んっ、はぁっ、はあっ……!」 「いいぞ……イこう、あす、か……っ!」 俺にももう限界が近づいていた。 息も荒くなっていたし、腰の奥から快感がせり出して、もうすぐにでも出そうなところへ至っていた。 「はっ、はいっ……い、イきます、イく、イっちゃう、いっしょに、イきたいです、晶也くん、晶也くぅん……!」 「うっ……んっ、あす、かっ、明日香っ……!」 「晶也くん、晶也くんっ……!!」 明日香が俺の名前を呼んで、ギュッとしがみついた直後、 「んっ……はあっ、あああっ……!」 「はぁっ、はぁっ、あっ、ああっ、あああああっっっ……!!!」 俺と明日香は、同時に達して、ビクビクと身体を震わせた。 互いに余韻に浸りながら、荒くなった息を落ち着かせていく。 「はあっ……はあっ……はあっ……まさやくん、まさやくん……」 その中でも、明日香は俺の名前をずっと呼び続けた。 「はっ、はあっ、も、もう、うごけない、です……」 「明日香、大好きだよ、俺……」 「は、はい……わたしも、わたしも……」 明日香は、すべてを包み込むような、大げさではなく本当にそんな優しい笑みを向けて、 「だいすきです……晶也くん」 そう言って、俺の背中に手を回すと、ギュッと固く抱きしめたのだった。 教会を出る頃には、日が少し傾きかけていた。 ゆっくりと坂を下りて、停留所からバスに乗る頃には、辺りはすでに緩やかなオレンジ色に染まっていて……。 その暖かい光は、明日香の顔もくまなく染め上げていた。 「すー……んっ……すぅ……」 「明日香……」 俺の腕に抱きついたまま、すやすやと眠る明日香。 その柔らかな髪を手で梳いて、そっと頭を撫でる。 「ん……晶也、くん……」 寝言で俺の名前を呼びつつ、 「んっ……にゅ……すぅ」 また、寝息を立てて寝入ってしまった。 「しかし、かわいいなあ」 何度言ったかわからないぐらい繰り返した言葉。 それでも、改めて何度も言ってしまう。 部活ではあれだけパワフルで、しかも前人未踏の戦いを続けている選手なのに。 今、こうして俺の腕にすべてを預けて寝ているこの子は、そんな普段を感じさせないほど、かわいらしい。 「ほんとに、なんでこんな子が……」 小さな顔に触れて、頬を撫でる。 俺の手にすっぽり収まってしまいそうなぐらい、儚く見えるのに。 ひとたびFCとなると、心強いパートナーになる。 「…………」 「……なんか、またダメなこと考えてしまった」 こんなに無防備でかわいい顔を見ていると、誰もいない車内ということもあって、妄想がふくらんでしまう。 顔を撫でるぐらいで我慢しておかないと、やばい。 「ん……あれ……?」 「っ!」 一瞬、びっくりした。 明日香が不意に目を覚まし、俺は触れていた手を慌てて離す。 「はっ、わたし、寝ちゃってましたか……?」 「うん、寝てた」 「はぁぁ……うう……」 妙に悔しそうな、残念そうな顔をする明日香。 「せっかく、晶也くんと一緒にいるのに、もったいない時間になってしまいました……」 「そっか、俺はすごくいい時間だったけど」 「えっ?」 「明日香のかわいい寝顔をずっと見ていられたから」 「……う、うう〜〜っっ!!」 明日香は頭をぐりぐりと俺の胸へ押しつける。 何か不満があったり、恥ずかしいと仕掛けてくる、いつものクセだ。 「もう、きらいです、きらいですーっ」 「ほんとに?」 「…………」 「……ほんとなわけ、ないじゃないですか」 「はは、安心した。よかった」 「はあ、もう……わたし、晶也くんが好きすぎて、自分がどんどん、ダメになってしまいそうです」 「ちょっと見てみたい、明日香がダメになるの」 「いいんですか? 本当にダメですよ、いや、普段も相当ダメですけど、それ以上ですよ?」 「いいよ。じゃあ、今ここでダメになってみて」 「う、うーん……じゃあ、ちょっとだけ」 バスに誰もいないこと、そして、一番後ろの席だというのを改めて確認すると、 「うにゅ……晶也くん……んっ……」 「うぉ……っ」 すりすりと、俺の身体にほっぺたをすりつけて。 腕にしがみついた手も、撫でさするように動かして。 極めつけは、並んだ足までも、俺の足にぴったり付けてきた。 「晶也くん……もっと、もっと近づいてください……」 ねだるような甘い声で、俺に近づくことを要求してくる。 (うわー、やばいやばいやばいやばい) 「晶也くんの腕だぁ……固くてしっかりしてます……」 言いつつ、腕を手で撫でる。 身体はしっかり密着しているので、明日香の大きな胸の柔らかさが、腕からしっかりと伝わってくる。 「晶也くんの胸板……、厚くて、広くて、ずっとこうしていたいです」 言いつつ、胸にほおずりをする。 「大好きです……ほんとに、大好きです……」 「は、ははは……」 自分の中で、『理性』と書いてあるビルが、上の方からボロボロと崩れそうになっているのがわかる。 中に隠されている『本性』が、崩れるビルの中から見えかけていた、その時。 「……って、ぐらいに!」 明日香は急に、さっきの体勢へと戻った。 「家に一人でいる時のわたしは、とても危ないんです」 「はぁ……ダメですね、もう」 ……すんでのところで、ビルの崩壊は収まった。 あと一押しされていたら、公共の場ということを忘れて、とんでもないことをしていたかもしれなかった。 「そっか……明日香は、こういう面も持ってるのか」 「……もう、これ以上は見せないですからねっ」 「また、見せて欲しいけどな」 「ぜ、ぜったいにダメです! 今度こそ怒りますからね!」 「いいじゃないか。家でトビウオのぬいぐるみを抱きしめて、ふーっ、って言ってる明日香とか想像しちゃう」 「………………えっ」 「……ひょっとして、そういうことしてた?」 「きっ、きらいです! すきですけど!」 「ははは……」 「もうっ」 バスがガタンと揺れ、行き先表示が新興住宅地へと変わった。 「あ、止めないと」 ボタンを押し、車内に赤ランプが点った。 薄暗い車内に、赤い点が街灯のように並んでいる。 「バスで街に行くのも、よかったですね」 「うん……」 最初は、どうなることかと思ったけど。 空を飛ばずに遊びに行くのも、発見があって、良かったように思う。 それに、一日だけとはいえ、飛ぶのをやめると、もう飛びたくて仕方がなくなってくる。 きっとそれは、明日香も同じで。 だからきっと明日は、我慢していた羽根を存分に広げて、誰よりも大きく、飛んでくれるはずだ。 ――それが、とても楽しみだ。 「そろそろかな。降りる準備をしよう」 バスが大きく右に曲がった。 停留所への直線に入ったところで、 「じゃ、もう降りるから、最後に」 明日香が不意に、そんなことを言った。 「え、最後に……?」 「……ちゅっ」 明日香は俺の頬に、お土産を残して。 「あ……」 にっこりと、微笑んだのだった。 「あっ……」 「ど、どうしたの?」 「わ、わたし、最後に背伸びしたせいで、その」 「今、急に恥ずかしくなって、身体が熱くなってきちゃいました……うううっ」 「はぁぁ……もう」 このかわいい生き物には、ちょっと自重してもらわないと、本格的に俺の身体が持たないかもしれないな……。 「…………」 「……これは……!」 「どうです、楽しんで頂けたでしょう……?」 「フッ……まあ、な」 「楽しすぎて、目眩がしそうなほどだ……」 「それは何よりです……! お連れした甲斐がありました」 「えげつないよ、あんた……」 「おホメにあずかり、光栄です……各務葵さん」 「せいぜい、帰ってお伝えくださいな、あなたの愛弟子に」 「今までのFCは、この日本の地で終わるのだと、そのようにね」 「…………!」 「フフフフ……」 家に帰ってきて、早めに休むことにした。 皆に休養するように言っておきながら、寝不足ではシャレにならないからだ。 「…………」 「……とは言っても、眠れないな」 普段はまだ、起きている時間だというのもあるけれど。 眠れない原因は、不安と期待とが織り交ざった、この心情だろう。 「ちょっと、気分転換でもするか」 起き上がって、クローゼットを開ける。 開けてすぐの場所に移動させた、思い出のグラシュ。 拾い上げて、刻まれた言葉を読む。 「空を見ろ。空を見続けろ。答えはそこにある」 明日は、誓い通りに飛べるのだろうか。 空は、もう一度俺の近くへと、来てくれるのだろうか。 いや、俺が、空へ向かえるのだろうか。 「……迷わない」 グラシュを抱き、つぶやく。 俺がこんなでは、明日香が不安になる。 しっかりと導いて、そして行くんだ。 空を見上げて、行くんだ。 「んっ……?」 誰からだろう。 明日香は着信を別の音にしているから、みさきか真白、それか窓果だろうか。 スマホを拾い上げ、名前を確認する。 「…………」 「……葵さん?」 「はぁ〜……眠れないよう」 「朝早いのに、ちゃんと寝なきゃいけないのに」 「……さっきのお願いに追加して、ちゃんと眠れますようにってのも入れとこうかな」 「お人形にお願いすること、いっぱいあるなあ……」 「他のことはダメでも、大会のことと、晶也くんのことだけは、よろしくお願いしますっ」 「……あと、できれば眠れるようにも」 「それにしても、今あの子、どこで何してるのかな……」 「元気にしてるといいけど……また会えるといいな」 「…………」 「…………んっ」 「……はぁ、やっぱり眠れない」 「そうだ、晶也くんのこと考えよう」 「ふーっ、落ち着く……」 「これが晶也くんだと思って……」 「恥ずかしいけど、やめられないんだよね……」 「んぅ……晶也くん……」 「……大会、ちょっとだけ不安だな」 「乾さん、すごく強いんだろうな」 「でも大丈夫。晶也くんを信じてる」 「だから、精一杯やるだけ……!」 「うん……やるだ……け……」 「ん……んにゅ……」 「先生」 「晶也、すまない。こんな時間に呼び出して」 「いえ、どうしたんですか?」 問いかけても、先生からなかなか返答がない。 最近にしてはめずらしく、表情が険しい。 「先生……?」 「なあ、晶也……」 「あと60、59、58……」 「慌てなくてもいいですよ、沙希。今日はもうこれでおしまいですから」 「はい、イリーナ」 「51、50、49……」 「明日は、良い天気になりそうですね。飛ぶには最高の環境です」 「今日は……一段と、星が見える」 「あら……そうですわね。サーク島の夜空みたい」 「……キレイだった、すごく」 「沙希と出会ってすぐの頃でしたわね」 「……イリーナに、話しかけてもらった」 「でしたね……ふふっ、夢中になってネコを追いかけて、とても楽しそうでしたわよ」 「…………」 「最初は何も話してくれなかったあなたが、熱く語った、飛びたいという思い。……今も、忘れていませんわ」 「……ずっと、飛びたかったから」 「二人で、どうやったら完全になるか。追い求めた日々を思い出します」 「でも、やっと報われる時が来たのです」 「……はい」 「……あなたは本当に素晴らしい選手になりました」 「わたしの思い描いた、『本当のFC』……。それを実現できる選手に、なりました」 「私……」 「はい……?」 「明日、私はイリーナのためにも絶対に……勝つ」 「……ええ、そうですわ、沙希」 「そうです、彼らにはわからせる必要があります。楽しんで飛ぶなどということが、いかに馬鹿げているか、『本当のFC』とはどういうものなのかを……」 「……そして、あの人にもわからせなければなりません」 「……はい、イリーナ」 「さ、そろそろ降りていらっしゃい。クールダウンも終わりましたし、身体を休めましょう」 「はい……」 「シャワーではなく、湯船で身体を温めなくてはいけませんよ? あと、髪も梳かさないと……」 「お前だけは聞いておいて欲しい」 「いったい、何をですか?」 「……明日の大会、倉科と乾の対戦だが」 人は、言葉ひとつだけで、体温から何から、急速に変われるのだと思った。 それは良い方にもありえることであり、また、悪い方にもありえることであって。 ちょうど今、この俺の状態は。 「このままだと、倉科は負ける」 「えっ……!!」 その、一言によって。 全身が凍り付いた後、心臓が急速に暴れ出して、一気に体温が上昇した。 どういう……ことなんだ。 どういうことなんだよ、先生――。 大きな花火が、何発も空に打ち上げられる。 夏の大会に比べて、少しだけ簡素な開会式が終わると、それぞれの学校は、各自の集合場所へと散っていった。 ついに秋の大会、通称、新人戦が開幕したのだった。 「はーっ、ついにやってきたね、この時が」 「ううっ、前の大会の時を思い出して、ちょっとドキドキしてきちゃいました……」 「だいじょーぶよ真白っち、みんなで練習したおかげで、かなーりレベルアップしたんだから!」 窓果の言う通り、真白も全体的にかなりレベルは上がっていた。 夏の大会よりは、良い結果を残せるんじゃないかというのが、俺の予想だ。 「だったら、今回は初戦突破を目標にします!」 「おー、現実的な目標だ」 「んーじゃ、あたしは3回戦進出かなあ」 「それも現実的なとこかな」 二人とも目標を果たせれば、なかなかの好結果になる。 「……まあ、いきなり乾さんが来たら泣きますけど」 「あ、やばい。泣くねそりゃ」 「それは俺でも泣くな……」 しかし、トーナメントの決め方から考えると、1回戦から乾に当たることも普通にありえる。 有力選手をシードにしたりせず、相変わらずのランダム形式だからだ。 「まあ、仮にそうなったとしたら、どれだけ善戦できるかを考えてやるしかないかな」 「そ、そうなったら、せめて明日香先輩に役立てるような情報を掴んできますね!」 「だねえ、くすぐりに弱いよとか、恐い話に弱いとか」 ……ま、こういう話が出てるぐらいで、試合前はちょうどいいのかもしれない。 名前が出るだけで縮こまってるようじゃ、先が思いやられる。 「それは本人も喜ぶよ……って、そういや明日香、まだだよな?」 「ちょっと遅れてるって言ってたけど、もうすぐ……、あ、きたきた、おーい、こっちこっち〜」 「はあ、はあ……ご、ごめんなさい、遅れちゃって、おはようございますっ!」 「おはようございまーすっ」 「おー、明日香、どしたの、寝坊〜?」 「うー、恥ずかしいことにそうです……、思いっきり、寝ちゃってて」 「今日に限ってお父さんもお母さんも寝坊してるし〜……」 「おはよう、明日香」 「は、はいっ、おはようございます、晶也さんっ」 「…………じーっ……」 「…………にへっ」 「あ、明日香、コホンッ、人の顔を見て朝からにやけないように……」 「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」 「……試合がなかったら、今からお説教ものだね、これは」 「明日香って、晶也に関しては日に日にダメになってきてる気がするね〜」 「……お腹いっぱいです、朝から」 「気をつけますー……ううう」 明日香の色ボケ?をたしなめたあと、俺たちは全員でトーナメント表の確認をしに行った。 「今回は新人戦だから出場選手が少なめなのか」 「3年生が揃って引退だからね〜。その分、1年生の比率は増えたみたいだけど」 「ってことは、事実上2年生の最強を決める戦いなわけか」 「そうなりますよね〜」 新人戦は全部で32試合。夏の大会の半分だ。 よって、1日で消化できる試合数ということで、Aブロック・Bブロックに分かれてトーナメントが作られる。 各16選手の内でトップを競い、それぞれのブロックの勝者が、決勝を争うことになる。 「みんな、誰と対戦になるんでしょうか……」 「1回戦で明日香と当たったらどーしよう……」 「さすがに同校対決は避けてくれるはずだよ」 でも、それ以外は完全にランダムで決められる。 今は1回戦で乾に当たらないのを祈るだけだ。 「しかし、こうやって他の学校を見てると、やっぱり3年生がフォローに回ってるとこが多いね」 みさきが言う通り、引退した3年生は、今回の大会まではサポートで参加しているケースが多い。 2年生に仕切り方を教えたり、1年生にメンテを教えたり、やることは沢山ありそうだった。 「そういや、部長はどうしたんですか?」 「ああ、部長なら、今日は白瀬さんの手伝いに行ってるって」 「あの二人、妙にウマが合ったみたいで、会うとずっと筋肉の話してるんだよね……」 「じゃ、大会でもそういう話をしに?」 「あはは、今日はバイトとお手伝いだって。最後の方でこっちにも合流するんじゃないかな?」 部長は趣味と実益を兼ねて、バイトをするという話だった。 もちろん、それは半分建前で、実際は他校の様子を確認したり、俺たちが見ることのできない試合を観戦してもらう予定だ。 「これで準備はできた、ってとこだな」 「えーっと……わたしの名前はどこかなー、っと。……ふにっ?!」 トーナメント表を見上げていた真白が、潰されたネコみたいな声を上げる。 「どしたの真白……あ、ほうほう」 真白の対戦相手を確認する。 「真白の相手は……高藤の1年生か」 前回の佐藤院さんに比べれば、まだ戦えそうだ。 「うう〜……、もうちょっと勝てそうな人なら良かったのに」 「まあ、1年生ならまだマシだったと思うよ。夏から連続で2年生の相手とかってキツいもんね」 「そうだよ真白、勝ち上がってあたしに立ち向かっておいで〜」 「えっ、みさき先輩もこっちの山なんですか?」 「そうだよ、ほらほら〜」 みさきの指差した先には、真白の近くに配置された『鳶沢みさき』の名前が記されていた。 「ほんとだ、近い」 「だね〜。でも、これだと真白っち、3回戦まで行かないとみさきと戦えないかな」 「さ、3回戦……」 真白が遠い世界を見るような目をした。 「大丈夫だって、気合い入れれば2回ぐらい勝てるよ、がんばってここまでいらっしゃ〜い♪」 「い、いきます、勝ちますからっ!」 無茶苦茶だけど、時にはこういうノリってのも、リラックスさせるにはアリなんだろうな……。 「で、明日香はどうだった?」 「はい、それが……」 明日香の指差した先を見る。 同じAブロックの配置だったが、みさきや真白の山とは別の方だった。 「あ、でもこれは……」 その山には、見覚えのある名前が並んでいたのだった。 「この時が来るのを待っていたわ!」 ザッ、という足音と共に。 高らかな声で、背後から集団が現れた。 「さ、佐藤院さんっ」 振り返るとそこには、高藤の一団が顔を揃えていた。 「ごきげんよう、久奈浜のみなさん」 「早速、トーナメント表の確認にいらしたのかしら」 「そうです、みんなで対戦相手の確認に……」 「フッ、ならば見たでしょう!」 バッ、と高らかに手を上空に挙げると、 「我が翼に、蒼の祝福を!!」 「あ、出た」 今まで聞いた中で一番スゴい起動キーだ。 グラシュを履いてる状態じゃないので、今は単に気合を入れただけなんだろうけど。 「倉科明日香!」 「ひゃ、ひゃいっ!」 「2回戦……わたくしとの戦いが組まれていますわね」 「そう、ですね……順当に勝てば、です」 「フッ!」 佐藤院さんは、またしても手を上に掲げ、 「待っていますわよ、ここで」 「かつて野試合で刻まれた屈辱、絶対にここで晴らします!」 「は、はいっ、頑張りますっ」 佐藤院さんは満足げにうなずくと、 「他の皆様もごきげんよう。トーナメントの上の方で出会うことになるでしょうが……」 「あ、佐藤院さんだ。こないだは海の幸ありがと〜」 「はんぺんがおいしかったです〜」 「いえ、そんな、礼には及びませんわ」 「ではなくてっ! 今日はわたくしたちは敵同士ですのよ! もっとピリピリした関係を……!」 「魚河岸揚げ売ってるサイト教えて〜」 「あ、それでしたらあとでURLを送りますわ。紹介すればクーポンチケットがもらえますので」 「って、だから違うでしょうっ! もっと緊張感を持ってくださいな!!」 「あ、久奈浜の皆さん、おはようございます」 「お、市ノ瀬。おはよう」 「莉佳ちゃん、おはようございま〜す」 「こら〜っ! 市ノ瀬さん、ダメでしょう! もっと次期副部長として、しっかりと対応しないとっ」 「は、はい、すみませんっ」 「まあ、いいですわっ。それでは、わたくしは試合の準備がございますので、これで失礼しますっ」 佐藤院さんはそう言い捨てると、優雅な動きで向こうへと去っていった。 「ごめんなさい、佐藤院先輩、部長だからってことで今まで以上に気合が入ってるみたいで」 「……うん、伝わってきた」 「相手の学校に飲まれる前に、まずこちらから! って、あの感じで挨拶して回ってるんですけど……」 「元々、人当たりのいい方なんで、向こうから挨拶されるとすぐニコニコしちゃって」 「わかりやすく想像できるね〜」 「いい人ですもんね、佐藤院さん」 佐藤院さんらしいというか、何と言うか。 まあでも、部長として責任をってのはとてもよくわかる。 俺だって、実質は部長として活動してるわけだし……。 「あ、でも試合は別です。負けませんから」 「うん、勝ち上がって明日香やあたしと戦おう!」 「……そうなんですよね、順当に行けば、3回戦で明日香さんか佐藤院先輩と……」 市ノ瀬はため息をつく。 「とにかく、お互いにがんばりましょう!」 「はーいっ」 「うん、がんばりましょう!」 「高藤もがんばってっ!」 市ノ瀬が去っていって、改めてトーナメント表を見た。 まとめると、 「Aブロックの右側に真白とみさき、左側に明日香。真白とみさきは3回戦で会い、明日香とはブロックの決勝まで会うことはない」 「で、明日香は2回戦で佐藤院さん、3回戦で市ノ瀬とそれぞれ対戦の可能性がある」 「ブロックを勝ち上がるには、4回勝つ必要がある、と」 ――そして。 「乾沙希はBブロックか……」 俺たちが集中して配置されたAブロックではなく、乾沙希は、Bブロックに配置されていた。 おそらくは、Bブロックを勝ち抜いて、決勝に残ってくるのだろうと思われる。 「とりあえず、同士討ちが発生するのは3回戦以降みたいね」 「だな。Bブロックに一人でもいると、乾の様子が確認できてよかったんだけど……」 「そこは仕方ないよ。それに、前の話を聞く限りじゃ、決勝までネコ被ってるかもしれないしね」 「それもそうか……」 「……あとは、先生が見たって言う、謎の動きってやつの正体がわかればいいんだけどね」 「うん……」 窓果には、昨日の葵先生の話を聞かせていた。 「ふぁいと、ふぁいと、ふぁいと、おー! ですか?」 「そうそう、3回ファイトで、最後にオー! だからね〜」 「最後に腕を上に突き上げるとかどうでしょう〜」 部員たちは、みんなでかけ声の練習をしてるようだった。 みんなには、この不安を知られるわけにはいかない。 「謎の動き……か」 「謎の動き……ですか?」 「そうだ。グラシュの力やメンブレンの調整だけでは説明できない、実に奇妙な動きだった」 「でもなぜ、それが明日香が勝てない原因に……?」 「……得体の知れないものを相手にして、楽に勝てるとは私は思わない」 「ましてや、相手はあの乾沙希だ。……必ずどこかで、その動きを取り入れてくる」 「その時、どうやって対処すればいいんでしょうか」 「私にはさっぱりわからん。ひとつ、これならという考えもあるが、荒唐無稽すぎて話にならん」 「それは一体……?」 「……すまないが、それは言えない。思いついておきながらなんだが、常識外れすぎて、教師である私がお前に言うわけにはいかないんだ」 「……とにかく、用心してくれ。あれを出されたら、完全にお手上げだ」 「一体、どんな動きなんだろう……」 考えたところで、想像には限界がある。 見てもいないことを頭の中に組み立てるほど、労力を使うわりに成果の得られにくい仕事はない。 「とにかくさ、今は目の前の試合に集中しようよ。Aブロックを勝ち上がってから、考えることじゃないかな?」 「……ああ、窓果の言う通りだ。今はそっちに集中しよう」 「りょーかい! じゃ、1回戦のミーティングから始めよっか!」 「おーい女子チーム! そろそろミーティングはじめるよー!」 窓果がみんなに声をかけている中、俺は一人、空を見上げていた。 快晴の空。雲一つ無く、真っ青な空が広がっている。 「そこに答えはある……」 今はまだ、答えが出てくる素振りはない。 でも、信じてやるしかない。 これまで、明日香やみんなと築き上げてきたものを、発揮するしかないんだ。 「2対0で上通社、覆面選手の勝ちです!」 そして、試合は両ブロック共、一斉に開始された。 今年の大会は、Aブロック、Bブロック共に、大きな番狂わせも無く、進んでいるようだった。 2回戦まで終了したところで、一時休憩が取られ、それぞれの学校でも後半戦に際してのミーティングが行われた。 「……大きな番狂わせは無かった、か」 確かに、今大会で注目されている、乾やみさき、そして明日香は順当に勝ち上がっていた。 しかし、個人的に知っている選手については、思わぬ結果が待ち受けていた。 「ひっ……ううっ……ひぅっ」 高藤学園、佐藤院麗子、1回戦敗退。 元々、分の悪いタイプの相手だったことに加え、本人の疲労の蓄積が原因によるスタミナ切れで、最後は大差での敗戦となった。 強豪、高藤にとっては、予想外の敗北である。 「わ、わたくし、ぶ、部長、なのにっ、こんな、結果で、みんなに、なんて言った、ら……」 試合会場の片隅で、佐藤院さんは一人泣き崩れていた。 俺と明日香は、なす術もなく、その後ろ姿をただ見ているだけだった。 「ひっ、ひくっ、ううーっ……」 「佐藤院さ……」 声をかけようとした明日香を、止める。 「え、晶也さん、どうして……」 「勝ってる人間が、慰めちゃダメだ」 「……そんな」 「佐藤院さんはプライドも高いし、真面目な選手だ。情けをかけられたとあっては、元気になるどころかかえって傷つくかもしれない」 「それに今は、試合直後で感情が高ぶってる。またゆっくり落ち着いたら、挨拶に来よう」 「は……い」 しょんぼりする明日香の肩を叩きつつ、もう一人の高藤部員の方へ行く。 「あ、日向さん……」 市ノ瀬もまた、今回は2回戦での敗退となった。 でも、1回戦、2回戦と、実力派の2年生と対戦し、2回戦も善戦したことで、面目は保ったのだった。 とは言え、佐藤院さんの敗戦によって、受けた傷は大きいに違いなかった。 「残念だったな、市ノ瀬……」 「はい……もう少し勝てるかとは、思っていたのですが」 「わたしだけじゃなく、今回は誰も3回戦に残れなかったので、学校全体の結果としては残念としか言えません」 市ノ瀬の言うように、高藤は全出場選手がすでに敗退し、あとは観戦するか家に帰るかというさみしい結果になった。 「俺たち、市ノ瀬にも頼ってばかりで、それが負担になってたとしたら、本当に申し訳ない」 「そんな、気にしないでください」 「元々、真藤先輩のワントップで持っていた部なので、この結果は、むしろ励みになります」 「佐藤院先輩も、真藤先輩に頼らない部を作ろうと、あえて夏の大会以降は、お一人で指導されてましたし」 ……なるほどな。それで、真藤さんに時間ができたのか。 それに佐藤院さんにしても、部員の指導と管理ばかりで、きっと自分の練習をする時間が無かったんだろう。 俺たちにしたって、今の2年生が卒業する頃、きっと同じ悩みを抱えるに違いないんだ。 「だから、今回は残念な結果でしたけど、来年の夏は、見違える程に強くなって帰ってきます」 「……覚悟しててください、皆さん」 「……わかった」 「…………」 「当たり前ですけど、大会って、勝ち負けなんですよね」 「……うん、そうだ」 「わたし、正直ちょっと恐いです」 「こんなまでして、勝ち負けを決めて、飛ぶことが本当に楽しいのかなって、ちょっと思っちゃいます」 足を止めて、明日香に話しかける。 「明日香」 「はい……?」 「本当に楽しくないんだったら、この大会、棄権してもいい」 「え……っ」 「スポーツは勝ち負けじゃない、って考えもあるけど、ルールの中で競うという前提がある以上、大会に出る選手は、そこに思い入れて当然だと思う」 「……だから、そこに疑いを強く持つんだったら、出ない方がいい」 「……ごめんなさい。わたし、軽々しく考えすぎでした」 しょんぼりとする明日香の肩をポンと叩き、微笑む。 「いや、そういう気持ちになるのも当然だ。俺だって、そう思ってしまった頃があったからこそ、FCをやめていたんだし」 「晶也さん……」 「明日香、大会に出るからには、勝つことを意識してくれ。それがみんなのためにもなるし、練習で頑張った成果になる」 「みんなのために、ですか……?」 「そうだ。負けたみんなのためにも、明日香が楽しそうに飛ぶ所を、少しでも長く見せてやってくれ」 「それで、みんながまた、飛ぼうと思ってくれるなら、すごく嬉しいだろ?」 「は、はいっ……すごく、嬉しいです」 「じゃあ、決まりだ。頑張ろう」 「はいっ!」 「でも、佐藤院さんはちょっと心配です……」 「ああ、佐藤院さんなら、またすぐにやる気を出して、戻ってくるよ、絶対」 「そう……でしょうか?」 「あのお嬢様は、立ち直るの早いぞ、きっと」 「何をしているのですか、皆様は!」 「い、いや、何をしてるのかって言われても、次の試合の準備、してたんですけど?」 「まったく、久奈浜には応援団もないんですの? 勝ち残った選手たちを誰が応援するのですか!」 「応援団って、あの……一応、うちの部員が、応援することにはしてますけど?」 「仕方ありませんわね、この佐藤院麗子、親しくなったよしみで、久奈浜の皆様を応援して差し上げますわ!」 「うわー聞いてない、佐藤院さん強引だよ!」 「…………な?」 「…………ですね」 ふふっ、と嬉しそうに明日香が笑った。 皮肉にも、明日香を単独で鍛える方針を出したうちは、真白が初戦突破、みさきも3回戦進出と、結果を残していた。 「真白、本当によく頑張ったな。お疲れさま」 「えへへ……でも、2回戦は負けちゃいましたけど」 「なに言ってるの、上出来だよ〜。1年生とはいえ、あの強豪高藤の一角を崩したんだから」 「まったくです。なのにあっさりと敗れるなんて、わたくしたちの面目も丸つぶれですわ」 「ご、ごめんなさぁい」 「申し訳ないと思うならば、次回はもっと練習して、もっと強くなることですわ!」 「は、はいぃっ!」 なんというか、佐藤院さんって、FC全体の強化委員とかやっても良さそうな気がする。 地元の名士だし、将来はそうなるのかもな。 「さ、そんじゃいっちょ、やってこようかね〜」 みさきが指をポキポキ鳴らしながら、会場へ向かう。 「先輩、わたしの敵、討ってくださいね!」 「うっし、わかった!」 みさきは片手をビシッと上げて、去っていく。 「そうか、みさきの3回戦の相手、真白に勝った選手か」 「そうです……我如古さんです」 我如古繭。四島水産の2年生だ。 夏の大会で挨拶した時は……インパクトが強かったな。 「ああ、あのエセお嬢様」 「ねえ、日向くん日向くん、ここはツッこんでも怒られないかな?」 「知るかよ。まあ、そうですね。あのお嬢っぽい人です」 四島水産の習わしというか、あの感じはちょっとすごかった。 「虎魚がなんか気持ち悪いことになってたな、たしか」 「気持ち悪いってゆーな! 相変わらず口悪い連中だなーもう!」 「げっ……あの声」 「聞いてたのか」 「そりゃ、試合会場の前で名前出してりゃ気づくっての」 「お前のお姉さま……だったか、強いんだな。さっきの試合、見てたよ」 対真白戦は、正直言って手も足も出なかった。 作戦を練ろうにも、各要素のすべてで上回る我如古さんに、なす術もなかったというのが実情だ。 「そーだ! オネーサマはつえーぞ。鳶沢先輩は勝てるかなー?」 「有梨華、あんたこっちにちょっかい出してるヒマがあったら、お姉さまの応援した方がいいんじゃないの?」 「もう準備は終わったんだよ! だから真白でもいじりにいこーかなと思ってきたんだ」 「めんどくさ」 「なんだとー!」 「まあでも、真白は1回戦突破したからな。これからは虎魚を逆にいじる立場かもしれない」 「くっ、1回戦で強い相手に当たっちゃったからな。ちょっと運が悪かっただけだし」 「いじらなくていいですよ、別に。めんどくさいし」 「おめ、1分間のうちに2回も『めんどくさい』言ったな! あと、今回勝ったからってちょーし乗んなよ!」 「センパイ、あとは任せていいですか?」 「俺だってやだよ」 「こらーっ、人をクレーマーか何かみたいに言いやがってー!」 「み、みなさん、試合始まりますよ〜……」 「いっけね、じゃあまたあとでな、真白ー!」 「もーこなくていいよ、あっちいってて」 「やれやれ……」 虎魚が去って、俺も試合会場の方へ目を向ける。 我如古さんは確かに強い。が、どちらかというと試合巧者というタイプだ。 みさきのように基本能力の高いタイプだと、一気に打ち破られて大差で敗戦、というのもありえる。 「明日香VSみさき、か……」 それもまた見てみたい。 みさきも調子良いし、自信もあるみたいだし。 ……しかし。 みさきの自信は、あっけなく崩れ去った。 「なんなの、ジッとしてばっかりで……」 「フフフ、動き回ってばかりがFCではありませんわ」 「くっ……!」 膠着状態を嫌ったみさきが、ドッグファイトを仕掛ける。 しかし。 「脇が甘いですわ、鳶沢さん」 「なっ……!」 飛び込んできたところをあっさりかわされ、その上……。 「……背中ゲット、ですわね」 「ああっ……!」 あっさりと、得点を許してしまった。 「うしっ、またポイントだーっ、いけいけ、オネエサマーっ!」 「みさき、攻撃のテンポを見切られてる! 左右の回り込みに注意しろ!」 「わかってる……わかってるんだけど」 みさきは悔しそうに相手を見る。 「どうやって攻撃しても……絡め取られる感じで、すっごく気持ち悪いんだ……」 「みさき……」 「晶也、ごめんね。あたし、ここまでかな……」 そして、みさきの言葉通り。 このあとはどうやっても、我如古さんからリードを奪うことはできず……。 試合終了、3対6。 鳶沢みさき、3回戦で敗れる。 「やったー、オネーサマの勝利だーっ!!」 「うふふ、有梨華、応援ありがとう……」 沸き上がる四島水産の面々とは対照的に、意気消沈する久奈浜側。 その中を、みさきが肩を落とし、歩いてきた。 「あはは……負け、ちゃったね」 「ごめん、かっこわるかったな、あたし」 「そんなことないです……ぜんぜん」 「ごめんね、真白。3回戦、ダメだった」 「みさき先輩……」 しょんぼりと肩を落とす二人。 久奈浜は、明日香一人を強化するチームにあえてしたとはいえ、当然ながら、負けていいなんて思ってはいない。 しかし、結果として、みさき・真白の二人は、目標こそクリアしたとはいえ、そこで力尽きた。 相手が因縁付きの選手だったこともあって、悔しさはひとしおあるのだろう。 「………………」 明日香はその様子を、少し離れた場所から黙ってみていた。 横で見ていても恐いぐらいの気迫が、みなぎっていた。 そして。 「……行ってきます」 明日香が静かに立ち上がった。 「みさきちゃん」 「明日香……」 「――敵討ち、してくるね」 明日香にはめずらしく。 闘争本能を表に出しつつ、会場へと向かう。 「よー、先輩。そっちの様子はどうなの?」 「虎魚か……見りゃわかるだろ、そんなの」 「まあね。だから、アイツとか鳶沢先輩のとこにはいかないけどさ」 そういう気配りはできるんだな、さすがに。 「でも、ここは大事な踏ん張りどころだからね。二人のためにも、しっかり頑張ってもらわないと、コーチとしてはさー」 「ん……? お前、ひょっとして、明日香が負けるかもって思ってるのか?」 「何言ってんだよ! オネーサマはつえーんだぞ? あんたのとこのエースがいくら注目選手だからって、そんなに余裕ぶっこいてると……」 「悪いけど……負けないよ、明日香は」 「キーッ! しょんぼりしてるから優しくしようとか思ってたあたしがバカだった! 負けたらすっごくディスりにくるからおぼえてろー!」 言うだけ言って、去っていった。 「うんまあ、でもな……」 頭を掻きつつ、去っていく虎魚につぶやく。 「試合始まったら、わかるよ、ホントに」 「……………………えっ」 ファーストラインのブイ争いを制したあと、明日香は我如古さんの後方をあっさりと捉え、ポイント。 「……………………あっ」 ついで、背中がガラ空きになっていた我如古さんに再度攻め込んで、2ポイント目。 「……………………いっ」 体勢を立て直そうと身体を捻る我如古さんの視界から、上下の運動で上手く消えて見せて、3ポイント。 「……………………うっ」 いい加減、この悪循環を終わらさなければと、慌てて周囲を見回す我如古さん。 その隙に、鮮やかに背中を突いて、これで4ポイント。 「おっ……おおお……おおおお…………」 ワナワナと震える虎魚。 母音以外の声がしない中、明日香は自在に空を飛び回り、次々と我如古さんからポイントを奪っていった。 「はー……すっごい、すっごいしか言えないね……」 半ば呆れたように、明日香の戦いぶりを見るみさき。 でもその声には、間違いなく尊敬の念も込められている。 「明日香……あの子、あたしと同じ戦い方してる」 そう、みさきの言う通り、明日香はこの試合、ひたすらファイターとしての戦いに徹していた。 まるで、みさきの行く先が、そこにあると示すかのように。 ただ黙々と、美しい飛行とアタックを、繰り返していた。 「気づいてたか、みさきも」 「うん……嬉しいじゃない、こういうの」 「ありがと、明日香」 みさきは、うーん、と伸びをひとつすると、 「あーあ、こりゃ来年も続けなきゃいけなくなったか」 「えっ、今お前、何を」 「ほらほら、早く勝者を迎えに行くよ、コーチ」 「あ、ああ……」 みさきの奴……ひょっとして、やめる気だったのかな、FCを。 それを明日香が……そっか。 Aブロック決勝、および新人戦準決勝。 13対0で、倉科明日香の勝利が確定した。 「晶也さん」 戻ってきた明日香が、にっこりと笑って、俺の方へ近づいて来た。 「おめでとう、明日香。決勝だなこれで」 「はい。見ていてくれましたか、今の戦い」 「ああ。良かった。……みさきも喜んでた」 「良かった……良かったです。とても」 ホッとしたような表情を見せる明日香。 どうやら、俺とみさきの想像は、当たっていたようだ。 「少しだけですけど、晶也さんが言ってたこと、わかってきた気がします」 「さっきの話か」 「はい」 「誰かに見せるために飛ぶ、勝ち負けのある中で飛ぶ、その楽しさと、意味と」 「もう少しで、わかりそうなんです」 「そうか……」 明日香は、試合をする度に成長を遂げている。 この一分一秒が、彼女の力を増幅させているのだと、会話している中でも伝わってくる。 「乾さんは……楽しいんでしょうか?」 「楽しいって、何が?」 「飛んでいて、です」 「乾さんは、飛んでいて楽しいのかな、って」 「それは……」 イリーナと乾の間には、他人の入れない空気を感じる。 それが支配なのか信頼なのかはわからないけれど、こちらが想像できるような楽しさではなさそうだ。 「明日香が、教えてあげるといいんじゃないかな」 「わたしがですか?」 「ああ、明日香が楽しいと思ってる飛び方を、乾沙希に教えてあげるといい」 しかし、その為には。 勝つという、最大のハードルを越えなければならない。 「……だから、次も勝つしかないな」 「……はい。乾さんに、勝ちます」 「決勝戦も、よろしくお願いします!」 「もちろん!」 これで、あと一回勝てば、優勝となる――。 ついに決勝を迎えることになった俺たち。 久奈浜は試合会場付近の一角を借りて、そこをベースキャンプのように使用していた。 「おし、これでオッケー!」 明日香の足に、筋肉疲労を取るスプレーをかけるみさき。 「う〜、ひんやりして気持ちいいです〜」 「身体まで冷やしてはいけません。どなたかタオルケットをかけてあげてくださいな」 「市ノ瀬さん、このタオルでいいのかな?」 「はい、それはまだ使ってないものなので、大丈夫ですっ」 さながらボクシングの試合のように、座っている明日香の元で、皆が慌ただしく動いている。 「よし、これで決勝の準備はできたね」 「明日香の状態もいいな、バッチリだ」 「そろそろ、兄ちゃんたちも合流する頃かな。日向くん、見てきてもらってもいい?」 「ああ、行ってくるよ」 「よう、日向」 「お、迎えに来てくれたのか」 「はい……あれ、真藤さんも一緒だったんですか」 「ああ。高藤の中には交ざりにくかったから、今日は青柳くんと一緒に白瀬さんの手伝いをしていたよ」 佐藤院さんが懸命に意地を張っている現場が想像できる。 まあ、これぐらい絶対的な立場の人がいたら、なかなか難しいところだとは思うけど。 「……で、聞きたいんじゃないのかな、試合結果を」 「はい。どうでしたか……?」 俺の問いに、三人とも真剣な面持ちで、 「まず結果から。当然だけど、Bブロックは乾くんの勝利だった」 ……まあ、当然か。むしろそうじゃなければ、番狂わせにも程がある。 「で、勝ち方がな……まあ、すごかったよ、色々と」 「すごかった、とは……?」 「乾はな、例の鳥かご、あれを全試合でやりやがったんだ」 「全試合……で……!?」 あの圧倒的な、概念ごとぶち壊す戦い方を、全試合で……。 「でも、そんなことしたら、相手が……」 「ああ。試合後の絶望感が酷かったよ」 「みんな色々と作戦を練ってきただろうに、それがあんな形で壊されれば、なあ」 「なんかなあ、見ててやるせなかったよ、Bブロックは」 やっぱり、そんなことになってたのか。 「しかし、全国大会では鳥かごを隠していたのに、今回は堂々と見せてきたんですね」 「そういやそうだよなあ」 「あくまで推測でしかないけど、わざと見せてきたってのはあるのかもね」 「それはどういう意味で……?」 「あの絶対的優位をみんなの前で示し、FCは変わるのだと印象づける。そういう意図の現れなのかもしれない」 「…………っ!」 俺たちに向けてだけじゃなく、より広く、絶望を示しに来たのか。 それが相手のやり方なのだ。否定するには、更に強くなければいけない。 明日香と俺には、大きな責任がのしかかっている。 伝統か、それとも革命か。 「ともかく、俺たちは先にみんなのところへ行ってるよ」 「日向はどうする? 一緒に行くか?」 「あ、先に行っててください。ちょっと、一人で考えたいんで」 「日向くん」 「はい」 「あまり考えすぎると、ガチガチになるぞ。適度にリラックスして、倉科くんを導いてくれ」 「ええ、もちろんです。ありがとうございます!」 「わかってるならよかった。健闘を祈るよ」 真藤さんたちは、揃ってベースキャンプへ歩いていった。 俺は一人その場に残って、試合のことを考えていた。 確かに真藤さんの言う通りだ。 あまり深く考えすぎても、即時判断を求められることも多いFCの試合では、柔軟性が無くなってダメになるケースもある。 しかし、この試合に関して言えば、背負う物が大きい。 俺たちがやってきた、そして、葵先生が守ろうとした、これまでのFCが、かかっているのだ。 どうしても、これだけは譲れない。 「あれ……風が出てきたか」 さっきまで無風状態だったのが、今は少しばかり、東風が出るようになっていた。 千切れた草の破片が舞い上がり、会場の方へと送られていく。 西の彼方、太陽のある方を、向いた。 そこに、彼女が、いた。 「あら……お久しぶりです」 「イリーナさん……」 最初に会った日と変わることのない、笑顔で。 でも今は、とてもではないけれど、その笑顔をまともに見ることはできない。 「少し、風、強くなりましたね」 「ですね。大会に影響が出るレベルじゃないですが」 「イギリスの大会、風もまた大事な要素になるのですよ。一度、ぜひご覧になってください」 「機会があれば、ぜひ」 この表情の中に、彼女は何を隠しているのか。 すべてを破壊して、その先で何を作ろうとしているのか。 それはわからないけれど、今、俺ができることは、彼女が壊そうとしているものを、守ることだけだ。 「ふう……緊張してきました。晶也さん、どこに行ったんだろ……」 「ん、あれ? あの子は……」 「乾さーん、いぬいさーん!」 「……あっ」 「やっぱり乾さんだ、おひさしぶりですっ」 「………………」 「あ、あれっ? お話ししたくない感じですか?」 「……ちがう。そうじゃないけど」 「試合の前に選手と話すの……今まで、無かったから」 「そっか、じゃ、わたしが一番最初なんですねっ」 「えっ……」 「少し、お話ししませんか?」 「う、うん……」 「Bブロックの優勝、おめでとうございます」 「ありがとうございます。倉科さんも強かったです、おめでとうございます」 「全試合で、やったそうですね」 「何をですか?」 「バードケージを、です」 「はい、それがなにか?」 「俺はやっぱり、あの技を否定します」 「どうして……ですか?」 「あれは、フライングサーカスの良さを、消してしまいかねない、技だからです」 再び、その場に風が吹く。 今度は少し強く。会場の傍らで物が飛ばされたのか、誰かの大きな声が聞こえた。 はしゃぐ声、何かを指示する声、そして語る声。ここには、どれもが皆、楽しい要素が含まれている。 「以前、俺に言いましたよね? サーカスって、必要ですかって。エアキックターンやコブラやスイシーダが必要なのか、って」 「はい、言いました」 「その答え、今なら言えますよ」 「……お答え、いただけますか?」 「サーカスは……必要です。絶対に」 「乾さんって、強いですよね! どうして、そんなに強くなったんですか?」 「それは……大切にしてるものがあるから……」 「大切にしてるもの、ですか」 「あなたには……ないの?」 「わたしですか? うーん、あります、ね」 「それは……?」 「晶也さんですね。コーチです。大切な人」 「わたしに、空の飛び方と、楽しさを、一緒に教えてくれた人ですっ」 「……そう。わたしも、いる。大切な人」 「それは、イリーナさん、ですか?」 「うん……イリーナ、とても大切。いつも、わたしの味方、してくれる」 「だから、イリーナのためにも、負けない」 「いいですね、わたしも、負けないです!」 「……っ」 「乾さんと戦うの、ちょっとこわいけど、楽しみです」 「たのしみ……?」 「はい、楽しみですっ」 「だって、FCは楽しいですから!」 「…………」 「空を楽しく飛んで、みんなも楽しくさせて、魅了する。それがフライングサーカスです」 「…………」 「ただ飛びたければ、飛行機にでも乗ればいいんです。人間が翼を得た意味を、考えてください」 答えをずっと探していた。 誓いの言葉の通り、その答えは、空にあった。 空は楽しくて、果てが無くて。 だから、その空を駆け回るスポーツは、楽しくなくちゃ、ダメなんだ。 最初にこのスポーツを思いついた人は、それがわかっていたから、このスポーツに、サーカスと、名付けた。 だから、俺はこの名前を意味と共に守る。 「……だから、絶対に負けません。サーカスの名にかけても」 イリーナは、笑顔を消した。 真剣な面持ちで、俺の話を黙って聞いていたが、やがて。 小さく、わからないぐらいに口を開いて、 「あなたも……お姉様と同じことを言うのね……」 「えっ……?」 「失礼、なんでもありません……」 そして、またいつもの笑顔を見せる。 「……やはり、とても愉快です、日向さんは」 「いいでしょう。フライングが勝つか、サーカスが勝つか。シユウを決しましょう」 「ええ」 「そろそろ、試合……行かなきゃ」 「あ、待ってください、乾さんっ」 「……?」 「試合が終わったら、友達になってくれませんか?」 「わたし、と……?」 「はいっ」 「わたし、乾さんみたいに強い人、すごく興味があります。もっと、話してみたいです」 「それに、乾さんって、とってもかわいいですし!」 「…………っ!」 「そ、そんなこと、ない……」 「えーっ、かわいいですよ」 「…………かわいくは、ない。友達も……無理……だけど……」 「……試合が終わって、話すのは、大丈夫……」 「わあ、わかりました! じゃあ、約束ですよ」 「うん……約束……」 「ただいま……って、明日香は?」 「その辺を散歩するって出てったよ。もうそろそろ戻らないと……」 「あ、戻ってこられましたわ」 「ただいまです!」 「おっそーい、どこ行ってたの?」 「えへへ、友達のとこへ行ってました」 「友達……って、前の学校の?」 「ううん、これから友達になる子です」 「は、はぁ……?」 「明日香、そろそろ準備しようか」 「はい、晶也さん……!」 明日香と共に、試合会場へと近づく。 すでに、海凌側はスタンバイができているようだった。 そこへ、後ろの方から、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。 「よう、みんな頑張ってるみたいだな」 「あっ、先生!」 「いらっしゃったんですね!」 「どうにも仕事が長引いてな……すまなかった」 先生は皆に話しかけ、そして、俺の方を軽く見た。 「…………」 そして、軽くうなずいた。俺もまた、うなずき返した。 何も言葉はなかった。必要もなかった。 ここまでくれば、あとは思いの丈をぶつけるだけ。 (先生の言っていた、乾の件が気になるけど) まずは、やってきたことをしっかりと発揮すること。 それをしないことには、何も為されない。 「さ、行くぞ」 明日香に指示を送り、スタートラインへ移動させる。 会場の熱気が、こちらにも伝わってくる。 「さあ、いよいよ秋の大会も決勝戦を迎えました! ここで実況を担当するのは、前回に引き続き、『プリガチ実里』こと、久奈浜学院1年の保坂実里ですっ!」 「決勝にコマを進めたのは、前回の夏の大会で全国制覇した海凌の誇る『空域の支配者』乾沙希、2年生!」 「そしてもう一人、夏の大会では惜しくも3回戦で敗退したものの、その後驚異的な勢いで実力をつけた新鋭、『青空の魔術師』倉科明日香、同じく2年生!」 「果たして、激戦の四島決戦を制するのは誰か! いよいよ、試合が始まりますっ!!」 ……青空の魔術師か。すごい通り名がついたもんだ。 でも、明日香ならば、そんな名前がついてもおかしくはない。 支配者を掌の上で転がす、魔術師のような存在に。 「明日香ーっ、勝ったらうどんおごってあげるぞー!」 「じゃ、わたしもつぶつぶいちごプッキーを!」 「ついに始まるんだねえ……。感慨深いねえ、明日香ちゃんが決勝かあ」 「うおおっ、倉科、スピードだ、気合だ、スピードだ、あと筋肉もだ!」 「……さて、楽しみだね、佐藤くん」 「……ええ、楽しみですわ。そして佐藤院ですわ」 「明日香さん……がんばってくださいっ」 「晶也ー、あんまり気張りすぎるなよー、俺たちがついてるからなー」 「……」 「いつも通りです、沙希。迷うことはなにもありません」 「はい、イリーナ」 「明日香、信じろ。そして、楽しんでこい」 「はい、わたし、今すごくワクワクしてますっ」 「……上出来だ。それでいい」 明日香に、グッと親指を立ててサインを送る。 審判が「セット」の合図を送る。 「…………っ」 「…………っ」 ピリピリした緊張感の中、その手が開始を知らせるポーズを取った。 そして、真っ青な空に突き刺さるように、 高らかに、試合開始のホーンが鳴り響いた。 「……先に行く」 開始直後に飛び出したのは、乾の方だった。 スタートして一瞬こそ、少し上方へと膨らんだが、すぐにそれは、狙いだったとわかる。 「そうか、風か……!」 上空に吹いていた風を利用して、乾は上手くセカンドブイへの流れを作った。 同じくブイを目指す明日香に比べて、ちょうど人間一人分ぐらいの差が生まれた。 「乾選手、夏の大会の再現とばかりにローヨーヨーで加速! 負けじと倉科選手も後を追いますが、このままでは苦戦が予想されます!」 「ああんっ、先制されちゃう!」 「うーん、いきなり速いね、参ったな」 「生粋のオールラウンダーです。スピーダーに対抗するには、分が悪いですわ」 そう、普通なら、そうなるんだ。 「明日香、行け」 「いきなり、出すんですね」 「一切、出し惜しみしなくていい。最初から全力で行くぞ。そうでもしないと……勝てない」 「……はい、わかりました」 「行きますっ!」 明日香が宣言した瞬間。 「えっ……!」 「そんな、スピードが……!」 ジリジリと引き離されかけていた明日香が、いきなりスピードを増して、乾を抜いたのだった。 「な、なんだあれはっ、倉科、いつからスピーダーにっ?!」 「面白いことするね、晶也は」 そしてその差は一気に開き、乾にブイの到達を諦めさせて、 セカンドブイに到達したのは、明日香となった。 「こ、これは予想できない展開がいきなり起こりました! リードされていた倉科選手が、突然の急加速! 見事、セカンドブイにタッチしました!!」 1対0。明日香が乾からリードを奪った、最初の瞬間だった。 「やったー! やりました、明日香先輩っ!!」 「えっ、一体今、何したの?!」 「わかんない、急激に加速して、明日香ちゃんが一気に……」 「ぶ、部長、これは……?」 「各務先生、まさかとは思うのですが」 「……言いたいことはわかるぞ。あれはおそらく、アレの応用だろうな」 「はい、アンジェリック・ヘイローの……」 「で、でもでもっ、あの技って、つい3日前に見せてもらったばかりでは……」 「次の日の基礎練の時、二人でなにかやってたけど、あれがそうだったのかもしれないね」 「……一日で身につくようなものなの、あの技?」 「僕ならゆうに2週間はかかるだろうね」 「常識では計り知れん、か」 そう、真藤さんたちの推察通り、明日香はスピードを増すため、アンジェリック・ヘイローの技術を応用した。 自動車で言う所のターボボタンのようなものなので、持続性はないけれども、ここ一番のスピード勝負には使える。 アンジェリック・ヘイローの応用で真っ直ぐ飛べる時間は短い。せいぜい2秒が限界だろう。 それ以上は飛行姿勢が乱れる。下手をすると弧を描いて、フィールドから跳ばれさてしまうかもしれない。 だけど今の明日香のバランス感覚なら、2秒の加速の後に姿勢を戻して、さらにまた加速できる。 明日香はファーストラインで3回の加速ができた。 ラインで並び合った状態での叩き合いならば、これを使えばどうにか抑えられそうだ。 しかし乾のことだ。これぐらいはすぐに対策をして、次の攻撃から何かを仕掛けてくるだろう。 「やりましたねっ!」 「ああ……! 次、行くぞ明日香」 セカンドブイへのタッチの際に崩された体勢を、明日香がさっと整える。 その間に乾はショートカットを済ませ、セカンドラインの上空で、両手を広げ、待ち構えていた。 「……準備完了した」 「はい、ではいつも通り、いきましょう。バードケージ・バージョン2です」 「はい」 乾は両手を広げ、やや前傾姿勢を取った上で、こちらに向けて、迫ってくる。 「バージョン2、変化させてきたか……!」 「おおっと、ここで乾選手、Bブロックの相手をことごとく粉砕してきた大技、バードケージを仕掛けてきました!」 「うわーっ、ついに来ました、例のアレですっ」 「しかもバージョン2って、進化してきたってこと?」 「Bブロックの試合では見せなかったな」 「きっと、出す必要が無かったんだろうね」 「必要が無い……?」 「こちらに向けて迫ってくるのがバージョン2なのだとしたら、つまりは、攻撃する意志を見せているということになる」 「リードされている状況でもなければ、そんなポーズ、取る必要はないからな……」 「なるほど、言われてみればそうですわね。Bブロックは、常にリードしていたようですし……」 さすがは乾だ。バードケージに攻撃の要素を足し、リードされた際のプレッシャーを加味してきた。 「だが、それはこちらも予想済みだ!」 明日香が、迫る乾に対して半身で構える。 「準備、できました!」 「よし、どのタイミングでもいいぞ。ペンタグラム・フォースだ!」 明日香は頷き、まずは乾の死角に入るべく、勢いを付けて右上に飛ぶ。 「上へ? ローヨーヨーを仕掛けてくる……?」 乾が上を見て、警戒するのと同時に。 「そうじゃありませんっ!」 明日香の身体が、乾の目前で五芒星を描くように動き出した。 「この動きっ……!」 「多角形連撃……完璧に習得していましたか」 乾の動きが止まり、一瞬怯んだ様子を見せる。 「や、やりましたっ……乾さんの動きを止めましたっ!」 「良い形で動けたね。何度も練習を繰り返した甲斐があった」 「確かに、抑止力としてきちんと働いている。乾と言えども、これを真正面から抜けるのは難しい」 「五芒星とはよく付けたものだな」 「でも、あのネーミングセンスは……」 「……ちょっと、中二っぽい感じよね〜」 「こら! 聞こえてるぞ!」 「試合終わったら、ペンタグラムくんって呼んでやろう」 「ペンちゃんでもいいですよね」 「ペンちゃーん、がんばれーっ」 「くっ……あいつら」 俺が精一杯考えた技の名前を一瞬で否定しやがって! 「なかなか楽しいネーミングですよねー、佐藤院さんっ」 「…………」 「……どうかしました?」 「……格好いいですわね……」 「へ……?」 「沙希……いいですか?」 「はい」 「正面から飛び込んではやられます。こちらも緩く動きつつ、様子を見ましょう」 「ただし、あまり動きすぎると脇を抜けられます。先ほどの速さを見るに、オールラウンダーだからと甘く見ない方がいいです」 「はい、イリーナ」 乾はゆったりと左右に動きをつけつつ、こちらの出方を窺っている。 攻勢に出たところを仕留めて、背後を狙おうというわけだ。 「どうしましょうか、晶也さん」 「迷うことはない。いつもやっていた通りだ」 「……はいっ!」 明日香は乾の陽動にも動じず、五芒星の先端をエアキックターンで折り返すと、 「そこですっ!」 一瞬の隙をついて、乾の側面を突きに行った。 「……甘いっ」 乾は流石の対応力で攻撃を避けると、そのまま攻勢に転じる。 しかし。 「……そこで終わるかっ!」 明日香は短いターンを決め、乾の逆側面へと躍り出る。 「くっ……渡さない……っ!」 乾も更に反応し、身体を大きく捻って背中を守ろうとする。 だけど。 「身体の柔らかさならっ!」 「負けませんからっ!!」 明日香の、信じられない方向に曲がった腕が、背面に逃げ込んだ乾の背中に、 ――突き刺さった。 「ううっ……!!」 「な、なんて身体の柔らかさ……!」 「倉科選手、見事なドッグファイトでポイントを獲得です! 乾選手を相手に2点先取となりました!!」 これで、2対0。 「よぉおっし!!」 「ぃやったあっ!」 「2対0! これで2点リードだ、うおおっ!!」 「これも、真藤さんの特訓の成果ですねっ」 「いや、教えた僕よりも、形にできた倉科くんが偉いよ」 「……その通りですわ」 「佐藤くん、何か言いたそうだね」 「部長、その……大会が終わったあと、後輩たちにも教えてあげてください」 「……でもそれは、君の希望で、しない方針に」 「いつまでも、意地を張っている場合ではないと思い知らされましたわ。それに久奈浜では、こんなに素晴らしい選手が育っています」 「……市ノ瀬さんの指導を含め、改めてよろしくお願いします」 「…………」 「……わかったよ、佐藤院くん」 「佐藤院先輩……」 「やれやれ、ここまではまあ、順調だな」 「……ああ」 「そろそろ仕掛けてくるかな?」 「いや、まだだ。残り時間を考えれば、な」 セカンドラインで弾かれた乾は、反動を利用してサードブイへと移動した。 この辺りの見切りの速さは、やはりトップクラスの戦い方と言える。 「ああっ、取られちゃいます……」 「ここは仕方ない。すぐにショートカットして次へ」 「はいっ」 サードラインへ移動する明日香を尻目に、乾はブイにタッチし、この試合初めての得点を入れた。 これで2対1。明日香のリードは再び1点となる。 「乾選手が取り返して2対1に! さあ、ここから同点に持ち込むのか、それとも倉科選手がまたリードを広げるのか!」 「OKです、沙希。今やられた分は、次のドッグファイトで返しましょう」 「わかりました、イリーナ」 タッチの反動で勢いをつけながら、サードラインを駆ける乾。 その直線上の先には、明日香が待ち構えている。 あの様子だと、ポジションを崩してでも攻撃してくるつもりだ。 今の展開だとガッチリと押さえ込むような試合の組み立てより、流動的な展開の方が有利だと考えたんだろうか? それは望むところだが……。 上からの加速を利用して攻撃は怖い。 だけど、俺がそう思っている、ということは……。 「そのまま突っ込んでくることは考えられない。一旦上空に上がって突き刺しにくるか」 それとも陽動でこちらを動かして、死角から狙いに来るか。 他にも手段はありそうだが、ひとつに絞るのはギャンブルが過ぎる。 「明日香、相手の出方を見つつ、次の出方を考えられるか?」 「やってみますっ!」 明日香は軽い前傾姿勢の状態で、乾を迎え撃つ。 どこに対しても動ける、とても柔軟な構えだ。 「さあ、どこからでも来て……来てっ……?!」 目前まで迫ってきていた乾が、突然、姿を消した。 「わっ、ど、どこですかっ?!」 「明日香、上から来るぞ!!」 「ひゃっ……!」 すんでのところで、明日香が攻撃を避ける。 「おおっと、ここで乾選手が仕掛けたぁっ!! 目前で上空に跳ね上がってからの急速下降、これには倉科選手も驚いたようですっ!」 「惜しかったですね、沙希。でも良い攻撃でしたよ」 「はい、惜しかった」 「次は逃がさない」 「ひゃっ、に、逃げますっ!」 そして矢継ぎ早に繰り出される、左右の回り込み。 「わっ、ひっ、うっ、はっ、わあっ」 その度に、身体を捻り上体を反らし、乾の攻撃を避け続ける明日香。 「しぶとい……じゃ、これはどう」 乾は大きく回り込んで、死角から明日香を狙う。 「ひゃうっ、ひっ、ひぅっ……!」 上下左右から、目の届かない場所だけを狙って繰り返される攻撃の数々。 明日香は焦りから来る妙な声を上げつつ、ギリギリのところでそれらをかわしていく。 「乾選手、攻勢! このまま倉科選手はポイントを獲られてしまうのかっ!」 縦横無尽、という言葉がよく似合う、凄まじく動きの速い攻撃の連続だった。 「あああっ、先輩が、先輩がっ……」 「だーいじょうぶよ、真白」 「みさき先輩……?」 「この状況、何か思い出さない?」 「…………」 「ああっ……!」 「……ねーっ」 そう、みさきの言う通り。 これもまた、俺たちのやってきたことで。 「明日香」 「は、はいぃっ……!」 「展開に慣れてきたら、攻めるぞ」 「はいっ!!」 明日香はなおも、乾の攻撃を避ける。 しかしその避け方は、次第にスムーズに変わっていく。 「これは部長っ……」 上下からの連続攻撃。 部長が最も得意としていた、スピードを活かしたもの。 「これは真白ちゃんっ」 死角からの不意打ち。 ちょうど真裏から、明日香の呼吸が落ち着くのを狙って、撃ち込んでくる。 「そして、これはみさきちゃんの方がっ……」 左右の揺さぶりと、連続しての絶え間ない攻撃。 テンポのいい動きとコンビネーションは、みさきの得意とする技。 「もっともっと、手強かったですっ!!」 すべてが一斉にかかってくるのではなく、ひとつひとつが分かれているのだから。 「す……すごい、すごいすごいすごいっ……!」 潜り抜けてきた明日香に、かわせないわけがなかった。 「倉科選手、乾選手の絶え間ない連撃を、すべて完璧にかわしています!」 「どれもポイントに繋がりそうなのに、まったくもって繋がりませんっ……!!」 「ぜ、全部……かわされたっ……!?」 「沙希、気をつけてっ!」 「……っ?!」 乾が辺りを見回した時には、明日香はすでに、彼女の上空へと移動していた。 「そしてこれがっ!」 上空から捻りを加え、次の動きを躊躇した乾に向けて、 「みんなと考えた、ハイパーローヨーヨーですっ!」 ドリルのように、更なる回転をかけつつ、一気に突き刺す。 「ぐっ……!!」 「獲ったーーーーっっ!! 倉科選手、3ポイント目ーーっっ!!」 3対1。 再び、2点差となった。 「………ッ」 回転をくわえた明日香にタッチされたため、乾は飛行姿勢を大きく崩している。 「よしっ! いいぞ!」 「すばらしい回避……お見事です!」 「やりましたね、みなさんっ!」 「だねえ、ホントみんなで練習したもんね」 「明日香は3対1に耐えたんだもの、1対1に負けるもんですかっての!」 「ぶ、部長、あと何分ですか、試合時間っ」 「あ、あと3分だ、あと3分粘れば……!」 「明日香が」 「勝つっ!」 「がっ……」 「がんばって、くださーいっ……!」 「……そろそろか?」 「……ああ」 「くそっ……何か打つ手はないのか、葵」 「選手以外の部分に目を向けたアヴァロンが、私たちより一枚上手だった……そういうことだ。簡単に逆転できることじゃない」 「わかっている……わかってはいるが」 「……このまま何もせずに、俺たちのFCが地に落ちるなんて、あまりにもつらいじゃないか」 「…………」 「……私だって同じさ」 「葵……」 「だがな、戦ってるのは私たちじゃない。乾やイリーナも含め、あの子たちだ」 「たとえ望まぬ未来だとしても、傍観者であるこちらが余計な干渉をするものじゃない」 「そうは、思わないか?」 「…………」 「……ああ、そうだな」 「見届けよう。変わるのか、それとも変わらないのかを」 「残り3分……そろそろですね」 「沙希、準備はいいですか?」 「はい……ごめんなさい、リードされて」 「仕方ありません。予想以上に、倉科明日香は強かったです。もっとも、想定の範囲ではありましたが」 「…………」 「引導を渡しましょう」 「……はい」 「同点で結構です。せいぜい、延長で足掻いてもらって、苦しみを味わって貰いましょう」 「――二度と、FCが楽しいなんて思わないぐらいに」 「はい、イリーナ」 乾は急に、空中で膝を抱えた。 「……なんだ?」 「なんでしょう?」 やがてそれは、膝を抱えたのではなく……。 「――アグラヴェイン、フェーズセカンド」 屈んで、シューズに触れたのだとわかった。 「……行きます」 そして、乾は背面から飛び込みをするように、両手を伸ばして、後方へと一回転した。 瞬間、シューズが一瞬だけ、光った。 「乾……さん?」 明日香が名前を呼ぶのと、ほぼ同時だった。 「えっ……?」 乾の身体が、まるで魚か何かのように、 「えっ、えっ、ええーーっっ!?」 曲線を描きながら、信じられないほどの速度で、急激に迫ってきたのだった。 「わ、わああっっ!!」 飛び込みでもするように、慌てて脇へと避ける明日香。 「……フフ」 その慌てた格好を見て、乾は不適に微笑む。 「こ、これが……!」 これが、先生の言っていた、乾の『動き』――。 「はあっ、はあっ、はあっ……!」 明日香の顔には、得体の知れないものを見たという、恐怖がありありと浮かんでいた。 「な……んだ……これっ……」 「な、なんなんですか、これ……!」 二人して恐怖するが、その正体はわからない。 「あ、えーと、あのー……」 「その、乾選手がシューズの設定を変えた瞬間、魚か何かのような、超なめらかな動きに変わりました……。って、何が起こってるか、わたしにもサッパリなんですが」 「とっ、とにかくっ、これで倉科選手、一転してピンチ、ピンチですっ!!!」 「ど、どうしたらいいんですか、晶也さんっ!!」 「スピードだ! アンジェリック・ヘイローの応用で、とにかく先のブイへ逃げろ!」 「は、はいっ……!」 明日香は全力で、フォースブイへ逃れようとする。 「だめ」 しかし、その行く手には、まるで瞬間移動でもしたかのように、乾が先回りして待ち構えていた。 「あ……ああ……っ」 絶望的な表情を浮かべる明日香。 「あきらめるな、明日香っ! 上だ、上に逃げろ!」 「う、うえ、にっ……!」 何かに縋るように、上へ向けて飛ぼうとする明日香。 「行かせない」 ……さながら、それは地獄の門番のごとく。 空を遮るようにして、乾の姿が現れた。 「きゃあああっっっ!!」 恐怖。ただ恐怖。 「晶也さん、晶也さんっ……たすっ、たす、け……」 どこへどのように、精一杯手足を伸ばしても。 「たすけ、て……っ!」 足掻いても、藻掻いても。 そこには、乾沙希が、待っていた。 「……これで一点差」 「あぅっ……!」 「これで……同点」 「あっ、あああっ……」 あれほど、苦心して獲った2点が。 あっという間に、崩れるようにして、失われていった。 「そんな、バカ、な……!」 あまりにも絶望的で、どうしようもない、差。 「こんなの、どうやって戦うんだよ……!」 歯をギリギリと噛み合わせ、目の前の光景を睨みつける。 しかし、そうしたところで、状況は変わらない。 「ひっ……やっ、やだっ……!」 「…………」 明日香は、空の上で一人、乾に翻弄されている。 孤独な状態で、誰の助けも得られないまま……。 「点を……獲らない?」 乾は明日香の周りをぬるぬると自在に動きつつも、一向にとどめを刺そうとはしなかった。 恐怖を与えられるだけ与えて、虐殺を楽しむように。 「日向さん、日向さん! 聞こえていますか!」 「イリーナ……?」 「バードケージだけが、FCを変える方法だなんて、そう思っていたのではないですか?」 「これが……この動きこそが、あんたの言う、新しいFCだって言うのか」 「すべてです。この動きも、完全を得るための作戦も、無駄なことを省いた状況こそが、これからのFCなのです」 「っ……なぜ、とどめを刺さない」 「これまでのFCのフィナーレ……せっかくですから、カーテンコールを用意したのです」 「同点からの延長戦……きっと、美しいでしょうね。なにもできずに翻弄されるだけの5分間……」 「この……外道っ……!」 「そこで黙って見ていなさい。あなたの大切にしていたFCが、打ち砕かれるのを!」 「――そして、FCがこの地で新たに生まれ変わるのを……!」 「ぐっ……ぐぅッ……っっ!!!!」 そして、イリーナの言葉通り、ただひたすらに翻弄される時間が過ぎて……。 「タイムアップ! 3対3の同点ということで、これから延長戦に入ります! 10分間の休憩の後、再開いたしますっ!」 「序盤をリードした倉科か、それとも鮮やかに逆転した乾か! 大会初の延長戦にどうぞご期待くださいっ!!」 「なに……あれ……?」 みさきの声が震えている。 地上からでも、乾の異常な動きは手に取るようにわかった。 「魚……? 鳥……?」 「乾さんって、グラシュ履いてるんだよね……?」 「さっぱりわかりませんわ。部長、あれは?」 「この顔を見て、何か知っているとでも思ったかい?」 「……確かに」 「アグラヴェインの第2形態、というやつだそうだ」 「アグラヴェインって……乾さんのシューズの名前ですよね」 「第2形態ってのは?」 「グラシュにおける、スピーダーやファイターといった、設定そのものを無しにする、新しい概念のシューズだ」 「そんなの……聞いたことがありません」 「そりゃそうだろうな。まだヨーロッパでも研究段階で、外に出てきているシューズではない」 「そんなの履いてたら、ルール違反じゃないんですか?」 「いや、アグラヴェイン自体の性能は、きちんとルールに乗っ取っている。第2形態と言っても、要はパラメータを弄っているにすぎないんだ」 「あ、じゃあ、明日香の履いてるシューズもそうすれば」 「パラメータの調整は、長い時間をかけて行われてる。いきなり素人が弄ったところで、靴に振り回されるだけだ」 「アグラヴェインにしたって、乾以外の誰が履いても、おそらくあんな動きはできないだろう」 「万事休す……ですか」 「それは私たちが決めることじゃないな。そうだろ、晶也?」 「……はい、諦めたりなんか、できません」 ゆっくりと口を開き、しっかりと言葉を発する。 「結構だ。しかし、今は手段が無い。どうすればいいと思う?」 「先生、昨日言っていた方法、教えてくれませんか?」 「『常識外れの』か……」 「はい。ここまで来たら、それに賭けるしかないです」 「……晶也、私はな、何も意地悪で言わないわけじゃないんだ」 「たとえ1%でも、なんて比喩をよく聞くが、あれは99%の失敗を考えていない愚策であって、たまたま成功したから賞賛されているだけだ」 「私は教える立場として、1%の方法を勧めるわけにはいかん。それならば、正攻法で戦った方がまだ可能性はある」 「そんな……しかし」 俺は、傍らでジッとしている明日香を見る。 「…………」 あまりにめまぐるしく状況が変わったせいで、さすがの明日香も、混乱しているようだった。 このまま、打開策もなく延長戦に進めば、彼女は間違いなく、負ける。 しかも、イリーナが宣言しているように、これまでのFCの象徴として、ボロボロにされる。 こんなに、空を飛ぶのが楽しいと思っている子を、何も無いままにあの地獄へ行かせるなんて。 「何も策が無い状態で送り出すことなんか……できないです」 「…………」 「明日香は……俺が守ります。俺が方法を、見つけます……!」 先生は、優しげな口調で、 「……晶也、ひとつだけヒントだ」 「ヒント……ですか?」 「これまで、お前が一緒に戦ってきたみんな、その言葉を丹念に聞いていけ」 「必勝かどうかはともかく、私の考えた『常識外れ』は、その中にある」 「……先生」 「それじゃ……私は、少し席を外すよ」 先生はそう言って、音もなく去っていった。 あとには俺と明日香と、共に戦った仲間たちがいる。 (言葉を丹念に聞いていくって……なんだ?) 練習の中で、何かヒントがあったということか。 一体、それは何だ……? 「なんだろ……でも、晶也も明日香も、やれることは全部やったよね?」 「三対一演習も、多角形連撃もやった」 「それに、先生の必殺技まで、アレンジして使いましたしね」 「オレのスピード一本槍勝負がヒントじゃないのか?」 「それはさすがに無いでしょう……。しかしもう、手は残っていなさそうですわね」 「……うーん……」 先生は何を言おうとしていたのだろう。 考えろ、考えるんだ。 グラシュを手に持って、履くところから……。 「これで終わっちゃうのも、さみしすぎるよねぇ」 「あーあ、わたしももうちょっと、先輩たちの役に立ちたかったなあ」 「真白っちはあれじゃん、メンテの重要性をみんなに教えたっていう功績が」 「もーっ! あんなミスはあれからもうやってないじゃないですか!」 「そんなことないわよ、結構後の方まで、宇宙遊泳やってたじゃない」 「わーっ、みさき先輩までっ!」 「だって……バランサーを一度切ってから戻すのって、つい忘れちゃうじゃないですか……」 「………………えっ?」 立ち上がった。 「あの……真白、今、なんて?」 「え? みさき先輩までひどいことを言って、もうわたしの生きる世界はないって」 「そこでボケるか! じゃなくて、『みさき先輩まで〜』の、その後だっ!!」 「あ、あの、バランサーを一度切って、って」 「…………っ!」 明日香の元へ駆け寄る。 「明日香、明日香っ……!」 「あ、晶也……さん」 明日香は、無理をして笑顔を作ろうとする。 「晶也さん、ごめんなさい、わたし、最後の最後で、全然、笑えてないですね……」 「……明日香のせいじゃない。いいか、気にするな、そんなことは」 「ううん、それだけじゃないんです、わたし」 「……うん?」 「わたし、さっき、乾さんを空にひとりぼっちにしちゃいました」 「一緒に楽しく飛ぼうって決めてたのに、恐がってるだけでした」 「それじゃダメなんですよね? わたしも晶也さんも、楽しく飛ばなきゃですよね?」 「明日香……っ」 「あと1分で、決勝の延長戦を開始します。倉科明日香選手、乾沙希選手は、速やかにスタートラインへ移動してください」 ……もう、時間が無い。 明日香の目をしっかり見て、言う。 「明日香、もう一度だけ、飛んでくれるか?」 「……でも、わたし、乾さんみたいには」 「できるかもしれないんだ」 「……えっ」 「飛べたら、乾に楽しさを教えてやってくれ。そして、明日香が、誰よりも彼方に飛んでくれ」 「晶也、さん……」 「シューズを、貸してくれ……」 「さあ、やって参りました、乾沙希選手と倉科明日香選手!」 「延長戦は、5分間のうちに多く得点するか、5分経過した後は、先に点を取った方が勝ちとなります!」 「さあ、それでは両者、スタートラインへ!」 乾と明日香、二人がラインへと並ぶ。 「あら、逃げなかったのですね。その勇気、賞賛に値します」 「…………」 「ダンマリですか? フフフ、喋りたくない気持ち、わかります」 「いずれ嘆き悲しむ時まで……言葉は取っておくといいです」 「……最初から、スパートをかける」 「……一切、容赦はしないから」 「…………」 「……怒っているか。そうだよね」 「だから言った……友達なんか、無理だと」 「……ううん、怒ってなんか、ないよ。むしろ、ごめんね、さっきは」 「えっ……?」 「乾さんだけを、ひとりにはさせない。わたしも、そこに行くから」 「何を、言って……」 「――乾さんと、一緒に飛ぶ。そこで、友達になる」 「ええっ……!」 「あっ……!」 スタートラインから発したコントレイル。 尋常でない程のスピードで伸びていったその光は、先ほどまでと違っていた。 「よしっ、いいぞ明日……」 しかし、その直後、 「きゃあっ!」 突如バランスを崩し、海面に向けて突っ込んでいく。 突っ込んだ衝撃で水面が弾け、水蒸気が周辺に立ちこめる。 明日香の辺りを中心に、スモークを焚いたような白い空間が現れた。 「明日香っ、大丈夫か!!」 さすがにこの状態での安定飛行は難しいのか……! 「っ、一瞬驚きましたが、ただの暴走のようで……」 「……違う」 「えっ……?」 「あれは……っ!」 「グラシュからの……光が……っ!」 「あんな……巨大に」 「大丈夫です……晶也さん」 「行けますっ!!」 「よし……行けぇっ!!」 「はいっ!!」 明日香が頷いた直後、その身体が凄まじい勢いで、水面から飛び上がった。 「速い……っ!!」 「そんな……ありえないっ……」 そして、先を飛んでいた乾の脇を、常軌を逸したスピードで、通り過ぎていく。 「すごい、すごいです、このシューズっ……!」 「こんな力が、眠っていたんですね!」 明日香の身体が、くるくると回転し、UFOのようにジグザグに飛行する。 重力も、慣性も、何にも影響されず……。 ただ自由に、空と一体となって、飛んでいる。 「えーーいっっ!!」 そのまま、実に楽しげなままで。 セカンドブイに、あっさりと到達した。 「……信じられません、アグラヴェインの第2形態、その運動性能に追いつくなんて、通常のグラシュでは、不可能なはず……」 「……でしょうね」 「でもそれを、あなたがたは可能にした。一体何を、どんな魔法を使ったんですか?!」 「何もしちゃいませんよ。何もしていないんです」 「嘘! そんなわけが……っ!」 「本当です……何もしなかったんです。それが、答えでした」 「…………えっ」 「空の上で、魚が二匹泳いでるなあ」 「なんかホントに、そんな感じですよね〜」 「いいなあ〜すっごい、気持ちよさそう」 「しかし、まさかバランサーを切ることで、明日香が覚醒しちゃうとはね……」 「魔法の答えが『グラシュを出荷状態に戻す』だなんて、誰も思いつかないですよ、普通」 「真白っちの大功績だね、ホントに」 「真藤先輩」 「なんだい?」 「念のために聞きますけど、あれを私たちがやったとしても、どうしようもないんですよね?」 「市ノ瀬くんは、生まれて初めて水の中に潜ったとして、そこで魚みたいに泳げる自信はあるかい?」 「……それぐらい、無茶苦茶なことなんですか」 「バランサーを切った状態で飛行するなんて、少なくとも、度胸試し以外で聞いたことがないよ」 「確かに、オレの知る限りでもないな」 「ましてや、こんな大きな大会の決勝戦でだなんて……。各務先生が、教えるのにも二の足を踏んだのは当然だ」 「では、わたくしたちの目の前で行われている、この状況は一体なんなのです?」 「……なんだろうね。ただひとつ言えるのは、これはもう、これまでのFCじゃないってことだ」 「これまでの……FCじゃない」 「明日香先輩、そんなすごいことになっちゃったんですか……」 「あーもしもし、だから、今やってる決勝で、バランサー切って飛んでる子がいてですね」 「いや、ホントなんですって、だから子供たちが真似しないように、明日以降、各所に注意を……」 「もしもし? もしもーし! あーくそ、電波悪いな、ここっ」 「……とんでもないことになったな、しかし」 「別の意味で、FCは別物になっちゃったかもしれんな、葵よ」 「……変わったっていいじゃないか」 「晶也も私も、原理主義者ってわけじゃない。楽しくあれば、それでいいのさ」 「さあ、忙しくなるぞ、これからは」 「みんな競ってバランサーから解放され、FCは新しい時代を迎える」 「本当の楽しさを追求する、そんな時代になるんだ」 「それっ!」 明日香はうねるようにサードラインを駆け抜け、いとも簡単にサードブイを獲得した。 「第2形態の……沙希が……相手にもされない……?」 「そんな……そんなっ」 明日香はもう、俺の指示で動いていない。 自分で、楽しいと思うことだけを、している。 「……」 そして、もう一人の少女が、その様子を見ている。 どうしたらいいのか、悩みながら、でも目を離すこともできず、見守っている。 「沙希ちゃんっ!」 明日香が、不意に叫ぶ。 ブイの側で、くいくいっと手招きをする。 「どうしたのっ? 早くおいでよ、沙希ちゃんっ!!」 「…………っ」 「ここは、どこよりも楽しいよ。誰よりも、自由に飛べるんだよ?」 「…………」 「ここで、わたしと一緒に、遊ぼうよ!」 「…………っっ!」 「うんっ……!」 「さ、沙希っ……?!」 「な、何してるの、沙希……?」 「今すぐ、行くっ……!」 「沙希っ……!」 「なんか、でも、すごいことしてるんだろうけどさ」 「どうかしました?」 「ん、その、二人とも、ほんっと楽しそうだなって」 「ああ……」 「うん、わかる。楽しそうだもんね、すごく……!」 「楽しいFCを変えたくないと足掻いた結果、別物になって楽しくなる……か」 「あの二人らしくて、いいじゃないか」 「ほらっ、こっちだよ!」 「っ、まけないっ!」 「ひゃっ、やられちゃった!」 「よっし、じゃあこういうのでどうだっ!」 「きゃあっ!」 「あははっ、はははっ……」 会話だけならば、波打ち際で水の掛け合いでもしているような。 乾……いや、沙希と明日香の戦いは、怖いぐらいに無邪気で、そして、凄まじくハイレベルだった。 「よーし、ついてこられるかな?」 明日香が、ぐるぐると縦横無尽に、空中に球を描き出す。 「ついてく、どこまでもっ……!」 追って、沙希がその背中を追う。 二人の姿は、さながら毛糸の玉を紡ぐように、空中にコントレイルで球を作っていく。 「わ、なにあれっ!」 「空中に、ボールが浮かんでるみたいな……」 明日香のレッドと、沙希のグリーン。 二人の色が混ざり合って、荘厳な黄色の球が、空中に浮かび、もう一つの太陽のごとく輝く。 「えっと……あの、あれ……なんスか?」 保坂が呆然と、マイク越しにつぶやく。 状況を冷静に把握している人間など、誰も存在していなかった。 「こりゃ……」 「アンジェリック・ヘイローの発展系……?」 「違う、これはもう技じゃない。ましてあんな技なんかと同じにしちゃいけない」 「葵……」 「アンジェリック・ヘイローは、ただ相手を一方的に抑え付ける屈服の技だった」 「でも、これは違う。常識の枠を超えた二人が競うことで生み出される現象、新しいFCの可能性だ」 「……これでやっと、本当に亡霊が消えたよ」 「ああ……そうだな」 「お前がFCから離れたあの日から、やっとな」 「どんな思いで見ているんだろうな、これを」 「……すごい」 もう、感嘆の言葉しか出てこなかった。 自分の知っているFCは、そこにはなかった。 でも、だからと言って、悔しいとか悲しいとか、そんな感情は生まれてはこない。 「むしろ……」 服の裾を、ギュッと掴む。 目の前の状況を見て、心が躍っている。 「なんて……ブザマなんでしょう」 「球になるぐらいまで延々と互いを追い、ただ競い合っているなんて……なんて……」 「……なんて、なんですか?」 「…………」 「……なんて、楽しいんでしょうか」 「はい……」 うなずき、空を見上げる。 そこでは、楽しげに背中を追う、ふたりの姿がある。 自分をギリギリまで高め合った結果、誰もいない場所で楽園を築いた、ふたりの姿が。 「これが、言いたかったのですか、お姉様は……」 イリーナの言葉は、度々吹く東からの風に遮られ、かき消されていった。 思惑とか、ルールとか、背負ったものとか、解き放たれた光景は、いつまでも続くかと思われた。 しかし、宴にも終わりの時は来る。 得点は9対9。 互いに飛んで、遊んで、空前絶後の鬼ごっこを楽しんだ結果、二人とも同点で並んでいた。 「あ…………えっ、と……」 「あ、あまりに想像を絶する光景に、つい実況を忘れておりましたが!」 「これで得点は9対9のイーブン、そして延長の残り時間は1分となりました!」 「この1分が終われば、あとは新たに得点を入れた方が勝利ということになります……!」 「さあ、果たしてどちらが、この異次元の試合に勝利するんでしょうかっ!!!」 保坂のアナウンスが、試合終了が近いことを告げた。 明日香が動きを止め、沙希の目の前に行く。 「はー、もうあと1分か、早いなあ……」 沙希も同じく動きを止めて、明日香の前へ移動した。 「……倉科明日香」 「明日香でいいよ、沙希ちゃん」 「じゃあ、明日香」 「うん、なあに?」 沙希は、うなずくと、 「……明日香、わたしには、大切な人がいる」 そう言って、自らの結んだ髪の毛を手に取った。 「その人のためにも、わたしは勝ちたい」 「英語もしゃべれなくて、コミュニケーションもとれなかったわたしを、ここまで連れてきてくれた……」 「ただ飛びたいと願っているだけだったわたしに、こんな立派な翼を与えてくれた……」 沙希は、じっと束ねた髪を見つめている。 そこに何があるのかは、こちらからはわからない。 おそらくは、イリーナとの思い出が、そこに込められているのだろう。 「イリーナ、ありがとう」 「沙希……っ」 「だから、真剣勝負する。明日香に、勝つ」 「……うん、わかった」 「わたしも、大切な人、いるんだ」 「その人のためにも、勝ちたいんだ」 「はーっ、最後だから、ちょっと、お願いしようかな」 明日香は、髪飾りにそっと手を添える。 そして、そっと目を閉じて、祈る。 「やっと今、使うね。ずっと大切にしてた、お願いを」 「わたし、勝ちたい。晶也さんのためにも。だから……今、力を貸してほしいな」 今、どこにいるのかわからないけれど。 かつて明日香に力を与えてくれた誰かに、俺も密かに祈る。 「明日香、大丈夫だよ」 「晶也さん……?」 「約束したんだろ? その髪飾り、祈ったら助けに来る、って」 「はい……そうです」 「だったら、大丈夫だ。明日香が信じた人だからな……」 「俺と、明日香と、髪飾りの人とで……3人分だ。きっと、最高に強いぞ」 「…………」 「…………はいっ!」 「晶也さん、行けます」 「よし……じゃあ、行くぞ」 「はいっ……!」 明日香と、沙希が、互いに向き合う。 この上なく高まる緊張感の中で、明日香も、沙希も、そして、イリーナも、俺も、例えようのない高揚感でいっぱいになっている。 もう、勝ち負けじゃない。ここにあるのは、なにかを成し得た後の、充実感だけ。 あとは、その思いの丈をぶつけるだけ。 「今です!」 「……はい!」 「今だっ!」 「はいっ!」 お互いの言葉と思いが交錯し、そして、交わる。 光でできた球の中、新しい惑星が生まれる瞬間のように、激しく、ぶつかった。 「っ……!」 「ったぁ……!」 勝負は一瞬だった。 上から迫ってきた沙希を、明日香はバク宙で避けた。 その動きを読んでいた沙希だったが、明日香は更に身体を捻り、45度の方向転換をする。 あれは……! 俺が明日香に一度だけ見せた、あの技の再現だった。 「そんな、ここで避けるなんて……!」 「沙希ちゃん、もらったよ!」 「くっ……!」 そして。 長かった戦いに、決着がついた。 「最後の技……日向さんが、昔得意にしていた……」 「……そう、ですか」 「わたしたち……わたし、最後まであなたたちを超えることはなかったんですね」 「完敗、です……」 「ポイント、倉科明日香ーーーっっっっ!!!!」 保坂の絶叫と共に、会場が一斉に沸き立つ。 「ぃやったああああああっっっ!!!!」 「勝った、勝ちました、明日香先輩、勝ったんですねっ!」 「おおおっ、おおっ、おおおおおおおっ……、倉科、おめでとうっ……!!」 「うああああああんっ、明日香ちゃーん、よかったよおおお」 「……とんでもないことをしますわね、倉科明日香は」 「ええ、すごいですね……って、あれ、真藤先輩、もうお帰りになるんですか? 今から表彰式ですよ……?」 「うん……どうにも、二人を見ていたら、悔しくなってきてね」 「えっ……」 「今から、高藤へ行ってちょっと飛んでくるよ」 「お、お手伝いしますわ、部長!」 「は、はいっ、わたしも……!」 「ははっ、じゃあお願いしようかな」 「……日向くん」 「次は君の番だよ。僕は……待っている」 「トロフィーの授与を行います。優勝、久奈浜学院二年生、倉科明日香さん」 「お、明日香ちゃんの登場だ。ありゃ試合より緊張してるな……って、トロフィー落としかけたぞ、大丈夫か、おい」 「おめでとう、倉科、そして晶也」 「直接言ってやればいいじゃないか」 「照れくさい。柄じゃないよ」 「それに、あいつらがとんでもない試合をしてくれたせいで、やることが山積みだからな」 「まったくだ。さっきからずっと電話が鳴りっぱなしだ。明日香ちゃんも、これで海外かな」 「きっと倉科には、そんなことはどうでもいいんだろうがな」 「……まあな」 「さ、行くぞ。あいつらが自由に飛べるよう、大人たちはめんどくさいことを片付けてやらないとな」 「ああ、任せろ」 「晶也さんっ!!」 「わわっ……!」 表彰式が終わってすぐ、明日香は正面から俺に抱きついてきた。 「最後、見てました? 見てくれましたかっ……?」 「もちろん。すごいな、完璧に再現してた」 「はいっ……!」 「わたしのバク宙と、晶也さんのアレンジ……」 「最高のタイミングで、一緒になったな……」 持てる物を、すべて使った戦いだった。 最後には、俺が一度だけ飛んだあの場面ですら、明日香は見事に、ものにして見せた。 「日向さん」 「……イリーナさん」 同じく表彰式を終えた沙希とイリーナが、こちらに歩み寄ってきた。 「お見事でした。あの状況を返されては、もう為す術がなかったです」 「いえ、偶然でした。俺も、無我夢中でしたから」 バランサーを切って飛ぶなんて、これまでの常識では、ありえないことだった。 作戦とはとても呼べない、ひどいギャンブルだ。 明日香の奇跡に賭けて、明日香がそれに勝った。それ以上でもそれ以下でもない。 「いえ、でも最後は、あなたたちの勝利でした」 「わたしは、作戦と、技術を過信しましたが、あなたたちは最後までお互いを信じ合っていました」 「……そこが、差だったのです」 「そうかも、しれませんね」 俺も明日香も、お互いの信頼は決して揺るがなかった。 そこだけは絶対に、負ける気がしなかった。 「でもやはり、わたしのFCに対する気持ちは変わりません」 「『本当のFC』、いつかお目にかけます」 「ええ、望むところです」 「……ですが」 イリーナは、そこでクスッと笑うと、 「楽しいFC、あなたがどうしてそこにこだわるのか、ちょっと、わかった気がします」 「だから、次はもっと違うものを持って、参ります」 「そうですよね、沙希」 「……はい」 「では、わたしたちは、これで」 イリーナは沙希を伴って、こちらに背を向けた。 海岸の奥の方に、いつか見たヘリが着陸している。 砂が舞う中で、二人の姿が、少しずつ遠くなっていく。 「沙希ちゃんっ!!」 明日香が、沙希を呼び止めた。 「……っ?」 「明日、放課後になったら、前に言ってたこと、しようね!」 「あ、明日っ……?」 「友達になろうって、言ってたじゃない!」 「えっ……で、でも、あの、練習が……」 「沙希」 「イリーナ……いいの?」 「はい。もちろん」 「…………っ」 「……うん、わかった、じゃあ迎えに行くね……!」 「うん、約束だよ!」 今度こそ、二人は去っていった。 ヘリが上空へと舞い上がり、空の向こうへと消えていく。 でも、かつて見た姿とは、今は違って見える。 同じ空を共有した、今は、もう。 「行っちゃいましたね……」 「ああ……」 「そう言えば、晶也さん」 明日香は俺の方を真っ直ぐに見つめて、 「わたしたちの約束のこと、覚えていますか?」 「……ああ、もちろん」 二人で会った夜に、かわした約束。 大会が終わったら言おうと、決めていた。 俺の約束、そして、明日香の約束。 「どうしましょう、一斉に言いましょうか?」 「そうだな、せーの、で言おう」 「わかりました。いきますよー、せーのっ!」 明日香の言葉を皮切りにして、 二人一斉に、言った。 「えっ……!」 「あっ……!」 「私と勝負してくださいっ!!」 「俺と勝負してくださいっ!!」 「えっ……!」 「あっ……!」 一瞬、お互いに見つめ合った後、 二人一斉に、笑いあった。 「ははっ、あはははっ、い、一緒でしたっ!」 「はははっ、まさか、同じなんてなっ……!」 ひとしきり笑って、そして。 また二人で、向かい合う。 「それじゃ……来週の土曜日に、どうですか?」 「ああ、いいよ。場所は……空の上で」 「はいっ……!」 明日香が返事をした、そのすぐ後に。 「明日香ーーーーっ、おめでとーー!!!!」 走ってきたみさきが、明日香に飛びついた。 「わ、わわわ、みさきちゃんっっ!!」 「おめでとうございますっ、明日香先輩っ!!」 「うわーん、明日香ちゃーん、なんかもうさっきから涙止まらないんだけど〜」 「おおおおっ、オレもだ、倉科ぁっ!!」 「真白ちゃん、窓果ちゃんっ、部長っ……」 「さー、それじゃ次は全国大会だねぇ」 「その前にちょっとお休みしません……?」 「明日香はすぐに飛びたいって言うんじゃないかなー」 「ですね、すぐにでも!」 「……ほらね」 「明日香先輩が強いのって……FCが大好きだからなんですね」 「しかし、なんかホッとしたら急に腹が減っちまったな」 「そーですねぇ」 「あ、はい、お腹もすきましたっ!」 「よーし、そんじゃ打ち上げ、行くぞー!!」 「はい、お母さんが、今日は貸し切りでいいよって言ってました!」 「うあーっ、うどん……うどーん!」 「窓果ーっ、泣くかうどんかどっちかにしろーっ」 「みんな……本当に、お疲れ様」 満面の笑みで祝福してくれるみんなの顔を見て、やっと、勝ったのだという実感が湧いてきた。 久奈浜学院FC部、秋の大会結果。 有坂真白、初戦突破。 鳶沢みさき、二回戦突破。 倉科明日香――、優勝。 最高の結果で、俺たちの秋は、終わりを告げた。 「そろそろ来る頃かな」 時計を確認すると、もうそろそろ約束の時間だった。 家のところで待ち合わせても良かったんだけど……。 「……まあ、手の内を見せちゃうのもな」 「ふふっ、そんなことだと思いました」 ひとりごとを聞かれ、返事をされてしまった。 「おはよう、明日香」 「おはようございます、晶也くん」 「グラシュ、新しくしたんですね?」 「ああ。飛燕の一型。色々とカスタマイズしたから、今日届くのか心配だったけど……」 その場で、軽く一回転してみせる。 「……この通り、さすがは白瀬さんだったよ」 「やっぱり、晶也くんにはグラシュが似合います」 「そうかな」 「はい、かっこいいです……とても」 明日香は、ちょっとだけ真面目な表情になると、 「それじゃ約束……果たしましょうか」 「そうだな。時間は20分、ドッグファイトのみで」 「フィールドは自由。得点を多く取った方が、勝ちです」 「俺と、明日香だけの……決勝戦だ」 「はい、よろしくお願いします……師匠っ」 「な、なんか調子狂うな、師匠ってのは」 「あ、じゃあ……いつものにしますね」 「コホンッ……」 「よろしくお願いしますっ、コーチ!」 「ああ、よろしく!」 「……始まったか」 「ああ。ご覧の通りだ」 「晶也のやつ、いきなりバランサー切って飛ぶとは、無茶しやがるよ、まったく」 「倉科に負けたくないんだろうな。……もっとも今のあいつらに、勝ち負けなんて意味は無いだろうが」 「そうだな」 「さてと……じゃ、私はそろそろ行くよ」 「おい、最後まで見ていかないのかよ」 「言っただろ? 勝敗はどうだっていい。戦ったあとで、あいつらが何を考えるかが、楽しみなだけだ」 「……その辺は、ゆっくりと海外で聞くことにするよ」 「えっ、ちょっとお前、まさか」 「休職届は出しておいた。まあ、選手として戻れるのもあと数年ってとこだからな。存分にやるよ」 「……というわけで、色々と準備を頼む、隼人」 「お、おいちょっと、お前、そんな急にな、おいっ!」 「だいたい、店とかどうするんだよっ、そんなに何年も閉めておけないだろっ?」 「みなもがいるだろー? それか青柳にでもバイトさせとけ」 「そんな気楽に言ってくれるなよ〜、おーい、待てったら!」 「晶也くんっ!」 「なんだ、明日香っ、もう降参か?」 「違いますよ、そうじゃなくて……っ」 「今、わたし、すっごく、楽しいです!」 「…………」 「うん……よかった」 「俺も、楽しいよ、すごく――!」 「はいっ!」 朝の光が次第に強くなってきて、明日香の顔が、キラキラと輝いて見える。 初めて、彼女と一緒に飛んだ時のことを思い出す。 あの時も、空を見ていた。今とは違う、後ろ向きな気持ちで。 もう、これで見納めになるんだって、思っていた。まともに空なんか見られないって、思っていた。 でも、そうはならなかった。 そうならなくて、本当に、良かった。 「――大好きだよ、明日香っ!」 明日香と、そして空に向かって、叫んだ。 あの時とは違って、大きく、しっかりとした声で。 「わたしも、大好きな晶也くんと、大好きな空を一緒に飛ぶことができて――」 「本当に……幸せですっ……!」 「はいっ、というわけで、今わたしは、ニューヨーク・ロングビーチにある、フライングサーカス世界大会の会場に来ておりますっ」 「いやー、アメリカってすごいですねー。見渡す限り外国の人ばっかりで、圧倒されますっ」 「あ、すごい、あの子本当にアメリカに行ってる」 「なんかテレビ関係の人を言いくるめたそうですよ。地元で話題の美少女リポーターとか言って」 「それでアメリカの旅費出させるんだから、すごいよね、ホントに」 「さて、いよいよあと10分ほどで試合開始ですが、ここで各選手の声を聞いてみましょう!」 「ぼちぼち、晶也たちが出る頃かなー」 「何喋るか、楽しみですよねーっ」 「……ちょっと、嫌な予感がするんだけど、気のせいかな?」 「おーい明日香、そろそろだぞ」 「はーい!」 「元気そうだなー、明日香は」 「うん、昨日の夜もご飯いっぱい食べたし!」 「晶也くんは……結構、早く寝てたよね?」 「俺……どうも時差ボケに弱いらしい」 「じゃ……これで治るかな?」 明日香は、俺にそっと近寄ると、 「ちゅっ……」 「わっ……」 頬に、軽くキスをしたのだった。 「どうかな……これで治った?」 「……明日香ってさ」 「はい?」 「なんか、どんどん大胆になっていくよね……」 「そっ、そそそそそんなっ」 「そんなことはないよっ……たぶん」 「……ちょっとは自覚あるんだな、やっぱり」 「あれ……誰からだろ」 「各務先生かな……?」 「先生なら、とっくに審判席にいるよ。なんか海外選手と話を……あっ」 「あれっ、止めちゃってよかったの?」 「……いいよ、いつもの定期連絡だった」 「あ……ははっ、なるほど」 「それはいいとして、明日香、心の準備はいいか」 「一回戦、いきなり強い人なんだよね……」 「アメリカ代表のペイリン……当然、グラシュはバランサーオフだ」 「でも、大丈夫……お祈りもしたし」 「あ、例の人形、持ってきたのか」 「うん、持って来ちゃった……こっそりと」 「今度、見せてくれないか、その人形」 「だ、ダメだよ、なんか恥ずかしいもん……」 「いいじゃないか、見せてくれても」 「うーん……じゃ、今度、ちょっとだけ、ね?」 「ああ、じゃあ世界大会が終わったら、ってことで」 「よし、そろそろ行こうか」 「うんっ」 「わっ、な、なんだっ?!」 「て、テレビですかっ?」 「はいっ、ではここで日本代表の二人に聞いてみましょう!」 「わっ、み、実里ちゃんっ?!」 「なんで、保坂がここにいるんだ?」 「ぐふふっ、ジャーナリズム魂は海をも越えるんスよ!」 「ではここでまず、倉科選手に質問ですっ、やっぱりあれですか、日向さんとは、信頼関係で結ばれてるんですかっ……?」 「はい、それはもちろんっ!」 「その信頼関係ってのは、やっぱり、好きってことですよね……!」 「は、はい……そうですね、大好き……きゃっ!」 「……何言ってるんだ、明日香は。保坂も乗せるんじゃない」 「へへっ、つい面白くてちょっと」 「大体、これってフライングサーカスの取材だろ? もう一回やり直すから、そういうのを聞けよな、もう」 「あ、あの〜、日向さん……」 「なんだよ」 「これ、衛星生中継っス」 「………………」 「……マジで?」 「マジっす」 「当然、日本にも……?」 「テレビ永崎、初のフライングサーカス地上波放送っス」 「あっ……あっ……あああ」 「ま、晶也くんっ……?」 「う、うわああああああっっ!!!」 「わ、わあっ、暴れちゃダメっス、日向さんっ! ちょ、カメラさん、空映して、空っ!!」 「………………あらー」 「………………やっちゃいましたねー」 「………………永崎中に、うちの学校の恥が」 「これって、一局ネットだっけ?」 「いや、仇州全局ネットって書いてますよ」 「ははっ、あーあ……知らないよ、わたしは」 「あはは、まあ、幸せそうでよかったじゃないの」 「ですねー、あはははは」 「ふたりとも、笑顔が引きつってる引きつってる」 「うーん、やっぱり電話に出てくれないですね」 「日向晶也……?」 「そうです。毎日、選手に戻るようお誘いしてるんですが……」 「全然、応えてくれないんです」 「……それは、ちょっとやり方がいけない気がする」 「そうでしょうか? 彼は少し強引なぐらいでいいように思うのですが……」 「……ふふっ」 「……沙希、よく笑うようになりました」 「えっ……?」 「明日香さんのおかげ……ですね」 「……うん」 「そろそろ、一回戦の始まる頃でしょうか」 「がんばって欲しい……」 「そうですね、国内大会に続き、世界で名を馳せれば、明日香さんはもっと、素晴らしい選手になります」 「うん……」 「不思議な選手ですね、倉科明日香は」 「戦っているはずなのに、相手がどんどん楽しくなって、負けたのにワクワクしてしまう」 「……不思議で、とても楽しいです」 「うん……うん……」 「さあ、そろそろ練習を再開しましょう。次の大会こそ、二人に勝ちましょうね」 「行きましょう、沙希」 「はい、イリーナ」 「……FLY!」 立場や、時間や、想いが変わっても。 世界のどこにいても、空はいつも同じで。 いつだって上を向けば、そこに変わらない姿で待っていてくれる。 「よし、明日香、ファーストブイから積極的に狙っていけ!」 「はいっ、晶也くん!」 だから、信じてくれる人と、どこまでも行こう。 ――蒼の彼方へ。 「明日香ルートEND」 「ンンンンンッ!」 砂浜をダッシュしてくるみさきに声をかける。 「もっと膝を高く上げろ。スピードが落ちてるぞ」 「はあぁっ、はあぁっ……!」 みさきが声を張り上げて、膝を高く上げて加速する。 「あきらめるな、あきらめるな、そのまま最後まで!」 みさきは砂浜に引いたゴール線までたどり着く。 「はっ、はっ、はっ、はっ」 顎を上げて荒く息をしながら、背筋をのけぞらせて空を仰ぎ、よろめいて立ち止まるみさきに声をかける。 「立ち止まるな。常に動き続けるんだ。動いていたほうが乳酸が抜けやすいんだからな。つらくても小走りでスタート地点まで戻るんだ」 運動すると筋肉に乳酸がたまる。それが疲れの源だ。立ち止まると乳酸は増えないけど、減るスピードが落ちる。蓄積されやすくなってしまう。 じっとしてるより、少しは動いていた方が乳酸は減る。だから効率的にトレーニングするには動き続けた方がいい。 ──でも。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 筋肉は楽になっても肺はつらいままだからな。筋肉の苦痛も厳しいけど、呼吸の苦痛はもっと厳しい。 「立ち止まって楽に呼吸したいのはわかるけど、筋肉のことを考えたら動いた方がいいんだ」 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……ンッ。こんな過酷なアップってある? 最初からこんなに飛ばしてたらもたないと思うんだけど?」 「アップだと思ってたのか? 言っておくけど今日は飛ばないぞ」 「ひへ? 今なんと言いましたか? 飛ばないと? 飛ぶのが楽しいのに! 飛ぶからFCやってるのに!」 「今日は飛ばないし、明日も飛ばない。明後日も多分飛ばない」 「鬼すぎる! その言葉責めだけで吐ける」 「言葉責めとか言うな」 「体も心も責められてるのに全然楽しくない!」 「責められて楽しくないのは当然だ」 「……まー、そこは、ね? 人それぞれというか〜」 「わかるでしょ? みたいな変な顔するな。どうせ吐くならそんなんじゃなくて、走って吐け」 「運動中の嘔吐を推奨された!」 「いいからごちゃごちゃ言わずに走れ。それにそんな風に喋れるようなら嘔吐はまだまだ遠いぞ」 嘔吐しそうなくらい疲れる、そのずっと手前で練習を中断するけど。 「うああああぁ〜〜〜っ! やめる! ついていけない!」 「やめさせるか! つらいことする覚悟はできてるんだろ!」 「そこに走るは含まれてなかった!」 「除くな。全てのスポーツの基本だ」 「指相撲も? 指相撲の練習でも走りますか?」 「特殊な例を出して反論しても走らせるからな」 「つらいよ〜。つらいよ〜。あ……鬼! 晶也は鬼ッ! 鬼がここにいるよぉ!」 手を握り、小走りでスタート地点を目指して引っ張る。 「歩け。乳酸たまって筋肉痛がひどくなるぞ」 「もっとすることあるよ? もう何日も飛んでないんだから、早くグラシュを履いて勘を取り戻さないと……」 「ダメだ」 「どうして? 今頃みんな高藤のしっかりとした施設で飛び回ってるのに、あたしは砂浜で走ってるって……」 「今のみさきには砂浜があれば充分。いざという時のトイレにもなるしな」 「あたしはネコじゃない! あーもー! 飛ぶスポーツなのに飛ばないとか……」 「あせるなって」 「あせるよ! これってあたしの根性を鍛えてるわけ? 根性論? 精神論? そういうので日本は戦争に……」 「そんな大げさな話じゃないし、みさきの精神を鍛えてるつもりだってない」 「じゃ、これって……」 「──決勝で」 「え?」 「決勝で明日香とあたったらどうするんだ」 「どうするって、心構えの話?」 「体の話」 「……あたしの体? セクシーだって話?」 「このタイミンクでみさきのセクシーさについて語るわけないだろ」 「晶也が目のやりどころに困ってるから」 「変な妄想を押し付けるな。コーチと選手の関係の時は、みさきがどんなにセクシーでも目のやり場に困ったりしない」 「ストイックだー。あたしが全裸でも?」 「全裸でも。こういう時はそういうスイッチが切れるんだよ」 体操着で練習中に、みんなのブラジャーが汗で透けて見えたりすることあるけど、そういう時は本当に何も感じない。 エッチなことってそういう精神状態にならないと発生しないものだと思うのだ。 ……まあ、着替えをのぞいてしまうレベルの出来事になると強制的にスイッチが入ってしまうけどさ。 ──あの時、みさきの胸がもう少しで見えそうだったな。 みさきはのぞきこむようにして俺を見て、 「ん? なんかエロいこと想像してる?」 「してない!」 窓果にも指摘されたし、俺ってそういうのが顔に出てしまうんだろうか? 「コーチと選手じゃない時にあたしが全裸だったら……」 「話を長くして休憩時間を増やそうとしてるな?」 「うっ」 みさきは露骨に目をそらして、 「あははは〜。おっしゃる意味がよくわかりませんが〜」 「今のまま明日香と決勝であたったらどうなると思う?」 「今のままとは……。文字通り今のままでってこと?」 「そうだ。今のみさきと明日香が秋の大会の決勝で試合をしたら、だよ」 「勝てる気はしないけど、負ける気はもっとしないかな」 「100%負けるぞ」 「……っ。もうそんなに差があるの?」 「相手が佐藤院さんや市ノ瀬でも負ける。真白には勝てるかもしれないけど、そういうレベルの話だ」 「どういう意味? あ〜、はいはい。あたしを燃え上がらせようとして、大げさに言ってるんだね」 「言ってない。そうなると本気で思ってるよ」 「みんなが成長しているってこと? あたしの実力がそんなに下がってるってこと?」 「決勝戦まで何試合もしなきゃいけないんだぞ」 「それはそうだけど……」 「決勝まで行けたとしても体はボロボロで、ファーストラインを飛ぶだけで息が上がる。負ける」 「…………」 「自分のスタミナのなさは理解してるだろ? しかも夏の大会が終わってからずっと練習してなかったんだ。かなり落ちてる」 「……そうだね」 「出したい場面で全力を出せなかったら、つらいぞ」 「うん、つらい」 「全力を出せば勝てた、と自分に言い訳したくないだろう」 「……うん」 「だから体を引き締めるとこから始めないとな。心肺機能を上げて、余計な肉を減らす」 「うん……うん」 「今はやることをやる前の段階。それをやらないと、みさきはどこにも届かないままだ」 「わかったって。はー。がんばりますよ〜」 「体に負荷をかける練習だから、きついとは思うけど……」 「もう帰るとか逃げるとか言い出さないから大丈夫。だから、今日のメニューを教えてよ。心構えしておきたいから」 「100メートル全力ダッシュ×5。インターバル。200メートル全力ダッシュ×5。これで1セット。まずはこれを3セット」 「帰る! 絶対に確実に帰宅させていただきます!」 「言わないって約束しただろ! 直後に裏切んな!」 「殺しにかかってる! 死んでる自分がまざまざと見えた!」 「いいからとっとと走れ。全力ダッシュだからな」 スタート地点についたので、引っ張っていたみさきから手を離す。 「う〜〜〜。さっきからこんなにもひどく責められてるのにどうして少しも楽しくないんだろう!」 「そんな冗談を言っている余裕があるなら走れ!」 「う〜〜〜。よし! 覚悟決めた」 「何回、決めてるんだよ」 「今度こそ本物だから!」 水をすくって飲むような手つきで自分の顔をペシペシと軽く叩く。 「さっさとやっちゃおう」 「じゃ、行くぞ! スタート!」 「だりゃゃゃやあぁぁぁぁぁっ!」 「でりゃああぁああ! はあっ、はあっ、はあっ、はあっ! んっ! 死ねる。マジで死ねます。これから死にます!」 「大げさに言うな。手首を貸して。脈拍をはかるから」 みさきは俺に手を出しながら、 「ん〜。はあ、はあ、はあ、なに? はあ、はあ、はあ、はあ、あたしの心臓に興味あるわけ?」 「心肺を鍛えてるんだから当たり前だろ」 親指で脈を見つけ、スマホをストップウォッチにして、脈拍を測る。 「はっ、はっ、はっ、はっ……。ンッ。あははは」 みさきは呼吸を整えてから笑って、 「あたしのドキドキを感じると晶也もドキドキする?」 「しない。なぜ俺を不思議な性癖の持ち主にしようとする?」 「いや〜。今後、凄いことを求められたりするかもしれないから、覚悟を決めておいた方がいいかなー、と」 「そんなこと求めないから安心しろ」 「求められないのも不安かもなー」 「よし」 びくっ、とみさきは軽くのけぞって、 「よ、よし? 変なこと言うつもり?」 「言わない。っていうか疲れてるはずなのに余裕あるな」 みさきの手首から手を離す。 「これでダッシュは終わり」 「え? もう? 次はなにするの?」 「今日はこれで練習終わりだ」 「ええ? 地面にぐったりと力なく倒れて、感情のない目で晶也を呆然と見上げるくらいの目にあわないと特訓した気にならないよ」 「コーチ失格すぎるだろ。何が起こってもそんな状態にはしない」 「これでお終いなんて納得できない。もっとできる」 「脈拍が限界を超えてるし、予定の数はこなしたから、これ以上は逆効果」 「逆効果?」 「すればするほどいいってもんじゃないんだ。オーバーワークって言葉は知ってるだろ?」 「言葉だけはね」 練習のし過ぎで弱っていく状態。 「これ以上するとオーバーワーク?」 「そういうこと。運動すると筋肉って弱るんだ」 「え? 運動すればするほど弱い人に?」 「運動すると筋肉は衰えるけど回復すると前より強くなってる。練習をし過ぎると、復活できずに衰えたままになるんだ。だから適度に疲れさせて、適度に回復させてやらないとな」 「適度に疲れさせて、適度に回復かー。全てを裏で操っている悪人みたいだね」 「そうやって筋肉さんを勝ったり負けたりさせて、効率よく鍛える必要があるんだ」 ──葵さんに教わったことだ。 スタミナ向上のために10キロ〜20キロの長距離走を毎日するのはそれほど効率的ではない。 長距離走やそれに似た競技、長時間のプレイを求められる競技では必要なのかもしれないけどFCには必要ない。 「ふ〜ん。なるほどね。頭がおかしくなりそうな長い時間、練習したりするのかと思ってた。倒れたら水をかけられたり」 「そんな滅茶苦茶なことするわけないだろ。みさき次第ですることはあるかもしれないけどな」 みさきは怯えたように苦笑して、 「あははは……。するかもしれないんだ?」 「それは俺が決めることじゃなくて、みさきが決めることだからな」 「ん? あたしが決めるの?」 「上手になるというのはどれだけ多くの、コツ、みたいのを掴むかなんだ」 「ふ〜ん。そういう考えもあるかもね」 「精神論になるけど倒れるまで何時間も練習して、そうやってようやく掴めるコツもあると思うんだ」 「ふむ〜」 「もしかしたらそんなのないかもしれないけどな」 「……どういうこと?」 「あるかないかはわからないけど本当に強い人ってそういうのを経験してたりするからあるのかもしれない」 強い人というのは、普段はちゃんとしたトレーニングをしているのに、一時期だけ狂ったような練習をすることがあるのだ。 「FCへのいろんな想いが体を突き上げたんだと思う。じっとしていられなくて、オーバーワークだとわかっても、それでも飛ばずにいられない時ってあるんだよ」 「そういう経験でしか掴めないモノか……」 「あんまり気にする必要はないぞ。体に悪いだけでした〜、という結果になる可能性も高いしな」 「……ふ〜ん。で、今日はこれからどうするの? 解散? それとも空を飛ぶ練習しちゃう? しちゃう?」 「みさきの頭を鍛える時間だ」 「し、失礼なことを! あたしはテストで赤点取ったりしてない」 「学力を鍛えろって言ってるわけじゃないって。FC脳を鍛えろって言ってるんだ」 「FC頭……。どうやって鍛えるの?」 「FC脳。ま、FC頭でもいいけど」 「え〜っと、どっか目立たない場所で話をしたいんだけどな」 「ファミレスや喫茶店じゃダメ?」 「そうだな。ちょっと恥ずかしいことをするからな」 「は、恥ずかしいこと?」 「みさきが考えているようなことじゃないぞ?」 「あ、あたしが何を考えているとおっしゃりたいんですかぁ!」 「なんで急に敬語なんだよ。とにかく人目につかないとこがいいんだけどな」 「あたしの部屋は? この時間ならおばあちゃんは庭の畑やってて家の中にいないから、気兼ねなくどうぞ」 「じゃ、おじゃまさせてもらおうかな」 「誰もいない家に、晶也が、恥ずかしいことをしに、来る。きゃー! あたし、どうなっちゃうんだろう?」 「無意味に煽るなって。俺がしたいのはこれを使ったことだ」 リュックの中から、それを引っ張り出す。 「そ、それって……」 みさきは短く絶句した。 「2つ持ってきたんだけど、みさきも持ってたんだったな」 「晶也だと思って大事にしてた〜」 みさきが取り出したのは、俺が前にゲームセンターのクレーンゲームでとった、シトーくんのぬいぐるみ。 シトーくんを俺に向けると、折り曲げて、 「こんにちは、晶也くん」 俺もみさきにシトーくんを向けて、 「こんにちは、みさきちゃん。元気ですか?」 「メンタル面以外は元気です!」 「……病は気からですから気をつけてください」 「落ち込んではいるんだけど、ご飯はもりもり食べれちゃうし、よく寝れるんだ。体は快調だけど心は沈みっぱなしだよ」 「なんで陰鬱な話になってんだ? これを使ってFC脳を鍛える」 「つまりシトーくんから、FC頭を鍛える電波が発せられていると……。あ、だから四島のFCレベルは日本一なんだ」 「あらぬ方向に話を広げるな。これを使って、FCをシミュレートするんだ」 「FCをシミュレート?」 「そうだよ」 俺はシトーくんを水平に動かしたり、くるっと回転させたりして、 「こうやって動かして、シトーくんとシトーくんで戦う」 「ふ〜ん。なんだか間抜けだねー。おこちゃまの遊びみたいだ〜」 「みさきはおこちゃまみたいなもんだろ」 「こんな胸の大きなおこちゃまがいてたまるかー!」 「自分でそういうことを言うな! 精神年齢の話だ!」 みさきはシトーくんをでたらめに動かして、 「ぶーん、ってこういうことをするとFC頭が鍛えられる?」 「無心に動かし続けていたら宗教的な真理は得られるかもな。でもFC脳は鍛えられない。ちゃんと、こうやったら、こう動くってことを考えながらやるんだ」 「実際に飛んで練習するんじゃダメなの?」 「ダメ。みさきは誰が相手でも直感で勝負するだろ?」 「ちゃんと考えてるってば」 「考えてるかもしれないけど、みんなはもっと考えてるんだ」 「そ、そうなの?」 「そうだ」 ショックを与えるために断言しておく。 「みさきは瞬間瞬間の判断だけで勝つから、練習でもそれをやるだろう?」 「ドッグファイトを直感以外でどうしろと?」 「ドッグファイトだってある程度のセオリーはあるだろ」 「そうだけどギリギリのところは直感じゃない?」 「みさきのギリギリのとこの判断力は信じてる。みさきが鍛えないといけないのは、試合全体を見渡す力なんだ」 「……試合全体」 「フィールドを支配する。対戦相手を支配する。そういう動きが必要なんだ」 「…………」 みさきは上目遣いに俺をじっと見てから、 「……それが明日香や乾さんが考えてること?」 たまたまFCファンサイトを見た時、四島の大会で優勝し、数日後に行われた全国大会でも優勝した乾が『空域の支配者』と名付けられていた。 観戦記を書いた人は乾の本質に気づいていないようだったけど、本質をとらえたニックネームだ。 動画を見たり、頭の中で試合を再現してみたり……。 市ノ瀬から真藤さんの携帯の番号を聞いて、話を聞いたりした。 だから、実際に飛んで再現することはできなくても、シトーくんを使って、乾のやり方を教えるくらいはできるはず。 「みさきは飛ぶと、どうしても直感に頼るだろ? これで練習すればじっくりと落ち着いて考えることができる」 「シトーくんでかー。でもさ、そういうのってセコンドの晶也が理解してればいいんじゃ? あたしは言うとおりに飛ぶ」 「同じ考えを共有してないと指示に時間がかかるだろ。試合中は事細かに説明する時間はないぞ」 「まー、それはそうだろうけどさ〜」 「セコンドの意見に耳を傾けすぎると相手に対する集中力が途切れることもあるしな」 「む〜」 「優れた選手はセコンドがいようがいなかろうが自分で考えるものだ。選手にしか見えないものってあるだろ」 「それはわかる気がする。雰囲気ってあるよね」 「市ノ瀬との試合前に恐いとか恐くないとか言ってたもんな」 「うん」 相手とのやりとりで見つけた言葉にしづらい癖や雰囲気。 それらを感じた時にどう動くのか? 「これはセコンドが言うことじゃないんだけどさ」 「セコンドの指示に従ってもらわないと困る。でも最後の最後のとこじゃセコンドの意見はセコンドの意見なんだ。決断するのはみさき自身なんだよ」 「……決断、ね」 「最後の最後でどう飛ぶかを決めるのはみさきだ。そのためにもFC脳を鍛える必要がある」 みさきは少し呆れたようにうなずいて、 「わかりました。晶也がそこまで情熱的に言うならやってみようかな」 「じゃ始めるぞ」 みさきの部屋を見回して、 「えーと、蛍光灯のヒモがファーストブイで、本棚のここがセカンドブイで押入れの取っ手がサードブイで、壁のシミがフォースブイだ」 「なんかすごいことになってきたな〜」 「呆れ顔で関心するな。本気でやるんだぞ」 「了解。で、役割はどうするの? あたしがファイターで晶也がスピーダーとか?」 「みさきのシトーくんはみさきだ。俺のシトーくんは乾だ」 「なるほどね。乾さんをぶっちぎっちゃってもいいんだよね?」 「そのつもりでやってみろ」 「了解」 「じゃ、ファーストブイに立って」 みさきはピコピコとシトーくんを動かして、 「オラは絶対に負けないずら」 「それは、みさきの分身だぞ?」 「心の中ではいつもこうしゃべってるずら」 「変な設定を作らずにちゃんとやるんだ」 「わかってるって、エイ。乾さんの胸にターッチ!」 「真面目にやれ!」 「真面目にタッチしたもん」 「真面目にやったんだったら、次に乾に会ったら同じことしろよ」 「いいよ、するよ! だからあたしがタッチしたら晶也も乾さんに同じことしてよ」 「どうして2人で乾の胸にさわんなきゃいけないんだよ。試合する前に会場から追い出されるぞ」 「そういう終わりでもあたしは後悔しない!」 「しろ! ……いいか? 始めるぞ」 「いつでも」 「スタート」 「よし! あたしは本棚にショートカット」 「本棚へショートカットするのは今日がはじめてだろ。普通にセカンドラインって言ってくれ」 「はいはい。セカンドラインへ、シトーくんに魂をうつした私がびゅーん」 「自分の魂を移動させるほど本気には……まあいいか」 みさきはスキップで本棚と押入れの取っ手を結ぶラインへ向かう。 「んじゃ、俺は真っ直ぐ行って……」 「俺じゃなくて乾さんでしょ。晶也もちゃんとその気になって」 「本気でシミュレートする必要はあるけど、選手になりきる必要はないだろ」 「ダメダメ。本気でやるってことはそういうことも含むんだから。ちゃんと乾さんみたいに語尾にナリとつけて! 拙者、FCをするナリ!」 「乾はそんなしゃべり方しない!」 「拙者、エッチな気持ちで体がポカポカしてきたナリ」 「なんで乾はそんなこと告白しはじめたんだよ」 みさきはシトーくんを回して、 「あたしはライン上で旋回しながら待機〜」 「こっちはセカンドブイにタッチで1点目。ブイにふれた反動を利用して急上昇」 「あたしは乾さんを見上げながら旋回しつつ乾さんを待ちます」 「ラインの高い位置を飛びます」 「それに合わせて飛びながら急上昇! ドッグファイトを下から挑む」 「乾もそれに応えます」 「えいえいえい!」 「えいえいえい!」 「……大丈夫? これFC頭鍛えられてる?」 「素に戻るな」 「さっ、と横にフェイントをかけてからリバーサルで上に!」 リバーサルとは上から来る相手の脇をくぐり抜けて、逆に自分が上へと出るテクニックだ。 「乾は腕を伸ばしてみさきの頭を押さえ込みます」 「ちょっと待って。そんなのできる?」 「できる。上が冷静だったらリバーサルは難しいからな」 相手がある程度の実力者だった場合、タイミングを読むこと。意表をつくこと。この2つが揃わないと成功しない。 みさきが真白相手にリバーサルを挑んだら確実に成功するけど、乾相手だと10回に1回も成功しないんじゃないだろうか。 「だったら、えいえいえい、と下から攻撃を仕掛けて急降下! 乾さんはあたしの背中を追ってきます。これで泥沼のドッグファイト蟻地獄に……」 「落ちません。ゆっくりと下降しながら、みさきと距離を保った状態で追います。乾は絶対に誘いには乗りません」 「む〜。だったら正攻法で! 再び急上昇!」 「乾はみさきから得点することよりも、みさきを自分より上へと行かせない事に集中します」 みさきは俺のシトーくんに自分のシトーくんをバンバンぶつけて、 「だとしてもさ〜。これだけ攻撃してるんだから1点くらい入ったことにしてもよくないかな?」 「無理」 「どうして? あたしの攻撃力ってそんなに低い?」 「高いよ。乾がちゃんとドッグファイトをしてるとこは見たことないから比べられないけどさ」 「そう思うなら1点くらいとれているのでは?」 「冷静に2人の位置を考えてみろって」 「位置?」 「乾もみさきも基本的には胸を水面に向けてるだろ。下のみさきは垂直気味だけど前傾姿勢なのは間違いないよな」 「普通に飛んでたらそうなるよね。それが?」 「FC脳を鍛えているんだから自分でちょっとは考えてみろって」 「ん〜?」 「ドッグファイトで点を取るにはどうしなきゃいけない?」 「点を取るには……。それは精神論的な話? 心を無にして事に向かえ、みたいな?」 「考えろって言ってるのに無にしちゃダメだ。基本的な話だ。初心者に真っ先に教える話」 「えーっと……。背中にふれると得点が入る……あ。あ〜、そういうことか……。ん〜? え? そんな単純なこと?」 「そうだ。そんな単純なことなんだ」 「それってこういうことだよね?」 みさきは俺のシトーくんの下に自分のシトーくんを水平に並べて、 「乾さんが上であたしが下で飛行している場合、乾さんからあたしの背中をさわることはできるけど、あたしから乾さんの背中をさわることはできない」 飛行姿勢はお互いに背中を上に腹を下にしているのだから、当然そうなる。 「背面飛行は難しいから、そうなるな」 「……ちょっと待って。こんなことで防御できちゃうの?」 「多分できるんだよ」 みさきは呆然として、 「どうして、こんな簡単な防御方法を今まで誰もしなかったの?」 「固定観念があったんだろうな。ドッグファイトは動き続けて速く飛んだ方が有利だって」 「それはそうだよね?」 「そうだよね、って言うなよ。さっき自分で、どうしてこんな簡単な防御方法をって言ったばっかりだろう?」 「あ……」 「教える方も教わる方も思い込んでた。疑問をはさむとこじゃなくて大前提」 「どうして前提になっちゃったの?」 「FCのドッグファイトは戦闘機を参考にしてるからな」 「戦闘機?」 「戦闘機同士の戦いをドッグファイトって言うんだ。それをスポーツにした側面がFCにはあるからな。それを再現するために、飛び続けるドッグファイトになった」 「どうして飛び続けるわけ?」 「ヘリコプターと違って飛行機は空中停止できないからな。……FCの歴史って短いから調べればすぐわかるんだけど、最初はどこにふれても得点になったらしいんだ」 「あ、そうなんだ。それってファイターが超有利だよね?」 「そう超有利。だから背中に限定したっていうのもあるし、ファイター同士が正面からバチバチやってると動きが止まっちゃうだろ?」 みさきは少し瞑目してから、 「……あー。そうだね。ボクシングとか相撲とか、そういう格闘技っぽいものになっちゃうのか」 「実際そうなってしまったらしいんだ。飛ぶのが楽しいのに止まって殴り合いじゃダメだろ? それでルールが改正されて背中だけってことになった」 「どうして背中だけ?」 「背中だと相手の背後に回り込む動きが重要になるだろ? 互いの背中を求めてぐるぐるすれば、自然と激しい飛行になる」 「なるほどね〜」 「今のルールは派手に飛ぶために決められたものだ。だから派手に飛ぶことが推奨されてきた、というか、それが正しいんだって何の疑問もなくみんな思ってた」 「つまり、こういうこと? 乾さんはルールの盲点をついた」 「本気で勝とうとしているだけだ。反則じゃない以上、責めることはできないだろう」 「そうかもしれないけど釈然としないな〜。こんな作戦が広まったらルールが変わるんじゃない?」 「かもな。けど俺たちの卒業する前には変わらないだろうし、変えなくてもいいって人も多いと思う」 「そんな人、いる?」 「明日香は乾の作戦を見て喜んでたけどな」 「……っ」 みさきは自嘲するみたいに苦笑して、 「なるほどね……。さすが明日香だなー」 「いいから、ほら。乾の作戦を理解したなら続けるぞ」 「了解、了解。えーっと。真下からドッグファイトを挑んでも無駄なので、大きく迂回しながら乾さんの上を目指して……」 それは真藤さんも試みた作戦だな。 まあ、真っ先にそれを思いつくよな。 「みさきは高速で飛ぶ時、上は見づらいよな」 「え? うん。そうだね」 胸を下に向けてる。その姿勢から真上を見るには体をかなりねじらないといけない。 「だけど乾の位置からはみさきの動きが全部見える」 「……それはセコンドの晶也がフォローできることでは?」 「当然フォローするけど、実際に目で見るのと、耳だけで位置を確認するのとでは、かなり違うってことくらいわかるだろ」 「そうだね」 「というわけで上のポジションの乾は、余裕を持って上がってくるみさきの頭を抑えに来ます」 「う〜! だったらローヨーヨーで下降して……」 「乾はそれについていきません。ゆっくりと距離を縮めます」 「とりあえず距離を作ります」 「一定の間をあけつつ追います」 「だったらさらに逃げます。あれ? なにこれ!」 みさきはいつの間にかしゃがみこむ姿勢になっていた。シトーくんが床すれすれまで押し込まれている。 「飛べるスペースが狭くなってる。あたしと市ノ瀬ちゃんの試合みたいだ。逆の立場だ」 「あの時の市ノ瀬と一緒でもう横にしか移動できないな」 「う〜〜」 「あの時、みさきは結果としてこれをしたけど、乾は計算してするんだよ」 「……計算」 「で、これからどうする?」 「1点とられてるからショートカットはしたくない」 ショートカットした時点で、次のブイにタッチする権利を放棄するので、2対0になる。 「とりあえずセカンドブイ側に移動してスペースの確保を」 「みさきがそっちに移動するなら、乾はサードブイをめがけてスタート」 「ええ? ちょ、ちょっと! 追いかける!」 「追いつけません。乾はブイにタッチして2対0。ブイの反発を利用して急上昇」 「……っ。そのポジションは最初からやり直しってこと?」 「そういうことだ」 「2点差で、あんなのをもう一度。こんなことされたら……。……あ。そういうことか……。真藤さんが負けたのってこういうことなんだ」 みさきが納得したようにうなずく。 「そういうこと」 「こんなの勝てるわけない」 「そうだ。勝てるわけがない。身体能力とか、ドッグファイトの技術は関係ない。この作戦を知ってるか知ってないかが重要なんだ」 「……明日香はこれが面白いんだ」 「そうらしいな」 「あははは〜。……凄いな。本当に凄い。明日香は凄すぎる」 「この状況をどう打破する?」 「……っ。えーっと……えーっと……。晶也に考えがあるんでしょ? あたしに考えさせないで、それを教えてくれればいいのでは?」 「俺にもわからん」 「マジで?」 「マジで。だから考えよう」 みさきはシトーくんを左右に振りながら考え込む。 「こう飛んだら、こうだから、こうなって、こうなって……。えーっと……。むぅぅぅぅうううぅぅぅうぅぅぅぅぅ」 長い間、考えていたみさきは唐突にシトーくんを振りかぶって、 「そこでシトーくんがドーンッ!」 壁に投げた。 「おい!」 「シトーくんが光速を超えました! マッハです!」 「光速とマッハじゃ比べられないくらい速さが違うけどな」 「どんな小細工も光速マッハの前ではゴミです!」 「真面目にやれ!」 っていうか光速マッハってなんだよ! 新しい単位を作るな。 「真面目にやってるんだけど、考えてたら煮つまってきて、衝動的にシトーくんに光速の壁を超えさせてしまったの」 「自分の分身なんだからひどいことしてやるな」 「そうだった! あたしの魂が入っているのに……」 「……って、あれ? 今のはどうなの?」 「今のとは?」 「だから、スピードで一気に抜き去る」 「それな。それは俺も考えたんだけど……」 みさきは肩をすくめて、 「その言い方はダメだったわけ?」 「この作戦を使う相手が明日香ならいいかもしれない。だけど乾には通用しない」 「どうしてかにゃ?」 「乾はスピード対決で部長に勝ってるんだぞ」 「あ……。そっか〜。スピード対決じゃ勝ち目はないってことか……」 「基本的に乾はスピーダーだからな」 あの見慣れないグラシュが脳裏をよぎる。あれはどういう設定の靴なんだろう? 「え〜っと。ということは、これはスピード対決できない時のサブ作戦?」 「多分な。真藤さんとやった時だって最初はスピード対決を挑んで止められてから、この作戦を開始した訳だしな」 「ふむ〜」 「続きをしようぜ。実際にシトーくんを動かしていたほうが、わかりやすいし、考えやすいだろうからな」 「よっし、やるぞ〜」 いつの間にか、みさきはシトーくんシミュレーションに、面白がって取り組むようになっていた。 門の前で立ち止まる。 母屋というんだろうか? そっちの方から甘い醤油の香りが漂ってくる。 「あははは。この匂い、ちょっと恥ずかしいな。あたしは好きだけど」 いかにもおばあちゃんの家庭料理って感じの匂いだ。自分の家の香りが恥ずかしいって気持ちは少しわかる。 「おいしそうでいい匂いだと思うよ」 「そう。ならいいんだけど……。今度、食べていく?」 「機会があればな」 「そうだね。さすがにいろいろ恥ずかしいし」 「まー、そうだな。説明とか面倒だし」 絶対に、彼氏? みたいな話になるだろうし。 「そこまで送っていこうか?」 「女の夜歩きは危険だから男が送るんだろ。こんな時間に女が男を送るって変だぞ」 「でもここで変質者とか出るって聞いたことないし」 「そんな無理して送ってくれなくていいって」 「そういうもの、なのかな?」 「そうだよ。それに明日も会うんだからな」 「そ、そうだね」 「んじゃ」 「ちょ、ちょっと待って!」 慌てた様子で俺の袖を引いた。 「どうした?」 「えっと……。明日も今日と同じ時間に海岸だよね?」 「そうだよ」 「それから、その……」 「どうした?」 「明日もあたし、がんばるから!」 「お、おう?!」 「それだけ……」 みさきは言ってから急に気づいたように俺の袖から手を離して、 「ほら、その……。やる気ないみたいなこと言ったりするけど、本当はあるから……だから、そういうこと」 「わかってる」 「だったらいいの。それじゃ、また明日ね」 「また明日な」 互いにぴらぴらと手をふって別れた。 「ほら、ラストだ、ラスト! もっとモモを上げろ。手を抜くな、手を抜くな。砂を後ろへ蹴り上げろ!」 「うりゃぁぁああぁぁぁぁぁああぁぁっ!」 「ラストだ! 残ってる力、全部を出せ! 搾り出せ!」 「んにゃぁああぁああぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁっ!」 砂浜に引いたゴールラインを超えたみさきが、 「くあっ! はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 荒い息をしながら俺に手首を差し出す。 「…………」 脈をはかる。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 「……よし」 「んっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……んん。よし、とは?」 「もう飛んでもいいってことだよ」 「…………っ」 みさきは砂に突き刺していたドリンクホルダーを引っ張って、 「んくっ、んくんくん、んっ、はーっ!」 水を一気にあおってから、 「本当に?!」 「こんなことで、嘘を言ってどうすんだ」 急な腹痛を起こしたようにお腹を抱えて、 「う〜〜〜〜〜〜〜〜っ」 「ど、どうした?」 縮んだバネが伸びるみたいにジャンプして、 「やーーー!! うきゃー! 飛ぶぞ〜! ようやく飛べる!」 「そ、そんなに嬉しいか?」 テンション高めのみさきはビシビシと俺の胸を叩いて、 「当然! 嬉しいに決まってる! いひひ〜。おあずけを命令された犬の気分がわかっちゃったよ。晶也にこういうプレイをされてるのかと勘違いしそうだった」 「プレイ言うな」 俺はポケットから携帯を引っ張り出す。 「ん? どうしたの? あたしが飛べる喜びを誰かに伝えるつもり?」 「そんなところだ。練習相手がいないと基礎の練習しかできないからな。助っ人を呼ぶ」 「助っ人?」 「だっははははは! この日が来たか!」 高笑いをしながら部長がググッとポージングを決めてから、向かってくる。 「ぶ、部長? 晶也が呼んだのって部長だったの?」 「そうだよ」 「呼び出されるのをドキドキしながら待ってたぞ!」 「来てくれて、ありがとうございます」 「聞いたぞ! 部を二つに割ったんだってな」 「スミマセン。部長の作った部なのに勝手な行動をしてしまって」 「あやまる必要は皆無! 乱なき場所に乱を起こしてこそ男! 部を一つにまとめるのも立派だが、分裂させる心意気も立派!」 「立派だなんてことは絶対にないですよ」 一つにまとまっている方が部長は嬉しかったはずだ。 それなのにこんな気を遣わせてしまって……申し訳ない。 「徹底的にやってやるからな」 「はい、わかりました」 部長の気持ちに応えるにはそう言うしかない。 「徹底的にはやるつもりですけど、別に喧嘩をしてるわけじゃないんですけどね」 「喧嘩をしてるわけじゃないのに、部を割るとはますます恐ろしい男だな。とにかく!」 部長はみさきに向かって自信満々に胸をはり、 「俺が来たからには安心だ」 「あ、ありがとうございま……」 「おっと! 練習に参加するのは青柳くんだけじゃないぜ、みさきちゃん!」 「え?!」 いつの間にか背後に白瀬さんが立っていた。 「白瀬さんも?!」 「あっはははは! スカイスポーツ白瀬店長、白瀬隼人の登場だ!」 「だっはははははは!」 「あっはははははは!」 「…………」 部長と白瀬さんは何気なく接近すると、 「青柳くん。……相変わらず鍛えてるね」 「最近は内転筋をいじめてみてますよ」 「ふふふ、いいねー。いいよ」 白瀬さんは部長の内股を遠慮なく撫で回す。 「おふ」 「いいね〜。柔らかい筋肉だね。ん〜、いいよ。この調子で鍛えていこうか」 「…………」 みさきはジトッとした目で俺を睨みつけて、 「この倒錯した筋肉の世界にあたしも参加せよと?」 「そんな過酷なことは言わない」 「鳶沢、遠慮なく来い!」 「ふふふ、こっちは楽しいよ」 2人がみさきを手招きする。 「い、行きません! あたしを2人の生贄として差し出すつもり? そういうプレイ?」 「だからプレイ言うな。2人だって生贄なんか望んでない」 「可愛い女の子ならいつでも生贄ウェルカムだよ」 「セクハラだ!」 「生贄ウェルカムって嫌な言葉ですね」 「日向でもいいぞ。生贄ウェルカムだ!」 「ウェルカムしないでください」 みさきは俺の服の裾を引いて、 「練習相手をしてくれるのは素直に感謝するけど、どうしてこの2人なのか説め……」 「ちょっと待って欲しいな! 来ているのは僕と青柳くんだけじゃないんだぜ」 「ムキムキ星人が他にも?」 「3人目はノットムキムキさ。後ろだ!」 「後ろ? えええええ?」 「わっははははははははははは!」 斜め上空に覆面をしたスカイウォーカーがいた。 「ふ、覆面選手だ! 謎の覆面選手だ! そんなに強くもないし、トリッキーでもない覆面選手だ!」 「練習相手に失礼なことを言うな」 「ええっ?! 覆面さんがあたしの練習相手をしてくれるんですか?」 「わっははははははははははは!」 背をそらし、腰に両手を当てて、悪役みたいに笑っている。 覆面選手は白瀬さんの近くに降りて、 「わっははははは! 謎の覆面選手、参上!」 みさきは唖然として、 「声がその……本当に微妙なんですけど、見た目に合ってないような感じが……しませんか?」 「せ、せぬ!」 「そ、そうだよ。ボイスチェンジャーとか、そ、そういうのじゃないから!」 「どうして白瀬さんが必死になってるんですか?」 白瀬さんはどこかうつろな目をして、 「そんなことないよ、必死になんかなってないよ」 「とにかく覆面の性別は不詳!」 「一人称が覆面! なんか凄い!」 「わはははははは! 死ぬがよい!」 「いきなりの死刑宣告? 会話が成立しないタイプ?」 「あっははははは!」 「だっははははは!」 「わっははははは!」 みさきは改めて順に3人を見て、 「……く、くどい! 油を一気飲みしたらきっとこんな気分。だからこれはどういう状況なの?」 「闇ルートを使って密かに結成した、みさき復活プロジェクトのメンバーだ」 「闇ルート! 晶也の携帯は闇ルートにつながるんだね! 頼もしいわ!」 やけくそ気味に言い放った。 「会員番号1番、日向晶也!」 「会員番号2番、青柳紫苑!」 「会員番号3番、白瀬隼人!」 「会員番号4番、謎の覆面選手!」 「謎の覆面選手がフルネーム?!」 覆面選手はビシッとみさきを指して、 「おまえを倒す!」 「ええ? さっきの死刑宣告といい、なぜそんなに好戦的なんですか?」 「何かしたんじゃないのか?」 「何もしてないってば。そもそも夏の大会で見かけただけで、会話したことない。接点自体がないよ」 「ふふふ、そう思ってるのはおまえだけだとしたら?」 「ええっ?」 「覆面の正体。その謎に悩み苦しむがよい!」 「悩み苦しむほど気になる謎……かな? もしかしてあたしの知ってる人? 真白?」 「真白? 誰?」 「…………」 覆面の素の答えに微妙によどんだ空気が流れる。 「謎の覆面は決して正体を明らかにしない」 「闇FCでは正体が明らかになったら、裏組織に消されるとかいうルールがあるんだろうな」 「ということは謎の覆面選手は闇FCの選手……」 「ふふふふふ」 「それはそれとして」 「それとしちゃっていいこと?」 「いいだろ」 闇FCなんて存在しないし。……多分。 「数日前、白瀬さんに経緯を説明して、みさきの練習相手の相談をしたら覆面選手を紹介してくれたんだ」 「上通社学園FC部は謎の覆面選手しか部員がいないんだ」 「ん? そういう場合セコンドってどうなるんですか?」 「セコンドは他校の生徒でも大丈夫なルールですよ」 「そういえばそういう光景を見たことがあるな……」 「で、実は上通社から僕にFC部の指導のお願いが来てね。こっちも練習相手を探していたところだったんだ」 「練習ではない。キサマを倒しに来たのだ! 死ぬがよい!」 「あ、はい。よ、よろしくお願いします」 覆面選手の気合に圧倒されたのか、変に丁寧な感じで、みさきは頭を下げた。 ……死ぬがよいと言われてるのに、お願いしますっていうのも凄いな。 「さっそくだけど軽くアップしてから部長と練習だ。部長、よろしくお願いします」 「まかせておけ! 絶え間なく鍛え上げた筋肉を見せつけてくれる」 「3年の夏休みは大切だって聞きますけど……」 受験とか大丈夫なんだろうか? 「あ、あの!」 「ん? どうした?」 みさきは部長に頭を下げて、 「今日はあたしのために来ていただいてありがとうございます」 「おう! 気にすんな!」 部長は、ふっ、と口端で笑って、 「本気になった鳶沢を見てみたいからな」 「がんばります」 「練習の目的を話すぞ。目的は乾と同じレベルとまでは行かなくても対抗できるとこまでいくこと。技術的な意味での話だ」 「乾さんと……か」 「明日香もそこを目指してるだろうからな」 「…………」 「対抗できるとこまでもっていかないと、何もできずにやられるだけだ。対抗さえできれば、その時はみさきの持ってる技術が生きる」 「……逆に言うと対抗できるとこまで行かないと、今までの技術は出せないってこと?」 「そういうこと」 「でもどうして乾さん対策が部長との練習になるの?」 「地方、全国と合わせて、乾と一番、いい勝負をしたのは部長だ。乾にあの作戦を出させるには、まず乾を止めないとダメだ。だから乾と同レベルで飛べる部長は練習相手として最適だ」 「……でも、その」 「わかってる。みさきは部長と練習するのに慣れてるからな」 部長の癖を読み取って簡単に止めてしまう。 「もちろん普通にはやらない。部長には先にフィールドを2、3周してもらって、スピードが上がったところでみさきに入ってもらう」 「……なるほどね」 「それとヘッドセットの回線は部長はオン、みさきはオフ。みさきは自分の判断で動くんだ」 「つまりこれもFC頭を鍛える練習ってわけね」 「そういうこと。咄嗟の判断だけじゃなくて総合的な判断も忘れるなよ」 「総合的な判断って」 「例えば、抜かれた時にどこにショートカットするかだ。部長は高速だから、次のラインじゃなくて、次の次のラインにショートカットした方がいい場面もあるぞ」 「なるほどね。晶也に指示を出してもらってたから、自分でそういうこと考えたことなかったな〜」 「今日はいろいろ考えてやってみろ」 「考える……か」 「じゃ、早速はじめよう。久しぶりだからまずは10分くらい、フィールドをくるくる飛ぶとこから」 「わかった〜。んじゃ、とぶにゃん!」 みさきがフィールドに向かって飛んでいく。 「だらあぁぁぁあぁぁぁぁ!」 「きゃっ! くうーーーっ!」 ──さすがにこうなるか。 完全に部長が翻弄してる。 「青柳くんは夏の大会で何かを掴んだようだね。動きがいいし。なんと言うのかな。いい意味で飛び方にこだわりがない」 「確かに」 部長は速く飛ぶことだけを目指していたので、フェイントにぎこちなさがあった。 抜き去る時にスピードを落とさないように、大きく動いてしまう癖もあった。そういうことはイヤイヤやっている雰囲気があった。 だけど今は──。 「自然にフェイントを入れてるね〜」 こっちに行くと見せかけてあっち、という単純なフェイントだ。しかも首や目だけでやる基礎中の基礎。 それなのに──。 「くぅ〜〜〜っ!」 何度か抜かれたみさきが悔しそうな唸り声を上げる。 単純でも常識外の高速飛行中にされると対応できないのだ。 ──もっと早くからこのスタイルでできていれば、夏の大会で良いところまで行ったかもしれないのに。 「みさきちゃんは抜かれまくりだね」 「しばらく飛んでませんでしたから、こんなもんでしょう」 それに考えながら飛べと言ってるから。 そんなことをしながら飛ぶのは初めてだろうから、体と心がバラバラになるんだと思う。 「……少し意外だな」 「何がです?」 「明日香ちゃんじゃなくて、みさきちゃんに肩入れしたこと」 「肩入れですか……」 「してるだろ? その理由を聞いてもいい?」 白瀬さんは感慨深げに斜め上を見て、 「……黒髪巨乳が好きだった、か」 「違います!」 「違うのかい?」 「違います! 言って理解してもらえるかわかりませんが……」 「いいよ、聞こう」 「みさきは俺なんです。みさきが飛べないと俺も飛べないんです」 「…………」 「だからです。俺が、みさきに肩入れするのは」 白瀬さんはタバコを吸っているみたいな細長い息をして、 「なんというか、それは不健全な関係だね」 「そうだ、不健全だ!」 覆面選手が唐突に割り込んできた。 「すぐにあの女と離れるがよいのだ」 「いや、あの……?」 「あの女からは不幸の匂いがするのである!」 「……ある、と言われても」 白瀬さんはニヤニヤして、 「確かに2人の関係からはバッドエンドが見えるな〜」 「勝手に見ないでください」 「それなりに本気で言ってるんだけどね。秋の大会、彼女で勝てるかい?」 「わっははははは! 早々に別れて、覆面のコーチに専念するがよいのだ」 「なんで覆面さんがそんなに盛り上がってるんですか? 大会なんて、先のことなんて、どうでもいいんです」 「面白いことを言うね。みさきちゃんの先のために、今みんなで練習しているんじゃないのかい?」 「そうです。みさきの未来のためにやってるんです」 フィールドを見上げる。 みさきの動きが鈍くて、部長のスピードに全然対応できていない。 頭を使って飛ぶ、という俺の指令を律儀に守ろうとしてるな。 反応がワンテンポ以上、遅れている。頭でFCをしようとすれば、どうしたって反応は落ちる。 「でも、そういうことじゃないんです」 「わけがわからん!」 「あはははは。そう言わずに聞いてやろうよ」 「したいからしてるんです。白瀬さんが言うみたいに、結果バッドエンドだとしても……。やらなきゃいけないってことが変わるわけじゃなくて……」 「…………」 「…………」 「…………」 「えっと……その……。俺は何を言いたいんだったかな? どんな結果が待っていたとしても、やらずにいることが一番、悲惨だと思うんです」 「ふ〜ん。尻に火が付いてるってことかい?」 「火がついていればまだいいんですけどね」 本当に心の底からそう思う。火がついているなら後は燃えるだけだ。 誰か燃えさせてくれよ、マジでさ。 「俺もみさきも変な黒い煙を上げてくすぶってますから。ちゃんと燃やさないと……進めない気がします」 白瀬さんは呆れたような感心したような苦笑をして、 「ますます協力したくなってきたね。前に言ったと思うけど、歪んだ性格の人は好きなんだ」 「…………」 「とは言っても僕にできるのはアドバイスくらいだけどね。実際に飛んで練習相手をしてしまったら、売り上げに響くかもしれないからさ」 「どうしてですか?」 「久奈浜の生徒をエコヒイキしてると思われたら、他の学園の方々が店に来なくなるかもしれないじゃない」 「アドバイスだけでも充分ありがたいです」 「自分を苦しめるためにあの女のコーチをしてるようにしか聞こえないのだ。早々に別れるがよい!」 「いや、よい、って言われても……。話を聞いてました?」 「別れて覆面のコーチになるがよい!」 「いやだから、よい、と言われても……。今、俺にコーチできるのはみさきだけなんです」 「む〜〜〜〜っ」 「まー、そういうことらしいから、今は協力してあげようよ。この練習で覆面さんも実力アップできると思うよ」 「むぅ〜〜〜〜っ」 「どうか協力お願いします」 「……わかった。協力してやるのだ」 「ありがとう」 覆面選手がどんな人かわからないけど、白瀬さんが紹介してくれたんだから悪い人じゃないはずだ。 ──さて、と。 フィールドではみさきが部長に抜かれまくっていた。以前は見なかった光景だ。 俺はヘッドセットのスイッチを入れて、 「部長。降りてきてください。この練習は終了です」 「オッケー」 部長は地面を指差し、みさきに向かって、降りる、というハンドサインをする。 「…………」 みさきは小さく頷いて、部長に続いて降りてくる。 部長は起動を解除して、ボディビルダーみたいなポージングを決めた。 「絶好調ッ!」 「頭を使ってやってたら反応が落ちるよ〜」 「最初はそんなもんだよ。練習を続ければ体と頭の差が縮むよ」 「そういうもの?」 「感じるのと考えるのが一体化するのが理想だ。今のみさきは感じられても考えられないからな」 「あたしをアホみたいに言うな〜」 「じゃ、次の練習の準備をよろしくお願いします」 「ほいきた」 白瀬さんはノートパソコンを取り出し、 「みさきちゃんのグラシュをいじらせてもらってもいいかな?」 「え? 晶也がいいって言うならいいですけど……」 チラリと俺を見る。 「俺が触るべきなんだろうけど、白瀬さんの方が確実だからな。変えるのも戻すのも早いし。じゃ、白瀬さんお願いします」 「はいはい。グラシュは履いたままでいいからじっとしててね」 「わかりました」 白瀬さんがノートパソコンとグラシュを接続する。 「で、どう変更するの?」 「ファイター用のグラシュの加速の遅さをそのままに、きつめな設定のスピーダー用グラシュくらい初速を遅くする」 「……ん? それっていいとこナシなんじゃ?」 「なしだよ。それでいいんだ」 「どういうこと?」 「わっはははは。練習相手の覆面のグラシュはそのままだ。圧倒的な力の差を確認させてやる!」 「それって力の差って言うかグラシュの差なんじゃ……」 「死ぬがよい!」 「あ、はい。善処します」 「善処すんな」 「いや、あの……。でも、覆面選手は悪い人じゃない感じがするから、あっさりと断るのも悪いなーと思って……」 確かになぜだかわからないけど悪意は感じない。無理して言ってる健気な雰囲気さえある。 「んじゃ、練習の目的を説明するぞ。今回は乾の作戦を覆面選手にやってもらう。体の動かし方をしっかりと確認するため低速でやる」 「低速なら考える時間もあるし?」 「そういうこと。しっかりと互いの動きを確認しながらやるんだ。普段の飛び方だと頭に染み込ませられないだろ?」 「でも、えっと……その、乾さんの飛び方を覆面さんはできるんですか?」 「わっははははは」 「そこらへんは心配なく。僕が覆面選手のセコンドをするから。一応、どう飛べばいいのか覆面選手に教えてあるからね」 「みさきのセコンドは俺がするけど自分で考えて飛ぶように」 「了解」 「ほい。グラシュの設定は終わったよ」 「じゃ、覆面さんよろしくお願いします」 「口もきけない状態にしてやるのだ」 「あ、はい。よろしくお願いします」 みさきは丁寧に頭を下げてから、 「では、とぶにゃん、って重い!」 よろよろふらふらで上がっていく。 「全然、加速できない」 「ちょっとやりすぎたかな?」 「最初はこれでいいです。じっくりじんわりとやるつもりでしたから」 「おおお? 筋肉の量が減ったような気がする」 「わっはははは! 覆面はいつもどおりだ!」 「それじゃ、覆面選手が上、みさきが下でスタート」 「わっはははは」 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……。う〜、何度やり直しても水面に押し込まれてしまう」 「それが当たり前だから気にするな。もう一回、ポジションを戻して再開だ」 「はあ、はあ、はあ……。ずっと下にいるって凄いプレッシャーだ。つ、疲れる……」 有利なポジションにずっと相手がいる状態だから、気が抜けないんだろうな。 「いや〜、それにしても実際にこうやって試してみると、乾選手のこれはまずいね。今までのスタイルが使えない」 「そうですけど、ここを前提にしてしまえば扉は開けると思うんです」 「ここを前提にか……。それってどういうこと?」 「ポジション争いを五分にできれば、みさきのドッグファイトが生きると思うんですよ」 「確かにね。理屈ではそうかもしれないけど、それをどうやって形にするのかが問題だよね」 「……はい」 どうするのか? それは……。 きっと、答えは三つある。みさきにどれを選択させればいいのか……。 それがまだわからなかった。 「ふあぁ〜」 「お疲れ様。疲れただろ?」 「疲れたって言えば晶也の方が頭は疲れたんじゃない?」 練習後、みんなで今後の予定を話し合った。 スケジュールだけでなく、乾対策なども話し合ったので、すっかり暗くなってしまったのだ。 「いろいろ話し合ったけどさ」 「うん」 「結局、乾に勝つ作戦は大きく分けて三つあると思うんだ」 「なんだ〜。もう答えはあるんだ。それなのにあたしに考えさせて意地悪だな〜」 「どうするのか最後に決めるのはみさきだからな。そのために乾について理解して欲しかったんだ」 「わかってる。で?」 「一つは圧倒的なスピーダーになること」 「部長みたいになるってこと?」 「そういうこと。試合開始直後からスピードで強引に主導権を握ってそのまま離さない」 「でも乾さんがショートカットで前に出てきて止めに来たら?」 「止められたら不利になるけど、スピード対決は乾から挑んでくるだろうから、そのままうまくペースを握れば行けるかもしれない」 「なるほどね。次は?」 「圧倒的なファイターになる。どんな体勢からもドッグファイトで勝てる選手」 「上のポジションをキープされても、ってこと?」 「そういうことだ。できなくはないと思う。乾の作戦っていうのは壁を作って進ませないってことだから」 「壁を壊すくらい強いファイターになればいいってことか……」 「そういうことだ。多分だけど明日香はこれを選択すると思う」 「どうして?」 「明日香はエアキックターンが得意だろ? あれはメンブレンの特殊な移動が得意ってこと。だからコブラなんかもすぐ使えるようになる。他の大技もな」 「……あたしはメンブレン関係の技、使えないんだよね」 「あれは反重力子を肌感覚でわかる選手じゃないと難しいからな。まあ、無理して使わないでも他にもいろんなテクがある」 「それでどうして明日香がファイターをやると思うの?」 「近距離で連続エアキックターンみたいな変則的な動きで、乾を混乱させてポジションを奪えるかもしれない」 「……なるほどね。最後の一つは?」 「乾と同じになる」 「──同じとは?」 「だから上のポジションをキープする作戦を使うんだ」 「でもどちらかが上になるわけだよね?」 「だからそうなった時は次のラインに移動するか、もしくは下から上のポジションを取り戻す。下から上をどうやって取るかまだわからないけどな」 「乾さんは下のポジションから上のポジションを取る方法を持ってるのかな?」 「持っていても不思議じゃない」 「……だよね」 「この三つからどれを選ぶか、そろそろ決めておく必要があると思うんだ」 「スピーダーはないよね」 「意外とスピーダーは向いてるかもしれないぞ」 あの時、俺よりも綺麗な姿勢で飛んでいたのだ。 みさきは首を横に振って、 「性格的にスピーダーは無理だと思う」 「……だったらファイターを目指すか?」 みさきはまた首を横に振った。 「あたしは乾さんのスタイルを目指す。それが現実的だってことくらいわかるからさ」 「そうだな」 圧倒的なスピーダーや圧倒的なファイターは、そもそもたどり着くための道筋が見えない。 だけど乾は存在している。 「マネで勝負するのはみっともない気がするけど、こっちは必死ですからね〜」 「そうだな」 「今更だけどさ……。覚悟を決めてやるね」 「うん」 「だからさ……」 「ん?」 みさきは俺に半歩近づく。 「…………」 会話するには不自然に近い距離。 「どうした?」 「あたし、晶也のことが好き」 「え? ええ?!」 「あたし、晶也のことが好き。晶也は?」 「ちょっと待て! そういうのって、だからさ、でつなぐ流れじゃないだろ。いったい何が、だからさ、なんだよ」 「細かいことを気にするな〜。覚悟を決めたんだから、こっちの覚悟だって決めないとアンバランスになる」 「あー、くそ!」 「くそ? 告白した女の子をくそ扱い?」 「因縁をつけるな。そういうことは俺から言おうと思ってたんだよ」 「あ、そんなこと思ってた?」 「思ってたよ。俺がみさきのこと好きだって気づいてただろ?」 みさきは慌てた様子で、がくがくと首を縦に振って、 「う、うん。で、でもそれはあたしの、か、勘違いかもって。だ、だから、その! 今、そうじゃないってわかったから、その……動揺!! 動揺してる! 動揺!!」 「いきなり言われたから、俺だって動揺してる」 「ま、晶也だって、あたしが晶也のこと好きだって知ってたよね?」 「知ってた……ような気がする」 「嘘でもいいからこんな時に曖昧な言い方しないで」 「知ってた」 「……い、いいよ」 「いいよって、な、何が?」 みさきは頬を強張らせたまま無理矢理、あはっ、と小さく笑った。 「だから、いいよ。ゆずってあげる。さっきのナシで、晶也が言っていいよ〜。あはははははっ」 「じゃ、そういうことにしてもらおうかな」 「う、うん」 「──えーっと。俺はみさきのことが……」 「あははははははははははははははっ」 「なんで爆笑?!」 「あははははははははははははははっ。これから晶也に告白されるのかと思ったら、き、緊張して、笑いがとまらなくなってきた。あはっ。あははははははっ」 「笑われたら言いづらいだろ!」 「あははははははははははははっ。あ、あたしも笑いたくないんだけどさ」 「…………」 俺はみさきの二の腕を掴む。 「…………」 「…………」 「……さわられた瞬間、ど、ドキンって鳴った。凄い音が体の中からした。今、あたし、心臓、壊れ、そう、な、な、なん、だけど……」 「俺だって同じだ」 「晶也の手が、熱いよ」 「みさきの腕だって熱い」 「どっちが熱いのかな?」 「両方だろ。あ、あのさ!」 「は、はひ」 「…………」 「…………」 目と目がバッチリと合う。みさきの目が潤んでいて……。引きずり込まれるような力があって、どうやって目を離したらいいのかわかんない。 「…………」 「…………」 見詰め合うことしかできない時間が続く。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 みさきの息が荒くなってる。 「あっ」 微かに震えた。 「どうした?」 「緊張しすぎて、ひ、膝が崩れちゃいそうだから……。その前に、い、言ってくれると、嬉しいな」 「うん。…………っ」 喉の奥が乾いていて、言葉がそこで引っかかってしまった。 無理矢理つばを飲む。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 「みさきのこと好きだ。付き合ってくれ」 「は、はひ。……りょ、了解」 「──キス、するから」 「ひへっ?!」 みさきの全身にギューッと力が入った。 「キス、するからな」 「うっ、うん。あ、ダメ!」 「キスするぞ」 「だ、だからダメだってば! はあっ、はあっ、はっ……呼吸。今、口で息、してるから。今、されたら、窒息して死んじゃう」 「キスで窒息死なんて聞いたことないぞ」 「で、でも……。はあっはあっはあっ……。口で息したまま、キスってできるの?」 「わかんないけど……できるよ、きっと」 「わ、わかった。だったら……いつでも、はあっ、はあっはあっ。キス……。うわ!」 「な、なんで悲鳴?」 「キスって言ったら、またドクンってなった。はあっ、つっ、はっ、はあっ、はあっ、心臓、壊れ、そう」 みさきを引っ張るようにして顔を前に出す。 「き、キス、いいよ?」 顔を近づける。 「ンッ」 みさきの唇に唇でふれた。その瞬間、みさきの唇がキュッとしぼんで、 「ンーッ。ンーッ、ふーふーふーふーっ」 みさきの鼻息が荒くなる。 「んっ、ンン」 唇を微かに動かす。 「ンーッ!」 ズキン、とした。 みさきの唇がやわらかくて……。 それに自分の唇が敏感で……。みさきの唇が気持ちよくて。 「ンー、ンー、ンー」 ──キスって気持ちいいんだ。 よくキスが気持ちいいって言うけど、あれは精神的な話なんだと思ってた。 だけどそうじゃないんだ。心の問題もあるかもしれないけど、それだけじゃなくて──。 唇と唇をあわせることが、その……。──肉体的に気持ちいいなんて知らなかった。誰も教えてくれなかった。 だから、凄くびっくりしてる。 みさきの唇の微かな震えがハッキリとわかる。 もっと……。もっとちゃんと唇で唇をさわったら、どうなるんだろう? 想像しただけで後頭部が溶けてしまいそうだ。 キスをしながらキスの想像をするなんて──。 自分がこんなにみさきを求めてしまうなんて。 上下の唇で、みさきの上唇を──。 「ンンンンンンッ」 くにゅ、と挟んだ。 「ンーッ! ンーッ! ンーッ!」 唇をかぷかぷするたびに、 「ンッ、ンッ、ンッ、ンッ」 みさきが苦しそうな息を漏らす。 なんてエッチなことをしてるんだろう。キスだけで、俺もみさきもこうなるなんて……。 何かに耐え切れなくなって、俺は顔を離した。 「ふっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 「はあっ、はあっあっ、はあっはあっ、ははあっ、ンッ、くっ」 みさきは捩れたような息を俺の顔に吹きかける。 「はーっ、はーっ、はーっ。あ、あのさ……」 みさきは怖々と苦笑して、 「なに?」 「はじめてのキスはもっと静かというか、穏やかというか……。軽くチュッとするのでよかったのでは?」 「そ、そうかもな。ンッ」 「ンッ」 軽く唇を合わせる。 「お、遅いよ?」 「順番が逆だったかな」 「か、かもね……。はあっ、はあっはあっはあっ。あっ、ダメ」 「ダメって何がだ?」 みさきはそれとわかるくらい全身を震わせて、 「晶也のこと好きだって気持ちが溢れてきて、とてもよくない感じが、する!」 「なんでそれがよくないんだよ」 「だ、だって恥ずかしいことを口走ったり、してしまいそうで、自分が恐い。こんなのはじめてだから。う、うあ〜。キスされただけでこうなる自分が恐い! 好き!」 「俺もみさきのこと好きだ」 「うあ〜。あんまり弱みは見せたくないのに! 言わずにいるのを我慢できない。だ、だ、大好き!」 「それは弱みじゃないだろ。強みにしてくれ」 「はあっ、はあっ、はあっ、はっ……」 みさきはポカポカと俺の胸を叩く。どんどんと胸に頭突きをする。 「もっと穏やかにできると思ってたのに……。キスしたらダメになっちゃった。あー、どんどん好きになる! これ以上、好きになってどうするの!」 「なってくれていいけどな」 「いいんだけど恐い。だってあたし面倒な性格してるもん」 「そんな自覚があるのか」 「だ、だから……。あたしどうなるかわかんないよ?」 「いいって。みさきの面倒なとこも全部受け止めるから……」 「カッコイイ! あーもー! こんなこと言いたくないのに! カッコイイなもう、晶也は!」 「なんで言いたくないんだよ!」 いきなり面倒な性格丸出しだな。 「もう一回、キスさせてくれ」 「これ以上、好きにさせてどうするつもりだ! もはや何かの犯罪なのでは?」 「もう一回しないとなんかいろいろ収まらない気がしてさ」 「……う〜。い、いいよ」 「今度は優しくするから」 「や、優しいキス?! くやしい! さ、されたい!」 なんで、くやしい、が間に挟まるんだよ。 「するぞ」 「う、うん」 優しいキスなんてどうしたらいいのかわからない。だけど──。 白瀬さんがいじったグラシュを履いたみさきみたいに、ゆっくりと動けばいいんだと思う。 ゆっくりとすれば、きっと、気持ちが伝わるから。俺はみさきに優しくしたいと思ってるから。 だから、ゆっくりすることが優しいことだと思う。 「ンッ」 時間をかけて、唇を重ねて、ゆっくりと動かす。 「……ふー、……ふー、……ふー、……ふー」 みさきの鼻息もさっきよりゆっくりだ。 顔を離す。 「好きだ、みさき」 「う、うん。あたしも……好き」 みさきは顔を真っ赤にしてうなずいた。 「あ、あたし離れないから……。だから、その……お願いします」 「こ、こちらこそお願いします。お付き合いしてください」 「は、はい」 真剣にみさきはうなずいた。 「はっ……。ンッ。くっ、やっ!」 「くぅ。えっ? ンンンンッ!」 みさきと覆面選手が交差するフィールドを白瀬さんは眩しそうに見上げて、 「いや〜、ここ一週間でみさきちゃんの動きは随分よくなったね」 「そうですね。よくなってます」 「全速力の俺を三回に一回は止めるようになってるからな」 「スピーダーを止める能力はかなりついたね。セカンドラインの乾選手なら充分に止められるんじゃないかな」 「ですね。そこはいいとして……」 「問題なのは上のポジションを取られた時に、下からどうやって返すのかってことだよね」 「ですね。今のままだと上を取られたら即、ショートカットですからね」 「上を取られるたびにショートカットするのが乾の作戦の完成系とは思えない」 「ですよね」 それが完成系だとしたら、接戦になることはできてもみさきに勝ち目はないのだ。 なぜなら、みさきは最初にショートカットするから、最初に乾に1点。0対1。 セカンドラインでみさきが上のポジションをとって、乾がショートカットすれば1対1。 サードラインでショートカットしてきた乾が上のポジションで、みさきがショートカットするから1対2。 フォースラインでショートカットしてきたみさきが上で、乾がショートカットするから2対2。 ファーストラインでショートカットしてきた乾が上で、みさきがショートカットするから2対3。 ドッグファイト不可なファーストラインでの1点が、ずっと後を引きずってしまう。 「やっ! たっ!」 「だっ! 絶対、押さえる!」 今回は前回と違ってグラシュの設定を戻して、下から上を取る方法をいろいろ試しているのだが、やはりどうしても上昇して突破という強引な方法になってしまう。 右へのフェイントを入れてから左から上昇。 もしくは、そういったフェイントをばら撒き、覆面選手のバランスを崩してからリバーサル。 そういったテクは何回かに一回は成功して、上のポジションを取るんだけど……。 「やっぱりこの方法だけに頼るのは危険だよね」 「ですね。奇襲としては使えるでしょうけど……。何か正攻法があると思うんです」 「──発想を変える必要があるんだろうな」 「発想、ですか」 「上のポジションをキープするだけで圧倒的有利になる、という単純なことにみんな気づかなかったんだ」 「単純なとこに答えがあるんじゃないか、というわけだね」 「だと思いますよ。どうして気づかなかったんだろう? と思うようなことなんじゃないですかね?」 「どうして気づかなかったんだろう……ですか」 部長の言うとおりなのかもしれない。 「はあ、はあ、はあ、はあ……」 荒い息がヘッドセット越しに聞こえる。みさきの肩が上下している。 ──もし、明日香がこの練習をしてたらどうなっただろう。 そんな風にみさきと明日香を比べちゃいけないって、わかっているのに……。 「はぁっ、はあっ、はあっ……」 思考をとめることができない。 もし明日香なら咄嗟の閃きで、あの状況を突破する方法を思いつくのかもしれない。 明日香はそれができるタイプだ。俺の想像を超えた飛び方ができる選手だ。 みさきにはそれができるのだろうか? ──だから、そういうとこで比べちゃダメだって。 みさきにはみさきの良いところがあるのだ。それを引き出すのが俺のやることだ。 「ん?」 不意に部長が斜め後ろを見た。 「どうしました?」 「……あれは真藤じゃないのか?」 「え?」 「あー、本当だね。あれは真藤くんだ」 真藤さんは軽い足取りで、こちらに向かってくる。 「やあ、こんにちは」 「どうも、こんにちは。どうしたんですか?」 「俺と勝負をしに来たのに決まってるぜ。夏の大会が終わったとはいえ部長同士、正々堂々と勝負だ!」 「今の青柳くんとやるのは恐いからやめておくよ。負けてしまいそうだ」 「ふっ、ぬかしおる」 「それに青柳くんはFCをやめるわけじゃないんだろう?」 「当然ッ! まだ光速の壁を越えていないからな」 「それは良かった。これからもどんどん励んでくれ。……楽しみにしてるよ」 お互いにどこまで本気で言っているのかわからない会話を終えて、真藤さんが俺に近寄る。 「今日はどうしたんですか?」 「うん。話したいことがあってね」 真藤さんは小さくため息をつき、チラリと空を見上げ、 「うわっ?!」 電気を流されたみたいに、びくんっ、と大きく仰け反った。 「ど、どうしました?」 「な、謎の覆面選手! 覆面をかぶっているのに強くもトリッキーでもない、謎の覆面選手じゃないか!」 「あんまりかわいそうなこと言わないであげてください」 強さはともかく、覆面を被っているのにトリッキーじゃない、というのはガッカリポイントではあるだろうけど……。 「実力はまだまだですけど、凄く真面目に練習に取り組む選手です」 言動にエキセントリックなとこがあるけど、真剣に練習に取り込む姿には頭が下がる。 「そういうことだったのか」 「……いったい何を理解したんですか?」 「覆面はキミの策略だったわけだ。いったいどういう結果を出すつもりの策謀なのか教えてくれないかな?」 「策略も策謀もしてません」 「ふふふ、あんな奇抜な選手と一緒にいるのに、その言葉を信じると思うかい?」 「本当に覆面選手の正体さえ俺は知りません。白瀬さんに、みさきの練習相手の相談をしたら、連れてきてくれたんですよ。ですから、質問は白瀬さんへ」 「言っておくけど、僕だって覆面選手が何者か知らないよ。たまたま知り合っただけだからね」 真藤さんは俺たちを斜めに見て、 「2人でいったい何を企んでいるんですか?」 「何も企んでません」 「白瀬さんなら何をしても不思議じゃない気がしますよ。なんせ、僕にとっては神様の一人ですから」 「あはははっ、あまり買いかぶらないでくれよ」 「真藤。二人が何を企んでいようが気にするな。それよりもっと大切なことがあるだろう?」 「もっと大切なこと?」 部長はぐぐっとポージングを決めて、 「三角筋の鍛えこみが甘いんじゃないか?」 「そ、そうかな?」 真藤さんは自分の肩を掴んで確認する。 「FCでも方向転換などで腕を投げ出すように動かす場面は多い。その時に三角筋の鍛え方が甘いから負けたんじゃないか、そう後悔したいのか?!」 「いつだって後悔はしたくないけど……」 「ふむっ。ちょっとさわってもいいかな?」 「白瀬さんがそう言うならいいですが……」 「なるほどね」 横から部長も手を伸ばして、 「ふむふむ、なかなかいい感じな広背筋」 「う……ふはっ。な、なんだか触り方が……」 「ちょっと固いな。リラックスしようか? じゃないと筋肉の質がわからないからね」 「あ、はい。……ん、うぐっ、ふっ」 部長と白瀬さんが容赦なく真藤さんの全身を撫で回す。 「なかなかいいぞ、真藤。俺たちマッスルブラザーズに入るんだ」 「え?」 「……そんな名前があったんですか」 「うわ?! なにこれ? どういう状態? そういう状態? ああ、真藤さんまで……そういう人だったなんて」 いつの間にか降りてきていたみさきが悲痛な声を上げる。 「いや、鳶沢くん。これはだね……」 「真藤はもう渡さんぞ」 「いや、おふたりの仲間だったことがショックなだけで、欲しくはないんですけど」 みさきはがっくりとうなだれて、 「はー。こんなんじゃ、晶也がムキムキ星人になってしまうのも時間の問題か」 「あのな……」 「晶也さんがムキムキ星人! それはそれでいいと思う!」 「ええっ?!」 「覆面さんは、わりと筋肉好きですか?」 「それはそれで!」 「まー、セクシーかも〜」 「せ、セクシーとか言うな、恥ずかしいではないか! 死ぬがよい!」 「善処します」 いつものやり取りが出たところで俺はパンパンと手を叩いた。 「はいはい。みんな無意味に混乱する方、混乱する方へと話を転がさないように。で、真藤さん。今日はどうしたんですか?」 「日向くんと鳶沢くんが別行動をしてると聞いてね。気になって見に来たんだ。どうして僕に声をかけてくれなかったのかな?」 「スミマセン。当然、考えてはいたんですけど、あんまり事を大げさにしたくないな、と思いまして……」 部長や覆面選手なら問題にならないだろうけど、真藤さんレベルの選手を呼んだら問題になるかもしれない。 真藤さんを呼ぶことで変に話題になって、ウチのFC部が分裂してると知られてしまえば、想像できない問題が発生するかもしれないからだ。 それに、高藤の人たちにも申し訳が立たないし。 「もっとも呼ばれても僕は参加できないけどね」 「え? どうしてですか? 参加してくださいよ」 「ウチの学園で倉科くんが練習してるからね。僕は倉科くんとも練習試合をしないようにしてるんだ」 「どうしてですか?」 「だって鳶沢くんと倉科くんが試合をすることになった時、僕が勝敗に関わったらよくないと思うんだ」 「考えすぎじゃないですか?」 「いや、こう見えて僕は口が軽くてね」 「あ、そういうことですか……」 「そういうことだよ」 ──対明日香の練習、対みさきの練習。 それを相手に漏らしてしまわないように、ということだ。 「それはそれとして見せたいものがあってね」 「見せたいものですか……」 真藤さんは手にしていたバッグの中からノートパソコンを取り出しながら、 「倉科くんの試合の動画」 「明日香の……」 「…………」 視界の片隅で、みさきがキュッと拳を握ったのが見えた。恐い気がして、確認できない。 「で、対戦相手は誰です?」 「見せに来てくれた、ということは佐藤院さんや市ノ瀬ちゃんじゃないですよね」 「乾沙希くん」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 「葵さんが明日香にドンドン練習試合をしろって言ってたけど。乾はそういうのを受けてくれるのか……」 ──もしできるなら、思い切ってこちらから乾に練習試合を申し込むのもそう悪い選択じゃないかもしれない。 「いや、倉科くんからお願いしたわけじゃないよ」 「ということは乾から?」 「そういうことだね」 乾が明日香のことを気にしていた? いや、気にしていたのはセコンドのイリーナさんか……。 夏の大会の時、変にからむようなことを言ってたからな。 「突然、ウチの学園にヘリで乗り付けてきてね」 「ヘリ?!」 「ヘリ?!」 「ヘリ?!」 「ヘリ?!」 「ヘリ?!」 「はははは、凄い話だよね」 「凄くなんかないぞ。ヘリじゃどれだけ努力しても光速を超えられないからな」 「光速を超えられるのは部長だけですよ」 「わかってるな、日向!」 「プライベートでヘリを使うなんて、乾ちゃんはお金持ち?」 「僕も詳しくは知りませんけど、お金持ちなのはイリーナくんなんでしょうね、きっと」 「白瀬さんなら乾のこと知ってるんじゃないですか?」 「ずっと気になってはいたけど……。仕事柄、関係者と話すことが多いからFCの情報は店にいるだけで入ってくるんだけどね。ふ〜ん、ちょっと調べてみようかな」 「それでヘリで乗り付けてどうなったんですか?」 「倉科くんと試合をさせろって言ってきたんだ。合宿以降、倉科くんはウチで練習することが多かったからね」 ──練習相手が真白しかいないんじゃ、そうなるか。 俺とみさきが抜けたせいだな……。 後悔なのか自責なのか害意なのか嫉妬なのか自分でもわからない鈍痛が全身に広がる。 脳裏に明日香の笑顔が思い浮かぶ。FCをするのが好きで好きでたまらないって顔。 鈍痛を吐き出すように息をする。どうせ後戻りできないのだ。それならこんな感情は抱えているだけ無駄だ。 ──今はみさきのことだけ考えないと。 そうしないと、みさきにも明日香にも失礼だ。 「各務先生は反対したけど、倉科くんは是非やりたいと」 「乾のセコンドはイリーナさんがやったんでしょうけど、明日香のセコンドは誰です? 葵さん?」 「イリーナくんは各務先生でもいいと言ったのだけど、片方のセコンドが教師なのは不公平だからね。各務先生は実績のあるスカイウォーカーでもあるし」 「じゃ、真白がやったんですか?」 「ウチの佐藤くんだよ」 「佐藤くん? ──あ、佐藤院さん」 「あの2人はやけに気が合うようでね。佐藤くんは倉科くんに入れ込んでるよ。作戦も2人でよく考えているようだしね」 あの後、意気投合したのか……。負けを認めて仲良くなれるって、佐藤院さんの器はでかいな。 そういうのっていかにもありそうで、意外とない話。 「それで試合はどうなったんですか?」 「それを今から見せるよ。変わった試合になった」 真藤さんが動画を再生した。 「…………っ!」 動画を見終えたみさきは絶句する。 「…………う」 黒くなったモニターをじっと見つめていた。 「どうだった?」 「…………あ、あの」 呆然としていたみさきは真藤さんの問いかけに、何度か口をぱくぱくさせてから、 「……これは。その、これって」 みさきは覆面選手を見る。 「覆面達の練習と同じだ」 「うん。同じだ」 「なるほどね。鳶沢くんもここまでは達しているわけだ」 試合内容はこうだった。 ファーストラインで明日香はショートカット。乾がブイにタッチで1点。 ラインに沿って高速で飛ぶ乾を明日香が体で止める。止められた時の反動を利用して乾が上のポジション。 明日香はそれを確認してすぐにショートカット。乾がブイにタッチして0対2。 明日香はラインにそって飛ぶ乾をすぐに抑えることが可能な高さで待機。乾は軽く上下に飛ぶのに合わせて明日香も高さを変える。乾はそれを確認して、即座にフォースラインへショートカット。 明日香がブイにタッチして1対2。 以降、上のポジション取られたら即ショートカットの展開。 最終的に5対7で乾の勝利。 「僕たちの方向性は間違ってなかったということかな?」 「そうかもしれませんけど……。だけど、これはおかしいです」 「まず2人の雰囲気が異様だったな」 「ですよね」 異様な理由──それは。 みさきが微かに喉を鳴らしてから、 「──2人とも隠し事してる」 「だろうね。隠してるからあんな試合展開になる」 「もし何も隠してないとしたら、明日香はあんな試合しません」 「これは明日香らしくない試合だと思う」 点数で下回っているのに必死の抵抗をせず、あっさりとショートカットするわけがない。 明日香が本気なら2点差を埋めるためにもっと足掻くはずだ。 「この死ぬがよい2人は何を隠しているんだ?」 「物凄いまとめられ方されちゃったな……」 「下のポジションを取った後の対応だね」 「やっぱりそう思いますか」 「真藤さんも思いましたか」 「思うよ。秋の大会のために2人とも手の内を見せなかったんだろうね」 「──秋の大会」 みさきの目に焦りがよぎった。 「将来有望な倉科くんを潰しておくのが乾くんの目的だったようだけど、それは失敗したね」 「お互いに手の内を出さないんじゃ、潰す潰さない以前の問題ですからね」 互いに、ここまでできる、ここまで理解している、というのを見せ合った。 そして互いに、ここから先の展開、理解したことへの答え、それを見せないように隠した。 「──今、問題なのは下からどうやって、ポジションを奪い返すのかってことですよね?」 「僕も考えているんだけどね。まだ言えるような段階じゃない」 「明日香か佐藤院さんに質問しなかったんですか?」 「あえて聞かなかった。それを聞いてしまったら……。僕は日向くんや鳶沢くんに伝えてしまう誘惑に苦しんでいたかもね」 真藤さんは軽く肩をすくめて、 「それはフェアなことじゃない。もちろん、それがどんな作戦かは興味あるけど……」 みさきはわざとらしく唇を尖らせて、 「ぶ〜ぶ〜。あたしにこっそり教えてくれればよかったのに〜。真藤さんの意地悪〜」 真藤さんは苦笑しながら、 「そういうわけにもいかないよ。でもこの試合はウチの部員は全員見ているから、いいだろうと思ってね」 「見せていただいてありがとうございます。とても参考になりました」 「今日はこれを伝えるために来ただけだから」 真藤さんはバッグにノートパソコンを入れる。 「練習を見て行かないんですか?」 「鳶沢くんは秘密特訓の最中だろう? ここで見たものを他の人に言わないよう、見ないことにするよ」 「そんな大げさなものじゃありませんよ〜」 「だとしても、今日のところは見ないでおくよ。それじゃ」 「あの、真藤さん。ちょっといいですか?」 「なんだい?」 「立ち話も悪いので歩きながら話しませんか?」 「わかった」 「みさきと覆面選手は今までの練習の続きをしておいてくれ」 「りょ〜かい」 みさきは少し不満そうにつぶやいた。 「このくらい歩けば誰にも絶対聞こえないと思うよ。僕に聞きたいことって何かな?」 「みさき、明日香、乾の三人と試合をしたことあるのは真藤さんだけです」 「気づかなかったな。……言われてみればそうかもね」 「もしよかったら感想を教えてくれませんか?」 「……日向くんは僕から何を聞きたいのかな?」 「感想ですよ。それだけです」 「難しい質問だね。簡単に答えられるのは乾くんだ。乾くんとの試合の感想はサッカーだと思ったら野球だった、だ」 「言っている意味、わかります」 「もしくは剣道の試合だと思ったら拳銃をつきつけられたかな? 違う競技が始まってびっくりしたよ」 イリーナさんが似たようなことを言っていた。明日香と真藤さんの試合はFCじゃないって。 「よくすぐに乾に合わせることができましたね」 「必死だった。異様で異質で、自分の持っているものでは、足りない、とすぐにわかったからね」 ──そう判断できるのはさすがだ。 「優勝できなかったのは残念だったけど、それ以上にショックを受けた試合だった」 「こんな質問していいのかわかりませんが……」 負けた試合のことについてしつこく聞くなんて、失礼だけど、聞いておきたかった。 「試合後どういう気持ちでしたか?」 「自分のやってきたことを否定されたも同然だからね。──FCをやめようかと思ったよ」 「……その気持ちはよくわかります」 負けた時の気持ち。自分より優れたものを見た時の気持ち。 現実から逃避したくなる。 「どうしてやめなかったんですか?」 「面白いと思ったんだ」 それは、明日香と同じような考えで、俺が到達できなかった感情なのかもしれない。 「FCはこんな風に、根本的に何かが変わってしまうことのある歴史しか持っていないスポーツなんだと思うと面白くないかい?」 「…………」 「僕たちがFCそのものを作ってるんじゃないか。変革の時期にFCができるなんて幸運だよ。10年後のスカイウォーカーはきっと完成されたFCをしてる」 「かもしれませんね」 「だけど僕達の世代は試行錯誤してFCを作らないといけない。何かが大きく変わっていくモノに自分が参加しているのは幸運だと思わないかい?」 ──やっぱり明日香は凄いんだな。 改めてそう思った。 真藤さんの意見と明日香の意見はほぼ一緒だと思う。だけど、違うのだ。 真藤さんのはFCをやめようかと思うくらい悩んだ末での結論。 仮に今までの自分の技術が使えなくなることがあるとしても、事件の渦中にいるのは凄い。 きっと、自分にそう言い聞かせたんだと思う。 だけど明日香は違う。真藤さんと乾の試合を見た直後に──。 ──直後に。 ドキドキしていたのだ。 「明日香のことはどう思いましたか?」 「試合中にあんな風に伸びる選手ははじめて見た。どんどん追いついてくる倉科くんに……。ん〜難しいな。恐さや悔しさもあったけど、喜びもあったね」 「……喜び」 「何かが成長していくのを見るのは楽しいからね」 皮肉や強がりでなく、本気でそう思っているのかな? いや、そう思っているのだろう。俺だって成長するみさきを見るのは楽しい。 「才能のある選手だけど……。もしかしたら、脆いところがあるかもしれないよ」 「脆い、ですか……」 「そこをちゃんとフォローできれば凄い選手になるんだろうね」 明日香の脆いところをフォローする。 ──俺がすべきだったんだろうけど今は無理だ。 明日香のこと嫌いなわけがない。男女のそういう意味じゃなく、好きだし尊敬だってしてる。 だけど、選ばなきゃいけなかったんだ。あの時の俺はみんなのコーチをできる精神状態じゃなかった。わかっているのに──。 みさきを選んだこと、後悔していないのに……。 鈍い痛みが全身に広がっていく。 ──明日香は今、どこでどんな練習をしているんだろう。 感情がぐるぐると渦巻く。 「みさきはどうですか?」 「それを一番、聞きたかったんじゃないかい?」 「そうですね。……そうです。みさきはどんな選手ですか?」 「鳶沢くんは……」 真藤さんは数メートル手前に視線を落として、言葉を捜すような沈黙をしてから、 「面倒な選手」 「面倒、ですか……。それはどういう意味です?」 「まず普通にコーチをするのが面倒だろうな、と思うよ」 「そんなことが試合でわかりますか?」 「頑固なとこや気の強さが見えるからね。そんな選手のコーチが楽なわけない。でも僕の言う面倒はそういう意味じゃなくて……」 「…………」 「鳶沢くんと試合をするのは、面倒だ、という意味だよ」 「みさきが面倒な相手……」 「乾くんの強さは驚き。倉科くんの強さは楽しさ。鳶沢くんの強さは面倒だ」 「驚き、楽しさ、ときて面倒ですか。みさきだけネガティブな言葉ですね」 「はははは、そうかもしれない。だけど違うよ。ネガティブな意味じゃないんだ」 「はい」 「鳶沢くんは細かなテクが上手だからね。対抗するのが面倒だ」 「テクとは言ってもみさきはそういうのを習ったというより、直感的にやっちゃってるんですけどね」 「だろうね。それは前の合宿の時に超接近戦をした時にわかった。ああいうのはそう練習することじゃないからね」 「……みさきは面倒な選手か」 「大きな枠じゃなくて、小さな枠にはまった時は、圧倒的に強いんじゃないかな」 「──小さな枠にはまった時ですか。ドッグファイトという意味ですか?」 「当然、ドッグファイトも含むけどそれだけじゃなくて……。小さな範囲の中で試合を展開させたら強いと思うね」 「狭い範囲」 「乾くんはフィールドを広く使うことで圧勝するだろう。それとは逆の方法が鳶沢くんにはあるんじゃないかな?」 そういえば、はじめて真藤さんと試合をした時も、真藤さんに正面から近づいて次々と攻撃をかわした。市ノ瀬との試合の時も小さく狭い動きで完封した。 「言われてみれば……」 作戦を考えるきっかけを聞かせてもらった。 「最後に……答えにくいかもしれないし、質問自体がバカバカしいものかもしれないんですけど、していいですか?」 「どうぞ。日向くんから質問してもらえるなんて光栄だからね」 「変におだてないでくださいよ」 「素直な気持ちさ。それで質問は?」 「明日香に才能があるのは誰が見てもそうだと思います。明日香と比べて……みさきはどうですか?」 「まず才能のあるなしなんて、そう簡単に答えを出せるものじゃないと僕は思う」 「……はい」 「練習して、練習して、試合で経験をつんで……。そこでようやく才能を比べられると思う」 「それはわかってます」 物凄い練習の果てに、一気に何かを掴む選手もいる。最初の練習で一気に何かを掴んで、それから掴めない選手もいる。それは同価値だ。 どこで誰が何を掴むかなんて誰にもわからない。だから才能のあるなしは簡単に言えない。 「ただ僕の経験で言わせてもらうなら……鳶沢くんは天才だよ」 「…………」 一瞬。目の前が暗くなった。 ずしん、と。下半身が地面にめり込むような気がした。 それが安心感だってわかるまでに時間がかかった。 ふわふわしていた感情があるべき場所に落ち着いた。そんな気持ちだ。 「…………」 真藤さんがうなずいたのを見て、肩が微かに震えた。 喜びとしか言いようのないものが、全身に広がっていく。頭の天辺から足のつま先まで、喜んでいる。 ──そうだ。みさきは天才なんだ! 自分に言い聞かせる。 誰かにそう言って欲しかったんだってことに、言われて気づいた。 「ふふ、にやけてるよ」 「そんなことないです」 「まあ、誰が天才で誰が凡才かなんて、僕らの年齢じゃまだわからないんじゃないかな」 「持ち上げておいてそんなこと言うんですか?」 「僕が言いたいのは鳶沢くんは天才だって信じてあげたほうが伸びるんじゃないかなってことなんだ」 「──信じる、ですか。それは俺がということですよね?」 「そう、日向くんがだよ。天才だと信じてあげればそれに応えようとして伸びる。今できないことでもいつかできる、という自信につながる」 「褒めて伸ばせってことですか?」 「違うよ。天才相手には天才を育てる時の育て方をした方がいい、という話だよ」 「つまり、天才肌ってことですか?」 「肌じゃない。誰かに天才だって信じられることで伸びる選手は、ただの天才だよ」 「…………」 なんて、その──えっと……。なんて、気持ちのいい意見だろう。 俺が揺らいでいたから、みさきはああなってしまったんだ。 みさきがFCから離れようとしたのは、俺が信じてなかったからだ。 俺は葵さんに信じられていたから──。それなりに伸びることができたんじゃないのか? そんなことも理解しないでコーチをやってたのか……。 後悔、痛み。 泣き出したくなるような感情があふれてくる。 白瀬さんや葵さんがみさきに対して辛辣なことを言っていたのも裏を返せば同じことなのだ。 みさきがダメな選手だとしても信じられるのか? それをする覚悟があるのか、という問いかけだったのだ。 みさきに対する言葉じゃなくて、俺に対する言葉だったんだ。 あー、くそっ! 白瀬さんや葵さんに悪意があったわけじゃない。そのくらいのことはわかる。 俺に考えさせて俺を育てるつもりだったんだ。 気持ちがぐるぐるする。 「ありがとうございます。ありきたりな言葉しか言えなくて、スミマセン」 「アドバイスになったならよかった」 「本当にありがとうございます。俺が救われました」 「大げさだな」 「少しも大げさじゃないですよ」 真藤さんとの会話でいろいろなきっかけを掴むことができたのだ。 俺は真藤さんに頭を下げて、 「やっぱりみさきの練習相手をしてやってくれませんか」 「秋の大会が終わってからならいいけどね」 それでは遅い。 「そんなにガッカリした顔をしなくてもいいじゃないか。……日向くんの練習相手ならいつでもいいよ」 「俺の? 俺はいいですよ」 「そんなこと言わないでくれよ。待ってるからさ」 真藤さんは顎を引いて真剣な面持ちで言った。 ヘッドセットに向かって叫ぶ。 「もっと速く! もっと速く! グラシュの加速能力を限界まで搾り出せ! みさきならできる!」 「にゃぁぁぁぁぁぁぁッ!」 みんなの都合が悪くて、みさきと2人っきりの練習。今日はフィールドフライを徹底的にやってもらう予定だ。 「もっと出せるはずだ。行ける、行ける、行ける!」 「くにゃぁぁあぁああぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁああぁぁっ!」 水面と水平になるくらいの前傾姿勢でスピードを上げる。腕と首の筋肉がガチガチになっているのが見ているだけでわかる。 「つらいだろうけど、ここを乗り越えたら絶対に強くなるぞ」 「ふんにゃぁぁあぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ!」 ファイター用のシューズは加速が弱い。 みさきのグラシュはインベイドのレーヴァテイン。 初速はかなり速めで、加速はかなり遅め、という典型的なファイター用のグラシュだ。 ただ一般的なことだけど、グラシュはカタログスペック通りには飛ばない。なぜなら履く人の姿勢に大きく左右されるからだ。 中にはファイター用に開発されたのに、オールラウンダー選手に人気になってしまったミズキの炎翔シリーズというのもある。 みさきの履いたレーヴァテインの最高速はどこか? 何秒で最高速に達するのか? それを知りたかった。 例えば、20秒逃げれば勝ちという場面で、相手よりラインの前方にいる場合、ブイを狙って全速飛行するか、相手の行く手を塞ぐのか? 例えば、残り時間20秒で1点を取れば勝ちという場面で、ブイと相手の背中のどちらを狙うのか? そういったギリギリでの判断材料になる。 「ふにゃぁあぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁ!」 「まだ行ける、まだ行ける!」 そう言って発破をかけるけど……。 ──この辺りが限界かな。 すでに、靴の性能をみさきは限界近くまで引き出しているはずだ。ここから先は努力だけではどうにもならないだろう。 「よし休憩!」 「ふはあ〜〜〜〜〜〜〜っ」 脱力したみさきが慣性でフィールドを離れて、ゆっくりと回転しながらあらぬ方向に流れていく。 「はー、はー、はー、はー」 「大丈夫か?」 「だいじょーぶ、だいじょーぶ。疲れただけだから〜」 高速で飛びすぎたか……。 ファイターのみさきが苦手とするところだからな。 「とりあえず降りて来て水を飲めよ」 「うあ〜……。行きたいけどとてもそこまで飛べない〜」 「わかった。そっちに水を持っていってやるから、あんまり流されないようにな」 「お菓子も〜。あたしのバッグの中に入ってるから」 「お菓子か……」 あんまりポリポリ食べて欲しくないんだけどな。 「ちょっとくらいいいじゃん。体作りにも疲労回復にも砂糖は必要だって晶也が言ってた」 「確かに言ったけど……」 アレはスポーツドリンクに入っている砂糖のことで、お菓子の砂糖は……どうなんだろう? ……まあ、みさきの言うとおりちょっとくらいはいいか。 ただでさえストレスの溜まる練習をしてるのに、お菓子まで禁じるとストレスが溜まりすぎ状態になるかもな。 蓋をしたドリンクボトルとお菓子を持って、 「FLY、と」 グラシュを起動する。 「うーあー、……はー、はー、……はー、はー」 両手両足を脱力させて、だらしなく浮かんでいる。 「お疲れ様。まずはドリンクからな」 みさきは姿勢を垂直に戻すと真剣な声で、 「いや、まずはお菓子から!」 「……口の中カラカラじゃないのか?」 「だから何?」 「いや、何って単純に食べづらいだろう」 「そのくらいであたしのお菓子欲を邪魔することはできないのだ。死ぬがよい!」 「善処します。わかった、わかった。どんな順番で食べてもそれはみさきの勝手だよ。投げるからちゃんと受け取れよ」 「はいは〜い」 直接、手渡ししたらお互いにメンブレンが反発してしまうので、何かを渡す時は投げるしかない。 みさきの胸元めがけて軽く投げる。 「うあー食べたかったー。お腹へったー。いひひ〜。今、食べてあげますからねー」 蓋を開けて、ぽりぽりと細長い焼き菓子にチョコレートをコーティングしたお菓子を口に含む。 「きゃあー! 疲れてるからいつもより甘く感じる! はー、この一本のために練習してる」 「そのために練習してたのか……」 サウナかゴルフの後のおっさんみたいだな。 「水分が足りないから口の中でもそもそして飲み込みづらいけど、それがまたいいんだよねー」 「マゾい発言だな」 「何をおっしゃいますやら。あたしなんかまだまだだよ。上級者になると粉状のおかしが、喉の奥にへばりつく感触を楽しむらしいからね」 「……それってどういうジャンルの話なんだ?」 まったく想像できない。なんであれ上級者すぎるということはわかるけど……。 「ンンンッ。やっぱり限界! 水をおくんなまし!」 「おくんなましってどこの方言?」 そう言いながらボトルを投げ渡す。 「さあ? おばあちゃんの見てる時代劇でよく聞くけどね」 どうでもいい会話をしながらみさきはボトルの蓋を開けて、 「んくっ、んくんくんくんくんくんく……。ぷっ、ぷは〜〜〜〜」 一気に飲み干して、 「は〜い。お返ししま〜す」 「ほい」 みさきの投げたボトルを落とさないように両手で受け取る。 「……はー」 「疲れがたまってきたか?」 「それもあるけどさー」 「どうした?」 「んー」 みさきは水平線をじっと見つめる。 俺はみさきの視線を追って、 「……何か見えるのか?」 特に変わったところはないような気がするけどな。 「んー……。UFOが群れで飛んでるなー」 「あー、そっか……?」 飛蚊症か? と言おうかと思ったけど、なんとなくやめておく。 もちろん水平線のどこにもUFOの姿なんかない。 「UFOにいろんな形があるって知ってた?」 「知らない」 「アダムスキー型とか葉巻型とか。父さんが古いUFOの本を持っててそれを小さい頃読んだから知ってるんだー」 「へえ」 「UFOって未確認飛行物体だからね。空を飛んでる未確認なものは全部UFOなんだよね」 「……そういえばグラシュの技術って宇宙人が地球人に伝えたって都市伝説があるな」 「それは知らなかったなー」 「……で、何を言いたいのかそろそろ言えよ」 「……UFOが群れをなして、ここに来ないかなー、ということなんだけど」 「この話はこれで終わりでいい?」 「コーチとして彼氏として、選手や彼女の内容のない会話につきあう能力が必要だと思いまーす」 「……で、なによ?」 「はー、もー。そういうとこ冷たいんだからなー。あのさ……。隕石が落ちてきたらいいのになって、思ったことない?」 「……隕石ってその筋の人に凄い高値で売れるって聞いたことあるよ」 「マジで?! 早く落ちてこないかな、隕石」 「待ちぼうけの歌に出てくる、間抜けなうさぎの出現を待つおじいさんか、みさきは」 「いいよね、あの歌〜」 「早く本題に入れよ!」 「もう入ってる! さっきからずっと入ってる」 「UFOと隕石の話がか?」 「UFOが現れてFCなんかやってる場合じゃないってことにならないかなー」 「…………? UFOからUとOを取ってCを加えたらFCだな」 「わお! 大発見だ! やはりアメリカ政府の陰謀かね、日向くん?」 「だろうな。そう考えて間違いないと思うぞ。で、隕石がどうしたのか言えよ」 「隕石が落ちてきてさ。軽い骨折レベルの怪我をしたいなーって」 「…………………………………………なにを言ってるんだ?」 「そういう現実離れした話じゃなくても。例えば秋の大会の会場に石油が噴出して使用不能になるとか」 「それもかなり現実離れしてるけどな」 「道を歩いてたらバイクが突進してきて足の骨が折れちゃうとか」 「ん〜? 怪我したいのか?」 「そうだね。うん、怪我をしたい」 「そんなことを真顔で言われてもな。怪我をしないように気をつけるって話なら完全に理解できるんだけど」 「正確に言うと、自分にまったく落ち度がない理由で怪我したい。あたしのせいじゃなく、大会に参加できなかったり、大会が中止になったりしないかって、思う」 そう説明されて、ようやく理解できた。 「そういうことか……」 「晶也にあたしの気持ちわかる?」 「わかる。俺もよくそういうこと考えてたから。海の向こうから巨大な怪獣が現れて、全部を滅茶苦茶にしてくれないかなって思ってた」 「それ、いいねー。でも現実的じゃないかな〜」 「まあ、隕石や石油の方が現実的かもな。試合が不安なんだろう?」 「……うん。そうだね、うん。そうだよ」 そもそも勝つのか負けるのかわからない。しかも相手が何をするのかわからない。だというのに相手の前に立たないといけない。 それなのに試合会場に行かないといけない。 全部から逃げ出したくて、軽く病気にならないかなって、思ったことあった。試合ができたとしても負けたことを病気のせいにできる。 「勝ち負けのある勝負をする人なら、みんな一度は思ったことあるんじゃないかな。よくある気持ちだよ」 「そっか。これはよくある気持ちか……」 「試合から逃げたいんだろ?」 「逃げたい。FCをやめたい」 「あのな〜、覚悟を決めたんじゃなかったのか?」 「決めたよ! 決めたから練習してるし、練習が休みの日だって、シトーくん達と試合をシミュレートしてるし!」 「それはよくわかってる」 「だったら覚悟を決めたんじゃなかったのか、なんて意地悪なこと言わなくてもいいのに!」 「意地悪だったか?」 「意地悪に決まってるじゃない! 覚悟決めて練習をしてるから。もしそうじゃなかったら、こんな気持ちにならない!」 「そうだな」 覚悟を決めたから。本気で立ち向かおうとしているから不安なのだ。 「ごめん、あやまるよ」 「あやまって!」 「もう、ごめんって言っただろう」 「う〜〜〜〜〜っ! あ〜〜〜〜〜! ぐるぅぅぅぅぅぅぅ」 「獣みたいな声を出すな」 「グラシュが故障して、秋の大会に参加できないくらいですむ怪我をしたい! カモン」 「思っても口にするもんじゃないぞ」 「晶也以外の人にはこんなこと言わない!」 「そんなことを力強く言われてもな」 「乾さんは……。明日香は……。今、どんな練習して、夏の大会から、どのくらい成長したんだろう?」 「…………」 「あたしはまだ下からポジションを奪い返す方法さえ見つけていないのに……」 「いつか必ず見つける」 「あ、あたし! 夜寝る時もずっとずっとFCのこと考えてる!」 「俺も似たようなもんだよ。FCのこと考えてる」 「違う! 晶也が考えてるのはあたしのFCのことで、あたしが考えてるのはあたしのFCのことだもん」 「だから同じだろ」 「違う。勝ったり負けたりするのはあたし」 「そうだな」 どんなに俺がみさきの肩を持ったって、応援したって、勝ったり負けたりするのはみさきであって俺じゃないのだ。 「覚悟を決めて、部のみんなから離れて、一生懸命練習して、晶也だけでなく白瀬さんや部長や覆面さんに助けてもらって、それで……。それで……。それで……。もし……」 「…………」 びくっ、と震えた。 「もし……。…………。負けちゃったらどうすればいいの?」 「誰もみさきを責めたりはしないよ」 「わかってる。そうじゃなくて、ここまで真剣に、毎日やってることで、負けたら──あたしって何なの?」 「…………」 「こんなに真剣に練習してしまったら、負けた時、言い訳できない。まだ本気じゃないとか、他人にも自分にも絶対に言えない……。心の中で自分に言い聞かせることもできない。それが恐い!」 「うん」 「負けた時、あたしはちゃんとしてられるかな? 負けたら──どうなるの?」 みさきは顔を紅潮させて、 「乾さんにも明日香にも負けたくない。勝ちたいんじゃなくて、負けたくない。負けたら自分がどういう気持ちになるのか、想像できない。ただ負けたくない、それだけなの」 「誰もみさきを助けることはできないよ。それに負けた時はそれを真正面から受け止めるだけだ」 「受け止められない! だって真剣にやるってことは、大げさな言い方だけどあたしの全部を使っているってことだよ? それなのに負けたら。……負けたら全部を失いそうで恐い」 「…………」 「きっと、死んじゃいそうな気持ちになる。『死ぬがよい』だよ。あたし、死ぬよ。絶対に死なないけど……。心のどこかは死ぬよ」 「本気で練習しないと、そんなことを思ったりできないだろ? だからそれはいいことなんだ」 「そうかもしれないけど。あはっ、わからなくなってきた。FCを本気で始めなければ、こんな不安を抱かなくてもよかったわけじゃない?」 「だろうな」 「だからFCをやめたい。やめるわけないよ? でもやめたい。これって何なの? この気持ちって何?」 「強烈に負けたくないと思っている。それだけのことだよ」 「そんなに負けたくないって思うことに意味があるの?」 「…………」 「…………」 「意味なんてわからない」 みさきは安堵と落胆をまぜこぜにしたような顔をして、 「あははは、そうだよね〜。──ごめん。変な質問ばかりして」 「だけどな──」 「ん?」 「FCをやめると言っていた時より今の方が楽だろ。体はつらくても心は楽だろう」 「んー? どうだろう。そうかも……。そうかもね。楽かもね。楽って言うと違う気がするけど、前に進んでる実感があるから、そういう意味では楽か……な」 「そうだよ。そうじゃなかったら……。俺がつらい」 「晶也が?」 「そうだよ。あのままうじうじしているみさきよりも、足掻いている今のみさきの方がずっと輝いてるからな。みさきにもそう思って欲しいんだよ」 「輝いている、あたし! 輝いてるあたしを認識するあたし! うわーすげー。真顔でそんなことを言う人がいるだなんて〜」 「からかうなよ。それとさ、まるで初めての感情みたいに言っているけどそうじゃないだろ?」 「こんな感情は初めてだと思うけど?」 「夏の大会で、明日香や乾の試合を見て同じこと思っただろ」 「──ッ」 「負けたくないって思ったんだろ? その気持ちを認めたくないから、逃げ出したんだろ? あの気持ちと今の気持ち、どっちがマシなんだ?」 「……そうだったね。今はうまく思い出せないけど、あの頃は本当につらかったよ」 「逃げた方が楽なこともあれば、逃げた方がつらいこともある」 ──それは俺がよく知ってる。 飛べない自分を見つめる日々。みさきがそうなってしまうのを見つめる日々。 「みさきがどう思おうが、俺はみさきを逃がさないから覚悟しとけよ」 「ストーカー宣言?」 「からかうなよ」 伝わって欲しいから、心を込めて、言う。 「隕石がみさきに向かって落ちてきたら俺が体でとめるし、みさきが落下したら俺が下に回ってクッションになるし、何かが爆発しても俺がみさきに覆いかぶさるよ」 「…………」 「逃げても無駄。何があろうと試合会場に連れ出す。だから、逃げるなよ」 「逃げません。うん」 やけに素直に言って、こくん、と頷いた。 「ごめん。気持ちをどうしたらいいのかわかんなくなってさ。大丈夫。あははは〜、いやー、うん。真剣に何かをやったのって初めてだから。恐いね、真剣って」 「わかるよ」 あの時──初めてみさきに出会った時。俺があんなにもショックを受けたのは真剣にやっていたからだ。 真剣にやっていたのに負けた。負けたと思った。いや、正確に言うなら負けたと勘違いした。 ──きっと真剣すぎて視界が狭くなっていたのだ。 あの勘違いのせいで、俺はぶすぶすと黒い煙を上げてくすぶったままだ。 燃えてしまいたいのに……。 「真剣にできるみさきがうらやましいよ。今の俺にはしたくてもできないことだからさ」 ──あ。 普通にこんなこと言ってしまえるなんて。 気づいた瞬間、脈拍が上がった。 俺、こんなこと言えるんだ。 ──いつの間にかそういう俺になってたんだ。 「あはっ。真剣に飛ぶあたしを見て、おろかな晶也は苦しむがよい!」 「……善処します」 「う〜〜〜ん」 みさきは寝起きの猫みたいに大きく背伸びをする。 「んじゃ、負けたくない負けたくないって思いながら、覚悟を決めて真剣にやりますんで、もうちょっと晶也に痛めつけてもらおうかな」 「痛めつけてはいねーよ。鍛えているだけだ」 「似たようなものじゃない」 あっさり言われると反論する気がなくなる。 「じゃ今日は全速のフィールドフライをやってもらう。さっきのにローヨーヨーとハイヨーヨーを混ぜるぞ」 「つらそうだにゃ〜。まっ、がんばるかー。がんば! あたし!」 そう言ってみさきは俺にお菓子の箱を投げ渡した。 「残りあげる」 笑顔で言ってから、 「さっきの話だけど──。あたしの次は晶也が本気になりなさいよ」 そう言い残してフィールドに向かって飛んでいった。 ──俺が、か。 胸に嫌な痛みがあった。 胸の奥で黒いものがチロチロと舌を出している。 みさきがももを高く上げ、後方に砂を撒き散らしながら走る。 「にぃにゃあああぁあぁぁああっ!」 練習を再開した時よりフォームがずっといい。 「がんばれ! がんばれ! その調子で最後まで!」 「が、がんばってください。……がんばって、鳶沢さん」 「んにゃーす! みなも、ちゃ〜〜〜んっ!」 みさきが砂浜に引いた線を越える。 「よし!」 スマホのストップウォッチをとめる。 「はっ、はあっ、はあっはあっはっ、ンッ。どうだった?」 「今までの最高記録だ」 「やったね!」 みなもちゃんが遠慮がちにパチパチと手を叩いて、 「凄いです。……陸上部の選手みたい……でした」 「少なくとも弱小な陸上部の部員よりは速いだろうな」 「みなもちゃんの応援があったからだよー」 「最後はみなもちゃんの名前を叫んでゴールしたしな」 「みなもちゃんゴールだね。ありがと」 「そ……そんな。わたしは……何もして……ないです」 今日も白瀬さんや部長や覆面選手は休み。 代わりに、白瀬さんに言われてみなもちゃんが、応援に来てくれたのだ。 「よし! 今日はこれで終わりっ!」 「え……。今日は……これで……終わりですか?」 「午後から豪雨の予報だし、今日は半分休養の日だからね」 最近のみさきはオーバーワーク気味だからちゃんと一日休ませたいのだが、動いていないと不安だというので少し練習することにしたのだ。 「あ、あの……これ。お兄ちゃんが、もって……いけって」 みなもちゃんが可愛らしいバッグから、白瀬スポーツの紙袋を取り出した。 「それは?」 「プロテイン……です」 「う! もしかして白瀬さんはあたしをムキムキ軍団に入れるつもり?」 「そういう……つもりじゃ、ないと……思います。あ、あの……疲労……回復にって……言ってました」 「みさきは勘違いしてるみたいだけどプロテインはステロイドと違って飲んでいるだけでは、ムキムキになったりしないんだぞ」 「え? そうなんだ」 「簡単に言えば高タンパクな食品だからな。タンパクを大量に食ったらムキムキになんて聞いたことないだろ? しっかりトレーニングして飲むと効果的に筋肉がつくだけだ」 「ふ〜ん。そうだったのかー。それで疲労回復にもなるの?」 「当然なるよ。筋肉を回復させる効果があるからな。疲労回復にって言ってくれたってことは、そういう成分が多く配合されたプロテインなんだろうな」 「どうして晶也はプロテインを飲ませてくれなかったの!」 「みさきの体を絞るのが目的だったからな。必要ないかと思っていたけど。まー飲んでもよかったかな」 みさきはみなもちゃんに向かってガバッと頭を下げて、 「勘違いしてごめん!」 「いえ、そんな……。それにそれは試供品……です、けど。おにいちゃんのおすすめで、成分が……とても……いいって」 「そうなんだ〜。試供品とかそんなの関係ないよ。あたしの疲労を気にしてくれた心が嬉しい。晶也、プロテインっていつ飲めばいいの?」 「運動した直後がいいな」 「それって今じゃない」 「わたしが……つくり……ましょうか?」 「うん。是非お願いします!」 「ドリンクボトルを……お借りしてもいい……ですか?」 「もちろん」 「……では」 みなもちゃんは水の入ったボトルにさらさらと粉を入れて蓋をして、 「……えい、えい、えい」 ボトルを両手でがっちりと掴んで、ガシャガシャと前後左右に振る。 「へー。プロテインって水に溶かして飲むものなんだ」 「そんなことも知らなかったのか?」 「普通に生きていればプロテインを飲む機会なんかないって」 「言われてみればそうかもな……」 ダイエット用とかならありそうだけど、みさきはそんな心配をするような体型でもないし。 「はい。でき……ました」 「ありがとう、みなもちゃん!」 みさきはパカッと蓋を開けて、 「えーっと……。プロテインって飲むの初めてなんだけど、普通に飲めばいいのかな?」 「はい……普通に……」 「では、いただきます」 ボトルに口を開けて流し込むようにして飲む。 「んくっ、んくっ……ンンンンンンッ!」 「……?」 「んぐっ! はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」 口の中の液体を一気に飲んで、荒く息をする。 「どうしましたか?」 「聞かなくても何が起こったかのだいたい想像できるけど……」 「これ、凄くまずい! 人生でかなり上位のまずさ! なぜこんなものが?! 体に悪い味がする! 毒だ、これ!」 「……毒じゃ……ない、と思います」 「ご、ごめん。毒は言い過ぎた。で、でもさ……その……。これは、まずすぎるんじゃないかな?」 「そんなこと……ないです……よ?」 「基本的にプロテインってまずいんだよ」 「そうなの?」 「高タンパクってことは脂身のない肉をミキサーにかけて粉末にしたようなもんだからな」 「飲む気をなくす表現だ……」 「最近はマシになってきているし、美味しいのもあるらしいけど、まずいのもまだまだ多いよ」 「だとしてもこれはひどくない?」 「雨に濡れた……犬の臭いが、する……程度です」 「その表現、超的確!」 「それはかなりまずそうだな」 「でも……体にいいのは……本当、です」 みさきのお腹の辺りをじーっと見つめながら言う。 「……う〜」 みなもちゃんが見ていないんだったら捨ててるんだろうけど、あんなに感謝して受け取ったものを捨てるわけにはいかないよな。 「プロテインを飲む時のコツを教えてやろうか?」 みさきはパーッと目を輝かせて、 「是非!」 「鼻をつまんで一気に流し込む」 「原始的な方法だ!」 「…………」 みさきはボトルをじっと見つめてから、 「ん〜〜〜〜〜〜〜っ。えいや! んぐんぐんぐんぐっ。ぷっ、はーーーーっ! 全部飲んだ! ありがとう、みなもちゃん」 「いえ……そんな。疲労が回復すると……いいですね」 「もう筋肉が回復してきた気がするよ!」 「……あ、ありがとう……ございます」 「んじゃ、着替えたら行こうか」 「だねー」 「どこかに……一緒に……行くんですか?」 「今日はストレス開放デーだからな。どっか適当に遊びに行こうかなって」 「でも、午後から豪雨……なんです、よね?」 「濡れるくらいどうってことないよ。それに喫茶店でも映画館でも雨に濡れずに済む方法なんかいくらでもあるよ」 「喫茶店、映画館……それってデート……みたい……ですね」 「まー、そんなもんだよ」 「…………」 「違う違う。デートっていうのは本気でするものだからね。こんなのはただの遊び遊び」 みさきは顔の前で両手を振って、必死に否定する。 「そ、そう……ですか。では……わたしは雨が降り出す前に……し、失礼します」 「ばいば〜い」 「お兄さんによろしくな」 「は、はい」 みなもちゃんはペコリと頭を下げてから、ととと、と小走りで、道に向かっていく。 「…………」 「…………」 みなもちゃんが充分に離れたのを確認してから、 「どうしてデートだってことをあんなに否定したんだ?」 「もしかしてわかってない?」 「え?」 「はー」 みさきは短くため息をついてから、 「晶也とつきあっていくのは大変そうだー」 「なんでだよ」 「この話はもうおしまい。んじゃ、あたしは着替えてくるね」 そう言ってみさきは俺から離れた。 みさきは教室に入ると、両手を回して窓際に向かった。 「おお〜、綺麗な夕焼けだー」 「映画館に入る前はぽつぽつしてたのにな」 映画館を出たら、空は綺麗に晴れ上がっていた。 話をしながらなんとなく歩いていたら、いつの間にか学校の側まで来てしまったので、寄っていくことにしたのだった。 部室に行こうかとも思ったのだけど……。 (抵抗があって提案できなかったんだよな) きっと、みさきも同じ気持ちなのだと思う。 「今日は野球部の音もしないね〜」 「活動してる部はあんまりないみたいだな」 「少なくともこの教室には誰も来てないみたいだね」 誰か来ていれば、ロッカーに着替えの服が引っかかっていたり、机の上にバッグが転がっていたり、ゴミ箱にお菓子の袋があったりそういう人の気配がするはず。 「さっきの雨のせいかな?」 「かもな。みんな大雨だと思って帰っちゃったんだろう」 スマホの天気予報だと、映画館に入る前に降った雨は、夜まで続くはずだった。 どうやらうまいこと雲が島を避けていったらしく、外には綺麗な夕焼けが広がっている。 「あははは。人の気配がないから、前より取り残され感があるな〜」 「……俺はないよ」 「それはどういう意味?」 「あの時の俺には、みさきしか、いなかったからな」 「今はあたし以外に好きな女の子がいると?!」 「好きな女の子はみさきだけだよ」 「……っ!」 「恥ずかしいから照れないでくれ」 「て、照れるようなことを言う方が悪い!」 「言わせたのはみさきだろうが! みさきしかいないっていうのは……えっと、なんて説明すればいいんだろうな」 感覚ではわかっているけど、言葉にすることができない。 「とにかくみさきしかいなかったんだよ、悪い意味でな」 「悪い意味なんだ。それはガッカリですにゃ〜」 「みさきの気持ちに引きずられて身動きできなくなっていたからな」 「申し訳ないとは思うけど、他人の気持ちにそんなに引きずられるというのはどうなんだろう?」 「それだけみさきのこと、好きだったんだよ」 「……っ!」 「だから恥ずかしそうにするなって!」 「ならないわけがない! 恥ずかしそう、というか恥ずかしい!」 「とにかくあの時、みさきが復活するって言ってくれなかったら、どうなっていたか想像するだけで寒気がする」 「そんな想像してまで寒気を感じなくてもいいと思うよ? ……それにしてもさ〜」 みさきは軽い調子で笑った。 「どうした?」 「正直、あの時の晶也はどうかな〜、と思うよ?」 「情けないことを言ったって自覚はあるし、情けないことを言うから、って確認しただろう?」 「そこじゃなくてさ〜。なんと言うか……。ん〜、あははは」 「だからなんで笑ってる?」 「あの時、勢いのまま告白されたり、キスされたりするのかもって想像してた」 「俺はずっと真剣だったのにそんなエロいことを考えてたのか?」 「エロいこと言うな! 告白はエロいことじゃない!」 「そうだけど……」 「だいたいさ〜。晶也は男の子なわけ?」 「どうしてそんな疑問を抱くんだよ」 「なら証拠を見せてもらおうかな」 「見せてもいいのか?」 「あたしが裏ルートから聞いた情報によると、男子は女子よりエロいらしいですよ?」 「わざわざ裏ルートを使わなくても把握可能な情報だな」 「晶也はキスをしただけで、そういうのが全然ない」 「ないってことはないぞ」 「……もしかして真白くらいの胸が好き?」 「胸で女の子を判断したりはしない! なんて言うか……タイミングがなかっただけだよ」 「タイミングってどういうタイミング?」 「どうって言われても困るけどさ」 「まー、晶也にそういうのは無理なのかな〜。あたしから、あっは〜ん、としてあげないとダメなのかしら?」 「あっは〜ん、ってされたら帰宅してるかもな」 「倒れそうなほど失礼!」 「そういうのが心配だったりするのか?」 「心配っていうか……。あたしにはそういう魅力あるはずだからちょっとおかしいよね。心の傷があるのかな、って。カウンセリングはどこに連れて行こうかな? とか」 「物凄く自己中心的な不安だな。そんなトラウマはないよ。っていうか勝手に病院を調べるな!」 「まー、口ではどうとでも言えますもんね〜」 ん? あれ? これって──。 誘われているんだろうか? 「──そういえばさ」 「なに?」 「誰もいない教室ってそういうタイミングか?」 「ひへっ!!」 「変な悲鳴をあげるな! みさきが言い出したことだろ!」 「……え、なに? どういうこと? こういうこと?」 みさきはオタオタしながら窓枠に背中を貼り付けて、 「あたしって教室でやられちゃうの?」 「やられちゃうとか言うな! みさきから挑発してきたんだろ?」 「いやいや、お待ちくださいませ。た、たしかに多少しました。でもだからって、そこまで話を進めなくてもいいと思います!」 「女子より男子の方がそういうのは強いってこと、裏ルートからの情報で知ってたんだろ?」 「あのですね? 聞いてくださいますかしら、晶也さん」 「言葉遣いが滅茶苦茶になってるぞ」 「あたしは、晶也をからかって軽く遊ぼうとしただけで……」 「男子をそういうことでからかっちゃダメだぞ。こうなる可能性を少しも考えなかったとは言わせないぞ」 「い、言わせないと言われても! 言う! そんなこと言うならあたしはあえて言う! 晶也に言ってみせたい!」 「言うって何を言うんだよ」 「え?」 「そこで疑問系になるのは違うだろ。誰に何を言ってみせるんだ?」 「あれ? えっと、なんだっけ?」 「適当に喋って時間稼ぎしようとしたな。俺はみさきのコーチなんだからそんなのお見通しだぞ」 「……えっと。心の準備がその……えっと……」 「本気で嫌だったら言ってくれ」 「ほ、本気で嫌!」 「早いな!」 「に、にじり寄るな! 本気で嫌だったらやめるんじゃないの?」 「言ってくれとお願いしただけで、やめるとは言ってないぞ」 「詭弁!」 「本当に嫌か?」 「そんなこと言われても簡単に割り切れることじゃない!」 「嫌だったら抵抗していいから」 「そ、その……。えっと……抵抗したらどうなるの?」 「さすがにやめるよ」 「だったら抵抗する。晶也に対する暴動を起こす! ライオットだよ! ライオット!」 なんで急に英語になるんだ? 「みさきが動揺してるってことはよくわかった。言っておくけど、俺だってかなり動揺してるからな」 「え? う、うん。え?」 「だから、俺が知らず知らずのうちに乱暴になったり、変に痛くしちゃったりしたら、我慢せずに言ってくれ」 「することが前提の上でしゃべってるよ!!」 「だからそのつもりだって」 「うう〜っ……どうしても今じゃないとダメ?」 「みさきが挑発してくれたからな」 「だからそういうつもりじゃなかったんだけど……」 「ごめん。キスの時と一緒だ。俺から言うべきことなのにな」 「だ、だからあたしは……」 「本当に嫌だったら抵抗してくれ。そうやって態度で見せてくれないと、止まりそうにないから」 「止まりそうにないって……。晶也のそんな気持ち聞かされたら……。う〜〜〜〜っ。はあっ、……て、抵抗。する、から……」 「うん」 「わかってるなら、やめろ〜」 「…………」 みさきの制服の裾を握る。 「あ……」 「…………」 「はあっ、はあっ……」 一瞬で、みさきの息が荒くなった。 「はっ、はっ、はっ……いひひひひ」 みさきは引きつった顔で笑って、 「抵抗、しないのか?」 「晶也は後戻りできる?」 「できそうに見えるか?」 「見えない。……ンッ?!」 ブラウスに手をかけた瞬間、みさきの全身が硬直した。 「それ以上したら、確実に抵抗するから……。ライオットだから」 「…………」 ブラウスをスカートから引っ張り出して、そのまま上着ごと胸元までめくり上げた。 「──ンっ」 大きな胸を覆うブラジャーがあらわになる。 「だ、ダメだよ。そ、そこまでなんだからね」 「そこまでで終わると思うか?」 「うっ。うあ〜……」 怒ったような顔でじっと俺を見つめる。 「じゃ、終わりにするか?」 「え?!」 「これで終わりにしたいならそれでもいいんだぞ」 「……っ! くう〜〜〜〜〜〜〜っ! あ、あたしがそんなこと言わないと思って言ってる!」 「みさきの言うとおりだよ」 「卑怯だ! 晶也はいつからそんな意地悪な子に!」 「続けるぞ」 「あ! ……つ、続けるって。この状態から先に進むってことだよね? あたしの胸の全部を……はっはっはっ。はぁ、ンッ。み、見るつもりなの?」 「うん」 「そんなことってありえるの?」 「見るからな?」 「え? え? え? えええっ?!」 ブラジャーに指をひっかけるようにして掴んだ。指先が胸の表面にふれる。 ──あっ。 胸ってこういう感触なんだ。 柔らかいんだろうなって想像してた。指が胸の中に沈んでいくようなイメージ。 だけど、みさきの胸は逆で、ピンッと張っていて、ふれた指を弾き返しそうで──。まるでトランポリンの布みたいだ。 みさきは不満そうに俺から目を逸らして、 「んっ」 鼻から強く息を吐き出す。 「ブラジャーを上げるからな」 みさきは目をそらしたまま、 「す、好きにすればいいじゃない」 「わかった」 指先に力を入れて、 「あっ、はあっ……はあっ、はあっ、はあっ」 ブラジャーを胸の上まで押し上げた。 みさきは目をそらしたまま、 「あたし……。はあっ……ンン。はー、はー、っん。あたし……胸を晶也に見られ……ちゃってるの?」 「………」 「し、質問してるんですけど?」 「み、見てる」 「う、うん」 「あのさ……」 「な、なに?」 「みさきの胸、凄く可愛い」 「……っ! あ、あのさ」 みさきは俺の顔に目を戻して、何かを言おうとして息を呑んだ。 「晶也、興奮してるの?」 「挑発された時からずっと興奮してる」 「はあっ、ふぅ、はっ、ん……。怒ればいいのかな? 喜べばいいのかな?」 「怒る必要はないと思うけど……」 「そ、そうだよね。ありがとう? ありがとうは違うか。胸見られちゃった上に感想まで言われちゃったのに、ありがとうって変だよね? 常軌を逸してるよね?」 「こんな時に常軌を逸してるとか言うな」 「だ、だって胸を見られて、感想まで言われるって、刑務所行きのセクハラ行為だよね?」 「俺たちは付き合ってるんだからセクハラじゃないと思うけど」 「う、うあ〜。……や、やだ! やだ!」 「そんなに見られるの嫌か?」 そういう反応を見るとショックだ。 「じゃなくて……。あたし今、興奮していて……。これからもっと興奮する自分がわかったから。それが、いや。というか、その恐い……」 「自分がどうなっちゃうか……わからないから。そういうのって……恐いから」 「そんなこと言い出したら何もできないぞ」 「はあっ、はっ、ふぅ、ふぅ……はあっ……んん。あたし興奮して変なこと……言うかも。言ったとしても、それは興奮してるからで、本音ではないから勘違いしないで!」 「こういう時にあんまり考えるなって」 「考えないなんて絶対に無理!」 比べることじゃないかもしれないけど、以前までFCはあまり考えないでやってたのにな……。 「エッチな少女漫画で、こういう時は興奮して混乱して、何も考えられなくなっちゃう、とか女の子がよく言うの。あれ嘘だ。だってあたし……凄い速さでいろんなこと考えてる」 「さわるぞ」 「はぁっ、ふひっ、はっ……」 みさきは質問に答えず、荒い息を繰り返す。 「いいな?」 「い、いいけど……。興奮しすぎて、頭を使いすぎて、爆発したらごめん!」 「人体に爆破する機能はないから、変な心配しないでいい」 「なんで言い切れるの? 心臓ばくばくで爆発しそうだもん。これで爆発しなかったらそっちの方が不思議……え? ……ンッ?」 ぴんっ、と張った胸に指をあてる。 「はあっ! はあっ! はあっ! はあっ!」 みさきは肩で大きく息をする。 「みさきの胸にさわってる……」 「ひはっ。ンッ。晶也、晶也……」 頭の奥が熱い。その熱さが全身にあっという間に広がっていく。 いつの間にか両手でみさきの胸をもんでいた。 「みさきの胸、エッチすぎる」 「んんっ……。そ、そんなこと言われても……。晶也の手が、熱い……」 胸の表面は張りがあって固いけど、揉むとその下にある柔らかさがハッキリとわかって──。 「ひゃふっ。ふあ、ンンンッ。あ、はあっ、はっ……んん」 揉むたびにどんどん冷静じゃいられなくなってしまう。 みさきの息や声がエッチに聞こえて──凄い。 みさきがさっき言っていたこと、わかる気がする。 ──心臓ばくばくで本当に爆発しそう。 同じ気持ちだ。 「俺の心臓も爆発しそう」 「あはっ。ンンッ。……興奮が、あっ……キスの時と違う」 「どう違う?」 「キスよりも体の奥から興奮してる気がする。もっと……はあっ、はあっ、よくわからないけど……。いろんなことが、もっと……って気が、する」 「もっと……」 ただでさえ緊張してるのに、さらに緊張してしまう。 ──もっと。 喉の渇く単語だ。 「…………」 みさきは口をキュッと結んで顎を引き、なんでもないから、って顔をした。 「こ、こんな定番なこと自分が言うと思ってなかったし、こんなこと想ってしまう自分が不思議なんだけど、想っていること、晶也に伝えたいから……言う、ね」 「う、うん」 「あ、あたしのこと……。えっと、その……」 みさきは目を逸らして、頬を真っ赤に染めて──。 「あたしのこと、好きにしていいよ……。晶也のしたいこと──本気で言うからね。晶也のしたいこと、なんでもあたしにして、いいから──」 どきん! とした。 頭がおかしくなりそうだって、思う。 「わりと本気……。というか完全に本気で言ってるから。うわ〜〜〜! なんでこんなこと思うんだろう? マゾ? もしかしてあたしってマゾなのかな?」 「そ、そういうことは後から考えてくれ」 「エッチなことをはじめたばっかりなのに……。こんなすぐに自分の知らない自分を見つけてしまうなんて……。思わなかったよ」 みさきの胸から手を離す。 「え?」 斜め上を向いた乳首を、 「ン」 口にふくんだ。 「ひぃあ! うわっ、うわっ、うわっ!」 「……んっ」 ──女の子は体は敏感だから乱暴にしないように。 前にどっかで読んだ忠告が脳裏をよぎる。 好きにしていいと言われたけど、必死に自制心を働かせて、優しく乳首を吸う。 「んっ……。ひゃ、あんっ、ああぁっ。それが晶也のしたかったこと?」 「う、うん」 乳首から口を離した瞬間、ちゅぱっ、と濡れた音がした、 「きゃ! エッチな音たてないでよ」 「わざとやったわけじゃないって」 そう言いながら俺は猛烈に感動していた。 胸を舐めて、ちゅぱっ、と音がする場面は、マンガとかで見たことある。 ああいうのは過剰な演出であってリアルじゃないって、なんとなくそう思っていたのだ。 ……だけど本当の出来事なんだ。 「……あ、あのさ。俺の好きなことしていいんだよな?」 「う、うん」 みさきは怯えたように頷いてから、 「で、でも叩いたりとか縛ったりとか、そういうのは嫌だよ。最初から恐いのはダメだから!」 みさきの想像力が暴走しかけてるみたいだ。 「そんなことするわけないだろ」 「う、うん」 みさきの胸を両手で揉む。揉むたびに胸って凄いと思う。 この気持ちいい場所にずっとふれていたいけど……。 「……ッ」 勇気をふりしぼって胸から両手を離し、スカートの中に手を入れる。 「え? ええっ? ま、晶也? ま、ま、晶也! まって! まって! そこはダメ!」 「好きなことしていいんじゃなかったのか?」 「好きなことしていいけどダメなの!」 矛盾したことを大声で主張する。 「していいんだな?」 「晶也はあたしに好きなことしていいよ。だけどダメだから!」 頭の中が無茶苦茶になってるんだと思う。 つるつるしていて気持ちいい足の付け根の当たりを撫で回して、 「ひゃ?!」 股間に貼り付けるようにパンツに手をおく。 ──俺、女の子のこんなとこをさわってるんだ。 胸の時は体がこわれそうだったけど、ここは感動で胸がいっぱいになる。 「……晶也?」 「なに?」 「そ、その……。手を当てたままじっとしてるのはどうして? そういうことされると、自分の心をどこにおいたらいいのかわかんなくて……えっと、その……困る、かな?」 「あ、ごめん。その、えっと……感動にひたってた」 「か、感動するんだ?」 「するよ。当たり前だろ」 「そんなこと怒ったみたいに言われても……。そっか……。晶也はあたしをさわって感動するんだ。あたしの体って、そういうものだったんだ……」 「あのさ……。言いにくいんだけど……」 「え? あたしの体に変なとこあった?」 「違う違う。あのさ──。情けないんだけど、こういうことをするの初めてだから」 「当然あたしだって初めてだよ」 「ここをどうやってさわればいいのかわからないんだ。だからその……教えてくれないか?」 「え?」 「頼む」 こんなこと考えちゃいけないとはわかっているんだけど、もし相手がみさきじゃなかったらこんなこと言わなかったと思う。 知識を必死に総動員すればどうにかなる気もする。とにかくさわってしまえばどうにかなる気もする。 どうしてかわからないけど──。 みさきには自分の情けないとこを見せてしまいたい気持ちがある。同時にみさきが恥ずかしがったり困惑したりするとこを見たい気持ちもある。 「どうやってさわったらみさきが気持ちよくなるか教えてくれ」 「そ、そんな恥ずかしいこと! ……そ、そんなこと聞く?」 「俺、みさきを気持ちよくしたいし……。そういうみさきを見たら俺はとっても興奮すると思う。みさきで、もっと、興奮したいんだ」 そう言いながらパンツの中に手を入れる。 「ひゃ?! あっ……」 ぷくっ、としたさわり心地。 ──なかったら困るけど。 本当に割れ目があるんだ。 「ここって敏感なんだよな。そこを興奮した俺がでたらめにさわったら惨事になるかもしれないぞ」 「脅迫?!」 「うん」 「あっさり肯定しちゃうんだ」 呆れたようにつぶやいてから……。 「割れ目の上の方……んっ。あっ」 ぷにぷにの割れ目に沿って指を上げていく。 「割れ目の上のとこに小さな突起があるから、そこを優しく撫でて。本当にやさしくだよ? 敏感なんだから! 強くされたらあたし気持ちよさと関係ない悲鳴だしちゃうから」 「わかった」 小さな突起って、きっとクリトリスのことだよな。 「……えっと、この近く?」 「はあ、はあ……。も、もう少しだけ上」 「ここらへん?」 「はっ……ンッ。その数ミリだけ上だから……。気をつけてね。ゆっくりだよ」 「…………」 「──あ」 指先が想像よりずっと小さい突起にふれた瞬間。 「ひゃふ! ふあ、ああっ……」 みさきの肩が小刻みに震えた。 「そ、そこで……あってるから。あ、はあっ、はっ……。そこが気持ち……いいとこ、だから」 「わかった」 「優しくだよ」 「優しくだな」 傷口にふれるみたいに、指先でゆっくりと優しく撫でる。 「あ、はっ……。ああっ、あん! あっ、やだ! あん、って言っちゃった! あっ、はっ! こんなこと本当に言うんだ……ンンッ」 「その声、俺は好きだぞ」 「そ、そう。……晶也が好きなら、それでいいけど。あ、はぁっ、はっ……ンンンッ。でもびっくりしただけで……感じてるわけじゃないんだからね」 「でもここを撫で続けていれば、気持ちよくなるんだろう?」 「機械じゃないんだからどうなるかなんてわかんないよ」 「それはそっか」 詳しくは知らないけど気持ちの問題で、そういうのって変わりそうだ。 「はあ、はあ……」 俺は集中してクリトリスを優しく撫でる。 「んっ……くっ……」 みさきの肩に力がはいっているけど、それは気持ちいいからというより、緊張しているからだと思う。 ちょっとだけ力が入って、指先が微かに横にズレた瞬間。 「あっ……んんっ」 「今の気持ちよかったのか?」 「……気持ちよかったというか……ちょっとピリッとして」 「そっか……」 でも反応があったわけで……。 「もっといろんなさわり方をしていいか?」 「や、優しくなら……いいよ」 「みさきは気持ちいいとこがあったら言ってくれ」 「う、うん。エッチなことって……お、思ってたのと違う」 「え?」 「もっと晶也の勢いに圧倒されて滅茶苦茶にされちゃうのかと思ってた」 「そういうのがよかったのか?」 みさきは首を横に振って、 「エッチなことって2人で協力してするものだったんだね」 「そうだな。今はそうなってるな」 「あ、あたし……。ちゃんと協力しようと思って……。そういうの恥ずかしくて、た、た、楽しそうだし。あたし、エッチになるから。晶也も……ね?」 「言われなくても俺はもうなってるけどな。じゃ、教えてくれ」 「う、うん。もうちょっと、全体を撫でるような感じで……」 「こう?」 「んひゃ! あっ、はっ、はっ……ンンンッ! そ、そう。それ……あ、はっ、は……」 「こういうのはどう?」 突起を微かに横へと曲げるように動かす。 「ああっ、んん。それ……はっ、気持ちいいけど……。いいけど刺激、強すぎ……るから、もっと優しく……」 「こう?」 「あっ、はっ……あん! あっ、はっ、はっ、あああっ、ンン! それ……あ、それ──。晶也に……されてると思うと、あ、やっ……ドキドキする。ドキドキする」 「みさき、凄いエッチな顔になってきた」 「あ、あんまり見ないで……あん。あっ、はっ。あ、晶也、晶也」 「なに?」 「その……。あのね? その……。んんんっ、はあ、はあっ。ンッ、あんっ! あ、あのね……引かないでね」 「どんなこと言われても引いたりしないって」 「う、うん。あのね。そこも気持ちいいんだけどそれだけじゃ、その……寂しくて……」 「寂しい?」 「その……胸が寂しいから。一緒に、し、して欲しい……な」 絶句。 みさきがさわって欲しがってる。 それを考えるだけで、頭がどうにかなってしまいそうだ。 「……エッチなことを言ったな」 「エッチになるって言ったじゃない」 俺は使っていなかった左手で、むにゅ、と胸を掴んだ。 「ふぁ」 両手を同時に動かす。 「ひゃ、ふっ、は……あん」 「気持ちいい?」 「気持ちいい、ひゃふ。はあはあはぁ……んふっ。あん。きもちいい。晶也の手……あたたかくて、エッチだよ」 みさきに気持ちいいって言われるたびに、俺も気持ちよくなってしまいそうな気がする。 「んふっ、ふーふーふーっ、あああっ。晶也……あんっ! 指を……その……えっと、もうちょっと速く……さわっても、……い、いいよ」 少しだけ指を速く──。 「晶也、晶也、はずかしい……。あひゃ、……はぁ、はぁはぁはぁ、は、はずかしい……」 「何が?」 「だって、だって、だって……」 みさきのうるんだ目が、見間違いようがないくらい発情してた。 「晶也に気持ちよくされて……。──それでもう……その……ンン、はぁっ、はあっ」 みさきは肩で息をしてから、噛み付きそうな声で、 「い、イっちゃいそうなんだもん」 「ほ、本当に?」 「う、嘘をつく余裕があるように見える?」 「み、見えない」 みさきは目をそらし、消え入りそうな声で、 「つまり、その……そういうこと……」 「ど、ど、どうすればいい? ちょっと強くしたりした方がいいか?」 「うんうん、今のままで……そのままで、きっと……。はっ、はぁっ……お願いして、いい?」 「なんでもしてくれ」 「う、う〜〜〜〜〜〜。あ、あたしのことね」 「うん」 「あたしのこと、好き……って言いながらイかせて欲しいな」 「わ、わかった。ちゃんと言ってやる」 「他人にイかされたことなんかないから……ふ、不安だからね! だから、安心したいから、好きって言って……欲しいの」 胸とクリトリスを同時に刺激しながら、 「あ、はっ……ふあっ、んっ……あああっ」 みさきの耳元に口を近づける。 「みさきのこと好きだ。大好きだ」 「あん! あっ、はっ……あっ、ああっ。あたしも晶也のこと、す、好き。だ、大好き。だから……もっと、はぁ……はぁ……もっとお願い」 「さわること? それとも言葉?」 「……両方。今は、はっはっ、い、意地悪しないで……。体……あんっ、ああっ、おかしく、なって、ンンン。はぁはぁ。体がおかしく……なってるん、あんっ……あっ、だから……」 「好きだ。みさきのこと好きだ、好きだ、好きだ、好きだ!」 「あっ、はあっ、うん。うん、あんっ。うれひい。あんっ、ああっ! イッ……まだ、まだイかにゃい! が、がまん。絶対イかにゃいから! ン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ」 ビクビクしながら、目をギュっと閉じる。 俺は手を緩めて、 「どうして我慢してるんだ?」 みさきは塗れた目で、俺をじっと見つめて、 「だって、晶也に好きだってたくさん……。い、言ってもらいたいもん」 「……っ! よ、よくもそんな恥ずかしいこと」 「今はエッチな女の子になるって決めたから。だから……その、ど、貪欲ですのよ」 ですのよ、という言葉で緊張を逃がそうとしたんだろうけど、それに失敗したのは明らかだった。 逆に緊張してしまう。 「す、好きだって、たくさん言うよ。だから、ちゃんと……」 「か、覚悟して……る。ンッ! ン……ん、はっ……ん……んんっ、はぁぁっ」 「好きだ、みさきのこと好きだ。好きだ。好きだ好きだ好きだ!」 「はひゃ、あん!」 びくん、とみさきが大きく震えて、声が大きくなる。 「ふああぁぁぁぁぁぁっ! あたしもあたしも、まさやのことすきだから……あ、あぁぁっ、ふぁっ。あっ! ン〜〜〜〜〜〜! ン〜〜〜〜〜〜!」 「好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ好きだ」 「ひゃっ、もうダメ! あっ……がまん、れきない! あー、あーっ! すき! まさやのことすき! すきすきすきすきすきすきすきすきすきすき! ひゃぁ!」 「みさきのこと大好きだ!」 びくっ、とみさきの背筋が小さく痙攣した。膝ががくがくってなって、大きな胸が震える。 「ひゃ、あっイッちゃう! まさや、もっと…………あん! もっと、もっと……もっと!」 「みさきのこと大好きだ!」 「すき! すき! すき! あんっ! ひゃふっ! すき! すきっ、ふあっ。すきぃぃぃぃぃぃ! あんっ。……ふあぁぁぁぁ、すき、すきぃぃ、あぁぁぁぁ!」 激しい震えがみさきの全身を何度も駆け抜けた。 ──みさきが、イッてるんだ。 「あ、はっ、はっ、はぁっ……。エッチにイかされちゃった。はー、こんな幸せなイき方した女の子ってあまりいないと思うな」 「俺には答えようがないけどそう思ってくれたなら嬉しいよ。あ、あのさ……。……最後までしていいよな?」 「いひひ〜。あたしが断っても最後までするつもりのくせに〜」 「そこを無理矢理するほどの鬼畜じゃない」 みさきは小さくうなずいて、 「あたしだって……興奮してるし、さっきの気持ちよさが体の中に残ってるから、今なら何をされても平気な気がするから……」 「何をされてもって……」 「んと……。裸で校舎を歩かされるとか?」 「そこまでの過剰な覚悟はしなくていいからな」 「とにかくするなら……ど、どうぞ?」 「わかった」 ──わかったとは言ったけど、どこでどういう姿勢ですればいいんだろう? えっと……。床でっていうのは陰惨な気がするし、はじめてなのに、机に上半身を乗せて後ろからというのは違うと思う。 えっと……。 壁際の机を横向きに壁にくっつけて、 「机に座って、背中を壁にあずけて……」 「……う、うん。……これで、いいかな」 「うん、それでいい」 「セッ……。んと、こういう格好でするんだね」 「はじめてだからうまくできるかわかんないけどな」 「うまくできなくてもいいよ。その時はなぐさめてあげるし……。晶也がしたい時に、いつでも……していいんだから。失敗したって……何回でもチャレンジしていいから」 「ありがとな」 「いえいえ、どういたしまして〜。あたし、晶也とエッチなことするのきっと好きになるから。だから何回でも……。うん、大丈夫」 俺はみさきのスカートの中に両手を入れて、 「脱がすからな」 「は、はい」 そう言ってみさきは脱がされやすいように腰を上げた。 「あ! パンツを脱がされるのに協力するなんて、考えてみたら、想像を絶するほどエッチなことじゃないかな?」 「そうか?」 「そうだよ! だってパンツを下ろされるのに協力するんだよ?」 「……言われてみればそうだな。想像を絶するのかどうかはわからないけど──。かなりエッチだと思うよ」 確かに考えてみれば、パンツを下ろしやすいように姿勢を変えてくれる女の子なんて、なんだか想像上の生き物みたいだ。 「……あ」 「ど、どうかした? あたしの体に変なとこあった?」 「パンツが濡れてる」 「そ、そんなこと言わなくていい! ……女の子が濡れるってことくらいは知ってるよね? あんなに興奮してたんだからそうなるに決まってるじゃない」 「知ってるけどそのクリトリスしかさわってなかったから。クリトリスのとこは濡れてなかったから、女の子が濡れるってことすっかり忘れてた」 「それはその……液体って上に向かって流れないから」 「そっか、そうだよな」 「……あ、あのさ」 「な、なに?」 「晶也が見たければ好きなだけ見せてあげるんだけど……。そんなにじっくりと濡れたとこを見られるの……。は、恥ずかしいかな」 「あ、ごめん。みさきが興奮してたんだって思うと……。そういうのって……感動する」 「そんなとこで感動なんか──」 「するよ。男なら絶対にすると思う」 「そ、そうなんだ?」 「当たり前だろ」 「──感動するのが当たり前なんだ」 「常識だよ」 「そ、そういうことだったら……その。飽きるまで見てもらっても、いいんだけど……きゃっ!」 パンツの両端を掴む。 「あれ? あれれ? 感動してるのに脱がしちゃうの?」 「うん。脱がす」 「う、うん。ど、どうぞ、脱がしてください。うあ……。き、緊張するけど……胸の時ほどじゃないかも」 「こっちの方が緊張しそうだけど……」 「胸を見られるのは、日常の延長な気がするけど、パンツの中を見られるのは非日常すぎて……現実感がないよ」 「現実感がなくても現実だけどな」 「そうだね。あっ──きゃっ!」 パンツを脱がして、横の机におく。 「……うあ。すーすーして冷たい。──晶也が凄い顔で見てる」 「す、凄い顔になるんだよ。普通の顔で見られたら、みさきだって困るだろ」 「そうだけど──」 「広げるからな」 「へ、変態!」 「変態じゃない。広げて見ておかないと、どこにどうやって入れたらいいのかわかんないだろ」 「そ、それは心の目でどうにかしてよ」 「心の目で見えたとしても、みさきのここは目でちゃんと見るけどな」 そう言いながら両手で、 「きゃっ!」 くにゅっ、と割れ目を広げた。 「う、うわ」 「あたしの大切なとこを見ておいて、うわ、だなんて言うな!」 「悪い意味じゃないって。ただ、その……びっくりしただけで。可愛いよ。……本当に……可愛い」 「そ、そう。あたしの……変な形してないかな?」 「してないよ。一応の確認だけど……」 俺は割れ目の中にあるくぼみを指でなぞる。 「きゃん! きゅ、急にさわるな〜」 「透明なのが流れてきてるここに入れればいいんだよな」 「そ、そう。──そ、そこ。はあっ、はあっ、はあっ……あ。晶也とするんだって思ったら、また興奮してきた」 「俺も下を脱ぐから」 「……あ! あたし晶也のは見ないからね! 見られているだけで、心のいろんなとこが限界なのに、見てしまったら情報を処理できなくて死んじゃうから」 「死ぬは大げさだろ」 「覆面選手の願いをかなえるのが、コーチ兼恋人の男だったとは、意外な展開だよ。とにかく絶対に見ません。ちゃんと見るのは、次にとっておくから」 「わざと見せ付けたりしないから安心しろって」 俺がカチャカチャとベルトを外す音を聞きながら、 「う〜〜〜。わ〜〜〜。本気だ。男があたしの処女を奪いに来る」 「急に男っていうな。そういう表現だと事件性がありそうだぞ。普通に晶也って呼んでくれ」 「晶也があたしの処女を奪うんだね」 「そうだよ」 「あははは……。楽しみだな〜」 「痛いってよく言うけど……」 「きっと痛いんだろうね。だけど、あたし練習しててわかった。晶也に痛めつけられるの……えっと、その、結構好きだから。あたし、晶也に、痛くされたい。きっと、興奮する」 「…………」 「あ、でも痛くしていいのは練習の時とエッチの時だけだから! 他のとこで痛くされたら普通に怒るから勘違いしないでね」 「そんな勘違いしません」 「そっ。ならいいの。……ど、どうぞ」 下着を脱いで、みさきに近づく。 「みさき……」 「は、はい?」 「好きだ」 「言っておくけど、あたしの方が晶也のこと好きだから」 「張り合うなよ」 「好きの量なら負けない自信あるから」 「俺だってそうだよ」 言いながら、薄紅色の小さな穴に、俺のものの先端をあてがった。 「ンッ。……はあ、はあ、はあ。晶也のわかる。そこにあるって、わかる」 「みさきの中に入れるから」 「いつでもいいから」 心臓がつらくなってくる。 みさきとセックスをするんだ。 みさきを見つめたまま、 「ひにゃ!」 のしかかるようにして、前へと腰を静かに突き出した。 「くっ! ……あ、はぁぁ。ンンンッ!」 むにぃ、と広がっていくのがわかる。 「んっ、あっ、ンンンンンンンンンンンンンンッ」 口を強く締めながら、ギュッと目を閉じている。 中からぷちって感触がした。 「イッ! あっ、はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ……。ン、ン、ンンンンンンンンンンンンッ」 「もう少しで全部入るから」 「ふーっ、ふーっ、ンン」 鼻で息をしながら、がくがくと首を縦に揺らす。 ぐぅ、と腰を進めていく。 ──みさきの中ってこうなってるんだ。 硬いのだけど柔らかい。矛盾してるみたいだけどしていない。柔らかいものできつく締められているのだ。だから硬いって感じる。 こんな圧迫感は今まで経験したことない。 「んっ」 ――気持ちいい。 みさきが苦しそうにしているのに、こんなこと思うのはひどいことかもしれないけど……。 「俺のがみさきの中に、全部入った」 「……そ、そうなんだ」 みさきは苦しそうに笑って、 「晶也の、入ってるのがわかる。はあ、はあはあ、はぁ……あたしの体の中に晶也がいるのってとっても不思議な気持ち」 「俺もみさきの中に入ったの不思議だ」 「処女じゃなくなっちゃったな〜。あははは。……いいよ。もっと痛くしていいから。言ったよね? 晶也に痛くされるの好きだって。だからいいんだよ?」 「そんな風に気を遣わなくてもいいんだぞ」 「気遣ってないって。あたしの好きなことの話をしただけ……」 じっと俺を見つめる。 「……動くからな」 「あたしだけイって、晶也がイかなかったら不公平だから、ちゃんと最後までしてね。これはあたしのプライドの問題でもあるんだから」 「わかった。でも無理だって思ったらすぐに言えよ」 みさきとセックスをしたかったけど、痛めつけたいわけではないのだ。 俺はゆっくりと腰を引いて、再び沈めていく。 「んっ、ひっ、はーっ、んんっ。……だ、大丈夫。これなら耐えられる」 わざとらしい笑み。 「こんなのなんでもない。大丈夫、大丈夫」 そう言うけど抜き差しするたびに苦しそうに顔が歪んでいく。 「あっ、はっ……んんっ……ん! あ、はっ、ううっ」 苦しそうな嗚咽が可愛く聞こえてしまう。 そんな風に考えちゃいけないのに……。 苦しそうな嗚咽を漏らす唇が妙に可愛らしく、半開きのそこに、俺は唇を軽く重ねた。 「んっ、あっ……」 「みさきのこと好きだ」 「う、うん。まさや、好き。あ、いっ。まさや、すき。すきすきすき……んん! あ、すき!」 「俺も好きだ」 好きを連呼するみさきを見つめながら腰を動かす。 「ふっ、あっ……はあっ、はあっ、はあっ……いっ。ンッ! あっ、はっ、ンンンッ!」 痛みに耐える声までいやらしく聞こえてしまって、大きく腰を振ってしまう。 「ふにゃぁぁぁあああ……っ! すき、すき、すき、あぁっ! ンッ、ンンッ! すきすきすき、大好き!」 みさきが好きというたびに中がキュッキュッとうごめく。そのたびに叫びたくなるような快感が走り抜ける。 「みさき、みさき……」 「晶也、晶也、晶也、まさや……まさや、あんっ! いっ、あっ。大好き」 「このまま最後までするから」 「ひゃん! あっ、はっ! いっ……」 「もうすぐだから……」 みさきが痛いってわかっているのに腰使いが激しくなってしまう。 目の前が点滅する。みさきの中で溶けちゃいそうになってる。 「イきそうだ……」 「う、うん」 「あっ! はっ……。み、みさき!」 「だいすき! だいすきぃ!」 体の中に熱いものがあって、それが一気にたまって、 「ンッ、だ、だすぞ。……はぁ、ンン!」 一気に吐き出された。 「んにぃぃぃっ、はぁ、はぁ……はぁ……はぁ」 「はぁ、はぁ……」 「急にぐったりしたってことはイッたってこと?」 「うん。凄く気持ちよかった。ありがとう」 「えー、そうなんだー。イッちゃったのかー。がっかりだな〜」 「がっかりって何が?」 「晶也のイく顔をちゃんと見たかったのに〜」 「そんなのこれから何度でも見る機会はあるだろ」 「そうだね〜。あたしの恥ずかしい顔をたくさん見せてあげるから晶也も恥ずかしい顔をたくさん見せてね」 「好きなだけ見てください」 「うん、見る」 そう言ってみさきは心の底から嬉しそうに笑った。 「えい! ……ここで、こうだ!」 「……くっ。えい! そこでじっとしているがよい!」 「くぅぅぅ! それは善処しません!」 フィールドでは、みさきが下、覆面選手が上のポジションで、延々と練習中だ。 俺と白瀬さんと部長は、それを見上げながら作戦会議中。 「う〜ん。違うなー」 白瀬さんは砂浜の上に置いたホワイトボードにアイデアを書いては消してを繰り返している。 「お? 鳶沢が覆面選手を引き込んでのリバーサルで、上のポジションを取ったな」 引き込みとはフェイントなど使って相手を下方向に、引きずりこむことだ。 引き込みとリバーサルは相性のいい組み合わせだ。 「リバーサルか。覆面選手とみさきちゃんじゃ実力差が大きいから決まるけど、相手が乾選手や明日香ちゃんだったらどうかな? そもそも何回チャレンジできて、その内の何回が決まるか……」 俺はヘッドセットに向かって、 「ポジションを戻してもう一回。ただしリバーサルは禁止だ」 「了解」 「覆面選手は引き込みのフェイントに引っかからないように気をつけてください」 「わかった」 「ん〜〜。なんだったっけ? 真藤くんのアドバイス」 「小さな枠で戦え、ですね」 「う〜ん。小さな枠ね。言いたいことはわかる気がするけど、どういう答えを出せばいいんだろうね?」 「真藤も謎かけみたいな面倒なことせずに、答えをそのままズバリと言ってくれればいいのにな」 「そういう考え方があるという話であって、真藤さんも答えは持ってないと思いますよ。考える手がかりをくれただけでも感謝です」 「むー。整理して考えてみるか。白瀬さん、ホワイトボードを借りてもいいですか?」 「いいよ」 部長は白瀬さんが書いてあった乾らしき人物の下に、みさきらしき人物の絵を書き足す。 「上に乾がこうやって浮かんでるとして、鳶沢がここで……」 「その絵だと、みさきの手足があらぬ方を向いていることになりませんか? 手足がバキバキです」 「あ、上下を逆に描いてしまったか。でも鳶沢ならこのくらいのことはできるんじゃないか?」 「何を根拠に言ってるんですか? 自分の関節を自在に外せる特技は持ってないと思います」 白瀬さんは絵を見て笑って、 「まあ、乾選手に接近したみさきちゃんが背面飛行してる、という絵ってことなら辻褄は合うんじゃないかい?」 「……ん?」 「……ん?」 「……ん?」 俺と部長は同時に顔を見合わせた。何かが降りてくる気配があったのだ。 ──それは多分、決定的な何か。 「白瀬さん、今、なんて言いました?」 「ん?」 白瀬さんがキョトンとしてから、俺と部長を交互に見る。 「何かな?」 「背面飛行って言いましたよね」 「言ったけど。──ん?」 「…………」 「…………」 「…………」 互いの様子をうかがう沈黙。 「何かを掴めそうな気がしますよね?」 「だよな」 「背面飛行か……。う〜ん、背面飛行ね」 俺はヘッドセットに向かって、 「みさきも覆面選手も降りてきて。ちょっとみんなで考えたいことがあるんだ」 「なになに〜」 「わっははは、死ぬがよい!」 「あ、はい。善処します」 いつものやり取りをしながら2人が降りてきた。 「どしたの?」 「とりあえずこれを見てくれないか?」 ホワイトボードを見せる。 「上が乾で下が鳶沢だ」 「あたしの手足がボキボキですね」 「謎の覆面選手に倒された近未来の姿……そういうことだ」 「なんてむごい! なにもあんな無残な姿にしなくても!」 「上が乾さんで下がみさきだから覆面選手は登場してないよ?」 「ならばこうすればよい!」 「お?」 覆面選手は部長からペンを奪って、 「こうすればよいのだ」 上の人物の顔に覆面を描き入れた。 「あたしの負けが確実に!」 「時間の問題だ! 死ぬがよい!」 「善処します!」 「で、だ……。これは背面飛行してるみさきだ。どう思う」 「どう思うって漠然と言われても……」 「実は全員漠然としてるんだ。ただ背面飛行が答えになるんじゃないかって、予感はあってね」 「背面飛行が答え? 晶也、それってどういうこと?」 「えーっと……。仮にだぞ。仮に背面で普通と同じ飛行ができるとしたらどうだ?」 「……背面で同じ」 全員の沈黙が30秒くらい続いてから、 「もしそれができるなら乾選手の作戦の多くを無効にできるね」 「……っ?! マジですか?」 「やっぱりそうなります? オレもそうなんじゃないかと思っていたんですよ」 「え? どういうことですか?」 俺はバッグの中からシトーくんの人形を二体、取り出す。まず二体とも同じ向き、顔が下を向くように持って、 「いいか? 上のポジションをとるのが乾の作戦だ。上のポジションは下の動きを把握しやすいけど下のポジションは上の動きを把握しづらいはしづらい。つまり上が有利」 「上のシトーくんから下のシトーくんは見えても、下のシトーくんから上のシトーくんは見えないもんね」 俺は上のシトーくんの顔を下のシトーくんの背中に押し付けて、 「上のポジションはドッグファイトで背中を狙いやすい。下からくる相手は背中を見せる姿勢になりがちだからな」 「毎日、実感してる」 「重力を使った加速を上のポジションは自在に使えるけど、下のポジションは有効に使えなくなる。高い方が位置エネルギーは上だからな」 「連日、下のポジションで練習してるんだから、そういうのはよくわかってますよ〜」 「よっ、と」 俺は下のシトーくんを半回転させて持ち直し、 「まず相手の把握は互角になる」 「え? あ、そうか……。上から下を見るように、下から上を見ることができるのか」 シトーくんの顔と顔をぶつけて、 「ドッグファイトも胸と胸を合わせる形になるからまったくの互角」 「そっか……。そういうことになるのかな?」 みさきはシトーくんとホワイトボードを交互にじっと見つめて、 「背面飛行ができれば上下関係はなくなる、ってことだよね?」 「一点をのぞけばな」 「それは、えっと──重力かな?」 「そういうこと。上の方が効果的に重力を使える。ドッグファイトでも上の方が重力を使えるな。でも──」 俺はシトーくんとシトーくんをギューッと重ねて、 「でも、みさきが得意な超近距離でのドッグファイトに持ち込めば重力はあまり関係ない」 みさきは慌しく俺と白瀬さんと部長を順番に見て、 「もしかして乾さんの作戦を破る方法が見つかった、ということ?」 「もしかしたらな。でも、大きな問題があるぞ」 みさきは不安そうに、そっと口を開く。 「それって?」 「──背面飛行、だね」 「背面飛行って、あまりしたことないけど難しいの?」 「俺もちゃんとしたことないからわからないけど……」 俺は白瀬さんに、 「背面飛行を真面目に練習した人ってあまりいないんじゃないですか?」 「……確かにね。でも、想像するだけで難しいのはわかるよ。遊びでやるならともかく試合でするとなると、話は全然別だからね」 「ですよね。まず飛行姿勢を保つのが難しいだろうな」 「そんなとこから? そんなの慣れじゃないの?」 「そもそも慣れてないだろ?」 「それはそうだけど……」 「グラシュの設定って通常の姿勢での水平飛行を基準に作られているんだ。グラシュが発生する反重力子のメンブレンはその姿勢の時に楽なようになってる」 「でもグラシュっていろいろ細かい設定ができるんだよね? 背面飛行にあわせて設定すれば?」 「鳶沢は試合中ずっと背面飛行するつもりか?」 「……あ。それは無理かも」 「背面飛行に適した設定にしたら通常の飛行がしづらくなる」 「ずっと背面飛行というのも面白いかもよ。そんな選手の存在を誰も考えてないから、みさきちゃんが本気で挑むなら全国優勝も夢じゃないかもね」 「ぐふふふ、面白くなってきやがったぜ」 「……ダメです」 「どうしてかな?」 「そこまでトリッキーだと、対策手段を一つ作られたら潰れる選手になるかもしれません。それに背面飛行は相手の下を飛ぶ時にしか使えませんよ」 「確かにね。有利な上のポジションを取った時に、下の相手に背中を見せ続けることになるわけだからね」 「連続得点されまくりか……。だからと言ってずっと下のポジションだと重力での加速を有効に使えないってことになるのか」 「そうです。基本的に通常飛行より不利なんですよ。確かに最初の大会は勝てるかも。でもそれで終わりです。俺はみさきを強い選手にしたいんです」 「…………」 「一つの大会だけ優勝してあとは終わりとか、みさきはそういう選手じゃありません」 「そうなのか、みさきちゃん?」 「さあ? そういうのはコーチに聞いてくださ〜い」 「でも背面飛行に特化した選手って面白いと思うけどねー」 「…………」 「覆面さんがやります?」 「そんな他人のアイデアを奪うようなマネはしないのだ」 「じゃ、あたしがやらせていただきます」 「通常飛行を中心に背面飛行もできる、というのが理想だと思う」 「でもそれだとメンブレンの問題があるんだよね?」 「ぐふふふふっ」 「部長?」 「メンブレンの効果がないんだったら、別のものでそれを補えばいいだろ?」 「他のもの?」 「あ、もしかして……」 部長はぐぐっとポージングを決めて、 「筋肉ッ! マッスル イズ ワンダフル! マッスル イズ ストロング! ノー マッスル、ノー ライフ!」 「マッスルシスターになる未来が唐突に来てしまった!」 「う〜ん、姿勢維持のために背筋と腹筋を鍛えるのはいいかもな」 「筋肉をつけるがよい!」 「誰も筋肉からあたしを守ってくれないの?」 「はははっ。まあ、みんな先走らないように」 「そもそも、背面飛行で乾選手の作戦を本当に破れるのか、実際に試してみるのが先だろう?」 「議論するよりも実際にやってみて、問題点を洗い出した方が早いですね」 「よ〜し! すぐにやってみよう!」 「覆面選手は大丈夫ですか?」 「いつでも大丈夫だ!」 「心強い! 本当にいつもありがとうございます! 超感謝してます!」 「……っ! 覆面は貴様を倒すために参加しているのだ! し、死ぬがよい!」 「覆面さんのためなら喜んで善処します!」 「はいはい。んじゃ、やってみようか」 「んにゃああぁぁあああぁ!」 「わっはははははは!」 「ふんにゃああぁぁぁあぁ!」 「わっはははははは!」 「ふぎぃぃいいいぃぃぃい!」 やられたい放題だった。超一方的な展開だ。 「これはまた、豪快にやられてるな〜」 「それでいいんだけど覆面選手もなかなか非情ですね」 「言ってあるからね」 「……? 言ってあるって何をですか?」 「みさきちゃんの弱いとこを見つけたら、そこを容赦なく突くようにってね」 「そんな指示を出していたんですか」 「覆面さんは精神的に弱いとこがあるから、そう強く言っておかないと強い相手に萎縮しちゃうんだよ」 「大声を出したり、あえて傲慢な態度を取ったりすると、勇気が出たりすることありますからね」 「……あ〜」 ──真藤さんも明日香や乾との試合中に大声を出していた。 あれは相手を萎縮させる効果を狙っていると思っていたけど、自分を鼓舞する効果もあったのだろう。 「じゃ、あの覆面も?」 「そうだね。気弱で優しい性格だからね。ちょっと効果が出すぎな気もするけど」 「随分、覆面選手のこと気にかけてるんですね」 「え? そ、そうかな? 気のせいじゃないかな?」 「いや、気のせいってことはないと思いますけど……」 「日向、それ以上聞くのは野暮だぞ」 「野暮……ですか」 「うむ。粋じゃない。つまり無粋だ。覆面している奴の正体を知ろうとしちゃいかんぞ」 「……そうですね」 隠したいから隠しているのだ。そこに好奇心を見せる必要はない。 みさきの数少ない練習相手で、しかも真面目に練習をしてる。 ──それだけで充分だ。だけど……。 「覆面選手に恩返しできる時が来れば必ずしますよ」 「ありがとう。……で、この状況はどうしようか?」 「とりあえず2人を下ろしましょう」 俺はヘッドセットのスイッチを入れて、 「2人とも降りてきてくれ」 「ふにゃ〜〜〜〜」 「わっはははは!」 降りてきたみさきは明らかにヘロヘロ。よたよたしながら近づいてくる。 「どうだった? 感想は?」 「いつもよりは視界は広がったかな。そういう意味ではとっても試合をしやすかったね〜。あと向かい合ってるので背中を狙われる怖さが減った」 「それはかなりのメリットだな」 「でも、今のとこよかったのはそのくらいかな〜」 「まあ、メリットだらけだったらあんな光景にはならないか」 「まず単純に恐い。背中が空と背中が海じゃ圧迫感が違う。常に海に落ちそうな気がする。あと高さがわかりづらい」 「高さが? それはどういうことだ?」 「えっと……。普通に飛んでいればいろいろ見えるよね? 軽く首を動かすだけでここの砂浜も見えるし、遠くの景色も見えるし」 「背面飛行をしていると見えないのか?」 「見えない。見えない。冗談じゃないっスよ」 「なんで唐突に保坂のマネをするんだ」 「空しか見えない。全身で反り返ったり、首を思いっきり曲げたり、そういう不自然な動きをしないと高さを把握するのは無理」 「確かにそうなるか……」 通常飛行だと、軽く下を見れば地面を見ることができるけど、背面飛行の場合はそうはいかない。 「青空と雲と太陽しか見えないからね」 「上下の距離感が把握しづらいってことだね。前後はどうかな?」 「基本的にブイは見えるんですけど、見えなくなる角度が通常飛行より大きい気がします」 「でもその問題はセコンドの晶也の指示でどうとでもなることじゃないのか?」 「それはそうかもしれないですけど……。やっぱりわからないのは不安です」 「距離感がないと、ドッグファイトが上手くできないかもしれないですしね〜」 「……確かにな。他に気になったのは?」 「やっぱり姿勢かな〜。体が窮屈な気がして、覆面さんの反応に一瞬、遅れてしまう」 「ふふふっ。覆面の実力がキサマに勝っているだけだとしたら?」 「いつの間に抜かれたの?!」 「わっはははは」 「で、日向と鳶沢はどうするつもりだ?」 「どうするって、どういうことですか?」 「秋の大会だよ。もし、秋の大会で乾に勝つつもりなら、今からこの作戦の練習を始めても遅いくらいだろ?」 「確かにね」 「…………」 「…………」 「…………」 みさきと顔を見合わせる。 「背面飛行を試してみるか、他の作戦を考えてみるか……。それとも秋の大会はいろいろあきらめるか……。決断するのはそんなとこかな?」 「……背面飛行に試す価値はあると思います。だけど決断するのはみさきです」 「は〜〜〜〜っ。あたしがどう答えるかわかっているのに、そういうこと言うんだからいやらしいな〜」 「いやらしいって何がだよ」 みさきはじっと俺を見上げて、 「あたしが断るわけないって知ってるくせに、あたしに決めさせるとこがいやらしいって言ってるの」 「死ぬがよい!」 「善処しますから、覆面さん! 秋の大会までお願いします!」 みさきはガバッと頭を下げた。 「……………」 覆面さんは軽くのけぞってから、 「わっはははは! 覆面についてこれるかな!」 「よろしくお願いします」 「じゃ、その方向で行ってみようか。練習内容も新しく考えないとね」 「ですね」 「うん!」 みさきは全身を使って飛び跳ねるようにうなずいた。 「ドキドキする!」 「ドキドキ?」 「うん! だって、新しいことが始まるんだから! あたし達が始めるんだよ! 凄くない?」 「凄いな。うん、凄いよ」 真藤さんの姿が脳裏を過ぎる。 ──変革の時期にFCができるなんて幸運だと思う。 あの言葉を疑ってはいなかった。だけど半分は強がりなんじゃないかって思ってた。 今までやってきたことを否定された事実を乗り越えるために、無理矢理そう思い込もうとしているんじゃないかって。 だけど違う。 俺達は自分で何かを作ったり変えたりできる現場にいるのだ。みさきがいたから、みんながいたから……。 ここに、俺がいるんだ。 「あの!」 「どうしたんだい?」 「顔が赤いぞ」 「…………」 「どうしたの? お腹減ったとか?」 「これからよろしくお願いします!!」 俺は真剣に言ったつもりなのに、 「あっははははは!」 「だっははははは!」 「わっははははは!」 「あはははははは!」 みんな大きな声で笑った。 笑われたのは恥ずかしかったけど、みんな笑っているのだから悪いことじゃないんだって思った。 「く!」 「や、はっ……。いかせない!」 「いきます!」 背面飛行で下からみさきがフェイントをかけながら、ドッグファイトをしかけようと上昇。 「……っ!」 「キャッ!」 覆面選手がみさきの背中にタッチした。 「覆面選手が綺麗に引き上げたね」 「覆面選手、上手になってますね」 「まあ、みさきちゃん相手にこれだけドッグファイトの練習をしていたら強くなって当然だよ。だとしてもやっぱり、背面飛行だと反応が鈍いね」 「……ですね」 背面飛行での練習を始めてもう10日が経過していた。 それでも覆面選手に抑えられて得点を奪われている状態だ。 よくはなってきていると思うんだけど……。 頭の片隅で思う。 ──もう夏休みも終わりか。 その日まで形にするのは無理か? 「えい! はーはーはー、ンッ!」 みさきの呼吸が荒くなっているし、動きが雑になってきた。明らかに集中力を欠いている。 「部長、覆面選手と交代してもらってもいいですか?」 「オォォォォォケェェェェェイ! いつでも飛べる!」 俺はヘッドセットのスイッチを入れて、 「覆面選手は降りてください。次に部長が上がるから、スピーダーを止める練習に切り替えるぞ」 「はぁはぁはぁ……。了解」 「覆面選手は慣れてるから攻撃をかわせるのであって、乾選手なら、最初は戸惑って何もできないかもしれないよ」 「そうかもしれませんが……」 白瀬さんが気を使って言ってくれてるってわかってる。この現状に俺かみさきが挫けてしまったら、今までのことは無駄になってしまう。 ──だけどそういう甘えに頼って作戦を立てるわけにはいかない。 「白瀬さん、大丈夫です。俺もみさきも途中でやめたりしませんから」 「そうかい。だったら言うけどみさきちゃんは掴めていないね」 「…………」 「こういうとこは天才肌っぽく、簡単に乗り越えると思ったんだけどね」 「天才肌はともかくとして、確かにそれは思いましたよ」 あの夏の日。一瞬で俺を置き去りにして、俺の未来に達したあの日。 あんなことをしたみさきが、どうしてここでつまづくんだろうか? みさきの家に向かって歩く。 ここらへんは歴史のある古い家が多くて、俺の住む新興住宅地とはかなり趣が違う。 「は〜〜〜。想像していたより難しいな、背面飛行」 「苦戦してるな」 「うまくできなくて悔しい。う〜ん、悔しい!」 「悔しいか」 「うん。悔しくて悔しくて悔しい! わかりやすく言うと、おばあちゃんの畑がイノシシに荒らされた時の10倍くらいの悔しさだよ」 「その基準、俺にはよくわからんな」 「想像を絶する悔しさだってこと」 「……質問していいか?」 「エッチな質問? 晶也ったら男の子なんだから〜」 「なぜこのタイミングでエッチな質問をすると思った?」 「だって他に聞きたいことなんかないでしょ?」 「あるよ、いろいろ!」 「怪しいな〜。絶対にエッチな質問だと思うけど……。では、どうぞ〜」 「みさきと初めて出会った夏の日のことだけど」 「…………」 「みさきは俺より速く飛んだだろう。しかも俺みたいだけど俺より綺麗な飛行姿勢でさ」 「そうだったかな?」 「変な質問かもしれないけど……」 たまたま最初に多くのモノを掴んだだけなんだろう、とは思う。 だけど、それをしたみさきが──。 「あれだけのことができたみさきが、どうしてこのレベルなんだ?」 「ん? なんか微妙な質問だね?」 「俺は相当強かったんだぞ。初心者のくせに俺より綺麗に飛ぶって、どういうことだよ。そんなのありえないだろ」 過去を持ち出すのは恥ずかしいけど、俺はあの頃、日本代表として海外にも行けるレベルだった。 なのにその後、みさきが国内どころか地区予選も勝ち抜けず、中堅どころの選手で収まったのが信じれないのだ。 「ありえないって言われてもな〜」 「スタミナが足りないって弱点はあったけど、それでもどこかで全国優勝くらいしてるのが普通だろ」 「そんなことないって〜。というか実際、そんなことなかったんだからさ」 「納得できないな。今もみさきの飛行姿勢は綺麗だけど、どうしてファイターを選んだんだ? スピーダーかオールラウンダーの方がよくないか?」 「……ん〜。そもそもバチバチしたい性格だってこともあるし、スピーダーもオールラウンダーも……。飛行姿勢に自信がなかった」 「はあ? 前になんでもできるって言ってなかったか?」 「なんでもできるけどさ〜。実際にやればそれなりに形になるよ。だけど、スピーダーやオールラウンダーを真面目にやるには、荷が重いというか、過去の理想が鮮やか過ぎてさ」 「過去の理想?」 「晶也は勘違いしてるというか……。あたしの気持ちを知ろうとしなかったから、言う機会がなかったけど……」 「勘違い? 勘違いも何も楽しく飛んでただけじゃないのか」 みさきは軽く苦笑して、 「半分はね。もう半分はがっかりしてた」 「がっかり?」 「急に晶也がやめたじゃない? あれ、あたしが下手すぎるから、怒ったんだって思って」 「それで、おばあちゃんの家にいる間、あやまろうと思って、毎日海岸に通ってた」 「そうだったのか? ……なんか、その……ごめん」 「怒らせたのはあたしの飛行姿勢が汚かったからだと思って」 みさきは苦笑して、 「だからスピードで勝負するスタイルはやめた方がいいかな、と思って」 「なんて言ったらいいのかわからないけど……ごめん」 取り返しのつくことなら、本気で謝りたい。 「あやまるのはあたしの方だよ。それにさ、スピーダーやオールラウンダーは性格の問題以外でもできなかったと思う」 「どういう意味だ?」 「あの時、もしあたしの飛び方が上手だったとしたら、それは横に晶也がいたからだよ」 「そうだろうけど、俺より上手な人の飛び方なんか、ネット動画とかでいくらでも見れるだろ」 「そうじゃなくて。息遣いとか肌の感覚とか匂いとか、そういうので知りたいの。そういうのを感じれば、成長できる気がする」 「……………………ということはさ」 「ん?」 「俺より上手い奴に出会わなかったってことなのか? だからまだそのレベルなのか?」 「そのレベルって言われると反論したくなるけど、……晶也みたいな人に会わなかったからかもね」 ──そういうことか。 ……頭の中で今までぼんやりとしていた、たいして意識もしていなかった幾つかの疑問が線になっていく。 みさきが乾の試合で受けたショック。その根底にあるのは、見て理解できる技術じゃないからかもしれない。 物凄い高速で飛ぶとか、物凄い小回りができるとか、物凄いキリモミができるとか、ローヨーヨーが速いとか……。 そういうのでびっくりすることはあっても、FCをやめようというとこまではいかないと思う。 乾がやったのは見て理解できる技術じゃない。FC脳が発達してないと理解できないことだ。 だから、ショックを受けた。 そして自分が理解できないことを即座に理解した明日香にショックを受けた。 それと、もう一つの疑問。背面飛行の上達が予想よりも遅い理由。 それは見たことがないからだ。当たり前だ。背面飛行になってしまった試合はよくあるけど、自分から進んで背面飛行になる試合はそうない。 お手本にするものが少しもない。そういう時、きっとみさきの上達は人並みになってしまうのだろう。 なら、それでいい。むしろ、それでいいんだと思う。 「背面飛行、うまくできなくて晶也を失望させてごめん」 「よかったと思ってるくらいだ」 「どうして?」 「努力して苦労して覚えた技術を忘れることはないからな」 「そういうもの?」 「努力して身に着けた技術は一瞬で覚えた技術より体に染み付いて離れなくなるらしい。精神論だけど、これで勝つんだ、という気迫のある技は恐いしね」 「なるほどね〜。でもそこまで努力してるかって言うと、微妙って感じだけどね〜」 「努力してるよ。言っておくけど練習を止めてるのはみさきじゃなくて俺だから。放っておくといつまでもやるだろ」 「そこまでじゃないと思うけど……。練習始まって3分くらいで、限界限界限界って思うもん」 「オーバーワークにならないように止めてるのは俺なんだ。だから、みさきが努力不足だなんて思う必要はないからな」 「う、うん。晶也が言うならそうなんだろうね」 みさきは不自然な沈黙をしてから立ち止まって、 「送ってくれるのここまででいいよ。こっから先は1人で大丈夫」 「家まで送るぞ」 「いい、いい。1人で歩きたい気分。それにおばあちゃんに見つかったら、ぼ〜いふれんど〜を紹介しなさいってうるさいからさ」 「紹介してくれていいんだけど?」 「いやいや、そういうのにはいろいろ覚悟が必要ですわい。今日のとこはここで」 「わかったよ。んじゃ」 「ばいば〜い」 みさきはピラピラと手を振ってから、回れ右をしてすぐに歩いていった。 夕飯を食べて風呂に入り、パソコンでグラシュ関係のサイトを見る。 ──乾の作戦はまだあまり話題になってないのか。 どうやらあのショックは実際に会場で見た人のごく一部にしか広がっていないみたいだ。 乾と真藤さんの試合。 普通に見れば、牽制しあっているうちに勝負がついただけ、そういう試合だと理解して流してしまうだろう。 そうじゃないことに、次の大会で何人かが気づくだろう。 「四島からFCが変わるかもしれない、ということか……」 モニターを呆然と眺めていた時、机の上の携帯が震えた。 みさきから電話だ。 「どうした? 何かあったか?」 「あのさ……」 「ん?」 「今から出てこれないかな」 「今から? こんな時間にか?」 「会いたいの。とは言ってもエッチな意味ではないです。残念?」 「残念だ。こんな時間に会いたいといわれたら期待して当然」 「お〜。なんと素直な答えでしょうか」 「で、どうして会いたいんだ?」 「実はその……体が熱くてね〜」 「ん? やっぱりエッチなことなのか?」 「だから違うって!」 「じゃなんだよ」 「飛びたい!」 「え?」 「どうしても飛びたい。飛ぶとこを見て欲しいの。お願いだからとめないでね」 「……わかった」 「そんな簡単にわかっちゃったんだ」 「みさきがとめるなって言ったんだろう。それに俺も昔、そういうことがあったからな」 夜中に飛び起きて、飛んだことがある。練習をやめろと言われても勝手に続けたことがある。 ──心がFCでいっぱいで、どうにもならなくなったことがある。 「いいよ。つきあうから家の前で待ってろ。女の子の夜道は危険だからな」 ブイをセットしてから、大きな月の出た夜空を見上げてつぶやく。 「落ち着かないな」 いつも通り、セミの鳴き声みたいな音をたててドアが開き、部室から練習着に着替えたみさきが出てきた。 「この部室で着替えるのって、悪いことしている気がするな〜」 「わかるよ」 一度、離れてしまった場所だ。みんなすぐに迎え入れてくれるってわかっているけど、ここは自分達の場所ではない気がする。 「あの海岸で飛ぶとさすがに目立つからな」 通報されて警察官に補導されて停学、という最悪なパターンに陥ってしまう可能性がある。 「ここだと崖に阻まれて人の眼につかないから心配ない」 みさきはぐぐっと背伸びをして、 「んじゃ、さっそく飛ぼうかな。ここで飛ぶの久しぶりだな〜」 「最初は軽くだぞ。全力で飛ぶなよ」 「わかってる、わかってる」 みさきはグラシュを起動させて、フィールドに向かった。 「うひゃ〜。夜、飛ぶのは恐いな〜」 「ちゃんと見てるから心配するな」 月明かりのおかげでみさきの姿はハッキリと見える。 「信用してる。んじゃ、アップから背面飛行でいくよ」 「まだまだ! もっと鋭くローヨーヨーで降りれるって。びびるな!」 「……っ! 背中から海に落ちていくみたいで恐いんだってば!」 「んなこと言ってたらいつまでもできないだろ!」 「……ンッ」 夜空をみさきが背中から落ちていく。 急降下から急上昇。つまり角度の鋭いローヨーヨーの練習。 「これができないようだったら飛んでることにならないぞ」 「好き勝手言って! 昼より口調が厳しくない?」 「昼より厳しくやって欲しい気分だろ?」 「そういう気分ですよ! っと!」 通常飛行と同じく飛ぶからには、ローヨーヨーやハイヨーヨー、シザーズといった基本的な飛行の精度を上げる必要がある。 「そこからハイヨーヨーだ!」 「うっ、だぁっ!」 「だから反応が鈍いって! 俺が指示してから一瞬考えてるだろ」 「通常飛行と体の使い方を逆にしなきゃいけないんだから迷う!」 「迷わないように、体に染み込ませてるんだ。口答えせずにやれ!」 「晶也の言うことは信じるし指示どおりやるけど、口答えはする!」 相変わらずややこしい性格してるな。 「わかったよ。従ってくれるなら口がどれだけ動いてもいいよ。そこで、シザーズだ! ……遅い! お尻だけくねくねさせても素早く曲がれるわけないだろ!」 「えーい! うるさいうるさいうるさい!」 「ほら、もう一回シザーズだ! 遅いって! そんなんじゃ乾にも明日香にも負けるぞ。負けたくないんだろ!」 「負けたくない! 負けたくない! 負けたくない! ここまでやって! こんなことまでして負けたら、どうしたらいいかわかんないもん」 「だったら歯を食いしばれ!」 「食いしばる!」 「スピード出せ! 加速だ!」 「あたし別に明日香のこと嫌いなわけじゃないから! 好きだから! 乾さんのことだって嫌いなわけじゃない!」 「知ってるよ」 「ただあたしは……。負けたくないだけ! 負けたら……負けたら、全部、失ってしまいそうで恐いから。それだけだから」 「わかってる。もっと速く!」 「にぃあああぁぁぁぁあああぁぁぁ!」 「ひはっ、ひはっ、ひはっ、ひはっ、ひはっ」 「休むな! 行け! 背面のままブイにタッチだ!」 「んにぃぃ! きゃっ!」 ブイの位置をちゃんと確認したまま突っ込んだので、ぶつかった反動でフィールドの外に飛ばされる。 「休むな! 戻れ! 休むな、って言っているのが聞こえないのか?」 「はぁはぁはぁはぁはぁ……わかってる!」 ──限界だな。 体も心もかなり疲労してるはずだ。普段なら絶対に休ませている。 だけど今日だけは……。みさきが休みたがるまでは休ませない。 こういう練習でしか掴めない何かがあるのだ。みさきにその時が来たのだ。 掴めるのかどうかわからないけど……。 疲労の果てに見える世界があるのだ。 それが意味のあるものになるのか、意味のないものになるのかは――運だ。 やってみないとわからない。だけど、今は。 「今やらないと、二度とこんな練習させないぞ! もう飛びたくなくなったのか!」 「もっと、もっと、飛びたい! 飛べるから! はあっ、はあっ、はあっ……次はなに?! 早く指示!」 「──次は」 飛べ! 行け! 「加速!」 もっと速く! 「んにぃぃぃぃぃぃぃ!」 悲鳴にも似たみさきのよじれた掛け声が夜の空に響く。月が傾いていく。 「ふにぃ、ふにぃ、ふにぃ、ふにぃ……」 さすがにもう限界か? みさきにここまで根性があると思わなかった。 あんなに練習嫌いだったのに……。本当に覚悟を決めてくれたんだな。 涙が出そうだ。 「はひぃ、はひぃ、はひぃ、はひぃ」 それだけじゃないとわかってる。飛ぶ理由の一つでしかないとわかっている。 だけどみさきが飛ぶ理由の一つは──。 俺を助けるためなのだ。 それで、ここまでしてくれるなんて──。 泣くしかない。 けど、ここで泣くなんて弱いとこを見せるわけにはいかない。コーチの弱気は選手に移ってしまうから。 だから、みさきを鼓舞する。 「行け! ほら、がんばれ! まだまだできるだろ!」 「はぁ、はぁはぁ、れきりゅ!」 「だったらブイにタッチして加速だ!」 「はひぃ!」 え? ブイに弾かれると思っていた。もう何度もそれを繰り返したから。 体がボロボロだからうまく動けないのだ。 みさきの腕が不思議なほどスムーズに伸びて……。ブイをタッチして自然に加速した。 「……あれ?」 いびつなとこが少しもない加速だった。 ──加速が速い? 「ぼーっとすんな! ローヨーヨーだ!」 「……っ」 ──あ。 違和感なくみさきの体が下がっていく。 「──みさき」 「……うん! 自然に体が動いてる。晶也、動いてる! 考えなくても体が動いてる! 頭の中が真っ白なのに……」 「いいんだ。それでいいんだ。FC脳が必要なのは、全体を見渡す時だ。体を動かす時は真っ白でもいいんだ」 むしろ、真っ白でいいんだ。頭は状況把握のために使う。体は自然にその把握に適した飛び方をする。 「どうして……急に。あはっ。あははははは」 みさきの笑い声を聞くと全身の力が抜ける。いつのまにかガチガチになっていた肩が軽くなる。体重が半分くらいになった気がする。 「そういうことあるんだよ。掴んだんだよ、みさきは……」 「掴んだ……」 「うん。掴んだんだ」 「あはっ、あははははははは! やったー! そうなんだ! こういうことあるんだ! やった! 凄い! 凄いよね、あたし!」 「凄いよ。みさきは凄い。天才だよ」 「天才とな!」 「今だけはな」 「あはははは、今だけでも嬉しいな〜」 理屈を言えば、疲労のせいで考えることができなくなって、疲労のせいで体に力を入れることができなくなって……。どちらもできなくなる。 できなくなると、人体は余計な機能を削ぎ落とした状態になる。使えない部分が増えるから、使える部分だけでどうにかしようとする。 その時に頭と体が一致する。無駄な動きが消えて、スムーズに動くようになる。いびつな力は全部、抜ける。消える。 こういうのは一度掴めば、そう簡単には消えないはずだ。自転車の乗り方を忘れることがないのと一緒だ。 「お疲れ様。よくやったよ、みさき。戻って来い」 「ダメ」 「ダメって何が?」 「今、やめたらコツを離しちゃいそうな気がして恐いから、もう少し飛ぶ」 「そういうことなら納得するまで飛べばいい」 「うん」 みさきが背面のままフィールドをぐるぐるする。 ──これで戦える。 ドキドキする。みさきを届けることができるかもしれない。 自然と笑みがこぼれる。 でも……。みさきを届けた時、俺はどうなるんだ? 異様な不安が胸を過ぎる。黒々としたアメーバのようなものが、胸の中で渦巻き始める。ぐるぐる。 浮かんだ笑みが消える。頬が引きつっていくのがわかった。 なんで? 俺はそれから目を背ける。 この気持ちは──見なくていい。 自分にそう言い聞かせる。 こんなのは見る必要がない。消えろ。 みさきがグラシュを解除して地面に立つ。 「ふ〜〜」 「お疲れ様。本当によくがんばったな」 「汗かいちゃった。早く着替えたい」 「そうだな。ほら、中に入れよ」 俺は部室のドアを開けてみさきに入るように促す。 「着替えるから、晶也も部室に来て」 「ん? なんか日本語が変じゃないか?」 疲れているせいで呂律が回らないのか? 「いいから晶也も部室に来て」 「なんで?」 「いいから!」 「わかった。わかったから腕を引っ張るなって」 みさきは俺の腕をぐいぐい引っ張って部室に入った。 「つきあってくれてありがとう」 「いや、ありがとうって言うのは俺のほうだよ」 「そんなことない。あたしのわがままなんだから」 「でもそれで結果を出したのはみさきだろ」 「でも追い込んでくれたのは晶也だから、ってこんな譲り合いをしたいんじゃなくて……」 「お、おい」 「…………」 みさきは唐突に練習着を脱ぎ始めた。 「…………」 「…………」 黙って見ている間にみさきは全裸になってしまった。みさきは大きな胸を手で隠しもせずに真っ直ぐに俺を見つめる。 「み、みさき……?」 「言いたいことは三つあるの」 「お、おう?」 裸のみさきの迫力に気圧されて上ずった声で返事をしてまう。緊張が猛スピードで漂い始める。 「ひ、一つは晶也がいる部室で裸になったのが、とっても恥ずかしいってこと」 「だ、だったら着ろよ!」 「着るわけない!」 「わ、わけないのか?」 「わけない!」 みさきは力強く首を縦に振った。 「二つめは……。ま、晶也にお礼したい……。電話した時、エッチなことだと思っていたみたいだから……さ、させてあげたいの」 「そ、それは嬉しいけど……。でもみさきは疲れてるだろ。そんな状態でできるのか?」 「三つめは、あ、あたしが! あたしが……。その体が……ほてって……。体中に変な力がいっぱいで、エッチなことしたい気持ちで……そういうこと!」 「それは疲れすぎて達成感と性欲の区別がつかなくなってるんじゃないのか?」 「そんな冷静な分析をされたってあたしの気持ちが変わるわけじゃないから! 晶也は……その、えっと」 みさきは不安そうな目をする。 「……あたしとしたくないの?」 裸のみさきにそんな顔をされたら、たまらない気持ちになる。 「……みさきとしたくない時なんかない」 「だったら晶也も裸になって。彼女だけ裸ってどうなの? 不公平! 脱がないとあたしが無理矢理、脱がすんだからね。それとも脱がされたい?」 「脱ぎます」 みさきに脱がされるのも楽しそうだけど、彼氏としてコーチとして、まだ早過ぎる気がする。 いったい何がどう早いのかはうまく説明できないけど。 「ほ、ほら、早く!」 「わかったって」 シャツを脱ぎ捨て、ズボンのベルトとボタンを外し、トランクスごと脱ぐ。 「パンツはいてなかったの?!」 「違うって! 早く脱ごうと思ってズボンと一緒に脱いだだけだ」 みさきは若干のけ反って、 「……も、もう、そうなってるんだ」 「みさきの裸を見たらそうなるに決まってるだろ」 「でも前にコーチをしている最中はエッチな気分にならないって言ってなかった?」 「裸になるのは刺激が強すぎるって!」 「そ、そうなんだ……。えっと、今日はあたしがするから!」 「みさきが? するってなにをするんだ? なんにしてもやり方、わかるのか?」 「ネットでエッチなことを検索して勉強したから、大丈夫!」 「それで大丈夫だって言い切れる姿勢は立派だと思う」 「大丈夫だって本気で思ってるわけないじゃない。き、緊張で震えそうだし……。気を抜いたら、声がガタガタになっちゃいそうだもん」 みさきはパンパンと自分の頬を軽く叩いて、 「こんなとこで裸ってだけで、膝が震えちゃいそうなの。は、はやく始めちゃおう。はじめちゃえば……。晶也に夢中になれるから」 「わ、わかった。俺はどうすればいいんだ?」 みさきはオロオロと部室を見て、 「えっと、えっと、えっと……そこに座って」 「ここだな」 「うん」 座るとみさきはすぐに俺の足の間に入り込んできた。 膝立ちになって 「む、胸で……。晶也を気持ちよくさせてあげます!」 宣言するように言うと胸を両手で持ち上げて、むにっ、と俺のを挟み込んだ。 「……っ」 変な声が出てしまいそうになるのを必死に我慢する。 ピンッと張っているのにふわふわしている謎の感触をこんな場所で感じてしまう現実に気が遠くなる。 ……こ、こんなことされていいんだろうか? 「うわ〜、晶也のがドクドクしてるのわかる」 みさきは不安そう俺を見上げて、 「……晶也はあたしのここ、好きだよね?」 「だ、大好きです」 「よかったー」 「これだけでイッちゃいそうな気もするけどな」 「そ、そんなに? ……あ、まって! イかないで! ちゃんと気持ちよくしてあげたいんだから」 「お、おう」 みさきが、気持ちよくしてあげたい、と言ってくれるなんて。 何かに勝利したのかわからないけど、何か勝利した気がする。 「挟みながら動かせばいいんだよね」 「それで間違いない……と思う」 「んっ、しょ……。んっ、んっ……。これでいい?」 「そ、それでいい。くっ」 ぎこちない動き方だったけど、みさきの胸は汗で濡れているのが潤滑液代わりになっていた。 みさきが胸で俺のを擦ってる……。 こんな現実が存在してもいいのか。 「うわっ。うう〜。晶也のが熱くて……へ、変な感じだよ」 「そんなこと……言い出したら、俺の方が……」 みさきはゆさゆさしながら、 「変な感じ?」 「変な感じというより気持ちいいよ」 みさきは、にま〜、と微笑んで、 「そうなんだ〜。うふ。あたしの胸気持ちいいんだ」 「当たり前だろ」 「あたしの胸が気持ちいいの当たり前なんだ」 「そうだよ」 「嬉しいな〜。もっとギューってするね」 「あふっ」 「あふっ? あふっ、なんだ?」 「あふっ、です! いちいちひっかかるな! こんなことされたらそうなるって!」 「いひひ〜。晶也に意地悪されるのも楽しいけど、晶也に意地悪するのも楽しいかも」 「もう好きにしてください」 「言われなくても……。んっ、よっ……。どう? どう? ほら、ほら」 「あ……」 「こんなのでビクビクになってくれるんだね」 「こ、これは……。こんなの、なんかじゃないだろ」 「晶也もそんな気持ちよさそうな顔するんだ」 「あんまり恥ずかしいこと言わないでくれ」 「言うよ。晶也、可愛い〜。もっとビクビクしていいからね〜。うわ?! 晶也のビクンビクンって胸の間で動いた」 「……き、気持ちいいとそうなっちゃうんだよ」 「そ、そうなんだ。あはっ。知らないことばっかりだね」 「そ、そうおもな……ンッ!」 突然、みさきが激しく擦り上げたので、声が詰まってしまった。 「エッチなことに集中せずに、かっこいいことを言おうとしたでしょ」 「かっこいいことなんて……」 「言おうとした! 今はあたしの胸に夢中になって欲しいな」 「夢中になってるよ! くっ」 「じゃ、もっと夢中になって」 上目遣いに俺をにらむ。 「な、なるって…………」 みさきの……胸。 胸を見てるだけで体が痺れそうなのに……。 今は本当に痺れてしまってる。 「………」 「うわっ、晶也……。はあ……晶也、可愛い」 「それ……き、きもちいい」 俺の呼吸にあわせるようにして、リズムよく胸を動かし始めたのだ。 「ようやく胸を動かすコツが掴めてきた。今日は二つもコツを掴むなんて素敵な夜かも〜」 「んんっ、並べて語って……いいことなのかよ」 「いいことだよ。だって上手に飛ぶことも、晶也を気持ちよくしてあげるのも大事なことだもん。ほら、ほらほら、ほら〜」 ゾゾゾゾゾッと腰の辺りに快感が走り抜けた。 「くっ、俺……もう」 「イッちゃいそう?」 「あ、いっ、イッちゃいそうだ」 「キャーッ! 晶也をイかせるなんて、あたしすごくない? ほらほらほら、イッちゃえ! イッちゃえ!」 乱暴って言っていいくらいごしごしとしごき立てる。 背筋が反り返りそうになるのをこらえた瞬間。目がくらみそうな気持ちよさが広がって……。 「イッ、あっ!」 「きゃっ?!」 白く濁った体液がみさきの顔めがけて噴きあがった。 「んっ、んんっ。あっ……」 胸で俺のものをがっちりとはさんだ状態のまま、顔で精液を受け止める。 「あっ、はあ、はぁ、はあ……」 みさきは少しの間、呆然としてから、 「こんなに勢いよく出るものなんだ。びっくりしちゃった」 白色で汚したままの顔でにっこりと笑う。 「気持ちよかったんだよね?」 「気持ちよかった。滅茶苦茶気持ちよかった」 「よかった〜」 みさきの汚れた顔は異常と言ってもいいくらいエロくて、もっと見ていたかったけど……。 そのままだなんて、かわいそうだ。 そう思える余裕がまだあることにちょっと安心する。 俺は手を伸ばしてテッシュペーパーを引き抜いて、 「あ……」 丁寧に拭い取る。 「別にいいのに」 「いいってことはないだろ」 「晶也に包まれたみたいで……興奮できたのに」 気絶しそうになった。 「はあ、はあ、はあ、はあ……。まだエッチなことできる?」 「できるに決まってるだろ。……い、入れていいか?」 「うん。お願い。あたし……今のでとっても興奮しちゃったから」 「……え」 みさきの腰がぶるぶると震えていた。 「いひひ〜。まだ何もされてないのに……。期待でこうなっちゃってるみたい」 俺はみさきの両肩を掴んで長椅子の上に押し倒す。 「入れるぞ」 「うん」 自分が興奮しまくっているのがわかるから、失敗しないように深呼吸してから慎重に押し当てて、 「ふにゃ……。あ、ああっ。晶也の、入って……んっ、きた」 ゆっくりと挿入しながらみさきを抱きしめる。 「あ、はっ、ん……んん……ま、晶也」 俺が抱きしめたのに合わせて、みさきが下から両腕と両足で俺の体をギュッとしてきた。 体がピッタリと重なる。誰かと肌と肌をこんなにも合わせたのは始めてだ。 全身から伝わってくる情報量が多すぎて処理できない。 こんな状態で動いたら……どうなってしまうんだ? 「はぁはぁはぁはぁ……あたしの足が邪魔で動けない?」 「そんなことない。動ける……と思う」 「だったら、あたしって……んっ、じらされてるの? このままだったら変になりそうなんだけど?」 腰を突き出して、深くまで挿入する。 「あん! あああっ、あん……。それ、それ……んひゃ。もう、気持ちいい。それだけで……」 「はじまったばっかりだぞ」 「う、うん。あんっ、あああ、ふひゃ……あああっ。晶也の……あんっ! ふあああぁ!」 「……みさき」 「あん。あっ、はっ……きゃ?! やだ! はずかしい」 つながっている部分から水音が響いた。 「あたし、はっ、とっても……あんっ、ああっ。濡れちゃってる」 「う、うん」 「やっ……これ、はずかしい。本当にはず、あ、はずかしい。自分が凄くエッチな……あ、女の子になった……みたい」 「んっ、みさきは凄くエッチな女の子だろ。俺のを強く締めてるし……」 「そ、そんなの……自分の意思でやってるわけじゃ……あん! ふあっ、ああぁ、ンンンッ!」 「あっ……どんどん狭くなってきた」 「ひゃあああ、あっ、あああっ……あっ。まさやの──なに、これ、あ……これ、あああぁ!」 みさきが我慢するみたいに、俺の体をギューッと抱きしめる。 「あ、ふあっ。んん……。んん……あ……。ああっまさや、まさや、まさや──」 「だ、大丈夫か?」 「大丈夫なわけにゃい。も、もう少しでイッちゃいそうだよ……ん」 「我慢しないで、イッていいからな」 「う、うん。今日はがまん、なんか、できない」 みさきの声に反応して激しく腰を振ってしまう。 「んひゃぁぁぁぁぁ。……そ、そんなに強く……し、しないで!」 「そんなみさきを見てたら俺も我慢できない!」 「ひゃ、んひゃ……ンンンンッ。あっ、ダメ! あっ、はっ……。イッひゃう! ダメ! もう、れったいに、イッひゃう! イッちゃう! あっ、イッ……。んん……あ、あああっ!」 「……みさき、可愛い」 抱きしめているからイッているみさきの反応が全身でわかる。びくんびくんと何度も震えがみさきの全身を駆け抜けていく。 そのたびにみさきが快感に襲われているのかと思ったら、たまらない気持ちになる。 「ふひゃ……はっ、はっ、はっ、あっ、あ、はーっ、はーっ。ンンンンンンンッ! ま、まさや! え? え? え? あっ、ああぁぁぁぁぁぁああぁ! まさや?」 「ごめん、我慢できなくて!」 イッている最中のみさきを揺らしてしまう。 「ひゃ! あっ、ああああぁぁぁ! いいよ! あんっ! ふにゃあああぁぁぁ……。がまん、れきないなら……。あたしのこと……すきにして……いいから」 「くっ、ンンッ」 「あっ、は……うごかされるたびに……あん! イッひゃってるきが、する。あっ、あああぁっイくの……。おわんにゃい。ずっと……イッてる。ふぁぁぁあぁ!」 みさきが可愛すぎる! みさきの快感が肌から伝わってきて……。 俺も……。 「あっ、俺も……。イきそうだ」 「あん! ふにゃ、ふにゃ……。あらし……ずっと、あんっ! イっちゃってるから! まさやも! まさやも! あん! あっ、はっ……んんん!」 強烈な快感に目がくらみそうになる。 「んひぃ!」 ズン、と奥まで突き入れて、ぐりぐりと動かす。 「あん! あっ、ああぁぁぁ! まさや! まさやぁぁ!」 「みさき! みさき! みさき!」 背筋が電気を流されたみたいに痺れて……。 「あ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……おわっ……た?」 「お、おわった」 「はあ、はぁ、はあ……。まだ……きもちいいの、まだ──。これ以上されたら……どうなってたんだろう」 「……無理させてごめん」 みさきは再びギュッとして、 「はぁはぁはぁはぁはぁ……。終わった後にこうやって抱き合ったままなの気持ちいいね。晶也の息や鼓動が伝わってきて……安心する」 「俺も……安心する」 「晶也はちゃんと生きてるんだね」 「みさきも……」 確認しなくてもわかってることだけど──。そのことにひどくほっとする。 「晶也の肌、気持ちいいよ」 「みさきの肌の方が気持ちいい」 俺なんかと比べるのがおかしい。 「これからもよろしくね」 「こちらこそ」 俺とみさきはそこで少しだけ、静かに、笑った。 なんで笑ったのかは、よくわからないけど、そうするのが当然のことのように思えた。 「やっ!」 「くっ! くっ! くっ!」 「そっちに行きますよ〜、と見せかけて!」 「きゃっ!」 「お〜〜〜〜っ」 「お〜〜〜〜っ」 「お〜〜〜〜っ」 「お〜〜〜〜っ」 歓声が上がる。 今のは綺麗だった。覆面選手のすぐ側ではなく、1メートルくらい離れた場所を楽々と駆け上がった。 完全に翻弄できた証拠だ。 「今のはよかったぞ。じゃ、ポジションを戻してもう一回」 「了解」 「くぅ!」 「それと、みさき。FC脳も使っていけよ。この作戦を実行するのはみさきが初めてなんだ。フェイントも工夫して、全体の局面も見ていけよ」 「わかってる!」 みさきの声が弾んでいた。 「完全に背面飛行のコツを掴んだみたいだね」 「ですね。最初の頃とは全然違います。ただやっぱり疲労がたまると飛行が安定しなくなるので、もっと背筋と腹筋を鍛える必要があるかもしれません」 「オレにまかせておけ。短期間でガッチリできるトレーニングメニューを考えてきた」 「よろしくお願いします」 「気づいてると思うけど……」 「何をですか?」 「小さい枠の中で展開してるね」 「はい」 覆面選手は今までどおり上からプレッシャーをかけようとする。つまり上からみさきの逃げ道を塞ぎながら接近していく。 今までのみさきなら、水面付近まで押し込められて動けなくなってしまうか、無謀な突撃を繰り返して跳ね返されるか、だった。 しかし、背面飛行では覆面選手の圧力を無視して──。逆に自分から圧力をかけることができる。 「上のポジションをキープしようとする相手に背面飛行で近づくとお互いに近距離でプレッシャーをかけあうことになるので、結果、小さな枠の中での試合になるんですね」 「鳶沢理想の展開だな」 「そうですね。……あ」 覆面選手が不意に突っ込む。みさきがそれに合わせて突っ込んでいく。 「そう何度もうまくいくと思うなぁ!」 「え?」 覆面選手は上半身で仰け反りながら足を前に出す。垂直飛行の状態。 「わわわ?」 覆面選手の上半身のあった場所へとみさきが上がっていく。フェイントでみさきを引き上げるのに成功したのだ。 この状態で上げられたらバランスが崩れる。 ……あんなのに引っかかるなんて調子に乗ったか? 引き上げはしたものの覆面選手がみさきの背中をタッチするには、背後に回らなくてはならない。 そこをどう工夫するつもりなのか……。 「えい!」 「おう、それがあったか」 覆面選手はみさきが上がったタイミングに合わせて下へ向かう。 ローヨーヨー。 上のポジションを捨ててのブイ狙いだ。 「よっ、と」 「きゃ?!」 みさきが覆面選手の背中にタッチしていた。 「うまい!」 感嘆の声が漏れてしまう。 覆面選手はみさきに誘導されていた。 みさきが上に行ったタイミングで、覆面選手は斜め下のブイへローヨーヨー。 みさきは上昇しながら捻りを加えて前転し、通常飛行に戻してローヨーヨー。 初速はファイターのみさきの方が速いからみさきの眼下にさらけ出された覆面選手の背中に楽々とタッチ。 「今のも小さな枠に覆面選手を追い込んだ結果か……。鳶沢、凄くないか?」 「凄いです。今までと比べたら得点を取る可能性がずっと高くなりました」 「これは変則のアンジェリック・ヘイローだね。概念だけで言えばね」 「アンジェリック・ヘイロー……そうか。そういう考え方もできますね」 「アンジェリック? それはなんだ?」 「葵さんが現役だった頃の異常な技ですよ。超高速移動で、相手を包み込んで身動きできなくする。普通のスカイウォーカーには不可能な技です」 支配的な技という点では、今の乾のスタイルに通じるものがある。 ……もっとも、それが原因で、先生はあの技を封印した。もう見ることはないんだろうけど。 「難易度は全然違うけど……。理屈としては似ているよね」 「そうかもしれません」 光の軌跡で相手を包み込む派手さもなければ、絶対的な恐怖感もない。 もし、それとぶつかることがあれば勝ち目はない……かもしれない。 だけど、背面飛行はアンジェリック・ヘイローよりも総合的に広く使えるはずだ。 「小さな枠の中に閉じ込めてしまうか。……小包み固め。──スモールパッケージホールド、というのはどうかな?」 「うむっ!」 「いや、うむっ、と力強くうなずかれても……」 俺はヘッドセットのマイクに向かって、 「あのさ、白瀬さんがその戦い方の名前をスモールパッケージホールドにしようかって提案してるんだけどどう思う?」 「スモールパッケージホールド……。可もなく不可もなくって感じかな?」 「とてもいい名前なのだ!」 「ふ、覆面さん?!」 「略してスモー。お似合いな名前なのだ!」 「スモーがあたしにお似合い? そっ、その意味は?」 「……可愛いお相撲さんも多いから心配しなくていい」 「あたしはそんなに……いや、そんなにじゃなく、太ってない!」 「キサマの必殺技はスモーだ!」 「覆面さんがそれでいいなら、もうそれでいいです!」 「わっははははは!」 「秋の大会に間に合いそうだな」 「……そうだね。うん。間に合った。ありがとう、晶也。みんなにも言わないとね」 「そうだな」 「……あー」 「…………」 みさきは空を見上げたまま飛んでいく。 ──背面飛行だと顔が見えないんだな。 みさきは今、どんな顔をしてるんだろう。 「あははははっ」 「どうした?」 「人は死なないけど会場は滅茶苦茶になるような隕石が落ちて、大会が中止にならないかなー」 「まだそんなこと言ってるのかよ! いい加減にしろ!」 「間に合ってしまったー。言い訳をまた一つ失ってしまったー」 「……あのな」 「勝つよ。みんなのためにもあたしのためにも晶也のためにも勝つから。勝つから!」 「うん。勝てよ」 「負けたら死ぬほど落ち込むよ。でも落ち込むって落ち込むだけのことだからさ」 「うん」 それだけのことが恐いのだ。とてつもなく恐い。 真剣にやったことを、やり続けたことを、試合は無残に否定することがある。勝者と敗者を強制的に決める。 だから、みさきがどれだけの気持ちで、覚悟で、勝つと言ったのか……。 その気持ちを想像するだけで、肌がざわざわする。 「秋の大会、勝つぞー!」 みさきが青空に向かって叫ぶ。 今日は始業式。 ──気まずいな。教室に入ったら明日香か窓果がいるかもしれないのだ。 普通に話せばいいのだろうけど……。 みんなを裏切ってしまったような後ろめたい気持ちはある。 腹の底に鈍い痛み。 教室のドアを開けた瞬間、 「あ」 教室にいる明日香とパッチリと目が合ってしまった。 「お、おはよう」 「おはようございます!」 ととと、と明日香が小走りで近づいてくる。 「みさきちゃんは強くなりましたか?」 いきなりストレートな質問だ。 「……強くなったと思う」 「そうですか。私との約束を守ってくれたんですね」 「守ったよ、多分だけど……。そういうことはみさきに直接聞いてみたら……あ〜」 明日香は苦笑して、 「みさきちゃんはずっとああですから」 みさきが机に突っ伏して、 「……んにゃ〜、すにゃ〜。んー。んー。ふあぁぁ」 いい感じにまどろんでらっしゃる。 「みさき先輩! みさき先輩ったら〜〜〜。久しぶりなんだから、ギューッとしたり、ふぎゅんとしたり、いろいろしたいのに! どうして寝てるんですか! 起きて、かまってください!」 「無理無理。朝のみさきはこういう生き物だからね〜」 「わたしだってそのくらいわかってます。こうなったら出すしかありませんね」 「何をするつもりなんだ?」 「ズバリ、チョコです。これを鼻先でぷらぷらさせれば、間違いなく目覚めます。ほ〜ら、ほ〜ら。みさき先ぱ……」 「ばぐっ!」 みさきは待ち伏せしていた肉食の深海魚みたいに、唐突に口を大きく開けて、真白の持っていたチョコを奪い取った。 「……………」 「んにゅ、んにゅ……ごくり。すーっ、すーっ、すーっ……」 「……寝た」 「こっ、こうなったら手持ちのお菓子を全て与えるだけです。いざとなったら家に出前の電話を」 「みさきを餌付けするな。お菓子はストレス発散のため以外ではなるべく食べさせないようにしてるんだから」 「あ、ずるい人だ」 「ずるい人ってなんだよ」 「だってずるいじゃありませんか! 夏休みの間みさき先輩を独り占めしていたなんて! うらやましくてめまいがします」 「別に独り占めしてたわけじゃないけどな。他にいろんな人も練習に参加してたし」 「兄ちゃんもそっちに行ってたもんね〜。日向の頼みなら断れん、って気合が入ってたよ〜」 「ま、まさか、コーチと部長はそういう……」 「どういうのもないって」 「あってもいいと思いますよ?」 「ドキドキ、です」 「だから何もないって。感謝してるし尊敬だってしてるけどさ」 年下の俺の意見でも素直に受け入れてくれるところや、勝ち負けを超越した試合をできるとことか、そういうのは本当に凄いと思っている。 「逆に言えば俺だって部長のお願いなら駆けつけると思うよ。それだけのことだろ」 「う! 今の言い方、そういうのに興味ないわたしでも乙女センサーが反応しそうになりましたよ」 明日香もこくこくとうなずいて、 「うんうん、反応……しました」 「しちゃったんだ? 妹としては複雑な気分だな〜」 「そんなことより、みさき先輩を独り占めしてどう思ってるのか、ということを聞きたいです」 「どうって……」 「う〜〜〜〜〜っ」 「俺はみさきに助けられたから、助けられた分、返してあげたいだけだよ」 「あの……助けられたってどういうことでしょうか?」 「だから、その……。みさきと俺は似ているからその……。いろんな理由があって前に進めなくなってたんだよ。だから、助けたいし、助けられたかったんだ」 「ん〜?」 「ようはみさきのこと好きだってことでしょ?」 「そんなまとめ方するな!」 明日香が唐突にビシッと手を上げて、 「こんな場面でどういえばいいのか知ってます!」 「な、なにを言うのかな!」 「あついね〜、ひゅーひゅーひゅー、です!」 「それだ! 古い感じがカッコイイと思う」 「そ、そうかもな」 なかなか言えないことを堂々と言った明日香はかっこいい。 「真白はどうしてみさきを見にこなかったんだ?」 どこで練習してるかくらい簡単にわかっただろうし。それでなくてもみさきに電話くらいしていただろう。 「みさき先輩に来るなって言われたんです」 「みさきに? どうしてだ?」 「んにゃー。んー。むにゃ〜〜〜〜〜〜」 真白は眠っているみさきをじっと見下ろして、 「電話がかかってきて言われたんです。わたしが行くと甘えちゃうからだそうです」 「…………」 「メールじゃなくて電話です。そこまでハッキリと主張されてしまったら、邪魔しちゃいそうで行けませんよ」 「甘えちゃう……ですか。わかる気がします。真白ちゃんって甘えやすい気がします」 「そ、そうですか? わたし年下なんですけど……」 「そんなの関係ありません。とっても頼りがいがあります」 「だね〜。人生の酸いも甘いも経験したかのような貫禄があるよ」 「ありませんよ!」 真白はみさきの背中に頬っぺたを押し付けて、 「夏休みは終わったんですから、わたしに甘えていいんですよ」 ──甘えちゃうか。 疑ってはいなかったけど、みさきは最初から覚悟を決めて練習していたんだな。 「ふにゃ〜〜。ふにゃ〜〜〜。んくー。んくー」 真白の攻撃を無視するようにうつらうつらしている。 「うどんも食べに来てくれないなんて、悲しすぎますよ〜」 「ちょっと待て。みさきってうどんも食べてないのか?」 「はい。一度、食べちゃうと止まらなくなっちゃうかもって」 そうだったんだ。 何も言わなかったから好物のうどんのこと忘れてたけど……。 そっか、みさきは食べてなかったのか。 覚悟の一部なんだろうな。 ──秋の大会まで、約三週間。 みさきはどこに届くんだろう。もし届いた時。 ──俺はどうなるんだ? 黒色の粘着質な何かがずるずると、俺の体から這い出てくるような気がした。 呼び出されて向かった放課後の職員室。 いつもと変わらないように見える先生の前で、俺は質問攻撃にあっていた。 「鳶沢のコーチを集中的にやってみて、どうだった?」 「葵さんは嘘をつきましたね」 「何の話だ?」 「みさきが天才じゃないって話ですよ」 「ふっ……天才だったか?」 「俺はそう思いました。みさきは天才肌じゃなくて天才です」 「どんなところがだ?」 「まず反射神経が凄いです」 「確かにね。でもあのレベルを天才と言うなら、世界を目指すぐらいの選手はみんな天才だぞ?」 「それだけじゃありません。みさきは必死で努力します。そして結果を出します。だからです」 「なるほどね。……わかっているんだろう? 晶也」 「何をですか?」 「おまえが鳶沢を天才にしたんだよ」 「……?! それは違います。みさきが凄いんです」 「どっちでもいいさ。鶏が先か、卵が先かの話になるだろうしね」 「晶也が天才だというなら鳶沢は天才なんだろう。でも──倉科はもっと凄いと思うよ」 「……そうかもしれませんね」 「晶也がコーチをしていたら、きっと更に伸びただろうけどね」 「葵さんの方がずっと上手にコーチできるでしょう」 「私だとどうしても上からになるからね。同じ視線で語ってやることができない」 「まあその辺は、有坂たちがフォローしてくれたようだが」 「……明日香は相当、強くなってるんですか?」 「なっているよ。どうだ? 倉科と鳶沢で練習試合でもするか?」 「…………」 「見たくないか?」 「見たいですよ。……でも断ります」 「どうして?」 「秋の大会に向けて、みさきの気持ちは高まってます。ここで明日香と試合をしたらその気持ちに波が立って、勝っても負けてもよくない結果になると思います」 「倉科なら間違いなく試合に飛びつくだろうがな」 「そうやって俺を試すのはやめてください。選手は一人一人違うタイプがいる。それだけのことです」 「それだけのことなのに、意味があるみたいに言わないでください」 葵さんは目を丸くして俺を見つめてから、 「ははっ、はははは……!」 「何がおかしいんですか」 「……いや、一人前の口を聞くようになったと思ってね。合格だよ、晶也」 「え?」 「立派なコーチだ。選手のことを理解するというのがコーチが最初にしなきゃいけないことだからな」 「練習試合の提案、簡単に乗ってきたらどうしようかと思ったぞ」 「……もう、そういうのやめてくださいよ」 「いや、悪かった。……本当に、成長したんだな」 「…………。……ありがとうございます」 「秋の大会、楽しみにしてるよ」 「はい!」 そう言って俺は頭を下げた。 「ここで背面飛行したら、相手はどう対応すると思う?」 「この場合は静観かな〜」 今日はみさきの部屋でシトーくんをつかったシミュレーションだ。 本当は練習は休みのはずなんだけど、秋の大会まで残り一週間なのに何もしていないのはきつい、とみさきが言い出した。 とは言え、身体を休めることも大切なので、代わりにこれをやっている。 「ん〜。そんな奴いるか? 静観してたらブイを奪われるぞ」 「心配無用! はい、バン! 分身の術!」 「シトーくんが増えた!」 「さらにドン!」 「シトーくんが三体に分身?!」 「ポジション? こざかしいわい! 二人がかりで行く道をふさいで一人でフィールドをぐるぐる回ってブイタッチを積みかさねる!」 「頭が疲れてきたからって勝手なことするな!」 「……っていうかシトーくんどうしたんだ? ゲーセンでキャッチしてきたのか?」 「ゲーセンのゴミ箱からね。きっと狩猟本能だけを満たしたプレイヤーがいらないと思ったんだろうね」 「で、哀れなのでつい持って帰ってきてしまった」 「かわいそうだな、シトーくん」 「ねー? よく見ればかわいいのに。……実はね」 「あらたまった口調になってどうした?」 「実はおばあちゃん、いま家にいないんだよね」 「そっか……」 「そわっとした。今、そわそわってした!」 「してない!」 「お巡りさ〜ん! この人が今、そわそわしましたぁ!」 「通報すんな! 彼女を見てそわそわするのが、なんの罪になるんだよ」 「自称彼氏がこんなことを言ってま〜す!」 「自称だったのか?」 「そういうことって試合前にしない方がいいって聞かない?」 「試合前にはしない方がいいっていう説と、そんなのは迷信だっていう説があって、よくわかんないんだ」 「大切な大会の前だし、迷信だったとしてもしない方がいいよね」 「負けた時に、エッチなことしたからだ、と後悔したくないしな」 ……まあでも、マジでその辺はよくわかっていない。 ちょっと前にヨーロッパを制した女性の選手なんかは、婚約者と四六時中一緒にいて、たぶん、試合前もしてたと思う。 それで鬼のように強かったんだから、まあ気の持ちようなんだと思う。 「そこであたしは思うのです。エッチなことをするのなら今日くらいが最後なんじゃないかな?」 「そ、そうだな」 「…………」 「…………」 「もしだよ、仮に、するなら何をしたいですか? あたしは特にありません。今日は晶也にされたい気分です。きゃっ?!」 みさきを抱き上げてベッドに降ろす。 ベッドに座る姿勢にして、俺はベッドの下、みさきの股の間に座り込む。 「ご、強引な晶也さんですか?」 「みさきにそんなこと言われて、何もしません、なんて選択肢があると思うか?」 「あたしは晶也じゃないんだからそんなのわかんない。……それで何をするつもりなのかな?」 「……………」 「うっ……。なぜ無言でスカートの中に手をいれていますか?」 「パンツを脱がすからだろう」 「ハッキリ言われた! というかいきなりソコなんだ……。胸じゃないんだ。晶也、あたしの胸好きだよね?」 「胸は好きだけど、ここだって好きだ」 「よ、喜んでいいのかな?」 「俺は喜んで欲しいけどな」 「だったら……。う、うわ〜い。え、きゃっ?!」 脱がしたパンツをベッドの上に置く。 「うきゃ〜。は、恥ずかしい……。あ、あのそろそろ最終的な目標を教えていただけないでしょうか?」 「みさきの……」 「は、はい」 「みさきのここを舐める」 「わーーーーっ! こ、この人、あたしのを舐める気だ!」 「デカイ声で言うな! もっと恥じらえよ!」 「そ、そんなこと言われても……。びっくりしちゃって……。彼氏と彼女ってそんなことを許す関係なんだって思ったら気が遠くなってさ」 「いや、まあ、そういう関係だろ?」 「でも冷静に考えてみてよ。人のそういうとこにキスしたいです、という人に対して、はいそうですか、と許すって、かなり壮絶な人間関係だと思う」 「確かに言われてみればそうだけど、だからと言って、やめたりはしないからな。俺はそういうことしたいもん」 「あたしの気持ちは無視?」 「どうしても嫌だというのであれば……」 「やめる?」 「考えてみる」 「ソレってやめるつもりがないってことだよね?」 「そんなに嫌か?」 「わ、わかんない。って! にじりよるなぁ! スカートをめくるなぁ!」 それだけのことをしても、みさきはそんなに抵抗してこなかった。 「いいんだよな?」 「よくはないけど……。その、あきらめた」 「そんな残念そうな顔をしないで言わないでくれ」 「……う〜。変なことされちゃうんだな〜」 みさきの体の向きを変え、こちらに向いたみさきの股間にキスをする。 「ん……」 「ん……。ん……」 みさきのぷにぷにとした場所にキスを連続でした。 「はぁはぁはぁ……。そ、そんなこと……しちゃうんだ。ひゃん?! ちょ、ちょっと!」 みさきの割れ目にそって舐めてから、小さな敏感な突起に、舌の先端を当てた。 「ひゃ! あっ、ああぁぁ! ちょちょちょちょちょちょちょちょ、ちょっと待って! ストップ!」 「ど、どうした?」 「こっ、これってさ……。もしかして……えっと、その……あたしが気持ちいい行為?」 「なんだと思ってたんだ?」 「えっと、その……晶也の好奇心を満たす行為……じゃないの?」 「そういう面だってあるかもしれないけど、普通は女の人を気持ちよくさせるためにすることだぞ」 「そ、そうなんだ。エッチなことって知らないことばかりだ!」 「少し考えればわかるだろ?」 「クンニのことなんか少しも考えたことない!」 「大きな声でクンニとか言うな!」 その言葉は知ってるのかよ! 「うわ、うわ、うわ……。どうしよう? 根本的に考えを変えないと……。脳内大革命だ」 「されながら変えてくれ」 「そ、そんな自分勝手な! ひゃ! あっ、あああっ、んん?! んん……ああっ…………ん」 舌先で小さく敏感な突起をくにくにする。 「あひゃ! ひゃ……んっ。あっ、はぁはぁはぁはぁ……。あっ、はっ、はっ……」 腰に小さな震えが走った。 「やっぱりここが気持ちいいんだな」 「はぁはぁはぁ……。手でされる時と……違うんだね」 「どう違う?」 「そ、そんな恥ずかしいこと……言わないとダメ?」 「ダメ」 「ダメなんだ……」 みさきはいやいやをするように、首を左右にふってから……。 「あ、あのね。舌でされた時の方が、その……甘い気がする」 「気持ちいいじゃなくて?」 「じゃなくて……甘いの。甘い物を食べた時に、体が溶けちゃうような感じするじゃない? それに似てて……」 「こっちが溶けちゃいそうな言葉だな」 「そ、それってどういう意味?」 「興奮するってこと……んっ」 唇で優しく突起を挟む。 「ひゃん! ふっ、ン」 くにゅくにゅといじめる。 「ンン! あっ、ンンン…………へ、変な感じ。甘くて……あっ、ふあああっ! ……き、気持ちいい。晶也、あたし、すっごく……気持ちいい……」 全身が熱くなる。 軽く吸い上げると、みさきの腰が、びくん、と反応した。 「はぁあ……。晶也に口で気持ちよくされちゃうんだ。あ、あああっ。んん……はずかしくてあまくて……きもちいい」 「そんなこと言うみさきが恥ずかしいぞ」 繰り返し繰り返し、敏感な部分を舐め上げる。 「ふひゃあ。ンンンンッ。あっ、はっ……ンンンンッ……や、はっ……あ、ああ」 腰を突き出すように何度も痙攣する。 「舐められて……ひゃふ、んん……こうなっちゃうんだ。あああっ、あたし……こういう人なんだな。晶也になめられるの好きな、あん、ひ、人だったんだ。知らなかったよ」 「舐められるの好きなのか?」 「好きじゃないように……ふあっ、ああっ……。ふーふーふー。あん、あぁぁっ。好きじゃないように……見える?」 「少しも見えない」 「──だったら。ふひっ、はっ、あっ、そ、そういうこと、……でしょ」 みさきはこういうのが好きなんだ。 「え?!」 ぐっ、とさらに顔を押し付けて、突起を吸い上げるようにして、口に含んだ。 「いぅっ?!」 浮き上がってくるみさきの腰を両手で押さえながら、吸い上げ続ける。 「それ……しげき、あんっ! あああああぁぁぁぁあぁ! ふあっ、は、は、は……くっ。あっ、しげき、つよすぎ……あん! やめ、やめ……て」 「本当にやめて欲しい?」 「……っ! わかんないわかんないわかんない! あん! あっ、ふっ、一秒も我慢できないけど……。ずっとしてもらいたい……。だ、ダメだけど、もっと……その」 「んちゅ」 「ひゃん! ふあっ! ……あ、あああ。んあん! あっ、あああぁぁぁああぁあ、ダメダメ!」 痙攣が激しくなっていく。 「ふひゃ! もう! ンンンッ!」 チューっと大きな音をたてて吸い上げた瞬間、みさきの肩が大きく震えた。 「イッひゃう! イッひゃう! イッひゃう!」 背筋を丸めて全身をギュッとする。 「んんん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!! んんんんん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」 ぶるぶる震えながら、快感を全身で受け止めている。 「あ……はあっ、はあっ、あっ、はっ。……イッちゃった」 「みさきは本当にエッチだな」 「あ、はぁはぁはぁはぁ……。人にこんなことしておいて、なんて言い方! エッチなのは、んっ、はっ、あたしじゃなくて晶也!」 横向きにベッドに倒れた、みさきの頭をなでながら、荒い呼吸を聞く。 「晶也はまだなんだから……我慢しなくていいよ」 「でも疲れただろう?」 「いいから。ちょっと疲れたくらいなんでもないよ。練習でスタミナついたから」 そう言って、いひひ〜、と笑う。 「あたしだけイッちゃったの……悔しいしさ。晶也も早くイッて仲間になれ〜」 みさきの腰を掴んで軽く持ち上げる。 「ふえ? も、もしかして……後ろからするつもり? 人類は、そ、そういうことが可能と聞いているけど……」 「というか人類以外のほとんどはこれだと思うけどな」 「ちょ、ちょっと待って……。これ、不安」 「でもそういうとこがいいかもしれないだろ?」 「え? ……う、うん。そうかも……」 みさきは数秒考えてから、 「……いいよ?」 どういう結論が出たのか気になるけど、それは聞かずに、先端を先を入口に当てた。 「あっ」 と同時に、みさきの胸も全部はだけさせた。 「入れるからな」 「いいよ、って言ったばかりだよ」 腰を掴んで前に進む。 「あっ、……はっ。ん。あ、は……んん」 むにゅぅ、と覆われていく。 「あっ、はっ……ンッ、あっ……。入って……ンンッ。あっ、はっ、はっ、はっ………………あん」 じわじわと広がっていくのがわかる。 「あ、はっ……。ま、まだ入るの……終わらないの?」 「もうちょっとで全部……」 みさきのお尻に俺の腰がぶつかった瞬間、 「ひはっ」 みさきはイヤイヤをするみたいに首を振った。 「俺のが全部、入った」 「はぁ、はぁ……とっても深いとこまで……。届いてる、気が……する、よ。腰が、ビリリ、ってしそう……」 「動いても大丈夫そうか?」 「うっ、うん。あ、でも。こ、こわいから……晶也が見えないのこわいから、激しくしないでね」 「わかった」 優しく腰を前後に振る。 「ふっ、はっ……あ。……はぁ、はぁ、はぁ」 ──これは気を抜いたら、速くなっちゃいそうだ。 不安だって言ってるんだから、自分勝手なことしない方がいいに決まってる。 「あっ、は……はあっ、ん。あ、はぁ。ひ……は、ん……あ。ああっ……んん」 みさきは苦しそうに背中を震わせて、 「あ、あたし……いじわる、されてる?」 「え? なんでそう思ったんだ?」 「だって……じらされてるような、気がして」 「違うって! 優しくしてたんだ。不安なんだろう?」 「あ、そっか・・・・・・ごめん。はあ・・・・・・っは、でも……晶也の好きなように……していいよ」 「好きなようにって……」 「乱暴にしても……」 頭の中で何かが切れたような気がした。 「ひゃん!」 みさきのお尻に激しく腰を打ちつけた。 「ひっ! あっ。ンンンッ! あっ、ンンッ!」 いやらしくうごめく腰を押さえつけるように掴んで、さらに激しく何度も打ち付ける。 「あ、あん……ふ、あっ……あん! ひあっ、はっ……ンンッ! あ、はっ、変なの……来そう」 「え? もう?」 「あたし、イきやすい体に……あんっ、なっちゃってるような……ふぁっ、あん! 気がすりゅ……ンンンンンンッ!」 「ちょっと待って! 俺も一緒に……」 「う、うん。がまん……するから……」 俺がさらに激しく動かすと、 「んひゃ、あっ、ふぁぁぁぁぁ!」 みさきのお尻が俺から逃げようとしているみたいにくねくねした。 「勝手に……はぁ、はぁはぁ……………かってに、うごいひゃうの……あん! ふあっ!」 同時に中もうごめいて、ズキン、ズキン、ズキン、と強い快感をあたえられてしまう。 「ふあっ! まさや、あらし……もう、だめだめだめぇぇぇ!」 「みさき、みさき、みさきぃ!」 「あっ、んっ!」 みさきの背中がぐぐっと硬直していく。 「イッ、あっ」 「あたしもあたしも……ふっ、あっ、ああぁぁぁああ……」 互いの体がガチガチに硬直して、 「……ふひゃ」 重なるようにして倒れた。 「はぁ、はぁ、はぁ……ンッ。……激しかったね……晶也」 「みさきが可愛いからだぞ。俺は悪くない」 「別にいい悪いの話をしてるわけじゃないんだけど……。でもなんだかもったいないな」 「もったいないって何が?」 「エッチなことしてて、盛り上がってる時ってさ……。ん〜、なんて言えばいいんだろう? ドロドロ?」 「ドロドロ?」 「体が溶けて晶也とつながってるような気がしたのに、終わっちゃうとなんかもったいないなって」 「そうかもな」 みさきは近くにあった枕にもごもごと顔を沈めてから、 「あー、晶也のこと好きだなー、チクショー」 「チクショーとか言うな」 「でも本当に溶けてしまわなくてよかった」 「本当に溶けている、という状況はありえないけどな」 「溶けちゃったら、晶也を助けたり、晶也に助けられたり、できなくなっちゃう」 「……そうだな」 「ね?」 「ん?」 「こんな時に聞くのは変かもしれないけど……。あたしは大会で届くのかな? 滅茶苦茶な気持ちから目をそらさなくても歩ける場所にさ」 「届くかもしれないし、まだまだかもしれない」 「じゃ、あたしが優勝したら晶也は届く?」 「……それもわからないな」 みさきは口を不満そうに尖らせて、 「あたしを鼓舞するためにも、届くと言っておけばいいものを」 「こればっかりはさ……。それがいい意味だろうと、悪い意味だろうと、嘘をついていいことじゃない、というかつきたくないよ」 「そうだね……」 「でもいつか必ず届くよ。届くための道を歩いてはいるんだからさ」 「えいや!」 みさきは腕立て伏せをするみたいに体を持ち上げると、全身を俺にあずけて、 「ちゅ」 キスをした。 「……ど、どうし、ンンンッ?」 みさきはもう一度、俺にキスをした。今度は口と口を深く重ねるキス。 「ンンンッ、んちゅ、んちゅ。んむ〜」 あんなことしたばかりなのに、心臓が高鳴ってしまうキスだ。 「んっ、はぁはぁはぁ」 口を離したみさきの甘くて熱い息が、顔に降りかかる。 「大会が終わるまでイチャイチャできないんだな〜と思ったら、もっとラブラブしておかないと、と思って。異存ある?」 「ない」 俺はみさきの頭の後ろに手を回す。 「………」 びくんっ、とみさきの全身が硬くなった。 「なんで緊張してるんだ?」 「あははははっ、何をされちゃうのかな〜と思って」 「イチャイチャするんだろ? ……その上をすると思った?」 「あたしとしてはそれもありかな?」 「それは、イチャイチャ度合いで……」 「そ、そうだね」 みさきがうなずいたのを見て、俺は下からキスをした。 これが終わったら──もう秋の大会だ。日数はまだあるけど始まったも同然だ。 大会で何が起こるんだろうか? 頭の片隅で考える。 ──もし、みさきが優勝したら。 して……しまったら──。 俺は素直にみさきと喜びを分かち合うこと……できるんだろうか? 「どうした?」 「どうもしないよ」 黒い巨大なアメーバみたいなものが、後頭部にこびりついているような気がした。 それを振り払うように、みさきにキスをする。 みさきはため息をつきながら、空を仰いでフィールドを見上げる。 「……はー。いよいよかー」 「いよいよだ」 ついに秋の大会が始まった。 朝は調子が悪いみさきに合わせて、遅めに会場入りした。 一応、久奈浜で登録してあるけど、みさきのことを考えてみんなとは別行動にしてある。 トーナメント次第では明日香や真白とあたる可能性はある。 ──というか勝ち進めばかなり高い確率で明日香とはあたる。 クラスでは明日香とみさきは普通に話している。だから俺の気にしすぎなのかもしれない。 だけど、試合当日はあまり会わないほうがいいと思ったのだ。 互いにどういう感情を抱いているとしても、知り合いとの試合はしづらいものだ。 秋の大会は新人戦なので、夏の大会に比べると参加選手は少ない。だけどテレビ局も来ているし、観客もそれなりに多い。 四島のFCのレベルは日本一、ということはそれなりに知れ渡っているので、海を渡って見に来る人も多いのだ。 ざっと見た感じ、夏の大会と変わらないくらいの活気はあった。 ざわつく会場を無視して、みさきは水平線を見つめる。 「秋の大会……か」 「四島だと9月の終わりでもまだ夏みたいなもんだから、秋の大会って言われてもなんか困るよな。続・夏の大会って感じがするな」 「そうだねー」 みさきは水平線に顔を向けたまま気の抜けた返事をする。 「……どうした? 集中してるのか?」 試合前にゲームしたりして無理矢理リラックスする選手もいれば、眉間に皺を寄せて目を閉じて集中力を高める選手もいる。 「そうじゃなくて……」 「…………」 「水平線の向こうから怪獣登場で大会中止にならないかなって」 「まだそんなこと言ってるのかよ!」 くどいって! 「しょうがないじゃない! 恐いんだから!」 「まっ、恐いって言えるだけマシだって」 「どういうこと?」 「普通は強がったり、現実を直視したりするのが恐くて、そういうこと口にできないからな」 「そういうもの?」 「そういうものだよ。本気でヤバい時はそういうの口にしたら自分がダメになるって思うから。みさきには余裕があるってことだろ」 「いやいや、余裕なんか全然ないって!」 「そんな顔して、そんなこと言えるうちは大丈夫だ」 「む〜〜〜〜〜〜。その言い方、釈然としないな〜」 「釈然としてもしなくても怪獣も隕石もUFOも出現しない。トーナメント表を見てこようぜ」 「あ゛〜、緊張するなーもう! 当日発表のシステムはどうにかならないの? 事前発表なら心の準備だってできるのに!」 「俺に言ってもしょうがないだろ、行くぞ」 「行きたくないなー! 行きたくないなー! 晶也が勝手に見てくればいいじゃない。そうだ、そうしよう!」 「俺だけが見たって意味ないだろ! いいから行くぞ」 「嫌な予感がする。とっても嫌な予感がする」 試合前の緊張のせいでいつもよりぶつぶつ言うみさきを急かしてトーナメント表が張り出された本部前に行く。 「あ……」 「え? もしかして……」 「……大変なことになりましたね」 「ということは市ノ瀬ちゃんが一回戦の相手?! トーナメント表を作った人は真面目にやってるの? 前回のを流用してるわけ?」 「ち、違いますよ、一回戦の相手は私じゃありません。トーナメント表はまだ見てないんですか?」 「これからなんだけど……」 「そうですか」 「ど、どうして顔を伏せるのかな? うわ〜、凄く見たくなくなってきた。……帰る? 見ずに帰ろうか?」 「帰宅なんて選択肢はない。いいから見ようぜ」 「どうして晶也はそんなに平然としてるの?」 「今のみさきなら誰が相手でも恐くないだろ」 「恐いよ! 誰が相手でも超恐いってば!」 「いいから見るぞ、ほら」 「わ、わわ! ちょ、ちょっと待って! 心の準備が!」 みさきの腕を引っ張って、強引にトーナメント表の前に連れて行く。 「えーっと、鳶沢みさき、鳶沢みさきは……と」 「探すなー! 探すなー! 無理! 家に帰ってお布団に入って眠りたい!」 「えーっと、鳶沢みさき、鳶沢みさき……」 「だから探しちゃダメだってば! 帰りゅ!」 「帰りゅじゃねーよ! いいからほら、みさきも探すんだ」 「ギャッ!!」 悲鳴+絶句。 「いきなり見つけたのか」 「…………」 みさきが無言で指差すとこを見る。 「ふ〜ん。……なるほどね」 「ま、ま、ま、ま、ま、ま、晶也さん? なぜそんなに冷静でございますか? ショックのあまり頭がおかしくなったですか?」 「おかしくなってるのは俺じゃなくてみさきだろ」 「おかしくなるよ! こんな運が悪いことってあるかな? ありえない! マジありえない!」 みさきの隣にあった名前は乾沙希。 「いや超幸運だろ」 「なんと!」 「一回戦で乾とあたるのは俺がもっとも望んでたことだよ」 「超サディストが現れた!」 「落ち着いて聞け。一回戦でやるということは、乾に何も見せない状態でできるってことだ。それはみさきが圧倒的に有利だろ」 「……確かにそうかもしれないけど。でも一回戦負けの可能性が高くなった」 「どこかで乾とあたるんだ。一回戦で負けようが、二回戦で負けようが変わりないよ。やるなら早い方がいい」 「…………」 「乾と明日香には必ずどこかであたるんだ。だったらこっちの手の内を完璧に隠したままでできる一回戦がいい」 「…………」 「勝つ可能性が高いのはここだ」 「言っている意味はわかるけどさ」 「意味がわかるんだったら、あとはみさきが納得するだけだ」 「……そっか。ふーん。はー。ふむふむ、だね」 みさきはいつの間にか上がっていた肩を下げて、 「ふーーーーー」 細長いため息をつく。 みさきの顔色が微かに変わった。 「そういえばシトーくんで初めて練習した日」 「何か思い出したか?」 「二人で乾さんの胸をさわるって話をした」 「覚えてない!」 どういう流れでそんな話になったんだ。 「晶也から行ってよね」 「無茶なこと言うな!」 「は〜〜〜〜〜〜〜〜。あたしが納得しようがしなかろうが、一回戦は乾さんなんだよね」 「この幸運で確信できただろう。今日はみさきの日だよ」 「──それってあたしが勝つということだよね」 「当たり前だ」 俺はみさきの背中をポンと叩いた。 「……鳶沢さん、恐い顔になってます。さっきとは別人みたい」 「え? そう? そうかな? そんなことないと思うけど……」 「今日はとても恐いです……はい」 「あははは〜。な、なんと答えたらいいものやら」 「久奈浜学院の選手は凄いですね。相手が乾選手なのに、明日香さんは楽しそうな顔をして、鳶沢さんは恐い顔をして……」 「ん〜? それのどこが凄いことなのかな? 楽しそうな明日香は確かに凄いかもしれないけど、あたしが恐い顔になっちゃうのは普通でしょ?」 「普通でしょうか?」 「普通だよ」 「やっぱり普通じゃありませんよ。夏の大会で真藤先輩を倒して、全国大会で優勝した相手です。私は立ち向かえる気さえしません」 「…………」 「鳶沢さんは勝てるんですか?」 「勝つつもりでやるよ〜。市ノ瀬ちゃんだってこうなっちゃったら開き直って、勝つつもりでやるはずだよ」 「それはわかりませんけど……。応援してますから、がんばってくださいね」 「ありがと」 市ノ瀬は頭を下げてから去っていく。 「あの様子だと、市ノ瀬ちゃん伸び悩んでるのかな?」 「さあ、な」 市ノ瀬は愚直な性格だから、正面から壁にぶつかっているのかもしれない。 何かアドバイスできることがあるかもしれないけど、聞かれてもいないのにそんなことするのは、余計なお世話かもな。 ……もし、俺が高藤に入って、一緒に頑張っていたら。ああいったタイプの選手をどう育てるか、興味はあるけど。 「さ、他のみんなはどうかな」 「えーっと、明日香は別ブロックか」 「真白も別ブロックだな」 「ふーん。乾さんを超えたらこっち側で恐いのは、我如古選手くらいかな」 あの怪しいお姉さまか……。 確か、それなりに強かったはずだと思う。水産はこの界隈ではレベルも高い学校だし。 「確かにそこは厳しいだろうけど……。あ! 覆面選手も同じブロックだ。というか2回戦でもうあたる」 「それは死ぬほどやりづらい! 負けろと命令されたら負けてしまいそうだ……」 「そう言われて勝つも負けるもみさきの自由だよ」 「うにゃ〜。バカなこと言ってるんじゃねーと叱ってよ!」 「負ける気の選手の背中を叩いたって無意味だろ」 「うにゃ〜! 我如古選手も覆面選手も超えて決勝まで行く!」 「──そこでは明日香が待ってるかな?」 「多分な」 「もし、そうなったら、あたしはどんなこと考えてるのかな」 「その時まで待ってろ。今日の夕方には経験できるよ」 「できるかな? 本当にできると思ってる?」 「できるよ。今日はみさきの日なんだからな」 みさきを真っ直ぐに見つめて言う。 「夏の大会と一緒で今日も白瀬さんがブースを出してる。きっと部長と覆面選手もそこにいるから」 「いや〜、運がよかったね〜」 「一回戦で乾とはな! 予想をはるかに超える幸運だ」 「覆面が相手じゃなかったことを喜ぶがよい。地獄へ直行だったからな!」 「あ、はい。幸運に打ち震えています」 「さて、みさきちゃん。勝っても負けてもいいから、観客にFCをアピールするド派手な試合を頼むよ。売り上げに貢献して欲しいな」 「が、がんばります!」 「プロじゃないんだから、そんなこと意識しなくていい」 勝っても負けてもいいから客受けのいい試合をするなんて、アマチュアの発想じゃない。 「わかってるけど、あんなに協力してもらったんだから、そう言っておくのが礼儀かなって」 「みさきちゃんが優勝したらみさきちゃんに売り子をしてもらったり、直筆ポップを書いてもらったり、等身大パネルを製作してもらう予定だからね。とにかく勝って」 「そんなことになってるんですか?」 「それはそういうことになってるんだ」 「あたしの知らないとこでそんなことに!」 「まあ、それはそれとして……」 「それとするには微妙に重い気がするけど……。まあ、いいや。たくさん協力してもらったんだしね」 「試合、がんばれよ、鳶沢」 「あ、はい。が……がんばり、ますっ!」 腹の底から搾り出すようにみさきは言った。 「うむ!」 「がんばるがよいのだ!」 「がんばります! 覆面さんも!」 「うむっ!」 「じゃ、みさき、開会式が終わったらすぐに作戦会議だ」 「乾を想定して練習してたんだから、いまさら作戦もないだろうけど、念のため、試合展開を確認しておこう」 「わかった。……よし! よし! よし!」 みさきは何かを振り払うように頭を振って、長い髪を左右に振り乱した。 「よし!」 みさきの声が会場のざわめきの中に消えて、会場に設置されたスピーカーから、開会式が始まるから集まれ、というアナウンスがあった。 「本当に始まるんだ」 「始まるよ」 「……夏休みが始まった頃は、もう二度と、こういう空間に来ることはないと思ってたのに」 「また来たな」 「──あ」 みさきは唐突に呆然として空を見る。 「いくら空を見ても怪獣やUFOは来ないぞ」 みさきは俺に顔を向けて、 「……あたし、届いてる」 「届いてる? 誰かからメールが来たのか?」 「あの時、晶也、あたしを届けてくれるって言ったよね」 「え? あー、届くも届かないも、それはこれからだろ」 「違うよ。あたしはもう届いてる」 「…………え?」 「乾さんや明日香と向き合えるなんて少しも思わなかった。自分が小さくてつらくて泣きそうだった」 「…………」 「恐くて恐くて心が捻じ曲がって、明日香が佐藤院さんに負ければいいって、そんなこと思ってた。そしたら嬉しいだろうな、って」 「……うん」 「明日香のこと好きなのに、明日香はいい子なのに、自分が曲がってたから、そんなこと思ってた。あたしが悪いのに自分がダメなのに、明日香もダメになればいいって」 「…………」 「ひどいこと考えて……。でも今は明日香の前に立てる。変なこと考えずに立てる。わかる。ここにいる。なんて言えばいいのかな? えっと……」 みさきはじーっと考えてから、 「あたしのままで、あたしがここにいることが恐くない。晶也が届けてくれたから」 「……そっか。俺はみさきを届けることができたんだ」 「別に綺麗な心になったわけじゃないし、汚い心っていうのかな? そういうのはちゃんとある。あるけど、そういうのを気にせずに立ってられる。全部あたしだって認めることができる」 「夏休みは無駄じゃなかったんだな」 「うん! こんな有益な夏休みは初めて。夏休みについての作文を書きたい気分。……届けてくれて、あ、ありがとう、晶也!」 「どういたしまして。俺も嬉しいよ」 「あはははは。そっか、あたし……こうなんだ。ちゃんとこうなれるんだ。こういう気持ち、久しぶりだ。凄い! 凄いぞ、あたし!」 みさきは幼い女の子みたいに、両手を広げてくるくると回った。 「あははははははは……。あ」 みさきはピタッと回るのをやめて、 「明日香のことバケモノって言ったのあやまらないと」 「明日香は言われたことに気づいてないんだから、わざわざ言ってあやまる必要はないって。素直なのが偉いわけじゃないんだからな」 「……そうもかね」 みさきは苦笑しながら言った。 ざわり、と寒気がした。 「…………」 俺の背中に何かが張り付いている。 ──見えているぞ。 心の中でそいつに話しかける。 背中に隠れていてもわかっている。おまえは黒いアメーバのような何かだ。 それは嫉妬だ。いや嫉妬じゃない。嫉妬という言葉に当てはめるといろんなものが抜けていく。嫉妬よりももっと、ひどい感情。 ──出てくるな。引っ込んでろ。今は、消えろ! 俺は気分転換に見えるようにため息をついてから、 「届くのは大会後の方がよかったかもな」 「どうして?」 「どうしてって……。試合のモチベーションというかテンションというか、そういうのが下がるんじゃないのか?」 「そんなのは全然変わんないよ。負けるのが余計に恐くなった。余計に必死に勝たないとって思う」 「どうして?」 「次はあたしが晶也を届ける番だもん。そのためには勝たないとね」 「みさきが勝ったら俺は届くのかな?」 「当然、届くでしょ? 救った相手が結果を残したら、自分のしてきたことが間違いじゃなかったって思えるのでは?」 「そうだな」 俺は肯定して欲しいんだろうか? そんなことはいろんな人がしてくれた気がする。 俺は──何を求めているんだ? 「自分のためにも晶也のためにも、あたしは勝つよ」 「よし、やるか!」 「やろー!」 みさきは両手をあげて無邪気に叫んだ。 乾との戦いのことを考えながら一人で歩く。 どこか抜け落ちてないか? 本当に今の考えでいいのか? ギリギリまで考える。 「おひさしぶり……ですね」 偶然、なのだろうか? すぐ側にイリーナさんがいた。 「どうも」 「コーチをやめたのではなかったのデスか?」 「こっそりと続けてました」 「倉科さんと沙希の試合の時にいなかったのは残念でした。感想を聞きたかったのデスけど……」 「感想は今日の試合でみさきを通して見せますよ」 「あの夏の大会で特に活躍もしなかった選手がですか? それはとても面白いデス。面白いで日本語はあってますか?」 「あってますよ。みさきの試合は面白いです」 「楽しみですけど、でもきっと私はがっかりすると思いマス」 「恥ずかしい試合にはしませんよ。明日香もこの試合を見てますから。明日香に約束したんですよ、みさきを強くするって」 「倉科さんとの約束デスか」 「鳶沢さんは昔から活躍したことありませんね。凡庸な選手がその約束を果たすのは難しいのでは?」 「がっかりはしないと思いますよ」 「そうでしょうか? 沙希はファイターを潰すの得意デス。きっとわたしもがっかりしますネ」 「そうですか。でも俺はイリーナさんの気持ちにはあまり興味ないですね」 イリーナさんは少しムッとしてからすぐに笑顔になって、 「楽しみデス」 そう言い残して離れていった。 ──あ。 俺の心の中で何かが開きかけているのがわかる。 みさきのコーチをすると決意した時。心って鉄と風なんだな、って思った。 だけど今のこれは……。 もっと嫌なものだ。さっきからぐるぐるしてる。昔の、FCの選手をやっていた頃の自分を思い返す。 上の世界。世界レベルとか言われる、そういう世界。勝つのに本気になってる連中だらけの場所。 みさきは言ってた。 負けるのが恐いって。 上の世界は負けるのが恐い連中の世界だ。負けるとこの世から自分がいなくなる、そう思い込んでいる人々が住む場所だ。 その時の感情──。 楽しいこともたくさんあったはずなのに、いや、楽しいことの方がずっと多かったはずなのに。なぜか今はマイナスの感情ばかりを思い出してしまう。 試合前の心理戦を挑んでくる奴なんかいくらでもいた。 今のイリーナさんの言葉なんか、優しい掛け声みたいなものだ。 心が冷めていく。心が醒めていく。心が覚めていく。 ──あの程度の言葉で俺が動揺するのかと思われたのだとしたら、舐められたもんだな。 って! 「はあ、はあ、はあ、はぁ……」 落ち着け! こんな風に入れ込んじゃってるのがイリーナさんの作戦にひっかかっているってことだぞ。 よしよしよし、大丈夫だ。ちゃんと気づけた。戻ってきた。俺は冷静だ。 ため息を繰り返してから空を見上げる。 ──必ずみさきを勝たせてみる。今はそれ以外のことを考える必要はないんだ。 強くそう思った。 「よろしくお願いします」 「……よろしく」 二人の挨拶を聞いてから、俺は軽い声になるのを意識して、ヘッドセット越しにみさきに話しかける。 「調子はどうだ?」 「悪くないね〜」 無理矢理リラックスしようとしている声。 「スタートで勝負するわけじゃないんだから、緊張しなくていいぞ。試合が始まれば緊張は消える」 「了解」 「作戦通りだ。それで必ず勝てる」 「わかってる」 「隣の乾はどんな感じだ」 みさきは声を潜めて、 「どうって。さっきからずっとセカンドブイを見つめたままだよ」 「口は?」 「口は動いてない」 「わかった」 さっきのイリーナさんとの会話でみさきが強いってことを匂わせてしまった。警戒心を抱かせていたらどうしようかと思ったのだ。 本気で警戒しているならギリギリまで何か言うはずだ。 さっきの会話。思いっきりイリーナさんに踊らされていたな。 審判の、セット、の声がマイクで増幅されて響いた後、試合開始を告げるホーンが鳴り響いた。 「…………」 乾が綺麗なローヨーヨーでセカンドブイに向かう。 「…………」 みさきはショートカットをしてセカンドラインへ。 ──さすがに速いな。 まだファーストラインでスピードが乗っていないはずなのに、かなり速い。 セカンドラインで乾がどう動くかで、この試合は決まる。 みさきはラインよりやや上のポジションで旋回しながら待機。 ポジションのことなんか考えてないんだな、と相手に判断される高さ。 だけど乾がポジションを取りに行ったら、先に上を取れるギリギリの高さ。 ──どう出る? 乾はセカンドブイにタッチする。 0対1。 「…………」 固唾を呑んで見守る。1秒にも満たないだろう時間がやけに長く感じられる。 「…………」 みさきも同じ気持ちだろう。 乾はブイの反動を利用して、加速。ラインに沿って真っ直ぐ突っ込んできた。 「…………っ」 鼓動が一気に加速した。 よしッ! 乾とイリーナさんはみさきのことを何も知らない! もしかしたら海岸の練習をどこかで見てるかも、と不安だったのだ。 みさきは夏の大会でも過去の大会でも結果を出してない。だからみさきに興味を持たなかったのだろう。 「みさき! 乾の頭を押さえろ!」 「わかってる!」 「…………」 乾は確かに速い。しかし、こっちはフェイントを覚えた部長を相手に長時間スピーダーの頭を押さえる練習をしてきたのだ。 「てりゃ!」 「……っ?!」 乾に驚きの感情が走り抜けた。 押さえられると思っていなかったのだろう。 スポーツ白瀬の店内で白瀬さんに、乾の全国大会での動画を見せてもらった。 乾は全試合、スピーダーとして戦い、ブイだけで得点を重ねて、圧勝していた。 俺達に衝撃を与えたあの作戦は、真藤さんにしか出していない。 四島のFCのレベルは全国より高い。 乾は実力者にしか、上のポジションを維持する作戦を使わないのだと思う。 ──そしてみさきを実力者としては見なかった。 ぶつかった反動で乾は後ろへ。両手を乾にぶつけたみさきは腕を使って反動の流れを変えて、斜め上へ。 ──上のポジションをキープ。 夏の大会で乾が見せた姿。高藤学園での練習試合で、乾と明日香が見せた姿。 みさきもできるんだぞ! そう叫びたい気持ちになる。 ──ここからどうするんだ、乾! どうするんだ、イリーナ! 自分達の手の内を見せたくないんだろう? 特に下のポジションからの攻撃方法は見せたくないだろう? それは奥の手だ。隠しておきたいはずだ。 少なくとも決勝で明日香とやるまでは出したくないはずだ。そうだろう? すでに1点はリードしてる。そういう時はどうするんだ? 明日香との練習試合で見せたよな? あれをするんじゃないのか? 乾はみさきを見上げながら軌道を変える。 やっぱりそうだよな。 サードラインへショートカット。 「みさき、わかってるな」 「わかってる」 みさきはローヨーヨーで加速して、サードブイにタッチ。 これで1対1。 「みさき! 集中力切らすな! 絶対にミスできない、そういう戦いだからな!」 「了解!」 どこかで隙を見せてドッグファイトで点を取られたり、ブイのタッチを二回連続で許す。そういうことがあったらこちらの作戦は失敗するかもしれない。 みさきと乾の得点は、1対1、 1対2、 2対2、 2対3、 3対3、 3対4。こういった形で進行していって欲しい。 みさきに上のポジションを取る技術はあっても、下から攻める技術はないと思われたい。 しかもこういった形で進んでいけば、もし、同点で延長になり、さらに同点で再延長になっても、そこから先は試合をとめずに先に点を取った方が勝利。 同点か1点リードという形を保てばどこかで勝てる。だから、手の内をさらす必要はない。 イリーナさんが話しかけてきた時、わざと明日香の名前を出した。俺なりに伏線を張った。 明日香を意識して指示を出してくれ、イリーナさん。 乾はサードラインの上空で待機。 それを見たみさきはフォースラインへショートカット。 やった! 予定通りのその展開が続く。 「がんばれ! がんばれ! みさき先輩ッ! 超ガンバレ!」 「がんばれ! ……あのさ、明日香ちゃん」 「…………」 「明日香ちゃん!」 「あ、は、はい。どうしました?」 「凄い集中力で見てたね」 「みさきちゃんがちゃんと上のポジションの意味を理解してるってことが嬉しくて、感動してました! やっぱりみさきちゃんは凄いです!」 「当たり前ですよ! みさき先輩はなんでもできるんですから!」 「そうだね……でも疲労がたまらないか心配です」 「確かに疲れてるように見えますけど……。でも問題ありません。みさき先輩は疲れてからだって凄いんですから!」 「あのさ、明日香ちゃんが乾さんと試合をした時とほぼ一緒だよね」 「そういえば……。ショートカットさせてブイで得点ばかりです。点数の取り合いなのに、みさき先輩は一度もリードしてないのも一緒」 「このままじゃみさきは負けちゃうんじゃないの? 各務先生は、日向くんかみさきに乾さん対策を教えたんですか?」 「ん? 何も教えてないよ」 「どうしてですか?」 「それを考えることで大きくなるんだ。だから、それは晶也にさせないといけないことだ。あいつが自分自身でしなくてはならないことなんだ」 「じゃ晶也センパイが何も思いついてなかったら……」 「みさきちゃんが勝ちます!」 「どうしてそう思う?」 「晶也さんとみさきちゃんの二人が努力して、それで何も思いつかないだなんてそんなこと絶対にないです」 「この展開を打破する作戦は、そう簡単に思いつくものじゃないぞ」 「そんなことありません。二人とも天才ですから!」 「二人とも天才、か……」 「そうです!」 「……私もそう思うよ。だけど倉科、天才ってなんだと思う?」 「それは……。えっと、んと……。予想を超えて期待に応えてくれることだと思います」 「そうだね。天才なら期待に応えてくれるだろうな、きっと」 「はい! 絶対に!」 「ここからが勝負だね」 「みさきさんの疲労……ひどい、です。つらそう」 「ギリギリまで自分を追い込んでるな。日向の指示がまずいんじゃないか」 「そんなわけ……ない、です」 「そうだな。そんなわけが、ない」 「心配だね。疲れると判断力が鈍るからね」 「でも、作戦がはまれば……。鳶沢が慌てずにスモーを完遂できれば、勝つんじゃないですか」 「でも下からの攻撃の成功確率って、みさきちゃんをもってしても、そんなに高くないよね」 「それを言うなら乾だって初見ですから反応は遅れるでしょう」 「でも乾選手は凄いからね〜」 「成功……します。絶対……すると……思います」 「どうしてそう思うんだい?」 「そういうの……わかります。雰囲気で……わかります。鳶沢さんの……集中力、高い、です。今は、そういう時の……雰囲気」 「みなもちゃんが言うならそうなんでしょうね」 「……問題はどのタイミングで晶也が指示を出すかだな」 「鳶沢がどれだけ集中していても日向が指示のタイミングをミスしたら……」 「晶也さんは失敗しません。あの二人の息は……ぴったり……だから。どんどん、よく……なってる。だから、失敗しない。……悔しいけど」 「…………」 「そっか……。悔しいか」 「うん……悔しい」 「……うん」 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 みさきの呼吸が荒い。 激しい試合展開ではない。むしろ逆だ。何が行われているのかを理解していない人が見ていたら、ブーイングしてもおかしくない流れだ。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 みさきが隙を作らないように集中力を切らさないようにどれだけ努力しているか、観客の中の何人がわかってるんだろうか? 様子をうかがいながら展開が続いて残り2分で6対6。ファーストラインで乾が上のポジション。みさきがファーストブイの近く。 「みさき……次でスモー行くぞ」 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。スモーで固定しちゃうのって、どうなんだろう。微妙にテンションが下がるな〜」 「スモーでいいって言ったのはみさきだろ」 「本当にそうなるとは思わなかったんだって」 「もう少しだけ、荒く呼吸できるか? 不自然にならないようにもうちょっとだけな」 「なんでそんなことを?」 「ギリギリな状況まで追い詰められたので、無謀な突撃に行きましたって演出」 「凄い指示だね、それ」 「それもFCだよ。フェイントの一種だ。相手をだますつもりなら、このくらいのことやる。それが本気だよ。負けたくないだろ?」 「負けたくない」 「負けたくないんだな?」 「負けたくないってば!」 「じゃ、行け!」 「……っ!」 肩を上下させながら、歯を食いしばり、ムキになった顔で、みさきが突進していく。 イリーナさんを見たりはしない。しないけど、嘲笑や苦笑を口元に浮かべているはずだ。 ……決定的な瞬間までその顔でいてくれ。 「んにゃあぁぁぁああぁぁ!」 「……………」 乾が迎撃の姿勢に入る。 ──そうだよな。背中を丸出しにした、疲れきったみさきが突撃してくるのだ。 当然、迎撃する。もし、乾が何かに気づいて警戒したとしても……。 イリーナさんはどうなんだ? 気づくことができるのか? みさきに警戒できるのか? 乾に警告できるのか? みさきが斜め下から通常飛行で真っ直ぐに接近する。 乾は、ふわり、と少しだけ上に飛行する。 充分に引き付けてから自分の距離で背中にタッチするつもりだ。自分の距離を作るための上昇。自分で作った空間は心理的に動きやすい。 タイミングはどこだ? タイミングは……! 「みさき!」 「うん!」 みさきが横に半回転して背面飛行。 「……っ?!」 乾が上、みさきが下の向かい合った状態で平行飛行。 乾はそれを嫌がってみさきを引き剥がそうとする。 「……っ!」 「絶対に逃がさない」 乾が後ろに弾かれる方向に手を伸ばす。飛行を邪魔する。 乾が嫌がってみさきの手を避ける。スピードが落ちる。 行け! 行け! 行け、みさきっ! スピードが落ちて、向かい合っての超接近戦! 夏の大会前の高藤での合宿。みさきは超接近戦で真藤さんの攻撃をかわしまくった。ここはみさきの距離だ。 「えい! えい!」 「くっ?!」 みさきは半円状に体を左右に揺らす。 右から上に行くぞ、左から上に行くぞ、というフェイント。 「……っ」 乾はそれを嫌がり、みさきから離れようと前傾姿勢を深くする。その瞬間、細かな動きはできなくなる。 みさきが小さな円を描くようにして、横向きに上昇していく。 「……っ!」 「……っ!」 至近距離で上のポジション。手の届く位置に乾の背中。 「うりゃあああぁぁあぁ!!」 みさきが手を伸ばす! 「くっ!」 7対6。 反動で二人が上下に離れた。 「やった!」 「…………っ」 「え?」 乾が両目に強い感情を宿らせて、弾丸のように上昇してくる。 初速の遅いスピーダーの靴を履いているはずなのに、どうやって最初からあんなスピードを出したんだ? じゃなくて! 「みさき、気を抜くな!」 「う、うん! キャッ!」 みさきの真横を乾が駆け上がっていく。 一瞬で上のポジションを奪い返された? みさきが点を取って油断していたとはいえ、こんな簡単に? だとしても! 「みさき! 負けるな!」 みさきは素早く背面飛行の状態になる。 「負けないッ!」 「負けないッ!」 「負けないッ!」 「絶対! 絶対! 絶対! 負けない!」 背面飛行状態のみさきに突っ込んできた乾の横を横に半回転しながら上昇。 再びポジションが入れ替わる。 乾が大きく口を開ける。 「絶対、負けない!」 ――紙一重、だった。 もし、みさきがあともう少しでも油断をしたら。背面飛行にまだもう少し隙が残っていたら。 きっと、乾の迫力に飲み込まれ、再度の逆転を許したに違いなかった。 でも。 みさきは……強くなった。 一度奪ったリードを、頑なに守りぬいた。 ──試合終了。 二人の動きが止まる。 肩で息をしながら乾がみさきをじっと見つめている。 「…………」 「え?」 乾が近づいてくる。 みさきのマイク越しに乾の声が聞こえた。 「できるならもっと早くやればいいのに」 「……え」 「ポジションの奪い合い……ずっと、何度も……したかったのに。どうして最初から……しなかったの?」 声に怒りが滲んでいる。 「ポジションの奪い合い……したかったのに」 「……それはその、乾さんが恐かったから」 「私が恐い……」 みさきは頷いて、 「怖かったし、どうしても勝ちたかった。負けたら全部を失うような気がしてた」 「……私は何かを……失った……」 「あたしは乾さんじゃないからわからないけど……。……あたしは今も乾さんのこと、恐いままだ」 「…………」 「だからもし次やるとしても乾さんに勝つために、いろんな作戦を考えると思います。乾さんとポジション争いをするとか、怖ろしすぎます」 「……そう」 「……結局、わたしはひとりきりだった」 「えっ……?」 「いえ、失礼……」 乾は首を振って、 「次は……私の展開につき合ってほしいな」 「ぜ、善処します」 「……うん」 乾は笑みを浮かべてみさきから離れていく。 「そちらの作戦に見事にかかりました」 「恨み言はナシにしてくださいよ。夏の大会で真藤さんを見事に引っ掛けたのはそちらですから」 真藤さんとの試合でのことが悪いことだとは少しも思わない。いや、当時はそう思ったのかもしれない。 「この試合で確信しました」 「……何を?」 「──日向晶也は『本当のFC』ができる」 「『本当のFC』ってなんなんです?」 「知らないふりはよくありませんよ」 「…………」 「鳶沢さんでもかまいませんが、できれば次は日向さんが乾の相手をしてやってくださいね」 イリーナさんはそう言い残して、去っていった。 ──知らないふりか。 なんだか体の力が抜ける一言だな。知っていても知らなくてもそれをイリーナさんに伝えるつもりはない。 「うひ〜、なんとか勝ったー!」 「よくやった。偉かったぞ!」 「うーはー、うーはー! 乾さん怖かった! 圧迫感が凄すぎた。同じ人間とは思えなかったよー」 「その相手に真っ向勝負しましょうと言われて、善処しますって答えるのも凄いけどな」 「あ、聞いてたの? 覆面選手との会話の癖がしみついてた」 「で、どうする? その時は真正面からやるか?」 「真正面から……うん。無理」 みさきは真顔でハッキリと言い放った。 「その時が来たらまた一緒に作戦を考えよう」 「だな」 笑いながら俺は頷いた。 ──首筋がくすぐったい。 「うっ」 「ん? どうかした?」 「どうもしない」 俺は後頭部をかきながら、 「ちょっと頭の後ろがかゆかっただけだ」 「ふ〜ん」 ぞわぞわとするくすぐったさが背中にいっぱいに広がっていく。 ──みさきが、乾に、勝った。 ぶぶぶぶっ、と首筋に鳥肌が立った。 真っ黒なアメーバが、背中からわき腹に流れてくる。 「うわわわわわわわわわ! 凄い凄い凄い凄い凄い! こんなに感動したことはないです!」 「私も感動しました! 凄いです! 凄すぎます!」 「さすがわたしのみさき先輩です!」 「真白っちの中では、みさきはゲットされちゃってるんだ」 「みさきちゃんに会いに行きましょうよ!」 「日向くんが変に気にして待機場所を分けちゃったけど、別に会いに行くくらいいいよね?」 「そうですよ! そうですよ! わたしとみさき先輩を離れ離れにするなんて横暴ですもん」 「――おやめなさい」 「佐藤院さん、来てたんですか」 「今、来ましたわ。あなたのセコンドをするのだから打ち合わせが必要でしょう」 「どうしてみさき先輩に会いに行っちゃダメなんですか?」 「日向晶也の気持ちを考えたらわかるはずです」 「どういうこと?」 「決勝まで鳶沢みさきを運んで、決勝で倉科明日香と戦わせるつもりなのですわ。そのために二人を会わせないようにしているのです」 「どうして会っちゃダメなんですか?」 「友達を叩くのは難しいですわ」 「でもこれは試合であって喧嘩じゃないよ?」 「同じことです。……いえ違いますわね。なんと言えばいいのかしら」 「…………」 「喧嘩は自分の気持ちを通すためのもので、不純ですわ」 「不純なんだ」 「暴力でも、口喧嘩でも、無視でも。でも試合は、限定されていて競技の強弱を競う純粋なもの。純粋ですから、本気で試合をすればするほど負けた時の傷は大きいですわ」 「純粋だから大きい……ですか」 「わたくしと倉科明日香のように、後で友達になることができても、わたくしが倉科明日香に心を痛めつけられた事実は変わらないのですから」 「わ、わたしはそんなつもりで、佐藤院さんと試合をしたわけじゃありません」 「あなたがどう思っていようが、痛めたのには変わりません」 「乾沙希の凄さを伝えようとしたあなたを、わたくしが、今の鳶沢みさきのように倒していたら、……どうですか?」 「……自分が否定されたみたいで、心が痛くなったと思います」 「あなたでしたら、どんな結果が出ても鳶沢みさきと友達になれますわ。でも今、会ったら、会ったから本気を出せなくなるかも、と不安になりますわよ」 「そうでしょうか……」 「あなたが思わなくても鳶沢みさきが思うかもしれません。あるいは二人とも思わないかもしれない。だけど決勝までは会わずにいた方がいいのではありませんか?」 「──わたし」 「わたし、色々なことを甘く考えていたのかもしれません」 「戦うこととか、勝つこととか……負けることとか」 「……そんなことありませんわ。あなたが自分に厳しい人であることは、わたくしが、よく知っています」 「…………」 「そうでなくては、各務先生の厳しい指導に耐えられなかったと思いますわ」 「いえ、そういうことではなくて……。わかりません! うまく言えません! 私は……私はみさきちゃんとどう接したらいいのか最近わからなくて……」 「明日香先輩……?」 「そういう気持ちはよくないものなんだなって思ってました。よくないものなんだって……」 「さっき佐藤院さんは不純、純粋と言っていましたけど、私……不純なんです」 「……………」 「みさきちゃんのこと好きなのに……少しだけ、頭を掠めました」 「乾さんに負けたらどうなるんだろう、って。そんなこと、考えたくないのに……! 佐藤院さんみたいにしっかりしてないから、こんなこと考えて」 「それは違います。一般論ですけど、暗い気持ちをもっていない人間なんかいません。わたくしだってたくさん持っています。だから──」 「……だから?」 「決勝で気持ちを全部ぶつけるのですわ。会話も祝福も嫉妬も、そこから始めたらいいのです」 「はい!」 「おめでとー!」 「やったなー!」 「おめでとうございます!」 「わっははははははは! 大勝利なのだ!」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 一瞬、気まずい空気が流れる。 いや、結構前からみんなわかってはいたことだけど……。それでも本人は気づかれてないと思ってるみたいだったから……。 覆面選手はあわあわとボイスチェンジャーのスイッチを入れて、 「な、なんでもない」 「その通り。なんでもない」 部長が深く頷く。 俺は何事もなかったかのように、 「覆面選手の動きがピタッピタッピタッとはまって行くので、セコンドをやっていて楽しかったですよ。充実した気分です」 「わっはははははは!」 堂ヶ浦の選手に危なげなく5対0の完封勝ちだ。 白瀬さんは目に手をやって、 「みさきちゃんのパートナーをやらせて本当によかった」 「な、泣かないでよ! お兄ちゃん!」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 「……っ!」 再び気まずい空気が流れる。 「わ、わたしはお兄ちゃんとか言ってないぞ!」 あちゃ〜。 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 「…………」 全員が全力であらぬ方向を見て聞こえなかったふりをする。 「あ〜、そういえば……」 部長が再び何気なさを装って、 「そういや、違うFC部の生徒が、セコンドしてもいいんだったな〜」 「明日香と真白のセコンドは佐藤院さんがする、って聞きましたよ」 「お、そうなのか」 「あたしもそうだけど、明日香も真白もセコンドに向いてないからいいことなんだろうけど……。佐藤院さん、自分の試合は?」 「今回、不参加だって」 「ええ?!」 「夏休みの間、明日香にべったりだったらしいぞ」 「……明日香はやっぱり凄いな。本人は無自覚なのかもしれないけど、人を惹きつけるものがあるよね」 「そうかもな」 「さて、と。で、次の試合は覆面選手とあたしなんですけど……。セコンドはどうするの?」 「オレが覆面選手のセコンドをする」 「断る!」 「ショックだ!」 「断っちゃダメじゃないか」 「でも……」 「俺はみさきのセコンドをするけど、基本的に指示を出すつもりはないよ」 「え?」 「それは部長も一緒」 「そういうことだ。相手を見失っている時以外は何も言わない。自分達の能力だけで試合をしてくれ」 「そういうことね」 「だったら逆でもいいではないか!」 「そこは常識的に考えて納得してください」 「この試合でわたしが勝ったら永遠にセコンドを交代してもらう」 「ぜ、善処します」 「善処するな」 俺は覆面選手に振り向いて、 「俺はみさきのセコンドするって決めているので、なんとか納得してもらえませんか」 「む〜〜〜〜〜〜っ」 「あ! ……対戦相手とこんな近くにいていいのかな? 離れた方がいいんじゃないかな?」 「そんなこと気にしなくていいよ」 「気にした方がいいんじゃないですか? 試合がしづらいですよね?」 「みさきちゃんはどうなんだい?」 「あたしは別にいいんですけど……」 「わたしだって別にいい」 「それはね。二人の間にハッキリとした実力差があるから。覆面ちゃんが試合でみさきちゃんの本気を引き出すには、まだ時間がかかる」 「そ、そんなことない!」 「本気なら同席が平気とは言わないよ」 「う……」 「責めてるわけじゃないんだ。今の覆面ちゃんはここでいい。ここで強い選手と強いセコンドと頼もしい先輩を見る。それがキミの仕事だ」 「わたしの仕事?」 「そうだよ。上通社FCはキミだけだ。ここで部活がどういうものなのか、観察していけばいい」 「……うん」 覆面選手はキッとみさきを見て、 「しかし、わたしは負けるつもりはないからな! 死ぬがよい!」 「ぜ、善処します」 「と、おっと……えい!」 「くっそ〜!」 みさきがガッチリと上のポジションをキープして、得点をあげまくっている。 半分が経過した時点で10対0。 やりすぎだと思うけど……。 手を抜けとは言えない。そんなことをすれば覆面選手が傷つく。 「やっ! くっ! 上に!」 実力差がある時、上が手を抜くと、下は弄ばれたと感じる。それは立ち直れないくらいの屈辱だ。 「うわあぁぁぁっ!」 本気で潰されたほうがマシだ。どんなに屈辱的でも本気で試合ができたと思える。それが心の支えになる。 「……上には絶対に行かせないから」 だから、みさきのやっていることは、非情だけど少しも間違っていないのだ。 「うぐっ……うううっ……………うわあ……ぐずっ、ぐずっ」 ボイスチェンジャーが切れているけど、いまさらそのことを指摘する人はいない。 試合は19対0で終わった。 「ぐずっ、ぐずっ……ううっ、ふあっ……んぐっ」 顔は見えないけど、覆面の中ですすり泣く声が聞こえる。 「いい勉強になったな」 「泣けるくらい悔しいってことは、まだまだ成長できるってことだぜ、みなもちゃん」 「みなもじゃない!」 うっかり口を滑らせた部長を覆面選手が怒鳴りつける。 「本当に強くなったよ」 「19対0なのに!」 「みさきちゃんが強すぎただけで、この中では上の方に入ってる」 「ポジションの大切さを理解してるのは強みだ。この会場でそれを理解してるのは、みさきと乾と明日香と覆面選手だけだよ」 「そういうこと。相手がみさきちゃんじゃなければ、上位に入ってたぞ」 「…………」 「あ、あの、覆面選手。今までありがとうございました! そしてこれからもお願いします!」 「利用しているのはわたしなのだ! これからも強くなるために利用してやるから覚悟しておけ!」 「は、はい。善処します」 「わたしを倒したんだからな! ううぅぅうぅぅぅぅ……。優勝するがよい!」 「そ、それは、善処じゃなくて、必ず!」 乾は1回戦で負け。覆面選手は2回戦で負け。 市ノ瀬は3回戦で負け。真白は3回戦で負け。 トーナメントだ。試合が進むにつれて選手は減っていく。 準決勝でみさきは我如古繭と対戦した。 「はあっ、はあっ、はあっ……。えい!」 「くっ! うぅぅぅぅ!」 みさきと我如古さんが螺旋を描きながら、もつれ合うように上昇していった時に、試合終了を告げるホーンが鳴った。 5対3。 勝利したみさきがふらふらと俺の方へと降りてきた。 「お疲れ様」 「う〜〜〜、疲れた〜〜」 「感想は?」 「強かったけど……その……。恐くない。強いだけだった」 「恐くないか……」 「乾さんの時みたいな恐さはなかった。いろんなことしてくるんだけど何をされても、負ける、とは思わなかったな」 「やっぱり相手がポジションを知らないからか……」 「だね〜。乾さんの持ち込んだポジション取りの凄さをつくづくと実感してる。上を完璧にキープできれば、下で何をされてもそんなに恐くないんだよね〜」 「次はそんなこと言ってられないだろうけどな」 「……だね」 すでに終わっていたBブロックの勝者は明日香。 秋の大会の決勝戦は、みさき対明日香の久奈浜対決で決定した。 不意に──。 葵さんに会いたいな。 そう思った。 葵さんにいろいろ話を聞きたい。みさきのことも明日香のことも──。 今までのこと、これからのこと。 ……これでよかったのかって。こうなってよかったのかって。 こんな時になって葵さんに頼りたくなるなんて、 「甘え、だよな」 みさきが真白と会わないようにしたように、俺も葵さんに会わないようにした方がいい。 甘えが、負けに繋がる。 10分の休憩の後、3位決定戦。そして最後の決勝戦。 みさきはトイレに行っている。白瀬さんとみなもちゃんは休憩時間を利用して訪れるお客さんを見込んでブースで接客をしている。 部長が眩しそうに空を見上げる。 「うちの学院の生徒同士で決勝戦か……。不思議な気がするな」 「……ですね。こんなことになるなんて思ってませんでしたよ」 今年の初めまでは、自分がFCに関わることだってないと思っていたのだ。 それがどっぷりと関わって、こんなことになってる。 「鳶沢を応援したいけどそれはできないな。もちろん倉科の応援もできない」 「両方の応援をすればいいじゃないですか」 「いや、それは無理だぞ。俺は負け続けてきたからな」 「…………」 「試合中、両方を応援してたら、得点のたびに拍手をしていたら、最終的には勝者への応援の方が多くなるだろ? それが嫌なんだよ」 「部長は優しいんですね」 「気持ち悪いことを言うなよ」 「スミマセン」 「まだ試合が始まる前だから言っておくぞ。……勝てよ、日向」 「必ず」 ──勝つ。 勝ちたい。 でも、その気持ちが俺を苦しめたんじゃないのか? あの日。 みさきと初めて出会った日。 勝ち負けから逃げ出したのに。 それなのに──。 「必ず勝ちます」 みさきを勝たせたい。それは間違いない。その想いは鉄のように硬くて動かしようのないモノだ。 だけど……。いったい勝つってなんだ? どうしてそんなことをさせたい? それがわからなくなってくる。考えれば考えるほど、答えが遠ざかっていく気がする。 俺は──。 ぞわり、と冷たいものが体を走った。 黒いアメーバのようなものがつま先から首までを覆っている。 これから先、俺はどこに行くんだ? 「晶也、どうかしたの?」 いつの間にかトイレから戻ってきたみさきが、不安そうに俺を見上げていた。 「どうもしないよ。部長とみさきの勝利を誓っていただけだ」 「明日香と決勝戦か……。こういう日を期待してたのに。現実感がなくて不思議だなー」 「そうだな。不思議だよ」 「ん?」 「あの! これ……飲んでください! 疲労……回復、です! 短時間、超効果、が……売りの高いドリンク、です!」 「ど、ドリンク?」 みさきの顔が少し引きつる。みなもちゃんが差し入れた『雨に濡れた犬の臭い』のプロテインを思い出したのだろう。 「これはハチミツ味で……おいしいです。前は……少しだけ……いやがらせ、できたら、って思って……。でも、今はそういうの、ないですから!」 「アレは嫌がらせだったんだ?!」 みなもちゃんはみさきに近づいて、こしょこしょと何か言う。 (わたし、晶也さんのこと……すき、だったから……。ごめん、なさい) ──何を言ったんだ? 「そういうことならね。それはしょうがない。それが濡れた猫の味がしてもあたしは飲むよ!」 「あ……」 みさきは奪い取るように掴むと一気に飲み干した。 「んくんくんくんく、ぷは〜〜〜〜〜〜。おいしかった! そして疲労が消えたよ!」 「あはははっ、優勝、して……ください!」 「うん!」 みさきが大きくうなずくとみなもちゃんは頭をさげて、離れていった。 「あのさ、変なこと聞くけど……」 「ん?」 「勝つってなんだ?」 「突然なに?」 「みさきは勝つことに何かを期待してるのかな、と思ってさ」 「こんなとこまで強引に連れてきておいて今さら何を……」 「確かにそうなんだけどな。それはわかってるよ。だけど気になってさ」 「期待ね〜。この大会でわかった気がするんだけどね」 「…………」 「勝つ、ということはわりとどうでもよくて、勝ちたいって気持ちがあたしにとって大事なんじゃないかってそう思う」 「勝ちたいって気持ちか……」 「うん。勝ちたいってことはさ、全力を出したいってことだし、本気でやりたいってことだし、この場所にいたいってことだし、負けたくないってことだから」 「…………」 「これから言うことは負けた時の言い訳じゃないよ? 明日香に勝つつもりだからね」 「そんなこと疑ってないよ」 「心の片隅で巨大怪獣が来ないかなってまだ少し思ってるけど」 「まだ恐いのか?」 「恐いよ。明日香が恐いんじゃなくて、負けるのがね。まー、それはともかくとしてさ。勝ちたいって気持ちを維持できれば負けても勝ちだと思うんだ」 「どんな理屈をつけたって負けは負けだろ」 「そうだけどさ〜。勝ちたいって想いがあれば、FCを続けられるじゃない。勝っても勝ちたいって気持ちがなくなれば負けだと思う」 「……そうかもな。みさきの言ってることわかるけど、わからないな」 「どういう意味?」 「負けた時、本当に負けた時。気持ちだけで勝ったと思えるか?」 「本当に負けた時は、勝ちたい気持ちも負けちゃってるんだよ。言葉遊びじゃなくて……本気で言ってるから」 「……わかってる。みさきの言ってることわかるよ。それで正しいと思う」 「あはっ。納得してもらえてよかった。じゃ、作戦会議。言っておくけどあたし、全力を出さずに負ける、というのが一番やだ」 「理想は?」 「……う〜ん、圧倒的な楽勝」 俺は苦笑して、 「明日香相手にそれは無理だな」 「だよね〜。じゃ、晶也の考えを聞かせてもらおうかな」 「明日香は完璧を目指すタイプじゃなく挑戦するタイプだと思う。そこを狙う」 「よろしくお願いします」 「乾沙希が負けるまでは、こういうことになるとは思いませんでしたわ」 「なんとか勝てました」 佐藤院さんは肩をすくめて、 「なんとか、ですって。倉科明日香と鳶沢みさきを会わせないようにしていた、ということは勝つつもりだったのではありませんか?」 「やるからには誰が相手でも勝つつもりでした」 「倉科明日香は乾沙希よりも強いとわたくしは思ってますわ。お互いに悔いを残さないようにがんばりましょう」 「はい」 俺と佐藤院さんはそのタイミングで挨拶を終えて離れた。 ──お互い悔いを残さないようにか。 それはとても幸せなことだろうと思う。 でも……。 どっちかが負けてどっちかが勝つのに、お互い悔いを残さない状況なんて存在するんだろうか? 決勝まで来て、俺は何を考えているんだ? 一回戦からみさきがどんどん綺麗になっていくのに、見ている俺はどんどん汚れていくような気がする。 ──何を考えているんだ? みさきと明日香がファーストブイに向かって飛んでいくのが見えた。 自分の顔を両手で軽く叩く。いろいろな感情をねじ伏せるようにして想う。 勝とうぜ、みさき! 「やーやー明日香。元気にやってる?」 「はい! 元気にやってます」 「んじゃ〜、元気にやろうか?」 「ですね。よろしくお願いします!」 「こちらこそ」 二人はそこで沈黙する。 「…………」 「…………」 二人の呼吸や鼓動さえ、止まったように思えた。 一瞬、透明なアクリル樹脂を流されたみたいに、会場の全てが静止したような気がした。 波の音さえもが遠ざかっていく錯覚。 審判の合図でホーンが鳴って、全てが動き出す。あちらこちらから観客の声援。 ──ついに決勝戦が始まった。 「……っ!」 「……っ!」 ファーストラインは定石通りオールラウンダーの明日香が先行。みさきがセカンドラインへとショートカット。 「わかってるな? 最初が肝心だぞ」 「うん。わかってる」 今までの試合で明日香は上のポジションを取る。基本的にそれだけで勝っていた。 上のポジションを着実にキープされたらどうするのか? それを見せないままここまで勝ってきたのだ。 ──まずはそれを見せてもらう。 みさきはセカンドラインの上空で旋回しながら待機。 「……それっ!」 明日香がブイをタッチして、0対1。 「……みさきちゃん」 明日香がみさきをじっと見上げる。 「…………」 みさきが警戒しながらスピードを殺さないための旋回を続ける。 ここで明日香がとる行動は三つ。 ラインを飛んでブイを狙う。上空のみさきにドッグファイトを仕掛ける。サードラインへショートカットする。 ──どれを選ぶんだ? 「……っ」 明日香は緊張を全身に貼り付けて、みさきを見上げる。 でも明日香は動かない。 みさきが不安そうに質問を発した。 「明日香は何を考えてるの?」 「それは俺が聞きた──。そういうことか……」 「そういうことってどういうこと?」 「みさきも本気だろうけど、明日香も本気だぞ」 「どういうこと?」 「明日香は1点を取った。リードした。あの沈黙は自分が主導権を持っている、という意思表示だよ」 「意思表示?」 「つまりみさきが有利なポジションをキープしたままで、攻めてこないなら、こっちはそれでかまわないってことだろ」 「あー、なるほどね。私がリードしているんだから勝負をしたいなら、そっちから来たら? ということか……」 明日香らしくない気もするけど……。 横をちらりと見る。 「…………」 佐藤院さんの指示か? 「…………」 明日香を見つめる。相変わらず緊張感を漂わせている。 「みさき、明日香が恐いか?」 「さっきも言ったじゃない。恐いに決まってる」 「同じなんだよ」 「同じって?」 「明日香もみさきが恐い。だから動かずに待っているんだ。様子を見てるんだよ」 きっと、心の片隅では──。 このまま何も起こらず試合が終わらないかなって思ってる。 明日香のことだからその気持ちは小さいかもしれない。でも誰だってそういうこと考えるはずだ。 「…………」 だけどその一方で。 試合が動かないかな、とも思っているはずだ。 またその一方で、二人が動かずにいるこの緊張感を、 楽しい。 そう思っているのかもしれない。 心の片隅で、恐い、と想う。心の片隅で、楽しい、と想う。 これって今の俺の気持ちなんじゃないか? 俺もそう思ってるよな。 きっと、これは明日香だけの気持ちじゃない。 俺の気持ちだし、みさきの気持ちだし、佐藤院さんの気持ちだし。 もっと言えばこの試合を見ている人たち。 真白の気持ちだし、窓果の気持ちだし、白瀬さんの気持ちだし、部長の気持ちだし、覆面選手の気持ちだし、葵さんの気持ちだし、市ノ瀬の気持ちだし、真藤さんの気持ちだし……。 恐くて楽しい。 それなら楽しんだほうがいい。 「みさき、楽しいな」 「い、いきなり何を?」 「こういうの楽しくないか?」 「楽しいに決まってるじゃない」 みさきが弾んだ声で言った。 あ──。 全身に鳥肌が立って、試合前にみさきが言ってたこと、急に実感できた。 勝ちたいって気持ちがあたしにとって大事なんじゃないかって。 みさきはそう言っていた。 あの時は曖昧に納得したけど、今ならわかる。 結果は後からついてくるものだ。 試合は、勝つためにやるんじゃなくて、負けたくないからやるんじゃなくて……。 いや、勝つために、負けないために、やってはいるんだけど、だけどそんな結果よりも勝ちたいって気持ちが大事……。 大事だと違う気がする。もっと的確な言葉があるはずだ。 好き。好きだ。 勝ちたいって気持ちが好きなんだ。 みさきはそう言いたかったんだと思う。きっと、その気持ちを確認するために試合をしてるんだ。 試合前のみさきは素直な言葉で喋っていたに違いない。 勝ちたいって気持ちをためらいなく肯定している。それでいいんだって、考えている。 俺はずっと迷っている。くすぶっている。だからこうなっている。さっきだって嫉妬よりひどい気持ちに挫けそうになった。 みさきも俺と同じだったのに……。 みさきは乾との試合が始まる前に、 ──届けてくれて、ありがとう、晶也。 そう言ってくれた。 俺がみさきをここに届けたのか? もしそうなら俺はこれを誇りたい。みんなにみさきの凄さを語りたい。 体の奥底を何かに突き上げられたような気がした。 泣きそうだ。 「みさきのことが大好きだ」 「ちょ、ちょっと試合中に何を? ……あたしも晶也のこと大好き」 「うん。みさきはこの試合をもっと楽しくしたいんだな」 「したいに決まってるってば!」 そうだよな。 「俺もしたい」 明日香と佐藤院さんも同じことを考えてるのかな? きっと、考えてる。 もし考えてないなら巻き込めばいいだけのことだ。 「いいか? 上からゆっくりと接近してプレッシャーをかけろ」 「それは水面まで明日香を押し込むってこと?」 「そういうことだ。だけど明日香はそうならないだろう。必ず上のポジションを取りにくるぞ。時間はある。距離をとってじっくりとやろう」 「わかった」 みさきがじわじわと接近していく。 「…………」 ん? 明日香の緊張の質が変わったように見えた。 試合が動き始めたから安心したのか? 「…………」 「…………」 みさきが近づいていくのに明日香は逃げない。 「弱気になるな。接近戦は望むところだろ」 間違いなく明日香に作戦があるのだろうけど、接近戦はみさきの距離だ。 そこを怖れたら勝負にならない。 「…………」 「…………」 みさきと明日香の視線がぶつかる。 みさきはマイクに囁くように言う。 「明日香は素直な女の子だから、わかる」 「何がわかるんだ」 「これから何かをするつもりだってこと」 「集中しろ。きっと、始まったら一気に動くぞ」 「うん」 そして本当に一瞬だった。 ――これ以上近づいたら、ドッグファイトが始まる。 その距離でみさきが動くのをやめた。 一呼吸を入れてからドッグファイトを挑もう。そう考えていたんだろう。 油断だった。 上をキープしているという安心感と明日香が何をしてくるかわからない不安感。 そのどちらもがあの距離で、慎重にやろう、とみさきに話しかけて、一呼吸を入れさせたのだと思う。 「……っ?! 明日香が消えた!」 「スモーだ!」 「……っ!」 状況判断できていない、みさきは素早く背面飛行の姿勢。 「きゃっ!」 「……?!」 みさきのお腹の辺りを明日香がタッチしていた。反動で二人の間に距離ができる。 みさきは背中を海に向けた状態で下へ。明日香は背中を空に向けた状態で上へ。 「……?」 完全に背中をとったタイミングだったのに、みさきが反応したことに驚いているようだった。 「……っ」 明日香は追撃せず、上をキープするという判断をしたようだ。 「そのままスモーだ」 「今、何が起こったの? 明日香が消えたように見えたんだけど」 「明日香が猛スピードでみさきの横を抜けていったんだ」 「猛スピードって言っても明日香のグラシュはオールラウンダーのだよね? どうしてあんなスピードがでるわけ?」 「アンジェリック・ヘイローの応用技だと思う。もしくは未完成のアンジェリック・ヘイローか……」 「アンジェリック・ヘイロー。前に晶也が言ってたよね?」 「スーツのメンブレンの移動に干渉することで、一瞬で猛スピードを出す技」 「そんな便利な技があるならみんな使えばいいのに」 「難しいんだよ。とにかく難しいんだ。完成したアンジェリック・ヘイローを使えるのは世界でも葵さんだけだからな」 「明日香は各務先生から習ったんだ」 「多分な。だけど心配するな。本物のアンジェリック・ヘイローはあんなもんじゃないよ。明日香にはまだ使えない。今くらいのスピードと速さなら対応できる」 「そうなの?」 「対応はエアキックターンやコブラとそんなに変わらないよ」 「いや、もうそれだけで相当に大変だと思うんだけどね」 「気落ちする必要はないぞ。明日香が何を隠しているのか見るのが序盤の目的だったんだからな。これからが本番。作戦通りだ」 「スモーで下から攻め続ける」 「そうだ。下から、下から、下から、徹底的に下から攻める」 「了解!」 「始まったら俺の指示はもうないぞ」 超接近戦で指示は追いつかない。 「わかってる。あたしを信じて、晶也」 「信じてる。行け、みさき!」 「行く!」 背面飛行でみさきが明日香に向かう。 背面飛行で下から攻め続けるみさきを明日香がしのぐ展開が続く。 「うわぁ! えい! ……こっち!」 「えっ?! きゃっ! くっ!」 二人の声が響く。 「今度こそっ!」 みさきが明日香の脇を抜けて、斜め上から背中にタッチしようとする。 「えい!」 ──こんな場面で咄嗟に出せるのか! 明日香がエアキックターンで素早く方向転換をして、みさきの手をかわすと同時に上へと逃げる。 「まだまだ!」 みさきは少し遅れて明日香についていく。 明日香はエアキックターン、コブラ、未完成のアンジェリック・ヘイロー……。そういったメンブレンの移動させる技でみさきから逃げていく。 しかし、それらの技は一瞬の超加速だ。みさきならついてくだけならついていける。 みさきは徹底的に超接近戦を挑んでいく。明日香がどう逃げようと、明日香の腹の下に向かい合わせに、みさきがいる状態。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 これで明日香の得意な派手な空中戦も、こだわっているポジション争いも封じる。 一瞬、戦っている二人にしかわからないだろう間ができた。 「凄いです、みさきちゃん! こんな戦い方があるんですね」 「はあっ、はあっ、はあっ……負けたくないからね!」 すぐに間が潰れて、みさきが下から攻める展開が続く。 攻めて、攻めて、攻めて、次の間が来て、 「わ、私だって負けたくありませんから!」 「そう思って貰わないと困る!」 それがこの試合の最後の、間、になった。 「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、うりゃああぁぁ!」 みさきが攻め続ける。もう限界だろう、と思った瞬間、まだ動く。 スタミナのなかったみさきがここまで飛んでる。 そこまで、しなくていい。そう言いたくなる。 だけどそんなこと言える訳がない。怪我をしているわけではないのだ。やめろ、と言ったらみさきがどれだけ傷つくか。 だから、こう言うしかない。 「集中! 集中! チャンスは必ず来る! 見逃すなよ!」 来たとしてもその数はそう多くないはずだ。 0対1でリードされているのだ。そのチャンスを見逃したら負ける。 「負けたくない! 勝ちたい! 負けたくない!」 どうしてそう思うのか、みさきにもわからないのだろう。それでいい。 チャンス、チャンス、チャンス……。 明日香だって完璧じゃないのだ。 いや、相手が明日香だろうが誰だろうが関係ない。試合中に隙を見せない選手なんかいないのだ。 待っていれば必ず何かが生まれる。 勝つには、それを逃さないことだ。 「はっ、はあっ、はっ、あ?!」 みさきの呼吸の乱れに合わせて、背面飛行が乱れた。腹筋から力が抜けて、飛行姿勢を維持できなくなったのだ。 明日香に攻撃される? この時間で0対2は致命的だ。 だが、明日香は攻撃してこなかった。 みさきの誘いだと思ったのかもしれない。だけど俺はそうじゃないと思う。 きっと、明日香は試してみたかったのだ。 未完成のアンジェリック・ヘイローで、背面飛行から逃げる作戦を。 「え?」 完璧なチャンスが来た。 未完成のアンジェリック・ヘイローを失敗したのだ。横転するように横向きにスピンした。 メンブレンが変な方向へと移動したのだ。 手の動きに不慣れなものを感じていた。いつかこうなると思っていた。 「……っ!」 みさきが伸び上がるようにして上に出る。 「行けぇぇぇぇぇ!」 ムチのように右腕をしならせて降ろす。 「届けぇぇぇぇぇぇ!」 「きゃ!」 みさきの手が明日香の背中に触れていた。 爆発したような歓声。 「ローヨーヨー!」 「うん!」 みさきがすぐに姿勢を戻して急降下する。 その先にあるのはサードブイ。 「……っ」 みさきがサードブイにふれるのを躊躇する。 この試合がこんな形で終わっていいわけがない。そう思ったのだろう。 ドッグファイトで決着をつけたい。 みさきの想いが伝わってくる。 みさきが振り返った先には、 「…………っ」 全速でみさきに向かう明日香の姿があった。 「ブイだ! ふれろ! ふれろ! 手を抜くと、みさきも明日香も傷つく!」 「わ、わかってる!」 みさきはブイにタッチした反動を利用して、サードラインに向かい前傾の通常飛行で明日香から逃げる。 「…………っ!」 時間は?! あの時、みさきに無理させて最高速を調べたからわかるはずだ。 全速で逃げても間に合わないか? だったら! 「半回転して明日香の頭を抑えろ!」 「わかった! ……っ!」 「……ッ!」 ――その瞬間。 閃光という表現がふさわしい光の線が、幾重にも周囲へ飛び散った。 ……ああ、これで。 終わったんだと、思った。 残り時間の問題ではなく、得点がどうのというわけではなく。 この試合のラストは、全力での衝突なのだろうと思っていたから。 ふたりの行き着く彼方は、ここなのだろうと。 唇を強く結んだ明日香が正面からみさきに衝突すると同時に……。 試合終了のホーンが鳴った。 反動でみさきがフィールドの外へと流れていく。 「勝っ………………った」 ――2対1。 秋の大会の優勝者は鳶沢みさき。 歓声。 失敗しても失敗しても超接近戦を挑み続けて、明日香の一度のミスを逃がさずに2得点。 ドロドロの試合だ。 それでも歓声が響く。 なんでだ? 佐藤院さんが選手に聞こえないようにマイクの部分を握って、俺に話しかけてくる。 「不思議そうな顔をしてどうしたのですか?」 俺もマイクを握り隠して、 「ネチネチドロドロの試合なのにどうして歓声がと思って。決勝戦だから、ということなのかな?」 「何を言ってますの? 愚直に攻め続けた選手が一度のチャンスをものにした。それを褒め称えるのは当たり前のことです」 「……そっか」 「鳶沢みさきを褒めてあげたらいかがかしら?」 俺はマイクから手を離す。 「みさき?」 「……あはははは」 「おめでとう、みさき。優勝だよ」 「うん。うん……。優勝なんだ。晶也の言ったとおり今日はあたしの日だったのかー。でもさ、これ」 「ん?」 「乾さんとの試合といいこの試合といい、トゥ・ビー・コンティニュードって感じじゃなかった? 勝つには勝ったけど、勝っただけみたいな」 「試合に勝って勝負に負けたか……」 「そうそう、そんな感じ」 「ここだけの話にしておけよ。勝者が言い訳したらダメだ。言い訳は負けた人が自分を納得させるためにするものだからさ。勝ったのに言い訳するのかよ、って怒られるぞ」 「……そうかもね」 「もっとも乾も明日香もそんな言い訳しなさそうだけどな」 「そうだね」 ……あ。 明日香がみさきに近づいてくのが見えて、俺はそこでみさきとの会話を打ち切った。 「みさきちゃん!」 「は、はい!」 明日香の大声にみさきが大声を返す。 「あんな飛び方があるなんて知りませんでした」 「う、うん。あれは晶也たちと作ったものだから……」 「教えてください! 私、知りたいです! 私、もっといろんな飛び方をしてみたいです!」 「……いいよ。じゃ明日香もあたしにメンブレンを使った飛び方を教えてよ。あたしそっちを真面目にやってないから」 「はい! それと……それと……。今から続きをしましょう!」 「あはははは、今かー。待ちきれないかー」 「はい。私、自分で思っているよりもずっと負けず嫌いなのかも」 「勝ちたいって思うよね」 「思います」 「あたしも思う。だからしよう。いつでもいいよ。あの……確認なんだけど……」 「なんですか?」 「あたしたち、凄かったよね?」 「はい!」 「あはははは」 「あはっ、あははは」 「ありがとう、明日香」 「こちらこそ、ありがとうございました。また明日からよろしくお願いします……!」 「うん……よろしくね!」 「……うおおお〜〜ん! うおおお〜〜ん!」 「ずっとムッとした顔をして見ていたのに号泣かい?」 「これを見て号泣しない奴は人間じゃないぞ、白瀬さんっ!」 「うらやましいよ、そんな風に泣けるのが……」 「部活……素敵だね。お兄ちゃん」 「そうだな。みなももそういう部活を作れるといいな」 「うん。……がんばる」 「うおおお〜〜ん! うおおお〜〜ん! 鳶沢も倉科もがんばった!」 「各務先生! わたし達、行ってもいいですよね!」 「ああ、行って二人、いや四人を祝福してやれ」 「みさき先輩に衝突して、グラシュのスイッチを切らせて、地面に押し付けて、キスの嵐をふらせてもいいですよね。だって優勝したんですから!」 「私に聞かずに勝手にやれ」 「優勝したらそんなことされちゃうのか……。真白っち、おそろしい娘」 「わたし、先に行ってますよ!」 「まってよ、真白っち!」 「待てません!」 「うわわわ!」 「……おめでとう……晶也」 「部長、私は努力して努力して努力して努力すればいつか、あの二人みたいに……なれるんでしょうか?」 「なれないよ」 「やっぱり、そうですか……」 「あの二人みたいになる必要ない。FCは幅の広いスポーツだ。あの二人に勝てる日は、いつか来るかもしれないよ。僕はいつだって勝つつもりだしね」 「私、努力してもいいんでしょうか? 後悔しないでしょうか。努力するのが恐いんです」 「後悔するかどうかはやり終えた時にしかわからないよ」 「……私……後悔してもいいから、努力したいです。いえ……努力、努力します」 「本当に心の底からしたいことは、するしかないと僕は思う」 「私、FCをします」 「うぎゃ?!」 「みさき先輩ッ!」 大勢の人がみさきと明日香を祝福するフィールドで、真白がみさきに鮮やかすぎるスイシーダを決めたのを見てから、そこを離れた。 ……あんなスイシーダをどこで覚えたんだろう? もしかしたら真白はラフファイト向きの選手なのかもしれない。 さてと……。 人のいない場所まで歩いてから、携帯を取り出す。 「…………」 「……どうしたんだい?」 「会場にいるんですよね?」 「いるよ。優勝おめでとう。いい試合だったね」 「ありがとうございます」 「乾くんのいいところも倉科くんのいいところも潰したね。日向くんの作戦も凄いし、それを実行できた鳶沢くんも凄い」 「……はい」 「前に僕が言ったとおり、面倒な選手に育ったね」 「少し話を聞いてもらっていいですか?」 「いいけど、鳶沢くんと倉科くんを祝福する時間なんじゃないのかい?」 「二人を祝福する人は他にもたくさんいますから。どこにいます? 直接会って話せませんか?」 「わかった。僕ならまだ本部の近くにいるよ」 「すぐ行きます」 真藤さんは、初めて会った時と同じように、さわやかな笑顔でそこに立っていた。 「……じゃ、聞こうか」 でも、その口調は、いつになく真剣だった。 俺の抱えているものを、聞く前から察していたかのように。 「覚えてますか? 俺の練習相手をしてくれるって話」 「覚えてるよ」 「身体が……」 「身体がどうかしたのかい、何かよくないところがあるとか?」 「よくないと言えばよくないのかもしれません。体中から黒いアメーバみたいなものが流れてるんです。そいつにまとわりつかれて身動きできなくなりそうです」 「黒いアメーバみたいなもの?」 「簡単に言えば嫉妬ですよ。でも嫉妬以上に複雑でやっかいな気持ちです」 「優勝者のセコンドが何に嫉妬してるんだい? 嫉妬されるならわかるけどね」 「最初は明日香にだと思ってました。次はみさきにしていると思ってました。だけど違うんです」 「…………」 「乾にもしてるし、真藤さんにもしてるし、部長にも。真白にも市ノ瀬にも佐藤院さんにも……。FCをやっている人、全部にしてるんですよ」 「全部にか……。それは大きく出たね。さすが日向くんと言えばいいのかな」 「どうとでも言ってくれていいですよ。俺が飛べてないのに! おまえらどうして飛べるんだ! ……そう世界中に叫びたい気分です」 「飛べばいいじゃないか」 「そうです! 飛べばいいんですよ……だけど。俺は何年飛んでないんですか?」 「実のところ、何年か知ってはいるけど教えたくないな」 「ちゃんと飛べる自信がないです。それが恐いんです。昔とのギャップに悩むのが恐い。周囲の期待も恐いんです。俺はもう全然強くないかもしれないじゃないですか」 「それは飛んでみないとわからないじゃないか?」 「わからないのも恐いです。恐い事だらけなんです。一番、恐いのはみさきです」 「鳶沢くんが?」 「……みさきは自分のためだけじゃなくて俺のために飛んでくれたんです。嬉しくて泣きそうですよ。だからみさきのためなら、なんだってしたいんです」 「…………」 「みさきは俺が無理矢理復活させたとこもあるんです。無理に本気で練習させたし、無理に覚悟を決めさせた。本人は自分の意思でやったと言うと思いますよ」 「…………」 「だけど俺がやらせたとこだって間違いなくあります。そしてみさきは自分のために、俺のために、優勝という結果を残したんですよ。凄すぎますよ!」 「そうだね。鳶沢くんは凄いよ」 「俺が復活したとして、みさきにこれ以上のことをしてやれるとは思えない。それが一番恐いです。みさきに……みさきに勝てない自分が一番恐いんです」 「日向くんは鳶沢くんの優勝を望んでいたの? ……むしろ、最初に望んでいたのは何だったのかな?」 「え? それは──みさきが、挫折から立ち直ることです」 「で、日向くんは僕に何を望んでいるんだい?」 「それは……その──。わかりません。ただ真藤さんになら話せる気がしただけです」 「僕は海外のリーグで試合をしようと思っている。――各務先生に誘われてね」 「葵さんに……」 「君が飛ぶか飛ばないかを僕に決めることはできない」 「それはわかってます……」 「ただ一つ言えるのは、恐いって、いいことだよ」 「恐いが、いいこと?」 「恐いを乗り越える時が楽しいと思う」 「……はい」 「日向くんが決めるんだ。僕に頼らないでくれ」 「はい」 俺は真藤さんを強く見つめて言った。 真藤さんが微笑む。 決めよう。静かに強く、そう思った。 残暑だ。じりじりと太陽が砂浜を照らす。 カレンダーじゃもう秋だけど、今日に限って言えば夏だと言っていいかもしれない。 「間に合ったのかどうか、微妙なとこだな」 海岸の上空に一人。フィールドフライをしてる女の子。鳶沢みさき。 海から風が吹いてくる。 風が首筋を撫でた瞬間、記憶が蘇る。 俺は髪がメンブレンに張り付くような感触や、そこから剥がれて風になびく感触が、好きで──。 「…………」 首の後ろに手をやる。 ──ここを髪でくすぐられるような感触が好きだったんだ。 ここがくすぐったい時はFCをしている時だから。FCをするのが好きだったから。 楽しかった時の記憶。夢中だった時の記憶。 だけど──。 それらを思い出すだけで胸が苦しくて、苦しさから逃れるために時間を止めてしまった。 止まった時間を動かしたい。……いや、動かす、というのは少し違う。 最初から始めたい。空を飛ぶのが楽しいって気持ちから始めたい。 あの時の気持ちで空を飛びたい。 思い出す。 夏休みに初めて出会ったみさきになんて言われたか。みさきははじめて俺に話しかけた時どんな気持ちだったのかな? 今の俺みたいに緊張してたのかな? それとも普通の気持ちで話しかけたんだろうか? 特に何の覚悟もなく、普通に話しかけたんだろうな。 「みさき!」 「あ、晶也!」 みさきは俺に向かって降下してくる。 「最近、付き合いが悪いと思ったら、海岸で一人で練習してろってどういうつもり?」 「あ、あのさ」 「ん?」 「あのさ……」 「う、うん?」 「おーい! おーい!」 いつからいたんだろう? 見たことのない奴が砂浜から俺を見上げている。ぶんぶんと俺に向かって手を振っていた。 俺はそいつに近づきながら、 「どうした?」 そいつはやけに目をキラキラさせて俺に近づく。 「それって面白いの? やってみたいんだけど……」 はにかんだように少し笑って、 「お願いだから飛ばさせてよ!」 俺は突然のお願いにビックリしながらも胸を張って言った。 「いいよ。これはフライングサーカスっていうんだ」 「ふらいんぐ……さーかす?」 「最高におもしろいスポーツの名前!」 「それって面白いのか?」 「ん? ……面白いけど? 何、その唐突な質問」 「やらせてくれないか?」 「え? あ、はい……?」 「………」 「……? ………。んんんん?! わかった! それ、わかった!」 「わかったなら、そんなに意地悪そうに目をギラギラさせずに、スムーズに話を展開させてくれ」 「ふふ〜ん。復活の覚悟を見せるにはかなり、リスキーな手段を選んだね」 「リスキー言うな。このくらいのことしないと言いづらいだろ。何気なく言えないだろ。イベント化して、言わないといけない状況に自分を追い込まないと……言えないんだよ」 「晶也は可愛いですにゃ〜」 「あんまり意地悪するな。恥ずかしくて死んでしまいそうだ」 「いいよ。優しくしてあげるから……。最初からやり直しを、どうぞ」 「……俺も飛ばさせてくれよ」 俺は今、心の底から飛びたいって思っている。 飛ぶのはとっても恐いことだ。不安だらけだ。だけど、それでも飛びたい。 みさきはくるっと回ってから大きくうなずき、 「いいよ、やらせてあげる。だけど、条件があります」 「条件?」 「痛いことやつらいことがあっても簡単に挫折しない人しか、今回は受け付けておりません」 「覚悟してきたよ」 「ですか〜。だったら飛ぶことを許可しましょう」 「ありがとう。──ちょっと恐いけどな」 「うん。恐いのもいいものだよ」 「恐いのがいいのか?」 「恐いのって強い気持ちだからさ〜。それで他の気持ちを強くすることができるじゃない」 「それってどういう意味だ?」 真藤さんは、──恐いを乗り越える時が楽しいと思う。そう言っていた。 「恐い気持ちで努力するともっとがんばれるし、恐い気持ちで飛ぶと恐いから必死になれるってあると思うよ」 みさきは──。 みさきは凄いな。 そう思うのは何度目だろうか? まだ俺の気持ちのことそんなに話していないのに、全部、肯定されてしまった。 俺の体から染み出るこの黒いアメーバみたいな奴。 それを使って飛べって、みさきは言ったのだ。 こいつはこれでいいって、みさきは言ったのだ。 そんなこと言われてしまったら──。 みさきに何か言いたいのに……。素敵とまではいわなくて、ちゃんと気持ちの入った言葉で伝えたいのに……。 どうしても単純な言葉しか出てこない。その言葉で体がいっぱいになっているから、それしか言える気がしない。 「俺、みさきのこと好きだ」 「知ってる。あたしも本当に晶也のこと好きだから」 「凄く真剣に言ってるんだぞ」 「あはははは〜。そんなこと言う前に行動で示したらどうかにゃ〜?」 「そうだな……」 俺は顎を引いて、心を込めて言う。 「まずはファーストラインに行こう」 「え? いきなり試合をするの?」 「今の自分の実力を知っておこうと思ってな」 「それを知っておかないとどうしようもないか。了解」 みさきは先にフィールドまで飛んで俺を見下ろして叫ぶ。 「やろう、晶也!」 俺は大きくうなずく。 「FLY!」 青空に吸い込まれるように体が浮かんでいく。 フィールドで飛ぶって、こんな感じだったんだ。 体が覚えてる。嬉しさが真下からつき上がって頭から抜けていく。 ぞくぞくする。 ──飛ぶって、こういうことだったんだ。 「次はあたしが晶也を届ける番だから、心配しないでついてきて」 「心配しないっていうのは無理だな」 「お互い様。あたしだって心配だったんだから」 「そっか」 「そうだよ。それでもあたしは届けてもらったんだから……。大丈夫」 笑顔だ。きっと、俺も笑顔なんだろう。 「おいで、晶也」 色んな気持ちが吸い込まれていくような、そんな気がした。 黒い物も、きれいな物も、全部が、真っ青な空みたいに広い、みさきの笑顔に――。 「…………」 「…………」 ……まあ、隣同士というわけで、こういうことも普通にあるんだろうけど……。 「ど、どこへ行かれるんですか?」 ん? 今、デジャヴったぞ。 「……不思議そうな顔をしてどうしました?」 「一年くらい前も同じことなかったか?」 「一年くらい前ですか?」 「福留島のイロンモールに行って佐藤院さんに会ったよな?」 「……佐藤院先輩に? あ、はい! 一緒に唐揚げを食べたんですよね」 「その時もこんな感じじゃなかったか?」 「そうでしたね。もしかして今日もイロンモールに?」 「いや、残念だけど……。あ、残念って言っていいのかわかんないけど……」 市ノ瀬はクスッと笑って、 「言ってくれていいですよ?」 「みさきと約束があって」 「鳶沢さん? あ〜、デートですか。相変わらずラブラブですね」 「仲良くおつきあいさせていただいてます」 「仲良くですか……いいですね〜。うらやましいです」 市ノ瀬は肩をすくめるようにして微笑んでから、 「……ということは今日はそちらも休養日ですか?」 「高藤もそうなんだ?」 「疲労のピークですから」 夏の大会まで一週間。昨日くらいに疲労のピークを持ってきて、大会まで適度な練習をして体調を整える。 それが、いい状態で大会に出場する簡単な調整法だ。 「今日は友達と買い物でもしようかな、と思って。……あの、日向さんは真藤先輩のこと知ってます?」 「もちろん。通用するとは思ってたけど……。リーグに適応せずに新スタイルで行くとは思わなかったな」 「ああ見えて我の強い人ですから、そのくらいのことはすると私は思ってました」 真藤さんの行った北欧リーグは、ドッグファイトを得意とする選手が多いリーグだ。真藤さんは周囲にあわせるのではなく、 スピーダーのスピードの使い方とは違う、ドッグファイトでもスピードを重視して、高速の展開を相手に強いる、全局面スピード重視、という独自のスタイルを作りつつあった。 乾の試合を経験した真藤さんの出した答えなんだと思う。 「真藤先輩がいなくなって、どうしたこうしたとか、そういうことを周囲から言われないように頑張りたいです。佐藤院先輩も凄く張り切ってますし……」 目に力を入れて、 「みなさんに負けたくないです。……追いつきたいですから」 「俺だって市ノ瀬に負けたくないって思ってる」 「そんなこと言って、もしあたったら、勝ちたいというより、普通に勝つつもりですよね」 「まさか。復帰してから毎日、自分がどこまでできるのか、恐くてしょうがないよ」 「……恐いってなかなか言えないと思いますよ」 「恐いのを隠さないで飛ぶことにしたんだ」 「日向さん、強いんですね。恐いって言える人は強いと思います」 ──そう思えるようになったのはみさきのおかげだけど、それを言ったらのろけている、と思われそうなので、黙っていることにした。 インターホンを鳴らす。 「うひゃ〜。早いよ! すぐ行くから!!」 家の中から、マイクを通さないみさきの声が響いてきた。 携帯を見て時間を確認。早くない。約束の時間通り。 鳴らしたのが、郵便の人や宅配の人だったら、恥ずかしいことになるんじゃないのか? そういう蛮勇もみさきらしさか……。 秋の大会の時もそうだったけど、絶対に外しちゃいけない一撃を決める時の集中力の高さは異常。 みさきじゃなければ、あんな風にギリギリで勝つスタイルを続けることは不可能だ。 夏の真っ青な空を見上げる。 「……夏の大会まであと一週間か」 風が吹き首筋をくすぐった瞬間、少しだけ肩に力が入った。 「やっほー」 慌てた様子のみさきが出てくる。 「待っててと叫んでから……郵便の人だったらどうしよう、という恐怖に駆られて判子を探してたら、ちょっと遅れた」 「……時間の無駄だったな」 「その分、晶也に早く会いたいのに……。こんなことしてる場合じゃないのに……」 「そう考えて晶也への想いを胸に溜め込んでいたからね判子を探す時間は無駄じゃなかった。というわけで溜めた分、今日のあたしは凄い調子でいく!」 「凄い調子って?」 「ん〜と、全力で甘えるとか?」 擦り寄って、 「お腹が減ったにゃ〜。お金が欲しいにゃ〜」 「真意を簡単に見せすぎだぞ」 「あはははは〜」 後ろで手を組んで覗き込むように俺を見つめる。 「今日はどこに連れていってくれるのかな?」 「ん〜。普通に繁華街をぶらぶらするかー」 「繁華街かイロンモールくらいしか、行くとこないってわかってるけどさ〜。たまにはどこか遠くへと連れ去られてしまいたいな〜」 「今度な」 「今度? 今度、連れ去られるあたし! わくわくしてきた!」 「夏休みにやる仇州一周の超長距離レースの参加者を白瀬さんが募集してた」 「がっかりだ!」 「今回は夏の全国大会を勝ち抜けば世界大会に参加できる。海外に行けるぞ」 「そういうのじゃなくて、あたしは晶也と一緒に全身を指でつんつんしたいんだけど?」 「……それって世界の果てで発見された格闘技か?」 「世界の果ての出来事なんか知らない。旅先でイチャイチャしたいだけ!」 「そういうことを大声で言うな」 「うりゃ、うりゃ」 みさきが全身を指でツンツンする。 「くすぐったいからやめろって」 「そう言われてやめる彼女がいるだろうか? いや、いない! うりゃ」 みさきは不意に手を後ろに組みなおし、再び覗き込むような姿勢。 「……世界大会を狙ってるの?」 「まずは、昔の自分がいた場所まで戻らないと、って思うからさ。みさきは狙ってないのか?」 「当然、狙っております。って、この話はやめ! 今日はデートなんだから! う〜ん、繁華街かイロンモールの二択か……」 「ましろうどんはどうです?」 「……うどんはとても素晴らしい食べ物だけど、デートの始まりがうどん、というのはどうだろう?」 「デートをやめて、みさき先輩だけ、ましろうどんに来るということにしましょう」 「それも……あり、か」 「なしだ! って、なんで真白がここにいるんだ?」 「わたしの家とみさき先輩の家は、わりと近所ですよ?」 「だからってこのタイミングでここにいるのは変だろ」 「最近、練習続きでしたからお二人がデートするなら、今日と確信してました……」 自慢するように胸を張って、 「デートの邪魔するために、散歩を装ってみさき先輩の家の前を行ったり来たりすれば完全犯罪の完成です」 「犯罪だと思ってやってるのか」 「失礼なこと言わないでください。心意気の話です」 「完全犯罪の心意気か……」 やる気は伝わる。 「なんで邪魔したいんだ?」 「お二人の仲は認めてますけど……。邪魔しないとみさき先輩に忘れられそうで不安です」 「真白……」 唐突に両手を広げて真白をギュッとした。 「わわわっ? な、なんでこんな凄いことに?」 「いつも愛をくれるから、たまには返さないと不公平かと思って」 「こ、こんな風に返してくれるなら、ましろうどんは永遠に無料です!!」 「勢いで適当なこと言うと後悔するぞ?」 「ありがと、真白」 みさきが手を離す。 「はぁ、はぁ、これ以上されたら心臓止まってました」 「大会でいいとこまで行けそうなんだから、体調を崩すなよ?」 「崩しません。晶也センパイに勝って、みさき先輩を取り戻すんですから!」 「……あたしは真白のものだった時期があるんだー」 「当たり前です! いいですか? わたしだって頑張った結果を出したいんです。お二人ともわたしに足元をすくわれないように!」 真白はペコリと頭を下げると、ダッシュで遠ざかっていった。 「あはははは〜」 「なんで笑ってるんだ?」 「お二人って言ったよね。それはあたしを含むってことだよね? 真白にあんなこと言われたの初めてかも。よかった〜」 「よかった?」 「あたしの足元すくうって言ったのは、FCを真剣にやってるし、FCはおもしろいです、ということだよね」 「みさきがそう思うなら、そうなんだろうな」 「夏の大会までにそれを伝えておきたかったんだね」 FCに対する自分の想いを誰かに言っておきたい、という気持ちはわかる気がした。 「えい!」 突然、みさきは俺の右手首を掴んで、 「真白のために、夏の大会ガンバロー!」 そう言って万歳をするように、俺の手首を掴んだ手を上げた。 「ほら、晶也も。まだ真白に聞こえるかもしれないからさ」 みさきは俺の手首を引っ張り上げながら、 「真白のためにガンバロー!」 「ガンバロー!」 みさきに合わせて適度な声で叫んだ。 ガンバロー、だなんて声に出してしまうと……。夏の大会がそこまで迫っていることを実感してしまう。 みさきは俺の手首をキュッと強く握って、 「あのさ……。この手をこのまま手のひらに移動しても……いい?」 「う、うん」 みさきはゆっくりと俺の手首から手を離して、 「……に、握るね」 「なんで緊張? 手を握ったことは何回もあるだろ?」 「あははは……。好きな人の手を握る時はいつも緊張する」 「そういうもんか?」 「あたしの手、カサカサじゃないかな? じっとりしてるんじゃないかな? そういうので嫌われたらどうしようって」 「そんなことで嫌うと思うか?」 「……少しも思わないけど……それでも不安ですわい」 みさきは短いため息をついてから、 「デートをスタートしよう!」 握った手を大きく左右に振って宣言した。 久しぶりの音ゲーで高得点を叩き出して、テンションの上がったみさきと繁華街を歩く。 「ファーストフードでごはん。買い物してから、喫茶店で甘味。そしてゲームセンター! 凄く充実している! 定番のことって定番だけあっておもしろいよね」 「そういうもんかもな」 「とは言っても、晶也と一緒ならどこでも楽しいとは思うんですけどね」 「俺もそう思うよ」 「へー。晶也も晶也と一緒だったら楽しいと思うんだ」 「俺が俺と一緒で楽しいって、ドッペルゲンガーか?」 「哲学的な話だね、うん。あたしはこの話を膨らます気はないから、晶也ががんばって!」 「無茶苦茶なことを言うな!」 楽しそうだからいいんだけど、変なテンションだ。無理してリラックスしようとしているような気もする。 「あ……」 「ん?」 「みなもちゃんだ」 「……ッ」 くるりと背を向けて走り出した。 「え? ちょっと待ってよ!」 追いかけ出したみさきについていきながら、 「合同練習の時に変なこと言ったんじゃないのか?」 新年度になって4人の新入部員が入った上通社のFC部とは、何度か合同練習をしている。 「言ってない、言ってない。仲良くしてた!」 確かに練習後、楽しそうに会話してたし、他の部員とトラブルがあったという話も聞いてない。 「待って! 覆面選手!」 「ッ?!」 みなもちゃんの足がもつれ、道路の僅かな出っ張りにつま先を引っ掛けて、 「きゃふん!」 「だ、だ、大丈夫?!」 「怪我しなかったか?」 俺たちが差し出した手を振り払って立つと、 「覆面の話は禁止です!」 「ごめんなさい」 「どうしてわたしを追うんですかぁ!」 「それは……えっと……みなもちゃんはどうして逃げたのかな?」 「……秋の大会の時、お兄ちゃんが言ってた。本気なら同席が平気とは言わない、って」 「大会まではまだ一週間もあるけど……」 「もう……一週間しか……ない。晶也さんのことも鳶沢さんのことも好きだけど……。今回の私は……本気……です」 「そっか。……追っかけてごめん!」 みさきは深く頭を下げた。 「そんな……その……あやまらなくても」 「逃げられた時点で気づくべきだった。……一週間しかないんだもんね」 「一週間しか……ありません。私、本気でやります」 「あたしだって、また本気でやる」 「はい」 みさきとみなもちゃんは同時にうなずいて、同じタイミングで互いに背を向けた。 「行こう、晶也」 「うん」 「………」 少しの間、黙ったまま歩く。 周囲は繁華街だから、いろんな音がするはずなのに、なぜか耳に入ってこなかった。 「体に無茶させるなよ。この時期にハードトレーニングは逆効果だ」 「今から集中力を高めておくのは大丈夫だよね?」 「するなって言っても無理だろ?」 「……うん」 「海岸を見ていくか?」 「だね」 「手を出して」 「はい」 少しだけみさきを引っ張るようにして俺は歩き始めた。 「……あ」 「あ〜」 試合が近づいてきたから、動いてないと落ち着かない気持ちは痛いほどよくわかる。 「………」 わかるけど、体を休ませないといけない日に飛んではいけない。 「……あ」 フィールドフライをしていた明日香がこちらに気づき、イタズラの現場を見つけられた子供みたいな顔をした。 「明日香、降りてくるんだ!」 「は、はい」 降りてきた明日香は俺たちの近くでグラシュの起動を解除した。 「見つかるとは思いませんでした」 「練習しちゃダメだろう」 「少しだけならいいかな? と思って」 「どのくらいしてたの?」 「そんなには……3時間くらいです」 「ダメすぎる! もし、大会で明日香と試合するなら、俺はちゃんと体を作ってきた明日香としたいぞ」 「まーまー、しちゃったことを言ってもしょうがないよ」 「頑張りたくて。その気持ちが溢れちゃって……。その……」 言い淀んでから、にっこりと笑って、 「早く夏の大会が始まればいいですね」 「だね〜」 みさきが眩しそうな顔でうなずく。 「秋からどの大会にも参加してなかった乾さんが夏の大会には参加するんですよね」 「そういえば佐藤院さんは今の真藤さんのスタイルを模倣するためにいろいろやってるって聞いたぞ」 「そういうのドキドキします!」 「あたしもドキドキ」 「俺だって。……恐いけどな」 「そんなの当たり前です」 「……明日香も恐いんだよな」 「じゃなかったら、約束を破って練習したりしませんから」 「だよね。いひひ〜、恐いよね」 「怖くて、楽しいです」 明日香のその気持ちは──。 きっとあの時の──。秋の大会の決勝戦の時の気持ちだ。 「早く夏の大会が始まればいいですね」 「もうすぐだよ」 二人が同時に微笑む。 遠ざかっていく明日香の背中を見つめていたみさきが、 「明日香の気持ち、よくわかる」 「俺だってわかるよ」 「だよね」 自分の胸の中を覗く。 少し意識しただけで無数の疑問が渦巻く。うずうずする。じっとしていられない。 「復帰して今日までどうだった? あたし……晶也を届けることができたかな? 届いてる?」 「届いてる」 滅茶苦茶な感情から目をそらさなくても歩ける場所に俺はいる。 あの気持ちと一緒に飛んでる。これがあるから飛べるんじゃないかって今は思う。 「そっか、届いてたんだ。あたしは……悩んでる。夏の大会でいろんな人があたしを目指して来るのが恐い。あたしってそこまでの選手かなって思う」 「悩んでるから飛べるんだ。それが今のみさきだから、そのままのみさきで飛べばいいよ」 「そのままのあたしで……」 「その疑問で試合をして、そして勝てるはずだ。自分に疑問を持つとメンタル面の弱点になるかもしれない。だけど、疑問を持つということは進化できるってことだからさ」 「前向きだね」 「みさきが教えてくれたことだよ」 「そうなんだ」 「そうだよ」 呆然と俺を見つめていたみさきはゆっくり微笑んで、 「……夏の大会、あたしとあたったらどうする?」 「勝つよ。だからみさきも勝つつもりでこいよ。俺とみさきだから、試合でどんな結果が出ても、好きなままだよ」 「あたしはあたしが好きな人に勝って欲しい気もするけど、手を抜いた状態で勝たれても困るからね〜」 「俺だって手を抜かれたくないよ」 「よし!」 「よし?」 みさきは俺たち以外に誰もいない砂浜で海に向かって叫ぶ。 「優勝〜するぞー! あたしは全部出すから! 晶也を好きな気持ちで、晶也と試合する。あたしの全部、全部。本当に全部でする」 「俺もそういうみさきと試合がしたいと思ってる」 「試合だけ?」 「ん?」 「あたしは全部の全部で晶也が好き。だから……うまく言えないけど、そ、そういうことだから!」 「俺はみさきの全部が……全部好きだから、みさきの全部とつきあい続けるよ」 「あはははは、うん。うん!!」 再びみさきと手をつなぐ。 一緒に赤い空を見上げる。 言葉じゃ足りない感情がたくさんあるけど……。 だけど、みさきと手を握っていると、そういう気持ちが伝わる気がして安心する。 みさきとならどこまでも飛んでいける気がする。 「………」 静かに空を見上げるみさきの横顔を見つめながら、俺はそんなことを考えていた。 きっと、遠くまで、行ける。 噛み締めるようにそう思った。 風が吹く。 首筋がくすぐったい。俺の好きな感触だ。 ──飛んでいこう。 みさきに届けてもらった心をしっかりと抱えて……。 「みさきルートEND」 部活の時間。 ……そういえば以前、真白が言っていたな。 みさきに俺たちの進展やその他諸々を根掘り葉掘りと聞かれると。 それとなく気にしてみるか。 「はぁ、はぁ……さー、正直におじちゃんに話してごらん。晶也とは一体どこまで進んだの……?」 「え、え〜っとぉ」 「早速かい」 「あいたっ」 俺からすこっと後頭部に手刀を食らったみさきは痛くもないはずの頭をさすりながら、 「冗談じゃんか〜」 「堂に入ったセクハラに見えたけどな」 「お姉ちゃんとしてはね、弟分と妹分の明るい未来が家族計画になっちゃわないか心配なんだよ〜」 「誰が弟分だ」 「あとはちょっと多感な思春期少女の興味本位。にひ」 「みさきの場合は120%それだろ」 「なにさ、女の子だってみんなそういうのに興味津々なんだから」 「あたしだって……もちろん真白だってね」 「っ」 いたずらっぽく下から見上げてくるみさきの言葉にちょっとどきっとする。 「み、みさき先輩っ」 「あたし良い子だから嘘ついてないも〜ん」 「まあ本当か嘘かはさておき、練習とそれ以外の時間の区別はつけよう」 「それ以外の時間になら聞いていい?」 ここで、あたしもう部員じゃないも〜んと言わないみさきは、いいやつだと思う。 「……個人的な希望はともかく関知はできない」 「やたっ」 「センパ〜イ」 真白が縋るような声をあげるが頑張ってもらうしかない。 幸い今のところはまだ……あ〜いや、電話の内容とか聞かれたら死にたいな。 真白の防御力に期待だ。みさき相手だと紙よりも柔らかそうだけど。 ……っていうかこのふたり、過去、本当に何もなかったんだろうな? 恋愛的には何もなかったとしてもノリで、 「キス、試してみよっか」 「やだ、恥ずかしいですみさき先輩……あっ」 ……俺、自分では過去にこだわるほど小さい男じゃないと思ってたけど普通に嫉妬するなこれ。 いや、それが男として小さいかどうかは状況によるし賛否が分かれるとしても、今の俺はもっと悠然とありたい。 「ひっひっひー、覚悟してもらおうかお嬢ちゃん」 「やあぁぁ〜」 「手をわきわきさせるな」 「あいたぁ。……あれ、なんかさっきよりちょっとだけ力入ってない?」 「気のせいです」 まだまだ男としての忍耐が必要のようだった。 「みさきってスピーダーはできるか?」 「そりゃできるけど……。多分できるだけってレベルだよ。なんで?」 「ああ、いや。こないだ真白がやった高藤との練習試合の記録映像を見たんだけどな。実戦での経験不足を露呈させられてさ」 相手の市ノ瀬は見事に課題を浮き彫りにしてくれたと思う。 「あー、いないもんね、スピーダー」 そう、今の一番の課題は、うちにスピーダーがいないという点だった。 部長に頼むというのも有りだけど、少し受験勉強するとかで最近はあまり顔を見ていない。 「実際に試合をやって、やっぱ慣れる必要はあるかなと」 「真白がいなし方を身体で覚えるか晶也がもう0.5秒早く指示を出すかだもんね」 「じゃあ真白のスピーダー対策は当初の予定通り、俺と明日香で進めることにする」 ちなみにその明日香は今、窓果にフィールド10周のタイムを計ってもらっているところだ。 頑張れ明日香。応援してるぞ。 「じゃあ代わりにあたしは真白をファイター対策のエキスパートに育てて進ぜよう」 「よろしくお願いします、みさき先輩!」 「でもどうしよっか」 「何が?」 「前にも言ったと思うけどさ、あたし、人に教える才能からっきしなんだよね。面倒だし」 「でしたらみさき先輩の得意なこととか苦手なことを教えてください!」 「え?」 「わたし、対みさき先輩のエキスパートになります! それってちゃんとファイター対策にもなると思いますし」 「ん。頼もしいね」 「そうしたら、みさき先輩がFC部に帰ってきたとき、わたしきっとお役に立てます! 一石二鳥です!」 「…………」 「…………」 ものすごく嬉しそうに言い切る真白に、俺とみさきは一瞬言葉を失う。 いや。 「……眩しいなあ」 「え?」 「ん〜? いや眩しいにゃあってね。やる気があるって若さがあたしにゃうらやましいよ」 「若さがって、つまんないことツッコませるなよ」 「よろしい! あたしが真白を立派な『対みさきちゃんエキスパートマッシーン』に改造実験してあげよう!」 「わーい!」 「いや、改造はしないでくれよ。念のため」 「これは、こんなことされたら流石のみさきちゃんも頭くらくら、たじたじになっちゃって、やだ意地悪しないでもう我慢できないよぉ! って技だから」 「ごくっ……!」 「おいこらFCの話だよな!?」 とりあえず方針は決まったので、あとは任せてフィールド10周飛行中の明日香の元に戻ることにする。 「さてと、じゃあまずは」 「はいっ」 「はぁ、はぁ……ま、晶也とはもうチューくらいしたの……?」 「ちょっとは懲りろ」 「あいたぁ」 「そ、そんな、キスとかまだまだ全然、全然っ」 「真白も馬鹿正直に答えなくていいから」 先が思いやられる。 部室で俺と真白の仲をカミングアウトしてから一週間ほどが経った夜。 分解したグラシュパーツのメンテナンス動画を映すPCのディスプレイからふと携帯へと視線を移動させる。 「……今日はこないみたいだな」 俺と真白の電話は、通話料金の関係から終了を23時と決めているので、掛かってくるのはだいたい同じ時間になる。 今夜はそれがなかった。 明日は、付き合い始めてから初めて部活が休みになる。 連絡があったら福留島にでも遊びに誘ってみようと思っていた。 行けなかったけど、こないだ遊びに誘ったときも絶対絶対絶対絶対また誘ってくださいって舌噛んでたし。 「残念だな……」 いや違うだろ、そう考えるんじゃないって。 「真白は偉いな」 俺の彼女は頑張り屋だ。 毎日くたくたになるまで部活で練習して、自主的に朝練や夜練までこなし、さらに夏休みだから家業の手伝いも忙しいと言っていた。 こないだの誘いを断ったのも、ましろうどんのヘルプが理由だった。 そして夜には俺に電話をしてきてくれる。 毎日じゃないのは、きっとくたくたの日もあるからだろう。 だから真白が忙しそうな今は俺から電話するのを控えていた。 朝夜の自主練も、俺が行くと言うと真白にやるように強要させてしまいそうで遠慮している。 これだと真白が一方的に俺を好きみたいで気が引けるが、いやいや俺だってどれだけ真白に電話したいことか! 声が聞きたい。センパイって呼んでほしい。側にいて……ああストップストップ。冷静になれ俺。 俺の個人的な願望はさておき、真白を応援したいのは本当だ。 そして真白が望んだときは、言葉通りすぐに飛んでいく。力になる。そういう俺でありたい。 だから今日は…… 「……メールくらい、いいよな?」 せめてもと、労いのメールを送る。 「さてと」 真白が頑張ってるんだ。俺も負けてはいられない。ストイックに前に向かおう。 とりあえず明日は学生の本分、残っている宿題を片付けて、FCのシミュレーションを組み立てる。それから…… 「昼は久しぶりに冷やしうどんとか食いたいな。そういえば旨いうどん屋があったよな。なんてったっけ。ましろうどん?」 「…………」 自分の白々しい棒演技にちょっとへこんだ。 「…………」 「いくらベッドの上で正座して待ってたってセンパイからの電話はこないぜー」 「どうしてそういうこと言うのよぅ」 「だって今まで一度だってそういうピンポイントな用件でセンパイから電話がきたことはねーんだぞ」 「なかったものが急にあるとかな、そんな都合のいい話はこの世にはないんだよ。ケケケ」 「……理由、あるもん」 「理由だあ? なんだよそれ?」 「……センパイ約束してくれたもん。またデート誘ってくれるって。わたし信じてるもん」 「あのセンパイ、案外どっか抜けてそうだからな。明日休みだってことも気づいてないんじゃないか?」 「それは……」 「だーからこないだ遊びに誘ってもらった時にさ、ちゃーんと頷いておけばよかったんだよ。それをしょーもない理由でしょーもなく断るからよー」 「しょーもなくない。うちの手伝いしなきゃだったし」 「それだって言い訳じゃねーか。時間さえ気をつけたら遊びに行っても充分間に合ったろ」 「…………」 「ほれ、ホントのこと言ってみろよ。自分の嘘を両親に申し訳ないと思わないのか」 「し、した……」 「下?」 「下着が、上下、ばらばらだったから……」 「真白はエロいよな」 「〜〜〜っ」 「しょ、しょーがないでしょ! 男の人と付き合ったことなんてないんだから、どこで何がどーなるかなんてわかんないんだもん!」 「にしたってそんな急展開あるかよ。少女漫画の読みすぎかっつーの」 「じゃあ、もしあったらどう責任取ってくれるのよ! わたしに、なんていうか……ハイヨーヨーとかローヨーヨーしてきちゃったらどうするわけ?」 「……お前とりあえずその隠喩を使ったことをFCに、あと嘘ついたことをご両親に、心の底から謝っておけ。罰当たるぞ」 「FCの神さまごめんなさい。お父さんとお母さん、ごめんなさいごめんなさい」 「まあもう手遅れかもしれないけどな」 「あとさっきの話だけどな、センパイがやばくなったってお前が毅然として断れば済む話だろ」 「…………」 「おいっ!?」 「うるさい黙れ」 「……まあお前がいいんならいいんだけどさ」 「センパイって奥手そうだし、FCに一生懸命だからデートとかそういうのは秋の大会が終わるまでお預けだろうなって勝手に覚悟してた」 「だけど一度期待しちゃったから止まらなくなっちゃってるんだってば〜」 「もういいから電話しちゃえよ」 「電話が毎日くるとかさ、めんどくさい女って思われないかな?」 「その考えがめんどっくせーよ!」 「でも、こういう関係になってセンパイからは電話一度も掛けてきてくれないし……」 「案外真白が気づいてないだけで真白の身を案じてとかかもしれないぜー? ……って結局かけねーのかよ!」 「こりゃ明日も明後日も1ヶ月たっても泣き寝入りだな」 「そういうこと言わないでよもー!」 「それとも……久しぶりにオレたちの世界で遊ぶか? 楽しいぜー? 朝までレベル上げ三昧」 「え、それホントに楽しい……?」 「おいおい忘れたのか? おまえはずっとオレたちと……」 「センパイっ!」 「センパイだ、センパイだっ、センパイからのメールだぁ〜! やぁ〜><」 「センパイだ、センパイだっ、センパイからのメールだぁ〜!  やぁ〜><」 「きっと電話していい? って! デート行かない? って!……えっとえっと……」 「『明日は休みだからゆっくりと休んで。俺もそうする』」 「え……なにこれ?」 「お前の希望にトドメを刺しにきてるな」 「ふふ……ふふふふ……」 「いや、待ておまえ。今ならまだオレとゲーム堕ちするという道もだなぁ……」 「もうダメ。もう無理。明日はわたし、センパイの家に押しかける」 「自分から押しかけておいて『えへへ……来ちゃった』ってちょっと恥ずかしそうにかわいく上目遣いで言うの。決めたの」 「まーお前がいーならそれでいーけどな」 「でもって、てっ、てててて、手を、つないでみせ……」 「つなげたら……いいなぁって」 「……お前ってエロいわりにヘタレだよな」 「ささやかな願いって言って!」 「まーいいけど。にしても、ここまで来ると、なーんか物足りないような気が……」 「真白ー? 呼んだー?」 「ちょっ、もうノックもなしに入ってこないでよ! 出てって。回れ右っ」 「あら真白ったらカリカリして。まーた日向くんのことで悩んでるの?」 「あっ、ああああ当てずっぽうで変なこと言わないで!」 久しぶりの休日。 ふと、うどんが食べたくなった俺が彷徨うと偶然にもこのうどん屋さん『ましろうどん』に辿り着……って、それはもういい。 「……俺、ストーカーっぽくないかな?」 店の前まで来て、ちょっと怖じ気づく。 いや、ちょっと彼女の家の家業であるうどん屋に客としてうどんを食べに来ただけだ。それ以上のことはしない。 状況を見極めて、それに対応する行動も取れるはず。 そもそも忙しい時間帯は知人として避けようと、お昼どきを遥かに回った今のこの時間と、最低限の配慮はしているつもりだ。 真白の話によると、まだご両親にカップルバレはしていないそうで特別気にする必要はない。……というか、バレていたらそもそも来ない。 あとは店に入って、 「いらっしゃいませー。……あ、センパイ!?」 「こんにちは」 「こちらの席へどうぞ」 「はい、お冷やをどうぞ。……どうして突然来ちゃうんですか」 「おいしいうどんが食べたくなっただけさ」 「もう……センパイってば」 「お待たせしました、冷やし天ぷらうどんです。……センパイのだけ特別に、特製ましろすぺしゃるです」 いや、ないけどなこんな展開。 あとうどんを作っているのは真白の親父さんだそうなので本当に特製ましろすぺしゃる(仮)がきたら、ちょっとこわい。 もしくは喫茶店のドジっこウエイトレスさんみたいに、 「お待たせいたしました〜。ましろうどん特製天獄うどんで……はわわわわっ」 「熱っちいいいいぃぃぃぃいいいい!!!」 死ぬ。これは死ぬ。 あと、著しく自分の彼女を侮辱しているような気がした。ごめんなさい真白さん。 「さてと、じゃあ行くか」 必要のないシミュレーションを経て、店内に入る。 「ざる2枚、天1枚お待たせしましたー。はい、追加のご注文ですね。どうぞー」 「はい、お冷おかわり? すぐお持ちいたしますので少々お待ちくださいねー。お会計お待ちのお客様、ただ今まいりますー」 「はーい天獄あがったのね、了解ー。……お待たせいたしました。ご注文がお決まりのお客様からどうぞー」 「…………」 入った店内は戦場だった。 あれ? こういう事態を避けるためにお昼が回るまで随分と待ったはずなんだけど…… 「いらっしゃいませー。……あらら、日向くんじゃない」 すぐに真白のお母さんに気づかれた。 「真白ならうちにいないわよ」 ……どうして客としてやってきたという発想の前に真白の不在を告げられたのか、一瞬引っかかって口ごもる。 ん? 「真白いないんですか? こんなに忙しそうなのに」 「久しぶりに部活が休みって話だから、お昼であがらせたの。案の定出掛けてったからデートかと思ってたんだけど」 まるで俺が関係しているかのような牡丹さんの問い掛けだった。 「いや、知りませんよ?」 ここで俺の言った『知りません』はデートの予定なんか入れてませんよ? ではなく、そんなこと言われても何もわかりませんよ? だ。 だってご両親にはカップルバレしてないって真白が…… 「あら、おかしいわね」 してないんだよね真白さん!? 「まあでも普段はこんな時間混まないのよ。さっきまで空いてたし。それがどういうわけだかね」 「ふふ、大変大変。困った困った」 本当に忙しいはずなのに、あまり大変そうにも困っているようにも見せない。 面識はさほどないけれど、きっととても良い人なんだろうなと思った。 「はーい。……っと呼ばれちゃった。日向くん、なに食べてく?」 「ああいえ俺は……」 こんなに忙しそうだし、真白がいないならということでまたの機会にしますと伝えようとして、 「あ」 と、真白のお母さんは何かを思いついたという風に声をあげたと思ったら、 「ねえ日向くん、このあとお暇?」 「はい?」 「ちょ〜っとオバさんを助けてほしいの」 「お・ね・が・い。ね?」 「はあ」 まあ、なんとなく、一連の流れでピンと思い当たるものはあった。 「……押そう」 「もういい加減押そう。脱水症状起こす前に押そう」 「頑張れ真白。ちょっとセンパイの家のインターホンを押すだけじゃないの」 「でも、もしセンパイに『なんで来たの?』って顔をされちゃったりしたら……」 「なに言ってるの真白。センパイがそんな人じゃないこと知ってるでしょ」 「うん、ありがとう真白。わたしセンパイを信じるね!」 「……大丈夫。情緒不安定じゃないから。不安でちょっとおかしくなってるだけだから」 「深呼吸。すー、はー」 「何度も鏡見て練習してきたし。えっとえっと……」 「えへ、きちゃった」 「うん、完璧……のはず……だと思う」 「よし行こう」 「……えっと、次に時計の秒が00になったら行こう」 「39、40、41、42……ちょっと待って」 「もしインターホンを押して、センパイじゃなくてお母さまとかご家族の方がお出になられたりしたら……!?」 「ずっとここにいるとご迷惑をお掛けするかもしれないからとりあえず一度離れよう……」 「オーケー、お母さまやご家族の方への対応はばっちり練習してきた」 「身だしなみもチェック済み、汗も拭いたし制汗スプレーも完璧」 「センパイ、どうかわたしをお守りください……」 「いくにゃん……!」 「…………」 「………………」 「……………………」 「…………………………」 「え〜っと……」 「…………」 「………………」 「これって、その、もしかして」 「嘘、でしょ……? 普段来れる理由もないから一大決心で来たのに」 「日向さんのおうちはお留守みたいですよ」 「っ!」 「皆さんお出掛けになられたみたいです。……って、あれ、有坂さん?」 「市ノ瀬さん……そっか、お隣さんだっけ」 「日向さんにご用で…………あー」 「勝手に納得しないでください」 「ふふ、朝帰りのことを考えたりしてませんよ?」 「……覚えてはいるみたいですけどね」 「だから違うの。あれは……」 「え? 日向さんにご用事ではないのですか?」 「いやね、そっちの話じゃ……あ」 「あ?」 「ね、ね、市ノ瀬さんってこの後時間あるかな?」 「ええまあ……今日は部活お休みですから」 「そうなんだ。うちと同じ……じゃなくて知ってた。だってわたし、実は市ノ瀬さんに会いに来たんだから」 「さっき何か思いついてませんでした」 「いえいえそんなまさか」 「あとそこ、日向さんのおうちです。というかしっかり日向って表札出てますけど」 「えっとえっとそれは……そう! センパイに市ノ瀬さんとの仲介役になってもらおうかな〜って思って」 「まあお留守だったし無事に市ノ瀬さんに会えたからもういいけどね」 「はあ……だとしたら私に何のご用ですか?」 「ちょっと待って……あそうだ、こないだ練習試合やったでしょ、感想戦をしたりアドバイスをいただけたらな〜って」 「でしたらせっかく来ていただいたことですし私の部屋に来ますか?」 「あ、じゃあお言葉に甘えて」 「えっと……なんとかセンパイとのことは誤魔化せた、のかな?」 「はい、冷たい麦茶です」 「…………」 「あと、こっちは私の手作りのお菓子です。よろしければ……有坂さん?」 「窓の外に何かありましたか? あ、日向さんお留守みたいですけどあまりお部屋の方をじろじろ見るのは失礼ですから」 「いいなぁ……うらやましい」 「はい?」 「あ、ううん、こっちの話。……それで今日はなんだったっけ?」 「用事そのものをお忘れになったんですか……?」 「そうじゃなくて……そう! こないだの練習試合の感想戦をやりたいなって」 「過去の統計やデータから、FCを極めると最も有利と言われているのはファイターだというのはご存知ですか?」 「えっと……聞いたことがあるかも、くらいかな?」 「特に高藤は本気でプロを目指す方も多いので、効率を求めて、矯正してでもファイターを志す数が多くて」 「最初から少なかったスピーダーが今では……なんて、ちょっと練習がままならなくなってきてます」 「わかる……」 「はい?」 「すっごくわかる! うちも今はスピーダーわたし以外いないし!」 「転向されたんですよね。ゴールデンウィークはファイターだったはずなのにこないだの合同練習ではスピーダーになってて驚きました」 「スピーダーの時代が来るべきよ。というか、わたしと市ノ瀬さんでスピーダーの時代を築くべきだわ!」 「えっと……実は鬱憤がたまってたんですか?」 「ううん、ちょっとノってみただけ。ただ、共感がすっごくできるとこはホント」 「そうですか。くすっ」 「では私も少し便乗させてもらいますね」 「大歓迎。どうぞどうぞ」 「有坂さん、私たちずっとスピーダーひと筋でいましょう」 「それ無理。だからわたしファイターからの転向組だって」 「あ〜り〜さ〜か〜さ〜ん? これからの話ですよ、これからの」 「ごめんごめん」 「もー!」 「……ふふっ」 「あははっ。今のなんかちょっとよかったね」 「ですね。有坂さんの人の悪さがよく出ていました」 「ひどーい! ……ふふっ」 「こないだの試合中に有坂さんに言われたことを思い出しちゃいました」 「え、なんだっけ?」 「わたしたち、もし違う出会い方をしてたら結構いい友達になれたかもね……って」 「あ、言った言った」 「そのすぐあと、私の返事の隙に攻撃してきて、その上よけられたら、今のは惜しかった……って」 「ううん、きっとそれは別の人。市ノ瀬さんの記憶違い」 「ふふ、有坂さんってそういう人なんですね」 「ちょっと待って。今の流れだとどう考えてもわたし悪い人じゃない!?」 「私は好きですよ?」 「……そこで小首を傾げてにこっと笑う市ノ瀬さんは、将来男をたぶらかしそう」 「どういう意味ですかー!」 「あははっ。大丈夫。うそは言ってないよ?」 「余計に問題ですー!」 「……まあ同じスピーダー同盟のよしみということで特別に許して差し上げます」 「あれっ、いつの間にか変な会に入れられてる?」 「えへ。でも本当に残念です。学校は違っても、家がもっと気軽な距離なら一緒にスピーダーの練習ができたかなって思います」 「そうだねー。市ノ瀬さんとなら楽しそう。もし通えたら、またこうやって市ノ瀬さんのおいしい手作りお菓子をいただいた、り……っ!」 「? どうされましたか急に振り返って? 窓の外……日向さんが帰ってこられました?」 「……通う」 「はい?」 「通う。わたし通うからぜひ! ぜひ一緒に練習しよっ!」 「えぇ? ですけど有坂さんに一方的に通わせてしまうのはさすがに申し訳ないですし、もしやるのなら交代で……」 「全然、ぜんぜん大丈夫! 毎日でも来る理由ほしかったし。スピーダー相手のちゃんとした練習もしてみたかったし」 「え〜っと、よく意味のわからないところがあるんですけど」 「……あ、でももちろん市ノ瀬さんの都合とかもあるだろうし邪魔になるようなら無かったことで、ね?」 「うちはずっと両親が共働きで、基本帰りが遅いです」 「ですから有坂さんがうちに来ていただけたら、ちょっと明るくなります」 「あ、いえ、別にうちは暗い陰のある家とかではないですけど」 「……いいの?」 「はい。スピーダー同盟、これにて正式に結成ですね」 「ふう、到着ーっと」 「結局センパイ帰ってこなかったな」 「ううん、でも明日からは……」 「あれ? そこにいるのは俺の愛する真白じゃないか! どうして市ノ瀬の部屋にいるんだ?」 「はい、市ノ瀬さんとFCの練習をはじめたんです。もっともっと、強くなるために!」 「マジか! 超かわいいな俺の天使は! 今晩はもう遅いから俺の部屋に泊まっていけよ!」 「〜〜〜っ」 「いやいやいや、そんな不純な動機じゃないでしょわたし? まあ頑張ってればそういうご褒美もあるかもしれないけど」 「……頑張ろう。ものすごく頑張ろう」 「それはさておき、明日わたしが市ノ瀬さんの家にいたらセンパイ、すっごくビックリするだろうな。ふふっ」 「勝手なことしちゃって怒られないかな。応援……してくれるといいな」 「それにしても、センパイ今日どこ行っちゃったんだろ」 「……まさか、誰か女の家とか……。ううん、そんな、わたしのセンパイに限って」 「でもなんだろう……。この女の勘というか虫のしらせ的な胸のざわめきは」 「信じてる、信じてますけど……帰ったらセンパイにメールしてみよ」 「ただいまー」 「いらっしゃいませー」 昼過ぎの大混乱の反動のように、お客さんが引いた店内に響いたのは真白の声だった。 どこに出掛けていたのかようやく帰ってきたらしい。 「おかえり真白。……さん」 「おかえり真白。 ……さん」 うっかり普段どおり名前で呼んだら、厨房からものすごい殺気が背中に刺さった気がしたので、遅ればせながら敬称を付け足す。 前に来たときも呼び捨てだったはずなんだけど。親父さん覚えてないのかな…… 「…………」 「……真白? さん?」 「…………え?」 「おーい、真白ー? さーん?」 驚いたのか信じられないのか微動だにしなくなってしまった真白の意識を取り戻すため、声を掛けたり、目の前で手を振ってみる。 あとすぐに敬称付けるのを忘れる。 「えっと、なんで……」 まだ状況を把握していないのか呆然と呟く真白。 俺は少し考えて、 「来ちゃった」 「どーしてセンパイがそれ言っちゃうんですかー!」 「いや、ちょっと和ませようとしただけで。えっ? そんなに怒ることか?」 「それわたしのです! わたしののはずだったんですよぉ〜!」 「まったく意味がわからない!?」 「あら真白、やっと帰ってきたんだ?」 「お母さん!」 「真白の……じゃなかった、真白さんのお母さん!」 「牡丹さん」 「……そうでした牡丹さん」 ちなみにこちらは名前呼びを推奨……という名目で強要されていた。 妙齢の女性を名前で呼ぶのは恥ずかしいが、雇用関係が発生した以上なるべく雇用主の意には沿う意向だ。 「ちょっとお母さんどういうこと!? なんでセンパイがうちのエプロンつけてるわけ?」 「前にちょっと話したでしょ。忙しい時間にパートさん入れるかもーって」 「今日、真白がいなくなってから忙しくなったから口説いちゃった」 「口説っ……!?」 「女の勘って……虫のしらせって……」 「パートさんじゃなくてアルバイトになっちゃったけどね。日向晶也くん。何か偶然にも真白と同じ学校でなんと同じ部活らしいわよ?」 「日向晶也です。よろしくお願いします」 けじめなので、きっちりと頭を下げて挨拶をする。 「お〜か〜あ〜さ〜ん」 一方で真白は何やらこみあげてくるものがあったらしく母親に対してこわい声をあげている。 「べつに無理矢理じゃないわよ? きっかけは作ったけど、晶也くん快諾してくれたし」 「センパイ!?」 「……勝手なことしてごめん」 俺は、特に厨房まで聞こえないように声量を落として謝る。 「だけど、真白が頑張ってる姿を少しでも側で応援したいって思って」 「いや、ただ単に真白と一緒にいたいっていう、ちと惰弱な気持ちもあるけど」 「わたしだって同じ気持ち……だからスピーダー同盟に……なのにどうして……」 「これからは俺もバイトでこっちに来れる。ちょっとだけかもしれないけれど近くにいられる」 俺は、真白に誠心誠意自分の思いを伝える。 真白になら届くと、受け取ってくれると信じて。 「応援……してくれるかな?」 「どうしてこうなっちゃうのよ、もー!?」 「え、ちょっと!? どうしたんだよ真白!? さん!」 不意に崩れ落ちそうになった真白の手を慌てて掴む。 そんな俺が真白から、あるカップルの悲しいすれ違いの話を聞くことになるのは、このあとすぐのことだった…… ……あ、そういえば。 咄嗟だったとはいえ、恋人になってからはじめて真白の手を握ったかも。 練習後。 「さてと」 席を立ち、鞄を持ち上げる。 「あ、晶也さん、帰るのならわたしも……あ」 「ご、ごめんなさい真白ちゃん! ついクセと言いますか条件反射で……他意はないですから!」 「いえいえ明日香先輩、そんなに気になさらないでください」 「本当は気になるくせに〜」 「み、みさき先輩!」 「よっしゃ日向くん、だったら今日はあたしと帰ろうか!」 「なんでだよ」 「なんでですか」 「なんでよ」 「なんでですか」 「わ、総ツッコミされた!」 「あ〜、でもちょうどいいや。明日香、真白と一緒に帰ってくれるか?」 「はい?……あ、なるほど。真白ちゃんが晶也さんの家に行かれるんですね」 「くんくん。なんだかえっちな匂いがするね」 「しねーよ。っていうかみさきは俺と一緒に帰ろうぜ」 「は? え、もしかしてあたしとえっちな匂いをさせる気?」 「させねーよ。ただ俺が真白の家の方に、真白が市ノ瀬の家に用事があるってだけだ」 「……いや、全然ただって感じじゃないんだけど」 「けんかはやめろぉー!」 「してねーよ」 弱チョップ。 「あうっ!」 「喧嘩なんかしてない。ただなんというか」 「なんというんですか?」 「その、わたしたちも、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって思ってるんです……」 とはいえ、意外にも俺と真白の会える機会は増えていた。 「はっ、はぁ、は、はあ〜っ……」 「大丈夫ですか? いったん休憩にします?」 「い、市ノ瀬さんさぁ……」 「なんです?」 「こないだのわたしとの練習試合、絶っっっ対、手を抜いてたでしょう?」 「まさか。そんな器用な真似できるわけないです」 「うぁ〜おかしい。おかしいよぉ。だってさすがにここまでの実力差はなかったような気がするんだけどな……」 「私に言わせてもらえるなら」 「ん?」 「有坂さんが本気じゃないんじゃないかな〜と」 「こないだの試合ではもっと気迫とか鬼気迫るものを感じたんです。肉体を凌駕する精神みたいな」 「……そりゃああのときはセンパイへの告白がかかってたから……」 「情熱といいますか情念といいますか怨念といいますか恨みつらみといいますか」 「超ピュアな愛だって……」 「はい? なにか仰いました?」 「……市ノ瀬さん、次の1on1でもしわたしが勝ったら、これから市ノ瀬さんのこと師匠って呼ぶから」 「そんなそんな。それほど実力差は……って有坂さんが勝ったのに、私を師匠と呼ぶんですか?」 「腹黒タヌキ師匠の略」 「あの、師匠関係ないですし、ものすご〜く悪口だけで構成されてるような……」 「市ノ瀬さんならきっと大丈夫。本気だけど本気に見えないわたしに勝つのなんてふんわり簡単でしょ?」 「あ〜、根に持たれてますねぇ……」 「もっとも、次の1on1のわたしはこないだの練習試合よりも強いわたしだけどね」 「……そういうの、嫌いじゃないですけど私としてはもっと穏便にやりたいです」 「受けて立つ代わりに、条件があります。私が勝ったら有坂さんは私を『莉佳』と名前呼びすること」 「そして私は有坂さんを『マシマシ』と呼ばせていただきます!」 「そんな大盛りみたいなあだ名を……市ノ瀬さんの方が絶っ対根に持ってるじゃない」 「いきますよ……」 「望むところ……!」 「はぁぁぁぁあああああああああ!!!」 「やぁぁぁぁあああああああああ!!!」 「悔しいです〜!」 「ああそう」 つまりは負けたらしい。 「惜しかったんです。ホントあれは今日一の惜敗でした!」 「うんまあまだお客さんがいらっしゃるから少しクールダウンしようか」 「センパイ、莉佳に騙されちゃだめですよ。あのふんわりほわほわした雰囲気で油断させて刺すのがきっとあの子のやり方です」 「……おまえら二人、仲良いんだよな?」 「? そんなこと考えたことないですけど一緒に練習とかやってるから多分そうじゃないかと。楽しいですし」 「それならいいんだけど」 「明日こそ莉佳の名前を『ぽんぽこ』にしてやります!」 「…………」 気合いは入りまくっているけど、目的がなんか釈然としない。 「それで今日莉佳が使った技についてセンパイに聞きたくて」 「ストップストップ。俺はまだ時給をいただいてる時間だから」 「いいですよもう。閉店までお客さん来ませんし」 「それは真白が決めることじゃないだろ。……もとい、真白さんが決めることじゃないだろ」 「慣れませんね。呼ばれるわたしも違和感すごいです」 「そういうことを言うな。店内だけでなく、どこでもちゃんとさん付けで呼んでるっていう設定なんだから」 もう店内では名前を呼ばないというのが一番賢い方法かもしれない。 「ちょっと保身に走りましたね。お父さんの心まで届くといいですけど」 「やかましいですマシマシお嬢様」 「セーンパイ」 「はい」 「怒りますよ?」 「ごめんなさい」 前門の虎、後門の狼って故事を思い出した。 「ホントお母さんに聞かれたりしたら……」 「あ、晶也くん」 「っ」 「はい。なんでしょう牡丹さん」 「今日はもうあがっちゃって」 「え? でも時間がまだ結構残ってますけど」 「そう、そこで」 と、牡丹さんは名案だとばかりに胸の前で手を合わせ、 「晶也くん、残ってる時間で真白の勉強を見てあげてくれない?」 「はい!?」 「勉強って」 「勉強というか、どうせ夏休みの宿題がろくに終わってないと思うのよ。もう8月も中盤なのに」 「そ、それはぁ……」 痛いところを突かれたとばかりの真白。 「どうかしら?」 「今までましろうどんで教わってきた仕事の中でも圧倒的に最難関ですね……ごくり」 「生唾を飲み込むほどのことですか!?」 「再試とかになっちゃう子だろ?」 大変なのは以前のテスト勉強で身に染みている。 「お願いできる?」 「はい、それはもちろんです」 「うう、ご迷惑をお掛けします……」 真白が殊勝に頭を下げる。 ってことはきっと相当ヤバい状況だなこれは。 「それじゃあお二人は真白の部屋へ」 「え」 「あっ……」 その前に、真白の部屋で二人きりというこれはこれでヤバい状況になることも思い当たる。 まあでもご両親もいるわけだし、その手の期待はできない。 「…………」 ……と思ったら、超意識してる俺の彼女が一人いた! 「……(ちらっ)」 いや、ちらっじゃなくて。バレるバレる。 「まあきっと真白の部屋が散らかってるでしょうから今日はここで、次回以降はそっちでということでどう?」 「ええ構いません」 「ほっ……」 真白じゃないけど、俺もちょっとほっとした。 実際にはそれほどたいしたことを言われているわけじゃないけど、急にくるとドギマギしてしまう。 「じゃあそういうことでよろしくね。そっちの奥のテーブル使っちゃって」 「わかりました」 「お母さんさ……」 「うん?」 「もしかして、わたしで楽しんでない?」 「何言ってるの。お母さんはいつでも真白の味方よ」 「うん……ありがとう」 「お勉強でお腹がすいたら遠慮なく言ってね。おうどんにトッピング、マシマシで持ってってあげるから」 「お母さん!?」 「ふふ」 「…………」 薄々と気づいてはいたけれど。 牡丹さんだけは絶対に敵に回したくないな…… そして、真白と莉佳のスピーダー同盟は俺のバイトが休みの日でも、 「ちょっ、ちょっと待って!」 「お」 こんな時間まで頑張ってるのか。 定跡の復習をしていた手を休め、よっと椅子から立ち上がって、窓を開ける。 「え、なに、どういうこと今の変な動きの。あ、ううん、どっかで見たことある気がする……えっと」 「大会で真藤先輩と明日香さんの試合でやってたね」 「そう、エアキックターンだ……!」 「私もようやく覚えたんだ」 「お、教えて、どうやってやるの? 簡単?」 「ちょっとコツを掴むまでが難しいけど、大丈夫、ちゃんと練習すれば、ピュッホにもできるよ」 「話逸らそうとしたのにそう呼ぶんだ……」 「誤魔化されるわけないでしょ。今の1on1の私の勝利で20個目のあだ名贈呈でーす。おめでとう、ピュッホ」 「……もういい加減ネーミングの理由聞いてなかったけどさ、ピュッホってどういう意味?」 「え、ピュアホワイトの略だよ?」 「だよって……また勝手に人の名前を変な風に英訳して……」 「熱心に話し合ってるな」 遠くて話し声までは聞こえないが、それでも白熱した議論の様子は見て取れる。 きっとテクニックやコンビネーションについて話し合っているのだろう。 俺は基本的にスピーダー同盟の練習には口も顔も出してはいない。 二人に求められていないからだ。 俺が教えられることは毎日の部活に全力で注いでいる。 その上で指導の通りばかりに練習するのではなく、プレイヤーが自分たち自身で考え、互いに意見し合い、試行錯誤を繰り返すというのは必ず何らかの糧になるはずだ。 学生だから出来ることかもしれないし、見ていてちょっと微笑ましいというのもあるけど。 「日向さーん」 「お?」 ただし、もし求められれば意見は述べるし顔も出す。 真白は恥ずかしがっているのか、こういう時に声を掛けてくるのは、だいたい市ノ瀬だったりするけど。 「今お時間大丈夫ですか?」 「大丈夫だけど、一応住宅街は飛行禁止区域だから大っぴらに声を掛けないように。俺がそっち上がるから」 「で、どうした? コンビネーションとか次善の選択肢で意見が割れたか?」 「実はですね」 「うん」 「真白ってピュッホって感じ、ちゃんとしますよね? 日向さん!」 「莉佳のネーミングセンスってかなり壊滅してますよねセンパイ!?」 「お前らいったい何の話をしてたんだよ!?」 「あっ――!?」 みさきの牽制は、それまでの細かな布石を脳裏に染み込ませてから行うので、相手は、わかっていても身体が反応してしまう。 今も、溜めを利用し、関節や筋肉の気配まで利用したみさきの右半身の牽制に、真白の身体が思わず反応する。 わかっていても手を出してしまうというやつだ。 が、そこにみさきは当然もういない。とっくに死角に入っている。 相手を見失い、身体が泳いだ真白の背後に真白の動いた逆側から回り込んでいた。 「ひひひ、ま〜た引っ掛かった……ねっと!」 みさきの鋭い突きのようなタッチが真白の背中に吸い込まれる。 「わわわわ…………っ!!!」 と、その瞬間。 「てやぁーーーっ!」 真白の身体が、少なくとも今まで真白が見せたことのない動きで、みさきの攻撃を躱していた。 「えっ……?」 「おおっ、見事にみさきのフェイントに釣られたと思ったのに、避けちゃうとは!」 「すごい……! 今の動きすごいです、真白ちゃん!」 「はぁ、はぁっ、はぁ……でき、た……?」 「ちょっと……なに、今の」 「あ、えっとえっと」 「き、聞いたことありませんかみさき先輩。エアキックターンです!」 「前に明日香と真藤先輩の試合で見たやつだよね」 「あ、そうでした……」 「私が聞いてるのは、真白、そんなことできたっけってこと。今まで見たことなかったはず」 「それはその〜、完全なまぐれですから……」 「でも最近の真白ちゃんって動きが変わりました! よりムダがないと言いますか、鋭くなった感じです!」 「え、ホントですか? 明日香先輩にそう言っていただけると自信が持てます!」 「みさきはそういうこと言わないもんね〜」 「どうして……」 「……!」 ……いや、そこでなんで俺を睨むんだみさき。 「ふっふっふ〜。赤ちゃんだっていつまでもハイハイしているわけじゃないってことですよ」 「うわ、早くも増長しはじめた!」 「すっごく素直ですね!」 「そっか〜、これからは真白のこと『真白さん』って呼んだほうがいいのかな〜?」 「いえ、もう呼び名関係は結構です……というか増長なんてもちろん冗談ですよみさき先輩?」 「これであたし直伝の目や身体を使ったフェイントまで覚えればきっと『真白さま』になれるね」 「はい! 『真白さま』はともかく頑張ります! みさき先輩、よろしくお願いします!」 「これからは真白のこと真白だって思わない……」 「はい? え〜っと……みさき先輩?」 「みさきちゃんレベルを弱から中に変更します」 「そんな、扇風機の風の強さみたい……なあっ!?」 「そーれそれそれ! しばらくは休ませてあげないからねー!」 「や、やあぁ……! みさき先輩強引ですぅ〜!」 「ふたりとも楽しそうですね」 「え〜。私はなんか邪悪なものとか感じるんだけどなぁ」 「そっか。結局あれからエアキックターンは出来なかったのか」 「はい……部活のあと、莉佳にまた教えてもらったんですけど。あれは完全にまぐれでしたね。またしばらくできる気がしないです」 「しばらくか」 「はい、いつか必ずマスターしてみせます!」 「……いいな」 「何がですか?」 「いや、そういう前向きなのは好きだなって」 「っ!?」 「ちょ、噴くな噴くな。大丈夫か?」 「ふ、不意打ちはやめてくださいセンパイ。びっくりしたぁ……鼻血出ちゃうかと思いました」 「どういう理屈だよ……」 「なんか……でもですね」 「ん?」 「最近、ちょっといいことが多いなって思って」 「FCでできることが増えてきて、皆さんが褒めてくださったり、莉佳とか友だちもできて」 「全部真白が頑張ってるからだよ」 真白が嬉しそうにしていると俺も嬉しくなる。 「何より、センパイがわたしと付き合ってくれて、うちでバイトしてくださったり勉強見てくださったりさらに自主練まで……」 「それは俺がしたいからしてるだけだ」 「あと、こうして電話で『愛してるよ真白』って言ってくれたり『好きだよ』って囁いてくださったりして」 「……おい」 「さあ、張り切ってどうぞセンパイ」 「言えるかバカ」 「えへへ……ちょっと欲張りすぎちゃいました」 「…………っ!」 「あ、ホントに言ってくれない」 「……やっぱり少しさみしそうな声を出して誘ってたのか」 「でも、ちょっと間があったから言おうか考えてくださったってことですよね?」 「はは、真白ちゃんは頭がいいなあ」 「えへー」 「もう絶対言わないからな」 「あーん、センパイー」 くそっ、かわいいな真白は。 逆に何か一泡吹かせてやりたくなった。 「あそうだ、好きだよと言えば」 「わたしは今のをもうちょっと感情を込めて囁いて欲しいんですけど」 「こないだ携帯で昔のメールとか整理してたらさ」 「はい?」 「俺と付き合う前に真白と明日香が海行ったじゃん。そんで俺が見てたの気づいて、真白がすけべってメールしてきてさ」 「え……それって」 「あれ、本文縦読みしたら『すきかも』ってなるの。もう大発見。気づいたとき笑っちゃったよ。確認してみ?」 「〜〜〜っ」 「いや、無意識ってこわいな。もう当時から真白は俺のことを好きになってくれる運命だったんだな〜」 ここぞとばかりに真白をからかう。 「……い、今さら気づくとか」 「え?」 「センパイは本当にデリカシーがないと思います……」 「いや……嘘だろ、え、ちょっと待って、あの時には……?」 「…………」 「いやいやいやいや! だってあの頃、あの状況で分かれとか絶対に無理だろ!?」 「あ〜もう終わり! はいこの話は終わりです! 時効を迎えました!」 「あ〜」 なんだよ、あんな頃にやっちゃってたのか俺は。 あれで理解しろというのもかなりの横暴だけど、これは、さすがにからかえない。 だからって懺悔っぽく『好きだよ』って言うのもおかしいし…… 「あれ?」 「どうした?」 「センパイ、どうしてメール整理なんてやってたんですか?」 「あ、や、それは……」 ヤバい。 「もしかして……かわいい彼女から届いたメールに全部保存とかかけちゃいました?」 「切る。しばらく真白とは話したくない。旅に出る」 「あ〜大丈夫です、大丈夫ですよセンパイ。わたしもやってますから!」 「女がやったらかわいいとこがあるって思うかもしれないけど、男がやってたらただただキモいだけだろ……」 違うんだ。気の迷いとか、ちょっと浮かれてしまっただけなんだ。 疲れてたというか憑かれてたというか……いつもこんな俺じゃないんだよ。 「センパイ、わたしはそんなこと思ってませんよ?」 「いや、俺も行為自体は人それぞれだと思うけど悟られたり自分から公言するのはちょっとってさ……」 「恥ずかしいんですね?」 「軽く死にたい」 「もう、仕方ないですね」 「じゃあわたしも、あとになったら軽く死にたくなるようなことをします」 「だめだ。真白は生きろ」 「センパイがなんと仰ろうと、わたしはうれしかったんですからね」 「あと……引かないでくださるとうれしいです」 「え?」 「…………」 「なんだ、おい……真白?」 「……ちゅっ」 「っ!」 「そっ、それではっ! おやすみなさいませセンパイ!」 「…………」 ディスプレイに通話終了の文字。 だけど耳に、軽くタッチするような真白のキスの音がいつまでも残っていた。 ……そういえば、はじめて真白から電話を切ったな。 電源の落ちたディスプレイを再度起動させ、メールの保存フォルダから一件のメールを表示させる。 差出人:有坂真白 件名:センパイ すけべ きょうはありがとうございま かっこ良かったこともな もしよければ今度お礼 ……確かに改行も文末も不自然だけどさ。 「いや、無茶言うなって」 いま見直しても難易度は激高い。 前提として付き合ってるとかならともかく、それもなかったんだ。 「まあでもありがたいことです」 俺は携帯に手を合わせてお礼を言うとそのまま真白宛てのメールに『好きだよ』と打って、 「…………」 送らずにそのまま消し、今度はカレンダーを立ち上げる。 今日を示す赤丸は8月の中盤過ぎに付いていた。 もうすぐ9月。24日には秋の大会だ。 それはいい。真白も明日香も順調に仕上がってきてる。 だけど。 「あと少しで夏休みが終わる……か」 「……練習、練習だったもんな」 カレンダーから今度はネットページを開いて、四島列島で開催される夏のイベントページに飛ぶ。 ……当然、軒並み全部終わっていた。 「……夏の思い出がひとつくらいあってもいいよな」 そういえば色々あって有耶無耶になってたけど一度も一緒に出掛けたことがない気がする。 「ふむ」 「……つっても、なかなか時間が合わないんだけどな」 俺の場合は部活にバイト。 真白に至ってはさらに市ノ瀬との同盟と今日だったら家の手伝いをしている。 思い立ったが吉日とばかりにやってきてしまったが、どこかに誘うかどうかは状況次第だな。 忙しそうならそのままバイトに入っても……いや、俺と真白が一緒に働くのを親父さん嫌がると思うから無理かもしれないけど。 ま、なるようになるだろ。中に入ろうと扉に手をかけようとすると、 先に扉が開いて、中から人が出てくる。 「え?」 「あれ? 日向先ぱ……っ、こっちに」 「え、ちょ、おい!?」 いきなり手を引かれ、ましろうどんの入り口から離され、物陰のような場所に連れ込まれる。 「なんだなんだ」 「真白のやつ、店に来た知り合いの気配が中からわかるんだよ。鳶沢先輩とかほぼ百発百中で当ててたもんな」 「まさか……」 と、俺が言ってる側からましろうどんの扉が開き、出てきた真白がきょろきょろと辺りを見回しているのが見えた。 首を傾げてまた店に戻っていく。 「……虎魚を見送りにきたんじゃないのか?」 「顔を作ってたからそれはないかな」 「…………」 まったくいつも通りに見えたけど。 「っていうか、俺、バレても良かったんだけど。ましろうどんに来たんだし」 「あたしが用事あったんですよ。つか、こないだは高藤でお世話になりました」 「ああ。おかげで真白の試合を見逃したときな」 顔を合わせて早々、ペースを乱されてばかりなので、ちくりと嫌味で牽制してみる。 「本当に日向先輩だったんですね。真白の相手」 肉を斬ったら骨を断たれた。 「……そうみたいだな」 「ふーーーん」 「そんな値踏みするみたいに人を見るな。少しは遠慮しろ」 「今日は何しにここまで?」 「お前は真白のマネージャーか何かか」 「素直に教えてくれたら真白のことなんでも教えてあげるんだけどなー」 「ちょっと一緒にどこかにと思って」 素直になった。 「そっか」 有梨華は少し考え込むような素振りを見せて、 「んじゃ今日はあたしとどっか行こっか」 「なんでだ」 ナイスアイディアといった表情の有梨華に冷めた顔でツッコミを入れる。 「有坂真白胸キュンエピソード聞きたくないの?」 「それは別に聞くとして」 「まあまあ、あたしのことは毒見役とでも思ってもらえれば、ね?」 「それで何をどう気持ちの整理をつけろと言うのか」 「真白まだまだ手伝うみたいだし」 「…………」 「なー? ちょっとくらい顔貸してくれてもいいじゃんよー」 「それだとお前、なんかわんぱく方面の方々の勧誘みたいになってるからな……」 「まさか真白よりも先にこんなデート紛いをするやつが現れるとは」 「先輩あたしソフトクリームが食べたーい」 「その気になってるんじゃない……」 「まあまあせっかくだから楽しみましょうよ」 「何を考えてるんだよ虎魚」 「有梨華でもいいですよ」 「は?」 「真白が認めたやつなら有梨華でもいい」 俺はしばし逡巡し、 「いや、やっぱり虎魚で」 「なんでだー!?」 「別に今さら名前呼びとかどうでもいいけどなそんなことしてるとこを誰かに見られでもしたら……」 ふと、冷たい視線を感じ、そっちの方へと視界を向けるが、誰もいなかった。 気のせいかと辺りを見回し、 「…………」 と、視線を感じた場所とは全然違う場所で、偶然居合わせたらしい知り合いと目が合った。 本当にこんなところを誰かに見られるとは…… 頭を抱えたくなりながら一応手を上げて軽く挨拶する。 市ノ瀬は、こういう時にありそうな勝手な誤解の末の曖昧な笑みでも浮かべてそそくさと立ち去るかと思いきや、つかつか向かってきた。 そして、 「日向さんこんにちは」 丁寧に、深々と挨拶する。 「誰でしたっけ? どっかで見たことあるような……」 「そちらの方は? ご紹介いただけますか日向さん」 気楽に聞いてくる虎魚とは対照的に礼儀正しい市ノ瀬。ただし目は笑っていない。 明言はしたことないけど、市ノ瀬は俺と真白の仲にさすがに勘づいているだろうから…… その俺がこんなところで別の女の子と……ってとこだろう。 「虎魚。こちら高藤学園FC部一年の市ノ瀬莉佳さん。春にこっちに越してきて家がお隣になった」 「あー、あの綺麗な飛び方してた子かぁー」 「え、あれ、FCをされてる……?」 「市ノ瀬。こちら俺の進学前の学園の後輩で今は四島水産に通う同じく一年の虎魚有梨華さん。真白の幼馴染みだ」 「なんか余計な情報が多くなかったです?」 「いや多分全部必要だ」 その証拠に、 「そっか、真白の……なるほどそうだったんですね。私はてっきり」 「てっきり……なんだ?」 「あ、え〜っとですね」 市ノ瀬は曖昧に誤魔化すような笑みを浮かべたあと、 「もちろん信じてましたよ」 「この純真な笑顔を信じられなくなる日がくるなんてな」 「だってお友達の一大事かと思ったんですよ〜」 案外あっさりと白状する市ノ瀬。 「大丈夫だ。真白を思いやっての行動だろうなってことは察しがついてるから」 「……あはは」 「お友達って真白?」 「はい。最近仲良くさせていただいてまして」 「ふーん」 「えーっと……?」 市ノ瀬を上から下まで見る虎魚の姿に、悪い考えが頭をよぎる。 「市ノ瀬はここんとこずっと真白とFCの自主練なんかをやっててな、もはや親友と呼んでも過言ではないだろうな」 「か、過言ですよ。もちろんいずれそうなったらいいなあとは思いますけど」 恐れ多いとばかりの反応の市ノ瀬。だけど俺の狙いはこっちではなく、 「親友……」 なんだかちょっと不満そうな虎魚の顔だった。 「あの、どうして私もご一緒しなければならないんでしょう……?」 「まあまあいいじゃない」 「虎魚と会って巻き込まれたさっきの俺の気持ちを味わえてるだろ」 「誤解したこと、本当に根に持ってません……?」 市ノ瀬には悪いことをしたが、思った通りだった。 虎魚はどうも真白と近しい距離の人間にやきもちに近い感情を抱いているようだ。 といっても、虎魚にもお姉さまがいたはずなので恋愛感情ではないはずだが。 「あの、それで今日はどういった会なんですか?」 「日向先輩が、真白をちゃんと楽しませられるかどうかチェックしようという会かな」 「ものすごく余計なお世話だよな」 「それで、まずは喫茶店なんですか」 「まずは、というかこれ以上移動する気はない」 「日向先輩、真白と行ったことがない場所にあまり行きたくないんだってさ。ここだって妥協の末ですもんねー?」 「別にそこまで説明することないだろ」 微妙に恥ずかしかった。 「は〜、彼女さん思いですね〜」 「なんか白々しくないか?」 「本気で言ってますよぉ」 「というわけで、ここで突然クナシマ縦断真白クイズー!」 「……なんですかそれ。ああいえ、概要はタイトルからなんとなく察せますけど」 「俺はむかーしどこかで似たようなのを聞いたことがある気がする」 本人たちはきっと全力で否定するだろうけど虎魚は真白とそっくりだった。 「本当に? 本当にそのスピーダー同盟の練習に参加してもいいのか?」 「はい、時間さえ合うなら大歓迎です。……あ、でも、虎魚さんって四島水産ですよね? あそこって全寮制でしたっけ」 「今は夏休みだからさ。もし夏休みが終わっても、休日で部の練習がなきゃ外出許可も取れるし」 「あ、でも、真白にはその……」 「心得てます。虎魚さんは私がちょっと強引に誘ったことにしますね」 「助かります! 市ノ瀬さん! いや市ノ瀬さま! 莉佳さま!」 「莉佳でいいよ。有梨華ちゃん」 「ありがとう莉佳!」 「しかしこうなってくるともうあたしがスピーダー同盟に入る必要はないよな。リカリカ同盟でも旗揚げしようか。名前も似てるし」 「それだと私、どっちつかずの裏切り者になっちゃうんだけど……」 「…………」 クナシマ縦断真白クイズが虎魚の圧勝で終わった後。 虎魚と市ノ瀬が急激に仲良くなっていた。 「……なあ、俺もう帰っていいかな?」 「練習後の帰り道、時間がちょっとでも遅くなると必ず日向先輩が送ってくれるって話は……」 思い知ったことは真白がメールで幼馴染み相手にのろけまくっていたらしいことだ。 俺なんてもう会話にほとんど加わっていないのに、帰ろうとするとネタを小出しに脅される。 「くっ……」 何が目的かはわからないけど、仕方なく席に座り直す。 「やっぱり送ったりされてたんですね」 「やっぱりって言うな」 「そうじゃなくて、そういうのちょっと羨ましいなって」 「え?」 「いえいえ、なんでもありません。と、私ちょっと」 「トイレか? いってらっしゃい」 市ノ瀬が席を立った。なにかを誤魔化したようにも見えたけど判別はつかない。 久しぶりに虎魚と二人になる。と。 「日向先輩、ちょっとこっち」 虎魚が内緒話を誘うように顔を寄せてくる。 「なんだ、どうした?」 俺が応じると、 「真白のこと、よろしく頼みます」 不意に虎魚が真面目なトーンで話してきた。 「なんだかんだで幼馴染みだからさ、一応な」 「真白と虎魚って、みさきよりも付き合い長いよな」 「あたし、ちいさい頃よくからかわれてたんですよ。ほら、色黒で虎魚なんて苗字だからおこげとか呼ばれて」 「それを助けてくれたのが真白で。まああいつが代わりにつけたあだ名がマグロだったから、からかわれるのはあんま変わんなかったんですけど」 「でも真白とマグロでセットみたいになって……そこからの腐れ縁かな」 「へえ……そういえばそんなこと聞いたな」 「あいつ、今でこそあんなだけど、鳶沢先輩と会うまではもっと大人しいメガネ少女だったんですよ」 「え、そうなのか?」 「内気というか、あんま器用に色んなことができなかったから人と関わらないように内に内に篭もっちゃって。ゲームはその頃ハマったものです」 「だけどそのくせ人一倍寂しがりで人恋しいやつで。独り言とかぬいぐるみ遊びとか凄いですよ。聞いたことないです?」 「いや、それは知らないな」 「そうですか。まあ治ったならそれに越したことはないですけど。今やっててもクセみたいなもんだと思いますし」 「とにかくオバさん……えっと、真白のお母さんがそうさせないよう構って構って」 「ちょっと過保護気味っぽくないです? いや、オバさんの性格だとあれが素なのかもしれないけど」 「あー」 言われてみれば思い当たる節もある。 「あいつのそういう性格知ってるからあたしは鳶沢先輩が苦手……じゃない、納得いかないかな? どうしてあんなに応えてあげないんだろうって」 「それが八つ当たりだってわかってるし、真白がそれでも慕ってるからにはきっと何かあるんだとは思うんですけどね」 「あたしが上手いこと真白の手を引っ張ってやれれば良かったんですけど、お互いに意地の張り合いが長いとどうも上手くいかなくて」 「虎魚は……っ?」 「虎魚は…… っ?」 聞きたいことがいくつか頭の中をめぐったところで刺すような視線を感じた。 さっき市ノ瀬と出会う直前にも感じた冷たい視線だ。視線で探すと、 「…………」 あれは……虎魚のお姉さま……だよな? 虎魚の席から見えない、背中の向こう側の目立たないテーブルにいる。 しかももの凄い厳しい視線で見られていた。 ……もしかして、今日ずっと虎魚を見張……いや、見守っていたのか? なんかちょっと怖い。 「どうかしましたか日向先輩」 「いや別に」 「? 向こうに誰かいるのか?」 虎魚が振り返る。 「……誰もいないか」 虎魚のお姉さまは身じろぎのような軽い移動でこちらからは死角になる位置に隠れてしまった。 凄い……何よりも慣れていそうなところが特に凄い…… 「日向先輩?」 「ああ、えっと」 これ以上、虎魚に不審な行動を見せるわけにはいかない。 「虎魚はさ、今はお姉さまが好きなんだよな?」 「は、はあっ? な、なんなんですか藪から棒に! 馬鹿ですか!?」 「いや、できれば真面目に答えて欲しいんだけど」 「まあたしかに誤解されそうな言い方ではあったかもしれないけど」 虎魚は自分の中で俺の質問の意図を勝手に誤解してくれたらしい。 「お姉さまが好きかって……あ、ああああ、当たり前ですよ何言わせてくれるんですか」 真っ赤になって消え入りそうな声で言う有梨華。 「…………」 お姉さま、大満足の表情してるし。 あとは何を聞こうかと思い出しているところで市ノ瀬が戻ってきて、このよくわからないイベントはお開きになったのだった…… 「……ん?」 窓の叩かれる音で目が覚めた。 ……誰だ? まだ寝ぼけたままの重い頭で窓を開ける。 「こちらからはお久しぶりです。日向さん」 「あ〜市ノ瀬か」 「もしかして寝ちゃってました?」 「いや、大丈夫だよ。机で寝てたから助かったくらいだ」 覚醒する頭が少しずつ色々と思い出してくる。 虎魚や市ノ瀬と喫茶店に行った日から数日。 俺は夏休みの終わりを意識して、今度こそ真白をどこかに誘おうと探していたんだ。 で、ちょうど良さそうなのを見つけて……それから…… 「実は、FCのことで少々お聞きしたいことがありまして。大丈夫ですか?」 「ああ……全然いいよ。俺もFC好きだし」 「…………」 「……どうかしたか?」 「日向さん、FCを好きだとかそういうことをあまり仰らない方だと思っていましたからちょっとびっくりしちゃいました」 「…………」 きっと寝ぼけているからだ。そういう判断が緩くなっている。 って、なんだったっけ見つけたの。 ……ああそうだ、花火大会だ。花火大会に誘おうと思ってたんだった。 「日向さん、そういう素直な方がいいですよ」 そうそう。こんな風に真白がいつもみたいにからかってきたところを 「あのさ、一緒に花火を見に行かないか?」 「……………………はい?」 「…………」 「え? あれ!?」 しまった……! 「…………」 寝ぼけていて真白に言うはずの言葉を市ノ瀬に言ってしまっていた。 翌日。部活のあと。 「いらっしゃいませー」 「いらっしゃいませ。……って」 「うわ、本当にいたよ」 「晶也さ〜ん」 窓果と、ちいさな声でちいさく手を振ってくる明日香。 「あらあら。じゃあ晶也くん」 牡丹さんの肩たたきにあって、微妙な気持ちを抱えながら接客へと向かう。 そうか……バレたのか。 いつかはこんな日が来ると思っていた。 とはいえ今や俺は賃金を貰う立場。仕事に私情は挟まない。 「はろはろ。日向きゅん」 「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ明日香」 「忘れてる! 大事な何かを忘れてるって!」 「そうか。そうだったな。すまない」 「店長、一万円入りまーす!」 「いきなりボッタクリなの!?」 「今度こそ冗談だよ。何しにいらっしゃりやがったんでしょうか?」 「丁寧だったら何言っても許されるわけじゃないからね!?」 「あの、晶也さん、もしかして怒ってらっしゃいますか?」 「いや、からかわれるのがちょっと気恥ずかしいだけだ」 「気にすんなよ!」 「おまえな」 おそらく真白から聞き出したのだろう。 ちゃんと店が空いている時間帯に現れたところなんか、俺が真白目当てで来たときのことを思い出す。そのまま初バイトになった日だ。 「窓果は煉獄味噌煮込みうどんにするとして明日香は何にする?」 「窓果は煉獄味噌煮込みうどんにするとして明日香は何にする?」 「あれ? 私なんか今さらっと死亡フラグ立たなかった?」 「おごるぞ」 「食う!」 窓果は最上の笑顔で頷いた。……それがこの世での最後の笑顔になるとも知らずに。 「〜完〜」 「やっぱ冷やしゆずうどんでいいや。死ぬし」 いい勘をしてた。いや至極真っ当か。 「じゃあわたしも同じのをお願いします」 「了解。冷やしゆずうどんを2枚な」 「あの、真白ちゃんはいらっしゃらないんですか?」 「真白?」 真白から事情を聞いて来たんじゃ……え、保身か何かで俺の情報だけ売ったのか? と、背中からゾクゾクっと刺さる視線を感じた。 「真白……さんなら、いない……いませんよ?」 「……なに? 虐げられてるの?」 「滅多なことは言わないでくれ。……俺と真白が付き合ってることを含めて」 小声で釘を刺す。 「なるほど」 窓果は事情を察したとばかりに頷き、 「日向くんの命運は私たちが握っていると言っても過言ではないんだね」 「ご注文を繰り返します。冷やしゆずうどんと煉獄味噌煮込みを1枚ずつ。え、煉獄は10辛ですか?」 「ご注文を繰り返します。冷やしゆずうどんと煉獄味噌煮込みを1枚ずつ。え、煉獄は10辛ですか?」 「ぐぬぬ……」 「…………」 「……お互いにこの件に関しては不干渉ということで」 「紳士淑女協定ってこういうのだろうな」 「違うと思います……」 その後は特に絡むこともなく俺は仕事に勤しんでいた。 「ここ、行った子たちの話だとすっごいいい感じの揃ってるらしいよ」 「はう〜かわいい〜。行ってみたいです〜」 明日香と窓果はファミレスの学生のように雑誌を広げて雑談を繰り広げている。 お客さんが来ないし、年相応で少しほっとするのだが、 「う〜ん、私にはちょっと子どもっぽすぎるかもしれないわね〜」 何故かその中に混ざってる牡丹さんが何か当たり前のことを言っていた。 「そんなことないですって! 牡丹さんなら充分イケてます!」 煽るな。 「え、やっぱり?」 躊躇がない! というか待ってた!? ……ん? 「そういえば、今日ってみさきは一緒じゃないのか?」 ふと、さっきから疑問に思いつつもタイミングが掴めずに聞きそびれていたことを尋ねた。 「みさきちゃん、今日はやめとくそうです」 「え、うどんなのにか……珍しいな」 「それって命に別状はないの……?」 「そこまでですか」 「…………」 「そうそう、そういえばさ、夏らしいおどろおどろしい話があったんだった!」 「怪談か?」 「ある意味もっとこわいかもね。男と女のイザコザだから」 「そういう話……」 と言いかけて、はっと思い当たる。 「まさかとは思うけど、俺と真白の暴露話じゃないよな?」 だとしたら確かに怪談よりもゾッとする。 「違うって」 「そっか……」 「晶也さん、さっき何て言いかけていたんですか? そういう話〜って」 「え? ああ、そういう男と女の話、好きなやつは好きだよなって」 「有坂牡丹、ピー歳。好きな言葉は修羅場です」 「青柳窓果、理想体重38キロ。得意な検索ワードは、浮気、不倫、復讐、慰謝料……あとはえっと」 「ごゆっくり」 俺はその場を離れた。 「これは友だちに聞いた話なんだけどさ、まずあるところに普通のカップルがいたと思いねぇ」 テーブルを順に拭いていくがどこに行っても窓果の声は聞こえてくる。 なぜ突然語尾が江戸っ子になったのかはわからない。 「でね、男が浮気性か出来心か知らないけどさ、彼女とうまくいってるはずなのに違う女の子にまで声を掛けたんだって」 へえ……詳しい事情はわからないけれどそこだけ聞くと随分と見下げた男がいたもんだな。 「で、男の方は最初から誤解だったのか目が覚めたのかわからないけど、やめとこうってキャンセルしようとしたの」 順当だな。 「だけど誘われた女の子の方がまた女の子〜って感じの女の子だったらしくてさ」 「そもそも男には少なからず好意を持ってて、そいつに彼女がいたこと知らなかったから、断られそうになったら泣いちゃって」 頑張れ男。自業自得だ。 「結局、女の子自身や先に誘った罪悪感もあって、男は彼女に悪いと思いつつ、女の子と一緒に花火大会に行ったんだって」 「……っ」 俺はズッコケて机に頭を打った。 「なにかすごい音がしましたよ!?」 「ちょ、大丈夫? 日向くん」 「滑って転んじゃった?」 「まあ……いや、全然平気ですから」 手を振って何でもないとアピールする。 だって花火大会とかピンポイントの単語が出てきたから。 夕べのこと……市ノ瀬への誤爆が鮮明に思い出される。 よくよく思い返すと、境遇もちょっとだけ似ているかもしれない。 ただし市ノ瀬は、話の女の子と違って泣いたりなんて一切せずに説教してきたけど。 あと、お詫びに言うことをひとつ聞けって言われてて、それがこのバイト後なので、ちょっと気が重い。 ……もしかして、窓果は事情を知ってるのか? 少し目付きを鋭くして窓果を見てみる。 「ちょっとやめてよ……私の服、透かして見ようとしないでもう」 何を言っているのか、意味がわからない。よって意思の疎通も図れなかった。 「それで、さっきの話どうなっちゃったんですか?」 「ああ、それがね、女の子は打ち上げ花火の最中、花火なんか見ずにず〜っと隣の男の横顔を見てて」 「わ〜淡いです〜」 「策士ねー」 「はい?」 「え?」 互いの発言に驚いたように明日香と牡丹さんが顔を見合う。 俺からはノーコメントで。 「そんでさ、当然男もそれに気づいて。やっぱかわいいらしいの。そんなことされたら」 確かに想像するだけで、いじらしいものがある。 「それで男も女の子に対してまんざらじゃなくなっちゃって」 「最終的に女の子と彼女が直接揉めて、彼女の方から身を引いちゃったんだって。わたしより女の子の方が男にふさわしいとかって」 それも、なんとなく想像できる。……想像できてしまうのが嫌だった。 「男だったらちゃんと引き止めろって話だよねー?」 「…………」 「おどろおどろしい話というのは?」 「それがさ、今ではこれで男と女の子が結構うまくやってるって話だったからさ」 「ま、でも恋愛ってそんなものかもねー」 「教訓としては、打ち上げ花火のときは意中の男の横顔を見とけと!」 「できればそんな計算したくないですけどぉ……」 「だけどわかってても引っ掛かっちゃうでしょこれは」 窓果、明日香、牡丹さんの会話はまだ続いている。女3人寄れば、というのは案外本当かもしれない。 それにしても、いまだに軽く引っ掛かっているのが『女の子と彼女が直接揉めて』という部分。 そんな中、ふと頭に浮かぶのは今日も練習中のスピーダー同盟の二人。 ……大丈夫だよな? 「お肉界の覇権は我々豚さまたちのものだブー!」 「いいえ、人間たちのお肉心は既にアタクシたちチキン一族が掌握したコケ! 豚の出る幕はないコケ!」 「トンカツ食ってもまだ同じことが言えると思ってんのかブー」 「鶏の唐揚げが入っていないお弁当に絶望してからじゃ遅いコケ! だいたいアンタ戦う前から20%オフになってるコケ!」 「言ってはならないことを。ヒヅメの一番硬いところを食らわしてやるブー!」 「ケンカはやめるモー!」 「お、お前は牛! コケ」 「みんな、無益な争いはモーやめるんだ。だって僕たちはお肉界の3巨頭じゃないか。わがまま言うと羊や馬と入れ替えるモー」 「う、牛……」 「そ、そうですねコケ」 「キミたちみたいな中途半端なお肉同士で2位3位争いなんて、虚しすぎるよほんとにモー」 「……ブあぁ?」 「今なんつったよコケ?」 「だってオレ牛よ? 白黒もハッキリつけられないキミたちじゃリームーよ?」 「徹底的にやってやるブー!」 「かかってこいコケー!」 「…………」 「思わぬ展開になっちゃった。どうしよこれ」 「……何やってるの?」 「きゃあああ!?」 「えっと……もしかして今日まで毎日、私がお茶とお菓子を取りに行ってる間にこんなことやってた?」 「あ、莉佳さ、わたしこの雑誌ちょっと読みたかったんだー。貸してー?」 「そんなことじゃ騙されないブー」 「くっ……」 「チキンと説明が聞きたいコケねー?」 「モー教えてくれてもいいだろー」 「きょ、今日暑いからさー窓閉めちゃってエアコンつけていいかなー?」 「それはだめ」 「あ、これは反応してくれるんだ?」 「ほら、エアコンばかりに頼ってると体調おかしくなっちゃうでしょ? そしたらきっとさっきの真白みたいに……」 「なんかひどいこと言われた! そもそも莉佳のぬいぐるみなのに!」 「はいはいわかりました。ではどうぞ。本日のお茶とお菓子です」 「…………」 「どうかした?」 「ううん、莉佳、相変わらず手作りうまいなーって。女子力高いよね。うらやましい」 「真白には敵わないってば」 「わたし、今まさに、ひどいというか心ないこと言われてるよね……?」 「さてと、じゃあ今日やった練習の反省会をはじめますか」 「ちょっと待ってね〜。わたしが気になった動きのとこ、ノートに描いちゃうから」 「え〜っと、たしかここんとこで莉佳が上に飛んで……」 「真白」 「んー? あ、このお茶おいし〜」 「ありがと。……で、いつから日向さんとつきあいはじめたの?」 「ぶーーー!」 「こほっ、けほ、かはっ……!」 「はい、タオルとティッシュ」 「あ、ありがと……こほっ、こほ」 「い、いきなりなんなのよもう……しかもセンパイって」 「んー、ちょっと思ってね」 「で? どうなのかな?」 「どうって……いやいやいやいや、そんなそんなっ」 「そうなの?」 「そうなのって言われちゃうとあれだけど」 「日向さんってかっこいいよね?」 「それは人それぞれじゃない? 好きな人とかならそう思うだろうし、わたしは……」 「…………」 「……え、あれ?」 「私ね、夕べ日向さんに花火大会に誘われちゃった」 「え……?」 「…………」 「センパイが……」 「……莉佳を」 「ぁ……」 「ぇと、なんちゃって」 「ごめん!!!」 「え?」 「わたしね、莉佳ってわたしとセンパイのこと、全部わかってて聞かないでくれてるんだって勝手に勘違いしてた」 「だからごめん! ごめんなさい!」 「いや、ちょっと待ってちょっと待って。うんわかってた。ほとんどわかってたよ?」 「わたし、好きな人がいるんだ」 「え〜? 聞こえてない〜?」 「スピーダー同盟もね、その好きな人に近づきたかったってのがきっかけで。最初に嘘をついちゃってたんだ」 「あ、でも莉佳と仲良くなれたのはうれしいし、そこは嘘じゃないから」 「そんな赤裸々な告白はいいから帰ってきて〜。うれしいのは私もだけどぉ」 「だけど、莉佳が先輩のこと好きでも、わたし、これだけは……」 「真白……」 「センパイのことだけは、譲れないの!!」 「…………」 「ごめんね!」 「わたしは莉佳みたいにかわいくもないしFCもうまくないし、花火だって誘われてないけど」 「だけど! それでもわたしはセンパイの隣にいるって決めたの! それだけはもう諦めないって! 頑張るって」 「だから、ごめん」 「わかってる! 応援してる!!!」 「……え?」 「もう、真白全然聞いてくれないんだもん。どれだけいっぱいいっぱいだったの。って、私が悪いんだけどね」 「罪悪感が半端じゃないよぉ……」 「え? え?」 「でもびっくりした。もしかしたら真白泣いちゃうかもって焦っちゃった。そういう強い気持ち、うらやましいな」 「……えっと、どういうこと?」 「夕べ、日向さんに花火に誘われたのは本当。でもそれは真白と私を勘違いしたからだったんだけど、間違いだとしても、真白にひどいなって思ったの」 「だからちょっと、日向さんを懲らしめたいなって」 「軽く舌を出したけど、なんかこわいこと言ってない……?」 「ち、違うよ!? 私も日向さんがしたことはひどいと思ったけど、発案したのは窓……っ!」 「口を手で押さえる前に何か聞こえた気がしたような」 「とにかく! ……日向さん?」 市ノ瀬が開いている窓の向こう、同じく窓の開いている俺の部屋に向かって声をかける。 「センパイ!?」 「ああ」 「ちょ〜っと彼女さんを抱きしめに来るのが遅いんじゃないでしょうか?」 「タイミングが掴めなかったんだよ」 正直何度も飛び出しそうにはなっていた。 「予定では、真白がひどいひどーい! って怒って実は日向さんの反省会って流れだったんですが」 どんな拷問だ。 「わたしのキャラってそんな認識……?」 「いや、ってか、窓……?」 「愛されちゃってますね、日向さん」 「清々しいくらいあからさまなスルーをするなよ」 とはいえ大体頭の中で繋がった。 おそらく今回の計画の首謀者は昼間ましろうどんまで煽りに来たあいつなんだろう。 ……おかげで、ところどころ本気で怖かったけどな。 それも、絶対に丸く収まると確信してのことだろうが。楽観的なんだか信じてくれているんだか。 っていうか夕べの今日でいつの間に話が通っていたんだか。女子のネットワーク、あなどれない…… 「日向さん。例え誤解でも、もう真白を傷つけるようなことはしちゃだめですからね。真白のこと好きな人たちが黙ってませんから」 「肝に銘じる」 「それと真白のことを大切にしてあげてください。もっともっとです」 「それは言われなくたって」 「っ」 「はい」 真白の照れたような気配と莉佳の嬉しそうな声が伝わってくる。 「さて、じゃあ私はちょっと席を外しますから、日向さん、真白にたっぷりと怒られてください」 「結局怒られるんだな」 「え、ちょっと、莉佳……?」 言葉どおり市ノ瀬はドアから出て行ったらしい。 夕べの誤解の罰としてここにいることを命じられたわけだけど、まさかこんなことになるとは。 さて、どこから説明したものか…… 「センパイ……?」 「うん?」 何か言わなきゃ。まずは…… 「莉佳が言ってたこと、ほんとですか?」 「市ノ瀬が言ってたこと?」 「抱きしめにきて……くれるんですか?」 「! 窓から離れて!」 窓枠から身を乗り出し、シューズのない足で空を飛ぶ。 「……くっ」 勢いのついた着地と衝撃で態勢を崩すが、すぐに身体を起こした。 真白は…… 「センパイ」 「真白」 「〜っ。センパイっ」 「真白っ」 弾かれたように抱きしめあった。 「センパイ……センパぁイ……」 真白は顔全体を擦りつけるようにして全力で俺に甘えてきた。 「も゛〜! ずっごぐごわがっだんでずがらぁ〜」 「……ごめん。それとありがとう」 こわかったと俺を咎める真白を、慰めるようにやさしく抱く。 強く抱きしめると、小さくて華奢な真白の身体は壊れてしまいそうだった。 伝えなきゃいけないことはたくさんあるはずだ。こんなことになった、状況説明さえままなっていない。 だけど。 「……センパイ?」 俺は真白の身体を軽く離した。 よく顔が見えるように。よく目が見えるように。 それから、 「……っ」 「あっ……」 最初は仔猫同士が額をこすりあわせてじゃれあうように。 それからありったけの気持ちをこめて真白のおでこにキスをした。 真白のおでこが途中から少しだけ熱くなった気がした。 真白のおでこから唇を離す。 離れ際、真白のやわらかな前髪が鼻の頭をくすぐった。 ふうっと大きな仕事を終えたような気持ちで真白を見ると、真白は厳しい表情で俺を見ていた。 「簡単な方を選びましたね?」 「え?」 「おでこもうれしいですけど、わたしが今してほしかったのは別の場所です」 「……いや、確かに躊躇したけれどそれはそういうつもりじゃなくてさ」 「センパイに、わたしの気持ちは届いていませんか?」 「届いてる。充分届いてるよ」 「だったら遠慮しないでください」 「遠慮って」 「わたしは裏切りません。ずっとずっとセンパイの側にいます」 「あ……」 真白が何を言っているのかようやくわかった気がした。 オールブルー。 幼い俺が大好きだった空から落ちたときの悲しさを、怖さをきっと真白は指摘しているんだ。 わたしは裏切らないと。ずっと大好きでいると。 そうか、と思い知る。 こんなに…… こんなに強い気持ちで、さっきの真白は市ノ瀬に立ち向かってくれていたんだな。 「……大丈夫。そんなに小難しいことは考えてなかったよ。多分」 「だとしたらわたしの魅力が足りないってことですか? それならそれで大問題なんですけど」 「大事にしたかった気持ちもある」 「大事にしてください」 「もっともっと、大事にちゃんとしてください」 「わかった」 「好きだよ。真白」 「んんっ!?」 少し不意打ち気味になってしまったからか、真白が若干色気のない声をあげる。 だけど俺は構わず目を閉じることにした。いや、キスってそういうもんじゃなかったっけ。 「ん……んん」 慣れない、はじめてのキスに真白が鼻息を漏らす。 約束して、いきなりちゃんとしなかったからもしかしたら真白は怒って睨んでるかもしれない。 怖いけど仕方がない。 そのときはあとでちゃんと怒られよう。 でもってもう一度、お礼を言おう。 「ん……」 唇を離して、なんとなくお互いから目が離せなくなる。 照れくさくて、くすぐったくて、どきどきしていた。 「と、そうだ」 ふと思い出す。 「莉佳のこと、悪く思わないであげてくれな。悪いのは莉佳じゃなくて俺なんだから。本当に無神経だった。反省してる」 「大丈夫ですよ」 「だって莉佳のおかげでセンパイとキスすることが出来たんですもん。わたしとしてはむしろ感謝してますっ」 「えへっ」 照れたように笑う真白を見て、 「そっか」 真白のことを大切にするって意味を少し考え直していた。 「なんだかうまくいったみたいじゃないですか?」 「えぇっと……ちょ〜っとやりすぎちゃったような気も」 「そっかな〜? これでもだいぶマイルドにしたつもりなんだけどな〜」 「こ、これでですか……?」 「全然計画通りに進まなかったけどね。ま、ま、だいじょぶだいじょぶ。あのふたりはそう簡単に壊れないって」 「でも莉佳ちゃんも頑張ってましたね。ちょっとやりづらそうにはしてましたけど」 「私は、その、真白の親友でいたいなって思って……だから親友を大切にして欲しいですし反省もしてもらわないとって」 「でもやっぱり余計なお世話だったかもです。一瞬でも真白を傷つけてしまいましたし、あとでちゃんと謝らないと」 「いやいやいや、今回の件については日向くんが悪いでしょ。莉佳ちゃんは真白っちを思っての行動なんだからむしろ感謝とかされてもいいはず!」 「はい。感謝はわかりませんけど、真白ちゃん怒ってないと思います」 「同じ理由で私も感謝とかされていいはず!」 「え〜それはちょっと……」 「人と話すときは目を見て話そうよ〜」 「本当に大丈夫でしょうか?」 「はい。莉佳ちゃんがしたことは晶也さんと真白ちゃん、ふたりのためなんですから。ふたりともそれがわかってて怒る人じゃないです」 「なんなら私が全部罪被るし! 実際汚い部分は私が全部考えてて、実行犯だけ莉佳ちゃんにやらせるダークっぷり!」 「自分で言っちゃうんですね……」 「あ、なんか私の身だけ危ない気がしてきた。ちょ〜っと行って様子を見てこようかな……」 「だめです」 「だめです」 「だめです」 「ふたりとも、こわいぃ……」 「ま、それじゃあ一件落着ということで」 「窓果ちゃん、なんですかそれ」 「紙吹雪作ってきた。夏の夜空からの奇跡の贈り物に寄り添って窓を見つめるふたりは感動するの」 「紙吹雪ってそういうものでしたっけ?」 「まあまあいいじゃん。ほらみんな持って。じゃあいくよ。撒くよ?」 「さんはい……メリークリスマース!」 「わ〜」 「色々と台無しですね」 「ふっふっふ、今は好きに言うがいいさ。だけどこの思い出がいつか大人になったとき、みにくいアヒルの子みたく美しい翼を広げて……」 「うわ、なんだこれ……紙吹雪!?」 「センパイ外です! きっと誰かに監視されてます!」 「さあみんな、逃げるよ!」 「え〜〜〜っ!?」 「え〜〜〜っ!?」 「え〜〜〜っ!?」 ちなみに花火大会については…… 「花火、うちからも見えるからものすごく繁盛して人手不足なんだけど」 「……え?」 「そういえばそうでした! 浮かれてて忘れてました!」 「ううん、ふたりがいなくても大丈夫。わ、私とお父さんでなんとかしてみせるわ」 「いえ、手伝わせていただきます」 ちゃんとしたデートらしいデートはまたお預けになった。 当日は接客でいい汗を流させてもらいました。 長かった夏休みもいよいよ最終日になった。 部活を終えたところまではいつも通り。 だけど、今日はいつもならましろうどんへバイトに行く俺と、市ノ瀬の家に同盟の練習に来る真白は俺の部屋にいた。 真白の夏休みの宿題の残りを片付けるためだ。 「きょろきょろしない」 「す、すみません」 「別にやましいものはないからさ。それよりちゃんと課題を終わらせよう。何せ俺は親御さんに託されてるわけだし」 「そ、そうですね……!」 素直に、でもぎくしゃくと返事をした真白は、右手と右足を同時に出すような歩き方で……ベッドに座った。 「おいこら」 「え……? はい? ついうっかりっ」 慌てて立ち上がる真白。 「寝不足なのか? 勉強する前にちょっと寝るか?」 「〜っ!」 「あっ、いや、そういう意味じゃなくて!」 って、どういう意味だよと我ながら意味不明で。 「……添い寝?」 「そういう意味でもない!」 「で、ですよね……あははは」 誤魔化すようにベッドから離れる真白に小声で、 「……真白の宿題が終わるまではな」 「っ」 耳ざとい真白がびくっと硬直する。 心当たりありの動きに俺も鼓動を高鳴らせる。 「じゃ、じゃあ宿題をやっちゃいましょうか」 「そ、そうだな」 お互いにぎこちなく笑いあう。 原因はわかっていた。空気だ。 俺と真白は今日、きっと一線を越えてしまう。 それは今日が夏休み最終日という郷愁を孕んでいるからかもしれない。 それともいつもは真白の部屋でやっている宿題を、 「きょ、今日は、その、センパイのお部屋で、勉強したいです……!」 そう言い出したときの視線の温度かもしれない。吐息の熱っぽさかもしれない。ピンときたピンクな雰囲気だったかもしれない。 だけど、そんなもしかしては、時間の経過と相手の反応を見るたびに、確信が深まっていった。 そして俺は、がちがちに緊張していた。 「じゃ、じゃあ席に着こうか」 「はい……」 真白が座る前、意味もなくカーテンを閉める。 「こら、なんで無意味にカーテンを閉めるんだよ」 指摘。でも開けない。しかも何故か俺はドアまで移動して後ろ手で部屋の鍵を閉めていた。 「せ、センパイこそ、鍵なんて閉めてどうなさるつもりですか」 でも開けない。 「ど、どうなさるって言われると……」 「あ、い、いえ別に詳しく言ってほしいとかでは……その」 お互い、不自然に会話が止まる。 「と、とりあえず席に着こう」 「そですね」 俺の隣にぴたっと真白が座る。 「…………」 ものすごくいちゃいちゃしたがっているのが気配でわかる。 今すぐ抱きしめたい。 だけど宿題はちゃんとやらなきゃいけない。 「ぐっ……!」 こめかみに血管が浮き上がるくらいの自制を要し、全身全霊で本能を抑え込む。 俺はずっと見てきたので知っている。真白の宿題は、残り1時間ほどで全部終わる。 それまでの辛抱だ。 「やろうか」 「えっ……あ、は、はい! その、ふつつかものではございますが……!」 「え? あ違う、宿題をだ!」 「あ! はい、そう! そうですよね!?」 「……そういうのはそのあとに真白が許してくれたらな」 「……っ! い、いちころで終わらせます!」 「ん、うん、その意気だ!」 ……多分ふたりとも、不自然なくらい顔が赤かったと思う。 その後は、固唾を呑んで真白の宿題を見守っていた。 自分の課題はもう終わらせていたし、気が散って、他のことなんてできなかった。 真白は、問題がひとつ解けるたびに、手を重ねたり指を絡ませてから次の問題へと向かった。 そして…… 「お、終わりましたぁ……っ」 最後の問題を解き終わった瞬間、ペンを放り出して俺の胸に飛び込んでくる真白。 「センパイ、センパイセンパイっ」 「うん、お疲れだ」 胸に顔をこすりつけてくる真白の愛情表現がたまらなく愛おしい。 「センパイ、ごほうび……ほしいです」 胸の中から真白が見上げてくる。 「わかった。……だけどさ、俺もしたいんだからな? 真白だけの気持ちじゃないぞ」 「センパイ……うれしい」 今までにないくらい胸が高鳴っている。 なんでこれで心臓が破裂していないのかおかしなくらいだ。 俺と真白は……多分今からする。しちゃうんだ。 ごくっと喉が鳴る。頭の中が真っ白になる。 余裕も、理性も残っているのかわからない。 顔を寄せてくる真白を受け止めるように頬に手を添える。 体勢を真白の方に前傾させたからだろう。 遮るもののなくなったエアコンの風が真白のやっていた課題のテキストをペラペラと数枚めくる。 無粋な紙の音を鳴らすテキストを閉じようとして……白。 また頭の中が真っ白になる。いや別の意味で真っ白になる。 「センパイ……」 「真白」 真白の華奢な肩に手をかける。 「やさしく、おねがいしますね……」 「真白……いや違うんだよ真白」 そのまま肩を揺さぶった。 「違うって、なにがです……?」 さすがにちょっと強めに揺すったのが効いたのか、とろんとしていた真白の目に少し理性の色が戻る。 「だから、なんていうかこれ」 俺は真白のテキストを持ち上げてみせる。 ページが張り付いてでもいたのか、真っ白なまま飛ばされていた空白の2ページを。 「…………」 さすがの真白も一瞬言葉を失い、 「ん〜〜〜」 「現実逃避して唇を突き出してくるなぁ!?」 「ぐすっ……ぐす」 「泣くな真白。ページがくっついて気付けなかったのは不運な事故だ。誰も悪くない」 というか俺だって泣きたい。 「だってだってぇ……」 「夏休み最後の日なんですよ? センパイの彼女になれた最初の夏休みの最後のイベントなんですよ?」 「ありがとうな。そんな風に思ってくれて」 「せめて帰り際まで気づかなかったフリをしてくださったならよかったのに〜」 俺だってどれだけそうしたかったことか。 だけど牡丹さんや親父さんは裏切れない。将来のためにもこんなところで。 「ちなみにあと何問なんだ?」 「一問です……いえ終わりました」 「おお、お疲れ。すごいな」 「さっきと全っ然雰囲気が違います〜!」 「まあそりゃそうだ……今から再開するか?」 「不自然すぎて気持ちが入り込めません〜」 「そうだよな。だったら」 と、俺は向き直って真白を抱きしめる。 「せ、センパイ……!?」 「今からやり直すしかないんだけど」 「え、ええっ? えっと、その……」 「センパイ、その……したいんですか?」 真っ直ぐに聞かれると恥ずかしい。 「……スイッチ入っちゃってたからな。真白はそんなに直接的に聞いてくるってことは、それほど……」 「スイッチ、切っちゃってたので……」 「なるほど……」 「だめ!」 真白から身体を離そうとしたところで、それを彼女の声が押しとどめた。 「離しちゃだめです、センパイ」 「ありがちだけど俺はさ、真白に無理やりしたいとは……」 「彼の要望に応えるのも彼女のつとめです。わたしをほしがってくれてうれしいです」 「それにセンパイがそういうこと言うのあんまりないですから」 「結構ある気がするけど」 「いっつもわたしが誘導してる気がします。先輩はわたしに気を遣いすぎです」 「ヘタレなだけだ……」 「ちゅ」 不意にキスをされた。 「センパイ、わたしの好きな人の悪口を言わないでください」 だけどそれで覚悟が決まった。 「悪かった」 「きゃっ」 俺は真白を抱きかかえると、 「あっ……」 俺のベッドの上に真白を横たえた。 なんだか現実味のない光景だ。 なのに身じろぎした時のぎしっと軋むベッドの音がどきっとするほど緊張感を高める。 真白は深く呼吸すると、 「ドキドキが止まりません。肺の中までセンパイがはいってくるみたいでなんだか恥ずかしいです」 「ドキドキしすぎてふわふわして麻酔みたいに頭の中がじんじんしてます」 「俺も、いまは真白の匂いを感じてる」 「どんな匂いがしますか?」 「甘くて、女の子って感じでなんだか脳が痺れる。なのに自分じゃない別の人が近くにいるんだってなんだかものすごく実感してる」 触れてもいないのに、じんわりと体温まで伝わってきている気がする。 他人。別の人。有坂真白。 俺との関係を許しあってくれる女の子。 愛おしくて、大切にしたくてたまらない気持ちだ。 じっと見上げてくる不安げな瞳。緊張しているんだろう。それはそうだ。俺もしてる。 ……俺はどんな顔をしているんだろう。ふとそう思って、意識して表情を緩める。 「キスしよう」 「…………」 真白が恥ずかしそうにこくりと頷いた。 真白の長い髪を踏まないように気をつけながらかわいい顔へと近づいていく。 そうしてキスをする直前、自分のおでこを真白のおでこにぐりっとこすりつけた。 「緊張しすぎじゃないか?」 「わ、わかんないんです」 「……何が?」 「その、どうしたらいいのか」 「どうしたらって?」 「きっとセンパイが今からたくさんキスをしてくれるじゃないですか」 「するな」 「そしたら、次はどうなっちゃうんですか?」 「どうなっちゃうって?」 「知識は、その、一応ちゃんとあるんです。いえあのちゃんとかどうかは確かめたことありませんが」 「それで、あの、最後にどうなるのかも知ってます。一般常識的な範囲で。もちろんやったことはないですけど」 「うん」 「でも、そこまでどうすればいいのかが全然頭に浮かばないんです。想像できないんです」 「……言われてみれば、俺も突き詰めて考えてないかな」 「わからないから、こわいんです。どうしていいのかわかんないんです」 「わたしはちゃんとセンパイを満足させられるのかなって。変な声とか出しちゃってセンパイを幻滅させたりがっかりさせないかなって」 「わたしの身体、ちょっと残念ですし……」 申し訳なさそうに真白が漏らす。 「で、でもセンパイが言ってくれたらわたしなんでもしますから。舐めたりとかします。センパイのなら、きっとこわくないと思います」 「へ、下手かもですけど一生懸命やります! 頑張ります。だから嫌いにならないでください……!」 「いいから戻ってこい」 軽く真白のおでこにチョップを落とす。 「あう……」 「さっきから聞いてりゃ好き勝手なこと言いやがって」 「うう……」 いやまあかわいかったから全部聞いちゃったんだけど。って、それはさておき。 「真白、ちょっと身体を浮かせて。はい袖から手を抜いてー」 「え……あ」 俺は真白から脱がせた茶色のカーディガンをそのまま横にどけた。 「白い制服姿の真白ってなんだか新鮮だな」 「皺になっちゃいます……」 照れ隠しのように脱いだカーディガンを気にする、困った表情の真白がかわいい。 いや、照れ隠しじゃないかもしれないけれど。 ともあれ。 「考え過ぎないで大丈夫だよ真白。彼女が暴走したときになだめるのが彼氏の務めだ」 どこかで聞いたような言葉を返す。 「……もう少し言い方ってものがあると思います」 「俺がリードする」 真っ直ぐに、力強く言い切った。 「だから真白はかわいい声を出してくれるだけでいい」 「……絶対に声なんかあげませんから」 「じゃあ試してみようか」 「試すって、センパ……ん……」 言い終わるのを待たずに真白の唇を塞ぐ。 さっきからずっとお預けになっていたキス。 「ん……んん……」 お互いの唇をくっつけて潰し、求め合う気持ちを確かめたところで、 「ん……センパ……んうぅ!?」 逃がさない。 「センパ……ん、んん、ちゅ……んん」 重ねた唇を開き、尖らせた舌で真白の口内をこじ開けて進入、蹂躙する。 「はあぁっ……ん、ちゅ、んっ……あ、んむ……ん……ちゅ」 ぐい、ぐいと顔を前に出し、真白の奥を求めて貪る。 「はむ……ん、ちゅ……んん……んん……あ、んむ……んぅ……んっ」 真白の歯をなぞり、歯の裏をなぞり、 控えめに隠れていた真白の舌を一気に絡めとる。 「ん、んっ、ちゅ……ちゅ、ちゅ……んん、ちゅ」 絡み合わせたお互いの舌がソフトクリームのように溶けてとろりと甘い唾液を溢れさせていく。 「ん、ん〜、んくっ……ん、ちゅ、ちゅ……」 頭を痺れさせるクスリを喉を鳴らして嚥下しながら舌は熱くお互いを求め合った。 「あ、はぁ……はぁっ……」 やがて唇を離す。 どこかぽうっとした表情の真白に、 「かわいい声が出てなかったか?」 「〜っ!」 正直、俺はあれだけで我慢できなくなっていた。年齢相応の反応だと思う。 「……声なんてあげてません」 「すごくかわいかった」 「…………」 心臓がどくどく言っている。 まだこれだけしかしていないのに真白が欲しくてたまらないんだ。 はやる気持ちを抑え込む。絶対に、最後の最後まで真白を大切にするんだ。 「あの、センパイ……」 「どうした?」 「もしかして……慣れてませんか?」 思わず崩れ落ちそうになる。 人の気持ちも知らないでこいつは…… 「念のため、俺『は』はじめてだからな」 「も、もちろんわたしもです……!」 疑われたので強調すると、真白も経験のないことを告白してくる。 「いや、別に疑ってるわけじゃなかったんだけど」 「センパイが最初で最後です」 「俺も。ただ回数はすごくなると思うぞ」 「そ、そんなにするつもりですか」 「真白がかわいいからな。今だって俺、ものすごく自制してるからな。慣れてるだなんてとんでもない」 「すごく余裕があるように見えるんですが……」 「コーチだから」 「え?」 「あとは先輩だから。男だから。……真白の前では歯を食いしばってでも見栄を張るし、かっこをつけるよ」 「センパイはかっこいいです。わたしにはもったいないくらい」 「ちゃんと騙せてるみたいだな」 安心した。 「そんな感じで今日も頑張るから応援よろしくな。……今は具体的に足を少し浮かせてくれると嬉しい」 「ど、どうぞ」 真白が言われた通りにしてくれたので、俺は黒いニーソックスに手をかけて下ろしていく。 真白の白い太ももが露わになった。 特別肉付きがいいわけではないけれど、女の子の足って感じだ。 手を伸ばして、ゆっくりと這わせてみる。 信じられないほどすべすべで、だけど緊張からか少しだけ汗ばんでいる。 「んん……」 「気持ちいいのか?」 「いえ、足を触られてるって感じで……ちょっとだけくすぐったいかも、です」 「そうだよな」 「ごめんなさい……」 「謝ることないって。俺も必死でそういう触り方をしているわけじゃないし」 「でも……でもですね」 「ん?」 「センパイに触っていただけてるって思うだけでじんじんドキドキきゅんきゅんきてます」 「……それは俺も同じだよ」 真白がこんなところに触れることを許してくれていると思うだけで、たまらない気持ちになる。 身体的な快感は皆無に等しいけれど、ものすごく心が気持ちいい。 前に真白の足をマッサージさせられたときも随分と緊張したものだけれど、 「なんていうか、心にすごいきてる」 「わたしは心と、頭と、あと…………あうぅ」 「あと?」 真白が変に言いよどんだので聞き返してみる。 真白は潤んだ瞳で俺を見上げてきたけれど、やがて観念したように、 「心と頭と……あとお腹の奥がじんじんドキドキきゅんきゅんきてます……」 恥ずかしそうに、消え入りそうな声で言った。 「…………」 真白からの不意の思わぬエロワードに赤面してしまう。 けれど聞き出しておいてノーリアクションでは真白の方が居た堪れなくなるだろう。 俺はすぐに思い直すと、 「どれ?」 真白の太ももと太ももの間に落ちている、制服のスカートの裾をつまんでみせる。 めくって確認しちゃうぞ、という意味だ。 「…………」 「あれ?」 反応がない。 見えていないのか、意味がわかっていないのか。 「真白さん……?」 「今日は全部センパイにあげるつもりですから、センパイの好きにしてくださって構いません……」 すでに覚悟を決めていた! 「でも、もう、ちょっと、だらしないことになってるかもですけど……」 …………!!! 「……いや、あとにしとく」 だけど、ここでそれをしたら本気で理性を失いそうだったのでぐっと堪えた。 制服のスカーフに手を伸ばす。 「ぁ……」 さすがにここは一線という感じなのか俺の意図に気づいた真白が、わずかにびくっと震える。 「あの、センパイ……」 「どうした?」 「その、さすがにちょっと恥ずかしくて……キスしてほしいです」 「ありがとう」 「わたしがお願いしてるんですよぉ」 「真白にそんなかわいいお願いされて俺が嬉しくならないはずがないだろ」 「センパイ……ん、ちゅ」 キスをする。 「んちゅ……あ、んむ……んんっ……」 今度は最初から深い。 俺の舌を真白の舌先が迎えに来てくれる。 「ん、んむ……ちゅ、ん、ちゅ、ちゅ……」 今度は真白が俺に尽くすように丁寧に俺の口の中をなぞっていってくれている。 「あむぅ……ちゅ、っぷ……んく、ちゅ……はぁぁ、ん、んっ、ちゅ……」 「ん、ん〜……んうぅぅぅ……ん、んっ、んっ、んっ、ちゅうぅ……」 しがみついてくるような真白のキス。かわいくてたまらない。 じんじんと頭が痺れて、我慢できなくなった手がふらふらと真白の胸元をまさぐる。 「ぁ……センパ……ん、んっ……んんっ」 驚いた真白の唇が、俺の口から離れた。 でも俺の手は止まらない。止まれない。 制服の上からだと、意外と詳細な感覚はわからない。 でも、たしかにふにゃりと柔らかい感触はあった。 なんでか嬉しい。 「や、ぁ……そこ……んぁ、あ……」 真白もきっとまだ快感よりも羞恥心が上だろう。 ここからじゃ繊細な愛撫は届かない気がして、揉むと言うよりも手のひらの腹を真白のふくらみにこすりつけるように触ってみる。 「んぁ!? ん、あ、ふっ……ふううぅ……」 何かを押し殺すような真白の吐息。 「あ、あ……はぁ……ひぁ、ぅ……あ、あ……はぁ……はあぁ」 やがてちょっと上ずったような甘い声が混じりはじめた。 そこでキスを再開させる。 「あ……はぁ、ん……んむ……ちゅ……ん……ん〜っ……ん、んんっ」 キスと胸への愛撫でか、真白の呼吸のリズムが早まっている。 「んああ……あ、あ、はむっ、ん〜っ……」 「は、んむ、ちゅ……んぷっ、ん……んんっ、あ、あ、あ、あ……ちゅっ」 真白の制服越しの胸と制服の生地の感触を堪能した俺の手は、黄色いスカーフへと伸びる。 そこで気が付く。 きっと真白が一線を感じたように、俺もこのスカーフを紐解くには少し覚悟を必要とした。 日常の象徴である制服を脱がすことへの背徳感か、改めて真白が捧げてくれるものの重みを感じる。 だけど、真白とふたりで望んだことだ。躊躇はない。 少し力を入れて引く。 「はぁぁ……ちゅ、あ、あ、あ……んく」 しゅるしゅると脳の芯を痺れさせる衣擦れの音を立てて、スカーフが解ける。 そのまま手の位置を下ろし、スカートの側面にあるホックをぷつんと外し、ファスナーをジーッと下げる。 「んぷ……は、はっ、はぁ……はぁ……ひゃんっ?」 唇を離し、最後にいたずらするように首筋にキスをしてから真白の制服を脱がした。 「ん……これは?」 想像もしなかったものが出てきて、思わず素で質問する。 「その……ざっくり言うと肌着です」 「ああ、なるほど……」 見覚えがなさすぎてびっくりした。 ……と、そこでふと思う。 マトリョーシカみたいに、脱がせても脱がせてもこんな服が出てきたらどうしよう…… 女の子の神秘を肌で感じることはできるけれど、間を繋いで持たせる自信がない。 「もしかして、なんか変なこと考えてませんか……?」 「とりあえずもう一枚脱がせてみようと思ってる」 「……っ」 おそらくものすごくストレートな物言いに真白が恥ずかしがった。 しかし、 「あ、あの、センパイ……そ、その前にですね」 「? またキスさせてくれるのか?」 「そ、そうじゃなくてっ……!」 いちいち恥ずかしがってくれる真白がかわいい。 「……その……」 だけどなかなか要領を得ない。 「どうした? 今度はどんなえっちなお願いだ?」 「ち、違います! その……素朴な疑問で」 「うん」 「センパイは、脱がないんですか?」 「……ああそういうことか」 指摘されて気がつく。 真白を脱がせるばかりで、俺はまだ一枚も脱いでいなかった。 脱がせてくれるか? と尋ねようとして、今日は自分がリードする約束だったことを思い出す。 「じゃあ脱ぐか」 「え……わわわっ」 おもむろに服に手をかけた俺に真白が悲鳴をあげるが、こんなことこそ躊躇はない。 あっという間に下着一枚になって、再び真白に圧し掛かる。 ……さすがにちょっと生々しさは増したかな。 「センパイの……乳首……」 「しみじみ言うなよ。さすがにちょっと恥ずかしい」 「あ、や……ご、ごめんなさい……!」 物珍しそうな真白に思わず抗議の声をあげる。 だけど……そうだよな。考えてみたら女の子だって男の身体には興味あるだろう。 「触ってみるか?」 「い、いいんですか?」 「もちろん。その後は立場が逆になるけどな」 「そういうこと言わないでくださいよぉ」 真白が恐る恐る伸ばしてきた手が、ぴたっと俺の胸に触れる。 「硬い……」 「それに熱くて……どくん、どくんって脈打ってます」 「わ……わ、わっ」 ぺたぺたと触ってくる真白。 微笑ましいけど、感想だけ聞くと、もっと象徴的な部分にでも触れられたような気恥ずかしさがある。 いや、案外男の身体はそういうものだけで構成されているのかもしれない。 硬くて、熱くて、どくんどくんと脈打つもの。 対照的に女の子の身体はやわらかくて、甘くて、とくんとくんと鼓動を高鳴らせていて…… 「真白、俺も真白に触っていいかな? 触りたいんだ」 「え、あ、そんな……聞かなくても、全部センパイのものですから」 「ありがとう」 「ん、センパイ……ちゅ」 軽くキスをして肌着を脱がせる。 今度こそ、真白がかわいい下着姿になった。 「下着、かわいいな」 思っただけでは抑えられず、つい口に出してしまう。 ふと、ちょっと気持ち悪いことを言ってしまったかもしれないと思ったけれど、 「………………甲斐がありました」 「え?」 「センパイが、そう言ってくださって……その、うれしいなって」 「そか。ならよかった」 お互いにちょっと照れながら微笑みあう。 ……それにしても。 肌色の面積が格段に増え、扇情的になった真白。 俺は思わずごくりと唾を飲み込む。 だって…… ちょっと控えめだけど確かなふくらみが確認できる女の子の胸。 俺の知り得ないどこかに食い込んで縦に一本のすじの入っている下半身。 すべすべでやわらかだと知っている白い肌。 ちいさくてかわいい耳、細い首筋、あたたかな手。 ふわっと広がり、甘い匂いをさせてくる髪の毛の一本一本まで。 この子は、全部俺にくれると言ってくれているのだ。 もちろん俺も、自分の全部を真白にあげるつもりだが正直全然見合わないと思った。 「はぁ……ん、んっ……センパィ……」 まずはふたりとも、存在を確かめ合うようにお互いの頬や耳に触れ合う。 俺よりも遥かに繊細な場所の多い真白は、次第に防戦一方になってくる。 だけど俺はここまできたら、もっと真白のかわいい反応を見たくなっていた。もっと真白のかわいい声を聞きたくなっていた。 「はぁ、ん、んんっ……センパ……んあ、や、ふ……」 真白の乳房は、制服越しだったときよりも随分と身近になって、おっぱいという感じになった。 ふにっ、ふにっと柔らかな感触が伝わってくる。心音のドキドキも指先から伝染してくる。 「あ、そこ……恥ずかし……です……」 真白の顔が赤くなっている。 俺の触り方や気配で本気で真白を感じさせたいと考えているのが伝わったのかもしれない。 「ん、はぁ、ふううぅ……ん、んんぅ!? は、んむ……ちゅ、はぁ……ん……ちゅ」 キスをしながら指先にちょっとずつ力をこめる。 真白のちいさめのおっぱいが、手の中で形を変えてゆがむ。 「んぁ……ちゅ…じゅ、ん、んっ、んはぁぁ……」 真白の控えめなふくらみが、俺の指を押し返してくる。 反応を見て、強弱のリズムをつけるように力加減を確認しながら…… 不意に、ちょっと強めに力をこめてみる。 「んぁあ……あ、あ……あっ、ひああぁっ!」 ビクッと弓なりに、真白が震えた。 触るたびにびくびくと戸惑い震える真白の身体。 「ん……んんっ、んく……はふぅ……あ、センパ……!」 俺は両手を、真白の背中とベッドの間に滑り込ませ、ブラジャーの止め具をひねって外した。 「あ、あうぅ……」 締めつけることから解放され、ふわっと浮いたブラジャーを剥ぐと、真白のちいさなおっぱいがあらわになった。 真っ白の胸とピンク色のきゅっとした突起が、汗を滲ませて、光って見えた。 「ううぅぅぅ……」 俺の注目を浴び、だけどどうしていいのかわからず、結局どうしようもなく言葉にならない声をあげる真白。 「かわいいよ」 「胸の大きな人があまり言われる褒め言葉じゃなさそうだということはわかります……べ、別に卑屈になっているわけじゃありませんけど」 口数が多いので、多分気にしているのだろう。 「そ、そんなに見ちゃダメです……」 「見るよ。真白のおっぱい大好きだからさ」 「〜っ!」 「……あれ?」 スマートに決めようとしたのに何故だか変態っぽくなっていた。 どうやら大好きを入れる位置を間違えたらしい。 『大好きな真白のおっぱいだからさ』これなら良かった。……いやいいか? 微妙だ。 「大好きって、初顔合わせじゃないですか」 「これから末永くよろしく頼むな」 「どこに向かって話し掛けてるんですかぁ」 「『センパイ大好き。早くキスしてください』」 「わたしのおっぱいはそんな恥ずかしいこと言いませんよぉ」 「じゃあ何て言ってる?」 「センパイ……普通のおっぱいはしゃべらないんですよ?」 「うん。でも真白のおっぱいだからさ」 「わたしのって……」 「……もう」 「真白のおっぱい、何だって?」 「……センパイ、あまり変にならないでくださいねって、それと」 「大好きです。から、や、やさしくちゅってしてください……って」 「ゴメン、保障できない」 「きゃんんんんっ……ん、んぁあ!?」 片方の乳首に吸い付くと、口に含んで舌で転がし、もう片方の乳首は親指と人差し指の腹の部分できゅっとひねるようにつまみあげてみた。 「ふぁ、あぁ、あぁっ……! ご、ごめんなさい、ごめんなさいぃ〜」 「いや、別に謝る必要はないよ。……謝られてもやめないし」 「あ、あ、あ……う、く……やあぁ、だめ、です、あ、あ、ああっ……」 乳首を舌で転がすたび、指先でキュッとつまむたびにびくっ、びくっと真白の身体が跳ねる。 さらに乳首を甘噛み。 「ひぅんっ!? あ、あぁ……やぁ……ですよぉ」 これまで通り強弱のリズムをつけて攻めていく。 「あ、あ……ん……んはぁぁ……ん」 ちゅっちゅ、ふにふにと子どもをいいこいいこするように真白を愛し、 そこから唇と指に挟んだ乳首をそれぞれ軽く引っ張る。 「んーーーっ! んあっ……ん、ん、あ……んう……」 ぴーんと激しくのけぞってくたっと力の抜けた真白の白い身体。 キスをする乳首と指でつまむ乳首を入れ替えて、もう一度やさしく攻めはじめる。 「んあっ、あ、あ……センパイ、はぁぁ、あ、センパイぃ……」 さっきよりも心なしか、舌と指で感じる真白の乳首が自己主張を増した気がする。 うわずったかわいい声も、熱と湿度、それにとろんとした粘り気みたいなものを含みはじめている。 ぷくっと膨らんだ乳首を尖らせた舌と指で軽く押しつぶす。 「あうぅぅ! んっ、あ、あっ、つぅ……」 真っ白な乳房を手のひらで強めに握って、指と指の隙間から、真白のおっぱいをはみ出させる。 「はぁ……はぁぁん……センパイ、センパイ、センパイ……ぃっ」 「あ、そうだ、痛くないか?」 ふと気になったので、手を止めて尋ねてみる。 「あ、あうぅ……センパ……ぅぅ……いじわる、です……」 「ごめん。痛かったのか?」 「先っぽ、とか……じんっ、て……ん、じんじん、しててぇ……はぁ、はぁ……」 「え?」 「ううううぅぅぅぅぅ……」 「あ」 泣きそうな顔の真白を見て、ようやく思い当たる。 痛かったんじゃない。逆だ。……どうやらかなり気持ちのいいところにいたらしい。 お預け状態の真白も、気付いてしまえばかなりかわいい。が、さすがにこのままは可哀想だ。 「ごめんな」 「あ……あむ、ん、ちゅ、ちゅ……」 お詫びのキス。 からの、強めにした愛撫の再開。 「あ、あ、や、あぁっ……!?」 キスマークがつくくらい真白の突起からおっぱいを思い切り口に吸い込む。 そこから舌と指で、真白のそれぞれの乳首を吸って、ひっかき、なぞって、突ついて、弾き、押し潰す。 「はぁぁ、んんぁ……ひぅっ、あ、んっ……あ、あぁ……あぁぁっ、うぁあ」 つまみ、ねじり、甘く噛み、息を吹き掛け、唇で輪郭をなぞり、揉んで、きゅっと引っ張る。 「う、あ、やぁっ……あああっ、あ、あ、あっ……いっ、あ、ああっ……」 いやいやと首を振る真白が愛おしくて、ただただいじめる。 「はああぁぁっ!? あ、あ、あ、ああ……ぁっ、あ、あ、あ、あは、あはぁぁぁぁぁ……っ」 びくびくと震えていた真白の身体が、がくがくに変わって、一際大きな声と共にぴーんと仰け反ったところで、俺は攻めるのを一度休止した。 「はあぁぁぁ……はぁ……ん、はぁ……」 大きく息をつく真白。 名前の通りの真っ白な肌は、今や薄桃色に上気し、荒く息をつく呼吸と熱い体温が、こちらにまで伝わってくる。 ふと見れば……きっと無意識だろう、真白はもどかしそうに内股をこすり合わせていた。 正直もう限界だった。 「真白……」 真白の内股に手を伸ばし、ぐいっと足を開く。 「……っ!?」 だけど恥ずかしいのか反射的なものなのかすぐに真白はぎゅっと足を閉じてしまった。 「あ……」 だけどすぐに自分の仕出かしたことに気づいて、傷ついた表情になる。 もしかしたら俺がそんな顔を作ってしまっているのかもしれない。だとしたら大失態だ。 「ご、ごめんなさいセンパイ……わ、わた、びっくりしちゃって……!」 「泣きそうな顔するなよ。恥ずかしいなんて普通の感情だろ」 ただの反射的な行動だ。嫌がっているわけじゃないことはわかっている。 そもそもあんな、足を開く体勢自体、ひどく抵抗を覚えさせるものだ。 だけど、それでも見たい。欲しい。 「真白、もう一度開くな」 ひどく恥ずかしいことを真白に求めるのだから……それを強いるのは、俺じゃなきゃだめだ。 「おねがいします」 再び真白の太股に手をかけて、左右に開いていく。 真白からの抵抗はなく、むしろゆっくりと自分から、でも恥ずかしそうに足を開いてくれる。 「わたしも、その、ちゃんと自分で見たことがないところですから……」 「センパイだけのです……」 今度こそ、真白が俺を受け入れてくれた。 世界で一番自分が好きな女の子が、自分を受け入れようと身体を開いてくれている夢のような光景に、心底くらくらする。 このままずっと見ていたいけれど 「〜〜〜っ」 真白にとってはとんだ羞恥プレイなってしまう。 早く俺が真白に恥ずかしくてひどいことをしてあげないと。 いや、もちろん単純に俺から真白にしたい気持ちの方がずっと上だけど。 真白の足の付け根に手を伸ばす。 「ん、く……っ」 熱い。 この薄い布地の奥にものすごい熱が隠れているのが指先から伝わってくる。 とりあえず布地の上から指で触れてみると、軽く指先がどこか溝のような場所に埋まった。 輪郭をなぞると上下に一本の筋ができた。 「あ、あっ……そ、そこは……」 俺はそこを丹念に丹念になぞって往復させる。 「やぁ、です、そんなところ……あ、あ、あん、もう」 じわっとした染みを見つけたので指の腹をぐいっと布地の上から押し込んで、染みを大きくする。 「んぁ、ん、んう……!」 そのままスリットに沿って、指の腹をこすりつけるように強く、何度も何度も上下に往復させる。 「んぁ、んぁ、んぁ、あ、あ、あっ、あぁぁ! ひぅぅっ!」 上手くいくまで何度も上、下、上、下とこすっていく。 「やんっ、あ、あ、だめ……あ、ああ……ふぁぁっ、だめ、です、そこ……あ、あ、あ〜っ!」 やがて真白の下着に、染みで一本の縦筋ができた。 いや、すぐにそれもじわっと大きく広がっていく。 「は……はぁ、はぁぁ……はぁぁぁっ……」 真白が肩で息をしている。 「ぅあ……はぁ……ぁの……センパイ……?」 「うん?」 「その……です、ね……」 「うん」 何かを言いづらそうにしている真白は最後に消え入りそうな声で、 「もちょっと……下、だったり……です……」 「え?」 「〜〜〜っ」 今にも消えてしまいたいという顔の真白。 一方で俺は、真白の言ってくれたことの意味を考えて、 ……ああ、そういうことか。 ようやくそれらしい予測に思い至る。 真白は、執拗に上下に動かしていた俺の指を何かを探しているんだと勘違いしたのかもしれない。 きっとそこは、真白の一番奥で繋がれる場所。 快感がよっぽど強かったのか、真白の下半身は、さっきよりももぞもぞと強く蠢いている。 もう無意識に身体が喘いでいるんだ。 「そっか、そうなんだ、もっと下なんだ」 俺は納得したように頷いて、 「ほんとだ」 指で、真白の下着を横にずらした。 「あ、急にそんな、あ、い、あ、あぁ……っ」 どこか観念したような真白の声が羞恥に震えている。 だけどさすがにこのときばかりは俺の視線は真白の女の子の部分に釘付けで目が離せなかった。 うわぁ……女の子って、真白のって、こんな風になってるんだ…… はじめて見た、外気に晒された真白の大切なところ。 全体的にもわっとした熱気を感じる。 ぷにっ、ぷにっと左右両側から少し盛り上がった恥肉の谷間に、綺麗な一本の縦筋があった。 筋の上の方には、ちいさな突起のような肉の芽が申し訳程度にちょこんとついている。 これがきっと噂に聞くクリトリスだろう。 ぴったりと閉じている割れ目。 だけど奥からはとろりと光る透明な愛液が溢れてくる。 割れ目からぷくっと滴になった透明の珠は、次々と湧き出す愛液で大きくなり、やがて自重に負けて、お尻の穴の方へと垂れていった。 見れば愛液は真白の女の子の部分全体をぬらぬらと輝かせ、熱で柔らかくふやけさせている。 ずらした下着との間には、透明な糸が引いていた。 指の腹ですくってみる。 「あ、あぁ、ぁぁぁ……」 人差し指の先に、真白の愛液でできた透明の珠がある。 親指で拭うと、ぬるっと伸びて光る糸を引いた。 破裂しそうなほど心臓がばっくんばっくん動いている。頭の中は熱くじんと痺れて、夢の中にいるみたいだ。 何かの塊になった言葉や吐息や生唾を無理矢理飲みくだす。 かつてなく興奮していた。 「あ…………っっ」 ちゃんと触りにいくと、真白の身体がびくっと震えた。 「う、ぅぅ……ぅ……」 だけど言葉にならないらしい。 俺もまた、興奮で熱に浮かされているみたいになっていた。 真白の大切な部分に触れている。その事実だけで眩暈が起きそうになる。 「んん、ふっ……あ、あ、あぁぁ」 どんな風に触れても、真白の愛液を掻き出すような作業になってしまう。 「んああっ! あっ、あっ、ゆび、うごいてる……っ」 自分がどんな風に指を動かしているのかも把握できていない。 「あっ、あっ、そんな……ひあぁっ、う、うっ……あ、あ、あっ!」 ただ、真白にやさしくしたい気持ちだけは消えない。愛したい気持ちだけは忘れない。 「んああっ!? そ、そんな……ふぁ、あ、あ、あひぃぃっ!」 真白のかわいい声を聞いていたい。 「んぅっ、う、うぅっ! んっ……んっ……んぁ、センパっ……!」 ずっとこうして真白を感じていたい。 「んぅっ、う、んぁ、んぁ……はぁぁ……や、あ、センパイ……!」 「…………」 「あ、あ、あぁぁ……んぅっ、あ、あ、センパイ、センパイ……!」 「……ぇ? あ?」 「あん、あん……んんんっ、うぅぅ……センパイ、センパイ、しぇんぱい……っ」 ふと我に返ると、真白が襲い来る快楽に耐えるように俺のことを呼んでいた。 「あ、あ、あ、ん……んん……っ」 その目が、その声が、真白の行動の全部が、俺を求めてくれているようだった。 パンツの中の俺のものは熱すぎるくらい熱くてビクビクと震えている。 真白のことを言えないくらい、真白が欲しくて、下着をぐしょぐしょに濡らしていた。 「真白……俺もう……」 「はぁ、はぁ、はぁぁ……しぇんぱいぃ……」 呂律の回らないほど浮かされているのに、それでも真白は俺を呼んでくれた。 「しぇんぱいが、ぁ……ほしい、ほしいれす……くらしゃい……」 「わかった」 手早くパンツを脱ぐと過去最高に硬くなって先走りで濡れた俺のものを真白へと向ける。 「……っ、〜〜〜っ」 胸で大きく息をしながら、それでも目を丸くし、上気した頬をさらに赤くした真白がとてもかわいかった。 「あ、当たってます……」 「ちょっとだけな」 亀頭を真白の割れ目に少しだけ沈めて、上下にこすってみる。 「ぁ……んん……」 滑りを確認するだけだったつもりだけど、これは……これだけでやばいな。 俺の先走りと真白の愛液が交じり合って立つ、にちょにちょという音も卑猥だ。 不思議な気分だった。 快感だけでは決して満たされない。 「こわいか?」 「ちょっとだけ……」 特に真白は痛みを伴うもんな。 「はは、実は俺もちょっとこわい」 「センパイが、ですか?」 「うん。具体的に何が怖いのかはわからないけれど」 「……ごめんな。真白より全然楽なはずなのに」 「いえ、そんなこと……センパイも同じ気持ちでちょっとほっとしてます」 「でも期待もしてるよ」 「え?」 「俺と真白だけの秘密のことだから。真白はさ、きっと自分でもわからない表情や声を俺にくれるんだろうなって」 「じゃあセンパイの気持ちのいい顔と声は全部わたしのものですね」 「そうだな」 大きな期待と、わずかな不安。 俺たちは弱いから怖さばかりが先に立ってしまいがちだけど。 目の前に好きな人がいてくれて、曝け出し、許し、愛し合ってくれる。 きっと、こんな幸せなことってないんだよ真白。 そしてその相手が真白でよかったと本当に思っている。 真白との愛を形にする。真白と、もっともっと恋をしていくために。 「センパイ、あの……」 「うん?」 「できるだけ痛くしないで……」 「いえ、気持ちよくしてくださいね」 「任せとけ」 「はいっ」 つぷっ、と亀頭の先を真白の秘裂に沈め、 「ん、ん……んん……んっ……い、つぁ……」 「っ!」 「あぁ、あ、あ、ぁ、ぅぁぁ…っ」 本当に、沈むなんて表現は最初の最初だけだった。 誰も通したことのない真白の奥は狭く、硬くて、本当に押し込まなければ、前にも進まなかった。 これは……痛い。 こうしているだけで真白の尋常じゃない痛みが伝わってくるようだ。 「真白、大丈夫か?」 「う、うーぅぁぁ…っ、ぅぁっ、はぁ……はぁぁ……はぁぁー」 「え、えへへ、平気……ですぅ」 「ちょっとは信じられる嘘をついてくれ……」 「ふっ、ううっ……ん、だってっ、痛いからだめってことはない……じゃないですかぁ」 「センパイが……く、ぅぁ、いてくれるから、平気なん、です……」 「う、うっ……センパ、イが、今日まででっ、一番、好きだ、って……思っててくれてるんですよね?」 「うん、間違いない」 「う、くぅ……でも、センパイ〜、ちょっと、もぉ……いっぱいかも……」 「それは……ゴメン」 俺ももう躊躇するのはやめよう。 真白を痛めつけたいわけじゃない。一緒に気持ちよくなりたいんだ。 一時の痛みに身を竦めるな。俺が真白を気持ちよくしてあげるんだ。 ぐ、ぐ、ぐっと、真白の中に俺を押し込んでいく。 「ぅ……くぅ、はっ……く、ぅぁぁ……っ、あっ、あ〜ぁっ……」 亀頭から陰茎、そして根元に至るまで止めない。 「ん、くぅ、んあっ……あ、あ……っ! うあぁぁぁっ、あっ、あ、いあぁぁぁぁぁぁっ」 実を言えば、ここまでくると、俺の方はもうかなり気持ちよくなってしまっていた。 真白の柔らかくて熱く、きつい膣内がやわやわと蠢いて、絶えず快感を俺に与えてくれる。 「ぐ……ううっ……! あ、あ、うあぁぁぁっ、ああぁぁぁっ!」 一方で、みちみちと何かの抵抗を突き破った真白の膣内からは赤い血が伝ってくる。 ひどい罪悪感に苛まれながら前へと進む。 「う、うぅ……ふっ、ぐ……ううっ……! あ、ああ、あああ、ああぁぁぁぁ……っ」 永遠にも感じた苦しい時間の中で、ついに、 「……っ!?」 「んあっ……あ、ああぁっ……っ!」 にゅるるるっと、腰が滑って俺の根元が真白の入り口とくっついた。 まんべんなく締め付けと快感が与えられる。 埋まった。真白の一番奥まで貫いたんだ。 「よく頑張ったな、真白」 「ぁぁ……はあぁぁぁ……えと、それって……?」 「うん。奥まで届いた」 「はぁ、はぁ、そですか……はぁ……は、はぁぁぁっ」 真白がほっとしたように大きく息をついた。 埋まったまま少しだけ休んでから、 「じゃ、じゃあセンパイ、わたしを、気持ちよくしてください、ね」 「わかった」 絶対にまだ痛むだろうに気丈にもそんなことを言ってくる真白に応えたい。 真白の中は、信じられないくらい気持ちいい。 滅茶苦茶にしたい気も浮かんでくるけど、ここで真白を思いやれないなら死んだ方がいい。 ゆっくりと……本当にゆっくりと腰の律動を再開する。 「ん、んっ……あ、はぁぁ……っセンパイ……っ」 さっきよりも少しだけ、中はスムーズな気がする。 「う、うあ、うあぁ……っセンパイ……ん、んっ……はぁっ」 真白の反応を見て、少しだけリズムを速める。 鼓動ばかりがはやって、ペースを委ねるとめちゃくちゃになりそうだ。 「あ……ぅっ、うぁ……くあ、ふっ、ん、ああっ……!」 ふと、真白の目尻に浮かんでいた乾きかけの涙に気づいて、親指で拭った。 「あ、あ……うあ、うあぁ……センパイ……ん、んっ、あぁっ……」 真白から、求められたような気がしてキスをする。 「センパ……ん、んんっ、れろ、ん……んむっ、ん、ちゅ……ちゅ」 「んちゅ、ん、んっ、ちゅ、ちゅーっ」 情熱的なキスが待っていた。 俺が気付くのが遅かっただけで本当はもっと前から欲しがっていたのかもしれない。 「んく……ん、んっ、んちゅ、んっ、んんっ……」 キスをしながら腰を動かすのにも次第に慣れてくる。 「かわいいな真白は」 「んちゅ……!? ん、んく……んーーーっ!」 「……っ!!?」 慣れてきたなんて余裕を見せた瞬間、真白の膣内がきゅううううう……っと締まってきた。 暴発するところだった。なんとかセーフだったけど。 「せ、センパぃぃ……?」 自分では何が起こったかわかっていない真白は、動きの止まった俺に疑問の声をあげてくる。 「いや、何でもないよ」 答えて再び、キスと腰の律動を再開させる。 「センパイ〜、ん、ん、ちゅ、んんっん、んう……ん、ん……ちゅ、ちゅ、んちゅ……」 俺はいつ暴発してもおかしくない状況だけれど真白はどうなんだろう。 まだ痛みを噛み殺しているのか少しずつ快感に変わってきているのか…… 俺は動きに変化を付けて、真白の反応を伺ってみることにした。 「ん、んっ……ちゅ、ちゅ、ちゅっ、はぁはぁ……ん、んあぁぁ……あぁ、センパ……んっ!」 「んん、センパイ……ん、ん、ちゅ、ちゅ、ん、んっ、んーーちゅうぅぅ……」 甘い……よな? 段々慣れて気持ちよくなってきているのか。 今のこの真白なら、キスで頭が痺れてると言われても全然信じられそうではあるけど。 真白が大丈夫そうなら…… 真白の高ぶりが俺と同じくらいになるまで、少し強めに攻め立てることにする。 俺の限界はそう遠くないし、できれば一緒にイキたかった。 「ひぁんっ! あん、んんぅっ! うあっ、は、はぁぁ……うぁ、あ、あ、あ……!」 痛みを麻痺させる甘いキスも忘れてはいけない。 「んん……ん、ちゅ……ちゅ、ちゅ……んぁ、はぁ、ん、じゅる……」 真白の愛液が一層にゅるにゅると結合部をつなぐ。 快感が増し、速度も高まって、俺が真白に腰を打ち付けるたびにぱちゅっと破裂したような音が鳴る。 「はぁ、あっ、ん、ああっ、んちゅ、ん、んむむ……じゅるる……ん、ちゅ、あ、あ、あ、あはぁぁ!」 段々と腰の動きが早くなっていく。 「ひあぁんっ! せ、センパ……んんっ、うあっ、ん、ちゅ、ちゅ、んっ、んぁ……あ、あ、あーっ」 一生懸命、舌を絡める。必死になって粘膜を擦り付け合う。 「ちゅ、れろ、はぁ、はぁ、ふぁ……しぇ、しぇんぱい〜」 「どうした?」 「んふ、ん、ん、んふ、ん、ん……」 「わらしいま、ものすごく……ん、気持ちよくなってきてまふぅ……」 「……俺もだよ」 「しぇんぱい……ん、ちゅちゅ、ん……」 「今度は何だ? ……ってキスか? もっとか?」 「わたし、もう大丈夫ですからぁ……んっ……すき、すきぃ……」 「途中から脳内の考えが漏れてないか?」 「だから、もっと動いて…はぁ、んちゅ、気持ちよくなって……んんーーーーっっ!!?」 あんまりかわいかったので言いたいことが伝わってきた時点で思いっきり抱きしめて、濃厚なキスをしてしまった。 「しぇんぱい〜、ちゅ、ちゅ、んちゅ、ん、じゅる……ちゅ、ちゅ、ちゅ」 もはやただのキス魔になりつつある真白をすべて迎え撃ちながら、腰だまりに力を蓄える。 「いくぞ、真白」 「ん……んーーっ! んああああぁぁぁ……っ!」 真白の中に俺の屹立を突き立てた。 「つ、突き上げ、られ、ひっ、ん、んっ、じゅる、あ、あ、あ……ああっ!」 勢いをつけて、腰を打ち付ける。 「ん、んっ、んちゅ……んあっ、あ、ん、はぁっ! は、ああっ、ん、んーっ!」 されるがままの真白の身体はぴんと張ったまま硬直して動けないみたいだ。 ふと目に入ったかわいい乳首を舌でぐりっと押してから舐めあげる。 「ん、はぁ、ん、ん、んっ……しぇんぱ、おっぱい、しぇんぱいっ……!」 ……何が言いたかったのかちょっと気になった。 だけど疑問を言葉にはせずに、さらに腰の勢いを増して真白に打ち付けていく。 「ん、ん、んっ、んふぁ……あ、んむ……ん、んちゅっ、はぁ、はぁぁ……!」 俺のもので、真白の膣内の粘膜を引っ張ってめくれ返りそうなくらい伸ばしては、また突き上げる。 ぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅと淫靡な破裂音が脳を灼く。 ふたりの結合部で混ざり合った体液は、動きすぎてもはや白く濁りはじめていた。 「あ、あ、あぁぁ……ん、んぁ、ん、んっ、あ、あ、ああぁっ!」 「しぇんぱい……ん、んっ、しぇんぱぃ……!」 真白が俺を呼ぶ。 俺もずっと真白を求めている。 「ん、ふぅっ、ううっ、んああっ、あ、あ、あ……ん、ん、んんっ……!」 声が大きくなってきた。 「あ、あ、あ、あ、はぁぁ……あ、あ、あーっ」 無意識のうちにお互いがリズムを合わせようとしている。 「ん、ん、ちゅ、ちゅ……んーっ……んんー!」 キスで微調整する。 「ん、ふぅっ、う、あ……あああっ、んあっ、あ、あ、あ、あ、んんーー! あ、ああっ!」 そうしてふたりで限界へと向かっていく。 「んぁ、ん……んっ、はぁ……んああっ、ん、ちゅ、ちゅちゅ、ん、んふ……んんーーっ!」 どこかでずっと真白と繋がっていられたらなんて夢みたいなことを考えていたけれど、 もうどこにもそんな余裕は残っていない。 「はぁ、はぁっ、あ、あ、あ、あ、あーっ、しぇんぱい! しぇんぱい!」 真白も俺の名前を必死に呼んで、もう限界がすぐ近いことを訴えているみたいだ。 「あ、あ、あん、あんっ、、あ、あ、あああ……あ、あ、あぁぁ!」 「ん、く……っ!」 「ひぅぅっ、んん! あ、あ、んあっ、あ、あ、あんっ……!」 「真白……もう、俺……っ」 「んあっ、あ、あ、あぁ……わたし、も……あ、あぁっ、あ、あ……あんんっ!」 脳が真っ白に灼き切れそうになっている。 それでもお互いを求め合うことをやめられない。 「真白っ、真白真白……」 「んあ、あ、あ、あぁ……しぇんぱいっ、しぇんぱいしぇんぱい〜っ!」 絶頂から逃げるように身をよじる真白。 真白の中が痙攣したように震え、うねり、ぎゅうううううううっと俺を締め付けた。 「あ、あ、あーーーっ! しぇんぱい……しぇんぱ……ん、くううぅぅんっ!」 長く綺麗な髪を振り乱して、真白の身体が跳ねる。 「あ、あ、あぁぁ……ひあぁぁぁっ! しぇんぱっ……んん……うううぅっっ!」 びくっ、びくんっ…… 俺のものが感じたこともないくらい真白の中で跳ねていた。 体内の熱が白濁となって真白の中に打ち込まれる。 射精の間も、熱い粘膜は俺を締め付けて離さなかった。 「んあ……はひぁ、あ……あっ、あぁぁ……!」 ぶる、ぶるるっ……と小さい身体を震わせて真白が俺を受け止めてくれている。 「お疲れさま」 俺は、真白の頭を撫でて、唇を重ねる。 「はぁ、はひぃ……ん、んむ……ん、ん、ふぁ……んん」 ぐったりとした身体での最後の体液交換。 だけど愛おしさは変わらない。 もしかしたら……いや間違いなく増えているか。溢れそうだ。 「はっ、はぁ……はへぁ……」 今度こそ真白がぐったりと全身の力を抜く。 呼吸を整える。 「はぁ……はぁぁ……はぁ、はぁ、はぁ……は、ぁ……」 お互いの最後の瞬間とは違って、呼吸やリズムはもうバラバラになっていた。 でも、真白とならまたいつでもひとつにすることができる。 「はぁ、はぁぁ……センパイ……」 「どうした?」 「キス、もっかいらけ、その」 「はは」 何が最後の体液交換だ。 「だめ……ですか?」 「もちろんいいよ。俺もしたい」 「セーンパイっ」 真白が嬉しそうに飛びついてきて唇を押し付けてくる。 「センパイ……ん、んっ」 「ん……んふ…ちゅ、ちゅ……はぁぁんん……ちゅ、ちゅ」 俺も真白も、お互いをこうしてずっと求め続けていくんだ。 ましろうどんまでの帰り道。 俺はペアリングで真白を送っていた。 「ん〜っ、センパイ……」 「こ、こら、あんまりギュッとくっつくな」 「だってひとりじゃ痛くて飛べないんですもんっ」 人に拠るだろうが、はじめての痛みはかなり尾を引くらしい。真白は歩くのも辛そうだったので、こんなことになっている。 「そんなことを嬉しそうに言うなって」 「センパイがぶっきらぼうなときって照れてるときですよね?」 「やかましい」 ぎゅっと真白の身体を強く抱く。 「えへへ。コーチの責任問題にならないよう朝の練習までには普段通りに飛べるようにしておきます」 「ん。だけど無理はしないでな」 いつもよりやけに満天の星が綺麗に感じた夜。 俺はこの星空を忘れない気がした。 こうして夏休みが終わり、2学期の始業式を迎える。 9月24日の新人戦、いわゆる秋の大会に向けてFC部の士気が高まる中…… みさきが部活に来なくなった。 「みさき先輩」 「……お」 「ちょっとお話よろしいですか?」 「手短にね」 「どうして部活に来ていただけないんですか?」 「だってあたしもう部員じゃないもん。これまでがサービスだったんだって。いや暇つぶしかな」 「わたしは、みさき先輩にFC部に帰ってきていただきたいです」 「ん〜、無理」 「楽しくないからやめちゃったんですか? それならわたしが強くなって、みさき先輩の相手ができたらって」 「あたし別に戦闘民族じゃないからわくわくしないよ」 「それはそうかもしれませんけど……」 「どうして強くなりたいって思ったかは……きっと自分が一番わかってるでしょ。ヒント晶也。あ、答えか」 「どうしてですか? どうしてFCをやめちゃったんですか」 「……めんどくさくなっただけだよ」 「急にさ、空をぐるぐる回ってるのが馬鹿らしくなっただけ。冷めちゃった」 「そんな……」 「真白が続けたいならそうすればいい。あたしはその場所にはいない。それだけのことでしょ?」 「だって、みさき先輩……」 「ん?」 「…………」 「なに?」 「FCの才能あると思って」 「……はは」 「え?」 「いや、うん、そうなんだ。才能ありすぎてさ、FCやってるのがつまらなくなっちゃったんだよね」 「わ、わたしが……!」 「うん?」 「わたしが、みさき先輩を倒してみせます」 「…………」 「わたし、はじめて先輩とちゃんと戦える気がするんです」 「そっか。そういえば真白ずっと頑張ってたもんね」 「ん〜」 「うん、よし! やらない」 「どうしてですか」 「理由がないもん。バトルする理由がさ。そんなの燃えないじゃん」 「こうなってくると秋の大会にでもエントリーしとけばよかったよね」 「で、ぶつかったところで対決。お互いが当たる前にどっちかがリタイアしたらアウトみたいなさ」 「秋の大会でなら勝負していただけるんですね……?」 「いや無理だって」 「大会が今月の24日だぞ。今から大会の出場申し込みなんて間に合わないよ」 「え、ちょ、間に合わないんですか?」 「間に合わない」 「で、でもセンパイ、このままだとみさき先輩がFCを辞めちゃいます」 「そうだな」 「そうだなって……約束したじゃないですか。みさき先輩をFC部に連れ戻すって」 「だからこそ、みんなの頑張ってる姿や楽しいところを見せてみさきにまたやりたいって思わせるのが目的だっただろ」 「だけどみさきは遠ざかっていった。……この分だと次の大会の結果を見せて闘争本能とか対抗意識を焚きつけるってこともできなさそうだ」 「どうしましょうセンパイ」 「……どうしようもないかもしれない」 「俺もさ、みさきが気まぐれなだけで離れていったならまた戻ってきてほしいと思ってた」 「だけどもし、それ以上の理由があるなら俺には強く言えない」 一度FCを辞めた俺には…… 「……でも、あんまりいい辞め方じゃないと思います」 「そもそもいい辞め方なんてないのかもしれない。それでもみさきの意思は尊重してあげないと」 「わたしは……みさき先輩の力になりたいです」 「俺もだよ。みさきもそうだし真白の力になりたい。だけど納得できる理由は必要だ。強引に連れ戻すことがみさきのためだとは思えない」 「みさき先輩は素直じゃありませんから」 「素直じゃないのはともかく、俺はみさきが助けを求めてるとは思えない」 俺の時は、ただひたすら放っておいて欲しかった気がする。 「昔、みさき先輩は、わたしが辛かったときに手を差し伸べてくださいました」 「あのときのことはきっと一生忘れません」 「でも今のわたしがみさき先輩に何を言えるのか……」 秋の大会に向けて練習は続く。 だけど真白は…… 頑張ってはいても士気は少しずつ落ちていっているように見えた。 「いらっしゃいま……!」 「こちらの席へどうぞ」 「…………」 みさきが、ましろうどんに来店した。 みさきが注文したうどんを持っていき、テーブルに置く。 「元気?」 そこではじめてみさきが話し掛けてきた。 「顔だけなら学校で合わせてるだろ」 「喋ってくんないじゃん」 「なに喋っていいのかわかんないんだよ。本当はすごく色々言いたいことはあるんだからな」 「だから仕方なく、信じることにした」 「愛しちゃってるね、真白のこと」 「信じてるのはお前もに決まってるだろ、みさき」 「まじで」 「問題児ほどかわいい……と思い込むことにした。お前らのせいで精神的に超老けたからな」 「ははは」 ずずずず、とみさきが麺をすする。 「まあ俺よりも真白がな」 「ごめんごめん。麺一本あげるから」 「駄洒落なら五本寄越せよ」 みさきが箸で取ってくれた麺をちゅるっと吸い込む。 「あー、我ながららしくないなー」 「なんなんだよ」 「この不完全燃焼感! いや残尿感!」 「言い直す意味がわからん」 「もっとばっさりと斬り捨ててくれればよかったのにー」 意味がわからない。 「斬り捨てられたらどうなってた? そもそも斬り捨てられるってなんだよ」 「んー、あたしのことだから世捨て人になってた気がする」 「世捨て人って」 「ゲームセンターとか入り浸って不良になるの」 「フッ」 「あ、なに鼻で笑ってるの! あたしはいざとなったらそれくらいする女だよ!」 「まあそれはいいとして」 「納得いかない」 「っていうか、あたしは晶也も悪いと思ってるからね」 「俺が!?」 「もっと明日香の才能が突き抜けてたらなーとか、……今でも充分突き抜けてると思うけど」 「あとは晶也が真白を取らなかったら、辞めてもあんなに練習見に行く羽目にならなかったと思うし」 「やめて。ここではやめて」 厨房が怖い。 「ねえ、この世界のあたしは幸せになれる?」 「知るか! 俺はこの世界しか知らないしどこにいようと幸せになろうと努力しろ!」 「ゲームとかアニメが身近だとこういう発言が普通に出るよね」 「せめて発言する相手だけは選んどけよ」 なんか、もうちょっと緊迫しても良さそうな場面なんだけどな。 「でさ、晶也はさ、あたしがFC辞めた理由なんとなくわかってんでしょ」 「わかるか。人をエスパーみたく言うな」 「才能と努力ってどっちを信じる?」 「…………」 「あたしはさ、天才ってのを垣間見たよ」 「…………」 「折れた。心が折れた。ぽっきりとね」 わかる……気がする。 俺がオールブルーを見たように。 みさきもきっと歯が立たない、根こそぎ闘争心を奪われるようなものに出会ったんだ。 「いやまあ折れた……と思ったんだけどね、なんか首の皮一枚つながってたみたい」 「真白が言ったんだ。あたしには才能があるって」 「……笑っちゃうよね」 「みさきは努力と才能、どっちが勝つと思う?」 「いや、どっちに勝ってほしい?」 「才能ってさ、やっぱあると思うんだ」 「だから真白と、真白が才能あるって言うあたしがもし本気で戦ったら、あたしが勝つよね」 「どっちに勝ってほしいか聞いたんだよ」 「……考えたことないな」 「だけどもしこれであたしが負けたりしたらさ、あたしのアイデンティティ崩壊しちゃうよ」 ……たしかに。 圧倒的な、どうしたって手の届かない敗北者からすれば身が竦むような才能はあって。 そして俺はFCを辞めた。逃げた。 だけどこれでもし努力がそれを上回ったら、それこそ燻り続けた俺の数年間は何だったんだってことになる。 きっとみさきは真白と戦いたくないんだ。 自分が勝てば、やっぱり才能には敵わないと思い知る。 真白が勝てば、自分の信じていたものが壊れてしまう。 それは俺にもそっくりそのまま当てはまることだ。 「晶也はどっちが勝って欲しい?」 みさきの言葉は冷たい刃物のように喉元に突きつけられる。 「……真白かな。そうすれば全部うまくいくような気もする」 「ふぅん……」 みさきは納得したのかしてないのか、微妙な表情を残して、 「それじゃ、そろそろ行こうかな」 「その前にひとつだけいいか?」 「そもそもみさきは真白のこと、ぶっちゃけどう思ってるんだ?」 前々から気になっていたことを聞いてみた。 「ん〜、ここじゃ話しにくいな」 みさきの視線の先に、 「…………」 みさきの視線に気づいて、ひらひらと気楽に手を振る牡丹さんの姿があった。 こちらの話を聞いているわけではないだろうけど、牡丹さんの前では言いづらい話ということなのだろう。 「……牡丹さんに頼んでちょっと外に出る」 「別にいいのに」 みさきがテーブルに代金を置いて立ち上がる。 ツケにしないところに、遠回しな拒絶の意思を感じた。 「失礼します」 「またきてね」 牡丹さんに頭を下げ。 長い髪を揺らしながら立ち去るみさきの後ろ姿を見送ってからテーブルを立ち、片づけを…… 「みさき……」 「金が足りねえよ」 追いかけてついでに取り立てよう。 「あたしが真白のことどう思ってるかだっけ」 「ぶっちゃけわかりづらいんだよな」 「うどんを持ってきてくれる便利な子。……言い方悪いかな」 「照れ補正が入ってるんだって思っとく」 「だってあの子重いんだもん」 「お互い踏み込みすぎないように距離を取ってるんだと思うんだけど」 「……どうなんだろうね」 「真白、言ってたよ」 「自分が辛かったとき、みさきが手を差し伸べてくれたって」 「あのときのことはきっと一生忘れないってさ」 「詳しく聞いたの?」 「……いや、あれはみさきとの思い出だからみさきの許可が要るってそれくらいかな」 「彼氏を一番にする融通くらいあった方がかわいげあるのにね」 「時と場合によるけど、盲目的になるよりは他人を大切にしてくれる方が俺は好きだよ」 「あの子さ、昔もっと内向的だったんだ」 「らしいな」 虎魚に聞いた。 「俺が知り合ったのはみさきを通じてだからその頃を知らないけどさ」 「もうホント笑っちゃうくらい内気……内気は違うか。自分を出せない女の子って感じ」 「ゲームのやりすぎで目が悪くなったってずっとメガネしてたし」 「元々あんまり器用な方じゃなかったみたいでさ、成功体験が極端に少ないみたい。頑張っても報われることがないって諦め慣れてるの」 「だから自分に自信がなくて声を張ることもできなくてずっと俯いててさ」 「ぼっちって本当にいたんだ〜って思った。でも比較的結びつきの強い田舎でさぼっちってさ、しんどいよね」 「あたしそんなこと知らないからさ、まさかお昼休みに中庭で三角座りしてる子がぼっちで、友達とお弁当食べれなくて俯いてるとか思わないし」 「だから、寝てるみたいだし食べないなら勿体無いから貰っちゃおっかなって脇に置いてあるお弁当をこう……」 「って、おい」 「いや〜、まさか手を差し伸べてるみたいに見えちゃったとはね〜失敗した」 「それって本人には……?」 「言ったけど信じてもらえなかった。それどころかお腹が減ってるならって次の日からうどん持ってきてくれるようになった」 「お弁当欲しさにやさしくしすぎちゃったんだね、きっと」 「みさき……」 「こう見えてもあたしだって最初は遠慮してたんだよ? でもさあ、毎日毎日あたしの好きなもの聞き出してうどんに入れて来るんだこれが」 「食べちゃうよね?」 「聞かれてもな」 「それからずっとこんな関係。すべてはおいしいうどんのために〜」 「なんか夢がないよ」 「真白の夢が覚めるまでって感じかな。それも最近誰かがやってくれてるみたいだけど」 「……みさきのことを考えてじゃないよ」 「当然でしょ」 「あー、このままフェードアウトしたいー」 「みさきってさ」 「ん?」 「実は誰よりも全然、打たれ弱いんじゃないのか?」 「フフン、晶也気付いてないんだ? あたしが晶也の周りで一番女の子なんだよ」 「偉そうに共感できないことを言うな」 「ホントなのに! 憤慨ものだ!」 「あたしが本当に真白のこと好きだったら大変だったろうな」 「あの子の憧れる自分になりたくてさ自分を変えようとかなんとか」 「そんな都合よく性格なんて変わんないだろ」 「それでもさ、真白の前だったらちゃんとできるかもって思っちゃいそうじゃない」 「よかったよ、うどんが好きなだけで。みさきちゃん壊れずにすんだ」 「どう? 真白はみさきちゃんと仲直りできそう?」 店に戻ると、空気を読んでくれていたらしい牡丹さんに尋ねられる。 「どうでしょうね。本人たちの問題ですし。助けでも求められれば別ですけどね」 「ふーん」 「ふーんって」 「人なんて変わっていくものだしね。みんな色々なことを乗り越えて強くなるものよ」 「楽観的すぎません?」 「ま、壁なんて年月が経ったら案外簡単に飛び越えられたりするし、必要ならそれなりに頑張らなきゃだめだけど」 「みさきちゃん、案外よくわかってると思うけどね」 「どういう意味です?」 「信じられる? みさきちゃんってうどん嫌いだったのよ」 「……え?」 「ちいさい頃に喉に詰まらせたとかで。真白がはじめてうちに連れてきたときこっそり少なめでって頼まれて」 「真白はそれを」 「知らない。だってそれ言わないのってみさきちゃんの優しさでしょ。言えないわよ」 「真白はみさきちゃんがうどん大好きだって勘違いして毎日届けてたから苦労したと思う」 オールブルーを勘違いした真白のことだから。みさきの気持ちが痛いほどよくわかる。 「だから私はみさきちゃん大好き」 確かに今考えてみればおかしかった。 真白を重いと評したみさき。興味がないはずなのに、みさきは真白の事情に詳しすぎた。 よく見てなきゃわからないはずだ。 「……牡丹さんに頼んでちょっと外に出る」 「別にいいのに」 「……金が足りねえよ」 みさきがツケにしなかった理由が「拒絶」ではなく「ついてきてほしい」だったら。 「あたしが本当に真白のこと好きだったら大変だったろうな」 「あの子の憧れる自分になりたくてさ自分を変えようとかなんとか」 「そんな都合よく性格なんて変わんないだろ」 「それでもさ、真白の前だったらちゃんとできるかもって思っちゃいそうじゃない」 「よかったよ、うどんが好きなだけで。みさきちゃん壊れずにすんだ」 あれがみさきの「助けて」だったら。 「本当だ……」 『みさき先輩は素直じゃない……』 真白の言っていた通りだ。 みさき……本当ならこんな良い子な勘違い、真白くらいしかしないんだぞ。 だけど今は。 真白と付き合っている俺は勘違いできる。存分に動ける。 なんだかやっと自分のできることがわかってきた気がした。 「あら、なんだか嬉しそう」 「真白と付き合ってると、こんなことばかりで嬉しくなっちゃうんですよ」 「あ……」 「……ら〜ら」 どうやら厨房で俺の発言を聞いた親父さんが食器を落としてしまったようだ。 「晶也くん、今日はもうあがっちゃって。あの人、あとは私が適当に誤魔化しておくから」 「……すみません牡丹さん」 「え?」 俺は厨房の方に向かって頭を下げる。 「親父さん、ごめんなさい! 俺、娘さんと……真白さんと付き合わせてもらってます!」 「真白さんとお付き合いしてることが嬉しくて隠したくなくなって、つい言っちゃいました!」 「また改めて挨拶にきます! その前にやることあるんで予定通り2週間くらい大会前のお休みもらいます!」 「今日は失礼します!」 言い切った。 「若いわねぇ〜」 「あとでものすごく穴に埋まりたくなると思いますけど後悔はしません」 「そうねー。本当に埋まることになるかもしれないわね」 「い、いや、そういうつもりじゃなかったんですけど」 「でも、ま、頑張んなさい。私、晶也くんのこと結構好きよ」 「ありがとうございます」 まだまだみさきの築いてきた数年には及ばないらしい。当たり前だけど。 とりあえず。 真白とみさきを向かい合わせるために。 俺は俺のやれることをしよう。 「はぁ……はぁ……」 「……うっ……ぐっ……!」 それからしばらく経った休日。 「みさき。やっと見つけた」 「晶也? どしたのこんな休みに」 「いや、やっぱり真白と試合してもらえないかと思ってさ」 「何でまたいきなり?」 「やっと準備ができたからかな」 「準備って? え、まさか本当に大会の出場枠でも取ってきたとか?」 「さすがにそんなことできないって」 「晶也……というか各務先生や白瀬さんなら、それくらいやりそうな気もしたからさ」 「葵さんは俺には厳しいから無理だよ」 「ふ〜ん。でもじゃあなおさらだ。なんであたしが晶也の言うことを聞かなきゃいけないわけ?」 「みさき、昔うどん嫌いだったんだな」 「なっ……!」 「あのとき場所を変えて話したのも、牡丹さんに本当のことをバラされたくなかったからだったんだ」 「……真白に言うってこと? ううん。驚いちゃったけどさ、多分晶也はそういうことはできないでしょ」 「いや、そんなみさきだったから俺ももう少し食い下がりたくなっただけってことだよ」 「賭けをしよう」 「賭け?」 「俺とみさきで短距離の飛行勝負をして俺が勝ったら真白と勝負してもらうってのはどうだ? みさきが勝ったら向こう一年、好きなメシをおごろう」 「……何を企んでるの?」 「企むって、ひどい言い草だな」 「悪いけど、こないだまで選手としてやってたあたしと今の晶也とじゃ勝負にならないよ」 「そんなの一目瞭然。誰だってわかる。だったら裏がなきゃ馬鹿だよ」 「そうだな。だからみさきは俺の用意したであろう裏を見抜けるかどうかだ」 「……もしかしてお涙頂戴みたいなのを用意してる? 真白が戦いたがってるとか、そんなの」 「違う」 「ふーん。じゃあ一番大事なことを聞くけど」 「晶也はあたしに勝てると思ってんの?」 「じゃなきゃここには来ない」 「そ」 「……面白いかもね」 にやりとみさきが笑う。 「晶也がどんな頭でっかちなこと考えてるかわかんないけどあたしがそれを力でねじ伏せる……」 「そういうのわくわくする!」 「賭け、受けてくれるんだな?」 「牡丹さんの顔も立てなきゃだしね。うどんの話、晶也に教えたの牡丹さんでしょ」 「ああ」 「牡丹さんがそう判断したならいいよ。逆に言えば、あたしが義理立てするのはここまでだから」 空に移動した。 「で、どうすんの? 短距離の飛行勝負だっけ」 「そうだな」 俺は辺りを見回して……眼下から誰かの離した風船が上がってきたのを見つける。 「あれが俺たちの高さまで上がってきたところで、そこに向けて直線勝負ってとこでどうだろう」 「ホントに短いね。時間にして7〜8秒ってとこかな。とすると、晶也の仕掛けは一発ネタくらいだね」 「さあどうだろうな」 「いいよ……絶対に手は抜かないから」 それきり言葉は途切れた。 耳に入るのは風を切る甲高い音だけ。 裏腹に心臓はばくばくしている。 風船が上がってくるまでの不自然なほど長く感じる数秒を待って…… 「いくぞ!」 「ゴー!」 お互いに弾けたように飛び出す。 「晶也、どういう仕掛けでって……えっ?」 俺は答えない。代わりにみさきを置き去りにするほど全力の加速をかける。 設定以上の加速を得る時に使う技だ。ジュニアの時に叩き込まれた、世界で通用するための技。 使わずに錆び付いた技を、何年かぶりに自分以外のために使った。 「まさか……」 ここにきてみさきも気づいたようだ。 力でねじ伏せにきているのは俺の方だと。 あまりの速度差に、慌てて飛行姿勢を整え直す。 「くっ……!」 しかしファイターのみさきではすぐに、ましてや残り2〜3秒で最高速度には到達できない。 そのまま、 「……よし!」 風圧で逃げる風船をつかみ取る。 後方からのプレッシャーをビリビリと感じたまま、わずか10秒にも満たない勝負の決着はついたのだった。 みさきがにじり寄ってくる。 「ほんとに何かした!」 みさきが激昂していた。 「……何もしないとは言ってないだろ……ぅぇ」 「なんかおかしくなってる! この数日のあいだに晶也に……晶也?」 「ぅぇぇ……ぅぐ、ぅぇぇ」 「ちょっ、晶也、何吐きそうになっちゃってるの!? 大丈夫!?」 「……大丈夫だ。自制してるし万が一があっても、最初から胃の中からっぽにしてあるから」 「どういうことなの?」 「……トラウマなんだろうな。まだ結局。オールブルーも拭い去ったわけじゃなくて塗り替えただけだし」 「ちょ、何言ってんの!?」 「……空、本気で飛ぼうとするとこうなる。今まで本気で飛ぼうとしてなかったから知らなかった」 はじめはもっと酷かった。 体ががちがちに震えて冷や汗が止まらなかったくらいだ。 「何日か練習して、10秒くらいなら我慢できるようになった。その後こうなるけどな」 「いい笑顔されてもな〜。ってか、どうしてそこまでして……?」 「真白とみさきで戦ってもらうから」 「俺は、勝って欲しい方に、真白の側につく」 「努力を信じるってこと?」 「俺自身、半信半疑じゃだめだから、決意を固める必要があった」 「引くってそういうの……」 「わかってるけどさ、前に進む方法他に思いつかなかったんだ」 「な、賭けは一応俺の勝ちだろ?」 「あ、晶也さん」 「明日香まで増えてるな」 「はい、入れてもらっちゃいました」 スピーダー同盟の練習は虎魚からさらに明日香まで増えていた。 もはやスピーダーでもなんでもない。 「日向先輩、最近あんまり練習見にこないなー」 「悪いな。俺にもやることがあってさ。練習メニューや強化部分指示は市ノ瀬に渡してあるだろ」 「はい、とても役に立っていますよ」 「そりゃよかった。……で」 「ああ、この格好?」 「いや、そうじゃ……」 「秋の大会が近いからさ、みんなで模擬戦をやってみようってことになって」 「なるほど」 みんながフライングスーツなのはそんなことだろうと思っていた。 「そうじゃなくて……」 「4人で総当たり戦をやってな、順位をつけてったんだ。結果聞く?」 「セコンド抜きの結果って言い訳が利かないんだよな。で……」 「やっぱり明日香さんは強いですね。さいつよです」 「そんなことないですよ。ほんとタッチの差って感じでしたから」 「あたしは莉佳にしてやられたな」 「いえいえ」 「……っていうか、おまえら、わざとだな?」 半眼になって尋ねる。 「ふふ……わかっちゃいます?」 「悪びれてくれ。少しは」 要は真白の居場所をすっとぼけて俺をからかっていたわけだ。 「で、真白は?」 「特訓だって」 「なんだそれ」 「残念ながら総当たり戦で最下位でしたから」 「あ〜」 負けて、特訓か。 「……ぁ」 「ひとつ聞きたいんだけど……真白笑ってたか?」 「はい。次は絶対負けないって」 「妙に燃えてたなー」 「ま、まま晶也さん、それってもしかして……!」 「大丈夫。俺が行く」 いや、俺が行きたい。 「……っく、ひっく……」 「……また、側にいてやれなかったな」 「セ、センパイ……?」 「ご、ごめんなさい、いま泣くのやめますから」 「いいよ。落ち着くまでそのままで」 真白の頭の上に置いた手でそのまま撫でる。 「で、今日はどうした?」 「わたし、みさき先輩と戦いたいって言いながら全然実力が追いついてなくて」 「他のみんなは大会目指して頑張ってるのにわたしだけ違うとこ向いてますし」 「なんだか空回ってばかりな気がして……」 「そうか」 真白もずっと悩んでいたんだ。 こんなちいさい身体に抑えきれなくなるまで。 「ばれないように隠れて泣くとかさ、心臓に悪いから俺のとこに来て欲しいんだけど」 「だってセンパイ……最近ちょっと何かされてるみたいでしたし」 「やんなきゃいけないことがあるって言っておいただろ」 「具体的には教えてくれなかったです」 「ああ、まあ」 飛ぶ練習をしてたからな。 真白に身体が震えたり、冷や汗が出るような姿を見せたくなかったっていう男のくだらないプライド的なものなんだけど。 「考えたくもないし、そんなことあるはずないって思いましたけど」 「わたしのことなんて……もうどうでもいいのかなぁ……ってぇ」 「そんなわけないだろ」 「だって、だってぇ……」 本当に心が痛む。 「ごめん、一番辛い時に寂しい思いをさせちゃったな……。でも、真白のおかげだ」 「なにがですか?」 「みさきと話をしてきたよ。真白と戦うことを条件にFCに戻るって言ってる」 「えっ……?」 「来週の土曜。もう大会前日だな」 「どうして……どうやったんです……?」 「俺は真白のコーチだからな。選手のためなら何でもするよ」 「でも、ごめんなさい……勝てる気がしません」 「俺がついてる」 「信じたい、信じたいですけど……」 「約束、覚えてるか?」 「真白を一勝させること。みさきをFC部に連れ戻すこと」 「このふたつを次の試合で一気に叶える」 「でももし負けたら……わたしたちはどうなっちゃいますか? わたしと、センパイと、みさき先輩は」 「こわい……すごくこわいです……」 俺は真白に手を伸ばした。 いつか真白が落ち込んでいた俺の手を取ってくれたように。そして…… 「今度は真白がみさきの手をつかむ番だよ」 「え……?」 「いつか、みさきが伸ばした手を真白がつかんで、それが俺にまで伝わったんだ」 「お返ししなきゃ。俺が真白の手をつかむから真白はみさきをつかまえてくれ」 「センパイ、どうしてそれを……」 「勝とう真白。真白がみさきの手を取る方法はそれしかないと思う」 真白は少しだけ怖々と俺の差し出した手を見たけれど、 「センパイ、わたしをみさき先輩に勝たせてください」 ぎゅっと俺の手を握り返してきた。 「真白」 涙でぐしょぐしょになった目には、もう強い光が戻っていた。 「勝とう、二人で」 俺の言葉に、真白は黙ってうなずいた。 真白を家まで送ってきた。 そのまま家に帰るつもりだったのだけど、真白はどうしても離れたがらなかった。 駄々っ子のように袖をつかんで離さない真白。 優しくたしなめようとしたら、彼女は小さな声でこう言った。 『みさき先輩と戦うために、センパイの勇気をください』 ……たぶん、本人なりにすごくがんばって言った言葉なのだと思う。 それで、真白が何を求めてるのかがようやくわかった。 「どうしましょう、センパイ……すっごくイチャイチャしたい気分です」 そんなことを真白が言い出したのは、他愛の無い話を始めてから30分ぐらい経ったあとだった。 心の準備をする時間が必要だったのだろう。 「留守とはいえ一応仕事してる場所だからさ、背徳感がもの凄いんだけど」 牡丹さんと親父さんは留守のようだ。 「でも……いつお父さんとお母さんが帰ってくるかわかりませんし」 「だろ? そんな危険な橋は渡れないって」 「だからセンパイ早く決めてくださらないと」 真白が、恥ずかしそうにもごもご言う。 議論は平行線だった。 「今日は、わたしがセンパイにその……してさしあげますから」 「してくれるって?」 「わたしもセンパイとこういう関係になれましたから、一応、ちょっとは勉強とか、してたりして……」 「勉強の内容が気になるな」 「それは教えられませんけど、とにかく、勉強しましたから。胸で……その……挟んだりとか」 ……いや、思いっきり言ってるんですけど。 しかし。 「胸で……」 期待して、真白の胸をチラ見してしまう。 「…………」 「また今度頑張ろう。な?」 ふと浄化された気持ちになった俺は、爽やかな笑顔で真白の頭をあやすように撫でる。 「……どうして急にものすごくやさしくなるんです?」 「う……」 「しかもみさき先輩のことで悩んでた時よりやさしくありません?」 途端に疑いの眼差しを向けてくる真白から、軽く目を逸らす。 俺は大切な彼女を傷つけたくないだけなんだ。 ……なんて本人に言えるわけがない。 「わたしの胸じゃセンパイを挟むのなんて夢のまた夢だと思ってますね?」 言い過ぎだけど核心ではあった。 「そうですよね……こんなわたしの胸なんかじゃセンパイを満足させられませんよね……」 「ち、違うって」 しゅんとしてしまった真白に慌ててフォロー。 「冗談っぽく誤魔化したけど俺は真白がそんなことしてくれるって言ってくれただけですごい嬉しいんだよ」 「ただその、真白の頭の中にどういうイメージがあるかわからないからさ、真白の思った通りになるかどうかが……」 「ちゅ」 「っ!?」 一生懸命言葉を伝えようと顔を近づけたところで不意に真白についばむような軽いキスをされた。 「えへ」 いたずら成功のようなご満悦の表情の真白。 「……もしかして、今のは落ち込んだフリでしたか?」 「いいえ。センパイがわたしの頼りない胸だと思うほど気持ちよくなれないかもって心配されてるのは、ちゃ〜んと伝わってきましたよ」 あ、こわい笑顔。根に持ってるやつだ。 「ゼッタイにセンパイをヒーヒー言わせてみせます」 「そもそも声を出せないから真白が……って話だったよな?」 「…………」 「? 真白……?」 「センパイ早く早く」 ……どうやら自分から攻める素振りを見せておきながらキスだけは俺からしてほしいらしい。 「我慢できなくなるって」 「我慢なんてさせてあげません」 「……ったく知らないからな」 「ん……っ」 「ん、ん、ちゅ、んむ……」 キスをしながらしがみつくように抱きついてくる真白に押し倒され、覆い被さられる。 「んん、ちゅ、ちゅ、んむ……んっ」 キスを何度も繰り返しながら、お互いの身体や服をまさぐっていった。 「っく……」 真白の控えめな胸が、懸命に俺のものを挟もうとしている。 むにっ、むにっと柔らかなものが押し付けられてくる、しあわせな感触。 そしてじんわりと伝わってくる熱のリアルさが俺をさらにビキビキと硬くする。 真白がじいっと一点……俺のものを見つめ続けているのも原因かもしれない。 「って、真白……?」 「…………」 「真白さーん?」 「え……? あっ、す、すみません」 「こんなに間近でセンパイの……これ、見たのはじめてでしたから、ちょっと意識が飛んじゃってました」 自分でしたことながら、刺激が強すぎたらしい。 ちょっとこわい顔みたいになっているのは緊張しているからだろう。 「あっ、な、なんか先っぽの方がぴくぴくしてます」 「報告はいらない……」 泣きたくなりそうだ。 「でもセンパイ、わたしのときはイジワルなこと仰いましたよね」 「……言ったっけ?」 「オッケーです。だいたいどうすればいいのかわかりました」 「こら!」 多分わかっていないか誤解しているはずだ。 「えと……お手柔らかにおねがいします」 真白がまず、なぜか俺のものに一礼する。 すると俺のものが何かを期待するようにちょっと跳ねた。 ……ちょっと恥ずかしい。 「そ、それでは……いきます。ん、しょ……」 真白が、二つの膨らみを俺のものに押し付けて、本格的に擦りはじめる。 「ん、んぅっ……」 「く……」 「ん、ふ、は……はぁ……っ」 すべすべとした肌。 やわらかくて温かい。 だけど、やはり刺激というには程遠い感触。 「センパイ、その……やっぱりあんまり気持ちよくないですか?」 「そんなことないって。真白が尽くしてくれてるだけで堪らないのに」 「でもなんだか……えと、何て言ったらいいのかその、ちょっと元気がなくなってしまったような」 「ほんとにそんなことないって」 「大丈夫ですセンパイ」 「え?」 「わたしだって自分の胸がおっきいと思っていたわけではありませんから、足りない部分は別のとこでカバーします」 「いや、真白に足りないとこなんて……」 俺の言葉を待たずに、真白が左右の髪留めを抜き取った。 ふあさっと長い髪の毛が真っ直ぐに落ちる。 何気に髪をおろした真白を見るのははじめてかもしれない。 この髪型もかわいいな…… 「って、真白……!?」 感慨に浸る間もなく、真白が俺のものにおろしたばかりの綺麗な髪をくるくると巻きつけていた。 「これ、本当に気持ちいいといいんですけど……」 少しだけきゅっと食い込んでくる真白の髪の毛が今までに知らない快感を与えてくれて、それだけで竿がぴくぴくと跳ねる。 どこで拾ってきた情報なのかは知らないけど、 「既に充分気持ちいいけど……いいのか? 髪の毛汚れちゃうぞ」 「元々全部センパイにあげてるものです。それでも気になるなら、今度一緒にお風呂に入ってわたしの髪を洗ってください」 「それでいいなら乾かすとこまでやらせてもらうさ」 罰がない。 「あ、水着着用ですからね」 「え!?」 「あ、当たり前じゃないですか! センパイのことは、す、好きですけど恥ずかしいものは恥ずかしいんですから!」 どうやら自分が今、何を目の前にしているのかは一時的に忘れているようだ。 「でも水着の真白とお風呂だろ? 俺にそんなの我慢できるかな……」 「……ま、まあセンパイがどうしてもと仰るのならわたしもやぶさかではありませんケド。雰囲気とかさえ、ちゃんと作っていただければ……」 「雰囲気というと?」 「やさしくキスなんかしていただけたら……まぁ」 罰がないというか、ご褒美しかなかった。 よかった……俺、真白と付き合えて。 こんなかわいいやつ、他に譲れる気がしない。 「真白」 「なんですかセンパイ」 「今から凄い勢いで真白を襲ってもいい?」 「だ、だめです! 今さら何言い出すんですかもう! 今日はわたしがセンパイを気持ちよくする日なんです!」 「はは、そうだったな」 もちろん覚えてはいたけれど我慢できなくなりそうなくらい心にきていた。 「……………………」 「あれ? もしかして今さ、襲われちゃうのもいいかもって考えてない?」 「そ、そそそそ、そそんなことないですぅ〜!」 当てずっぽうだったわりには動揺してくれて、 「わたしで気持ちよくなってくださいセンパイ」 「ぅ……」 真白が俺への攻めを再開する。 ふにゅ、ふにゅっ、ふにゅ……しゅっ、しゅっ、しゅっ…… 先ほどまでの控え目なふたつの乳肉の摩擦に加え、俺のものに絡まった何百、何十もの髪の毛が細かいノイズのような、ざざっとした快感を与えてくる。 びくっびくっと、俺のものが悦ぶように小刻みに震える。 「はぁ……んん、熱い……ですよぉ?」 一方で真白は俺への愛撫を続けたまま、とろんとした目で、どこかうっとりと俺のものを見ていた。 俺の竿は先端の割れ目からだらしなく先走りを垂らしはじめ、真白がそれを白い胸に塗りたくるように擦る。 すると滑りが良くなり、生臭い匂いが広がったが真白はそれを全部吸い込んでいるようだった。 俺のものは赤黒く変色しはじめ、少しずつぷくっと膨らんできている。 胸と、特に髪の毛でしごくというはじめての快感に限界が早まっているようだ。 だけど、せっかくだから真白にやってみてもらいたい興味のあることがあった。 嫌だったら無理強いはしないけど、雑誌やマンガで読んだことのあるアレを…… 「ちゅ……」 「っ!」 快感よりも真白の行動に驚いた。 俺のものがびくっと跳ねる。 「きゃっ」 大きく跳ねて戻ってきた俺の竿が、驚いた真白の頬に一度ぺちっと当たった。 「ご、ごめんなさい。びっくりしちゃいましたよね。センパイがよろこんでくれるかなって……こういうの、引いちゃいます?」 心配そうな真白。 「いや違うんだ」 むしろ今まさに口でしてくれないか、と頼んでみようとしていたところだったので、 「その……ありがとう」 「あれ? センパイちょっと期待してる顔になってます?」 「う……」 「ふふ、うれしいです。ヘタかもですけど一生懸命頑張らせていただきますね」 真白は意を決したように頷くと、 「……ちゅ……んっ」 「は、んむ……ちゅ、ちゅ……」 真白のちろちろとした舌やかわいい唇が俺の亀頭に触れる。 真白が愛してくれたあとはなめくじが通ったあとみたいにてらてらと濡れていた。 「ん……センパイの、びくびくって、膨らんできてます……」 そう微笑む真白の濡れた口元に心臓が跳ねる。 「ちゅ……んむ、ん、ちゅ、ちゅ……」 小鳥がついばむようなキスの嵐。 「ちゅ、ん……ん、はむ、んぷ」 真白が顔を傾け、側面をぬらっと舐めあげる。 「ん、ちゅ、れろ…びくびくって……センパイ気持ちいいですか?」 「最高だよ」 「センパイはわたしに甘いですから……んちゅ」 思いついたこと全部で俺に尽くしてくれているみたいだ。 今度はキスの合間に吸い上げるなんて刺激が増えた。 「んふ……ちゅう、じゅるるっ……れろ……ふぅ」 真白の微かな鼻息も俺のものをくすぐってくる。 「えと……歯は立てないように……」 ……なんかこわい呟きが聞こえてきた。 この手のやつだとよく聞く話だけど実際、経験がないからどんな痛みかわからない。いやわかりたくもないけどさ。 真白のちいさな口が亀頭を半分くらい飲み込んだ。 「ん……ちゅ、れろ、んうぅ……ちゅ、ちゅうっ…んっ」 先端の割れ目を、真白のピンク色の舌がなぞってきて体が震える。 「ん、んぅ、んちゅ……熱くて……んむぅ……おっき……んんむ、ちゅ」 くいっくいっと。 真白の口に含まれていく俺のものの面積が増えていく。 「んー、ちゅ、れろ……んむぅ……ちゅぷ……はぁ……センパイの……こんなにおっきかったんですね」 ふにゅ、ふにゅっ、ふにゅ……しゅっ、しゅっ、しゅっ…… 「ちゅ、んむんむんむ……ん……ちゅちゅ……」 乳房、髪の毛、口内。 真白は思いつき、思い出した順に俺に刺激を与えて尽くしてくれている。 「っぐ……」 少しずつ限界を感じはじめる。 「んん……ん、じゅるっ……んぷ、あむっ、ちゅぱ……じゅぷ」 と、俺の変化に気づいたのか真白が少しずつペースを上げてくる。 「んちゅ、ちゅ、ちゅ……んむ、ん、んん……はむ、ふ……ちゅうぅ……あ、あぅ……ちゅ、じゅぷ」 「真白、そんなに無理しなくても……」 「こふっ、こふっこふ……!」 「言わんこっちゃない」 苦笑し、苦しそうに咳き込む真白の背中をさする。 「で、でもセンパイ、気持ちよかったんですよね……?」 「え?」 「口の中で……すごくびくびくってしてましたから」 「それはそうなんだけど真白に苦しい思いはしてほしくないからさ」 「せ、センパイのにもう少しだけ、ちゅってさせてください」 「はむ……ちゅぷ、んっ、ちゅ、ちゅ、ちゅうぅ……ん、じゅる……んぅ、じゅぷ、んっ」 今度こそ俺をイかせたいという真白の勢いを感じる。 広がった真白の舌が俺のものを包んだり、丸めて、先っぽをぐりぐりとほじくられる。 「ん、ん、んぅっ……ん、ぐっ、あ、むぅ……じゅっ、ん〜っ!」 真白の口と俺のものの先端の間に透明な糸が引き、それもピンク色の舌ですぐに絡め取られる。 俺のものは、べとべとにふやけはじめていた。 直接的な刺激よりも、真白の尽くしたいといういじらしい表情やぎこちない所作にこみあげてくるものがある。 「真白ありがとう。もうちょっとっぽい」 「んっ! は、あ、んっ、ちゅぷ……んじゅ、んむ……ちゅ、ちゅ、んむぅ……んん〜」 「っく……ぁ、ああ……」 恥ずかしいけど、意識して声をあげる。 真白の頑張りが俺を気持ちよくしてくれていることをちゃんと伝えなきゃいけない。 「ん、んく、んぅ……ず、ずずっ……あ、は……あ、あむ……あ、ちゅ、んぷっ」 「ふぁ……んっ、ちゅ、しぇんぱ、んくっ……!」 さらなる快感を求めて俺の腰が動き、真白の口内を攻め始める。 抑えられない……! 「はぁ、んむ、ん、ぴちゃぴちゃ……ちゅぷっ、んく、んむっ……は、あ、はぁぁっ」 それでも真白は口内で俺の愚直を受け止めて、舌と唇でさらなる刺激を与えてくれる。 「真白……俺もう……っ」 「ふぁ、ん、んぅ……ちゅ……ひひれふ」 「いいです、ったって」 「ん、んぐっ、じゅぶ、ぷはぁ……しぇんぱいの……っ、はぁ、好きなときに……好きなとこでぇ」 「わらひ、れんぶ、もらっちゃいますからぁ……」 「〜っ!」 もう本当に我慢が効かなくなった。 「ん、んっ、んむ……んぷっ、む、んぐっ、うっ、くぷ……は、あむっ、ん、んんぅ……」 真白はここまできて、まだ俺のものを飲み込もうとしている。 そんな姿がいじらしかった。 「ん、んっ、んんっ…うむっ……んんっ……んぷ、んちゅ……んく、んっ、ん、ん、ん、ん、ん……んんんん……!」 「真白っ、出る、出ちゃう……っ」 「しぇぷぁ……しぇんぱい、んぐ、くだしゃい、んぐ、ん、んむ、ぷはぁっ……!」 「くっ、真白……っ!」 意識が真っ白になった瞬間、真白の口内から、痙攣した俺のものがぶるんっと跳ねて、 「ふわあああぁぁぁ!!?」 膨れ上がった熱い塊が、真白の顔に、髪に、肩に、胸にと噴き出した。 「ん、あ……しぇんぱ……ふぁ、あ、ぁぁ……」 どうすることもできずただ呆然と熱い塊を受け続ける真白。 俺はものすごい脱力感で下半身の痙攣に体が連れていかれているような始末だった。 「すごい……ん、はぁ……あぁ……」 白濁は三度、四度と吐き出されたあと、ようやく収まってきた。 「んん、はあぁぁ……すごい、匂い……」 「真白、大丈夫か?」 「センパイこそ……ヒーヒー言えましたか……?」 「見てたし聞いてたろ」 「えへ、頑張ったかいがありました。口が疲れちゃいましたけど」 「しばらくキスできないか?」 「いいえ、怪我と一緒です。たくさん舐めて治してください……っ」 「センパイごめんなさい……わたしのお口だけじゃ満足させてあげられなくて」 「そんなことない。最高に気持ちよかったって」 「っていうか、お互いになんとなく一度はじめちゃったらつながるまでは収まりつかないってどこかでわかってたろ?」 「……まだ二度目でちょっと辛いですけど頑張って我慢してみせます……っ!」 真白の宣言と共に、俺の腹の上にぱたぱたと落ちてきた雫が透明な丸い珠になって震える。 落ちてきたのは俺に跨っている真白の露わにされている足の付け根からだった。 割れ目から潤い、溢れた愛液が何本もの光る筋になって太ももを伝い流れ落ちてきている。 「あうぅぅ……」 言葉とは裏腹な自分の身体に真白が恥じ入る。 「いいんだよ真白。俺が真白をそうしたんだから」 「センパイ……こんなわたしでも、いつかもらってくれますか……?」 ……いきなり何の脈絡もない質問だけど、それだけ恥ずかしかったみたいだ。 「今だ、って思ったタイミングがあったら進路調査票の第1希望から第3希望まで俺の名前で埋めとけ」 「予約……しましたからね?」 「真白の名前以外が埋まることはないよ。さ、下りておいで」 再び熱い滴が降ってきたので、俺は真白を促す。 見上げる真白の足の付け根はてらてらと濡れそぼって輝いていた。 「わ、わたしがするんですか? その……」 「今日は真白がしてくれるんじゃなかったっけ」 「……センパイ、いじわるです」 恥ずかしそうに真白が腰を落としてくる。 俺もせめてもと自分のモノを支えて、位置を調節する。 少しずつ、少しずつ近づいてくる真白の入口。 やがて先端に粘膜が触れ合った。 俺はパレットの上で、筆を使って絵の具の色を混ぜ合わせるみたいに俺のもので精液と真白の愛液を混ぜ合わせる。 「んっ……ぁぅ……んっんっんっ」 亀頭の先で円を描いたり、押し付けて引っ掻くようにを繰り返す。 「んぅ……っ……しぇんぱぁい……」 「おいで」 切なそうな声をあげた真白に頷くと、俺は自分のモノを動かすのを止め、次に真白がその先端を割れ目に捉えた。 ちゅぷっ…… 「んっ……はぁ……はあぁぁぁ……」 押し開かれた真白の入口から溢れ出した愛液が俺のものをコーティングするように濡らす。 中は……熱い。じんじんと芯にくる熱さだ。 真白は背中に針金が一本通ったみたいに身体を反らせた。 「ゆっくりと、そのまま腰を下ろして」 「センパイ……その、あんまり、見ないでくださぃ……」 自分の中に、自分の意思で俺のものが埋まっていく様を見られるのが恥ずかしいのか、真白が消え入りそうな声で訴える。 ずずず……ずずずずず…… 「う、ん……はうん……」 奥まで埋まっていくにつれ、真白の上半身がうねり出す。そして、 じゅぶずぶずぶずぶずぶっ……! 「ん……あっ、ひっ……うあぁぁ……あ、ああっ……!」 俺は、真白の割れ目を押し広げ、中へと侵入し、幾重にもなる肉のうねりを亀頭でこすりながら一気に奥へと突き上げていく。 「はぁぁ……センパイ、センパイのが……っ」 途中からぬるる……っと滑り込んだ勢いとは逆に、真白は、自分の中に入り込んできた熱い異物に抗うようにびくんっと背筋を反らした。 真白の中をみちみちといっぱいにした俺の肉茎を伝って、愛液が滝のように流れ落ちてくる。 長いようで短い一瞬で、俺のものはすぐにトンと行き止まりにぶつかった。 「はあぁ、あぁぁぁ……一番奥……ノックされちゃってます……おっき……おなかいっぱい……」 ぶるるっと真白が身体を震わせた。 「真白、大丈夫か……?」 「だ、大丈夫じゃないですけど……な、なんかもう、何をどうしたいのかもよくわかんなくて……ふうぅ」 真白の呼吸は深く、湿った熱を帯びていた。 何かを噛み締めるような、、そして痙攣のような小さな震えは続いている。 まずは真白がどうしたいのかを確認しよう。 「じゃぁ……動きますね」 「動いちゃって大丈夫なのか?」 「だって……んぅ、センパイにぃ……気持ちよくなってほしいですもん」 「……っ」 「っ!? 今なんかまたおっきくなったような……」 そうだった。 真白は最初からずっと一貫して言っていた。俺を気持ちよくしてあげたいと。 でも…… 俺は真白の手を掴む。 「そろそろいいだろ」 「センパイ……?」 「俺だって真白を気持ちよくしてあげたいし、ふたりで気持ちよくなりたいんだよ」 「ひゃっ!? あ、あっ、あっ……!」 俺は真白の身体……骨盤の辺りを捕まえ、下から腰を思いっきり突き上げる。 「ひっ、ひゃあっ、ふぁ、ああっ、センパイ…っ!」 これからも俺は真白のこんな顔を何十、何百、何千、何万回と見ていくのだろう。真白も同じだ。 どれだけ繰り返しても、また埋め合いたくなるはずだ。 色々な形やパターンはあるだろうけど最後にはちゃんとまたお互いを求めあえたらいいなと思った。 もちろん惰性じゃなくて互いにますます好かれるような努力も必要だろうけど。 「あっ……あっ、あんっ、あ、はぁっ、そんな、激し…っ」 身悶える真白に、容赦なく打ち付けていく。 カリが広がって、真白の中でたくさん擦っていく。 「ふあぁんっ!?」 最奥に届いたところで大きな動作で腰をひねって、また違う大きな刺激を届ける。 「んっ、んぅ、んん…! んああっ、あん、あんっ……うあああ……!」 無意識だろう。 真白の下半身もぐりぐりと押し付けるように俺との接合部を軸にして、円を描きはじめた。 「あ、あーっ、センパっ、センパイ……!」 無我夢中にお互いを求め合う。 押し付け、擦り合い、少しでも奥に届くように勢いをつけて力強く、だけど往復は素早く。 ぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅと激しい破裂音が鳴った。 音が、耳から脳を溶かしていくように思考能力を奪っていく。 真白の愛液と俺の精液の混ざった熱い汁が、飛沫となって飛び散った。 「はっ、ん、くっ、あ、あ、あっ、あーっ!」 「センパイ、すごい、しゅごい、しぇんぱいぃ……!」 二人で求め合ったときの快感の量はまた段違いだった。 真白に辛そうな様子はない。俺ももう止まれない。 湿った目をした真白を芯を通して串刺しにするみたいに、ただ真っ直ぐ、杭を埋め込むよう突き上げ続ける。 「ああっ、奥、しゅごい……カタチっ、しぇんぱいの、伝わってきます……!」 俺も意識して真白の中を感じてみる。 はじめてのときはぎちぎちと拒絶していた気がするけど、今日はきゅうきゅうと絡みついてくる。 まるで簡単には離しませんと言われているみたいだ。 「あ、あんっ、あっ、んっ、そこっ、そこしゅご、んうんっ……!」 真白がかわいい。 この顔が見たくて、声が聞きたくなって何度も何度も突き上げてしまう。 俺の腰の上で、真白の白い身体と長い髪が弾んでいる。控えめなおっぱいも懸命に震えていた。 手を伸ばし、胸から脇腹、おへそと真白に触れていく。 「あ、あ、あ、だめ、だめだめ……ぇ」 そうしながらも、下半身は真白が浮くくらい、より重く、深く、突き上げる。 「しぇ、しぇんぱい……」 真白の唇が、何かを求めるようにぱくぱくと開く。 キスだ。 「ん、ちゅ、ちゅ、んむ……ん、んむ、んむんむ……ちゅぷ」 懸命に舌を伸ばして、俺を求め、迎え入れてくれる。 「んっ、あ、ちゅ、んんっ、ん、んぷ……っ、れろ……ちゅちゅ、ぺろ、ちゅぷ、はむ……うっ」 「んぷっ、れろっ、ちゅちゅ、んぅぅ……れろ、む……ちゅぷ、あふぁぁ……は、はあぁぁ……」 唇が離れても、真白はまだ俺を探すように口をぱくぱくと動かしている。 なんだか無性にかわいくてもう一度真白にキスをした。 「はっ、う、あ…あぁぁ、んああっ、あん、あんっ、ん、あ、あ、あっ」 お互いの繋がっている部分は、激しい上下左右円運動で、混ざり合ったお互いの体液が白く泡立っていた。 そろそろ限界が近い。 「あぁっ、んああっ、あっ、あ、ん、んんっ……!」 「ひっ、くぅ、んんっ、しぇんぱ、わた、わたしもう……っ!」 「俺も……だ!」 「やぁぁっ! うあ、うあぁ、ひっ、くぅ!」 背筋をぞくぞくと這い上がるものを感じながら、ラストスパートだと、真白の腰を突き上げる。 「んっ、んっ、ん、んっあ、あ、またつよく……ああぁぁっ……!」 下半身の感覚は、快感で麻痺してしまったのかもうほとんど残っていなかった。 「あ、あ、あ、あぁぁ……ぅあ、ひっ、んんっ……」 限界を伝える震えは、背筋を這い上がって首の裏でぞわぞわとわだかまっている。 これが頭のてっぺんまで届いた時が最後のときだ。 「うあっ、あぁっ……しぇんぱい、しぇんぱいぃ……!」 せり上がってくる快感が怖くなったように真白がいやいやと白い身体を振り乱す。 そんな真白の表情が、仕草が、声が俺を満たしていく。 「うあっ、あっ、あ、あっ、あぁっ……!」 震えが脳天を突き抜けた。 「真白……っ!」 「しぇんぱい、しぇんぱいしぇんぱいしぇんぱい……!」 不意に真白の胎内が、きゅううううぅぅぅっと締まった。 限界だ……! 「ふぁぁああああああっ! あ、うぁぁ……あ、あ、あっ、あああ〜っ!」 「う、くっ…」 「あああぁぁっ! あっ、あ、あーーーっ! あ、あ、あぁ……」 びゅるるるっ、びゅるっ、びゅるるるるるるっ……! 吐き出す白濁が止まらない。 「ううぅんっ、ん、ん、ん、んんんぅぅぅ〜あ、ふあっ、はあっ、はああっ……ふああっ……」 真白の最奥……子宮をノックするようにどくんっどくんっどくんっと脈打つ精液を流し込んでいく。 「あぁぁ……すご……あつ……ぅ」 「ふあぁ……あ、あ、あは……やっと、おさまって……んんん」 「真白、大丈夫だったか……?」 「はっ……はぁ……しぇんぱい、しゅごかったでしゅ……」 「全部真っ白になって……幸せでした……」 「そっか……。俺もだよ真白」 潤んだ瞳でじっと見上げてくる真白の頭をそっと撫でた。 そして、真白とみさきの試合の日を迎えることになった。 「じゃあ真白のセコンドは俺、みさきは……本当に一人でいいんだな?」 「うん、いいよ」 「わたし、セコンドに入りましょうか?」 「んー、ありがたい話だけど、遠慮しとく。そういうのじゃないから、この試合は」 「わかりました、じゃあ位置の確認とかだけでも」 「ありがと、じゃそこはお願いね。……あと、審判はナシ? お互いにちゃんとルールを守ればいいだけだし」 「……わかりました。では、よろしくお願いします」 「はいは〜い。じゃ、とぶにゃん」 みさきはふらふらとファーストブイに向かっていく。 「がんばれ、真白」 「はい! いくにゃん!」 真白が起動キーを口にして飛んでいく。 俺は明日香を見て、 「悪いな。大会前の大事な時に無茶なお願いして」 「……いえ、だってこの試合がどんなに大事か、わたしにだってわかりますから」 「……ああ」 ずっとみんなと一緒にいたからこそ、この戦いがどんな意味を持っているか、わかる。 ある意味、これが決勝戦みたいなものだから。 「戦ったあとで、うまく解決するといいですね」 「……そうだな」 そのためにみさきに試合を挑んだのだからな。 目を細めてフィールドを見上げる。 「改めて、よろしくお願いします」 「りょーかい」 「本気でお願いしますね」 「はいはい。でもあたしの本気なんかたいしたことないよー」 「そんなことありません。みさき先輩の本気はよく知ってますから」 「……それはどうかな〜。まあ、とにかくやろっか?」 「はい」 みさきは下に向かって手を振って、 「お〜い。試合開始の合図をお願い」 「じゃ、明日香にお願いしてもいいかな」 「え? わたしですか? いいですけど……。そ、それではいきますよ!」 「いつでもどうぞ〜」 「よろしくお願いします」 「セット!」 「………」 「……ッ」 みさきはまったく気負っていないように見える。真白は全身に緊張感を漂わせている。 「ぷおぉぉぉぉぉぉん!」 明日香がホーンの口真似すると同時に、二人が倒れるようにして前へ出た。 「んじゃ、あたしはセカンドラインで待ってるから、ゆっくり来てよ」 みさきはピラピラと手を振ってショートカットして、ふらふらと飛んでいく。 「……真白」 「はい」 「みさきに惑わされるなよ。ああやって自分のペースに持ち込む作戦かもしれないからな」 「違うと思います。みさき先輩はただ普通にやっているだけだと思います」 「……そうかもな」 「わたしのこと警戒なんかしてないと思います。ただ何も考えずに普通の気持ちというか、ニュートラルな気持ちというか、とにかくただショートカットしただけだと思います」 「どうしてそう思う?」 「だって、わたしを惑わそうとするほど、みさき先輩がわたしのこと警戒するわけないです」 「そうかもしれない。けど、そう考えるのはよくないぞ」 「……どういうことですか?」 「そういう考えは油断につながるぞ」 「油断、ですか」 「そうだ。みさきの作戦だったらどうするんだ? すでに嵌ってることになるぞ」 「みさき先輩の作戦だなんて、わたし相手にそんなこと……」 「だから、もし、考えてたらどうするんだって話だよ。もしそうだったら、作戦に嵌ってるってことにならないか?」 「……なりますね」 「真白が油断してどうするんだ。そんなんじゃみさきに勝つことなんかできないぞ。ちゃんとみさきに向けて気持ちを高めていくんだ」 「そうでしたね……。みさき先輩と対面して、ちょっと気が抜けていたのかもしれません。わかりました! ちゃんと、やります!」 「よし! まずは予定通りフェイントをかけまくって、突っ込め! つかまらないように気をつけろ」 「はい!」 真白がセカンドブイにふれる。 1対0。 反動を利用して、加速しながらゆるやかに上昇。 ──始まるな。 真白はスピーダー。みさきはファイター。 スピーダーvsファイターはどちらかがペースを握る一方的な展開になることがわりとある。 スピーダーが抜けるか? ファイターが止めるか? このラインが試合を決めるかもしれない。 真白がある程度上がったところで、上昇をやめて水平飛行。 「………」 これからみさきとブイの間を目指して、重力を利用して加速しながら下降する予定だ。 直接ブイを狙わないのは、行動を読まれてしまうからだ。 加速前に捕まえられたくない。 ブイとの間に距離がある程度あれば、みさきの行動に反応して飛ぶことができる。 もし、ブイの前に立たれた場合は、思いっきりスピードをつけてから突撃して突き飛ばしつつ、ブイにタッチするだけだ。 この場合、反動は相対的なものなので、前に進む力を残したまま進むことができる。 だから待ち構える側もブイの前で待つ、ということはしない。 「よっ、と……」 ショートカットしていたみさきが、ふわり、といった様子で、真白の進行を遮るように浮き上がってくる。 「は〜〜……」 だるそうな息をして、真白を見上げる。 ──どういうつもりだ? いくらファイターの初速が速いといっても、あんな風に立っているだけじゃどうしようもないだろ。 「………」 マナー違反だと思いつつもチラリと横を見る。 「みさきちゃん、どうしたんですか? どこか不調ですか? お腹が痛いんですか?」 横目で見ただけでも明日香の焦りが伝わってくる。 「………」 それに比べて、みさきはなんでもない顔だ。 ──何か考えがあるのか? 「真白、気を抜くなよ!」 「わかってます!」 「………」 「……ッ」 真白は進行方向外に目を向けながら、左右の肩をピクピクと動かし、右に行くぞ、左に行くぞ、とフェイントをかける。 「……ッ」 左に傾けた体を力任せと言った様子で、上半身をねじるように右に傾けた。 ぼ〜、と浮かんでいるだけのみさきの横を通り過ぎる。 「なるほどね……」 「……え?」 「………」 みさきは通り過ぎていく真白を目で追っただけだった。 「よいしょ、っと」 真白がブイに向かったのを確認してからサードラインに向かう。 「……センパイ」 真白の不安げな声が鼓膜を揺らす。 「みさき先輩は何を考えてるんでしょうか? ただ浮かんでいるだけって……」 「わからない。だけど気は抜くなよ」 「わかってますけど……。もしかしてわたしと試合をする気なんかないんじゃ」 「もしそうだとしたら、100点差つけてやればいい! それだけやられればみさきも目を覚ますだろ」 「……ですね。そうですね! わかりました! 行きます!」 「行け!」 「はい!」 真白はサードブイにタッチして、加速。 「……ッ!」 みさきは再び、ゆらゆらと浮いているだけの状態。 ──何を考えてるんだ? 「行きますッ!」 真白は再び目と肩でフェイントをかけながら、ひねり込むような斜め下から斜め上へのラインを描いて、 「………」 「……ッ」 真白があっさりとみさきをかわしていく。 みさきは真白を追うことさえせず、すぐにショートカット。 「みさき先輩が何を考えていようと100点取るだけです!」 「それでいいぞ」 ──それにしてもみさきは何を考えているんだ? 今度はフォースラインでふらふらしているだけだ。 本当にやる気がないのか? 真白は100点を取るってことでモチベーションを保ってはいるけど……。 このまま試合が終わったら真白はかなり傷つくんじゃないか? みさきはこんな風に試合をぶち壊しにするつもりなのか? いや、そんなはずない。 !! 「真白。絶対に何かある……というかみさきはこの試合を投げるつもりないぞ」 「何かあったんですか?」 「とにかくわかったんだ。集中力を切らすなよ」 「わかりました」 3対0。 「………」 ──みさき 「え?」 「……あ」 みさきが旋回を始めた。真白の動きに対応する準備だ。 「みさき先輩ッ!」 真白の声が弾んだ。 みさきは、くいっ、くいっ、と手招きして、 「お、い、で、真白」 「い、行かせていただきます!」 「冷静に行けよ!」 「わかってます!」 ……大丈夫なんだろうな。 真白は急上昇してから、急降下に入る。 「……ッ」 「……ッ」 それに反応して、みさきは真白と接触できるルートを探すように動く。 ──そう簡単には見つけられないはずだ。 「……えい、えい!」 視線と上半身の動きで、真白はフェイントを何度もかける。さらには左右に不規則に揺らいで見せる。 「やっ!」 動くと見せかけて動かない絶妙なタイミングで声を出す。 気を抜いていたらその声のタイミングだけで、フェイントに引っかかって前に出てしまうかもしれない。 真白は全身でみさきを騙している。 みさきからフェイントをされるのが苦手だ、という話を聞いてから真白はフェイントの練習をかなりやりこんできた。 「………」 あのフェイントと向き合ったら、誰だって混乱するはずだ。本気で見れば見るほどわからなくなるはず。 みさきは唐突に、 「……えい!」 直立した状態で、水泳で水を掻く時のような動作で両手を真上へと伸ばす。急上昇の予備動作だ。 「……ッ?!」 真白はそれに反応して、ぐっ、と下降角度を深くした。 「抜きます!」 一瞬、頭の片隅がチリチリした。 「気をつけろ!」 「え?」 この展開、どこかで見たことがある。 「よっ、と」 みさきはその場で、くるりっ、と縦に半回転して、斜め下に向かった真白に真上から迫った。 「はっ!」 無防備な真白の背中にみさきの手が伸びた。 「うわ? わわわ?!」 真白は完全に抜いたと思っていたはずだ。だから背中に触れられて、大きく姿勢を崩してしまった。 「連続得点もらうよ!」 反動で上へと行ったみさきが、立て直すのに遅れている真白の背中に再び触れる。 「わわわわ?!」 得点追加。 3対2。 「うわ? わわわ? え? どうして、こんなことに?」 「大きく弧を描きながらスピードを乗せるようにして、斜め下に向かえ!」 「は、はい」 今のは夏の大会で市ノ瀬との試合でやったのと同じだ。 あの時、みさきは市ノ瀬を追い詰めるのを躊躇ったのだが、今は真白の背中を目指して飛んでいる。 「……ッ!」 「行かせないよ!」 「待てません! フェイント苦手だったんじゃないんですか!?」 「あたしが本当のことを言うわけないじゃん」 「……ッ!」 真白はスピードに乗ってきている。 普通のファイターなら振り切れているスピードなのだが、みさきは真白が弧を描くたびに小さい弧を描いたり、先を読んで短距離で移動したりして、真白についていく。 ──やっぱりみさきは強いな。 「ばいば〜い」 「え?」 ピッタリと追っていたみさきが、すーっ、と真白から離れていった。 みさきが向かった先には、ファーストブイ。 「………」 「えい」 みさきがブイにタッチして得点。 これで、3対3。あっさりと同点に持ち込まれてしまった。 ……あれだけ真白を追い詰めながら、自分の位置も確認してたってことか。 「そんな……」 「真白! ぼーっとするな!」 「わたしの3点なんてみさき先輩がくれたようなものだから、本当は0対3ですよね?」 「それは違う。みさきがくれたんじゃなくて、みさきは得点を引き換えに真白を観察していたんだ。いいからショートカットしないと、セカンドブイを取られるぞ」 「え?」 「当たり前だろ! みさきがブイにタッチしたんだから、みさきが次のブイも狙う番だ! このくらいで落ち込むな! まだ間に合うぞ!」 「はい!」 「今日は絶対に勝つんだ!」 「勝ちます!」 真白がショートカットしてファーストラインの後半を狙う。真ん中辺りを狙っていたのでは、みさきを待ち構える余裕がないかもしれない。 「………」 みさきがラインの真ん中よりセカンドブイよりの位置についた時、ようやく真白がファーストラインにたどり着いた。 「逆走して自分から行くんだ」 「はい!」 接触するか、交差するかしないと、真白はセカンドブイにタッチできない。 相手との距離があればあるほどいいスピーダーには、やや厳しい展開だ。 みさきは真白が近づいてくるのを確認して、上半身をぐぅっと上げて直立する。 「ほら、待っててあげるからおいで」 「挑発に乗るなよ。みさきはドッグファイトに持ち込むつもりだぞ」 「嬉しいです!」 「嬉しいって何がだ?」 「だって、挑発するってことはみさき先輩は、わたしとちゃんと試合をするつもりってことですよね? 勝つつもりじゃないと挑発なんかしませんよね?」 「気まぐれの火が点いてきたってことかな」 勝っても負けてもいいなんて思っている奴は、挑発なんかしてこないだろう。 「だからって挑発に乗ったらダメだぞ」 「わかってます!」 「みさきと並ぶ位置まで行ったら即Uターンをして、ブイを狙うんだ。絶対にみさきの手の届く位置に入るなよ」 「はい!」 ブイとブイを結ぶラインでみさきと並べば、ブイにタッチする権利を得ることができる。 横の距離は関係ない。 ドッグファイトに持ち込まれないように、みさきとの横の距離を気をつけて距離を縮めなくてはならない。 「真白だって普通のスピーダーよりはバチバチできるんだから、すればいいのに」 「………」 真白はみさきを無視しして距離をつめていく。 「そういうつまらないことをするなら」 「え?」 「逆にブイを狙っちゃう」 みさきがスピードを上げて直進する。 「ええ?」 逆走していた真白をあっという間に抜いてしまう。 「みさきを追え!」 「はい!」 あ、ダメだ! 慌てていた真白はその場で反転してみさきを追ってしまう。 今までのスピードを殺さないように大きくUターンするのが正しいのに。 「落ち着け真白!」 「落ち着いてます!」 落ち着いてたらその場で反転するなんてミスはしないだろ! そう言いたくなるのをぐっと我慢する。今、そんなことを言ってもしょうがない。 「ここはブイを取られてもいい。ショートカットせずにそのまま後ろから追うぞ! そっちの方が有利だ。絶対に追いつける!」 「わかりました!」 「追いかけておいで、真白」 みさきがブイにタッチして、3対4。 「………ッ」 セカンドラインに入ったみさきを後ろから真白が追っかける。 このままだとラインのどこかで追いつかれると判断したのだろう。みさきは小さい弧を描いて旋回する。 「じゃ、そろそろバチバチやろうよ」 「しません! 追い抜かせていただきます」 真白は再びフェイントを入れる。 「えい」 みさきの体が横に流れる。 ──突破できる! そう確信した瞬間、みさきが反転。 「えい!」 「――っ!」 3対5。 「大きく弧を描くようにしてスピードで逃げろ」 ちょこちょこ逃げたらさらに得点を取られる! 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」 真白の呼吸が荒くなっている。 さっきと同じ展開だ! 自分にとって不利な状況で、同じことをさせられるのは、心に来るものがある。心に来るものがあると体の疲れも早くなる。 この追いつけない感覚。先に行かれる感触。 頭の片隅が熱を持ってジンジンする。毒を流し込まれたみたいにビリビリする。 あの時──。俺がFCをやめようと思った日。挫折した日。 あの夏の日の記憶が脳裏に蘇る。 楽しさがプレッシャーに変わり、追われるだけの日々が続いていた。 そして、あっさりと追い越されたその日、俺は為す術もなく挫折した。 FCを続けられなくなってしまったのだ。 真白は──。 勝ちたい相手に、こんな実力差を見せ付けられて、真白はまだ試合ができるのだろうか? やめた方が楽なんじゃないのか? そう思う。 俺なら、少なくともあの時の俺なら、試合を放棄しているかもしれない。 「……っ」 視界が境界のなくなった青で滲む。 思い出した。これがオールブルーだ。 圧倒的な絶望感で、涙で、滲んだ世界。 あの時の俺は、それにさえ気づくことができずに呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 ……だけど! 「まだまだ続けるんだよな」 拭い去った視界の先に、真白がいる。 「当たり前なこと聞かないでください! こんな時にわたしを試すなんて何を考えてるんですか? こっちは必死なんですよ!」 そうだ。真白にとっては続けるのが当たり前のことなのだ。 真白は俺よりもずっと強い女の子だ。誇りにさえ思う。 ──だから。 俺もこの試合のセコンドから絶対に逃げない。最後の瞬間まで、真白を勝たせるつもりで……いや、真白を勝たせる! 「真白についてきているみさきはどこかのタイミングで、ブイを狙って離れるはずだ。そのタイミングでスピードを殺さないように気をつけながらみさきを追うんだ」 「はい」 できることなら真白からブイを狙わせたいんだけどな。 今のこの状況はみさきのペースだといっていい。 みさきがブイ寄りにいるため、真白をブイ方向に向かわせると先回りされて得点される可能性が高い。 さらにそのままブイまで奪われてしまうかもしれない。 いくら真白の心が強いとしても、この時間帯でそれをされたら、心を削られてしまうはずだ。 「……ッ」 「………」 ──真白。 みさきに追い回されて真白の体力が、失われていっているのがわかる。 どうしてみさきはさっきみたいにブイを狙いに行かないんだ? ……あっ! これは夏の大会のみさきと市ノ瀬の試合と同じだ。 あの時、みさきは周りをぐるぐる旋回することで、市ノ瀬の動きをとめて勝った。 今回の場合は、後ろから真白にプレッシャーをかけ続けて、飛び回って疲労させるつもりだ。 ……よくこんなこと思いついたな。 みさきと市ノ瀬の試合の時、確か俺はこう言ったはずだ。 ──ちゃんと勝ちたいなら手を抜くな。 みさきを見上げる。 「………」 みさきはちゃんとやってるってことか……。 背筋に冷たいものが流れた。 本来ならこの状況はファイターのみさきの方が不利なはずだ。 しかし、技術力の差でみさきはその不利をフォローできる。 それよりも問題なのは真白の心へのダメージだ。 背中に張り付かれ続ける、というのは心へのダメージがでかい。 俺の指示があるとはいえ、相手が見えないから、どのタイミングで何をされるのかわからない。 ──どのタイミングで何をされるかわからない。 これは凄い恐怖なのだ。 対処が難しいし、何をされるかわからないから悪い想像が膨らんでしまう。 「今はみさきを振り切ることだけを考えろ。他のことは考える必要ないからな」 「はい!」 元気に返事したけど、考えるな、と言われて、考えずにいれるわけない。 「行きます!」 「……え?」 「……え?」 体が、何より心が疲れているはずの真白が加速した。 「大丈夫なのか?」 「何がですか? みさき先輩を振り切れって指示じゃなかったんですか?」 「そ、そうだ! 振り切れ!」 「はい!」 スピードを上げた真白にピッタリとみさきがついていく。 「くっ」 ……さすがにみさきも疲労してきたか。 「ね? 真白」 真白のマイクがみさきの声を拾った。 「なんですか?」 「もう真白に勝ち目はないんだからあきらめればいいじゃん。それで楽になるんじゃないかな〜、と思うんだけど?」 真白は苦笑して、 「みさき先輩は素直じゃありませんね」 「ん? それってどういうことかな?」 「ここであきらめるのが一番苦しいってことを言いたいんですよね?」 「違う。ここでやめちゃえってことを言ってるの」 「また〜、みさき先輩はすぐにそういう思ってもないことを言うんですから」 「あたしは思っていることしか言ってない!」 唐突に感情的な声が響いた。 「………」 「努力が才能に勝てるわけない。あたしがいくら努力したって……努力したって届かない場所があるの! 今の真白ならわかるんじゃない?」 「……でも、みさき先輩。おもしろいですよね」 「おもしろいって何が?」 「努力するってことがです。才能があろうがなかろうが、そんなのどうでもいいじゃないですか。わたし今、努力が楽しいです!」 「楽しくない! そんなのつらいだけ!」 「そんなことありません! だって、わたしは楽しいから今FCをしてるんです!」 真白がスピードを維持したまま、シザーズ、蛇行を入れた。 「きゃっ? うわ? わわわ?」 直進していたみさきは一気に前に前に押し出されて、真白を追い越してしまう。 「狙えるぞ!」 「わかってます!」 真白がシザーズをやめてみさきの背中に近づき、腕を伸ばす。 「えい!」 「うわ?!」 4対5。 「ブイを狙え! 集中! 集中!」 「はい!」 「え?!」 真白はみさきに触れた反動を利用して、体を捩りながらブイ方向に向かう。 「……ッ!」 みさきが追走しても明らかに追いつけない距離とスピード。 みさきはギュッと前傾姿勢になって、サードラインへショートカットする。 「えい!」 真白がサードブイにタッチして、5対5。 途中、もう終わりかと思ったのに……。 凄いぞ、真白! 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」 「残り時間は1分だ。このラインで終わりになるぞ」 「はぁはぁはぁ、ンッ。わかりました」 「どうして真白のフェイントが、二回連続で通用しなかったかわかるか?」 「わかりません」 「みさきはフェイントに引っかかるふりをしてるんだ」 「え?」 「真白のフェイントに引っかかるふりをして逆に行こう、ってそう決めて動いてる。真白がみさきのフェイントに引っかかってるんだよ」 「……そういえば、そうだったかもしれません」 「だから、今度は真白がその上を行くんだ」 「その上……ですか。わかりました! やってみます!」 「よし!」 おそらくこのラインで得点を取った方が勝ちだ。 呼吸を止めて真白を見上げる。 がんばれ! 願うように、強くそう思う。 「………」 サードラインの真ん中くらいでみさきは旋回している。疲労の色が濃い。 「一応、言っておくけど負けたくないって思ってるから」 「わたしもです! 何がなんでも勝ちます!」 「何がなんでもか……。あたしもそういう強い気持ちが欲しかったな」 「今からでも持てばいいじゃないですか! 行きます!」 真白はフェイントをばら撒きながら、みさきに向かっていく。 「えいや!」 みさきが真白のフェイントにつられたみたいに、真横に体を流すように動かした。 ──真白、反転してくるぞ! そう思うことはできても口にはできない。口では追いつかない一瞬の攻防だ。 「くぅぅぅ!」 真白は背筋を使って上半身を起こすと、急ブレーキをかけてから、みさきが塞いだ場所めがけて飛び込んだ。 「え?!」 そこにみさきの姿はなかった。 みさきはフェイントにひっかかったふりをしてから、自分のペースに巻き込めるように移動する。 つまり、みさきがいた場所には、絶対みさきはいないのだ。 「………ッ!」 「くっ!」 みさきが体を強引に引き戻して、真白の足に触れようとする。姿勢を崩してドッグファイトに持ち込むつもりだ。 「えい!」 真白は足を縮めみさきの手から逃れたが、 「……ッ」 しかし、バランスがわずかに乱れてスピードが落ち、体が斜め下に落ちてしまう。 「真白!」 「わたし、勝ちます!」 姿勢を戻した真白が少し弧を描きながら、ブイを目指して全力で進む。 「あたしだって!」 みさきの位置はちょうどラインの上。 スピードは真白が上だけど、ブイまでの距離はみさきに分がある。 ──真白が先だ! これならいける! 「……ッ!」 真白がブイに向かって手を伸ばした瞬間、 「きゃっ!」 「まだ終わらない!」 みさきが真白の足首を下から跳ね上げるように触っていた。 反動でバク宙をするみたいに真白はブイから離れていく。 みさきも触れた反動で、ブイの下へと落ちていく。 「くっ! あたしの方が……っ」 姿勢を立て直して、みさきが下からブイに手を伸ばす。 「真白! そこだ!」 姿勢を崩した真白が体を縮めてから伸ばす。 空中を蹴るような、美しくも、不可思議な、ターン。 メンブレンを操ることで可能となる、特殊な飛行。 ──エアキックターン 「は、いーーーーー!」 「……ッ!」 「……ッ!」 「……ッ!」 ふたりがブイに触れたのはほぼ同時に見えた。 6対5。 「凄い試合でした。真白ちゃんの勝ちです」 弾んだ声で明日香が言った。 みさきが海岸に下りてきた。 「みさき……」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」 「え?」 「くやしぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」 「……っ!?」 「み、みさきちゃん!?」 「くやしいっ、くやしい、くやしーーーーー!!!」 みさきは思いっきり地団駄を踏むと 「はぁっ、はぁ、はぁ……晶也」 「ん?」 「あはは。悔しいや。あたしまだ壊れてないみたい」 「……これからFCはどうする?」 「そうだね……奇跡も食らっちゃったしね」 「奇跡って言うな……っと」 「真白ちゃん」 「真白……」 あとから下りてきた真白がやってきた。 疲労なのか、まだみさきに勝てたことが信じられず呆然としているのか足元がふらふらしている。 俺は思わず真白を抱きとめようとして……止めた。 真白の目は、今はただひとりだけを見ていた。 「真白」 「…………」 真白がふらふらなまま手を伸ばす。 その手をみさきが掴んだ。 「みさき先輩、つかまえました……」 「…………。うん、捕まった」 言葉とは裏腹に、みさきが真白を抱きとめる。 思わず空を見上げる。 澄んだ青い空はどこまでも遠く眩しくて。 波の音にちいさな嗚咽がかき消えた。 放課後。 今日もFC部は通常運転だ。 「みんな集合ー!」 いや、少しだけ変わったことがある。 「秋の大会は終わったけど、久奈浜FC部はノンストップでビシビシ行くよ! みんなこの『窓果新部長』についてきて幸せになろー!」 「なんで怪しい勧誘みたいになってんの」 「そこ、うるさいよ出戻り!」 「出戻りって言うなー!」 まずは窓果が新部長になった。というか、俺が役職を窓果に引き継いでもらった。 部内で一番イキイキしてるので結果的にはよかったかもしれない。 ちなみに俺が新部長を降りたのは兼任が増えたからだ。 部長兼コーチ兼…… 「センパイ、今日は20秒全力で飛べるようになるといいですね。ちゃんと手を引いてあげますから」 「俺、一応まだコーチでもあるんだからな」 「FC部の選手としてはわたしがセンパイですから」 ちょっと得意げな真白。 まあ仰るとおりなので不承不承ながら頷いておく。 そんなわけで今は選手としても次の大会出場に向けて日々精進しているわけだが…… 「まあまあ、晶也はあたしが教えてあげるって」 「み、みさき!?」 「みさき先輩っ!」 「行こ、晶也。どっか静かなところで教えてあげるよ。マンツーマンで」 「みっ、耳に息を吹きかけてくるな!?」 「みさき先輩、最近ちょっとおかしいですよ!?」 「いや〜、あたし気づいちゃったんだよね」 「何にだよ?」 「なんかさ、とりあえず晶也をモノにしとけばこの人生勝てるんじゃないかって」 「何でだっ!?」 「行こ晶也。ハイヨーヨーとかローヨーヨーとかキスとか試してみよう」 「ちょ……!?」 「だめですー!」 真白が割って入ってくる。 「だめです! 晶也センパイはわたしのです! わたしだけのなんですー!」 「部活の時間はみんなの晶也でしょ? ……もっとも、それ以外の時間もあたしのになっちゃうかもしれないけど」 「なにするつもりですかぁ!」 「いいじゃん。ほら喜びなよ。真白の大好きなセンパイとみさき先輩が仲良くしようとしてるんだからさ〜」 「それとこれとは話が別です!」 「晶也もさ〜、おっきい方が好きじゃない?」 「おっおおおお押し付けてくるな!?」 「晶也センパイ!」 「俺が悪いのか!?」 「あ〜、こんなことなら拗ねたみさき先輩なんか放っておけばよかったです!」 真白……言ってはならないことを…… いや、それだけこの二人の距離感に遠慮がなくなったってことかもしれない。 ……それが良かったか悪かったかは分からないけど。 「なあ……仲良くやろうぜ」 「そうだね……」 そこでみさきが寂しそうに微笑む。 「ええ。秋の大会で、明日香先輩がまさかあんなことになってしまうなんて……」 「たった3人きりのFC部になっちゃったんだもんね」 「いや、お前ら……」 「ちょっと待ってくださいー!」 堪らずに明日香も割って入ってくる。 「今まで口ゲンカしてたのにわたしをいじるときだけ結託しないでください! わたしどうにもなってないです!」 「大会成績もどうにもならなかったけどねー」 「う〜、乾さん強すぎです……でっ、でも、次はきっと勝ってみせます!」 「いやいや、次の大会は『覇王みさきちゃん無双』って決まってますから」 「いえいえ、期待のホープ……」 「真白には再来年があるじゃん」 「わたしの活躍って再来年になっちゃうんですか!?」 わいわいと騒ぐ頼もしい部員たち。 「っていうかさー、明日香ちゃん抜いて3人きりのFC部って、みんなナチュラルに新部長を忘れてなかったかなあ」 「ネタに決まってるだろ」 「私の目を見て言って! お願いだから!」 これはこれで楽しかったりするから困る。 「さ、いい加減練習はじめようぜ」 「いこっか晶也」 「晶也さん、教えて欲しいところがあります! わたしも力になりますから!」 「ちょっと待ってよ日向く〜ん」 「おお……」 まったく収拾がついていなかった。 「…………」 そして真白の視線がこわい。 「みんな、せめて順番を……っと」 いきなり真白が俺に駆け寄ってきて手を掴む。 そして、 「いくにゃん!」 真白と、真白が手を掴んだ俺を中心に起動キーで空を飛ぶための磁場が展開される。 真白の身体がふわっと空に浮き、そして…… 「誰が何番だろうと構いませんけど、皆さん、わたしのあとなんですから」 「は?」 「んっ……」 「ん〜〜〜〜〜!!!?」 空に浮く真白の身体と地面に残る俺の身体が唇だけでつながっていた。 外からはどう見えているのか……反応は…… そんなこわい考えは現実逃避で締め出す。 青い空と波の音と潮風の匂いに包まれて。 今は少しだけ、このかわいい恋人とのキスを堪能することにした。 秋の大会も終わり、一段落ついたということで。 俺と真白は念願だったデートに来ていた。 「センパイセンパイ」 「ん?」 「ほら、映画館ありますよ映画館」 「……先にお昼食べるんじゃなかったっけか?」 「でも、なんかすっごいのやってるんじゃないでしょうか」 「すっごいのの基準がわからんが。ちなみにお昼も、ショッピングの予定をキャンセルして探してるんだからな」 「センパイと一緒ならどれも楽しそうで目移りしちゃうんです!」 「大抵のものは計画や準備段階が一番楽しかったりするもんだからな」 「あー、なんでそういうこと言うんですかー。『何だって、俺が楽しませてやるぜ』くらいのこと仰ってください」 「いや、まあ真白と一緒なら何だっていいからな」 「……っ。そ、そんなこと言われたって騙されてあげないんですからね」 「どこかふたりきりになれる場所ってないですかね」 「……真顔で聞いてくるんじゃない」 本当に騙されてないのか? いや、こっちも騙してるつもりはないけどな。 「まあまあ、今日は一日あるんだから世間のしがらみから解き放たれてゆっくりと楽しもう」 「あ、そういえばお父さんからセンパイに伝言が」 「言った側から……」 「いつからバイトに戻ってくるんだ? って」 「…………」 「とりあえずは認めてもらえそうですねセンパイ」 「そっか……」 辛い立場だと思うけど……親父さんには感謝だ。 「うどん粉の配分から教えてやるって」 ん? 「ちょっと認められすぎじゃないか?」 「お話し合いはご自由に〜」 「わたしはべつに婿養子にきたうどん職人の奥さんでも、普通のサラリーマンの奥さんでも、プロのスカイウォーカーの奥さんでも構いませんから」 「どれもまだまったく現実味がないな」 それでも真白の中で揺るぎないものがひとつあるらしい。 まあだけど嫌じゃないプレッシャーだ。頑張って色々と模索するとしよう。 「センパイセンパイ」 「なんだ? 今度はかわいいペットショップでも見つけたか?」 「えへ、呼んでみただけです」 「…………」 顔が赤くなってしまったような気がして思わず逸らす。 「センパイセンパイ」 つんつんと袖を引っ張ってくる。 「こっちこそもう騙されないぞ」 「約束、守ってくださってありがとうございました」 「え?」 思いがけなかった言葉に真白の顔を見てしまう。 「FCで勝つこと、みさき先輩をFC部に戻すこと。ふたつあわせてみさき先輩に勝つこと」 「センパイのおかげでできたんだって思います。わたしひとりじゃとても無理だったって思いますから」 そんなことを言ってくる真白に、 「同じだよ。俺だって真白とじゃなきゃ成し遂げられなかったんじゃないかって思う。だからお互いに頑張ったからだ」 「そしてそれはこれからも続いていく」 お互いのために手を取り合って力を貸し、尽くしあえる。 俺と真白はそんな関係になれたんだ。 「だからそんなに改まらなくていいよ」 「でも感謝の気持ちはちゃんと一回一回忘れちゃいけないと思います。ですから、ありがとうございました」 「だったらこっちこそありがとう。約束守ってくれて」 お互いに頭を下げ、 「…………くくっ」 「えへへ」 顔を見合って、軽く噴き出す。さすがにちょっと照れくさかった。 「というわけでセンパイ、お互いに頑張る約束の時間です」 仕切り直した真白が言ってくる。 「なんだなんだ」 「今日の予定。今日はこれから映画を見て、あ、その前にお昼食べて、ショッピングして、センパイが仰ったペット屋さんも見に行きましょう」 「いくら一日あるといっても時間に限りはあるぞ」 「でもってセンパイはわたしに甘い言葉をかけたり、やさしくエスコートしたり、サプライズプレゼントとか」 「夢見がちな乙女か。っていうか、どんなのだサプライズプレゼントって」 「ん〜、苗字とか?」 「それは本当にサプライズすぎるだろう……」 「さすがに冗談です。センパイには、わたしと今日のコースを全部回るという重大な任務がありますから」 「あ、そっちは本気なんだな」 いや、プレゼントも保留なだけで本気でいいけどさ。とりあえず覚えておこう。 「えっとまずは……」 まだちゃんとした目的地も決まっていないのに待ちきれないように真白が少し先行する。 俺はその後ろ姿を見ながら、それでもなんとなく。 真白が最高にかわいい笑顔を浮かべてるのが見える気がした。 「さ、行きましょうセンパイ」 「真白ルート END」 8月が終わったにもかかわらず、仇州全体はまだ夏日が延々と続いていた。 そんな暑い日差しの中でも、カレンダー通りに新学期はやってくる。 9月。久奈浜でも予定通り2学期が始まった。 「晶也さんっ!」 その日の放課後。 終わって早々に跳ねるようにして明日香が俺の席へとやってきた。 「今日から練習再開ですね、今日から練習再開ですね!」 「明日香、一回でいい一回で」 「だって嬉しいんです。ずっと我慢してた分、やっと飛べるんだなあって」 「早く練習に行きましょう!」 「ああ……と、その前に明日香」 「はい?」 「今のFC部、莉佳が加入してることは知ってるよな?」 「はい、もちろん知ってますけど……?」 「どんなことでもいい。気づいたことがあったら、俺に遠慮せずにどんどん意見してくれ」 「なんだったら行動で示してもいい。俺が全面的に許可するから」 「わかりまし……た?」 何のことかわからないといった様子の明日香を促して、 「よし、練習に行くぞ。ほらっ」 「は、はいっ……」 「というわけで……」 明日香はそこで感慨深げに息を吸ってから、 「……今日から練習に復帰します!」 「わ〜〜」 「わ〜〜」 「わ〜〜」 「わ〜〜」 「わ〜〜」 「よろしくお願いしますねっ!」 「晶也の言いつけをちゃんと守って、こっちに顔を出さないなんて意外だったな〜」 「明日香先輩のことですから、練習に来ないのは辛かったんじゃありませんか?」 「……確かにそれはありましたけど、だけどみんなの練習を見てしまったらうずうずして、練習して怪我を悪化させちゃったと思います。それに……」 「それに?」 「コーチからDVDをたくさん借りましたから。踏み台昇降とかして、足腰を鍛えながら見てました」 「晶也……DVD……。それって……」 「わたし達には想像不能なくらい凄いのを……」 「す、凄いのを?」 「ち、違います!」 「なんで俺がそんなセクハラしなきゃいけないんだ」 「なんでかっていうと、それは晶也だから。それが晶也が晶也である理由だから……」 「俺を人格破綻者にするな。俺が貸したのはFCの試合のDVDだ」 「DVDをたくさん見て、FC脳を鍛えていましたから。だから頭で練習していたような感じなので、お休みの間もそれほどつらくはありませんでした」 「頭の中で練習を……してたんですか?」 「はい! とっても充実していました!」 「明日香さんは……なんだか、凄いですね」 「……え? 何がですか?」 「あははは。そうそう、明日香って凄いんだよ」 笑いながらみさきが莉佳の背中をぽんぽんと叩いた。 「明日香が痛めたのは手首だから、初日だし、一応、実戦的な練習には不参加で」 「はい」 もう身体に心配はないけれど、念のためそのようにする。 「まずはいつも通りフィールドフライからスタートだ」 「はい!」 「はい!」 「はい!」 「はい!」 「はい!」 「………」 俺の横で明日香がじ〜〜っとみんなの練習を見上げている。 「久しぶりに練習に参加してどうだった」 「とっても気持ちよかったです。コーチに教えてもらっていた基礎体力のトレーニングを続けていたせいか、前より飛行姿勢が安定してきた気がします」 「……そっか。そういう基礎の部分を見つめるいい機会になったかもな」 「災い転じて福となすだね」 「……そうかもしれませんね」 そうつぶやいて、明日香は再びフィールドに目をやった。 「………っ」 ……ん? 「……っ」 気づいたら明日香がそわそわしていた。 「どうかした?」 「あ、あの……その……。莉佳ちゃんが真白ちゃんとしているあの練習……」 「ん? あー、あれ、な」 スピードに乗った真白が海に押し込むように、莉佳に頭から突撃していく。 ――スイシーダ。 黒渕への対策ということで莉佳に学ばせている技だ。 「あの……その……あの……」 明日香がそわそわしている。 「どしたの? トイレ?」 「いえ、あの、そうじゃなくて……」 明日香は俺をしっかりと見据えて、 「あれってラフプレイが得意な選手と試合をする時のための練習ですよね」 「うん」 「ラフプレイをする選手って、つまり黒渕さんを想定した練習ってことですよね?」 「そうだよ」 黒渕に対し明日香は反則勝ちだし、莉佳はそもそも試合自体をしていない。 誰も記録上は負けてはいない。だけど――。 「もしスピーダーに負けたらスピーダー対策をしたくなるだろう? そうやって自分の穴を埋めていくことで強くなるし、精神面も強くなるからな」 『自分には弱点がある』と思って試合に挑むのと、『弱点を克服した』と思って試合に挑むのとでは、結果は全然違ってくるはずだ。 「良くも悪くも莉佳は黒渕を克服しないと、前には進めないんだろうな」 本当は黒渕のことなんか無視してもかまわないと思う。 だけど、今の莉佳には超えるべき壁になっている。 「……前に、ですか」 「大げさな言い方だとは思うけどな」 「いえ、そういうことってあると思います。あ、あの!」 明日香は急に大きな声を出した。 「ど、どうした?」 明日香は体が丸くなってしまうんじゃないかと思うほど、大きく息を吸ってから、 「私、書道部に行ってきます!」 「書道部?! な、なんで?」 「行きます! FLY!」 「お、おい!」 止める間もなく明日香は飛んで行ってしまう。 「明日香に何かしらの思いを抱かせるのには成功したけど……」 ──な、なんで書道部なんだ。全然わからん。 「ただいま、です!」 「おかえり。で、なんで書道部に行ったんだ」 しかも練習着からフライングスーツに着替えているし。 「書道部に友達がいるので、半紙と筆と墨を使わせてもらいました」 「それはいいけど、なんでこのタイミングでどうして書道をしたくなったんだ?」 そもそも不意に書道をしたくなったって経験自体ないけど……。 「それはもちろん、決意表明のためです!」 「決意表明?」 明日香はくるりと身を翻して、フィールドを見上げて、 「莉佳ちゃん!!」 大きな声で叫んだ。 「……?」 莉佳が練習をやめて明日香に向かって降りてくる。 「どうかしましたか?」 明日香は、ダンッ! と地面に靴底を叩きつけるようにして、仁王立ちになると、手に持っていた半紙を莉佳に突きつけた。 「………………。………………。……………え?」 莉佳が絶句して固まった。 「どうしたんですか?」 「なになに〜」 みんなが明日香に近づいてくる。 「いったい何が書いてあるんだ?」 俺は明日香の前に回りながら、半紙に何が書いてあるのかを見る。 「……え?」 そこに荒々しい筆運びで書いてあったのは……。 「果たし状、ですッ!」 ……そういうことか。 一体何をしに書道部へ行っていたのかと思ったけど、まさかそんな手の込んだことをしてきたとは。 「……はたしじょう? とは?」 要領を得ない顔で首を傾げる。 「喧嘩をしましょう、というお手紙のことだね〜」 「……はぁ? ……ん? え? ということは、えええっ?! 私と明日香さんが喧嘩を?」 「真白……」 「わたしは明日香先輩に500円で……」 「んじゃ、私は莉佳ちゃんに300円」 「勝手に賭けの対象にするな」 「喧嘩ではありません! 莉佳ちゃんと試合をしたいんですっ!」 「わ、私と試合……ですか?」 莉佳がチラリと俺を見る。 「……わかった。やってみるといい」 「え、えええーっ!!!」 「い、いいんですか、晶也さんっ」 「準備運動も終わったし、試合をするのに問題はないだろ?」 「……わ、私は……いいですけど」 「明日香の身体のことなら心配いらない。それに、莉佳だって明日香と戦いたかったんじゃないのか?」 「はい……理由はよくわからないですけど、明日香さんからこんなに強くお願いされるなんて、正直嬉しいです」 「嬉しいとかダメですよ。果し合いなんですから! 決闘ですから、喧嘩ですから」 ……ん? 「喧嘩じゃありませんけど、喧嘩なんです!」 明日香の何かを訴える目が、俺の視界に入った。 ──そっか、そういうことか。 「よし、じゃあ莉佳がフライングスーツに着替えたら試合開始だ」 「ん〜。まだ完治してない明日香ちゃんに試合させてもいいのかなー」 「ちゃんと完治させるために練習は不参加にさせてたんだ。だから今日から完全復帰で基本的には問題ない」 「なるほど〜。晶也はそういう風に駄々をこねられるといろいろ許しちゃうんだ?」 「勉強になります」 「いろいろは許さないぞ。だけど、二人がもっと練習したいって駄々をこねるなら、それは許してやるぞ」 「そんなつまんないこと言われてもなー」 「ですよねー」 「じゃ、試合開始だ。二人のセコンドは俺がやるけど、基本的に指示は出さないから。じゃ、莉佳と明日香はファーストブイに」 「はい。FLY!」 「飛びます!」 二人が起動キーを口にして飛んでいく。 「みさきは審判を頼む」 「ん〜、いいよー」 「みさき、ちょっと……」 みさきを手招きする。 「なに?」 俺は声を潜めて、 「反則は甘く見るんだ」 「ん? そうなの? 明日香は病み上がりなんだから厳しめに見た方が安全なんじゃ?」 「いや、その心配はしなくていいよ。莉佳が明日香を傷つけるような荒っぽい反則をするとは思わないだろ」 「そうだけど……。……あ〜。ふ〜ん」 みさきはファーストブイの近くで浮いている二人を見つめる。 「わかった。まっ、明日香のことだからやりたいようにやるでしょ」 「そういうことだろうから、頼む」 「了解、了解。んじゃ、とぶにゃん、と……」 みさきが起動キーを口にする。 俺が考えている通りなら、明日香はきっと莉佳のためになることをしてくれるはずだ。 まあ、そのやり方がいささか……というかかなり荒っぽいけれど。 (うちにいるのはほんとに頑固な選手ばかりだな) 苦笑しながらそう思った。 「んじゃ、まー、あたしが審判をするから」 「よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」 明日香はとぼけたような顔で莉佳を見て、 「……莉佳ちゃんはどうして高藤じゃなくて、ここで練習してるんですか?」 「それは……。高藤ではできなかった経験をすることで、自分の幅を広げて、成長につなげたいからです」 「すごいっ、真面目なんですね」 「高藤だけで練習していると、自分が型にはまってしまいそうな気がして……。だから久奈浜のみなさんと練習させてもらっています」 「そんなこと言っておいて、本当は違うんじゃありませんか?」 「え? ……違うってどういう意味ですか?」 「本当にFCの練習のために久奈浜に来てるのかな〜、って」 「……? それ以外に何かありますか?」 「晶也さん……とか?」 「……っ?!」 「晶也さんに会いたいから、こっちに練習をしに来てるんじゃないかな〜と思って……。違います?」 「ちっ、違います! 私は練習をしに来てるのであって……」 「練習を言い訳に使って晶也さんに会いに来ているんです、ですね」 「だ、だから!」 「はいは〜い。莉佳ちゃん。試合前に長々と無駄な会話をしないように〜」 「変なことを言い出したのは明日香さんの方です」 「そうでしたか?」 「どうしてとぼけるんですか!」 「そういうのは、どっちでもいいから。二人とも会話ストップ」 「はい」 「わかりました! 私語はやめましょうね、莉佳ちゃん」 「……明日香さん」 「んじゃ、始めるよ〜。セット……」 「………」 「………」 「スタート!」 二人が同時にスタートする。 明日香はオールラウンダーで、莉佳はスピーダーだ。 ファーストラインは莉佳がブイタッチでポイント。明日香がセカンドラインで待機。という展開に普通ならなる。 「……ふんふーん、と」 しかし、明日香はラインに沿って前に出た。 めずらしく鼻歌まで歌って、上機嫌だ。 「……っ!」 オールラウンダーの方が初速は速いから前に出るけど、ラインの2/3あたりで捕まるはずだ。 「……来ましたね」 先行した明日香に莉佳が徐々に近づいていく。 明日香は自分の左肩の横くらいまで来た莉佳に振り返って、 「速いですね、莉佳ちゃん」 莉佳は少しむっとした様子で明日香を見て、 「スピーダーですから。……え?」 明日香は莉佳の行く手を遮断するように左手を伸ばしてから、 「えい!」 くいっ、と莉佳の右肩を押した。 「きゃっ!」 二人とも反動で姿勢を崩したけど、先に立て直したのは触った方の明日香だ。 姿勢を崩しはしたものの、反動を利用して前に進むことができたのでスピードはそれほど落ちていない。 莉佳は後ろへの反動だったので、かなりスピードをロスしてしまった。 莉佳は審判のみさきに向かって、 「反則です! 反則です!」 「え? どしたの?」 「だから反則です!」 最初のファーストラインでの接触プレイの禁止は、基本中の基本のルールだ。 「明日香さんが私に触ったんです」 「そうだった?」 「そうでしたよ!」 「でも、あたしからは見えなかったし、明日香も故意じゃないだろうからプレイ続行ということで……」 「そんな……」 今まで黙って見ていたが、ここでヘッドセットのマイクに向かって喋る。 「莉佳、ファーストラインで接触したけど、審判が反則を流して試合を続行する場合もあるぞ。審判に文句を言うヒマがあったらプレイに集中だ」 「……わかりました」 セカンドブイの手前で止まっていた明日香が振り返って、 「あの〜。莉佳ちゃん!」 「なんでしょうか?」 「私、ブイにタッチしてもいいですか? それとも莉佳ちゃんに譲りましょうか?」 「……っ! どうぞタッチなさってください」 「では、私は先にセカンドラインに行ってますから」 明日香はブイにタッチした反動を利用して、流れるようにセカンドラインに向かう。 「………」 莉佳はショートカットしてセカンドラインに進んで明日香を追う。 「追っかけてきましたね。さすがにスピード対決で勝てるとは思わないので……」 明日香はスピードを殺さずに自分が有利な状況、莉佳の背中を狙える状況を作るためにシザーズを入れる。 「……っ」 莉佳は警戒してスピードを少し緩めた。 相手がシザーズしてようが何をしてようが、高速で突入して振り切る。 それがスピーダーらしい戦い方なのだが、さっきのことがあるから警戒してしまっているようだ。 「莉佳ちゃん、ドッグファイトしましょうよ」 「しません!」 「……それなら、私、こういうことしますよ?」 明日香はクワガタみたいに両手を伸ばして、莉佳を誘い込むように動いた。 「……っ!」 莉佳の動きがわかりやすく鈍った。 ──カニバサミをするって威嚇をされただけで。対処法だって教えているのに。 マシにはなってきているけど、真面目すぎる性格がこういう局面でまだ出てしまう。 「えい!」 明日香は高角度のハイヨーヨーで空中一回転をして、莉佳の後ろに付こうとする。 「……っ!」 明らかに冷静さを欠いている莉佳は、明日香の動きにつられるように前に出てしまい、あっさりと背後を取られてしまう。 「きゃっ!」 莉佳は背中を押された勢いを利用して、斜め下に向かい、そのままローヨーヨーの姿勢に入り、サードブイへ向かう。 「……っ」 明日香がタイミングを合わせるようにブイに向かっていた。 ──久しぶりの試合とは思えないスムーズな動きだな。やっぱり明日香にはセンスがある。 「莉佳! 背後に明日香が迫ってる! そのままブイをタッチしたら危ないぞ!」 「ッ!」 莉佳の脳裏に何が過ぎったのかわかった。 明日香と黒渕の試合。明日香が脳震盪を起こした場面。 ムササビのように両手両足を広げて背後から迫ってくる、黒渕の姿。 「きゃっ!」 莉佳が身をかがめるようにしてブイの下方向へと飛んだ。 明日香はそれを確認してから、 「……ブイ、タッチしますね」 ゆっくりとブイにタッチしてからサードラインに向かった。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 莉佳は何度か肩で息をして、 「……わかりました」 「何がわかったんだ?」 「明日香さんは黒渕さんのマネをしてくれている……。そうですよね?」 「そうだけど莉佳の考えているマネとは少し違うと俺は思うぞ」 「どういう意味ですか?」 「今の明日香のプレイはマネというよりも黒渕と本質的に同じなんだ」 「同じ? マネじゃなくて……同じ……」 「勝つために言葉で動揺させて、植えつけた恐怖でプレイを有利に運ぶ。黒渕はそういうスタイルなんだ。明日香はそれをやっている」 「………」 「表面をマネているんじゃなくて、黒渕の本質を理解してやってるんだ。莉佳の今までの練習はラフなスタイルに対する練習だった」 「……はい」 「その練習は少しも間違っていない。だけど今は動揺させられて恐怖をちらつかされて、練習の成果を出せなくなっている。そうだよな?」 「はい」 苦しそうに莉佳は返事する。 「いいか? 黒渕のスタイルの本質はそこにあるんだ。練習したのに、莉佳はまだそこで引っかかってしまう」 「……どうすればいいんでしょうか?」 「その答えは莉佳が憧れてる人のスタイルだよ。そして、俺が今の莉佳に教えたいスタイルでもある」 「え?」 莉佳は明日香の方を見て、そして俺の方へ視線を戻す。 「楽しく空を飛ぶ。FCを楽しくするんだ」 「こ、こんな状況でもですか?」 「もちろん」 「だって相手は反則をしてくるんですよ! そんなのどうやって……」 「そんな状況だからこそ、楽しいんだよ」 「え?」 「だって、反則まで使って相手を圧倒しようとする奴だ。そこまでの強い気持ちを持った相手と試合できるなんて、面白いと思わないか?」 「……わかりません」 「強い気持ちを持つ選手と試合するのって面白いだろ」 「それはわかる気がしますけど……」 「相手は動揺や恐怖まで使って勝とうとしてくるんだ。それを理解して試合ができたら楽しい。どんな相手とだって試合をするのは楽しいもんだよ」 「晶也さんって……凄いです。そういうこと、本当に思えるんですか?」 「……思えないよ」 「え?」 「思えていたら選手をやめてないと思う。だけど……莉佳は黒渕という存在と出会っても選手を続けた。それは楽しめる資質があるってことだよ」 「資質……」 「楽しむっていうのは前向きにプレイするってことだ。動揺や恐怖を飲み込んでプレイするってことだ。莉佳にはそれができる」 「どうして断言できるんですか?」 「今までの莉佳を見てきたからな。FCを好きな莉佳を見てきたんだ。好きなものをやってるのに楽しめないわけないだろう」 「は、はい」 「反則技は嫌いだろうけどさ。それもFCの一部だからな。好きの幅が広がれば、楽しいの幅も広がる」 「……はい」 「莉佳ならFCの全部を好きになれる」 「はい!」 莉佳は大きくうなずいた。 「あの〜」 会話に明日香が入り込んでくる。 「実は……、私の方にも声が届く設定になってるんですよね」 「あ……」 「とっても熱いですね、コーチ!」 「恥ずかしいからそういうことを言うな!」 「かっこよかったですよ。……試合はここで中止でいいですよね?」 「そうだな。明日香が伝えたかったことはちゃんと伝わったと思うよ」 明日香は莉佳に近づいて、 「莉佳ちゃん、意地悪してごめんなさい!!」 「わっ、明日香さん……!」 腰が折れるんじゃないかってぐらいに頭を下げた明日香。 「先に黒渕さんみたいなことをするって言ってしまうと、練習にならないと思って……」 「ありがとうございました!」 今度は莉佳の方が、明日香に思いっきり頭を下げた。 「私、今までずっとFCに対する考えが偏ってたんだなって、そのことが凄くよくわかりました」 「うんうん、楽しく飛んで練習通りにすれば、黒渕さんにも絶対に勝てると思いますよ!」 「はい! ……今なら、はい。勝てると思います」 「いや〜、明日香があんまりにもノリノリだったから不安になっちゃったよ〜」 「え? 私ノリノリでしたか? 真面目にやったつもりだったんですけど……」 「真面目にあんなこと言われたのだとしたら少しショックです……」 「ち、違います! 違います!! 私の考えじゃなくて莉佳ちゃんが動揺しそうなことを真面目に考えただけですよ?」 「あ、あああっ、なんとか言ってあげてください、晶也さ〜ん……」 「それはその、個人と個人のことだから……」 「急にそんなところで大人ぶらないでくださいっ!」 「うふふ、わかっています。……本当にありがとうございました」 「あ、あの、莉佳ちゃん」 「なんですか?」 「その、嫌いにならないでくださいね……?」 「ふふっ、それはこれからの明日香さん次第……かな?」 「そ、そんなぁ〜っ!」 ……2学期初めての練習試合は、莉佳にとってとても有意義なものになったのだった。 かすかな遺恨? を残したような気もするけど、微妙に関わりそうな雰囲気だったので、俺は逃げることにした。 ……いや、あの場ではどうしようもなかったよな、俺は? 「みんな部員も揃ったことだし、ここでちょっと報告というか……隠してたことを言っておく」 2学期最初の練習後ミーティング。 俺はまず最初に、みんなにあのことを言っておくことにした。 「隠してたこと……って、なんですか?」 「実は密かに、部員を胸の大きさで区別してたとか」 「グランデ、トール、レギュラー、スモール……」 「シトーバックスかよ! あと、そもそも胸の大きさで区別とかしてないからな」 ちなみにシトーバックスとは、四島市にあるチェーンのコーヒーショップだ。 たぶん、本家に許可なんかとってない。そのうちにすごく怒られると思う。 「えーじゃあ、わたしが何か喋ってる時に、晶也センパイは心の中で、スモールキャラメルマキアートーとか呼んでたんですか? 最低です!」 「その辺はおっぱい感出すためにラテの方がいいんじゃない?」 「おっぱいラテとか、もうその手のゲームみたいなプレイだよね〜」 「わたしはグランデでしょうかトールでしょうか?」 「クッ……最初から上位2つしか言わないあたり、すでに勝ち組のオーラばりばりだよ明日香ちゃん」 「えっ、わたしそんなつもりじゃ……」 「勝ち組の人にはわからないんですよね〜」 「レギュラーとスモールでつつましく生きていこうね〜」 「……そろそろ本題に入っていいかな?」 わざと低い声でたしなめる。 「はーい」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 「はーい」 やっと静かになった。 ……しかし、これから話すことで更にうるさくなるかと思うと、ちょっとだけ気が重い。いや、かなり気が重い。 「…………」 もうひとりの当事者である莉佳も、不安げに見ている。 しかし、ここで言っておかないと今後がややこしくなることも確かだ。 (ああ、もういい、言うぞ!) 決心し、口を開く。 「俺、莉佳と付き合ってるんだ!」 「…………………………」 「…………あれ?」 意外な反応だった。 俺の予想ではもっとみんなが驚いて、その後質問攻めでも食らうかと思ってたのに。 このシラーっとした、妙な静けさは一体……? 「……あのさ、晶也?」 静けさに耐えきれず、みさきが声を上げる。 「……はい、なんでしょう」 「隠してたことって、まさかそれだけ?」 「そうだけど……」 「……そっか」 みさきがガックリと首を垂れる。 「えっと、だからなんでみんな」 言いかけた疑問を遮るように、窓果が口を挟んだ。 「いや、あのごめん……みんな、知ってるから」 「ええーーーっ!!」 「ええーーーっ!!」 「ええーーーっ!!」 むしろこっちが驚いてしまった。 「いやあの、俺誰にも言ってないよな?!」 「確かに言ってないけど……バレバレっていうか」 「部室に来てればわかりますよ、雰囲気とかで」 「なぜか部室にふたりで残ってたり、なぜか一緒に練習する時間が長かったりしてたもんね」 「それはお前、莉佳のコーチを俺がするからって……」 「飛んでる莉佳ちゃんの姿をジーーーっと見てたよね?」 「うっ……」 「準備運動してる莉佳ちゃんの横顔も見てたなあ」 「うっ、ううっ……」 「休憩してる莉佳さんもしっかり見てましたよ。とてもニコニコして幸せそうでしたね、センパイ?」 「も、もうやめて……」 ダメだ。 隠そうとしてたこと自体がバカに思えるぐらい、何もかもがすべて筒抜けだったようだ。 「あの……それで言うとわたしも薄々、そうかなと」 「明日香にもバレてたの?!」 「わたしは想像でしたけど、おふたりのやり取りを見てると、なんとなくそうかなーって」 「それでさっきの試合であの質問を……」 「ご、ごめんなさいっ、ちょっと反応も見たいかなって、思っちゃいました……」 なんてこった。 なんてこった、なんてこった。 一大決心をして言ったことが、すでにみんな気づいてたことだったなんて。 いやそりゃ、大騒ぎされなかったって意味ではむしろ喜ばしかったことなんだけれども。 それでもこんなに普通に受け取られては、あまりにも肩すかしだ。 「……すみません、みなさんのコーチと私がそういうことになってしまって」 「いいっていいって。あげるあげる」 「合間合間でちょっと返してくれればいいから」 「むしろ持って行ってもいいぐらいです」 「幸せになってくださいね!」 予想通りの散々な反応だった。明日香ひとりが真っ当な返事なのもかえって泣ける。 「……以上です。次の議題にいきます」 「えーーっ、これからが掘り下げどころじゃないの?」 「新エピソード出してよ、新エピソード!」 「お前ら俺を殺す気か!」 これからは絶対に弱みを見せないよう気をつける。 ……多分。 「それで、秋の大会の件だけど」 今日のミーティングでは、秋の大会の目標を改めて決めるという大きな目的があった。 この夏休みは色々と大きな出来事があって、そのせいで大会に向けての話がほとんどできなかった。 「なので、改めて目標を決めようと思うんだ」 俺はホワイトボードに『ベスト4入り』と書いた。 「ベスト4ですか……」 「これは大きく出たねぇ」 「なんかもうこの時点でわたしは脱落なんですが」 「うーん、目標を高く持つのはいいと思うけど、これはちょっとコーチの高望み過ぎじゃないかな?」 「みんなよく読めよ、ここに書いてあるだろ?」 言いつつ、ベスト4の文字の上の方を指差す。 「え? なにかちっさく書いてある?」 「ん〜〜っ……読めないです、ぼんやりしてて」 「あ、読めました。『高藤を含めて』……?」 「え〜〜っ……」 「なんと……」 「まあ……」 その内容に、みんなから否定的な声が上がる。 「いやまあ、そりゃ一緒に練習もしたし、少しの間だけど同じ部になったりもしたけどさ」 「なんかちょっとズルいですよね〜」 「競馬だと本命から人気5位まで買ってく人みたいな」 散々な言われようである。 「あのな、これにはちゃんと理由があるんだって」 「どんな理由よー」 「みんなも知ってる通りうちと高藤は黒渕の事件のせいで練習もままならない事態に一時陥った」 「でもそれはもう解決したじゃないですか」 「今はな。だが少なくとも、練習量が減ったのは間違いない」 FCに限らずだと思うけど、学生スポーツというのは少しの練習量の差がそのまま実力に反映される世界だ。 たった一週間特訓しただけで、高いセンスを持つ選手が一気にトップレベルまで行くことも可能性は低いがあり得る話だ。 それは逆にも言えることで、練習量の減った、もしくはできなかったチームや選手は、どうしてもその差がはっきりと出てしまう。 ましてや、夏の大会と秋の大会は日程間隔が狭い。差が出るのは覚悟しなければならないだろう。 「すみません、私たちの学校のために……」 「何言ってんの、莉佳ちゃんは関係ないじゃない」 「そうですよ、莉佳ちゃんが気にすることじゃないですっ」 「ですが……」 「大丈夫ですよ、一緒に頑張ればいいってだけですから」 「うん、真白がいいこと言った。つまりはそういうことだよ」 「へ……?」 「今度の大会については高藤も久奈浜もない。一緒に頑張ろうってことが言いたかったんだ」 別々で考えると、互いに弱体化が目についてしまう。 だから今回だけは一緒に。そう考えれば、結果が伴わなくても救われるはず。 「……なるほどね」 「すごくわかります……つらいことも一緒に共有したら、人数分で割れますもんね!」 「そういうことなら、一緒にベスト4でいいと思います!」 「じゃあそれで決まりってことで!」 「……はいっ!」 「よし、じゃあ次の大会はこの目標でいこう!」 というわけで、久奈浜FC部の秋の大会に向けての目標が決まった。 大会まであと一ヶ月もないけれど、あの事件のことを考えればモチベーションは上がっている。 あとはできる限りみんなの技術と考える力、そして精神的な面を鍛えなくちゃいけない。 やることは山ほどあるけど、やりがいはありそうだ。 「……相変わらず面白いことを思いつきますのね」 「それは褒めて貰ってると思っていいんですか?」 「半分ずつというところでしょうか。正直、すこしばかり唖然としていますわ」 「すみません。俺、こんな感じなんで」 「大会は学校ごとに出場枠が決められています。つまり学生数が多いからと言って有利にはなりません」 「その通りです」 「高藤の子にとっても刺激になりますし、他校の選手を改めて見るいい機会になりそうですわ」 「……両校合同での目標、良い考えだと思いますわ。この佐藤院、部長として承認いたします」 「ありがとうございます」 「しかし、ただ目標を同一とするだけでは面白くありませんわね。何かもうひとつ……」 「そうくるんじゃないかと思ってました」 「え?」 「というわけで、目標も同一になったことですし、また両校の合同練習や合宿をお願いしたいです」 「…………」 「……色々とよく考えるものですわね」 「半分は褒められたと思っておきます」 「ところで、市ノ瀬さんの様子はどうですか?」 「おかげさまで元気にやってます。秋の大会はいい結果が出せるんじゃないでしょうか」 「それは何よりですわ。……もっとも、このまま居心地が良すぎて高藤に戻ってこないと困りますが」 「そ、そんなとんでもない」 「ホホホ、冗談ですわ」 ……冗談に聞こえなかったんだよなあ。 佐藤院さんは表情を切り替えると、 「……今の高藤には彼女のような存在が必要なのです。秋の大会が終わる頃には戻ってきて頂きます」 「ですね、俺もそのタイミングだと」 「楽しみですわ」 「日向晶也の教えを受けた市ノ瀬さんが、こちらに戻ってきてどんなことを教えるのか……」 「ええ、それは俺も楽しみです」 俺からというよりかは、久奈浜のみんなからって感じだけどな。 細かいことはともかくとして、莉佳が教える側に立った時どうなるのかは興味深い。 内緒で佐藤院さんにその様子を見せて貰うか。もっとも、本人がすごく嫌がりそうだけど。 「さてと、じゃあ俺は帰ります」 「あら、もうお帰りですか? 本当に報告のみでいらっしゃったのですね」 「はい……まだ、報告する相手が残ってるもので」 「…………?」 「……そうか、高藤と合同でベスト4を目指すか」 「……はい」 高藤への報告の後は、顧問の葵先生への報告だった。 どちらかというとこちらの方が気が重かった。事情はあるにせよ、当初考えていたよりも目標が低く設定されたからだ。 先生からの反論を半ば覚悟の上で向かったのだけど。 「わかった、頑張れ。わからないことがあれば聞きに来なさい」 意外にあっさりと、先生はその目標を受け入れたのだった。 「先生」 「なんだ?」 「何も仰らないんですね」 「前に言ったはずだぞ、もう口を挟むことはないと。晶也の決めたことだからな」 別に怒っているでも、呆れているでもなく。 先生は心からそう思っているという様子で俺に答えた。 「……お前は市ノ瀬のコーチをすると決めた時、似たものを感じたからと言っていたな?」 「はい」 「救えたか? 市ノ瀬のことを」 「まだ途中です……でも、助けにはなっていると思います」 「そうか、それなら良かった」 「先生が……」 「ん……?」 「葵さんが昔俺にしてくれたこと、覚えてましたから」 「辛いことがあったんだろ? 言ってくれないかな、私を信じてるなら」 ……そう、すべてはあの時からだ。 葵さんが俺に向けてくれたあの言葉を。 同じように行き詰まった子に言ってあげたいと思って。 「…………」 「……覚えていたか、あの時のことを」 「はい……でも俺は、素直に聞くことができなくて」 「気にすることはないさ。あの時はお互いに言葉を持っていなかった」 「でも」 「そのことがあったから、今こうして市ノ瀬に手を差し伸べられたんだろう?」 「……なら、それでいいじゃないか」 「……はい」 葵さんが折角差し伸べてくれた手を、俺は情けなく振り払ってしまった。 ちっぽけなプライドのせいで色んな物に背を向けて、気がつけば居場所も何もかも失っていた。 だからせめて、俺ができることだったら。 そう思って莉佳の願いを聞くことにしたんだ。 「人生に無駄なことなんか何一つとしてない」 「……今日は晶也に教えられた気分だよ」 「俺が、ですか……?」 「ああ、お前は成長したよ。私なんかより、ずっとな」 「そんな……わからないです、俺には」 先生が何を指してそう言っているのかを。 「市ノ瀬の件もそうだが高藤と合同での目標も、すべては弱者を思いやった発想だ」 「それができるのは、相応の経験と優しさを持った人間だけだ。お前はそのどちらも持っている」 「……私はそれを素晴らしいことだと思うよ」 「……ありがとうございます」 正直、先生の言っていることは理解しても、それが自分にできているかはわからなかった。 でも、強く勝ち抜いていくこと以外に価値を見いだせるようになったのは、自分でも成長なのかなとは思う。 「むしろ、人を育てることについては晶也から学んだ方がいいかもしれないな」 「そっ……それはさすがに言い過ぎです、先生」 「ははっ、よろしく頼むよ晶也」 「……まいったな、もう」 「……というわけで、みんなにもわかってもらえた」 夜になり、今日のことについて莉佳に報告した。 今日はご両親の帰りが遅いと聞いていたので、夜だけれども部屋に入らせて貰っていた。 「そうですか、佐藤院先輩が……」 佐藤院さんのことを話すと、莉佳はとても嬉しそうに笑った。 「そういや、莉佳に聞いたことなかったけど」 「はい」 「佐藤院さんって、どんな人なんだ?」 「先輩ですか、うーん……」 「一言では言いにくいんですが、とても思いやりのある人です」 「もちろん人望もあります。みんなに対して気遣いのできる人なので、部員全員から愛されてますね」 「ああ、それはわかるな……」 「でも私にはちょっと不満もあるんです」 「へえ、どんな?」 「先輩って、後輩のこともみんな『さん』付けで呼んでいて、絶対に偉そうな態度をとらないんですが……」 ……一見、偉そうに見えるけどな。 まあでも実際は違うというのは俺にだってよくわかる。 「わざと少し距離を置いているのかなって、寂しく思う時もあります。もちろん、思い過ごしかもしれないですけど」 「そっか……莉佳は真面目だから怒られることもそう無いだろうしな」 「そうですね、軽く注意をされるぐらいでしょうか」 「一度ぐらい見てみたいけどな、佐藤院さんが莉佳にビシッと何か言ってるとこ」 「……とても恐そうですね、それは」 「まあ、普段怒らない人だと余計にね……」 あのお嬢様然とした風貌でガチ怒りされたら、下級生とかだと泣いてしまいそうだ。 もっとも、その辺を理解しているからこそ、普段は丁寧に接しているのかもしれないけど。 「あの、晶也さん」 「ん……?」 「目標の話、私嬉しかったです」 「ああ……みんなの重荷になる目標にしたくなかったからな。」 「あれで、だいぶ楽になりました」 「それなら良かったよ」 「はい……」 「……晶也さんには、勝ち負けだけじゃない部分も教えて頂いて、それがすごく新鮮です」 合同で目標を立てることについては、本当に特に何かを意識したわけではなかった。 ただ単に、みんなの心理的な負担を減らしたかった。それだけで考えた目標だった。 そうやって自然に出てきたことが、結果的に他人を思いやれる考えになっていたんだとしたら、俺は確かに少しだけ『成長』したのかもしれない。 (……こういうことなんですか、先生?) 空に向けて問いかける。 この答えを先生から貰えるのは、きっともっと先のことなんだろうな。 「それで、来週の予定はどうしましょうか、晶也さん?」 「来週か……」 大会の目標も決めたし、練習内容の見直しも図った。 交流試合もOKが出たし、高藤との合同練習もまた始まる。 若干だけど日程に余裕も生まれた。 「莉佳、明日の日曜日だけどさ」 「はい、明日ですね。どうしましょうか?」 「……デートしないか?」 「はい、デートですね。わかりました」 「…………………………」 「えええええええっっ!!!」 「……そんなに驚くようなことか?」 今の驚き方って『真藤さんは実は女でした』とかそれぐらいショッキングなニュースの反応だぞ、たぶん。 「だ、だってデートですよ、いろんな人が来るところに、ふた、ふたりだけで」 「あ! あれですか、そう見せかけて実はダブルデートでした、っていう……」 「……ふたりだけだよ」 「……あうう」 「莉佳の気が進まないんだった 「ちょ、ちょっと待って下さい!」 莉佳は俺の言葉を遮ると、 「5分だけ時間を頂けますか……!」 「あ、ああ。別に5分と言わず何分でもいいけど」 「わかりましたっ、お待ちください!」 俺を手で制すと莉佳が愛用しているノートパソコンを開いた。 莉佳がブログなどを更新しているノートパソコン。 実を言うと、俺の前で使っているのを見るのは初めてだった。 まあ、ふたりでいる時はずっと話をしてることが多いし特に使う用件もなかったからだろうけど。 「こうなったからには妥協せずにいきますよ……!」 莉佳の顔は凄まじく真剣だった。 何をそんなに夢中になっているんだと思うぐらい、真剣なまなざしで液晶に向かい合っている。 「何を見てるんだ……?」 回り込もうとした瞬間、 「なっ、何をしてるんですかっ!!」 超怒られて、その場に座らされた。 「えっ、あ……ごめん……」 思わず謝ってしまうが、そこまで悪いことをしようとした覚えもない。 「もう……ダメですよ?! 女の子のパソコンはとんでもない秘密だらけなんですから!」 ……そうなのか? 言われるとむしろ見たくなるものだけど、たぶん言っても却下されてしまうのだろう。 それでも何が書いてあるのか気になってしまう。 (俺のことも書いてあるのかなあ) あまり考えると悩み苦しみそうなので、そっとしておくことにした。 「明日は……特に大きなイベントなどは無さそうですね」 「それはよかった」 島で大きなイベントがあると、飛行可能区域を制限されたり施設が混んだりと大変なのだ。 「イロンモールの周辺も問題なしですね……。比較的空いている時間に行けそうです」 「えっ、行き先って、イロンモールで決まったのか?」 「はい……、晶也さんがいいのでしたら。いけませんでしたか?」 「あ、いや……」 気にするようなことではないけれども。 ただ、折角の初デートにも関わらず、行き先が普段行き慣れたイロンモールとは……。 「では次行きますよ〜」 莉佳は慣れた手つきでマウスとキーボードを扱う。 以前にネットの接続であたふたしているのを目撃したけど、実際に使う段ではむしろ慣れているようにも見えた。 「最後に天気予報は……っと」 「わあ、嬉しいです〜。見事に快晴ですね」 最初は真剣だった莉佳の表情も次第に柔らかくなってきた。 「それでえっと……」 「はい?」 「まだ、行くか行かないかの返事を聞いてないんだけど……?」 「っ!!」 莉佳は今更気づいたとでも言うように目を見張ると、 「そっ、それはもう……」 今まで見たことない程の真剣な顔で、 「……行きたいです、ものすごく、とっても」 そう答えたのだった。 「決まり。朝10時に家を出る予定でいいかな?」 「はいっ……!」 「じゃ、俺はもう帰るから」 立ち上がり、ドアの方へ歩こうとした俺を、 「晶也さん……」 莉佳の声が呼び止めた。 「ん?」 「デート、誘ってくれて嬉しいです……だいすき」 「それじゃ、おやすみなさい……!」 「…………お、おやすみ……」 日曜日は、元々の予定でも休養日にあてるつもりだった。 連日練習ばかりではモチベーションも低くなるだろうと、主にみさきや真白のために考えたのだけど……。 思ったよりもずっと莉佳が喜んでくれて、良かった。 「……だいすき、か」 「……すっげー破壊力。やばいな」 「ダメだ、顔がにやけて仕方ない……寝よ」 そして、当日。 莉佳の見た予報通り、天気は見事に晴れ上がっていた。 「すごい良い天気だ……」 いつもならFC日和だと言うところだけど、今日だけはそういうのを抜きで過ごす予定だ。 時計はそろそろ10時を指す。 「よし……行くか」 少し緊張気味に身体を動かし、家の外へと出た。 「おはよう……ございます」 莉佳はもう家の前へと出ていた。 いつもの制服姿と違って今日は私服だ。 「……おはよう」 「ちょっと緊張してます、私」 そして俺と同じく、莉佳もちょっと緊張していたようだった。 「なんか、前もこうやって家の前で会ったんだっけ」 「そうでしたね。偶然行き先が同じで……」 「……でも今日は、偶然じゃないんですね」 「……ああ」 そう。ふたりで約束してどこかへ行くのは今日が初めてだ。 だからとても新鮮で緊張もしてるんだろうな。 「行きましょうか」 「うん」 「少し意外だったよ」 「行く先がですか?」 莉佳が情報サイトを巡った上で行きたいと言ったのは、みんなで行き慣れているイロンモールだった。 俺も一応候補は出そうかと思っていたのだけど、莉佳が行きたいのならと納得した。 「そう。イロンモールなら、いつだって行けるのに」 「そ、それはちょっと……理由があるんですけど」 「あるんだ。それって……」 「い、今はナイショです。……今は……ちょっと……」 「う、うん、わかった」 一体何の理由があるんだろう……。 程なくしてイロンモールに到着した。 日曜日ということもあって家族連れも多く来ている。俺たちのような男女二人連れもかなり見かける。 ロビーでは新しい戦隊物と女児に人気のアイドルアニメのショーが行われていて、通路にまで人があふれていた。 迷子コーナーでは開店早々はぐれた子供がいたらしく、泣きじゃくる女の子を店員さんが必死にあやしている。 普段と特に変わることのない、平穏なイロンモールの光景だった。 「………………」 「……莉佳はどこに行ったんだろう」 俺がこうしてイロンモールの情景描写をしているのにはちゃんと理由がある。 ひとつ。ここに着いて早々、莉佳がどこかへ行ってしまったこと。(ちょっと待っててくださいっ! とは言ってた) ふたつ。なかなか帰ってこないということ。(具体的に時間を言っていなかった) みっつ。特に時間を潰すものが他になかったこと。(行きたい店はだいたいが2階にある) 「何かお目当ての店とかあったのかな……」 言ってくれれば一緒に並んだりもしたのに。 仕方なく人間観察でもしようかと周りに目を向けた時。 「晶也さんっ!」 息を切らせつつ莉佳がちょうど戻ってきたところだった。 「待たせちゃってごめんなさい!」 「いや、いいんだけど……なんでそんな、にっ?!」 莉佳の手には熱々の揚げたての唐揚げが二袋、しっかりと抱えられていたのだった。 「これを……買いに行ってたの?」 「はいっ!」 とても良い返事をする莉佳。 包み紙を見てみると、以前の『ケッコーな美味しさ!』の店とは違って、今回は『チキンと作ってます!』と書いてあった。 キャッチコピーの内容はともかくとして、前とは別物のように見える。 「前に食べたのとはまた別の種類なんだ」 「そうです、今日は新しいお店が入ったので、すごく行ってみたかったんです!」 まるでスイーツやアクセサリーでも語るかのように嬉々として唐揚げの新店を語る莉佳。 「ひょっとして、今日イロンモールに来たかったのって……」 「……うっ、はい……そうです」 恥ずかしそうに声を小さくする莉佳。 「とても唐揚げが目当てだなんて言えなくて……それで」 「そっか、それで行ってから話すって」 別に唐揚げが目当てでもまったく構わないんだけど、莉佳とはちょっとミスマッチなのも確かだ。 「で、でも、この唐揚げは本当にすごいんですよ!」 ずいっ、と目の前に袋を押し出される。 「仲津市に負けじと手羽先を推してる七古屋市の名店で、去年は美味ログで星が4.5もついたお店なんです!」 「少し甘辛の味付けが大人気なんですが、こちらもご主人がタレを秘伝にしてまして、今日やっと四島にも初登場だったんです」 「その情報を知って以来すっごく気になってて、お店が出てる時に何がなんでも行こうって心に決めてたらちょうど晶也さんとお出かけできる日に重なって、それで……」 莉佳はそこでやっと俺が呆然と聞いてるのに気づいたのか、 「う、ううっ……そ、そのっ!」 「と、とりあえず一口どうぞっ!」 袋を開いてこちらに差し出した。 「うん、ありがと……」 かなりのデジャヴを感じながらも、唐揚げをひとつ摘んで口に入れた。 「あ……これもうまい」 以前に食べたものよりもタレの味が濃くて、これだけでもやみつきになりそうな味だ。 骨も身が外しやすくなっていて食べやすさも申し分ない。この手羽先だけのために並ぶ気持ちもわかる。 「でしょう? よかったですっ」 ……まあでも、その並んでるのがこの子ってのは。 さすがにちょっとミスマッチ感が強すぎるんじゃないだろうか。 「おいしかった……んだけど」 「はい?」 「莉佳ってさ、ひょっとして……」 なんとなくそこに至るパーツは示されていた。 なんで唐揚げのお店をチェックしているんだろうとか、なんで部屋にウシブタトリのぬいぐるみがあるんだろうとか。 時々作る得意料理が豚の角煮とかレバー炒めとか、ポークソテーだったりとか。 そこから導き出される答えはひとつだ。 「お肉……好きなんだよね?」 「はっ……!!!」 莉佳は口に入れようとしていた手羽先を宙で制止したまま、ブルブルとショックを受けたかのように震える。 なんとも器用なポーズのままで悲しげな表情になると、 「わかってしまい……ましたか」 いや、普通わかると思うぞ……ヒント多すぎるし。 「いいからそれ食べちゃいなよ」 「あ、はいっ!」 莉佳は摘んで宙に浮いていた手羽先を、慣れた手つきで口に放り込む。 「ん〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」 そしてとても幸せそうな笑顔。 「はあ……………………」 かと思えば直後に落ち込んだ顔。 色々と忙しい様子だ。 「いつかはバレると思ってましたが、結構早かったですね……」 「意外ともった方だと思うけど」 「晶也さん……こんなにお肉大好きなのって、ダメでしょうか……?」 「……へ?」 「いやだからあの、なんか変じゃないですか? 女の子でお肉大好きキャラとか……、その」 「別に何とも思わないけど……俺も肉好きだし」 まあ確かにちょっと珍しいとは思うけど、そういう子もいるだろうしなってぐらいで。 特に変だと思わないと答えたその瞬間。 「よ、良かったぁ〜〜〜!」 莉佳はとっても嬉しそうな顔をして、 「変だと思われたらどうしようかと思ってました!」 「すごくホッとしました。あと晶也さんもお肉好きだって聞いて、それもすごく嬉しかったです!」 「さ、それじゃこっちの塩ダレ手羽先の方も……って、晶也さん?」 またしても夢中で語っていた莉佳は、そこでやっと俺の視線に気づいたようだった。 「なんていうかさ、莉佳って……」 「は、はいっ……?」 「けっこう、天然でかわいいよね」 「〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」 莉佳はプルプルと震えつつ俺にボディアタックをしてくる。 「ははは、ごめんごめん」 謝るけども、莉佳は体当たりを止めずに、 「ああもう恥ずかしい、恥ずかしいですっ……」 なんかずっとそんな言葉を繰り返していた。 「結構買いましたねー」 「思ったより買い込んじゃったなあ……」 莉佳のと合わせてひとつの荷物にして貰って正解だった。 家に入る直前で荷物を分ければいいので、こういう時お隣さん同士というのは色々と便利がいい。 「で、次のお店ってこっちだっけ?」 「はい、こっちです。その通りをまっすぐ行って……」 莉佳が指差す方に従って、通りを歩いて行く。 地図で見たら数百メートル程度だったので、歩けばじきに着くだろう。 アーケードの下を莉佳と並んで歩く。 「…………」 荷物は俺が持っていたのだけど、その手を莉佳が隣でじっと見つめていた。 「ん? 何か中から取り出したいの?」 「あ、いえいえ。そうじゃなくてですね」 「荷物、私も持ちましょうか?」 「いいよ、そんな」 これぐらいなら余裕で持てる重さだ。 「いや、その……一緒に持ちたいなって」 ……そっか、なるほど。 「あー……ごめん、そういうことか」 「そういうことです」 莉佳の意図をやっと把握して、俺は荷物を一旦手から離した。 繋いだ手の部分に荷物を通してふたりで持つ。 「……こういうことだろ?」 「……はい、そうです」 どうやら正解だったらしく、莉佳は嬉しそうに答えた。 「すごく、付き合ってるっぽくていいですね」 「ああ、確かに」 手を繋ぐことなんか、いつもしていることなんだけど。 こうやってちょっと状況が変わるだけで、ものすごく新鮮な行為に映る。 「こういうの、一度やってみたかったんです」 「うん……わかる気がする」 こんな些細なことでも嬉しいなんて、付き合うってのはすごいことなんだなとつくづく思う。 しかしこうなると、もうちょっと踏み込んでみたくもなる。 「莉佳、俺……ちょっとしたいことがあるんだけど」 「はい……? いいですけど」 「持ち方を変えたいんだ」 「持ち方……ですか?」 「うん……こういう感じで」 「あっ……」 俺は指を莉佳に絡ませて、その上で手を握り直した。 いわゆる恋人つなぎっていう奴だ。 「……何か言いたいことがあったら言っていいんだぞ?」 「いえ、別にないですけど……ふふっ」 「……やめよっかな、これ」 「えーっ、折角なんですからしばらくこのままでいましょうよ」 「これ以上笑ったらやめる」 「笑いませんって。だって……」 「私も今、すごく幸せですから」 「…………」 「なんだか俺、ずっと莉佳の尻に敷かれてそうな気がする」 「うふふ、気のせいですよぉ♪」 「帰って来ちゃいましたね」 「なんかあっという間だったな」 「本当に……そうですね」 あの後ふたりで買い物をして、軽くお茶をして話をして。 そんなことをしているうちにもう夕方になっていた。 楽しいことをしていると時間の経つのが早い。 今日は久しぶりにその言葉を実感した。 「じゃあ後で窓越しに話そうか」 「あ、今日ってまだ時間大丈夫ですか?」 「え……? うん、何も予定はないけど」 「じゃあ、ちょっとお願いがあるんです」 莉佳のお願いとは簡単なものだった。 『練習を見て欲しい』ただそれだけのこと。 だけどずっと空にいる時間を共有した今では、どこか特別で神聖な意味がある気がしていた。 お互いに練習用の体操服に着替え、再び星空の下で落ち合った俺たちは……。 「いいぞ、そのまま両足を安定させて、ゆっくりと」 「はいっ」 莉佳の背を支えながら、飛行形態のチェックをする。 「手を使ってバランスを取っちゃダメだ。身体の重心移動だけで安定させるんだ」 「わかりました!」 いつもと同じように練習をし、デートを兼ねて少し遠くの空へと飛行を続けた。 「あっちの山の方って、行ったことありますか?」 「ああ、昔よく遊び場にしてた。海の向こうの方に灯台の光が見えて、きれいなんだ」 「……ちょっと行ってみてもいいですか?」 「いいよ、行ってみよう」 「……こんなに楽しかったのは久しぶりです」 手を繋ぎながらしばらく飛び回っていると、ふとそんなことを莉佳がつぶやいた。 「今日のデートが?」 莉佳はこくんとうなずくと、 「高藤ではずっと気を張ってばかりだったので……」 「でも、向こうでも友達と遊びに行ったりすることはあるだろ?」 練習の時、莉佳と仲良さそうにしてる友達も見かけた。 別段、何かを装ってそうしてるようにも見えなかったけど。 「あります……でも、やっぱり部活のことを最初に考えちゃいますね」 「そっか……」 高藤の子たちとは上手く友達付き合いできてると思ってたんだけど、案外そうでもなかったのか。 ……いや、違う。 莉佳のことだから友達づきあいはストレスなくできてるけど、もうそこには無意識のうちにフィルターをかけているんだろう。 だからフィルターをかける必要のない俺みたいな存在が、今の莉佳には貴重なんじゃないかって思う。 「以前は、そういう友達もいたんです」 ちょっと、驚いた。 今まできっかけはあったけれど、語らなかった莉佳の昔話。 彼女の方から言うまでは聞かないようにしようと、俺からは何も行動を起こさなかったけど。 今こうして話し始めたことに素直に驚いた。 「高藤に入る前の学校?」 莉佳はうなずく。 「私、鹿乃島にいたって話はしましたよね?」 「ああ」 「その頃の友達とは気の置けない仲でした。麻帆ちゃん、すずちゃん、秋名ちゃん……みんなとは、霧島中央学園で一緒にFCをしていました」 「今でも連絡を取り合ったりしてて、その子たちとは交流が続いています」 「昔、莉佳が言ってた『みんな』ってのは、その霧島の友達のことだったのか?」 莉佳が久奈浜で練習を始めた当初、途中まで言いつつも誤魔化していた存在があった。 それがこの霧島中央の子たちではないかとそう思ったのだった。 「はい、そうです……あの頃の友達に、私が頑張ってるところを見せたくて」 優しげな笑みを見せる莉佳。 しかしその表情はすぐに曇って、 「……ひとつだけ気がかりがあるんです」 「気がかり?」 「鹿乃島の頃、もうひとり大切な友達がいたんです。さっちゃんっていう子でした」 「……私がFCを始めるきっかけになった子なんです」 「その子に教えて貰ったのか?」 莉佳はうなずくと、 「はい。フライングサーカスっていう競技があることを教えて貰って、一緒に練習をしていました」 「上の学校に行く時、離ればなれになっちゃったんですけど、その時に約束をしたんです」 「それって、どんな……?」 「子供同士の他愛ない約束なんですけどね。『フライングサーカスを続けよう、そしてどこかでまた会おうね』って」 「もう、向こうはとっくの昔に忘れてるかもしれないのに……。何年も前の話ですしね」 「こういう、引きずって引っ張って、何も断ち切れない諦めきれないめんどくさいのが、私なんです」 ああ、やっぱりだ。 莉佳は立派だし偉いしすごく頑張る子だけど。 根っこのところで俺に近い部分が確かにあった。 「あはは、ちょっと気持ち悪いですよねこういうのって」 莉佳は自嘲するように笑う。 俺は少しも表情を崩すことなく、黙って聞いていた。 「……そんなことない」 「え……?」 「過去って大切だよ。囚われることもあるけど、救われることだってある」 過去については、俺こそ色々と渦巻く思いがあって一概に言えないところがある。 だけど、少なくとも莉佳が大切にしている友達との約束は、とても尊いものだと思えた。 「俺は、莉佳の話を聞いて、もっともっと莉佳のことが好きになったよ」 「…………」 莉佳がなにかを堪えるような顔をしているのに気づいた。 「過去を大切にしてる莉佳が好きだ」 「晶也さん……っ!」 俺の名前を呼んだ時、莉佳は……。 もう半分以上、泣きそうな顔になっていた。 「んっ……ちゅっ……」 莉佳を強く抱き寄せて、空中でキスをする。 寄せ合った頬に涙が伝って、俺の頬も濡らしていく。 「莉佳……莉佳っ……」 涙を拭くように頬をすり合わせる。 莉佳の流した涙をぜんぶ受け止めてやると、意志を示すかのように。 唇を合わせて舌を絡ませて、莉佳の中にある孤独を吸い取る気持ちでキスを続ける。 「すきです……だいすきです……晶也さんっ……」 「ん……俺も、すきだよ……」 「好き……好き……好きっ……」 強がりな莉佳の中には、とても寂しがり屋な莉佳がぽつんと座っていた。 誰が呼んでも声をかけても、彼女はずっとそこから動こうとはしなかった。 元気ですよと声を上げるけれど、本当に元気なのかどうかは誰にもわからなかった。 俺は今やっと、その莉佳のところへたどり着くことができたのかもしれない。 手を伸ばして頭を撫でて、そのままでいいと言ってあげられる場所に。 「晶也さん……晶也さんが来てくれて、よかったです」 何もドラマチックなことはないし、恐ろしい災厄が彼女を襲ったわけでもない。 でもだからこそ彼女にはずっと救いの手はなく、君は大丈夫だからと放っておかれた。 彼女も自分を装うのが上手かったせいで、後回しにされてしまっていた。 でも、俺だけは絶対に莉佳を何よりも優先する。 この子を中心にすべてを動かすんだと、それぐらいの気持ちで彼女の側にいる。 なにが優等生だ。なにが良い子だ。なにが天才だ、なにが申し子だ。 近くにいないとわからないことなんて、世の中にはたくさんあるんだ……。 俺たちはずっとキスをして、互いに溶け合っていた。 それは過去から今にかけての自分たちを、改めて知ろうとしているようにも見えた。 何を話すよりもずっと相手を知ることができる。 ――そんなキスは、長く長くゆっくりと続いた。 デートのあとで部屋に戻ってきた。 ベッドに座ると、莉佳は隣ではなく俺の足と足の間にちょこんと座ってきた。 いつものことだけど、莉佳は人目がない二人きりの場所だと途端に甘えん坊になる。 そういうところもかわいいのだけど。 頭を撫でたり、肩を揉んだりしながら今はふたりでファッション誌を見ていた。 「莉佳はプレゼントをもらうとしたらどんなのが欲しい?」 「んー」 「ん……」 「ちゅっ、ちゅちゅ、ちゅうぅぅ……えへへ……」 「いや、キスとかじゃなくてさ」 おねだりされたからついしちゃったけど。 「きっと晶也さんがくれるものなら何だって嬉しいと思いますよ」 「またそういう優等生的な答えを……」 「だから、プレゼントは何でもいいですけど選ぶときはたくさん私のことを思い出したり考えたりしてくださいね」 「私はそんな晶也さんを想像してきっとときめいたりしちゃいますから」 「余計プレゼントの難易度が上がったな……」 「あとは嬉しすぎてブログで紹介とかしたり?」 「全世界に発信するのはやめて……」 「ふふ、さすがにそれは冗談ですけど」 悪戯っぽく莉佳がちろっと舌を出した。 「晶也さんこそ何かプレゼントして欲しいものなんてありますか?」 「俺か……」 考えてみる。 と、ちょうど開いていたファッション誌が目に入った。 「……ミニスカサンタとか似合いそうだよな」 「はい?」 「あとは婦警さん、看護師、やり手キャリアウーマン的なスーツ……赤縁メガネの委員長なんてのも合いそうだ」 「え〜っと……何の話をされているのか……」 「莉佳は凄いな。何でも似合う逸材かもしれない」 「あ、やっぱり頭の中で私を着せ替えてたんですね……晶也さんへのプレゼントを聞いてたのに」 「何を言っているんだ。これ以上のプレゼントなんてないぞ」 「晶也さんでもそういうの好きなんですね。可愛い制服だと、ちょっとわかんなくもないですけど」 「なるほど……なるほど」 「……妙に納得しすぎじゃないか?」 「いえ、ちょっと将来の就職先の参考にしようと思ったくらいですから」 「こんなことで一生の選択を決めないでくれ……」 「ですが、晶也さんはもう私の中で色々なことを左右する重要なファクターですし、喜んでくださるなら何でもしてあげたくなっちゃうんです」 ノリは軽いのに、重大な未来の選択が迫られていた。 「莉佳にはたくさんしてもらってるって」 「でも足りません。私の気持ちが全然治まらないんです」 なんとかしてこの場でこの話題は断ち切った方がいい気がする。 ……そうだ。 「だったら今、一番のお願いを聞いてもらってもいいかな」 「一番……は、はい、私にできることでしたら是非!」 「……Hなこともしちゃうけど」 「そ、それは……はい。私も、その、最初からそうかなとは思っていましたから……」 もじもじと照れながら答える莉佳がものすごくかわいかった。 「ほ、本当にフライングスーツでしちゃうんですか?」 「……ああ」 俺の部屋で、莉佳はフライングスーツ姿になって恥ずかしそうにしていた。 莉佳の安易な将来設計を避けるため、ほとんど思い付きのような提案だったのだが…… 「こ、興奮するんですか……?」 「興奮してる」 「既に? し、しかも断言しちゃうほどなんですね」 正直、普段はあまりそんな目で見たことがなかった。もちろん意識的に避けていた部分もある。 だけど、こうしてまじまじと見たら、これほど身体のラインが浮き出てるものだったんだな。臍の場所もはっきりとわかる。 そして、これを今から俺が好きにしていいというのだ。 「……ごく」 「い、今、生唾を飲み込みました? それほどですか?」 「いや、なんか背徳感って言うのかな……そんなのが物凄くてさ」 「私も、本当にいいのかなってすごくドキドキしちゃってます」 「そうだな。汚してはいけないものに手を出すみたいな気持ちがある」 だけど、こういうものはそういう気持ちに追い立てられて行為をするのが気持ちいいと言うのもわかる気がする。 「じゃあ、莉佳」 行為を始めることを告げる。 「あ、あの……その前に、フライングスーツの脱がせ方って、えと、わかりますか?」 恥ずかしそうに尋ねてくる莉佳。 そのまま聞くと、自分を裸にして欲しいと男に訴えているようなものだから、無理もない。 本当のところは、現役を離れて久しい俺がスーツの構造を知らずに、破ったり壊されるのを心配している、といったところだろうが。 「大丈夫。問題ない」 「も、問題ないと仰いますと……?」 「スーツは脱がさないから」 「え? えと、意味がよくわからないんですけど」 「そのままの意味だよ。じゃあはい、バンザイするぞ」 「ばんざいって……きゃあっ」 莉佳の腕を上げさせると、スーツから剥き出しになった白雪のような肌色が際立った。 ぷにっとした二の腕や、胸や下腹部の秘所とはまた違った意味で見せるのが恥ずかしそうな腋の一帯、 そして腕を上げさせられたことでよりいっそう形や大きさが浮き彫りになった莉佳の胸の横乳の一部が、俺の目の前に晒け出される。 「や、やめてください晶也さん、こんなのって、恥ずかしすぎますよぉっ」 「莉佳……かわいいよ莉佳」 俺は唇を莉佳の腋へと寄せていく。 「まっ、ままま晶也さん、待って、正気に戻ってくださいー!」 「失礼な」 俺は至って正気だ。 せっかく着てもらったフライングスーツだって脱がせたら意味がないから、絶対に脱がさないと正常な判断も出来ているのに。 「ちゅ……れろ……」 「ん……っ、はぁ……っ」 腋を舐められた莉佳が、肩口を逃がすようにしてびくっと身体を震わせる。 感じたというよりは、違和感やくすぐったさの方が大きかったみたいだ。 「ん、れるれる……」 「ま、晶也さん、そんなところ、んん……き、きたない、ですよぉ……」 「俺は全然そうは思わない……ちゅ」 莉佳の腋はつるつるとしていてなだらかにくぼむ曲線が女性らしさを感じさせる。 匂いなどはむしろ甘く感じるくらいでもしかしたらフェロモンというやつかもしれない。 窪んだ腋を、先を尖らせた舌でぐりぐりと舐める。 「ひあっ……! ですけどそこ、あ、汗とかかいちゃうとこですからぁ……」 「ちゅ、ん……? このしょっぱいやつがそうかな?」 「え、や、うそぉ……!」 「冗談だよ冗談、れろ」 身をよじって逃げようとした莉佳の身体を押さえて、なお執拗に莉佳の腋を舐め続ける。 「ん、ん、んん……!」 俺自身、莉佳の腋が……というか、どの部分も全部好きなのもあるだろうけど。 それ以上に、羞恥に耐える莉佳の表情や声が、心臓が潰れそうなほど好きなんだと思う。 ふるふると震える睫毛なんか、かわいくて堪らない。 俺は皮膚の薄い腋から肉付きのいい二の腕まで舌を這わせる。 「ふ、くっ……あ、あの……晶也さん?」 「れる、ちゅ…………何?」 「もしも……ですね、どこかで勘違いさせてしまっていたら、その、ごめんなさい、なんですけども……」 「私……ふぁ、腋ですっごく感じちゃうような人ではありませんから、何と言いますか……」 「れるれるれるれる!」 「ふぇぇぇぇええええん……!」 「今のは?……ちゅ」 「んん……そんなに強くするのは例外です。で、ですから、えと、恥ずかしいですし……」 「莉佳は腋が感じにくいんだな。……わかった」 「お、お気遣い、ありがとうございます……」 「莉佳がちゃんと感じられるようになるまで徹底的にやろう。……ちゅ、ぺろ、れろれろれろっ」 「あふぁっ……そ、そうじゃなくてぇ〜」 「んちゅ。でも、ちょっと濡れてきてないか? 感じて、汗ばんできてるってことじゃ? くんくん……れろっ」 「ふぁ……ま、晶也さん、私のきたないの、そんな嗅いだりなめたり……ぃやぁ」 「あ、悪い。莉佳の汗じゃなくて俺の唾液だったかも」 「〜〜〜っ」 莉佳が恥ずかしさから逃げるようにぶんぶんと頭を振る。いやいやをしているだけかもしれない。 「れるれる……莉佳の腋、ぴくぴくって動いてるぞ」 「ふぇぇぇ……ま、晶也さんは、ンく……これまでこんな風に、明日香さんやみさきさんを見てたりしたこと、あるんですか……?」 「こんな風って試合中に性的な目で? ……ちゅっ。ないない……ちゅ、ちゅちゅ」 「んふぅ……あ、明日香さんの腋とかみさきさんとか、ん、真白ちゃんの腋、だとか……」 「…………」 さすがに十分以上、腋だけを執拗に責めていると誤解されてしまうらしかった。 俺はただ、莉佳の羞恥で困った顔が見たいだけなのに。 「ちゅ……もし仮に本当に腋に興味があっても俺が好きなのは莉佳のだけだよ。ちゅ、ちゅうぅっ」 「ひゃんっ……そ、それならそれで、私の身体、晶也さん仕様になるように……んん、頑張りますけどぉ……」 「莉佳の腋は汚くないし匂いもしない……れろ」 「っ、そ、そんなこと聞いてませんし、えぇ? 逆に心配になっちゃうんですけどぉ……」 「ちゅ、ん……れるれる」 今さらながら、困らせてばかりになっているのはさすがに申し訳ない気がしてきた。 俺は腋を丹念に舐め続ける一方、莉佳の頭をよしよしと撫でつけてから、無防備なふたつの胸のふくらみへと手を伸ばした。 「ふあぁ……っ! も、もう……やです晶也さん、急にそんな……あっ」 胸に触れると、それほど強くない快感でもわかりやすい愛撫だからか、莉佳の様子から戸惑いが消える。 「やん……あっ……晶也さんの指、やさしいですぅ……」 「ふっ、あぁ……晶也さんが触ってくれたところ、なんだか熱くなってきてます……んんっ」 フライングスーツの生地は、つるっとしてて手触りがいい。 すべすべで瑞々しくて吸い付くような莉佳の柔肌には及ばないものの、悪くはなかった。 何より、この薄い生地たった一枚の隔たりが無性にじれったい。 これは後々響いてくる気がする。 「莉佳、もしして欲しくなったことができたら遠慮なく言ってくれ……れろれろ、ちゅ」 「でしたら……くふん、腋いじるのを、んん、やめてほしいです……」 「えれっ……ん、それ以外で」 「ふぁっ……うぅ〜」 「も、もしかして、晶也さん、何かえっちな言葉を、っ、言わせようとしてません?」 「ちゅ、……えっちな言葉って?」 「んぅ……その、ちゃんとナニナニと言っておねだりしろー、みたいな」 「言いたいのか? ……れろっ」 「はっ、んっ、そんなわけ……! ……そんなわけ、なくて」 「そんな酷いことは考えてないよ……ちゅちゅ」 「ん、んんん……それなら……はぁ、いいですけどぉ……」 どうも何か裏があるとでも思われていたらしい。 俺はただ、腋以外、莉佳の望むように尽くしてあげたいと思っただけだったのだが。 ……まあそういうこともやってるもんな。今だってずっと腋をいじめ続けてるし。 まあいい。とりあえず意識を、ずっとふにふにと揉み続けていられそうな莉佳の胸へと戻す。 スーツ越しだしな…… 俺は莉佳のふくらみを、手のひらでぎゅうっと絞ってみる。 「ふあぁぁっ! あっ、晶也さ、強ぃ、です……んんっ」 言葉はこうだが、痛がっているというよりもむしろ驚いたような反応だった。 声音にはむしろ、甘いものが混じっている気がする。 「んく……や、ひぁ、あぁぁぁっ、ふあぁっ」 続けると、鼻声のように上擦った声も聞こえてきた。 ぐにゅっ、むにむにっ…… 莉佳の綺麗な曲線を歪め、ぐにぐにとこねて形を変える。 「あっ、ふあっ、んっ、んんっ……」 莉佳の反応を見て、少し乱暴に扱ってみたりもする。 「んんんんっ! ふぁ、あぁっ……んっ、んぁぁ」 俺の手の動きに感覚を委ねて、莉佳がそのひとつひとつに反応してくれる。 俺自身もそんな莉佳の反応と陶然とするやわらかさに夢中になって揉みしだく。 ……そうしてどれくらい経っただろうか。それでも数分程度のことだとは思う。 「……っは、はぁ、はぁ、はあぁぁ……」 ずっと俺に胸をいじられている莉佳は、全身で大きく息をしていた。 感じてくれているけれど、とっくにそれだけじゃない。 「晶也さん……まさやさぁん……」 ほとんど泣き声に聞こえる声音で俺の名前を呼んでくれる。 莉佳の気持ちはおそらくわかる。 じれったいのだろう。 強く胸を揉みしだかれて快感が高ぶっても、乳首はフライングスーツに隠れていてそれ以上の刺激が与えられない。 実はよく見たり触ればわかるのだが、俺はあえて焦らすようにスーツ越しの乳首の周りを指先でかりかりと掻いたり、ぐりぐり押し込んだりした。 「はっ、ああっ……! んくっ、晶也さ、そこ、じゃな……」 「そこじゃ……なんだって?」 「はぅ……あ、ううぅ……」 最後まで伝えきれずに消沈する莉佳。 「ちゅ、ん……れろれろ」 「ふあぁ! あっ、んんっ……!」 今や俺が腋を舐めるのにも、びくびくと反応する。 這わせた舌には薄い汗の味が広がって、莉佳の余裕のなさが味覚からも伝わってくる。 「ん、くぅん……っ」 余裕がないのは下半身も一緒で、莉佳はもじもじと切なそうに太ももを擦り合わせていた。 何度も自分で手を下に伸ばしかけては俺の視線に気づいて、捨てられた子犬のような目を向ける。 動かしてちらちらと覗く足の付け根には俺を欲しがってくれたんだろう、大きな染みができていた。 「クリーニングに出しても落ちなくて、佐藤院さん辺りに『この汚れはなんですの?』とか聞かれないだろうな……」 「はうぅ……まさやさん、いじわるです、ぅ……ふ、ふうぅぅ……」 莉佳が、ちいさく身体を震わせる。 どうして欲しいのか言って欲しかった俺ときっと欲しくても恥ずかしくて言えなかった莉佳はまるで我慢比べのようだった。 結果、潤んだ瞳の莉佳は身体中を上気させて俺に気持ちよくしてもらえるのを泣きそうなほど待っている。 俺は俺で、好きな子のこんな姿をずっと目の当たりにしていて平気なはずがない。 下半身は破裂しそうなくらい膨張していた。 「ごめんな莉佳……ちょっとやりすぎた」 「っ、はぁ……そんなこと……私の方こそ、おねだりに自信なくて、ちゃんと、言えませんでしたから」 「今の莉佳も物凄くかわいいけどな」 「もう……晶也さんのせいで、腋、ちょっとよくなってきちゃたんですから」 軽く膨れて見せる莉佳の頭を軽く撫でる。 「今、ちゃんと気持ちよくする」 「その前に、私にちゃんとおねだりさせてください」 「恥ずかしいなら無理しなくていいんだぞ」 「いえ、ずっと……晶也さんが喜んでくださる言葉を、考えていましたから。下手だと思いますけど」 「全然いいよ……莉佳が俺を欲しがってくれてるってわかるだけで、胸が熱くなるからさ」 「頑張ってみます……」 莉佳は恥ずかしそうに目を伏せたあと、決心したようにぎゅっと、 「私のえっちで…………な………………に、晶也さんのおっきくてたくましい…………を………………れて、ぴゅっぴゅって………………!!」 聞き取れないくらいの小声で恥ずかしいことを言う莉佳。 そういえば莉佳って、耳年増だったっけ…… 聞きかじりで、意味もよくわかっていないあんまりな発言に、頭にかっと血が上って途中から何を言ってるか聞こえなくなったけど、 「あっ、晶也さ……ん、ちゅ……」 「んちゅ、ん、れろれろ、くちゅ、んん、んちゅ……!」 しがみつくように俺を求めてくる莉佳と同様に。 俺も莉佳が欲しいという衝動はもう抑えようがなかった。 スーツを極力脱がさないように、莉佳の陰部を露出させた。 スーツの上から見た通り、莉佳のそこはお漏らしでもしたようにびしょびしょに濡れていた。 愛液で光る莉佳のそれは真っ赤に充血し、膨れ上がって、ぱくぱくと小さな痙攣を繰り返している。 ……とても我慢できそうにない。 俺もほとんど力任せに自らのガチガチに硬くなったモノを引っ張り出した。 「晶也さん……晶也さんの、早くほしいです……」 「ああ、わかったよ莉佳、今すぐに」 俺は自分のモノを莉佳の入り口にあてがうと、 じゅぶじゅぶじゅぶ……っ! 「ふぁぁぁああああぁぁぁん……!」 そそり立ったモノを莉佳の一番奥まで一気に突き刺した。 温かな莉佳の中は愛液の潤滑でとろとろにほぐされ、俺の侵入を今か今かと待っていたようだった。 「くふぅん、晶也さんのっ、硬いの、私の中に……っ」 「ずっと……待ってて、んふぁ、やっとぉ……!」 「あぁっ、きもちっよぉ、ふぁ、ああぁぁぁぁ……!」 挿入れただけで軽く達してしまったようにもしくは快感を噛み締めるように、莉佳がふるふると震える。 それは俺も同じだった。 待ち望んでいた莉佳の中はにゅるにゅると気持ちよすぎて入っただけでイってしまいそうになる。 「んふ……ふぁ……んっ」 ほとんど無意識の行動だろう、莉佳が腰をぐりぐりと動かして結合部を擦りつけてくる。 「っく……!」 それが堪らなく気持ちいい。 莉佳が主動になると俺のモノが莉佳の大きなお尻で潰されたり圧迫されて、それもまた快感になっていた。 「んんっ……んあぁぁっ……んくぅっ……」 しかし慣れていないせいかまだどこかもどかしそうにも見える。 「んくっ、晶也、さぁん……」 「ん。わかった……!」 俺は意識して強く深く、そして重い一突きを、下から莉佳の中に打ち込んだ。 「あああぁぁぁあああーーーーーーーっ!!!」 不意に欲しかった刺激を与えられ、莉佳の白い肢体が仰け反る。 「ああぁぁぁ……んっ、あ、あぁぁぁ……っ」 「今の、よかったか?」 「んんん、んふぅ、うぅ、ふぁあぁぁ……」 余裕がないのか声には出さず、こくこくと頷いてくる。 まあ余裕がないのは俺も同じだ。 頭が熱く、ぼーっとして莉佳と擦り合わせる下半身の粘膜に神経の全部が集中しているかのようだった。 いつもはこの姿になると凛々しく、知的に相手の先を考えて空を飛んでいる莉佳が、 「んっ……晶也さんのぉ、もっとっ、ふぁ……もっと、ほしいんですぅ……」 かわいくよがっているこの中に、一刻も早く俺の精液の塊をぶつけたくなる。 「あぁ……はぁ……晶也さぁん……」 莉佳がねだってくる。 「今すぐ」 俺は莉佳を離さないよう、抱く腕に力を込めて、ぐいっぐいっと莉佳の中に突き上げていく。 じゅちゅ、じゅちゅ、じゅちゅ……! 抜き差しした勢いで、溢れた愛液が飛沫となって跳ね、ぱたぱたと俺のズボンに小さな染みを作る。 「はぁぁっ、ぅあっ、すごぃ……んんんんっ」 「あんっ、んあ、はぁ、っ……あ、ああっ!?」 と、不意に嬌声とは少し違う絶望的な声が聞こえてきた。 「ま、晶也さん、あの……は、っく、わた、私、その、重くないですか……っ」 「は?」 「晶也さんに……そ、そんなこと、もし思われてたりしたら、ぅぁ、私……!」 こんな状況での場違いな心配に、 「……くく」 「ど、どうして笑うんですかぁ……っ」 「全然大丈夫だって……莉佳はっ、羽根みたいに軽いよ……くっ」 「んくっ……そこ、まで言われると、逆に、心配になっちゃうんですけどぉ……」 「それにそれ以上に……最高に、気持ちいいし……っ!」 「ああぁぁぁっ!私もっ! 晶也さんのが、晶也さんのおっきいのが、気持ちよすぎてぇ……」 お互いに気持ちいいなら、それは最高だ。 俺はより密着するように莉佳を抱きしめ、汗でうっすらと熱く湿った背中に顔を埋める。 「晶也さん……晶也さ、あぁっ……」 莉佳の俺を求めるうわずった声と荒い息遣い、じゅちゅじゅちゅと卑猥な水音が、俺の心を満たしていく。 「あぁぁっ、んく、ひぁぁぁっ……は、はあっ……ま、晶也さんんん……っ」 不意に莉佳の身体が、俺から逃げるように前傾する。 「わた、私……っく、もう……っ」 前傾した上半身を今度はよじらせる。自分でももうコントロールできていないようだった。 挿入るまでにだいぶ焦らされたので快感がせり上がるまで時間が掛からない。 「っく……俺も……」 それは俺も同じだった。 「いっぱい……いっぱいくださいっ、晶也さんの、いっぱい……っ」 「ンく、私のこと、すごく、かわいがってください……っ」 大好きな子にそこまで言われて発奮しないわけがない。 「莉佳……!」 じゅっじゅっじゅっじゅっじゅっじゅっ!!! 「あはぁぁあああぁぁあああーーーー……っ!!!」 再び莉佳の身体を後ろから強く抱きしめると、もう支えきれないのか、二人でくっついたまま前に折れた。 莉佳の中はひくひくと痙攣し、絶頂が近づくたびにきゅんきゅんと締まってきている。 だけどエラの張った俺のモノはそんな莉佳の襞を無視して、激しく上下し擦りあげる。 動くたび、分泌される愛液と先走りが泡立つほどに混ざって増える一方なのに、摩擦と快感がそれさえ上回る。 「晶也さんのっ、まさやさんの、しゅごい……あぁっ、やっ、あ、おかしくなっちゃいます……っ」 「頭まっしろになって、あ、あ、ぁっ、まさやさんのっ、ぐりぐりって、ひっかかないでっ」 「だめですっ、あぁっつ、もうっ、らめっ、まさやさん、まさやさんまさやさんまさやさんまさやさんっ」 莉佳の声が、そして、ぎゅうううぅぅっと締まった中が、ついに俺を捕まえた。 「――っ!」 びゅるっ!!! びゅるるるるるるるっ!!! 「はああああぁぁぁぁああああーーーーーーーっ!!!」 莉佳の一番深いところに打ち込んで、俺は射精した。 「あ……ふ、あぁ……入ってきてまふ……まさやさんの、熱いの、私のお腹の、中にぃ……」 びくんっびくんと肉棒を跳ねさせながらも、それでもまだ足りない気がして、ぐりぐりと奥に押し込む。 どくどくと流し込まれた精液を飲みくだすように莉佳の膣内はきつく収縮している。 「はぁ、はぁ……晶也、さん……すごく、出しちゃいましたねぇ……ふふ」 困ったように、そしてそれ以上にどこか嬉しそうに、莉佳が言ってくる。 「ちゃんと匂いとか……洗濯して落ちてくれるでしょうか……? たくさん晶也さんに、いじわるされちゃいましたから」 「だめだったら……弁償するよ」 「弁償はいいですから……責任を取ってくださいね」 「……はい、そうします」 色々と大変なことを責められそうだったので、素直にうなずいたのだった。 ……やっぱり、俺は莉佳の尻に敷かれそうな気がする。 大会が目前に迫っていた。 泣いても笑ってもあと3日。そうすればすべてのことが試される日がやってくる。 俺たちはこれまでの総決算とばかりに、実戦的な模擬戦や個々の技の習得に励んでいた。 そしてその中心にいるのは……。 フェイントをばら撒きながら高速で進む莉佳の進路に明日香が割って入ってきた。 「頭を押さえます!」 「させません!」 莉佳は明日香をローヨーヨーで振り切ろうとする。 「えい!」 それを予想した明日香が先回りするが──。 「くっ、くぅぅぅぅ……」 莉佳がキュッと閉じた唇から息を漏らす。 「えっ?」 莉佳は上半身を強引に逸らして急激にスピードを落としながら、下降から上昇へ移行する。 「わ、わわわ?!」 スピードは落ちたが飛行姿勢を戻すスピードが早かったので、なんとか追尾しようとする明日香の頭の上を通過していくことができた。 「……っ! 抜きました!」 「よし! 今のはよかったぞ!」 「ありがとうございます!」 「う〜。完全にだまされてしまいました」 「やりましたぁ! こんな風に明日香さんを抜くことができたのは初めてかもしれません」 「言われてみればそうかもな」 「そんなことありませんよ〜。今までだって何度も抜かれているじゃないですか」 「そうですけど、今のはそれまでの抜き方とは違いますから」 莉佳の言うとおり、今までも抜けなかったわけではない。 だけど、どこか強引なとこがあったのだ。スピードで力任せに抜いていた。 華麗なフェイントを仕掛けて、あざやかに明日香を抜いたのは初めてかもしれない。 今のは運じゃなくて実力で抜いたのだ。 ――中心に莉佳がいて皆が動いている。 その事実だけでも大きな変動があったことがわかる。 「よし。それじゃ莉佳はブイに戻って、明日香はその付近で待ち構えるシチュエーションでもう一度」 「次は簡単には抜かせません!」 「頑張って抜きます!」 「ごきげんよろしくて?」 「え? あ、佐藤院さん。それに真藤さんも……」 「やあ、こんにちは。見学に来たよ」 「莉佳を見に来たんですね?」 「高藤の方に顔を出しませんからね。信頼してはおりますが、気にはなりますわ」 「そちらにご迷惑をかけたりしていませんか?」 「以前に言った通りですよ。迷惑なんてとんでもない。なくてはならない存在です」 ……部室も綺麗にしてくれるし。 部室の掃除のために来てもらっているみたいだから言わないけども。 「本当に? 嘘はついてませんでしょうね?」 「こんなとこで嘘をついてもしょうがないですよ」 「そ、それならいいのです」 真藤さんは苦笑して、 「佐藤くんはちょっと過保護なとこがあってね」 「か、過保護だなんて。そ、そういうわけではありませんわ!」 佐藤院さんがいつもの『佐藤院ですわ』も忘れ、慌てて真藤さんの言葉を否定しにかかる。 「市ノ瀬さんが高藤の生徒の自覚を持って真面目に練習に励んでいるのか、部長として気になっただけですわ」 「そういうのが過保護だと、僕は思うんだけどなあ」 「ですから、そうではなくて……」 「ちょうど良かった。今、莉佳が飛んでいる所ですからぜひ見て行ってください」 佐藤院さんは小さく、こほん、と咳をしてから、 「……では拝見いたしますわ」 「……市ノ瀬さん、とてもよくなっていますわね」 「うん。僕もそう思うよ。大きく成長したのは飛行姿勢の立ち直りだね。そこには目を見張るものがあるよ」 「そうですわね。復帰がとても早いですわ。強引な動きをしてもスピードが落ちませんわね」 「興味深いな。どういう魔法を使ったのか教えてくれないか?」 「魔法は使ってませんけど。……莉佳がああなったのは、黒渕のおかげかもしれませんね」 「……黒渕霞の?」 佐藤院さんの顔が曇る。 「それはどういうことかな?」 「おかげと言うのは正しい表現じゃないと思いますけど……。黒渕対策のためラフプレイを挑んでくる相手にどう対応するかの練習を莉佳は徹底的にやっていたんです」 「なるほどね」 「はい。そういうことです」 佐藤院さんは呆れたように首を振って、 「おふたりで勝手に理解しないでいただけませんか? わたくしはまだ何も理解していないのですけど?」 「FCのラフプレイというのはつまり、自分の姿勢が崩れることを恐れずに、相手の姿勢を大きく崩す技を使う、ということだ」 「そこまで説明されたらわたくしにもわかりますわ。ラフプレイを受ける練習をする、ということは、崩れた姿勢を早く戻す練習でもある、ということですわね」 「そうです。俺もこの練習をさせてみて、そのことに気づいたんですけどね」 「普通なら自滅してしまいそうな姿勢のフェイントを仕掛けても、スピードをそれほど落とさずにすむ秘密はそこにあった。……なるほど」 「それだけじゃなく、状況に対する反応も早くなってます」 「もしかしてそれもラフプレイを受ける過程で身についたのですか?」 「ですね。姿勢を大きく崩した時は、自分が何をすればいいのか、周りの状況は? 対戦相手は? ブイまでの距離は? そういったことを即座に理解しないといけませんから」 それにミスをすると連続得点を許してしまう。高次元での判断力も養われるというわけだ。 元々は必要に迫られての対策だったけれど、結果的に色々と得る物の多い練習となったのは意外だった。 「市ノ瀬くんを久奈浜にあずけたのは正解だった」 「そうですわね。悔しいですけど、高藤にいたらここまでの成長はなかったかもしれませんわ」 佐藤院さんは満足げに微笑みつつもやがて表情を硬くして、 「……ですが」 「なんでしょうか?」 「心の方は鍛えられているのかしら?」 「彼女の最大のウイークポイントだからね」 「それはさすがに、そう簡単には」 「……でしょうね」 不意の反則や驚かされる行為など、やはりとっさの出来事に対しては弱さが目立っていた。 「だけど……」 「なんだい?」 「確実に自分の弱点に気づいてはいます。今まではそれをどうしたらいいのか、莉佳はわからずにいたんだと思います」 「そうだね。他人から弱点を指摘されても、それがどうして弱点なのか市ノ瀬くんにはまだわからなかったかもしれないな」 真面目な性格すぎて、性格が弱点だということを表面で理解することができても、本質的なとこで理解することができなかったのかもしれない。 真面目な性格……というより自分の中の心の枠が邪魔して、考えが先に進まなかったのかもしれない。 だけど今は違う。 「黒渕と出会うことで、自分の性格のことに気づいたのかもしれません」 自分が混乱したらどうなるのか、自分が怒ったらどうなるのか……。 「最近、明日香が練習でそのことを莉佳に再確認させました。それで完全に気づいたみたいですよ、自分の弱さに」 「倉科明日香が再確認させたのですか?」 「知ってるかもしれませんけど、明日香は本気になると結構、恐いんです」 「なるほどね。もう市ノ瀬くんは気づいてはいるわけか……」 「今の莉佳は毎日、自分の弱さを確認しながら練習してると思います」 でなければ、ここまでひたむきに練習できるわけがない。 「それを試合でどこまで出せるか、ですわね」 「そればかりは試合をしてみないとわからないとこがありますからね」 練習試合で最強の選手が、大会では普通の選手になってしまう。というのもよくある話だ。 野球でもブルペンエースという言葉があるけれど、フィールドで力を出し切れる選手こそが真に強いと言えるのかもしれない。 「……市ノ瀬くんの試合、早く見てみたいね」 真藤さんは唐突に佐藤院さんに振り返って、 「そろそろ行こうか」 「え? どうしてですか? せっかく来たのですから市ノ瀬さんを……」 真藤さんは再び苦笑する。 佐藤院さんもそれで真藤さんの言葉の真意に気づいたのか、 「……ですわね、見守るのも上級生の役割ですわ」 「わかってもらえれば幸いだよ」 佐藤院さんは名残惜しそうにフィールドを見上げてから、 「……わかりましたわ」 ざっ、と音をたてて俺に向かって身を翻す。 「…………っ」 鋭い目で俺をじっと見つめる。 「な、なんでしょうか?」 バッ、と頭を下げると、 「改めて、市ノ瀬莉佳をよろしくお願いします」 「は、はいっ……!」 「はははは、佐藤くんは娘を嫁にやる母親みたいだね」 「そういう冗談を言わないでください」 「でも、こちらはそのくらいの気持ちで、市ノ瀬くんをあずけてるんだよ」 変に扱ったら許さないぞ、ということか? それとも完全に委ねた、ということなんだろうか? きっと、その両方なんだと思う。 「……わかってます。莉佳を大切にします」 俺は静かに言った。 絶対にそうしようってことはもう前に決めてはいたけど。 今日の部活は終わったけれど、俺と莉佳は居残りで練習を続けていた。 試合が目前に迫っていることもあり、後悔のないように一通りのことは済ませておきたかった。 俺はヘッドセットのマイクに向かって叫ぶ。 「上!」 「はい!」 「右斜め下!」 「はい!」 「加速!」 「はい!」 「もっと思い切って行くんだ!」 「はいぃ!!」 俺の指示通りに莉佳が飛ぶ。それを繰り返し、繰り返し、やる。 誰でも指示を聞いてから、動き出すにはまでに時間がかかる。 なぜなら耳から入った情報で、即座に体が動くわけではないからだ。 例えば、俺の指示で莉佳が腕を動かす場合、耳から脳へ、脳から腕へ、という情報伝達の過程がある。 咄嗟に動ける練習を続けていれば、この時間を少しでも短くすることができるのだ。 ──莉佳の飛行姿勢の立ち直りの早さに、反応速度の速さが加われば……。 かなり強い選手になれるはずだ。 立ち直りの早さがあればドッグファイトは恐くない。反応速度が上がれば対戦相手を抜ける可能性が高くなる。 ドッグファイトは仕掛けられても平気だから、誰も恐れずに思いっきりスピードで翻弄できる。 止められたらどうしようという不安なしで加速できる。 それはスピーダーの理想の形の一つだろう。 「はあ、はあ、はあ、はあ……」 「よし、今日はここまでだ」 「まだできます!」 「ダメだ。オーバーワークは怪我の元だぞ」 「……はい」 降りてグラシュの起動を解除した莉佳にドリンクボトルを渡す。 「ありがとうございます」 「よくなってきているぞ。これなら大会は上位を狙えると思う」 「……本気で言ってますか?」 「本気で言ってるよ。自分ではどう思うんだ? よくなってる実感がないのか?」 「ありますけど……。えっと……その……。晶也さんに褒められるの……。恥ずかしいですから。……うふふ」 可愛らしく笑った莉佳の顔が不自然なまま固まった。 「……莉佳?」 「…………」 莉佳の視線の先──。 手、足、胴、首──。 異形のシルエットが、そこだけ別の空間になったかのように、ぽっかりと浮かんでいた。 「………」 握った手のひらがあっという間に汗ばんだ。 「黒渕……霞」 「………」 「……」 真っ直ぐに莉佳を見つめる黒渕の口端が、少しずつ吊り上っていく。 「フフッ……」 嘲笑しているとわかる笑い声。態度。 「何をしに来たんだ」 俺が話しかけたのに、黒渕は莉佳だけを見つめている。 「……報告してあげようかな〜、と思って」 「報告?」 「………」 黒渕は姿勢を正して、可愛らしい声で言う。 「私、黒渕霞は模範的な行動を示したので、無事に秋の大会に出場できることになりました! みなさんのおかげです。ありがとうございました!」 「………」 黒渕は俺を一切見ていない。莉佳だけを見ている。 「カニバサミで人を倒しちゃったり、手首を怪我させちゃっても、『偶然です』って言い張っちゃえば……フフッ。どうとでも、なるんだねー。あはっ、あはははははっ」 「よかったです」 「……よかった?」 がくん、と黒渕は長い体を折り曲げて、下から覗き込むように莉佳を見る。 「よかったって何がかなー? 答えてくれませんかー」 血走った目が莉佳を捕らえている。 「あなたが出場停止にならなくて、よかった」 「ウフッ、フフフフフッ」 「…………」 「どうして? どうして? どーしてそーんな嘘をつくのかなー。恐いでしょ? 私のこと恐くて恐くて逃げちゃいたいでしょ? 私と試合したくないでしょ?」 「私は黒渕さんと試合がしたいです」 「……へ〜」 黒渕が回すように首を動かした。それだけで周囲の空気が、じっとりと黒く澱んでいくような気がした。 「私と、試合?」 ──黒渕の迫力は凄いな。 「おまえみたいな選手は私が圧倒して、ぼろぼろにしてー。いひっ……。『二度とFCなんかしたくないです〜』、って言わせてあげる。私の方が優れてるって証明するから〜」 「私はそんなことに興味ありません。高藤や久奈浜、それに霧島中央のみんなのことを背負って試合をするだけです」 「せおって? ん〜? そいつらがおまえの試合に参加できるの? 助けに来るの? ヒヒッ……フフフッ」 莉佳は両足を踏ん張り、胸を張って言う。 「私の中にみんながいるんです。だから一緒に戦えます。私はそういうこと忘れませんから。あなたは一人で試合をすればいい。私はみんなとします!」 「……っ」 黒渕は少し引いたようだった。 莉佳の言葉というより、自分の威圧が通じていないことに驚いているようだった。 ──そっか。 黒渕は自分のペースに巻き込むのが上手だから、巻き込まれない相手には対応しきれないとこがあるんじゃないか? そういう人はあまりいないだろうから、経験が少ないはずだ。 「……っ」 莉佳はぐぐっと力を入れて黒渕を睨む。 「私のこと恐いから莉佳ちゃんはそんな顔するんだよねー。可愛いなー」 「黒渕さんも可愛いですよ」 「はぁ?」 「あなたが高藤に現れたときから、ずっと引っかかってました」 莉佳は黒渕の挑発には答えず、近づいていく。 「おい、莉佳……」 「どうしたの? ビンタのひとつでもしてみる?」 更に挑発する黒渕。 しかし莉佳は臆することなくどんどん近づき、ついに。 「ちょっと……っ」 10センチ程度のところまで、顔を近づけた。 いったい何のつもりなんだろうか……。 そう思った時。 「……やっぱり」 「え?」 「なにが?」 俺の問いに莉佳は黒渕の手を取って、 「さっちゃん!!」 「は、はあっ?!」 いきなり黒渕のことを愛称で呼んだのだった。 さっちゃんって、確か……。 「鹿乃島の頃、もうひとり大切な友達がいたんです。さっちゃんっていう子でした」 「……私がFCを始めるきっかけになった子なんです」 そうだ、莉佳が前にいた鹿乃島で、確か何年か前に離ればなれになったって……。 それがこの黒渕霞だったのか? 以前の黒渕を知らないので何とも言えないけれど、FCを教えてくれた幼なじみというキャラからはかなりかけ離れているように思うんだけど。 「…………っ!!」 しかし一方の黒渕は明らかに動揺が見えた。 明らかな否定が無いところを見ると、もしかしたら……。 「幼なじみだったのか、黒渕と莉佳は」 という結論になる。偶然が重なりすぎて目眩がする思いだけど……。 「言ってたもんね、いつか大会で会おうねって」 でも、確かその思い出の『さっちゃん』は、FCの大会で会おうと莉佳と約束したと言っていた。 だとすると、奇しくもその約束が果たせたということになる。 「……でも、どうして? どうしてこんなプレイをしてるの、さっちゃんは?」 「…………」 なおも黙る黒渕。 「……ッ」 黒渕は何かを決意したかのように、眉根を寄せて、鋭く息を吐いた。 「あっ……」 莉佳が握っていた手を振り払うと、 「クククッ……」 「……こんなタイミングで思い出すんだ?」 黒渕は闇夜のように黒い髪をかき上げ、自嘲的に笑った。 「さっちゃんも思い出してくれたんだね!」 「わたし? ハハッ、何言ってんの、思い出してなんかない」 「えっ……?」 「忘れたことなんか一度だってないよ、こっちはね……」 今まで上がっていた口端が下がっていく。嘲笑、軽蔑。そういったものを表現する顔じゃない。 ──悔しさ。苦痛。 「だって、あなたを倒すためだけにわたしはFCを続けてきたんだもの」 黒渕が初めて見せる顔。 「そんな…………」 「へえ、意外だった? ごく自然だと思うけどなー。自分がFCを教えた相手が、明らかに自分よりも才能あるってわかった時の絶望を考えたらね」 「そん、な……」 「ずっと嫉妬してたんだよ、わたしは」 「っ……!」 ズキッ、と胸が痛む。 こいつも、そういう闇を持ってFCを続けていたのか。 「そんなこと……さっちゃんはあんなに上手くて、私はずっと憧れて続けてきたのに」 「ハッ、憧れとか言ってるレベルの子が、1年生から高藤でレギュラー張れるわけがないじゃない。バカにするのもいい加減にしてよね」 霞の苦痛の上に、薄い笑みが重なっていく。 「さっちゃん……」 「その呼び方やめてくれない、バカみたいだから」 きっと薄くでも笑みを重ねないと、自分をそのまま出してしまうかもしれない、それが恐いのだ。 ──その気持ちはよくわかる。 俺も昔、同じことをしたことがあるから……。 「あはっ。あははははははっ」 今の黒渕の笑いは威嚇じゃなくて自分を守るための笑いだ。 聞いているだけで胸の痛む響き。 「『かっちゃん』だと男の子みたいだから、あ・か・さ・た・な、の次の順でさっちゃんにしようとか……子供ってバカだよね、発想も単純だし」 バン、と自分の胸を手のひらで叩いた。 「親が離婚して名字も変わった!」 鋭く莉佳をにらむ。 「戦い方も変わった!」 顔を近づける。 「何もかも変わった中で、どうしてあなただけが綺麗な思い出のままでいられてるって思うの?」 「…………」 莉佳が下を向いてしまった。 「大会、もし当たることがあったら、あなたを容赦なく叩き潰すわ」 「…………」 「フヒヒッ、あはっ、あははははっ。ひどいことたくさんしてあげる。あなたの思い出ごと、全部台無しにしてあげるから!」 黒渕の口調が完全に元に戻った。 莉佳が黒渕を思い出したことで、逆に黒渕の隙を突けるのではないかと一瞬期待した。 でも、そんな考えがうまくいくわけがなくて──。 下がっていた黒渕の口端が再び上がり始めた。いつもの嘲笑が現れる。 「………ッ」 同時にいつもの禍々しい雰囲気が広がり始めた。 莉佳の心情を思うとつらい気持ちしかない。 「莉佳……?」 しかし、莉佳の表情はキッと引き締まったままだった。 「……変わってません」 そして。 「だって、さっちゃんはやっぱり可愛いもの。あの時のまま、変わってません!」 「まだそんなこと言うの? もうやめ……」 「さっちゃんは可愛いです。本当に! 本当の本当に可愛いです!」 「そんなので……」 「本当に可愛いです!!」 「やめ……」 「可愛いです!」 「やめてっ!!」 一際大きな黒渕の声が響いた。 「……フヒヒッ。あはっ、あはははははっ。それで形勢逆転したつもり? 無駄、はっきり言って無駄だから!」 「…………」 「もういいわ。……あなたが何を考えようが何をしようが構わないわ。私は一つのことしかしない」 「…………」 「必ず潰す……。二度とFCをしたくないって思わせてみせるから……」 黒渕はずりずりと地面に靴底を擦りつけながら、じりじりと下がっていき、充分に離れたところで、背を向けて歩いていった。 「行ったか……」 こちらも用心のためにその後ろ姿を目で追う。 黒渕の歩き方は、後ろから攻撃を受けた時を想定してのものに見えた。 これまで常に、緊張と疑念に縛られてきたのだと思わされる。 ――俺自身の黒い部分を見せつけられるようで、つらかった。 「はあ……きゃっ!」 ため息をついた莉佳が、ぐらり、とよろめいた。 「おっと」 慌てて抱き支える。 「急にくらっとしました。……あはははは。さっちゃんは凄い迫力でした」 「それに対抗できた莉佳も凄いぞ」 「あはっ。凄かったですか?」 「可愛いの連呼で追い返すなんてな」 「……だって、あの子は本当に可愛いんです。あの格好と喋り方で隠しているだけなんです」 莉佳は拳を握りしめて、 「だから思い出してもらいます。さっちゃんに、FCは楽しいんだよってことを」 「そっか……」 莉佳は俺を見上げてニッコリと笑う。 「今ので自信がつきました。さっちゃんの前に出ても、きちんと試合ができる気がします」 「それだけじゃないぞ。莉佳は誰の前でだってちゃんと試合できる選手だ。秋の大会、頑張れ」 「はい!」 うなずいた莉佳は、これまでに見たことのなかった『強さ』がみなぎっているように感じた。 これならば対抗できるかもしれない。黒渕霞に……そして、莉佳自身に。 決戦は間近。俺は来たる日に向けてもう一度決意を新たにした。 「それではこれより、フライングサーカス秋の新人戦、永崎県予選を開催いたします」 晴れ渡った空の元、スピーカーを通じて澄んだ声が響く。 ついに本番当日。 これまでやってきたことが、すべて試される日がやってきた。 明日香が眩しそうに青空を見上げて、嬉しそうに小さくジャンプした。 「いよいよ始まりましたね」 「そうだな」 「でもさ、秋の大会と言われても困っちゃう天気だよね」 確かに窓果の言う通り、真夏としか例えようのないぐらいの晴天と暑さだ。 かき氷の屋台には行列ができ、ドリンクには早くも品切れの札がつけられている。 「確かに。せめて秋っぽく紅葉とかしてくれればいいんですけどね」 「こうも夏っぽいと、夏の大会が終わったばかりなのにまた大会かー、って感じがするにゃ〜」 「ばかりってことはないだろ。夏休みを挟んでるんだから、成長してる奴は成長してるぞ」 「でしょうにゃ〜。例えば莉佳ちゃんとかね」 「ひぇっ? わ、私ですか?」 莉佳は俺達と一緒にトーナメント表を見てから、高藤の方に戻ることになっている。 「この夏でかなり実力アップしたじゃない」 「そ、それは……。セコンドの晶也さんの指示がいいだけです」 莉佳の試合のセコンドは基本的に俺がすることになっていた。 FCのセコンドのルールは、わりと曖昧というか適当な部分がある。 参加する学校が少なかった頃の名残なのか、他校の生徒のセコンドをすることが許可されているのだ。 いずれ改定されるかもしれないけど、FCにはこういう抜け穴のようなルールがまだ残っている。 だからこそ、黒渕のような反則スタイルも依然として残っているとも言えるのだけど。 「莉佳ちゃんは強くなってます!」 「うん、なってるぞ」 「そうです、そうです。莉佳さんは私が当たりたくない選手の上位に来ますからね。正直、まったく勝てる気がしないですから」 「そ、そんな……。でも……頑張って練習しましたから、結果を残したいというか、納得してみたいです」 「うん。莉佳に限らず、納得できる何かを掴むことができればいいと思う。もちろん結果も求めるけど、それよりも、実力を発揮できるように頑張ること」 「はい」 「頑張ってみるね〜」 「は〜い」 「頑張りますっ……!」 それぞれなりの決意の言葉を聞く。 (さてと……) 改めて周辺の選手たちの分析を脳内で行う。 実戦から離れていた明日香はどうしても不利だし、みさきは練習不足が否めないし、真白はまだまだ一皮向ける必要がある。 ──久奈浜のみんなにも頑張って貰いたいけど、秋の大会で期待できるのはやっぱり莉佳か。 「さ〜てと……。今回の組み合わせはどんな感じかな〜」 「真白はまた佐藤院さんと当たるといいね〜」 「いやです! 強い人とは試合したくありません。同じくらいの人がいいです!」 明日香がぴょんと前に出てトーナメント表をじーっと見る。 「ああ、もっと落ち着いて見ましょうよ。なんか嫌な予感がするんですってば」 「あ、真白ちゃんを発見しました」 「ええ?! ……ど、どこですか?」 「ここです」 明日香の指差す先に真白の名前があった。 「対戦相手は……ええええぇぇぇぇええええぇぇぇええぇぇ!!」 「あはははは……。こういうことってあるんだね〜。これって真白の望んでた同じくらいの実力の相手かもよ?」 「そうかもしれませんけど、勝っても負けても絡まれそうで嫌ですよ」 「虎魚有梨華か……」 顔を合わせるたびに真白と口喧嘩をしている相手だ。 「やりづらいだろうけど、ちゃんとやるんだぞ」 「わかってますけど……。あ〜、夏が佐藤院さんで秋がこれって、トーナメント運が悪すぎます!」 「………」 莉佳が棒立ちでトーナメント表をじっと見ていた。 「莉佳はどうだった?」 「私は真白ちゃんのすぐ横です」 「え? うわ〜! ほ、本当だ! 一回戦を勝ってもまた知り合いって!」 「一回戦を勝てるかどうかわかりませんから」 「勝てますよ! こんなのおかしすぎる! トーナメントの神様に嫌われてる!」 「むしろ、好かれてるとあたしは思うな。神様のおもちゃとして……」 「神様でもなんでも、おもちゃにはなりたくないです!」 「………」 少しみんなとの会話に参加した莉佳が、気づくとまた呆然としている。 「どうした?」 「私の名前の近く……さっちゃんの名前があります」 ──黒渕霞。 「……あるな」 「運命、でしょうか?」 よく当たる相手がいたり、まったく当たらない相手がいたり。トーナメントではなぜか、そういうことがよくある。 オカルトっぽい考え方かもしれないけど、運命みたいなものがあるとしか思えないことが、トーナメントでは起こるのだ。 ──これもそれの一種なのだと思う。 「運命かどうかはわからないけど、とりあえず事実ではあるな」 「……私、練習してきました。さっちゃんと戦う準備をしてきました」 「……うん」 「本当に試合をするんですね。なんだか不思議です」 黒渕の威圧感のある姿が脳裏をよぎる。 「試合……するんですね」 「黒渕が勝ち進めばな」 「きっと、さっちゃんは勝ちますよ。……勝ちます」 自分に言い聞かせるように莉佳はつぶやいた。 「私は……えーっと。知っている選手は……あっ。三回戦で乾さんと当たります」 「そっか……。まだ乾と試合はさせたくなかったんだけどな」 明日香が怪我をしたのもあって、乾対策はほとんど進んでいない。 「でも試合できるだけで勉強になりますから! ドキドキです」 「あたしの場合は〜、と。あたしは順調に行けば三回戦で我如古さんだー」 「我如古さんというとマグロのおねーさま?」 「だねー」 「久奈浜姉妹として、あっちの姉妹には負けられませんね!」 「あたし、真白と姉妹だったことないと思うんだけど?」 「思い出してください!」 「そんなこと言われてもなー」 「トーナメント表はスマホで撮影しておいたよ〜」 「よし。んじゃ、試合前のアップをするか」 「私は一度、高藤のところに戻りますので……。また来ます。みなさんがんばりましょう!」 「がんばりましょう!」 「はい」 「やっちゃうぞー」 みさきの気の抜けた声が響いた瞬間、最初の試合開始を知らせる花火が打ち上げられた。 ぽすん、と少し間抜けな音が響いて、白い煙。 会場の一部から歓声や拍手が起こって。 「大会が始まりますね」 「そうだな」 秋の大会が、いよいよ始まる。 夏の大会と変わらないざわついた空気の中で試合が進んでいく。試合は次々と消化され、全員の一回戦が終了した。 「真っ白ぉー!」 「…………」 「はっはー! あたしの勝ちだったねー!」 「あー、もー、うるさいなー。鬱陶しいなー!」 「ね? ね? 真白、質問があるんだけどいい?」 「……何よ」 「忘れちゃったんだけど、一回戦であたしに負けたのって誰だったっけ?」 「う〜〜〜〜〜〜っ! わたしだ! 負けを認めるからさっさと水産の方に戻るように!」 「いやだ!」 「な、なんでよ?」 「真白の悔しそうな顔を見て、本当に勝ったんだって実感したいから」 「ほ〜〜んとうに性格の悪いこと言うね!」 次の試合に疲れを引きずらないように、明日香をパートナーにクールダウンしていたみさきに話しかける。 「あいつらに静かにするように言わなくていいのか?」 「気になるなら晶也が言えば?」 「いや、俺よりもみさきが言ったほうが、丸く収まるんじゃないのか?」 「そんなことないって、あたしが言うほうが角立ちまくるよ」 ──まくる、ってことはないと思うんだが。 「でもあんな風に言われたら真白が傷つくんじゃないのか?」 「大丈夫、大丈夫。あんなのじゃれあってるだけだって。有梨華が真白に変に気を使うようになったら気持ち悪いし……」 「そういうものか?」 「みさきちゃんは二人を信用してるんですね〜」 「いや、信用って言われると違う気がするんだけどね。……っと莉佳ちゃんだ」 小走りで向かってきた莉佳が、みさきに軽く頭を下げて、 「一回戦突破おめでとうございます」 「莉佳ちゃんも」 「おめでとう。いい試合でした」 「ありがとうございます。……次は真白ちゃんと試合だと思っていたんですけど」 みさきと莉佳は一回戦を突破したのだが、真白は虎魚有梨華に負けてしまったのだ。 もし真白が勝っていたら、二回戦は二人の対戦になるはずだった。 もし、次の虎魚にも勝ったら──。三回戦の相手は黒渕になる可能性が高い。 「あの〜、あそこで真白ちゃんと話してるのって……。真白ちゃんに勝った水産の人ですよね」 「二人は昔からの友達らしくてな」 「……友達、なんですか?」 ああやって言い争いをしてるのを見たら、友達には見えないかもしれない。 「ああいうのが仲良しの証拠なんですよ、きっと」 「どうだかね〜」 「あの人が……私の次の相手ですか……」 「あ、莉佳さん!」 莉佳が来ていることに気づいた真白が、虎魚を指差して、 「ちょっとこいつに言ってやってください!」 「ん? 誰?」 「あんたの次の相手」 「え?」 有梨華は不躾にまじまじと莉佳を見つめる。 「よ、よろしくお願いします」 「ふ〜ん」 「莉佳さんは高藤の選手だけど、久奈浜でずっと練習してる強い選手なんだから!」 「へ〜、ということは真白の仲間ってことか! よーし! 滅茶苦茶にやっつけて勝っちゃうぞ! つか、真白の仲間なら弱いの決定だ」 「そんなことない! 莉佳さん、こいつに何か言ってください!」 「えー、えっと……。その……。何かってなんでしょう?」 助けを求めるようにみさきに振り返る。 「ん〜。『地獄の底へ落としてやるぜ、ベイビ〜』とか、そんな感じでいいんじゃないの?」 「そんな感じでいいですか?」 「カッコイイと思います!」 「……そうか?」 「えっと……。そ、それでは……。次の試合で地獄の底へ落としてやるぜ、ベイビ〜。ということで、お願いします」 「……そんなことお願いされても」 「お願いされたんだから受け入れなさいよ」 「地獄の底に落ちるのをか?」 「凄く似合ってると思う!」 「似合ってない! あ〜、もうなんだか気が抜けたな」 虎魚はビシッと莉佳を指差して、 「試合でボコボコにしてやるから、待ってろ!」 「あ、はい。楽しみに待ってます。いい試合をしましょう」 「う〜……。もういい! 行くから!」 「もう来なくていいから」 「勝ったら来る!」 虎魚はそう言い残して走っていく。 「上手にあしらったな」 「上手にできてましたか?」 「前の莉佳なら普通に怒ったりしていた場面かもな」 「そうですよね。前の私はなんでも真に受けてましたから……。挑発されるのが苦手で……」 「……久奈浜で練習させていただくようになって、少しずつ心に余裕ができてきた気がします」 「一緒に練習した成果が出てよかったです」 「でもそれってさ〜、練習って言うよりも〜、ウチの部員の性格が滅茶苦茶だから耐性ができただけかもよ」 「それはあるかもな」 「そんなことないです。えっと、その……んと……べっ、勉強になります」 「ぷっ、ぷ……ぷふっ」 「うふ、ぷっぷぷ……」 「あはっ、あはははは」 莉佳があまりにも困ったように言ったのがおかしくて、みんな笑ってしまった。 「わ、わたし変なこと言いました?」 「言ってないよ。……二回戦頑張ろうな」 「はい!」 莉佳は全身を使うようにして大きく頷いた。 「真白は虎魚とスピード対決をして負けたんだ。真白はまだファイターだった頃の癖が残ってるからな。そこで余計な動きが入ってしまったのが敗因だ」 中途半端なスタイルが中途半端に身についてしまった感じだ。 虎魚に付き合うなら付き合う。付き合わないなら付き合わない。そう決めて試合をすればよかったのかもしれない。 ──もう少しで真白は一皮向けそうなんだけどな。何かきっかけがあればいい選手になると思うんだけど……。 「私はどうしたらいいですか?」 「今日の莉佳はオールラウンダーよりのスピーダー設定だ」 ドッグファイトもある程度、想定した設定にしてある。 ──黒渕と当った時、もしもの時に咄嗟の行動ができるようにするためだ。 「スピード対決ができるとこはスピードで対決するけど、基本的には先手先手を取ってドックファイトに持ち込むんだ」 「はい」 「虎魚はスピードで勝負してくると思うから、うまく止めることができたら一方的な展開にできるかもだぞ」 「……でも逆を言えば私が一方的にやられることも?」 「それはない」 「そうなんですか?」 「グラシュの設定で虎魚より遅いだろうけど、莉佳もスピーダーだからな。ショートカットを混ぜて行けば、スピード対決で先頭を取られっぱなしにはならないよ」 莉佳と虎魚はスピーダー対決だけど、夏の大会の部長と乾みたいな展開にはならないはずだ。 「だからこの試合は莉佳がギリギリで勝つか、莉佳が圧勝するかだと思ってる」 「……頑張ります!」 「よし! それじゃ、行って来い」 「はい!」 試合はサードラインでの展開になっている。 「いいぞ! その調子で、虎魚の動きを止めることを考えてやるんだ!」 「わかりました!」 「ううっ! まだまだ! オネーサマのためにも私はこんなとこじゃ負けないんだから!」 今までの展開は、セカンドブイにタッチして虎魚が1点。 セカンドラインのドッグファイトで莉佳が2点。サードブイにタッチで虎魚が1点。 現在のサードラインで莉佳が2点を取って4対2。 なんとかスピードで振り切ってブイタッチを狙う虎魚と虎魚の頭を抑えようと動き回る莉佳、という展開になってる。 「くそ! スピーダーのくせにちょこまかちょこまか! スピード対決しろよぉ!」 「頑張ってみます!」 ……いいぞ。 虎魚の挑発も適当に流せている。 昔の莉佳ならどこかでカッとなっていたかもしれない。 チラリと横目で虎魚のセコンドを見る。 「…………」 どういった指示を出すか考えている様子だ。 ここが勝負か──。 虎魚が莉佳の動きに馴れてきている。ここで虎魚が莉佳を抜くことができたら、ブイタッチで得点を重ねられる可能性はある。 だったら、向こうのセコンドが決断する前に──。 「くっ……」 虎魚がスピードを上げるためにやや後退して、莉佳との距離を広げた瞬間、 「莉佳、ブイを狙え!」 「はい!」 「ええ?! ちょ、ちょっと!」 反応が遅れた虎魚を置き去りにして、 「えい!」 ブイタッチに成功した。 これで5対2。 ──これで試合は決まったな。 ペースを握ったし、重要な場所で先手を取れた。 「くっそー!」 「……っ!」 莉佳の表情。 油断しているわけでもないし、入れ込んでるわけでもない。真面目な顔だけど……。 あれは試合を楽しんでる顔だ。 「…………」 莉佳があの顔のままならもう大丈夫だな。 「……はぁ」 「う〜〜〜〜っ」 莉佳が安堵の息を漏らし、虎魚が悔しそうな息を歯の間から漏らして……。 俺の予想のまま試合は終了した。 ──8対3。莉佳の勝ち。 「お疲れ様」 「勝てました、うわ?」 「今度は負けないんだからな!」 いつの間にかすぐ後ろに虎魚が来ていた。 「今度は! 今度は! 次にやったら絶対に負けないぞ」 「は、はい。私も負けないように頑張ります」 「違う! 私が勝つんだ! うわ?」 虎魚が唐突に真横に飛んでいった。 「ええ?」 「まったく有梨華はいけない子ね」 「私の妹がご迷惑をおかけして申し訳ありません。罰を与えておきますから許してください」 「ば、罰? オネーサマ! それだけは許してください!」 「だーめ(ハート)」 「オネーサマのドSううぅぅぅぅ!」 「それでは失礼します……行くわよ、有梨華」 「は、はいぃぃぃ」 あっという間に我如古さんが虎魚を連れて行ってしまった。 「な、なんか凄かったですね」 「そうだな」 いろいろあるんだろうな、としか言いようがない。 「さて、いよいよ、次は──」 「さっちゃんですね」 「多分な……」 黒渕の試合は次の次だ。 いったいどういう試合をするつもりなんだ。 彼女にはああなる過去があったのだろう。昨日の莉佳との会話でその一端は見えたけど……それでも……。 マイナスの感情で人を引き付ける黒渕を思い出すと、喉が渇くような気がした。 「やっぱり黒渕が上がってきたな」 「……はい」 黒渕は失格になるような反則はしていない。 した反則といえば、一回戦のファーストラインで、相手に接触してしまって、反則を取られて対戦相手に1点が入ったくらいだ。 「今のところ目立った動きはありませんでしたけど……」 「何もしていないとは言い切れないな。特に浮き袋の動きが気になった」 不自然か? と問われると困る。だけど不自然じゃない、と断言されても困惑する。 その程度の頻度で、浮き袋が黒渕の有利な場所にあるのだ。 多分、黒渕は浮き袋をコントロールしている。 だけど黒渕が勝ち進んできた理由はそこじゃない。 独自の威圧感。独自の世界観と言ってしまってもいいかもしれない。 そういったものに対戦相手が呑まれてしまった結果だ。 ほとんど自滅するような形で対戦相手は負けていった。 「どうして大きな反則はしないのでしょうか……」 「莉佳と試合をするためかもな」 「私と試合をするため……」 「どうしても勝ちたい選手がいたとしたら、その選手に手の内を見せたくはないだろ?」 「見せたら勝つ可能性が減りますからね」 「それだけのことだよ。黒渕が特別なことをしているわけじゃない。みんなやっていることだ」 「…………。…………。……あはっ。はー、はーっ」 莉佳は少し笑ってから変な呼吸をした。 「どうした?」 「さっちゃんの作戦にはまっているとわかってはいるんですけど、少し──恐いです」 「それもふくめて黒渕だからな」 「恐さをふくめて──それを全部」 莉佳は少し下を見てから、 「さっちゃんの全部を楽しもうと思います」 「そう言えるなら大丈夫だよ」 「……そう、言いたいんですけど」 莉佳の身体が少し震えていた。 「莉佳……」 「ごめんなさい、すぐに止めますので」 言いつつも、やはり震えはすぐに止まらなかった。 ここは何か勇気の出ることを言ってあげないとな。 慎重に言葉を探そうとした、次の瞬間だった。 「何を情けないことを言っているのですか!」 いつの間にか佐藤院さんが側に立っていた。 「さ、佐藤院先輩?」 「い、いつからそこに?」 「いつからとかそういうのは本当にどうでもいいのです!」 「そして恐いとか恐くないとか、そういうのも全然関係ありませんわ!」 「か、関係ないんですか?」 「あるかもしれませんけど、ありませんわ」 佐藤院さんらしくない強引な言い回しだ。 「いいですか? わたくしは黒渕霞のことは好きではありません。ですからあなたにやっつけて欲しいのです」 「や、やっつける……」 「どうやってやっつけるのかにも注文がありますわ。本当なら黒渕霞を脳震盪にしてしまうのが一番なのですけど」 「そ、それは……」 過激なことを言い出した。 「ですけども、そのような復讐をわたくしが望むわけがありませんわ」 さっき一番って言ってたけど。いったい誰の一番だったんだろう? 「だったらどうすればいいんでしょうか?」 佐藤院さんはそこで息をついて、 「反則──いえこの場合はルールというべきですわね。ルールはなんのためにあると思うかしら?」 「ルール……ルールは、その競技を成立させるためにあるんですよね?」 サッカーで手を使ってもよければそれはサッカーじゃない。ボールを打った打者が好きな塁に走り出したら野球じゃない。 ルールが競技を作っている、という莉佳の意見は間違っていないと思う。 「それは結果論ですわ」 佐藤院さんは力強く言う。 「その競技を楽しくプレイするためにルールがあるのです!」 「……楽しくですか」 「反則になるものは、それがあると楽しくないから排除されるのですわ」 「……楽しくないから」 「黒渕霞にFCの楽しさを教えてきなさい」 「は、はい!」 「反則しない方が楽しいと思える黒渕霞にしてしまいなさい」 ……いやはや、参ったな。 佐藤院さんは俺が言おうとしたことを、余さず全部言ってしまった。 「わかりました!」 「いい顔ですわね……」 佐藤院さんはニヤッと不敵に笑い、 「上手くいったその暁には……そうですね」 バッ、と髪を風になびかせると、 「『院』の字をあなたに差し上げます。明日からは市ノ瀬院を名乗るのですわ!!!」 「市ノ瀬院?!」 「市ノ瀬院?!」 「市ノ瀬院?!」 「そしてわたくしはただの佐藤に……。致し方ありませんわね」 「受け渡すものなんですか……」 まるでチャンピオンベルトみたいだ。 「お似合いですわよ……市ノ瀬院。佐藤院ほどではありませんが」 「そ、それは遠慮しておきます」 「あら? 遠慮なさらなくてもよろしくてよ」 「佐藤院さんほど『院』を上手に扱えないと思いますので……」 「そう、残念ですわ。……試合、楽しみにしています。頑張りなさい」 「――全力で楽しんできてね、莉佳!」 「え?」 「どうかしたのかしら? そんな驚いた顔をして」 今、佐藤院さんは莉佳って、言ったよな。 「さ、最後のをもう一度、言ってくれませんか?」 佐藤院さんは鼻で軽く笑って、 「楽しんで戻ってきたら、また言って差し上げますわ」 「は……はいっ!」 「日向晶也、市ノ瀬さんのサポートをお願いいたしますわ」 「ええ、全力で」 「……頼みましたわよ」 佐藤院さんは力強く微笑んで、その場を離れていった。 後ろ姿が見えなくなるまでふたりで見送る。 「なんだか勇気が出ました」 「そうだな」 自分が楽しむためだけじゃなくて、黒渕に楽しさを教える。 そのくらいポジティブに行かないと、あの黒渕のネガティブな力には対抗できないかもしれない。 「私、がんばります」 「ああ」 ――さあ、いよいよだ。 莉佳と作戦の最終チェックをする。 「これ以上、言うことはないし、やるべきことはやってきた」 「はい」 「黒渕は自分の世界に莉佳を引きずり込もうとすると思う」 「私は私の世界に……ですね」 「そういうことだ」 ファーストブイを見上げる。 すでに黒渕が浮かんでいた。 「見てますね」 「そうだな」 「………」 黒渕がこちらを見下ろしている。 不気味な笑み。口端が普通の人の笑みよりも高くつり上がっている。 そして口元は笑っているのに、長い髪の間からのぞく目がまったく笑っていなかった。 獲物を前にした肉食獣なら、こういう目をするかもしれない。 だけど肉食獣のような純粋さに欠けている。もっと禍々しい何かだ。 山奥で人を食らう魔女。そういった存在を思い起こさせるような顔だ。 もし飲み込まれたら、少しでも黒渕に劣った部分があったら、圧倒的な実力差にされてしまうだろう。 もし黒渕より実力があったとしても飲み込まれたら、その差を埋められて逆転されてしまうだろう。 「………」 「練習で明日香が教えてくれたことと、さっきの佐藤院さんの言葉は覚えてるな」 「はい」 「莉佳ならそれができるはずだ。莉佳のFCを、俺達のFCを黒渕に見せ付けて来い!」 「はい!」 莉佳がファーストブイに向かって飛んでいった。 「よろしくお願いします」 「よろしくお願いしますね〜」 莉佳のマイク越しに二人の会話が聞こえる。 「えっと……あの……」 「なんでしょうか?」 「お名前はなんでしたか?」 基本に忠実というか、なんというか……。またベタにイラつかせることを言ってくるな。 「……市ノ瀬莉佳です。よろしくお願いします」 「あー、そうだった。うふっ。ふふふふ……。よく来れたね〜。これから……ひどいことされるのに……。うふっ、あははっ、あはははっ」 黒渕は笑いながら首を伸ばして、莉佳に顔を近づけ、囁くように言う。 「の、う、し、ん、と、う」 「余計な会話は慎むように」 「………」 がくん、と体を折るように腰をひねって、審判に振り返った。 「な、なにか?」 「な〜んでもありません」 再び、がくん、と腰をひねって莉佳に顔を寄せる。 「棄権してもいいんだよ? 恐いよね? 恐いよね? だったら逃げちゃえばいい。それ、名案。 にーげーちゃーえーばー?」 「恐いですけど楽しいです」 「そーんな強がり言うことにな〜んの意味があるのかな。怪我しちゃう前に逃げたら? 楽になるよ〜。楽になろう? ね?」 「私、この試合を楽しくしますから、さっちゃんも一緒に楽しく試合をしましょう!」 「さっちゃんって誰? 審判の名前?」 「……名前の話はいいです。楽しいFCをしましょう」 「うふふ〜。そうだね〜。ね〜。脳震盪を起こした瞬間ってさ。あはっ、あははは……。記憶が飛んじゃうくらい、楽しい、らしいよ」 「そうですか」 「余計な会話をしない! 試合を開始しますよ!」 黒渕は再び、がくん、と体を折り曲げるようにして審判を見て、 「いつでも、どーぞー」 「試合の前に彼女の浮き袋をチェックしてもらってもいいですか?」 「……っ!」 黒渕は無言で浮き袋を大きく振り回した。 それをすることによって浮き袋にしていた、特殊なボンドを利用した細工が消えるのだ。 黒渕は反則で失点するのを免れる代わりに、浮き袋を利用できなくなった、ということになる。 「あはっ」 黒渕はがくんと体を傾けて、血走った目で莉佳を睨め回す。 「……つまんないこと気にするんだね」 「楽しいことをするには準備が必要ですから。できれば右だけじゃなくて左の浮き袋もお願いします」 「フフッ」 口の裂けるような笑みを浮かべ、莉佳をにらみつけたまま左の浮き袋を振り回した。 莉佳はそれを確認してから審判に向かって、 「すみません、もう大丈夫です」 「は、はい。わかりました」 審判は明らかに戸惑いながら二人を交互に見て、意を決したように、 「セット!」 「………」 「………」 二人は同時にローヨーヨーで斜めに落ちるようにしてスタートした。 ──最初のスピード勝負で黒渕は仕掛けてくるか? グラシュはどちらもスピーダー用のものだ。 黒渕はインべイドのカドゥケウス。部長も愛用しているメーカーだ。 国内メーカーに比べると癖があるけど、馴れると力を発揮するタイプのグラシュだ。 莉佳はスモールグローブのメインクーン。癖がないのが特徴のメーカーだ。 莉佳のグラシュはオールラウンダー寄りのスピーダー設定だ。 ──前の二試合を見ると、黒渕も同じ設定だと思う。 スピードを中心に試合を組み立てたいけど、細かな動きもある程度したい、ということなのだろう。 セカンドブイが最初の勝負になるか。 「……っ」 「……っ」 今のところ速さはほぼ一緒だ。 だとすれば、ローヨーヨーで斜め下に向かった状態から、スムーズに上昇できるかどうかで、どちらがブイにタッチできるかが決まる、ということになる。 「くっ」 ん? 上りに転じる瞬間、海風に煽られたのか黒渕が微かに揺れた。 そのせいで黒渕が少しだけ後退する。莉佳が半身のリード。 本当のミスなのか? それとも誘いなのか? 「気をつけていけよ。どのタイミングで黒渕が仕掛けてくるかわからないからな」 「はい!」 反則技は瞬間で来るはずだ。俺が気づいたとしても指示が間に合わないことだってあるのだ。 「……っ」 半身のリードを保ったまま莉佳がブイに近づいていく。 「……っ」 この距離はよくないな。 黒渕が少し莉佳によって手を伸ばせば、届いてしまう距離だ。 ここがファーストラインじゃないなら、離れるように指示を出すけど……。 もし黒渕が反則の接触プレイをしかけてきたら、反則の1点が莉佳に入り、黒渕は強制的にセカンドラインへショートカット。 つまりブイタッチと合わせて2点が莉佳に入る。 ──反則で自分のペースに持っていくのが得意だとしても、最初から2点のハンデを背負うのには抵抗があるだろう。 そうだとしても仕掛けてくるのが黒渕なのか? 俺はじっと黒渕を見上げる。 「ブイにタッチします」 「うん。……え?」 「…………」 こっ、こいつ! 我慢できないとでもいうような笑みが黒渕の顔に広がっていた。 「あはっ」 黒渕が上半身を上げながら、スピードを落とす。 見ているだけで心臓が締め付けられる。 「ムササビだ!」 莉佳と交信する時に、名前がないとやり取りに不便だから、俺が勝手につけた技名だ。 両手両足を広げた状態でブイとの間に対戦相手を挟み込む、明日香にケガをさせた技。 「大丈夫です!」 莉佳は体を横に捻りながら、肩を入れるようにして、腕を思いっきり伸ばした。 普通に腕を伸ばすよりも肩の関節分、遠くまで伸ばすことができるけど、姿勢が崩れるので終了時間ギリギリの展開で、ブイタッチを狙う時以外にすることはない。 特にファーストラインでは、スピードを殺すことになるので絶対にやらない触り方だ。 「えい」 莉佳はブイにタッチした反動を利用しながら上半身を力一杯起こし、エビゾリに仰け反る。 「えっ?!」 黒渕の胸と莉佳の背中がぶつかる。 「……っ!」 「くぅ!」 反動で黒渕は後ろへ、莉佳はセカンドライン方向へ。 「まず1点です!」 「いいぞ、莉佳!」 ムササビを破るのはそう難しいことではない。 ムササビは、メンブレンに添って流れる衝撃を内側に封じ込める技だ。 そういった状態にするには、仕掛ける側とブイの間に、タイミングよく相手を挟まなくてはならないのだ。 ブイのタッチに集中している相手にならできるかもしれない。初見の相手ならさらにかけやすいだろう。 ──だけど俺も莉佳も黒渕が明日香にかけたとこを見ているのだ。 対策を考えていない訳がない。 こちらから黒渕にぶつかっていき、タイミングをずらす。それだけで、ムササビは回避できるのだ。 今のは莉佳からぶつかりにいったけど先にブイタッチをしているので、その時点でファーストラインは終了とみなされるため、反則にはならない。 「ぬぅぅぅううぅぅっ!」 黒く長い髪の向こうにある両目が大きく見開かれていた。 「くぅぅぅううぅぅっ!!」 ──え? 「黒渕はセカンドラインじゃなくて、サードラインにショートカットするぞ」 「サードライン。ということはそこでドッグファイトを挑んでくる……」 「だろうな」 セカンドラインでは追いつけない、追いつけたとしてもスピーダー同士だからドッグファイトにならずブイの奪い合いになる可能性が高い。 黒渕はそう判断したのだろう。 だからサードラインで待ち構えて、ドッグファイトに持ち込む。 ──どうしてそこまでドッグファイトにこだわるのか。 それはきっと、バチバチの展開になれば、高藤の三人を脳震盪にしたカニバサミを仕掛けるチャンスが生まれるからだ。 「2点目です」 「……っ!」 莉佳がタッチした瞬間、サードラインの黒渕が上昇した。 そして莉佳めがけてロケットのように突っ込んでくる。 相手を水面に押し付けるように突撃する強引な技。スイシーダだ。 「回避だ!」 「はい!」 黒渕に付き合う必要はない。 「絶対に逃がさない……。一緒に、絶対一緒に堕ちてもらうからぁ!」 逃げる莉佳を追尾するように黒渕は高速で落ちて来る。 うまい! こんな上手にスイシーダで方向を変えるなんて……。やっぱり黒渕は……。 前から薄々感じていたことが確信に変わっていく。 「逃げるのは無理だ! スピードを緩めて冷静に押さえ込め!」 「はい!」 斜め上から突撃した黒渕が莉佳に激しくぶつかる。莉佳のグラシュの反重力に押されて水が豪快に弾けた。 「くぅぅぅぅっ!」 歯を食いしばる音がヘッドセットから伝わってくる。 「莉佳!」 「大丈夫です! この展開は真白ちゃんと明日香さんと何度もやりました! 対応できます」 莉佳は水面を叩くようにして姿勢を素早く戻し、水面に沿うようにして飛ぶ。 「黒渕は右斜め上だぞ」 「はい!」 この場合、距離をとる為に黒渕と逆の方向に飛ぶのがセオリーだ。しかし、莉佳は下から黒渕めがけて動いた。 この試合はペースの奪い合いだ。距離をとる行為は黒渕を恐れるのと同じ意味になる。自分の時間を黒渕に譲ることになる。 だから──。 間を潰すようにどんどん行く。 「さっちゃんに恐くないって伝えます! 楽しいって伝えます!」 莉佳が頭から突っ込んでいく。 「フヒッ……自分から来るだなんてバカな子。……シャッ!」 黒渕が口端から擦過音を響かせて、莉佳に向かって飛んでいく。 「ッ!」 「ッ!」 ぶつかり合う音が響く。 莉佳が背中に回る動きを見せるのに対応して、黒渕が行く手を阻む形で再び激突。 そろそろ来るはずだ。 「………」 だけど、そのことを伝えたら、莉佳の邪魔になるかもしれない。 「……ッ」 それに伝える必要なんかないはずだ。莉佳は俺よりもそのことを肌で感じているはずだから。 「はっ!」 長い髪の向こうにある黒渕の見開かれた目が血走っている。まるで眼球から赤い光を放っているかのようだった。 来るぞ、来るぞ、来るぞ! 「………」 まるで体を預けようとするかのように、霞がふわりと自然に前に出た。 つい受け止めてしまいたくなるような動きだ。 「……っ?!」 「終わりだ!」 突然、莉佳の顔の両端で、二匹の長い蛇が疾走した。 黒渕の長い両腕が莉佳を挟むように伸びたのだ。 カニバサミ! 相手を失神に追い込む反則技。 「えい!」 「くっ!」 莉佳が素早く傾き、黒渕の右腕に自分から顔を当てた。 これでカニバサミは不成立になる。 「……っ!」 二人が同時にバランスを崩す。 「このッ!」 シャッ、と空気を切って黒渕の長い足が、バランスを崩した莉佳めがけて伸びた。 「無駄です!」 莉佳は腕を伸ばして、霞の右足に触れた。 「こ、この!」 黒渕が何度も伸ばしてくる両手両足を莉佳は次々と弾いていく。 「ですから、無駄です!」 カニバサミを破る方法は簡単なのだ。 同時に触れられてしまった状態だと、衝撃がメンブレンからなかなか出て行くことができずに、一点に集中する。 そうならないように、こちらから先に触れればいいだけのことだ。 両腕を同時に伸ばしてきたなら、右腕に先に触れる。それだけで通常通り、衝撃はメンブレンに添って逃げていく。 「くぅ!」 本当なら審判は黒渕の攻撃に反則を取るべきなのだが、あまりにも攻防として綺麗に成立してしまっているので、反則を取れずにいる。 「何度も言いますが、無駄です!」 もしかしたら、審判は黒渕が反則を狙っている、ということにさえ気づいていないのかもしれない。 「くぅぅううううぅぅっ! フヒッ、フフフッ……」 霞はゆっくりと後退していく。 「え?」 まるで負けを認めるかのように、フォースブイへの道を開ける。 ──何を考えてるんだ? 「………」 何も言わずにゆっくりと下がり続ける。 どうしてスピーダーが自分からブイへの道を開けるんだ? 試合を捨てたわけじゃないなら──。 「これって誘いですよね」 「そうだろうな。あまりに露骨だな。こっちからドッグファイトを仕掛けるか?」 「いえ……」 莉佳の声が少し弾んでいた。 「私、誘いに乗りたいんです」 「どうしてだ?」 「今、私はさっちゃんの全部を知りたいんです! どうしてこんなに反則にこだわるんだろう、って」 「そういうのを全部を見るのは私なんじゃないかって、そう思うんです」 「だって、さっちゃんのために練習してきたのって私だけだと思うから……」 「……そうだな」 全参加者の中で、これだけみっちりと黒渕対策をしたのは莉佳だけだろう。 「全部を見て、それで何かを理解してもらったり、納得してもらったり……。そういうことができるのって、私とだけだと思うんです。だったら私は……やりたいです」 「わかった。莉佳がそこまで言うんだったら、俺が反対する理由はない」 「……ありがとうございます、行きます!」 莉佳がフォースブイに向かって飛んでいく。 「……っ」 莉佳の後を黒渕が追っていく。 ──これはファーストの焼き直しか? もう一度、ムササビを試したいのか? カニバサミは何度も試してもダメだったけど、ムササビにはもう一度試す価値があると踏んだのか? 「…………」 ──納得したいからだろうか? 自分の得意技を完全に封じ込まれた時、本当にダメなのか確かめるため、ダメだと自分を納得させるために無駄だとわかっていても同じ技を出すことがある。 でも、黒渕はそういう感傷的なことをするタイプか? 「黒渕の全部を見るつもりなのはいいけど、油断だけはするなよ」 「絶対にしません! 今、私は肌がビリビリしてるんです」 「ビリビリ?」 「はい! 凄く集中できていて肌がビリビリして、空気の振動とかも感じられそうな気がします。振り向かなくてもさっちゃんがどこにいるかわかる気がします」 「そっか……。そういうことってあるんだ」 集中力を高めようと努力すればある程度までは誰だってできる。 だけど肌がビリビリするところまで持っていくのって、普通は無理だ。 それは高い集中力をずっと持続できている時の感覚。 場所、時間、対戦相手、状況……。いろいろなものが揃った時にだけ、そういった経験をすることがある。 「全身が敏感で、油断したくてもできません」 「わかった。それでも油断しないように気をつけるんだ」 「はい!」 莉佳がスピードを上げながらフォースブイに向かっていく。 少し遅れて黒渕が追う。 本当にムササビ狙いなのか? 「……っ」 莉佳がタッチしようとした瞬間、 「市ノ瀬さん、ちょっと待ってください」 可愛らしい声が聞こえた。 「油断、しませんよ」 「油断とかそういう話じゃなくて……」 明日香の時と同じだ。話しかけながら覆いかぶさるように接近して……。 「えい!」 莉佳はエビゾリに仰け反りながら、腰をひねって腕を伸ばし、黒渕を突き放そうとする。 「えっ?」 ぞっ、と冷たいものが背筋を走り抜けた。 「大好き、市ノ瀬さん」 シュッ、と黒渕の両腕が市ノ瀬の両耳の横に伸びた。 ムササビを囮にして、カニバサミ?! 反則技から反則技へのコンビネーション?! そんなこと考えていたのか! 「莉佳ッ!」 「……っ!」 黒渕に遅れて莉佳の右手が動いた瞬間、反動で二人の体が別々の方向へ弾けた。 「莉佳! 莉佳! 莉佳ッ! 大丈夫か! 意識はあるか?!」 「大丈夫です!」 莉佳の元気な声が響いてきた。 「とりあえずブイをタッチします」 莉佳がフォースブイにタッチして3対0。 「いったいどうしたんだ?」 「自分の耳を叩く勢いで、さっちゃんの手を叩いたんです。片方だけが速く私の顔に届けば、それでもカニバサミは成立しませんから」 黒渕の右手を外側から強引に叩いて、左手より先に莉佳の顔へ到達させたのか。 「危ないかわし方だな」 「……そうですか?」 集中力が高まっているから、危険な逃げ方だとしても自分が間違わなければ安全、という精神状態になっているのだろう。 試合が終わって少し経てば、自分のやっていたことの危うさに気づくパターンだ。 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 黒渕は脱力した状態で浮かんで、荒い息をしている。 「さっちゃん! このまま続けていても私からポイントは取れません!」 「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」 「……私と楽しい試合をしませんか?」 「……楽しい試合?」 「全力を出せる試合です! 反則って全力の邪魔になるから反則だと思うんです! だから、やりましょう! ちゃんとした試合!」 「……ふ、ふざけるな! いまさら……。私が! 私が! 私が!」 「………」 「どういう想いでラフプレイを手に入れたと思っているんだ! 普通じゃ勝てないから! 普通にやったんじゃ市ノ瀬莉佳に勝てないから!」 「嬉しいです!」 「……ッ! どういう意味だ!」 「さっちゃんにそんなに強く思ってもらっていたのは嬉しい。だけど、違う。最初は勝つとか負けるとかじゃなかったはず」 「楽しいから! 楽しい試合をしたいからじゃなかったんですか!」 「そんな綺麗ごと! 私は、勝つためにラフプレイをするんだ!」 スイシーダ気味に頭から黒渕が突っ込んでくる。 「さっちゃん!」 「ふざけるなッ!」 「えっ?!」 黒渕は直前で強引に上体を戻して急ブレーキをかけ、腰を中心に頭を後ろに、引いた。 「気をつけろ!」 腰を中心にして、頭を後ろに引けば足が前に出てくる。 「ヒハッ!」 長い足が左右から莉佳を挟むように迫る! 「無駄です!」 莉佳は両手で黒渕の右足を叩くように触れた。 「くっ」 「ンッ!」 反動で二人が離れる。 「私はこれをさっちゃんに言うために練習してたんです。わからせるために練習してたんです」 「……え?」 「一緒に……一緒に全力で飛びましょう!」 「だ、だから! ふざけるなよ!」 「ふざけてません! やらないと私……怒ります!」 「え?」 「怒ります!!!」 「私が全力じゃないって言うつもりか!」 「こういう全力は違います! 違うんです! さっちゃんのわからず屋!」 今まで試合でいろんな敵意を見せられて、それをコントロールして黒渕は勝ってきたのだろう。 だけど、今の莉佳の怒りは黒渕にコントロールできない怒りだ。今まで自分にぶつけられてきた怒りとは別種の怒り。それがわかったのだろう。 「…………」 黒渕がうろたえている。 「一緒にFCの試合をしましょう! 時間がもったいないです!」 「……こ、これがわたしのFCだ!」 「だったらもうそれでもいいです。とにかく試合をしましょう!! 私、すごく練習してきたんです! さっちゃんと飛ぶためにです!」 「わたしと……飛ぶために」 一瞬、黒渕の表情が引きつった。 怒りでもなく嘲りでもなく。言うなれば大きな戸惑いによって。 しかし。 「くっ……くくくくっ……!!」 無理矢理と言った様子で黒渕は恐い笑みを作った。 「後悔……させてやるっ!」 「させてください」 脱力していた霞の全身に力が入っていく。 「私は! 私だってできるんだ!」 「やってください!」 「莉佳。何かしてくるかもしれないから気をつけろ。黒渕は明日香と同じタイプだ」 「メンブレンの動きを感覚的に察知できるんだ。そうじゃないとカニバサミで三人連続で脳震盪を起こさせたりはできない」 エアキックターンやコブラは自分のメンブレンの力の向きをコントロールする技だ。 黒渕は自分だけでなく、他人のメンブレンの力の向きをある程度は察知できるのだろう。 「大丈夫です。今の私は何をされても怖くないです」 「うっ、うわあぁあああ、あっ、あっ、ああぁぁぁ!」 黒渕が声を上げて莉佳に向かって飛んできた。 「さっちゃんがどんな選手だろうと、私は試合をします!」 「うあっ、あ! あ! あ! あぁぁあぁ!」 向かってくる黒渕を莉佳がドッグファイトで迎え撃つ構えだ。 「え?」 「くっ!」 黒渕が莉佳の目の前で、物理法則を無視するような動きで、真横に移動した。 やはりエアキックターンまで使えるのか。 「……っ!」 背中に回ろうとする黒渕から莉佳が上昇しながら巧みに逃げた。 「その動きは明日香さんとの練習で知ってます! 私は、もっと、できますから!」 スピードを生かした空中一回転で黒渕の背中に付こうとする。 「……く!」 黒渕が必死に逃げる。 「さっちゃんそんな凄い飛び方できるのにどうして?!」 「こんなのじゃ、こんな綺麗な技じゃ、絶対に届かない! 絶対に!! 人がしてないことしないと、……届かない! ラフじゃないと、ラフじゃないと……」 「きゃ!」 今の! 黒渕の両手のスピードが速く正確に予想外の場所から来た。 もしかして軽く脳震盪を起こしたんじゃ?! 「莉佳!」 「大丈夫です、かすっただけです!」 「かすっただけでも大変だって!」 「大丈夫です! もう少しなんです! 試合続けさせてください!」 ──もう俺が口出しできることじゃないか。 誰が何と言おうと、莉佳は黒渕に伝えるつもりなのだ。 「ラフじゃないと、ラフじゃないと……届かないんだ!」 「これは私だけじゃなくて、誰にだって届くと思う!」 「わたしは! わたしは! わたしは!」 何か言いたいのにそれを言葉にできないもどかしさが伝わる、悲痛な声が響いた。 「今は言葉じゃなくて試合をしようよ!」 「…………」 「答えはきっとそこにあるから! 今がさっちゃんのFCなら、それでもいいよ。でも、反則なんかでこの楽しい試合を終わらせたくないでしょ!」 「こんなに楽しくなってきたのに! それなのに終わりってもったいないよ!」 「うっ、あっ、はー、はー。うぅうぅぅうぅぅぅうぅぅ!」 頭から突っ込んでくる黒渕を莉佳が綺麗にかわす。 「わたひは、はーはーはー。ンンンンッ! わたしは、わたしは、楽しい……試合を、したい!」 「うん!」 そして試合はなおも続く。 「いくよっ!」 黒渕が奇をてらうことなく、真正面から突撃する。 「いいよっ!」 莉佳が息を吐くとともに、その突きをかわすと、 「そこ、ガラ空きだよっ!」 ターンで折り返した黒渕が、莉佳の背中を狙う。 「そうはいかないっ!」 今度は莉佳がかわすと同時に身体を折り曲げ、通り過ぎた黒渕の背後を狙う。 「はあっ、はあっ、はあっ……!」 黒渕は呼吸も荒く、疲れからなのか飛び方もフラフラだった。 「さっちゃん!」 「ね、楽しいでしょ? 楽しいって、すごいでしょ……!」 「…………っ」 黒渕は一瞬逡巡した後で、真っ直ぐに莉佳を見つめると、 「そうだね、楽しい……すごく、楽しい……!」 「……うんっ!」 二人してうなずき合った後は。 「よし、じゃあまたこっちから行くよ!」 「いいよ、いつでもっ!」 ジュニアの戦いを見るかのような、飛ぶのが楽しくて仕方ない二人による、無邪気さのぶつかり合いが続いたのだった。 時間にすれば、2分そこそこだったのかもしれない。 でもその時間は、きっとふたりには濃密で長く感じたに違いなかった。 ――6対0。市ノ瀬莉佳の勝利。それがこの試合の結果だった。 端から見れば単なるワンサイドゲーム。でもそこで繰り広げられていたのは……。 間違いなく、死闘だった。 互いの一番大切にしているもの同士の戦いだった。 「………………」 茫然自失としている黒渕。 その前へと、莉佳が近づく。 「……楽しい試合でした」 声をかけると、 「やっぱり強いね……りっちゃん」 そう、一言だけ黒渕は答えて。 「えっ……あの……?」 そのまま海岸の方へと降りていった。 「莉佳、やったな」 「はい、あの……晶也さん」 「なんだ?」 「さっちゃんが今、私のことを『りっちゃん』って。昔の呼び方で……」 「……そっか」 「私の気持ち……さっちゃんに、少しは届いたでしょうか」 「莉佳の熱意は絶対に伝わったと思う。そうじゃなければ、あんな戦いにはならないよ」 終盤の技の応酬は、真っ当な試合においてもなかなか観ることのできない名勝負だった。 あの時に黒渕が反則を捨てる決心をして、その上で莉佳に向かい合ったのならば……。 『市ノ瀬莉佳』が『りっちゃん』に変わったのも、偶然や聞き違いではなかったはずだ。 「……さ、次の試合の準備をするぞ」 「はいっ……!」 答えて、莉佳は俺の後をついてゆっくりと下降する。 しかしその視線は相変わらず、去っていった黒渕の方を見つめていた……。 「いや〜、終わった終わった」 「なんだかあっという間でしたね」 秋の大会が終わりを告げた。 表彰式もすべて終了し、それぞれの学校も撤収準備を始めている。 「みんなお疲れ、よく頑張ったね〜」 窓果がねぎらいの言葉をかける。 「でもまあ、目標はクリアしてよかったよね〜」 「んだんだ」 「おめでとうって感じですよね〜」 そんな空気の中、 「よくないですっ!」 ちょっとだけプリプリしながら、怒る女子がひとり。 「まーだ明日香怒ってるの?」 「だって……だって、負けちゃったじゃないですか……」 「これでまた次の大会までおあずけです……」 「明日香は真面目だにゃ〜」 「まだ試合が終わってそんなに時間も経ってないのに、すごいやる気ですね……」 呆れ半分のふたりに対して、明日香はやはり何かに怒っている。 きっとそれは自分への不甲斐なさからなのだろうけど。 秋の大会、久奈浜学院FC部は、みさきと明日香のふたりが3回戦まで進出した。 どちらかが勝てば目標達成というところだったが、みさきは我如古さんに、明日香は乾沙希に敗れた。 結果、ふたりともベスト8に止まり、残念な結果に終わったのだった。 「明日香ちゃんの気持ちもよ〜〜〜〜〜〜くわかるけど、一応、合同目標は達成したじゃない」 「そーですよ、莉佳さん頑張りましたよ?」 「う〜〜〜〜っ、でも、でもでもっ」 明日香は『うあ〜』という表情で天を仰ぐと、 「やっぱり! 勝って色んな人と戦いたかったです!」 ……明日香はすごいな、本当に。 勝つことの達成感より何よりも、次へ次へという好奇心と行動力がずば抜けている。 (最初から最後までつきっきりでコーチしたら、この子はどこへ行くんだろうな) タラレバは禁句だけれど、ついそんな妄想もしてしまう。 次の夏、明日香がどう戦うかが本当に楽しみだ。 「みなさん、お疲れ様でした!」 「お疲れ様ですわ」 俺が妄想に浸り始めた時、高藤のふたりも後片付けを終えてやってきた。 「お、来た来た」 「おつかれ〜」 「おつかれさまですっ」 俺は莉佳の元に歩み寄ると、 「お疲れ、莉佳」 「はい……お疲れ様でした」 にっこりと笑いかけて、手を差し出す。 「ベスト4、おめでとう」 「……ありがとうございます」 莉佳も手を握り返し、微笑んだ。 急遽だった『合同目標』は、唯一莉佳ひとりがそれを成し遂げる結果となった。 それは俺たちにとっても大きな励みとなったし、真藤さん引退後の高藤にとっても、名門ここにありと主張することのできる結果だった。 「本当に市ノ瀬さんはよくやりましたわ。これでわたくしたちも胸を張って帰ることができます」 「佐藤院さんも惜しかったですね、2回戦」 「まったく、わたくしとしたことが油断しましたわ。あんなおかしな覆面の選手に負けるだなんて」 「ああ……あの覆面、佐藤院さんに勝ったんだ」 「意外に強かったんですね……」 「とにかく!」 佐藤院さんは自分の結果のことを聞かれるのが嫌なのか、ダン! と足を踏み鳴らすと、 「日向晶也、あなたには礼を言わなくてはなりませんね」 「言われる理由はなんとなくわかりますけど、礼には及びませんよ」 莉佳は自分で判断し、自分で頑張っただけだ。 コーチがどうしたこうしたという話とは、ほとんどと言っていいほど関係はない。 「いえ、それでは気が収まりませんわ」 「ここはひとつ、日向晶也にこそ『院』の字を継いでいただき」 「ほらきた! だから『院』の字は佐藤院さんが持ってるべきなんですってば」 「日向院……、回向院のようで実に美しいですわ」 「確かにハマってる感じあるね〜」 「これは新しい『院』の予感が……」 「何が予感だ。ちょっとほら、莉佳からも……」 言ってやってくれ、という言葉を飲み込んでしまう。 「………………」 なぜか言葉をなくしてしまっていたからだ。 「……莉佳?」 莉佳の顔が急に緊張の色を帯びた。 「えっ……?」 そして俺も気配を感じ、後ろを振り返った。 「………………」 「黒渕霞……」 「うひっ……!」 「えっ、また!」 「ひぃぃ〜っ!」 皆の口から一斉に、驚きと恐れの声が上がる。 無理もない。このひとりの選手の存在のために、俺たちはとても大きな混乱をすることになったのだから。 「何をしに来たんだ……?」 彼女たちの前に立って、応対をする。 何を言い出すのか知らないが、事と次第によっては大会本部に通報もやむなしだ。 「あの、晶也さん」 「ん?」 「さっちゃんの雰囲気が……」 「雰囲気……? あっ」 言われて改めて見ると。 あのいつもの禍々しいと言っても過言じゃないオーラが完全に消えてしまっていた。 それに考えてみれば、気勢を削いだ上に悪しきものを植え付けていたあの言葉の波もなくて、 以前の黒渕を妖しげな黒猫だとすると、今目の前にいる黒渕は捨てられた子猫のようだった。 「あの……?」 どういうつもりなのか、今度は少しばかり柔らかく聞こうとすると……。 「あ……あの。あのっ……!」 「ごっ、ごめんなさいっ……!」 「…………え?」 その子猫の口から出てきたのは、ただひたすらに行為を謝罪する言葉だった。 「み、みなさんにひどいことを言ったり、ケガさせてしまって……」 「本当に……すみませんでした……」 「ちゃんと謝らなきゃっ……、今この場で謝らなきゃって思って、いてもたってもいられなくって……」 「ほっ、ほんとうに……あの……っ」 ……いや、その……。 これが本当にあの黒渕霞だろうか。 あの嘘の謝罪を飄々と口にしていたずる賢さはどこにもなく、謝罪の言葉もおぼつかない不器用な姿をただ晒している。 それともまさか、この姿までもフェイクだというのだろうか。 ……いや、確かに莉佳との戦いの終盤、彼女は何かを訴えかけようとしていた。 とすれば、今のこの姿こそが、黒渕霞にとっての偽らざる本心ということになるのだけど。 「……そんなこと、今更言われてもなあ」 ちょっと怒ったような声で、みさきが言う。 「高藤の人にも、明日香先輩にも、あんな酷いことしたんですからね」 今度は真白だ。ふたりともいつもは見せない怒りの表情を浮かべている。 ……そう、そんなに簡単に許せるはずがないのだ。 秋の大会、なんとか出場はできたものの、期待の選手だった明日香は練習不足に陥り、他の選手たちも思うように結果が伸びなかった。 そして何よりも一番、被害を受けることになったのは……。 「……許しませんわ」 「佐藤院先輩……」 佐藤院さん率いる高藤のみんなであり、そしてその本人だった。 「……はい、わかっています。許して貰えると思ってはいません」 神妙な顔で更に詫びる黒渕。 そんな彼女に対し、佐藤院さんは……。 「何を勘違いしているのです?」 「えっ……?」 「誰がこのまま謝罪して逃げてもいいなんて言いましたか?」 「え、いや、あの……」 「古来より伝わる日本の伝統芸をご存じないですか? 『目には目を歯には歯を』」 いやそれ日本の言葉じゃないから。 ツッコミなど不要とでも言うように、佐藤院さんは……。 「だからこれをあなたに突きつけますわ!」 胸元から何か紙の束を取り出した。 そしてそれをバーンと広げて、黒渕の前に掲げる。 「果たし状ですわ、黒渕霞!」 「うそっ!」 「は、果たしっ?」 「ジョー、ですって?!」 「っ!!」 当然のことというか、その場にいるほぼ全員がとっても驚いて声を上げる。 「あっ……!!」 約一名、同じようなことをやらかした女子だけがわくわくした目でその様子を見つめている。 君もちょっとどうかと思うぞ。 「……あの、もう試合は……その」 「どうしたのです? 以前はあれほどしたがっていたじゃないですか。練習試合をしようと言っているのですよ?」 「え、でも、わたしは……」 「……見ていましたよ、莉佳との試合」 「…………っ」 「佐藤院……先輩」 「途中、戦法を変えたあとの技の数々……。なかなかに魅了されましたわ」 「そんな……わたしなんて」 「……どうしてそんなに卑下するのです?」 「えっ……?」 「折角素晴らしいものをお持ちなのに、どうしてそんなに自分の中へ押し込めようとするのですか」 「…………っ」 ……この言葉。 黒渕に言いながら、実は、莉佳に……。 「自分の価値を自分で決めつけるだなんて、そんなのはただの奢りです」 「いえ……別にわたしは……っ」 「ならば、人の評価を少しはまともにお聞きなさいな」 「…………っ」 「小さい池に留まっていれば楽でいいでしょう。でもそこには大きくなるためのえさ場はありませんわ」 「鮭になるためには大きな海に出て、ヒグマの腕に怯え、それでも子を残し生き残って……」 「……我ながら何を言っているのかわからなくなってきましたが、とにかく!!」 もう一度、果たし状を眼前に突きつけると、 「あなたと戦いたいと思ったのです! だからおとなしく試合をしなさいなっ!」 「わ、わかりました……やります、試合、しますっ……」 黒渕は何かに怯えるようにというか迫力に押され、こくんこくんとうなずき勝負を受けたのだった。 「黒渕さんっ!」 「は、はいぃっ……!」 明日香も同じように、胸元から紙の束を取り出した。 「わたしからも果たし状ですっ!!」 「………………持ってきてたの?」 莉佳に渡したのとまったく同じものだった。 「ふぁっ……! は、はいっ……!!」 「やりますよね? 試合、しますよねっ!?」 「も、もちろんです、いたしますっ……!」 ……なんだか、どこから突っ込めばいいのかわからないぐらいに妙な状況になっている。 ともあれ確かなのは、黒渕に特に酷い目に遭わされたふたりが、彼女を許したということだった。 「やれやれ、ケガしたふたりが許すんだったら、あたしがこれ以上怒ることもないよね〜」 「ですね、わたしも怒るのはこれで終わりにします」 特に怒っていたふたりについても、あっさりと矛を収めたのだった。 「……すみません、ごめんなさいっ……」 黒渕は許されたにもかかわらず、相変わらず俺たちに向けて頭を下げ続けている。 カオスとしか言いようのない状況の中で、その前にひとつの人影が近づいた。 「莉佳……」 「…………」 莉佳だった。 頭を下げたままの黒渕の前で、彼女は何かを言おうとしていた。 「ごめんなさ……い……?」 顔を上げる黒渕。 莉佳はその顔を見て、優しく微笑んだ。 「……私とも、また試合してくれるかな?」 「……でも」 「これでおしまいだなんて思ってないよ」 「わたしなんかと……そんな」 「……私ね。ずっと試合をしたかった人がいるんだ」 「え……?」 「私にFCを初めて教えてくれた子で、仲良しだった」 「……あっ」 「でもそれから引っ越しで疎遠になっちゃって。『いつかFCの大会で会って試合しよう』って約束だけ、ずっと覚えてた」 「私はこの約束を今も大切にしてる。……いつか叶えられるって」 「そのことを、りっちゃんはずっと覚えてたの?」 「はい、ずーっと。……変だよね」 「え……、変じゃない。全然、変じゃない」 「……えっ?」 「約束、絶対に叶うよ。叶えるために頑張ります」 「だから……よろしくお願いします」 「……ふふっ、よろしくね」 莉佳は微笑むと、 「さっちゃん、ちょっと顔を見せてくれないかな?」 「え、うん……」 黒渕が顔を上げて、しっかりと莉佳に見せる。 「…………」 「……やっぱり、さっちゃんはかわいいよ」 「…………」 「……ありがと、りっちゃん」 「うん」 黒渕はそれからまた何度も頭を下げに下げると、そのまま人混みの中へと消えていった。 でもその足取りは決しておぼつかないものじゃなく。 何かを掴んだような、しっかりしたものに見えた。 「明日香さん、佐藤院先輩、さっちゃんを許して下さってありがとうございます」 莉佳は俺たちの方を向き、そう言って頭を下げた。 「よかったですね、きちんとお話しすることができて」 明日香は笑顔でそれに答えた。 「……ええ、ほんとに」 「……市ノ瀬さん……莉佳」 一方、佐藤院さんは真剣な表情を見せる。 「は、はいっ」 緊張して直立不動になる莉佳に、 「……これで、強力なライバルがひとり、生まれましたわね」 フッと笑みをこぼして、そう言ったのだった。 「……っ」 「はいっ、そうですね……!」 莉佳は嬉しそうに答える。 「ではみなさん、そろそろ帰りましょうか。色々あって、お腹も空きましたわ」 「佐藤院さんいいこと言った! もうあたしさっきから倒れそうで、もう……」 「先輩倒れちゃダメです、わたしが食べちゃいますよ!」 「そこはちゃんと面倒を見てあげなよ」 「はいっ! わたしもお腹空きました!」 「んじゃ、みんなで軽く打ち上げというか反省会でもするか、メシ食いながら」 「はーい! メシ大賛成、反省大はんたーい!」 「おなじくーっ!」 ……こういう時はほんと元気だな、こいつらはもう。 何が食べたいトークに移った女子連中は放っておいて、その輪をニコニコしながら見つめる莉佳へ近づく。 「莉佳」 「晶也さん……」 「お疲れ様、莉佳」 「……はいっ」 うなずいた莉佳の表情には。 何かを乗り越えた強さが、確かに存在していた。 高藤と久奈浜にとっての大会がすべて終わった。 結果的にはそこまで良い物ではなかったけど、残ったものはとても多い大会になった。 「はあ……やっと終わったんだなあ」 「ですね……」 試合が終わって数時間後。 どうしても眠れないという莉佳にせがまれて、俺はいつもの夜間飛行に付き合っていた。 他愛ない話からちょっと真面目な話まで。 莉佳の話題はつきなくて、俺もまたそれに答えるのが楽しくて。 気がつけば真夜中まで夜空の中で話し込んでいた。 「……晶也さん」 会話がちょっと途切れたのを見計らって。 莉佳が真面目なトーンで俺の名前を呼んだ。 「……ん?」 莉佳の顔がこちらを向く。 とても穏やかで、ホッとした表情。 「改めて思ったんですけど」 「楽しいって、すごいことなんですね」 「……そうだろ?」 楽しくあれ。葵さんに言われ続けた言葉だ。 一度は背を向けて、見ないふりをしていた言葉だった。 なのに結局、俺はこの言葉へと戻ってきた。 すべてはそこに集約されるよう、最初から決まっていたかのように。 「あのさっちゃんでさえも変えてしまうなんて、本当にすごいことです」 「すべてを逆転できる、魔法の言葉なんですね」 確かに、楽しいというのは強い言葉だ。 これが使えればどこへだって行けるし、誰とでも打ち解け合える。 でも、使う人間がどん底にいる時には、この言葉は自らを傷つける凶器にもなる。 そこに至るまでの道を示して、丁寧にしっかりと手を引かなければいけない。 誰彼構わず使える言葉ではないのだ。 「晶也さんが私を助けてくれたみたいに、さっちゃんも少しは助けになったでしょうか」 「きっとなってると思うよ」 「だと、いいんですけど」 莉佳が笑う。 その笑顔には、もう作られた跡はない。 何も介在しない莉佳の笑顔だ。 「大丈夫だよ、莉佳なら」 「晶也さん……」 「今の莉佳は自分の力で人を助けられる。俺が誰よりもそう思ってるよ」 「……ありがとうございます」 莉佳は答えると、 「そのままにしててくださいね」 「ん? ……ああ、わかった」 笑って、莉佳の方へ身体を向けた。 莉佳は俺の空いた方の手も握ると、そのまま手を伸ばして身体を後ろに倒した。 「えへへっ……」 そして嬉しそうに微笑む。 色々と悩んでいたことから解放されて、とても素直な笑顔に見えた。 「なんか、ダンスでもしてる気分だ」 「してみます?……やり方わからないですけど」 「俺も……とりあえず回ってみるか」 「ですねっ」 二人で精一杯に腕を伸ばし、遠心力で回ってみる。 遠くに見える星々がプラネタリウムの映像みたいで、すごくきれいに映った。 「きれい……」 「ああ……」 ぐるぐると回る中、時折莉佳の身体が俺に重なって唇が触れる。 もう何度も交わしたキス。 でもまったく飽きるような様子もなく、いつも新鮮な気持ちで重ねられる。 「これからも……ずっと大好きです、晶也さん」 それはきっと、莉佳が今をちゃんと見ているから。 過去を持ちながらも、引きずられずに今を生きているから。 莉佳といると俺の過去も次第に溶けていくように思えてくる。 否定じゃなく、受け入れることで得られるものがあると、俺は莉佳を見て教わった気がする。 まだそれははっきりと形にはなっていないけど。 ……一緒にいるうちに、見えてくるんじゃないかって思う。 「ああ、俺も大好きだ」 満天の星空の中に俺たちのシルエットが浮かぶ。 それはずっと離れることなく、いつまでもひとつのままだった。 「ふひ〜、コーチー、終わりましたぁ〜」 「よし、じゃあ今やったこと3セットな」 「げ! それマジで言ってんすか!」 「1セット終わるだけでも大変だったのに、それを3セットだなんて……」 「本気だっての。現に明日香はちゃんとやってるぞ?」 「何か言いましたか〜?」 空の上をビュンビュン飛び回る明日香が、ヘッドセット越しに反応してくる。 「いいから、明日香はそのまま5セットな?」 「はーいっ! がんばりまーす!」 「……あの体力魔神め」 「明日香先輩は底なし沼です。わたしみたいな水たまりと一緒にしないでください」 「じゃあ頑張って穴を掘って池にするんだな」 「無理ですってばー! その前に日が暮れちゃいますよ」 「3セットもやったらサンセットしちゃうってね〜」 「みさき元気だなーもう1セット追加するか?」 「あ、うそ、今のうそ、サンセット無しで」 「……みさき先輩がよけいなこと言った〜」 「いや、あたしが何も言わなくてもこの男は1セットプラスしたと思うよ。そういう鬼なのじゃこいつは」 「なんとでも言え。だって上手くなりたいんだろ?」 「そりゃあ……まあ」 「今度こそオコゲの奴をギッタンギッタンに」 「なら頑張れ、ほれ3セットでサンセットまでやれ」 「おにーっ! あくまーっ! うどんよこせー!!」 「みさき先輩との愛の日々を返してくださーい! これじゃ囚人みたいですー!」 ぎゃーぎゃー騒ぎ立てる部員どもを放置し、海岸で寝そべってる窓果のところへ行く。 「ほれ、起きろ窓果」 だらしなく放り出している腹の部分を軽く踏む。 「んぎゅっ?!」 「ふあっ、なんだ日向くんか、びっくりした〜」 「よく寝てたな、窓果」 「なんか唐突にゾウに踏まれる夢で目が覚めたよ〜」 器用な身体をしてるもんだ、しかし。 「そんなことより、そろそろ電話しなきゃいけない時間だろ?」 今日は高藤との合同練習の日だった。 副部長の莉佳に連絡しなきゃいけないのだけど、窓果が寝てたので遅れてしまったのだ。 「あ、そーだね。んふふ、奥さんへのコールが」 「もっかい踏むぞ」 「あーっ、やっぱさっきわたしのこと踏んだんじゃない、そーいうの全部報告してやるから奥さんに!」 「るっせ、ばかもん」 「んぎょぉ……っ」 カエルみたいな声を上げて、窓果は絶命した。 構うことなく、電話をかける。 「……もしもし?」 「はい、うん、もうそろそろ向かうところです」 「こっち? うん、もう部長も準備できたって。それじゃあとはそっち行ってからにします」 「……え? ふふっ、大好きですよ。それじゃ」 「えへへ……」 「……こんなに見事なノロケを見せつけられるとは思いもよりませんでしたわ」 「わわっ、部長!! い、いつからそこにっ?!」 「さっきからいましたわ。準備が終わったから行きましょうって、莉佳が言ったんじゃないの」 「……すみません、では気を取り直して行きましょうか!」 「あ、こらっ! 待ちなさいもうっ……」 「…………もう、悪い影響を受けましたわね、本当に」 「……じゃ、来週からはこの方針でいこうね」 「やっとあのラフプレイから解放されるのかー。ブッチも損な役回りだったよね」 「伝統か何か知らないけど、あんなブラックなプレイを強要するなんて、あれでよその学校からも嫌われちゃってたし」 「でも、いきなり顧問の先生が替わったりしてびっくりしたよねー」 「先月、久奈浜の先生が来てたみたいだし相当怒られたのかも」 「とにかく、もうそういうのもなくなったから、普通に楽しくプレイしよう」 「すごいね、楽しくプレイしようとかどれぐらいぶりに聞いた言葉かな」 「うちでは禁句だったもんね。楽しんで飛ぶな! とか言われててさ」 「ブッチも染まっちゃって、恐くて私たちも近寄れなかったんだよね。でも元に戻ってくれて良かった」 「……ま、今回のことで先輩がごっそりいなくなったから、あたしたち3人だけの部活になっちゃったけどさ」 「うん……でも、これでよかったんだと思う」 「だねー」 「がんばってね、新部長さん」 「……ありがと」 「で、みんなとの連携を深めるためにも、これからはニックネームで呼び合おうと思います」 「というわけでよろしくね、むっちゃんとみっちゃん」 「おー、いいねいいねそーゆーの」 「んじゃがんばろーね、さっちゃん」 「なっ、ちょっと、なによさっちゃんって……」 「えー、だって霞でかっちゃんだと男の子みたいだから、だったらあ・か・さ・た・な、の次の順でさっちゃんでいいんじゃねって」 「黒渕でブッチってのも、なんか最近名字が変わったばかりで馴染みないって言ってたじゃない」 「あ…………」 「……ふふっ、いいよ。じゃあさっちゃんで」 「おっし、んじゃ新生堂ヶ浦のスタートってことで!」 「がんばっていこーっ!」 「うんっ……!!」 すっかり定例になった、高藤との合同練習が始まった。 莉佳は率先してみんなの練習を見て回り、そして自分でも進んで新しい内容を取り入れていく。 真面目一辺倒だった頃でもなく、明日香を模倣していた頃でもなく。 彼女なりのペースとやる気をもって、FCに取り組んでいるのがとてもわかる光景だった。 「晶也さん、準備できました!」 実戦練習の配置が終わり、莉佳が報告に来た。 「よし、じゃあそのまま3セット行くぞ」 「わかりましたっ」 「莉佳ちゃん、相手をお願いできますか?」 「もちろんですっ」 晴れ渡った空の下で、みんなの声が響いている。 飛び抜けて元気というわけではないけれど、莉佳の声にはもう無理をしている様子はない。 俺はそんな彼女に精一杯の声援を送る。 「莉佳、楽しんでいけよ!」 「はいっ!」 「莉佳ルート END」 7月は飛ぶのにもっとも楽しい時期だ。 梅雨が明けて空の色が一層濃くなり、まだ風にも爽やかさが残っている。 特に早朝は空中散歩に最高の時間帯だ。 昇ってくる朝日に照らされた海とのコントラストが、連なる島々との色合いが、この上ない美しさを描き出す。 だから先生にこの時間を指定されたのも、別に不思議に思うことは無かった。 「すまないな、こんな時間に呼び出したりして」 「いいですよ。葵さんの方こそ忙しいのに大丈夫だったんですか?」 葵さんは今、欧州リーグに選手として参加している。 かつての有望選手も、ブランクもあってなかなかトッププロとの戦いには苦戦しているみたいだけど……。 それでも飛ぶことだけを考える毎日は楽しいと、葵さんは笑って言っていた。 「朝までに戻れば大丈夫さ。もっとも、今頃マネージャーが私を捜して真っ青になってるかもしれんがな」 「ちゃんと言づてして出てきましょうよ……」 「言ったら行かせてくれないに決まってる」 そう言っていたずらっぽく笑う葵さんは、昔とまったく変わらないように見えた。 教師の仕事を休職し本格的に選手として復帰したことも、ひょっとしたら影響しているのだろうか。 「そうだ、忘れないうちに言っておこう」 「……選手への復帰、よく頑張ったな」 「……ありがとうございます」 そして俺も去年の秋から選手へと復帰していた。 ここまで来るのは苦しかったけれど、なんとかみんなの支援もあって乗り越えることができた。 「夏は全国を目指すのか?」 「それもありますけど、やっぱりみんなのことが気になります」 「すっかりコーチが板に付いたな」 「そうでもないですよ……」 まだまだ、みんなに教えることは山ほどある。 明日香はトップランクの選手になったけど、乾沙希との勝負は未だ互角で、突き抜けられない。俺を軽々負かすぐらいになってほしいと思う。 みさきも同じくトップランクだが、予期しないところで伏兵にやられたり、モチベーションも一定しないところがある。 真白はやっと楽しく飛べるようになったけど、ここから二、三枚壁を破らなければ、本当に楽しくFCをするところまではいかない。 高藤から時々練習しに来る莉佳も、真面目なのが良い点でもあり悪い点でもある。もっと予測の付かない選手になってほしい。 そんなことを葵さんに伝えた。 「誰かに集中して教えるようなことはしないのか?」 「そういうこともできたのかもしれませんが、コーチは部活全体を見た方がいいと思ってしませんでした」 「……ちゃんと考えてるじゃないか。やっぱりコーチらしくなったってことだよ」 「だといいんですけど……」 「いや、そうだよ。少なくとも私よりは晶也の方が教えるのに向いている」 「葵さん、先生だったじゃないですか」 「まあな。らしくはなかったが」 苦笑して、顔を上へと向ける。 「最初に晶也と空を飛んだ時、覚えてるか?」 「7月1日。今日みたいな空気でしたよね。暑いわけでもなく、寒いわけでもなく」 「……そっか、覚えてたか」 葵さんを見て俺は育った。 飛び方から戦い方から、立ち居振る舞いまですべて。FCも空を飛ぶこともみんな葵さんから学んだ。 寝るのが惜しくてつい時間をオーバーして、葵さんが強引にストップをかけて父さんと母さんのところに帰されていた。 それでも俺はめげずに、早朝に起きて練習するならいいでしょ! と言い出した。 「早朝練習、毎日のようにやってたな」 「……今思えば、葵さんのプライベートを台無しにしてましたね、俺」 「私だって好きでやってたことだ、気にするなそんなこと」 「……楽しかったから、ずっとやってたんだよ」 「はい……」 「あの頃の私は、ずっとFCのことで悩んでいたからな。嬉しそうに飛んでいる晶也を見るのが唯一の楽しみだった」 アンジェリック・ヘイローの一件。 俺もそのことを教えて貰ったのは、何年も経ったあとで、しかも白瀬さんからだった。 世界大会で起きたこの技を巡って、『FCとは何か』という議論が巻き起こり、非難と注目が葵さんに集まった。 「勝つことがすべてにおいて最高だと思っていた。そう思って、晶也にも教えてきたのに」 「結果、私は折角編み出した技をたった一回で封印した。……そして、晶也は空からいなくなった」 「ごめんなさい……」 「謝るのは私の方だ。お前にかけてあげる言葉を、結局見つけてあげられなかった」 「自分ですら見つけられてない言葉を、晶也に言えるわけがなかったんだ」 俺が空から背を向けていた時、葵さんもまた、空との向き合い方を悩んでいた。 答えが出ないまま、何年も過ぎた。 「ずっと悩んで、考えて……。私が出した答えはすごく単純で、わかりやすかった」 「『空は楽しい』。探して見付かったのは、そんな言葉だけだった」 「でも、伝えるべき相手はいなかった。時間と共に、晶也も変わっていった」 ずっと上を見ていた先生が、不意に俺の方へ顔を向けた。 「晶也」 ハッとするぐらい、優しい表情だった。 「だから、来るまで待っていたんだよ」 「この楽しい空は、ひとりじゃもったいないからな」 葵さんはそう言って、俺に笑いかけた。 「…………」 何も返せなかった。 もしかしたら。ひょっとしたら。仮定の話としてずっと胸にしまっていたこと。 『なぜ葵さんは先生になったんだろう』 きちんと考えてみれば、その理由は簡単だった。 俺が挫折したあと、先生は苦しんでいた。 人に何かを教えること。人をどこかへ導くこと。 答えを探しあぐねてたどり着いたのが、先生という仕事だったのではないだろうか。 そして、俺がどう生きていくのかを見届けるまでは、空へ戻ることを自らに禁じたのではないかと。 「どうした晶也、人の顔をじっと見たりして」 葵さんの様子に特に変わるところはない。 『俺のためだったんですか』 聞くのは簡単だけれど、聞けなかった。 葵さんは絶対に、俺のせいだなんて思わせるようなことは言わないだろう。 俺のために言葉を選ぶ葵さんの姿なんて、見たくない。 もう、見たくはないんだ。 「俺、葵さんのこと好きだ」 「……………………」 「ぷっ、はーっはっはっは! マジか、ちょっと!」 「ちょ、笑うとかひどすぎんだろ! 俺、ちゃんと本気で言ってるんだぞ……!」 「ははっ、ごめんごめん、晶也がわざわざ呼び出してまで言いたいことが、まさか告白とは思わなくてな」 「……もう、冗談だって思ってるだろ」 「いや、冗談だとは思ってないさ。ただ悪いな、今の私は空を飛ぶこと以外に興味がない」 「そういうことを考えられるのは、まだずっと先になってからだろうな」 「じゃあ……もっと何年もあとになったら、俺もう一回葵さんに言うから」 「……そっか、じゃあその時まで返事はとっておくよ」 「その時もこうやって楽しく飛んでいられるといいな」 「大丈夫だよ、空を飛んでない俺とか、考えられないもの」 「……そうだな」 胸の奥がきゅっと熱くなった。昔の記憶が戻ってきた。 葵さんはあの時の俺の言葉を、幼い頃の戯れだと思ったんだろうか。 それとも、本当に時間の問題だったんだろうか。 『何年もあと』になって、俺も葵さんも年を重ねた。 「あの……葵さん」 「……なんだ?」 葵さんは俺の方を見ている。 まっすぐな目。昔とまったく変わることのない目。 「……今日は、空が本当にきれいですね」 「…………ふっ」 葵さんは軽く笑みをこぼすと、 「ああ……戻ってきて良かったよ。ここでしか見られない風景だ」 憧れや感謝や、色んな感情が俺の中に渦巻いていた。 俺の呼び方は何年かの間に変わり、葵さんも先生になって俺は生徒になった。 時間がいくら経っても、それを埋めるものはそう簡単には見つからない。 変わらないものもあるけれど、戻れないものだってある。 あの時の瑞々しい感情は無くなってしまったけど。 今の俺の心にある暖かな物の方が、ずっと尊くて大切な存在だって思えた。 「時間だ。そろそろ戻ろうか」 「……あっという間でしたね」 「そうだな。楽しい時間ほど一瞬で過ぎる」 葵さんの言葉がひとつひとつ胸に刺さる。 時間は過ぎた。 あの時、ここにあった時間はもう終わったんだ。 先生はそれを確かめに来て、俺にも同じことを知らせようとしている。 「――晶也、ここでお別れにしよう」 「ここで……ですか?」 「どうしても名残惜しくなる。手を振ってさよならするなら、空の上がいいじゃないか」 「……っ」 やっぱりだ。 おそらく葵さんはもう日本に戻らない気だろう。色んなものと決別するために、ここに来たんだと。 考えればわかったことだったんだ。イギリスで脇目もふらずFC漬けの日々を送る先生が、たった1日だけ日本に帰ってきたのか。 飛ぶのがもっとも楽しく四島の風景が一番美しい、この時期に帰ってきたのか。 そして、友達にもまったく告げないまま、帰る日の朝に俺だけを空に呼んだのか。 「葵さん、あの……」 「なんだ?」 わかっていても、止めるわけにはいかなかった。 だってそんなことをしても、葵さんは悲しげに笑って、ごめんな、って言うだけだから。 だから俺は、お別れの言葉の代わりに、 「俺、あの言葉を忘れませんから」 そういうのは苦手だと逃げる葵さんを捕まえて、頼み込んで書いて貰った言葉。 当時の葵さんがずっと口にしていて、俺もまた、大好きだった言葉。 そして、空から背を向けた俺を、もう一度引き戻してくれた言葉……。 「……そっか」 「空を見ろ」 「空を見続けろ」 「答えはそこにある――か」 「はい……そうです」 「いい言葉じゃないか」 噛みしめるように言うと、 「自分で言った言葉に励まされるなんて、な」 少し自嘲するように、言った。 「晶也、元気でな」 「はい」 「辛くなったら、その時は空を見ろ」 「はい……!」 「どこへだって繋がっていて、答えはそこにあるんだからな……」 「……そうだろ?」 「はいっ……!」 「……いい返事だ」 出会った頃とまったく変わらない、笑顔を残して。 「じゃあな、晶也」 俺の方へ向けて軽く手を振ると。 スッと静かに背を向けて、空から降りていった。 「……葵さん」 もう一度だけ、見ようかと思ったけれど。 下を向いたらこぼれそうなものが目に浮かんできて、どうしてもできなかった。 だから俺は上を向いた。 上を向けばそれがあるから。どこからでもつながっているから。 「…………」 「……蒼いな」 ずっと、まっすぐに見ることができなかった空。 今は何も恐れることなく、正面からしっかりと見ることができる。 ひとりでいるのに、さみしくも何ともない。 「……そっか」 改めて気付いて、声が漏れた。 「俺、空の中にいるんだ……」 無敵じゃなくなったあの日。 彼方がかすんで見えなくなって、いる場所を失ったと思っていた。 ここにいちゃいけないんだって、そう思っていた。 でもあれから、みんなと空を駆け回るようになって、笑って、泣いて、悔しがっているうちに。 いつの間にか、自然とここへいられるようになっていた。 ゆっくりと目を閉じる。 「……ありがとう」 風にかき消される程度の小さな声で、俺はそう、一言だけつぶやいた。 誰に言おうと思ったんだろう。 みんなであって、みんなではなくて。 いつもそこにあり続けてくれた、空に向かっての感謝だったのかもしれない。 また目を開けて、見納めにするかのように、上にそっと視線を向けてみた。 あの時と同じ蒼い空が、今日も、遥か彼方まで広がっていた。 「よし、行こう――」 軽く頬を叩いて背筋を伸ばす。 夜明け前の空の向こうには、朝の光が顔を覗かせていた。 きれいごとだけで済まされない世界。 嫉妬も、後悔も、澱のように積み重なって、先へ行こうとするのを阻もうとしてくる。 いいことばかりじゃないってことは、もうわかってる。 どうしても足はすくむし、まぶしさに耐えきれず、首は下を向こうとする。 それでも、先に行かなければ見えないものはあるし、悪いことを差し引いても素晴らしいと思えることはあるはずだ。 だから俺たちは、先へと飛ぶ。彼方の向こうにある、何かへと進路を取って。 ――未来へ。 「蒼の彼方のフォーリズムEND」 「今度、見せてくれないか、その人形」 「だ、ダメだよ、なんか恥ずかしいもん……」 「いいじゃないか、見せてくれても」 「だいたいさ、馬鹿に、しすぎだって」 「センパイに褒められるくらいで、わたしが自主練とか」 「褒められたのなんて全然嬉しくないんだから」 「部活のあとに自主練なんて無理。ていうか部活を真面目にやってないみたいじゃないですか」 「そもそもわたし、そんな努力家タイプじゃないし。真面目なんかじゃないし」 「自主練なんて、どうせすぐに飽きちゃうんだから……っ。単なる、気まぐれ、こんなのゲームみたいなものだって……」 「……シザーズ……からの急制動。ハイヨーヨーからの……」 「はっ!……はぁ、はあ……」 「あれ、次のコンビネーションどう動くんだっけ?」 「ありがとうございましたー」 ★★デバッグ用 共通→個別のルート選択部分★★ 終了して再起動してください ・・・ ・・・・・・ ・・・・・・・・・ 終了します